AdAd
  
予備の菜種も花咲かす 8

  ーーーーー

  11時まであと1時間。まだ暇がある。

  「菜崎ィ、これからはオトコも美容ってヤツを意識する時代が来るゼ」

  「なにを言ってるんだか…」

  「俺らァ皆同じ生き物なンですから、同じくらい肌も毛並みも荒れたりしまサァ…。

  …ホラまだこォんなに冬毛が」

  「………」

  暇がある。そうだった。

  だがあろうことか、私はその暇をこいつのために割いている。

  なぜ私は自分の尾っぽをこいつに明け渡してしまったのだろう。

  「よォく今までシラミとかダニとか付かなかったねェ…

  とんでもねェ奇跡ですヨ」

  「奇跡か…たまに痒いと思うこともあったが、

  毎晩ちゃんと体は洗ってたからな」

  「フフ、それとも戦時中の感覚で慣れちゃいまシタかネ?」

  「あのときは酷かったな。でももしかしたら…そうかもしれん」

  「俺ァどうにもいけ好きませんでしたヨ、あれァ…」

  奇跡、か…

  これが普通だと思ってたゆえに、あまり理解はできんな。

  さっき私の尾の余り毛を手にして見せてくれたが、相当溜まっていたらしい。

  言われてみれば確かに、今まであまり体の痒みに悩まされたことはなかったな。

  「ちなみにコレ、英語で"ぶらっしんぐ"って言うそうデ??」

  「そうなのか」

  「へへへ、アメリカさんもなかなかわかってラ」

  微かに梳かれている感覚が伝わってくる。

  くすぐったいような、なんだか不思議な感覚だが…

  …生まれてこの方したことも聞いたこともないものだったからな…

  「まだなのか」

  「まあまあそう急かさナイ…」

  「…以前は誰かにしてもらってたのか?」

  「…エエ、おふくろに。コレを教えてくれたのも、毛並みのことを教えてくれたのも、全部おふくろでサ」

  「ああ…」

  戦時中は身だしなみに気を遣うなど、まず考えにも及ばない意識だった。

  泥だらけで穴だらけの野戦服を着、敵から逃げることだけで精一杯な時期もあったしな。

  とにかくあの頃は、生き延びることに全力だった。

  …桜田の母。話に聞くのはこれが初めてだ。

  どんなヒト柄だったのだろう。

  「まだ元気なのか」

  「エエ、まア…」

  「あまり話したくないか」

  「いンや、そんなこたねーですヨ」

  「………」

  私の後ろでずっと"ぶらっしんぐ"をしているせいで、表情がわからない。

  声は至っていつも通りだが…いけないことを訊いたら悪いだろう。

  慎重に行かねば。

  「いい母だったのか?」

  「俺ァ大好きですヨ。先立った親父の代わりに、俺を育ててくれたンで…」

  「そいつはすごい…肝の据わった方なんだな」

  「へへへ。深川のオンナは侮っちャいけませんゼェ。

  あの大空襲も酷い火傷を負ったって言ってたのに、ピンピンしてラ」

  「ほほう」

  元気に存命か。越したことはない。そしてかなり団らんの家庭を築けていたようだ。

  父が早逝していたとあらば、彼女の苦労もひとしおだっただろう。

  まさかこいつが、母親のひとつ腕で育てられた男だったとは…

  昔から面倒見のいいところや、細々なにかを気にする意識があったりしたな、とは思っていたが…

  今の立ち居振る舞いからは想像もつかん。

  「…そう言う菜崎はどうなンだイ?」

  「え?」

  「おカミさんと親父サンですヨ。俺ァそっちからそういう話聞いたことなかったからネ」

  「あ、あぁ…」

  上機嫌そうに訊いてくる桜田。

  …私?

  いきなり私の方に振られたもので、面食らってしまった。

  …そうだ、私の両親は…

  「…もう、いない」

  「エッ」

  もういないのだ。

  いきなり話しかけられ、聞く方からの切り替えが上手く行かず、

  思い出すのに少しくかかったが…

  この世のどこを探しても、もういない。

  そう告げると、桜田のぶらっしんぐの手が止まった。

  「ご、ゴメンなさい…」

  「うん? どうした?」

  「い、いや…」

  私の触れられると痛いところに触れてしまった、と思っているらしい。

  …確かに悲しくないと言えば、嘘になる。

  なにごともなければいまも常世に生きていたはずのものが、

  たったひと晩で消えてしまったのだから。

  「よかったら、話そうか?」

  「イヤッ!! い、いいです!!」

  「お返しだよ。私だって楽しいときもあったんだ。

  話させてくれ」

  「………」

  すると桜田は、無言でぶらっしんぐを再開した。

  ーーーーー

  日ノ出町。昔から私は、そこで生まれ育った。

  父、母、兄と、そして私。4人家族だった。

  父は関東出身、母も東北と、北方揃いの家庭で、

  そこには結婚後に越してきたのだという。

  また父は日本海海戦を経験した元軍人として恩給を貰い、母はタイピストとして、それぞれ生計を立てていた。

  「コタロウ!! また学校に行かなかったのか!?」

  「へへんだ!! 俺は兵隊さんにはならないんだよーっ!」

  「コタロウ…。うちは男はみんな兵隊さんになる家なのよ?

