個人的解釈物語『山月記』

  その男の名を、李徴と言う。

  [[rb:隴西>ろうさい]]と呼ばれる中国のとある地方に、彼はいた。

  頭脳明晰であらゆる才能に恵まれた彼は、おまけと言ってはもったいないほど誰もが羨むような美貌を持っていた。

  まさに才色兼備という言葉のもとに生まれた人間である李徴は、ある天宝の年、あまりの若さにも関わらず難関試験に合格し、江南尉という上級役人の職に就いた。

  しかし、秀才ゆえの欠点か、彼は少々難ありな性格の持ち主だった。

  頑固でプライドが高く、人に頼ろうとしない、自信に満ち溢れた傲慢な性格なのである。いわゆる協調性のない才能人と言う訳だが、それが彼を彼たらしめる要因でもあった。

  それもそのはず、何でも一人でできてしまうのだから、他人の助けなど不必要。むしろ他人に助けを求めること自体、恥ずかしくてみっともない行為であると、恵まれた頭脳を持つ彼は心の底からそう思っていた。

  そんな歪な思想を胸に宿した青年は、ありきたりな交友関係を築くことができるような人格を持っていなかったのである。

  故に、彼は満足していなかった。上級役人といえど結局は下っぱで、自分の思い描いていた真に貴き存在には程遠いのだと。

  こんなもの、偉くも何ともないと。

  そして李徴は、早くして自らその職を退いた。

  聞けば誰もが褒めたたえるような年少での功績を、喉から手が出るほど欲した人もいたであろうその地位を、まるで道端に転がる石を蹴飛ばすように、呆気なく手放したのだった。

  その後、故郷である[[rb:虢略>かくりゃく]]へと帰った李徴は、ひたすら詩を作ることに没頭するようになった。

  古ぼけた椅子で偉そうにふんぞり返っている無能な上司に頭を垂れながら働くよりも、死後百年以上も名が残るほど孤高で秀明な詩家として生きた方が遥かに良いと考えたからだ。

  彼は山奥でひっそりと暮らすようになり、元から無いにも等しかった人との繋がりを断ち、ただ自らの名誉のためだけに筆を動かす。

  顔も名前も知らない、遠い未来の人々へ自らの名が残り続けるという高らかな期待に、熱を受けた気球のように思考が膨らんでいく。

  今こうして書き連ねている文字が大勢の心を動かし、ある時をきっかけにこの「李徴」という名は轟くのだ。

  あの若くして役人となった奴の名前だと、お固い仕事にくたびれた愚かな労働者たちに気付かせてやる。

  有り余る野心と無限に湧き続ける言葉の数々に身を任せながら、彼はただ詩を書き続けた。

  ─────

  しかし、世の理を知らない彼が想像した栄光の道は、永遠にも思えるほど長く続いていた。

  あんなにもすんなりと合格したかつての試験のようにはいかず、彼の名は一向に広まる気配を見せない。いくら自信作を突きつけようと、世間は見向きもしない。

  それどころか、詞家としての自分の存在すらも認知していない。

  まるで誰も、お前など期待していないと言われているかのように。

  何度も悩み、頭の中でもがき、擦り切れそうな感情と思考の中で必死に絞り出した数々の詩は、誰の目に留まることもなく空虚へと消えていく。

  超えられると思っていた壁が、あまりにも高すぎる。

  いつか訪れる日の出を求めて我慢を重ねても、自ら職を放棄した彼の生活は時間と共に苦しくなるばかり。報われない時間と共に、弱った心はひどい焦燥に駆られるようになった。

  早く有名な詩家として名を馳せて、周りの人に認めてもらわなければならない。

  なのに皆、どうして私の詩を評価しないのかという、周囲への憤りが募っていく。

  頭は切れるし、幅広い知識も確かに有している。文学の勉強も怠らずにこなしてきたはずだった。

  にも関わらず、世に送り出してきた詩が誰にも評価されることはなく、血の滲むような努力が過去へと霧散する日々だけが流れていく。

  何が違うのか? 何が正解なのか?

  どうすれば他人の心に届くのか? そもそも、心に響く作品とは何か?

  原因は? 書き方か? 起承転結の順番か? 語彙力の欠如か? 経験の少なさか?

  他の著名な文学者たちを参考にするか?

