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ボクは怪物。
皆がそう言うから、怪物。
ボエという名前があるんだけれど。
猫も杓子も、ボクが現れると逃げてゆくから。
薄汚れた森の最奥、満月も気に留めない洞穴で、
できる限り静かに過ごしています。
ボクの食べるのは、腐った物だとか、一般的には毒物だとか、だから…それほど迷惑は掛けていないんじゃないかな。虚しいことに。
ただ、隣で生き生きと揺れ動く、真っ赤な果実なんかを見ていると…
少しだけ、何処か遠くへ旅立ってみたいな…
なんて思ってしまいます。
いけないいけない、絶対に駄目なんだから。余計なことは考えない。楽しいことは想像していれば楽しいんだから。うん。
辺りは宵闇。
兎にも角にも、早く帰らなくちゃ…と。
気を取り直したら、
気がついたら、
ボクは知らない場所に立っていました。
道に迷ってしまいました。
幾度となく歩いた道なのに。不可思議なこともあるものだなあ。けれど、何かが起こる予感がして、ほんのり胸騒ぎがしちゃったりして。…はあ、子どもみたいだ。
どうしようもないボク。当てもなくどしどしと歩いていると、目の前に開けた草地が見えました。
こんなに容易く抜けられる森ではない筈なのに……。
ボクは森と草地の境界線から、ひっそりと草地を覗き込みました。
草地の中にぽつんと2つ、岩が並んでいて…
その1つに、女の子が座っていました。
[newpage]
美しく月に照らされる彼女、まるで…
天使みたい……。
うっとりと、眺めてしまった。
いけないいけない。ボクはなんて重罪を。
……え?
あの子、手招きしている。
その煌びやかな瞳をボクに向けて。
他に誰もいないよ。いない。
きっと見えていないんだ。
月明かりの届かない、ボクの奇っ怪な体が。
やはり姿を見せてはいけない。
戒めを胸に、立ち去ろうとしたとき。
「大丈夫」
あの子の声、春風のように優しい声。
「私は大丈夫ですから」
……
あの子、ボクに笑いかけてくれた。
ズシリ。
彼女の方へ向かってしまう。いけない。だめ。そう思っても戻れない。
ドシリ。
なんて我儘な脚なの。いつも開きっぱなしで、みっともないのに。
汚れきった八重歯が、月に照らされ始めてしまった。
せめて、先に、口を開かなくちゃ。口の中、毒みたいに青いけれど。
「ボク、こんな怪物だよ」
「怪物?」
あの子は、落ち着いたまま。
「……見えていないの?」
「見えますよ。その…お強そうなお体。」
どうして、平気な顔をしているの。
「だってこんな…垢の落ちない皮膚に、鱗の突き出たお腹、物騒な手に岩肌みたいな尻尾。
顔だって。ギョロっとした目に、鼻が不細工に出張って、口もぐちゃぐちゃのふてぶてしい仏頂面。
血しぶきみたいな赤毛が生えた始末の、どうにもおどろおどろしい……」
自分の悪口は、いくらでも浮かんでしまう。思い出せてしまう。
「こんな…恐ろしい怪物だから。逃げるのが当たり前…なのに。」
「ふふ。なんですか、それ。」
あ、あれはたぶん、苦笑い。
「私って少し、『当たり前』ができないものですから…。」
「あ…ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「それにね」
「恐ろしい怪物は、女の子から逃げようとしたりしません。」
月に照らされるあの子の、温かい光がとても眩しい。どうしてボクの方を向いてくれるの。
「こっちに来て、お話しましょ。」
ボクがこの子の、隣の岩に、座って、いいのかな。本当に、いいのかな…。
「あの…ボク、嫌なにおいするでしょ…?」
「平気ですよ。」
彼女の頭上には、淡い金色の輪が輝いている。天をそのまま被ったようなそれが、ボクを優しく迎え入れてくれる。
彼女は、落ち着いた様子で続ける。
「お名前は?」
「ボクは、ボエ…。誰も呼ばないけれど、ボエ。
……あ、いや、アナタは…?」
「私はムー。天使の端くれです。」
本当に天使なんだ……。
「端くれって、こんなに美しいのに、謙虚なんだね。」
あ、これボク、気持ち悪いかな。
「ごめんなさい、ボクなんかに言われても嬉しくないよね…」
「いいえ、嬉しいです。」
静寂を急いでかき消すような、その…それは、笑顔?
