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[chapter:序章:聖女の儀]
霧がかった朝の空気に、聖なる鈴の音が静かに響いていた。
白き神殿の高台、磨き上げられた石畳の上に、祭礼の列がゆるやかに進んでいく。鳥のさえずりも遠慮するように、世界がその歩みに耳を傾けているかのようだった。
その列の先頭に立つのは、一人の少年。
年端もゆかぬその子は、胸元まで届く黒髪を柔らかく流し、雪のような白の祭服に身を包んでいた。布は薄く、風にひるがえるたび、内側の華奢な肢体が透けて見えるほどである。
だが、その顔には幼さと共に、不思議な光が宿っていた。
緊張と、不安と、決意とが混ざり合ったまなざし。
──その名は、フリット。
神託の下、「聖女」として選ばれし人間の少年。
神殿で育てられ、今日ついに、王城へと迎えられる。
左右に並ぶ神官たちの足音は静かだったが、儀仗の鎧が鳴る音が、列の後方から低く響いてくる。
神殿から王城までを護送するのは、選び抜かれた獣人騎士団。
その威容は並ぶ者なく、列の進行と共に、朝霧の中に鋼鉄の響きを残していた。
「開門ッ!」
城門前で、門番が声を張る。
ゆっくりと開いていく巨大な扉の奥、陽光の中に現れたのは、獅子の顔を戴く王スマリントと、その傍らに立つ白金毛の王妃。
そして彼らの背後には、整列する騎士たちと、無数の臣下の姿。
全てが、少年ひとりのための光景であった。
フリットの足元がふるりと揺れる。
(……僕が、ここで……)
その小さな胸に、恐れと、期待と、使命とがないまぜになったそのとき──
「進め!」と声が飛ぶ。
神官の合図で、ゆっくりと列が動き始めた。フリットは深く息を吸い込み、前を見据えて歩を進める。
やがて、玉座の間へと至る。
高天井の大広間。香木の香りと、獣毛の温もり。金細工の装飾が太陽の光を受けてきらめく中、フリットは玉座に立つ王と王妃の前へと進み出る。
「……よう来てくれたな、聖女殿」
王スマリントの声は低く、しかしその瞳はまるで孫を見るように温かかった。
フリットはひざまずくと、静かに頭を垂れる。
「はい……私は、神託に従い、この身をもって務めを果たす所存です。どうか、よろしくお願いいたします」
その姿に、臣下たちがざわめきを飲み込む。
王はひとつ頷くと、背後の騎士へ視線を向けた。
「ガルグ・ド・バズトルよ──出でよ」
「はっ!!」
踏みしめるような重い足音が、広間を震わせた。
大柄なその獣人は、猪の頭部を持ち、顔には幾つもの古傷が走っていた。肩幅は広く、鎧の下に鎮座する筋肉はまるで鉄の塊のよう。
だがその目は、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない忠誠心が宿っていた。
「聖女フリット様──我が名はガルグ・ド・バズトル。猪獣人にして、王国軍将軍。……今この刻より、貴女様の剣となり、盾となり、この命に代えてもその御身をお守りいたします!」
堂々たる声が響き渡る。
驚いたようにフリットが見上げると、その視界に「猪の顔」が飛び込んできた。
(うわっ……)
その威容、その声量、その存在感──まさしく「獣の将」。
思わずのけぞりそうになるフリット。
だが、次の瞬間。
「……どうか、ご安心を。私めは、貴女様に決して牙を剥くことはありません」
そう言って、猪の将は膝を折り、顔を伏せた。
背を地に伏せるほどの姿勢。まるで、自らを下僕として捧げるかのようなその姿に、フリットはひとつ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(この人は……怖くない……)
手袋を嵌めた大きな手が、礼の印としてフリットの前に差し出される。
戸惑いながらも、その手にそっと指先を重ねると──
「はっ……!聖女様の御手……!!」
ガルグの尻尾が、ぶんぶんと振り回される。
――パシン。
銀扇の鋭い音が響いた。
「記録いたします。一件目、初対面にて尻尾暴走」
静かに立つメイド服の女。黒毛の猫獣人。
それが、ルセルバ・セイルであった。
銀の瞳は冷たく、しかし彼女の動きは優雅だった。
「ルセルバと申します。以後、聖女様のお世話を担当いたします」
「よ、よろしくお願いします……?」
またひとり、強烈な個性が増えた気がする。
「我はスマリント王妃。フリット様、ようこそお越しくださいました。……これからは、この城があなたの居場所です」
白金の髪が揺れる。王妃の言葉に、フリットの瞳が揺らぐ。
(居場所……)
神殿は聖域だったが、あまりに静かで、どこか冷たかった。
けれど、この城は──温かさがあった。
フリットがまだそのことに言葉を見つけられずにいると、今度は無骨な黒鎧の男が一歩進み出た。
耳が垂れた犬獣人。
名を、セイムという。
「副将軍、セイム。以後、聖女様の御身に万一あらば、将軍に代わり私が対処いたします」
その口調は簡潔で、感情の起伏も乏しい。
だが不思議と、怖くはなかった。
(みんな、僕を……迎えてくれてる)
そう思った瞬間、フリットの中で何かがほどけたように思えた。
そして──
その日から、「聖女フリット」の城での暮らしが始まった。
白き少年と、猪の将。
その出会いは、静かに、けれど確かに、運命の幕を開けていた。
[newpage]
[chapter:第一章:鋼の背、猪の誓い]
王城の一角、白亜の回廊を通って、フリットは案内されていた。
祭服から日常の礼服に着替えたばかりの彼は、まだ城の空気に慣れていない様子で、そっと手を胸にあてて歩いていた。
すれ違う騎士や侍女たちが頭を下げるたびに、(どう返したらいいんだろう……)と小さく戸惑う。
慣れぬ環境、慣れぬ視線。けれど、彼の横には、影のように静かに歩く黒猫の獣人、ルセルバの姿があった。
「……こちらが、聖女様のお部屋でございます。日々のお世話、ならびに生活の補助は私が責任をもって行わせていただきます。どうかご安心を」