  …いや、それは絶対に駄目だ。他人の真似事など断じて許されない。”私自身”が生み出した作品でなければ、認められない。

  認めることなどできない。

  この頃から、李徴の容貌に変化が訪れ始める。

  ろくに飯も食うこともなくなった彼の体からは肉が落ち、痩せ細った体には骨が浮き出るようになり、燃え続ける欲望を宿した鋭い眼光だけが残るようになった。

  かつて難なく試験を突破したあの天才美少年の面影は、もはやどこにもない。自らの名を世に残そうと必死になっている、ただ1人の人間に他ならなかった。

  理想を追い求め、足掻き続けた結果。あまりの貧窮な暮らしに耐えることができなかった李徴は、妻子を養うためにも苦渋を飲んで地方へ赴き、そこで役人として働くことを決意した。

  下っぱの役人など恥だと思い、自分から手を放したというのに。歯牙にもかけず見下していた職に、再び就かざるを得なくなったという現実。

  これが彼にとってどれほど胸を苦しく締め付けたかは、言うまでもない。

  だが、李徴自身が自分の才の無さに半ば絶望したことも起因し、己の現状を受け入れるまでにそう時間はかからなかった。

  とにかく今は生きながらえなければ。偉業を為す前に飢え死にしてしまっては元も子もないと、惨めな運命を受け入れた彼を襲った残酷な事実は、耐え難いものだった。

  自分の名を残そうと俗世を離れ、栄誉に眩んだ目で馬鹿みたいに躍起になっていた間に、周りの同輩たちは次々と高い地位を獲得していた。

  一握りの知能を持つ者しか合格できなかった試験を突破した李徴にとって、見下すだけの対象だった凡人たちのはずなのに。

  何も為せず足を止めていた自分とは対称に、彼らは着々と歩みを進めていたのだ。

  のろまで鈍い奴らだと鼻で笑い、相手にしようとさえ思わなかった者ども。

  そんな奴らにいつの間にか先を越され、逆に彼らの命令を有難く受け取り、生きていくために雑務をこなさなければならない立場へと自分自身が成り下がってしまったのだ。

  この屈辱が李徴の自尊心をどれほど傷つけたかを想像することなど、あまりに簡単だろう。

  そんな彼が、平常心で仕事をこなしていたはずがなかった。

  こんなことはあり得ない。許されない。

  受け入れてはならない。

  絶対に。

  己を形作るほど強大だった自負を悉く踏みにじられ、歪に捻じ曲がった李徴の心は、これを境に狂い始める。理性的な思考回路はすり潰され、傲慢で傍若無人な態度は更に抑えが効かなくなっていった。

  かける言葉もない。愚かなのは私でしたと、自らの顛末をもって証明しに舞い戻ってきたようなものなのだ。

  かつて天才とうたわれた彼が持つ寛大な[[rb:誇り>プライド]]がずたずたに引き裂かれるのも、無理はなかった。

  一年後、彼は仕事の出先で宿に泊まった時、ついに発狂して姿を消した。

  夜中にいきなり起きたと思えば、顔色を変えて何かよく分からないことを呟きながら外へと飛び出し、闇の中へと駆け出していったという。

  そして、二度と帰ってこなかった。

  翌朝、宿付近の山や野原をどれだけ探しても、何の手がかりも見つからない。何処へ行ったのか、なぜ急に飛び出したのか、もはや生きているかどうかさえも不明のまま。

  李徴がその後どうなったかを知る者は、誰1人としていなかった。

  ─────

  翌年。

  [[rb:監察御史>かんさつぎょし]]に就く[[rb:陳郡>ちんぐん]]の[[rb:袁傪>えんさん]]という人物が、王命により使者として[[rb:嶺南>れいなん]]という場所へ赴いていた時、ことは起きた。

  旅の途中で宿に泊まり、まだ空も暗い中に出立しようとした翌朝。土地の役人が彼を止めた。

  『ここから先は人喰いの虎が出るため、旅人は昼間でなければ通れません。今はまだ日も出ていないので、少し待たれた方が宜しいでしょう』

  と、その役人は忠告する。

  人喰い虎とはなんと恐ろしい、と袁傪は初め思った。もしもこんな暗い中で襲われてしまえば、ひとたまりもないだろう。

  しかし、王命ということもあり大勢の家来や護衛を備えていた彼は、大丈夫だと役人の制止を振り切って出発してしまった。

  未だ空に残る月の明かりを頼りに、馬を操って林道の草地を通っていく。まだ日も出ていない外の空気は冷たく、ぬかるみのある土が蹄に絡んでいるようだった。

  飛び交う羽虫の鬱陶しさと湿った草木の匂いに、どことなく気持ちが落ち着かない。

  やはり月明りだけでは心許なかっただろうか。多くの人を連れているはずなのに心なしか一人でいる感覚がして、不安に怯えた手から汗が滲む。

  その時だった。突然、1匹の虎が[[rb:叢>くさむら]]の中から飛び出してきたのだ。

  役人の言うことは本当だった。人食いの虎だ。だがそれは人型の、まるで虎と呼ぶには形容し難い、物の怪のような姿をしていた。

  それは護衛たちも反応できないほどの速さで、先頭にいた袁傪へと真っ直ぐ襲い掛かろうとする。彼の逃走本能は働いているはずだが、手綱を握る手が開くことはなく、硬直した体は意思のように動けない。

