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白濁にじむ遺言書 第一章

  プロローグ

  〇

  口の中に広がるのは、幾度となく味わった雄の味。塩辛いといってもいい、独特の味だ。だが男はこれが好きだった。喉をえぐるその肉が、あるいはその肉の持ち主が喜んでくれているのだとわかるから。だから嬉しくて必死で舌を動かした。凶器のように太い肉の柱の、下側を丁寧になぞる。そうすると、先端からおかわりがあふれるのだ。それを感じ取って男は喉を鳴らして飲み込んだ。ちゅぱ、と水の音が響く。

  そっと大きな手が男の頭に乗せられた。ゴワゴワとしたタテガミをかき分けるようにして頭をやさしくなでてくれる。その手に頭をこすりつけながら、口の中の主人に奉仕するのも忘れない。

  「ん、ああ、すまん。もう一度頼む」

  頭の上から声が聞こえる。その声は男に向かって発せられたものではない。この場にいるもう一人――口の中にある肉棒の持ち主が、電話をしているところなのだ。その邪魔をせぬようにとのお達しを受けてはいるものの、すでに男は興奮状態である。我慢などできようはずもなく、机の下に潜り込みそのズボンを下ろしてやったのだ。そうすることが予想済みであったかのように、男の飼い主は腰を浮かせて協力し、そのまましゃぶらせるに至った。邪魔はしない、それでもしゃぶりたい。男は命令と欲望を両立させながら、ゆっくりと口の中の肉棒を刺激する。今までにもこうやって何度も咥えてきた肉棒である。どこを刺激すれば飼い主が一番喜んでくれるのかは考えるまでもなくわかる。先端を上あごでこすり上げ、舌を添わせながらゆっくりと前後させ砲身を磨き上げる。時折カリ首に刺激を入れるのも忘れない。そうしてやれば飼い主は男のエサを先端からたくさん出してくれるのだ。

  「ん……そう、だな。それでかまわん」

  一瞬含んだような声が聞こえる。感じてくれていることがわかって男はうれしい。房の付いた尻尾を揺らし、耳をピクピクと動かしながら、床についた膝にぐっと体重をかける。スーツの生地が傷むかもしれないがそんなことはどうでもいい。ネクタイに指を差し込み、自ら首元を緩めて大きく息を吸い込む。冷たい風を感じたのか、口の中で肉棒がビクンと跳ねた。それもまた愛おしくて、再び口内を閉じて肉を密着させる。激しく動くと音が出るし、潜り込んでいる机に頭をぶつけてしまう。そうなれば電話の邪魔をしたと、飼い主に叱られるだろう。だからゆっくりしか動けない。それだけが男はもどかしかった。

  そっと宝物に触れるように手を添える。肉棒の下にたわわに実る玉袋を下から持ち上げやさしく揉みしだく。ふうっ、と頭の上で大きなため息が聞こえた。経験的にこのタイミングで触るのが一番喜んでくれると男は知っていた。頭をなでる手にぐっと力がこもる。男の、獅子特有の量の多いタテガミがぐしゃぐしゃとなでられた。喜んでくれているのが頭からも、口の中からも伝わってくるのが嬉しかった。

  「ああ。そのままでいい」

  電話口にそう答えているが、その言葉は男に対して言っているのだと理解できた。男は指示をもらえたことが嬉しくてぐっと息をのむ。それは口の中の肉に、圧をかけることでもあった。じわり、と再びごちそうがあふれてくる。わずかに滲みでるだけのその液体を男は必死にすする。頭を前後させ、玉をもみ、肉棒をしごき上げていく。ふん、と頭の上で飼い主が鼻から大きく息を吐いたのが聞こえた。

  「ふっ――、あ、ああ。なんでもない。続けてくれ」

  一瞬声が漏れたのだろう、飼い主が慌てて電話口に訂正をかける。やりすぎただろうか、それとも喜んでくれただろうか。男にはそれはいまだ判別がつかない。

  こうして仕事中に呼び出され、机の下に入りこむのはこれが初めてではない。ベッドの上や車の中、屋外も含めればこうして肉棒を咥えるのはそれこそ数えきれないほどの経験がある。だからどの部位をどう攻めれば気持ちよくなるのか、どの程度の力加減が一番感じるのか、射精に導くためのペースはどれくらいがいいのか。そういうことはすべて手に取るようにわかる。ただひとつ。喜んだかどうかだけは、いまだにわからない。だから男はつい責め立ててしまう。先端を、幹を、玉袋を。鈴口を、カリ首を、裏筋を。じっとりと、それでいて力強く。それが一番感じてくれるのだ。口に出しては何も言わないが、先端からあふれる先走りがそれを証明している。そしてこのまま口の中で達してくれたら。きっとそれが満足しているという証明になるのだろうと男は信じている。

  「あぁ……」

  相槌ではない、快感を享受している声。飼い主の手が、ぐっと後頭部まで伸びてくる。タテガミを抑えるようにして後頭部から自分のほうへと引き寄せるような動き。男はえづきを抑えながら喉を開き、剛直をその奥で受け入れる。飼い主との経験は豊富だが、たくさんの男を咥えてきたわけではない。それでもこの肉竿がとてつもなく太いことだけは、感覚で理解できていた。無理やり根元まで咥えさせられ、自らの意思以上に喉を大きく開かせられる。むせて吐き出しそうになるが、それを必死で抑え込み、音をたてないようにぐっと飲み込む。ボロボロと涙があふれ目元の毛皮を濡らしていく。だが生物としての限界がどうしても存在する。咳き込みそうになるのをどんなに堪えても、ぶるぶると男の頭は震えてしまっていた。気づいたのだろう、飼い主はそっと手を放し解放してくれる。声に出していなくてもわかる。「無理をするな」と言ってくれているのだ。事実ベッドの上ではそのセリフを何度も聞いている。だが、いや、だからこそ。男はさらにその肉を咥えこんだ。苦しくない――わけではない。だが気持ちよくなってほしい。そしてそれ以上に、この肉が欲しい。この男を愛しているからこそ、この瞬間のこの刺激を手放したくない。そう思っているのだ。無理をしない、といえば聞こえはいいが、最愛の肉を吐き出すということだ。男にとってそんなことは受け入れられることではない。

  「ッ――!」

  飼い主がついに言葉を飲み込んだ。なんとか誤魔化してきていた言葉を、嬌声としてしか出せないと判断したのだ。電話口で何も言えず、ただ強く手を握る。男の頭の横にある太ももに、ぐっと力が入るのがわかった。閉じるでも開くでもなく、ただ耐えるためだけに力が込められたのだ。

  男は嬉しくてさらに尻尾を振る。ぱたぱたと、音がなるのではないかと心配になるほどに。そして自身の先端からもダラダラと先走りがあふれているのだろう、先ほどから股間は冷たい感覚に覆われている。そっとスーツの上から触れてみると濡れた感触が手に伝わった。どうやら下着を超えてスラックスにまで大きなシミを広げてしまっているようだ。このまましゃぶっていれば、きっとこのまま中に射精してしまうことだろう。それも初めてのことではない。なんなら飼い主はそれを見ていつも喜んでくれるのだ。

  ――愛している

  その言葉を口にできない男は、必死な動きでそれを伝えた。玉をもみほぐし、舌を絡め、じっくりと頭を前後に動かす。自身の股間を確認していた手をそっと大切な主人の根本に添えて、口と手の両方で竿に刺激を入れていく。くちゃくちゃと水音が男の耳に届く。電話口に届いていないことを祈りながら男はそのまま動きを速めていく。びくん、と口の中で肉棒が震え、時折太くなるように力が込められる。同じ男だから、そして何度も咥えているからわかる。彼に限界が近づいているのだ。ずっと口の中にあふれている先走り。男が大好きなそれよりも、さらに濃厚な雄の種。それが今、発射されんとしている。手の中にある玉がぐっと持ち上がり、男の頭に乗せられていた手に力が込められる。閉じそうになる脚がぷるぷるとふるえ、小さくかかとが浮き上がったのが分かった。

  「ッく……!」

  小さな声をあげながら、飼い主はついに絶頂を迎えた。喉を打つほど、ではないにしても大量にあふれ出す種。勢いは乏しくとも後から後からあふれてくるその生臭い液体を舌に絡め、少しずつ飲み干していく。ぐ、と音を立てて上下する男の喉。口の端からこぼれそうになるのを慌ててすすると、飼い主の腰が小さく震えた。達した直後に強い吸い込みを感じたからだろう。普段より敏感になっているそこを責められることを、彼は苦手としていた。それでも一滴も残すまいと男の舌が動き回る。それは心地よく受け入れてくれているようで、浮いていた踵も、震えた腰も今は落ち着いている。口の中にあふれる体液も、先ほど喉を鳴らした辺りで打ち止めになったようだ。男は鼻から大きく息を吸い込み、ニオイをしっかりと感じるとそっと口を開いた。唾液でドロドロになった太い肉の塊がでろん、と垂れ下がる。男は舌を伸ばし、名残惜しむようにその先端を舐めた。

  突如キィ、と音を立てて椅子が引かれる。飼い主が男のために出口を開けてくれたのだ。そのまま這いつくばって机の下から抜け出す。薄暗い場所から出て、男は思わず目を細めた。立ち上がると内またにすっと冷たい感触が走る。今回も、咥えている間に射精していたようだ。それ以上垂れて床を汚さないように、と思わず自分の股間を抑える。

  「少し待ってくれ」

  不意に目の前からその言葉が聞こえ――男は強く抱きしめられた。遠くから電話の保留音が聞こえる。今男は飼い主に抱きしめられ。そして優しく口づけされていた。気だるさを隠すような微笑み も、慈しむような視線も、包み込んでくれる温かさも。男にとってはもったいないと思えるほどのものだった。

  [newpage]

  一章

  広げていたファイルを閉じるのに合わせて、大きなため息の音が聞こえた。そのため息の主はファイルの山を抱えて立ち上がると、近くの戸棚に歩み寄りその扉を開く。五十音で並んでいるファイルを数え、背表紙を確認してから手にしたファイルを差し込んだ。いつまでたっても苦手な書類仕事がようやく終わったことに安堵して、男は大きく伸びをした。

