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黒衣の誓剣 帰還

  [chapter:プロローグ]

  王国西端、断崖と森に挟まれた辺境の地。

  その地にあって、今や空気はよどみ、土は焦げ、風すら息をひそめていた。

  かつて風が歌い、鳥が囀った平穏の地には、いま、鈍く鉄錆びた臭気と、焼け焦げた煙の残滓が漂うばかり。

  「……酷いな……ここは、村だったのか」

  低く呟いたのは、年若い騎士のひとり。黒い鎧を着込んだ青年の顔には、焼けた地に足を踏み入れた者が初めて知る異常への戦慄が浮かんでいた。

  「村ではあった。名は……タルグ・マール。交易路に近い、小規模な集落だったと記憶している」

  応じたのは、先頭を歩く猪獣人――フォルネイ・ボアールである。

  王国騎士団の中隊長。齢四十を過ぎた獣人の男。茶褐色の毛に覆われたその体は、低く、分厚く、そして一分の揺らぎもなく鎧を纏っていた。頭部はまさしく猪の面構え――獰猛な野獣の貌であるにもかかわらず、その瞳には深い知性と厳格な威圧が宿っていた。

  腰には王国制式の黒い鞘が収まり、佩剣として左の腰骨に沿わせている。

  黒い王国鎧に外套を纏い、その存在はこの男が今なお剣を執る者であることを明確に物語っていた。

  「我らが通過した三つの村……いずれも廃されていたが、ここは……焼かれた跡が新しい。今朝か……遅くとも昨夜の所業と見てよい」

  「山賊の仕業かと……?」

  「否。焚き火の痕がない。家屋は一点からではなく、同時多発的に焼かれている。人の手による放火にしては、あまりに効率的すぎる。まるで――」

  フォルネイは言葉を切った。

  猪の鼻が、わずかに空気を嗅ぎとってひくついた。

  「――魔物が、通ったかのようだな」

  その言に、背後の三名の騎士たちは息を呑む。

  「まさか、スタンピード……?」

  「可能性はある。今朝から感じていた不穏な空気。死骸の残骸。流れを乱された獣たちの足跡。それらがこの村で一つに繋がった」

  フォルネイの視線は、焼けた地の奥へと注がれていた。

  黒焦げになった樹木。灰となった小屋の壁。溶けた鉄鍋。無残に裂けたまま転がる防柵の一部。そしてその隣には、炭のように黒くなった獣の骸。

  「あれは……魔物……?」

  「左様。しかし、並みの魔物にあらず。魔物であった“もの”と言えよう」

  フォルネイは一歩、屍に近づいた。

  黒焦げた肉。異常なほど膨れ上がった四肢。裂けた口の中に、複数列の歯列が光る。

  焼け落ちた村の中央に横たわるその残骸は、常識から逸脱した奇怪さを放っていた。

  「……変異種だな。魔力暴走の兆候も見られる。こうなる前に何らかの衝撃を受けたと見えるが……いずれにせよ、これは災厄の序章だ」

  フォルネイの声音に迷いはない。

  猪のような鼻先をわずかに上げ、鋭く空気を嗅ぐと、尻尾が一度だけぴたりと静止した。

  彼がこの反応を見せたとき――それは確信を得たときである。

  「スタンピードの前兆は既に始まっている。王都への報告は一刻の猶予も許されぬ」

  「しかし、ここから王都までは五日。途中で魔物に襲われれば……」

  「我らがこの報を携えぬ限り、王国は備えを持てぬまま災厄を迎えることになる」

  フォルネイは振り返り、三人の騎士を順に見つめた。

  「それは、我らの使命の失敗だ。ゆえに、私の判断として即時帰還を命ずる。全員、装備を整え、引き返す準備に入れ」

  「……了解!」

  部下の騎士たちは互いに頷き、緊張の面持ちで散開した。

  しかし次の瞬間――。

  「……ッ!」

  森の端から、突如として唸りを上げる矢が放たれた。

  「伏せろ!」

  フォルネイの叫びよりも速く、一本の矢が木の幹に突き刺さった。

  そして森の陰から現れたのは、野盗――否、山賊どもだ。粗末な革鎧と汚れた布を纏い、刃物と斧を手に押し寄せてくる。

  金属鎧を着ている者も多数いる。

  それらの目の奥に潜むのは、怨嗟と飢え。

  「……く……包囲されていたのか!?」

  「散開して後退しろ! 包囲はまだ浅い! 我が囮となる!」

  フォルネイは叫び、佩剣の柄に手をかけた。

  抜かれた刃が煌めき、音もなく空気を裂いた。

  「中隊長、しかし――!」

  「命令だ! 騎士の務めを違えるな!」

  黒い鎧が閃く。

  獣人の騎士がその体を翻し、迫る山賊たちの群れへ、ただ一人で突き進む。

  黒い剣が一閃。叫びが上がる。毛皮に血が飛び、砂埃が巻き上がった。

  しかし――。

  数の差は、あまりに大きかった。

  フォルネイが奮戦し、部下たちの背を守りながら山賊たちを引きつけていくうちに、彼の周囲には、じわじわと敵が集まり始める。

  「逃げろ!必ず、報せを届けろ!」

  獣人の咆哮。

  だが――その声が焼けた森に響いたのは、それが最後だった。

  騎士の剣が地に落ち、黒い外套が引き裂かれる。

  フォルネイ・ボアールは、斃れた。

  そして、その姿を最後に見た部下たちは――王都へと駆けた。

  焦げた空気を切り裂き、三つの影が荒れ果てた草原を駆けた。

  いずれも、王国制式の黒い鎧を纏った騎士たち。

  剣を振るい、盾を構えたその腕はすでに震え、甲冑の隙間から滲み出す汗が、走るたびに音を立てた。

  「は、ぁ……中隊長が……ッ……!」

  先頭を走る若者の目に、熱いものが滲む。

  背後に、囮となったはずの、あの獣人騎士の姿はもうない。

  「進め! フォルネイ中隊長の命だ! ここで立ち止まれば、誓いを……違えることになる!」

  後ろから、別の騎士が叫んだ。

  喉は裂け、声は掠れていたが、それでも振り返らぬよう仲間を鼓舞する。

  「王都までは……まだ四日! 魔物の群れをかわし、必ず、必ず、報せを届けるのだ!」

  それが彼らの、ただ一つの救いであり、使命だった。

  幾度も魔物の影をやり過ごし、数度の小競り合いで傷つきながら――

  それでも、彼らは折れなかった。

  ついに、王都の城門が見えた時、彼らの体は満身創痍だった。

  泥と血に塗れた黒い鎧。裂けた外套。

  呼吸は引き裂かれ、足取りは千鳥足。だが、誰一人、立ち止まろうとはしなかった。

  「開門、開門だ! 緊急報告――魔物異変、発生中!」

  門兵たちが慌てて門を開き、彼らを迎え入れた。

  その後ろから、王都中央騎士団の使者が駆け寄る。

  「報告を、即座に!」

  「王国西辺境――タルグ・マール村付近にて、魔物異変を確認! スタンピード発生の恐れあり!」

  報告を受けた騎士団本部は、即座に動いた。

  速やかに討伐隊が編成され、周辺地域の避難誘導が開始された。

  王国軍も防衛線を再構築し、備えを固める。

  そして、三日後――

  スタンピードは、現実となった。

  だが王国軍は、十分に備えていた。

  動員された騎士たちは果敢に抗戦し、何とか最悪の被害を免れることに成功する。

  王国壊滅――その悪夢は、回避されたのである。

  そのころ――

  城内の一室。

  厚手の外套を羽織り、剣を腰に佩いた男が、無言で報告を聞き終えた。

  鋭く光るのは、爬虫類のような金色の瞳。

  分厚い鱗に覆われた両手は、腰元で固く拳を握りしめる。

  ガルビル・カイマルトン。

  王国騎士団の中隊長。鰐獣人の男。

  その太く逞しい体躯と、ただ立っているだけで放たれる圧倒的な気配に、周囲の者たちは無言で道を譲った。

  「……フォルネイが、いねぇ?」

  低く唸るような声。

  報告を終えた騎士たちは、苦悶に満ちた顔で頷くしかなかった。

  「魔物異変の発生を知らせるため……中隊長は、囮となって……」

  「生死は……」

  「……わかりません。ですが、あの状況では……」

  言葉を濁した若者の声に、ガルビルは牙を噛み締めた。

  歯が軋み、鱗の尾が静かに床を打つ。

  「……オレが、行く。現場に」

  「ですが……! すでに何日も経過しており……敵の残党がいる可能性も……」

  「構わねぇ! 生きていようが死んでいようがオレがあいつを迎えに行く!」

  怒号のような叫び。

  騎士たちは押し黙ったが、その目には、ガルビルへの尊敬と共鳴の色が宿った。

  数刻後。

  ガルビルは精鋭の騎士たち数名を連れ、タルグ・マール村跡地へ向かった。

  だが――

  そこに、フォルネイの姿はなかった。

  焼け焦げた村。

  朽ちた防柵。

  打ち捨てられた焚き火跡。

  そして、風に運ばれてくる、血と死の臭気だけがそこにあった。

  「……っ……!」

  ガルビルは拳を握り締めた。

  黒い外套が、風に煽られる。

  「フォルネイ……オレは……」

  呟く声が、かき消される。

  誰もいない焼け跡で、ガルビルはただ、歯を食いしばるしかなかった。

  隣に立つ若い騎士が、静かに頭を垂れる。

  「……フォルネイ中隊長は……きっと、我らのために――」

  「……わかってる……わかってんだよ……ッ」

  牙が軋む。

  尾が地を打ち、鱗が鳴った。

  怒りとも、悔しさともつかぬ衝動が、彼の体を震わせた。

  だが、いまここに、フォルネイの姿はない。

  その事実だけが、ただ厳然と、彼らの前に突きつけられていた。

  「……オレは、諦めねぇ。必ず、フォルネイを、探し出す」

  かすれた声で、そう誓った。

  闇が、辺境の村を包み込んでいく。

  誰もいない焼け跡の中、黒い鎧の騎士たちは、ただ静かに立ち尽くしていた。

  [newpage]