  理解する前に殺されると、袁傪は悟った。

  しかし、その虎の爪があと少しで袁傪へと届くかという刹那。虎は勢いよく身を翻し、叢の中へと逃げるように隠れていった。

  驚いた馬に放り出されそうになりながらもなんとか宥め、状況を整理しようと護衛と共に馬を降りる。

  まるで操られていたのが解き放たれたかのような異様な虎の行動に、どれだけ思考を巡らせても理解できずにいたその時。

  「はぁ、はぁ、はぁっ…! あ、危ないところだった……」

  虎が身を隠した方から、人間の声がした。

  ただの聞き間違えかもしれない、そもそも虎が人語を介すなど聞いたこともない。

  いや、もしも[[rb:人が虎を演じている>・・・・・・・・・]]のであればあり得なくもないが…そんな阿呆みたいな奴ならば無論関わることは避けたい。

  だが、聞こえてきたのは確固たる理性を残した声。明らかに知性を持つ人間の言葉だった。

  しかも袁傪には、その声にひどく聞き覚えがあった。

  仮に人を喰ったからといって、獣が言葉を理解し話せるようになるなどあり得ない事象だ。

  しかし目前にある叢の向こう側から聞こえてくる震えた息遣いは、感情を持つ人間だからこそ感じる臆病なそれと同じだった。

  十数秒という僅かな時間の中で、たった一言だけの声を頼りに、頭の中に残る僅かな過去の記憶を辿っていく。

  そして袁傪は、自分の胸中に沸いた直感を信じて口を開いた。

  「その声…李徴か? 我が友、李徴子ではないか?」

  その瞬間、微かに聞こえていた息遣いが止まり、静寂が訪れる。

  汗が頬を伝い、風が木々をざわめかせていく。袁傪はこの空間が、既に現実ではなくなったような感覚を覚えていた。

  すぐに返事は返ってこない。武器を構える護衛を静かに制して待ってみると、啜り泣くような声が叢の中から溢れてくる。

  やがて、聞き馴染みのある、懐かしい低い声が聞こえてきた。

  「……如何にも。私は、隴西の李徴である」

  「まっ、まさか…そんなことが……!」

  袁傪は酷く驚愕したことだろう。たった今自分を食い殺そうと襲いかかってきた虎が、かつての古き良き友人だったとは誰が思えたか。

  だけども、彼には憤りの感情など微塵もない。死んだとさえ思っていた友人との奇妙な再会に、驚きと喜びの感情が勝ってしまったのである。

  袁傪は李徴と同じ時期に役人となったいわゆる同期で、ほとんど知り合いがいなかった李徴にとって、数少ない友人と呼べる人物であった。

  非常に温和な性格で、あの李徴に対しても優しく接していたほど心の懐が広い。そのおかげか李徴の厳格な性格とも衝突することなく、友と呼べるほどの十分な信頼関係を築けていた。

