【キツネ対寄生虫】仙台巨獣大戦

  レッドとシルヴィーが、いつ出会ったのかは誰も知らない。

  〈宮城キツネパーク〉のフェンス越しに寄り添う二匹が写真に収められたのは半年ほど前のことだ。

  パークは宮城県白石市にある、百匹近いキツネが放し飼いされている珍しい施設だ。中でも燃えるような赤毛の雄ギツネ、レッドはパークの人気者だった。

  ある日レッドの姿が見当たらず、スタッフが探したところ二匹を偶然撮影したのだ。

  相手のシルヴィーは野生の、雌のギンギツネで、輝くような銀の毛並みからその愛称がつけられた。

  フェンスで隔てられた美しい二匹のキツネは、すぐにネットの話題になった。

  誰もが二匹をカメラに収めようと試みたが、警戒心の強いシルヴィーは、カメラを向けた途端に逃げ出してしまうのだ。

  いずれにせよ、実らない恋だった。野生のシルヴィーには寄生虫がいる可能性があり、衛生上パークには絶対に入れることができないのだった。

  「まるでロミオとジュリエットね」

  ボスは二匹の写真を見つめた。そしてコンビニに買物を頼むかのような気軽さで私に言った。

  「動画が欲しいわ。青葉さん、行ってくれる?」

  この妙齢の、高級スーツを着た、イタリアンチェアーに身を沈めている、動物撮影プロダクション〈株式会社アニマリズム〉の女ボスは、私が断れないのを知っているのだ。

  私はしがないフリーの映像カメラマンで、仕事を断ろうものなら次から仕事が回ってこないことを重々承知していた。それに駆け出しのカメラマンとして、話題になる画を撮りたい野心もある。

  私はポンコツの4WDに荷物を積んで、その日のうちに東京から宮城県に向かった。安ホテルに一泊し、翌日早朝から〈宮城キツネパーク〉に取材を申しこんだ。

  「青葉くるみさん、ですね」

  対応してくれたスタッフは、黄色いジャンパーを着た、ニ十歳そこそこの女性だった。

  「江戸川浩子です。よろしくお願いしますね」

  浩子さんに案内されて、レッドとシルヴィーが撮影されたという場所に向かう。

  パークは森の一画をフェンスで囲っただけの、ほぼ自然そのままの状態だった。そこで黄色や銀色のキツネたちが駆けまわったり、じゃれあったり、丸くなって眠っていたりと思い思いに過ごしている。

  キツネたちは珍しそうに私を見上げたが、すぐに興味を失ってスヤスヤと眠り始める。ここの主役はキツネたちで、人間はその間を歩かせてもらっているに過ぎない。

  「撮影は自由ですが、商業目的で使用する場合はパークの認可を取ってください。それからカメラは出しっぱなしにせず、撮影が終わったらすぐにしまってください。でないとキツネに奪われます」

  「じゃあ、パークにカメラをセットするのは……」

  「論外ですね」

  どうやらパーク内でシルヴィーを待つのは無理なようだ。

  案内された場所はパークの裏側だった。フェンスの向こう側には数歩先も見通せない森が広がっている。シルヴィーはその奥に住んでいるのだ。

  私はポケットからデジカメを出して、動画モードで撮影を始めた。

  「キャウキャウキャウ!」

  「クウーンクウーン!」

  たちまち数匹のキツネが群がってきた。私の太ももをよじ登り、カメラに噛みつこうとする。

  撮影はあきらめるしかなかった。私はカメラをポケットにしまい、浩子さんと一緒に引き返した。

  「レッドとシルヴィーが目撃されたのは、何時ぐらいですか?」私は聞いた。

  「確か、パークが閉まったあと……夕方六時ごろですかね」

  「レッドに合うことは?」

  「呼んだりしても来ないので……エサやり場には来るかもしれないですね」

  エサやり場は来場者が直接、キツネにエサを与える場所だった。売店で専用のエサを購入し、フェンスで囲われた場所に入ると同時に、キツネたちがわれ先にと駆け寄ってくる。

  なけなしのお金で買った数袋のエサをバラ撒いたとき、遠くにひときわ目立つ、真っ赤な毛並みのキツネの姿が見えた。

  「あれが、レッドです」浩子さんが指さした。

  レッドは写真よりもハンサムに見えた。キリッとした目鼻立ちにスマートな体。レッドは遠巻きにこっちを見ていたが、やがてひとかけらのエサを咥えると、その場から立ち去った。

  「……本当は、レッドを彼女に合わせたくないんです」浩子さんが言う。「パークのキツネは定期的に寄生虫の検査をしていますし、栄養状態にも気を使っています。寿命は八年から十年ほどあります」

  「シルヴィーみたいな野生のキツネは?」

  「三年程度といわれています。病気やケガがありますから……先にいなくなるのは彼女のほうです。そのときレッドがどれだけ悲しむか……」

  「……」

  早くも気持ちが揺らぎ始めた。こんな話を聞かされて、レッドとシルヴィーを撮影しろというのか?

  それでもこれが私の仕事なのだった。

  浩子さんにお礼を言って、昼過ぎにパークをあとにした。

  車を走らせ、パーク裏手の道に停める。オレンジ色のベストにバッテリーを突っこみ、体中に虫よけスプレーを吹きつけて、胸のストラップにハンズフリーで撮影できるアクティブカメラを固定する。ミラーレス一眼を首にかけ、最後にトレイルカメラが入ったバッグを手にして、森に足を踏み入れた。

  藪をかき分けて進むこと十数分、昼間に案内されたフェンスの裏側に出た。トレイルカメラを出し、適当な木の幹にストラップで固定する。間隔を開けて合計三台のカメラを設置した。

  これで二十四時間、動物が通るたびに自動で撮影が開始され、スマホでも確認できる。電池も一ヶ月は交換不要だ。文明の進歩に感謝するほかないが、こんなことで仕事が終わるなら、動物カメラマンという仕事など存在しない。

  私はさらに奥まで進むことにした。シルヴィーがこのあたりに出没するのなら、近くに巣穴があるかもしれない。アクティブカメラをオンにし、よけいな音を立てないよう慎重に歩いていく。

  一時間ほど散策し、そろそろ戻ろうかと思ったそのとき、藪から飛び出してきたものがあった。

  「……!」

  ギンギツネだ。全身は鮮やかな銀の体毛に覆われ、耳と顔、そしてフサフサとした尻尾は黒い。ギンギツネはパークにも多くいるが、これほど銀と黒のコントラストが美しい個体はいない。

  ──間違いない。シルヴィーだ。その口には、三十センチはあろうかというネズミが咥えられている。

  ほんのニ、三秒だっただろう。シルヴィーは私の姿を認めると、あっという間に藪の奥へ消えた。

  胸のアクティブカメラに納まっていることを祈りながら車に戻り、映像を確認した。

  シルヴィーの姿はしっかり納められていた。幸先のよさに感謝すると同時に、しくじったという思いがよぎる。これでシルヴィーに警戒されてしまった。しばらくはパークに寄りつかないかもしれない。

  考えても始まらない。私はホテルに戻り、ゲン担ぎにキツネうどんで夕食を済ませる。あとはビールを飲みながら野球中継でも見ることにした。わが愛する〈東北イーグレッツ〉は目下二連敗中だった。

  シルヴィ―の警戒を解くため翌日から森には入らず、することもないので仙台まで出かけた。

  場所は〈イーグレッツ〉の本拠地、〈ボールパーク仙台〉だ。

  〈ボールパーク仙台〉は遊園地を併設した複合型球場で、大型の観覧車がひときわ目を引く。観覧車から眺める球場は絶景だったが、肝心の試合は三連敗を喫し、私の心は暗くなった。

  何の進展もないまま無意味な数日が過ぎ、〈イーグレッツ〉がまさかの六連敗を数えたころ、ようやく動きがあった。しかしそれは、私が思っていたようなものではなかった。

  ある朝、いつものように七時ごろ目を覚まして、スマホで映像を確認すると、パークのフェンスにブルーシートがかけられていた。昨夜まではこんなものは無かったはずだ。

  ──何があった?

  私はすぐに深夜の映像を確認した。

  問題の映像は深夜二時を過ぎたあたりのものだった。そこには人間の子供ぐらいの大きさの動物が、フェンスに噛みつくような動作をしているのが映っていた。

  シルヴィーでないことは確かだ。大きさからして考えられるのはクマか──と思ったとき、その動物は長い尻尾を跳ね上げた。毛が無く、体の半分ほども長さがある。

  こんな尻尾のクマはいない。いるとすれば──と考えたが、そんなバカなと首を振る。

  ありえない。これが私の知っている動物ならば、この大きさはありえない。

  その動物はフェンスにこじ開けた穴から、パークの中に潜りこんでいった。

  次に映像が映ったのは、そいつが穴から出てきたときだった。今度は顔がはっきりと映っていた。

  カメラに反応して光る目。小さな耳。そして長く突き出した前歯。

  「ネズミ……?」

  私はしばし呆然とした。こんな巨大なネズミがいるものか!

