ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活14
昼下がりの校舎は終わらない夏の暑さに照らされ続けているが、小さな窓も閉めきった部室の中までは届かなかった。いつ見ても整備されている中庭をたまに眺めながら、冷房の効いた室内で黙々と作業を進める。夏休み最終日、流石に学校に来ているのは補習の三年生か一部の部活動生だけで、いつもより静まり返った校舎は居心地が良く、特別感を味わっていた。
手元にある飛行機の形をした大道具にかれこれ三時間以上色を塗り続けているが、いい加減腕が痛くなってきた。細かい色味は決まってないから雑に一面塗ってしまえばいいだけだけど、何分大きくて塗り残しがないようにするのが大変だ。椎名先輩のこだわりで見えないはずの側面までしっかり作るよう指示されているし。
すると、部室の扉が開いて犬獣人の青木先輩が入ってきた。手には色々と荷物を持っている。
「お疲れ~あれ、めっちゃできてるじゃん!渡嘉敷頑張ったねー」
「……ぁ、お疲れさまです」
夏休み中に掃除を行った部室は整頓されてかなりスペースが広くなったが、舞台のセットやそれを作る道具を並べているうちに元に戻ったように錯覚した。青木先輩は器用に足下を避けながら、使われていない椅子の上にドサッと荷物を置いた。
「いやほんと助かるよ。夏休み最終日に来れる人、渡嘉敷くらいしかいないからさ」
「……暇ですから」
「いやいや、みんな宿題終わってないんだよ。僕も終わってないし」
自虐気味に笑う青木先輩に微笑み返すと、先輩は荷物の中からスポーツドリンクを取り出した。
「はい、お礼」
「いいんですか?」
「もちろん。夏の間頑張ってくれたじゃん」
「……ありがとうございます」
冷房の効いた部屋とはいえ、数時間籠っていたら喉も渇く。なんか部活っぽいな、と思いながらありがたくスポーツドリンクを飲み始める。とりあえず一回休憩しないとな。
改めて部屋を見渡すと、懸命に作り続けた舞台の道具たちがあちこちに散見される。帰省して新学期が始まるまでの二週間ほど、俺は毎日のように部室に来ては演劇部の手伝いをしていた。単純にやることが無かったのと、夏休みはみんな他のことで忙しいらしく、椎名先輩と青木先輩くらいしか部室に顔を出していなかった。本番は11月3日の文化祭、二学期が始まると忙しくなるため、夏休みの間に道具をたくさん作った。大体は青木先輩が設計して、簡単な作業を手伝っていただけだったが、それでも一人より二人、効率はとても上がったらしい。元々これを一人でやるつもりだった青木先輩に驚きつつも、感謝されるのも物を作るのも多少なりとも楽しかった。
俺が一息ついて大きく深呼吸すると、青木先輩は俺の作業のチェックをし始める。
「…………うん、いい感じ。乾いてから多少色味足すけど、8割はできてる」
「間に合いそうですか?」
「あー全然間に合うよ。ていうか椎名がどんどん追加注文出してるだけで、無くても成立する物もあるからね」
それは薄々感じ取っていたが、これ何に使うんだろう?と疑問に思いながら作業していた。椎名先輩の文化祭にかける想いは凄まじく、自分の受験もあるのに四六時中舞台のことを考えているらしい。だからこそ夏休みに活動できないのがもどかしく、頻繁に部室に来ていたのだ。
「………椎名先輩の注文にすぐ応えられるのスゴいですね」
「え、僕が?いやいや、渡嘉敷くんの協力のおかげだよ」
「俺は簡単な作業しかできないんで……飛行機の設計図なんか普通書けませんよ」
青木先輩は工作の才能がスゴくて、椎名先輩がこんな感じと注文したものを忠実に再現して作ることができる。端から見ると二人はとても息の合ったコンビだなと思うけど、あまりルーツを聞いたことはなかった。
「昔から好きなんだ、段ボール工作みたいな」
「…………椎名先輩と仲良いですよね?どれくらいの付き合いなんですか?」
「椎名は中学からだね。中学の演劇部で会って、ずっと今みたいな感じ。でも別に遊びに行ったりしたことはないし、共通の友人は多いけど、直接どうこうってのはないかな……腐れ縁だね」
俺から見ると友達にしか見えないけれど、どこかそれとも違う関係なのかもしれない。椎名先輩は可愛らしいが我も強く、それに従いつつも信頼し合っているような二人は、親友のように思えるけど。
青木先輩は背もたれに寄りかかると、愚痴のように話し始める。
「昔っから椎名はわがままでさ。中学のときは先輩と衝突したり、ちょっとハブられたり問題もあったんだ。その度に俺が宥めたり尻拭いしたり大変だったよ」
「………青木先輩の支えがあったんですね」
「まぁね。でせっかく稲光に入ったのに、結局二人とも恋人も作らずに演劇部やってる。もうすぐ卒業だってのに、何やってんだろうねホント」
少し悲観的な内容とは裏腹に、青木先輩の表情は朗らかだった。そんなに後悔してるというわけでもなさそうだが、多少は嘆いているのかもしれない。
「やっぱり恋愛目的で入ったんですか?」
「もちろん。でも部活忙しいし、恋人作りに励む余裕も無かったね。三年になってイケメンな後輩入ってきたと思ったら、久郷田の恋人だったし」
「……っ、それ俺のことですか?」
「はは、冗談冗談。でももうちょい二年までに遊んどけば良かったーって思ってる」
恋人扱いされたのはとりあえず置いといて、青木先輩の話を聞いてると高校生なんてあっという間なんだなと感じた。日々を懸命に生きてるだけで、気づけば卒業してしまうくらいに。俺は恋人作りはほぼ諦めてるけど、都会に馴染もうと努力してるうちに高校生活は終わってしまうのかもしれない。何を思って過ごしていくのが正解なんだろうか。
「……稲光にいる人って、実際どれくらいカップルになってるんですかね」
「あー分かんないけど……体感半分くらい?一部の人がすぐ付き合って別れてやってるけど、僕みたいに誰からも相手にされない人もいるし」
「……………そうなんですか?」
「意外と多いよ。運動部のやつはモテモテだけど、文化部はねぇ」
学園に転入した直後はよく分かってなかったけど、運動部はやたらとイチャイチャしてるのを見るなぁと最近気づいた。やはりゲイは体を鍛えてる人がモテるらしく、運動部じゃなくても筋トレの話はよく耳にする。でもそれって女子にも言えることなんだろうか。女子生徒と話す機会が無さすぎて情報が偏ってるけれど。
稲光の事情を話しつつ、青木先輩は俺が止めていた作業の続きをやり始めた。さっきまで補習だったろうに、すぐに工作へ取り組めるのはやっぱり好きだからなんだろう。
「……それにしてもこの飛行機大きいですね」
実際のプロペラ機と比べたらミニスケールだと思うが、高校生が夏休みに作る工作にしては相当大きい。やはり舞台上ではこれくらいないと迫力が足りないんだろうか。
「まぁキーアイテムっていうか、一番大事なとこだからね」
「え、そうなんですか?」
俺の間抜けな返事に青木先輩は手を止めて呆れた顔をする。
「台本まだ読んでないの?」
「……一回ざっくりとは読みました」
「まぁ暗転中に大道具運ぶだけなら、そんなにセリフまで読み込まなくてもいいけど。椎名が聞いたらたぶん怒るよ」
俺の演劇部でのポジションはあくまで裏方の手伝い、って感じだから、あまり積極的に関わるつもりはなかった。それでも夏休みにこれだけ携わってしまった以上、部外者みたいな顔はしてられないかもしれない。あんまり演劇に興味ない、なんて言えないしな。
「…………帰ったら読みます」
「せっかく寮の後輩が主役張るんだから、ちゃんと応援してあげなよ」
「……え?」
待て、今なんて言った?
「え?もしかして配役も知らないの?」
「……台本読んだときはまだ書いてなくて」
「いや、今回は上柴が主人公だよ?聞いてないの?」
「えっ!?」
俺の驚く表情に青木先輩も流石にちょっと引いてるようだった。いくら手伝いとはいえあまりにも興味を持たなかったのは良くないな。
ただそれはさておき、まだ一年生の上柴が主人公だなんて知らなかった。今年卒業する三年生もいるのに、それで良かったんだろうか。
「……一年生が主役でいいんですか?」
「そりゃ嫌な三年もいるだろうけど、今回の台本にハマリ役だったのと、やっぱり親が大女優なだけあって上手いんだよ。ちゃんと実力で評価したいって椎名が決めたんだ」
「……………………………………」
上柴の母親は上柴香織という女優さんで、ドラマとかも出てるような有名な人だ。上柴自身が演技の道に進みたいのかは知らないけど、椎名先輩も唸らせる流石の実力らしい。
上柴が主役と聞いて、前よりもこの劇に興味が湧いてきた。なんか王子様が出てくる話だったと思うが、改めて読み込んでみるか。意外と長いんだよな。
「………上柴が乗る飛行機なんですか?」
「はぁ。違うよ」
呆れ返る青木先輩をこれ以上落胆させないためにも、劇の内容に関する話はそれ以降しなかった。
18時の点呼前の夕暮れの時間、学校から帰って寮の玄関に入ると、大きな段ボールが2つ廊下の前に積んであった。宅配物にしては大きすぎる気もしたが、とりあえず寮監を呼んだ方がいいのか迷っていたとき、階段の方から重い足音が聞こえてきて、靴箱の影からそっとそちらを観察した。
ドスンとよく響く複数の足音が近づいてくると、螺旋階段の入り口から大柄な相田先輩と、その横にさらに大きな黒毛の熊獣人が降りてきた。
「………するべきだったが、その時は分からなくてな」
「あーーなるほどねーー」
階段を埋め尽くす壁のような二人は何かを話してる様子だった。内容は分からなかったが、その図体に比例して野太く低い声が玄関に反響している。当然見たことない人だけれど、巨大な段ボールを運ぼうとしている様子を見て、粗方の想像はついた。意を決して話しかけに行ってみる。
「………相田先輩、お疲れ様です」
「んー?おぉ渡嘉敷ーー良いとこに来たなー」
恐る恐る話しかけると、二人はのっそりと振り向いて俺を見下ろした。熊獣人は2mはゆうに超していて、近くで見ると何とも言えない恐怖感があった。
「………一年生か?」
「いやー転入した二年生だよーー」
「……ぁ、初めまして………二年の渡嘉敷です」
自分の脳内イメージでは篠崎のように気持ちよく自己紹介をしたかったけれど、熊獣人のあまりの威圧感に萎縮してしまう。単純に身長が高いのもあるが、この人はガタイも良くて筋肉質だった。それでいて姿勢がとても良く、憶測だが武術をやっていそうな感じだ。
「……三年の京極だ。先日交換留学から帰省した。短い間だがよろしく頼む」
渋い声色でゴツゴツした大きな手のひらを差し出す京極先輩。おずおずと手を握ると、力強く包み込まれた。見た目といい雰囲気といいじぃちゃんに似てるような感触があったが、顔も図体もじぃちゃんよりよっぽど怖い。
横の相田先輩はニヤニヤしていて、この状況を楽しんでいるようだ。他人事だと思って。
「…………よろしくお願いします」
「京極のこと前に話さなかったかーー?」
「ちょっとだけ聞きました」
「……なんと言ったんだ?」
「見た目怖いけど真面目で良い奴だよーーって」
「…………否定はしない。だが、俺は短い期間でも稲光での生活を全うしたいと思っている。後輩とも打ち解けられるよう努力する」
握手を終えて京極先輩は堅い口調でおそらくよろしくと言ってくれた。以前は堅物や真面目、武士みたいと聞いていたが、見たところそのままのイメージかもしれない。冗談とか言ったりするんだろうか。
「なんか堅いなぁー京極。留学でフランクになったんじゃないのかーー?」
「あぁ。だが初対面の後輩には、誠実な態度を取るべきだろ?」
「それが堅いんだってーー」
相田先輩の指摘に少し顔をしかめる京極先輩。二人の関係性は知らないけど、仲は良さそうだ。相田先輩の柔らかさが丁度よく空気を中和している。
二人は俺に背を向けて、中身が詰まった重そうな段ボールを軽々と持ち上げる。
「今京極の荷解きしてるんだーー渡嘉敷も来るかーー?」
「…………あぁ……えっと……」
「ちょうど今帰宅したところだろう。手伝わせるのは申し訳ない」
乗り気じゃない俺の声色を察してか、京極先輩は返事をする前に断ってくれた。手伝うのが嫌というか、気まずくならないかなと危惧してのことだったので、こちらこそ少し申し訳なくなった。
「そっかーーまぁ点呼もあるしなーー」
「あぁ。また後で話そう」
京極先輩はじっと俺の目を見つめると、踵を返して再び階段を上っていく。その後を続く相田先輩の背を見ながら、改めて本当に大きな人だなと思った。熊獣人は大型獣人に分類されるが、超大型の町でも生活できると認定されている。中型の俺たちと一緒に生活するなら、色々な場面でサイズに気を遣うことも多くて大変だろう。とはいえ超大型の中では小さいんだから、難しいところだ。
階段を一方通行にしてしまう二人がいなくなって少ししてから、俺も部屋に帰ろうかと思ったとき、玄関の外から見覚えのある顔を見つけて踏み出した足を止める。小さなスーツケースと共に、疲れた顔のこーすけが玄関に入ってきた。
「…………あれ?哲也じゃん!俺のこと待ってたの?」
「久しぶり。そんな訳あるか」
ニヤリと笑って靴を脱ぐこーすけ。会うのは一ヶ月ぶりだが、見た目は特に変わってない。
「なんで制服?学校行ってたの?」
「あぁ……まぁな。部活だった」
「最終日にもあるんだ。よく宿題終わってんね」
スリッパに履き替えて、スーツケースを持つこーすけと共にゆっくり階段を上がっていく。帰省するからといってそんなに荷物を持って帰る必要はなく、衣服と日用品、学校の教材くらいだ。
「夏休みどうだった?哲也も帰省したんでしょ?」
「……楽しかったよ。海で泳げたし、じぃちゃんにも会えたし」
「ちょっとしたバカンスだもんねー。俺も哲也のお祖父さん会ってみたいな」
それを聞いて複雑な気分になる。学校のみんなをじぃちゃんに会わせるのはあまり気が進まないが、篠崎はもう会わせてしまった。短い間で意外にもじぃちゃんに気に入られたようで、手土産まで持たされていた。こーすけがそれを知ったらまたややこしいだろうし、とりあえず帰省の話はしないようにしよう。
「会わなくていいって。お前は夏休み中何してたんだ?」
「ずっっと家にいた。クーラーきいた部屋でオタク生活最高だったなぁ……生活習慣終わってたけど」
「一切外出しなかったのか?」
「一回哲也のバイト先行ったじゃん。でもそれくらいかも。家族でご飯とかもなかったし」
そういえば一回、遠方はるばるこーすけがグルートまで来てたな。こーすけは暑いのが嫌いで、アウトドアもあんまり好きじゃないからどのみち八重木島は合わなかったかもしれない。
二階の階段の中腹で、こーすけは重いため息をついてスーツケースを下に置いた。疲れてるんだろうと思って俺が代わりに持ち上げる。
「えーありがと。相変わらずイケメンだね」
「……意外と重いな。何入ってんだ?」
「夏にオタクのイベント行って、色々買い漁ってきたの。実家に置いといたら親に勝手に見られるし」
「やましいもんなのか?」
「まぁそこそこ」
こーすけが親に隠しておきたいもの……想像はつかないが知らない方がいい気がしていた。
「寮に帰ってきたの俺が最後?」
「わかんねぇけど、みんな大体昨日か一昨日には帰ってきてた」
「そんなに早く寮帰りたいかなー実家の楽さったらないのにね」
それは俺も少し同感だ。特にご飯と掃除が面倒だ。
「……さっき京極先輩に会った」
「あ!そっか帰ってきたのか……」
少し残念そうなリアクションをするこーすけに理由を聞いてみる。
「なんでテンション下がってんだ?」
「いやーまぁ嫌いじゃないんだけど、好き勝手やれてた寮生活はおしまいかもね」
「……やっぱ厳しい人なのか?」
「うん……それに正義感が強いから、関係ない揉め事にも干渉しちゃうタイプ。しかも今年は哲也もいるから、なんか揉めそう」
「なんで俺だよ」
「分かんない。哲也が京極先輩のエンジェルになって逆にめっちゃ平和になるかもしんないしね」
理由を聞いても次々と説明不足の返答をするこーすけとの空気感は、なんだか久々だなぁと感じた。また学校と寮の生活が始まったという気がするし、また大変な生活が待っているだろう。
俺らの部屋の前まで来て、スーツケースを床に置く。隣のこーすけも俺を見ていた。
「…………二学期もよろしくな」
「え?なに改まって?」
「…………………………………………」
大変な生活だろうけど、カイに言われた通り……少しでも楽しめたり成長できるように過ごしてみよう。
点呼の時間になって食堂に集合すれば、久しぶりにぎゅうぎゅうな様子を見れてほんの少し感動した。夏休みの間はガラガラで三年生と一部の居残りしかいなかったし、かなり閑散としていたから、またいつもの日常が帰ってきたような気分だ。久々に友達に会えて楽しそうにしている人と、明日から始まる学校に絶望している人と二分化しているように見えた。
いつも通り端のテーブルにこーすけと腰かければ、ガヤガヤとした賑やかな雰囲気を見守ることができる。寮には稲光から離れたところに住んでいる生徒が全国から来ているから、お土産を渡し合ったりもしていた。
すると、俺たちのテーブルに二人組が近寄ってくる。
「センパイたちおつかれーっす!あ、利根川センパイ久しぶりっすね!」
「おひさーあれ篠崎くんなんか背伸びた?」
「え、まじすか?最近みんなに言われるっすよ!」
篠崎は一年生では珍しくほとんどずっと寮にいたから、夏の間は結構一緒にいた気がする。毎日のように点呼のときに俺のとこまで来るから、かなり新鮮味は薄い。
「先輩方お久しぶりです……!」
篠崎の後ろからひょっこりと顔を覗かせたのは上柴だ。上柴はかなりギリギリで帰ってきた組だから、ちゃんと話せるのは久しく感じる。
「久しぶり。上柴はあんまり変わってないな」
「あはは、一ヶ月でそんなに変わりますかね?」
「夏休み明けってなんか大人びて見えたりしない?」