「ありがとうございます。えっと……あの、今さらなんですけど、部屋に鍵って──」
フリットが問いかけた瞬間、ルセルバが足を止め、静かに振り返った。
「配備済みです」
そして視線だけを、廊下の壁際へと向ける。
そこには──甲冑をまとい、完全なる直立姿勢で控える猪獣人の姿。
見慣れつつあるとはいえ、やはり圧が強い。
「……ガルグさん、なんですね。鍵って……」
フリットの呟きに、ルセルバは頷く。
「ええ。聖女様の寝所へ、余人の足を踏み入れさせない“封鎖機構”として、これ以上の者はおりません」
「封鎖機構て……人ですよね……?」
思わず口にしたフリットの困惑を余所に、ガルグは胸を張って応える。
「聖女様、護衛騎士ガルグ・ド・バズトル、只今より常駐警備任務に入らせていただきます!」
その声は廊下に響き渡り、壁の燭台が微かに揺れるほどであった。
「……え、今から、ずっとここに……?」
「左様にございます!この廊下、寝ずの番をさせていただきますゆえ、どうぞ御身を安んじてお休みくださいませ!」
「えっ、寝てください!? っていうか、寝なきゃダメですよ、体に悪いですよ!?」
「むっ!? いやしかし、聖女様をお守りするという使命が……っ」
眉間に皺を寄せ、尾をぴくりと揺らすガルグ。
その表情には戸惑いと、けれど決して揺らがぬ忠義の色がにじんでいた。
「……そんなに、気を張らなくても大丈夫です。ガルグさんがいてくれるだけで、もう安心してるから」
「…………」
その一言に、ガルグの表情がわずかに緩む。
「……承りました。お言葉、胸に刻みます」
そう言って、ガルグは再び居住まいを正し、扉の横で直立する。
まるで壁の装飾の一部かと見まごうような、動かぬ守りの姿。
フリットはその横を通りながら、そっと小さく、けれど丁寧に一礼をし、部屋へと入っていった。
***
夜──。
フリットは目を閉じていたが、眠りは浅く、微かな空気の動きにも意識が引き戻される。
寝台の上、天蓋の布がゆらりと揺れ、外から漏れ込む月の光が、室内の空気にほのかな青白さを添えていた。
(……まだ、立ってるのかな)
体のどこかが、そわそわする。静かなはずの空間なのに、誰かが近くにいると感じる安堵が、反対に気になってしまうのだ。
ふと起き上がり、布団の足元に掛けてあったブランケットを手に取り、扉を静かに開けた。
──そこには、灯火の揺れる廊下に佇む、巨大な背中。
微動だにせず、ただ静かに立ち尽くす将の姿があった。
「……ガルグさん」
「……っ! 聖女様!? 何かございましたか、ご就寝中に……」
「……これ、どうぞ」
差し出されたのは、小さなブランケット。昼間のうちに温められていたそれは、手の中にまだぬくもりを宿していた。
「体、冷えますよね。ずっと立ってると、風邪引いちゃいますから」
その言葉に、ガルグは何かを言いかけたが──
しばし無言のまま、両手でそっとブランケットを受け取る。
「……ありがとう、ございます……。このガルグ、生涯忘れませぬ……」
その言葉には誇張も装いもなかった。ただ、まっすぐに心からの礼。
布を握る手の厚みと、ぎこちなく揺れる尻尾が、その真摯さを物語っていた。
フリットはそれを見て、少し微笑んだ。
「おやすみなさい、ガルグさん」
「はっ。聖女様に安らかな夢路が訪れますよう……」
そうして再び、静けさが戻る。
扉の向こう、ベッドの中に戻ったフリットは、微かな灯火の光を瞼に感じながら、小さく囁いた。
「……なんだか、やっぱり……ちょっと、安心するな」
その声は、誰に聞かれることもなく、ただ柔らかく夜に溶けていった。
[newpage]
[chapter:第二章:はじめての笑顔]
春の光が城の中庭に降り注いでいた。
青く澄んだ空の下、若葉が風に揺れ、噴水のしぶきが細かくきらめく。
そこに一人の少年がいた。
白いエプロンを胸までかけ、小さな手で捏ねた生地を器用に分けていく。
「……もうちょっと、水を足したほうが……」
フリットは手元を覗き込みながら、木の卓上で丁寧に生地を整えていた。
彼の前に並ぶのは、数枚の焼き石板。その脇には、干し葡萄、蜂蜜、そして香草が置かれている。
そしてその傍ら、腕を組んで控えている巨体の獣人──ガルグ・ド・バズトル。
甲冑は脱ぎ、紺の軍装に身を包んだ彼は、立っているだけで存在感があった。
陽の光を受けるたび、肩の金具が光を反射し、彼の猪の頭部が静かに動くたびに、獣毛の首元がもこもこと波打つ。
ガルグは口を開くでもなく、ただその鋭い眼でフリットの手の動きを見つめていた。
「えっと……ガルグさん、怖くないですよね? この、火とかで、焼くの……」
「怖くは……ございません。ただ、興味がございます」
「興味?」
「聖女様が、なぜご自身の手で食を整えようとされるのか……それが、どうしても不思議に思えるのです」
ガルグの言葉は素直で、敬意に満ちていた。
フリットは少し笑った。
「僕が料理すると、ちょっとだけ“力”が入るんです。神殿でそう言われてました。……でも、本当は、自分の手で何かを作るのが好きなだけかもしれません」
そう言って、フリットは生地を丸く整えながら、ほんの少しだけ蜂蜜を落とした。
その手の動きは丁寧で、清らかで──
次の瞬間、彼の手の周囲が、ふっと淡い光に包まれた。
「……!」
ガルグが息を呑む。
白い輝きがふわりとパン生地を包み、柔らかに、温かに、その姿を変えていく。
「焼き上がったら、食べてみてくださいね」
にこり、と。
フリットは自然な笑顔を見せた。
その瞬間、ガルグの心臓が、どくんと大きく鳴った。
……こんなにも、あたたかい光があるのか。
……こんなにも、柔らかい表情が、あるのか。
それは、まるで自分が守るべき「神聖」そのものが、目の前に息づいていると知らされるような──
「……聖女様」
「ん?」
「…………」
言葉が出てこない。
代わりに──ガルグの尾が、ばさっ、と大きく跳ねた。
ぶんっ、ぶんっ!!