  どうにか気を取り直して、急いで着替えを済ませると、車でパークへ向かった。

  パークの正門には、手書きで『臨時休園』のサインがかけられていた。

  渋るスタッフを強引に拝み倒して、浩子さんを呼んでもらう。黄色いジャンパーを着た彼女は、困惑したように言った。

  「青葉さん……? 申し訳ありませんが、今日は、ちょっと……」

  「どうしても、見てもらいたい映像があるんです!」

  事務室に案内してもらい、数名のスタッフと一緒に例の映像を見てもらう。スタッフの一人は、泣きはらしたように腫れぼったい目をしていた。

  「……」

  映像を見終えたスタッフたちも、私と同様にしばらく言葉を失っていたが、やがて浩子さんが噛みしめるように一言もらした。

  「こいつの……仕業なんですね」

  「何か、あったんですか」

  「……こっちへ」

  浩子さんのあとについて、パークの奥へと進んでいく。心なしかその足取りは重かった。

  やがて数名のスタッフが集まる場所へとたどり着いた。

  すすり泣く声。鼻をすする音。うつむいたスタッフの肩に手を回すもの──異様な雰囲気だ。

  その足元に転がっているものを見て、私は心臓を握りつぶされた気分になった。

  「──!」

  バラバラに引き裂かれ、骨が露出した二匹のキツネの死骸。

  食い荒らされた肉片と内蔵があちこちに飛び散っている。死臭が漂い、胸がむかついた。

  こんなときに映像を撮れるのがプロのカメラマンなのだろうが、私はとてもそんな気になれなかった。

  「……他に被害は?」それだけ聞くのがやっとだった。

  「今のところは……ただ、キツネたちがみんな隠れてしまって、正確にはつかめていません」

  「レッドは、無事ですか?」

  「それも、まだ……」浩子さんはしばらく考えていたが、急に思い出したように言った。「映像の続きは見られますか? あの穴から逃げた子がいるかもしれません!」

  どうして私はすぐそれに気がつかなかったのか。すぐにスマホの映像を確認する。

  あのお化けネズミが出て行ったあと──午前四時ごろの映像に、フェンスの穴から飛び出していくキツネの姿が映っていた。

  「──レッド!」

  叫びたい気持ちを抑えるように、浩子さんは口を覆った。しかしすぐに、気を取り直して言った。

  「とにかく、警察を呼びましょう」

  「──これは、事件にはなりませんねえ」

  やってきた警官は、映像を見るなり言った。

  「ええっ?」浩子さんは呆気にとられた。「金網を食い破るようなネズミが、森の中にいるんですよ!」

  「しかしねえ。人間のしたことではないし、警察の出番ではないですよ……まあ、害獣駆除なら市役所に相談するといいと思いますよ」

  「そんな……」

  「申し訳ない、お力になれず。署には報告しときますんで」

  警官は引き上げていった。あとにはただ、途方に暮れたスタッフたちが残された。

  その間、私は映像をボスに送り、電話で指示を仰ぐことにした。

  『──そうね。とりあえずはこのネズミを追いかけてくれる?』

  言うと思った。言われなくてもこのまま東京に帰るつもりはない。

  『それともちろん、レッドとシルヴィーの行方も追ってね』

  鬼かよ。

  「それじゃあ、誰か一人増援を──」

  言いかけた途端、電話が切られた。もう少しでスマホを床に叩きつけるところだった。

  やがてスタッフたちも動き出した。市役所に向かうもの、いつもどおりキツネのエサを準備するもの──しかし、もっともやりきれないのは、殺されたキツネを処理するスタッフだろう。丁寧に死骸を拾い集め、ダンボールに収めている。動物専門の火葬業者に依頼をするそうだ。

  そこに一人、気になる人物がいた。白髪頭で白衣を着た、初老の男性だ。

  「あの……」

  声をかけると男性は振り向いた。見知らぬ私に戸惑ったようだったが、すぐに「ああ!」とうなずくと立ち上がった。

  「君かあ。ネズミの映像を撮ったカメラマンというのは。私のほうから会いにいくつもりだった。まだ映像を見せてもらっていないのでね」

  「あなたは?」

  「志村だ。ここの委託で獣医をしているが、話を聞いて飛んできた。早速だが、例の映像を見せてもらえるかな」

  「はい、構いませんが……それは?」

  先生が手にしているポリ袋には、何か黒い塊が入っている。先生は興奮したように言った。

  「ネズミの糞だ。こんなデカイやつは見たことがない!」

  「……」

  例の映像を見終えた先生は、しばらく何かを考えていたようだったが、やがて口を開いた。

  「ノネズミじゃない。ドブネズミだ。森より水源の近くにいるはずだが、いったいどこから……そうか、すぐ近くにダムがあったな」

  「このままでは今夜あたり、またネズミが襲ってくるかもしれません」浩子さんが不安そうに言う。

  「それについては、罠を仕掛けようと思っている。夜までには用意しておこう」

  志村先生はその日の夕方に、トラックで罠を運んできた。シカでも捕れそうな大型の箱罠だ。

  動物学者でもある先生は捕獲用に狩猟免許を持っている。もっともドブネズミなら捕獲に免許は不要だが……。

  フェンスに空いた穴の内側に罠を仕掛け、中に鶏肉を置く。他のスタッフが帰ったあと、私と浩子さん、そして先生の三人で交代しながら、スマホでトレイルカメラの映像を監視した。

  動きがあったのは深夜二時ごろだった。ソファーで仮眠していた私は、浩子さんに起こされた。

  「青葉さん、来ました!」

  私と先生も一緒になって、スマホの映像に目を凝らす。

  フェンスの穴のあたりに動く影があった。罠に首を突っこんで、鶏肉の匂いを嗅いでいるようだ。奥まで進んで肉を咥えると同時に、扉が閉まる仕組みだ。

  私たちは固唾を飲んで見守った──が、ネズミはそれ以上前進することはなく、首を引っこめると、フェンス沿いに移動を始めた。

  「気づかれた?」

  「まずいな。他から侵入するかもしれん」

  私は用意しておいた野球のバットに手を伸ばして立ち上がった。

  「追い払いましょう。浩子さん、パークの電気を!」

  私と先生が事務室を出ると同時に、パークの照明が灯った。

  「キャウン! キャウン!」

  異変を感じ取ったキツネたちが、吠えながらいっせいに身を隠す。

  「どこだ……どこに行った?」

  私は走り回ってネズミの姿を探したが、フェンス付近は照明の当たらない場所も多い。片手にバットを握ったまま、もう一方で暗闇に向けてフラッシュライトのスイッチを入れた。

  「ギギーッ!」

  突如として、フェンスの向こうにいる巨大なネズミと目が合った。

  「うわーッ!」

  間近に見ると本気で気味が悪い。思わず叫びながらバットを振る。フェンスが音を立てて揺れた。

  ネズミは一歩退くと、再びフェンス沿いに逃走する。私はまたも走り回るハメになった。

  モグラ叩きのような追跡を三度ほど繰り返したあと、ようやくネズミは森へ消えていった。

  「こんなことを毎晩繰り返していたら、身がもたないな……」

  私を追いかけてきた先生が、息を切らせて言った。先生の歳を考えれば無理もない。

  「やはり市役所に相談して、猟友会に頼んでみては……」

  合流した浩子さんも言う。その意見に反対する理由はなかった。

  事務室で夜明けまでひと眠りしたあと、浩子さんは市役所に、志村先生はご自身の病院に戻った。

  私もホテルに戻り、午後になってからパークで落ち合ったとき、浩子さんはしょんぼりした顔だった。

  「ネズミの駆除に、猟友会は紹介できないそうです……」

  「そんな! あの映像も見せたんでしょう?」

  「『判断できない』って言われました……」

  「まあ、しかたない。猟友会も相手がネズミでは動かないだろう」

  志村先生は予想していたのか、さほど驚いてはいない。私は先生が手にしている、大型のボストンバッグが気になった。

  「その荷物は?」

  「くくり罠だよ。今度は森に入って、ネズミが通るルートに仕掛けるつもりだ」

  「ご一緒します」私は言った。

  「私も行きます!」浩子さんも口をそろえる。

  「それじゃあ、これを渡しておこう」

  先生は小型の消火器のようなものを机に置いた。クマの顔が印刷されている。

  「クマよけスプレー……?」

  「ネズミにも効果はあるだろう。もちろんあくまで最終手段だ。なるべく接触は避けたい」

  私たち三人は車でパークの裏手に行き、森に入った。私にはわからなかったが、先生にはネズミが通った獣道がわかるようだ。一キロほど進んだところで、先生が足を止めてかがみこんだ。

  「あったぞ。奴の糞だ」

  以前パークの中でも見かけた、黒い塊が確かにある。

  先生はその場所にシャベルで穴を掘り、くくり罠を埋めると、近くの木にワイヤーを固定した。ネズミが罠を踏めば、足を挟まれてワイヤーで逆さ吊りになる仕組みだ。一カ所だけでは効果が薄いので、もう何カ所か仕掛ける必要がある。

  さらに獣道をたどって、しばらく進んだころ──。

  「……うっ?」

  私たちはそろって鼻を覆った。異様な悪臭がする。わずか数メートル先の、不自然に開けた場所からその臭いは漂ってきていた。

  そろそろと前に進むと、蝿の群れがブワッといっせいに飛び立った。

  ──そこは墓場だった。

  腐臭を放つ肉に蛆がたかり、白骨化した動物の骨が散らばっている。灌木が齧り削られ、周囲をバリケードのように囲んでいた。

  「奴の巣か……」

  先生は顔をしかめながらも、近辺に罠を仕掛けようと手頃な木を探している。

  突然、右手の藪がガサガサと激しく揺れた。二匹の動物が争うような声が聞こえる。

  「キャウッ!」

  「ギギッ!」

  声はだんだん近づいてきていた。私はクマよけスプレーに手をかけて先生に聞いた。

  「何か来ます……どうします?」

  「ひとまず下がろう」

  私たちが引き返そうとしたときに、二匹が目の前に飛び出してきた。

  そのうちの一匹が誰なのか、真っ先に気がついたのは浩子さんだった。

  「──レッド!」

  何てことだ。パークを逃げ出したレッドが、あちこち傷だらけになって必死に争っている。

  相手はまぎれもなく、あのお化けネズミだ。前歯から血を滴らせ、レッドに噛みつこうとしていた。

  「このッ!」

  考えるより先に私は動いた。分厚いブーツの爪先でネズミの鼻っ面を蹴る。

  「ギィーッ!」

  ネズミはすぐさま私に飛びかかってきた。噛みつかれる寸前でどうにか相手を蹴り飛ばす。腰からスプレーを抜いたが、あわてて取り落してしまった。

  「青葉さん、ふせて!」

  浩子さんの声で地面にふせた。同時に浩子さんはスプレーを拾うと、安全装置を外してレバーを握る。

  勢いよく噴射された煙がネズミの顔面に直撃した。

  「ギャアアアッ!」

  トウガラシの数十倍ものカプサイシンを濃縮したスプレーで、直接当たっていない私の鼻にも強い刺激が襲ってくる。ネズミもさすがに耐えられなかったらしく、驚くほどの速さで逃げ去っていった。

  「レッドは? 無事ですか!」浩子さんが駆け寄ってくる。

  先生は傷ついたレッドを診ていた。噛まれた傷は深く、先生の手が真っ赤な血に染まる。

  「まだ息はある。すぐに病院で手当をしないと……」

  レッドを抱きかかえた先生を先頭に、私たちはもと来た道を引き返した。

  数メートルも戻らないうちに、左右から何かが近づいてくる気配がした。

  「あいつ、もう戻ってきたのか!」

  「いや……」先生が顔を曇らせる。「あいつじゃない。他にも何匹かいる!」

  「ええっ?」

  先生の言葉どおり、二匹のお化けネズミが姿をあらわした。一匹でも手に負えないのに!

