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Gimme

  あれやこれやと胸の奥でざわめく声。

  強気な仮面をかぶってみても、内側からは軋む音ばかりが響く。

  夜のざわめきと溶け合って、誰にも届かない呻きだけが残る。

  夜はとっくに更けていると云うのに、街のネオンはまだまぶしくて、タクシーのテールランプが川のように流れていく。

  笑い声のこぼれるビルの隙間で、取り残された僕を柔らかな月灯が照らしていた。

  まるで舞台の上にただ独り立っているように。

  

  ──僕は、自分が嫌いだ。

  というより、この身体が嫌いだ。

  僕の身体は“先祖返り”というらしく、同族のオオカミと比べて何倍いや、何十倍も耳がいい。

  心音の微かな揺らぎから緊張や嘘まで伝わってくる

  いや、伝わってきてしまう。

  他獣の言葉と心音が食い違うとき、いつも僕は迷ってしまう。結局、独りになってこんな所に立っている。

  そうして今日も夜更の街を彷徨っていた。路地裏を抜けると、壁一面に色彩が広がっていた。

  赤と白、闇を切り裂くように重ねられたスプレーの跡。

  誰にも頼まれたわけではないのに、そこには確かな叫びが刻まれていた。

  不思議な絵いや、叫びを見ていると耳が震えた。

  それはシュッ、シュッと、スプレーの短い音。その奥で、脆くて、それでいて真っ直ぐな心音が響いている。

  音を聴くに、きっとウサギだろう。

  街の喧騒に紛れていても、その鼓動ははっきりと僕に聞こえた。その一打ちごとに、胸の奥を小さく叩かれるようで、足が勝手に前へ出る。

  やがて、視界の先に影が見えた。壁に身を寄せ、小さな背で夜と向き合うように立つ真っ白なウサギ。

  大きなリュック、缶を握りしめた手。細い肩が、月の光に淡く照らされている。

  その姿を見た瞬間、胸の奥で音が跳ねた。

  ──こんな夜に、こんな場所で。

  どうして。

  どうして、僕と違ってこんなに真っ直ぐな音がするんだ。

  「……俺が追えば、逃げるのか?俺が…先に動けば……。」

  誰に向けた言葉でもない。

  ただ、本能に抗うように、静かに漏れた言葉に固唾を飲んだ。

  けれど、返事の代わりに返ってきたのは、

  ズサッ──というかすかな物音。

  ウサギがこちらに気づき、反射的に逃げ出そうとした。

  その一瞬、たった数秒。

  気づけば毛が逆立ち、僕は駆け出していた。

  考えるよりも早く、体が動いた。

  次の瞬間、夜気が揺れる。

  誰も居ない狭い路地の奥、身をかがめて覆い被さるように、その存在を確かめた。

  出会ってしまった。小さな一疋のウサギと、

  どうしようもない、肉食の本能に。

  覆い被さったまま、互いの息が触れる。

  鼓動が重なり合い、どちらの音かもわからなくなる程に。

  「……この音は、俺のか?……それとも、君のか……?」

  恐れと戸惑い、そして熱が混じる。

  喰らいたくないのに涎が止まらない。

  夜の静寂が、一気に二疋の間で静かに、煩く脈を打っていた。

  ウサギの瞳がわずかに揺れた。

  刹那、身を翻すように振りほどかれ、足音だけが夜を裂いた。

  残されたのは、空っぽの爪と、まだ胸の奥で鳴り続ける、あの真っ直ぐな音だけだった。

  追えなかった。

  いや、追わなかった。

  足が動かなかった。

  残されたのは、冷たい空気と、まだ掌と胸に残る熱だけ。

  掌がかすかに震えている。

  その震えが、恐れか、興奮か、もうわからない。

  「……何してんだろ。」

  声に出した瞬間、心臓が強く打った。その音が、自分のものだとわかった瞬間、嫌悪が走る

  「やっぱり俺は、怪物なんだ。」と。