「……っ!?」
風を巻き起こすほどの勢いで尾を振るその音に、フリットが目を丸くする。
石板の上の干し葡萄が転がるほどの風圧だ。
「ガルグさん!?」
「し、失礼いたしました! これはその……っ」
うろたえながら背を丸めるガルグ。
そこへ──
パシン。
乾いた音が空を切る。
「記録いたします。中庭にて、第三件目・尻尾暴走」
音もなく背後に現れたのは、もちろんルセルバである。
銀扇を片手に、完璧な距離と角度で尻尾にツッコミを入れていた。
「むっ!? いかんか!? いやしかし……っ」
「第三件目です」
「ぬ、ぬううっ……す、すまぬ……!」
何度繰り返しても、反省は薄い。
フリットはそのやり取りを見ながら、思わず吹き出してしまった。
「あはは……ふたりとも、面白いですね……」
その声に、ふたりの獣人が同時にぴしりと姿勢を正す。
「失礼いたしました!」
「失礼いたしました」
「ふふ……大丈夫です。怒ってるわけじゃないですから」
フリットのその笑顔は、まるで春そのものだった。
***
昼下がり、焼き上がったパンはふわりと香りを立てていた。
小麦と蜂蜜、干し葡萄の甘さに、ほんの少し香草の爽やかさ。
ガルグは両手で丁寧にそれを受け取り、ひとくち──。
「…………ッ!!」
鼻を鳴らす音すら忘れ、次の瞬間。
「──う、うまい!!!」
その叫びが、中庭に轟いた。
「……っ!? ガルグさんっ、そんな大声──!」
またしても、尻尾が。
ぶんっ!
空を裂くように振り切られたそれが、ルセルバの銀扇に迎え撃たれる。
「四件目、記録します。大声、及び尻尾反応。食後直後に興奮」
「む、むっ……っ! な、ならぬか……!? いやしかし、この味は……っ!!」
尾を抑えながらも、パンを見つめるガルグの顔には、少年のような無邪気さが浮かんでいた。
フリットは、思わず笑った。
「ふふ……よかったです。口に合って」
「合うどころではありませんっ……! これは……神の、いや、聖女様の……いや、天上の……っ!」
「そんな大げさな」
口元を手で押さえながら、フリットはまた微笑む。
ルセルバは無言で、また一件、記録を加えた。
けれどその頬には、ほんのわずか──影のような微笑が、確かにあった。
[newpage]
[chapter:第三章:遠乗りと虹]
王城から南東の丘陵地へ向かう古道は、草の香りが濃く漂う初春の風に包まれていた。
うねるように続く獣道の先、陽光にきらめく草の海を抜けて進む騎馬の一団があった。
その最前列、巨体の黒馬を操る獣人の将軍と、その前にそっと座る白装束の少年。
「……揺れ、大丈夫でございますか、聖女様」
「うん、大丈夫……その、背中があったかくて」
少年──フリットはそう答えると、そっと背を預けた。
馬の鞍に跨るにはまだ体格が足りぬため、ガルグの前に抱かれるような形で座っていた。
その距離は近く、声を出さずとも鼓動が伝わるほど。
背に感じるのは、厚い胸板と温かな獣毛。
そして、甲冑ではない軍装越しの、ごつごつとした安心感。
(……このあたたかさ、なんだか……)
フリットは目を伏せた。
緊張ではない。けれど、落ち着かないのは確かだった。
一方のガルグは、慎重に手綱を引きつつも、内心は嵐のようだった。
(ぬおおお……っ。こ、これは近すぎる……ッ! いやしかし、この姿勢しかなかろう、聖女様の安全のために……っ)
意識せずにはいられない距離。
柔らかな黒髪が肩に触れ、背中の熱が胸へと流れ込んでくる。
思わず尾が動きそうになるも、ガルグは気合で抑え込んだ。
(ダメだ……っ。ここで尾を振ったら、馬が暴れる……っ!)
だが、フリットの小さな呟きが、爆弾を落とした。
「……あったかいな」
「──っッ!!!」
尾が一瞬、ぐらつく。
馬がひとつ、くいと首を傾けたが、どうにか保たれた。
「ガルグさん?」
「い、いえ……問題ありません、聖女様……っ!」
その声が裏返っていたことに、本人だけが気づいていない。
***
一行は、王城から数十里離れたガルグ邸の敷地へ到着した。
砦のように堅牢な構えの邸宅は、かつて軍属の者たちが寝泊まりしていた名残を残している。
敷地の奥、草地の向こうに広がる湖へと、フリットはガルグに案内されていた。
「ここ……こんなに広いんですね」
「ええ。私が将軍に就任した頃、王から下賜された地です。……あの頃は、まだ部下も粗野で、砦と呼ぶにふさわしい場所でしかありませんでした」
「でも、いまは……風が気持ちいいです」
湖畔には誰の姿もなく、空の青と水面の色が一つになっていた。
草の匂い、湿った土の温もり、そして──
淡い霧が、水面にかかっていた。
風が吹いた瞬間──
「……っ!」
霧が舞い、湖上に、虹が現れた。
それは、まるで神託のように。
「ガルグさん……っ!」
「はい……。この景色を、聖女様にお見せしたくて……」
ガルグは静かに答えた。
その顔には、誇りと、喜びと、どこか照れたような表情が浮かんでいた。
フリットはしばらく、口を開けたまま見上げていた。
水音と、光と、色と。すべてが溶け合うこの瞬間に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「……すごく、きれい。ありがとう、ガルグさん……」
「……っ! そ、それは……っ」
ガルグの尾がぶんっ!と振れた瞬間、地面に刺したままの槍が倒れた。
それを見て、フリットが吹き出す。
「ふふ……もう、ガルグさん、ほんとに……」
あどけない笑顔。屈託のない笑い声。
それは、城ではまだ見せたことのない“子ども”の顔だった。
ガルグは、その姿を目に焼き付けるように、ただ見つめていた。
(……この命に代えても、守らねばならぬ)
心の奥で、誓いが深まっていく。
***
夕暮れが近づき、空は橙色に染まっていた。
ガルグ邸では、騎士団の使用人たちが馬具の整備を行い、厨房では軽食が用意されていた。
フリットは広間の窓際で、ぼんやりと空を眺めていた。
「……もう、帰らなきゃいけないんだ」
つぶやいた声は、どこか寂しげだった。
そのとき、扉の向こうから足音が響く。
重く、しかし静かに調律されたその歩みは、彼にとってもう馴染み深いものだった。
「聖女様」
「……ガルグさん」
「馬の準備が整いました。……お戻りになられますか?」
フリットは、少しだけ黙っていた。