  浩子さんが前方の一匹にスプレーを噴射すると、そいつは飛び跳ねるようにして逃げていった。

  これでスプレーは使い切ってしまった──あとは逃げるしかない。私たちは全力で駆け出した。

  もう一匹は警戒していたようだったが、私たちに攻撃手段がないと見たのか、猛然と追いかけてきた。

  どれだけ走ったところで、人間の脚でネズミにかなうわけがない。あっという間に背後に迫られる。

  「うわーッ!」私は恥も外聞もなく叫んだ。

  「ギギーッ!」

  次の瞬間、ネズミの体が宙高く跳ね上がった。仕掛けたくくり罠を踏んだのだ。逆さ吊りになったネズミがジタバタと暴れまわっているうちに、私たちはどうにか森を出ることができた。

  「早く車に!」

  先生とレッドを後ろに、浩子さんを助手席に乗せた途端に、森からいくつもの影が飛び出してきた。一、二、三……五匹いる! あのお化けネズミどもが!

  私は車のキーを回した──が、エンジンはくすぶるような音を立てるだけだった。

  「ええいっ! このポンコツが!」

  あわててもう一度キーを回したが、その間に車はネズミに取り囲まれていた。

  「きゃあっ!」

  浩子さんの声に振り向くと、助手席の窓からネズミが私たちを覗いていた。唾液にまみれた前歯がガラスに突き立てられ、ヒビを走らせる。

  そのとき──車が巨大な影に覆われた。

  次の瞬間、ネズミは何かに弾き飛ばされ、数メートル先の地面に転がった。

  「……?」

  私たちは窓の外を見上げた。そして、言葉を失った。

  森から姿を現したのは、ネズミよりはるかに巨大な──十数メートルはある──一頭の獣だった。

  それは私たちにも見覚えがある、黒い顔と美しい銀の毛を持っていた。

  浩子さんが驚きの声を上げた。

  「嘘……シルヴィー?」

  巨大なギンギツネの出現に、ネズミたちは色めき立った。

  シルヴィーは私たちの車をちらりと見ると、まるで追い払うかのように尻尾を振った。

  「逃げろ……って言ってるの?」浩子さんが言う。

  「とにかく病院に行かないと。町に私の病院がある」

  ようやく私のポンコツが動き出した。アクセルを踏み、アスファルトを焦がして急発進する。

  バックミラーには、逃げまどうネズミを次々と踏み潰し、口に咥えるシルヴィーの姿が見えた。

  「先生、あれは一体……」私は我慢できずに聞いたが、先生は首を振った。

  「そのことはあとで話そうと思う。まずはレッドの手術が先だ」

  先生の動物病院は白石駅から少し離れた場所にあった。

  三階建ての大型病院で、町医者のようなものを想像していた私は面食らった──あとで知ったことだが、大学の研究室も兼ねているそうだ。

  レッドは待っていた担架に乗せられ、手術室へと運ばれていった。私たちも一緒に院内に入ろうとしたところ、先生に止められた。

  「君たちはまだ入らないでくれ。森の中を移動してきたんだ。細菌や寄生虫が付着しているかもしれない──体を洗って、服も着替えてからもう一度来てくれ」

  そういう先生も全身泥だらけ、葉っぱだらけだ。これから別室で体を洗ってから手術だという。

  浩子さんを車に乗せ、ひとまず私のホテルに戻った。着ていた服と下着をまとめて洗濯機に放りこみ、シャワーで全身をくまなく洗う。服が乾くのを待ち、浩子さんがシャワーを浴びている間に、車のほうも手早く清掃する。ようやく出発の準備が整ったころには、陽はすっかり落ちていた。

  病院に着いたとき、すでに手術は終わっていた。受付に案内された先生の部屋へと向かう。

  先生は疲れた様子で椅子に深々と腰かけていた。

  「先生……レッドは?」開口一番、浩子さんが聞く。

  「手術のほうは問題なく終わったよ。あとはレッドの体力が持つか……」

  「会わせてもらえませんか?」

  私が言うと、先生は二階の病室に案内してくれた。

  いくつかのケージで犬や猫たちが鳴いたり、走り回ったりしている。レッドは他から隔離されたケージで、全身に包帯を巻かれた姿で横たわっていた。

  「眠っているだけだよ」心配そうな浩子さんに、先生が声をかける。

  「今晩、泊めさせていただけませんか」

  浩子さんの言葉に先生はうなずくと、おもむろに私たちに言った。

  「二人に見てもらいたいものがあるんだ」

  私たちは三階の部屋に通された。

  そこは研究室のようだった。白衣を着た数人が作業に没頭し、ケージでは何匹かのマウスが走り回っていた。ガラスで隔離された部屋では、一匹の動物が作業台に横たわっていた。

  その大きさからウサギか、あるいは猫かと思ったが、近づいた私は目を疑った。

  「……!」

  それは実験用の白いマウスだった。体長数十センチはある。

  「あのお化けネズミの糞から、見たこともない寄生虫が見つかった」先生が言う。「腹の中に多数の卵があった。卵をマウスに投与したところ、わずか一晩でその大きさに成長した。危険なのでやむを得ず処分したが……」

  先生がガラス瓶をテーブルの上に置く。中を見て私も浩子さんも顔をしかめた。

  ──体長四センチほどもある寄生虫の標本だ。

  頭部と肛門部に吸盤があり、目も触角もないところは典型的な吸虫だが、その胴体は──昆虫のような外殻と、短い六本の脚を持っている。一目で生理的な嫌悪を催した。

  「こんな大きな虫が、あのお化けネズミの中にいたんですか?」私は聞いた。

  「それは成虫だが、卵は二、三ミリほどだ。宿主の動物を食べるか、卵を持つ成虫を口にするか……何らかの方法で宿主の体内に入った卵は胃を通り抜け、腸内で孵化し、吸着する。おそらくは宿主から栄養を吸収すると同時に、ある種の成長ホルモンを分泌しているのだと思う──自身の成長にあわせて宿主を大型化させるんだ。ある程度の大きさに成長したところで、糞と一緒に体外に出る」

  「じゃあ、あのネズミや、シルヴィーにも?」

  先生はうなずいた。にわかに信じがたい話だったが、あの巨大なシルヴィーの姿を見たあとでは否定のしようがない。

  私は特ダネをつかんだことにひそかに興奮していたが、同時にあることに気づいて背筋が凍った。

  「……待ってください。ネズミや昆虫を食べる動物は珍しくないでしょう。他にもシルヴィーみたいに巨大化した野生動物が?」

  「可能性はある」

  「そんな……あのネズミだけでも手に負えないのに!」

  浩子さんが不安そうに口を覆うと、先生は続けた。

  「幸い、この寄生虫自体はプラジカンテル──駆虫剤にほとんど抵抗力がない。森に駆虫剤を散布すればこれ以上の拡散は防げる。ただし、すでに寄生された動物は早急に駆除しないといけないが……」

  「それって……シルヴィーを殺すってことですか」

  「……」

  浩子さんの言葉に、先生は力なくうなずいた。

  「何を言ってるんですか! シルヴィーは私たちを助けてくれたんですよ? 先生も見たじゃないですか! それを……」

  「私だって殺したくはない。しかしあの大きさだ。どれだけ食べるかわからない。放置しておいたら森の生態系は崩れてしまう。食物がなくなれば、人里で家畜も襲われるかもしれない……」

  「それですよ、先生!」私は言った。「シルヴィーを殺してはダメです。彼女はあのネズミを餌にしているんです。彼女がいればあのお化けネズミを駆除できますよ!」

  「彼女がそう都合よく、ネズミだけを獲ってくれるかどうか……」

  先生がそこまで言ったとき、にわかに階下が騒がしくなった。

  ──二階の病室で、動物たちが騒ぎ出したのだ。私たちは先生と一緒に、二階へ駆け下りた。

  ケージでは動物たちが窓に向かって吠えたり、唸ったり、怯えたように身を丸めたりしている。

  「いったい何が……」

  「見て!」

  浩子さんが窓の外を指さす。月明かりの下で、巨大な影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

  「──シルヴィー!」

  シルヴィーはもはや動物とは呼べなかった。

  二本脚で立ち、背筋を伸ばし、前脚を振りながら歩く姿は、神話の巨人さながらだ。

  彼女は私たちのいる二階の窓を、金色の瞳で覗きこんだ。次の瞬間、窓ガラスを砕いた巨大な前脚が部屋へと伸びてくる。職員たちは言葉を失い、パニックに陥った動物たちはケージの中を駆け回った。

  ただ一匹──レッドを除いては。

  レッドはおぼつかない体でヨロヨロと立ち上がると、シルヴィーを見つめた。

  そして一声、「キャウッ!」と吠えた。

  ケージに伸びていたシルヴィーの手が止まる。その瞳には動揺の色が浮かんでいた。

  「レッドが心配だったのね……」浩子さんが諭すように言った。「だけどシルヴィー、あなたはここにいちゃダメなの。レッドは心配ないわ。だから森に帰って。ここにいたらレッドも動物たちも怖がる。人に見られたらどんな目に合うかもわからないのよ。だから帰って。頭のいいあなたならわかるでしょ、ね?」

  シルヴィーはレッドを見た。レッドは何も言わなかった。シルヴィーの手がゆっくりとケージから離れていく。彼女は最後に一度振り返ってから、森に向かって駆け出していった。

  冷や汗がどっと流れ出た。私は大きく息をついてから言った。

  「先生……これから、どうするんですか?」

  「ふむ……まずは警察と、可能なら自衛隊にも協力を要請したい。森一帯を封鎖して駆虫剤を散布する。そのうえで巨大化した動物がいれば捕獲して、危険と判断すれば駆除する──もちろん、シルヴィーには手を出させない」