「あでも上柴スゴいとこ行ってきたらしいっすよ!」
篠崎に促されるようにおずおずと紙袋をテーブルに乗せて、中からさらに紙袋を取り出す。
「えーお土産?どこ行ってきたの?」
「えっと……アメリカに」
「アメリカ!?すげぇな」
俺の驚いた反応に苦笑しつつ、少し気まずそうな顔のまま俺たちに紙袋を渡す。
「え、アメリカのどこ?」
「ニューヨークに、一週間行って来ました」
「あぁありがとう。すげぇな、家族旅行か?」
「はい………毎年何故か海外に行きたがるんですよね」
受け取った紙袋を開けて見ると、中にはお菓子やちょっとした人形やキーホルダーやタオルなんかが少しずつ入っていた。友達に渡すお土産なのにこんなにちゃんと包装してくれる上柴のマメさが垣間見えてスゴいなと思う。一応島のお菓子とか買ってきたけど……ちょっと気後れしてきたな。
「あ!これ可愛い。あれもしかして哲也のと中身違うの?」
「あ、はい!もちろん」
「えぇ!わざわざありがとな、ホントに」
俺たちが細かい気遣いにお礼を言うと、ニコニコとはしているがどこか気まずそうな雰囲気は変わらない。久しぶりに会えてお土産まで渡しているのに、なんだか煮え切らない感じがあるようだった。それをそのまま、本人に伝えてみる。
「上柴?なんか元気ないのか?」
「え、全然そんな事ないですよ!」
「思った。ちょっと気遣ってるよね」
俺たちの指摘に少し目を丸くして、耳をピコピコと動かす。
「……なんか、自慢してるように見えたら嫌だなぁって思ったんです。あんまり海外旅行に行ってる同級生いなさそうだったので」
「だから思わねぇって!上柴そういう奴じゃないし」
「単にすごーいとしか思ってなかった。てか自慢したっていいでしょ」
「……アメリカの話気になるから、今度ゆっくり聞かせてくれよ?」
俺が上柴の二の腕をポンポンと軽く叩くと、少し緊張していたような顔が朗らかな表情に移ろいだ。気い遣いしいな上柴はお土産まで渡してくれたのにさらに俺たちに自慢しないように気を遣っている。アメリカ、しかもニューヨークなんてどんな感じか想像もつかない俺からしたら、たくさん自慢してくれていいのにな。
いつもの柔和な上柴に戻ったところで、早速夏休みの質問をされる。
「先輩方は夏休みどう過ごされてましたか?」
「俺は実家で引きこもり生活。一生アニメとか見漁ってたよ」
「…………俺も数日だけ帰省したけど、ほとんど寮にいたな。一応お土産あるから、後で渡すよ」
「ほんとですか!?ありがとうございます!!」
「利根川センパイって実家どこなんすか?」
「千葉だよー」
この四人で思い思いに喋る空気感は、本当に久しぶりだ。夏の間は篠崎以外ずっと先輩たちと話してきたから、フランクにのんびりと話せる感覚が懐かしくて楽しい。
「篠崎くんはどうだった?今年の夏。陽キャ代表の夏休み聞きたいな」
「え俺陽キャ代表なんすか??んーでも、マジで今年の夏は……」
何かを言いかける篠崎を俺はじっと見る。篠崎はそれに気がついて一瞬チラッと俺を見る。
「……最高だったっす!!わりとリア充してたっすね!!!」
「へー」
「反応薄!!」
聞いといて興味が無さそうに相槌するこーすけに、何だコイツと思いながらも内心ホッとする。篠崎には再三言ったけど、なるべく帰省のときの話は秘密にしたかったからだ。
そのとき、ちょうど18時になったのか寮監が食堂に入ってきた。夏休みもちゃんと毎日寮にいたようだからあまり新鮮味はない。相変わらずのジャージ姿になんだか安心感を覚える。
寮監が入ってきたのを見て、他のテーブルに行っていた寮生たちも自分の席にいそいそと戻り始める。
「はーい静かにー!点呼をとります!久郷田君!」
「…………まだ俺すか」
「これが最後よ。京極君初日だし」
「気遣い感謝します」
何やら入り口付近でごちゃごちゃと話していたようだが、久郷田先輩が立ち上がっていつものように頭数を数え始める。18時の点呼は普段ならいない人がいてもそんなに気にされないが、今日ばかりは全員揃ってないとまずいから、久郷田先輩も一人一人入念にチェックしていった。
久郷田先輩が数え終わって報告すると、寮監さんはさらに声を張り上げて話し始めた。
「はい静かに!!皆さんお久しぶりですね!ちゃんと全員揃ってくれて良かった!夏休みも今日で最終日、明日からまた学校が始まります。ちゃんと宿題終わらせて、二学期からも元気に過ごしていきましょう!」
「……………たぶん7割の人は宿題終わってないね」
相変わらず横でぼやくこーすけに口元が綻ぶ。
「そして、一年生は初対面だと思いますが、二学期になって留学から帰ってきた京極君がまた寮生に加わります!おかえりなさい!みんな拍手!!」
寮監につられてパラパラパラと散らばった拍手が食堂にこだまする。俺も何の気なしに合わせて拍手していたが、京極先輩の隣に座る久郷田先輩は頬杖をついていた。
「京極君は二学期の終わりまで、また寮長の役割をやってくれます。京極君、一言挨拶する?」
「えぇ。では失礼します」
寮監の無茶ぶりのようなお願いにも、顔色一つ変えず立ち上がる京極先輩。周りが座っているのもあって起立すると凄まじい存在感だった。低く野太い声が、しんと静まり返った食堂によく響く。
「……ご紹介いただいた通り、先日交換留学から帰省した三年一組の京極です。短い間ですが、また寮の皆さんと親睦を深められるよう尽力する所存です。どうぞよろしくお願いします」
大きい声を出しているわけではないのに、地を震わせるような低い声。威圧的で思わず怖いと感じてしまう空気感。敬語なのも相まって近寄り難いオーラを纏っている。
そのまま挨拶を終えるかと思いきや、京極先輩は一度咳払いをする。
「……それと先ほどから、寮監さんの話の途中にひそひそ話が散見される。人の話は、集中して最後まで聞くべきだ。以上です」
語気を強めて脅しのようにも聞こえる声で注意され、小声で話していた人達もピシャリと会話を止めた。静まり返った食堂に、京極先輩が椅子を引く音のみが聞こえる時間が生まれた。
直後、寮監さんが拍手を始めたが、とにかく真面目でお堅い挨拶に、一年生と俺は困惑しつつも何となく拍手をした。二年生と三年生の反応はまちまちで、こーすけのようにニヤけてる人もいれば、久郷田先輩のように顔をしかめてる人もいた。
バラバラな拍手に軽く頭を下げて、京極先輩は再び着席した。対照的な高い声で今度は寮監が話し始める。
「二学期の末には新たに二年生から寮長が決まるので、それまでよろしくね、京極君。はいでは連絡事項に移ります!」
そこから寮監が二学期のことを色々と説明し始めたが、同時に小声でこーすけに話しかけられる。
「………ね?分かったでしょ俺の言いたいこと」
「…………あぁ、まぁな」
凄く真面目な人なのは伝わってきたが、自己紹介でみんなに注意するなんて。俺としては、もちろん正しいことだけれどそんなに厳しくしなくても……と思ってしまった。京極先輩の性格は、きっと好きな人と嫌いな人が二分化するだろうなと、さっきのみんなの反応を見てて思った。
ふと、座っていても存在感が凄い京極先輩の視線を感じて、すぐにこーすけとの話を止めた。これはもしかすると、緊張感のある寮生活が始まるのかもしれない。
点呼後に久しぶりに皆で寮食のご飯を食べて部屋に戻ったあと、しばらくはゴロゴロとくつろいでいたが、こーすけは残りの宿題にラストスパートをかけていて話す余裕もなく、とはいえ俺は何もすることが無かったので、一人で風呂に入ることにした。こーすけが7割と言っていたのはわりと妥当なようで、いつもより食堂や廊下に人が少ないように感じた。宿題は確かに嫌だけど、あまり溜めておく人達の気持ちは共感できない。嫌だからさっさと終わらせて、気持ちよく休日を過ごしたいタイプだ。
食堂の前を曲がって風呂場の入り口に行くと、一人の寮生が着替えやお風呂セットを持って出ていくのとすれ違った。パッと見たところ風呂には入らずに部屋に戻っていくようだ。
少し不思議に思いつつも脱衣所に入ると、珍しく誰もいないようだった。18時の点呼が終わって19時くらいは結構人が多い時間帯なんだけど、ほぼ貸し切り状態とは本当に珍しい。みんな宿題に追われてるのかと思ったら、多少の優越感を感じた。
ポイポイととっくに慣れたスピードで服を脱いでいると、端のロッカーに一つだけ服が入ってるのに気づいた。どうやら完全に貸し切りではないようだ。混むより全然いいけど。
シャンプーを抱えて浴場の扉を開けたとき、シャワーの音と、大きな黒毛の背中が視界に飛び込んでくる。見紛うわけもなく、あの背中は京極先輩だった。
「…………っ」
大変申し訳ないけれど、一瞬だけ扉を閉めようかと脳裏によぎった俺がいた。京極先輩と風呂場で二人きり……先の点呼のときの注意も相まって、会話が気まずくならないだろうかと考えてしまった。
ただそれと同時に、さっきすれ違った寮生が風呂に入らなかった理由も邪推してしまう。もしかして、京極先輩がいたから後にしようと風呂場を出たのだろうか。何だかそれって……いじめみたいで少し嫌になった。
意を決して風呂場に入り、扉を閉める。別に話すことになるとも限らないし、悪い人じゃないのはとっくに分かっている。京極先輩だって、後輩たちと仲良くしたいって言ってたし。
とりあえず中央でシャワーを浴びる京極先輩から一つ空けて隣のシャワーを使うことにした。そこそこ距離は開いてるのに、先輩の図体の大きさに真隣にいるような印象を受けた。蛇口を捻って温水を浴びると同時に、あの低い声が風呂場に反響した。
「………渡嘉敷、だったな」
「っ、は、はい…………お疲れ様です」
「何も疲れてない…………その、あまり……気を遣う必要はないぞ」
思いの外すぐに話しかけられてビクリとするも、京極先輩は……恐らく先輩として過剰に気を遣われたくないようだ。シャワーの水を体に当てながら、横を向いて京極先輩を見ると、姿勢よく椅子に座りながら身体を洗っていた。ただ少しプラスチック製の椅子が壊れないか心配になった。
「ありがとうございます………あの、荷解きは終わったんですか?」
「粗方片付いたが、もう少し整頓する必要がある。一段落ついたから、風呂を浴びにきた」
「結構な量ありましたもんね」
「いや、量はそれほどでもないんだが……衣服や日用品が一般的なサイズより大きくてな」
玄関で見た巨大段ボールの中身は、ぎっしりと物が詰まっていると思っていたけど、これだけ身体が大きいと身の回りの物も大きくなるらしい。洋服とかも大型の専門店に行かないとサイズの合うやつが少ないだろうし、大型と超大型の間、という位置付けは大変そうだ。
一度水を止めて、シャンプーを手の中で泡立て始める。京極先輩もワシャワシャやってるから、風呂場が少し静かになった。
「………身体が大きいのも大変ですね」
「あぁ……だがそれのおかげで留学に有利だった節もある」
「有利?」
「俺はカナダに行っていたが、向こうは平均的な体のサイズも大きい上に、超大型地区もある。日本の小さめな獣人は比較的苦労するだろう」
「やっぱりスケールが違うんですね」
「俺が着ているTシャツは、向こうだとMサイズだったよ」
京極先輩のちょっとした冗談めいた発言に、意外にもジョークっぽいことを言うんだ、と驚いて先輩の方を向いてしまう。先輩もチラリとこっちを見ていたが、俺が微笑みかけると目を逸らされてしまった。相変わらずの強面だけど、皆が言うほど取っつきにくい人には思えなかった。
「留学先で、ホームシックになったりしませんでしたか?」
「……いや、あまりないな。元々寮生だったし、ホストファミリーも歓迎してくれた。日本食が恋しくなったことはあるが」
「確かにお米とか、あまり食べられなそうですね」
「俺は特に味噌汁が恋しかった。帰国してすぐに定食屋で飲んだ」
アメリカとかカナダの食生活は、何となくイメージでしかないけど、ご飯が美味しい印象は無かった。CMとか映画で見た子供がシリアルとかデカい肉を食べてるイメージがあるけど。
全身にシャンプーをし終えて、蛇口を捻って洗い流していく。流しつつも気になったのは、京極先輩がまだ体を洗っているということ。さっきは下半身を洗っていたようだったけど、今は背中を泡立てていた。もしかして体が大きいとシャンプーも時間がかかるんだろうか。まぁ表面積が大きいからそりゃそうか。
心地よい温水に身を包まれて、しばらく泡を流す時間が続く。ここ最近暑かったから、寮の広い浴槽に長く浸かることはしなかったけど、せっかく半貸し切りみたいな状態だし、ゆっくり寛ごうかな。それにしても不自然なくらい誰も風呂場に入ってこない。
一通り流し終えて水を止めると、久しぶりに浴槽に足を入れる。足先からピリピリと暖まっていくが、夏だからかそんなに熱くはない。確か寮監さんが溜めてくれてるんだっけ。
シャンプーを脇に置いて肩までゆっくりと浸かっていく。少量の水が浴槽から溢れてザブンと音を立てた。
「…………ふぅぅ………………」
熱っぽいため息が漏れて、じんわりと身体が火照っていった。やっぱり広いお風呂っていいな。
浴槽の壁にもたれかかってふと前を見ると、京極先輩も体を流し終わったところだった。全身の泡を落としたあと、椅子を片付けてそのままのっそりとこっちに近づいてきていた。あんまり人の裸を見るのは失礼かとも思ったが、近づいてくる京極先輩は壁のような圧迫感があり、思わず身構えてしまう。水に濡れて毛先がピタリと張りついて、骨太でゴツゴツした筋肉のラインもよく見えてしまい、この人には力じゃ絶対敵わないな、という潜在的な怖さがあった。
京極先輩も浸かりたかったらしく、バシャァン!と大量の水を追い出しながら、俺の少し横にどっしりと座り込んだ。
「…………京極先輩ってやっぱり大きいですね」
「…………………………体がか?」
「え?はい。先輩くらい大きい人初めて見たかもしれないです」
ベンガルトラの西村先生もマッチョさは負けてないけど、背は明らかに京極先輩の方が高いだろう。そもそも相田先輩より大きい時点でなかなか目を引く珍しさがある。
「……流石に言い過ぎだろう。街に出れば一人や二人すぐ見つかるぞ」
「あぁ……俺は鹿児島の田舎の島出身なので……島には先輩より大きい人いませんでした」
「そうか……どこの島だ?芦国群島とか?」
「っ、えっ?知ってるんですか!?」
都会の人が鹿児島の島の名前を知っているのはかなり珍しい。同じ九州でも福岡の三下先輩は全く知らなかったし。
「母が離島好きで、昔家族旅行に行ったことがある。どこだったか…………白之江島とかいう場所だ」
「あっ、隣の島です!塩が有名なとこです!」
「あぁ……昔塩工場みたいなところに行って、塩造り体験をしたな」
「白之江に行ったことある人と、東京で会うとは思いませんでした」
芦国群島は交通の便も悪いし、南国に行きたいならみんな大体沖縄の方へ旅行に行ってしまう。あえて有名な観光地じゃない離島に行きたがるなんて、京極先輩のお母さんもなかなか通な人だ。
「小学生の頃だからあまり覚えてないが、とても海が綺麗だったのは記憶にある。全くアーティフィシャルな雰囲気を感じなかった」
「アーティフィシャル??あと、発音いいですね」
流石留学に行ってただけ、英語の先生のような発音だった。微笑む俺の顔をチラリと見ると、先輩は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「……まだ習慣が抜けきってないようだ。すまない」
「全然ですよ。英語できる人カッコいいですよね」
「……向こうでは、日本語を喋るとクールと言ってきたよ」
気を遣ったのかクールの発音は日本人と一緒だった。まぁ確かに住む場所によってどこの芝生も青く見えるだろう。それでも違う言語を習得するのは本当にスゴいことだ。
「稲光の交換留学って、どういう感じなんですか?」
「ここ数年で出来た制度で、稲光の姉妹校であるカナダのバークン校と毎年一人まで交換留学をするんだ。ホームステイしながら向こうの高校に通う感じだな」
「どうやって選ばれるんですか?」
「希望者が立候補して、様々な条件が揃えば決まる。最低限の英語力と、資金、過去の実績等だ」
そりゃ確かに学校の制度を使って行くんだから、なるべくちゃんとした人だけが行けるようになってるのか。最低限ってどの程度が気になるし、留学したいっていう向上心も能力も高い人が、稲光にどれくらいいるんだろうか。
「結構厳しそうですね……」
「……他の私立校と変わらないレベルだろう。俺の場合は大した実績も無かったが、日本の武道の文化を伝えられるとアピールしたらすぐにクリアできた」
「やっぱり武術やってらしたんですか?」
やっぱり、と言ったのは京極先輩の体格で勝手に想像していたからだ。先輩は筋肉もスゴいが、何よりとても姿勢が良い。真ん中に一本の棒が刺さってるみたいに体幹がしっかりしてて、だからこそより背が高く見えるのかもしれない。武術には詳しくないけど、スポーツマンとは違う立ち姿な気がしていた。
「柔道と剣道を三年、空手を六年やっていた」
「えっ!すごい…………多いですね」
「……学生や子供の武道大会は、基本的に体重で階級分けするんだが、中学生の頃くらいから同じ階級の人がほぼ居なくなったんだ。それからは大会に出るというより自己研鑽を目的として、複数の武術を学んでいた」
そうか、武術は体重の有利不利が大きいから、階級を設けないと種族差で勝ててしまうのか。熊獣人の京極先輩と渡り合える種族は少ないだろうし、その中で年齢も近くて同じ武術をやってて……となると出場者がだいぶ絞られるだろう。京極先輩の身体が大きいのを誉め言葉として贈っていたが、あんまり安直に言うのも失礼かもしれないな。
「一応いくつか優勝したことはあるが……参加者が少な過ぎてあまり自慢にならないな」
「何にせよ一位は凄いですよ。じゃあ向こうでは武道を教えたりしたんですか?」