  誰かを脅かし、怯えさせることしかできない。

  どれだけ理性を繕っても、本能は獰猛なままだ。

  それに比べてウサギの鼓動はまっすぐだった。

  何かを残そうとしていた。

  それを“聴いて”しまったのに、俺は結局、牙を向けるような真似しかできなかった。

  「……喰いたかったのか? それとも、触れたかったのか……」

  いくら問いても答えは出ない。

  ただ夜風が吹き抜けて、心の奥で軋む音が鳴る。

  この耳が拾うのは、他人の鼓動だけじゃない。

  自分の“獣の音”もまた、逃げられない呪いだ。

  僕は小さく息を吐いて、空を仰いだ。

  今日だけは近くに見えてた月が遠く、滲んで見えた。

  ──起きたくなかった。

  あの日の夜を思い出してはまた、寝れない日が続いた。

  今日も歩いていると夜の静寂に、またあの音が混ざった。

  胸の奥を叩くような、細くて真っ直ぐな鼓動。

  間違いない。

  あのウサギの心音だ。

  耳を澄ませば澄ますほど、それはまるで俺の名を呼ぶように響いて、気づけば、足が闇の奥へと進んでいた。

  「やめろ、馬鹿。」

  頭の奥で、誰かが叫ぶ。

  理性か、それとも、もう一人の俺か。

  「行けばまた、怯えさせるだけ。」

  「近づいたら、壊してしまう。」

  なんて、分かっている。

  分かってる。

  なのに、足が止まらない。

  音に導かれるたび、胸の奥が疼く。

  一体どうしよう、この想いを。

  どうしよう、胸の奥を。

  どうしようもなく疼く衝動。

  息を殺しても、押し込めても、鼓動は消えてくれない。

  暗がりの向こう、灯りに照らされた耳が動いた。

  あの小さな背中。あの夜、俺の下から逃げたウサギ。

  また逢ってしまった。

  そしてまた、心が揺れる。

  呼びかけたい。

  何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉が絡まる。

  声が滲む。

  風に紛れて、消えかける。

  それでも、ウサギの耳がぴくりと動いた。

  届いたのかどうかもわからない。

  ただ、夜の空気の中で、俺の心音と、あの鼓動が重なった。

  俺が追えば、逃げるのか。

  俺が先に動けば、壊れてしまうのか。

  鋭い爪を握りしめた。

  俺は何者だ。獣か、人か。

  答えのないまま、夜風が頬を撫でて、心のざわめきを攫っていった。

  まだあの音が聞こえる。

  夜気の中で、微かに震えるような鼓動。

  忘れられるはずがない。

  胸の奥に焼きついたあのリズムが、また俺を導いている。

  立ち止まった足が、もう動かない。

  頭の中ではまだ声が叫ぶ。

  「やめろ。近づくな。」

  「また、あの夜を繰り返すのか。」

  でも、もう止められなかった。

  この胸の奥で鳴る音を、この想いを、どうしても無かったことにできなかった。

  だから、決めた。

  もう逃げない。本能のせいにもしない。

  向き合って、言葉で伝える。

  ああ……、こんなにも残酷になれたんだ。

  相手の心を震わせたくせに、まだ近づこうとしている。

  自分の弱さも、罪も、抱えたままで。

  路地の奥、あのウサギはまた壁に向かって立っていた。

  スプレーの音が止む。その背中がわずかに振り返る。

  「……命がけだな。」

  声が出た。

  夜の冷たい空気に、音が溶けていく。

  ウサギが小首を傾げた。マスクの奥で目が細められる。

  「え……? もしかして、前にも会ったけ?」

  「え?」

  「なんか……声、聞いたことあるような……でも、顔は覚えてなくて。」

  その声に僕は思わず拍子抜けしてしまった。

  あの夜のことを、覚えていない。