  そんな彼が行方の分からなくなった友が生きていると今この場で知って、素直に喜ばないはずがなかった。

  既に恐怖は消え去り、湧き上がる不思議な感情に身を任せ、自ら叢へと近づいていく。

  彼はもう、先ほど自分を殺そうとしてきた虎が、かつての友だと信じて疑わなかった。

  「お前が本当に李徴と言うのなら、どうしてそこから出てこないんだ…?」

  何もない草の中へ、袁傪は語り掛ける。目に見えない話し相手は、低く唸るような声で呟いた。

  「何を言うか、俺はもう人間じゃない。虎の化け物になってしまったんだよ。今更どうして、おめおめと友人のお前にこの浅ましい姿を晒せると思えるのだ」

  葉の隙間から微かに漏れ出す声から感じる、どことなく滲む博識な人間の話し方。聞けば聞くほど、あの頃と全く同じだ。

  いつしか止まっていた時間が動き出したような、物寂しい懐かしさを袁傪は感じていた。

  「でっ、では、やはり先程の虎は…」

  「私に決まっているだろう」

  その時、袁傪の足元にすっと何かが伸びる。それは、長年この森を踏みしめていたのが分かるほどに、泥と傷で覆われていた。

  月明かりがなくとも目立つ橙と白の毛皮に、幾筋もある黒の縞模様。ふっくらと膨らんだ指の先には、普段は仕舞われているであろう鋭利な爪が伸びている。

  「…!」

  それは紛れもない、虎の手であった。正確には、人間の手に虎の要素を混ぜ込んだような歪なものだったが。

  つまり彼は、完全な虎になったのではないのかもしれない。言葉を話せている時点で普通の動物とは異なるし、人と虎の半分を併せ持った生物という表現が最も近しいだろうか。

  「………そうか。ありがとう、友よ」

  袁傪はその手に触れることなく、言葉だけで了解を伝える。まだ消えてはいなかったらしい友としての繋がりのおかげか、李徴もまた理解を得たように手を引いた。

  後になって気づいたことだが、袁傪は常識の外れたこの状況を初めから素直に受け入れ、少しも疑いはしなかった。まるで、李徴が元から虎だったという事実すら知っていたかのように。

  「まさか虎になって生きていただなんて。私以外信じられないだろうね」

  「……ああ、そうかもしれないな」

  袁傪は隊に休憩するよう指示し、自身は叢の近くに座って、姿の見えない虎と会話を始めた。

  都での李徴の噂、消息を絶ったという話、そして袁傪が今の地位についたことに対する、李徴からの祝辞。その内容はいかにも久々の再会を果たした友人同士の会話であり、叢を隔てて行うようなものでは全くなかった。

  青年時代を懐かしむような二人の会話は話題を失い、次第に核心へと近付いていく。

  とうとう耐えかねた袁傪は、なぜ今の姿になったのかと、その理由を李徴へ投げかけた。

  聞くべきではないと躊躇いながらも、真相を知らずにはいられなかったのだ。

  彼は話したがらないと思っていたが、向こう側にいる李徴の声は、静かに話を始めた。

  「ああ…それは確か、今から一年前ほど前のことだっただろうか」

  ◇◇◇

  私が旅に出て、汝水のほとりに泊まった時のことだ。

  寝ている最中、ふと目が覚めると、外で誰かが私の名を呼んでいた。誰だろうと外へ出てみても、誰もいない。

  だが、呼ぶ声は一向に聞こえてくる。何度も何度も繰り返されている。

  恐る恐る声のする方を辿ってみると、それは林の闇の中からずっと聞こえていた。私は思わず、その声を追って走り出した。

  今でも理由はよく分からないが、何か、私はそれを追いかけなければならない気がしたのだ。

  私は無我夢中で走った。今まで自分でもしたことがないくらい、走り続けていた。十分か、二十分か、それ以上か。

  けれども、声の主にはいつまで経っても、どこへ行っても辿り着けない。しかし、不思議なことに息は全く上がらなかった。

  自分でも驚くぐらい長い時間を走っていたのに、むしろ心地が良いくらいに走ることが楽しくなっていた。どうして今までこんなに気持ち良いことに気付かなかったのだろうかと激しく悔やんだくらいだ。

  その後も私は、声を求めて走り続けた。木々の隙間を抜け、岩肌を蹴って、足元を掬おうとする土を振り払って、風を切る。

  まるで重力など感じないかの如く軽やかで、飛ぶように山の中を駆け抜けていた。

  どれほど草木を潜り抜けたか、どれほど長い間走り続けていたかも分からなくなってきた頃。

  ふと、私の左右の手が地面を掴んで走っていることに気が付いた。それはまるで本物の獣のように、ほとんど四足で走っていた。

  だが私は驚かなかった。そんなことが気にならないほど、気分が高揚していたからだ。走れば走るほど、四つの手足を酷使すればするほど、不思議と自分の中から力が満ち満ちていくのだ。

  血液が物凄い速度で全身を巡り、五感が研ぎ澄まされ、視界を通り過ぎる全てのものがゆっくりと見えた。

  手足が地面を蹴飛ばす力が更に強くなり、一歩一歩踏み潰していく枝の感触が堪らなく心地良くて仕方ない。

  疲れという感覚が消えていた。あるのはただ、噴火のように沸々と湧き上がる昂りだけ。

  今なら何でもできそうな気がする。今の私を止めるものは何もない、これであの奇妙な声に追いつくことができる!

