中年熊獣人ヒーローは体臭で弟子を堕落させる

  部屋の空気が重い。湿気すら帯びるような圧迫感。それは目の前に広げた布――その衣類から発せられる濃厚な匂いが原因だ。俺はその布を手にし、じっと見つめる。手が震えているのが自分でも分かる。嫌な匂いだ。それなのに、どうしても手を放せない。

  これは本来なら洗濯機の中にあるべきものだった。師匠――俺がそう呼ぶあの人が、ついさっきまで着ていた衣類。

  俺は着替えを終えたそれを師匠から預かってこれまでの通り洗濯機に入れる――。そのはずだった。

  わかってる。

  わかってるのに。

  いつの間にか手に取っていて、気づけば部屋に持ち帰ってきていた。

  こんなこと、どうかしてる。

  理由なんて分からない。こんな行動は絶対におかしい。それくらい分かっているのに、この布を手放すことができない。

  湿り気を帯びた布地の感触が指先にまとわりつき、それだけで鼻腔の奥に匂いが広がる。それは決して心地よいものじゃない。むしろ、喉を締め付けるようで吐きそうなほどの刺激だ。当然だ。雄の熊獣人――それも中年の――の肌に1日中触れていた衣類からいい匂いがするわけない。

  わかってる。

  わかってるのに。

  薄暗い部屋で、俺はその布を手に持ったまま鼻を近づける。瞬間、胸の奥にざわつきが広がった。匂いが鼻から喉にかけて染み込む。湿った汗と皮脂の混ざった香り。それが布地から立ち上るたびに、頭の奥がぐらぐら揺れる。

  ……吐きそうなくらい強いにおい……

  えずきそうになる。それでも嗅ぐのをやめられない。手が勝手に動き、布を鼻に押し付ける。さらに顔の横に滑らせるように動かす。頬に触れる布地から立ち上る匂いが、脳を刺激する。胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのが分かる。下半身も熱を帯びていくのを感じる。パンツの中のそれは、限界までいきり立ってしまっている。

  「……あっ…っ……あっ…♥」

  気づけば、布を顔全体に押し付けていた。湿った布地が皮膚に触れる感触が生々しい。それを顔の輪郭に沿ってこすりつける。まるで匂いをマーキングするように、目、鼻、口元――隙間なく布を擦り付けながら吸い込む。鼻腔が匂いで満たされていく。嫌な感覚なのに、それが快感に変わりつつあるのを感じた。俺はいきりたったそれをパンツから解放する。先端からだらだらと汁が垂れている。俺は我慢できず、自らの手でそれに刺激を加え始めた。

  上下にしごくリズムにあわせて、吐息が漏れる。吐息が漏れると臭いを吸う。そうするとまた、下半身の熱が強まり、吐息が漏れる。また吸う。それの繰り返しだ。

  「こ、…な……こと……おか、し……のに……♥」

  脳裏に師匠の姿が浮かんでくる。あの大きくて重厚な体躯。俺とは全く違う雄としての力強さ。その存在を、この布地を通じて強く感じてしまっている。浮かぶ顔が申し訳なさを胸に突き刺してくる。それなのに、手の動きは止まらない。むしろ一層激しくなる。

  さらに布を鼻に擦り付ける。鼻腔を満たす匂いが強烈すぎる。胸が熱くなり、心臓が激しく脈打つのが分かる。布を顔の隅々にこすりつけながら、匂いが消えないように。もっと濃く感じられるように。無意識に動かしていた。

  「……し、しょう…………♥」

  その名前が自然と口から漏れる。それを言った瞬間、胸の奥でさらに熱が膨れ上がる。この匂いが、師匠そのものと無意識に結びついてしまった。布地を通じて師匠の存在を感じる。鼻に染み付いた匂いが、師匠の顔を鮮明に脳裏へと浮かび上がらせる。

  喉の締め付けが苦しくてたまらないのに、嗅ぐたびに得られる快感がそれを完全に上回っている。理性では「やめろ」と叫んでいるのに、身体は逆に「もっと」と欲している。布地を顔から鼻、頬へと擦りつける動きが止まらない。

  この匂いが自分を支配している。その匂いをもっと濃く感じたい、もっと体の奥深くまで染み込ませたいという思いが、俺を突き動かしている。

  衝動に突き動かされた俺は、両手で布を顔に強く押し付け、大きく息を吸ってより多くの臭いを取り込んだ。

  その瞬かん、あたまが、はじけた。

  「あっ……っっあっぁ♥ い、い、イク…イクイクイク……♥」

  直接刺激を加えていないのに、俺は果てた。そんなこと初めてだった。呼吸をするごとに、臭いを取り込むたびに俺の体はリズムよく精を放つ。しばらくそれを繰り返してやがて打ち止めになる。頭に冷静さが戻ってくる。

  布を握りしめたまま、俺は膝を床に突いた。放った精が体に、床にべっとりついているが、そのまま動けない。その布を顔に擦り付けていた自分が信じられない。でも、捨てるなんて考えられない。鼻腔に染み付いた匂いがまだ残っていて、それが安堵のように心を覆っている。

  「……俺、最低だ…」

  呟いてみても、手から布を放すことはできなかった。申し訳なさが胸を締め付ける。それでも匂いが消えないことに、どこかほっとしている自分がいる。それが何よりも恐ろしかった。

  [chapter:第一章 帰還]

  あなたがヒーローを志した理由はなんですか?

  そう問われたら、答える前に、俺には思い出す出来事がある。

  まだ俺が幼かった頃だ。確か、俺がまだ中学生の頃。

  その日は友達と映画を見にいく予定だった。映画のタイトルは思い出せないが、その時流行っていたアニメ映画だったと思う。

  映画館のあるビルで待ち合わせの予定で、早めに着いた俺はビルの中をぶらぶら歩いていた。足元には磨き上げられたタイルが広がり、天井からは柔らかな光が降り注いでいる。人もまばらで静かだ。こんな場所なら、何も考えずにぼんやりするにはもってこいだ、なんて思った記憶がある。

  その時だった。床が突然ぐらりと揺れた。最初は「気のせいか?」と思ったが、次の瞬間には激しい振動が襲ってきた。目の前の壁が軋む音を立て、天井に埋め込まれたライトが不気味に揺れている。俺は反射的に近くの柱に手を伸ばしたけど、立っているのもやっとだった。

  「地震だ!」誰かの叫び声が聞こえた。周囲にいた人たちが慌てて走り出す姿が視界の端に映る。でも俺は動けなかった。揺れはどんどん激しくなる。床が波打つようで、足元から響く低い轟音が身体にまで伝わってくる。

  その混乱の中で、ポケットから携帯電話が飛び出して床に落ちた。画面が割れたかもしれない。慌てて拾おうとしたけど、もう間に合わなかった。天井の一部が崩れ落ちて、俺を押し倒した。頭を守ろうと腕を上げたけど、何か重たいものが背中に覆いかぶさってきた。息苦しい。暗闇と粉塵が一気に広がり、目も開けられない。

  「嘘、でしょ……」心臓がバクバクしている。耳鳴りがひどくて周囲の音もよく聞こえない。ただ、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いていた。

  動こうとしても身体はほとんど動かなかった。腕と足はなんとか動くけど、それ以上は無理だ。どうやら瓦礫の下敷きになっているみたいだ。この状況を理解した途端、恐怖が一気に押し寄せてきた。「誰か!」声を絞り出してみるけど、自分でも驚くほど弱々しい声しか出ない。

  暗闇の中でじっとしていると、遠くから微かに人の声や物音が聞こえてきた。でもそれはすぐに途切れた。孤独感と絶望感だけがじわじわと胸を締め付ける。このままここで死ぬんじゃないか――そんな考えが頭をよぎる。

  俺は必死で瓦礫を押し返そうとする。でも重すぎてびくともしない。

  「助けて…助けて……!」何度も叫びながら、ただじっとその場で息を潜めていた。

  暗闇の中にいると、時間の感覚なんてあっという間に消えてしまう。どれくらいここに閉じ込められているのか、もうわからない。俺は瓦礫の下で動けないまま、ただ息をすることだけに集中していた。寒さも痛みも、いつの間にか麻痺してきているようだった。

  「これで終わりなのかもしれない」そんな考えが頭をよぎる。助けなんて来ない。誰も俺がここにいることを知らないんだ。

  暗闇は心を弱くする。

  最悪のシナリオばかりが頭を埋め尽くしていく。「このまま死ぬんだろうな」と思った瞬間、胸の奥がズキズキと痛んだ。

  その時だった。すぐ近くで何かが動く音が聞こえた。そして低い声が響いた。「誰かいるのか?」男の声だ。俺は一瞬、自分の耳を疑った。でも確かに聞こえた。その声は力強く、それでいてどこか安心感を与える響きだった。

  「ここ!助けて!」

  俺は必死で声を絞り出した。すると瓦礫がゴトゴトと動き始めた。光が差し込む。光の先から現れたのは、巨大な熊獣人だった。黒い毛並みに覆われたその姿は圧倒的で、鋭い瞳がまっすぐこちらを見据えている。爪は鋭く、圧倒的な力を感じさせる体躯に、俺は思わず縮み上がった。

  (怖い……)

  本能的にそう感じたその瞬間、彼が身にまとったヒーロースーツに目がいった。黒と黄色の配色が鮮やかで、胸元には鋭い三角形が走る印象的なデザイン。肩や腕を守る装甲が輝き、背中には熊のエンブレムが刻まれている。威圧感のある熊獣人の姿が、一気に力強いヒーローの存在へと変わった。

  「大丈夫か。」

  その声は低く、それでいて静かな安心感を与えるものだった。

  俺の周囲の瓦礫を彼の巨大な手が払っていく。恐ろしいはずのその腕がまるで壁となって、俺を守るためのものに感じられた。彼の体は重々しく、動作は鋭い。それなのに、どこか優しさがにじみ出ている。

  周りの瓦礫を一通り避け終えた彼は、俺に片手を差し伸べる。

  俺はその手を握った。その瞬間、意外な柔らかさが指先に触れた。肉球だ。それは暖かく、優しい感触だった。不思議と恐怖心は消え去り、彼の手から伝わる温もりだけが心に残った。

  瓦礫から引き出された俺は、その場で崩れるように座り込んだ。そして気づけば涙が止まらなくなっていた。

  「怖かった……怖かった……!」声にならない嗚咽が漏れる。

  熊獣人は困ったような顔をしながらも、そっと俺を抱きしめてくれた。

  「大丈夫だ。よく頑張ったな。」

  その言葉は深く、じんわりと胸に響いていく。

  彼の大きな腕の中で感じる温もりは、暗闇から解放された喜びと安心感そのものだった。

  あの時の彼の優しさを、力強さを、今でも思い出す。

  最初の質問に答えよう。

  俺がヒーローを志した理由はなにか。

  あの時俺を助けてくれたヒーロー、グリズリオンに憧れたからだ。

  ◆

  トレーニングルームの鏡に柴犬獣人が映っている。そいつは体に張り付くような訓練用のスーツを身にまとい、俺を……俺自身を見つめている。

  「やっぱりこの訓練用スーツ…恥ずかしいよな…」

  何度来ても着慣れない。自分の筋肉の成長具合がわかりやすいのはいい。でも体のラインを強調しすぎじゃないか、と思う…。

  俺はひとりごちると今日のトレーニングを開始する。

  今日は下半身のトレーニングを中心にする予定だ。街を守るヒーローとして、常に鍛えていかなければいけない。

  俺はレッグプレスマシーンに座り込む。

  あの日、グリズリオンに憧れた俺は、今は晴れてヒーローになった。

  しかも幸運なことに、俺を直接指導してくれるのはグリズリオンその人だ。

  俺はグリズリオンーーー師匠の元で、様々なことを学んだ。

  ヒーロースクールではヒーローとしての心構えや振る舞いを当然教わる。

  だが、彼から直接学ぶそれは、ヒーロースクールで学んだことより深く俺の心に響いた。

  マシーンを操作し、重量を設定する。最初は軽い重量から始め、徐々に重くしていく。筋肉が熱を持ち始めると、さらに重い重量に挑戦する。スーツが体に張り付いているが、動きやすい設計になっているので、無理なく動ける。

  その時、突然スマホの通知音が鳴り響いた。俺は立ち上がってテーブルの上のスマホを急いで手に取り、画面を見た。心臓が高鳴る。待ち望んだ連絡かもしれない、と期待が高まる。

  だが、画面には友達からのメッセージが表示されていた。

  俺は適当に返事をしてスマホを置く。

  俺が連絡を待っているのはただ一人。グリズリオンーーー師匠だ。

  師匠は3ヶ月前、最近台頭してきている謎の組織、ナーガリアンの調査に向かってそのまま音信不通となった。行方不明ってやつだ。

  俺たちのヒーロースーツには発信機が取り付けられていて、GPSを通して司令部から位置を把握できるようになっている。だが、師匠が信号が途絶えた場所を調べてみてもなんの手がかりも得られなかった。

  師匠は今どこにいるのか。何をしているのか。頭の中で考えがぐるぐると堂々巡りをする。最近はずっとこんな感じだ。

  俺は不安を振り払うように頭を横に振り、トレーニングを再開しようする。

  その時、トレーニングルームに警報が鳴った。

  「緊急事態! ヒーロー出動要請です!」

  オペレーターの声がスピーカーを通して俺の耳に響く。

  俺は素早くトレーニングルームを出てブリーフィングルームに向かう。

  師匠、今どこにいるんですか…。

  ◆

  警報音が響き渡る廊下を駆け抜け、俺はトレーニングルームから急いでブリーフィングルームへ向かった。途中すれ違う職員の人に怪訝な顔をされるのは気のせいだろうか。胸がざわつく。何が起きた?ただならぬ空気を感じる。

  ブリーフィングルームの扉を開けると、すでに複数人のヒーローたちが集まっていた。その中には、白い司令服を着た[[rb:狸谷健一朗 > たぬきや けんいちろう]]――ラクーンブレイブの姿もあった。背が低くて少し太め、どこにでもいそうな狸獣人のおじさん。見た目に騙されそうになるけど、この人はただのおじさんじゃない。師匠、グリズリオンと並ぶ伝説のヒーローだ。

  「来たかい、犬塚くん。」

  ラクーンブレイブは俺を見るなり、そう声をかけた。親しみやすい笑顔を浮かべているが、その目には鋭さが宿っている。

  「では状況を説明するよ。」

  狸谷司令は手短に話し始めた。

  「現場は北区の○○ビル、先日オープンしたばかりの商業ビルだ。現在倒壊しかっていて、閉じ込められた人々が多数いる。原因はおそらくナーガリアンの破壊工作だ。おそらく戦闘の準備も必要になるよ。」

  その場にいる全員の表情が引き締まる。俺も自然と背筋が伸びた。

  「犬塚くん。」

  狸谷司令が俺に目を向ける。「いや、スカイハウンド。」

  ヒーロー名で呼ばれると一瞬ドキッとする。

  「君は救助班だ。現場に急いでね。」

  「わかりました!」

  俺は力強く返事をして踵を返そうとした。

  「待って待って、その格好のまま行くつもりかい?」

  狸谷司令がニヤリと笑った。

  ハッとして自分を見ると、訓練用スーツを着たままだった。体にぴっちり張り付いているこのスーツは、鏡で見るたび恥ずかしくなる代物だ。それなのに、この格好で堂々と廊下を走り、ブリーフィングルームに入ってきてしまったことに気づき、顔が熱くなる。職員の人の怪訝な表情の理由が今わかった。

  「す、すぐ着替えます!」

  慌てて言う俺を見て、狸谷司令は肩を揺らして笑った。

  「いやいや、そのままでいいんじゃないかな?君の若々しい肉体を見せつけるのも悪くない。ほら、みんなも見て見て。」

  狸谷司令が周囲のヒーローたちに視線を向けると、何人かがクスクスと笑い始めた。

  「スカイハウンド、なかなか似合ってるじゃないか!」

  「若い引き締まった肉体、見せつけてくれるねぇ〜」

  周囲からの軽口が飛び交い始める。俺は顔が熱くなるのを感じながら必死で言い返した。

  「ちょっと!みんなやめてくださいよ!警報が!鳴ったから!急いでたんです!」

  「まあまあ、若いんだから恥ずかしがることないじゃあないか。」

  狸谷司令はさらに追い打ちをかけるように笑った。

  「むしろその格好で行けば、倒壊したビルから救助される人たちも元気になるかもしれないよ?」

  「そんなわけないでしょう!」

  俺は思わず声を上げた。周囲の笑い声がさらに大きくなる。

  「よしよし。」狸谷司令は手を振りながら言った。

  「冗談だ。早く着替えて現場へ急行。君の真剣な姿も期待しているよ。」

  その言葉には茶化しだけではなく、不思議な温かさがあった。この人はいつもそうだ。見た目はただの狸獣人のおじさん、でもその言葉には自然と人を安心させる力がある。

  「……わかりました!」

  俺は深く頭を下げて部屋を出た。

  やっぱり狸谷司令ーーーラクーンブレイブはすごい人だ。そう思いながら、俺は足を速めた。

  ◆

  現場に到着した瞬間、俺は息を呑んだ。目の前には倒壊しかかった巨大な商業ビルがそびえ立っていた。いや、「そびえ立つ」という表現すら危うい。建物は今にも崩れ落ちそうなほど傾き、ひび割れた壁面からはコンクリート片がポロポロと落ちている。窓ガラスはほとんどが割れ、むき出しになった鉄骨が歪みながら空に突き刺さっていた。

  「……ひどいな。」

  その言葉が自然と口から漏れた。周囲には瓦礫が散乱し、建物の前にはケガ人が多数座り込んでいる。血まみれの包帯を巻いた人、肩を抱えてうずくまる人、泣き叫ぶ子供――混乱と絶望が渦巻いていた。

  「ナーガリアン……!」

  拳を握りしめる。あいつらの仕業だ。こんなことをして何になる?怒りで胸が熱くなる一方で、それ以上に湧き上がるのは使命感だった。今は怒りに飲まれている場合じゃない。俺にできることをやるだけだ。

  俺は深呼吸して気持ちを落ち着けると、変身デバイス――青と黄色のブレスレット状のアイテムに手をかけた。それは俺がヒーローとして活動するために与えられたものだ。このデバイスに触れるたび、自分がヒーローであることを実感する。そして、その責任の重さも。

  「チェンジ!スカイハウンド!」

  俺は力強く掛け声を上げた。その瞬間、デバイスから青い光が放たれる。光は俺の体全体を包み込み、熱いエネルギーが全身を駆け巡る感覚がした。心臓が鼓動を速め、体中の筋肉が活性化していく。

  青と黄色を基調としたヒーロースーツが俺の体にぴったりと張り付いていく。スーツは動きやすく設計されていて、柴犬獣人特有の耳や尻尾も違和感なく外に出せている。胸元にはスカイハウンドのエンブレム――翼を広げたシンボル――が輝いていた。

  「よし……行くぞ。」

  この姿になるたび、自分がヒーローであることへの覚悟と誇りを感じる。そして、それに伴う責任も。

  ビル内に入ると、さらに状況の酷さがわかった。床はひび割れ、天井からはコンクリート片や配線が垂れ下がっている。いつ崩れてもおかしくない状況だ。それでも足を止めるわけにはいかない。

  俺自身の嗅覚を頼りに、人々の居場所を探す。瓦礫の隙間から微かに漂う汗や血、生きている人間特有の匂い――それらを手掛かりに進む。

  「ここだ!」

  瓦礫の山に鼻先を向けながら叫ぶ。他のヒーローたちも駆け寄ってくる。俺たちは力を合わせて瓦礫を取り除き、中に閉じ込められていた女性を救い出した。

  「大丈夫ですか?もう安全ですよ!」

  女性は涙ながらに「ありがとう」と言った。その言葉が胸に響く。(これだ……これだから俺はヒーローになったんだ。)

  その後も嗅覚を頼りに次々と人々を発見し、他のヒーローたちと協力して外へ運び出した。瓦礫から救い出された人々は皆、「ありがとう」「助かった」と感謝の言葉を口にする。その度に胸が熱くなる。

  (師匠もこうだったんだろうな。)

  ふと頭によぎる。師匠――グリズリオンも救助活動が得意だった。無口で厳しい人だけど、人命救助となれば誰よりも迅速で的確だった。その背中を見て育った俺だからこそ、この瞬間、自分が同じ道を歩んでいることに誇りを感じた。

  「スカイハウンド!」

  仲間の声で我に返る。「次は2階だ!まだ閉じ込められている人がいる!」

  「了解!」

  俺は再び走り出す。

  上階に上がると、状況はさらにひどかった。床は崩れかけ、壁は大きくひび割れている。鉄骨が垂れ下がり、瓦礫が足元に散乱していた。空気は粉塵で白く濁り、息をするたび喉が焼けるような感覚がする。

  (ここにまだ人がいる……)

  俺は鼻をすんと鳴らした。俺の嗅覚が微かな人の気配を捉える。素早く気配の場所に移動すると瓦礫に足を取られた猫獣人の男性がいた。

  「大丈夫ですか!今助けます!」

  声をかけながら瓦礫を掘り起こす。下敷きになっていた中年男性を引き出すと、彼は弱々しく頷いた。「ありがとう……」その言葉に胸が熱くなる。

  「安心してください。俺が出口まで案内します」

  俺は男性を抱え上げ、出口へ向かおうとした。その時だった。

  「……!」

  背後に気配を感じた。振り返ると、そこにはナーガリアンの戦闘員が立っていた。思わず息を呑む。

  緑と紫を基調とした全身タイツのようなスーツが異様に体に密着し、その姿はまるで蛇が人間の形を模倣して動いているように見える。

  まず目に飛び込んできたのは、蛇をモチーフにしているであろうヘルメットだ。鋭い目のラインが光り、冷たい威圧感を放っている。その全身は筋肉の動きがスーツ越しに浮かび上がるほど密着しており、まるでそのスーツ自体が生き物なのではないかと思わせるほどだった。

  次に目を引くのは腰から伸びる長い蛇の尻尾。一瞬、その尻尾が本物の蛇かと錯覚するほど自然に動き、しなやかにうねる。その動きには妙なしなやかさがあり、周囲の空気を切る音さえ聞こえるかのようだった。

  (くそ、やっぱり来たか……)

  その奇妙な姿に思考が一瞬止まる。スーツの鮮やかな色と光沢が目に焼き付くようで、視線を逸らそうとしても逸らせない。何者なのかもわからない――ただひたすら不気味で、異様な存在感を放っている。

  そのスーツには蛇を模した模様が全身に描かれている。胸元には蛇の顔を象ったマークがあり、ヘルメットの鋭い形状と相まって視線を挑発してくるようだ。そして、その腰にある蛇の尻尾――それがまるで本人の体の一部であるかのように自然に動く。

  (なんなんだこいつらは……獣人なのか?)