  [chapter:第1章 傷つけられたもの]

  スタンピードの猛威を、王国軍が辛うじて防ぎきってから――すでに二十六日が経過していた。

  王都に静けさは戻ったものの、辺境地帯では未だ魔物の余波が残り、混乱が続いている。

  その混乱に紛れ、数多の山賊どもが姿をくらました。

  そして――あの日、タルグ・マールの地で姿を消したフォルネイ・ボアールもまた、いまだ行方知れずのままだった。

  焦燥を胸に、ガルビル・カイマルトンは牙を噛み締めた。

  鰐獣人の太い指が、黒い外套の下、佩いた剣の柄を無意識に握りしめる。

  「……いいか。気を抜くなよ」

  声を潜め、背後の部下たちに命じる。

  選抜された数名の騎士たちは、皆、王国制式の黒い鎧を纏い、外套を羽織っていた。

  腰には佩剣。顔には緊張の色。

  場所は、王都西方――廃村近くに残る、朽ちた屋敷跡。

  かつては貴族の館であったらしいが、いまや朽ち果て、壁は崩れ、蔦に飲み込まれている。

  だが、密告があった。

  「山賊どもがこの屋敷を根城にしているらしい」

  「最近、急に姿を消した……何かを隠すためじゃないかと」

  その情報に賭けるしか、もう方法はなかった。

  屋敷の中は、静寂に満ちていた。

  だが、空気は異様に重い。

  鼻を刺す臭気――血、糞尿、腐敗臭、そして、獣の汗と鉄の匂いが混ざった、耐えがたい空気。

  「……抜け殻、か」

  ガルビルが低く呟いた。

  廊下には埃が降り積もり、誰も歩いた形跡がない。

  家具は打ち壊され、床に散乱している。

  剣を抜き、警戒を解かぬまま、さらに奥へ進む。

  やがて、朽ちた床板の隅に、鉄製の格子扉が見えた。

  開け放たれた扉の先――冷たく、暗い地下へと続く石段。

  「……地下か」

  ガルビルは鼻先をぴくりと動かした。

  階下から漂ってくる臭いは、上階よりさらに濃い。

  生暖かい腐臭、土と血と汗の混じった、底なしの悪臭。

  「下りるぞ。剣を構えたまま、油断するな」

  「了解!」

  部下たちは無言で頷き、剣を構えた。

  石造りの階段を一歩、また一歩と下りるたび、空気はさらに濃密になっていく。

  汗が額に滲む。呼吸が重くなる。

  だが、誰も立ち止まろうとはしなかった。

  そして――。

  地下の広間に足を踏み入れた瞬間。

  彼らは、言葉を失った。

  「……っ……」

  壁際。

  鉄枷に繋がれたまま、座り込んだ一つの影。

  乱れた茶色の毛並み。

  泥と体液に塗れ、ほとんど原型を留めていない衣服。

  そして――両腕を頭上に拘束され、力なく項垂れたその体。

  「……まさか……」

  ガルビルは剣を下げ、ゆっくりと近づいた。

  己の足音さえ、地獄のような静寂に飲まれそうになる。

  「……おい、大丈夫か……」

  掠れた声で呼びかけた。

  すると、その影が、かすかに動いた。

  ゆっくりと、恐る恐る、顔を上げる。

  その顔――

  「フォルネイ……!」

  ガルビルは叫んだ。

  間違いない。

  この惨憺たる姿でも、見間違えるはずがない。

  フォルネイ・ボアール。

  王国騎士、中隊長。

  かつて己と肩を並べ、幾度も剣を交えた、誇り高き騎士。

  だが――

  その瞳に宿るのは、かつての知性でも、誇りでもなかった。

  フォルネイの瞳は、恐怖に染まっていた。

  そして次の瞬間。

  彼は、ガルビルたちの黒い鎧を見た途端――

  「……あ、あ゛、あっ……ぁあああぁぁ……!」

  押し殺した、獣のような叫びを上げた。

  体を震わせ、枷を引き攣らせる。

  尻尾が縮こまり、全身の毛が逆立つ。

  威嚇するように牙を剥き、必死で体を引こうとする。

  だが、力など残っているはずもなく、鎖が軋む音と共に、フォルネイの体は壁に引き倒された。

  「フォルネイ! オレだ! ガルビルだ!」

  必死に呼びかける。

  だが、フォルネイは聞き取れない。

  脳裏に焼き付いた拷問の記憶が、ただひたすらに、彼の意識を侵していた。

  叫び、喘ぎ、震える。

  「……ぁ……」

  そして、力尽きるように――気絶した。

  「……くそっ……!」

  ガルビルは駆け寄り、膝をついた。

  部下たちは皆、茫然と立ち尽くしていた。

  彼らにとって、フォルネイは伝説だった。

  誇り高く、強く、優れた騎士。その尊き者が、いま、無残な姿を晒している。

  ガルビルは、震える手で錆びついた枷に手をかける。

  剣を差し込んで力を入れ、歯を食いしばってねじ切った。

  近づいて見たフォルネイの姿は――さらに凄まじかった。

  右手。

  左足。

  異様に腫れ上がり、変色している。

  鎖に擦られた手首、足首には、深い裂傷。

  体中に鞭打ちの痕と、焼きごての跡。

  毛並みは汚れと血で固まり、顔は腫れ、片目はほとんど開かない。

  「……なんて……」

  無意識に呻きが漏れた。

  フォルネイの右手と左足は――触れるだけで、恐らく激痛が走るだろう。

  不用意に動かせば、さらなる損傷を与えかねない。

  そっと、そっと。

  ガルビルは、自らの外套を脱ぎ、フォルネイの体を優しく包んだ。

  その体を、両腕に抱き上げる。

  「……フォルネイ……オレが、連れて帰る」

  小さく、誰にも聞こえぬ声で、そう誓った。

  フォルネイの体は、軽かった。

  かつて剛力を誇ったあの体が、いまは、骸のように痩せ細っていた。

  その胸から、微かに呻きが漏れる。

  「……ぁ……ぅ……」

  無意識の痛み。

  意識の彼方で、なお苦しんでいる。

  「外へ出るぞ!馬車を用意しろ!」

  ガルビルが怒鳴ると、部下たちは慌てて動き出した。

  誰も、フォルネイの姿から目を逸らそうとはしなかった。

  その無惨な現実を、ただ、まっすぐに見つめていた。

  そして、彼らは闇の地下を後にした。

  朽ちた屋敷の廃墟を抜け出ると、夜気がわずかに肌を撫でた。

  しかし、その冷たさは、地下に満ちていたあの腐臭を洗い流すには、あまりに頼りなかった。

  フォルネイを両腕に抱き上げたガルビルは、慎重に足を運んだ。

  無理に揺らせば、この脆く傷ついた体をさらに苛むことになる。

  黒い外套にくるまれたフォルネイの体は、何度も微かに震え、呻きが漏れた。

  「……ぅ……ぅ、あ゛……」

  痛みに喘ぐ声。

  意識の彼方から絞り出されるかすれ声。

  牙を食いしばりながら、ガルビルは胸の奥に燃え上がる怒りを押し殺した。

  「……もう、いい……もう、耐えなくていい……」

  誰にも聞かせぬよう、低く呟く。

  だが、フォルネイの苦悶は止まらない。

  荒れた呼吸のたびに、薄汚れた毛並みが小さく震える。

  屋敷の外で待機していた部下たちが、こちらへ駆け寄ってきた。

  その表情は、衝撃と、憐憫と、怒りに満ちている。

  一人が、拳を握りしめたまま、唇を噛み切らんばかりに震えていた。

  もう一人は、ただ真っ直ぐに、フォルネイの姿を見つめていた。

  だが、誰一人、声を上げようとはしなかった。

  彼らは皆、理解していた。

  この光景を、決して軽々しく言葉にしてはならないと。

  「馬車は、用意できています……!」

  馬を引く騎士が、すぐ近くに止めた馬車を指差す。

  幌付きの簡素な輸送用馬車――だが、今はこれが最も安全だ。

  「よし、乗せるぞ。……フォルネイ、ちょっと揺れる。我慢しろよ」

  ガルビルはそうつぶやくと、馬車の荷台へと歩み寄った。

  段差を乗り越えるとき、フォルネイの体がわずかに揺れた。

  「……ぁ……う、ぁあ……」

  かすかな呻き。

  フォルネイの顔が、苦痛に歪んだ。

  ボロボロに腫れ上がった顔面から、うっすらと涙がにじみ、土と血に汚れた頬を伝った。

  ガルビルの胸に、鋭い痛みが走る。

  荷台の中央に、そっと、そっとフォルネイを横たえる。

  その手際は、まるで割れ物を扱うかのように繊細だった。

  「……っ……」

  そのまましばらく、ガルビルは目をきつく閉じた。

  怒りが、悔しさが、無力感が、喉元まで込み上げてくる。

  「……フォルネイ……」

  あの誇り高かった男が、今はただ、呻き、震えるばかり。

  許さない。

  この傷を、痛みを、絶望を――与えた者たちを、決して。

  牙を軋ませながら、ガルビルは立ち上がった。

  「出発だ。王都へ最速で戻る。途中、何があっても止まるな」

  「了解!」

  騎士たちが馬車に飛び乗り、手綱を握った。

  荷台の中では、ガルビルが身をかがめ、フォルネイの体を守るように覆っている。

  蹄の音が鳴った。

  乾いた草原を蹴り裂き、馬車は夜の闇を疾走する。

  馬車は激しく揺れた。

  穴だらけの荒れ道を進むたび、振動が車輪から荷台へと直撃する。

  そのたびに、フォルネイの体が微かに震え、呻き声を漏らした。

  「……ぅ……ぁ、ぁ……」

  ガルビルは、懸命にフォルネイの体を支えた。

  片腕で頭を庇い、もう片方で揺れを抑える。

  その腕の中、フォルネイは無意識のまま、荒い息を吐き続ける。

  泥に汚れた顔。

  傷だらけの両手。

  腐敗臭と鉄臭が染み付いた毛並み。

  これが、あのフォルネイなのか。

  誰よりも誇り高く、誰よりも強かった、あの男が――。

  ガルビルの胸が、押し潰されそうだった。

  「……すまねぇ……すまねぇ、フォルネイ……」

  かすれた声で呟く。

  誰に許しを乞うでもなく。

  ただ、自らの無力さに、呪うように。

  星のない夜空の下、馬車は疾走した。

  王都の灯りは、まだ遥か遠い。

  だが、ガルビルの腕の中には、確かに命があった。

  傷つき、壊れかけ、絶望に染まりながらも――それでも、息づく命が。

  彼は、決して離さないと誓った。

  この命を。

  この誇りを。

  必ず、取り戻してみせると。

  [newpage]

  [chapter:第2章 騎士の帰還]

