「この狂った大奥を作った黒幕、その討伐のために」
剣心に向かいあった[[rb:煌呀 > おうが]]は、見定めるように尖らせていた目を静かに閉じた。
「……続けろ」
発せられたその声には、一定の硬度がある。傲岸不遜な獅子らしからぬことだが、剣心の話に耳を傾けるつもりらしい。
「……意外だな。貴様が私の話を素直に聞くとは思わなかった」
「犬は主の危機に吼えるものだ。ならば、アツの亭主として、番犬の声に耳を傾けてやるのは当然だろう」
「亭主」という言葉に、額の血管がドクリと怒張する。あわや殴りかかるところだったが、剣心は下腹部を触れることで自らを落ち着かせる。未だ胎に残る熱が、剣心に優越感という余裕をもたらした。
「……その顔、なぜだか無性に腹が立つな」
「ならば、その感覚を胸によく刻んでおけ」
常に周囲の獣人を見下し、嘲笑している煌呀である。少しは嘲笑われる側の気持ちを知るべきだ。
「では、まず初めに訊こう。貴様は今の大奥、つまり、雄を集めた大奥を作った御方を知っているか」
「ふん、無論だ。先代将軍、犬川[[rb:篤綱 > あつつな]]だろう」
「……篤綱様、だ」
先代とは言え、将軍を呼び捨てにする煌呀に口を尖らせた。
「ハッ、名君どころか暗君にすらなれなかった凡人に価値を見出すほど、我は甘くない。強いてあの男の価値を挙げるとすれば、将軍家に産まれた幸運だけだ。それだけは認めてやってもいい」
不敵な笑みを浮かべた煌呀に、剣心は眉間の皺を一層深くした。
「もういい。今の言葉は聞かなかったことにしてやる」
「そうしろ。凡夫について語ったところで、時間を無為に浪費するだけだからな」
この獅子には、他人を敬うという機能がない。実際、今もニヤリとほくそ笑んでいる。
だが、人が当たり前にできることができない、という点では剣心も同じだ。剣心も厳しい鍛錬の果てに人らしさを一部失っている。
しかし、剣心の喪失は自分自身を[[rb:苛 > さいな]]むのに対し、煌呀の欠落は周囲を害する。主に仕えることを本懐とする剣心には、煌呀の在り方は容認し難い。
―――だが、だからこそ信頼できる。
この世の全ての獣人を見下す煌呀が、唯一、篤助にだけは価値を見出しているのだから。
「では、もう一つ聞く。犬川篤綱様が雄の花園を作られたのはいつか、知っているか?」
今度は煌呀の眉間に深い皺が刻まれた。
「将軍に就任してすぐに決まっているだろう」
「その根拠は」
「篤綱が男色家だからだ。そうでなければ、わざわざ大奥の雌どもを追い出して、代わりに雄を集めるなどという奇行を犯す訳がない」
煌呀は鼻筋に皺を寄せる。持ち上がった唇からは鋭い牙が覗いていていた。
「この程度のことは自明の理だ。こんな瑣末事を細々と語らせて、貴様はいったい何が言いたい」
「貴様が言った通り、大奥から女中を追い出し、代わりに雄を集めるというのは余程の男色家でなければ筋が通らない。だが---」
篤綱様は、異性愛者だった。
剣心がそう言うと、煌呀は烈火の如く顔を赤らめ、拳を畳に叩きつけた。
「有り得ん!貴様、我に恥をかかせるために虚言を吐いたな!」
「私は武士だ。例え貴様が相手でも、嘘をつくことはない」
剣心は激昂する煌呀に眉ひとつ動かさず、淡々と言葉を返した。
「…………チッ」
剣心の態度から自分の間違いを察したのか、煌呀は剣心から目を背け吐き捨てるように舌打ちした。不機嫌そうに顔を歪める煌呀を横目で認めながらも、剣心は構わず話を続ける。