  先生は浩子さんに向かって、軽くうなずいた。

  「寄生虫のことは公表してもいいですか?」

  「明日まで待ってくれ。明日、正式に発表するつもりだ」

  病院に泊まる浩子さんと別れてから、私はホテルに戻ってボスに連絡した。

  すでに夜の十時近かったが、ボスは電話に出た。一連の顛末を報告している間、電話の向こうからは小粋なジャズが流れていた。どこかで飲んでいるのだろう、いい気なもんだ。

  『わかったわ。明日の朝までに、今までの映像を十分程度に編集して送って。正式な発表と同時に公開するわ。字幕用の原稿もお願いね』

  「了解です」原稿もかよ。

  『それと、森が封鎖されたらメディアは入れないでしょうけど……』

  「でしょうね。私も東京に帰ります」

  『何とか潜りこんで』

  「へっ? そんなことを言われても──」

  言いかけた途端、電話が切られた。もう少しでスマホを真っ二つにするところだった。

  翌朝十時──志村先生を含む学者数人から、動物を巨大化させる寄生虫についての会見が行われた。

  寄生虫は”アロ”と命名された。ラテン語で『育む』という意味だそうだ。

  あわせて寄生された動物について、現段階で判明していることも発表された。

  まず、シルヴィーがそうだったように、頭部を支えるため二足歩行に移行する傾向がある。おそらく脳の肥大化にともなうもので、知能についても通常の個体より高い可能性がある。

  そして、骨にも著しい変化が見られた。薬殺したマウスの骨──直径一センチほど──に加重したところ、約一五〇〇キロもの重量に耐えた。これは同じ太さの鉄棒にも匹敵し、巨大化にともなう重量の増加に適応していた。

  「人間にも寄生する可能性は?」記者からの質問が飛んだ。

  「もちろん可能性はある」と志村先生。

  「すると、マンガみたいな巨人が誕生するわけですか」

  「その点については、試すわけにもいかないのでね。いずれにせよプラジカンテル駆虫剤に耐性がないことはハッキリしているから、万一寄生されたとしても早急に排除は可能だよ」

  「家畜に寄生させて、大型化することは? 食糧難も解決しそうですが」と別の記者。

  「十数メートルに成長する牛や豚を飼育することは、現実的ではないだろう。それに一番肝心なことだが──成長にあわせて、膨大な飼料が必要になる」

  先生はそこでひと呼吸置いてから言った。

  「そんな食欲旺盛な、巨大化したネズミが、付近の森に複数確認されている。一刻も早く駆除しなければ、いずれ森の動植物は食いつくされてしまう──そうなると、市街地に出てくることもありうる」

  発表は世界中を駆け巡った。

  同時に私が撮影した動画も公開され、わずか一時間で数万もの再生数を稼いだ。動画が買取契約でなかったら、私はハワイあたりで悠々自適の生活ができるはずだ……。

  会見終了後、即座に周辺は封鎖された。マスコミは締め出され、私が仕掛けていたトレイルカメラも撤去させられた。〈宮城キツネパーク〉は特に警戒が厳重で、周囲を機動隊が取り囲んでいる。

  例外はパーク内部で、私有地であるため撮影の規制はない。私がパークに顔を出すと、同じことを考えていた取材陣が詰めかけていた。

  「こりゃまた、すごい人ですね」

  人ごみをかき分けて、ようやく浩子さんをつかまえた私は言った。

  「大勢いたほうがいいんです。ネズミが警戒して寄りつかなくなるかもしれませんから」

  「おい、始まるぞ」

  記者の1人が上空を指さす。陸上自衛隊の大型輸送ヘリが二機、上空に近づいてきていた。

  発表されたところでは、まず駆虫剤を混ぜた餌を上空から半径数キロの範囲で森に散布する。その後、自衛隊から派遣された捜索隊が森の周囲から捜索するとのことだ。

  どのマスコミも捜索隊に同行しようと詰めかけていたが、自衛官に追い返されていた。私もどうにか潜りこもうとしていると、捜索隊の中に志村先生と浩子さんの姿を見つけた。

  「浩子さん、参加するんですか?」

  「ええ。レッドがいれば、シルヴィーを見つけることができるかもしれないかと、先生が」

  浩子さんは大型のペットキャリーを手にしていた。中には包帯姿のレッドが寝そべっている。

  「重そうですね。持ちますよ」私はここぞとばかりに食いついた。「私も同行します」

  「ダメです」オレンジ色のキャップとベストを着けた、隊員の一人がにべもなく答える。

  この程度で引き下がったらカメラマン失格だ。他に手はないかとあたりを見回すと、隊員の中に見知った顔がいた──これぞ天祐!

  「高島先輩!」

  「ん……何だあ、青葉じゃないか!」

  高島先輩は二年前と変わらず、愛嬌ある笑顔で振り向いた。この笑顔が訓練中は鬼に変わることを私は知っている。

  「青葉さん、知り合いなんですか?」浩子さんが意外そうな目で私を見た。

  「いやあ……専門学校出たのはいいけど、カメラを買う金がなくて。三年ほど自衛隊にお世話になりました。フィールドワークにも慣れたかったし」

  「カメラマンになったとは聞いてたけど、ここで会うとはなあ」

  「先輩こそ、出世したみたいじゃないですか。この班の班長ですか? 私も連れてってくださいよう」

  「そりゃダメだ」

  「そんなあ……」

  「君、彼女も同行させてやってくれないか。私も資料映像が欲しい」

  助け船を出してくれたのは志村先生だ。先輩も渋々うなずいた。

  「先生がそうおっしゃるなら……」

  「やった!」

  私は先生を抱きしめてキスしたい気持ちになったが、絶対に嫌がるだろうからやめておいた。

  捜索隊は高島先輩の他に自衛隊員が二名。そこに先生と浩子さん、私を加えた六名だ。

  隊員の一人は駆虫剤のタンクを背中に背負い、もう一人はボルトアクション式のライフルを肩にかけている。先輩は腰の拳銃だけだ。私は驚いて先輩に聞いた。

  「銃はこれだけですか?」

  「基本的に自衛以外で発砲はできん。ライフルだってやっとのことで認めてもらえた」

  「相手は何十匹いるかわからない巨大ネズミですよ? いくら何でもこれじゃあ……」

  「文句は上に言ってくれ」

  私たちは、昨日と同じルートで森へ入った。

  一キロほど進んだところで、木にぶら下がった何かを見つけた先輩が言った。

  「あれは……?」

  「昨日、先生が仕掛けた罠にかかったネズミです」浩子さんが言う。「脚だけになってますね……シルヴィーが食べたんでしょうか」

  さらに奥に進むと、腐臭と白骨が散乱するネズミの巣に着いた。隊員たちも顔をしかめる。

  そのとき、前方の木が大きく揺れた。

  ライフルを持った隊員が素早く射撃姿勢をとる。枝を折る音とともに巨大な何かがゆっくりと近づいてきた。

  「例のネズミか?」先輩も拳銃に手をかけた。

  「待って! あの大きさは……シルヴィー?」

  浩子さんはキャリーの中を覗いたが、レッドは警戒しながらも興奮している様子はない。

  やがて、私たちの頭上のはるか上に、黒い二つの目が現れた。ライフルの隊員が先輩に目くばせする。

  「よし、射撃用意!」

  「いや、待った!」先生が鋭く制する。「あれは……」

  巨大な動物は姿を現した──シカだ! 全高二十メートルはある。私たちはその威容に圧倒された。

  「あんなのに踏まれたら、ひとたまりもないな……」先輩が冷汗をぬぐう。「しかし、こっちに危害を加える気はなさそうですね」

  シカは物珍しそうに私たちを見ていたが、やがてすぐそばのケヤキの木を食べ始めた。

  その食べ方がすごい。枝ごとバリバリとかじるのだ。私はカメラを動画モードにして撮影を始めた。

  「このままじゃ森中の木が食いつくされてしまうぞ」先生が困った顔をする。

  「撃ったところで、この銃では……」ライフルの隊員が言う。

  「とにかく、指揮所に報告だ」

  先輩が無線に手をかけると、突然シカの動きが止まった。警戒するように首をキョロキョロさせる。

  「な、何だ?」

  左手から何かが猛スピードで近づいてきた。シカは空高く跳躍すると、木立を越えて姿を消した。

  シカを追っていたらしいその巨大な動物は、獲物を見失って立ち止まると、私たちに振り向いた。

  つぶらな愛らしい瞳。ヒョロリと伸びた首──イタチだ。やはり十数メートルはある。

  「あら可愛い──」と言いかけた瞬間、イタチは牙を剥いて襲いかかってきた。「──くない!」

  「逃げろ!」

  先輩は言ったが、重いキャリーを運ぶ浩子さんはとっさに動けない。私は彼女の代わりにキャリーを手にした。

  「浩子さんは先生と先に、早く!」

  背後で銃声が響いた。先輩たちが必死に発砲しているが、ライフルや拳銃では話にならない。イタチは嫌そうな顔をするものの、針でつつかれた程度の痛みだろう。かまわず私たちを追いかけてくる。

  そのとき、キャリーの中でレッドが吠えた。

  「キャウーン!」

  その声に応えるように、緑の木立をかき分けて、銀と黒の巨獣が姿を現した。

  ──シルヴィー!

  シルヴィーはイタチに跳びかかり、長い首筋に噛みついた。赤い血がじわりと毛皮ににじむ。

  「ギャウッ!」

  イタチの鋭い爪が、シルヴィーの胸元をかすめる。とっさにかわしたものの、銀色の毛が宙を舞った。

  シルヴィーは距離をとり、長い尻尾を素早く振った。鈍い音とともにイタチの頭に命中し、その体がゆらぐ。続けてもう一発。三発目を食らわせようとしたとき、イタチはその尻尾に噛みついた。

  「キイッ!」

  シルヴィーは振りほどこうと身をよじったが、イタチは離れようとしない。

  隊員のライフルが火を吹いた。一発目は狙いを外したが、二発目の弾がイタチの右目に命中する。

  「シャーッ!」

  イタチは鮮血をほとばしらせ、シルヴィーから離れた。残った左目で撃った隊員を睨みつける。

  そこにシルヴィーが横から跳びついた。樹木をへし折り、もつれながら倒れた二頭は、互いの喉を狙って牙をむいた。ガチン、ガチンと牙が噛み合う音がする。

  やがて一瞬の隙をついて、シルヴィーの牙がイタチの喉に食いこんだ。

  「やった!」

  と思った瞬間、強烈な悪臭があたり一面に広がった。

  イタチの肛門腺──いわゆる『最後っ屁』だ。イタチ科の動物はこの臭いで敵を追い払う。

  「キャウウッ?」

  シルヴィーは目を丸くして跳び退いた。

  イタチはその隙に木立の間をすり抜けて、森の奥へと消えていった。

  「こ、こりゃたまらん!」

  この手の臭いには慣れているはずの先生さえ苦しそうだ。シルヴィーはといえば鼻を押さえながら、うちわのように尻尾を振っている。おかげでしばらくすると臭いも収まってきた。