  男の名は鈴(すず)城(しろ)良(りょう)治(じ)。この探偵事務所の所長である。短く整えた髪は小さく寝癖が付き、無精ひげも伸びっぱなし。かろうじてワイシャツは着ているもののネクタイは締めておらず胸元も大きく開いている。今日は来客の予定がないため、完全に気の抜けた格好だった。リョージは再び溜息をつきながら、ヒトとしては大きな体を事務椅子にゆっくりと預けた。ぎし、と椅子が小さく抗議の声を上げるが気にしない。

  こうして溜息ばかりついていると普段なら「オヤジ臭い」と苦笑が飛んでくるところである。が、いつもならいるはずの助手が、今日は部屋の中にはいなかった。ならば気兼ねなくオヤジ臭いことをしてやろうという魂胆である。もっとも助手がいれば書類仕事はいつも任せているから、彼がいないからこそこの溜息は出ているともいえた。

  「さて、時間は……」

  そのまま大きくのけぞり後ろの壁にかかっている時計を見る。いつもならパソコンのディスプレイを確認すればいいのだが、今日はもうパソコンは見たくない。

  「昼過ぎ……閉めるのも早いよなあ」

  そう独り言ちる。いつもなら助手が話し相手になってくれるのだが、と思い――慌てて頭を振る。先ほどから「助手がいれば」ばかり考えている気がしたのだ。別に一人で居たとしてもなにも不自由はないはずなのに、である。リョージは何となく恥ずかしくて、誰に対してでもない照れ隠しでテレビのスイッチを付けた。ニュースでも見ていれば、気分も変わろうというものだ。

  『――インバウンドの増加に伴い、現在都内のサービス料の上昇が――』

  ニュースを見ながら小さくため息をつく。これで何度目か、とリョージは内心自分に突っ込みを入れた。ニュースの内容は、相変わらず聞いていて気が滅入るものばかりだ。とはいえ、情報収集は仕事にも大きく関わってくる。普段からネットや新聞、雑誌も含めあらゆる方面からの情報収集は欠かさないようにしていた。

  『まもなくクリスマスですからね。お財布の中も、防寒対策を効かせてほしいところです』

  キャスターの言葉をぼんやりと聞いていると。

  「――ただいま」

  不意に声がかけられた。その声に反応して入り口を振り返る。

  「お帰り、ユウ――」

  そう言いかけて、リョージは言葉を飲み込んだ。思わず助手の名前を呼んでしまったが、そこに立っていたのは別人である。助手であるユウ――箱(はこ)辺(べ)柳(ゆう)――はハスキーの顔をした獣人である。だが今玄関口に立っているのは彼よりもさらに背が高い、白い毛皮を持った獣人。ユウの弟、ユキヒョウのレン――箱辺漣(れん)――である。

  「すまん、レンか」

  誤魔化すように言うが、レンはそれを聞き逃してはくれなかった。

  「兄貴出かけてるの」

  その言葉にリョージは思わず視線を泳がせた。買い物に出てくる、とは言ったがどこまで行ったのか、いつ頃戻るかはわからないのだ。

  「ああ、すぐ戻るとは思うけど」

  ふぅん、とレンが答えながら応接エリアのソファに学生カバンを置いた。どうやら部屋に戻らずここでユウの帰りを待つつもりらしい。

  ユウが出かけているとなれば、そうなることはリョージにとっては予想ができる事態ではあった。レンは、兄のユウが大好きなのだ。帰ってきたら真っ先に顔を見ないと気が済まないほどに。ソファに腰かけてテレビを見ているが、そわそわと尻尾が動いているのが見えた。彼の尻尾は太く長いから嫌でも目に付くのだ。

  「晩飯の買い物かな」

  レンがポツリとつぶやいた。出かけたのは二時間ほど前だから違うのではないかと思うが、用事を済ませてから夕飯の買い物に行っている可能性もあるので何とも言いきれない。

  「今日は早かったんだな」

  答える代わりに、レンに視線を向けて話題を変えた。

  「テスト期間だから。言わなかった?」

  言いながら彼は学ランを脱ぐ。そういえば言っていた気もする。

  レンは現役の高校生である。血のつながらない兄とは十歳近く離れていることになる。歳も離れ、種族も違い、それでも彼がユウを兄と慕って同じ苗字を名乗るのはユウ以外を家族としてみていないからだろう、とリョージは考えている。かつてユウとレンが事件に巻き込まれ、リョージがそれを解決した際に。ユウだけが、レンをずっとかばい続けていたのだ。小さい子供に、味方でいてくれる大人――といってもユウも当時は未成年であったが――がどれだけ心強いか。そして、どれだけ大きな存在かは考えるまでもない。だからこそ孤児院を出た今でも同じ箱辺姓を名乗っているのだと、リョージは納得していた。

  「そうか、部活も今は休みか」

  レンはバスケ部に所属しており、普段ならバスケットボールを持ち歩く程度には部活動に打ち込んでいる。それがテスト期間中でできないから、今は持ち歩いていないのだろう。

  「ん」

  リョージの言葉にレンは表情を変えることなくうなずいた。何となく気まずくて、リョージは無言でテレビに視線を向ける。レンはもとより無口なほうで、別にリョージと仲が悪いわけではない。なんなら一緒に過ごして十年近く経つのである。今更仲が悪いもないものだが。それでも思春期の青年というのはどう扱っていいのかわからない部分もある。特に最近は、何か考え込みながらそっとユウを見つめていることが増えているようだし。あまり深く突っ込むのも難しいな、と考えるとうまく話題を選べないのだ。

  『――続いてのニュースです。本日昼過ぎ、ねじれめ工房の工場取材中に代表取締役が救急搬送されるという事態となりました――』

  ん、とレンが小さく声を上げる。

  「この『ねじれめ工房』って、あのおもちゃ会社だよね」

  「ああ、主に子供向けの知育玩具やらを出してるところだな」

  そういいながらリョージは腕組みをして記憶を探る。思い出すまでもなく、この国でも有数の巨大企業、特におもちゃ業界に絞れば国内トップクラスといっても過言ではないだろう。最近でこそゲーム会社のほうが話題に上ることは多くなりつつあるが、それでも知名度で言えばまだまだナンバーワンだ。そしてリョージの記憶が確かなら、社長がワンマンで動かしている会社だったはずである。

  「社長さんの名前、『ネジメ』であってる?」

  レンの言葉にリョージは一瞬たじろぐ。それ自体は間違っていない。初代社長が「ねじめ」で、会社を興すときに語呂がよくなるように一文字加えて「ねじれめ工房」とした、という話だったはずだ。問題はその苗字が難読漢字であることである。とっさに指を宙で遊ばせながらその漢字を思い出す。

  「ああ、確か今の社長も『禰寝(ねじめ)』だったはずだな」

  それがどうかしたというのだろうか。救急搬送の内容よりも名前が気になるのは――

  「すみません、よろしいでしょうか」

  不意に声が聞こえた。聞きなれない声に、リョージは慌てて立ち上がる。くつろげていた胸元を閉じ、寝癖のついた頭を撫でつける。無精ひげはしょうがないだろう。

  「あ、お客さんですか。すみませんだらしない格好で。

  レン、テレビ消してくれ」

  その言葉にレンも立ち上がり、学ランとカバンを抱える。そしてテレビのリモコンに手を伸ばし――

  「あ、いえ。申し訳ありませんがそのままにしておいて頂けますか?」

  その言葉にレンはリモコンを握りしめたまま振り返る。少しだけ不思議そうな顔をして、玄関口に立つ人物を見た。白い頭に黄色いクチバシ。鋭い目つきはその種族ならではの恐ろしさを思い起こさせる。ふわふわとした羽毛を和服で包んだ立派な体格のハクトウワシの男。後頭部のあたりだけハネるように羽毛が飛び上がっているのは、生まれつきの癖だろうか。リョージとレンの視線を受けて、男は深々と頭を下げた。

  「初めまして、禰寝朱鷺(とき)弥(や)と申します」

  『――代表取締役社長、禰寝琥珀(こはく)氏は――』

  男の自己紹介に合わせるように、テレビの中のニュースキャスターは、淡々と社長の名前を読み上げていた。

  ハクトウワシの男――禰寝トキヤ氏をソファに案内し、ひとまずそこに座ってもらう。レンは給湯室に駆け込んだので、おそらくお茶を入れてくれているのだろう。リョージは安心してその向かいの席に着いた。この場所からなら、二人とも少し横を向くだけでテレビが見える。

  『――禰寝琥珀氏は以前から心臓に持病を抱えており――』

  キャスターの白猫の女性が淡々とニュースを読み上げている。

  「えっと、失礼ですが……”あの”禰寝さん?」

  リョージは質問を口にしながら一瞬だけテレビに視線を向ける。通常であれば失礼な行為だが、このタイミングであれば「あの」という言葉の意味を理解してもらえるだろう。

  「はい。禰寝琥珀の次男です」

  そういいながら彼は袖のたもとに手を入れた。彼の手はたくさんの羽毛に包まれており、指先が見えない。実際の鳥の翼そのものにも見える形状である。それでも器用にものをつかむのだから鳥獣人は大したものだな、とリョージは毎度思ってしまう。実際彼は袖のたもとから名刺入れをつかんで取り出した。その蓋をスムーズに開けると、そのまま中から一枚取り出す。本当にどう動かしているのだろう?

  「よろしければ」

  「あ、ありがとうございます」

  ぼんやりと彼の手の動きを見ていたリョージは、トキヤ氏の名刺を受け取ってから慌てて自分のものを探し出す。いつもならジャケットの胸ポケットに入れているがそれも今は脱いでいる。急ぎ机に戻ると名刺を一枚持って席に戻った。

  「失礼しました」

  改めて受け取った名刺を見る。そこには「書道家 禰寝朱鷺弥」と書かれていた。下には小さく電話番号とメールアドレスも添えられている。が、それだけである。てっきり「ねじれめ工房」の名前が載っているのかと思ったがそういうわけでもないらしい。

  「その、『ねじれめ工房』に関しては少しややこしく……」

  不思議そうにしているリョージの表情を見てだろう、トキヤ氏は少しだけ申し訳なさそうな顔で言う。

  そのタイミングで、レンがすっとトキヤ氏の前に湯気のたつ湯呑を差し出した。忘れずに隣に小さな羊かんを添えていく。

  「ありがとうございます」

  トキヤ氏は座ったまま小さく頭を下げる。そっと湯呑を手にしてクチバシを近づける。先端を湯呑に少しだけ入れると、軽くぴちゃりと音がした。おそらくすすったのだろう。クチバシで湯呑は難しかったのかもしれない。

  「その、少し長くなりますがよろしいですか」

  トキヤ氏の言葉にリョージはうなずいた。そもそも「ねじれめ工房」という大会社にまつわる話を聞こうというのだ。それくらいは最初から覚悟していた。

  「ご存じかもしれませんが……『ねじれめ工房』はおおよそ百二十年前に私の祖父によって作られた会社です」

  はい、とうなずきそうになってリョージは思いとどまる。祖父によって、と確かに言った。目の前のトキヤ氏はどう見ても二十代といったところだろう。となると今の会社の経営は彼の父――先ほどニュースで名前を呼ばれていた禰寝琥珀氏が行っているはずである。そう考えると、会社が設立してから百二十年――単純に二人で割ると任期は六十年ずつ。二十歳で跡を継ぎ八十歳まで頑張れば不可能ではないが――いや、先ほどのニュースを見る限り琥珀氏の年齢はそこまでいっていないはずだ。仮に二十歳で継いだところで、せいぜい三十年といったところだろう。となると初代である祖父が九十年――百歳超えてなお頑張ったということだろうか?