「けど、貴方こそ謙虚の塊じゃないですか。」
「ボクが醜いのは、本当のことだから……。」
「…それ、何なんですか?醜いとか怪物とか。」
一瞬だけ、黒い雲でも立ち込めたような気がした。
「皆そう言うんだ。怖い、汚い、おぞましい。見ているだけで不快になる。
ボクの体、顔も形もおかしいし、いくら頑張っても綺麗にならないんだ。自分でもそれがわかっちゃうし……。」
「…珍しいのは、おかしいんでしょうか。」
天使の輪の光が、僅かに薄くなったような。
「おかしいって、皆言うんだ。
ボクを見かければ逃げる、叫ぶ、石を投げる。それが当たり前。
まともにお話しできたことなんて一度もなくて、だから…ボクも諦めた。」
「それはお可哀想に……。」
ぽつり。
ぽつり。
赤毛が少し垂れ下がってきた。
いつの間に雨雲がやって来たみたい。
ああもう、鱗が濡れて、余計にぶっつぶつの濁色になってしまうよ。
「こんなに不格好で、無愛想で、どうしようもない体だから…仕方がないんだ。
でもね、ムーさんに出会えて、こんな風にお話しができて、今はとっても幸せ。本当に…本当にありがとう。」
「…いいえ。」
雨はどうやら軽い通り雨だったみたいで、
月が顔を出すと、彼女の瞳が煌めいた。
「不格好とか無愛想とか、私は思いませんから。貴方はとってもお優しい。出会ったばかりの私でも、ちゃんとそう思いますから。」
ああ、なんて美しいんだろう。月明かりをそのまま映し出したみたい…ううん、彼女の心が月を照らしているみたい。
まるで太陽だ。
まるで幻想だ。
「…確かにパッと見は怖いですけどね。」
あ、よかった。少しだけ現実味がある。
「そうだよね…ごめんなさい」
「謝らないで。」
声色が少し変わった。
その声は大人しいのに、妙に頭の奥に吹き渡るような気がした。
「貴方は…神を憎んだっていいのに。」
「に、憎むだなんてとんでもないっ。だって今、ムーさんと出会えて、本当に幸せだよ。夢みたいなの。感謝してもしきれないよ。」
神様だとか、全然知らないし、本当にいるのかなって、今までは思っていて…
夢の中に目を逸らすように、いたらいいなって、少しだけ、勝手に、心の拠り所にしてしまっていたけれど…
今、目の前に天使がいるんだもの。きっと神様もいるんだ。
「やっぱり素敵なひとですね。ボエさんって。」
どうしてそんなに褒めてくれるの?それに、名前…初めて呼んでもらえた。
それからもう少し、お話しは続いた。
ムーさんはあまりにも天使で…、やっぱり夢でも見ているのかもしれない。のに…
ゴ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"…ッ"
欠伸まで怪物なんだから、ボクったら……。
「ごめんなさい、みっともなくて…」
「いいえ。さぞお疲れのことでしょう。今日はこのくらいにして…良ければまた明日、ここでお喋りしませんか?」
「ほ、本当に?またボクとお喋りしてくれるの?」
「私がしたいんです。」
「…喜んで!とっても嬉しい!!」
あ、つい、喜びが溢れ出て
「ごめんなさい大声出して…」
「平気ですよ。」
やっぱり落ち着いている。凄いなあムーさんは……。
「それでは、また会いましょう。」
ムーさんは華麗に飛んでゆく。
背に大きな岩を背負っているようだけれど、それが月明かりで色鮮やかに輝いてまた綺麗…
って、駄目駄目あんまり見つめちゃ。
さて、そういえばもう住処に帰れそうもないや…今夜はどう過ごそう……。
ギョロギョロ、ギョロギョロ。怪物だけれど、獲物を探し回っているわけではなくて。
「キョロキョロとして、何かお探しですか?」
ムーさん、戻ってきた。キョロキョロって言ってくれた。
「あはは、実はボク迷子で…この辺りに身を隠せる暗い場所はないかなあって」
するとムーさんはなんだか俯いて、
「…お好きなところでお休みになってください。
…きっと誰も来ませんから……」
とても悲しい…いや、苦しいような、そんな顔。
「え、それってどういう…」
「いえ、すみません何でもなくて、お気になさらないでください…!それでは!!」
ムーさんは、急いで飛び去っていった。
[newpage]
次の日。…次の日?随分眠っていたと思うんだけれど。辺りはまだ夜…眠る前と違う曇り空で、宵闇を過ぎたような空気で……
もしかして、また夜!?