「あぁ………まぁ、触りだけだが。忍術だと思っている人もいた」
「ははは、忍者人気ですもんね」
京極先輩との当たり障りない世間話は、風呂場に入る前に想像していたものより遥かに居心地がよかった。積極的に話題を振ってくれるわけではないが、話しかけると快く応えてくれるし、軽い冗談も言ってくれる。
二人しかいない風呂場はとても静かで、浴槽の水が波打つ音が反響するくらいだった。京極先輩はお湯で少し顔を洗うと、心なしか安らかな表情で体を浴槽に沈ませ、肩まで浸かっていた。
「…………京極先輩ってツキノワグマなんですね」
「あぁ。それがどうかしたか?」
「いえ……でもなんか、毛皮の模様がお洒落だなと思って」
胸元にある白い輪のような毛は、とても特徴的だ。人が描いたような模様がある種族はそんなに多くないし、特に京極先輩はくっきりと分かりやすい円だった。
そのままふと京極先輩と目が合う。はるか上を見上げたことしかなかったが、同じ目線で見るとそんなに怖い顔はしていない。熊獣人は黒い目がくりくりしていて可愛らしい。
「……渡嘉敷…………下の名前を教えてくれないか」
「え?あぁ、哲也です」
「そうか………………」
「京極先輩は何ていうんですか?」
「……玄爾だ」
「げんじさん……渋くてカッコいい名前ですね」
京極玄爾、なんだか戦国武将みたいな強そうな名前だ。口に出したくなる響きに俺が名前を復唱すると、京極先輩の耳がピクリと動いた。
するとそのとき、風呂場の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。思わずそっちを振り返ると、ニュッとハスキーの頭が顔を覗かせた……と同時に引っ込んで、バン!と音を立ててすぐさま引き戸が閉じた。
「……はぁ……久郷田………………」
それと同時に京極先輩もため息をついて、さっきまでの安らかな顔から険しい表情になっていた。
今のは明らかに……京極先輩がいるのを見て風呂場を出ていったんだろう。久郷田先輩は俺が風呂場にいると絶対隣に座ってくるのに、顔を見て即退出するとなると……二人の仲が良くないのは明らかだ。顔も見たくないなんて、何なら三下先輩よりも悪いのかもしれない。
二人の関係性は少々気になったが、一瞬にしてヒリついた空気に何だか気まずくなり、少しして俺は京極先輩を置いて風呂場を後にした。何だか寮生活の雲行きが怪しくなりそうな気がしていた。
[newpage]
ガヤガヤと賑わう教室に担任の声がこだまして、水を打ったように静まり返った。
「皆さんお静かに。では改めて出席をとります。秋沢さん……」
「……はい」
9月2日の月曜日。およそ一ヶ月半ぶりの校舎は、毎日来ていた俺には代わり映えしないものだったが、反対に夏休み明けのクラスメイトたちはいくつか変化も見受けられた。背が伸びたり太ったりした人、毛を染めたり変わったカットにしている人、明らかに距離が縮まった恋人同士……きっとみんな思い思いの夏を過ごしていたんだろう。俺はみんなに比べて変化した気はしないけど、それほど悪い夏休みではなかった。
心機一転、久々に教室に集合すると学生生活が再開した感じがジワジワと実感させられて、不安な反面楽しみでもある。担任である鷲獣人の大宮先生の顔を久しぶりに見ると、少しだけ不安の方が助長された。
間もなく全員の出席をとり終わって、静かな教室に大宮先生の淡々とした挨拶が始まる。
「……始業式も無事に終え、本日から二学期が始まります。連絡事項の前に……今学期より本格的な進路指導教室が開始します。三者面談含め、適宜活用し進級までに進路を決定できるようにしてください。また、スポーツ大会や文化祭、修学旅行等の行事も控えていますが、中間テストや期末テスト、統一模試等も両立させ疎かにしないよう、充実した二学期にしていきましょう」
堅い言葉遣いに、感情が読み取りづらい抑揚……久しぶりに聞くと何だか背筋が伸びる。進路決定、イベント、テスト……二学期は何かと忙しい日々になりそうだし、特に俺は早く進路を決めないといけない。帰省したときもじぃちゃんとあまり深く喋れなかったし、カイは島を出てほしいって言うし。徐々にでもいいから、意思を固めとかないと。
「連絡事項ですが、まず明日の三限目に身体測定があります。一学期に行ったものより小規模ですが、体操服を忘れないでください。次に学年主任の小竹先生から………………」
流れるように進む連絡事項に、前の席の高田はもう飽き出してきているようだった。大宮先生は早い方なんだから我慢しとけばいいのに。
ただ周りでも、だらっと姿勢を崩す生徒はちらほらいるようだった。みんなやっぱり夏休みの余韻が抜けてないのか、集中力が持たないのかもしれない。というかそんな事気にしてる俺も保ってないじゃないか。
みんなの注意が少し散漫になってきたくらいのタイミングで、一通り説明を終えた大宮先生が小さく咳払いをした。
「……そして最後に。本日のホームルーム時に席替えを行います」
その瞬間、ガタッと椅子が鳴る音や息を飲む音、歓声のような声が混ざって聞こえてきた。
「席替えは選択希望制にする予定ですので、希望を固めておいて貰えるとスムーズに進行できます。では以上です、一限目の準備をしてください」
先生が話を終えると同時に、興奮したようなガヤガヤ声が教室内に響き渡った。席替えって、確か一学期のときはしないって言ってた気がするけど、大宮先生の中で気が変わったりしたんだろうか。
ツンツン、と背中をつつかれる。
「大宮先生が席替えしてくれるなんて珍しいね」
「……やっぱりそうなのか?」
「夏休みに彼女できたのかも」
すぐに下世話な妄想をするこーすけに呆れる。大宮先生は無性愛者だから恋人とかいないんじゃないだろうか。
「哲也はどこの席がいい?」
「うーーん…………」
そう聞かれて改めて教室内を見渡してみる。今の席は窓から二列目、前から二番目だ。特に変わりは無いだろうし、どこでもいいといえばどこでもいいかもしれない。
「…………どこでもいいかな」
「えー俺と一緒に最後尾行こうよ。人気だろうけど」
「またお前の隣か?」
「やなの?」
「…………なんか、ちょっと飽きてきた」
こーすけと俺は前後の席で、転校したての頃は唯一の友達だったしかえってありがたく感じていたが、ルームメイトでクラスも一緒で席も隣って……たまには離れてみても良いんじゃないだろうか。
「えーひど。俺ら倦怠期?」
「毎日ずっと一緒だろ?席くらい離れてもいいじゃねぇか」
「えぇ……哲也居なかったらボッチなんだけどなぁ」
とは言いつつも、俺がいないときこーすけはわりと誰とでも喋っている。俺がいると優先してくるだけで、男女分け隔てなく世間話が出来るくらいの社交性はある。どちらかというと不安なのは女子とろくに喋ったこともない俺の方だけど。
「まぁ別にどこでもいいし、お前の隣でもいいけど」
「…………いや、やっぱり離そうか。近すぎも良くないよね」
「はぁ?」
少し考え込んでから180度真逆の結論を出すこーすけに疑問符を浮かべる。顔は至って真面目で、冗談を言っている訳じゃないらしい。
「距離感って大事だからね。夫婦生活を長く続ける秘訣だよ」
「………………はぁ」
こーすけの考えは相変わらず読めないが、後から考えても分からずじまいなことが多いので、気にしないのが吉だ。ただ距離感が大事、というのは同意だ。夏休み、帰省のときに篠崎と距離が縮まりすぎた俺はその後二週間元に戻すのに苦労した。ちゃんと責任を取ると決めたからには、そう易々と雰囲気に流されるわけにはいかない。ついついキスしてしまったこーすけも例に漏れず、距離感を掴まないと。
一限目の国語の準備のために引き出しをがさがさやっていると、今度は前の席の高田が振り返ってきた。
「なぁ渡嘉敷!!それでいいよな?」
「……っ、何がだよいきなり」
まるでさっきまで会話に参加してたかのような口ぶりに動揺するも、高田はいつもの能天気なアホ面だった。
「いやだから、俺は今の席のまんまで、渡嘉敷もここだよな!?」
「いや何でだよ!勝手に決めんな」
何でせっかく席替えできるのに同じとこに居たいんだろう。正直高田が前の席だと黒板が見づらいときがあるから、最後尾に行くのがクラス的に助かりそうだけどな。
隣の秋沢も苦笑しながら俺を見ているが、何だか前よりも萎縮していないというか……申し訳なさそうな猫背が消えている気がする。
「えぇーいいじゃんここに居ようぜぇ!!征が動かねぇって言うし」
「………俺は委員長だから号令もあるし、動かない方がいいかなって」
「…………ん?ちょっと待て征?」
高田は今秋沢の方を見ながら征、と呼んだ。当たり前のように答える秋沢も違和感なく自認していたようだった。
俺が聞き返した瞬間に、高田は嬉しそうにニヤニヤ笑い、秋沢は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「秋沢のこと!!あだ名で呼ぶことにしたんだよ!」
「………………征十郎だから?」
「……っ…………………………」
「おう!!!秋沢も俺のことあだ名で呼ぶんだぜ!」
「…………へー、なんて?」
気づいて欲しかったとニッコニコの笑顔を浮かべる高田と、これまでに無いほど照れている秋沢の様子を見るに……夏の間に随分距離が縮まったらしい。恋人同士だからきっといいことなんだろうけど、ライオンと虎のデカい雄同士がイチャイチャしてる姿をこれ見よがしに見せつけられるのも……何かこう、複雑な気分になった。
秋沢に高田のあだ名を促すと、秋沢は顔を伏せて片手で覆った。いつもの金色の毛並みも心なしか赤らんでいるように見える。
「…………っ………………洋平くん」
「えあぁあぁ!??洋くんだろ洋くん!!!」
消え入るような秋沢の声に、少し不満げに被さる高田の大声。クラスのみんなが、秋沢が洋くんと呼んでいることを知ってしまった。そのことにさらに恥ずかしそうに突っ伏す秋沢に、俺も思わず笑みが溢れた。しかしまぁ高田はよく恥ずかしげもなく言いふらせるな。元からそういう奴といえばそういう奴だけど。
高田は椅子を傾けて秋沢の肩を揺する。そういや初めて秋沢が高田を授業中に起こしたときもこんな感じだったな。
「征くんは夏休みどうだったのー?」
秋沢の様子をニヤニヤ顔で弄り出すこーすけ。相変わらず下世話だけど、まぁ今回は幸せなカップルをいじってるんだからまだ良いのかもしれない。
「征くんは勉強もデートも忙しそうだよな~」
そこにさらに便乗して近くの席の佐藤までイジり出す。もう秋沢は完全に顔を上げられなくなり、高田に揺すられながらフジツボのように机に張り付いていた。
すると、今度は高田が二人に不満の声をあげる。
「おい!!征って呼んでいいの俺だけだからな!!俺意外のやつが呼ぶの禁止!!!」
「そうだねー高田くんだけだよね」
「ごめんごめん、気を付けるわ」
「…………もぅ………………やめて…………」
クラスメイトの前で聞いてるこっちが恥ずかしくなるような宣言をする高田に、さらにメンタルをボロボロにされる秋沢。こんなに価値観違う二人が、よくこんなに仲良くなったよなと端から見てて思う。まぁでも元はと言えば意図せずくっ付けたのは俺だし、喧嘩してたときは秋沢の背中押したのも俺だし………あれ、俺のせいか。
自分がキューピッドになるなんて思いもしなかったが、そのまま一限目まで顔を上げられなかった秋沢を励ます高田を見ていたら、なんだかんだこの二人がくっついて良かったのかもしれないと、意外と穏やかな気持ちで見守ることができた。
久しぶりの四時間の授業は、集中力を保つのが大変だった。夏休み明けの模試は少ししてから行われるらしく、それに向けてかは分からないが容赦ないスピードで教科書も進んでいく。元々うちのクラスは他より少し進度が遅いようで、バテてる暇もないほどがっつりと座学を受けきった。
昼休みになり、通学の子がお弁当や校内の売店に買いに行く中、俺とこーすけはいつも通り真っ直ぐ寮へと向かった。寮生の昼食はいつも食堂にずらっと並べられていて、昼休みの間はいつ食べに来てもいいようになっている。本当はダメだけど、昼休みを利用して部屋に帰ったり、忘れ物を取りに来たりする人もいる。まぁ厳しい寮生活だしそれくらいは見逃してほしい。
食堂に入ると珍しく人が少なかった。寮生たちも全然食べずに買い食いする人も多いから、混むことはないが半分くらいは埋まるイメージだ。隣のこーすけも同じ事を思っていたようで、蓋のついた器が並べられた長テーブルへ歩きながら、やや嬉しそうにため息をついた。
「全然人いないじゃーん。二杯いけるかな」
「やめとけよ。でも珍しいな」
「みんな教室でグッタリしてるんじゃない?あと宿題やったりとか」
言われて気がついたが、休み時間や昼休みに夏休みの宿題をやってる人がいた。提出期限ギリギリどころかちょっとはみ出してるが、急いで終わらせればどうにかなると必死にかじりついてるようだ。そんなやっつけで提出されても先生にはバレバレだと思うけど、出さないよりはいいのかな。
昼食の器の蓋を取ると、今日は天丼だった。寮の昼食は生徒が洗い物をする暇がないから、器一つで済むような料理になることが多い。でもそれだと育ち盛りの男子高校生にはちょっと物足りなくて、誰かが食べなかった分をこっそり食べる人もいる。だからこそ俺は朝ごはんをしっかり食べるようにしている。
「わー天丼だ。ちゃんとエビ天入ってるね」
「入ってないときあったか?」
「たまにラインナップショボいときあるんだよね。寮食って赤字だったりすんのかな」
こーすけと喋りながら、丼と箸を持って自分たちの席に着く。人が少ない方がのびのび出来るし、他の二年生がいないときは心なしかこーすけもおしゃべりになるような気がする。
そのままいただきます、と言ってすぐさま天丼に箸をつけ始めると同時に、食堂から背の高いハスキーが顔を覗かせた。そして俺を見るなり、昼食を手にとって真っ直ぐこっちに歩いてきて自然な動作で着席した。
「……あ、ふごたへんぱい」
「口に入れたまま喋んなよ」
「おう…………天丼か。しけてんな」
第一ボタンを開けたワイシャツをだらしなく着こなして、半袖から伸びる太い腕をドンとテーブルに乗せる様子は、何だかちょっとカッコよかった。久々に久郷田先輩をちゃんと正面から見ている気がする。昨日はずっと不機嫌そうだったし。
俺が見ていたせいか久郷田先輩もすぐに見つめ返してきて、何気なく目を逸らした。
「久郷田先輩は宿題終ってるんですか?」
「あ?当たり前だろ。つーか三年は補習中にやる奴多いから終ってない奴はいねぇよ」
「あーそっかぁ……来年の夏は補習まみれか」
「人によるけどな。就職組は補習行かねぇ奴もいる」
「久郷田先輩は進学するんですか?」
「あぁ。とりあえずな」
進路で迷っている俺からすると、今の三年生がどうするつもりなのかけっこう興味があった。とりあえず進学……って考え方もあるのか。
「どこの大学ですか?」
「言っても知らねぇだろ。都内のそこそこの私立と、一応国立も受ける」
「え、久郷田先輩って勉強できるんですか?」
「全統模試の偏差値は60ちょいある」
「えっ!?意外過ぎ……なんで男遊びとサッカーばっかやっててそんな頭良いんですか?」
「おい」
久郷田先輩がグイっとこーすけの頭を小突く。でも俺も正直驚いていた。稲光は学園内での学力がバラバラだから、校内のテストで何位とかはあまりあてにならない。顔も良くて運動できる人が勉強もできると聞くと、ぼんやりと嫉妬心みたいな感情を抱いた。
小突かれてもなおこーすけは驚きが止まらないらしく、未だにえー?と呟いている。
「えーじゃあ意外と良い大学行っちゃうんですね」
「いや、あんま頑張る気はねぇよ。渡嘉敷が俺のこと追いかけに来れなくなるからな」
「追いかけませんよ……」
先輩はニヤニヤと笑いながら今度は俺の頭を撫でる。あしらいつつも、ちょっと舐められてる気がして鬱陶しく思った。
「卒業したら一人暮らしすっから、一年したら同棲すんぞ。養ってやる」
「嫌ですよ。ていうか付き合わないですよ」
「こんなん言われてるとこ先輩のファンが見たら発狂しそうですね」
卒業後の話をする久郷田先輩の目は半分冗談で、半分本気にも思えた。篠崎もだけど、たまにはるか先の話をしてくることがある。まるで二年後も俺のことが好きだって断言するみたいに。そんなわけないと言い張りながらも、未来ってほんと不透明だよなと一抹の不安は感じていた。
「あーそのことだが………この間新谷に言ってきた」
「……え?」
「渡嘉敷に嫌がらせすんなってな。止めるかわかんねぇが、またなんかされたら俺に言え」
じっと強面で見つめられて思わずまた目を逸らしたが、それはとても朗報……というかありがたかった。ファンもといストーカーの新谷さんが、大好きな久郷田先輩に言われたなら流石にもう何もしてこないだろう。今までファンに無関心だった久郷田先輩が、腰を上げてくれて、俺としてはとても助かる。
「え、今日意外続きですね。先輩がファンを注意するとか」
「アイツらが影で何やってるか、考えたくもねぇからな。俺のLINEが勝手に出回ったこともあるし」
「えぇ?マジで迷惑ですね」
……冷静に考えてみると、元ストーカーの籠谷みたいな奴がたくさんいるってめちゃくちゃ大変だろうな。上柴は一人でも相当苦労してたし、その状態を三年も過ごしてるってかなり異常事態だ。俺が入ったときには既にそれが当たり前で、新谷さんに絡まれるのを少し久郷田先輩のせいにしていた。でも一番大変なのは間違いなく久郷田先輩で、いくら男遊びが災いしたとしても、先輩が可哀想に感じた。
「……モテるってだけなのに、先輩も大変ですね」
「お前が言うかそれ」
「俺はストーカーいませんし……ありがとうございます、助かります」
「…………ホントに助かるかなぁ。久郷田先輩が哲也にマジなの公認したってことは、ストーカーがもっと嫉妬してエスカレートする可能性もあるし」