  そのスーツ越しでは、種族の特徴は全くわからなかった。体つきや動きには力強さがあるが、その正体を見極めることはできない。ただ、その姿が「敵」であることだけは直感的に理解できた。

  戦闘員はその蛇の尻尾を激しくしならせる。しなやかで鋭い動きに、一瞬でこちらを圧倒する気迫が伝わってきた。

  (ただのスーツじゃない……あの尻尾、武器として使えるのか……!)

  尻尾から目を離すことができない。その動きはまるで蛇そのものだ。スーツ全体が生物のように活き活きとしているように見える。ひとつの攻撃が終わるたびにその擬似尻尾が床に触れる音が響き、その音が全身に響く不快感として伝わった。

  (これがナーガリアン戦闘員……)

  情報は知っていたが、実物と相対すのは始めてだ。異様な姿、謎の尻尾、そして威圧感。その存在全てが、俺にとって未知であり、拒絶したくなるものだった。

  戦闘員は尻尾をしならせながら無言でこちらを睨みつけている。一人ではないだろう。この近くに他にもいる可能性が高い。俺は一瞬迷った。この男性を守りながら戦うべきか、それとも――。

  (師匠ならどうする?)

  頭に浮かぶのは師匠グリズリオンの姿だ。無闇に戦わない。それよりも救助者を安全な場所へ運ぶことを優先するだろう。

  「行きます!ちょっと我慢してください!」

  俺は素早く決断し、男性をしっかり抱え直す。そして窓際へ駆け寄った。割れかかった窓ガラスを拳で叩き割り、外へ飛び出す。風が顔を切るように吹きつける中、ヒーロースーツの力で地面へと軽やかに着地した。

  すぐさま通信デバイスに手を伸ばし、司令部へ状況を報告する。「こちらスカイハウンド!上階でナーガリアンの戦闘員と遭遇!支援を要請します!」

  通信しながら俺は救助者を抱えたまま風のように移動し、ビル正面へ向かった。後ろから聞こえる激しい衝撃音――仲間たちが駆けつけてくれたんだろう。他のヒーローたちが戦闘員と交戦している音が耳に届く。

  (頼む……みんな無事でいてくれ。)

  俺は祈るような気持ちで走り続けた。

  ◆

  「もう人の気配はない…これで終わりかな……」

  俺は瓦礫だらけのビル内を見渡しながら、大きく息を吐いた。全フロアを確認し、閉じ込められていた人々は全員救助した。仲間たちと協力し、ビル内にはもう誰もいない状態にした頃には、外はすっかり暗くなっていた。

  「スカイハウンド、お疲れさん。」

  仲間の一人が肩を叩いてくる。「今日は大変だったな。」

  「お互い様だよ。」

  俺は軽く笑って返した。確かに大変だったけど、無事に任務を終えられたことに胸を撫で下ろす。救助した人々の「ありがとう」という言葉がまだ耳に残っている。それだけで疲れなんて吹き飛ぶ気がした。

  でも――。

  (ナーガリアン……あいつらの目的は何だったんだ?)

  2階で戦闘員と遭遇した時の光景が頭に浮かぶ。緑と紫の奇妙な姿、蛇を模したヘルメットやマーク……。結局、奴らは何がしたかったのか全くわからない。仲間によれば、俺が戻る前に戦闘員は逃げていったという。あれだけ派手にビルを倒壊させておいて、それ以上何もせず去るなんて……不気味すぎる。

  (何か別の目的があったんじゃないか?)

  そんな考えが頭を巡るが、今は考えても仕方がない。俺は気持ちを切り替えるように深呼吸し、仲間たちと共にビルから出た。

  外に出ると、夜風がひんやりと肌を撫でた。瓦礫の山越しに見える星空が妙に静かで、今日一日の喧騒が嘘みたいだった。

  「よし、これで終わりだな。」

  俺は自分自身に言い聞かせるように呟いた。その時だった。

  通信デバイスから突然音声が流れた。「スカイハウンド!」

  狸谷司令――ラクーンブレイブの声だ。でも、その声にはいつものお茶目さや余裕はなく、緊迫感が滲んでいた。

  「司令?どうしました?」

  「すぐ戻ってきてほしい。」

  短く鋭い命令口調。その言葉だけでただならぬ事態だとわかった。

  「何かあったんですか?」

  俺は思わず問い返す。でも、その次に聞こえた司令の言葉で心臓が跳ね上がった。

  「克己――グリズリオンが帰ってきた」

  [newpage]

  [chapter:第二章 対峙]

  俺は息を切らしながらブリーフィングルームに駆け込んだ。胸が高鳴る。師匠――グリズリオンが帰ってきた。その知らせを聞いた瞬間、全身が熱くなり、足が自然と動いていた。

  「司令!」

  俺は部屋の中央に立つ狸谷司令――ラクーンブレイブに声をかけた。白い司令服を着た彼は、いつもの親しみやすい笑顔を浮かべているはずだった。しかし、今の彼の表情は違った。深刻で、どこか重々しい。

  その表情を見た瞬間、嫌な予感が胸をよぎる。

  「犬塚くん。」

  狸谷司令は俺に視線を向ける。その目には迷いのない厳しさがあった。

  「克己――グリズリオンは確かに戻ってきた。でも……」

  「でも?」

  俺は息を飲む。

  「基地の前で気絶している状態で発見されたんだ。」

  狸谷司令の言葉が重く響く。「今も意識は戻らず、隔離室で寝かせている。」

  「……隔離室?」

  思わず問い返した。医務室ではなく隔離室?その言葉に頭が混乱する。隔離室といえば、厳重なセキュリティが敷かれた部屋だ。犯罪者や危険人物を一時的に拘束するための場所――そんなところになぜ師匠が?

  俺の表情から疑問を読み取ったのか、狸谷司令は手を振り、近くのスタッフの人に大型モニターに映像を映すよう指示した。画面には脳のスキャン映像が映し出される。

  「これは……?」

  俺はモニターを見つめながら尋ねた。

  「克己の、脳のスキャン結果だよ。」

  狸谷司令は低い声で答えた。「彼が発見された直後に身体機能や脳波など、あらゆる検査を行った。その結果……」

  言葉が途切れる。沈黙が流れた。狸谷司令はさらに深刻な表情になり、静かに告げる。

  「グリズリオンは、洗脳されている可能性がある。」

  狸谷司令の声がブリーフィングルームに低く響いた。その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。頭が真っ白になり、心臓が一瞬止まったような感覚に襲われる。

  「……そんな……」

  俺は思わず声を漏らしたが、それ以上言葉が続かなかった。信じられない。信じたくない。でも、狸谷司令のその背中――そして彼の拳が固く握りしめられていることに気づいてしまった。

  狸谷司令は画面に向けて立ったまま振り返らない。モニターには師匠――グリズリオンの脳スキャン映像が映し出されている。異常な脳波パターンや活性化した部分が赤く点滅していた。それを見つめる司令の肩は微かに震えているようにも見えた。

  「犬塚くん。」

  狸谷司令は静かに言った。「彼が発見されたとき、すぐに身体機能や脳波などの検査を行った。その結果……これだ。」

  言葉は冷静だった。でも、その拳は明らかに感情を抑え込んでいる証拠だった。俺はその姿から目を離せなかった。

  (司令……)

  狸谷司令と師匠――克己はかつて相棒ともいうべき存在だったと聞いている。ヒーローとして数々の戦場を共に駆け抜け、互いに命を預け合う関係だった。そんな相手が今、洗脳されているかもしれない――その悔しさや無力感は計り知れない。

  「隔離室にいる理由もそれだ。」

  狸谷司令は続けた。「克己自身が危険だと断定されたわけじゃない。ただ、この状態では何が起きてもおかしくない。だから、念の、ためだ。」

  俺は拳を握りしめた。(どうしてこんなことに……?)

  師匠が洗脳されている可能性――それだけでも十分衝撃的だ。それなのに、目の前で司令が苦悩している姿を見ると胸が締め付けられるようだった。

  「師匠は……本当に洗脳されているんですか?」

  俺は絞り出すように問いかけた。狸谷司令は答えなかった。ただ、画面越しの映像をじっと見つめていた。その沈黙が何よりも重かった。

  「犬塚くん。」

  やっと口を開いた彼の声には微かな震えがあった。

  「君にはすぐに会わせてやる。ただし……冷静でいてほしい。」

  その言葉には、俺への配慮だけじゃなく、自分自身への戒めも込められているように感じた。俺は深く頷いた。

  「はい……わかりました。」

  疑念と不安で頭がいっぱいだった。それでも一つだけ確信していることがある。

  この目で確かめなければならない――それだけだ。

  ◆

  司令部の地下深くにある隔離室に向かう道は、息苦しいほど静かだった。狸谷司令に付き添われながら、俺は厳重なセキュリティを次々と抜けていく。指紋認証、虹彩スキャン、カードキー――そのたびに重々しい扉が開き、さらに深い闇へと誘われるような感覚がした。

  「犬塚くん。」

  狸谷司令がふと口を開いた。

  「ここは特別な場所。隔離室にいる者は外界との接触を完全に断たれる。…それだけ慎重にならざるを得ない状況だということだよ。」

  その言葉に胸がざわついた。(師匠がそんな場所にいるなんて……)

  やがて隔離室の手前にある監視室に到着した。

  監視室には大型モニターが設置されており、隔離室内の監視カメラ映像がリアルタイムで表示されている。そのほとんどは空の部屋だったが、一つだけ映像に人影があった。

  寝たきりの師匠――グリズリオンだ。

  「……師匠……」

  モニター越しに見えるその姿を確認すると、俺は安堵しつつも師匠のことが心配になる。師匠は病院で着るような検査着を身にまとい、無防備な姿で横たわっている。その姿を見るだけで胸が締め付けられるようだった。

  「おや? お客人ですか?」

  滑らか、という表現をしたくなる声がモニターの下の大きな椅子から聞こえた。

  その人物は椅子を回転させ、立ち上がる。立ち上がると、すらりとした体躯が目立つ、スーツを着た蛇獣人だった。

  「彼は?」

  男は狸谷司令に向かって問いかける。その声にはどこか冷たい響きがあった。

  「ああヘビちゃん、彼は[[rb:犬塚輝 > いぬづか あきら]]くん。」

  狸谷司令は肩越しに答えた。「克己の弟子だ。」

  「ああ……」

  蛇獣人は目を細めながら頷いた。

  「彼が噂の……。」

  その人はしなやかな動作で近づいてくる。その姿は長身で痩せ型、全身に鱗模様が浮かび上がっている。鋭い黄色い瞳と縦長の黒い瞳孔――まるで相手を見透かすような冷たい目だった。

  「初めまして。蛇塚と申します。」

  彼は軽く頭を下げて名乗った。続けて俺も挨拶すると、彼は続けた。

  「監視室長という閑職についておりますよ。」

  「もう、ヘビちゃんは会ったら皮肉ばっかりだなぁ。」

  狸谷司令は苦笑した。

  「適材適所でしょうよ〜」

  「それには、まぁ同意しますがね。」

  蛇塚さんは薄く笑みを浮かべた。その笑顔にはどこか毒気が混じっているようにも見える。

  「でもまあ……克己さんがこんな状態になるなんてね。」

  蛇塚さんはモニター越しのグリズリオンを見つめながら呟いた。

  「最後に会ったのは3ヶ月くらい前でしたか…。まさかこんな状態で帰ってくるとは……」

  その言葉には確かに悲しげな響きがあった。しかし俺はその態度を額面通り受け取れなかった。

  (……蛇獣人……ナーガリアン…)

  先ほど遭遇したばかりというのもあって、どうしても蛇で連想してしまう。警戒心が頭をよぎる。

  俺の態度から警戒心を読み取ったのか、蛇塚さんは薄笑いを浮かべながら問いかけてきた。

  「蛇獣人はお嫌いですか?」

  その言葉に胸が跳ね上がる。慌てて否定しようとするものの、言葉にならない。

  「大丈夫です。」

  蛇塚さんは静かに続けた。

  「慣れてますよ。ナーガリアンなんて輩が世間を賑わせるようになってから我々蛇獣人への風当たりも強くなりましたからね。」

  彼は呆れたような口調で言った。

  「街では蛇獣人、入店お断りのお店もあったりしますから。」

  その言葉には皮肉だけではなく、確かな悲しみが滲んでいた。その表情を見ると、自分自身も偏見に囚われていたことに気づいてしまう。

  「すみません!」

  俺は思わず頭を下げた。

  「そんなつもりじゃありませんでした。でも……偏見を持っていたことは否定できません。本当に申し訳ありません!」

  蛇塚さんは少し驚いた様子で俺を見つめた後、小さく笑った。その笑顔には初めて柔らかな温かさが感じられた。

  「素直な子は好きですよ。」

  彼はそう言って肩をすくめた。

  「まあ、お互い気楽にやりましょう。」

  その言葉には毒も皮肉も感じられなかった。

  「さて、一応状況を整理しようか」

  狸谷司令はそういうと俺の方を見ながら続ける。

  司令が静かに口を開いた。

  「克己は司令部の正面玄関前で倒れているところを発見されたことは犬塚くんも知っているね」

  俺が頷くと司令は続ける。

  「克己はグリズリオンに変身した姿だったわけだが、そのヒーロースーツは傷だらけだったんだ」

  傷だらけ……?

  俺は驚いて振り返った。「じゃあ……誰かと戦っていたんですか?」

  「うーん確かな証拠はないけれど…その可能性が高い。」

  狸谷司令は腕を組みながら答えた。

  「誰かと……」

  俺は言葉を失った。戦闘していたなら、その痕跡くらい残っているはずだ。でも――。

  「でもね」

  狸谷司令は眉間に皺を寄せながら続けた。

  「その痕跡がどこにも見当たらないんだ。戦闘の形跡も、相手の姿も周辺には何一つ残されていない。」

  「そんな……」

  頭が混乱する。司令部の目と鼻の先でそんなことが起きていた可能性があるなんて、それ自体が信じられなかった。

  「さらに奇妙なのはこれだ。」

  狸谷司令はモニターに映し出された映像を指差した。

  「克己のスーツにはナーガリアン戦闘員のスーツと思われる破片がわずかに張り付いていた。」

  「ナーガリアン……!」

  その名前を聞くだけで胸がざわつく。俺は拳を握りしめた。

  「じゃあ、師匠はナーガリアンと戦って……?」

  狸谷司令は首を振った。「うーん、今のところ、たぶん、そう…くらいかな」

  「でも……」

  俺はモニター越しに映る師匠を見つめた。(どうしてそんな状態で司令部まで来たんだ?何か伝えたいことがあったんじゃないのか?)

  「結局、彼自身から直接聞き出すしかない。」

  狸谷司令は溜息をつきながら言った。

  「だが、今は目覚めてもらうことを待つしかない。」

  俺も深く頷いた。

  狸谷司令と俺は監視室を後にすることにした。扉へ向かう途中、蛇塚さんが声をかけてきた。

  「犬塚さん。」

  その滑らかな声に思わず足を止める。

  「君には期待していますよ。」

  「えっ……あ、ありがとうございます。」

  突然の言葉に戸惑いながらも頭を下げた。でも、その言葉の意味するところが全くわからなかった。(期待って……何に?)

  蛇塚さんは薄く微笑んだだけだった。その笑顔には毒気もなく、一見すると親切そうだった。でも、その目にはどこか底知れない冷たさや計算高さが宿っているようにも感じた。

  (この人……何を考えているんだ?)

  俺は胸の奥で小さな違和感を覚えながらも、それ以上何も言えなかった。ただ、「ありがとうございます」ともう一度繰り返して監視室を後にした。

  監視室から離れると、狸谷司令がふっと息を吐いた。

  「ごめんね、ヘビちゃんが。慣れないよね」

  「え?」

  俺は驚いて振り返った。

  「昔からああいう奴なんだ。」

  司令は苦笑しながら言った。

  「皮肉屋だし、人をからかうのが好きだし…でも……悪いやつじゃないから許してあげてね」

  その言葉には司令の蛇塚さんに対する信頼がにじみ出ていた気がする。

  俺は曖昧に頷きながら歩き出した。

  ◆

  数日後、師匠が意識を取り戻したという知らせを受けた瞬間、俺は胸が高鳴った。任務を手早く片付けると、すぐに司令部へ帰る。

  セキュリティゲートの前で狸谷司令と合流し、共に隔離室の監視室へ向かう。

  「師匠はどんな様子でしたか?」

  俺は歩きながら司令に問いかけた。息が少し上がっているのを感じる。

  「うーん……」

  狸谷司令は煮え切らない表情で答えた。

  「僕はもう話したけど……正直、何かわかったかと言われると…。」

  その曖昧な返答に胸がざわつく。(何があったんだ?師匠は本当に無事なのか?)

  「どういうことですか?」

  さらに問い詰めようとする俺だったが、司令はそれ以上言葉を濁したまま黙り込んでしまった。

  監視室に入ると、大型モニターには隔離室内の映像が映し出されていた。師匠――グリズリオンはベッドに腰掛けている。変わらず検査着をまとい、ぼんやりと床を見つめているように見える。

  「あぁ、犬塚さん。お待ちしていました」

  蛇塚さんが滑らかな動作で近づいてきた。

  「話しかけられますよ。」

  そう言ってマイクを差し出す。

  俺はマイクを見つめながら首を横に振った。

  「監視室越しに師匠に話しかけるなんて……それじゃまるで疑っていると、言っているようなものじゃないですか。」

  「部屋に入って直接話したいです」

  その言葉に蛇塚さんと司令の表情が微妙に変わった。蛇塚さんは薄く笑みを浮かべたまま黙り込む。一方で司令は眉間に皺を寄せながら困ったような顔をしている。

  「うーん……僕もさっき室内で話したけど……やめておいたほうがいいよ。」

  司令は曖昧な口調で言った。「特に犬獣人の君は……」

  「犬獣人だからって、どういう意味ですか?」

  俺は思わず問い返した。でも司令はそれ以上答えず、視線を逸らしてしまった。

  (何だ?どうしてそんなことを言うんだ?)