ボク、1日寝過ごしちゃった!?
慌てて昨日の草地に戻ると、既にムーさんが来ていた。
ああ、夢じゃなくて良かった…じゃなくて!
「ま、待たせちゃってごめんなさい…!」
ボクが言っていい台詞なのかな、これ。いや、この状況は他に言えることがない。
…あれ?本当にボクを待ってくれていたのかな…?昨日もボクが来る前からいたわけだし…不安になってきた……。
「大丈夫ですよ。」
ムーさんは相変わらず落ち着いた様子。
そっか。大丈夫なんだ。よかった……。
ゼェ、ハァ、…いや、たぶん、グルルルル、グァァァァ…ッ。
「随分走ったんですね。」
「グル…ヴゥ、ほんと、みっともなくて、ごめんなさい…息切れが、抑えられない……」
恥ずかしくって、それに迷惑だろうし、顔も合わせられないや……。
「ふふ。大丈夫ですから。」
あれ、なんだか笑っているような。
「足音、遠くから聞こえましたよ。地面から振動が伝わってきて、ドキドキしちゃいました。」
ああ…そうだよね……。ドスドス、ドタドタ……。ほんと恥ずかしいやボク……。
「ごめんなさい恐怖させて…」
「あ、そういうのじゃないですよ。」
???
「というかボエさん、謝りすぎです。」
「いくら謝っても足りないよ……。
なんだか、寝過ごしちゃったみたいで…今起きたばかりなの。いつもは朝、起きられるんだけれど……」
「…違うんです。」
ムーさんは静かに、風を切るように首を振った。
「違うって…何が?」
ボクは喧しく息を飲む、ムーさんの息が張り詰める。
「…ここは、夜の明けない世界なんです。」
「世界…?」
うっかり見上げた曇り空が、もっともっと曇ってゆく。
「違う世界なんです。この世界にいるのは、私とボエさんだけ…だと思います。」
あ、昨日の別れ際に言っていたことって、そういうこと…
そうだ、見慣れた森にいた筈なのに全然知らない場所に出たのも…そういうこと?
「ボク、違う世界に迷い込んでしまったんだ…本当に夢みたい。」
「やっぱり信じてくれるんですね。」
「だって、素敵な天使が目の前にいるんだもの。」
月の光がまたムーさんを照らす。
けれどなんだか落ち着きのない夜空。月が曇り空と戦っているよう。
「夜が明けなくても、ボクは今とっても幸せ…」
ハッ
「ムーさんは困るよね!こんなのと2人きりで閉じ込められちゃったなんて、それに、天使だもん、天使って…わからないけれど、することもあって、きっと家族やお友だちもいて…???」
「落ち着いてください!!!」
ムーさんの声に初めて感嘆符が付いた。そうだよね。つい慌てて変になっちゃって、ごめんなさい。
「…私は、もう少しゆっくりしていたいなって…そう思ってますから。」
「…天使って、やっぱり忙しいの?」
思わず聞いてしまったけれど…聞いてよかったのかな。そんなボクの不安を煽り立てるように、空が暗くなってきた。
「…私のことはいいんです。まあ、今はこの世界を…楽しみましょう、ボエさん。」
聞いちゃいけなかったのかもしれない。守秘義務だとか、きっとあるんだ。この世に知られてはいけないこと。
けれど、怒ってはいない…のかな?
一緒にいて、一緒に楽しむ。そんなことができるのなら、とても嬉しいお誘いなんだけれど…
本当に、いいのかなって、なにか心に訴えるように風が吹いて、なんだか胸が痛いような気がする。
熱風のように暖かくて、熱いくらいで、酔いどれそうになっていたら、涼風が水を差してきた。
あ、ちょっと待って、
ゴ"ギ"ュ"ル"ル"ル"ル"ル"ル"ル"…ッ"
ああもう。
だから怪物だなんて言われるんだよ、ボクは……。
「起きてから何も食べてないんですね。」
「ごめんなさい…本当にお恥ずかしい…」
「お食事にしましょう。私もなにか食べてみたい気分なんです。」
なにか食べてみたい…?