「犬川家の歴代将軍は尋常ではない好色漢で、先代将軍の篤綱様もその血を受け継がれていた。本来、将軍の夜伽の相手を務めるのは[[rb:御目見 > おめみえ]]と呼ばれる身分の女中だが、篤綱様は気に入った女中ならば身分を問わずにお手付きになられていたそうだ。当時は、お手つきのない女中の方が少なかったそうだ」
「…………そうして産まれたのがアツ、という訳か」
剣心は苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「本来ならば、あってはならないことだ。だが、篤綱様以前の将軍でも同様のことあったゆえ、この件は黙殺されたらしい。おそらく、以前の大奥ではこのようなことが日常茶飯事だったのだろう」
「ふん、ケダモノだな」
煌呀は忌々しげに吐き捨てた。
「篤綱様が性に奔放であったことは否定できない。だが、重要なのはそこではない」
剣心の目に鋭利な輝きが宿る。
「大奥の女中たちにご執心だった篤綱様が、ある日突然、彼女らを全員解雇し代わりに雄を[[rb:入内 > じゅだい]]させたのだ。好色漢だったとは言え--いや、だからこそ、この行為は常軌を逸している」
「ふむ……」
煌呀は丸太のような腕を組み、数刻考え込んだ。
「……確かに、その変わりようは異常と言える。だが、男色が盛んな江戸であれば、雄の味を知る機会などいくらでもあるだろう。雄の菊門に溺れ、男色家になること自体は有り得んことではない。……だとしても、雌を追い出して代わりに雄を入内させるなど、ド阿呆のする事だがな」
煌呀は普段の傲岸不遜な色を抑え、商人らしい冷静な私見を述べた。非常に低い可能性であろうとも、それを見逃さない視野の広さは流石は江戸の大豪商だ。
「確かに、現状では篤綱様の嗜好の変化から断定できる事実はない。だが、一つだけ明らかに不可解な点がある」
「ふん、分かっている」
煌呀は鬱陶しげに手を振り、言葉を続けた。
「篤綱が好色漢であったのならば、世継ぎは大勢いるはずだ。それこそ、落とし子であるアツよりも将軍に相応しい血筋の奴らがウジャウジャとな。しかし、篤綱の死後、幕府はアツを将軍に据えた」
調子が戻ってきたのか、徐々に煌呀の口角が上がっていく。
「無能は人を能力ではなく地位で測る。幕府の頭の硬い老人どもならば、不純な血統であるアツを断固として拒むはずだ。にも関わらず、アツは血筋に恵まれた異母兄弟を押しのけ、将軍の座に就いた。いったいなぜ、アツは異母兄弟に勝てたのか」
煌呀の口角が三日月のように持ち上がる。そして唇の隙間から覗く鋭い牙が真実に喰らいついた。
「―――不戦勝」
煌呀は狩った獲物を見せびらかすかのように、不敵な笑みを浮かべる。一片の[[rb:翳 > かげ]]りもない表情には、自分の推論は完璧だ、という自信がありありと浮かんでいた。
「貴様、知っていたのか」
「いいや、違う。我の呉服屋の客に篤綱の[[rb:倅 > せがれ]]がいてな。いい[[rb:金蔓 > かねづる]]だったのだが、ある時から注文が止んだのだ。確か、部屋から出れないほどの重病、だったか。ふっ、まるで篤綱のようだなぁ?」
甘い蜜を味わうかのように、煌呀はねっとりと言葉を紡いだ。
「篤綱様が病魔に[[rb:冒 > おか]]された頃、御子息の方々も次々に身体の異変を訴えられた。篤助さまを除けば、篤綱様の御子息は16人もおられる。にも関わらず、一月後には一人残らず病床に臥せっていた」
「将軍家の者だけを襲う病魔か。それとも、将軍の座を狙った人災か。ふふふ、幕府の現状を見れば、答えは明らか―――だが」
煌呀は今にも高笑いを発しそうな顔を、唐突に仕舞い込んだ。
そして、
「やれ」
―――バンッ!