  いや、覚えていても“俺”だとは気づいていないのか。

  胸の奥が、静かにざわめいた。

  安堵とも、虚しさともつかない感情が、波のように打ち寄せる。

  それでもいい。

  それでも、言葉で届いたなら。

  「……ただ、その…すごいなって思っただけだ。

  その手で、残してるんだろ。

  誰かのためじゃなく、自分のために。」

  ウサギは一瞬、目を見開いたあと、小さく笑ったように見えた。

  「ありがと。……でも、自分のためでもあるけど、仲間のためにもやってんだ。」

  その手が再び動く。

  スプレーの音が夜気を裂くたび、壁の上に新しい色が咲いていく。

  描かれていたのは、赤い彼岸花と白い星。

  赤は、燃えるように鮮烈で。

  白は、どこまでも静かに瞬いていた。

  花は血のようで、星は祈りのようだった。

  奪われた命と、まだ見ぬ希望。

  その二つが並んで、まるで彼自身の生き様を語っているように見えた。

  胸の奥で、音が鳴る。

  それは自分のものか、彼のものか、もう分からない。

  ただ、どちらの鼓動も確かにここにある。

  「……それが、君の“残したいもの”なんだな。」

  声が零れると、ウサギはスプレーを止めて、少し笑った。

  「うん。消えたくないし、消したくないんだ。どっちも、ボクの中にあるから。」

  静かだった路地に、言葉だけが澄んで響いた。

  その声を聴いた瞬間、僕の耳はまた勝手に働き、心音を拾う。強がりでも虚勢でもない。

  ほんとうに、命を削るような覚悟を刻む響きだった。

  胸の奥で、またざわめきが広がる。

  煩わしいはずの感覚が、なぜか今夜だけは違って聞こえた。

  声をかけたんだし早い所離れよう、なんて思っていても僕は無意識のうちに足を止めていた。

  ただ、彼の絵に目が離せなかった。

  赤い花弁が壁に広がり、血のように夜を染めている。

  その奥で、白い星がかすかに瞬いていた。

  死と、生。

  終わりと始まり。

  奪われることと、残したいこと。

  それらが、まるでひとつの物語のように重なっていた。

  「……綺麗だな。」

  思わず零れた言葉に、自分でも少し驚く。

  ウサギは手を止めて、肩越しに振り返った。

  「そっか、ありがと。 誰かに見てもらえるだけで、描いた意味がある気がする。」

  その声は、あの夜の恐怖を感じさせなかった。

  むしろ、穏やかで、少し照れくさそうだった。

  僕はその言葉を噛みしめながら、ゆっくりと隣に立つ。

  壁に描かれた絵をもう一度見上げた。

  なにかを奪うための力じゃなく、なにかを守るために、僕はこの耳を使えないだろうか。

  胸の奥が静かにざわめいた。

  それが痛みなのか希望なのか、まだ分からない。

  「……俺さ、音が聞こえるんだ。 心の音。君の、この絵を描いてる時の響きが……真っ直ぐで。」

  ウサギは少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。

  「へぇ、ちょっと恥ずかしいな。でも、嬉しいよ。」

  その夜、君と他愛もない話を少しだけ交わした。

  名前も聞かないまま、けれど確かに何かが繋がった。

  帰り際、ウサギは缶を片づけながら言った。

  「また描くよ。……アンタも、また見に来てくれる?」

  僕は一瞬迷って、それでも頷いた。

  「……ああ。ここに君がいるなら。」

  そうして、夜風が二疋の間をすり抜けていった。

  いつの間にか、胸の奥のざわめきは、少しだけ優しくなっていた。

  その夜も、街はいつもと同じように眠らず、ネオンの光が濡れた路地を照らしていた。

  僕は、あの路地裏へ向かっていた。

  理由なんていらなかった。

  ただ、あの言葉が胸の奥で灯になっていた。