言葉を選ぶように、窓の外を見つめたまま──
「……ほんとは、もうちょっと、ここにいたいなって。そんな気持ち、ダメですか?」
問いかけに、ガルグの尾が、反射的にぶんっ。
「っ……! あ、いや……す、すみませぬ……!」
振り上げたまま慌てて抑える姿に、フリットが微笑む。
「……ふふ、やっぱり面白いな、ガルグさんって」
「私のようなものが、聖女様に笑っていただけるとは……光栄にございます」
「ううん。僕のほうこそ、楽しかったです。……ガルグさんが、いてくれて」
その言葉に、ガルグは言葉を失い、ただひざをついた。
「……この命、この魂、あなた様の微笑のために」
フリットは、そっとその大きな頭を見下ろしながら、小さく囁いた。
「……また、来てもいいですか?」
「何度でも。聖女様の望むままに」
外では、騎士たちが静かに出立の準備を整えていた。
その光景を背に、ふたりはまだ、夕日の中にいた。
[newpage]
[chapter:第四章:風邪と看病]
旅の余韻がまだ胸に残る翌朝、フリットは静かに目を覚ました。
けれど、喉の奥に違和感があり、体を起こそうとした瞬間、視界がゆらりと揺れた。
「……あれ……?」
額に手を当てると、熱があった。
喉は乾き、身体はだるく、胸の奥にひゅうと風が吹き抜けるような寒さがあった。
そのとき──
「聖女様……!?」
扉が開き、ガルグの声が轟いた。
「なっ、なにゆえお顔が青白い!? 聖女様、お身体に何が──!」
「が、ガルグさん……っ、声が大きくて……」
「あっ、す、すみませぬ……!」
慌てて声を抑えたガルグだったが、すでにその顔は明らかに血の気を失っていた。
彼は一歩、二歩と近づくと、ベッド脇に膝をつき、両手を地につけて項垂れた。
「く……っ、遠乗りなど、余計なことを……! この私が……不覚……っ!」
「そ、そんな……違います、僕が……ただ、少し疲れちゃっただけで……」
「いえ!! いかなる理由であれ、私の判断によって貴女様を弱らせてしまったこと、まごうことなき過ち……!」
フリットが慌てて腕を伸ばすと、その手に触れる前に、ガルグが涙を浮かべて顔を上げた。
「代われるものなら、代わって差し上げたい……っ! この命などいくらでも差し出しますゆえ……どうか、痛みも苦しみも、私にだけ──!!」
その叫びに、フリットは息を飲んだ。
涙ぐんだ目は、まるで幼子のようであり、猛将の貌ではなかった。
「……ガルグさん」
「……っ」
「……ここに、いて?」
その一言に、ガルグの体がびくりと震えた。
「はい……っ、今すぐ……ッ」
ばきっ!
その瞬間、彼の尾が勢いよく跳ね、近くの机の脚にぶつかった。
見事に脚が外れ、机はごとんと傾いた。
「わ、わああっ!? ガルグさんの尾がっ……!」
「す、すみませぬッ!! 今すぐ修理を……ッ、ルセルバを──」
「いい、いいから! 動かないで……!」
混乱の中、フリットが笑ってしまいそうになるのを懸命に抑えた。
「でも、ほんとに……そばにいてくれるだけで、安心するんです」
そう言って目を閉じたフリットの顔は、熱のためかほんのり紅く染まっていた。
***
その夜、室内は静かだった。
扉の外には医官が控え、ルセルバは食事の管理を済ませて引き下がった。
フリットは眠っていた。
ガルグは椅子に座ったまま、微動だにせず、その寝顔を見守っていた。
柔らかな寝息。汗ばむ額。軽く握られた手。
そのすべてが、命の輝きに見えた。
(……この掌から、温もりが消えることなど、あってはならぬ)
ガルグはそっと、毛に覆われた大きな指で、フリットの頬に手を伸ばした。
極めて慎重に、羽のように軽く、触れるか触れないかの距離で、撫でた。
「……守らねば」
呟いた声は、誰にも聞かれないように小さく、けれど確かだった。
その夜、ガルグの尾は一度も揺れなかった。
それほどに、彼は静かに、ただ静かに──祈るように、聖女の眠りを見守っていた。
[newpage]
[chapter:第五章:剣とドレスと]
春の雨が上がった翌朝。王城の中庭には、柔らかな陽射しと、雨粒の残る空気が満ちていた。
その広場の一角、石畳の上にて、少年が両腕を振り上げる。
「はっ……!」
掛け声と共に、木剣を振るう細い腕。
白い袖が風を切り、儀礼用の軽装が動きに合わせて揺れた。
「ふむ……見事にございます、聖女様!」
褒め称える声が響く。
それは中庭の外周、片膝をついて見守る猪獣人──将軍ガルグ・ド・バズトルのものであった。
「ほんとうに……? へ、変なところない?」
「いえいえ! 手首の角度、足の運び……すべてが清らか! その気品と、ひたむきな精神……っ、まさに神技でございます!」
拍手までしそうな勢いのガルグに、フリットは少し頬を赤らめながら木剣をおろした。
「……褒めすぎです」
「いえ、真実を述べております! これほど華麗な剣技を“ドレス姿”で振るっていただければ、なお──」
「ドレスは着ません!」
即答だった。
「え、えっ、いかんのでしょうか!? ……その、聖女様の気高さがさらに引き立つかと……っ!」
「ガルグさんの妄想、時々こわいです……」
ふくれっ面のフリットに、ガルグは両手をぱたぱたと振って慌てた。
「い、いえ、失言……失礼いたしました! あの、その……稽古に集中いたします、はい!」
しかしその後ろで、しれっと背後に現れたルセルバがひと言。
「第五件目、“幻のドレス妄言”、記録いたします」
「むっ!? 今のもか!?」
「無論でございます」
「ぬうぅぅ……!」
ガルグは頭を抱えるが、尾は律儀に小さく揺れていた。
***
この「稽古」は、フリットの体力を戻すための一環として始まったものであった。
風邪から回復したとはいえ、元より華奢な身体。
医官や王妃の助言もあり、軽い運動と呼吸の訓練を日課に取り入れることになったのだ。
「……でも、なんで剣なんですか?」
稽古の合間、汗を拭きながらフリットが尋ねる。
「私にできることの中で、聖女様のお役に立ちそうなもの……それが剣でありました。剣はただ敵を斬るだけではございません。立ち方、呼吸、精神を整える所作すべてに、身を養う理が込められております」
「……ほんとに、そう思ってる?」
「思っておりますとも!!」
即答だった。
ガルグの目は真剣で、何一つ嘘はなかった。
だからこそ、フリットは苦笑しつつも──木剣を握る手に力を込めた。