短刀を一突きするような指示を合図に、部屋の襖が吹っ飛ぶ。二人が見下ろす先には、粉々になった襖の木片と共に転がり込んできた黒い塊が横たわっていた。
「盗み聞きしていた不届き者をお連れしました。少々手荒くなってしまいましたが、文句はないですよね、旦那様?」
風通しの良くなった部屋にフラリと現れたのは、煌呀の従者である[[rb:草鹿 > くさか]]だ。
「はっ、この程度で手荒いだと?笑わせるな」
「っ、それは!」
おもむろに立ち上がった煌呀は、懐からあるものを取り出す。
「これを見せるのは貴様がアツを裏切った時以来か?」
その肉厚な手に握られていたのは、直線的な輪郭の武器。6寸(約20cm)ほどの重厚感のある鉄筒に、焦げ茶色の木製の取っ手、側面には[[rb:真鍮 > しんちゅう]]の飾り金具が施されたそれは――
「[[rb:蘭国 > オランダ]]の商人から仕入れた、最新式の拳銃だ」
そう自慢げに言い放ち、煌呀は銃口を黒い塊に向けた。
「我の話を盗み聞くとは一体どういう了見だ、黒トカゲ」
こめかみに銃口を突きつけられた黒い塊――[[rb:黒龍院雅 > こくりゅういんみやび]]は額に滝のような汗を流しながら、パクパクと口を動かす。
「い、いや!そんなつもりはなくてっ!ただ、剣心さんの声が聞こえたから……!」
雅は目尻に大粒の涙を溜めながら、懸命に言葉を紡ぐ。しかし、恐怖でもつれる舌は空回るばかりで、全く要領を得ない。
「そこまでにしろ、獅子蔵」
見かねた剣心が、銃口を突きつける煌呀の腕を退ける。そして、雅と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「黒龍院も、まずは落ち着け」
「っ……!」
そう言って雅の肩に手を乗せる。すると雅は、飛びかかるような勢いで剣心に抱きついた。
「お、おい……」
「う、うぅぅ……ごめんなさい……悪気はなかったんです……」
剣心の着物をひしと掴んで離さないその姿は、まるで母親に泣きつく子供のようだ。だが、剣心の胸元でグズっているのは立派な成人男性で、子供のような微笑ましさは全くない。それどころか、屈強な肉体で頭突きのように頭を押し付けられると、流石の剣心も少し息苦しい。
「こ、黒龍院……少し、離れてくれ……」
剣心がそう言うと、雅は顔を胸に擦り付けたまま首を横に振った。
「ん……っ」
昨夜の行為の後だからだろうか、擦れて少しくすぐったい。ほんの少し、剣心の体温が上がった。
「喘ぐな、メス犬」
篤助とのまぐわいの余韻に浸っていた剣心を、煌呀が容赦なく斬り捨てる。
「ちっ、くだらん茶番に付き合わせおって」
そう吐き捨てながら拳銃を懐に仕舞い、煌呀は再び脇息に肘を着いた。そして、若干の苛立ちを滲ませながら口を開く。
「で、黒トカゲはなぜ、我の話を盗み聞きていたのだ」
「ずずっ……廊下を歩いている途中に、狼牙殿と獅子蔵殿の声が聞こえて……篤助様から、狼牙殿が用事で抜けたとは聞いていたのですが、その相手が不仲と噂される獅子蔵殿だったのが意外で思わず……」
剣心の胸元から、くぐもった声が発せられる。篤助とは違う、丹田を震わす大人の低音だ。
「失礼なことをしたと、反省しております。しかし――」
竜人の長い鼻先が、ゆっくりと剣心の胸元から離れる。白日の下に現れた雅の顔には、武人である剣心をして息を呑むほどの強い覚悟が宿っていた。
「おかげで、志を同じくする方を見つけることができました。私にとっては、この上ない[[rb:僥倖 > ぎょうこう]]でございます」
その言葉は、水面を打つ雫のように剣心の胸をさざめかせた。
「それはどういう意味だ」
「先程までのお話を聞くに、お二人はこうお考えなのではないですか。篤綱様やそのお世継ぎの方々だけが次々と病に伏せたのは、幕府の老中たちの仕業なのではないか、と」
「なぜそう思う」