  城門が闇の中に現れた頃には、既に夜半を過ぎていた。

  王都の明かりは遠く、冷えた空気が馬車の車輪の軋みを無慈悲に響かせている。

  馬車が止まると、ガルビル・カイマルトンは無言で荷台を降り、外套に包んだフォルネイの体をそっと抱き上げた。

  その体はあまりにも軽く、そして……なお微かに震え、呻きを漏らしていた。

  「……ぅ……あ、ぁ……」

  その掠れた呻きに、ガルビルの胸が締め上げられる。

  「……医務棟へ!」

  鋭い命令。

  門番たちは即座に反応し、城内への道を開いた。

  王城医務棟――。

  昼間の喧騒は跡形もなく、ただ冷たく清潔な静けさだけが支配していた。

  ガルビルは、一歩一歩、確かめるように進んだ。

  抱くフォルネイの体を、決して無理に揺らさぬように。

  この脆く壊れかけた命を、何よりも大切に、守るように。

  「こちらへ」

  扉の奥から現れたのは、医務棟主任医師ディアルク・セレン。

  灰色の短髪と、淡い緑の瞳を持つ、冷静沈着な人族の男だった。

  一瞥するなり、ディアルクは表情を変えず、すぐに案内した。

  「一番奥の、陽の差しにくい部屋を用意してあります」

  ガルビルは小さく頷き、フォルネイを連れて治療室へ急いだ。

  用意されたのは、無駄のない清潔な白いベッド。

  四方には、緊急治療に備えた器具と薬品が並んでいた。

  そっと、そっと、フォルネイを寝かせる。

  ガルビルの腕から離れたその体は、あまりにも無防備で、痛々しかった。

  ディアルクが、静かに言った。

  「まずは、全身状態を確認します。衣服を取り除きますので、少し離れてください」

  「……ああ」

  唸るように答えたガルビルは、壁際へ後退した。

  しかし、目だけは、決してフォルネイから逸らさなかった。

  ディアルクと補助の医師たちが、慎重に外套とボロボロの騎士服を外していく。

  乾ききった血と泥にまみれ、衣服は皮膚に張り付き、剥がすたびに、かすれた呻きが漏れた。

  「……ぁ……う、ぁあ……」

  フォルネイは意識のないまま、小さく痙攣し、痛みに耐えていた。

  その毛並みは泥と汗にまみれて固まり、皮膚の随所に裂傷と火傷の痕が刻まれている。

  右手と左足――

  異様な腫れ、変色、骨格の歪み。

  見ただけで、これらの損壊が取り返しのつかないものであると直感できた。

  ディアルクの表情は、変わらない。

  だが、彼の動きはより慎重になった。

  騎士服が完全に取り除かれた。

  そこに晒されたのは――

  傷にまみれた、裸のフォルネイの体だった。

  ガルビルは、それを凝視した。

  拳を固く握り締め、牙を食いしばり、ただ見つめるしかなかった。

  汚れと傷に塗れた体。

  黒ずんだ痣。

  無数に刻まれた切り傷と火傷の痕。

  身体の要所には、鉄具で押し潰されたような歪みすら見える。

  ズボンを剥がされたとき、下半身の汚れと臭気はさらに強くなった。

  誰もが、そこから目を逸らさなかった。

  この苦しみの証を、軽々しく隠すことなど、誰にもできなかった。

  「酷いな……」

  補助の医師の一人が、思わず掠れた声で漏らした。

  ディアルクはただ、静かに頷き、作業を続ける。

  「全身、清拭に入る。破傷風予防。点滴開始。

  右手と左足は、今は無理に動かさない。固定準備」

  次々に冷静な指示が飛ぶ。

  ガルビルは、その声を耳にしながら、拳を握ったまま立ち尽くしていた。

  布に薬液を含ませ、泥と血と体液を拭き取っていく。

  生ぬるい湯気が部屋に立ち上り、消毒薬の匂いが満ちる。

  拭き取るたび、フォルネイの体はかすかに震え、苦しげな呻きが漏れた。

  「……っ、ぅ……」

  焼けた痕、裂かれた皮膚、擦り剥けた関節。

  耳の裏にすら、乾いた血と泥が固まっている。

  すべてを目撃しながら、ガルビルは立っていた。

  目を逸らさなかった。

  逸らせなかった。

  これが、フォルネイが受けた現実なのだ。

  苦しみも、痛みも、屈辱も――

  すべて、この体に刻み込まれている。

  ガルビルは、内心で叫んだ。

  だが声は、出なかった。

  ……オレは、絶対に……

  誰にも聞かれぬように、唇だけが動く。

  何があろうと、この男を見捨てないと。

  この命を、必ず、支え抜くと。

  清拭が終わったとき、ディアルクが静かに告げた。

  「本格的な治療に入ります。申し訳ありませんが、ここで退室を」

  ガルビルは、一歩だけ踏み出し、そして止まった。

  目の前で、裸のまま治療台に横たわるフォルネイ。

  痛ましいその姿を、しっかりと胸に刻み込んだ。

  そして、力なく、しかし確かな歩みで、扉の外へ向かった。

  静かに、扉が閉まる。

  その瞬間、ガルビルは、拳を握りしめた手を、壁に叩きつけた。

  「……っ、くそ……!」

  声が漏れた。

  怒りと、悔しさと、無力感と。

  すべてが混じった呻き声が、夜の廊下に滲んだ。

  夜明けの鐘が、王都の空に静かに鳴り渡った。

  霞む光が、城壁の向こうにわずかに滲み、東の空を薄く染め上げる。

  城内医務棟――

  白い石造りのその建物も、夜通し灯りを絶やさず、静かな緊張に包まれていた。

  一番奥の病室。

  分厚い扉の内側。

  そこには、白い寝具に横たわる一つの姿があった。

  フォルネイ・ボアール。

  王国騎士、中隊長。

  その誇り高き獣人は、いま――意識を失ったまま、深く眠っていた。

  治療は、まだ終わっていない。

  酷く傷ついた右手と左足には、分厚い包帯と固定具が巻かれ、無数の傷に消毒薬が滲みていた。

  かろうじて命は繋ぎ止めた。

  だが、その命の灯は、いまだ細く、か弱かった。

  ガルビル・カイマルトンは、扉の外で静かに立っていた。

  鰐獣人の逞しい体躯を沈黙の中に置き、ただ、じっと病室を守るように佇んでいた。

  黒い外套の下、佩いた剣の柄を、無意識に握りしめながら。

  その時。

  「失礼する」

  重く、威厳に満ちた声が、廊下に響いた。

  ガルビルが顔を上げると、

  奥の曲がり角から、一人の男が歩み寄ってきた。

  黒銀の髪に、深い皺を刻んだ額。

  重厚な紋章入りの外套を羽織り、腰には帯剣。

  鋼のような眼差しを持つ男。

  王国騎士団長――グラスト・マーヴェリック。

  城内において、数少ない、本物の戦士と呼べる男だった。

  「ガルビル、まだここにいたのだな」

  「……団長」

  ガルビルは外套の前を正し、背を伸ばして敬礼した。

  しかし、その態度に、気負いはない。

  二人の間に流れるのは、形式ではなく、確かな信頼だった。

  グラストは頷くと、病室の扉へと歩み寄った。

  「意識は?」

  「……まだ、戻っていません。……治療は続いています」

  低く、押し殺すような声でガルビルが答える。

  グラストは扉に手をかけ、わずかに開き、中を覗いた。

  病室には、静寂が満ちていた。

  白い寝具の中、深い眠りに沈むフォルネイ。

  その顔は、痛々しいほどに痩せ細り、色を失っていた。

  グラストは黙ったまま、深く息を吸った。

  その胸に湧き上がるものを、すぐには言葉にしなかった。

  やがて、静かに呟く。

  「……よく、生きて戻った。……フォルネイ・ボアール」

  それは、称賛であり、痛惜であり、怒りだった。

  グラストは扉を閉め、再びガルビルの前に立った。

  「スタンピードは防がれた。王都も、辺境も、救われた。……あいつが命を賭して、知らせを届けさせたからだ」

  「……はい」

