四話

  翌朝、雪のヴェルガルドの宿屋に、冷たくも柔らかな朝の光が差し込む頃、ウォルカは静かに目を覚ました。

  窓の隙間から漏れる白い光が部屋を淡く照らし、隣ではティーガが穏やかな寝息を立てている。

  その広い胸にはリューゴが丸まって眠り、時折、幸せそうに鼻を鳴らしていた。昨日と同じ、穏やかな朝だ。

  ウォルカは動かずに、昨日の神殿での一件を反芻する。

  アリオスの襟首を掴み、雪の石畳に放り投げた自分の腕の感触、そして喉の奥から出た野性的な唸り。

  荒々しい感情の残滓に、ウォルカは小さく息を吐いた。

  「……少し、言い過ぎたか」

  紅い瞳を細め、軽く首を振る。白い尻尾がベッドの上でゆったりと揺れ、シーツと擦れてかすかな音を立てた。

  だが、あのまま放っておけば、殿下は間違いなくあの熱と汗、そして男たちの喘ぎが渦巻く深淵に飲み込まれていただろう。

  教育係として、あの瞬間に手を差し伸べた判断は、決して間違いではなかったはずだ。

  考えを巡らせていると、ティーガが身じろぎし、ウォルカの腰に太い腕を回してきた。

  虎の獣人らしい強靭な腕の重みと、肌から伝わる確かな体温。その懐かしい安心感に、ウォルカは一瞬だけ体を強張らせたが、すぐに頬を緩めた。

  「……ん……ウォルカ、もう起きるのか……?」

  低くかすれた寝起きの声が耳元をくすぐる。ウォルカはその温もりに身を任せたまま、静かに応じた。

  「ああ。まだ早いが、少し考え事をしていた。昨日の、神殿での件だ」

  紅い瞳を窓の外の雪景色へと移す。

  「殿下を放り投げたのは、少々やり過ぎたかもしれん。王族には、もう少し紳士的に接するべきだったか……」

  その時、壁一枚隔てた隣の部屋から、昨日と同じ、あるいは昨日以上の騒音が響いてきた。

  「ふんっ……ふんっ……! よし、今日こそ完璧だ……ふんっ……!」

  ベッドの軋む音と、喉を鳴らすような荒い掛け声。しかし、昨日までとは明らかに熱量が違う。

  そこには悲壮なまでの「気合い」が込もっていた。

  「……いいんじゃねぇか? 懲りてねぇみてぇだし……」

  ティーガが耳をぴくりと震わせて苦笑する。

  ウォルカの紅い瞳がわずかに鋭さを増した。白い尻尾がピンと張り、彼はティーガの腕を優しく解くと、ベッドから立ち上がった。

  「またか。昨日あれだけ諭したというのに、本当に懲りない男だな」

  冷静さを装いつつも、声には隠しきれない苛立ちが滲む。ウォルカは手早くシャツの袖を整え、乱れた毛並みを指先で払った。

  「行ってくる。ティーガ、お前はもう少し休んでいろ」

  ウォルカが隣室のドアを軽くノックして開けると――そこには予想通り、朝の光を汗ばんだ背中に浴び、全裸で四つんばいになって腰を振るアリオスの姿があった。

  黄金の鬣は激しい運動で乱れ、その股間は昨日よりもさらに雄々しく屹立し、虚空を突くたびに重々しく揺れている。

  本人は至って真剣な表情で、己の「覇気」を限界まで高めようとしていた。

  「……殿下」

  ウォルカの低い呟きに、アリオスはぱっと顔を上げた。そして、全裸で、汗だくで、腰を突き出したポーズのまま、最高に爽やかな王子スマイルを浮かべた。

  「おはよう、ウォルカ!」

  ウォルカの耳が垂直に立ち、白い尻尾が棒のように固まる。

  アリオスは堂々とした態度でベッドから降り、一糸まとわぬ姿のままウォルカに歩み寄ってきた。

  鍛えられた若々しい肉体が、朝の光の中で生々しく躍動する。

  「昨日は我が儘を言ってすまなかった!