  「そう、なりますよね。なのでまずはそこから説明しないといけないんですが……」

  指折り数えながら首をひねるリョージを見て、トキヤ氏は苦笑しながらそう言ってくれた。すみません、とごまかし笑いをしてリョージは再び話を聞く体制に入る。ちらりと視界の端でレンの尻尾が揺れるのが見えた。給湯室からこちらの話に耳を傾けているのだろう。トキヤ氏が気づいていなさそうなのでひとまずそのままにしておくことにした。

  「『ねじれめ工房』のマークをご覧になったことは?」

  トキヤ氏の言葉にリョージは無言でテレビを振り返る。ちょうど会社の建物が映し出されており、そこに大きくユニコーンの頭部を模したロゴと社名が描かれていた。

  「あのユニコーンが、祖父です。『ねじれめ工房』の初代社長はユニコーンだったんです」

  ユニコーン。額に角が生えた白い馬の姿をしており、非常に知性が高いとも、汚れを嫌うともいわれる伝説上の生き物である。犬猫なんかと違い、現在にその姿をとどめてはいないが、獣人として生き残っている以上かつては存在したのでは? ともいわれている。

  獣人にはこのように、「幻獣種」と呼ばれる種族がいる。たいていの獣人は元となったと思われる動物が別に存在しているのだが、幻獣種にはそれが存在しない。今回の初代ねじれめ工房の社長であるユニコーンや、リョージの知り合いならかつてともに事件に巻き込まれた龍人、警察時代に別部署に存在していたというグリフォンなどが有名どころだろう。もっとも最後の例はリョージ自身の目で存在を確認したわけではないのだが。

  「ユニコーンはそんなに長寿なんですか?」

  「それは――残念ながら祖父しか例を知らないので、彼が特例なのかどうかは私にも判断しかねますが――」

  トキヤ氏は困った顔でそう前置きしてから、はい、とはっきりと答えてくれた。なるほどそれであれば確かに一人で百年でも経営できるだろうし、会社経営という意味では適任だろう。世代交代のない会社ほど、取引する側として心強い相手はいないのだから。

  「とはいえさすがに不老不死ということもなく、晩年は徐々に認知症の症状もあり、息子である琥珀に後を譲ったそうです」

  まだそのころ私は生まれていませんが、とトキヤ氏は付け加えた。

  「しかし琥珀氏はどう見ても虎だと思うんですが……」

  一般的にだが、獣人の子供は同じ種族の獣人である。種族が違えばそもそも子供が生まれないことがほとんどで、ライオンや虎など近しい種族であれば生まれることもあるが、どう頑張ってもユニコーンと虎を「近い」と表現することは無理があるだろう。

  「ええ、ですので養子ですね。祖父は生涯独身だったので。そして私も、義父とは血はつながっておりません」

  なるほど、とリョージはうなずいた。家庭環境に踏み込んだ質問ではあるが今回は向こうから説明してくれている状況である。詳しく聞き出しても失礼には当たらないだろう。

  「ではいずれはトキヤさんが跡を継ぐことに……?」

  思わずリョージの喉がごくり、となる。「ねじれめ工房」は大会社だが、関係者くらいであれば「まあそういう人もいる」くらいには思える。が、いざ次期社長となると話は違ってくる。失礼なことをしていないか、急に心配になってきた。あの羊かん、安物すぎないだろうか。

  「いえ、そうとも限りません。養子は私一人ではありませんから」

  トキヤ氏は小さくため息をついた。確かに最初に「次男」と名乗っていた。であれば最低でも長男はいるということだろう。なんなら姉や弟、妹がいてもおかしくない。そしてリョージは同時に理解した。おそらく今回彼がここに来たのは、「そういう」理由なのだろうと。

  「つまり、後継者問題ということですね」

  リョージの言葉に、トキヤ氏が恥ずかしそうにうなずいた。通常であれば養子であっても長男が跡を継ぐだろう。そうでなくとも、本人の適正や周囲との関係性などある程度の目星がつくはずである。にもかかわらずトキヤ氏は「そうとは限らない」と答えたのである。これは自分である可能性もあるし、そうでない可能性もある、ということ。つまり後継者が決まっていないということだ。そしてその状況を、探偵事務所に来て説明しているのである。なんらかの後継者問題が発生していると考えるのが妥当だろう。

  「その、ニュースで先ほど言っていた通りなんですが、父が倒れまして。もともと心臓に持病がありましたからある程度覚悟はしていたんですが――」

  トキヤ氏の表情が一層曇る。義父の安否を心配して――ではないだろう。これは後継者問題に巻き込まれた現状を憂いているのだと、リョージは考えた。

  「我々は四兄弟で、誰も血がつながっていません。それでも全員に責任があると、顧問弁護士から呼び出されているのです」

  そこまではいい。子供たちを集め遺言の公開をすることは珍しくないだろう。ただその状況をリョージに話している理由は、まだ見えていない。

  「以前から、義父より聞かされています。自分が亡くなったら必ず全員を集めて遺産相続をかけて競ってもらう、と」

  リョージは思わず目を閉じた。想像している中で、最悪のパターンだったからだ。

  「四人全員がそろった時点で遺言書を公開し、その後最も早く条件を満たしたものが後継者となる――と」

  そして同時に、信じられない展開でもあった。フィクションの世界ではよく聞くが、まさか本当にそれが行われることになろうとは。当代――もはや先代になろうとしている禰寝琥珀氏は、遺産相続をかけてレースをしろと言っているのだ。

  「それで、どうしてうちに?」

  結局はそこが争点である。このレースにおいて、探偵である自分に何を期待されているのか。そしてどのように立ち回るべきなのかが重要だ。単にほかの兄弟の身辺調査、くらいなら楽な話なのだが。

  「その――一緒に来てもらえませんか。僕のパートナーとして」

  思わず顔がしかめっ面になりそうなのを、リョージは理性で押しとどめた。さすがにその言葉に不快な表情を浮かべるのは失礼というものである。

  「パートナー、というのは」

  まず条件の確認である。何をするにしても詳しい話を聞かなければどうしようもない。

  「今回の遺言書を公開する条件の一つなんです。四兄弟が全員そろっていること、全員最低一人はパートナーを連れてくること……」

  これが本当にただのレースであれば、パートナーを求めること自体はおかしな話ではない。車でラリーをする際にも助手がつくのは当然だろうし、仕事をある程度任せられたとしても秘書や部下としてサポートする人物がいるに越したことはない。

  ただ、今回の話は遺言書の公開と、後継者の決定である。そこに「パートナー」という言葉を使われると、どうしても人生の伴侶、というイメージが付きまとう。さすがに仕事の依頼で結婚やそれに準ずる関係になるつもりは、リョージにはない。

  「あ、もちろん今回の話は仕事としての依頼です。例えばそのパートナーと結婚すること、といったような条件であればその時点で断っていただいて構いません」

  リョージが考えていることを想像してくれたのだろう。彼は慌てたように手を振ってそう付け加えてくれた。なかなか聡い人だな、とリョージは心の内でこっそり感服する。

  「あくまで頭数というか……条件を満たすため一緒に来てくだされば。ただ、義父……というか初代である祖父の性格を考えると、おそらく何らかの謎かけをされるのではと思っています。そういった知恵を求められた際にお力添え願えないでしょうか。しばらく泊りがけ、という形にはなりますが」

  ふむ、とリョージは小さくつぶやいて自分の顎を軽くつまんだ。じょり、と無精ひげが音を立てる。

  条件としては悪くはない。トキヤ氏についていき、必要であれば先代である琥珀氏の出した謎を解く。大きな会社の後継者問題である。危険がないとは言い切れないが、表立って襲われるということもないだろう。これで大会社の社長やその家族とコネクションができるのであれば――

  「それからもう一つだけ、条件がありまして」

  そう考えているときに、トキヤ氏が申し訳なさそうにぽつりともらした。何か非常に言いにくそうである。彼はキョロキョロと辺りを見回してから、リョージに向かって手招きをする。耳を貸せ、ということらしい。リョージは素直に身を乗り出して、テーブル越しに彼に耳を差し出した。トキヤ氏はそっとクチバシをリョージの耳に寄せ。

  「候補者、あるいはそのパートナー。少なくともどちらかは処女であること、が条件で」

  「はっ!?」

  リョージは思わず声をあげた。いったん身を引いてトキヤ氏を見る。まじまじと見るまでもない。雄々しい顔つきも、体格も、なんなら身に着けている着物もどう見ても男物だ。間違っても目の前の人物が女性ということはないだろう。そしてリョージに関してもいわずもがな、である。

  「それは……女性を探してこいということではなく、ですか?」

  戸惑いながら言うリョージにトキヤ氏は首を横に振る。

  「義父は今も独身……というか複数の男性と関係を持っておりまして」

  トキヤ氏は気まずそうに視線を逸らす。それはそうだ。血がつながってないとはいえ、父親の性事情をどうして探偵に話さなければならないのか、ということだろう。もっともこの場合は話してもらわないとリョージはとてもではないが納得できないが。