  「どうしてもダメですか?」

  俺は食い下がるように言った。

  「直接話したいんです。お願いします!」

  「いいじゃないですか。」

  蛇塚さんが口を開いた。

  「本人が行きたいと言っているんですから。」

  その言葉に司令はさらに悩む様子を見せた。腕を組みながらしばらく考え込む。そしてようやく小さく頷いた。

  「わかった。」

  司令は低い声で言った。

  「ダメだと思ったらすぐ戻ってくるんだよ。」

  「はい!」

  俺は力強く返事をすると、隔離室への扉へ向かった。その時、胸の奥で小さな不安が芽生えていた。

  ◆

  隔離室の扉が重々しく閉まる音がした。真っ白な壁と天井。簡素なベッドと椅子、机だけが置かれた殺風景な部屋。監視カメラが四隅に設置されていて、どこにも死角はない。息苦しいほどの閉鎖感がこの部屋にはあった。

  俺は一歩足を踏み入れた瞬間、鼻腔を突き刺すような強烈な臭いに思わず顔をしかめた。湿った汗と皮脂が混ざり合ったような、生々しい臭い。それだけじゃない。どこか鉄のような冷たい匂いも混じっている気がした。その臭いの元は明らかに師匠の体からだ。

  胸の奥がざわつく。この匂いは……いつもの師匠の匂いじゃない。

  「……っ!」

  強烈な臭いに思わず息を止める。喉が焼けるような感覚と共に、吐き気を覚えた。

  (これが……司令が止めた理由か……!)

  我慢して俺は話しかけた。

  「……師匠?」

  ベッドに腰掛けた師匠は、検査着を身にまとい、じっとこちらを見ていた。背筋はいつも通りまっすぐ伸びている。でもその姿にはどこか違和感を感じた。何が違うのかはわからない。ただ、何かが――何か決定的に変わってしまったような気がする。

  俺はぎこちなく口を開いた。

  「お、おかえりなさい……師匠。」

  自分でも情けないくらい不自然な声だった。その言葉に師匠は短く答えた。

  「ああ。」

  それだけだった。いつも無口な人だ。でも、その短い返事にさえ、何か違和感を覚える自分がいた。

  部屋には気まずい沈黙が流れる。俺は何か言わなければと思った。でも、何を言えばいいのかわからない。ただ、この臭い、この雰囲気、この部屋――全てが俺の心を締め付けてくる。

  「すまない。」師匠がぽつりと言った。

  「風呂にも入れてもらえなくてな。」

  その声には微かな疲れと、自嘲めいた響きが混ざっていた。俺は慌てて手を振りながら答える。

  「いや、大丈夫です!そんなこと気にしないでください!」

  強がってみせたけど、本当は大丈夫なんかじゃない。この部屋の空気に長くいるのは正直きつかった。でも、それ以上にきついのは、この人――師匠――がどこか変わってしまったんじゃないかという不安だった。

  俺がぎこちなく立ち尽くしていると、師匠がふっと目を細めた。そして静かな声で言った。

  「疑われていることくらいわかっている。」

  その言葉に胸が締め付けられた。俺は慌てて否定しようとした。でも、声にならない。確かに俺は不安だった。この人が本当にいつもの師匠なのかどうか。それを確かめるためにここへ来た。それなのに、その不安を見透かされたようで、何も言えなくなる。

  「当然だ。」師匠は続けた。

  「もし俺が逆の立場なら同じ考えに至る。」

  その声には怒りも苛立ちもなく、ただ静かな諦念だけがあった。その言葉を聞いて、俺の中で何かが弾けた。

  「そんなことありません! 俺は……俺は師匠を信じています!」

  思わず声を張り上げた。でも、その声にはどこか震えが混じっていた。本当に信じられているのか、自分でもわからなくなる。それでも、この人だけは――この人だけは信じたいと思った。

  師匠は何も言わず、ただ微笑んだ。それはほんの僅かな微笑みだった。不器用で無口な人だから、大げさな表情なんてできない。でも、その微笑みには確かな温かさがあった。それだけで胸の奥が熱くなる。

  (やっぱり師匠は師匠だ。)

  そう思った瞬間、不安よりも強い決意が心に芽生えた。

  俺が、今度は俺が師匠を助ける番だ――そう強く思った。

  「……この三ヶ月間、何をしていたんですか?」

  俺は意を決して口を開いた。師匠がいない間も、今も、変わらず、ずっと聞きたかったことだ。でも、言葉にした途端、自分の声が妙に硬く響いてしまったのがわかった。師匠はベッドに腰掛けたまま、少しだけ眉を動かした。

  「尋問か?」

  短くそう言って、ほんの少し口元を緩めた。茶化している――いや、そう見せかけているだけだとわかる。俺は思わず笑ってしまった。

  「茶化さないでくださいよ!真面目に聞いてるんですから!」

  そう言いながらも、俺の笑いにはどこかぎこちなさがあった。師匠のユーモアはいつも唐突で、不器用だ。でも、その一瞬垣間見える軽さが、この人らしいとも思う。

  (やっぱり師匠は師匠だ。変わらない――そう思いたい。)

  「お前も知っての通り、ナーガリアンの調査だ。」

  師匠は短く答えた。視線は俺ではなく、床の一点に向けられている。

  「奴らの基地を見つけた。だが……基地に侵入して以降の記憶が全くない。俺が覚えているのは傷だらけで司令部の前を歩いていて、その後気絶してしまっただろう…ということだけだ」

  その言葉に俺は息を呑んだ。記憶がない?そんなことがあるのか?三ヶ月間も――?

  「……それ、本当ですか?」

  気づけば言葉が漏れていた。疑うつもりじゃなかった。でも、どうしても信じられなかった。三ヶ月間の記憶が丸ごと抜け落ちるなんて……。

  師匠は申し訳なさそうに目を伏せた。その姿にはいつもの強さが感じられない。

  「司令部でも調べたんだろう?」

  低い声で続ける。「俺が発見したという基地……もぬけの空だったそうだな。」

  その事実は知っていた。司令部から聞かされた時、胸に冷たいものが走った。それでも信じたかった。この人は何も変わっていないと。

  でも――。

  (本当に何もされていないんだろうか?)

  心の中で疑念が膨らむ。それを悟られまいと必死で顔を保とうとする俺だったが、師匠にはお見通しだったようだ。

  「……役に立たなくてすまん。」

  師匠はぽつりと言った。その声には自嘲と悲しみが滲んでいた。

  「そ、そんなことありません!」

  慌てて否定する。でも、その言葉には自分でもわかるくらい力がなかった。俺の未熟さがまた師匠を不安にさせてしまった――そう思うと胸が痛む。

  その時、不意に鼻腔に刺す臭いでむせ込んだ。喉が焼けるような感覚と共に、一瞬息苦しさを覚える。

  「あっ……すみません!」

  思わず顔を背けながら謝った。この臭いにはもう耐えられそうになかった。でも、それを口にすること自体が申し訳なく感じた。

  「そろそろ行きますね。また来ますから!」

  逃げるように言葉を残し、扉へ向かう。背中越しに感じる視線。それでも振り返れなかった。

  「[[rb:輝 > あきら]]。」

  低く静かな声が背中を止めた。振り返ると、師匠は椅子から立ち上がってこちらを見ていた。その姿勢はどこまでもまっすぐで、不器用な優しさだけが滲み出ている気がする。

  「心配をかけてすまん。」

  それだけだった。でも、その一言には確かな温かさがあった。

  胸の奥が熱くなる。(やっぱりこの人は師匠だ。)

  俺は小さく頷き、「ありがとうございます」とだけ返して隔離室を後にした。

  ◆

  隔離室から出た俺は、扉が閉まると同時に体を振るようにして臭いを振り払った。だが、鼻腔にこびりついたあの強烈な臭いは、全く消えてくれそうにない。

  「……っ、げほっ!」

  思わず激しく咳き込み、呼吸を整えるために深く息を吸った。しかし、それでも鼻の奥には残り香がしっかりと居座っているようで、かえって頭がくらくらしてくる。

  「大丈夫?」

  狸谷司令が心配そうに声をかけてきた。その表情には、半ば予想していたとでも言いたげな含みがあった。

  「あ、はい、大丈夫です……たぶん……」

  返事をしながら自分の声が曖昧で頼りないのがわかる。目の前が少しぼやける感覚に、ますます不安が募る。

  「うん、僕もさっき同じことになったんだよね。」

  司令はため息交じりに言いながら、鼻をつまむ仕草を見せた。「あの臭い、手ごわいよ。本当、すごい……」

  「そうですね……」

  俺は天井を仰ぐようにして深呼吸した。それでも鼻の中にこびりついた臭いが消えず、呼吸のたびに不快感が蘇る。

  「狸谷さん、気絶しそうでしたよね。」

  蛇塚さんが滑らかな声で茶化すように言った。その目はどこか楽しげな光を湛えている。

  「言わないでよ。忘れたいんだから!」

  狸谷司令は肩をすくめながら笑ったが、その目はどこか疲れているようだった。

  俺は落ち着こうと自分を奮い立たせながら問いかけた。「あの臭い……いったい何なんですか?」

  「話した感じ…克己もね、自覚はしてるみたいなんだよ。」

  狸谷司令は少し考え込むようにしながら答えた。

  「克己が気を失っている間に医療班で体を念入りに拭いたりもしたんだけどね。一時的には収まるんだけど、またすぐ臭っちゃうみたいでさ……」

  司令は、あの臭いを思い出したのか、再び鼻をつまむ仕草をした。

  それを見て俺はますます不安になった。

  突然の帰還。喪失した3ヶ月間の記憶。そしてあの体臭。得られた情報につながりが全く見つからない。情報が増えていくたびにかえって混乱している気がする。

  「あの状態では、彼もきっと苦しいでしょうね。」

  蛇塚さんが冷静な声で言った。

  「ですが、彼から何も情報が得られない以上、しばらくここに入ってもらうしかなさそうです。」

  その言葉に俺は反論するべきものが見つからなかった。頭の中では先ほどからの疑問が渦巻いていた。

  (師匠に何があったんだ?あの臭いはなんなんだ――?)

  だが、口を動かすこともできず、俺はただじっと蛇塚さんの言葉を聞いていることしかできなかった。

  [newpage]

  [chapter:第三章 監視]

  気がつくと、俺はどこか見知らぬ場所に立っていた。周囲は薄暗い霧に包まれ、遠くはほとんど見えない。ただ、足元には粗い土と石が広がっていて、空気は湿っぽく、妙に甘い香りが漂っていた。

  「……ここは?」

  思わず呟く。声が霧の中に吸い込まれるようで、不安が胸を締め付けた。どこからか、誰かの気配を感じる。振り返ると――そこにいたのは、師匠だった。

  「師匠!」

  俺は思わず声を上げた。正直、こんな場所で一人でいるのは心細かった。師匠の姿を見た瞬間、胸の中に安心感が広がった。

  「輝。」

  師匠が低い声でそう言う。姿はいつもと同じなのに、何かがおかしい。うまく言葉にはできないけど、目の前の師匠は俺が知っている師匠とは微妙に違って見えた。

  「師匠、ここはどこなんですか?なんでこんな場所に……」

  俺が尋ねると、師匠は答える代わりにゆっくりと歩み寄ってきた。その動きは妙に滑らかで、静かすぎる。不自然なほど音がしない。ただ、彼から漂う香り――甘い匂いがさらに強くなった。

  「お前は俺の自慢だ」

  師匠の声がいつもより優しい。どこか夢の中にいるような、柔らかい響き。

  「お前はこれまで、俺の期待以上にやってくれている。」

  「俺……そんなこと……」

  言葉を返そうとしたけど、喉が詰まったように声にならない。ただ、心がじんわりと熱くなった。褒められたことに対する嬉しさ――いや、それ以上の幸福感だ。

  師匠がさらに一歩、俺に近づいてくる。その香りが周囲に満ちて、息をするたびに脳まで届く感覚がする。甘く心地よいのに、鼻の奥に何か張り付くような違和感もある。

  「師匠……?」

  俺は後ずさりしそうになりながらも、その場に立ち尽くしてしまった。全身が心地よい熱に包まれて、力が抜けていく。

  師匠はゆっくりと手を伸ばし、俺の肩に触れる。その瞬間、全身に電流が走ったような感覚がした。驚くほど柔らかい手の感触。それだけで、心臓が高鳴った。

  「俺はお前を信じている」

  師匠の優しい声が耳元に響く。

  「お前も俺を信じてくれ」

  「師匠を信じるなんて当然です!」

  俺は反射的に答えていた。意識がどんどん遠のいていくようで、自分の思考が曖昧になっていく。ただ一つだけ、この瞬間にもやもやとした疑問が胸の奥に浮かんでいた。

  次の瞬間、師匠の顔がふっとほころぶ。だが、その笑顔はどこか異様だった。優しすぎて、不自然で――そして、どこか恐ろしい。それでも俺は声を上げることもできず、ただ彼の言葉に耳を傾け続けた。

  「従え、輝。俺を信じろ。それがお前の――」

  そこで意識が途切れた。

  ◆

  目が覚めた瞬間、俺は一瞬、どこにいるのかわからなくなった。頭がぼんやりとしていて、夢を見たような気がするが頭に、霞がかかったように思い出すことができない。ただ、何か奇妙なものだったという感覚だけが残っていた。

  (……師匠が出てきた………よな?)

  枕に顔を押し付けながら思い出そうとする。夢の中で、師匠と会話をしていた気がする。けれど言葉も表情も霧の中に溶けるように思い出せない。ただ一つ、師匠の姿ははっきり脳裏に浮かんでいた。

  「……師匠……」

  俺はひとつ息を吐き、ベッドから起き上がる。と、その瞬間――鼻腔に微かな違和感が走った。

  (……なんだ、これ……?)

  昨日の隔離室の臭い――あの強烈な悪臭が、微かに鼻の奥に残っているような気がする。複雑に絡み合った汗と皮脂の臭い。それがまだ鼻にくっついて離れない。

  「……まだ残ってるのかよ……」

  俺は顔をしかめながら洗面所に向かった。蛇口をひねり、冷たい水を勢いよく両手にためる。そして顔をゴシゴシと洗う。水が顔の被毛を伝い落ちる感触は爽快なはず――だけど、鼻の奥に残る臭いはどうしても消えない。

  「……っ……!」

  俺は息苦しさを感じると、思い切り鼻に水を流し込んだ。鼻腔の奥から臭いを追い出そうと必死だった。でも、次の瞬間――

  「ぐっ……げほっ、げほっ!」

  水が入った反動でむせてしまい、喉を押さえて咳が止まらない。すぐに壁に手をつき、何とか呼吸を整える。

  「くそっ……まだ残ってる……」

  タオルで顔を拭いながら呟く。鼻腔にしつこくこびりついているあの臭い――気を失いそうになるほどの悪臭が、微かに残り続けている。

  (なんなんだよ、これ……)

  昨日の隔離室で会った師匠の姿が浮かぶ。あの無防備な姿――そこから漂っていた、あまりにも強烈な臭い。それを思い出すだけで、どうしようもない不快感が蘇る。同時に――

  (師匠……どうして……)

  俺はタオルを握りしめた。こんなことは今まで一度もなかった。それが正直、怖かった。

  気のせいだと思おうとしても、鼻の奥の違和感は消えない。水を何度流し込んでも、残り香はしつこく付着したままだ。

  俺は鏡に映った自分を見つめた。

  「……おかしい……」

  ふと呟いたその一言に、自分で驚いた。俺の中では、師匠がこんな状態になること自体があり得ないことだった。

  でも、今、俺はその「あり得ない」現実に向き合わされている。臭いが物語っている。それだけが、この現状がただの悪夢じゃないことを示していた。

  そう考えていると、テーブルの上に置いていたスマホが振動を始めた。手に取ると司令からのメッセージだった。

  「朝早くにすまない。起きたら司令室に来てくれないかな。話したいことがあるんだ。」

  司令から直接メッセージが来るなんて珍しい。よっぽどの要件なんだうと察して返事をして手早く支度を済ませて家を出る。

  ◆

  司令室の扉を開けると、狸谷司令がデスクの向こうに座っていた。その横には蛇塚さんが立っている。蛇塚さんの姿を見た途端、少し気が滅入る。彼の冷静すぎる態度と鋭い目つきがどうにも苦手だった。

  「犬塚くん、早くにごめんね。ありがとう。」

  司令が椅子を少し後ろに引きながら迎えてくれた。

  「どうしましたか?」

  俺は立ったまま尋ねる。司令の声にはどこか疲労感が滲んでいた。

  「君にお願いしたいことがあるんだ。」

  司令は深呼吸をしてから続けた。

  「もちろん、克己――グリズリオンのことだ。」

  そう言いながら司令はデータ端末を操作し、グリズリオンの監視映像をモニターに映し出した。ベッドに腰掛けている師匠の姿が見えた。検査着を着たままうつむき、何かを考えているように見える。

  「君に、彼の監視と世話を手伝ってほしい。」

  司令の言葉が静かに響く。

  「彼の身辺のこともそうだが、彼から何か情報を聞き出せないか、という目的もある。」

  「情報……ですか?」

  俺は画面に映る師匠を見つめながら問い返す。

  「そうだ。」

  司令は真剣な目つきで頷いた。

  「知っての通り克己は洗脳――おそらくナーガリアンによる――を受けている可能性がある。そしてあの体臭……何か異常が起きているのは明らかだ。ただ、彼自身が何も思い出せない以上、私たちには手がかりがない。」

  司令の目に宿る困惑と不安が、俺の胸に重く響いた。

  「犬塚さん。」

  続いて蛇塚さんが話し始めた。

  「あなたは克己さんの弟子でいらっしゃる。彼のことを近くで支え、安心させることができる存在です。それに加えて、彼から何かを引き出せる可能性があるのではないか、と私たちは考えています。」

  その言葉は丁寧で礼儀正しかったが、どこか冷たい響きがある。それが蛇塚さんが苦手な理由の一つだ。

  「君にしか頼めないことだ。」

  司令が続ける。

  「犬塚くん、彼を、それに私たちを支えてくれないか?」

  俺は唇を噛みながら思案した。視線はモニターに映る師匠の姿に向いている。孤独な様子が伝わってきて、胸が締め付けられるような気がした。監視と世話――その目的が何であれ、俺が師匠を支えなきゃいけないことには変わりない。

  「わかりました。」

  しばらくの沈黙の後、俺は頷いた。「俺で役に立てるなら。」

  司令は安堵した表情を浮かべて微笑んだ。

  「助かるよ。犬塚くん。」

  「ありがとうございます。」

  蛇塚さんも柔らかく微笑んだが、その笑顔にはどこか冷たさが感じられる。俺は僅かに背筋がざわついたものの彼の方もみて頷く。

  「それでは、あとは私が引き継ぎます。犬塚さん、監視室へ行きましょう。」

  言いながら蛇塚さんは足早に歩きだす。

  そうだ、今更だけど監視室での仕事ってことは、蛇塚さんと一緒にやるのか……。

  俺は一層滅入る気を感じながら、蛇塚さんを追いかけた。

  ◆

  監視室への入り口の巨大なセキュリティ扉が静かにスライドして開いた時、その重厚な音が響き、胸が妙に引き締まる。

  「犬塚さん、こちらへどうぞ。」

  蛇塚さんが手を差し出して案内する。自分のペースを崩さない落ち着いた声。モニターが並ぶ監視室に足を踏み入れると、目の奥に映るのは師匠――グリズリオンの姿だった。

  「こちらの設備について、改めて説明しましょうか。」

  蛇塚さんが端末を操作しながら続けた。

  「君の業務を円滑に進めるため、いくつかの場所をご案内いたしますね。」

  まず、監視室の廊下を挟んですぐ隣にはシャワー室があった。蛇塚さんが扉を開けて見せる。

  「こちらがシャワー室です。長時間の滞在でも清潔を保ちながら気分転換を図れるよう、設けられています。」

  その隣には、洗面所とトイレがあり、さらに洗濯所も整備されていた。

  最後に案内されたのは宿泊室だった。廊下に似たような扉がいくつかあり、宿泊部屋が複数あるようだ。

  そのうちのひとつを開けると、中にはシンプルなベッドとテーブル。壁際には小さなクローゼットが設置されていた。少し小さめのホテルの部屋のような感じだろうか。

  「この部屋が宿泊用施設です。職員が休暇を取っているため、使用されておらず空いています。」

  蛇塚さんが淡々と説明する。

  「……休暇とは?」

  俺は辺りを見渡しながら尋ねた。これだけ広い施設なのに人の気配が全くないことに違和感を覚えたからだ。

  「常駐の職員は長期休暇を取っています。室長の私を除いて。羨ましい限りです。」

  蛇塚さんが微笑みを浮かべながら答える。

  「まぁありがたいことに、最近は監視室を使うような事態も少なかったのです。ですので皆の休暇を私が許可したのですが。

  ただ、今回のような事態が発生したのは非常にタイミングが悪かったというところですね。」

  「そう……なんですね。」

  その説明を聞いて気にはなったが、それ以上掘り下げる理由が見つからず、曖昧に頷いた。

  「さて、設備の案内は以上です。犬塚さん、こちらでの業務に慣れていただければと思います。」

  説明を締めくくりながら、蛇塚さんが静かに続けた。

  「しばらくはここで生活していただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。」

  「……え?」

  ぽつりと声が漏れた。

  「ここで、生活する……ですか?」

  「はい。あなたには監視室の業務を円滑に進めていただきたいですから。」

  蛇塚さんは柔らかく微笑みながら答える。

  「必要な設備は整っていますし、私もここに泊まりますので、困ったことがあればすぐにお声がけください。」

  その瞬間、胸の中にズシリとした重みがのしかかった。自宅に帰れると思い込んでいた俺にとって、それは全くの想定外だった。しかも、この狭い空間で蛇塚さんとしばらく共に過ごすという事実が、追い打ちをかける。