  「キャウ! キャウ!」

  キャリーの中でレッドが鳴いている。浩子さんが開けると、レッドはシルヴィーのほうへ駆け出していった。シルヴィーは地面に伏せると、前脚にレッドを乗せた。今のシルヴィーにとって、レッドはカプセルトイほどの大きさだ。

  「こちらアルファ」シャッターを切る私の隣で、先輩が無線を手にする。「パーク北西二・五キロ地点でシルヴィーと接触。全高およそ二十メートル──極めて友好的。他、大型のシカ一頭、イタチ一頭を確認。いずれも二十メートル前後。シカは北東方面に移動中、イタチは北北東方面に移動中。イタチは極めて狂暴につきこれに発砲、右目を負傷している模様。送れ」

  『ブラボー了解、送れ』

  『チャーリー了解、送れ』

  通信を終えた先輩は、シルヴィーを見上げてため息をついた。

  「それにしても──何と美しい動物なんだ」

  シルヴィーの耳がピクリと動く。先輩を横目で見たかと思うと、大きな尻尾をバサバサと振った。

  「喜んでるみたいですね」と浩子さん。

  シルヴィーはレッドを降ろすと、いきなり立ち上がった。ついてこいと言わんばかりに首を傾ける。

  私たちはシルヴィーのあとについて三十分ほど歩いた。たどりついたのは少し開けた場所で、地面に大きな穴が穿たれている。

  「あ、これ!」

  穴を覗きこんだ浩子さんが驚いていた。中にはあのお化けネズミが十数匹も横たわっている。

  「シルヴィーが捕ったの? えらいね」

  シルヴィーは胸を張り、フフンと鼻を鳴らした。調子に乗る性質らしい。

  「どうやら彼女の食糧庫らしいな」中を覗いた先生が言う。「ちょうどいい、ここにも駆虫剤を撒いておこう」

  タンクを背負った隊員が、ネズミに駆虫剤を撒いたとたん、シルヴィーの態度が豹変した。

  「クワーッ!」

  牙を剥いて隊員に襲いかかる。自分の食物に手を出されるのがお気に召さないようだ。

  「シルヴィー、やめて!」

  「キャウッ!」

  浩子さんとレッドが同時に声を上げると、シルヴィーは動きを止めた。

  「あなたのお腹の中に、悪い虫がいるのよ。このお薬はあなたのためなの。わかって、ね?」

  浩子さんが身振り手振りで語りかけている横で、キャリーからもレッドの鳴き声がする。シルヴィーは渋々と駆虫剤混じりのネズミを口にした。お腹が空いていたのか、あっという間に二匹をたいらげた。

  『こちらブラボー。指揮所より東八キロ地点で大型のシカを目視。その場から動かず。イタチは確認できず。他、死亡した大型ネズミ二匹を確認。腹部に裂傷あり。送れ』

  「アルファ了解、送れ」

  『チャーリー了解、送れ』

  「ネズミがやられていたってことは、他にも大型化した動物が?」私は先生にたずねた。

  「あのイタチか──いや、それなら残したりしないはずだ。腹を空かせているはずだから……」

  「そろそろ切り上げましょう」先輩が腕時計を見た。「四キロほど南下して、川原子ダムの指揮所に戻ります。チャーリーと合流して──」

  言いかけたとたん、通信があった。

  『こちらチャーリー! 大型イタチを確認! 現在交戦中!』

  同時に、散発的な銃声が遠くから響いた。

  「アルファ了解! 至急合流する。送れ」

  『ブラボー了解! 至急合流する。送れ』

  先輩はタブレットでチャーリー隊の位置を確認して言った。

  「俺たちは先に行く。青葉は先生と江戸川さんをパークまで避難させてくれ」

  「了解です」

  私がコンパスを手にしたとき、レッドが突然吠えた。

  「キャン!」

  三頭目をくわえていたシルヴィーが反応した。背中を私たちに向けて地面に伏せる。

  「背中に乗れってこと……?」

  浩子さんがそう言うと、シルヴィーは急かすように体を震わせた。

  先輩たちは躊躇していたが、やがてお互いに顔を見合わせてその背中に上った。

  「私たちも行きましょう!」

  「え? ちょっと!」

  止める間もなく浩子さんもそのあとに続いた。キャリーを肩にかけ、銀色の毛を伝ってスルスルと上っていく。彼女の意外な一面を見た気がした。

  私たち六人が背中に乗ったのを確認すると、シルヴィーは四本脚で立ち上がった。十メートルほどの高さがあってさすがに怖い。

  「クゥオーン!」

  シルヴィーは一声吠えると、木立をかき分けて走り出した。ものすごいスピードで景色が後に流れていく。私たちは振り落されないよう必死につかまった。

  チャーリー隊に合流するまであっという間だった。背の高い木立の間に巨大なイタチの姿が見える。木陰に隠れていたチャーリー隊の一人が、近づいてくるシルヴィーの姿を見てあぜんとしていた。

  私たちは急停止したシルヴィーの背中から、滑るようにして跳び下りた。すかさず二本脚で立ち上がったシルヴィーは、襲いかかってくるイタチに頭突きを食らわせる。イタチの爪が空を切り、木の枝を薙ぎ払った。

  「アルファより指揮所へ。チャーリー隊と合流した。現在指揮所北方約二キロ。大型イタチと交戦中。至急、無反動砲の調達を要請する。送れ」先輩が指揮所に通信した。

  84ミリ無反動砲──早い話がバズーカ砲だ。確かにそれくらいなければ、あの化物イタチは倒せない。しかし、指揮所の返信は無情だった。

  『指揮所よりアルファへ。無反動砲の調達に時間を要する。所持装備にて対処せよ。送れ』

  「アルファ了解」先輩は苦々しく通信を終えた。「まあ、用意してるわけないよな」

  「こっちは全弾打ちつくした」チャーリー隊の隊長らしき人が言う。

  「こっちもだ。あとは……」先輩が二頭の巨獣を見上げて言う。「シルヴィーに賭けるしかない」

  樹木が密集した場所だった。イタチは細長い体を利用して、木立の間から爪で襲いかかった。

  シルヴィーはかろうじて避けながら噛みつこうとするものの、木が邪魔してうまくいかない。

  さらにいえば、動きがさっきより鈍くなったようだ。ケガをしているようには見えないが……。

  ついにイタチの爪がシルヴィーをとらえた。赤い筋がシルヴィーのお腹に走る。

  彼女は「キャウンッ」と短く吠えると──私たちを置いて走り去ってしまった。

  「シルヴィー!」浩子さんが心配そうに声をあげた。

  「ダメか……!」先輩が苦々しく言う。

  イタチはシルヴィーを追う気はなさそうだった。何かを探すようにあたりを見回している。

  そして、私たちを見つけた。

  潰れた右目から血を滴らせ、左目を恨みにギラつかせながらイタチは襲いかかってきた。私たちは右に左に駆け回り、どうにか見つけた藪の中に逃げこんだ。

  『こちらブラボー、イタチを視認した。送れ』

  先輩の無線に通信があった。ブラボー隊が到着したようだ。

  「アルファよりブラボーへ。その位置からイタチの左目を狙えるか? 送れ」先輩が返信する。

  『ブラボーよりアルファへ──了解。通信終わり』

  私たちは待った。十分近くも待ったような気がしたが、時計を見ると三分も立っていない。

  その時、イタチの足元から銃声が響き、銃弾がその左頬をかすめる。

  イタチがイライラして真下を向いた瞬間──二発目の銃弾が正確に左目を撃ち抜いた。

  「やるなあ!」先輩が思わずうなる。

  「ギャーッ!」

  両眼を潰されたイタチは悲鳴をあげ、狂ったように暴れまわった。鋭い爪に切り落とされた木の枝があたりに飛び散る。

  「これで時間が稼げる。今のうち指揮所に──」

  先輩が言いかけたとき、浩子さんが驚きの声をあげた。

  「見て!」

  イタチの背後で木立が揺れたかと思うと、巨大な影がが跳び出してきた。

  ──シルヴィー! 彼女は逃げたのではなく、いつの間にか背後に回りこんでいたのだ。

  彼女は一瞬のうちにイタチを押し倒し、その首筋に噛みついた。

  「ギーッ! ギーッ!」

  死に物狂いでイタチはもがいたが、前脚はがっちり押さえこまれている。鋭い爪はいたずらに地面を引っ掻くだけだった。

  やがて、ゴキリと頸椎が砕ける鈍い音がした。

  イタチは痙攣したように四本の脚をピンと伸ばすと、ついに動かなくなった。

  「アルファよりブラボーへ、感謝する」先輩が無線で呼びかけた。「あと、鼻をふさいでおけ」

  『ブラボーよりチャーリーへ、了解……鼻を?』

  次の瞬間、無線越しに『うわーっ!』という悲鳴が聞こえた。

  「シルヴィー!」

  浩子さんが真っ先に駆け出していく。

  シルヴィーの様子がおかしい。彼女は仕留めたイタチを見下ろしていたが、頭はふらふらと円を描き、呼吸も乱れている。激しい闘いのせいだけには見えなかった。

  ──そして、木にもたれるようにして彼女は倒れた。

  「た、大変だ!」

  先生を先頭に私たちも急いだ。

  倒れたシルヴィーのそばでは、ブラボー隊が困惑した表情で立ちつくしている。

  「キャウン! キャウン!」

  キャリーの中でレッドが暴れている。浩子さんがキャリーを開けると、レッドはケガを物ともせずシルヴィーのそばに駆け出した。

  レッドの姿を見たシルヴィーは、一瞬笑ったように見えた──そして静かに、目を閉じた。

  「シルヴィー! しっかりして!」

  浩子さんの目から涙がこぼれる。

  「……大丈夫だ、生きてる。気を失っただけだ」

  シルヴィーの胸に耳を押し当てて先生は言った。

  「お、おい!」

  ブラボー隊の一人が突然叫んだ──死んだはずのイタチの腹が、もぞもぞと動いている!

  イタチの腹にジワリと血のシミが広がった。やがて、そこが裂けたかと思うと、血まみれの何かが這い出してきた。私たちは全員、言葉を失った。

  ──虫! あの寄生虫、アロだ!