  「そもそも祖父もどちらかというとそちら側だったらしく……子供がいないのも、つまりはそういうことだったようです」

  なるほど、つまり初代も琥珀氏も、女性と子作りはしなかった、ということだろう。そしてそのうえで「処女であれ・連れてこい」というのは――

  「なるほどな」

  リョージは大きくため息をついた。今回ばかりは疲労感を隠すつもりもなかった。

  「その、私はいわゆる未通には違いありませんから、鈴城さんがどうかということを問うつもりはありません」

  トキヤ氏は恥ずかしそうに目を伏せた。

  「いや、ないですよそんな経験。変に含みを持たせないでください」

  確かに過去の事件で男性同士の痴情のもつれに巻き込まれたこともあるし、獣人同士では男性同士での恋愛や性交渉がポピュラーであることも知っている。だが少なくともリョージにはその気はないのである。ずっと守り通している――はずだ。

  トキヤ氏はそれを聞いて安心したように微笑んだ。

  「私からのお話はこれで全てです。もしこの段階で検討していただけるのであれば、依頼料の話に進みたいのですが――」

  リョージはしばらく考えて、ひとまずうなずいた。別に引き受けることを決めたわけではない。正直気が進まないのも事実ではある。だが相手と、関係企業の規模はかつてないほど大きい。報酬も、後々のコネも期待できるというものである。それを確認してからでも遅くはないだろう。

  「ありがとうございます。それで依頼料ですが――お恥ずかしながらこういったものの相場を全く知りませんで……。ある程度鈴城さんのほうで指針としている金額はありますでしょうか?」

  トキヤ氏の言葉にリョージは「そうですね」とつぶやきながら宙をにらむ。別に相手を見て吹っかけるつもりはないが、内容はかなり特殊である。特に最後の条件に不穏なものを感じているのだ。ある程度金額に幅を持たせてもいいだろう。

  「通常であれば必要経費と、かかった日数をもとに計算します。人探しですとか調査依頼のときですね。ただ今回はおそらく泊まり込みであることと、場合によっては危険もありますから――」

  リョージは立ち上がり、自分の机にあったタブレットを持ってくる。そこからファイルを開き、普段使用している料金表を提示した。

  「基本的にはここに記載されている金額の倍、一週間以上かかる場合は改めて追加料金を相談、という形ではどうでしょう」

  電卓を置き、その金額を入力してみせる。提示している金額は決して安くはない。なんなら一週間で終わっても三人で一ヶ月は食べていけるだけの料金だ。だがトキヤ氏は少しだけ不満そうな顔をする。高すぎた、だろうか? だが大会社の後継者争いとなれば、直接的な排除の可能性もある。身の危険を考えればそれほど不自然な額とは思えない。

  「本当に、この金額で受けていただけるんですか?」

  トキヤ氏は睨(ね)めつけるようにして下からリョージの顔を見上げる。どきり、とした。先ほどまでの人の好さよりも、ヒトを見抜く目で睨まれているような気分だ。

  「私からこういうのもなんですが……もう少しお支払いしたほうが、鈴城さんもやる気をだしていただけるのではないでしょうか」

  ん、とリョージの口から小さく声が漏れた。依頼料の話をして、値切り交渉をされたことは何度もある。だがまさかその逆、値上げを交渉されるとは思わなかったのだ。

  「私としても今回の依頼がかなり非常識なものであることは理解しています。内容はもちろん、条件に関しても、です。ですから、逆にしませんか」

  「逆、とおっしゃいますと」

  トキヤ氏の言葉にリョージは思わずそう問い返していた。

  「事態の収拾が、早ければ早いほどボーナス、です」

  リョージは思わずうなずいてしまった。確かにそれならリョージとしても早く解決に導くことに対してやる気が出る。だがそれを依頼主から言い出していいものであろうか。

  「私としてもできれば時間を取られたくないんです。先ほどの名刺にも書かせていただいていますが、わたくし書家をさせていただいておりまして、個展が近づいているんです。その準備もありますから……」

  そういって彼は頭を下げた。なるほど、そういう事情があるのであれば追加料金を払ってでも早く話をまとめたい、というのは理解できる。

  しかし、一つ確認しておくべきことがある。先ほどから彼が口にしていないことを、ここで明らかにしておくべきだ。

  「確認しておきたいのですが……禰寝さん――いえ、ややこしくなりますね。トキヤさんと呼ばせてもらいますが。トキヤさんは、後を継ぎたいとお考えなのですか?」

  その言葉に彼は困った表情を浮かべた。やはり、とリョージはその顔を見て思う。彼は先ほどから「後を継ぎたい、兄弟に勝ちたい」といった趣旨の言葉は発していない。それに加えて書道家としての仕事があるから早く終わらせたい、との言葉である。彼がおもちゃ会社である「ねじれめ工房」を継ぎたいと考えているとは、とてもではないが思えなかった。

  「本当は、私は興味がありません。ただ、辞退というわけにもいきません」

  彼は困った顔のままそう答えた。リョージは無言で続きを促す。

  「兄は、立派な人です。彼が跡を継ぐのであれば私は何も反対はしません。しかし弟たちは……」

  そこで彼は言葉を濁した。そこまでは説明しないというところだろう。確かに依頼を受けてからでもそこは構わない。

  「ではお兄さんか、貴方が継ぐことが目的だと?」

  トキヤ氏はその言葉にうなずいた。

  「ですがそう話がうまくいくとは思えませんし……やはり私が継ぐ形で動こうとは思っています」

  と、トキヤ氏ははっきりと宣言してくれた。リョージとしてもそうして意思を表明してくれると行動がブレにくくなるのでありがたい。

  「わかりました。依頼は後継者争いにおいてトキヤさんを勝たせること、あるいはそのサポートですね」

  トキヤ氏はリョージがはっきりと提示した言葉に、改めてうなずいた。これで内容としては間違いがないだろう。後でその依頼内容で書類を作成すればよい。

  「で、金額ですが」

  トキヤ氏は電卓を手に取り数字を入力していく。やがて入力が終わり、電卓がリョージのほうに向けられた。

  「えっ」

  思わず声が漏れていた。想像よりもずっと大きい金額だったのだ。正直これだけあれば三ヶ月は仕事をしなくても暮らしていけるだろう。

  「よろしいんですか?」

  「それだけ、非常識だと思っておりますので」

  リョージの問いかけに、トキヤ氏は当然といった表情でうなずいた。レンの大学進学を控えた現在、確かにこの依頼料であればかなり助かるのは事実である。リョージは少し迷ったものの、素直に厚意を受け取ることとした。

  「わかりました、ではこの金額で受けさせていただきます。契約書は後程準備しますが……遺言書の公開はいつですか?」

  「それが……明日でして」

  「明日ッ!?」

  リョージが飛び上がって驚く。てっきり一週間先くらいかと思っていたのだ。これでは入念な下調べ、というわけにもいかなそうだ。もっとも監禁されるわけでも孤島に連れていかれるわけでもないだろう。必要があれば自分で調べたり外に出ればいいはずだ。

  「わ、わかりました。では急ぎ準備します」

  「すみません、よろしくお願いします。明日の朝、改めてこちらにお迎えに上がります」

  それには及ばない、と言いかけたがおそらく素直に従ったほうがいいだろう。住所を聞いたところで、とんでもない豪邸のセキュリティに阻まれて屋敷に入れない、ということもありうると思ったのだ。

  「はい、それではまた明日に」

  リョージのうなずきを確認して、トキヤ氏は立ち上がる。そのまま出口に向かい。

  「あ、お客さん? こんにちは!」

  そこにはハスキーの顔をした青年、リョージの助手のユウが立っていた。手には大きなエコバッグをぶら下げている。どうやら予想通り、食材の買い出しも併せて行ってきたようだ。

  「どうもこんにちは、お邪魔いたしました」

  トキヤ氏は軽く挨拶するとそのままユウの脇を抜けて出ていく。リョージはその背中に頭を下げると、改めてユウに向き合った。

  「おかえり、ユウ」

  「ただいま! 今のお客さん、お仕事依頼してくれたの?」

  嬉しそうに尻尾を振りながらユウがリョージに笑顔を向ける。尻尾の動きをそのままに、少し頭を下げて何かを待つ構えをして見せた。これはユウがご機嫌の時にする癖だ。リョージは苦笑しながらその頭を撫でてやった。ユウは満足そうに目を細めて笑う。これが猫ならばゴロゴロと喉を鳴らしているところだろう。もっとも犬であるユウの感情は据えて尻尾に出ているけれど。

  一通り満足したのだろう、ユウは改めて顔を上げると机の上に置きっぱなしにしていたタブレットと電卓に視線をむけた。リョージはユウの手元からエコバッグを受け取った。給湯室はあるものの、ここに調理スペースはない。この食材も、階上の生活スペースまで運ばなければならないのだ。さすがにいつまでも持たせっぱなしにさせるのはかわいそうだろう。

  「ああ、急な依頼だったけどな。羽振りはよかったよ」

  「ホント? じゃあこれでしばらく安心かなあ」

  尻尾をパタパタと振りながらユウがテーブルへと歩み寄る。そこにある電卓を見て目を剥いた。さっきまで上機嫌に振られていた尻尾もビタリと動きを止め、完全に固まっている。確かに金額が金額である。リョージも気持ちはわかる、と小さくうなずいた。

  「これ……ホントに……? 一か月くらいの出張だったりする?」

  ユウが心配そうな顔で振り返った。どうやら喜びというよりも不安が強かったらしい。確かに、ユウにはアレが一週間での報酬だという前提を話していない。金額から想像するなら確かに一か月はかかると思っても不思議ではないだろう。

  「いや、とりあえず一週間だな。もっと早くなるかもしれないが」

  「早くなる? 遅くなるの間違いじゃないの?」

  電卓とリョージを何度も確認しながらユウが困惑した顔をしていた。今回の依頼は、正直この事務所が始まって以来の大口であると言っても過言ではない。「ねじれめ工房」の話を含め最初から説明しないことには納得はできないだろう。普段ならここでじっくりと話を始めるところである。だが今のリョージには時間がない。明日までに一通りの準備を終わらせておかなければならないのだ。

  「えっと、そうだな……細かい事はあとで説明するよ。出発が明日だからな、先に準備をさせてくれ」

  その言葉にユウはまた驚いた顔をする。先ほどまでの表情も十分感情を表現したものだったが、今の表情は今日一番である。

  「えっ、明日? じゃあ俺も準備しないと」

  ユウは少しだけ嬉しそうにそう言うとその場で踵を返す。そのまま慌てて走り出そうとするユウを、リョージはそっと押しとどめた。今度は困惑の表情。本当に表情がコロコロ変わるな、とリョージは優しくその顔を覗き込んだ。その視線を受けて、ユウの顔が少しだけ照れたものに変わる。