  あり余った力を発散させるように私は岩山を軽々と飛び越え、花々の咲き誇る野を踏み倒して進んで行く。

  次々に通り過ぎる景色の中で私は、自らの体がみるみる熱くなるのを感じていた。走って汗をかくのとは違う、細胞の内側から指の先まで、ありとあらゆる隅々までが炎のように熱を帯びているのだ。

  地面を掴んでは蹴ってを繰り返す私の全身は鈍い音を立てて軋み始め、腕や胴体は丸太のように太くなり、色鮮やかな毛が手や肘にかけてびっしりと生えていたことに気がついた。

  しかしそれでも、体が変形する痛みすら興奮に搔き消された。足首を刺すちくちくとした痒みはいつしか消え、どこを踏んでも蛙のように飛び跳ねられる脚力に心が躍る。

  鉛のように縛り付けていた数々の束縛から弾き飛ばされたかのような開放感に身を包まれ、言い表せない感動に打ち震えていた。

  生まれて初めて感じる強大で豊かな生命力に酔いしれていたこの時の私は、肉体の変化などほんの些細な事だと無視し、ただ駆け回る事だけに奔走していた。

  その時にはもう、全て終わっていたのだろう。

  思えば、あの頃から私を呼ぶ声は聞こえなくなっていた。

  少し時間が過ぎ、月明かりが辺りを照らしてきた頃。ようやく落ち着きを取り戻した私が谷の川に向かって覗き込んでみると、既に私は虎となってしまっていた。

  否、不可思議なその現象が私自身に降りかかっていると、この時ようやく自覚したのである。

  人としての形を保ったまま、虎の外面だけを被ったような風貌となっていた。

  まるでこれは虎の化け物だと、酷く戦慄した。

  水面に映る凶悪なその怪物は、私が体を動かせば同じように動き、口を開ければ鋭利な牙を見せ、尻の先に生えた尾がゆらゆらと揺れているではないか。

  『なっ…なんだっ、これは…!?』

  私は自分の目を疑った。信じようとしかった。

  次に、これは単なる夢だと思い込もうとした。『夢だ』と理解していながら見る夢を、私は経験したことがあるからだ。

  しかし、いくらそう自覚しようとしても頭は朦朧としない。混乱する頭の中で、耳鳴りにも似た金音が目の奥で劈く。

  口の形は獣同然なのに、全く人間と変わらない言葉の発音ができているのが気持ち悪かった。

  けれど思考は透き通るように冴え渡っていくばかりで、それならば水に溺れて起きてやろうと川に顔を出せば、獰猛な獣がこちらを覗いていた。

  鋭い縦長の瞳孔が私を射抜いている。

  顔中に生えた夥しい量の獣毛が風に靡く。

  かつて両横にあったはずの耳が、額と同じ高さについている。

  突き出るような口と鼻は、人としての骨格からあまりにもかけ離れすぎている。

  これが本当に私なのか?

  夢ではないのか?

  月光に照らされた橙と白の毛皮と、無数に走る黒の縞模様に目が眩みそうだった。

  だが、川の向こうにいる”それ”は、深い闇を携えた瞳で私を見ていた。

  この醜い虎は、お前自身であると。

  これが夢ではなく現実なのだということを悟らなければならなくなった瞬間、私は呆然とした。

  同時に、何事も起こるものだと深い[[rb:懼>おそ]]れを覚えた。何故私がこんなことになったのだろうかと。

  分からない。私たちには全く、何もかも分からない。

  訳も分からず押し付けられたものをおとなしく受け取り、その理由も知らずに生きていくのが人間という生き物の運命なのだろうか。

  私はすぐに死を想った。

  人としての姿を失った私に、生きる気力など湧くはずがなかった。

  だがその時。目の前を一匹の兎が通り過ぎるのを見た瞬間。

  ───私の中の”人間”は、忽ち姿を消した。

  再び”人間”が目覚めた時、私の口は赤黒い血に塗れ、手には生温かい感触が残り、辺りは真白な毛皮が散らばっていた。

  これが、私にとって初めての…”虎”としての経験であった。

  それ以来、今までにどんな所業をし続けて来たかは、到底語るに忍びない。

  ただ、一日のうち何時間かは、必ず人間の心が戻って来る。その時間内でなら、これまでのように人語を話せれば複雑な思考もできるし、経書の章句を[[rb:諳>そら]]んずることもできた。

  その時間の中で、『虎』としての私が為してしまったであろう残虐非道な行いを振り返る時が最も情けなく、恐ろしく、そして腹立たしく思ってしまうのだ。

  それも悲しいことに、人としての時間も日を追うにつれて短くなっている。

  これまではどうして虎になってしまったのかと怪しんでいたはずなのに、ついこの前は、どうして私は今まで人間だったのだろうかとふと考えていたのだ。

  恐ろしいことだ。あまりにも。

  あと少しばかり時が経ってしまえば、己の中にある人の心は、獣としての習慣の中に完全に埋もれて消えてしまうのだろう。古い宮殿の礎が、少しずつ土砂の下へと埋没していくように。

  そして終いには完全に私にある人間としての人格も過去も忘れ果てて、ただ一匹の虎として狂い廻り、今日のように出会った人間を友人だとも分からず、その身を引き裂いて喰っても何も感じなくなるのだろう。

  そもそも、人も獣も、元は何か他のものだったはずなのだ。

  初めはそれをしっかりと覚えているのだが、それも次第に忘れてしまい、初めから今の形だったと思い込んでいるのではないだろうか?