  ガルビルは、かすかに答えた。

  だが、胸の奥では、どうしようもない悔しさが渦巻いていた。

  フォルネイがこうなるまでに、誰も救えなかったという現実。

  グラストは静かに言った。

  「……よく、連れ戻してくれたな、ガルビル」

  「オレは……何もできなかった。もっと早く探していれば……」

  悔しさに唇を噛むガルビルを、グラストは鋭く見据えた。

  「違う」

  短く、断言する声。

  「お前がいなければ、フォルネイはここにはいなかった。……それだけで、十分だ」

  その言葉は、重かった。

  形式的な慰めではない。

  戦場を知る者だけが口にできる、重みのある認め方だった。

  グラストは腕を組み、静かに続けた。

  「今は、あいつを守り、支える時だ。……すべてが戻るとは限らん。それでも――立ち上がる者を、王国は支える」

  「……はい」

  ガルビルは、深く頷いた。

  その胸に、新たな決意が宿る。

  「後は任せる」

  グラストは最後にそう告げ、背を向けた。

  「……あいつに、伝えてくれ。 お前の行いは、王国にとって、何よりの誇りだとな」

  その背中は、無言のまま、静かに遠ざかっていった。

  再び、医務棟の廊下に静寂が戻る。

  ガルビルはしばらく動かず、扉の向こうを見つめていた。

  フォルネイは、まだ目を覚まさない。

  だが――

  必ず、立ち上がる。

  その時まで、

  自分はこの場所で、待ち続ける。

  何度でも、何日でも。

  [newpage]

  [chapter:第3章 目覚めない騎士]

  光のない静寂の中で、時間だけが過ぎていく。

  医務棟の一室。

  日が昇り、沈み、また昇る――その繰り返しの中、白い寝具に包まれたフォルネイは、ただ沈黙のまま横たわっていた。

  ただ、時だけが過ぎていく。

  ベッド脇に設えられた木椅子に、ガルビル・カイマルトンが静かに座っている。

  黒い外套を脱ぎ、白い襟の私服に着替えたその姿は、騎士ではなく、ただ一人の友であった。

  逞しい両腕を組んで膝に置き、鋭い瞳でフォルネイの寝顔を見つめていた。

  その目に浮かぶのは怒りではなく、ただ……痛みと、焦燥と、祈りだった。

  「……まだ、起きねぇか……」

  かすれた呟き。

  返る声はない。

  あれから何日経ったかわからない。

  三日なのか、十日なのか。

  ただ待つだけのガルビルにとって、それは永遠にも等しく感じられた。

  だが――その時だった。

  「……ガ……」

  それは、かすかな声だった。

  人の声と呼ぶには、あまりにも細く、掠れていた。

  だが確かに、フォルネイの口が、動いた。

  「……ガ……ル……ビ……」

  名を……呼んだのだ。

  「……フォルネイ!」

  椅子を蹴って立ち上がり、ガルビルは駆け寄った。

  その目に、僅かな希望の光が差す。

  「オレだ!ここにいる!オレはここだ!」

  呼びかけながら、その頬の横に手を添える。

  力強くはない。

  ただ、触れたか触れないかのほどの、微かな温もりで。

  だが――

  フォルネイの瞳は開かなかった。

  「……っ」

  呼吸は浅いまま、呻きもない。

  まるで、たった一度だけ浮かび上がった意識が、再び闇へと沈んでいったかのようだった。

  「……聞こえてたんだな、オレの声……」

  ガルビルは、ゆっくりと膝をついた。

  その尾が、床に重く落ちる。

  「なぁ……フォルネイ。お前が、まだ生きてるってことだけで……オレは……」

  言葉が、喉に詰まった。

  その日から、ガルビルは時間を見つけては病室に通い続けた。

  時には、何も語らず横に座り、

  時には、かつて二人が共に戦った戦場の話をし、

  時には、騎士団の後輩たちがどんな訓練をしているかを笑いながら語った。

  だが――

  フォルネイは、目を覚まさなかった。

  季節の風が、医務棟の窓をかすめる。

  昼と夜の温度差が大きくなり、空気が乾き始めている。

  ガルビルは、いつものように病室に現れた。

  剣を佩かぬ私服。袖を軽く捲り、傷だらけの前腕を組む。

  「今日は……なんの話がいい?」

  静かに、独り言のように呟き、椅子に座る。

  「お前がよく飲んでたあの薬草茶……今じゃ誰も味の良さがわからねぇらしい。あんな苦ぇもん、よく口にしてたよな」

  乾いた笑みが漏れる。

  だが、ベッドの主に変化はない。

  「……フォルネイ。聞こえてるなら……もう一度だけ、声、聞かせてくれねぇか」

  沈黙が、返る。

  けれど、諦めることだけはできなかった。

  ……深い、深い闇が、あった……。

  何も見えず、何も聞こえず。

  温度もなく、形もなく、ただただ、果てなく広がる虚無。

  その中に、フォルネイ・ボアールは沈んでいた。

  「……ここは……どこだ……」

  意識は、まだ定かでない。

  自分が何者で、何をしていたのかも思い出せない。

  ただ、あるのは――痛み。

  身体の芯に、焼きつくような疼きが残っている。

  右の腕。左の脚。胸の奥。喉。眼窩。

  すべてが、確かに痛んでいる。

  いや、痛いと“わかっている”というべきか。

  傷そのものは、いまや感覚の外にある。

  けれど、確かにそれはあった。

  噛みしめても噛みしめても、残滓だけが消えない。

  (……なぜ……)

  思考は、何度も闇の底に沈む。

  波のように意識が寄せては返し、視界のない世界で、ただゆっくりと、崩れていく。

  (……ここは、何処だ……私は……誰だ……)

  言葉が浮かんでは崩れ、名前すら霞む。

  それでも――

  遠くで、微かに響いた。

  「……フォルネイ」

  ――それは、“音”だった。

  耳ではない。皮膚でもない。

  もっと深いところ、魂の奥に届くような、確かな“呼び声”。

  それは、闇に満ちた世界のどこかに、小さな振動を与えた。

  波紋がひとつ、ゆっくりと、ゆっくりと広がっていく。

  フォルネイは、動こうとした。

  いや――意識が、動こうとした。

  “その声”を知っている。

  懐かしい、温かい、堅い、まっすぐな……声。

  呼ばれた――名を。

  「……ガ…………」

  言葉にならない声を、闇の中で絞り出した。

  それは本能だった。

  記憶でも、命令でもない。

  ただ、魂が、あの声に、応えようとした。

  その瞬間――

  ひとつの“光”が、闇の中に灯った。

  淡い輪郭。

  滲むような光。

  明確な形ではない。けれど、それは間違いなく“外”の存在。

  (……そこに……何かが……いる)

  フォルネイは、手を伸ばそうとした。

  動かぬ体、掠れる意識――それでも、必死に。

  だが、光は遠い。

  指先は届かず、伸ばした意思はすぐに沈む。

  再び、闇に――

  けれど、その一瞬は確かに残った。

  確かに、あったのだ。

  自分を呼ぶ声が。

  自分を、捨てていなかった“誰か”が。

  (……ガ……ル……)

  名は、まだ曖昧だった。

  けれど、何度も心に繰り返された。

  それは、かすかな灯火だった。

  苦痛と恐怖に焼かれた意識の底に、微かな道筋を穿つ光だった。

  (……私は……ここに、いる……)

  フォルネイの中で、微かに自我が芽吹く。

  忘れかけた声。

  忘れかけた名。

  忘れかけた誓い。

  それらが、再び心に戻ろうとしている。

  闇はまだ深い。

  痛みは消えない。

  だが――

  あの声が、もう一度聞こえるなら。

  (私は……戻れる)