「だから何でも俺に言え。俺が何とかする」
ストーカーの話をしているはずなのに、何だか告白されてるような感じで変な気分だった。でも久郷田先輩の人たらし力と腕っぷしは信頼できるし、素直に何でも告げ口しようと心に決めた。
喋りながらだったが俺と久郷田先輩はあっという間に食べ終わり、いつも食べるのが遅いこーすけを置いて先に食器を洗いに行く。一緒に、というより着いてくるだけだけど。しかしそれと同じくらいのタイミングに、食堂の入り口から巨体の熊獣人が現れた。
一瞬隣の久郷田先輩は反応した気がしたが、食器を洗っている俺の背後に回ると、後ろから覆うように抱き締めてきた。
「……っ、ちょっと……離れてください」
「あ?いいだろ別に。久々だな」
まぁ確かに最近久郷田先輩に抱き締められてないな……とか冷静に考えてないで軽く肘で小突いて抵抗する。手は濡れてるから最低限の抵抗しかできない。
背中越しの密着がまた少し強くなって、久郷田先輩の手が脇の下から洗い場に伸びる。どうやらこのまま自分の食器も洗うみたいだ。
「いや……洗いにくいでしょ」
「あぁ……手元見えねぇな。俺のも洗ってくんねぇか?」
「自分で洗ってください…………ていうか離れてください」
耳元のマズルからは、低い声と満足げに喉を鳴らす音が聞こえる。この自分勝手に翻弄してくる感じも久々な気がする。さっさと自分のだけ洗って離れるか。
手際よくぱっぱとスポンジで擦っていたとき、不意に先輩の声が近くで聞こえた。
「つれねぇこと言うなよ、テツ」
「ッ、…………!!」
耳の穴のすぐそばで、久郷田先輩の低くて深い声で吐息混じりに囁かれ、背筋がゾクゾクっと震えた。不快感というより……なんだか自分が獲物にされたようなドキドキを感じて、反射的にバッと体を突き放した。
「……んだよ。嫌いか?こういうの」
「……っ、びっくり……しました」
少し不満げに俺を見る久郷田先輩には驚きの表情しか向けられないが、こんな風にドキドキさせてくる方法もあるのかとこの人の口説く力が恐ろしくなった。
背を向けて手早く食器を洗い終えると、横の乾燥棚に並べてハンカチで手を拭く。先輩もいい加減諦めたようで、俺に続いて流しで洗い始めた。
小さくため息をついて振り返ると、少し離れた場所から京極先輩の視線を感じた。鋭い眼光でじっとこちらを見ているが、俺ではなく久郷田先輩の背中を見ているようだ。この二人は仲が悪い……と聞くけれど、京極先輩からも久郷田先輩が嫌いなんだろうか。相性が悪いのは間違いないと思うけど。
俺がこーすけの席に戻るとき、一緒に久郷田先輩も二個目の丼を持って着いてこようとしていた。もう見慣れた風景だし、相変わらずよく食べるなぁって思ったくらいだったが、その瞬間食堂に怒号が響いた。
「久郷田!それは二個目じゃないのか?」
ドスの効いた太い声に食堂全体がピリつく。京極先輩は席を立って、ゆっくりとこちらに近づいてきた。近づけば近づくほど圧を感じるし、久郷田先輩との体格差も顕著に現れる。寮の中でも相田先輩に次いで力が強い久郷田先輩も、京極先輩には敵わないだろうと見るだけで分かった。
不機嫌そうなため息をついて。久郷田先輩はゆっくりと振り返る。
「………相変わらずうるせぇな。別にいいだろ」
「よくない。一人一個の規則だ」
「残らずピッタリ食い終わるわけねぇだろ。どうせ余り物だ」
「ならせめて昼休みの終刻間際まで待て。お前のせいで食べられない生徒がいたらどう責任を取るつもりだ」
「んなわけねぇだろ堅物。アメリカで融通を学ばなかったのか?」
「俺が居たのはカナダだ。それに融通ではなく規則の問題だ」
二人は睨み合いながらも口論を続けている。何となく席に戻れなかった俺は目の前の会話に入って止めるべきか迷っていた。議論の中身はまぁ……しょうもないといえばしょうもないし。
しかし少しずつ口調は荒くなっていき、話も天丼からだんだんと逸れていった。
「大体お前は他者を軽視し過ぎている。相田からも、後輩を顎で使っていると聞いたぞ」
「だからってお前がしゃしゃり出てくる理由にはなんねぇだろ。親みてぇに首突っ込んでくんじゃねぇ」
「お前が暴走しても寮内では親御さんは止められないだろう。そもそも規則を守る気すらないその姿勢が悪いんじゃないか?」
「ご講釈足れてねぇで自分が嫌われてることくらい気づいたらどうだ?」
「っ、お前は本当に腹立たしいな。去年と何も変わっていない、最低な男のままだ!」
「てめえも図々しい学級委員長のままだな。余計なお世話って英語で言ってみろよ」
そのとき、ドンッ!!!と鈍い音が響いて、京極先輩の掌がテーブルを叩いた。周りにいる俺たちも、ビクリと体を震わせる。
「久郷田!!!いつまで屁理屈を捏ねる子供でいるつもりだ!!お前のせいで、傷つく人がいるんだぞ!いい加減怠惰なクズ野郎から成長しろ!!!」
「ッ……………………………もういい。飯が不味くなる」
京極先輩の感情の乗った怒声には、久郷田先輩も少し怯んだように見えた。そしてすぐに呆れたような軽蔑の表情を浮かべて、足早に立ち去っていく。その背中を京極先輩も追いかけることはせず、吐き捨てるように声をかけた。
「……お前が謝るまで、俺は叱ることをやめんぞ」
「…………………………………………」
その言葉を完全に無視して、久郷田先輩は食堂から出ていってしまった。ただの天丼の話が、こんな大きな揉め事になるなんて……と、俺を含めた一年生は少し引いていた。
残った京極先輩は、久郷田先輩が乱雑に置いた天丼を箸と共に手に取り、小さくため息をついてから皆に聞こえるくらいの声で話す。
「……大きな声を出してしまって、すまなかった。驚かせただろう……謝罪する」
数秒間しっかりと頭を下げて、食堂を騒がせたことを謝る京極先輩。それに返事ができる後輩はいなかったけど、改めてこの人は本当に真面目なんだなと再認識した。
俺も気まずくなって足早にこーすけの元に歩く。どっちが悪いかといえば……まぁ久郷田先輩だけど、実際寮食が綺麗に完食されてるとこなんて見たことないし、この天丼も絶対数個余るだろう。別にいいじゃんという気持ちも大いに分かるところだ。
再びこーすけの隣に座ると、こーすけも何とも言えない表情をしていた。話を聞こうかと思ったところで、なんと京極先輩がこーすけの真向かいにドカッと座り込んできた。突然のことに驚きつつも、何も言えなくて固唾を飲む。
「……失礼する」
「…………相変わらず、京極先輩って久郷田先輩に厳しいですね」
「特別久郷田に厳しくあたっているつもりはない。あいつがよく規則を破るせいでな」
「…………………………………………」
そうは思えないほど、二人の口論には負の感情が乗っていた。恐らく今までもこういう喧嘩を何度もしてきたんだろう。しばらく距離が空いて変わったかと思いきや、天丼をきっかけに再燃してしまったようだ。
「三年になって、多少は責任感が生まれるかと思ったが…………何も変わってないな」
「…………それで、何の用ですか?久郷田先輩の愚痴言いに来たんですか」
こーすけの口調からは、少し冷めたものを感じた。こーすけは久郷田先輩の方が仲が良いだろうし、そっちの肩を持つだろう。
「いや、申し訳ない。利根川に、去年の冬のことについて言いたいことがあるんだが……この場でその話をしてもいいだろうか?」
「…………はい、どうぞ」
京極先輩は心なしか優しい口調でこーすけに話しかける。対してこーすけはまた少しぶっきらぼうになっていた。去年の冬って……何の話だろうか。
「………利根川の身に起きてしまった事件について、人伝ながら把握している。それで一言……謝りたかった。力になれず、すまなかった」
「………………いや、京極先輩留学行ってたじゃないですか。先輩が謝ることじゃないですけど」
「あぁ……だが、もし俺がもっと……寮内の風紀を正せていたら、未然に防げたんじゃないかと思っている」
去年の冬の事件って、こーすけが二年生と仲が悪くなるきっかけになったやつか。前に聞いたきりだからあまり覚えてないけど、かなり性的な話だった。とはいえ当時京極先輩は居なかったんだから謝る必要はない気がする。
こーすけは少し不機嫌そうに尻尾を膨らませていた。何を思ってるのか分からないが、京極先輩の真面目さが空回りしているのだけは見てとれた。
「…………関係ないですよ。先輩が居なくなったあとに起きてるんですから」
「俺が留学に行っていなかったら………起きなかったかもしれない」
「…………はぁ、結果論ですよそんなの。先輩には関係ないです」
「いや、無関係ではない。俺は寮長で、当事者を監督する責任があるからな」
京極先輩の返答に、こーすけは大げさなため息をついた。何かが琴線に触れたのか、空になった器を持って席を立つと、冷たい口調で言い放った。
「余計なお世話です、ぶり返して勝手に責任取らないでください」
「……っ、怒らせる気はなかった。申し訳ない」
無視して流しの方へと歩いていってしまうこーすけ。そんなに感情的ではないけど、イライラしてるのは伝わってきた。正直当事者じゃないから何でこーすけが怒ってるのか共感しづらいが、やはり京極先輩の誠実さは時に逆効果になるようだ。
またしてもため息をつく先輩が、今度は小さく見えた。椅子に座ってるからではないことは明白だ。
「……………まぁ……それぞれ考え方が違いますから。先輩の気持ちは伝わってると思いますよ」
慰めの言葉をかけるくらいしか思いつかなかった。ここで俺も席を立つのは、何だか非情に思える。
京極先輩は一呼吸置いてから、天丼の蓋を取って箸を持ち直した。
「いや、ありがとう。確かに、俺に謝られたところで利根川のためにはならないな」
「……そうですね」
勝手に責任を取る、という言葉はなかなかに強烈で、核心を突きすぎてて俺もドキリとした。京極先輩は正義感が強く、関係ないことにも口を出してしまう。まさにこーすけが言っていた通りで、好き嫌い分かれる性格かもしれない。
昼ご飯を食べ始めた京極先輩を、席を立つタイミングを逃して何となく見つめる。箸と器の持ち方がとても綺麗だった。
「…………そういえば、先ほど久郷田が渡嘉敷に……アプローチをしているようだったが……渡嘉敷は嫌がっていたのか?」
「え?あぁ……はい。転校してから、久郷田先輩にはよく強引に抱き締められます」
気づけば先輩の腕の中にいる、なんてことが幾度となくあった。なるべく事実を言うつもりだが、最初のデートの話は黙っておかないと京極先輩なら激昂する可能性がある。
「…………あいつにアプローチをされて、嫌がっている人を初めて見たものでな」
「はは、よく言われます。スゴい人気ぶりですよね」
「…………渡嘉敷。本当に気をつけた方がいい。あいつの男癖の悪さは常軌を逸している。特に性関係については………最低と言わざるを得ない」
「…………それもよく言われます。大丈夫ですよ」
三年生の先輩には、久郷田はクズだクズだと散々言われてきた。実際そうだったんだろうけど、あくまで先輩に言い寄られて靡いた人たちの話だから、ハナから拒絶してる俺には関係ないだろうと思っている。
「それは二年生までの久郷田を知らないからだ。あいつに傷つけられて、高校生活を棒に振った者も少なくない」
「はい……でも、俺は久郷田先輩に恋愛感情を持ってないので……ホントに大丈夫です」
「…………そうか。なら一先ず安心だ」
安心とはいえないような固い表情で、京極先輩は頷いた。それくらい、久郷田先輩に靡かないということが信じられないレベルで、あの人はモテてきたんだろう。俺たちの今までの経緯とか、京極先輩に全部話した方がいいんだろうか。一応無関係な先輩にそこまでするのも……違うような気もするし。
京極先輩が本格的に箸を進め始めたので、俺もそっと立ち上がって食堂を後にする。こーすけのことも気になるし、久郷田先輩も少し気になっていた。京極先輩も悪気があったわけじゃない……が、なんで俺は自分から板挟みになっているんだろうと、ある種いつも通りな生活が戻ってきたことにため息をついた。
6限が終わり、教室はぐったりと疲れた様相を見せながら、一日が終わったことに安堵しているような空気に包まれた。授業が終わった直後のガヤガヤ声もいつもより元気がなく、まだ終わらない夏休みの宿題に取り組んでいる人もいるようで、周りの雰囲気に合わせて、何となく俺も背もたれに身を預けた。
前の席の高田が秋沢に揺さぶられて起こされてるのを見ていたら、ツンツンと背中をつつかれた。
「やっと終わったね授業……あと席替えして、帰るだけか」
「……あぁそういやそうだったな。正直どこの席でもいいけど……」
「ねぇホントに違う席にする?授業中にひそひそ話できないよ?」
「しなくていいだろ。別にもう喋れないわけじゃないんだから、休み時間に話せるだろ?」
「まぁねぇ………………」
少し不服そうな声が背中越しに聞こえてきて、離そうとは言ったもののなんだかんだこーすけも迷ってるみたいだ。
そういえば、昼休み以来じっくり話せる時間も無かったので、不機嫌じゃなさそうな今なら聞けるかもしれない。椅子を斜めに倒して後ろを振り返ると、机の上に組んだ腕に顎を乗せて、上目遣いに見つめ返してくる。
「京極先輩……のこと、あんま好きじゃないのか?」
「……昼休みの話?うーん………」
少し考えるような素振りで、首を捻ると、そのままぐったりと机に溶けてしまった。
「昨日言ったでしょ?関係ないことにも干渉しちゃう人なんだよ。別に嫌いじゃないけど、お節介が多いんだよね」
「………本人は、善意のつもりだろうけどな」
「うん……でも関係ないことまで首突っ込まれたら、いくら善意でもムカつかない?真面目すぎて、そこまで頭回ってないんだよ」
こーすけが食堂から居なくなったあと、京極先輩はじっと反省しているようだった。でもまぁ……その後俺と久郷田先輩のことにも言及してきたから、正義感の強さをコントロールしきれてないのかもしれない。目の前で何か問題が起きそうだと、率先して解決しようとしすぎるのだ。
「多分久郷田先輩も悪い人じゃないのは分かってるんだけどね……それに尽きるよね」
「……………………」
これに関しては、他の三年生の意見も聞いてみたいところだった。特に相田先輩は親交が深いようだったし。
するとそのとき、担任の大宮先生が教室に足早に入ってきて、だらしなく話していたクラスがほんの少し活気づいた。席替えを楽しみに待っていた人が俺の思うより多かったみたいだ。
「………はい、お静かに。ホームルームを行います、着席してください……はい、それでは連絡事項です」
教壇に立った大宮先生は、いつものように淡々と連絡事項を話し始めた。二学期の初めだし、色々と重要な連絡も多いだろうけど、席替えの期待感に支配された生徒たちにはお経のようにしか聞こえなかったようで、ほとんどの人は聞き流している。
「……続いて、スポーツフェスタに関する諸連絡です。明後日の水曜日からの体育の授業は、スポーツフェスタの練習日になるとのことです。今年の二年生男子はバスケットボール、女子はバレーボールに決定しました」
「…………スポーツフェスタ?」
「稲光版の運動会。皆でスポーツするだけだよ」
俺の呟きに背後から補足が入る。こういう情報をすぐ教えてくれるのは、席が近いメリットとも言える。
それにしても稲光に運動会があったなんて。体育会系の学校以外、運動会をやってる高校は少ないと思う。結局種族差で勝ち負けが決まりやすいから、公平な競争がしづらいからだ。まぁ楽しくスポーツするだけなら、あんまり勝ち負け関係なくイベントになるのかもしれない。
スポーツフェスタの話はクラスのみんなもあちこちでこそこそ話をしていて、大宮先生の話に興味を持ったのかと思いきや、今度は全統模試の話が始まってガックリと肩を落とした。いつもより長いホームルームにみんな集中力が保てず、授業中でもないのに高田の頭がこっくりと揺れ始めた。
するとそれを見かねてか、大宮先生は少々早口で連絡事項を切り上げると、黒板にチョークで表のようなものを描き始めた。数学の先生だからか分からないけど、線も真っ直ぐで描くのが上手だ。たまに授業中に答えを黒板に書かされるときがあるけど、あんな綺麗にいかないよな。
少しして、ようやくそれが座席表であることに気がついた。5×6の表に名前が書けそうな空欄があって、上部に教壇と書いてある。
「……それでは、今朝予告していた通り、席替えを行いたいと思います。進行を秋沢さん、よろしくお願いします」
チョークの粉を払って鋭い嘴を秋沢の方へ向けると、スッと椅子を引いて学級委員長が立ち上がる。スムーズなバトンタッチだし、前もって言われてたんだろうか。
秋沢が教壇の前に立つと、同じ制服を着ているのに違う先生のように見えた。周りの生徒もヒソヒソと何かを話し合っている。
「……えー、それでは、今から席替えのくじ引きをします。結果の番号順に希望した席に決めていくので、くじを引いたら一番の人から黒板に名前を書いていってください」
簡単に説明してから、教卓の下から方眼紙で作ったくじ引きの箱を取り出す秋沢。そのまま席を一つ一つ回って、皆にくじを引かせていく。選ぶ順番は運とはいえ、仲が良い人は予め席を相談しておけば隣になれるだろうし、一学期の間に大体友達関係はみんな把握してるから、後半になったとしても自然と席を譲られたりするだろう。かえって席を離したい俺たちは選びづらい状況かもしれない。
秋沢が前の席の高田にくじを引かせると、ルールをよく分かってないのか拝むように手を合わせてから勢いよく引き抜いていた。苦笑する秋沢が俺の前まできて、そっと箱を差し出す。
「……ありがとな。これお前が作ったのか?」
「え?いや、大宮先生だよ」
話しながら適当に紙切れを取ってパッと開いてみる。別に何番でもいいと思っていたが、意外な数字が目に飛び込んできた。
「なぁ!渡嘉敷何番だった!?俺は5番だぜ!!」
「……30番」
「えっ!?マジか!!一番後ろじゃねぇか!!」