そっか、天使って食事の必要がなかったりするのかな…。まあ聞かないでおこう。
森を散策してみると、いろんな果実が実っていた。
「カラフルでワクワクしますね。」
「本当に不思議な世界だね。」
その中に1本、カリンの木が。果実が満ち満ちに実っているかのように、全部腐ったまましがみ付いている。
「こんな鮮やかな木々の中にたった1本…」
「何かあったんでしょうか…」
「もしくは環境が合わないとか…。こんな状態で枯れていないのが不思議なくらい。
ボクとしては都合がいいけれど。」
「そうなんですか?」
「ボクはこんな風に腐った果実を食べるんだ。…ボクにはこれがいいんだけど、皆は違うみたいで。そんなところまでボクは怪物…」
隣を見ると、腐ったカリンをもぎ取っているムーさん。
「…すごい香り。」
「いや、ある意味すごいと思うけど!良くない匂いだよ!?たぶん、ボクと同じような…」
自覚すればするほどに悲しくなる。申し訳なくなるよ。
「私はあまり匂いに触れて来なかったので、どれも楽しんでます。大丈夫ですよ。」
そ、そっか…本当かな……。
ムーさんったら、仏様みたいに動じない。優しいんだから。
…というか、
「ムーさん、それ、どうするの?」
「どうって…一緒に食べませんか?」
「だめだめ!駄目だよ!口に合わないよ!!」
「そうですか……。」
「ええっと、たぶん、普通の皆が美味しいって言うのが、周りにいっぱい実っているから。ムーさんはそっちを食べてよ。」
「じゃあ、そうします。」
ムーさんは思っていた以上に食事経験がなさそう。
ムーさんは周りを飛び回る。ボクは腐ったカリンを集める。
食事量もワガママな体のボクだけれど、この木1本で数日は持ってしまいそう……。
ボクはムーさんと分け合うこともできない怪物で…よかった。よかったよ。
果実を抱いたムーさんが、隣に来てくれる。
「たしかに、こんな綺麗な実がなったときに嬉しいんだって、聞いたことがあります。
それに…一緒に食べるご飯が美味しいって。」
ボクは、誰かと一緒に食事ができるときが来るなんて、思ってもいなかった。
「だから一緒に食べたかったんです。」
ムーさんの笑顔が、満開に弾けた。
昨日よりももっと眩しくて…でもほんのりと優しい光。
ボクは照れるばかり。
ふと空を見上げたら、月が曇り空を追っ払ってしまったみたい。
一際輝くデネブの星が、それはまあ綺麗。
[newpage]
それから、ボクらは毎日のように会うようになった。
ただ、雨の日はムーさんはあの草地に来ないみたい。それはそうだ。濡れるのは嫌だよね。
ボクは雨の日も、気がついたらムーさんのことばかり考えるようになっていた。
そして月が出たら、新しい何かを探しに行くんだ。
綺麗な花を見つけては、ムーさんに見せに行った。
清らかな滝を、一緒に眺めた。
不思議な石を、一緒に見つめた。
「良いなあ。あれも、これも、どれも素敵だなあ。」
「ボエさん、ずっと感動してますね。私もですけど。」
「ずうっと、見たかったんだ。こんな景色。森の外にはどんな世界が広がっているんだろうって、憧れていたの。」
「…森の外に出たこと、ないんですか?」
「うん。だってボクが他所の地に現れてしまったら、きっと悲鳴だらけになってしまうよ。捕えられるかもしれない。森の中でさえ嫌われていたから、できるだけ見つからないように過ごしていたんだ……。」
「ボエさん……。」
ムーさんの顔が、暗くなる。
色なき風が、ボクを叱りつける。
「ごめんなさい、暗い話しちゃって…」