  なあ、そうだとは思わないか?

  …いや、今はそんな事などどうでもいい。

  己の中の”人間”が消えてしまえば、おそらくはその方がずっと幸せになれるはずだ。だというのに、もう一人の私は、そのことをこの上なく恐ろしく感じているのだ。

  ああ、全く、どんなに恐ろしく、悲しく、切なく思っているのだろうな! 己が人間だった頃の記憶が無くなる事が!

  この気持ちは誰にも分からない。誰にも分かるはずがない。

  私と同じ状況に成った者でなければ。

  ところでそうだ。私が完全に人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがあるのだが…聞いてはくれないだろうか。

  ◇◇◇

  袁傪の一行は、息を呑んで[[rb:叢中>そうちゅう]]にいる声が語る不思議な話に聞き入っていた。信じる者、信じない者、様々な感情を、早朝の静けさに渦巻かせながら。

  その声は、さらに続けて言葉を紡ぐ。

  ◇◇◇

  他でもない、私は元来詩人として名を残すつもりでいた。しかし未だ何も成せないまま、虎になるという今の運命に至っている。

  これまで生み出してきた詩は数百編ほどあるが、当然ながら世に出ていない。置いてきた遺稿の所在も最早判らなくなってしまっているだろう。

  その中で、今もまだ覚えており、諳んじることができるものが数十はある。そこで、これを記録して欲しいのだ。

  何も、たったこれだけで一人前の詩人ぶりたい訳ではない。出来栄えなどどうでもいい。

  ただ、財産を食い潰し、自らが気を狂わせてまで没頭し、生涯をかけて拘ったものを、ほんの少しだけでも後世に伝えなければ…死んでも死にきれないのだ。

  ◇◇◇

  袁傪は部下に命じて、筆を執って叢中の声に従って書き取らせていく。

  李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長いものや短いものを合わせて三十篇。格調は高く、意趣卓逸で独創性も高い。

  少し聞いただけで、作者の才能が並みではないことを感じさせるかのようだ。しかし袁傪は感心しながらも、漠然とした違和感を抱えていた。

  なるほど、作者としての素質が一流であることには間違いない。

  ただ今のままでは、第一流の作品としてはどこか非常に微妙な点において足りない部分があるのではないか、と。

  古い詩を吐き終えた李徴は、突然声の調子を変えて、自らを嘲るかのように言った。

  ◇◇◇

  恥ずかしいことだが、こんな浅ましい姿と成り果てた今でも私は、自分の詩集が長安の風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがある。岩窟の中で横たわって見る夢にだ。

  ……嗤ってくれ。詩人を夢見ては打ち砕かれ、挙句虎に成り果てた哀れな男をな。

  そうだ。お笑い草ついでに、今の想いを即席で詩にして述べてみようか。

  この虎の中に、まだ、李徴という存在が生きているというしるしに。

  ◇◇◇

  袁傪は再び、部下に命じてこれを書き取らせた。その詩を以下に記す。

  偶因狂疾成殊類 災患相仍不可避

  今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

  我為異物蓬茅下 君己乗軺気勢豪

  此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷

  いつしか沈みかけている月の光は冷たく、白い朝露は草や地面を濡らし、木々の隙間を吹き抜けていく冷風が夜明けの近さを伝えていた。

  袁傪だけではない。ここにいるすべての人々が、この奇怪な状況を忘れ、叢の向こうから聞こえる虎の詩人の不幸を嘆き、聞き入っていた。

  その声の主は、さらに続ける。

  ◇◇◇

  なぜこんな運命になったか分からないと先ほどは言ったが、考えてみれば、思い当たることが全くない訳ではない。

  人であった時、私は他人との交わりを極力避けた。そんな私のことを、人々は倨傲だ、尊大だと言っていただろう。

  だがそれは、実を言えば、ほとんどが私自身に対する羞恥心に近いものであるということを、奴らは知らなかった。

  もちろん、郷里の鬼才とうたわれた私に、全くの自尊心がなかったとは云わない。しかしそれは、”臆病な”自尊心と称するのが最も相応しかっただろう。

  詩によって名を残そうと思っていながら進んで師に就き学ぶことをせず、目的を同じくする詩の友と切磋琢磨することもしなかった。

  かといって、凡人に紛れて生きることも決してしたくはなかった。

  そのどれもが、私の中に巣食っていた、臆病な自尊心と尊大な羞恥心の[[rb:所為 > せい]]だ。

  もし私に本当に才能が無かったらと思うと、怖くて、恥ずかしくて堪らなかったのだ。だから私は[[rb:態>わざ]]と努力を避け、絶対に人並外れているはずだと己の能力を過信し、平凡な世間の波に飲まれて生きることを嫌った。