「まず当然ですが、犬川家の方々だけを蝕む病などありません。しかし、事実として篤綱様やお世継ぎの方々だけがお身体を病んでいる。これは、何者かが悪意をもって篤綱様たちを害したということに他なりません。
ではいったい誰が、何のためにそんなことをするのか?半年前、その答えは計らずも、下手人が自ら示してくれました」
剣心は苦々しい表情で耳の傷を抑えた。
「私が……篤助さまを裏切ったあの日のことか」
「狼牙殿は自分の使命を全うしただけでしょう。ですがその通り、篤助様が幕府から追い出された事件です。
下手人は大軍師、[[rb:樋熊 > ひぐま]]を擁する老中たち。彼らが次の将軍候補として[[rb:犬平貞義 > いぬだいらさだよし]]殿を祭り上げていることから、その狙いは明確です」
「…………将軍の座か」
雅が神妙な顔で頷いた。
剣心はギリリと歯軋りする。主君に忠義を尽くすべき武士が、陰謀を巡らせ篤助を陥れようとしている。武士の理想たれ、と鍛えられてきた剣心には、到底許すことのできない裏切りだ。
「私は篤綱様の代から、医師として大奥に出入りしております。主を二度も悪人の毒牙にかけさせる訳には参りません。篤助様をお守りするために、江戸にその名を轟かす御二人の力をお借りしたいのです」
雅は[[rb:佇 > たたず]]まいを正すと、黒い鱗に覆われた額を畳に押し付けた。
「どうか、お願いいたします」
身を切るように切実な言葉が、剣心の心臓を熱く跳ねさせる。
「拒む理由など一つもない!篤助さまのため、貴殿の」
「いいや。貴様に貸し与えるものなど何一つ無い」
その声は、まるで首斬り役人の一刀のように冷徹に、剣心の高揚を切り捨てた。立ち上がる衣擦れの音が風切り音のように耳を刺す。
「旦那様、敵は幕府の重鎮なのでしょう?ならば、手を組むべきではありませんか?」
廊下を見張っていた草鹿が、堪らずといった様子で口を挟む。それに煌呀は牙を剥いた。
「我がふんぞり返るしか能のない老害どもに負けると、そう言いたいのか……!」
「い、いえ、そういうわけでは……」
脳天から押し潰すような煌呀の怒気に、普段から慣れているはずの草鹿ですら声を震わせる。草鹿が引き下がると、鬼のような形相は次に雅を捉えた。
「貴様は敵を見定めていながら、今まで何も行動を起こさなかった。他者に助けを求めるだけの『無価値』な手など、我は死んでも取らん」
煌呀は剣心たちを蹴り飛ばさんばかりの勢いで進む。部屋を出る直前、煌呀は振り返ることなく喉を震わせた。
「絶壁を這い上がる覚悟があるのなら、手を取ってやらんこともない。だが、他人に引き上げられることを期待して手を伸ばすだけだと言うのならば、貴様はそのまま地の底で野垂れ死ぬのが似合いというものだ」
そう言い捨てて、煌呀は迷いのない足取りで立ち去った。草鹿は唇を歪めながら剣心たちに頭を下げ、急いで煌呀の後を追う。嵐のような獅子が去った部屋には、耳が痛くなるほどの沈黙が堆積していた。
「…………獅子蔵はああ言ったが、私は貴殿に協力するつもりだ。どうか、よろしく頼む」
剣心が声をかけても、雅は深く俯いたままだった。顔は陰になってよく見えないが、唯一、唇から垂れる朱色だけは鮮明に映っていた。
「黒龍院」
剣心が肩を揺すると、雅ははっと顔を上げた。
「すみません。少し考え込んでしまいました」
「あの傲慢な男が言うことだ。あまり真に受けない方がいい」
そう言いながら、剣心は着物の袖で雅の唇の血を拭った。
「お召し物を汚してしまいましたね。すみません……」
「私がしたくてしたことだ。気にするな」
「……狼牙殿はお優しいのですね」
力んでいた雅の目元が、ふっと柔らかくなる。雅がぽろりとこぼした言葉に、剣心は少し驚いた。
「優しいとは……初めて言われた」
「そうなのですか?」
「ああ。刀のようだ、とはよく言われたが」
「ふふふ。血を流させるはずの刀が血を拭いてくれるって、なんだか変ですね」
穏やかな笑顔を浮かべる雅を見て、またもや剣心は呆然とした。篤助でも家臣の笑顔は記憶にあるが、それ以外の人の笑った顔を見たことがなかったのだ。