  「いや、今回は俺一人だ。申し訳ないがユウは今回は留守番しててくれ」

  「え……」

  そして今度は悲しげな顔。元々感情の表出は激しい方ではあるが、今日はいつもに輪をかけて大きい気がする。それだけ意外なことが立て続けに起こっている、ということだろう。だがその中でもとりわけ衝撃が大きかったのはリョージの最後の発言だったようだ。

  「留守番って……俺は一緒に行っちゃダメなの……?」

  先ほどまでの驚いた表情とは明らかに違う。不安そうな、悲しそうな、置いてきぼりにされた子供のような顔。

  ユウに助手としての仕事を任せてから数年。可能な限り仕事は一緒にしていたし、危険な仕事もできるだけ安全なところからフォローを頼んでいた。もちろんその時もユウは一緒に来たがっていたけれど、それでも納得はしていたはずだ。今回と今までの違いと言えば……事前に説明がなかったことだろうか。

  「今回の依頼はさっき来ていた依頼人のパートナーとして潜入するものだ。二人以上いたら不自然だろう?」

  「パートナーって……ッ!」

  ユウが叫ぶように言うが、リョージは小さく首を振るのみである。本当に大事なのはそこじゃない。むしろ大事なのは。

  「それに今回は特殊な事情もあってな。連れて行くとお前の身に危険が及ぶ可能性がある。さすがにそれは看過できないだろう」

  「それ言ったら、リョージだって同じじゃんか!」

  叫ぶ――というより怒っているのかもしれない。子供扱いしていることか、それとも勝手に話を進めたことか。だがリョージにとってはどちらも当然のことだ。ユウがまだ未成年だったころから面倒を見ているリョージにとって、ユウはあくまで守るべき対象である。危険なことがあるのならそこに近づけるべきではない。もっとも今回は「身の危険」というよりは「貞操の危機」というべきもので。しかしだからこそユウを遠ざけたい、ということでもあった。ユウがリョージを大切に思っているように、リョージだってユウが大切なのは間違いないのだ。だからここは飲み込んでほしいと、リョージは思う。

  それに話を一人で進めていることに関しても、当然だ。この事務所は元々リョージ一人だけの事務所だったのだ。居候になってから成り行きで助手としていたが、あくまで最終決定はリョージがするべきと考えている。それがこの事務所を、そしてユウたち兄弟を預かる大人として当然だと思っている。

  「俺はそういう仕事だと、全部納得ずくで始めたことだ。だけどユウ、お前は無理に危険な橋を渡ることはない」

  「無理じゃないよ……。おれは、リョージの役に立ちたいんだよ!」

  「だったらなおのこと、留守番しててくれないか。その方が俺は安心できる」

  リョージの発言にユウはぐっと言葉に詰まる。言わんとすることはわかる、だが納得はできない、という顔だ。

  「俺が、心配するのはダメなの?」

  絞り出すようにそうつぶやいた。ユウはいつだってリョージのことを心配してくれている。それはリョージにもよくわかっている。だが今回ばかりは連れていく方が心配だ。「遺産相続に関して、『処女』を条件とされている」なんて話をしたらユウがどんな反応をするか、さすがにリョージでも予想がつかないのだ。

  「心配してくれてうれしいよ。でも大丈夫だから待っててくれ」

  ユウは何かを言おうとして口をパクパクと動かすが、そこから何かが出てくることはなく。やがて静かにうつむいた。その顔には悲しみがあふれている。どう説得したところでリョージが意見を翻さないことを、ユウはわかっているのだろう。

  「おれ……」

  ユウの口から小さく零れ落ちたひとこと。だけれども、それに続く言葉は出てこない。その沈黙を話の終わりだと考えて、リョージはユウの肩を優しくたたいた。そのまま食材が詰まったカバンをもって部屋を出ていく。ユウはその背中をみることもできず、ただ部屋の中に立ち尽くすだけだ。

  ただ一緒にいたいと。楽しいことも、悲しいことも、危険だろうと、大変だろうと。いつだってリョージと一緒にいて、そのすべてを分かち合いたい、共有したい。ユウはずっとそう願っている。それが恋心から来るものだということは自覚しているし、おそらくリョージには受け入れてもらえないだろうということも理解している。それでも仕事の助手として、バディとして頼ってもらえればそれでいいと思っていたのに。それすら許してもらえないのだろうかと。ユウの胸の内が苦しくなる。

  かつてリョージが一人で仕事に出たことはもちろんある。だがそれはもうずいぶんと昔の話だ。最近ではほとんど常に一緒で、リョージが一人で動いたのはそれこそ状況を説明するよりも動いた方が解決が早い、という案件くらいである。今回のように数日かかることを想定された依頼で留守を任されたことなどなかったのだ。危険な仕事だと思われるものも、互いに助け合ってきたはずだ。しいて言うなら、少し前に巻き込まれたペンションでの強姦事件は例外だっただろうか。あの事件を振り返った時に、リョージはユウを巻き込んだことを後悔するようなことを口にしていたからだ。

  「兄貴……」

  レンが声をかけてきた。恐る恐る、ユウを気遣うように。だがユウはそれに返事を返せない。今口を開けば、ただの泣き言があふれだしてしまう気がするから。

  「……大丈夫。せめて、美味しいお弁当でも作ろうか」

  やがて無理やりに笑い、顔を上げるユウ。本心でないことはよくわかる。今にも涙が溢れそうな目と、引きつった口元。頼ってもらえない悔しさも、そばにいれない寂しさも、説得ができない無力さも。ユウは必死で押し隠そうとしていた。

  レンもそれを見せられてはうなずくことしかできない。レンにはどちらの気持ちもわかるのだ。一緒にいたいという思いも、安全なところで待っていてほしいという願いも。だからどちらに加担するべきなのか、どうすればユウにとって一番なのか。それがレンにはわからなかった。

  「兄貴、ちょっと俺の相談聞いてよ……」

  だから、レンはユウにすべてを話すことにした。そのうえで、ユウが選べばいいと思ったから。

  翌日。朝のうちにトキヤ氏から連絡を受けていたリョージは、事務所を出たところで車の到着を待っていた。リョージが車を出そうと思っていたが、トキヤ氏が運転を買って出てくれたのだ。相手は依頼主であるから、いつもなら固辞するところであるが、今回は遺産相続のために大会社に乗り込むのである。普段の軽自動車で乗り付けては失礼に当たるかもしれないと思ったのだ。トキヤ氏に頼る形にはなるが、体裁を維持するのは大切だろう。リョージは自分にそう言い聞かせていた。なんのことはない、ただ軽自動車で豪邸に乗り込むのが気恥ずかしかったのである。トキヤ氏を見ていればそんなこと気にもされないだろう、とは思えたが、彼は自分の弟たちをあまり頼りにならない人物と評していた。若さもあるだろうし、大人な対応を期待するのも難しいかもしれない。

  そんなことを考えていると、目の前に一台の車が止まった。黒塗りの、横幅の大きな車である。あまり見たことない型なので、おそらく輸入車だろう。実際右側にハンドルはなく、歩道側に昨日見た着物姿のハクトウワシが乗っている。リョージに気づいたのだろう、窓の向こうでトキヤ氏が大きな翼のような手を軽く振っているのが見えた。やがて窓が音もなく開く。

  「お待たせしました、どうぞ乗ってください」

  そういって彼は手元で何かの操作をする。カタン、とロックの外れる音が聞こえた。

  リョージはその場で振り返り、そこに立っている背の高いユキヒョウの青年に目を向ける。

  「それじゃあ、行ってくる……ユウは、寝なおしたのか?」

  自分のカバンには、ユウが作ってくれた弁当が入っている。といっても弁当箱のようなものではなく、一口サイズのサンドイッチやブロック型の高カロリー食品など、いざというときに手軽に口に入れられる非常食をまとめたようなものだ。場合によっては身を潜めたり、尾行したりすることもあるからこういったものが一番ありがたかった。リョージが起きる前から、栄養と手軽さを考えながら作ってくれた――とレンが教えてくれた。

  「ん、そうみたい」

  レンの言葉にリョージの顔が少しだけ曇る。昨日きちんと話せなかった分を、引きずったまま出かけることに少しの抵抗があるのだ。もっともユウももう子供ではないのだ。リョージがいなくてもキチンと事務所を守っていてくれるだろう。

  「じゃあ――やっぱユウに……、風邪ひくなって言っといてくれ」

  出発しようとしてやはり少し後ろ髪をひかれて。でも何といえばいいかわからなくて、リョージはそれだけを言い残した。レンは言葉を発することなくゆっくりとうなずく。

  「お待たせしました」

  リョージは助手席に乗り込むと手早くシートベルトを締める。トキヤ氏は再び扉にロックをかけると、ゆっくりと車を発進させた。

  「大丈夫でしたか?」

  先ほどのレンとのやり取りを聞いていたわけではないにしろ、何か感じるところがあったのだろう。彼がそう言ってくれるのを、リョージは苦笑してうなずいた。

  「大丈夫です、しばらく帰れない可能性を考えて後のことを頼んだだけですから」

  もちろん遺言の発表から、いったん戻ってくることだってできるだろう。だが今回の内容はトキヤ氏いわく、遺産相続権をかけてのレースである。あまり悠長にしている暇がない可能性のほうが高いだろう。

  実際、今回の依頼にあたって「ねじれめ工房」に関しての噂を調べてみた。現社長である琥珀氏は思ったよりも慎重派で、会社の経営としても大きく広げるよりは手堅く固めていく経営をするタイプだったらしい。だがその一方で、かなりのいたずら好きだったという話もたくさんあがってきた。もちろん社会人として周囲に迷惑をかけるほどではないが、どうやら身内と判断した相手――社内の近しい人物には定期的にいたずらを仕掛けるような、子供っぽいところがあったらしい。

  そしてその性質はどうやら初代から受け継いだものらしい、という噂も多く見かけた。初代はさらに輪をかけていたずら好きであったらしく、時には取引先の人間にもいたずらを仕掛けて部下から怒られたりしていたとか。もっとも今と違い義理や人情で世間が動いていた時代である。そういった破天荒な部分もどうやら個性として受け止めてもらえていたらしい。