  その想いが、最初の“灯”となった。

  淡い光が、石造りの天井を照らしていた。

  薄い雲を透かした朝日が、わずかに差し込む。

  医務棟の奥、白い寝具に包まれた一室。

  静かな時間が、ゆっくりと流れていた。

  フォルネイ・ボアールの呼吸は、ようやく整い始めていた。

  浅く、弱々しく、それでも確かに、命の鼓動が続いていた。

  瞼の奥に広がる闇は、まだ完全には晴れていない。

  だが、その隙間に、確かに“何か”が差し込んでいた。

  言葉、気配、温もり――

  そして、匂い。

  (……この、匂いは……)

  獣人の嗅覚は、最も原始的な記憶と結びついている。

  焦げた金属の臭いでもない。

  血と土の臭いでもない。

  ……これは、知っている匂いだ。

  獣の汗と鱗、粗野で剛胆な――

  (……ガ、ルビ……)

  その瞬間、フォルネイの睫毛が、微かに震えた。

  目元に、うっすらと光が差し込む。

  次の瞬間――

  瞼が、ゆっくりと、ほんのわずかに開いた。

  「……ぁ……」

  喉が、乾いた砂のように掠れていた。

  それでも、声が出た。

  「……ガ……ル、ビル……」

  その瞬間、椅子の上でうたた寝していた男の身体が、はじかれたように跳ね起きた。

  「……フォルネイ!?」

  ガルビル・カイマルトン。

  今日も私服姿のままうたた寝していた体が、ベッドに駆け寄る。

  慌てて椅子を蹴って立ち上がり、ベッド脇へ身を乗り出す。

  「オレだ、フォルネイ!わかるか!ガルビルだ!」

  その声に、フォルネイの目がかすかに動いた。

  焦点はまだ合わない。

  だが、その黒い瞳が、確かに“何か”を捉えようと揺れた。

  「……お、まえ……は……」

  喉が震える。

  言葉にならない。

  それでも、口が動く。

  ガルビルは、ゆっくりと顔を近づけた。

  フォルネイの右側に、慎重に手を置く。

  掠れる吐息が、かすかに頬に当たった。

  「……オレだ……ガルビルだ。……オレが……迎えに来た」

  フォルネイの顔が、わずかに、ほんのわずかに動いた。

  眉が寄り、口元が、震える。

  そして――

  「……そ、の……声……」

  言葉は掠れきっている。

  だが、確かに、感情が乗っていた。

  「……き……こえ……て、いた……」

  ガルビルの目が、見開かれた。

  次の瞬間、彼の顔が、苦笑のように歪む。

  獣人の目尻に、かすかに滲んだ水の光。

  「そっか……聞こえてたか……」

  大きく息を吐く。

  それだけで、肩がわずかに震えた。

  「……悪かったな。遅くなって。……でも、もう大丈夫だ。オレが、いる」

  ガルビルは、フォルネイの左側――

  使えぬはずの左手の外、腕の上に、そっと手を添えた。

  強く握らない。

  ただ、存在を伝えるように、優しく。

  フォルネイは、その感触に反応した。

  顔をわずかに傾け、目を閉じかける。

  だが、その唇が、震えながらも確かに動いた。

  「……来て、くれ、た……のだな……」

  「……ああ。何があっても、お前を見つけるって決めてた」

  静かな声。

  だが、それは戦場の雄叫びより強く、確かな響きだった。

  フォルネイの目に、わずかな光が戻っていた。

  それはまだ弱く、どこか遠くを見ているようでもあった。

  けれど、確かに、ガルビルの存在を捉えていた。

  そして、また目を閉じた。

  「……すこし……眠る……」

  「……ああ、いい。お前は、もう頑張った。……ゆっくり、休め」

  ガルビルは、しばらくその場を動かなかった。

  フォルネイの手を包むように、そっと左手を重ねながら――

  ただ、その眠る顔を見つめ続けた。

  [newpage]

  [chapter:第4章 恐怖と痛み]