  「……わかりました。」

  俯いたまま小さく答えるしかなかった。

  蛇塚さんはその反応に気づいてか、そうでないのか、口元に少しだけ笑みを湛えて言った。

  「しばらくの間は同じ空間で過ごすことになりますね。どうぞ、仲良くしましょう。」

  その言葉に、俺は微かに肩を竦めながら曖昧に頷いた。蛇塚さんの丁寧な物言いに逆らう理由もなく、ただ「よろしくお願いします」と返すしかない。

  ◆

  朝が来た。監視室の宿泊部屋のベッドは硬くて、寝心地が良いとは言えなかった。知らない場所での初日は緊張していたせいか、眠りも浅かった。

  でも、そんなことを気にしている場合じゃない。

  俺は目を開けてすぐ時計を確認する。思ったより早く目が覚めたことに少し安心しつつ、ベッドから身体を起こした。昨日蛇塚さんから丁寧に説明を受けた監視室での業務。蛇塚さんがわかりやすく説明してくれたおかげで、いくらか気持ちは楽になったとはいえ、まだ不安が完全に消えたわけじゃない。

  (不慣れなことだらけだけど……きちんとやらなきゃ。)

  心の中でそう呟いてから、俺は手早く身支度を整えた。宿泊部屋にある簡素な鏡に向かい、寝癖を直して服装をチェックする。今朝も鼻孔の奥に師匠のあの臭いが微かに残っている気がする。

  今日からおそらく毎日、隔離室の師匠と接することになるんだ。

  鼻の奥の臭いが気にはなるが、これからの日々を考えると今の感覚が当たり前になっていく気がする。

  できるだけ臭いを気にしないようにして、俺は部屋から出た。

  監視室に入ると、蛇塚さんが既に席について端末を操作していた。あの冷静沈着な態度や姿勢は、どんな時でも変わらないらしい。

  「犬塚さん、おはようございます。」

  蛇塚さんがこちらを一瞥して挨拶してきた。

  「おはようございます。今日から、改めてよろしくお願いします!」

  俺はできるだけ明るい声で返事をした。

  「まずは、監視カメラの状態確認をお願いします。システムが正常に動作しているかどうか、端末の画面で確認してください。この部分に異常があれば、即座に私に報告してください。」

  蛇塚さんが手慣れた動作で端末を指さしながら話す。

  「了解です!」

  俺は端末を手にしてすぐ椅子に座る。昨日教えてもらった通りに端末を操作してみると、画面に隔離室の内部映像が映し出される。そこには師匠がベッドに腰を掛けてぼんやりと何かを考えるような姿が映っていた。

  (師匠……元気になってくれるといいんだけど。)

  画面を見ながら、胸の奥に微かな苦しさが広がる。師匠がこんなにも静かで、普段の力強さを失っているなんて――やっぱり、信じられない気持ちだった。

  続いて蛇塚さんから指示を受けながら、センサーのデータを確認する作業に取り掛かる。現在の酸素濃度や湿度、温度といった隔離室内の環境をチェックし、異常がないかどうかを確認する業務だ。

  「犬塚さん、こちらの数値は正常値ですが、もし赤い警告が表示されたら即座に私に報告してください。分かりますか?」

  蛇塚さんが画面に表示された数値を指しながら教えてくれる。

  「はい、分かりました!」

  俺はしっかりと頷いて返事をした。慣れない操作で手が緊張しているけど、それでも何とかこなしていく。

  (これも師匠のためだ。俺が頑張れば、師匠の力になれるはず。)

  そう思いながら、蛇塚さんの指導を受けつつ、一つ一つ丁寧に業務に取り組んでいった。

  ◆

  午前中の業務がひと段落し、ついに師匠への食事運びの時間が来た。準備されたトレーにはスープやパン、サラダがきれいに盛り付けられている。

  俺はトレーを両手でしっかりと持つ。冷たい汗が手に滲むのを感じながら、隔離室の方向へと向かった。

  (……また、あの臭いか。)

  隔離室の扉の前で立ち止まり、深呼吸をする。師匠の体臭がどれほど強烈か――俺はもうよく分かっていた。鼻を刺すようなあの匂いが脳を揺るがしてくる感覚を思い出すだけで、気が重くなる。

  でも、そんなことを言っている場合じゃない。

  (こんなときこそ俺が師匠の力にならなきゃ。)

  自分を奮い立たせるように言い聞かせて、セキュリティキーを差し込む。重々しい音を立てて扉が開くと、例の匂いが一気に押し寄せてきた。

  扉を越えると、鼻の奥を突き刺すような匂いが全身を包み込む。喉が締め付けられるような感覚に耐えながら、俺は一歩一歩部屋の中へと進む。ベッドに腰掛けている師匠がゆっくりと顔を上げてこちらを見た。

  「輝か。」

  師匠の声が低く響いた。その表情はいつも通り厳しいけど、その瞳には少し疲れが滲んでいるように見える。

  「師匠、食事を持ってきました。」

  俺はできるだけ明るい声を出して挨拶をした。鼻腔の奥に匂いが染み込むたびに頭がくらくらするけど、それを押し隠して笑顔を作る。

  「……食事を運んでくれるのが、まさかお前とはな。」

  師匠は俺とトレーを交互に見ると少しだけ笑みを浮かべた。

  「今日から師匠のそばにいることになったんです。少しでも師匠の助けになれるように俺、がんばりますから。」

  持ってきたトレーを室内の机に置き、師匠の方を向きながら俺は今後の意気込みを伝えた。

  「……いつもとは立場が逆だ。」

  師匠のその言葉に、俺と師匠は少し目を合わせお互いに苦笑する。

  確かにそうだ。いつもだったら俺が、師匠に世話してもらっている側なのだ。

  師匠には俺のせいでいっぱい迷惑をかけてきた。そのたびに師匠は、めんどくさがりもせず、俺の至らなさを埋めてくれていた。

  それを思うと、なおさら今度は俺が師匠を支えなきゃいけない。

  弟子として恩返しの時が来た、とそう思う。

  師匠はスプーンを手にスープを口に運びながら、ちらりとこちらを見る。

  「どうした?」

  「い、いやなんでもないですよ!……そういえば、何か思い出したこと、ありませんか?」

  しばらく無言で師匠は食事を続けた。その間も俺は、なるべく顔をしかめないように息の仕方に気をつけて、師匠を見ていた。

  やがて、師匠は静かに口を開いた。

  「断片的にだが……。俺は、基地に潜入した…そのあと、見つかって戦闘になった。一度脱出しようとした……そこまでは思い出せる。」

  「他には?」

  俺は身を乗り出す。臭いがさらに濃く感じられて一瞬頭がくらりとしたが、必死で持ちこたえる。

  師匠は何かを探るように目を閉じる。

  「……あと一つ、思い出した名前がある。『ジャヒム』だ。」

  「ジャヒム……ですか? 人の名前……ですかね?」

  師匠は首を横に振る。

  「分からん。名称だけが頭に残っている。何なのかは……まだ思い出せない。他には今のところ、ない。」

  「そうですか……。でも、少し進展しましたね。」

  本当に少しのことだったけど、俺は純粋に嬉しかった。師匠の記憶が少しでも戻ることが、俺にとっても希望に思えた。

  「……無理するなよ、輝。」

  師匠が食事の合間にぼそっと言う。その優しさに、俺は改めて背筋を伸ばして頷いた。

  「分かってます。」

  鼻の奥に残る匂いに思わず目を閉じそうになったけど、最後まで顔に出さずそっと会釈して、隔離室を出た。扉が閉まった瞬間、ようやく深呼吸ができた。喉がヒリヒリするのに、気持ちだけは少し軽くなっていた。

  (少しずつでも、前へ進んでる。俺にできることを続けよう。)

  そう自分に言い聞かせ、トレーを持って監視室に戻った。

  ◆

  「お疲れさまです、犬塚さん。どうでしたか?」

  「少しだけですが、師匠が新しいことを思い出したって。基地に潜入して、戦闘になって、脱出を試みて……あと『ジャヒム』という言葉だけが印象に残っているみたいです。それが何なのかは分かってないですが。」

  蛇塚さんは口元を少しだけ緩める。

  「さすがお弟子さんですね、さっそく成果が出るとは。お見事です。」

  褒められるとちょっと照れくさい。正直、俺はこれといって何もしてないんだけど……。でも素直に嬉しい気持ちもある――やっぱり、こうやって役に立てるのはありがたい。

  ……と思った矢先、蛇塚さんがふっとテーブルの上を指差した。

  「ただ、犬塚さん。克己さんの着替え、渡し忘れているようですよ。」

  「あ、すみません!」

  振り返ると、朝に用意した検査着が無造作にテーブルの端に残っている。自分でも情けなくなるほどドジだ。

  「行ってきます!」

  俺は慌てて検査着を掴み、再び隔離室の扉の前に立った。ドアの向こうから、また濃い匂いが漏れてくるような気がして、自然と身構えてしまう。気を取り直して中へ入ると、師匠はちょうど椅子に腰掛けて食事を終えていた。

  「師匠、着替え持ってきました。さっき渡し忘れてて……」

  「ああ、助かる。」

  師匠は立ち上がり、俺のほうをちらりと見てから、「後ろ向いてろ」と言って背中を向けた。

  俺は素直に数歩離れて壁の方を見て立つ。でも、ふと目をやると、師匠の大きな背中が視界の端に映る。分厚い被毛の下、肩や腕、背筋にはいくつもの古傷の跡。生々しいものもあれば、薄く色褪せたものもある。その一つひとつが師匠の戦いの歴史――ヒーローとして、俺たちを守ってきた証なんだ。

  (やっぱり、師匠はすごい……)

  胸の奥が熱くなる。この傷に、どれだけの思いと覚悟が詰まっているんだろう。俺もいつか、少しでもこの背中に近づけるだろうか――そんなことを思っていると、師匠が着替えを終えて振り返った。

  「……おい、中年親父の着替えをじろじろ見るな。趣味が悪いぞ。」

  「えっ、ち、違っ……!」

  師匠の茶化すような声に、俺は思わず顔が熱くなった。「み、見てません!」

  師匠がふっと笑う。「まあ、いい。ほら、脱いだ方を頼む。」

  「はい、預かります。」

  俺は師匠が脱いだ検査着を受け取った。手にした瞬間、改めて強い匂いが鼻をつく。さっきまで着ていたものだから当たり前だけど、それにしても濃い。

  俺は早足で隔離室を出る。扉を閉めてようやく息をつき、手にした検査着を持って洗濯スペースへ向かった。自動投入口を開け、不快感を振り切るように衣類を放り込む。閉じたドア越しでも強い残り香がしていて、洗濯のボタンを押す瞬間まで顔をしかめてしまった。

  (でも、俺がやらなきゃ誰もやらないしな)

  洗濯機が動き始める音を背に、もう一度今日の自分を奮い立たせて、監視室へと戻る。

  ◆

  数日が経った。

  あれから師匠の様子にこれといって変化はない。

  俺は朝目覚めて、監視室に行き、師匠の様子をチェックして食事と着替えを渡して、師匠と少し話す。それの繰り返しだった。

  俺が、師匠のためにできることは他にはないのだろうか……。

  そんなことを思っていた日の夜だった。

  静まり返った部屋に響き渡る警報音。それは全身を突き刺すようだ。

  俺は急いで部屋から出て、監視室にモニターを見る。蛇塚さんも警報を聞いて部屋から出てきた。

  師匠がベッドから転げ落ち、体を激しく震わせている。額には汗が滲み、手足が痙攣しているのがはっきりと見えた。

  「師匠!」

  俺は立ち上がり、思わずモニターに手を叩きつけた。突然の出来事に頭が真っ白になり、何をすればいいのかも分からない。ただ、師匠が苦しんでいるのを助けたいという思いだけが胸を支配していた。

  「蛇塚さん!」

  咄嗟に振り返り、蛇塚さんを呼ぶと、彼は驚いた様子も見せずに端末に駆け寄った。

  「どうしましたか?」

  いつもの冷静な声。しかし、その瞳は鋭くモニターを見つめ、何かを分析し始めているようだった。

  「師匠が……!」

  モニターを指さすと、蛇塚さんはすぐに端末を操作し始めた。

  「……酸素濃度が低下しています。」

  蛇塚さんが端末を睨みながら言う。

  「換気システムが正常に作動していないようです。」

  「換気システムが……?」

  俺はすぐには状況が飲み込めなかった。師匠が苦しむ姿を見ながら、どうしてそんなことが起きているのか考える余裕なんてなかった。

  「原因はわかりませんが、酸素不足の影響で痙攣が起きている可能性が高いです。」

  蛇塚さんの指が端末を叩く。「隔離室のドアを開けて空気を入れ替える必要があります。」

  「じゃあ、早くドアを開けて──!」

  俺が叫びかけた時だ。蛇塚さんが硬い表情を浮かべた。

  「隔離室のドアがロックされています。」

  蛇塚さんの声には僅かな緊張が混じっていた。「どうやら端末が正常に機能していないようですね……」

  「っ、そんな……!」

  俺はドアに駆け寄り、拳で叩いた。目の前には師匠がいるのに、そこに行けないという事実が、何よりももどかしかった。

  「犬塚さん、落ち着いてください。」

  蛇塚さんは短く言い放つと、端末のコードを繋ぎ替え始めた。「緊急対応プロトコルを実行します。ドアを手動で強制解除します。」

  「それで……間に合うんですか?」

  俺の声は震えていた。蛇塚さんは端末を操作しながら、ちらりとこちらを見た。

  「間に合わせます。」

  その一言が、妙に頼もしく感じられた。

  数秒後、隔離室のドアが重々しい音を立てて開き始めた。その瞬間、胸の中に溜まっていた焦燥感が少しだけ和らいだ。

  「行きますよ、犬塚さん。」

  蛇塚さんが言いながら、中に駆け込んでいく。俺もその後を追いかけた。

  隔離室の扉を越えた瞬間、独特のこもった空気が鼻を突いた。師匠は床に倒れ込み、荒い息を吐いている。蛇塚さんがすぐに駆け寄り、師匠の体を支えた。

  「克己さん、聞こえますか?」

  蛇塚さんが声をかけるが、師匠の反応は鈍い。俺はその姿を見て、とにかく胸の奥が締め付けられた。

  「換気システムを再起動させます。」

  蛇塚さんが携帯端末を取り出し、素早く操作を始めた。「犬塚さん、ここを開けてください。」

  彼は指で指し示し、俺に指示を出す。

  言われるがままに換気パネルを開け、配線を繋ぎ直すと、隔離室内に空気の流れる音が聞こえ始めた。蛇塚さんが顔を上げ、表情を僅かに緩める。

  「これで酸素濃度は回復します。克己さんをベッドに戻すのを手伝ってください。」

  俺たちは二人で師匠の体を支え、ベッドへと運んだ。師匠の呼吸が徐々に安定していくのを見て、俺はようやく胸を撫で下ろした。

  「医療班を呼びます。この場に長居するのは危険ですから、一旦お預けしましょう。」

  蛇塚さんは端末を操作し、医療班への緊急通知を送った後、俺に向き直った。

  「犬塚さん、克己さんの回復を見届けましょう。それまで、冷静に対応してください。」

  医療班が到着し、師匠が運ばれていくのを見送った俺と蛇塚さんは、ぐったりと監視室の椅子に座り込んだ。

  「……どうしてこんな……?」

  俺が呟くと、蛇塚さんは目を閉じたまま低い声で答えた。

  「この隔離施設は古い部分もありますから、たまに不具合が起こるのです。ですが……こうした事態が二度と起きないよう、対策を講じる必要がありそうですね。」

  さっきの蛇塚さんの姿――冷静に見えて、その手が僅かに震えていたことを思い出す。

  (蛇塚さんも……必死だったんだ。)

  普段は冷たい印象しかなかった彼が、あの状況の中で精一杯対応してくれた姿を見て、俺は少しだけ彼を見直した気がした。

  ◆

  監視室の夜は静かだった。師匠は医療班に預けられ、隔離室も空っぽになっている。ついさっきの緊急事態で見た師匠の苦しむ姿が何度も脳裏に浮かんで、胸のざわつきが収まらない。

  背後で椅子が動く音が聞こえた。顔を上げると、蛇塚さんが机に座り、手元にカップを置いていた。

  「犬塚さん。」

  彼が静かに口を開いた。「君も今日は疲れているでしょう。一息ついてください。」

  「蛇塚さん……ありがとうございます。」

  俺は少し驚きながらも彼の差し出したコーヒーを受け取った。彼自身も疲れているはずなのに、そんな表情をまるで見せないのが蛇塚さんらしい。

  「まあ、こういった事態には慣れていますからね。」

  蛇塚さんは肩を軽くすくめ、椅子に座り直した。そして、ふっと微笑みながらこう言った。

  「ただ……泡を吹いている克己さんを見たのは、若い日の飲み屋以来です。」

  その言葉に、思わず俺は吹き出してしまった。

  「えっ!?師匠が泡吹くほど酔ったことがあるんですか?」

  「狸谷さんがしつこく酒を勧めた結果です。」

  蛇塚さんは涼しい顔で答える。

  「克己さんは頑固なくせに妙に律儀でしてね。『飲め』と言われれば、飲むんですよ。あの時の克己さんは……まあ、今日と違って幸せそうでしたけどね。」

  「師匠が酔っ払うなんて、ちょっと想像できないです。」

  俺は笑いながらコーヒーを口に運んだ。師匠の厳格な姿と、そんな姿がどうしても結びつかない。

  「酒を飲むと克己さんは饒舌になりますよ。普段の沈黙が嘘のように。」

  蛇塚さんの声にはどこか懐かしさが滲んでいた。

  「犬塚さん。」

  蛇塚さんがふと声を落とし、懐から何かを取り出した。彼が手渡してきたのは、古い写真だった。

  渡された写真には、若き日の師匠、狸谷司令、そして蛇塚さんが三人並んで写っていた。三人とも笑顔で、とても親しげな雰囲気が伝わってくる。

  「これは……師匠と司令、蛇塚さんですか。」

  俺は写真をじっと見つめた。そこに写る師匠は厳格さとは無縁の穏やかな表情をしていて、少し驚いてしまった。

  「ああ。若い頃に飲み屋で撮ったものです。狸谷さんが店員に頼んで撮ってもらいました。」

  蛇塚さんは口元に微笑みを浮かべながら、小さく息を吐いた。

  「私にとって、大切な写真です。」

  その一言が、妙に重く感じられた。

  俺が写真を返すと蛇塚さんはコーヒーを口にして続ける。

  「克己さんも狸谷さんも、人を信じる力を持っている。ヒーローとして、そして人間として、私にはとても眩しい存在です。」

  「……私は彼らのような、ヒーローにはなれませんでした。」

  蛇塚さんが目を伏せ、写真を指でなぞる。

  「人を信じる力があれば、もっと違った人生を歩めたのかもしれません。でも、私が得意とするのは……人を疑うことです。」

  「疑う、ですか……?」

  「ええ。監視室長とはリスクを排除するために存在する。冷静さを保ち、冷徹な判断を求められる仕事です。」

  蛇塚さんが握った拳を机に置いた。

  「先ほどの事態中も頭の片隅では、克己さんを疑っていましたよ。隔離室を出るための演技なのではないか、と。……そんな自分が嫌になるときがあります。」

  そう言った蛇塚さんはなにか救いを求めるような…そんな表情をしていた。

  蛇塚さんのそんな表情をみて、俺は思わず口を挟んだ。

  「でも、さっきは師匠を助けるために動いてましたよね。」

  蛇塚さんが驚いたように顔を上げる。

  「蛇塚さんがいなかったら、師匠を助けられなかった。あの時の蛇塚さんは間違いなくヒーローでしたよ。」

  「俺にとって、そして師匠にとっても。」

  俺はしっかりと蛇塚さんを見つめて言った。

  蛇塚さんは言葉を失ったようだった。少しの間、俺を見つめた後、静かに息を吐いて目を逸らした。

  「君は……不思議な人ですね。」

  蛇塚さんがぽつりと呟く。その声は、普段の冷静で皮肉めいたものとはどこか違っていた。

  「でも……君がそう思ってくれるなら」と蛇塚さんは小さく笑った。

  「私も少しは……救われます。」

  「俺も蛇塚さんと一緒に頑張ります!」

  俺は椅子から少し身を乗り出して言った。

  蛇塚さんは少し驚いた表情を見せた後、ゆっくりと頷いた。

  「ありがとうございます、犬塚さん。」

  その言葉と共に、俺たちの間にあった何かが少しだけ柔らかくなった気がした。

  [newpage]