「いいえ。聞きたいです。聞かせてください。
貴方は…そんなお辛い思いをして、どうして生きてこられたんですか。」
真っ黒な夜空にいわし雲がどさっと押しかけて、何かが起こりそうな空気。
恐ろしくて、苦しくて、その中に、僅かに1粒、希望の光を求めているような。
いつも動じないムーさんの、眩しい笑顔で振り向いてくれるムーさんの、時々苦しそうな、その正体に迫るような。
「……ボクは、いつも夢を見て生きてきたんだ。
小さな蕾、風の音、揺れる葉っぱに滴る光。とりどりの季節の声に浸って、もっと素敵な世界を想像して…。
生きているのが嫌にならないように、妄想ばかりしていたの。…自分でも気持ち悪いかなって思うんだけれど。」
現実逃避ばかり。
「でもね、ボクは今、ムーさんのおかげでとっても幸せ。それに…」
ムーさんの隣は、とっても居心地が良いけれど。
ボクの現実はここじゃない。
「それに……」
ムーさんにも、きっとここじゃない現実がある。
きっとボクなんかよりも大切な。
「…もしもムーさんとお別れするときが来ても、ボクはムーさんのおかげでもっと強く生きられる気がするの。」
何を言っていいか、わからないけれど。
「少しね、本当に旅に出てみたいなって…思うんだ。
ボクの元いた世界はきっと甘くないけれど、誰に何を言われるかわからないけれど、何が起こるかわからないけれど。
それでも、1歩踏み出してみたい。ムーさんみたいな希望の光が、何処かにいるかもしれないから。」
ボクにできるのは、素直に気持ちを伝えることだけ。
「ムーさんのおかげで、生きていてもいいんだって、思えたんだよ。」
……
……
……
少しの、けれどボクの心には随分と長い、静寂が流れた。
暗くって、暗すぎて、ムーさんの表情はよく見えない。
「…ありがとうございます。」
それは感謝の言葉なのに、今までのどの言葉よりも弱々しい声だった。
今まさに最後の葉が落ちてしまう枯れ木のような、決定的な声。
ボク、何かいけないことを言ってしまったのかもしれない。
どうにかしなくちゃ、けれど、どうしよう、どうしよう。ボクが行動に出る前に。
ムーさんは、小さく口を開いた。
「この世界は……」
……
……
……
「すみません、ボエさん……。」
この世界は……、それに続く言葉は出てこなかった。
「どうして謝るの?」
「それは…その……」
……
……
……
その静寂に風の音が強く流れ始めた。
ずっと真っ黒な空模様、風も強くなっちゃ敵わない。けれどムーさんの声が聞き取れないわけじゃない。ムーさんは喋っていない。
この世界…
そうだ、ムーさんは最初からこの世界に詳しいみたいだった。
「…ムーさんはこの世界について、何か知っているの?」
…ムーさんは俯いて、返事は無かった。
悪いことを聞いてしまったかな。
「…ごめんなさい」
「謝らないで。」
ムーさんはいつもと同じようにそう言うけれど、俯いたまま。
きっと何かを言いたがっている。けれど、言えないこともあるのかもしれない。天使なわけだし、それに、女の子は繊細なんだって、聞いたことがあるし。
言われたくないことも沢山言われてきたボクは、誰の心にも触れて来なかったボクは、きっと察しが悪い。けれど、でも。
「…ボクになら、何を言ったって大丈夫だよ。」
……。
「ボクったら何言っているんだろうね!?」
「ふふ、もう、落ち着いてください。」
…顔を上げてくれた。
これはたぶん、苦笑い。
[newpage]
次の日は、雪が降ってきた。
…あれ?今日ってこの世界に入って、何日目だったっけ……?