  朝の光はすでに天窓から差し込んでいたが、

  医務棟の最奥の部屋には、厚手のカーテンが垂らされ、

  ほとんど光は入っていなかった。

  それは、フォルネイ・ボアールのための配慮だった。

  彼の意識は、確かに戻った。

  だが、それは「回復」を意味するものではない。

  その体に残る傷はあまりにも深く、精神は、いまだ縫い目もない布のように脆かった。

  「診察を行います。フォルネイ殿、少し……体を触れさせていただきます」

  ディアルク・セレンは静かに告げた。

  手には温めた湿布布、消毒薬。

  その声には、どこまでも沈着な配慮があった。

  だが、フォルネイの体は――

  「……っ、……あ……ぁあ……!」

  触れられる直前、彼は突如として全身を震わせた。

  肩が跳ね、毛並みが逆立ち、尻尾がシーツを打ちつける。

  かすれた呻きが、喉から漏れる。

  言葉ではない。

  声でもない。

  ただ、恐怖に駆られた獣の息だ。

  ディアルクの手が触れるより早く、フォルネイの右腕が小さく引き攣った。

  拘束されていた記憶が蘇ったのだ。

  触れられること――それ自体が、拷問の合図だった日々の残滓が、反射として体を震わせる。

  「……う、ぁ……やめ……」

  耳の奥で、焼けるような音が響く。

  金属の軋み。笑い声。縄のきしみ。

  そのすべてが、また戻ってくる。

  目を閉じても、光が刺す。

  目を開けても、影が襲う。

  「……ガ……ル……ビ、る……」

  フォルネイは、掠れた声で助けを求めた。

  「フォルネイ!」

  ガルビルが駆け寄った。

  ディアルクが無言で手を引く。

  「……フォルネイ、オレだ。誰もお前を傷つけねぇ。……ここは、王都だ。医務棟の……お前の部屋だ」

  低く、だが確かな声で、ガルビルは語る。

  その爪のある手は、フォルネイに触れなかった。

  あえて、距離を保った。

  むしろ、自分の胸に手を当ててみせる。

  「……ほら、見ろ。オレには、剣も鎧もねぇ。お前の敵じゃねぇ」

  フォルネイの瞳が、かすかに揺れた。

  薄い膜のような恐怖の向こうに、

  ほんの僅かに――ガルビルの姿が映る。

  それは確かに、「拷問の敵」ではなかった。

  ただ一人、最後まで“あの闇”に来てくれた者。

  そのことだけが、

  わずかに恐怖を和らげた。

  「……ふ……ぁ……」

  かすれた声の端に、笑いとも、涙ともつかぬ、歪んだ呼吸音が漏れた。

  だが――

  フォルネイの全身はまだ震えている。

  肩から尾まで、微細に痙攣し続けている。

  それでも、ディアルクは再び近づこうとはしなかった。

  「……無理には触れません。だが、命をつなぐには、清拭と換薬は避けられません。……ガルビル殿、もう少しだけ話しかけてあげてください」

  ガルビルは頷いた。

  ベッドの傍に膝をつき、

  その体をさらに小さく折って、フォルネイと視線を合わせた。

  「……大丈夫だ。オレがそばにいる。何もさせねぇ。……でも、ディアルクはお前を治したいだけなんだ。……お前の、命を守りたいだけなんだ」

  フォルネイの瞳が、かすかに揺れた。

  ほんのわずかに、まぶたが落ちる。

  まるで、かろうじて何かを理解しようとする仕草だった。

  「……わかったら、ゆっくりでいい。深く、呼吸しろ」

  それでも、フォルネイの震えは続いていた。

  口は開いているのに、声が出ない。

  声帯が、息に追いつかない。

  それでも――生きていた。

  そのとき、廊下の奥から、

  重い足音が聞こえた。

  ノックはなく、扉が静かに開かれる。

  入ってきたのは、一人の騎士。

  鋼の髪。深い皺。威厳と寡黙さを纏った男。

  王国騎士団長――グラスト・マーヴェリック。

  この時は鎧も着ておらずい、帯剣はしていなかった。

  黒衣に外套、肩章のみに階級を示す。

  それが幸いだったと言えよう。

  その目が、寝台のフォルネイを捉えたとき、

  鋼のような瞳が、微かに細められた。

  「……起きていたか」

  ディアルクが頭を下げ、グラストは静かにうなずく。

  視線をフォルネイに戻すと、ゆっくりと歩み寄り、しかし一定の距離で止まった。

  「……よく戻った、フォルネイ・ボアール」

  その声には、怒りも、哀れみもなかった。

  ただ、王国を守る者としての、揺るぎない敬意だけがあった。

  「お前の行いは、王国を救った。……この命が失われていれば、それは国家の恥となっただろう。だが、こうして……お前は帰ってきた。……見事だった」

  フォルネイは動かない。

  だが、その瞳が、かすかに濡れた。

  何かを理解し、何かを感じ、けれど、それを返す力がまだなかった。

  グラストはそれ以上、言葉を求めなかった。

  「……まずは、癒えよ。すべてはそれからだ」

  そして、黙って一礼し、背を向けた。

  その背に向かって、

  フォルネイは、震える喉の奥で――掠れた声を絞り出した。

  「……あり……がたき……」

  扉の向こうに消えかけた背に、それが届いたかどうかはわからない。

  だが、ガルビルの目には、確かにそれが見えていた。

  「……フォルネイ……」

  静かに、深く、彼はその名を呼んだ。

  意識を取り戻したとはいえ、フォルネイの魂は、なお“戻りきって”はいなかった。

  肉体の痛みは数えきれず、そしてそれ以上に、精神には深く刻まれた裂け目が残っていた。

  その裂け目を踏み抜くもの――

  それが、「騎士の象徴」たるいくつかの存在だった。

  ある日のこと。

  医務棟の廊下を、王国騎士の一人が通りかかった。

  彼はただ、見舞いのために、隣室の仲間の元へ向かおうとしたに過ぎない。

  だが、彼が着ていたのは――王国制式の黒い鎧だった。

  その、かすかな擦過音――

  金属と金属がすれ合う、聞き慣れた“鎧の音”が、

  医務室の扉の隙間から、かすかに届いた瞬間。

  フォルネイの身体が、強張った。

  「……っ……!」

  喉が閉まり、呼吸が途絶える。

  全身の毛が逆立ち、尻尾が痙攣するように跳ねた。

  握力など残っていないはずの右手が、硬く、爪を布に立てようとする。

  「……や、め……ろ……来るな……くる……な……っ……」

  呻き。掠れ。涙が滲む。

  視界には誰もいない。それでも、来る。

  鉄靴の音、鞘の擦れ、あの、笑い声――

  「……あ゛、ぁ……ぁ……っ!」

  絶叫ではない。

  声帯が掠れきっている。

  それでも叫ばずにはいられない本能。

  恐怖が、記憶の底から噴き出した。

  「フォルネイ!」

  慌てて駆け寄ったガルビルは、鎧を一切身につけていない。

  いつもの私服姿のまま、剣も佩いていない。

  それでもフォルネイは、誰の姿も見えていない――闇の中にいる。

  「フォルネイ、オレだ! ガルビルだ、落ち着け!」

  その言葉も、すぐには届かない。

  「やめ、ろ……もう、剣を……見せ、るな……っ、来る、な……!」

  手足が引きつる。

  包帯がわずかにズレて、傷が開きそうになる。

  ディアルクが急いで駆け込み、ガルビルを制しながら叫んだ。

  「光を、強く当ててください! そして、声を絶やさないで!」

  ガルビルは即座に指示に従い、

  片手でカーテンを払い、朝の陽を差し込ませた。

  そして――

  もう一方の手を、フォルネイの顔の近くにかざし、強く語りかけた。

  「オレを見ろフォルネイ! 聞け!オレの声を聞け! 鎧じゃねぇ! 剣もねぇ! 今は、医務室だ!」

  「…………っ」

  声が震え、喉が鳴る。

  視界の底で、ようやく現実が、幻影に打ち勝ち始める。

  「……ぁ……ぅ……」

  フォルネイの目に、ぼやけたガルビルの顔が映る。

  ただそれだけで、彼の呼吸が、ほんの少し、戻った。

  ガルビルは、額に浮かぶ汗を拭わず、低く息を吐いた。

  「……くそ、まだ…………こんなにもかよ……」

  その夜。

  灯りが落とされた病室。

  ディアルクが、いつものように診察を終え、部屋を出る際、言い残した。

  「今夜は、あまり暗くしないように。……深層で、夜そのものを“拘束”と結びつけている可能性がある」

  「……ああ」

  ガルビルは返事をし、

  窓際にある明かりを、少しだけ残しておいた。

  魔導灯の小さな光――それだけでも、闇に沈むには十分な光だった。

  だが――夜が深まり、周囲が静かになった頃。

  突然、フォルネイが呻いた。

  「……ぅ、……や、め……笑う、な……っ……笑うな、ッ……!」

  体が、また震え始めた。

  目は閉じたまま、夢の中。

  だが、そこではまた――あの音と声が、響いているのだろう。

  嬲るような笑い。

  乾いた、汚れた、嗤い声。

  それが、フォルネイの精神を苛み、引き裂く。

  「やめ、ろ……や、めろ……やめ、ろ……ぅあ゛あ……!」

  苦悶。喘ぎ。錯乱。

  枕元の布団を握りしめようとして、右手が痛みに跳ね上がる。

  「フォルネイ!」

  ガルビルは即座に声を張った。

  「笑ってねぇ! ここには誰もいねぇ! オレだけだ! オレしかいねぇんだ!」

  数拍の静寂の後、フォルネイの体が、再び落ち着いていった。

  声はかすれ、呼吸は浅い。

  だが、その荒い胸の上下が、ゆっくりとリズムを取り戻す。

  ガルビルは、その鱗の額を、そっと拭った。

  触れる直前、手が止まり、空中でためらったが――

  ゆっくりと、指先を浮かせたまま、影のようにかざした。

  「……オレが、ここにいる」

  その言葉が、夢の底に届いたかどうかは、わからない。

  フォルネイは、まだ戦っている。

  夜の中で、鎧の音の中で、嗤い声の中で。

  だが、確かに――

  それでも、“戻ろう”としている。

  それは、誰よりも近くにいたガルビルが、いま最も実感していたことだった。

  微かな朝の光が、重たいカーテンの隙間から漏れていた。

  そのわずかな明るさの中で、白い寝具に包まれた体が静かに呼吸している。

  フォルネイ・ボアール。

  かつて、誰よりも強く、誇り高くあった男。

  だが、今はただ――傷と痛みの中に沈んでいた。

  目覚めてから、何度目の朝かは、もうわからなかった。

  時間の感覚は曖昧になり、

  自分が眠っているのか、目覚めているのかすら、境界が曖昧だった。

  ただ、一つだけ確かなものがある。

  ――痛み。

  右手。

  左足。

  そして、時折、胸の奥から湧き上がる鈍い疼き。

  「……ぅ……」

  掠れた呻きが、漏れた。

  誰に向けたものでもない。

  ただ、疼きに押しつぶされそうになった、獣の微かな声。

  毛並みに冷や汗が滲む。

  尻尾はわずかに震え、尾の付け根にひきつるような鈍痛が走った。

  右手を、動かそうとする。

  だが、思うようにいかない。

  握ろうとすれば、指が勝手に震え、

  わずかに動いたかと思えば、激痛が肩から全身に駆け抜けた。

  「……ぐ、ぅ……」

  布団を握ろうとした指先が、空を切った。

  ただ、それだけのことで、骨の奥まで響くような痛み。

  フォルネイは、歯を食いしばった。

  牙が軋み、顎が震えた。

  (……なぜ、だ……)

  心の中で問う。

  何故、こんなにも体は言うことをきかない。

  何故、こんなにも無様に震える。

  怒りでも、絶望でもない。

  ただ、どうしようもない、やるせなさ。

  (……これが……私の、現実……か……)

  わかっていた。

  体はもう、かつてのようには戻らない。

  右手も、左足も、あの日、あの時、あの場所で――壊された。

  自らを責めるべきか。

  傷つけた者を憎むべきか。

  それとも、ただ受け入れるべきか。

  答えは、まだ見つからなかった。

  ただ、胸の奥に、重く冷たいものが沈んでいく。

  扉の外で、小さな音がした。

  すぐに、あの足音が聞こえる。

  重量感のある、けれど静かに踏みしめる、鰐獣人の足音。

  「……ガル、ビル……」

  フォルネイは、かすかに名を呼んだ。

  声は掠れ、聞き取れるものではなかった。

  それでも、心の中では確かに、彼を呼んでいた。

  扉が静かに開き、

  ガルビルが入ってきた。

  今日も私服だった。

  鋭い眼差しは、しかし、どこまでも優しく――誓いのように、フォルネイを見つめた。

  「……おはよう、フォルネイ」

  低い声。

  だが、それだけで、フォルネイの体からわずかに強張りが抜けた。

  それでも、右手は震え続けている。

  左足は冷たく、鈍い。

  フォルネイは、そっと目を閉じた。

  そして、自らに言い聞かせた。

  (……これが、私だ……)

  疼きも、震えも、動かぬ手足も――

  今の自分だ。

  認めたくなくても。

  どれだけ誇りを傷つけられても。

  それでも――

  これもまた、自らが背負うものなのだと。

  ガルビルが、ベッドの傍らに膝をついた。

  無言で、そっと、何も強いらずに、ただ傍に座った。

  フォルネイの震える右手に、ガルビルは触れなかった。

  ただ、自らの手を、そっと傍に置いた。

  (……まだ、負けては……おらぬ)

  フォルネイは、わずかに、わずかに唇を引き締めた。

  疼きは消えない。

  震えも止まない。

  それでも――

  この命を、投げ出しはしない。

  自らの手を、動かぬ右手を、フォルネイは、わずかに動かそうとした。

  指が震え、痛みが走る。

  それでも。

  牙を食いしばり、額に汗を滲ませながら。

  (……私は、騎士である。……疼きがあろうと震えようと……誓いは、違えぬ……)

  内心で、静かに――それは確かに、誓い直された。

  [newpage]

  [chapter:第5章 再起のために]