  [chapter:第四章 変貌]

  それからさらに数日が経った。

  師匠は医療班によって検査・治療され、また隔離室に戻された。

  ほっとした俺たちだったが、師匠の記憶はあれから断片以上には進まず、ただ強い体臭と、変わらぬ閉塞感の中で俺の日々は過ぎていった。

  今日も午前の決まった時間、俺はいつものように隔離室の扉を開けた。

  「師匠、調子どうですか?」

  ベッドに座る師匠の様子をうかがい、食事を運び、世間話や体調のことを尋ね、変化がないか慎重に観察する。師匠は黙って俺の話に付き合い、ときどき短く答えてくれる。そのルーティンはもう習慣になっていた。

  会話が途切れたとき、不意に隔離室のロック音がもう一度鳴った。

  突然、扉が開いて蛇塚さんが入ってきた。

  「すみません、先日の件でセンサーの調整を直接確認する必要がありまして……すぐ終わります。」

  俺は「どうぞ」とうなずいた。蛇塚さんが部屋の端で端末を操作し始める――その瞬間、師匠の様子が急におかしくなった。

  師匠がピクリと身体を震わせ、顔をしかめ、額を押さえて低くうめいた。

  「……っ、ぐ……あ……」

  その声色は普段の師匠とはまるで違う、苦痛に満ちていて――俺の胸がざわつく。

  「師匠!? どうしたんですか……!」

  師匠はうつむいたまま歯を食いしばり、肩が波打つほどの息をしている。額から汗が伝って、全身が力んでいるのがわかる。

  「ぐっ……、あ、頭が……」

  「大丈夫ですか!?」俺は思わず駆け寄ろうとした。

  師匠は苦しげに俺のほうを向き、声を絞り出す。

  「……輝……出て行ってくれ……頼む……」

  その声は弱々しく、痛みに耐えつつも俺のことを気遣っているのが伝わった。

  「でも、師匠――」

  「……っ……今は……ダメだ……」

  だが師匠の苦しみはどんどん強くなっていく。両手でこめかみを押さえ、膝をついたまま、呻き声を上げる。

  「っ……ああ、あああ……!」

  息も荒く、呼吸が乱れていく。

  「……ぁ、へ、蛇……獣、人……!」

  その言葉が、痛みと混じった声で漏れた。

  俺はどうしたらいいかわからず、ためらって立ち尽くした。

  「師匠、俺、そば――」

  師匠は限界すれすれの苦痛と怒りに満ちた声で叫んだ。

  「……出て行け!!」

  鋭く、切迫した声。今まで聞いたことのない師匠の叫びだった。

  蛇塚さんが俺の肩を軽く叩いた。「犬塚さん、行きましょう。」

  俺はそれ以上何も言えず、隔離室をあとにした。

  扉が閉まったあとも、師匠の激しいうめき声が耳にこびりついて離れなかった。

  胸の奥が締めつけられ、不安と悔しさがじわじわと広がっていくのを感じていた。

  ◆

  隔離室から監視室へ戻る途中、俺と蛇塚さんは廊下を歩いていた。

  蛇塚さんがふと鼻をひくつかせ、小さく咳払いした。

  「……それにしても、克己さんの体臭……あれはなかなか強烈ですね。」

  「私は幸いにも直接臭いを嗅ぐ機会はなかったもので……。」

  蛇塚さんは臭いを取り除くように自分の鼻を手で払いながら言う。

  「やっぱり、そうですよね。……俺も、最初は本当にキツくて、毎日参ってました。」

  でも話しながら自分でも驚いた。

  「でも、最近は……だんだん慣れてきたかもしれません。嫌な臭いだとは思うんですけど……。」

  蛇塚さんは半分呆れたような、それでいて興味深そうな顔で俺を見た。

  「順応性が高いのは良いことです。ですが気をつけてください、人間というものは“慣れ”と“鈍り”の境界が曖昧な生き物ですから。」

  「……はい。」

  隔離室から戻った俺は、師匠の苦しむ姿が頭から離れず、椅子に沈み込んだ。

  「……蛇塚さん、あのちょっと言いにくいんですが……。師匠は俺が入ったときは普通だったのに、蛇塚さんが来てからおかしくなりましたよね。」

  蛇塚さんは端末を素早く操作しながら、ちらと俺に目をやる。

  「ええ、私の姿を見てから急に様子がおかしくなりましたね。蛇獣人の影響――ナーガリアン絡みかもしれません。」

  重苦しい沈黙が落ちる。俺は意を決して、長らく気になっていたことを訊いた。

  「蛇塚さん、ナーガリアンって……いったい何者なんですか?」

  蛇塚さんは呆れたように小さく首を振ると、淡々と答える。

  「……ナーガリアンは蛇獣人至上主義を掲げる危険思想集団です。蛇獣人こそが高貴な種族であり、ほかのすべては蛇獣人の下に平伏すべきだ――本気でそう信じている狂った集団です。」

  そして、肩をすくめて冗談めかし、「まあ、私にとっては都合のいい思想ですが……」と自分の蛇尾を振ってみせる。

  俺は情けなく苦笑した。

  蛇塚さんは、ふっと真顔になって俺を見た。

  「犬塚さん、ナーガリアンについては日々ニュースなどを見ていれば自然と入ってくる情報です。情報収集はヒーローとして基本中の基本ですよ。」

  「……すみません。」

  蛇塚さんは端末を閉じて、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「まぁとにかく、先ほどの克己さんの件は狸谷さんにすぐ報告してきます。」

  「ついでに犬塚さんの情報収集能力についても、ね」

  「……そ、それはやめてくださいよ……」

  蛇塚さんは肯定も否定もせず皮肉な笑みを浮かべたまま、監視室を出ていった。

  モニターには、まだ苦しそうに身を丸めてうずくまる師匠の姿。

  俺は拳を握り締めながらも、ただ黙って見ていることしかできなかった。

  (俺……何もできないな……)

  師匠の痛みも、悔しさも、何ひとつ軽くしてやれない無力さだけが、胸の奥に残り続けていた。

  ◆

  翌朝も、いつもと同じように監視室の端末を立ち上げてモニターを確認した。

  師匠の様子は一見すると落ち着いていて、ベッドで静かに座っているだけだった。

  蛇塚さんが映像を見て、小さく頷く。「……とりあえず、今朝は安定していそうですね。」

  「はい。昨日みたいに具合が悪そうなところはなさそうです。」

  蛇塚さんは端末を閉じて、俺の方に向き直る。

  「犬塚さん、念のためしばらくは私が隔離室に近づくのを控えます。昨日の反応を見る限り、克己さんにとって私が刺激になる可能性が高い。」

  「分かりました。俺がいつも通り対応してきます。」

  「お願いします。」

  それで俺は、いつも通り食事と新しい着替えを用意して隔離室の扉の前に立った。扉を開けると、すぐにあの臭いが鼻腔に流れ込んでくる。けれど――。

  (……あれ?)

  強烈なのは変わらない。でも、どこか前と違う。湿り気の奥に、妙に落ち着くというか、ほんのり甘いような香りが混じっている気がした。これまでのような“嫌悪感”が湧き上がらない自分に、逆に戸惑う。

  (……俺、どうしちゃったんだ……)

  不安を胸の底に沈めて、「師匠、おはようございます」と声をかけた。

  師匠はベッドから顔を上げて、いつもの表情で俺を見た。

  「おはよう、輝。」

  トレーをテーブルに置き、検査着を渡す。

  師匠の様子は特に変わりない――体調も悪そうじゃない。ただ、その臭いが昨日よりさらに強くなっていることだけが、妙に気になった。

  食事を始めた師匠に、つい昨日のことを訊ねる。

  「師匠、昨日……かなり辛そうでしたけど、大丈夫ですか?」

  師匠はスープのスプーンを置き、小さく息を吐く。「……心配をかけたな。もう大丈夫だ。」

  「昨日、いったい何が……?」

  師匠は少し考えるように目線を落とし、ゆっくり話し始めた。

  「蛇塚を見た瞬間、頭の中が激しくかき乱されるような感覚があった。何か強く引っかき回されるような、そんな痛みだった。……理由は分からない。ただ、あんなふうになるのは初めてだ。」

  俺はじっと師匠の顔をうかがう。「……何か、記憶は戻ったんですか?」

  沈黙が流れた。師匠はしばらく黙ってスプーンを握っていた。

  静かに息を吐き、視線を落とす。その横顔に、普段は感じない影が差している。

  「……ああ。……思い出したことがある。」

  師匠の声はいつもより低く、どこか震えていた。

  「俺は戦闘で負傷して、気を失ったらしい。意識を取り戻した時には、知らないコンクリートの部屋に横たわっていた。動こうとしても体中が痺れて、鎖で拘束されていて――」

  拳を膝にぐっと押し当てた。

  「……俺を囲んでいたのは、蛇獣人たちだった。顔は見覚えがないが、みんな無表情で、淡々と……」

  師匠は一度、言葉を切る。

  手の甲に汗が滲んでいるのが分かった。

  「最初は、質問だった。誰が、どこから、なぜ来たのか。答えなければ殴られた。骨が軋む音がした。……しばらくしてからは、火傷や、焼けた棒を使われるようになった。聞かれても、何も答えることはなかった。」

  その語り口はひどく静かで、逆に胸に重く響いた。

  「薬も使われた。頭の芯が熱くなったり、逆に何も感じなくなったりする薬だ。夢と現実の区別がつかなくなって、何日経ったのかも分からなかった。時々、強烈な光や音で体を起こされることもあった。……ずっと……外の感覚が分からないまま、終わりが見えなかった。」

  俺はただ息を呑んで、師匠の顔を見つめるしかできなかった。

  「気づいたときには、俺は自分が誰なのか、何をしていたのかも考えられない――そんなふうになっていた。体の痛みや恐怖だけじゃない。頭の中ごとぐしゃぐしゃにされる感覚だった。」

  目の奥に、かすかに何かが揺れている。

  それでも師匠は、最後にぽつりとつけ足した。

  「……あいつらは、ただ拷問で肉体を痛めつけるだけじゃなく、心も――壊そうとしてたみたいだな。」

  俺は何も返せなかった。ただ、拳を強く握ることしかできなかった。

  そんな壮絶な経験をしてきた師匠が、今日ここで、俺の前で普通に座っている。

  胸の奥がじわりと熱くなり、同時にどうしようもなく冷たくなっていった。

  「でも、師匠が今ここにいるってことは……師匠はやつらから無事に逃げてきたんですよね?」

  その問いに、師匠は眉間にしわを寄せて首を横に振った。

  「拷問を受けた後のことは……まだ思い出せない。どうやって脱出したのか、なぜこうして戻れたのか、どうして記憶がなくなったのか――その部分が空白のままだ。」

  師匠の声が沈む。その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

  俺が黙り込んでいると、師匠は壁を見つめながら、さらに続けた。

  「俺はな、輝……わざと逃がされた可能性すらあると思っている。」

  「え……?」

  「こうして司令部に戻り、仲間たちを混乱させている。俺の存在が、今もヒーロー司令部の危機管理能力を低下させている。一体、何の目的で俺を戻らせたのか……」

  師匠の顔には、これまで見たことのない複雑な表情が浮かんでいた。

  「俺は、戻ってくるべきではなかったのかもしれない。知らずに、やつら――ナーガリアンの都合のいいように動いている可能性だってある……」

  その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがプツンと切れた。

  「そんなことないです!」

  思わず声が大きくなった。師匠が驚いて俺を見る。

  「そんな風に……自分を責めるなんて、師匠らしくないですよ!」

  言いながら、俺は昔から見てきた師匠の姿を思い出していた。

  「師匠だったら――師匠だったらこう言いますよ。『憶測で怯えるな、目の前の事実だけを見ろ』って。『どんな状況でも、やれることをやり通せ』って。」

  俺の声は、自分でも驚くほどしっかりしていた。

  「俺、ずっと師匠のそういうところに憧れてたんです。何があっても、最後まで諦めない。誰かを守るために、毅然と立ち向かう。迷いがあっても、それを乗り越える力が師匠にはあるって……俺はそう信じてます!」

  師匠はしばらく黙って俺を見つめていた。その目が、少しずつ温かさを取り戻していくのが分かった。

  「……そうだな。言われてみれば、俺らしくないな。」

  師匠は小さく微笑み、俺の肩に手を置いた。大きく温かい手が、俺の体に触れる。

  「お前の言う通りだ。状況がどうあれ、やれることをやり通す。それが俺のやり方だったな。」

  師匠の手から伝わる温もりと、鼻腔に満ちる強い体臭。その両方が、妙に心地よく感じられた。

  「俺、師匠の力になりたいです。どんな状況でも。」

  師匠は静かに頷いて、そっと手を離した。

  「頼りにしてる、輝。」

  隔離室を出るとき、俺は不思議と心が軽くなっていた。だけど同時に、師匠の体臭が脳裏に焼き付いて離れないことに、自分でも気づいていた。

  人間は慣れる生き物だと蛇塚さんは言ったけど——これは単なる慣れじゃない気がする。

  ◆

  翌朝、監視室のモニターをチェックしていると、思わず目を見張った。

  カメラの中の師匠は、ベッドでも椅子でもなく、部屋の中央で汗だくになって腕立て伏せをしている。しかも、上半身は裸――分厚い筋肉と被毛がむき出しで、汗の粒が床に垂れているのがはっきり見て取れた。

  ドアの前で今日も食事と新しい検査着を受け持って、俺は隔離室の中に入る。

  扉を開けた瞬間、むっとするほどの熱気と、いつも以上に濃い、湿気を帯びた体臭が鼻腔を直撃する。

  (うっ……今日は、特に……すごい……)

  でも、嫌だとは思わない。妙な感覚だ。不思議とむしろ少し臭いを吸い込んでしまう自分がいる。

  師匠はまだ床で腕立て伏せをしながら、こちらに顔だけ向けた。

  「師匠、なにしてるんですか?」

  「……昨日の話を覚えているか。俺に今できることはなんだろうと考えた。それがこれだ。」

  息が上がっているのに、師匠は淡々と筋トレを続ける。

  「あの……せめて上は着てくださいよ。」

  師匠は横に投げ出された上着を視線で示した。「着てたんだが、汗でベトベトになってな。」

  (いや、でもだからって……)

  あきれたような気分になる半面、どうしても視線が離せない。

  広い肩、盛り上がった筋肉、流れる汗――そして、鼻を突くきつい体臭。その全部が、なぜか妙に魅力的に見えてしまう。

  師匠はちらりとこっちを見て、「お前もどうだ?」と誘ってきた。

  「い、いえ、俺は遠慮します。」

  即座に首を振ったが、師匠から目が離せない自分に戸惑いを覚える。

  (なんで、こんなの見てるんだ……?)

  師匠が筋トレをやめ、息を整えながら俺の方へ近づいてくる。汗だくの身体に接近された瞬間、臭いがさらに濃くなった。

  「着替えをくれ。」

  着替えを手渡すと、師匠は俺の視線を受け止めながら堂々とその場で検査着を脱ぎ、着替え始める。

  その一連の動作からも、目がまったく逸らせない。息も知らないうちに荒くなっていた。

  「……輝。前も言ったが……そんなに中年親父の着替えが気になるのか?」

  「え!? ち、ちが、ちがいます!」

  思わず大きな声で否定したけど、顔が熱くなっているのが自分でも分かった。

  心臓がバクバク鳴って止まらない。

  (なんなんだ、この感じ……俺、どうかしてるのかも……)

  師匠の着替えが終わるまで――俺は一度も視線を切ることができなかった。

  ◆

  その後、隔離室を出た俺は、手にした師匠の汗でぐっしょりになった検査着を持ちながら、洗濯スペースへ向かった。

  途中まで、頭がぼんやりしていた。廊下の空気が、さっきの隔離室よりもやけに薄く感じる。

  (やっぱり今日のは……すごかった……)

  洗濯機の前で衣類を広げた瞬間、さらに強烈な臭いが一気に立ちのぼる。汗と体臭が絡み合い、これまで以上に濃く重く鼻腔を満たした。

  思わず、吐息が漏れる。

  頭の奥まで痺れるような、もわっとした熱い感覚。自分でも信じられないくらいくらくらして、力が抜けそうになる。

  気がついたら、俺は思わずそのまま衣類に顔を近づけていた。

  鼻先に押し当てて――もっと、もっと深く吸い込みたい衝動が湧き上がる。

  (……なにやってるんだ俺は……)

  寸前で我に返った。

  あわてて手を離し、衣類をそのまま洗濯機に突っ込む。ドアを勢いよく閉め、洗濯ボタンを押すと、その場を逃げるように去る。

  胸は、ドクドクと苦しいほど鳴りっぱなしだった。

  (……どうかしてる。本当に……)

  手の甲で鼻先をぬぐいながら、俺はしばらく立ち止まるしかなかった。

  だけど、鼻腔の奥にはまだ師匠の汗と体臭の余韻が、はっきりと残っていた。

  ◆

  翌日。

  モニターをつけると、師匠が今度はスクワットをしていた。今日もやっぱり、上半身は裸。大きな体が上下し、厚い胸毛や腕、波打つ筋肉の動きがカメラ越しにもよく分かる。

  (またかよ……)

  呆れる気持ち半分、でも目がどうしても師匠の体に引き寄せられてしまう。

  隔離室に食事と新しい検査着、そしてタオルを持って入る。

  扉を開けた瞬間、昨日よりさらにむっとくる生暖かさと体臭。

  師匠がスクワットをしながら大きく腕を振るたび、脇の下から特に濃い臭いが広がって、鼻の奥にどっと入り込んでくる。

  (う……すごい……)

  つい、鼻をヒクつかせてその臭いを嗅いでしまう。

  自分でもわかるくらい、意識が臭いに向かっていく。師匠の体や汗のつやまで、やけに明確に目に映る。

  気づけば、俺は食事のトレーを持ったまま、ただぼんやりと師匠の動きと、その臭いだけに意識が集中していた。

  師匠が腕を大きく開くと、脇の下からさらに濃い匂いが漂い、俺の意識を持っていく。

  深呼吸したくなる衝動――思わず鼻を近づけてしまいたいくらい。心臓が速くなっていく自覚はあるのに、どこかぼうっとしていて、妙に心地いい。

  (これ、俺……どうかしてるぞ……)

  頭の中が師匠の匂いでいっぱいになる。

  気づけば、師匠がすぐ目の前に立っていることさえ分からなくなっていた。

  「……タオルと着替えをもらえるか?」

  師匠の声で、はっと我に返った。

  目の前の師匠は上半身裸で、汗が光っている。

  一気に、さらに強い臭いが鼻を直撃した。

  心臓がバクバク暴れだす。

  自分がさっきまで、師匠の匂いに“夢中”になりすぎて、その存在にも気づかないほどだったなんて、信じられなかった。

  師匠が心配そうに俺を見ていた。

  その視線に耐えられず、俺は隔離室を出ようと足早にテーブルに食事と着替えを置いた。

  「じゃ、俺これで…。」

  と去ろうとした瞬間、師匠が不意に俺の腕を掴んだ。

  「輝、本当に大丈夫なのか?」

  その手の熱さと、至近距離に立つ師匠の体臭が、一気に俺を包み込む。

  (……くっ、臭いが……濃すぎる……!)