いやだから、これは席選びの順番だから後ろの席にはならねぇけど。それでも、30番は皆が選び終わったあとの余った一席だから、唯一自分で選べない寂しさはある。こうなると誰の隣になるか本当に予想がつかない。
ちょんちょんと、後ろのこーすけに肩を叩かれる。
「ドンマイ。多分中央の一番前だよ」
「え?なんで分かるんだよ」
「ずっと先生の真正面の席なんか一番人気ないでしょ。後ろからどんどん埋まってくし、前の席になりそうだよね」
「…………お前は?」
「8番。自分のロッカーの近くがいいな」
ちゃっかり高田もこーすけも前の方の順番を引いて、選択肢が色々あって楽しそうだった。どこでもいいとは言ったけど……もしかして拝んでた高田をバカにした罰なのかもしれない。
くじはどんどん回っていって、クラスのあちこちで興奮ぎみな雑談が起こる。番号が離れてると、周りの席が埋まってしまう可能性もあるから、あえて人気の無い席にしようかとか、色々と戦略立てて特に女子が盛り上がってる様子だ。そうして一番の人から黒板に書きに行って、待ってる間友達同士立ち上がって相談する。クラスの盛り上がり具合にどことなく疎外感を感じて、チラリと大宮先生の方を見ると、端にある予備のパイプ椅子の上で何やら書類を書いていた。こんな時でも空いた時間に仕事をしているらしい。
少しずつ埋まっていく黒板の表を見ていると、みんなの希望する席の傾向が分かってくる。まず最前列はほとんど選ばれず、高田と秋沢が同じ席に陣取った以外は空欄のままだった。みんな後方の、窓際や廊下側の角を狙いつつ、仲の良い人と近くなるように上手いこと調整していた。中央は案外不人気でもなく、融通が効きやすいのか早めに埋まっていった。露骨に前の方の席の押し付け合いになっているのを見て、そんなに先生の近くが嫌なのかと少し驚いた。俺なんか三人とかの学級で授業受けてたから、先生が眼前なのは当たり前だったんだけどな。
いよいよ俺の一つ前の人が書き終わって、渋々重い腰を上げる。六列だから最前列中央は片方埋まって、選ぶ余地のない俺の席はその右側となった。結局高田の左隣となってしまい、前の席からあまり動かない結果となった。チラリと利根川の字を確認すると、俺の列の最後尾になったらしく、ちゃっかり希望が通っているようだった。
書き終わって黒板から離れたところで、鳴り止まないガヤガヤ声を抑えるように大宮先生が立ち上がった。
「……はい、皆さんお静かに、明日の朝まで残しておきますので、明日からこちらの席に着席するようにしてください。以上でホームルームを終わります、秋沢さん、三井さん、後で職員室まで来て下さい。皆さんさようなら」
用事が終わった途端に、淡々とハイペースで伝えることだけ伝えると、こちらが返すのを期待してないようにさようならと言って教室を出ていく大宮先生。クラスの半分くらいの人は一応さようならと返しているが、どれくらい届いてるのかは分からない。淡白すぎると文句を聞いたこともあるが、何かを疎かにしている感じはしないから、俺としては気にならなかった。
「学校で気軽に話せるのも、これで最後だね」
後ろからこーすけの声が聞こえて、顔半分だけ首を回す。
「別に休み時間とか喋れるだろ」
「なーんか哲也の席に行ってまで話しかけてたらアイツ好きすぎない?っなりそう。でも哲也からは来てくんないし」
「実際そうだろ。用事があったら行くよ」
そうこーすけに返事をしたとき、何となく左側から視線を感じた気がして、何気なく顔を向ける。左側は女子たちがキャッキャと楽しそうに話していて、俺なんかを見てる人はいないかと、気のせいにして再びこーすけと会話を続けた。
時刻は20時過ぎ、俺は一人で風呂に入りに来ていた。脱衣所はあまり人の気配が無かったが、いざロッカーの前まで行くと携帯を弄りながらだらだらと服を脱ぐ藤原に遭遇した。
思わずあっ、と声が出ると、三日月の瞳をゆっくりとこっちに向けると、着けていたイヤホンを外した。
「…………何?」
「いや……誰もいないと思ってたから」
「入り口のスリッパ見れば分かるでしょ」
「…………確かにそうだな」
藤原と二人きりで話すのは久しぶりだった。そもそも夏休みはずっといなかったし、たまたま会って話すときも藤原の友達がいたり、先輩や後輩がいたから。他の二年生とも仲良くしようと考えていた俺だが、こーすけも篠崎も久郷田先輩もいない時間の合間を縫って、何人かの二年生にうっすらと挨拶をした程度では、ほとんど距離が縮まった気もしなかった。まだ藤原は話しやすい方だし、こーすけといない時は敵意も感じない。なんか世間話は無かったかと考えてみる。
「……うちのクラス、席替えしたけど藤原のとこもしたのか?」
「あー、うん。ていうか渡嘉敷って2組だよね?大宮先生が席替えしたの?」
「やっぱり珍しいのか?」
「まぁ担任持つの二年目だからデータは少ないけど、去年は無かったらしいよ」
「へぇ……なんか心境の変化があったのかもな」
こーすけも言っていたが、本当に夏休み中に良いことでもあったのかもしれない。とはいえあの先生が悪意で席替えをしていない、という気もしないけれど。
まだのんびりと服を脱ぐ藤原を置いて、先に風呂場に入る。中は誰もいなかったので、端から二番目くらいのシャワーに座った。
……なんか無理やり他の二年生と仲良くするのも、違うのかもしれない。確執のあるこーすけの尻拭いのように無理に歩み寄っても、それって健全な友達の形なんだろうか。自然と誰か二年生と仲良くなった、ってのが理想だけど、そう簡単にはいかないし。とはいえ話す機会を意図的に作らないと、自然と仲良くなるのも厳しいと思うから……悩ましいところだ。
後から入ってきた藤原は、一つ空けて隣に座り込んだ。昨日の京極先輩と同じ位置なのに気づいて、まだ藤原との距離感ってそのくらいなのかと思ってしまった。
二つのシャワー音が、風呂場のタイルに反響する。
「………………………………」
「……そういえば、前に僕のクラスメイトが渡嘉敷と話したいって言ってたよ」
「っ、え?誰だ?」
「本田ってやつ。喋ったこともないけど、気になるから僕に繋げてくれないかって」
「………………気になるって…………」
名前を聞いても分からないし、藤原は4組だった気がするから、顔も知らない可能性が高いだろう。でも向こうは俺を知ってて、多分好意的な感情を持ってるらしい。
「見た目がタイプなんじゃない?渡嘉敷が興味あるなら、伝えとこうか?男だけど」
「………………いや、いいよ」
俺のことが好きな時点で男なのは分かってる。わざわざ会って、また告白されて断って、とする必要もないだろう。拒絶される悲しい思いも、味合わせなくて済むだろうし。
「……渡嘉敷って、最初の頃はそんなに顔知られてなかったけど、皆が認知し出してからちゃんとモテ始めてるよね」
「…………そうなのか?」
「気づいてないわけ?僕は色んな同級生と喋るけど、渡嘉敷気になってる奴多いよ」
若干信じられない、というような口調で言われて、思わず少し申し訳なくなった。前に三下先輩から似たようなことを言われてたのを思い出して、紛れもない事実であることを再認識させられた。そうはいっても久郷田先輩ほどじゃないだろうし、携帯も持ってない俺は直接話しかけられない限り生活に影響はない。何か手の打ちようもないだろう。
「………………喋ったこともないのに、なんで俺のこと好きになれるんだ?」
「……顔と体でしょ。数百人も生徒いて、それ以外でどうやってタイプの人見つけんの?」
「………………それは……そうか」
少し冷めた目でじっと見られて、またしても萎縮する。そもそも俺と皆では稲光にいるスタンスが違うということを、たまに忘れてしまう。
藤原は濡れてペッタリと寝た羊の毛で、少量のシャンプーを泡立て始めた。毛深い種族は泡立ちが良くて、ほんの少しで全身をもこもこにできるが、羊獣人はその最たる例だった。
「やっぱり渡嘉敷が、好かれも嫌われもする理由が分かるよ。話すと天然なだけの良い奴って分かるけど、逆に端から見てるとぶりっ子に見えたり、妬みの対象になったりする」
「……っ…………嫌われてもいるのか」
俺が呑気に羊の毛について考えてると、唐突に藤原の鋭い意見に心臓を刺される。こういうところが鈍感とか天然って思われてしまうんだろうか。
「ほとんど根拠のない嫉妬だから、気にしなくていいよ。久郷田先輩から愛されてるのが気に食わない、とかね。でも一部の人は、渡嘉敷のこと勘違いしてる」
「……どういうことだ?」
俺が続きを促すと、藤原はため息をついてから目線を逸らした。
「わざわざ稲光に転校してきて、モテてるのに恋愛もしない。ただチヤホヤされたい奴なんじゃないかって、憶測してる人もいる」
「………………そうか………………」
普段から歯に衣着せずに喋る藤原も、少し気を遣ったような言い回しに感じた。俺はあまり傷ついてはいないが、そんな風に思われるのか……と心が重たくなった。
稲光に転校生は珍しいらしい。普通の学校に問題なく通えてるなら、わざわざ遠くから稲光に来る必要はないからだ。転校してきたってことは、思いきり恋愛がしたい奴だと思われるのは仕方ない。学園一モテる久郷田先輩に求愛されてるのに、それを断るという行為と辻褄が合わないのだ。よく分からないから憶測も飛び交うし、勘違いや悪いイメージもついてしまう。全ては、俺がノンケなのに稲光に転校してしまった、ということを知らないから起こることなのだ。
藤原に言われるまで………そんな風に思われてるなんて発想に無かった。でも論理的に考えると、そう思われるのも仕方がなかった。今さら気がついた俺に、何が出来るんだろう。
「………………いや、言うべきじゃなかったかも。ごめんね、変なこと言って」
「いや、大丈夫だ。でも……俺に誤解を解く方法はあるのか?」
「え?あぁ…………ノンケだって言いふらすわけにもいかないし………てか、勝手に勘違いして嫌ってる奴が悪いんだから……」
「いや、勘違いさせた俺が悪い。藤原に言われるまで気づかなかったよ……ありがとな」
俺がそう言うと、藤原は少し驚いたように目を見開いた。体を洗う手を止めて、毛をぎゅっと握り締める。
「…………何それ。なんか僕が惨めじゃん。こっちこそゴメン……悪気は無かったけど………」
「いや、いいって…………同じ人としか喋ってない俺が悪い。そういう皆の意見って、藤原はどうやって聞いてるんだ?」
俺の問いかけに、藤原はまた小さくため息をつくと、シャンプーをする手を再開させた。
「渡嘉敷の話って、ちょくちょく話題になるし……SNSとか、前に教えた裏掲示板とか。でもなんか、渡嘉敷にはそういうの見てほしくないな」
「まぁ……携帯持ってねぇから見れないけど。あっても今まで通り、見ないフリするかもな」
「ホント気にしなくていいよ。悪く言ってる奴より、褒めてる奴の方が倍以上多いから」
それは何となく嬉しいけど、褒めてるって……多分外見のことだよな。可愛いとかカッコいいとかエロいとか、こーすけたちから散々言われてきてげんなりする部分もあるから、どちらにせよ見ないのが吉かもしれない。
「……ROM専だったけど、変なこと言ってる奴いたらたまには書き込んでみようかな」
「ロム…………なんだって?」
するとそのとき、風呂場の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。思わずそっちを見ると、さっき名前が挙がった久郷田先輩が中を覗き込んでいた。そしてすぐに俺に気がつくと、一直線に歩いてきて俺の隣の端にあるシャワーの前に座り込んだ。
「……あ、お疲れ様です」
「おう」
藤原の挨拶には一応応えたが、一瞥もくれずに俺の顔を見つめる久郷田先輩。たまに感じる、露骨な後輩への態度の違いに俺も複雑な感情になる。
「…………なんですか?」
「……お前こそ、物欲しそうに俺の顔見てただろ」
「扉空いたら普通見るじゃないですか……」
ニヤリと笑っていつもの調子でちょっかいをかけてくる久郷田先輩だが、さっきまでの空気的にも、藤原にこれを見られたくないなといつもより意識して冷めた態度を取る。しかしそれが気に食わなかったのか、先輩もシャワーを捻りつつ、ちょっかいを止める気はないようだ。
「……おい、背中洗ってやろうか?」
「大丈夫です……」
「この辺ちゃんと洗えてねぇぞ」
先輩の手が脇腹を捉えて、こちょこちょっと動き出す。思わず少し吹き出してしまい、笑いながら手を払い除ける。
「ッ、ちょっと……!やめてください」
「相変わらず脇腹弱ぇな?」
「誰だって弱いでしょ……」
「なら俺もくすぐってみろよ」
ニヤケながら余裕の面持ちで左腕を持ち上げる久郷田先輩。挑発に乗ってはいけない、と思いつつも、不意打ちされたのが悔しくて、手を伸ばして触れてみる。
ピクリ、と小さく反応したが表情は動かない。試しにこちょこちょと擽ってみる。
「……………………………………」
「……我慢してますよね?」
「いや?余裕だな。もっと強くやれよ」
またしても挑発に乗せられて、指先の動きを速めてみる。固い腹斜筋もびくともせず、余裕の表情を崩さない久郷田先輩に、なんだか悔しくなる。
そこで不意打ちに、脇のすぐ下をツン!と人差し指で突いてみる。不敵だった強面も、急な刺激に一瞬にしてぷっと吹き出した。それに釣られて俺も小さく吹き出してしまう。
「ッ、やっぱり我慢してるじゃないですか」
「っ……不意打ちは卑怯だぞ」
「誰が言ってんですか」
いつになく饒舌な先輩の冗談に俺が笑うと、先輩も嬉しそうに笑う。さっきまであしらおうと思ってたのに、いつの間にか先輩のペースに乗せられていたことに気づいて、シャンプーを再開する。ようやく先輩も体を洗い出したし、さっさと浴びてしまおう。
「……テツ、シャンプー貸してくれ」
横からまたいつものように催促されたとき、再び風呂場の引き戸が音を立てて開いた。癖のようにまたしても見てしまうと、お湯で火照っていた体が急に温度が下がった気がした。そこには、京極先輩が立っていたからだ。
そのことにすぐに気がついたのか、久郷田先輩は小さく舌打ちをする。昨日は久郷田先輩が後だったから避けれたのだが、京極先輩はどういう意図か、構わずに風呂場に入ってきた。昼間寮生の前で喧嘩をして、その熱は冷めきってないだろうに。
俺はチラリと藤原を見た。向こうも俺を見ていて、これはまずいと考えてることは一緒のようだった。そしてすぐに藤原は京極先輩の方に向き直った。
「あ!京極先輩お疲れ様です」
「あぁいや、気にしないで楽にしてくれ」
「あの、カナダで川下りしたって本当なんですか?」
「よく知っているな。ユーコン川に、ホストファミリーが連れていってくれたんだ」
きっと藤原も京極先輩と仲良くはないだろうし、普段だったらほとんど話さないだろうが、揉め事を避けるために一役買ってくれた。俺たちでそれぞれ話をして二人ずつのグループを作り、先輩たちを交わらせないのがおそらく最善だ。こーすけ並みに察しが良くて本当に助かった。
しかし、京極先輩は話ながらなんと俺と藤原の間の椅子に座ったのだ。藤原の反対側も空いてるのに、端から詰めるべきだと思ってるんだろうか。俺を挟んで二人が話すのも難しくない距離感に、再び緊張が走る。
「パイクという魚がいて、釣りもしたんだ」
「えぇ~!?美味しいんですか?」
「いや、すぐにリリースした。調理する予定は無かったからな」
二人はとりあえず会話を続けているが、京極先輩の体に隠れて藤原の様子は見えない。世間話はいつまで続くか分からないし、俺も俺で久郷田先輩と話して壁を作らないと。
幸い久郷田先輩は自分発信で京極先輩に何か言うことは無いだろうし、不機嫌そうに顔をしかめながら早く出たがってるように見えた。何か起こる前にさっさと出てもらおう。
しかしそのときだった。
「…………渡嘉敷……貸してくれ」
「あぁ、どう─────」
「───久郷田、まだシャンプーを人から借りているのか?」
俺の言葉も、藤原との会話も一刀両断して風呂場に響き渡る、威圧的な低い声。途端に空気がピリッとひりついて、風呂場なのに寒気を覚えるような錯覚だ。
久郷田先輩はさっきより小さめな声で言ったのに、京極先輩には聞こえていたらしい。俺たちがどう頑張っても、久郷田先輩がシャンプーを持ってこなかった時点でこうなることは避けられなかったのか……。
「……あ!久郷田先輩一年のときからそうだったんですか?お茶目ですねー」
「……………悪ぃか?」
藤原の無理やり絞り出した明るい声も無視して、久郷田先輩の不機嫌な返事がされる。俺も思わず額に手を当てた。
「俺は何度も何度も、その悪癖を治せと注意したはずだ。少量でも、シャンプーは無料じゃない。いい加減自分の物を買え」
「…………あの、京極先輩俺は大丈夫なので……」
相変わらずの真面目な物言いは、止めに入らないと天丼の時のような喧嘩に発展しそうだった。俺も思わず京極先輩の方を見て、宥めるように掌を向ける。
しかし、京極先輩は俺を見下ろしながら冷たい口調で言い放った。
「渡嘉敷の心境ではなく、久郷田の怠惰についての問題だ。申し訳ないが、少し黙っていてくれないか」
その瞬間、勢い良く立ち上がった久郷田先輩が風呂場のタイルにダンッ!!!と激しく掌底打ちをした。当然のことにビックリして見上げるも、久郷田先輩はギラギラとした目付きで京極先輩を睨んでいた。
「…………テメェぶち殺すぞ」
唸り声も絡んだ迫力のある脅しに、俺は思わず息を呑んだ。篠崎と争っていたときよりも、久郷田先輩はキレている。今にも噛み付きそうな様子に、俺も慌てて立ち上がる。
「……渡嘉敷には謝罪している。それより事の発端はお前の怠惰だろう。物に当たるとは情けない奴だ」
「…………先輩、やめましょう……」
久郷田先輩の肩に軽く触れながら、京極先輩との間に居続ける。先輩と目を合わせようと努力するが、瞬きもせず京極先輩をじっと見ている。牙を剥き出して、マズルに皺が寄っている。本当に、止めないとまずい。