  「また描くよ。……アンタも、また見に来てくれる?」

  約束を、破ることだけはしたくなかった。

  曲がり角を抜けた先、壁の前に小さな背中があった。

  ウサギはもうスプレーを握っていて、静かに、でも確かなリズムで描き続けていた。

  白い星。赤い彼岸花。

  絵の隣に、新しい色が重なっていく。

  「……また描いたんだな。」

  声をかけると、ウサギが振り向いた。

  マスクの奥、少し笑ったように目が細められる。

  「うん。……ここが好きなんだ。静かで、誰にも邪魔されない。お客さんはくるけどね。」

  軽く笑うとスプレーを置いて、ウサギは少し距離を詰めてきた。

  「前も言ったけど、これは自分のためでもあるけど、仲間のためでもあるんだ。消された声を、少しでも残したくてさ。」

  風にスプレーの匂いが混ざる。

  その中で僕はただ、その絵に見入っていた。

  夜空に散る星のような白、血のように鮮やかな赤。

  そこに刻まれた意味は、言葉にできないほど重く、優しかった。

  「……俺は、ただの通りすがりだ。けど……君の描く世界を、見ていたいと思った。」

  ウサギは少しだけ目を見開き、そして、穏やかに頷いた。

  「ありがとう。……また描く。ここに来てよ。」

  「……ああ。約束だ。」

  その一言に、ウサギは小さく笑った。

  夜風が二疋の間をすり抜け、スプレーの霧が、光に滲んで消えていった。

  心の奥のざわめきは、もう痛みじゃなかった。

  代わりに、あたたかい鼓動が静かに響いていた。

  今日は夜風が少し冷たくなってきて、いつの間にか季節は、夏の名残を手放していた。

  「……もう、秋だな。」

  いつもの場所に向かいながら何気なくつぶやくと、壁に向かっていたウサギが、ちらりと振り返った。マスクの奥で目だけが笑っている。

  「そうだね。夜はちょっと寒いね。」

  僕はポケットから自販機で買った缶コーヒーを二つ取り出し、片方をウサギに差し出す。

  「少し肌寒くなってきたから、あげるよ。」

  ウサギは一瞬きょとんとして、次の瞬間、ふっと肩を緩めた。

  「……ありがとう。こういうの、久しぶりかも。」

  小さな手で缶を受け取り、指先で温もりを確かめるように包み込む。

  金属の薄い壁を通して、微かな温かさが伝わるのを僕も感じた。

  二疋並んで、静かな夜の路地でコーヒーを飲む。

  初めて彼のマスクの下を見た。

  当たり前だけどウサギだった。

  スプレーの匂いとコーヒーの苦い香りが混ざり合って、どこか懐かしいような、不思議な空気が流れた。

  しばらくの沈黙のあと、ウサギがぽつりと口を開く。

  「……ねえ。いつも来てくれるけど、アンタの名前、まだ聞いてなかった。」

  僕は少し間を置いて、空を見上げてから、短く答えた。

  「ソラスだ。」

  「ソラス……。」

  ウサギは口の中で確かめるように呟くと、柔らかく笑った。

  「いい名前だね。空の音みたい。」

  そして、自分の胸を指さして言う。

  「ボクは、オスカル。覚えておいて。……って言っても、こんな路地裏でしか会わないけどね。」

  その言葉に、思わず小さく笑ってしまう。

  「そうだな。でも、俺はここが好きだ。」

  夜風が二人の間を抜けていく。

  缶の中の温もりが、ゆっくりと冷めていくのを感じながら、僕はオスカルの横顔を見つめた。

  あの時、覆い被さるほどに衝動に呑まれた相手が、今はこうして隣にいて、静かに息をしている。

  胸の奥が、少しだけ熱くなる。

  それが何なのか、まだ言葉にはできなかった。

  ただ、夜の静けさの中で、二つの心音が穏やかに重なっていた。

  こうやって静かで穏やかな夜が続けば良いと強く思った。

  