  お父さんになんてこと言うの?」

  「知らねーっ!!」

  かたやその嫡男は奔放な男で、家系的に男はみな兵役に出る決まりがあったのだが…

  彼は幼少期からそれをいつも拒んでいた。

  「へへっ! なーコジロウ!! 遊びに行くぞ〜っ!」

  「あ…うん…!」

  その型破りな奔放さは、両親や親類からは呆れの目で見られていたものの、周囲の学友などからは羨望の眼差し、とでも言おうか…

  自由を求めるその姿勢と、己の夢や希望に満ちていた、その姿が羨ましい…と、よく言われたものだった。

  確かに私も、あの真っ白な母親譲りの毛並みが、あのときはとても眩しく写った…

  そんな気がする。

  「こら!! コジロウはまだ宿題が残ってるでしょう!?」

  「ふんだ!! おいコジロウ、終わったら河川敷来いよ!!」

  「わかった…」

  内気だった私は、特段したいこともなく…

  両親の言うことに従ってきた。

  もともと裕福な家庭ではなく、父親は中堅将校、母も農家の出だったことから、

  特別教養のある家庭、育ちがいい家庭、というわけでもなかった。

  軍拡が盛んに行われていた当時、兵役は天職のようなものだった。

  制服を纏い、ツツを持ち、自分の腕っぷしを以て国を守れ、そして金を得られる。

  その上身体を鍛えることも、知識を得ることもできる…

  そして雄の目からして格好がいいことが、なによりも人気な理由だった。

  だからこそ血を重視して、"兵士"という生きるために強大な職を、手につけさせようとしていたのかもしれない。

  体が弱く特段夢もなかった私には、断る理由もなかった。

  「僕は…なんで兵隊さんにならなきゃいけないの?」

  「お前がこれから世の中を、強く強く生き抜く。

  そういう力を育てるためだぞ」

  「でも最近は"さらりーまん"とか、お金をたくさんもらうヒトが増えてるよ?」

  「コジロウ…」

  「お兄ちゃんだってきっと、そういうヒトになりたいのかもしれないでしょ?」

  「………」

  普通、親は自分の思い通りにならぬと、子どもに説法する体で拳を使ったりするものだが…

  「…それだけじゃないんだ。お金だけが世を渡る術とは限らん」

  「そうなの?」

  「うん」

  父は殴らないヒトだった。

  兄のことですべて観念してかかっていたのか、

  いつも私がなにを言っても、拳だけは出さなかった。

  さすが戦争経験者だからか知見が広く、様々なことを経験してきたようで、

  彼の話を聞くのは、ある種私の楽しみだった。

  「うっ…ひぐ…」

  「あらあら、どうしたの?」

  「転んだ…」

  「血は出てない?」

  「いっぱい出てる…」

  「うーん…あら、肘の裾穴空いちゃったね…」

  「うん…」

  「…こら男の子なんだから泣かないの。

  さ、それ脱ぎなさい」

  「え…?」

  「それお母さん縫いますから。あと早く肘のところ、唾付けときなさい!」

  母は面倒見がよく、私がなにか厄介をしても、

  なにも言わずに対処してくれるヒトだった。

  金がない家計でも、たくさんの楽しみを教えてくれ、

  私たち兄弟のことを、いつも想ってくれていた。

  そして兄は…

  「なあこのザリガニ、なんか黒くねーか?」

  「確かに。僕のよりちょっと黒めかも…?」

  「へへへ。きっとこいつも遊びまくって、日焼けしちまったんだろうな〜!」

  「ふふふふ、そうかもね」

  「おっし、じゃあ次はゲンゴロウの取り方〜!