「…………………………グルル…………ッ……………」
「今すぐ自分の非を認めて、謝罪しろ。シャンプーだけではなく、人に殺すぞと脅迫をしたこともだ。だがもし……お前が、暴力的な、方法でしか分からないというのなら……………………受けて立ってやる……」
京極先輩はゆっくりと立ち上がった。ダメだ、本当に……この後のことは考えたくもない。どうなったって最悪になるに決まってる。
俺は振り返って京極先輩の方を見上げる。壁のような存在感と、握った拳の力強さに萎縮しそうになる。
「………京極先輩!止めてください……」
「っ、渡嘉敷!!こんな奴の味方をする必要はない……こいつは人を誑かして、愛してくれた人を簡単に裏切る!そうやって何人も傷付いてきた!全て自分のためでしかない!!」
京極先輩は、俺に強く訴えかけていた。その顔は、怒りと共に悲痛も孕んでいた。俺を退かせたいだけなのに、どうして……そんな顔をするんだろう。
久郷田先輩の唸り声が大きくなった……呼応するように、京極先輩も捲し立てる。
「渡嘉敷、俺の後ろにいろ!怪我はさせんが、痛い目を見んと分からんようだからな!!」
「………………ッ、」
その時だった。
「…………お"い"ッッ!!!!!!!」
「……………っ!!?」
風呂場の戸が勢いよく空いて、地響きのように反響する大声が俺たちを圧倒した。全員が思わずビクリと体を震わせ、金縛りのように動けなくなった。
……そこに立っていたのは、相田先輩だった。扉の隙間から、他の寮生も中を覗いている。
「…………………………何してるんだ?」
「……………………相田…………………………」
相田先輩は服を着たまま、ゆっくりと歩いて近づいてきた。京極先輩も、少しばつの悪そうな顔で目線を落としている。
喧嘩を嫌っている相田先輩からしたら、仲の良い友人同士が勃発寸前だったことに、激怒していても仕方がない。いつものんびりしている相田先輩から、聞いたことのない大声を浴びて、当事者でもないのに俺は尻尾が丸まっていた。
…………結局、どう転んでも最悪な展開だったようだ。
[newpage]
「…………あ、あやめ先輩……お疲れ様です」
「ん、お疲れトーカちゃん。珍しいわね」
新学期の初日の夜。九時の点呼が終わって食堂にはほとんど寮生が残っていなかった。いたとしても晩御飯を食べ足りない人がカップ麺のお湯を沸かしていたり、手持ち無沙汰にテレビを見ているくらいだから、話をするにはうってつけの場所だと思ったのだ。
あの後、相田先輩によって場は収められたが、どちらかというと強制的に収めさせられたに近かった。とにかく関係ない俺たちはさっさと風呂場を出て、あの三人も点呼のせいで最後まで話が出来ず、全員がもやもやとしたまま解散してしまった。だから俺はこっそりとあやめ先輩を呼び出して、色々と話を聞きたかったのだ。
先輩は相変わらず女性向けのパジャマを着て、何やら美容器具も身につけているようだ。どんな時でも変わらない様子に、少し安心する。
「それで……なぁに?話って」
「……………今日の風呂場のこと、聞きましたか?」
「えぇ。久郷田がめちゃくちゃ不機嫌なまま部屋に帰って来て、正直気まずかったわ」
そうは言いつつも、あやめ先輩は大して動揺していないようだった。現場を見ていない、というのもあるだろうが、もしかしてこれまでもあったんだろうか。
「………こういうことって、今までもあったんですか」
「そうねぇ……一年の頃から、京極と久郷田はしょっちゅう揉めてたわ。でも先輩もいたし、皆で止めてたんだけど……今年は相田しかいないのよね」
「……じゃあ、あやめ先輩からしたら慣れっこなんですか?」
「トーカちゃんよりは、ね。半年ぶりだし、平和ボケしちゃったのかしら」
微笑むあやめ先輩に、俺も少し脱力する。今まで何回もあったのなら、解決も早いだろうし……きっと俺が悩むことじゃないんだろうな。
「三下と久郷田の喧嘩なんて可愛いもんでしょ?」
「………あの人たちが殴り合ったら、誰も止められませんよね」
「イヤよねホント暴力的で。一番強い相田がまともで良かったわ」
「っ、え?相田先輩が一番強いんですか?」
俺が驚いた声をあげると、あやめ先輩はニヤリと笑った。一番大きいのは京極先輩だし、色んな武道をやっていたなら一番強いのかと思っていた。
「相田は十年も柔道やってたのよ。京極も黒帯だけど、一回だけ大会で戦ったときはボコボコだったらしいわよ」
「えぇ…………」
あんなにデカくて威圧感のある京極先輩をボコボコにできるって……相田先輩怖すぎないか?
「…………相田先輩……ふくよかなのでそんな感じしませんでした」
「寮に入った頃は毛も短くて体も締まってたの。でも部活辞めてからゆっくり太って、なるべく恐くないように見た目を変えてったのよね」
たまに言ってしまうけど、相田先輩は怖いと伝えると悲しそうな顔をする。内面はおおらかで優しいのに、見た目で判断されるのが嫌なんだろう。努力の結果だと知ると、可愛らしくも感じてきた。
食堂に残っていた寮生もどんどん出ていき、気づけば俺とあやめ先輩だけになっていた。色んな三年生の昔話も気になるけど、俺が呼び出した理由はそれじゃない。
「………………あの、久郷田先輩についてなんですけど」
「……えぇ、どうしたの?」
「…………京極先輩が、久郷田先輩に傷付けられた人がたくさんいるって、言ってたんです」
俺が本題を切り出すと、あやめ先輩は少し難しい顔をして、ため息をついた。憚られるような話題でも、聞かなきゃいけないと思っていた。
「三下先輩みたいに、体の関係を持ってから……蔑ろにする、ってことなんですか?そういう人が……たくさん居たんですか?」
「…………そうね。基本的にはそんな感じよ。でも……京極が言うのは、それだけの意味じゃないの」
あやめ先輩は、机に肘を付いてまたため息を吐いた。話しにくいことなんだろうが………教えてくれるのはあやめ先輩くらいしかいないと思っていた。
「どういうことですか?」
「………ちょっと長くて暗い話になるけど、平気?」
「………はい……知りたいです」
続きを促す俺がじっとあやめ先輩を見つめると、ため息混じりに話し始めてくれた。
「トーカちゃんは、大崎って聞いたことある?」
「……ないです」
「大崎は私たちと同学年で、去年の秋までこの寮に居たの。二年のときの、久郷田のルームメートよ」
「………………じゃあ、もしかして……」
「えぇ……三下と一緒。一年の頃、久郷田は三下を口説いて一回だけ抱いたらしいの。その後三下と仲が悪くなって、二年になって大崎と同室になった。その間もあっちこっち手を出してたんだけど、知っての通り誰とも恋人にはならずに体だけの関係をたくさん持ってた。そして大崎も……口説き落として体の関係になったのよ」
「………………………………」
「でも三下と違うのは、大崎が勘違いしちゃったこと。久郷田から甘く囁かれて、自分たちが恋人になったんだと思っちゃったの。久郷田によると、付き合うなんて一言も言ったことはないらしいけど……大崎は一ヶ月くらい、恋人だと思い込んで生活して、久郷田に愛情を求めるようになった」
「…………でも、久郷田先輩は違うんですよね」
「…………大崎は久郷田に、体だけの関係の人を切るように言ったの。それが発端で、久郷田に勘違いすんなって言われたのがショックで……秋口に転校しちゃったのよ」
「……………………………………」
「三下は自分でやり返せるタイプだったから良かったけど、大崎はこっそり居なくなった。事情を知った京極は久郷田を責めたけど……正直これについてはどっちも悪いから仕方ないわ。勘違いしちゃった大崎も悪いし、勘違いさせるようなことをした久郷田も悪い。正確なやり取りは二人にしか分からないしね」
「…………………………そうですね」
「それと……これは私が言ったってことオフレコにしてほしいんだけど…………京極は、実は大崎のこと好きだったの。純粋で、無垢なタイプ…………トーカちゃんみたいにね」
「………………っ……………………」
「アイツから恋愛相談受けてる最中、大崎が久郷田に捨てられたもんだから……当時は私も苦労したわ。私情も載って、ますます久郷田の行動に厳しくなった京極は、留学に行くまでよく喧嘩してたの。そこまでの詳しい事情は、三年でも私と相田くらいしか知らないわ……そのあと今の二年生の事件もあって、色々と問題続きなのよ……この寮は」
「…………そんなことがあったんですね」
「でもトーカちゃんが来てから、結構良くなったわよ?こーすけちゃんも久郷田もあなたに夢中だし、嫌な先輩も消えていい子な一年生たちも入ってきたし……正直京極が帰ってきて、問題が片付くどころか増えたような気がしてるわ」
そこでようやく一呼吸置いて、あやめ先輩は持ってきていた水筒の水を飲んだ。聞いている俺もほとんど喋ってないのに、何だか喉が渇いていた。
………普段からアプローチされてるからよく分かる、久郷田先輩の人たらし力。俺はゲイじゃないから断れるけど、あんな風に近づかれてちょっとでも甘く囁かれたら、大抵の人は靡いてしまうだろう。久郷田先輩は体の関係だと言っていても、勘違いする人が生まれるのは、仕方ないかもしれない。
風呂場での、京極先輩の顔を思い返す。もしかすると……俺と大崎さんを重ねてしまったんだろうか。
「元から規則に厳しいとはいえ、久郷田のやることを何でもかんでも注意するのは……まだ大崎のこと引きずってるんでしょうね……」
「…………二人が和解することって……あり得ると思いますか?」
俺としては、こんな日々が続くのだとしたら生活しづらくてしょうがなかった。今日はたまたま二回とも居合わせただけだとしても……俺を口説こうとする久郷田先輩を見るたび、京極先輩はイライラを募らせるということだ。何か解決策は無いんだろうか。
「………多分、ないと思うわ。歩み寄る理由が、二人とも無いし………」
「…………ですよね」
俺が小さく項垂れたとき、あやめ先輩は少し考え込んでから、緩やかに微笑んだ。机の上に身を乗り出して、軽く俺の肩を叩く。
「………………でも、根拠はないけど、トーカちゃんなら出来るような気がしてるの」
「……なんでですか?」
あやめ先輩はにっこりと笑う。毛艶の良い黒毛がキラリと輝く。
「……………トーカちゃんは、久郷田よりずっと……人として魅力的だからよ」
「……………………………………?」
優しい笑顔に否定的な言葉は思い浮かばかったが……その言葉の真意は分からずじまいだった。
夜も更けてきて、あやめ先輩が食堂を出ていってから、しばらくの間一人座りながらぼーっとしていた。背中に流れているテレビ番組はバラエティーなのか笑い声が聞こえているが、今の神妙な気分を吹き飛ばせるほどのパワーはない。ただノイズとしては丁度よくて、誰もいない食堂にいても寂しさは感じなかった。
「…………………………はぁ」
ため息ひとつ、テーブルの上に落としてみる。それを皮切りに、シャットアウトしていた悩み事がグルグルと頭を巡り始める。
京極先輩と久郷田先輩……その因縁や確執は今に始まったことじゃないらしい。根深いこれまで、があるせいで、篠崎とのときのようにはいかないだろう。それに京極先輩は、俺のことが恋愛感情的に好きなわけではないと思うから、あやめ先輩の言うような魅力?を活かした問題解決は難しそうだ。
……京極先輩は、特に間違ったことはしていない。客観的に見たら、二人の喧嘩の発端はいつも久郷田先輩にある。だからといって、京極先輩が小さなことにもいちいち目くじらを立てるのが、あまり良くないのも明白で。俺に何かできるなんて、到底思えなかった。
再びため息を吐きながら、リモコンを手にとってテレビを消す。このまま座っててもしょうがないし、こーすけあたりに意見を聞いてみようか。
「……ていうか…………なんで俺が悩むんだろう」
ポツリと口をついて、ふと思っていたことが音になる。先輩たちの喧嘩は、先輩たちで解決するのが当たり前で……二人じゃダメなら仲裁している相田先輩が何とかする。俺が、勝手に悩んでいる一番の理由は何なんだろう。
目を閉じて、風呂場でのことを思い返す。藤原と必死に二人を引き離そうと頑張った。努力虚しく、京極先輩は久郷田先輩を注意した。久郷田先輩は不機嫌だったが、喧嘩腰ではなかった。昼間の食堂のときのように、自分から退室できたはずだ。俺は仲裁しようと頑張った……はず。でも京極先輩に………黙っていてくれと言われてしまった。
「…………あっ…………………………」
その瞬間、久郷田先輩はキレた。俺が、京極先輩に注意されたからだ。俺のために怒ったのか……久郷田先輩は。俺が間に居なければ、二人の喧嘩は大事にならないのかもしれない。
するとそのとき、ガラガラと食堂の扉が開く音が鳴って、自然とそっちを見た。何となく、誰にも会いたくない気分だったけど、入ってきたジャッカルの顔を見て、話したいなと頭に浮かんだ。
「………あ?渡嘉敷か。何してんだ?」
「お疲れ様です……ちょっと考え事してました」
三下先輩は水道の前に行って、備え付けのポットでお湯を沸かし始めた。またカップ麺でも食べるのかもしれない。夏の間も何度もこの光景を見た。
立ち上がって先輩のそばまで行き、近くのテーブルに腰を下ろす。イヤホンをつけて携帯を見ていたようだったが、俺が来たのを見てそっと外した。
「まーた悩んでんのかお前。この間は篠崎が距離が近すぎるっつってたろ」
「あれはもう大丈夫そうです……夏休み終わって、皆帰ってきましたし」
「一ヶ月くらいお前と寝てたけど、そっちにちょっと慣れちまったわ。なんか早寝になった気がする」
「良いことじゃないですか」
三下先輩は小さく鼻で笑うと、持ってきたカップうどんの封を開け始めた。変わった新商品の明太子フレーバーで、こーすけが好きそうだなと何気なく思った。
「………今は何悩んでんだ?」
ボソッと呟くように聞く三下先輩に、俺も少し顔の筋肉が緩んだ。ぶっきらぼうだけど、なんだかんだ気にかけてくれるんだよな。
………久郷田先輩の話を三下先輩にするのは抵抗もあった。大崎さんのことを聞いた直後だし、気分は良くないかもしれない。それでも、話したい気持ちが勝ってしまい、なるべく明るいトーンで切り出した。
「京極先輩と久郷田先輩のことです。風呂場で喧嘩したの、知ってますか?」
「あぁ。又聞きだけど」
「あの場に居合わせちゃって………これからもああいうことが起きるのかなって」
三下先輩は俺と目を合わせずに、包装紙の袋をまとめてくちゃっと握りしめる。避けたい話題なら今すぐ止めるけれど。
「………帰ってきて早々バカみてぇだな。久郷田とまともに話なんかできるわけねぇのに」
「…………そうなんですか?」
「お前アイツの本心聞いたことあんのか?いっつも余裕で、好き勝手生きて、キレてるときもちゃんと喋んねぇ。まともな話できる奴じゃねぇよ」
そう言われて、今までの久郷田先輩を思い出す。俺の中でのイメージは、自分勝手で変態で、理不尽なこともするけれど………何処か憎めないし、格好いい。そんな感じだった。
「確かに………自由人って感じですよね」
「そんな奴を真面目に叱ったって無意味だろ。こっちも同じくらいテキトーにすんのが丁度いい」
三下先輩は一度ごみを持ってゴミ箱に捨てに行った。その背中を眺めながら、三下先輩もこれまで久郷田先輩を叱ろうとしたことがあったのかなと思った。
ただ、京極先輩に同じことができるとは思えない。あれだけ真面目な人と、相性は最悪だ。きっと卒業までしつこく揉め続けるような気がする。
「先輩は、どっちの肩を持つとかあるんですか?」
少し声を張り上げて、遠くの先輩に聞いてみる。
「………久郷田も嫌いだけど、京極も別に。二人ともバカだと思ってる」
「ははは…………先輩らしいですね」
戻ってきた三下先輩は、足を組んでふてぶてしく椅子に座り込んだ。お湯が沸くまでは暇だろうし、もう少しこの話を広げてみてもいいだろうか。
「お前が悩まなくても、相田とかあやめに投げときゃいいんだよ。相田にボコられた後は、しばらく大人しくなっから」
「………喧嘩の原因が、俺なんじゃないかって思ったんです。久郷田先輩がキレたきっかけが……俺のためにだったので」
それを聞いて少し訝しげな表情になる三下先輩。頬杖をついたまま、俺の顔をじっと見る。
「ホントかそれ。久郷田が誰かのためにキレるとか聞いたことねぇぞ」
「………違うんですかね。俺が喧嘩を止めようとしたら、京極先輩に黙れって言われて……それを見て怒ってたんです」
俺の思い過ごしなら、それが一番いいけれど。タイミング的にも、トリガーはそれだったとしか思えなかった。
気づくと、三下先輩は穴の空くほど俺をずっと見つめていた。何とも形容できない神妙な面持ちで、取り調べのように疑われてるとさえ見える。
「…………どうしたんですか?」
「………………………………………………」
「………先輩…………………………?」
長い沈黙のあとで、三下先輩はため息に混じりに返事をする。
「…………お前って恐ろしい奴だよな」
「え、はぁ?なんでですか?」
予想外の言葉に目を見開くと、ニヤリと笑って足を組み換える。
「久郷田よりよっぽど怖ぇよ。一ヶ月お前と添い寝したけど……正直たまに可愛いとか思ってた。タイプ外だしそんなつもりねぇけど、お前に夢中になる奴の気持ちがちょっとだけ分かっちまったんだよ」
「……………………………………」
「おい引くなよ」
「引いてないですけど……そう言われてどうすればいいか分かんなくて」
「それだよ。お前はわざとらしさが無ぇんだ。世間知らずな田舎もんだから、同じ事やっても久郷田がやるのとお前がやるのじゃ全然違う」
そんなこと言われたって……わざとらしさなんて自分でコントロールできない部分だ。藤原にも言われた、自然体であることに魅力を感じられてるんだとしたら、どうすればいいんだ?