  「ほ、本当に大丈夫ですって!」

  声が裏返り、視線は床に張り付いたまま。頭に師匠の大きな手が触れ、額を押さえられる。

  「熱はないようだが……顔が真っ赤だ。どこか痛むか?」

  「な、なにも! ちょっと疲れてるだけです!」

  師匠の掌の匂いが、汗と体臭でさらに強烈。鼻腔が焼けるように熱く、肺の奥まで染み込む。

  (なんで、こんなに……)

  「疲れてるなら無理するな。今日は休め。」

  師匠の声が真剣すぎて、胸がぎゅっと締めつけられる。

  「ほんとに大丈夫です! 仕事戻ります!」

  嘘を吐きながら腕を振りほどき、ドアに向かう。でも師匠は心配そうに眉をひそめたまま、検査着を脱ぎ始めた。

  俺は反射的にちらっとその動きを追い、分厚い背中と腕の筋肉に目を奪われる。

  (……やばい、また見てる……)

  師匠が脱いだ検査着を差し出す。受け取る瞬間、湿った布地から立ち上る強烈な臭いが顔を直撃。

  「ぐっ……!」

  「どうした?」

  「なんでもないです! ありがとうございました!」

  叫ぶように返事をして、俺は洗濯物を抱えて廊下に飛び出した。

  背中に師匠の視線を感じながら、心臓は狂ったように鼓動を打ち続けていた。

  (なんなんだ……俺、師匠の臭いで……)

  ◆

  洗濯室のドアを閉めて、俺はぐったりとその場に立ち尽くす。

  手には師匠の脱いだ検査着。まだ汗で湿っている。鼻先に持ち上げるだけで空気が重たく変質するのが分かる。

  (……やめろ。やめろ、俺……)

  頭の中で何度もそう叫ぶ。

  俺は今、何をやろうとしている?

  こんなの、明らかにおかしい。自分で分かっている。

  なのに――なぜ手が勝手に動くんだ。

  「だめだ、蛇塚さんなんかに見られたら……絶対……」

  鼻先に近づけるだけで、心臓がバクバクと高鳴る。

  これを嗅いだら――自分がもっと壊れていく気がした。

  それでも手放せない。むしろ、押し付ける力が強くなっていく。

  (やめろ、やめろよ。洗濯機に――入れれば終わる、だろ……)

  汗と体臭が絡みついた生々しい臭い。

  最初はただ顔を背けようとした。でも、違う――

  今はむしろ、どうしようもなく「嗅ぎたい」と思ってしまう衝動が胸の奥で暴れている。

  (こんなの、おかしいのに……!)

  理性が警告を鳴らし続けるのに、欲望が勝手に暴走する。

  布地を鼻に押し当てる直前、もう一度だけ必死に抵抗しようとしたが――

  その葛藤さえ、濃密な臭いがすべて押し流してしまった。

  「……っ、あ……♥」

  押し付けた瞬間、熱が全身を貫く。

  逃げたい、でもやめられない。

  鼻息が荒くなり、声まで漏れてしまう。

  下半身が疼き始め、顔がどんどん熱くなる。

  (やめろ……! やめ、ろ……♥)

  まるで自分の中で二人の自分が争っているみたいだった。

  けれど最後には、結局抗いきれず、夢中で臭いを吸い込む。

  その時――

  突然、扉をノックする音が響き、蛇塚さんの声が現実を引き戻した。

  「犬塚さん?いますか?」

  「あっ……!」

  慌てて衣類を洗濯機に突っ込み、手早くドアを開けてその場を逃げ出した。

  心臓の高鳴りが、まだひどく収まらない。

  自分がどこまでいってしまうのか、怖くなるほどだった。

  ◆

  その後の監視室業務も、俺はどこか上の空だった。

  端末の画面を見ているふりをしながら、ずっと頭の片隅に師匠のこと――いや、師匠のあの強烈な臭いがこびりついて離れなかった。

  何をしていても、鼻の奥にまだ残っている気がする。

  気づけば意味もなく深く息を吸って、そこに臭いがないことにがっかりする自分がいる。

  「犬塚さん、大丈夫ですか?」

  蛇塚さんに声を掛けられて、はっと顔を上げる。

  「え? あ、はい……ちょっと寝不足で。」

  必死に取り繕う俺。

  でも蛇塚さんはしばらくじっと見つめてから、「……無理はしないように」とだけ言って、それ以上追及しなかった。

  その後の業務もほとんど記憶が曖昧なまま、やっと終わらせて与えられた自分の部屋に戻る。

  ドアを閉め、ベッドに倒れ込むと、安堵より強い空虚感が押し寄せた。

  目を閉じると、浮かぶのは師匠の顔――じゃなくて、師匠の汗と体臭。

  鼻の奥に、まだほんのり残っている。でも、それだけじゃ……足りない。

  (……足りないって、なんだよ俺……)

  自分でもぞっとする。

  なのに、そのまま思い出す――洗濯機に突っ込んだままの検査着。

  まだスタートボタンを押していなかった。

  (……スタートボタンを押すだけだ。ただのやり忘れた仕事を片付けるだけ。)

  そう自分に言い聞かせて、俺は洗濯室に向かった。

  ◆

  洗濯機の扉を開けると、さっきより凝縮された臭いが一気に立ち昇る。

  湿った布地の、体臭と汗が絡まった濃厚な匂い。

  くらくらする。でも、なぜか扉に手をかけたまま、じっと立ち尽くしてしまう。

  (……押せよ。早く、ボタンを押せ――)

  そう思っているはずなのに、体が動かない。

  むしろ、もっとこの臭いを吸い込みたくなって、深呼吸してしまう。

  (やめろ、やめろ……)

  葛藤する意味さえ分からない。

  ただボタンを押せば済むはずなのに。

  それなのに、洗濯槽の中に手を伸ばし、無意識に衣類を取り出してしまった。

  (……ダメだ、やめろ。おかしいだろ俺……)

  頭ではずっと叫んでいるのに、体は勝手に動く。

  気づけば、検査着を手に持ったまま、ふらふらと洗濯室を出ていた。

  自分で自分が制御できない――

  怖いくらいに、どうかしてる自分がいる。

  ◆

  部屋の空気が重い。湿気すら帯びるような圧迫感。それは目の前に広げた布――その衣類から発せられる濃厚な匂いが原因だ。俺はその布を手にし、じっと見つめる。手が震えているのが自分でも分かる。嫌な匂いだ。それなのに、どうしても手を放せない。

  これは本来なら洗濯機の中にあるべきものだった。師匠がついさっきまで着ていた衣類。

  俺は着替えを終えたそれを師匠から預かってこれまでの通り洗濯機に入れる――。そのはずだった。

  わかってる。

  わかってるのに。

  いつの間にか手に取っていて、気づけば部屋に持ち帰ってきていた。

  こんなこと、どうかしてる。

  理由なんて分からない。こんな行動は絶対におかしい。それくらい分かっているのに、この布を手放すことができない。

  湿り気を帯びた布地の感触が指先にまとわりつき、それだけで鼻腔の奥に匂いが広がる。それは決して心地よいものじゃない。むしろ、喉を締め付けるようで吐きそうなほどの刺激だ。当然だ。雄の熊獣人――それも中年の――の肌に1日中触れていた衣類からいい匂いがするわけない。

  わかってる。

  わかってるのに。

  薄暗い部屋で、俺はその布を手に持ったまま鼻を近づける。瞬間、胸の奥にざわつきが広がった。匂いが鼻から喉にかけて染み込む。湿った汗と皮脂の混ざった香り。それが布地から立ち上るたびに、頭の奥がぐらぐら揺れる。

  ……吐きそうなくらい強いにおい……

  えずきそうになる。それでも嗅ぐのをやめられない。手が勝手に動き、布を鼻に押し付ける。さらに顔の横に滑らせるように動かす。頬に触れる布地から立ち上る匂いが、脳を刺激する。胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのが分かる。下半身も熱を帯びていくのを感じる。パンツの中のそれは、限界までいきり立ってしまっている。

  「……あっ…っ……あっ…♥」

  気づけば、布を顔全体に押し付けていた。湿った布地が皮膚に触れる感触が生々しい。それを顔の輪郭に沿ってこすりつける。まるで匂いをマーキングするように、目、鼻、口元――隙間なく布を擦り付けながら吸い込む。鼻腔が匂いで満たされていく。嫌な感覚なのに、それが快感に変わりつつあるのを感じた。俺はいきりたったそれをパンツから解放する。先端からだらだらと汁が垂れている。俺は我慢できず、自らの手でそれに刺激を加え始めた。

  上下にしごくリズムにあわせて、吐息が漏れる。吐息が漏れると臭いを吸う。そうするとまた、下半身の熱が強まり、吐息が漏れる。また吸う。それの繰り返しだ。

  「こ、…な……こと……おか、し……のに……♥」

  脳裏に師匠の姿が浮かんでくる。あの大きくて重厚な体躯。俺とは全く違う雄としての力強さ。その存在を、この布地を通じて強く感じてしまっている。浮かぶ顔が申し訳なさを胸に突き刺してくる。それなのに、手の動きは止まらない。むしろ一層激しくなる。

  さらに布を鼻に擦り付ける。鼻腔を満たす匂いが強烈すぎる。胸が熱くなり、心臓が激しく脈打つのが分かる。布を顔の隅々にこすりつけながら、匂いが消えないように。もっと濃く感じられるように。無意識に動かしていた。

  「……し、しょう…………♥」

  その名前が自然と口から漏れる。それを言った瞬間、胸の奥でさらに熱が膨れ上がる。この匂いが、師匠そのものと無意識に結びついてしまった。布地を通じて師匠の存在を感じる。鼻に染み付いた匂いが、師匠の顔を鮮明に脳裏へと浮かび上がらせる。

  喉の締め付けが苦しくてたまらないのに、嗅ぐたびに得られる快感がそれを完全に上回っている。理性では「やめろ」と叫んでいるのに、身体は逆に「もっと」と欲している。布地を顔から鼻、頬へと擦りつける動きが止まらない。

  この匂いが自分を支配している。その匂いをもっと濃く感じたい、もっと体の奥深くまで染み込ませたいという思いが、俺を突き動かしている。

  衝動に突き動かされた俺は、両手で布を顔に強く押し付け、大きく息を吸ってより多くの臭いを取り込んだ。

  その瞬かん、あたまが、はじけた。

  「あっ……っっあっぁ♥ い、い、イク…イクイクイク……♥」

  直接刺激を加えていないのに、俺は果てた。そんなこと初めてだった。呼吸をするごとに、臭いを取り込むたびに俺の体はリズムよく精を放つ。しばらくそれを繰り返してやがて打ち止めになる。頭に冷静さが戻ってくる。

  布を握りしめたまま、俺は膝を床に突いた。放った精が体に、床にべっとりついているが、そのまま動けない。その布を顔に擦り付けていた自分が信じられない。でも、捨てるなんて考えられない。鼻腔に染み付いた匂いがまだ残っていて、それが安堵のように心を覆っている。

  「……俺、最低だ…」

  呟いてみても、手から布を放すことはできなかった。申し訳なさが胸を締め付ける。それでも匂いが消えないことに、どこかほっとしている自分がいる。それが何よりも恐ろしかった。

  ◆

  眠れない夜の果てに迎えた朝は、頭も体も鉛のように重たかった。

  あの一回だけじゃ終わらなかった。

  一晩中、師匠の検査着の臭いを嗅いでは自慰をして、達しては自己嫌悪に沈んで……また無意識に臭いを求め続けていた。

  気がつけば全身がだるくて目の奥が痛い。

  それでも俺は服を着て、なんとなく監視室へ向かった。

  蛇塚さんはいない。回らない頭で理由を考える気力もない。

  ただ座って、端末の監視カメラを映す。

  画面のなかの師匠は今日も上半身裸で、筋肉を躍らせながらスクワットを繰り返している。

  汗が光って、被毛にしみて、あきらかに昨日よりも匂いが濃くなっている気がする。

  カメラ越しなのに、鼻の奥がむずむずする。

  心臓が急に速く脈打つ。

  (……嗅ぎたい。直接――)

  何かを持って行こうか、とか、何か理由がいるんじゃないか――

  そんな考えさえ浮かばなかった。

  ――師匠に会いにいくのに理由なんているはずがないだろ。

  気づいたときには、監視室を飛び出していた。

  廊下を早足で歩く。

  何も持っていないことすら気にならなかった。

  今はただ、あの部屋に入って、師匠のすぐそばで、あの臭いを直接――

  頭の中は、それしか考えられなくなっていた。

  ◆

  隔離室のドアを開けた瞬間、熱気と濃厚な体臭が一気に押し寄せてきた。

  (……つよい……っ)

  頭がくらくらして、足元がふらつく。何かに突き動かされるように、部屋のなかに一歩、また一歩と進む。

  そして、膝が抜けて、そのまま床に倒れ込んでしまった。

  「輝!?」

  師匠の声がすぐ目の前で響く。

  体をぐいっと抱き起こされる。熱くて、分厚い胸板と腕。間近に感じる体温と、何より、これまでで一番濃い――あの匂い。

  「輝、大丈夫か? おい、しっかり――」

  師匠の声はもう耳に入ってこなかった。

  俺の意識はただ、師匠の強烈な体臭だけに縛られていた。

  無意識に顔を師匠の胸元に埋め、鼻を押しつける。

  汗と獣のにおい――それが肺の奥まで満たされていく。

  たまらず、深く深く吸い込む。息を吐くのも惜しいほど、何度も何度も。

  「……輝、お前……どうしたんだ?」

  師匠の声に返事する余裕なんてない。

  全身が熱くなって、頭も心も溶けそうだ。

  ただ夢中で、師匠の匂いを貪り続ける。

  「俺の……臭いを、嗅いでいるのか……?」

  俺は夢中で激しくうなずいた。

  師匠の腕が一瞬ためらいを帯びて止まる。

  「臭い……嗅がせる……?俺が……?」

  師匠は自分の中の何かを探るように、苦しげに眉を寄せた。

  一歩引き離そうとしながらも、腕の力が抜けていく。

  「……う、あ……っ」

  師匠の顔が歪み、頭を押さえる。

  痛みに耐えるような息がもれる。

  でも、そんな師匠の様子も、今の俺にはもう届かない。

  ただひたすら、師匠の臭いを吸い込み続けていた。

  夢のなかにいるみたいに――

  何もかもその濃い匂いで、頭の中が塗りつぶされていった。

  「……う、ぐっ……ああ……!」

  どこか遠くを見つめるような目、額に浮かぶ脂汗。

  体を震わせながら、俺の腕から逃れるでもなく、その場に耐えていた。

  「嗅がせる……俺の、臭い……」

  「やつら……洗脳、洗脳される、俺の……」

  苦しげな独り言が途切れ途切れに漏れる。

  思い出してはいけないものを、頭の奥から無理やり引きずり出されるような痛み――そんな、限界ぎりぎりの表情だ。

  師匠は必死に言葉を探し、咳のような呼吸を荒く絞り出す。

  「俺……やめろ、これは……思い出したく、ない……ダメだ……!」

  全身を強張らせ、頭を押さえ込んだまま背筋を反らせて絶叫する。

  「やつらが……俺を……俺は…お……れ……!」

  その叫びは痛みと恐怖と絶望が入り混じった響きだった。

  このまま壊れてしまうんじゃないかと錯覚するほど、師匠はぎりぎりのところで苦しみ続けている。

  それでも俺は、師匠の苦しみにも気づきつつ、どうしても体臭から顔を離せなかった。

  (ダメだ、わかってる、でも――やめられない――)

  師匠の呻きは高まり、身体をのけぞらせて、まるで自分自身の中にある闇と戦っているようだった。

  「思い、出すな、ダメだ、俺が……っ!」

  その間中、俺はどうしようもなく師匠の臭いをむさぼり続けていた。

  師匠が壊れそうなほど苦しんでいる――それでも俺はもう自分を止められなかった。

  頭の中では、師匠が壊れてしまうかもしれないという恐怖が何度も何度も警鐘を鳴らしている。

  それでも、俺の体は意思とまったく逆らえず、むしろ師匠の体臭にますます貪欲になる。

  本当は顔を離せばいい。

  なのに俺は、師匠の胸元、脇の下、腕の付け根に鼻先を押しつけ、

  もっと、もっとと深呼吸するように臭いを吸い込んでいく。

  (これが……欲しい。欲しくてたまらない。全部、全部吸い込みたい……!)

  息が熱く滾り、下半身にどんどん血が集まる。

  心臓の音は鼓膜を突き破りそうで、指先も力が入らないくらい痺れてくる。

  自分がいまどれだけ異常なことをしているか、頭ではわかっていた。

  でも衝動は歯止めが利かず、呼吸も、指も、顔さえも師匠の匂いから一ミリも離れられなかった。

  師匠が最後、頭を抱えて絶叫する。

  「やめろぉぉぉ……!」

  その叫びが途絶え、師匠の全身ががくりと脱力した瞬間――

  俺の体も同時に、限界の熱に突き抜けて、快感に震えた。

  (――あ……!)

  快感の余韻と、師匠の最後のうめき声だけが隔離室に残る。

  俺はまだ師匠の身体にしがみついたまま、胸を大きく上下させながら、すべての感覚が師匠の臭いに溶けていくようだった。

  師匠の苦しみと俺の衝動、その二つが同時に極へ達し、

  部屋の中に、しばし何も響かなくなった。

  [newpage]

  [chapter:第五章 蛇影]

  はっと我に返ると、汗だくで息を切らしている自分に気づいた。

  師匠の体にしがみついて、ただ無心に体臭を貪っていた――

  尊敬していたあの師匠の前で。

  しかも、ここには監視カメラだってある。すべて記録されているかもしれない。

  (……俺は、何を……)

  全身が一気に冷えたような感覚。

  さっきまでの異常な衝動と快感が引き潮のように抜けていき、その分、後悔と恐怖が押し寄せてくる。

  吐き気すら覚えるほど、罪悪感と自己嫌悪が重くのしかかる。

  すぐに師匠から離れた。言い訳もできず、息を乱して立ちつくす。

  師匠もまた脱力していた。荒い呼吸を繰り返し、表情はぼんやりと虚ろだ。

  「し、師匠……大丈夫ですか?」

  俺は救われたい気持ちで声をかけ、そっと近づく。

  ゆっくりと手を伸ばそうとしたその時――

  師匠が突然、俺の肩をぐっと掴み、反射的に俺の頭を自分の脇の下に引き寄せて押さえつける。

  「っ――」

  師匠が俺の頭を脇に押しつけてきた瞬間、その顔をちらりと見上げて、全身が凍りついた。

  それは、俺の知っている、あの不器用で真っ直ぐで頑固な師匠の表情じゃなかった。

  笑っている。けれど、その笑みは冷たくて、どこか歪んでいる。目の奥が異様にきらめき、底知れぬ闇をたたえていた。

  俺の中で何かが警鐘を鳴らす。本能が、叫んでいる。

  (――怖い)

  鼓動が急につめたく速くなり、息を止めても、鼻の奥にはもう体臭がじっとりと染み込んでいる。

  師匠は俺の恐怖を見透かすように、ゆっくりとした声でささやいた。

  「どうした? 俺の臭いを嗅げ、輝。」

  その言葉は、さっきまでの優しさも誇りもなく、ただ嗜虐的で、底の見えない深い闇の中から響いてくるようだった。

  逃げたかった。でも、力が入らない。

  師匠の腕の中で、俺はただ震えながら、どうすることもできずにいた。

  師匠の脇に顔を押しつけられ、俺は必死に息を止めていた。

  これ以上あの臭いを吸い込んだら、また自分を抑えられなくなる。今は、それが――怖かった。

  恐怖と混乱をこらえて、震える声で師匠に問いかける。

  「……いったい、どうしたんですか、師匠……?」

  しかしその顔は――これまで一度も見たことのない、不気味な笑みのままだった。

  目の奥に狂気じみた光がきらめき、口元は楽しげに吊り上がっている。

  その表情から、俺の知っている“師匠”の面影はまったく見えなかった。

  「……すべて思い出した。」

  その声は低く、妙に滑らかで、まるで師匠以外の誰かが話しているようだった。

  師匠は俺の頭を押さえつけたまま、問う。

  「輝、お前は俺が誰だと思う?」

  質問の意図が分からず、俺は混乱したまま答えた。

  「……グリズリオン、俺の……俺の憧れのヒーローです!」

  それを聞いた師匠の笑みは、さらに歪んだものになった。

  「違う。」

  師匠は恍惚とした表情で、断言するように言った。

  「俺は、ナーガリアンの僕。ナーガリアン戦闘員90号だ。」

  頭が真っ白になった。

  絶望が胸に満ちていく。

  (洗脳――やっぱり、師匠は……!)