なんだか季節がわからなくなってきた。ずっと夜だし、植物も当てにならない、不思議な世界だから…そっか、不思議な世界だもの。雪が降っても冬とは限らないかもしれない。
今日は草地にムーさんがいた。
雪に濡れるのは平気みたい。急に吹雪いたりしないかな……その時は何が何でも守らなくちゃ。
…ちょっぴり図々しい気持ちはさて置いて。
ムーさんは落ち着いた様子だから、昨日の話はもう気にしないことにしよう。
今ボクにできることは、一緒に楽しく過ごすことだけ。
「雪って、いいよね。」
「いいですよね。」
そう、うっとりしちゃう。
「ゆらりゆらりと舞い降りて」
妖精みたいに。
「真っ白に積もり積もって」
天使みたいに。
「そう、純白に埋め尽くされた森は、とっても…」
ハッ
「あはは、ボクったら妄想で盛り上がっちゃって……。」
「いいじゃないですか。」
「でも実際はね、ボクが歩くとすんごく汚れちゃうから、歩きたくなくなっちゃうよ。
…せっかく美しいのに。」
「でも、重たいんです。」
「そうそう、以外と重たいんだよね。」
「少し、怖いんです。」
「雪崩は怖いね。」
……。
あれ?何だろうこの空気。
雪の日の澄んだ空気とは、まるで違うような気がしてきた。
徐に俯いたムーさんの吐息は、美麗に舞い上がる。
「……私、怖いことがあるんです。」
「怖い…?」
雪の話…?いや…この感じは……
昨日の話と、関係があるのかな…。
「…ごめんなさい、何でも……
なく、は、
ない…
ですけど……」
ふるふる、ぶるぶる。
吐息がこんがらかっていく。
…どうしても言えないんだ。
「なにか事情があるんだね。」
何を言ったらいいんだろう。ずっとひとりでいた、ボクは、何もわからない…けれど。
「…ボクはムーさんの力になりたい。ボクにできることがあれば、頼ってほしい。」
「…ほら、こんな怪物だけれど…だからね、力だけは強いからね。怖いものなんてないよ。」
何なら言える、何ならできる、無骨な頭を必死に回して、毒色の口から滑り出た言葉。
「ボクが傍にいるから」
あれ、今ボクとんでもなく図々しいこと言った。
ムーさんがどんなに優しくたって、怪物は怪物らしく……
そうだよ、所詮は怪物なんだから…
あれ……?
ムーさんはずっとこの世界で…怯えていて…言えないことがあるわけで……
「もしかして怖いのってボクのこと…」
「…違いますよ。」
ムーさんは顔を上げて、ボクの顔を見て言ってくれた。
落ち込んでいるのに。何かに怯えているのに。
「もう、今さら何言ってるんですか。自信持ってください。貴方はとっても…お優しいんだから……」
今、たぶん、笑おうとしたけれど、すぐに暗くなった。
ごめんなさい。ボクのことを褒めている場合ではない筈なのに。
ボクって無力だ。
次の目覚めは大雨だった。
なんだかひどく虚しいや。
心に抱いた蟠りを、天から投げ捨てられているみたい。
ムーさんはどうしているかな。
雨の日はムーさんを見たことがないけれど。
本当に雨を凌いでいるのかな。
探しに行ってみようかな。
だって、こんなやるせない空の下。
あの子が辛い思いをしていたら、怖い思いをしていたら。
怖い……?
この世界……雪……怖い……
もしかして、怖いことって、このことだったのかもしれない。
この世界に詳しいムーさんは…例えばこの世界を抜け出す方法だとか、何か秘密を抱えて、ひとりで戦っているのかもしれない。
もしも、もしも、
彼女がびしょ濡れになって震えていたら…
荒れ狂う風に飛ばされて怪我を負っていたら…
…行かなくちゃ!!!
余計なお世話かもしれないけれど、
考えすぎかもしれないけれど、
彼女の震え戦く声が、胸を突き刺して止まないから!!
ドスドス、ドタドタ。グッチャグチャ。
喧しいボクの息切れも、かき消すような大雨の中。
あちこち探し回った。
その末に、最後に向かった。
そこにいるとは思わなかった。
ムーさんは、あの草地に、あの岩に座っていた。
[newpage]
……どうして。
「ムーさん!どうしたの!?」
「…ボエさん
……どうしてここに?」
ムーさんこそ、こんな冷える日に、全身びしょ濡れで、どうしてそこに。
「だって…ひとりで何か抱え込んでいるなら、やっぱり教えてほしいよ!ボクも貴女の支えになりたい!!」
ウルウルと煌めくムーさんの瞳は、雨に濡れっぱなしだけれど、それよりも涙に濡れているような気がして。
「とりあえず、大きな葉っぱでも持ってくるから…」
ムーさんは、水を切るように首を振った。
「…このままで居させてください。」
一体どうして。ボクは、見つめることしかできないの?