  しかもそれは、先生の研究室で見たものより何倍も大きかった。頭に吸盤を持つところは変わらないが、肛門部の吸盤は針のように尖っている。短かった脚は長く伸び、前脚は鋭い鎌状になっていた。カマキリの体にヒルの頭──という表現がもっとも近い。

  「だ、誰かそいつを捕まえてくれ!」

  先生の言葉に、隊員の一人が反射的に手を伸ばす。

  次の瞬間、アロは前脚の鎌で隊員の手をグローブごと切り裂いた。

  「うっ!」

  隊員が手を押さえてうずくまる。

  その間に、アロは恐ろしい速さで地面を掘り、姿を消した。

  「すまない、私のせいで……」

  「いえ、自分がうかつに……」

  駆け寄る先生に隊員が首を振る。そばにいた一人が手早く傷を消毒し、包帯を巻いていた。

  「ひょっとして、あれと同じものが、シルヴィーにも……!」浩子さんが震える声で言った。

  「だとしたら、一刻の猶予もできん」

  先生はそう言うと、先輩に必要な用具の手配を頼んだ。

  一時間後、上空に飛んできた輸送ヘリから機材が降ろされた。ブルーシートで幕が張られ、作業灯の明かりが暗くなってきた森を照らす。レッドは浩子さんと一緒に、シルヴィーの鼻のまわりを歩き回っていた。

  私と先輩は幕の外に追い出された。隊員が入れてくれたコーヒーを何杯もおかわりしながら、待つこと二時間──ようやく先生が幕の向こうから出てきた。先生はプラスチックのコンテナを手にしている。

  中に転がっていたのはもちろん、アロだ。ラグビーボールほどの大きさで、脚はもげ、胴体も触れば崩れそうなほどボロボロだ。吸盤の頭は半分溶けかかっている。

  「駆虫剤が効いてくれた。もう心配ない。シルヴィーも無事だよ」先生が言う。

  「どうやって取り出したんです? お腹を切ったんですか」私は聞いた。

  「あの分厚い皮膚を切るメスも、縫う針もないよ……方法は、彼女の名誉に関わるから言えないが」

  切開もせず腸内から寄生虫を取り出すには──まあ、これ以上の詮索はやめておこう。

  私たちは川原子ダムの指揮所に向かい、仮眠所で一晩を過ごすことになった。

  浩子さんはレッドと一緒にシルヴィーのそばに残ることを主張したが、彼女もレッドも疲労がたまっている。それに、夜間に巨大化した動物が襲ってこないとも限らない。見張りの隊員二名を残して、私たちと一緒に引き上げることに同意してくれた。

  川原子ダムは農業用の水源として開発された、いわば人造湖だ。緑に囲まれた鏡のような水面は、八月の暑さを忘れさせてくれる。これで〈イーグレッツ〉が勝ってくれれば言うことなしだが、ニュースによると今期ワーストの八連敗だそうだ。

  翌日も早朝から森に駆虫剤が散布され、その後自衛隊による捜索が行われた。

  無反動砲が到着し、その他にも89式自動小銃の使用が許可された。準備は万端というわけだ。

  結局、それらの装備は一度も使われることなく終わった。

  ──巨大化した動物はすべて死んでいたのだ。

  私たちが見たものと同じ巨大シカは、ブラボー隊が最後に目撃した場所で、その子供とおぼしき十メートル級のシカと一緒に息絶えていた。その他、五メートル程度に成長したイノシシ──こんなのが人里に下りたら大変なことになるところだった──が数頭、二十メートルのハクビシンが一頭、そして数えきれないほどのお化けネズミどもが、すべて腹に穴を穿たれた状態で見つかった。

  「──つまり、これらの動物の腹を食い破った寄生虫が、まだ森の中に潜んでいると?」

  「うむ。まだ油断はできないが、根気よく駆虫剤を散布すれば根絶できるだろう」

  冷汗をぬぐう高島先輩に、先生は言った。

  一日がかりで回収された大型動物たちは、川原子ダムのほとりに集められ、世界中から集まった学者たちが夜を徹して研究に当たっている。時期的に腐敗の可能性が高いため、近いうちに焼却処分される予定だそうだ。

  シルヴィーはすっかり元気を取り戻していた。

  彼女は自分からダムに下りてきて、広々とした草原に寝そべり、鼻先でレッドと戯れている。

  ここまでくると、さすがにマスコミにも隠せなくなった──あの巨体は周囲から丸見えなのだ。

  ダム周辺の報道規制が解かれると同時に、記者と見物人がどっと押し寄せた。彼女の姿が全国のテレビに映し出され、お茶の間を賑わせた。

  案の定、ボスから電話がかかってきた。

  『どうなってるの? テレビ局に出し抜かれてるみたいじゃない』

  「大丈夫です。私は捜索隊に同行したんですよ? とっておきの映像が撮れましたから」

  私は自信満々に電話を切った。こんな気分でボスと話せたのは初めてだ。

  ──そう、私のカメラにはシルヴィーが大イタチと戦う、ド迫力の映像が収められている。

  このままボスに渡してしまうのも惜しい気がする。どこかのテレビ局に高く売りつけるか、自分で動画サイトにアップしてもいい。そうすれば──ああ、夢が広がる!

  そんなことを考えながらダムを歩いていると、浩子さんと先生を見つけた。

  「どうかしました?」

  私が声をかけると、浩子さんは無邪気にじゃれ合うレッドとシルヴィーを見つめて言った。

  「以前はフェンスで隔てられていたのに……今はあの大きさが、レッドとシルヴィーを隔てているんですね」

  「……」

  そのとおりだった。

  どれだけ愛し合っていても、レッドとシルヴィーは抱き合うことも、子供を産むこともできないのだ。

  「自然は時に、残酷なことをしますね……」

  私にはそれくらいしか言えなかった──が、先生は驚くべきことを言った。

  「私には、アロが自然なものとは思えんがね。宿主を巨大化させ、ひとしきり暴れさせたあとで宿主は死ぬ。体外に出た成虫は駆虫剤で簡単に駆除できる──あまりに都合がいいと思わんか?」

  「……どういうことです?」

  「例えば、ある町にアロを放ったとする。そいつはネズミやペットを巨大化させ、町を破壊する。食糧を食いつくし、人間も襲うだろう。そうして無人の町になったところで、次に到着する人間がやることは、死骸の処分と駆虫剤を撒くことだけさ。それで町はそっくり手に入る。ミサイルより金もかからず、途中で迎撃されることもない。破壊されるインフラも、ミサイル攻撃に比べたら微々たるものだ」

  「誰かが戦争のために、あの寄生虫を創ったっていうんですか!」浩子さんが激昂して言った。「だとしたら、絶対に許せない……!」

  「いやいや、そういう見方もあるというだけのことだよ……今の話は忘れてくれ」

  浩子さんの剣幕に、先生はあわてて否定したが、私には興味あるネタだった。

  あのお化けネズミが、野性のノネズミではなく都市にいるドブネズミだったことは、アロが自然発生したものではないということの裏づけではないだろうか。

  一方で、何らかの実験で生まれたというのならば、実験体にドブネズミを使うというのもありえない。しかし、たまたま流出した卵をドブネズミが口にしたのなら……考えれば考えるほどキリがない。

  いずれにせよ確たる証拠はない。この話は私の胸にとどめておくことにした。

  それよりも私の映像をどうするかだ。いっそこれを機に、買取契約ではなく著作権契約を結ぶか──。

  「──ああ、いたいた」

  突然、肩を叩かれた。高島先輩だ。

  「何ですか?」

  「青葉、シルヴィーとイタチの映像撮っただろ。あれどこにある?」

  「えっ、何で?」

  「『何で』じゃねえよ。自衛隊の公式活動記録だ。個人が持ってていいわけねえだろ」

  「はああ?」

  「おまえならそのくらいわかってると思ったがな。まあ雀の涙ぐらいの協力金は出るだろう。でなきゃ没収したうえに罰金だ。好きなほうを選べ」

  「……」

  私は震える手でカメラからメモリーカードを抜いて、先輩に渡した。

  「おう、サンキューな。じゃあおまえも仕事頑張れよ」

  先輩はさっさと行ってしまった。どうしよう。ボスにどやされる……。

  『──そう』

  その夜、暗い気分でボスに報告すると、そっけない返事が帰ってきた。

  『レッドとシルヴィーなら他社でも報道してるし、ニュース的な価値はないわね。ご苦労様。今回の仕事は終了でいいわ。お金は振りこんでおくから』

  北極を裸で歩いてもここまで冷たくはないという口調だった。

  「すみません……個人的にもう少し粘ってみます」

  『あらそう? いいのが撮れたら教えてね。それと念のため、その高島さんの所属を教えてくれる?」

  「所属……ですか?」

  私は先輩の所属を教えてから電話を切った。

  愛する〈イーグレッツ〉は悪夢の九連敗。私は三本目の缶ビールに手を伸ばした。

  〈イーグレッツ〉が〈ボールパーク仙台〉に帰ってきた。

  私はギャラを軍資金に、〈イーグレッツ〉の勝利を見届けるまで仙台に居座ることに決めた。

  昼は川原子ダムへシルヴィーの様子を見に行く。彼女は寝そべって、どこからか寄贈された大量の生肉を食べながら、レッドと戯れているだけで特に動きはない。

  夜はエンジ色の応援ユニフォームを着て、カメラを手に〈ボールパーク仙台〉に足を運んだ。

  ──十連敗。私の心は悲しみを通り越して、無の境地に至りつつあった。

  そして翌日のデーゲーム、ついに奇跡が起きた。

  その日は宿敵〈北海道ファイヤーズ〉相手に〈イーグレッツ〉の打線が爆発、四回裏までに6―0でリードを奪っていた。ツーランホームランが飛び出し、会場が歓喜の足音で揺れる。

  五回表、〈ファイヤーズ〉の攻撃。ビールの売り子さんが来ないので、私は席を立って売店に向かった。さすがにこの点差で逆転されることはない……はずだ。

  球場横の遊園地では子供たちがエアクッションで跳びはね、巨大な観覧車がゆっくりと回転している。

  何もかもが素晴らしい気分だ。映像を取り上げられたことも、ボスの小言も忘れてしまう。

  だって、今日は〈イーグレッツ〉が勝つから!