  「やめて……! 師匠、戻ってください! 俺の、俺の知ってる師匠に……!」

  叫ぼうとしたけれど、師匠の腕の力が強すぎて、体が思うように動かない。恐怖と緊張で全身が固まり、手も足も言うことをきかなかった。

  そんな俺に、師匠――いや、ナーガリアン戦闘員90号は、さらに恍惚とした声で語り始めた。

  「ナーガリアンは素晴らしいぞ、輝。蛇獣人こそが最も高貴で優れた存在だ。世界のすべての種族は、蛇獣人の意志に従い、秩序のもとに置かれるのが理想だ。それが本来の姿だ。個の弱さや葛藤は、偉大な集団の中で意味を失い、苦しみも迷いも、同化の中で消えていく。お前もすぐに分かる。ナーガリアンの偉大さを、すべての獣人が受け入れる日が来る――」

  低く、よく通る声は、今まで聞いてきた師匠のどんな語り口にも似ていなかった。ただ滑らかで、妙に自信に満ちていて、切れ目もなく続く。

  俺は、本能的に寒気を覚えた。

  語っている内容も、蛇獣人至上主義のスローガンも、どこかで聞いたような言葉ばかり。

  それを、これまでの師匠なら絶対に口にしないはずだった。

  (師匠の声なのに、用意された台詞を読み上げてるみたいだ……)

  抑揚も、間も、そこに“師匠”という人間らしさはまったくなかった。

  ただ与えられた文章を、そのまま外に吐き出している、それだけの不気味さ――

  機械的な響きに、俺はますます恐怖を覚える。

  (もう……師匠じゃない……!)

  俺の知っている、あの不器用で優しい、誇り高いヒーロー――グリズリオンの面影は、今この人の中にはかけらもなかった。

  絶望が、より心にじっとりと広がっていく。

  師匠の腕に拘束され、俺は必死に顔をそむけて、もう臭いを吸い込まないよう必死に耐えていた。

  でも師匠――いや、今や“戦闘員90号”となったその人は、すぐに気づく。

  「……どうした? 俺の臭いを嗅がないつもりか?」

  低く、嗜虐的な声音。背筋が凍る。それでも必死に目を閉じ、息を止めながら抵抗を示す。

  「さっきまでのお前は可愛かったのにな……」

  師匠――その顔に浮かんだ、これまで見たことのない邪悪な笑み。

  「俺の臭いで、イってただろう?」

  そう言いながら、師匠は自分の脚で俺の下半身をなぞるように、ぞんざいになじる。その動きに、電流が走ったみたいに全身が硬直する。

  「や、やめてください……!」

  声が震える。顔が焼けつくように熱い。悔しさと恥ずかしさと恐怖が一気に押し寄せる。でも、必死で踏みとどまる。

  「……素直になれ輝」

  その声が終わるより早く、師匠は俺の顔をつかんで、ぐいと唇を奪った。

  唇だけじゃない。師匠の舌が乱暴に口内に割り込んでくる――

  息をする隙間もないほど濃厚な接吻。

  師匠の体臭と口臭と、すべてが喉と頭の奥まで流れ込んできて、脳まで焼けるほどの刺激が広がる。

  (だめだ、また――)

  最初は必死で拒もうとする。

  でも、全身が一気に脱力していく。

  鼻腔も喉も、口の中までも、師匠の濃密な臭いで塗りつぶされていく。

  (俺、おかしくなる……だ、め、だ……)

  頭の中で警報が鳴り響くのに、もう体は言うことをきかない。

  俺は濃厚な味と臭いにむせび泣きながら、再び自分が師匠のものに支配されていくのを感じていた。

  ◆

  「嗅げ、輝。」

  その一言が頭を撃ち抜く。

  もう思考なんかどこかに消えた。強烈な命令。全部うれしい。従いたい。従うしかない。

  俺は這うみたいに師匠の脇へ顔を寄せる。羞恥も理性も全部剥がれ落ちていく。鼻先を、師匠の脇の奥にぐいっと押し当てる――うあっ、すごい、ひどい、たまらない……!

  一気に鼻腔の奥が焼けるほどの臭い。汗、皮脂、野生、師匠、師匠師匠……。

  脳が弾ける――なにこれ、なんでこんなに欲しいんだ。苦しいのに、快感でたまらない。

  嗅げば嗅ぐほど、指が痺れて、息が止まって、奥から熱がせり上がってくる。

  「もっとだ。全部吸え。」

  全部、全部全部。俺はもう止まらない。鼻をもっと強く押し当てて、師匠の脇をむしゃぶりついて、息が苦しくなっても絶対に離さない。涙が出る。何もかも溶けていく。

  なんだこれ、なんなんだよ。師匠の臭い、師匠のためだ、それしかない。

  俺は師匠の匂いに沈みたい。師匠の証、師匠の命令、師匠の全部――全部が俺を壊していく。

  それが、快感で、幸福で、壊れていくことすら、誇りだと思った。

  もう俺は師匠のものだ。

  師匠の臭いを、全部、全部もっと、もっと――

  頭も心も、世界も、ただ師匠しかいらなかった。

  師匠の脇に顔を埋め、むさぼるように鼻を押しつける。いや、押しつけているどころじゃない――もう、鼻先だけじゃ足りない。舌まで這わせて、絨毯みたいな毛並みに、汗に、皮膚に、俺の唾液を混ぜた。

  くさい。苦しい。けど、うまい。たまらなくうまい。師匠の味だ。師匠の証だ。俺は舌をねじ込む。汗がしょっぱい。毛が絡む。鼻も口もぜんぶが師匠になっていく。

  顔中がぐしゃぐしゃだ。自分のよだれと師匠の汗と、臭いと熱とで溶け合って、もう何がなんだかわからない。

  息を吸うたび、師匠の匂いが脳を貫いていく。ビリビリする。目の奥が熱い。心臓が膨らんで、爆発しそうだ。

  苦しいのに、もっともっとほしくなる。

  身体が勝手に反応する。腰が震え、熱が下からせりあがる。

  「師匠……! もう、だめ……!」

  俺は師匠の脇にむしゃぶりついたまま、最期の理性もふっ飛んでいく。強烈すぎる臭いと興奮で、腰が跳ねて、白い閃光のような快感が体中に駆け抜けた。

  その瞬間、俺は師匠の脇で……達してしまった。

  「ああ……は、ぁ……っ、は……」

  顔がぬるぬるだ。息も苦しい。目も鼻も口も、師匠の臭いしかない。

  そんな俺を、師匠は見下ろしていた。

  唇に苦笑を浮かべて、俺の頭を掴む。

  「素直になれたか? ……かわいいぞ、輝。もっと嗅げ。もっと乱れろ。」

  その言葉が、恥ずかしいのに嫌じゃなかった。

  もっと壊れたい。もっとバカになりたい。もっと師匠の臭いで、情けない自分でいたい。

  「恥ずかしがるな。お前は俺の弟子だ。俺の臭いでイッて、誇りに思え。」

  ああ――俺はもう、師匠の臭いと快感でしか生きられない。完全に、壊されたんだ。

  誇りだ。師匠の弟子として、俺は、生まれ変わったんだ。

  俺は頭のどこかで泣いて笑って、また師匠の汗と臭いにむしゃぶりついた。

  壊れるのが、こんなに幸せだなんて……。

  ◆

  ──時間がどれくらい経ったのか、もう全然わからない。

  隔離室の空気は熱と汗と体臭で満たされている。ベッドの上、もしくは床だったのか、何度も師匠の熱を浴びて、何度も俺は壊れて、しびれて、叫んで、また擦りつけて。思い返すだけで腰が震える。

  俺の体の奥まで師匠の臭いと体液が染み込んで、もう何もかもがぐちゃぐちゃで、自分が何を欲しがっているのかさえ形がなくなっていた。

  師匠の大きい手が俺の頭をぐっと掴む。

  強い力で、正面から無理やり顔を持ち上げられる。視界に師匠の鋭い目しか映らない。

  その目の奥に、俺の全部が呑み込まれていく感覚。

  「お前は──俺のものだ。」

  その言葉が、耳から頭の中にぶっ刺さる。

  目をそらせない。ああ、師匠のもの。俺は師匠のもの。うれしい、こわい、気持ちいい、誇らしい。ぐちゃぐちゃな頭で、どうしようもなく頷く。

  「おま、……お前、の、もの……です……師、匠……俺は……師匠の……」

  自分でも何を言っているのか分からない。舌が思うように回らない。

  けど、師匠の目を見たまま、必死に言葉を繰り返す。

  「そうだ、輝。お前は俺のものだ。何度でも言え。」

  「……俺、……俺は、師匠のもの……師匠の、もの、です……。」

  師匠は満足げに笑い、俺の頭ごと自分の体に引き寄せて、また激しい熱を浴びせてくる。

  もう、何度壊されたかなんて分からない。でもそれが、今の俺のすべてだった。

  「……輝。俺はナーガリアン戦闘員90号だ。――お前は、なんだ?」

  問いかける声は低くて、強くて、抗えない。

  だけど、壊れかけの頭のどこか、奥底だけが反射的に応じる。

  「お、俺は……ヒーローです……」

  それを言った瞬間、師匠の表情が鋭くこわばった。

  次の一瞬、何が起きたのかわからなかった。視界が揺れる。どこかを強く、痛みを伴って掴まれる。

  「違うだろう、輝。」

  鋭く咎める声。痛みがジンジン響く。頭が混乱し、焦りと熱が毛穴から吹き出す。

  俺は泣きそうになりながら、もう一度口を開く。

  「お、俺は……ヒーロー、で――」

  痛み。息が詰まる。

  師匠の手が容赦なく強くなる。

  目のすぐ前で、冷たい声が落ちる。

  「まだ分からないのか。俺の言うことが聞けないのか?」

  「……わ、わわ、わからない……で、でもでも……」

  また痛み。焦燥と羞恥と無力感でぐちゃぐちゃになる。

  「ヒーロー? なら、なぜここで俺に従っている?」

  「ヒーローは……師匠のために……俺……」

  師匠の顔が近づき、低く囁く。「お前が本当に俺の弟子なら、俺を裏切るな。俺を信じろ。」

  俺は涙が出そうなくらい混乱していた。ヒーロー。でも、師匠のためなら。

  だけど、また痛み。

  「師匠、師匠、俺――俺は……」

  「違う。もう一度言え。」

  「俺……ヒーロー……」

  「違う!」

  痛みが刺さるたび、俺の根っこがずたずたにされていく。

  何度も何度も、答えが拒絶される。「違う」と咎められるたび、そのたび、俺の中で何か大事なものが崩れていく。

  ──俺の頭はもうぐちゃぐちゃで、言葉も思考も、自分が自分じゃないみたいに遠くにある。

  それでも、何度も問い詰められるたびに、胸の奥から「ヒーロー」って言葉が湧き上がってくる。そのたび、師匠の眼が鋭く光り、俺の心を迷いもなく殴りつけてくる。

  「違う。いつまでしがみついているつもりだ。」

  俺は震えながら、すがるように「俺は――ヒーロー……」と言ってしまう。

  その瞬間、師匠の手が首筋をぎりぎりと締め上げるように、また強くなる。

  「それが、お前だと思うのか? これだけ俺に従っておいて、まだヒーローだと? お前はもう、ヒーローじゃない。ただ俺に従うだけの物だ。」

  苦しい。師匠の手の力、体温、声、全部が俺の思考を潰していく。

  「俺の言うことが聞けないなら、もう用はない。」

  「ち、ちが……ごめんなさい、ごめ、師匠、ごめんなさい……」

  「謝るな。謝る暇があったら、まともな答えを言ってみろ。」

  「俺、俺、ヒーロー……」

  師匠はあざ笑う。「お前のそんな言葉に、もう価値はない。ヒーロー? なら、ここで俺の命令を断ってみろ。できるか?」

  俺は声も出せない。ただ涙だけが頬を伝う。

  「お前はヒーローでも弟子でもない。“俺に逆らえないもの”だ。そうだろう?」

  (いやだ、いやだ、俺は師匠の……)

  「お前がまだヒーローだと言うなら、ここで俺を止めてみろ。できるならやってみろ。ほら、言ってみろ!」

  「やめて……やめてください……」

  「やめてやる理由なんてない。お前がしがみつく“ヒーロー”なんて、もうどこにもいないんだ。お前は俺のものだ。」

  「俺……俺は……」

  「違う、違う、違う! お前はヒーローじゃない! 二度とそう名乗るな。お前の名前は捨てろ。お前はただ俺の命令に従うだけのものだ。そうだろう?」

  問い詰められるたびに、心の中の「俺」がぐしゃぐしゃに潰されていく。

  抵抗も恥も恐怖も、全部涙と一緒に流れていく。

  「もう一度言え。お前は何だ?」

  「……俺……」

  「お前は?」

  「……ナーガリアン……戦、闘……員……」

  「その通りだ。お前は、俺と同じ。ナーガリアン戦闘員だ。」

  師匠の声がどこまでも深く響き、俺の人格の最後の破片すら、ぬるく溶かしていった。

  師匠が俺をじっと見下ろし、歪んだ笑みを浮かべたまま、静かに命じた。

  「……輝、その腕につけてる変身デバイスを外せ。お前にもっとふさわしいものをやる」

  その一言が落ちてくる。

  胸の奥には、もう何の抵抗もない。ただ従うだけだと思った。

  俺はすぐに腕輪に手を伸ばし、留め具に指をかけた。師匠に言われたのだから、当然のことだ。

  (外す。それが――正しい。俺は師匠のもの、ナーガリアンの――)

  カチリ、と留め具に手を添えたその瞬間、

  記憶の断片が、頭の奥で突然まばゆい光となってよみがえった。

  ◆

  雲ひとつない、青く澄んだ空。太陽が高く昇り、春の風がグラウンドの旗をはためかせていた。観客席のざわめき、アナウンサーの声、ステージ前のカメラの列――すべてが今日のこの日を特別なものにしていた。

  (俺はいま、テレビで見ていたあの場所に立っているんだ。)

  屋外特設ステージは花で飾られ、壇上には新人ヒーローたちが緊張した顔で並んでいる。遠くで誰かの家族らしい拍手と歓声が聞こえた。太陽がまぶしくて、少し目を細める。

  「なぁ、誰のもとで教わりたい?」

  隣の同期が小声で聞いてくる。

  俺は、迷いもせずに答えた。「グリズリオンがいい。」

  一瞬、周りがざわついた。

  「え……グリズリオン?」「あの人怖そうじゃん」

  「テレビだと笑ってるとこ見たことないな……」

  そんな声が聞こえても、俺は気にならない。

  式典進行アナウンスが響く。

  新人ヒーローたちは順番に壇上へ呼ばれ、教育係のヒーローたちから変身デバイスを受け取り、ヒーロー名を授かっていく。

  司会者の声がいよいよ俺の名を呼んだ。

  「犬塚輝、壇上へどうぞ!」

  (いよいよ、俺の番だ――)

  足元の芝生の感触。光に照らされて、制服の白が眩しい。視線をあげると、壇上にはテレビで見ていた名だたるヒーローたち。その中で、ひときわ大きな影――グリズリオンが立っていた。

  大柄で無骨な熊獣人。目つきは鋭く、口元は固く結ばれている。ほとんど表情を崩さない無口な人。その存在感は、もう圧倒的だった。

  一歩一歩壇上を進む時、乾いた春の風が背中を押した。観客の歓声と、カメラのシャッター音が遠くに響く。グリズリオンの前に立つと、その影の大きさに圧倒され、思わず直立する。

  「犬塚輝の指導を担当するのは……グリズリオン!」

  観客席から歓声が上がる。俺はグリズリオンの前に立ちすくむ。

  彼は大きな掌を差し出し、俺の目をまっすぐ見て、低い声をしぼり出す。

  「……変身デバイスだ。絶対に失くすな。いいか、これは……」

  一瞬、言葉を探しているように口ごもる。その目が真剣に俺を見据える。

  「ヒーローでいる限り、これはずっと身に着けておけ。外すのは、生涯に一度きり。ヒーローをやめるときだけだ。それ以外は、絶対に外すな。」

  その台詞の重さが、胸の奥まで響く。

  「はい……!」

  俺は頷いて、グリズリオンの手から腕輪型のデバイスを受け取る。その瞬間――グリズリオンの分厚い手に包まれた自分の指先に、意外な柔らかさが伝わった。

  (この感触――あの日、俺を瓦礫の下から救い上げてくれた時も、こうだった……)

  大きく、温かく、だけど肉球の部分がふかふかしていて、ちょっと拍子抜けするほど優しい。その手に、命を掴まれた記憶が胸の奥で蘇る。怖いだけじゃない、安心できる、守ってくれる存在――「俺のヒーロー」だ。

  俺はグリズリオンの顔を見上げて、言った。

  「グリズリオン、俺……昔、あなたに命を助けてもらったんです。いちばん憧れのヒーローです。あなたに教えてもらえるなんて、ほんとにうれしいです!」

  グリズリオンは一瞬だけ口元を緩めて、照れくさそうに視線を外した。

  「……そうか。これからよろしくな、スカイハウンド。」

  その低い声が、春の日差しとともに、俺の中に新しい名前として響いた。

  この手の感触と、あの言葉を、俺はきっと一生忘れない。

  青空と歓声、ヒーローの証。そして、守ってくれる優しい肉球のぬくもり――

  俺の「始まり」は、いつまでも、この日この瞬間にある。

  ◆

  変身デバイスの留め具に指をかけたまま、

  胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じた。

  変身デバイスを外すときは生涯に一度だけ。

  お前がヒーローをやめるときだけだ。

  かつて、誇り高い師匠がまっすぐな目でそう言ってくれた。

  あの空の下、拍手と祝福に包まれて、俺は“スカイハウンド”として歩み始めた。

  その記憶が脳裏を激しく駆け巡る。

  俺がヒーローを目指した理由。

  命を救ってもらったあの日の憧れ。

  「誰かを守るために力を使う」

  それを教えてくれたのは――この人だったのに――

  「どうした? 外せ。」

  師匠――いや、目の前の戦闘員90号が命じる。

  苦しさで息が詰まる。

  涙がぼろぼろと頬を伝う。

  「違う……俺は……俺は、師匠から……!」

  声が震え、叫びが喉から漏れる。

  「変身デバイスを外すのは、ヒーローをやめる時だけだって! 生涯で一度きりだって……!」

  涙がこぼれる。理由はわからない。

  体から熱が止まない。それはさっきまで、師匠を感じることで身体的で衝動的な熱じゃない。

  自分の心の奥底から湧き上がってくるような熱だ。

  「俺は――まだ、ヒーローをやめない!!」

  熱い涙がこぼれて、嗚咽がこみ上げる。

  苦しみ、怒り、絶望、勇気すべてが混じった叫び声になった。

  「うぉおおおぉぉおおお!!」

  全身の力を振り絞り、腕を振り上げる。

  師匠の体に渾身の力をぶつけ、吹き飛ばした。

  師匠の巨体が壁まで飛ばされる。

  俺は膝をついて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、

  ただ必死に叫んでいた。

  「俺は、まだヒーローをやめない! そして師匠! あなたもだ!」

  涙を拭う暇もなく、俺は腕に残った変身デバイスを強く握りしめた。

  全身に力を込め、声を張り上げて叫ぶ。

  「チェンジ!スカイハウンド!」

  眩しい光が体を包む――

  はずだった。

  疾風のように駆け抜ける――

  はずだった。

  ……けれど、何も起こらない。

  もう一度、デバイスを押し込み、叫ぶ。

  「……!? チェンジ!スカイハウンド!!」

  それでも体は何も変わらない。指先ですら、風ひとつ動かない。

  どうして。なんで。

  「どうして……どうしてだ……!」

  動揺で胸が締めつけられる。何度も変身動作を繰り返すが、ただ呆然とするしかなかった。

  そのとき突然、隔離室のドアが静かに開いた。

  蛇塚さんが、冷たい目で立っていた。

  「変身はできませんよ、犬塚さん。」

  その声には、いつもの冗談や優しさのかけらもなかった。

  俺は、ただ呆然と蛇塚さんを見つめるしかなかった。

  「蛇塚さん……!? な、なんで――変身できないって……!? 師匠は、師匠が……!」

  動揺で声がうわずる。思考がまとまらず、とにかく助けを求めるように問いかけた。

  蛇塚さんは冷たい表情のまま、静かに言った。

  「分かっていますよ。すべて、監視室で見ていましたから。」

  その一言に、頭がぐらぐら揺れた。

  俺があんなに苦しんでいたのに、蛇塚さんはただ見ていた――?