「あの、良ければ『剣心さん』と呼んでもいいですか?」
「あ、ああ、構わない」
「ありがとうございます、剣心さん。よかったら、ぼくのことは『雅』って呼んでください」
「あ、ああ……」
まるで幼子のように好意を示す雅だが、不馴れな剣心の手にはあまる。母音を繰り返すだけで精一杯だ。
「獅子蔵殿には断られてしまいましたが、剣心さんが協力してくれるなら怖いものなんてありません。どうか、よろしくお願いしますね!」
飛び跳ねるような雅の声を聞きながら、剣心は密かに目を逸らす。
「…………ああ」
襖を失い額縁のようになった出入口を見る。風が吹き抜ける巨大な木の枠に、剣心は立ち去った黄金色の[[rb:鬣 > たてがみ]]を描いていた。
―――
背後を歩く草鹿が、ふと口を開いた。
「本当に断ってよかったのですか、旦那様?」
喉元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉はこの鹿のためにあるのではないかと思うほど、草鹿は恐怖への順応が早い。――いや、順応よりも消化と表した方が適切かもしれないが。
「ふん、烏合の衆に加わる気はない」
「狼と竜の組み合わせを烏合の衆と呼ぶのは、旦那様くらいですね」
煌呀は振り返ることも足を止めることもせず鼻を鳴らした。
「だがまあ、黒トカゲはともかく、あの犬は貴様程度には使えそうだな」
「ならば、やはり手を組むべきだったのでは?」
「敵は日ノ本を治める幕府だ。たった一人加わったところで我の不利は変わらん。それならば、あの駄犬を使わず我の力だけで打ち勝つ方が痛快であろう」
「……ソレ、誰が戦うと思ってるんですか」
「脳味噌を戦場にでも置いてきたか?貴様ら下僕どもに決まっているだろう」
「…………本当に暴君ですね」
転職先、早く見つけないと。とボヤく草鹿を無視して、煌呀はずんずんと廊下を突き進む。富を極めた煌呀にとって、何よりも貴重なのは時間だ。移動中であっても思考は止めず、今日の予定の確認や、市場の動向分析、今後の戦略を絶えず考えている。その中でも篤助攻略は煌呀の最優先事項として、常に頭脳の六割を割いている。
「おや?これは珍しい。あの獅子蔵が、こんな朝早くから大奥にいるとはのぉ」
「ちっ」
でっぷりとした腹を揺らしながら現れたのは、大奥のまとめ役である[[rb:樋熊 > ひぐま]]だ。その顔に煌呀の眼光をしても破れない能面のような笑みを貼り付け、さり気なく煌呀の進路を塞いだ。
「普段は商いにかまけて夜すらおらんというのに、こんな朝早くからおるとはのぉ。もしや、とうとう店が潰れて暇になったかの?」
冗談めかして笑う樋熊だが、煌呀の表情は冷えきっていた。
「くだらん駆け引きは無用だ。用件を言え」
煌呀は地を這うような低音を響かせる。縦に開かれた瞳孔は、樋熊を警戒すべき敵として捉えていた。
「……ふむ。そうか」
煌呀の敵意を察した樋熊は、静かに能面を外す。作り物めいた感情が消えて浮かび上がったのは、かつて勇名を轟かせた大軍師からは想像もできない虚無だった。
「この大奥の謎を探るつもりのようじゃが、そんなことは無駄じゃ。その[[rb:胎 > はら]]に紋を刻んだその時から、お主らは途方もない悪意に囚われておる。負け戦に挑むくらいならば、今の自分と別れる覚悟を決めておく方が、ずっと賢明だと忠告しておこう」
樋熊は去り際に煌呀の腹をさらりと撫で、大奥の長い廊下の果てに消えていった。
「旦那様、樋熊殿はなんと?」
草鹿が尋ねるが、煌呀は答えなかった。鼻に皺を寄せ、鼻腔に残った匂いの粒子に全神経を傾けている。
「今のは…………雌の匂い?」
東の空に登る太陽が、目覚めつつある大奥を照らす。磨き抜かれた廊下は輝き、小姓たちの忙しない会話が遠くから聞こえてくる。活気に満ちた、いつも通りの大奥の朝だ。
しかし、樋熊が消えた廊下の果て、そこには朝日の輝きを持ってしても晴らせない闇が、静かに根を張っていた。