  当然、他人と付き合うこともなくなった私は次第に世間と切り離され、悶えるような苦悩や苦しみ、そして羞恥を独りで抱え続け、私の心の中にある臆病な自尊心を飼い肥らせていったのだ。

  『人間は誰しもが猛獣使いである。その猛獣こそ、己自身の性情だ』という言葉を聞いたことがある。

  私の場合、この”尊大な羞恥心”が猛獣だった。

  虎だったのだ。

  この[[rb:獣>けだもの]]が私という人間を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、挙句の果てには私の体をこのとおり、心の内と全く同じものに変えてしまったのだ。

  今思えば、全くもって私は…私の持っていた僅かばかりの才を空費してしまったという訳だ。

  人生は何もしないでいるには長すぎるが、何かを為すには短すぎる。

  そんな忠告の言葉を口先で弄びながらも本当は、心の奥底では、才能が足りないことが露呈してしまうかもしれないという卑怯な恐れと、努力を[[rb:厭 > いや]]がる怠けた心が…私の全てだった。

  私よりも乏しい才能を持ちながら、それを一心に磨いたがために、立派な詩家となった者が大勢いるというのに。

  虎に成り下がった今、私はようやく気が付いたのだ。しかしそれを思えば思うほど、胸の奥を灼き尽くすほどの後悔に駆られてしまう。

  もはや私は人間としての生活などできない。人前にすら出ることも叶わない。

  たとえ今この瞬間、どんなに優れた詩を作ることができたとしても、それを誰かに伝える手段などない。

  ましてや、私の思考は日を追うにつれてどんどん虎へと侵食している。どうすればいいのだ?

  無駄に浪費されてしまった私の過去は? 行き場のないこの感情をどこへやればいい?

  そう思う度に、私の心は堪らなくなる。思い出すだけでも恥ずかしい過去の私を、この爪や牙で引き裂いてしまいたくなるほどに。

  こういう時、私は向こうの山の頂に上って、何もない虚ろな谷へ向かって吠える。獣となったこの身を焦がすようなやるせない悲しみを、何でもいいから訴えなければ気が狂ってしまうのだ。

  ちょうど昨日も、あそこで月に向かって吠えていたな。

  だが、他の獣たちは私の声を聞いても、ただ恐れ、ひれ伏すだけだ。誰も私の声を聞くものなどいない。

  山も、樹も、月も、露も、ただ一匹の虎が怒り狂って吠えているとしか考えていない。四肢を投げ出して天に踊り、何度も何度も地に頭を伏して嘆いても、誰一人として私の気持ちを分かってくれる者などいない。

  私が人であった時、己の傷つき易い心を誰も理解してくれなかったことのように。

  私の毛皮が濡れているのは…何も夜露だけのせいではないのだ。

  あぁ、明るくなってきたな。角笛の音もどこからか聞こえる。

  もう、別れを告げねばならない。酔わねばならない時が近づいてきたらしい。

  だが別れる前にもう一つ、お前に頼みたいことがある。妻や子のことだ。

  まだ虢略にいるはずだろう。言うまでもなく、私のこの末路を知っているはずもないが。

  もしお前が嶺南から帰った時、『李徴は死んだ』とだけ、伝えて貰えないだろうか。決して、今日のことは誰にも明かさないで欲しい。

  厚かましい願いだとは百も承知している。こんな無様な姿になった私が、お前に物乞いをできる立場にあるとも思わない。

  しかし、せめて彼らだけでも可哀そうだと思って、道端で飢えたり凍え死ぬことのないようにしてもらえたら…これ以上に有難いことはない。

  ◇◇◇

  言い終わると、叢の中から慟哭が響き渡った。人の絶叫と虎の咆哮が入り混じった、しかし確かに人間の感情を残した、きつく心を締め付けられるような哭き声だった。

  「ああ…分かった。君の言う通りに事を進めるから、安心してくれ。妻と子供も、僕の方でなんとかしよう」

  袁傪は涙を浮かべながら、喜んでその願いを聞き入れる。その答えに安堵したのか、虎の声は次第に静けさを取り戻していく。

  だが、李徴はすぐにまた自嘲気味な口調に戻って話し始めた。

  ◇◇◇

  私がまだ人間でいられたのなら、本当はまず、このことを先に頼むべきだったのだ。

  凍え死にそうな妻子のことよりも成功の見込みもない漢詩に気を取られ、自分の栄誉しか気にかけていないような男だから、こんな醜い獣へと身を堕とすのだろうな。

  全くもって、相応しい末路だ。

  ああそれと、お前が嶺南から帰る時は、絶対にこの道を通らないで欲しい。もうその頃には、私は完全に人としての心を失くし、友人だと言えど、今度こそ本当に襲い掛かるだろうからな。