  確かにそれらの情報を聞くと、今回の遺言書の公開に関してもあまりスムーズにはいかないのだろうな、ということが予想できた。

  「それでトキヤさん、ご自宅はどのあたりになるんですか?」

  不意に、リョージは自分が向かっている先をまだ聞いていないことに気がついた。案内してくれるのだからその時でいいだろうと昨日は思って改めて聞くのをすっかり忘れていたのだ。

  「ええと……正面に山があるのが見えますか?」

  視線を上げると、正面に大きな山が見えていた。リョージはその山の名前を知らない。町からは車で移動できる距離にあるものの、ハイキングコースなどがあるわけでもなく山道が整備されているという話もあまりきかない。なんならその隣にあるもう少し小さい山にキャンプ場があるのでそちらに人々は流れていく、と記憶している。大きいわりに目立たない、ひっそりとした山。そういう印象だった。

  「はい、すみません、名前までは存じ上げませんが……」

  リョージの言葉にトキヤは安心したようにうなずいた。

  「あの山が目的地です」

  トキヤ氏の言葉に視線を巡らせるが、斜面に家のようなものは見えない。この角度からは見えない位置に立っているのだろう。

  「山の中にご自宅が?」

  リョージの確認の言葉にトキヤ氏は、今度はあいまいにうなずいた。

  「ええ、まあ、僕の家ではありませんが……」

  ということは現社長――禰寝琥珀氏の家があるのだろう。

  「僕たち兄弟は、同じ義父に引き取られた兄弟ではありますが、基本的には別居しています。兄は普段は海外におりますし、僕も別に家を持っていますので」

  ということはこの会合で久々に顔を合わせるということだろう。大きな家庭なら――というか成人した子供たちがいるのならそれほど珍しい話ではない気もする。

  「正確には、成人する前からそうですね。一番下の弟はこの間成人したばかりですが、五年ほど前から別に自宅を構えています」

  現在が「成人したばかり」で、その五年前ということは中学生くらいのころから一人で暮らしているということだろうか。いや、きっとそうではあるまい。この場合はきっと付き人や執事のような存在が身近にいるのだ。

  「なので今から向かうのはあまり馴染みがない家でして……道に迷ったらすみません」

  トキヤ氏の苦笑を見ながら、リョージは携帯を取り出し地図アプリを開く。しかし残念ながら、この山の道に関してはあまり詳しく登録されていないようだった。

  「うーん、あんまり地図に載ってないですね……」

  リョージのつぶやきに、トキヤは当然だといわんばかりにうなずいた。

  「私有地ですからねえ」

  なるほど、とつぶやきながらもう一度地図に目を落とす。確かに私有地であればその内部まで入ってきて地図を作ることはない――のだが。この山全体において、道らしきものは確認できない。どこまでが、私有地だというのだろう。

  「あの……ひょっとして……?」

  嫌な予感を覚えながらリョージが恐る恐る聞く。トキヤ氏は今度は笑顔でうなずいた。

  「はい、あの山全体がうちの庭です」

  リョージは思わず目を閉じた。あの山全体が禰寝家のもの、というのは予想していたがそれを「庭」と来るとは思っていなかったのだ。確かにそこにある屋敷の敷地内だと考えればその表現でも間違ってはいないのだろうが。それにしたって管理もできていないものを庭と表現してよいものか。

  「いや、私もわかりますよ。そんな非常識な話はないだろうって今なら思います」

  若いころは当然のように思ってましたが、と付け加える。彼が何歳のころから禰寝家に引き取られたのかは知らないが、小さなころからその環境であったのであればそれを責めることはできないだろう。ただ「住む世界が違う」という言葉に物理的な意味があることを、実感するとは思っていなかっただけだ。

  「俺、ひょっとして大変な依頼を受けてしまったんじゃないですかね」

  思わずうんざりした顔でそうつぶやいた。いつもなら助手のユウに漏らすべき言葉だが、今日からしばらくはこのトキヤ氏が「パートナー」である。依頼主とはいえ、ある程度打ち解けておくべきだろうと考えての発言だ。

  「そうですね……ご愁傷さまです」

  トキヤ氏もそれを受けて笑ってくれた。

  やがて車はゆっくりと山道を登っていく。彼は道に迷ったら、と言っていたがどうやらそれも彼の冗談であったようだ。なにせ迷うような道はほとんどない。しっかりと切り開かれた大きな道が一本、山の中腹へと向かって伸びていく。やがて視界が開けたあたりで大きな屋敷が見えた。見ようによっては怪しげな洋館とも取れるそれが、おそらく目的地だろう。あれだけ大きく見える屋敷にこの一本道。迷うこともなく、車はゆっくりと洋館へと導かれた。

  「これは……」

  巨大な洋館を見上げながらリョージは呆然とつぶやいた。遠くから見た時も大きいと思っていたが、近くで見るとさらに大きい。

  「使用人が住むスペースもありますし、思っているよりも内部は広くないと思いますよ。特に今回は離れを使うと聞いています」

  そういいながら洋館の正面から横手に伸びる道へとトキヤ氏は車を回す。てっきりまっすぐ進むのかと思っていたリョージは一瞬左右に体を振られることとなった。

  「あれ、あっちじゃないんですね」

  そういいながら改めて正面に目を向ける。そこには一般家庭の家よりも少し大きいくらいの家が建っていた。なるほど、これが離れなのだろう。

  「いえ、いったんは向こうへ向かいますが……ともあれ車を正面のガレージに入れないことには」

  「……この家ガレージなんですか?」

  離れではなかった、らしい。なんならこの一軒だけでも十分豪邸といっていい大きさだと思うのだが、確かに目を向ければその家の一階部分はたくさん車が止められるようになっていた。すでに止まっている車もある。その車も、今トキヤ氏が運転している以上に大きな車だった。

  「はい、ここに止めておくと専属のスタッフがメンテナンスもしてくれるんですよ」

  となると、一階の奥や二階部分はそのスタッフの仕事場――あるいは住居スペースなのかもしれない。

  「なんというか……すでに俺の理解を超えてるんですが、大丈夫ですか……」

  リョージは思わず手にしていたカバンの持ち手を握る。だんだんこの仕事を受けたことを後悔し始めていた。なんなら今すぐ家に帰って、ユウやレンと三人で人生ゲームでも始めたいくらいだ。

  「大丈夫です、そんなに変わりないですよ」

  嘘だ、と思ったがリョージはその言葉を飲み込んだ。ここでその議論をしても始まらないし、生活レベルの違いをひけらかすことはないだろう。ようやく車が止まったのを確認して、リョージは素早く車から降りた。ここにじっとしていると、入場料でも取られるのではと思ったのだ。

  素早くガレージから離れて大きなため息をつく。どうやら気が付かない間に息を止めていたらしい。空気は無料に違いないのに。

  「リョージさん、待ってください」

  トキヤ氏がそう声をかけながら、いったんガレージ奥へと向かう。ちょうど仕事場ではとリョージが予想していた場所に向かっているらしい。視線を向ければそこには小さな窓。おそらくそこにカギを預けていくのだろう。

  その間にリョージは屋敷へと目を向けた。ちょうど入り口を正面にして、右側に今リョージたちはいる。屋敷が背を向けている側が山に面しており、そちらが北のようだ。ということは入り口が南向き、今自分たちがいるのは屋敷の南東あたり、ということだろう。

  ふと見えたのは、屋敷の中を歩く三人の人影。目を細め、手で庇を作りながらそれを確認した。おそらく先頭を歩いているのは使用人の一人だろう。そこに続く一人が目を引いた。上背があり、頭から流れるようなタテガミを後頭部で縛り上げた大柄なオオカミの男性。遠目に見ても堂々と歩いているのが見て取れる。その後ろにもう一人、オオカミほどではないが背の高い男性。遠目であるため自信はないが、おそらく狐の男性だろう。こちらも堂々と歩いているが、どこか前方にいるオオカミに遠慮している雰囲気が見える。彼も使用人だろうか?

  「あれは……」

  気づいたトキヤ氏が隣に並んで同じ方向を向いていた。思わず目を細めてみていたリョージだが、彼には特に困ることなく見えているらしい。鳥類の獣人は目がいいという噂を聞いていたがどうやら本当だったようだ。

  「あそこを歩いているヒトたちが見えますか?」

  トキヤ氏の言葉にうなずいて、そのまま続きを視線で促す。

  「真ん中の一番背が高いのが兄――長男の玄斗(くろと)です。後ろにいるのは執事の四十八願(よいなら)さん、でしたかね」

  「先頭は?」

  リョージの言葉にトキヤ氏は小さく首を振る。

  「おそらくこの家の使用人だと思いますが、私も名前までは……」

  ということは、後ろの執事は長男のクロトが連れている執事ということだろう。

  「兄のお気に入りですね。仕事はもちろん、家庭内での仕事も任せていると聞いていますが……」

  少し不満そうな顔でトキヤ氏はつぶやく。となると、リョージにとってユウのような立ち位置ということだろうか。仕事も生活も、ユウには色々任せて頼りきりである。決して執事と思っているわけではないが、仕事上では一応上司と部下である。となるとニュアンスとしては近いものがあるだろう。

  今ここに二人でいるということは、クロトはパートナーに執事を選んだということだ。では同じようにパートナーを選べと言われたらリョージはどうするか。言うまでもない、ユウを連れてくるだろう。そう思えば、なんとなく彼らの関係に親近感を覚えた。

  「さ、私たちも行きましょう。時間に遅れるわけにはいきませんからね」

  トキヤ氏に促され、リョージは思考を打ち切る。ガレージから屋敷までは百メートルほどだろうか。ぼやぼやしている暇はない。すでに歩き始めているトキヤ氏に続いて、リョージも屋敷の入口へと向かった。屋敷の入口の前にはドアマン役の使用人が立っている。おそらく今回の参加者を出迎えるためだろう。ゆっくりと扉を開いてこちらを待ってくれているようだ。

  「さて、鬼が出るか――」

  そこまでつぶやいて、蛇は本当に出そうだなと思い。リョージは言葉の続きを飲み込んだ。

  [newpage]

  〇

  「失礼いたします」

  そういって、執事服を着た狐顔の男が膝をついた。彼の正面には自身の主人が座っている。そっと膝に手をかけ、それを押し開いた。主人である銀色のオオカミは、それをただ黙って見下ろしている。急かすことも、茶化すこともせず、ただ彼の求めるままにさせているのだ。