「じゃあ……もう少し、頑張ってみようかな。ガルグさんが教えてくれるなら」
「おお……!」
ガルグの目が潤んだ。
「そのお言葉……生涯忘れませぬ……っ!」
そして再び尻尾が振れ、またルセルバの扇子が待っていた。
「六件目、尻尾・訓練中暴走」
「む、むっ……! せ、聖女様の励ましゆえ、これはやむを得ず……!」
「事情に関わらず記録は残ります」
「くっ……!」
フリットはそのやり取りに、つい声を漏らして笑ってしまった。
「ふふ……ほんとに、飽きないなあ、二人とも……」
それは、心からの言葉だった。
***
夕暮れ、訓練後の一時。
ガルグはフリットの小さな手に包帯を巻いていた。
使い慣れぬ剣を握っていたため、手の平に軽く水ぶくれができていたのだ。
「……申し訳ありません、私が見守っていたにも関わらず……」
「大丈夫。これくらい、痛くないです」
「しかし、聖女様の手は“祈り”の力を宿す神聖な器……その御手を傷つけてしまったこと、この私……」
「ガルグさん、また重たくなってる……」
「むっ!?」
やや本気で狼狽えるガルグ。
「でもね、ガルグさん」
「はい……?」
「僕、ちょっと楽しかったです。……こうやって動くのも。褒められるのも。できたって言ってもらえるのも」
包帯を巻き終えた手を胸に引き寄せながら、フリットはふわりと笑った。
「自分の身体をちゃんと感じられるって……嬉しいなって。弱いだけじゃないって、思えたから」
「…………」
ガルグは、何も言えなかった。
言葉にならぬ感情が喉をふさぎ、ただ、彼は深く、深く頭を垂れた。
「……この身にて、支え続けます。いつかそのお力が、世界を照らす日まで。聖女様のその想い、その手、その願い……すべてを、守り通します」
その宣誓に、フリットは少し顔を伏せ──
「……ありがとう、ガルグさん」
囁くように、言葉を返した。
[newpage]
[chapter:第六章:心が揺れる]
春の訪れと共に、王城は外からの客人を迎える機会が増えていた。
この日も、東の砦からの使者が到着し、城内では簡素な式典と報告会が開かれていた。
フリットは公式の姿として白い衣を身にまとい、玉座の横に控えていた。
聖女として、微笑みと沈黙で場を整えるその姿は、誰の目にも神聖なものに映っていた。
しかし、その穏やかな姿の内側では、小さな感情が芽吹いていた。
(……ガルグさん、あんなに喋るんだ)
遠巻きに見ていた先、会議の一角。
将軍として参列していたガルグが、若い騎士と親しげに言葉を交わしている。
その表情はやわらかく、朗らかで、尾が控えめに揺れていた。
(……あの人と、楽しそうに喋って……)
どく、と胸の奥が揺れる。
それが何なのか、フリットにはわからなかった。
けれど、ひどく落ち着かず、呼吸が浅くなっていく。
(……僕、変かな)
ほんの少しだけ、自分の手を握りしめる。
そして、その日の夜。
フリットは寝室の窓辺に座っていた。
風がやわらかくカーテンを揺らし、庭の灯がちらちらと瞬いている。
その隣──窓に背を預けるようにして、ガルグが控えていた。
「……お疲れ様でございました。今日の御役目、聖女様は本当に立派に──」
「……ガルグさん」
「はっ」
「今日……誰かと話してるとき、楽しそうでしたね」
「……!」
ガルグは一瞬、何かを飲み込んだように口を閉ざした。
「……あの騎士の方と。……仲がいいんですか?」
問いかけは素直だった。責める色はない。ただ、知りたかったのだ。
ガルグはゆっくりと頷いた。
「かつて、同じ隊におりました。年若いながら、才覚に富み……礼儀もある。将としては頼もしい若者です」
「……そっか」
フリットはうなずいた。けれど、胸に刺さるものがあった。
(どうして……こんなに……)
そしてガルグもまた、同じように胸を押さえていた。
(聖女様が……他の者と笑みを交わすたび、なぜか、胸が苦しい)
神聖な存在に対して、こんな感情を抱くなど──あってはならぬことではないか。
だが、否応なく、想いは膨らんでいた。
そのとき──
「記録いたします。両名とも、完全に“恋の症状”」
ぬるりと現れたルセルバが、銀の扇子をぱたりと閉じる。
「っ!? なっ、なんだとルセルバ!?」
「事実です、ガルグ様。特に本日は、尾の反応が明らかに妙でした。若者と話している際、無意識に“見せ尾”が動いておりました」
「なっ、見せ尾とは何だ……っ!? し、しておらぬ!!」
「……ガルグさん、“見せ尾”ってなに?」
「し、聖女様っ、それはですね……あっ、いや、これはその、誤解であり──!」
「説明不要です。私がきちんと記録しておきますので」
「ぬううぅ……ッ!」
慌てふためくガルグと、冷静無比なルセルバのやり取りを前に、フリットは──
笑ってしまった。
「ふふ……なんか、落ち着いたかも」
「え……?」
「……わかんないんですけど。今日、なんだか、胸の奥がモヤモヤして。……でも、今は大丈夫です」
窓から入り込む夜風が、二人の距離をやわらかく撫でた。
「たぶん……ガルグさんが、誰かと仲良くしてるの見て……少し、寂しかったのかも」
「……!」
「……変ですよね。僕なんて、まだ子どもなのに」
「いえ……変などでは……決して」
ガルグはゆっくりと、心の底からの声で応えた。
「聖女様……その感情は、愛おしさというものではないかと……この私には、そう思えてなりませぬ」
「……愛おしさ……?」
フリットはそっと、目を伏せる。
心の奥で、確かに何かが形になり始めていた。
(……ルセルバさんの言うように、これが、恋なのかな)
まだ名前を知らぬ想いが、静かに芽吹いていた。
[newpage]
[chapter:第七章:王の企み、妃の微笑]
その日は、王城の一角で静かな宴が催されていた。
正式な式典ではなく、親しい者だけが集う小規模な夕食会。
とはいえ、豪奢な調度と白銀の食器、香草をふんだんに用いた料理の数々は、それが王の主催であることを雄弁に物語っていた。
長卓の上座に座すのは、もちろんこの王国の主──スマリント王。
金のたてがみを持つ獅子獣人の王は、杯を手に、いつもよりも柔らかな笑みを浮かべていた。
その傍らには、王妃。
白金の毛並みを纏うその姿は、燭台の灯の下で静かに光を帯びていた。
そして、席の左側には、聖女フリット。