  ──突然、場内にサイレンが鳴り響いた。

  「……何?」

  あたりを見回していると、場内アナウンスが聞こえてきた。

  『──ご来場の皆様、本日の試合は中止とさせていただきます。係員の指示にしたがい、すみやかにご退場いただくようお願いいたします。繰り返します……』

  「待て待て待て!」

  私は自分の席へと急いだ。スコアボードは五回表、ツーアウト。

  後攻がリードしている場合、五回表が終了しないと試合は成立しない。つまり、ここで終わればノーゲーム。〈イーグレッツ〉の勝利はパー。

  「ふざけるな! あとワンアウトぐらい待てねえのかよ!」選手の一人が叫ぶ。

  私も観客も同じ気持ちだ。誰一人席を立とうとせずに、場内に怒声が飛びかった。

  ──不気味な飛翔音が聞こえてきたのは、その時だった。

  「何だ、あれは……?」

  空気を震わせて上空から飛んできた巨大なそれは、観覧車にしがみつくようにして止まった。

  前脚の鎌を転輪に食いこませ、目も触角もない吸盤状の口を覗かせる。

  「──アロ!」

  わが目を疑った。つい先日、数十センチのものを目にしただけでも信じられないのに、こいつは十数メートルにまで巨大化している。しかも、翅による飛行能力まで備えて……。

  「うわーっ!」

  一瞬にして場内はパニックに陥った。観客は折り重なるようにして逃げまどい、われ先にと球場の出口へ殺到する。私はといえば、カメラを手にして観覧車へと向かった。

  係員が観覧車を停止させ、下のほうの乗客は降りてきていた。しかし、全高三十数メートルの観覧車だ。大部分の乗客は車内に閉じこめられたままだ。

  「誰か、助けてくれーっ!」

  「降ろして! 降ろしてーっ!」

  助けを求める声が聞こえたが、今のところはどうにもならない。アロは支柱ごと転輪にしがみついていて、これ以上回すことができないのだ。

  そして、アロのお尻から突き出している長い針──おそらく吸盤が変形したもの──の先端からは、薄黄色の粘液がボタボタとこぼれ落ちていた。

  「うえっ、糞?」

  私は不快な気分になりながらも、粘液をズームで拡大した。

  何か粒状のものが太陽の光を受けて光っている──その正体に気づいて、背筋が凍りついた。

  「糞じゃない。あれは……卵!」

  冗談じゃない。量からして何千、何万という数だ。あんなものが飛び散ったら……!

  私のスマホが震えた。高島先輩からだ。

  「……もしもし、先輩?」

  『青葉か。おまえのことだからどうせ球場にいるんだろう?』

  「よくわかりましたね……って、何なんですか、あれ!」

  『今から三十分ほど前、森の中から出現した。志村先生の話じゃ、生き残ったアロが共食いを繰り返して、あの大きさになったって話だ……それより青葉、状況を報告しろ』

  「私はもう、民間人なんですが」

  『ああ、そうだったそうだった──で、状況は?』

  「……巨大なアロが一匹、観覧車に止まっています。まだ数十名の観客が車内にいます。早く来てください」

  『今、向かっているところだ。場内の様子は?』

  「グラウンドからは避難したみたいですが、何しろ二万人ぐらいいましたからね。周囲は大混雑です。観覧車のまわりも人だかりができてますね」

  『それはまずいな。何とか追い払え』

  「追い払えったって……どうやって?」

  『おまえにまかせる』

  電話は切れた。私もキレそうになった。どいつもこいつも無茶言って!

  ──私はハンカチを出して鼻と口を覆うと、わざとらしく咳きこみながら言った。

  「ううーっ! ゲホ、ゲホ! く、苦しい!」視線が私に集まる。「ガスだ! あの虫からガスが出てる! 早く逃げないと!」

  私が一目散に駆け出すと、他の人たちもあわてて走り出した。

  「うわーっ!」

  「に、逃げろーっ!」

  数分後、観覧車のまわりから人影が消えた。もちろん私はもとの場所で撮影を再開した。

  ようやく、先輩の部隊が到着した。二十名ほどの隊員と、志村先生も一緒だ。

  「先輩! 志村先生!」

  「青葉、どんな様子だ?」

  「さっきから動きませんね……卵を産んでるみたいです」

  「卵を? なぜ、こんなところで……」

  「アロは寄生虫だ。宿主に卵を産みつけるのが目的だ」先生が言う。「アロには目も触角もない。動くものの音や振動を頼りに宿主を探す。おそらく観覧車を動物と判断したんだろう」

  「それは好都合だ。今のうちに駆虫剤で処理してしまおう」

  先輩はそう言うと、観覧車に向かって声をかけた。

  「みなさん、安心してください。あなたがたは全員助かります! だからしばらくの間、なるべく動かず、声も立てず、そいつを刺激しないでください!」

  駆虫剤散布用のヘリが近づいてくる。ヘリが観覧車の上空に差しかかろうとした時──アロは突然、四枚の翅を広げた。翅を震わせる音とともに、猛烈な風があたりを襲う。

  立っていられないほどの風圧だった。私たちはその場に倒れ、上空のヘリもバランスを崩した。

  何より最悪なことに、風圧で観覧車全体がグラグラ揺れ出した。いつ倒れてもおかしくない!

  「ストップ、ストップ! 引き返せ!」先輩が無線で叫ぶ。

  「学習したのか……ヘリの音がすると、駆虫剤が撒かれることを」先生の顔が青ざめていた。

  「しかし、どうにかして奴を観覧車から離さないと!」

  「考えられる手段はすべて試そう……ん?」

  先生の電話が鳴った。短い通話を交わしたあとで、先生は私たちに言った。

  「江戸川さんからだ。シルヴィーが動き出したらしい……おそらく、ここに向かっている」

  「シルヴィーが? どうして……」

  「……彼女は本能的に知っているんだよ。自分がなぜ巨大化したのか──そして、その原因を彼女は許さないだろう」

  「それじゃあ、アロを殺すために……!」

  「大変だ!」先輩が叫ぶ。「シルヴィーが来るまでに何とかしないと、観覧車まで巻きこまれる!」

  先輩は無線を手にした。

  「アルファより指揮所へ。シルヴィーの現在位置と移動速度の情報を求む。送れ」

  『指揮所了解。現在確認中──シルヴィーは国道457を、時速約六〇キロで北上中。まもなく国道286へ入る。通信終わり』

  先輩はタブレットで地図を確認した。

  「国道286からここまでおよそ四〇キロ……あと一時間もない」

  「場内放送は?」私は言った。「アロは音に反応するんですよね? 場内アナウンスやサイレンを鳴らして、グラウンドに誘導するのは?」

  「やってみよう」先輩がうなずいた。

  数名の隊員がグラウンドへ向かう。しばらくするとサイレンが鳴り、スピーカーから大音量で音楽が流された──〈東北イーグレッツ〉の応援歌だ!

  隊員の何人かが大声で歌い始めた。もちろん私もだ。

  「『勝利はわれらにー、イー・グレーッ・ツーッ!』……ほら先輩も歌って!」

  「俺は〈ファイヤーズ〉のファンだ。絶対に歌わん!」

  「そんなこと言ってる場合ですか!」

  アロがもぞもぞと動き始めた──が、飛び立つ様子はない。

  「ダメじゃないか!」先輩が私を睨みつける。

  「そう言われても……」

  「──見ろ!」

  先生が指さす先に──銀色の巨獣が姿を現した。

  球場の周囲はビル街だ。今は避難も完了し、閑散としている。

  私は道路に飛び出し、シルヴィーに向かって叫んだ。

  「シルヴィー! 来ちゃダメッ!」

  しかし、シルヴィーは止まらない。私のいうことなど聞かないのだ。

  もしここに、レッドか浩子さんがいてくれたら──。

  そんな私とシルヴィーの間をさえぎるように、一台の軽自動車が急停車した。

  「青葉さん!」

  運転していたのは浩子さんだ──助手席に置かれたキャリーには、レッドの姿もある!

  私は涙が出そうになった。

  「浩子さん、シルヴィーを止められる? あの先の観覧車に、まだ人が大勢いるんです!」

  私が観覧車を指さすと、浩子さんはうなずいた。レッドと一緒に車から降りると、猛スピードで走ってくるシルヴィーの前に、臆することなく立ちふさがる。

  「シルヴィー、止まって! まだ人が大勢いるの!」

  「ワウッ!」

  浩子さんとレッドが同時に声を上げた。

  シルヴィーは人の言葉がわかったかのように──私にはそう見えた──立ち止まった。少し困惑したようにレッドと浩子さんを一瞥すると、それでも納得がいかないと言わんばかりに、観覧車を占拠しているアロに向かって吠えた。

  「グルルル……キャウンッ!」

  ──アロが反応した。四枚の翅を広げ、体を震わせると観覧車から飛び立った。

  シルヴィーのところへ真っすぐ飛んでくる──アロは次の獲物を察知したのだ。

  観覧車が再び回り出した。まもなく乗客の救助も終わるだろう。

  私は心おきなく撮影を始めた。また取り上げられるかもしれないが──知ったことか!