「…私、貴方に謝らなくてはいけないことがあるんです。」
突風が吹き荒れて、けれどムーさんがくっきり見えた。
真っ直ぐな眼差しだった。
もう、大雨ですら気にならない。
ボクは、隣の岩に座った。
彼女の天使の輪がいつの間にか紫色に染まっている。灰被りのそれが、ボクに迷いを訴える。
そしてムーさんが、口を開いた。
「実はこの世界は、私のつくった世界なんです。」
ムーさんの…つくった世界?
「私は天使として不完全なあまりに、どうしてもルールを守ることができず…
苦しくて、苦しくて、
もう働くことができなくて、
このままでは堕天してしまいそうで…
苦し紛れにつくったこの世界に逃げ込み、閉じこもっているんです。
逃げ込むときに、貴方を見つけて…。今ひとりになったら、私の心は本当に終わってしまう。そう思って、咄嗟に、貴方をこの世界に巻き込んでしまったんです。」
「だから、私が貴方に縋ってるだけなんです。本当は、貴方がこの世界から出られないわけじゃないのに。
…本当にごめんなさい、ボエさん。」
「…いいよ。
ボクは…ボクは、ムーさんの支えになれていたなら、とっても嬉しい。
ボクはムーさんに、この世界に、すっごく感謝してる。今とっても幸せだもの、怒る理由なんて何も無いよ。」
「…やっぱり、天使失格なんです。」
「…どういうこと?」
ぽつり。
ぽつり。
涙が、零れる。
「天使には、天上の時を過ごした亡者様を来世へとご案内する務めがあります。
亡者様の最期のお話を聞き、
記憶を完全に消し去り、
心をも消し去り、
未練の無くなった魂を、来世へと送り出さねばなりません。」
「でも…私にはそれができない。情が沸いてしまうんです。」
情…ボクにいっぱい与えてくれた、温情。
「話を聞けば気になってしまう。つい盛り上がってしまう。一緒に笑って、怒って、泣いてしまう。亡者様の大切な生前のこと、私がこっそり消してしまうなんて、そんな残酷なことできないって、思ってしまうんです。
目の前には、私にいっぱい生前のこと語って、私の同情で、きっと未練が増してしまった亡者様が、
なんの疑いもない顔で私を見つめているんですよ……。」
そんな苦しみにもがいていたんだ。ボクには到底想像のつかない苦しみを隠して、笑っていたんだ。
「天使は、いつも笑顔でいなければならないんです。
それなのに、亡者様の前で泣いてしまうんです。
同情なんて、してはいけないのに。してしまうんです。
私は天使なんてガラじゃない。
作り物の笑顔は向けられない。
…ダメダメの、天の不良品なんです。」
「…ムーさんはダメダメじゃない。不良品なわけないよ。」
「……。」
いくらでも言いたいけれど、たぶん今は、そうじゃなくて。
「…天使のお仕事は、嫌?」
「…嫌じゃありません。亡者様と過ごす最期の時間は、何より温かいんです。それに、分かってはいるんです。どんなに残酷でも、大切な務めだと……。」
「…もしもね、ボクが天に昇れたのなら。ムーさんみたいな天使に、迎え入れてほしいんだ。」
「ボエさん……?」
「ムーさんは素敵な天使だもの。ボクには天の事情はよくわからないけれど。心優しいそのままのムーさんが、1番良いと思う。
だって、笑っていなくたって、嬉しかった。同情だって、幸せだった。
ボクは、生きたくなった。」
「ボエさんったら…本当に貴方は…もう……っ」
ムーさんは喜怒哀楽が全部混ざったような顔で。
「…それじゃダメなんです!!!」
飛び去ってしまった。
「待って、違う…」
ボクやらかした。絶対に間違えた。無責任だ。
きっと伝わっていないんだ。そうじゃないんだ。
追いかけなくちゃ。
絶対に今、言い直さなくちゃ。
[newpage]
乱れてもふらついても、美しく舞う天使に。
愚かなボクが突き放してしまった、大切なムーさんに。
走っても走っても、追いつけないけれど。
ドスドス転げ回る怪物でいい。
ドタドタ転げ落ちる怪物でいい。
冷えきった陽の光が熱く胸を刺しても、
たとえこの身が焼かれても!!!