  「――ッ」

  狐がそっと顔を近づけ、息をのんだ。ふさり、と彼の尻尾が揺れる。眼前に迫るそこから圧倒的なまでの質感、圧力を感じる。全身が大きく、今着ているスーツすらはじけそうなその体で。股間部は、特に大きく盛り上がっていた。スラックスの上からでもわかる、椅子の上に広がるように鎮座するその股間。見ているだけで、匂いを嗅ぐだけで狐はそれが欲しくてたまらなくなる。

  「すまないが――」

  オオカミが少しだけ恥ずかしそうに口を開く。

  「あまり、焦らさないでくれるか」

  そういって彼は天井を見上げるように上を向く。自分から催促するのが恥ずかしかったのだろう。狐はそれを微笑ましく見上げながら、そっと目の前の隆起に顔をうずめた。やわらかい中に、硬い芯の通った棒状のモノが鼻先にぶつかる。狐はそれが嬉しくてそこを重点的に鼻先でこすりあげた。

  「んっ……」

  オオカミが小さく声を漏らす。感じてくれているのがわかり、狐は嬉しくなって口を開けた。そのままスラックスごと甘噛みをくりかえす。

  「サイチ……」

  オオカミが少し苦しそうに言葉を漏らした。狐の名を呼びながら、その頭をやさしくなでる。

  「頼むから、直接……」

  オオカミの言葉に、サイチと呼ばれた狐はそっと顔を離し、ベルトに手を伸ばす。ジャケットの前を開き、ベルトを緩め、スラックスのボタンを外す。ちり、と音を立てながらファスナーがゆっくりと下ろされて。その中にある肉の槍はすでに下着に大きなシミを作っていた。もともと薄い生地なのだろう、先端の濡れた部分だけではなく、その幹も、根本にある毛に包まれた大きな玉もしっかりと下着の向こうに見えていた。じっと視線を落とせば、玉がうねるように持ち上がるのがわかる。

  「ああ、クロト様……」

  サイチは嬉しそうにつぶやいて、今度は下着越しにオオカミの大きな肉棒を舐め上げた。ざらりとした下着の感触と、すでにあふれている先走りの味が口内へ伝わる。ばさり、と音を立ててクロトの尻尾が大きく動いた。サイチの頭に乗せた手に、力をこめたくなるのを必死でこらえながらクロトは息を荒げる。彼にしてみれば先ほどのようにおねだりするだけでもかなりの勇気を必要としたのだ。これ以上彼から何かを発信することは難しいといえた。

  「私にお任せください。クロト様……」

  サイチは、今回は焦らすつもりはなかったようで。薄手の、既に期待にあふれた肉棒が透けて見えているその下着に手をかけてゆっくりと引き下ろしていく。外気に触れるだけで快感を覚えたのか、クロトは再び首を逸らしながらその感覚に耐えていく。それを見上げ、サイチは細い眼をさらに細くした。解放された先端に鼻先を寄せ、その匂いを嗅ぐ。

  「恥ずかしいから、やめてくれ」

  それをクロトはそっと手で押しとどめる。サイチはクロトのニオイが好きだ。汗だとか体臭だとかいう話ではなく、どのようなものであれクロトが身近に感じられるものが好きなのだ。事実クロトは香水をつけているけれど、それを込みでサイチは彼のニオイだと思っている。それでも、やはり香水の混ざっていない、彼のそのままを知れればと思ったのだ。だが彼が。愛する男が恥ずかしいというのなら、それを続ける意味はない。舌を大きく突き出し、裏筋にべたりと張り付けるとそのままゆっくりと舐め上げた。

  「~~~~~ッ」

  声を出さずに、クロトは全身をぶるぶると震わせた。ゆっくりと引き上げられる舌は、裏筋全体を丁寧にこすり上げていく。不意に襲ってきたものであり、待ちわびた刺激でもある。一度だけでは物足りない。何度も、何度も欲しい刺激。意識せずともびくびくとサイチの鼻先でクロトの分身が跳ね回る。意識は連動していないはずなのに、クロトの心の底の欲望をすべて表してくれる分身だ。

  「ああ、美味しい……。クロト様の味がします」

  サイチは嬉しそうにそういうと、下着をつかんでいた手を離しそっとクロトの根本を支える。もちろん支えずとも天を衝くようにそそり立っているのだが、これなしではだめだとサイチは判断した。すなわち。

  「おおおッ!」

  口を大きく開け、根本までクロト自身を飲み込んだのである。突然全体に訪れた強い刺激に、クロトは声を上げてもだえる。

  「サイチッ」

  強い感情は言葉となって、サイチの名を呼ばせる。彼はいったん先端まで吐き出すと、再び根本まで一気に咥える。頭を前後に動かし、舌をゆらゆらと動かしながら、唾液を絡めて音を立ててしゃぶる。

  「気持ち、い……」

  クロトの口から小さな悲鳴が上がる。いつも自信満々で、時には強くあるクロトが、サイチの口の中では弱くなる。それが彼にとっては本当にうれしかった。それでも激情に身を任せることなく、サイチはゆっくり丁寧にクロトをしゃぶりあげる。ぐちゅ、と濡れた水音を部屋中に響かせながら大切に、大切に。

  「サイチ、もう……」

  クロトがこらえるように背中を丸めて下を向く。それを察知して、サイチはクロトを口から吐き出した。そのまま膝立ちとなり、下を向いたクロトの口吻にそっと口づける。クロトはそれにこたえるように舌を伸ばしサイチの唇を舐めた。二人は互いの思いを感じ、口を開いて舌を絡ませる。首を傾け、マズルの角度を変えながらねっとりと、互いの唾液を交換する。そのままサイチはクロトの膝に手を置くと、舌を絡めあったままゆっくりと立ち上がる。意図を察してクロトはようやく上体を引いた。

  「クロト様、お立ちください」

  サイチが差し伸べた手を取り、クロトは椅子から立ち上がる。垂れた唾液で椅子の座面も、クロトのスラックスもべたべただ。だが二人ともそれを気にせず、そのまますぐ近くにあるベッドへと歩み寄った。サイチはジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながらゆったりとした動きでベッドに腰を下ろす。普段なら、主人であるクロトのベッドに乗ることなどありえない。だが今はそれが望まれた行動である。クロトはサイチの目を覗き込んだまま、彼の肩に手を置くとそのままベッドの上へと押し倒した。

  サイチの上に覆いかぶさったクロトはそのまま首筋に鼻先をうずめた。サイチがしてくれたように、クロトもまた彼のニオイを嗅ぐ。すっきりとした、だけどどこか化学的なニオイ。

  「ああ、クロト様……私は、幸せ者です」

  そういいながら、彼はクロトの背中に手を回す。そのまま自分に抱きよせるように、ぎゅっと力を込めた。

  「いいのか、サイチ」

  顔を見れぬまま、抱き合ったまま、クロトはつぶやいた。うなずいたのが、肩越しにわかる。クロトはベッドの隙間に手を入れて、サイチの背中を強く抱きしめた。

  このベッドは、クロトが選んだお気に入りの逸品だ。ベッドマットが複数のブロックに分かれていて、隙間に手を入れることでこうして背中から抱きしめることができる。自分が輸入している家具で、まさかこんな状況になるとは思わなかったけれど。

  「ですが、クロト様」

  少しだけ申し訳なさそうな声で、サイチが続けた。クロトは手をついて体を少しだけ浮かせる。胸元を圧迫していてはしゃべりづらいだろうし、何よりきちんとサイチの顔を見ていたかった。

  「一度だけでも構いません。その……」

  サイチがためらいで言葉を止める。だがクロトにはわかる。クロトがずっと口にしてこなかった言葉を、彼は求めているのだ。

  「サイチ」

  神妙な言葉でしゃべるクロトを、サイチは不安そうに見つめた。

  「本当は、ずっと好きだった。お前のことを。最初から――今でも、だ。愛、している、サイチ」

  言葉につかえながら、今にも舌を噛みそうになりながら、それでもクロトは必死でその言葉を絞り出した。これだけは、きちんと伝えなければならないと思ったからだ。

  「サイチ。ずっと、そばにいてくれ」

  「クロト様――!」

  過呼吸になりそうなほどに息を荒げながら、それでも必死で絞り出したクロトを。サイチは涙を浮かべながら抱きしめた。ずっとほしかった言葉、あきらめていた言葉を今こうして彼の口からきいている。それだけで彼の胸は締め付けられるほどに苦しく、泣き出しそうなほどに嬉しかった。世界中のどんな宝石よりも貴重で、どんな音楽よりも甘いその一言。ただその一言のために彼は人生をかけていたともいえた。

  「ああ、クロト様……」

  その感情を言葉にできず、ただ絞り出すようにクロトの名を呼ぶ。それでもせめて何かをしようと、クロトのことを強く強く抱きしめて。

  「サイチ、苦しいよ」

  クロトが優しく微笑んでそうつぶやいた。慌てて腕を離すと、クロトは少しだけ身を起こしサイチの顔を覗き込む。

  「かわいい」

  思ったことが、素直に言葉となってクロトの口から滑り出た。いつもなら喉の奥でぐるぐるとして消えていくだけの言葉。

  「クロト様は、とても格好いいです」

  サイチが涙を流しながら微笑んだ。笑っていたいはずなのに、この上なく幸せなはずなのに、だからこそ涙が止まらなかった。誤解されたくなくて、サイチは必死で笑う。今の幸せを、言葉以外で愛する男に伝えるために。

  その笑顔を見て、クロトの手がすっとサイチの胸を撫でる。胸元を下り、ベストの表面に指を這わせながらサイチの腹へ。下から順番にベストのボタンを外していく。そのままワイシャツの前もはだけると、サイチの毛皮があらわになった。毛皮に指を埋め、隠れた腹筋と普段は隠された厚い胸板を撫でていく。サイチが言葉もなく喉を反らし、小さく息を吐き出した。クロトの指が触れた部分が熱くなり、感度が上がっていく。ただ撫でられているだけで、気が狂うほどの快感がサイチを襲う。あれほど焦がれた指が、今自分の胸を、腹を撫でていると思うだけで絶頂に達しそうなほどに。

  だがクロトもサイチも男同士である。特にクロトは先ほどまでサイチの口淫でいやというほど煽られている。これだけで終わるはずもなく、やがて彼の手はサイチの腰――ベルトを緩めにかかる。カラ、と乾いた金属音が響いてベルトのバックルがベッドの上に落ちる。ズボンの前もすでに寛げられ、毛皮を抑えるように体に張り付いている黒い下着が見えた。軽く前を寛げただけで、サイチの興奮が目に見える。クロトはそっとその先端に指を乗せた。