  そうだ。別れた後で前方百歩にあるあの丘の上に登ったら、此方を振り返って欲しい。私は再び、この醜い姿をお目にかけてやろう。

  ああ、別に勇ましい所を見せたいとか、自慢したいとかそういう事ではない。

  この薄汚い醜態を示して、帰りにまた会いに来ようなどという生易しい気持ちを起こさせないようにするためだ。

  ”獣”という存在がいかに恐ろしいかをその目に焼き付けて、憶えておいてくれ。

  ◇◇◇

  そう言い終えた姿の見えない虎に、袁傪は少し、了承の意を伝えるのを躊躇った。

  世間に戻れないとしても、せめてどうにかできないかとも考えたりもしたが、旧き友には見えずとも見透かされてしまっていたらしい。

  「お前はいつも優しすぎるからな。食い殺されても構わないなどと言ったら、私は今ここで舌を噛み切って死ぬぞ」

  「はは、そういう極端なところは昔と変わらないな、君も。それじゃあ、これが本当に…最後の別れか」

  互いを隔たる叢に、朝日が差し込んでいく。頭上を覆っていた暗闇が薄くなり、空の高さがはっきりと見えてくる。

  誰も、言葉を発さなかった。ここにあるのは、別れを惜しむ友同士の悲しみだけだ。

  叢に座る人間は、これ以上の会話は不要だと口を閉じる。行き場のない溜息が、澄んだ空気に溶けていく。

  かつて人だった哀れな友へかける最後の慰めは、沈黙だった。

  猛獣の唸り声が聞こえる。憤りに任せて喉を鳴らしているのか、悲しみに暮れて涙を呑んでいるのか、それは誰にも分からない。

  彼以外、誰にも。

  「……達者でな、袁傪。押し付けてしまってすまないが、後はよろしく頼む」

  「ありがとう。君も、きっともうすぐいなくなってしまうのだろうけれど…それでもせめて、元気でいてくれよ」

  袁傪は叢に向かって、静かに別れの言葉を告げた。もう会えなくなる、一人の友人を想って。

  馬に跨り、出立する。護衛たちが一人、また一人と道を往き、最後となった袁傪は、最後にもう一度叢を見やった。

  するとそこからは、溢れ出る哀しみを抑えきれないというような鳴き声が漏れていた。

  これまでの話は全てただの御伽噺で、彼は本当は人間のままなのではないかと、袁傪は馬を降りて叢の向こう側へと走り出したくなった。

  しかし、頭をよぎるは彼の言葉。友として、最期の願いを任された者として、ここでその約束を破る訳にはいかない。

  彼の悲しみを、苦悩の末にようやく得た答えを、踏み躙ってはいけない。

  袁傪は馬を走らせた。何度も何度も、嗚咽の聞こえる叢を振り返りながら。

  かつての友へ、惜別の情を込めて。

  李徴の言った丘に袁傪一行が辿り着くと、彼らは言われた通り、先ほどまでいた林の方を眺めた。

  すると、すぐに大きな体躯を誇る一匹の虎が。否、二足で立つ虎の人間が、茂みの中から道の上に飛び出すのを見た。

  途轍もなく俊敏で、力強く、強かな逞しささえ感じさせる。寂しげな新緑の中で輝く橙の毛皮は、彼をどこか神秘的な化け物に思わせた。

  それは、己という猛獣に呑まれた、哀れな人間の成れの果て。

  [[rb:獣>けだもの]]となった友。

  きっともう、人ではなくなったのだろう。

  その虎は、既に光を失いつつある白い月へと向かって吠える。

  吠えて、吠えて、泣き叫ぶように吼える。

  僅かに残った己の『人間』を、最期の最期まで絞り出すように。

  二、三度咆哮を終えると、虎は元いた叢の中へと踊り入る。

  どれほど目を凝らそうとも、色鮮やかな毛皮も、しなやかな巨躯も見えない。

  何事もなかったかのように、朝露を帯びる木々が揺れているだけだった。

  そして、再びその姿を見ることはなかった。