考えと困惑が顔に出ていたようで、三下先輩はバツが悪そうに頭を掻いた。
「……じゃあ、わざとらしくなればいいんですかね」
「…………いや、逆だ。お前は天然なのに考えたがる。もっと久郷田みたいに、思ったことそのまんまぶつけてみりゃいいんだよ」
「えぇ…………?」
「お前が感じたこと、思ったことをぶつけられると、多分受けた側は大ダメージだ。本心だって分かるからな……普段そんなやつじゃないから尚更」
そのとき、ポットがピーと音を鳴らしてお湯が沸いたことを告げた。気だるげに立ち上がってお湯を注ぎに行く三下先輩の背中に、泣き言をぶつけてみる。
「…………よく分かんないです」
「正味俺も自分が何言いてぇのか分からん。でも次京極に黙れとか言われたら、うるせぇって言ってやれ。多分アイツでも怯むぞ」
あんなに大きくて強い人が、俺に言い返されたくらいで怯むだろうか。久郷田先輩の全力の脅しにも、微動だにせず戦う準備すらしていた。相田先輩の大声には流石に驚いていたから、全く隙がないわけじゃないと思うけど。
すると、三下先輩はカップにお湯を入れながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「…………大崎もそうだった」
「…………っ………………………………」
先輩は俺があやめ先輩から聞いたことを知らないから、独り言のつもりで言ったのかもしれない。ただその名前を呼ぶ口調は何処か寂しげで、哀愁も含んでいる。憶測でしかないし、聞くつもりもないけれど……三下先輩も大崎さんと仲が良かったり、思い入れがあったりしたんだろうか。
少ししんみりとした空気の中、カップ麺を持って戻ってきた三下先輩。このまま食堂で食べるのかな。
「…………明日身体測定ですよね」
「あ?あぁ…………やべ、太るかもな」
「気にしてるんですか?」
「夏休みちょっと太ったんだよ。ダチに数字見られたらダルい」
「一日じゃ変わんないですよ」
「そうだな。じゃ身体測定の話なんかすんじゃねぇよ」
ぶっきらぼうに言い放つ三下先輩に微笑み返す。少し真面目な話になると、照れ隠しのように冗談を言い合うのが、俺たちのいつもの流れだった。暗い雰囲気で終わることはほとんど無いから、気軽に話せて楽な先輩だ。三年生は個性豊かで、色んなタイプの先輩がいるけど、一個上とは思えないくらい大人びた人が多いような気がする。この寮に三年もいると、自然とそうなっていくんだろうか。
三下先輩と別れて、部屋に帰るべく螺旋階段を登っていく。一段足をかける度に、考え事が浮かんでくる。
あやめ先輩には、俺ならどうにかできるかもと言われた。でも三下先輩には考えるなと言われた。何も考えずに、二人の言う魅力とやらだけでこの問題がどうにかできるとはあまり思えない。結局のところ、考えてしまうのが俺の性なのかもしれない。
二階に着いて、ずらりと扉の並ぶ誰もいない廊下を眺める。全部一年生の部屋で、上柴と篠崎の部屋は右側の手前から三番目だ。訪ねる……のも悪くないけど、もう時間も時間だし部屋に帰ろう。
再び螺旋階段に足をかけて、今度は三階へ登っていく。学年が上がるほど登り降りが大変になるシステムはどうなんだろう。こーすけはエレベーターが欲しいとか言ってたけど、俺はそこまで辛くもない。一段が少し高めだから、小柄な種族ほど大変だったりするのかもしれない。
三階へ着いて、また立ち止まって廊下を眺める。景観は二階と何も変わらないし、ネームプレート以外ほぼ同じだろう。なのに何故か、自分の部屋があるというだけで不思議な安心感があった。
すると目の前で三階のトイレのドアがゆっくりと開いた。見た目は他の部屋のドアと似ているけど、漏れる空気が全然違う。三階のトイレが一番が綺麗だって、他の学年の人からたまに言われるんだよな。
すっかり二年生が出てくると思い込んでいたから、中から出てきた顔にとても驚いた。
「…………久郷田先輩?何してるんですか?」
「……………………………………」
今日は本当によく鉢合わせるハスキーの顔。無表情といえばそうだが、どこか落ち込んでいるようにも見える。俺の顔を見ても、いつものニヤケ面は浮かんでこなかった。
「…………お前こそ何してんだ?」
「……部屋に帰るとこです。何で三階のトイレ使ってるんですか?」
「……………………ここが一番綺麗だからな」
口調からも間からも、それが嘘であることは容易に分かった。やっぱりテンションはかなり低い……理由はたぶん、相田先輩に怒られたからだろうか。点呼前に消化しきれなかった分を、もしかしたらさっきまで叱られていたのかもしれない。三年生に会いたくなくて、三階のトイレを使ってるとしたら……それが意外と堪えているようだ。
久郷田先輩はゆっくりとこっちに歩み寄ってきて、じっと俺を見下ろす。いつもならすぐに頭を撫でたり抱き締めてきたりするのに、夏バテのときくらい元気がない。
「…………なぁちょっと………………話せねぇか?」
「………………はい、いいですよ」
先輩を見つめながら、俺は内心少し驚いていた。まず話そうなんて言ってくることが今まで無かったし、久郷田先輩なら無理やり引っ張っていくだろうし。何だかこっちまで調子が狂いそうだ。
「……じゃあ…………屋上行くか」
「……大丈夫ですか?元気無いですよね」
「あ?んなことねぇよ……ほら行くぞ」
しゅんとした様子を指摘すると、強がりのように声を荒げて、無理やり俺の肩を抱いてきた。いつもなら突き放すけど……こんな状態の先輩は初めてで、俺もどうしたらいいか困惑してしまった。
並んでゆっくりと階段を登りながら、少しずつでも話を聞き出す。相田先輩と何があったのか気になる。
「……点呼のあと、相田先輩と話したんですか?」
「…………あぁ。別にいつものことだ」
「風呂場の相田先輩……怖かったですね」
「普段温厚だからな。お前は見たこと無かったか」
今までも、相田先輩が大きい声を出すことはあったのか。二人はしょっちゅう揉めてたとあやめ先輩も言ってたし、そんなに珍しくないのかもな。
四階へ着いて、また似たような廊下が視界に入ったときに、俺は衝撃のあまり立ち止まってしまった。何回目なんだ、本当に……勘弁してくれ。
廊下には、京極先輩が立っていた。当然待ち伏せではなく、たまたま部屋を出たタイミングで鉢合わせてしまったのだろう。京極先輩も驚いたようにこっちを見つめている。
久郷田先輩は、俺の肩を抱いたままチラリとそっちを見ると、すぐに顔を逸らして屋上へ行こうとした。しかし俺が立ち止まったせいで、それも叶わなかった。
「……久郷………………田…………お前は…………」
俺は思わずびくりと肩を震わせる。この瞬間京極先輩が何というか分からない。また喧嘩が起こる可能性もある……すぐそばだし、相田先輩が来る可能性も。
すると久郷田先輩は、身構えるように俺を強めに抱き寄せると、次の言葉をじっと待ち構えた。
しかし意外にも、落ち着いて静かな声が廊下に響き渡った。
「…………お前は、俺や相田が何を言おうと…………変わらないんだな」
京極先輩は悲しげにこちらを見ていた。怒りや、叱責じゃなく……まるで失望したかのような。少し離れたところから、立ち竦んでいた。
俺の肩を抱く手に、少し力がこもる。久郷田先輩は……大丈夫か?近すぎて顔色が伺えない。
「……………………………………………………」
「…………また………………傷つけるのか……?」
「……………………………………………………」
「またしても…………………お前は…………………ッ」
京極先輩が、一歩こちらに近づいた。手が出せる距離感じゃない。だが無視して立ち去るのも難しい距離だ。徐々に色んな感情を帯びる声色に、俺は石のように固まってしまう。肩を抱かれてるだけの俺に、一体何が出来るんだ。
すると……ずっと黙っていた久郷田先輩が、重い口を開いた。
「………………渡嘉敷は、違う…………」
「…………………………違う?何がだ」
いつも通りの野太くて低い声なのに……ガラスのように繊細で儚い。俺も思わず、見ることのできない久郷田先輩の顔を見上げていた。
「…………渡嘉敷は本気だ。俺は本気で……こいつを愛してる」
「…………ッ…………………………」
吐き出すはずの呼気を呑んでしまった。心臓がざわりと揺れ動く。呆然と二人を見つめるしか、できなくなる。そんなこと、京極先輩に向かって言うなんて夢にも思わなかった。
京極先輩の表情は動かない。石像のようにじっと見つめ合って、蛍光灯のノイズ音だけが聞こえる数秒間。
しかし次の瞬間。
「────お前の言うことなど、誰が信じるか」
「……っ、…………………………」
心が凍えそうなほど冷徹で、崖から突き落とされるような見放した口調に、当人でない俺ですら心臓がぎゅっと縮まった。もう何も……期待する気はないと、冷酷に告げる言葉に、久郷田先輩の喉がごくりと上下していた。
次の瞬間、肩を抱く腕がそっと離れて、久郷田先輩は踵を返して足早に階段を登っていった。思わず振り返って、踊り場に消えるまで背中を見つめる。その後ろ姿は………とても哀しそうに思えた。
「……久郷田先輩…………!」
先輩が心配になった俺は、階段の一段目を踏み出していた。しかし次の段へ進めなかったのは、京極の先輩の手が力強く俺の腕を握っていたからだ。
「っ、渡嘉敷……!!アイツに騙されるな……お前には辛い目にあってほしくないんだ」
「…………ッ…………大丈夫ですって……先輩は知らないんです、久郷田先輩は──」
「───知らないのはお前だ。俺は二年間あいつを見てきた……何度も何度も叱ってきた、それでも何一つ変わっていない!」
「そんなことないです、久郷田先輩はちょっとずつ……変わってるんですよ」
腕を掴まれながらも、俺は京極先輩に訴えかける。前だったら、ストーカーに注意なんかしてくれなかった。誰かのために本気で怒ったりしなかった。愛してるなんて堂々と、宣言したことがなかった。
久郷田先輩は、本気で俺のことが好きなんだ。だから俺も本気で断ってるんだ。だからこんなに悩んでるし、痛々しい背中を、見ていられないんだ。
「京極先輩は……久郷田先輩がこういう奴だって決めつけて、些細な変化に気づこうともしてないです」
「ッ、実際そういう奴だ!規則も、人も踏みにじって……自分は許されると傲慢にも思っている!」
そうだよ、そうなんだけど…………それだけじゃない。好かれてる俺だから、といえばそうなのかもしれないけど、少なくとも今までの久郷田先輩よりよくなってるはずなんだ。
抵抗しない俺の様子を見て、京極先輩は掴んだ腕を外した。やや感情的になってはいるけど、俺に怒ったり手を上げたりはしないだろう。
三下先輩にさっき言われたことを思い出した。俺が思ったこと……感じたこと、そのままぶつけて言い返してみよう。俺は少し、苛立ちを感じていた。
「……傲慢なのは、京極先輩ですよ。これは俺と久郷田先輩の問題なのに……勝手に解決できると思って」
「っ、放っておけないんだ、俺は………………お前まで、傷ついてほしくない……」
そう言った京極先輩の目は、後を立たない後悔の色が見え隠れしていた。きっと……重ねてるんだ。大崎さんと俺を。
そのとき、心の中がざわついて、ぎゅっと苦しくなって、思わず怒りが込み上げてきた。勝手に知らない人と一緒にされて、勝手なのは京極先輩も同じじゃないか。
「っ、余計なお世話なんですよ!俺は自分がしたいようにするし、それで久郷田先輩に傷つけられたって、自分で責任を取ります!先輩が口出すことじゃないでしょう!!」
強い視線で京極先輩を下から睨み付ける。壁のように大きな熊獣人でも、ここで怯んだらずっと京極先輩に守られなきゃいけなくなる。
「俺を軽視しないでください、知らない人と重ねないでください……あなたに守られる筋合いはないです」
「ッッ……………………………………!?」
その時、扉の一つがガチャリと音を立てて開く。あの部屋は相田先輩の部屋……今の声に反応して様子を見に来てしまったんだろうか?