右側には、その専属護衛騎士ガルグ・ド・バズトルの姿。
ふたりは正装を身に着け、背筋を正して座っていた。
フリットは、慣れない空気に緊張しつつも、時折そっとガルグの方へ視線を送っていた。
(……こうして並んで座るの、ちょっと照れるな……)
対するガルグは、いつものごとく緊張に堅くなりながらも、尾だけが小刻みに揺れていた。
王はそんな二人を見やり、にやりと笑う。
「ふむ、良いな、良いぞ……ふたり並ぶと、まことに絵になるではないか!」
突然の発言に、フリットとガルグは同時にびくりと肩を揺らした。
「こ、光栄にございます……!」
「っ……! お、恐れ多いです、陛下……!」
ガルグはすかさず立ち上がりかけ、王妃の「落ち着いてくださいな」の一言でようやく腰を戻す。
王は大声で笑った。
「はははははっ! 堅い堅い! いやいや、良いのだ。若きふたりが信頼し合い、支え合っている様を見られるとは、王としてこの上ない喜びよ!」
「信頼、ですか……」
フリットが、ぽつりと呟いた。
その響きには、どこか確かめるような響きがあった。
「そうとも。……ふたりは互いに信頼し、必要としている。違うか?」
「……僕は、ガルグさんがいないと、不安です」
「っ……!」
突然の言葉に、ガルグが目を見開いた。
王はにやにやと笑いながら酒を飲み、隣の王妃へと視線を送った。
王妃は、にこやかに杯を傾けたまま、優しく告げる。
「おふたりは──とてもお似合いです」
……その瞬間。
フリットの頬が、りんごのように染まった。
「ぅ、ううっ……っ、あの、ちが、ちがうわけじゃないけど……っ!」
「おや、否定はされないのですね?」
王妃の微笑みは穏やかだった。
「し、しないですけど……でも、そういうのは……っ、まだ……っ」
言葉に詰まったフリットの横顔を見つめ、ガルグはひざの上で拳をぎゅっと握った。
王の眼差しが、ふたりの間を往復する。
「ふむ……ならば、そろそろ“はっきり”させてはどうかな?」
「はっきり……?」
フリットが小さく首を傾げる。
そのときだった。
「陛下、記録をご覧になりますか?」
ぬるりと現れたルセルバが、銀の扇子と共に記録帳を差し出していた。
「ふむ、なんだ? これは……“尾の異常運動記録”? はっはっは! これまた愉快な!」
「主観抜きの実測記録でございます。“主の名を呼ばれた際の揺れ幅”が顕著に上昇しております」
「ぬ、ぬおおお……ルセルバ、それ以上はやめてくれ……っ!」
顔を真っ赤にして震えるガルグと、視線を泳がせるフリット。
王妃がそっと一言添える。
「きっと、ふたりともまだ戸惑っているのですね。けれど──」
「え……?」
フリットが振り向く。
王妃は、その柔らかな瞳で、フリットの目を見つめた。
「誰かを“好き”になるということは──それだけで、尊く、愛おしいことなのですよ」
その言葉は、静かに、フリットの胸の奥に届いた。
(……好き)
小さく、唇が動いた。
「……僕、ガルグさんのことが、好き……なのかな」
誰に聞かせるでもない、囁きのような声だった。
だが、ガルグの耳はしっかりと、それを拾っていた。
尾が、びしっと背筋に沿って跳ね上がった。
音が響く前に、ルセルバが背後からピシリと一撃。
「記録済みです。“好意告白直後の尾跳ね”──一件」
「むっ!? い、いまのは不可抗力では……っ!」
「不可抗力も記録対象です」
「ぐぬぅぅぅ……!」
そんなやりとりの隣で、フリットは両手で顔を覆いながらも、小さく笑っていた。
(……なんだろう、この気持ち)
不思議と、怖くなかった。
王も、王妃も、ルセルバも──
誰も、自分のこの想いを否定しようとしなかった。
(……あたたかい)
心が、ゆっくりとほぐれていくのを感じていた。
[newpage]
[chapter:第八章:聖女の力、試練の日]
その日は、風が強かった。
高い空を流れる灰白の雲。城壁の旗がばたばたと音を立て、衛兵の外套が膨らんでいた。
午前の祈祷を終えたフリットは、王城北棟の礼拝室を後にして、廊下を歩いていた。
ガルグはいつも通り、その背後を半歩引いた距離で付き従っていた。
「今日の風……変な感じがします」
フリットの呟きに、ガルグの眉がぴくりと動く。
「風の流れが変わるのは、季節の兆しか、あるいは──」
その言葉が終わるよりも早く。
ドオォン! という爆音が、城の南方から響き渡った。
窓の向こう、城下の塔のひとつが火を吹いた。
「っ!? 爆発……っ!」
「聖女様、後退を──!」
同時に、騒然とした気配が城内を包み込む。
衛兵たちの怒号。地響き。鉄の靴音。剣が鞘から抜かれる音。
ガルグはすでにフリットの前に立ち、即座に背中へ手を伸ばした。
「このまま、背中へ──!」
「うん、わかった!」
フリットは何も言わず、ガルグの背にしがみつく。
瞬間、重装の将軍は獣のごとく走り出した。
火の手が広がる南門へ、逃げ惑う使用人たちを避け、崩れた梁を飛び越え、突き進む。
「ルセルバ! セイム!」
響き渡る咆哮。次の瞬間、左右の通路からふたりの姿が現れる。
ルセルバは銀扇を携え、衣の裾ひとつ乱さず走りながら叫ぶ。
「襲撃者複数、城内に侵入。標的は“聖女様”──!」
「全隊、封鎖に移行。排除、死角なし」
セイムの声は低く、鋭い。
フリットは、ガルグの背から必死に顔を出しながら問う。
「ねえ……標的って、僕……なの?」
「はい。詳細は不明ですが、“聖女の力”を目的とする異端の動きが、王都で噂されていたとか」
ルセルバの言葉に、フリットの身体がこわばる。
「力って……でも、僕には──」
「力など関係ない! 貴女様は、存在そのものがこの国の宝! 奪わせはせぬ!」
ガルグの咆哮に、フリットの胸が熱くなる。
だが──
「っ、前方から、来ます!」
ルセルバの声と同時に、暗がりの向こうから現れた数人の黒装束。
「引き渡せ! その身と、その“祈り”!」
短剣を抜いて駆け寄ってくる侵入者たち。
それを前に、ガルグの尾が鋭く揺れ、獣のような咆哮が廊下を満たした。
「お下がりを、聖女様……ッ!」
ガルグは咄嗟に体をひねり、フリットを腕に抱え、背後へと降ろす。
「……だめ……!」
フリットが声を上げたその瞬間──
侵入者の刃が、ガルグの脇腹をかすめ、赤い線を描いた。
「っ──!」
血飛沫が舞う。
だがガルグは叫ばなかった。ただ、吠えた。