  だがお前の熱い叱咤は、この俺の心を芯から震わせたぞ!是非、俺のことは『アリオス』と呼んでくれ。 これからも……本気の指導を頼む!」

  黄金の瞳がまっすぐにウォルカを射抜き、そこには王族らしい気高ささえ漂っていた。

  ……しかし、その股間でぴくぴくと脈打つ巨大なモノが、あまりにも主張しすぎている。

  ウォルカは目の遣り場に窮し、わずかに顔を背けた。

  シグルドが傍らで優雅に微笑み、一礼する。

  「素晴らしいお言葉です。ウォルカ殿、どうか殿下をよろしくお願いいたします」

  ウォルカは深く息を吸い込み、肺を冷やして冷静さを取り戻した。

  「……なるほど。では、おはようございます、アリオス。昨日の無礼を水に流していただき、感謝します」

  近づいてくる裸の王子に対し、一歩引いて距離を保ちつつ、咳払いで余裕を装う。

  「真剣に指導はさせていただきますが……まずは服を着て、朝食の席に着きましょう。話はそれからです」

  ウォルカは部屋を出る際、背後で「よし、着替えるぞシグ!」と快活に笑う声を聞き、一度だけ目を閉じた。

  教育係としてあの不謹慎な鍛錬はやめさせたい。だが、アリオスが前向きに変わろうとしているのも事実だ。

  (……今は、踏み込むべき時ではない)

  そう自分を納得させ、ウォルカはティーガの待つ部屋へと戻った。

  朝食の席は、昨日とは別の落ち着いた食堂を選んだ。

  石造りの壁に囲まれた食堂には、熱々の根菜スープと焼き立てのパンの匂いが立ち込め、獣人好みの香ばしい肉のグリルの香りが食欲をそそる。

  ウォルカはアリオスの向かいに座り、その様子を観察した。

  今日のアリオスは驚くほど落ち着いていた。シグルドがどこからか見繕ってきた、黒い竜の刺繍が施された質の良い礼装に身を包んでいる。

  ゆったりとした生地が黄金の鬣に映え、昨日の「チャラさ」は影を潜め、一国の王子としての風格が漂っていた。

  「俺らも行くんだよな、謁見? 旅装でいいのか? 他に服なんて持ってねぇけど」

  ティーガが首を傾げると、シグルドの目がキラリと光った。

  「僭越ながら、お二方の分もご用意させていただきました。折角ですから、いかがでしょうか」

  差し出されたのは、ヴェルガルドの民族衣装だった。黒と銀を基調とした、袖の広い重厚な上着。

  ウォルカが指先で生地を確かめると、それは驚くほど暖かく、かつ獣人の動きを妨げない機能性を備えていた。

  「シグルド殿、感謝します。……この用意周到さ、感服しました。やはり執事の腕前は一流ですね」

  ウォルカが紅い瞳で軽く頭を下げると、シグルドは満足げに髭を撫でた。

  ヴェルガルドの王城は、リュゴニアの華やかな王宮とは対照的な、質実剛健を絵に描いたような武骨な城だった。

  「おおお……渋いな……! ヴェルガンの厳格さが、そのまま城になったみたいだ」

  アリオスの感嘆に、ティーガの肩でリューゴが鼻を鳴らす。

  「あいつはただの頑固者のムッツリだがな。派手なことは嫌いなのだ」

  衛兵に案内され、天井が高く広々とした城内を進む。凍てつく外気とは裏腹に、城内は不思議な温もりに満ちていた。

  「昔ながらの作りだな。かつてのリュゴニアもこうだった……」

  リューゴが懐かしそうに目を細める中、いよいよ謁見の間が近づく。

  「……! 俺はアリオス、リュゴニアの王子……アリオス、王子……」

  アリオスが青い顔で呪文のように呟き始めた。

  先程までの自信はどこへやら、黄金の鬣が不安げに揺れている。

  「……王様、怖いかなぁ…」

  「殿下、ご安心を。ヴェルガルドの王には幼少の折、一度お会いになられております。

  殿下の好きそうな、胸とお尻が豊満でおおらかな御方ですぞ」

  シグルドの涼しい顔での言葉に、アリオスは一瞬で色めき立った。

  「えっ、本当か!? それなら俄然、楽しみになってきたな……!」

  ウォルカは一瞬言葉を失い、紅い瞳を細めてシグルドを振り返った。

  「……シグルド殿。今の表現は、教育係として聞き捨てなりませんが」

  呆れ顔のまま、ウォルカの白い尻尾がぴくりと震える。シグルドは澄まし顔で髭を撫でた。

  「ふふ、殿下の緊張をほぐすための『冗談』ですぞ」

  ウォルカは深く息を吐き、額に手を当ててため息をついた。

  (この執事、やはり一筋縄ではいかん……)

  だが、その冗談のおかげでアリオスの肩の力が抜けたのも事実だ。ウォルカは再び背筋を伸ばし、重厚な謁見の間の扉を見据えた。