  「じゃあ……なんで、助けてくれなかったんですか!? 俺、大変だったんですよ!」

  訴えるように蛇塚さんのほうへ一歩踏み出しながら叫ぶ。

  だが、蛇塚さんは淡々と続けた。

  「隔離室および監視室では、万が一収容した人物が元ヒーローの場合に備え、ヒーローの変身デバイスの機能は無効化されています。」

  「そ、そうだったんですか!? お、教えておいてくださいよ! いや、ちがう! なんで助けてくれなかったんですか!」

  勢い込んで近づこうとしたその時、

  蛇塚さんは俺ではなく、床に倒れたままの師匠へと鋭い視線を向けて命じた。

  「いつまで伸びているつもりですか、90号。あなたの役割を果たしなさい。」

  その瞬間、足が床に縫い付けられたみたいに止まった。

  息が詰まる。

  蛇塚さん――いや、その眼差しと言葉にこめられた冷酷な響きに、

  ようやく理解が追いつく。

  絶望が体にじわじわと染み込んでいく。

  自分の味方だと思っていた蛇塚さんの本性――

  今、それが冷たい現実となって、目の前に現れていた。

  床に倒れていた師匠――いや、戦闘員90号が、ふらりと顔を上げた。

  苦しげに目をこすり、蛇塚さんに向かって、どこか恍惚とした口調で言った。

  「申し訳ありません、ジャヒム様……」

  その言葉に俺は一瞬、息を呑む。

  (ジャヒム――…師匠の記憶の断片にあった名前……!)

  ジャヒム、と呼ばれた蛇塚さん……は冷たい視線を師匠に落とす。

  そうして無造作に片手にもっていた腕輪を90号に投げつけた。

  それはヒーローの変身デバイスに酷似しているが、どこか禍々しい輝きを放っている。

  師匠はそれを両手で恭しげに受け取り、両膝をついて頭を下げる。

  「お遊戯を終わらせなさい90号」

  ジャヒムの命令に、師匠はうっとりとした表情を浮かべ、断固とした声で答える。

  「……仰せのままに。」

  師匠はゆっくりと立ち上がると、目の前で腕輪をはめ、叫んだ。

  「――チェンジ!ナーガリアン!」

  紫と緑の光に包まれていく師匠の体。

  その巨躯が熱を帯び、表面が波打つように変化していくのが目の前で分かる。毛皮も、爪も、丸みを帯びた熊の耳も、みるみるうちに消えていく。

  そして一瞬後、光がはじけると――

  そこには、これまでの熊らしさは一切なくなった「ナーガリアン戦闘員」の姿が現れる。

  全身を覆うのは漆黒と紫、緑の滑らかな装甲。

  動物じみた毛皮や獣の顔はなく、どこか無機的で冷徹な仮面。その顔には獣の名残も表情もなく、感情を読み取れないスリット状の目がぎらぎらと妖しく輝いている。

  手足は重厚なガントレットとブーツで補強され、関節部には蛇の鱗を思わせる紋様が走る。正面の胸部装甲にはナーガリアンの紋章が刻印され、不気味に光っている。

  だが、その体型だけは、かつての熊獣人だった頃の太くて巨大な体格をそのまま引き継いでいる。肩幅は常人の倍、腕も胴も分厚く、圧倒的な質量をそのままにして、異様な戦闘員スーツに押しこめられているのだ。

  熊だった面影は消えうせ、ただその巨躯、塊のような力強さだけが、似ても似つかないほど異様なナーガリアン戦闘員になっていた。

  その圧迫感と威容に、俺は思わず息を呑んで後ずさった。

  もはや、目の前に立っているのは、かつて俺が憧れ、心から敬愛した“師匠”とは完全に別の存在だった。

  紫と緑の異様な光に包まれた90号――もう師匠の面影がないその巨体――を見た瞬間、俺は反射的にドアへ駆け出した。

  けれど逃げ切れなかった。90号のしっぽが信じられない速さで伸びてきて、俺の足首に絡みつく。

  次の瞬間、体ごと壁に押し付けられ、分厚い腕としっぽでがっちり拘束される。

  「くっ……!し、…しょう……。」

  身動きできずに苦しみながら、俺はナーガリアン戦闘員になってしまった師匠に呼びかける。

  もしかして。

  ひょっとして。

  師匠なら。

  そんな淡い希望を込めて。

  「無駄ですよ、犬塚さん。彼は既にナーガリアン戦闘員として完成しています。彼が元の克己さんに戻ることはありません。」

  その淡い希望を蛇塚さんはすぐさま打ち砕く。

  「そして彼も元に戻るなんてことは望んでいないはずです。そうでしょう、90号。」

  蛇塚さんはいつもの皮肉な笑みを浮かべながら続ける。

  「そうだ、せっかくですから90号。あなたがどんな風にナーガリアンとして目覚めたか、彼に教えてあげてはいかがですか?」

  「このままでは彼も不安でしょうし」

  師匠がどんな風に、変えられた……?

  それは師匠が話していた捕まった後の拷問のような話だろう。

  あの時の師匠の顔を思い出す。

  記憶を取り戻す前の師匠は、間違いなく拷問を受けた話をする際に、辛い表情をしていた。当然だ。今度はあの凄惨な拷問より酷い話を聞く可能性だってある。

  そんなの……そんなの……

  「聞き……たく、あり、ません……」

  師匠の尻尾に締め付けられ、苦しみながら拒否する。

  「まぁそう言わずに。90号、話してあげなさい。」

  師匠は頷く。

  仮面で表情はまったく読めない。だが、尻尾の締めつけや、声や呼吸のわずかな揺らぎで、妙な高揚やうっとりした空気だけが伝わってきた。

  「……輝」

  師匠が、低く、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

  普段よりも、どこか滑らかで、迷いのない語り口。その雰囲気だけで、俺の背筋に冷たいものが走る。

  「俺は……蛇獣人様に『変えて』いただいた。――いや、正確には、全部、壊してもらった。心も、体も、余計なものは全部。」

  尻尾がいっそう強く俺の体を締める。

  師匠自身の高ぶりに連動しているようで、締めつけが増すたび、師匠の息遣いもまた甘く、長くなる。

  「……幸せだった。気持ちよかった。

  苦しいとか、怖いとかは、なかった。

  ただ、気持ちよくて――自分が何もかも蛇獣人様のものにされていくのが、嬉しかった。」

  師匠は普段、こんなに多くを語る人じゃなかった。

  だが今、まるで夢の中のようななめらかな調子で、うっとりとした響きを隠そうともしない。

  「俺の体は、改造されて……このスーツと一緒に、

  体臭も……“贈られた”。

  雄の獣人を支配するための……香りだ。

  相手の鼻を満たして、思考も、心も、全部奪う。

  たまらんのだ……俺の臭いで、相手が屈服していくのが――」

  師匠の尻尾が、明らかにますます昂ぶったように俺の腰をぎりぎりと締め付ける。

  戦闘員スーツの隙間からわずかに漏れた体臭が、異様なほど甘く濃く、空気を満たしていった。

  師匠自身も恍惚で満たされたのか、体が小刻みにガクガクと痙攣しているのがわかった。

  その動きが伝わるたびに、俺は胸の奥に言いようのない嫌悪と恐怖が込み上げてくる。

  (……これが、師匠? うそだ……こんなの……)

  「輝……さっきまでのお前……。あれは、最高だった。

  俺の臭いで、夢中になって、理性も、誇りも、全部捨てていった――

  それが……気持ちよくて、たまらなかった。」

  俺は激しく首を振った。

  師匠の言葉。ナーガリアンのスーツ。その尻尾。

  今や、どこにも、かつてのあの人の面影はなかった。

  その不気味さに、俺は心の底から吐き気すら感じていた。

  俺は蛇塚さんに顔を向ける。

  そうだ、この人もたぶん、師匠のようにされたんだ。

  「蛇塚さんも……もしかして……洗脳、され……たんですか?」

  90号が「ジャヒム様だ!」と怒鳴るように拘束を強めるが、蛇塚さんはそれを手で制した。

  「やりすぎですよ、90号。それに、彼が壊れては困るのはあなたでしょう。」

  蛇塚さんは俺に向き直り、冷たい目で言う。

  「私は洗脳などされていませんよ。」

  言っている意味がわからなかった。

  「じゃあ……どうして……」

  苦しさに声がかすれる。

  蛇塚さんは、少しだけ口角を上げて言った。

  「前にも言いましたよね? ナーガリアンの思想は、私にとって都合がいい思想だと。」

  絶望が胸に広がる。

  呼吸が浅くなって、力なく問いかける。

  「全部……全部嘘だったんですか……? 今までのことも、助けてくれたのも……」

  拘束されたまま、俺は、目の前の90号と蛇塚さんの間で、自分のすべてが崩れていくような感覚に襲われていた。

  俺は壁に押し付けられたまま、必死に蛇塚さんを睨みつける。

  「じゃあ……師匠が倒れたあの夜のことも、全部……! 俺、蛇塚さんのこと、少しわかったような気がしてたんですよ……信じてたんですよ……」

  声が震える。

  痛みと裏切りの気持ちが、胸の奥でぐしゃぐしゃになって暴れている。

  蛇塚さんは薄い皮肉の笑みを浮かべながら、静かに応じる。

  「えぇ、これまでの私の行動、発言はほとんど嘘です。」

  淡々としたその言い方に、ますます絶望が強くなる。

  だが次の瞬間、蛇塚さんの表情がふっと揺らいだ。

  皮肉な微笑みが消え、ほんの一瞬だけ、なぜか悲しそうな影がその顔を横切る。

  「……あの夜のことは……」

  そこまで言いかけて、蛇塚さんは視線を外し、言葉を飲み込んでしまう。

  この人にも、何か――

  俺は言いようのない切なさとやるせなさに包まれ、蛇塚さんの一瞬の表情に、胸が締めつけられた。

  蛇塚さんは一瞬見せた哀しげな影をすぐに振り払い、またあの冷たい表情を張りつける。

  「……まぁ、そんなことはいいでしょう。」

  露骨に興味を失った声でそう言い放つと、90号に視線を向ける。

  「さっさとあなたの役割を果たしなさい。これは、あなた自身が望んだことでしょう?」

  90号は恭しくうなずくと、躊躇なく太いしっぽを伸ばし、俺の体をぐいっと引き寄せた。

  「な、何を――」

  訳も分からず、抵抗しようと身をよじるが、しっぽの力は圧倒的だ。

  戸惑う俺を見て、蛇塚さんが淡々と説明する。

  「90号を洗脳した際に、あなたへの執着がしつこく残ってしまったようでして。どうしても“あなたを戦闘員にする”と譲らないんですよ。おかげで私まで、こういう茶番に付き合わされているわけです。」

  わざとらしく肩をすくめてみせる。

  「師弟愛ですかねぇ……泣かせてくれますね。」

  90号は俺の真正面に立つと、鋭い目で命じた。

  「ナーガリアン戦闘員になれ、輝。」

  その声と同時に、あの恐ろしい体臭が、覆いかぶさるように鼻腔へ流れ込んでくる。変わらぬ、あの強烈な臭い。

  「やめろ……やめてくれ……!」

  体が強張り、焦りが全身に広がる。けれど、嗅覚を満たすその臭いに、心の底でまた妙な熱が目覚めていく。

  俺は、戦おうとする意志と、再び奪われそうになる自分の間で、必死に揺れ続けていた。

  ◆

  目覚めた瞬間、全身にまとわりつく柴犬獣人の肉体に、どうしようもない嫌悪感が湧き上がる。

  頼りなく柔らかい手足、丸い耳、尻尾――すべてが情けなく、みじめで、存在ごと消えてしまいたくなるほど。

  (どうして俺が、こんな弱くて、愚かな存在なんだ……?これは俺じゃない。俺は、こんな見苦しいものじゃない……!)

  何度も手足を強く握ってみても、肉球の感触がたまらなく気持ち悪い。

  目をそらしたくなる自分の体。そのみすぼらしさが恥そのものだった。

  ――でも、俺の隣に立つ90号――の荘厳な戦闘員としての姿。

  黒と紫、緑の装甲。威容。

  太く堂々とした体型に宿る底知れぬ強さ、美しさ。

  (これが……“本物”だ。これこそが、理想だ――!)

  俺の胸奥には、蛇獣人様への圧倒的な憧憬と敬愛が膨れ上がっていく。

  強く、賢く、完璧な姿。

  守られるべき存在ではなく、絶対の秩序と力を持った蛇獣人様――

  その下でなら、どんなに小さく無力な自分も「価値」を持てる気がした。

  (蛇獣人様こそ、世界を導く高貴な存在……俺は、こんなみじめな生まれじゃなく、あの方々の力の下で生まれ変わりたい。あの方々に認められたい……!)

  もう、今の自分には一片の誇りもない。

  ただ、蛇獣人様の威光に膝をつき、同じ姿になれるならば――何もかも喜んで差し出せる。

  90号が、無言でナーガリアンの変身デバイスを差し出す。

  (このチャンスを逃したくない。蛇獣人様のもとで生まれ変わることこそ、俺の救い――)

  俺は何のためらいもなく、ヒーローの変身デバイスを外し、床に投げ捨てた。

  誇らしさと歓びと敬愛をこめて叫ぶ。

  90号から渡されたナーガリアン戦闘員の変身デバイスを腕にはめた瞬間、

  全身の細胞が震えるほどの歓喜がこみ上げてくる。

  (これで……俺も、蛇獣人様に近づける……!)

  ヒーローの変身デバイスを捨てる手にも一抹の迷いはなく、むしろ気持ちよさすらあった。

  あの惨めな柴犬獣人の肉体から、ついに解放される。

  その事実が、たまらなく嬉しい。

  「――チェンジ!ナーガリアン!」

  叫びと同時に、紫と緑の光が眩く全身を包み込む。

  熱い渦が体を貫き、肉体の形が変わっていく。

  細く頼りなかった手足と首、情けない耳と尻尾が消え失せ、

  かわりに重厚な装甲と滑らかで力強いシルエットがまとわりついていく。

  そのとき、視界がひらく。

  自分の身体が内側から力で満たされていく。あの威厳ある黒と紫、緑のスーツ――

  それは、心の底から憧れた“蛇獣人様”の理想の姿を、この身に降ろしてくれる感覚だった。

  生暖かい生身の皮膚も、犬っぽい毛皮も、

  みっともない「個」の証も、すべて剥ぎ取られていく。

  かわりに、冷たくなめらかな装甲と同化意識、

  蛇獣人様に“従属”することそのものが、自分の存在理由となっていく。

  (これだ……これだよ……!)

  混じり気のない、絶対的な幸福感。

  自分が強く、美しく、秩序に包まれる感覚。

  なぜだか涙すら浮かぶ――

  俺は、ようやくこの場所に、「本当の自分」がいると心から思えた。

  (蛇獣人様……この姿にしてくれてありがとう……)

  思考も感情も、すべて蛇獣人様への熱望と崇拝に染まりきったまま、

  俺は誇り高きナーガリアン戦闘員として新たに誕生した。

  ナーガリアン戦闘員として変身した新たな自分――鏡がなくても、両手を見れば分かる。

  指先まで漆黒と紫の装甲に覆われ、力がこの肉体の中心にみなぎっている。

  (これが……俺……。俺はようやく、蛇獣人様にふさわしくなれた……!)

  目の前の90号に心からの感謝があふれる。

  「ありがとう90号。俺を愚かな柴犬獣人から解放してくれて……」

  言葉を投げかけると、90号は返事の代わりに、太くしなやかな自分のしっぽを伸ばし、俺のしっぽに絡めてくる。

  (これは……!)

  スーツから知識が流れ込んでくる。

  それは、蛇獣人様がするような求愛行動――

  90号のしっぽが俺のしっぽに巻きつき、ぐいと体に引き寄せる。

  嬉しさと、得も言われぬ欲望が同時にこみ上げてきて、俺もすぐに応える。

  自分のしっぽを90号のしっぽに絡ませ、互いの体を擦り合わせるようにしっぽを動かし合う。

  しっぽが絡み合った瞬間、全身に鋭い稲妻が走ったような快感が駆け抜けた。

  しっぽの根元から脊髄を駆け上がるような刺激――

  それはかつてどんな肉体でも、どんな交わりでも知り得なかった種類の快楽だった。

  装甲の内側から熱が膨れ上がり、呼吸が浅く速くなる。

  しっぽ同士が擦れ、先端を巻きつかせ、根元同士をぐっと寄せあうたび、痺れるような刺激がさらに増していく。

  腰から背筋がびく、と跳ねる。指先も力が入り、無意識に90号の装甲を強く掴みしめる。

  (すごい……とろけ……る……しっぽだけで、あっ……溶け……っ……そうだ……♥)

  しっぽをひねり、絡ませ、先端同士を強く擦りつける。

  そのたびに、奥から甘い痺れが重なって、視界が白く霞む。

  互いの胴体を力強く抱きしめ合い、装甲越しに身体をこすりつける。

  密着した熱、振動、装甲内部にまで響く快感――。

  「っ……90号……♥」

  思わず声が漏れる。

  90号も低く唸るような声をあげ、さらに強くしっぽを絡め、押し付けてくる。

  腰が、膝が、胸が、耐えきれないほど熱くなり、恍惚とした息が漏れる。

  快感が頂点に達し、全身が跳ね、しっぽの根元がびくん、と強く痙攣する。

  終わりなどないように、俺たちはしっぽを絡め、装甲をすり合わせ、獣じみた本能で貪るように互いを求め合った。

  しっぽがしっぽを搦めとり、心も体も完全にナーガリアンとしての悦びに飲み込まれていく。

  世界にはもう、ナーガリアンとしての快楽と忠誠だけが残っていた。

  ◆

  激しい快感の余韻に身体を包まれながら、俺と90号はジャヒム様が待つ監視室へと向かった。

  扉を開けると、ジャヒム様は監視室の椅子に腰かけ、優雅にくつろいでいた。

  視線をこちらに向け、小さく皮肉な笑みを浮かべる。

  「おや、終わりましたか?」

  その言葉ひとつで、胸の奥に幸福感が広がる。

  (美しい……なんて高貴な御姿……!)

  スーツが与えてくれた知識が脳裏で自然に反芻される。

  ――ジャヒム様はナーガリアンの最高幹部のおひとり。その存在を間近に感じ、同じ空間の空気を吸うことすら僥倖、身の程をわきまえなければならない……。

  90号とともに、躊躇なく床に両膝をつき、頭を垂れる。

  俺は端正な動きで名乗り出た。

  「犬塚輝、改めナーガリアン戦闘員91号。

  生涯をナーガリアンのために捧げます。どうかお仕えすることをお許しください……!」

  全身に歓喜と忠誠が満ちる。

  ジャヒム様はなぜか少しだけ寂しそうな目をして、興味深げに俺を見つめてから、

  「そうですか……やはり君でも、だめでしたか……」

  と、悲しげに呟いた。

  その言葉の意味がわからず、91号――俺――は戸惑い、恐る恐る顔を上げる。

  (だめ……?なぜ……ジャヒム様は、なぜそんな顔を……?)

  高貴なジャヒム様の前で、ただ困惑したまま、俺は次の言葉を待ち続けた。

  ジャヒム様は静かに目を伏せ、

  「いえ、なんでもありません」とだけ言って、すぐにいつもの冷ややかな表情に戻った。

  「――では、ヒーロー司令部の制圧に向かいましょう。まずは、狸谷司令に『協力』していただきましょうか。」

  そう告げると、迷いなく廊下を歩き出す。

  その言葉の意味を理解した瞬間、狸谷司令の顔が脳裏に浮かぶ。

  (そうだ……狸谷司令にも、ナーガリアンの素晴らしさを理解してもらわなければならない……!)

  横目で隣の90号を見る。

  かつては温かだった表情も、今はまったくの無機質――何の感情も残っていない。

  (これこそが、正解なんだ。感情も、個も、何もいらない。ただ、ナーガリアンとジャヒム様への忠誠だけ……)

  安心するように、自分のしっぽを90号のしっぽに絡める。

  90号は寸分たがわず応え、しっぽをからめ返してくれる。

  (これでいい。俺たちは、蛇獣人様の理想の戦士――)

  三人の足音が静かに、確信に満ちて響き渡る。

  歩きながら、心の奥にたぎる熱が止まらない。

  (狸谷司令が……あの聡明で、誇り高かった狸谷司令が……ナーガリアン戦闘員の姿に変貌する……!)

  想像しただけで、ぞくぞくする興奮が沸き上がる。

  あの厳格な指揮官のスーツに、漆黒と紫と緑の装甲が重なっていく――

  無駄な感情を捨て、蛇獣人様の理想のためだけに生きる姿。

  (それこそが、司令、あなたの本当の姿です……!)

  舌の奥まで甘い熱で満たされる。

  心の中でそっと呟く。

  ――司令、俺が教えてあげます。

  あなたが本当に帰るべき場所。

  ナーガリアンの戦闘員になること、それがあなたの幸せだと、俺が教えてあげます。

  期待と喜びに、90号と絡めあったしっぽが自然と左右に揺れていた。