ボクは今、彼女の傍に行きたい。
そしてあの太陽を、天に帰したい。
いつからだろう。空はもうぐちゃぐちゃで、月が出ては曇って、雨が降り始めたと思えば雷が鳴って、雪が降ってはまた雨が降る。
雨粒の1つに、彼女の温かさを感じた。
「…雪解雨みたいなんだ。」
やっと追いついた。
喧しいボクの息切れも、もうどうだっていい。
「…なんですか、それ。」
「ムーさんの優しさが、みんな温かく解かしてくれた。嫌だったことも、嫌だった自分も。
ムーさんのおかげで、もっと前向きに生きてみたいって思えたの。生きたいって、未練じゃないよ。新しい1歩を踏み出す勇気をもらったんだ。
だからきっと、大丈夫。亡者さんたちも、ムーさんにお見送りされるのが幸せだと思う。何より温かい時間を、最期にもらえるんだもの。」
「ボエさん……。」
月に照らされる彼女の瞳が、少しづつ光を取り戻して、真っ直ぐにボクの方を向いてくれる。
「できるよ。ムーさんなら。
貴女の迎えを待っている、誰かがいるでしょ。」
「…ありがとうございます。」
天使の輪が金色に戻ってゆく。眩しい光がキラっと弾ける。
「…はあ、貴方があんまりピュアだから、ほだされちゃいました。
でも、天使としては許されないかもしれません……。」
天使って難しい。
労る目を見せては罪なのか。
眩しい顔を絶やせば闇なのか。
ねえ神様、そうなの?
そんなわけない。
暗い日だって太陽だ。
それは絶対、確かなんだ。
「…ボクには天の事情はよくわからないけれど。
どうしても無理に笑っていなくちゃいけないのなら、神様がそう言うのなら……
ボクが罰を受けたっていい!
ボクが地に落とされたっていい!!
だから…ボクのせいにしてよ。」
ボクが取れる責任は、それだけだ。
「ボエさん、何を言って…」
「だって元々ムーさんに出会えなければ、ろくでもない人生だったんだよ。
ボクは堕ちがけの天使に恋した怪物…
貴女を誑かした、悪魔みたいな怪物だ。」
「ただひとり大切な貴女に、全て捧げても足りないくらい…愛の重たい怪物の、最後のワガママ。ね、お願い。」
うわ、ボク気持ち悪い。
「…誑かしたの、私じゃないですか。」
「愚かな怪物は天使のご加護を受けた気になって、幸せいっぱいで旅に出るから!そんなことはいいの!!」
「…ふふ、ふふふ。もう…もう!」
ああ、これで見納めかな。眩しくて眩しくて、何よりも美しい。その笑顔。
「…あー、もう、カッコつけちゃって。
やっぱり最後まで素敵な怪物さんです。」
「あはは、嬉しい!」
ああ、いろんな顔してくれるなあ。ボクは本当に幸せ者だなあ。
「…ボエさん、無理してません?」
「え?無理なんてしてないよ、無理なんて…」
ボクのだらしないギョロ目から、ツーっと伝っていくドロドロを、彼女は見逃さなかった。
「 …嘘なんてつけないね。素直が1番だ。ちょっぴり寂しい。」
けれど、ボクがこう言ってしまうと、やっぱり彼女は罪に思うみたい。
「ボエさん…ごめんなさい。」
「謝らないで!」
「ボクは貴女と出会ってから、そしてこれからも、ずっと幸せだよ。
本当に、本当にありがとう。ムーさん。」
「…いいえ、こちらこそ。
ありがとう。ボエさん。」
そうしてボクは、天へと帰るムーさんを見送った。
天から光が差して、ひらりと昇ってゆく彼女の姿。ああ、なんと言えばいいの、早天の空、優美に飛び立つは、フォーリンエンジェル…それは、とっても、とっても、とっっても、美しかった。当分忘れられないや。今この時間に浴びた光は、当分絶えないや。
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気がついたら、ボクは元いた世界に立っていました。不思議な長い夜は、とうとう明けてしまったようです。
ここは森の出口、開けた草原が辺り一面に。
ボクは相変わらず不格好な背にいっぱいの朝焼けを浴びて、旅の1歩を踏み出しました。
この先何が起こっても構わない。
なんと言われても戻らない。
前向きに生きていこう、そう心に誓ったんだ。
いつかまた、あの子に会えるように。
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