拳が宙を裂き、黒装束の一人が壁に叩きつけられる。
重装の甲冑をまとう巨体はなおも動き、残る敵を次々と叩き伏せる。
「が、ガルグさん──っ!」
「下がっていろ……! ここは、戦場だ……!」
だが、その身体はすでに大きく揺れていた。
肩が下がり、腹からの出血が床を濡らしている。
「……ガルグさん、お願い、もうっ、動かないで……!」
フリットは、思わずその背に縋りついた。
「……死なないで……っ、お願い、お願いだから……っ!」
その瞬間だった。
彼の手が、勝手に動いた。
何かに導かれるように、ガルグの傷に触れ──
そして、祈った。
「助けて──ガルグさんを、守って……!」
光が、弾けた。
その身から放たれる純白の光が、闇を切り裂いた。
暖かく、やわらかく、そして──凛とした力が、世界を満たす。
傷口が、ふわりと閉じる。
血が止まり、皮膚が再生し、筋が戻る。
その光景に、ガルグは目を見開いた。
「……聖女様……この力は……」
「……僕、わかんない。でも……」
涙で濡れた瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。
「あなたが傷つくのが、いやなんです。……守りたいんです」
その声に、ガルグの膝が崩れた。
床に手をつき、呻きながら、その小さな手を両手で包み込んだ。
「……恐れ多い……こんなにも、光をいただけるとは……」
「ガルグさん……!」
フリットが抱きつく。
ガルグの肩に、額を押し当て、震える声で叫んだ。
「……死なないで……僕が守るからっ!」
その言葉は、聖女としてではなく、一人の少年としての叫びだった。
一人の、誰かを好きになった人間の、涙だった。
[newpage]
[chapter:第九章:誓いの剣、心の名]
春の嵐が去った後の王城には、穏やかな日差しと草の匂いが満ちていた。
南棟の回廊には、朝露を吸った風が吹き抜け、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
その一角にある静かな庭園。
紅葉した常緑の枝が控えめに揺れる中、白い長椅子の上に、ひとりの少年が座っていた。
膝に開かれた書物は、もう数分動いていない。
視線はそこにない。彼は、誰かの姿を待っていた。
そして──
重い足音と、鉄の擦れる音が、石畳に響いた。
「……ガルグさん」
フリットの声は、ささやくようにやわらかい。
その声音に、ゆっくりと近づく影があった。
護衛騎士、将軍ガルグ・ド・バズトル。
傷は癒えた。だがその歩みには、今までとは違う、何か深い思慮があった。
「お待たせいたしました、聖女様……」
「ううん。僕、ずっと……話したかったから」
フリットは、そっと腰を浮かせて向き直る。
ガルグの甲冑が、きしむ音と共に止まった。
「その、ガルグさん」
「……はい」
「この間、助けてくれて……ありがとう。あの時、ほんとに、怖かった。……でも……それ以上に、あなたが傷ついたのが怖かった。……僕……震えて、どうしようもなくて……」
吐き出すように、言葉が続く。
「あなたが、いなくなってしまうんじゃないかって、思って……」
小さな拳が、ぎゅっと握られる。
「……その時、ようやく気づいたんです。僕は──」
一度、目を閉じる。
そして、正面から見上げるその瞳は、何よりもまっすぐだった。
「僕は……ガルグさんが、好きです」
その言葉が落ちると同時に、空気が澄んだ。
沈黙の中、甲冑の男は、その場に膝をついた。
耳まで赤く染まり、尾が跳ね上がりそうになるのを必死に抑えつつ。
「っ……聖女様……もったいなきお言葉……!」
頭を下げるその姿は、戦場の咆哮ではなく、恋に打たれたひとりの男のものだった。
しかし、フリットはそっとその肩に触れた。
「ねえ、もう“聖女様”って呼ばないで」
「え……?」
「あなたにだけは、名前で呼んでほしい。……“フリット”って」
その一言に、ガルグの尾が反射的にバサッ!と振り上がる。
──ピシリ。
音もなく現れたルセルバが、すかさず尾を叩いた。
「“恋人呼称切替後の尾跳ね”──記録いたします」
「むっ!? お、お主、いつの間に……ッ!」
「常に拝見しております」
「ぐぬぬ……!」
そのやり取りの背後で、フリットはくすりと笑った。
そして──
「……名前、呼んでくれますか?」
その願いに、ガルグは深く息を吸い──そして、ゆっくりと言葉にした。
「……フリット」
その声は、かつての戦場でも、王の前でも見せなかったような、深い優しさに満ちていた。
フリットは頷き、そっと手を差し伸べる。
指先が触れ、甲冑の手がそれを包む。
「じゃあ……これからも、僕の隣にいてくれますか?」
「はい。あなたの命が尽きるその日まで──いや、この魂が在る限り、フリットの傍に」
ふたりの手が、強く、重なった。
その結びこそ、主従を超えた“誓い”であり、名実ともに恋人となった瞬間だった。
[newpage]
[chapter:第十章:再び並んで]
王城の朝は、いつもよりゆっくりと始まった。
中庭には、早咲きの花々が開き、白い光が石畳を照らしていた。
空気は澄んでいる。鳥の声も心なしか柔らかく響く。
その庭の端に、剣を持ったふたりの姿があった。
「……せいっ」
細い腕が木剣を振る。白い衣をまとったフリットの身体が、しなやかに空を切った。
「良い姿勢です。肩を力ませず、背筋をもう少しだけ伸ばして」
「う、うんっ……こう、かな」
すぐそばには、ガルグの大きな影。
鋼の如き背中に身を包みながら、表情はあくまで優しく、視線はフリットに注がれていた。
その視線には、かつての“主を守る将”という張り詰めた緊張はない。
代わりに、そこには──深い親愛があった。
「一度だけ、受け止めてもらってもいいですか?」
「……え?」
「剣を。僕の……全部を、あなたに向けてみたい」
ガルグは驚いた顔をした。だが次の瞬間、真剣な顔で頷く。
「……その覚悟、確かに受け止めましょう」
フリットが木剣を構えた。
風が止まる。木々も耳を澄ますように動かない。
そして──
「……はああっ!」
振り抜いた一撃が、ガルグの掌で、そっと止められた。
「…………」
数秒の静寂。
ふたりの視線が交錯し、やがて、静かな笑いが漏れた。
「手、痺れてない?」
「いや。……むしろ、愛しさが溢れすぎて尾が勝手に」
バシィ!