  アロは空中で静止したかと思うと、腹を前に突き出し、針でシルヴィーに襲いかかった。

  体内に直接、卵を産みつけようというのだ。おぞましすぎて寒気がする。

  シルヴィーは二本脚で立ち上がり、前脚で針を払いのけた。アロはふわりと浮き上がると、再び針で彼女を狙う。その針も避けられた時、アロは攻撃を切り替えた。

  前脚の鎌を振り上げ、アロは上空から切りかかった。シルヴィーの右肩に一筋、赤い線が走る。彼女はバランスを崩し、近くのビルに寄りかかった。そこに再び鎌が襲いかかり、コンクリートの外壁を傷つけた。

  状況はシルヴィーに不利だった。アロを叩き落そうと何度も前脚を伸ばしたが、空中に逃れられてしまう。その度に鋭い鎌が彼女の体を引っかき、傷を増やしていった。

  「シルヴィー……」

  あまりの光景に、浩子さんが思わず目を覆う。

  自衛隊の大型トラックが到着したのはその時だ。観覧車からの救助が終わったらしい。

  荷台から隊員たちがいっせいに飛び出し、無反動砲を構えた。

  「待て! 撃つな、撃つな!」先輩と一緒に降りた先生が呼び止める。「アロの体内には卵が残っている。爆発して飛び散ったら大変だ!」

  「それじゃあ、どうすれば……」

  先輩が歯がゆそうにアロを睨みつけると、先生は言った。

  「消防車を一台、借りられんか。駆虫剤の水溶液をアロに浴びせるんだ」

  「すぐ準備します!」

  先輩はそう言うと、無線を手にした。

  「アルファより指揮所へ。至急現場に消防車の出動を要請する……』

  その間にも、アロの攻撃は続いていた。鋭い鎌の一振りをかわすと、シルヴィーは球場に向かって走り出した。

  「シルヴィー、逃げて!」浩子さんの悲痛な叫びがした。「このままじゃ殺されちゃう!」

  「いや、殺しはせん」先生は苦々しく言った。「寄生虫は宿主を殺さん。動けなくしてから、生かしたまま卵を産みつけるんだ……」

  「……」

  浩子さんの顔から血の気が引いた。通信を終えた先輩が、先生に報告する。

  「……消防車自体はすぐに出動できるんですが、水溶液の用意に三十分ほど時間がかかるそうです」

  「なるべく急がせてくれ。私たちも球場へ行こう」

  先生と先輩がトラックに乗る。私も浩子さんの車に乗って球場へ急いだ。

  シルヴィーは、無人となった観覧車を盾にしてアロの攻撃に耐えていた。アロはシルヴィーを狙って回りこもうとするのだが、その度に反対側に逃げられてしまっていた。

  このまま消防車が到着するまで、逃げきってくれればいいのだが……。

  ついにアロは追いかけるのをやめた。観覧車にしがみついたまま翅を広げ、凄まじい勢いで羽ばたかせる。背後にあるものをすべて吹き飛ばすほどの突風が巻き起こった。

  「危ない!」

  トラックも車もこれ以上近づけない。私たちは二百メートルほど手前で停車せざるを得なかった。

  観覧車は支柱から大きく揺れ始め──やがて、ギーッと音を立てて倒れた。球場の外壁を破壊し、転輪が客席に落下する。

  「キャーンッ!」

  シルヴィーは大きく跳び、倒れてくる観覧車から逃れたが、つまづいてグラウンドに倒れこんだ。

  ようやく風がやみ、私たちは球場へたどり着いた。崩れていない入口を探し、グラウンドに急ぐ。そこで目にした光景は吐き気を催すおぞましさだった。

  ──仰向けに倒れたシルヴィーを、アロが六本の脚で組み敷いていた。粘液にまみれた針を突き出し、彼女の下腹部を狙っている。さすがにこんな姿をカメラに収める気になれない。

  「キャウッ! キャウッ!」

  彼女はもがき、尻尾を振って抵抗したが、その度にアロの翅が羽ばたき、風圧で彼女を押さえつける。体力が尽きるのは時間の問題だ。

  「もう見てられない……!」

  浩子さんが絶望したように、顔を押さえてうずくまる。

  その時、ようやく消防車が到着した。外壁ギリギリまで接近し、放水砲を上空に向けると、先輩は待ちきれない様子で号令をかけた。

  「──放水、始めっ!」

  放物線を描いて水柱が吹き上がる。それは狙い違わずアロの背中に降りそそいだ。

  しかし──。

  「どういうことだ……」

  アロに変化は見られなかった。降り注ぐ駆虫剤をものともせず、シルヴィーに針を突き立てようとしている。先輩が消防隊員の胸ぐらをつかんだ。

  「どうなってる! ただの水じゃないのか!」

  「そ、そんなはずは……」

  「抵抗力を、身に着けたんだ……」放心したように、先生がつぶやいた。「もうアロに駆虫剤は効かない……」

  「そんな……」

  先輩の顔が苦渋にゆがんだ。倒れた観覧車に駆け寄ると、ガンガンと音を立てて鉄骨を蹴とばした。

  「畜生! アロ、こっちを向け! シルヴィーから離れろ!」

  他の隊員たちも次々と加わり、鉄骨を蹴り始める。私も加わろうと駆け寄った。

  客席から支柱が折れた観覧車の昇降台が見えた。そこには薄黄色の卵が、背丈ほどの山になっている。

  私の冴えない頭の中で、何かが形になり始めた──それがはっきりとした形となって、私は客席から飛び出した。

  向かったのは浩子さんの車だ。ダッシュボードの下を覗きこむと、首から下げたカメラが床にぶつかりそうになる。結構な値段のカメラだ。私はあわてて首から外した。

  そして目当てのものを見つけた──発炎筒だ。

  同じものを自衛隊のトラックからも拝借して、私は観覧車の昇降台に戻った。

  客席からは相変わらず鉄骨を蹴る音が響いている。私はアロの卵の隣に立ち、大声で歌った。

  「『打てよ走れよー、投げよ守れよー、勝利はわれらにー、イー・グレーッ・ツーッ!』」

  「青葉、気でも狂ったか!」

  先輩が客席からいぶかしそうに私を見たが、私は気にせず言った。

  「アロ、聞こえてる……? 卵焼きをごちそうしてあげる!」

  私は二本の発炎筒に着火し、アロの卵に放りこんだ。

  油でも含んでいるように、卵は瞬時に燃え上がった。炎の中で卵がパチパチ音を立てて爆ぜていく。

  この場所はグラウンドからは見えない。だけどアロが音や振動を頼りに動くのなら──何より、卵を産むことがアロの最大の目的なら!

  私は大声で歌いながら待った。もどかしいばかりの時が過ぎていく。

  やがて、メキメキと鉄骨を踏む音が聞こえて、巨大なヒルの頭が外壁越しに現れた。

  これでアロをシルヴィーから引き離すことができた──その時、とっとと逃げればよかったのだ。計画がうまく行って、私は気が抜けたようにその場に立ちつくしていた。ふとわれに帰った時には、アロの巨大な鎌が私を狙っていた。

  「うわあああっ?」

  「クゥオーン!」

  咆哮とともに、シルヴィーはアロに跳びかかった。左の鎌にがっちりと喰らいつく。

  アロは巨大な翅を羽ばたかせた。座席が吹き飛ぶほどの風が起こり、シルヴィーをぶら下げたまま宙に浮いた。しかし、そのまま飛んでいくほどの力はないようだ。フラフラとグラウンドに落下する。

  私がグラウンドに駆けこんだ時、アロはシルヴィーから逃れようともがいていたが、自由なほうの鎌を振り上げると、自らの前脚を切り落とした。シルヴィーの牙から逃れたアロは、今度こそ飛び去ろうと翅を広げた。

  次の瞬間──シルヴィーの首が一閃し、横ぐわえにしていた鎌がアロの胸に深々と突き刺さった。

  「シューッ!」

  空気が漏れるような音がアロから発せられ、翅は力を失ったように閉じた。シルヴィーが突き立てた鎌に力をこめ、胸から腹にかけて切り裂くと、茶色い体液がゴボゴボとこぼれ落ちた。

  すでにアロの生命は尽きかけていたが──シルヴィーは鎌を引き抜き、アロの首を真横に掻き切った。

  鎌を捨てたシルヴィーは、皮一枚でつながっていたアロの首を食いちぎると、吐き捨てるように放り投げる。首は空高く放物線を描き、スコアボードに当たって外野席へと落下した。

  ──アロは絶命した。

  今しがた目にした光景に、志村先生も、浩子さんも、高島先輩もあぜんとしている。

  「キャウン! キャウン!」

  静まり返った球場に、レッドの鳴き声が響いた。浩子さんがキャリーから出してあげると、レッドは嬉しそうに駆け出していく。シルヴィーはグラウンドに伏せ、優しい瞳でレッドを見つめていた。

  ようやく球場に歓喜の輪が広がっていった。私も胸を撫でおろし、カメラを構えようとして──浩子さんの車に置いてきたことに気づいた。

  たぶん、あの場で泣いていたのは、私だけだったと思う。

  巨大なアロの死骸はその日のうちに、脚一本残らず焼却処分された。

  その件に関して研究者たちから不満の声が上がったが、衛生上の問題として突っぱねられた。先輩いわく、上層部から速やかに処分するよう厳命があったとのことだ。

  シルヴィーは川原子ダムに戻り、傷が癒えるまでのんびり過ごしていたが、ある新月の夜、レッドと一緒に姿を消した。日に日に増える見物人に嫌気が差し、森に帰ったのだろうというのが公式見解だ。

  ──というのは建前で、実際はひそかに建設された森奥の巣穴に、レッドと一緒に暮らしている。そのことを知っているのは、先生と浩子さん、一部の研究者と自衛官、それに私くらいだ。

  問題は餌代だった──何しろ一日に二トンもの生肉が必要なのだ。

  そこで、クラウドファンディングで資金を調達することになった。もちろん、シルヴィーのことを公にするわけにもいかないので、表向きは『シルヴィーの森を守ろう』という名目だ。

  「──その贈呈品にされているのが、私が撮ったシルヴィーとイタチの映像ですか」

  東京に帰ってきた私は、電話で先輩に愚痴った。

  『いいじゃないか。おまえの映像がシルヴィーのためになるんだ』

  「まあ、いいですけど……ギャラくらいは出るんでしょうね」

  『ん……? 何を言ってるんだ。とっくにおまえんとこのボスに払ったじゃねえか』

  「……はああ?」

  『クラファンの件も、おまえのボスからの提案だ。あの人はすげえな。あっという間に上層部を説得して、映像の権利から何から、みんな持ってっちまった。ギャラの話ならボスに相談してくれ』

  私は電話を切った。もう少しでスマホにビールをぶっかけるところだった。

  ──うちのボスが話を聞いてくれるわけないじゃないか!

  もうボスの仕事は受けるもんか──と一瞬考えたが、駆け出しカメラマンの私に仕事を回してくれるところなど、そうそうあるもんじゃない。

  私はふて腐れてテレビを見た。わが〈イーグレッツ〉は連敗を脱し、〈埼玉レパーズ〉に11―2の圧倒的勝利を収めつつあった。自力優勝はすでに消滅しているが、プレーオフの進出にはまだ期待が持てる。下剋上で優勝することも夢じゃない。

  私も仕事で、いつか下剋上を──。

  電話が鳴った。番号を見て気が重くなる。

  「もしもし、青葉です」

  『青葉さん、仕事よ』

  ウンともスンとも言わないうちに、〈株式会社アニマリズム〉の女ボスは、居酒屋でビールを頼むかのような気軽さで言った。

  『埼玉でニホンオオカミを見かけたって話があってね──』