  夜風は今日も冷たくもう直ぐ冬なんだと思ってきた。

  あの路地の壁には、また新しい絵が増えていた。

  赤い線が夜の闇を裂くように走り、白いスプレーが星の形を描いている。

  その中心に立つオスカルの耳が、わずかに揺れた。

  「今日は随分、派手に描いたな。」

  そう言うと、オスカルはマスク越しに笑った。

  「目立たないと意味ないからね。……どうせすぐ消されるんだし。」

  缶の音が止み、沈黙が落ちる。

  街の喧騒は遠く、ここだけが時間から外れたように静かだった。

  「なあ、オスカル。」

  「ん?」

  「お前は、怖くないのか。こうして夜中に一疋で描いて。」

  オスカルは少しだけ目を細め、空を見上げた。街灯の光を受けた白い毛が、金色に染まって揺れる。

  「怖いさ。」

  「……ねぇ、ボクさ。ソラスに会う前に、一度襲われかけたんだ」

  スプレー缶を持つ手を止めた僕の耳が、かすかに動いた。

  「そうか」

  そう言うしかなかった。

  けれど胸の奥で、何かが鈍く軋む。君は知らない。

  それが“僕の牙の記憶”だなんて。

  短くそう言って、少し間を置いたあと、ふっと笑った。

  「……でもさ、どうせ喰われるなら、アンタに喰われたいな。」

  缶コーヒーを飲んでいた手が止まった。

  中の液体が小さく波打つ音だけが耳に残る。

  コーヒーのように、その冗談は苦く感じた。

  「冗談だよ。」

  オスカルがそう言って笑った。

  でも、その声の奥にある微かな震えを、僕の耳は聞き逃せなかった。

  「……そんな冗談、簡単に言うなよ。」

  気づけば、声が掠れていた。

  オスカルは肩をすくめて、スプレー缶をまた握り直した。

  「大丈夫。僕、まだ描きたいものがあるから。」

  「……そうか。」

  「うん。だからアンタ、消さないでね。」

  オスカルは軽く笑って、壁に新しい線を走らせた。

  赤と白が夜に滲み、僕の心臓の音と溶けていく。

  その背中を見ながら、僕は思った。

  どうしてこんなにも、怖いほど愛しいんだろうと。

  その日、いつもの路地にオスカルの姿はなかった。

  「早く来すぎたかな。」

  代わりに胸の奥がざわついて、耳が勝手に音を拾う。

  微かな鼓動。震えるような心音。

  それは、どこかで聞いた音だった。

  僕は足を止め、夕陽に染まる街を見渡した。

  橙色の光が建物の隙間を縫って、長い影を伸ばしている。

  その奥から、もうひとつの心音、荒く、獰猛な響きが重なる。1疋のヒョウだ。

  狩る者の音。

  次の瞬間、体は勝手に動いていた。

  音を辿り、路地を抜け、夕暮れの広場へ。

  そこにいた。

  オスカルが、壁際に追い詰められている。

  リュックを掴まれ、鼻が小さく震えていた。

  口では強がっても、心は正直だ。

  怯え、圧し殺すように早鐘を打っている。

  対するヒョウの音は、獲物を前にした高鳴り。

  喜びと支配の鼓動。

  胸の奥が熱くなる。

  喉の奥で唸りが漏れた。

  「……やめろ。」

  低く、抑えた声だった。だがその瞬間、ヒョウの視線がこちらに向く。そして、彼は嗤った。

  「なんだ?オオカミ。お前の獲物か?」

  ……獲物。

  その言葉が、胸を焼くように響いた。

  違う。

  そうじゃない。

  だけど、なぜか心の奥でざらりとした感覚が疼く。

  なんで。

  なぜ、こんなにも焦りを感じる?