  「アッ……」

  サイチは再びのけぞりながら声を漏らす。光がはじけたのかと思うほど、サイチの視界は真っ白に染まる。ただ先端に触れられただけで、下着越しの刺激だけで。少し漏れたのではと思うほどに、じわりと下着が濡れていった。

  「少し、我慢してくれよ」

  そういいながらクロトは身を起こすと、そっとサイチの股間に顔を寄せる。

  「いけません、クロト様」

  慌てて止めようとするサイチを、クロトは手で動きを制し。そっと下着をめくり、サイチの性器を露出させた。顔を寄せ、サイチがしたようにそのニオイを嗅ぐ。サイチは恥ずかしくて視線を逸らしてしまいたかったが――それでも決して目を逸らすまいと、大切な男のすべてを見逃すまいとただじっと見つめていた。

  「サイチのニオイがするな」

  そういいながら彼は大きく口を開けると、そのまま口全体でサイチ自身を包み込んだ。

  「アアアッ!!」

  嬉しくて、気持ちよくて、サイチは大きく声をあげながらクロトの口の中に自身の欲望を吐き出した。びくびくと震えながら、どくどくと音がなりそうな勢いで、どろどろの精液を。主人の口へとぶちまける。すぐにでも謝罪するべきなのに、サイチは強すぎる快感に全身がしびれたかのような錯覚を覚えていた。体も、口も動かない。

  一方でクロトは口の中にあふれた熱い想いを少しずつ飲み下していく。口吻の長いオオカミである彼には、サイチを根本まで咥えても喉まで届くことはない。だからサイチが吐き出した彼の体液も、すべて口の中にとどめることができた。彼が他人の体液を口にするのは、生まれて初めてである。自分のニオイを嗅いだことくらいはあるので、生臭いものかと思っていたが口の中にあるものはそこまで強いニオイを感じない。人による個人差なのか、あるいは愛する男のモノだからか。どちらでも構わないが、できれば後者であってくれれば嬉しいと。そう思いながら、クロトはその液体を飲み下した。

  「の、飲んでしまわれたのですか?」

  それに気づいたサイチが、ようやく言葉を発した。口の中に出しておいて、飲んだのかもなにもないものだ、とクロトは笑いながら口を開けて見せた。そこにはサイチの残滓すらもなく、てらてらと怪しく光る肉色の舌と顎。

  「ああ、クロト様……」

  ただ相手の名前を呼ぶことしかできず、サイチは身を起こしてクロトの首を抱きしめる。

  「サイチ、まだ終わりじゃないんだぞ」

  クロトはサイチの首筋にキスをしながら、サイチを握っていた手を滑らせ股の間に手を差し込んでいく。竿に比べても十分に大きなふぐりを超え、その奥へ。まだ誰も到達したことがない窄まりへと指を這わせた。

  「ああ、クロト様――」

  サイチがその感覚に思わず身をこわばらせる。クロトはそれを感じて一瞬動きを止めた。

  「本当に――」

  その言葉を、サイチの指が止める。子供にするように、唇に指を置いて、優しい瞳で。

  「私のすべては貴方のモノです。貴方にもらっていただくことが、至上の喜びです。お願いします、私に情けを――」

  サイチの言葉を、今度はクロトが口づけで止めた。

  ここまでくればもう言葉はいらないと、二人は手をつなぎ、指を絡め、深く深くキスをする。サイチはいつもの優雅さからは考えられない動きでバタバタと足を動かしてベッドの下へ穿いていたズボンを蹴り飛ばした。黒いブリーフにはだけたワイシャツだけになったサイチの体。毛皮の色の境目が、とてもセクシーに思えて、クロトはサイチを強く抱きしめた。

  改めて体を起こすと、クロトはサイチの脚を抱え上げる。両脚を割って、その間に腰を下ろすと今度こそ下着も脱がせてしまった。これで完全に下半身は何も着ていない。自身の服も手早く脱ぎ捨て、クロトも全裸になるとサイチの両足を肩にかつぎあげた。サイチの大きな尻尾をよけながら尻を掴みほぐすように揉む。顔を寄せ、先ほど吐精したイチモツを口に含み、玉を舐め、あるいは鼠径部に舌を這わせる。

  「ああ、あああ……」

  サイチは下半身全体からくる心地よさに翻弄されながら、クロトの頭に手を乗せることしかできないでいた。やがて尻の最も奥にクロトの指が届く。サイチはハッとして、思わず息をのんだ。

  「大丈夫か?」

  「――はい、洗浄は済ませています」

  そういうことではないよ、とクロトは苦笑しながら身を起こし、再びサイチの顔を覗き込む。先ほどまでの照れた表情は消え、いつもの毅然とした表情でもなく。愛情と、慈しみにあふれた微笑みをたたえていた。

  「怖くないか?」

  クロトが言い直した言葉に、サイチは微笑んで返した。後ろの穴で、男を受け入れるのは初めてである。この日を夢見て慣らしていたので、おそらくそこまで苦労することはないだろう。それでも恐怖感がないわけではない。だがその恐怖も敬愛する主人を、愛する男を受け入れられるのであれば、これ以上の喜びはない。

  「この日を、心待ちにしておりましたので」

  だから、サイチも笑って答えた。再び手を取り合い、見つめあう二人。互いの気持ちが絡み合う視線で、つないだ手で、わかる気がした。

  「じゃあ、いくぞ」

  太ももに手をかけ、サイチの脚を担ぎ上げるクロト。すでに元気を取り戻しているそこのさらに奥、尻の穴へと鼻先を入れて長い舌を這わせた。

  「ッ!?」

  未知の感覚にサイチはもだえるが、クロトの動きは止まらない。ゆっくりと湿らせ、ほぐしていく動きで徐々に舌先がサイチの中へと入っていった。それを感じながら、サイチはぎゅっとシーツを握りしめる。漏れそうになる声を必死で飲み込み、暴れそうになる尻尾を何とか押さえつけ。そっと、クロトの手がサイチの肉棒を掴んだ。十代のころでも感じなかったほどの激情が、サイチの股間を支配している。クロトにゆるゆるとしごき上げられるだけで、簡単に二発目が出てしまいそうだった。

  「いいぞ、だいぶ緩んできた」

  そちらに気を取られていたからだろうか。サイチの「入口」はすっかり気を許したようだ。クロトは嬉しそうに微笑むと、顔を上げてぐいと体を割り込ませる。股を割り、自分の股間をサイチの腰に押し付けた。先ほどからずっと固く、先端からだらだらとよだれを垂らすように体液を垂らしている肉の槍。サイチを求め、彼の中に入りたいと震える息子を、クロトはぐっと押さえつける。先端をサイチにあてがうと、改めて彼の顔を覗き込んだ。

  「サイチ」

  「クロト様」

  互いの名を呼びあい呼吸を図る。最後の意思確認だ。だが二人とも思いは変わらない。今こそ、心のままに。一つになろうと、クロトはゆっくりと腰を進めた。サイチの入口が開き、クロトの先端がほんの少しだけ飲み込まれる。

  「あ、ああ、ああ、熱い……」

  サイチの目から再び涙がこぼれる。クロトを体内で感じて、熱と、硬さと、動きを自分の中で感じて。嬉しくてたまらなかった。涙をこぼすほどに、そして精液を漏らすほどに。

  「さ、サイチ」

  「トコロテン、してしまいましたね」

  戸惑うクロトにサイチは涙を浮かべたまま笑う。

  「ですがお気になさらず、クロト様のよいように動いてください」

  サイチの言葉にクロトは鼻先にキスを落としながら。

  「サイチ、俺がイくまででいい、敬語をやめてくれないか」

  一瞬驚きの表情を浮かべたものの、サイチはすぐに笑顔を浮かべて。

  「愛してるよ、クロト。全部、クロトの全部を注いでほしい」

  「サイチ……俺も愛している」

  言いながらゆっくりとクロトは腰を進めていく。ずぶり、と自身の亀頭がすべて入り込むのをクロトは感じた。サイチの顔を覗き込むと、眉はひそめられているものの痛くてたまらない、というわけでもなさそうだ。ならばとクロトはさらに腰を押し進める。強い圧が亀頭からカリ、そして根本までゆっくりと移動してゆく。それに伴って、先端から溶けるのではないかと感じるほどの熱さ。

  「あああああっ」

  クロトも必死で動いていたものの、挿入自体初めてなのである。その強すぎる快感に、一瞬で漏れそうになっていた。

  「サイチ、サイチっ!」

  サイチの肩に腕を回し、強く抱きしめながら腰をゆらゆらと動かす。骨盤の動きだけで腰を前後させ、的確にサイチの中をこすり上げていく。

  「ああっ、クロト、クロト、ああ、すごい、初めてなのに、俺、気持ちよくてッ……!」

  サイチもまたクロトの背中に手を回し、遠慮のない声を上げる。ひょっとしたら部屋の外まで響くかもしれないがそんなことはどうでもよかった。今この瞬間、二人はひとつになっている。体も、心も一つに溶け合うこの瞬間を二人は感じて。

  「だめだ、すまん、止まらないっ! 出る、出る、出る!」

  クロトは遠慮なく奥深くまで自身の肉を突き立てると、そのままぶるりと体を震わせた。大きな尻尾がさらに大きく膨らむ。どくどくと、自身の竿が跳ねながら中に大量の体液を注ぎ込んでいるのを感じる。射精による肉体の快感と、愛する男を抱く快感、一匹の雄を征服する快感。それらがないまぜになってクロトは今までに感じたことがないほどの恍惚感を覚えていた。

  「ああ……」

  「クロト様……私は、幸せです」

  クロトに抱き着いたまま、サイチはそう漏らした。先ほど「イくまで」とクロトがねだったので元の口調に戻したのだろう。だがクロトは再びゆっくりと腰を突き上げる。

  「サイチ、まだだ。まだ終わらないからもうしばらく――」

  「わかった、クロト。君が満足するまで、いくらでも」

  クロトの腰に脚をからめ、サイチもまた快感をむさぼる。手を取り合い、舌を絡めあい、粘膜をこすりつけながら、二人は互いを慈しみ、睦みあう。

  ――二人の愛の交感は、深夜にまで及んだ。

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