  窓辺に、初夏の光が滲んでいた。

  だが、医務棟の一室に満ちる空気は、なお重く、湿り気を帯びている。

  白い寝具の上。

  フォルネイ・ボアールは、枕に頭を預けたまま、静かに目を閉じていた。

  胸の中には、焦りも、苛立ちも、悲しみもあった。

  それでも、彼は牙を食いしばり、ただ前だけを見据えていた。

  「……では、始めましょう」

  ディアルク・セレンの落ち着いた声が響いた。

  手には、柔らかく加工されたリハビリ用の木製球。

  右手に――わずかにでも握る感覚を取り戻すための、最初の器具だった。

  フォルネイは、そっと、震える右手を持ち上げた。

  動かせないわけではない。

  だが、動かすたび、腕の奥から鋭い痛みが走る。

  その痛みが、意識を打ち砕きかける。

  「……ぐ……ぅ……」

  掠れた喘ぎ。

  額に汗が滲む。

  だが、誰も助け舟を出さない。

  これは、フォルネイ自身が超えねばならぬ戦いだった。

  ガルビルは、部屋の隅に、無言で立っていた。

  いつもの私服姿で、腕を組み、鋭い緑の眼差しでフォルネイを見守っていた。

  その心中には、何度も、何度も、抑えきれぬものが湧き上がっていた。

  ――かつてのフォルネイなら、こんな軽い木の球など、ものともせず握り潰していただろう。

  ――あの誇り高く、力強かった姿を、知っている。

  ――知っているからこそ、今のこの痛々しい様子が、胸をえぐった。

  だが――

  ガルビルは、何も態度には出さなかった。

  目を逸らさず。

  眉をひそめず。

  ただ、ただ、当たり前のように、変わらぬ眼で見守っていた。

  フォルネイにとって、この場所が「過去と比較される場所」であってはならない。

  それを、誰よりも強く、ガルビル自身が理解していたからだ。

  「……う、ぐ……」

  フォルネイは、木球を、指先で押さえた。

  指が震える。

  力が入らない。

  木球は、何度も手のひらから滑り落ちそうになる。

  それでも、牙を噛みしめた。

  (……私は……騎士で、ある……)

  疼きに耐え、痛みを飲み込み、なお手を動かす。

  ガルビルはその様子を、まばたきすら惜しむように見守った。

  やがて、手のひらに収まった木球が、重たく見えた。

  汗に濡れた毛並みが光を反射している。

  ディアルクが、静かに声をかけた。

  「……十分です。今日は、ここまでにしましょう」

  フォルネイは、応えなかった。

  ただ、微かに頷き、木球を布の上に落とした。

  右手は、包帯に巻かれたまま、だらりと力なく垂れていた。

  それでも――

  その眼には、敗北の色はなかった。

  ガルビルが、静かに近づき、ベッド脇に膝をついた。

  「……お疲れさん」

  それだけ言って、無骨な手で、そっとフォルネイの肩に触れた。

  触れるか触れないか、ほんのわずかな力加減。

  それでも、確かにそこに、支えの温もりがあった。

  フォルネイは、目を閉じたまま、震える呼吸を整えた。

  疼きは止まない。

  痛みも、引き攣れも、無様なまでに続いている。

  それでも――

  「……次も……頼む」

  掠れた声で、そう告げた。

  ディアルクとガルビルの口元が、わずかに緩んだ。

  「ええ、もちろん」

  「ああ。何度でも付き合うぜ」

  その声は、無骨で、温かかった。

  フォルネイは、自らの体に巣くう痛みを、

  震えを、思うようにならない指先を、

  いま――確かに「受け入れた」。

  これも、自分だと。

  この体も、この痛みも、己の一部なのだと。

  そして、そこから再び立ち上がるために、

  一歩一歩、歩み出すしかないのだと。

  医務棟の床は、すべてが平坦に整えられていた。

  段差もなければ、敷物の端も柔らかく丸められている。

  それでも――歩くという行為は、フォルネイにとって、いまや戦いだった。

  杖を頼りに、フォルネイは壁沿いをゆっくりと進んでいた。

  左足は、床に触れるだけで鋭い疼きが奔る。

  左手は、右手に比べれば天と地ほどの回復具合であるのの、杖を支えるにはまだ心もとなく、肩ごと震えている。

  動かそうとすれば、手の内からじわじわと汗が滲み、骨の奥が軋んだ。

  (……一歩、だけ……)

  床板が軋んだ気がして、体がわずかに引きつった。

  それでも、フォルネイは一歩、足を出した。

  刹那――

  「……ぅ……!」

  杖の先がわずかに滑った。

  左足に思わぬ負荷がかかり、膝が折れる。

  重心が崩れ、身体が傾ぐ。

  「――!」

  ガルビルが即座に駆け寄る。

  だが、フォルネイは咄嗟に自ら体を捻り、床に手をついた。

  派手な音ではなかった。

  だが、左肩と右膝に打ちつけた衝撃は鋭く、呼吸が詰まる。

  「……はっ、ぐぅ……う、ぅ……っ」

  荒れた息。掠れた呻き。

  そして、後ろに細く揺れる尻尾が、羞恥と悔しさを隠せずに震えていた。

  ガルビルは、その体を抱き起こそうとし――ふと、動きを止めた。

  フォルネイが、右手で何かを掴もうとしていた。

  落ちた杖。

  その丸い頭の部分を、指先で――震えながらも、確かに触れようとしていた。

  「……ッ、ふ……うぅ……」

  爪が震える。

  手のひらは汗で濡れ、布越しでも滑る。

  それでも、何度も指を開いては閉じ、木の表面を包み込むようにして掴もうとする。

  そして――

  杖は、音もなく、手から滑り落ちた。

  カラン、と軽い音を立てて転がる。

  フォルネイは、顔を上げなかった。

  ただ、肩を震わせ、地面に額が触れそうなほど深くうつむいた。

  その背で、獣人の尻尾が、悔しげに床を打った。

  ガルビルは、それでも一言も言わなかった。

  無言で杖を拾い、そっとフォルネイの傍に置く。

  その動きは、まるで風のように自然で、まったく過剰ではなかった。

  やがて、フォルネイが膝をつきながら体を起こす。

  息は乱れている。

  額には汗。

  口元は歪んでいた。

  だが――目は、折れていなかった。

  ディアルクが、部屋の端から見守っていた。

  彼は静かに近づき、丁寧な口調で言った。

  「本日は、ここまでにいたしましょう。……無理をすれば、逆効果になります」

  「……そう、か……」

  フォルネイは、苦しげに息を吐きながらも、肯いた。

  声は掠れ、喉の奥で小さく鳴った。

  ディアルクはそっと右肩に手を添えたが、押しつけることはしなかった。

  ただ、軽く、在ることだけを伝えるような手の重さだった。

  「動かそうとする意思は、既に前進です。……本日も、よく耐えられましたね」

  フォルネイは、しばらく動かなかった。

  悔しさと、恥と、痛みが同時に押し寄せる。

  だが、背後ではガルビルが変わらぬ距離で立っている。

  笑わず、哀れまず、ただそこに――

  それだけで、少しだけ、呼吸が整った。

  「……明日も……同じ刻限に……」

  フォルネイは、掠れた声で言った。

  それは、騎士の命令ではない。

  ただの、願いのような響き。

  ディアルクは、深く頷いた。

  「ええ。もちろんでございます」

  そして、ガルビルはその後ろで――目を細めた。

  その横で、フォルネイの尻尾がわずかに揺れた。

  痛みと疲労の中でも、それは確かに、生きる者の感情の証だった。

  リハビリが始まってから、何日が過ぎただろうか。

  激痛を堪えながら指を動かし、

  何度も物を落とし、

  それでも一歩を踏み出し、転び、

  それでもなお、また立ち上がった。

  フォルネイ・ボアールの再起への道は、誰よりも険しかった。

  この日、ディアルクが持参したのは、木球よりもわずかに平たい、掌にすっぽり収まる布包みの石袋だった。

  重さはほとんどない。

  ただ、形を保たずに潰れ、それを“包む”感覚を育てるためのもの。

  「この石袋を、手のひら全体で包むように、少しずつ動かしてみてください。……力を込めなくて構いません」

  ディアルクの声音は静かだった。

  その表情には、わずかながら、慎重な期待があった。

  フォルネイは、布の上に置かれた袋へ、右手を向けた。

  肩から腕、手首へと、重く粘るような痛みが這い降りてくる。

  それでも、彼は顔を歪めず、息を押し殺して指を伸ばした。

  爪の先が、布に触れる。

  続いて、掌がわずかに、石袋の温もりを包み込んだ。

  「……ぅ……」

  呼吸が詰まる。

  だが、今は――持ち上げるのではない。

  ただ、包むだけでいい。

  「そうです……そのまま、指を“閉じる”感覚を探ってください」

  ディアルクの声が、静かに響く。

  ガルビルは、その後ろで無言のまま立っていた。

  その表情は、何も変わらない。

  眉も動かさず、口も開かない。

  だが、目だけが――いつもより僅かに強く、フォルネイを見ていた。

  フォルネイの右手が、僅かに動いた。

  中指が曲がる。

  人差し指が、布を押し返す。

  親指が、わずかに反応し、袋の端を押さえた。

  まるで、

  長く失っていた“手”の記憶が、微かに戻ってくるようだった。

  (……包める……掴むことは、まだできずとも……)