  ちゃんと教えてやるからな!」

  「うんっ!」

  自然と自由が大好きで、いつも遊び呆けていた。

  だがこれでも学校では成績優秀で、算数も国語もお手の物だった。

  だからか、曲がったことが好かない私も…彼にだけは、なにか違う気持ちを抱いていた。

  「こらァ〜っ!! 他人の田んぼでなにしてんだガキ共ォォォーーーッッ!!」

  「うわやべっ、ぐわぁっ!!」

  「うわぁっ!?」

  「とっ捕まえたぞォ狐ェ…おめえらゲンコツじゃ済まさねえからな…!」

  「ごっ…」

  「「ごめんなさぁい…!」」

  いつもよさげな畑や田を見つけては、いろんな動植物の採り方を教えてくれて…

  挙げ句土地の持ち主に見つかって怒られるまでが、だいたいの流れだったかな。

  とにかく、私は兄とは仲良しだった。

  そんな兄が16になる頃。

  あれは真っ青な空に柔らかな光の射す、冬空の綺麗な日だった。

  「嫌だね。俺は出てく」

  「コタロウ…」

  「今更だろ? 俺は前々から言ってたじゃないか。

  兵隊にはならないって」

  「だがお前…行くあてはあるのか?」

  「あるさ。俺だって一端の狐獣人…

  舐めてもらっちゃ困るね!」

  「………」

  意識の違いから、兄が"家出をする"と決意を顕にしたのだ。

  決して兄と我々家族が、仲が悪かったわけではない。

  ただ、望むものが違ったのだ。

  「考え直してみてくれ。お前は成績優秀で、上級の士官学校さえ行ける頭があるんだぞ?」

  「だからなんだってのさ?」

  「それだけあれば、一生食っていくのに困らない。

  それに、金がないような窮地でも生きられる術だって…」

  「そんなもん要らねぇっつってんだろ!!!」

  「………」

  父は"兄の生命"、兄は"自由"。

  その望むものの差が、彼らの仲に溝を掘った。

  「いつか、後悔するよ」

  「へへ、言ってな。じゃねっ」

  「…お兄ちゃん待って」

  「…? コジロウ?」

  私は、兄のことが好きだった…

  恐らくそうなのだろう。

  だからあのとき、私は…

  「いつかまた…会えるよね!?

  僕たち、離れ離れでも…またすぐ会えるよね…?」

  しっかり、彼の朱色に光る瞳を見て言った。

  彼はまた、その輝く眼差しをもって…

  「…ああ。絶対会うぞ!!

  それまで元気でいろ!! いいな!?」

  そう言って私を…力強く抱きしめた。

  幼い頃に1度抱かれてから久しい抱擁だったこともあって…

  そのとき"離したくない"と、一心に思った。

  「…!! うん…!」

  それでも今上の別れと思った私は、彼の匂いをしかと鼻腔に焼き付けた。

  冬の寒さの中、彼は暖かかった。燃えるようだった。

  彼の体毛は柔らかく、いつでも陽のような暖かみがあり…

  …ごほん。

  そして耳元でこう囁いたのを、今でも忘れていない。

  「…いいか、コジロウ。希望だけは捨てちゃダメだ。

  自分はなにを信じるのか、なにを目指して生きるのか…

  見失っちゃダメだぞ」

  「…うん」

  「もし見失いそうになったら…俺を思い出せ。

  あのとき一緒に遊び回った俺…そしてお前をね」

  「うん…わかった…!」

  それを最後に、ここ20年近く…

  彼の顔は見ていない。

  ーーーーー

  「…アレ、いつの間にか兄貴の話になってませンかイ??」

  「細かいことは気にするな」

  私にもそういう過去はある。

  私のこの陰鬱そのものというようなヒト柄からは想像もつかないだろう。

  …そう言ってから気づいたが、誰しもやはり外面からは過去を量れぬものなのだな。

  幸福だった。

  よき父、よき母に恵まれ、またよき兄もいた。

  恨まれてもいい。それほど幸福だったのだ。

  「しっかし、戦ってたあのときァ忙しかったからネ、

  こういう話するのも新鮮でいいでサ」

  「ふふふ、そうだな」

  「兄貴サンのことは前々から聞いてヤしたが、

  ヤッパリ今でも憧れてるのデ?」

  「もちろんだ。彼のような自由で尊敬できる存在は、そう他にはいない」

  「へへへ、そうですかイ」

  いつの間にかぶらっしんぐを終え、隣に座っていた桜田。

  久しぶりにあいつの純朴な笑みを見た気がした。

  …と、思い出話の余韻に浸っていると、

  「…おっと、11時5分前ですゼ!!」

  「いけないっ、急がねば!」

  時間はあっという間に過ぎるもの。光陰なんとやら。

  筆記用具を持って、1階の入口へ急いだ。

  「はあ…はあ…」

  「あっ車長に桜田先輩」

  「やっと来ましたぁ〜」

  下には既に隊の皆と恩田がおり、我々を待っていた。

  特に恩田は顔をにやつかせて…

  「遅いぞ菜崎くん、桜田くん。

  "お楽しみ"だったのは構わないが…」

  「「そんなことしてませんッッッ!!」」

  2人で口が揃った。

  なにがお楽しみだ。この短時間でなにかするわけがない。

  「あ、ああ…そっか…」

  …まあ、思い出話を"お楽しみ"と言うのであれば、文字通り時間を忘れて楽しんだが…

  しゅんとした恩田に、少しく申し訳なさを感じた。

  「じゃ、講堂に行くよ〜」

  「講堂??」

  「教室って言った方がいいかな? 教官を務めてもらうヒトがいる以上、

  もちろん教育設備も欠かせないからね。ちゃんとあるさ」

  ーーーーー

  「教室番号は102。私は先生を連れて来るから、座って待っててくれ」

  「わかりました」

  講堂から歩いて数分、コンクリートでできた校舎が現れた。

  我々の知る木造の校舎とは違い、目に全て真新しく写った。

  「新しいな」

  「ですネェ」

  「アメリカさんも皆、こういう学び舎で勉強してるんでしょうか…」

  中に入って着席すると、恩田がとある犬獣人を連れて、遅れて入ってきた。

  「今回、講習の先生を務めさせてもらう…寺田だ。

  皆よろしくな」

  「「「「よろしくお願いします」」」」

  続く。

AdAd