俺はすぐさま、一つ飛ばしで階段を登り始めた。相田先輩に事情を説明してられない。後で呼ばれるかもしれないけど、今は久郷田先輩が心配だった。
勢いよく駆け上がり、踊り場に着いたとき……俺は思わず、足を止めそうになった。
京極先輩が、今にも崩れ落ちそうな絶望的な表情で……俺のことを見上げていたから。
「……っ………………、…………」
それでも、俺は………構わずに階段を登る。後のことはいい……京極先輩は、相田先輩が何とかするだろう。
下からする声を振り切るように、勢いよく屋上のドアを開けて飛び込んだ。
「…………久郷田先輩?」
夜の闇に包まれた屋上は、都会の灯りを持ってしても薄暗く、月も雲に隠れてしまって視界が悪かった。無機質なコンクリートをぐるりと囲むような金網と、等間隔でそびえ立つ物干し用の高い手すり。今日は風が強くて、名前を呼んだ俺の声は掻き消えてしまったように感じた。
先輩は、少し奥にある金網の前のベンチに腰かけていた。眺めはそんなに良くないが、屋上で寛げるのはここくらいだ。俺は迷わずに、丸まった背中に近づいていった。
暗闇でぼんやりと浮かぶ白いタンクトップに、再び声をかけてみる。だらりと垂れ下がった尻尾は、微動だにしない。
「………久郷田先輩、」
「……おう……………遅かったな」
徐にこっちを向いた久郷田先輩は、暗いのも相まって見た目ではいつも通りに思えた。ただ、普段は曲がることのない耳が少し折れていたり、尻尾も背筋も力が無く、元気がないのは一目瞭然だった。
先輩の隣に腰かけて、一先ず金網の向こうを眺める。民家やビルの灯りが遠くに見えて、夜景と呼ぶほど良いものではないが、寮の壁よりはよっぽどいい。
「…………大丈夫ですか?」
「何がだ、あの堅物のことか?平気に決まってんだろ……」
「……………………強がってますか?」
「…………いや?する必要もねぇ」
声色からは、とても平気だとは伺えなかった。深く傷を負っている感じでもないが、気にしてないわけでもない。とにかく素直になってもらわないと、話にならないかもしれないな。
一呼吸置いて、久郷田先輩の横顔を見つめる。
「先輩がどう思ってるのか、正直に聞きたいです。平気じゃないのは……分かります」
「……平気だ。あいつにムカついてるだけだ、ぶん殴ってやりてぇ」
飄々とした口ぶりにまもなく火がつきそうだった。このままだと、先輩も後に引けなくなってしまう。真面目な話を……させてくれないだろうか。
俺は久郷田先輩の肩に手を触れて、こちらを向かせた。正面から見る先輩の表情は、まだ本調子じゃないのに強そうに取り繕っているように見えた。
「先輩…………いつもカッコよくなくていいんですよ」
「ッ………………バカ野郎……そんなつもりねぇよ」
そうは言ったものの、否定の言葉は弱々しかった。風の音に紛れるようにため息をついて、じっと目を見つめてくる。そのまま数秒間……勝負みたいにお互い見つめ合って、先に久郷田先輩の方から視線を逸らした。
「……………………………………………………」
「………………本当に、別に京極の言葉にショックを受けてるわけじゃねぇ」
「……じゃあ、何ですか?」
「…………自分だよ。イラついてしょうがねぇのは……俺自身だ」
ようやく本音を見せてくれる気になったのか、そっぽを向きながらボソボソと喋り出す。こんな距離にいるのに、先輩は一切俺に触れようとしない。それくらい………心が傷んでいるのか?
「……お前を京極との間に挟んで喧嘩してる自分が情けねぇ。巻き込みたくなかった…………」
「俺はいいですよ…………半分巻き込まれに行ってますから」
「つまんねえ喧嘩で、お前に迷惑かけて…………気ぃ遣わせて…………最悪だ」
また少し項垂れていく久郷田先輩を、俺は新鮮な気持ちで見守っていた。外傷というよりは……自己嫌悪なんだろうか。そしてその核には、俺がいるようだ。
先輩はチラリと俺を見る。
「………………………………ダセェとこ見せて……ホントにいいのか」
「…………はい」
カッコつけなくていいというのは、半分はったりのような気持ちで言ったけれど……やっぱり久郷田先輩は、ことさら弱みを人に見せたくない人のようだ。
大きなため息をついて、俯きながら言葉を紡ぐ。それを聞いているだけで、今はいいだろう。
「………お前に嫌われたり、ダメな奴だと思われたくない。情けねぇ姿を見られたくない……だから京極と揉めてるところを、お前に見られたくなかった」
「………………揉めなきゃいいじゃないですか」
「……無理だ。俺が何したってアイツはいちゃもんつけてくる。去年のこと……根に持ってるからな」
大崎さんのことを指しているのは紛れもない……さっきの絶望的な表情は、俺だけに向けられたものに思えなかった。大崎さんが傷ついたことを久郷田先輩のせいにして、京極先輩はやりきれない思いを少しずつぶつけているのかもしれない。でもそれが終わらない限り、二人のいざこざはずっと続くことになる。
………久郷田先輩が心配で来たものの、京極先輩も心配になってきた。あそこまで言う必要はなかったし……感情的な大きい声を出す必要もなかったな。
「…………最近ずっと、後悔してた。俺が変にカッコつけたせいで、お前が篠崎にどんどん近づいてくから」
「……そんなことないですよ」
弱々しい先輩から飛び出した意外な言葉に、思わずバレバレな否定をしてしまった。帰省した際の夏休みの出来事に、気づかれてしまったんだろうか。
「……お前らの距離が、盆休み明けから急に近くなった。俺は遠くから、篠崎に抱き着かれてるお前を見てた………」
「……っ………………」
「最初は嫉妬だったけどよ…………そのうち自分に苛ついてた。もし俺が……篠崎みてぇにお前のためだけに生きてたら…………こんな差はつかなかったんじゃねぇかって」
先輩の表情はよく見えない……暗いのもあるが、俺の反応から逃げるように顔を背けている。
「京極に、信じねぇって言われたとき………京極にどう思われようがどうでもいいって思った。けど同時に、渡嘉敷にも信用されねぇってことに気づいた」
「…………………………………………」
久郷田先輩のことは、信用してないわけじゃない。でも確かに、周りの先輩から昔話を聞くたびに、俺は大丈夫だという気持ちと、僅かな懐疑心は同時に芽生えていた。俺だけが好きだなんて、疑わざるを得ないじゃないか。
………でも、俺は結局先輩を信じてるみたいだ。京極先輩に怒って、ここに来てしまうくらい……これまでの先輩との時間を。
「……どうしたら俺が、本気だって証明できる……?どうやったら篠崎みたいに………お前に愛されるんだよ」
泣き声のようの呟いた久郷田先輩が、少し見開いた目で俺のことを見つめていた。先輩のそんな顔を見たのが初めてで……慌てて否定の言葉がついて出た。
「っ、………信じてますよ。だから先輩のこと、追いかけて来たんじゃないですか」
「…………俺を哀れんでんじゃねぇのか?」
「……そうですけど………それだけじゃないです。先輩のことどうでもよかったら、こんなに悩んでるわけないですよ…… 」
俺は何だか、悲しい気持ちになってしまっていた。先輩は認知が歪むくらい、自己嫌悪でいっぱいになっていた。大胆不敵に、自分勝手で振り回してばかりの人が、こんなに悲しそうに自信を無くしている。それをずっと、夏の間隠してたんだ。今までずっと、気がつかなかった。
こんなしおらしいの、久郷田先輩らしくない。早くいつもの、規則も人も踏みにじる、最低に愛おしい人に戻ってほしい。
「…………いや、やめてくれ…………マジで……惨めだ。お前に愛されたいとか言ってる奴が、お前に慰めてもらおうとしてる…………本当に俺は…………」
「……じゃあ、カッコつけるの止めて……俺に泣き付いてくださいよ。篠崎ならそうします」
「…………っ…………………………………」
先輩はさらに目を見開いた。そのままゆっくりと瞬きをすると、体を微動だに動かさないまま、伏し目がちに話し始めた。そよいでるモノクロの毛先だけが、整った顔立ちに画を与えている。
「……………………セフレを……全員切った。お前が嫌がるから…………新谷と話した。篠崎をいびるのをやめた……お前のために」
「……………………はい………………」
「……………部活も負けて、セフレも切って……もう俺にはお前しかいねぇ。お前が俺だけを見てくれるまで、何だってやってやる」
「…………っ………………」
久郷田先輩の語気が、だんだんと強まっていく。逸らしていた目が交差して、線で繋がったように離れられなくなる。
「…………完敗だ。強がって悪かった………俺はお前が、何よりも好きだ。心の底から、愛してる……哲也」
穴の空くほど見つめ合って、手を伸ばせば触れられる、顔を近づければキスできるほどの距離感で……先輩はただ、告白をしてきた。落としてやろうとか、ドキドキさせようとか、いつもの人たらしな様子は微塵も感じられない。ただ自分の思いをさらけ出して、直球にぶつけてくるような不器用さは……初めて先輩が、俺の前でカッコつけるのを止めた瞬間だった。
胸の奥がぞわりと震える。心臓がバクバクと脈打っている。この感情に名前をつけるなら……恐怖かもしれない。心を動かされかねない告白と、こんなにカッコいい人をフろうとしている……自分の残酷さに。
「……………………俺は…………………………」
「………………………………………………………」
「………………………………………………………」
「……………………………………………………っ」
「俺は先輩のこと─────」
「───いや。言うな。分かってる」
途中で言葉を遮って、外せなかった視線を無理やり切り離す久郷田先輩。俺はどうしても、言わざるを得ない。先輩と同じような気持ちで、それに応えることができないことを。
屋上の風が、ほんの一瞬ピタリと止んだ。仄かに光る黒い瞳と、遠くに見える街明かり。今この世界には、俺たち二人しかいないから。
「…………俺は先輩のこと……………好きですよ」
「…………ッ……………………」
「意味はもちろん……違いますけど、でも………」
俺は久郷田先輩へ微笑んだ。途切れた視線を繋ぎ合わせて、尻尾同士をちょん、と触れ合わせる。
「こんな可愛い人……みんな好きにならざるを得ないじゃないですか」
「…………ッ、………………!」
そのときの先輩の顔は、今まで見たこと無いほど驚いていた。目をまん丸く見開いて、三角の耳をピンと立てている。ひくひくと動く黒い鼻が、短く伸びる髭を連動させて、小さく開いた口元からは浅い呼吸が行き来していた。いつも余裕で、何にも動じなかったあの顔が、泣きそうになったり驚いたりしている。それを見て改めて俺は、不謹慎にも吹き出しそうになってしまった。
みんな、久郷田先輩が好きなんだ。京極先輩だって、本当に嫌いなら注意もしてこないはずだ。変わらないことに苛立ちを覚えるのは、期待していることの裏返しに他ならない。信じないなんて直接伝える必要はない。本当は、このクズで人たらしな先輩を、みんな愛してしまってるんだ。
「…………っ、誰が………言ってんだよ」
「……え?」
驚きの顔から、だんだんと口元を歪ませて、微笑みの表情に移ろいでいく。その瞳には、持て余すほどの愛情が溢れている。
「……お前に言われたくねぇよ。ほんと、可愛い奴だな」
「俺よりも、先輩の方が皆に愛されてますよ」
「いや、お前の方が愛の総量は上だ。俺がいるからな」
訳の分からない謙遜をし合って、バカげた会話に自然と笑みが溢れる。先輩もまだ本調子じゃないだろうけど、さっきまでの哀愁はほとんど消えていた。散々弱味を見せてくれて、もう取り繕うこともないだろうし。
遠い空の雲の切れ間から、月の光がぼんやりと見え隠れしている。屋上を照らすほどの光源ではないが、明るくなったムードに同調しているようだった。
「……あ、月が出てきましたね」
「あ?………暗かったから………ちょうどいいな」
先輩の気持ちのことなのか、屋上のことなのかは知らないが……どちらせによ良いことだ。新月からそんなに時間が経ってないのか、中途半端な三日月のように見えるけれど。
「………月好きですか?」
「……あぁ。太陽は暑いからな」
「京極先輩ってツキノワグマでしたよね」
「いややっぱ出てくんな、引っ込んでろ!」
声を荒げる先輩の冗談に、罠にかけた俺も笑ってしまう。ニヤついてこっちを見る先輩と目が合うと、俺がノンケとかゲイとか関係なく、やっぱり顔は整っててカッコいいなと思った。黒い瞳で真っ直ぐ見つめられると、思わずこっちが負い目を感じて逸らしたくなるくらい、辺りの風景や月明かりも含めて画になっていた。
俺が逸らすより先に、久郷田先輩は一度小さく俯いて、眼下のコンクリートに顔を背ける。放り出された足先のスリッパに、俺も何となく目がいった。
「…………ありがとな」
「……………………どういたしまして」
少し照れ臭そうに、こっちを見ずに礼を言う久郷田先輩。先輩からありがとうなんて……滅多に聞かないかもしれない。シャンプーを貸しても、当然のように放り返してくるし。
「…………弱気を見せられんのも、お前だけだ」
「……いつもなら会ってすぐ抱き締めてくるのに、今日は本当に落ち込んでたんですね」
「まぁな……………………」
先輩はそのまま遠くに目を向けて、何かに思いを馳せているような顔を数秒間浮かべていたが、不意に我に返ったように頭を軽く振る。
「……俺はどんだけ時間を無駄にしてぇんだ…………」
「……っ、」
次の瞬間体をこっちに向けた先輩は、俺をぐっと抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。いつもよりやや力強く、感情が乗っているような気がする。固い胸板に頬をつけて心臓の音を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
とりあえずいつものように、胸に手を添えて軽く押し返してみる。これで離れてくれるかは半々くらいだ。
「……そういう意味じゃないって、言ったじゃないですか」
「あぁ…………でもお前、ハグ好きだろ?」
「まぁ………………そうですけど」
デートのとき言わなきゃ良かったなって、ちょっと後悔した。先輩が抱き締める格好の理由になってるだなんて、当時は思いもしなかった。
ゆったりとした鼓動が、子守唄のように一定のペースで鳴り続ける。時間帯も相まって、少し眠たくなってきてしまった。きっと俺が久郷田先輩に抱き締められてる時に求めてるのは……父性のような感覚なのかもしれない。自分よりも圧倒的に力強い存在に、守られているような安心感を覚えるのだ。
「…………眠くなってきたか?」
「……なんで分かるんですか?」
「尻尾がそんな感じした。別にこのまま寝てもいいんだぞ」
先輩は冗談のつもりだろうけど、俺は徐々に押し寄せる睡魔に小さく欠伸をしていた。それに耳元で聞こえる先輩の低い声が、心地よく眠気を助長させてくる。低いだけじゃなくて……なんだか深い声色なんだよな…………。
「………………先輩っていい声ですよね」
「あ?声…………?あんま言われたことねぇな」
「………昼間の食堂のやつとか……ちょっとビックリしました」
「…………………………」
相田先輩も低いけど、穏やかでのんびりとしていて少し方向性は違う。久郷田先輩は見た目通りの声というか、魅力的でクールな性格に合っている。なんだっけ……こーすけは、いけぼとか言ってたよな。
しかしそのとき、
「…………テツ、愛してる……」
「、ッッッ!!??」
唐突に耳元にマズルの先を突っ込まれ、さっきまで聞いていた低音が大音量で愛を囁かれる。食堂のときのように、ゾクゾクゾクッと背筋が揺らされるような感覚に陥って、眠気と共にパッと先輩を突き飛ばして体を離す。
耳と尻尾をピンと立てる俺の様子を見て、久郷田先輩はニヤニヤと笑ってから、舌なめずりをした。
「……お前、これヨかったんだろ?」
「っ、………………………………」
最初は驚いて、訳も分からず逃げるだけだったが……二回目は背筋の震えも、不快感ではないことにとっくに気づいていた。むしろ……少し快感に思うくらい。
「…………耳か。そういや試してなかったな」
「ぃ、いや止めてください………」
また抱き締めようとする先輩からすぐに距離を取って立ち上がる。この感覚は、多分ハマったらいけないやつだ。一度病みつきになったら、先輩に何をされても抵抗できなくなるかもしれない。絶対に、こーすけや篠崎にも知られてはならない。
見上げながらニヤリと厭らしく笑う久郷田先輩に、大きなため息を投げかける。調子が戻ったら戻ったで、大変なのは変わらないんだよな。
…………それもまた、俺が選んだ道の責任だ。決して後悔にならないように、この一瞬も、大切にしなきゃならない。
[newpage]
おまけ
翌朝。こーすけと共に教室に入ると、クラスメートの座り順からとてつもない違和感に襲われて、すっかり忘れていた席替えの件を思い出した。黒板を見ると少し色褪せた席替え表が残っていて、始業二三分前に来た俺たちは慌ててロッカーに鞄を放り込む。こーすけは後ろの席だからいいけど、俺の席は遅刻してきたら少し恥ずかしい位置になってしまったから、気を付けないといけないな。
席に近づくと、いつものようにバカみたいに大きな声の虎獣人に挨拶される。
「お!!!渡嘉敷おはよ!今日から隣だな!!」
「…………うるせぇよ。前と変わんないだろ」
前後が左右になっただけで、何もテンションは上がらない。それよりも周りの人たちの様子の方が気になっていた。
着席する際に、背後から声をかけられる。
「渡嘉敷おはよう。ギリギリやな」
「あぁ…………おはよう初瀬」
教材をしまいながら顔だけ後ろを向けると、鷹獣人の初瀬が小さく片手を上げていた。前はこーすけの後ろとかだったし、あんまりちゃんと喋ったことはないけど、猛禽類は見た目も派手だし結構印象に残っていた。
顔を前に戻したあと、教科書の整理をするフリをしながらチラリと左隣を見てみる。昨日の時点で少し気になっていた人……だけど挨拶してもいいんだろうか。
机に突っ伏して寝ている……ように見える、ブチハイエナの浪川さん。俺くらい背が高くて、クラスの女子の中では目立っていた……特に、少し珍しくズボンを履いている点だ。
稲光の制服は色んな種類があるし、どれを着るのも自由だから、女子がスカート以外を履いてたってここではおかしくない。ただそれだけではなく、浪川さんはかなりボーイッシュな出で立ちで、遠目で見ると正直区別がつかない。特にブチハイエナは、雄より雌の方が体が大きい、珍しい種族だし。
そのとき、閉じていた目がジロリと急に動いて、俺の方を一瞬向いた。チラ見していたのをバレたくなくて、俺はすぐさま正面に向き直った。黒板に描かれた席順表は、あちこちで関わりの無かった生徒に関わりを生んでいる。女子とも気軽に話せるようにはなりたいが、まだまだ長そうな道のりに、俺は小さくため息をついた。