  フォルネイの目に、微かな光が差した。

  この感覚は、はじめてだった。

  痛みはまだある。

  だが、確かに、掌に“重さ”を感じたのだ。

  その刹那。

  「ぅあっ……」

  肩に、鋭い電撃のような痛み。

  反射的に、指が緩み、石袋が落ちる。

  が――

  それを見て、誰も顔を曇らせなかった。

  ディアルクは、ただ頷いた。

  「ここまで反応が出るのは、明確な前進です。……良い兆候です」

  ガルビルは、黙って袋を拾い、布の上に戻す。

  何も言わず。

  何も責めず。

  ただ、次の挑戦が“当然のこと”であるかのように。

  その横で、フォルネイの尻尾が――

  痛みに耐えるように、わずかに床を擦った。

  「……包む、だけなら……」

  掠れた声が、静かに漏れた。

  「……どうにか……致せる、やも……しれぬ……」

  ディアルクは、小さく微笑みながら言った。

  「ええ。次回は、この袋の形を崩さずに、長く保持することを目標にしましょう」

  フォルネイは、もう一度、袋に手を伸ばした。

  包む感覚を、失わぬうちに。

  そして、ガルビルはその横で、変わらぬ無骨な顔のまま、彼の背を見守っていた。

  心の中で、

  今にも叫びたいほどの思いを抑えながら。

  [newpage]

  [chapter:第6章 絆、そして]

  昼と夜の境が、曖昧な時間。

  夕映えの光が、医務棟の窓を橙に染めていた。

  白いベッドに寄りかかるようにして、フォルネイ・ボアールは座っていた。

  その右手には、未だ包帯が巻かれたままだったが、手のひらには柔らかい石袋が静かに置かれていた。

  彼は、何も言わず、それをただ、包む。

  掴まず、持ち上げず――包む。

  それが、今の彼にとっての最大の鍛錬だった。

  その隣、木椅子に腰かける影。

  ガルビル・カイマルトンは、今日も私服のまま、腕を組んでいた。

  壁にもたれず、だが必要以上に近づかず。

  その姿勢は変わらない。

  しばらく、沈黙が続いていた。

  だが、ふと――

  「……なあ、フォルネイ」

  低く、穏やかで、どこか息を整えるような声が落ちた。

  フォルネイは返答せず、手元の石袋から視線を逸らさずにいた。

  しかし、耳は確かに、その声に向けられていた。

  ガルビルは、ゆっくりと語りはじめた。

  「お前が、いなくなってからな……騎士団は、しばらく混乱してた」

  「……」

  「みんな、なぁんとなく、気づいてた。……“ただの行方不明じゃねぇ”ってな」

  フォルネイの眉が、わずかに動いた。

  だが顔はまだ伏せたまま。

  尻尾が、膝の裏でわずかに揺れた。

  「それでも、何も言わねぇ奴ばっかだった。……言えば、余計に辛くなると思ったんだろうな」

  「……」

  「……オレは、しばらく剣が握れなかった。……いや、正確に言うと……“お前のいねぇ場所で剣を振る”ってのが、嫌だった」

  吐き捨てるような口調ではなかった。

  むしろ、喉の奥に引っかかる石を、少しずつ取り出すような言い方だった。

  「……朝起きて、剣を佩こうとして……“オレはこのままでいいのか”って、何度も思った」

  「……」

  「だけどよ……お前が命賭けて防いだもんが、ちゃんと守られてんだって、思い出して……そんで、剣を持った」

  言葉が止まる。

  その先を語ることはなかった。

  語る必要もなかった。

  フォルネイは、石袋を包む手をわずかに緩めた。

  そして、ようやく――声を発した。

  「……ガルビル……」

  低く、掠れた、呼吸のような声。

  それでも、その名を呼ぶ響きには、確かな温もりがあった。

  「……私が、あの場所に……囚われていた、時……」

  その語りは、ゆっくりと、まるで肺の奥から言葉をすくい上げるように続いた。

  「……何より……恐ろしかったのは……己が、己でなくなること……であった……」

  石袋を、右手で、そっと撫でる。

  指の震えは、今も止まっていない。

  それでも――

  「……感覚が、消えていき……記憶が曖昧となり……“自分”というものが……崩れていく、音が……した……」

  喉が鳴る。

  その声は、涙に濡れてはいなかったが、苦しみに滲んでいた。

  「……だが……それでも、最後まで……諦めずに……“来てくれる”と……思っていた……」

  沈黙。

  フォルネイは、そこで言葉を止めた。

  だが、その口元が――わずかに、ほんのわずかに、緩んだ。

  「……ゆえに、こうして……再び、会えたのは……」

  目を閉じる。

  呼吸を整える。

  そして、ゆっくりと、声を紡いだ。

  「……あり、がたき……幸せ……である……」

  ガルビルの目が、かすかに見開かれた。

  驚いたのは、言葉ではなかった。

  その表情――

  フォルネイが、確かに“笑った”こと。

  「……お前……笑ったか?」

  フォルネイは目を開け、息を吐いた。

  そして、ふ、と小さく――

  「……ふ……は……」

  掠れた、笑い声が漏れた。

  それは、嗤いではなかった。

  皮肉でも、痛みでもない。

  ただ、確かに存在する、微かな安堵と――感謝の、音だった。

  「……ふ、は……今さら、何を……」

  言いながら、肩がかすかに揺れる。

  その瞬間。

  ガルビルは――ついに、こらえきれず、苦笑をこぼした。

  「……ちっ……オレが泣きそうだっつの」

  拳を軽く、額に当てる。

  そして、それ以上何も言わなかった。

  ただ、二人の間に流れる時間だけが、静かに、穏やかに、重なっていた。

  [newpage]

  [chapter:エピローグ]

  朝の光が、医務棟の窓辺に満ちていた。

  季節は移ろい、空気には初夏の匂い。

  新緑の気配と、遠くで鳴く鳥の声が、王都の一日を告げていた。

  その日。

  医務棟の庭に続く小道を、一人の獣人が歩いていた。

  ずんぐりした体格。

  全身を覆う茶色い毛並み。

  右手と左足には、まだ包帯と固定具が残る。

  フォルネイ・ボアール。

  かつて王国騎士の中隊長として剣を振るい、いまなお“騎士”であろうとする男。

  彼の歩みは、ゆっくりだった。

  杖を頼りに、一歩、一歩、確かめるように。

  だがその足取りは、確かだった。

  外套の下に身にまとった、薄手の制式騎士服――

  それは、王国より改めて与えられたものだった。

  戦場には戻らずとも、教導、指揮、指導の任を持つ者としての“復帰”。

  誰もが口を揃えて「休んでいていい」と言った。

  だが、フォルネイはそれを拒んだ。

  「……剣は……もはや、振るえずとも……誓いは……残っている……」

  その一言だけで、全ては通った。

  庭の片隅。

  石畳の上に、ガルビル・カイマルトンが立っていた。

  朝の訓練を終えた若き騎士たちが、遠巻きに見守っている。

  だがガルビルは、彼らに指示を出さなかった。

  ただ黙って、フォルネイを見ていた。

  そして、フォルネイがその場に辿り着いたとき――

  「おう」

  その一言だけが、迎えの言葉だった。

  フォルネイは無言で頷き、静かに杖をついて立った。

  背筋は真っ直ぐではない。

  だが、どこまでも誇り高く、騎士としての矜持を帯びていた。

  その姿に、若い騎士の一人が呟いた。

  「……あれが、“フォルネイ教導官殿”……」

  「うそだろ……あれで……あの“黒の猪”かよ……?」

  「でも……見ろよ、あの背中。……まっすぐじゃないか」

  フォルネイは、耳に入っているはずの声に反応しなかった。

  ただ、ゆっくりと、視線を若者たちに向けた。

  そして、淡く目を細め、こう言った。

  「……心得を、問う……。剣とは、力か……速さか……それとも……何で、ある……?」

  若者たちは、戸惑いながらも、姿勢を正す。

  ガルビルは、腕を組みながら微かに笑った。

  フォルネイの右手は、まだ満足に物を持てなかった。

  左足は、数歩以上進めば痛みが走った。

  それでも――

  この場に立ち、若者たちに問いを発するその姿は、

  紛れもなく、騎士のそれだった。

  剣を佩かずとも。

  動けずとも。

  心が、誇りが、いまなお騎士であることを、何よりも雄弁に語っていた。

  遠くから、風が吹いた。

  フォルネイの背に垂れる太く感情豊かな尻尾が、わずかに揺れた。

  その揺れには、もはや恐怖はなく――

  ただ静かな、生きる者としての気配が、あった。

  ガルビルは、それを見て、言った。

  「……ようやく、“お帰り”って言えるな」

  フォルネイは、ゆっくりと、

  振り返らずに呟いた。

  「……これより……務めを、果たす……所存……である……」

  そして、そのまま、また一歩を踏み出す。

  痛みのある足を、進めて。

  震えの残る手を、胸に添えて。

  騎士として――再び歩む。

  声は掠れ、途切れ、かつてのような威風は失われた。

  それでも――その一語に込められる意志の強さこそ、

  騎士フォルネイの再起の証であった。

  (完)

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