  奪われるような、掠め取られるような、

  どうしようもない獣の疼き。

  「……離れろよ。」

  足が前に出る。

  意図してないのに、相手の体格を見て勝てるかどうかを測ってしまう。

  肉食獣の性だ。

  ヒョウが嘲るように肩を揺らした。

  睨み合った。

  次の瞬間、体が勝手に動いた。

  気づけば、ヒョウを地に押さえつけていた。

  爪先が喉を掠め、風が止まる。

  相手の鼓動が恐怖に濁る。

  僕は、またやってしまった。

  あの日と同じように、理性よりも先に“獣”が動いた。

  「……もう、二度と彼に近づくな。」

  低く響く声は、自分のものとは思えなかった。

  ヒョウは呻きながら逃げていく。

  残ったのは、夕陽の名残と、静かな街の空気。

  振り返ると、オスカルが立ち尽くしていた。

  怯えの混ざった目が、真っ直ぐこちらを見ている。

  その真っ黒な目には、どう映っている?

  恐怖か、憐れみか、

  それとも……僕という“怪物”か。

  胸の奥が軋む。

  こんな姿、君に見せるべきじゃなかった。

  けれど、もう遅い。遅かった。

  オスカルの鼓動が、まだ震えている。

  僕の心も同じようにざわめいている。

  それでも、確かに感じていた。

  誰かを守るために動いたこの手が、本能ではなく、想いに突き動かされたのだと。

  そんな気がした。

  その白い毛並みが夕暮れに染まり淡く光るたびに、僕の心は傷みだす。

  「純白の血肉は美味いらしい。」

  そんな噂が、この世界にはある。

  だからこそ怖い。

  さっきの奴みたいに僕の中の“獣”が、もしもそれを求めてしまったら。

  それでも守りたかった。

  この手を汚してでも、彼の震えを止めたかった。

  でも同時に思う。

  「こんな自分が、彼のそばにいていいのか」と。

  夕陽が沈み、街が闇に飲み込まれていく。

  影の中で、二つの音だけが静かに煩く響いていた。

  「…ごめん。」

  その空気感に耐えられなくて僕はそう言って逃げた。

  足音がアスファルトに溶けていく。

  「待って…!」

  追いかけるように、声がした気がした。

  でも振り返らなかった。

  振り返ったら、またあの眼を見てしまう。

  あの、真っ直ぐで、何も知らない眼を。

  僕は僕が嫌いだ。

  動揺や緊張しかわからないこの耳のせいにして、勝手に他人の心を決めつけて、傷付きたくなくて、勝手に離れる。

  そんな自分がいちばん嫌いだ。

  だから逃げた。

  あの白い背中から、あの震える音から。

  全部全部、自分を守るために。

  けれど、目を閉じれば月灯に照らされた君の幻想を見て、街に出れば、勝手に君の音を探してしまう。

  そんな自分が、嫌でたまらない。

  僕はきっと、君を守りたいんじゃない。

  喰らいたくないと願うことで、

  「獣のままじゃない」

  と証明したいだけなんだ。

  結局、自分のためだ。

  そんな偽善まがいの想いを、君の優しさで洗われるたび、

  胸の奥がざらついて仕方がない。

  夜風が、彼の匂いを連れてくる気がした。

  反射的に顔を上げても、そこには誰もいない。

  代わりに、塀の向こうに描かれた新しい落書きが目に入る。

  黒いシルエットに白い翼。

  息が詰まった。

  胸の奥が、何かで締め付けられる。

  締め付けられる度に、

  「結局は肉食と草食、捕食者と被食者。この距離感で良いんだ。」

  と、僕自身に言い聞かせた。

  でも会いたい。

  君の名前を呼びたい。

  いつまでも笑い合いたい。

  失くせやしない記憶が生傷へとじんわりと呪いのように染み込んでこれまで以上に心を締め付ける。

  あの日から数日経った夜の街を、何度も歩いた。

  あの日と同じ路地を、何度も抜けた。

  けれど、どこにもいない。