どこからともなく現れたルセルバの銀扇が、音もなく尾を一閃。
「“過剰愛情による尾反応”──記録いたします」
「むっ!? ま、またか……ッ!」
「見ておりますので」
「毎度ながら……なぜ見ている……!」
そのやりとりを、フリットは笑って見ていた。
***
夜。部屋の灯が、やわらかに揺れていた。
広めの間取りに、二つの寝具。
だが、今夜は──
「ほんとうに、こっちでいいの?」
「はい。護衛としての配慮というのなら、最も近い距離が理に適う」
「恋人としては?」
「……それもまた、理由に加えていただきたい」
言ってから照れくさそうに視線を逸らすガルグの姿に、フリットはそっと笑った。
ベッドを並べて横になり、互いの顔が見える位置に身体を寄せる。
灯火の揺らぎが、ふたりのまなざしを照らす。
「……こうしてると、安心します」
「私も、でございます」
「……ずっと、傍にいてくれますか?」
囁くようなその声に、ガルグは力強く頷いた。
「この魂がある限り、フリットの隣に在り続けます」
沈黙の中、毛に覆われた手が、そっとフリットの指を包み込む。
それは、戦場ではなく、日常の中にある“誓い”だった。
明日もまた、同じ場所で目覚めるために。
声をかけ合い、微笑みを交わし、名を呼び、名を返す日々のために。
[newpage]
[chapter:終章:ふたりの聖域]
時は過ぎる。
季節が巡り、国は安寧を保ち、人々は穏やかに暮らしていた。
城を囲む森が金に染まり始めたある日、山上の聖域では、荘厳なる儀式が静かに執り行われていた。
風は清らかに、空は限りなく高く、白銀の石段が朝陽を浴びて光っていた。
その最上段。
ひとりの若者が、白い衣をまとい、祈りの姿勢を取っている。
彼の名は、フリット。
歳月を経ても、華奢な体つきと繊細な面差しはそのままに、静かな威厳を湛えた佇まいへと成長していた。
声は少し低くなり、言葉の端に確かな自信が宿るようになった。
祈りを終えると、彼はふと顔を上げ、境内を見下ろした。
「……よし」
優しく微笑み、白衣の裾を整えて立ち上がる。
すると、その後方──
巨大な影が音もなく控えていた。
「おつかれさまでございます、フリット」
響いた声は、温かく、懐かしい低音。
そこに立っていたのは、変わらぬ風格と鋼のごとき体躯を持つ、猪獣人の男──ガルグ・ド・バズトル。
甲冑こそ簡素になっていたが、その背筋は微塵も緩まず、銀灰の毛並みに時の重みを刻んでいた。
そして、その尾は──
「……ぐ、ぬぬ……っ」
ぶんぶんぶんっ
「ガルグ、尾が暴れてる」
「し、失礼を……っ! 聖域というのに、己を制せぬとは……っ!」
「ふふっ」
すかさず──
「“神域での感情尾反応”──記録いたします」
「むっ!? ま、まだ続けておるのかルセルバッ!」
木陰にぬるりと現れた黒猫のメイド長が、扇子をひと振り。
どこまでも冷静に、気配を消す技はまったく衰えていなかった。
「もちろんでございます。“ふたりの関係”が続いている限り、私は記録をやめることはありません」
「くっ……もはや宿命か……」
「定めでございます」
そんなふたりのやり取りを、フリットは小さく笑いながら見守っていた。
そして、歩み寄る。
「ガルグ」
「……はい」
「手、貸して」
差し出された小さな手に、迷いなく自分の大きな掌を重ねる。
それは、かつて震える少年の手を包んだあの日と、まったく同じぬくもりだった。
「……変わらないね、ガルグは」
「フリットも、です。……清らかで、まっすぐで」
「そうかな……」
ふたりは並んで歩く。
儀式を終えた祭壇を背に、聖域の小道をゆっくりと下っていく。
その道は、誰もいない静かな回廊。
風の音。鳥の声。落ち葉の気配。
すべてがふたりだけの世界を作っていた。
「ねえ、ガルグ」
「はい」
「ずっと、変わらずにいてくれて、ありがとう」
「……それは、私の方こそ」
少しだけ言葉を切り、視線を落とす。
「この命があなたに与えられたものなら……私は、何度でも同じ道を選びます」
そのとき、フリットは歩みを止める。
そして、そっと顔を上げた。
その目に、かつての不安はない。
「この世界で──」
彼は言った。
「いちばん安心できる場所は、あなたの隣だった」
ガルグは、ひとつだけ深く息を吐き、
胸の奥から、ゆっくりと、その手を取った。
「私にとっても、それがすべてです」
ふたりは、黙って歩き出す。
重なる足音。手のぬくもり。風の流れ。
この世界に聖域があるのなら、
それは、決して石造りの神殿ではない。
“ふたりが並んで歩くその場所”──
そこが、永遠の聖域だった。
(終)
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