  耳を澄ませても、あの心音はもう聞こえない。

  壁一面に描かれた絵は、まだそこにあった。

  けれど、新しい色はもう足されていない。

  乾いた塗料の匂いだけが、時の止まった証のように残っている。

  ただ風だけが、缶の転がる音を連れてくる。

  それがまるで彼の声のようで、思わず

  「オスカル」と呼びかけてしまう。

  返事はない。

  当たり前だ。

  赦しを請うために探している。

  それだけのはずなのに、胸が痛くて息が詰まる。

  「……『ごめん』って、ただ言いたいだけだ。」

  そう呟いた声が、夜に吸い込まれていく。

  その瞬間、まるで街が息を止めたように静まり返った。

  耳を澄ませても、何も聞こえない。

  音がない夜が、やけに広く感じた。

  ……この街じゃ、行方不明なんて当たり前だ。

  誰かが消えても、翌日には別の誰かが声を上げる。

  それが日常の一部になっている。

  そう、思っていたはずだった。

  でも、いざ“特別な奴”がいなくなると、

  嫌な予感がしても否定したくて、必死に探していた。

  音の残響を頼りに、記憶の欠片を掬うように、夜を彷徨った。

  それでも歩いた。

  まだ何処かにいると信じて。

  彼の描いた世界の残り香を探した。

  壊れそうなこの心を止めてほしくて。

  静かな夜に君の名前を呼んでる。

  霧雨が音も匂いも消してしまう。

  ソラスの夜が終わり、オスカルを月灯が照らす。

  ──「自分の好きなように生きていけばいい」

  そんな言葉、何度も聞いた。

  でも、それを信じるたびに、何かを失ってきた気がする。

  思い出したくもないことが、どうしても消えない。

  居なくなった、いや喰われた仲間たちのために、

  僕は描くしかなかった。

  絵を描けば、いつか転生した仲間が見つけてくれるかもしれない。

  そう信じて、今日もスプレーを握る。

  誰に頼まれたわけでもない。

  ただ、ここに生きていた証を残したかった。

  夜の壁に色をぶつけて、痛みを塗りつぶして、ただ生きてる証を残すしかなかった。

  ある日、絵を描いているときに襲われた。

  ほんの一瞬、楽になれると思った。

  「仲間のいる場所に、やっと行けるんだと。」

  ……でも、身体は違った。

  “まだ生きてたい”って、勝手に動いて逃げた。

  その夜、震える手でスプレーを握りながら、初めて泣いた。

  そんなある日、不思議な奴に出会った。

  オオカミだ。

  自分の絵を“綺麗だ”なんて言うから、笑ってしまった。

  皮肉だよね。

  肉食に褒められるなんて思ってなかった。

  でも、嘘じゃなかった。

  その真っ直ぐな言葉に、少し救われた気がした。

  それから、夜ごと路地で会うようになった。

  話をした。

  笑った。

  ……肉食なんて嫌いだったのに、

  ソラスだけは、どうしても嫌いになれなかった。

  でも、その夜。

  いつもの路地へ向かう途中で、また襲われた。

  怖くて、逃げられなくて、

  もう終わりだと思ったとき、ソラスが来た。

  助けてくれた。その姿は、いつもと違って見えた。

  鋭く、荒く、まるで別の生き物みたいで。

  助けてもらったのに、怖かった。

  身体が勝手に震えて、喉の奥で

  「ありがとう」が詰まったまま出てこなかった。

  本能が邪魔をする。

  心は違うのに、身体が怖がってしまう。

  その夜を境に、ソラスは姿を消した。

  ……お礼が言いたくて、僕はあの路地で毎日立ってた。

  壁の前で、あの夜の続きを待っていた。

  そして足音がした。

  懐かしい音。

  胸の奥が跳ねた。

  ソラスが、やっと来たんだと思って、振り向いた。

  でも、そこに立っていたのは───

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