ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活12

  揺れる電車内、人口密度は大したことがないものの、隣に座る女性の香水が苦手な匂いで、気もそぞろに対面の窓に流れる景色を眺めていた。電車という乗り物はなかなか慣れないが、これから毎日のように利用することになるのだから、しっかりと勉強した上で今日に臨んでいる。降車駅はいつもと同じ中央駅、むしろ俺は降りた後が心配なくらい、電車への不安は減っていた。

  いつもなら隣にこーすけがいそうなものだが、今日からは俺一人で中央駅に通うことになる。夏休みに入り、居残りがない寮生たちは大半が帰省してしまい、急に閑散としてしまった。こーすけも例外なく埼玉の実家に帰り、部屋が広くなったと喜んだ反面、まだまだ不安の残る短期アルバイトへ孤独な挑戦が始まった。

  つい先日、久郷田先輩に紹介され中央駅付近のグルートというファミレスに短期アルバイトが決定した。面接もそこそこに快く引き受けてもらい、今日から三週間、生まれて初めて仕事をする。面接の時は道案内にこーすけが着いてきてくれたが、通勤からハードルがあるなんて俺くらいなものだろう。果たしてこんな世間知らずな田舎者が店の人の役に立つのかどうか、緊張と不安でずっとそわそわしていた。

  中央駅の少し前の駅からどんどん人が乗ってきて、車内の人口密度は高くなる。稲光の前から運良く座れたけど、人酔いしないように意識を外に向けておこう。

  ただこうもたくさん人がいるのに、全員スマートフォンを見ているのは、俺には異様な光景だった。確かに乗車中はやることもないし、最適な暇潰しだろうが、ここまでみんな夢中になっていることに驚いた。寮や学校でもこんなに押し黙って携帯を見ることは無かったから、都会人にとってとてつもなく重要な道具であることは伺い知れる。特に、面接の際店長さんに携帯が無いことを説明したときは少し困惑していたし、俺もいつかは買わないといけないんだろうな。

  電車はゆっくりと減速している。車内アナウンスで、中央駅に着いたことは分かってる。この密集地帯と、隣のライオンのおばさんが着けてる香水から早く逃れたくて、俺は足をウズウズと動かした。

  中央駅の中のルートはこーすけと共に再三確認したものの、やっぱりメモがないと不安だった。店の看板を目印に迷路のような道を人混みと共に歩みながら、ひとまず8番出口に向かう。夏休みになったら人が増えるだろうとこーすけが言っていたが、違いが分からないくらい相変わらず中央駅は人だらけだった。だが今の俺には周りを見てる余裕なんてない。目的地のためにとにかく早足で歩き続けた。

  鬼門だった交差点を抜けて、後は一直線の道まで来ると、ようやく少し安堵することができた。見覚えのある道というのはかなり嬉しい。思考をだんだんとバイトの方へ切り替えていき、頭の中でシミュレーションを繰り返す。

  バイト経験者の三下先輩の話では、とにかく大きな声で挨拶すれば大丈夫だと言われた。まぁ島の老人たちには大声じゃないと届かなかったから、その点は頑張れそうだけど、実際の仕事が上手くできるのか……都会に来て一番くらい不安が募っている。

  そしてとうとう、間違えようもなくグルートの入り口に来てしまった。少し足が止まり、じっと外観を眺める。勉強会のときにはまさかここで働くとは思いもしなかったから何気なく入店したが、立場が違うだけでこんなに一歩が踏み出せないものかと痛感する。

  ゆっくりと深呼吸。鼓動が早い気がする。でも大丈夫だ。向こうも俺に期待してないだろうし、失敗は当たり前。大きい声。真面目に取り組めば、大丈夫。

  内階段に入るための扉に、がっしりと手を掛けた。

  「っ、あれ……?」

  開かない。頭が少し困惑した。篠崎から借りた簡素な腕時計を見返すと、言われた時間の20分前。早く来すぎ……ということもないはずだ。どうしたらいい、ここで待ってればいずれは店長さんが来るだろうか?

  せっかく深呼吸で落ち着こうした心が不安で揺れ動く最中、横から声をかけられた。

  「あれ、あのもしかして新人の方……?」

  すぐに声の方を振り替えると、俺より少し背が低いくらいの、ゴールデンレトリバーの女性がいた。見るからにオシャレな服装と、整った顔立ちに緊張しごくりと唾を飲んだ。

  「そ、そうです……!」

  「あぁえっと、オープン前は開いてないから、こっちの従業員用の入り口から入って!こっち」

  「あっはい!えっと……」

  「あー初めまして!私もバイトです。自己紹介は後でしよっか?」

  にっこりと微笑みかけられて自然と心が解されるのを感じた。とにかく従業員の人と会えた時点で、第1目標はクリアだ。説明を覚える、声は大きく……頭の中でぐるぐると繰り返す。

  レトリバーの女性が銀色の重そうな扉を開けると、目の前にはエレベーターがあった。予想外の光景と、少し独特な臭いに気を奪われる。食品を扱ってる店だから、これは多分食べ物……の匂いか?

  2階までしかないエレベーターに乗り込むと、少しの間密室に二人きりになる。何か話しかけなければと思ってる内に、向こうが先に声をかけてくれた。

  「ずいぶん早く来て偉いねー」

  「あ、いえ……早すぎますかね?」

  「全然!特に初日なんて覚えることいっぱいあるから、早く来てくれて嬉しいと思う」

  するとエレベーターが開いて、先導されるまま通路を進んだ。いわゆるバックヤードというか、大量の段ボールや業務用の青いかご、宅急便で使うような台車も置いてあった。思ったより狭いスペースで、レストランの裏側がこうなってるのかと興味が沸いた。

  少し覗けばキッチンも見えそうなところに木製の扉があって、レトリバーの女性は軽くノックをしてから失礼しまーすと声をかけて入っていった。

  中は細長いスペースに、机が一つ、奥の方にパソコンが置いてあるこじんまりとしたデスクに、先日面接をした店長が座っていた。

  「おはようございまーす!」

  「はいおはよう……あ!渡嘉敷くん?」

  「お、おはようございます!!」

  俺が遅ればせながら慌てて大声で頭を下げると、鹿の店長は笑いながら近づいてきた。

  「いい声だね。迷わず来れた?」

  「はい、なんとか……」

  「じゃあちょっと先に書類の手続きだけしちゃおっか。言ってたやつ持ってきてくれた?」

  「はい」

  アルバイトをする上で、短期間でも色々と必要な書類があるようで、俺自身も中身をそこまで把握しないまま、言われたものをそのまま用意してきた。

  鞄から取り出して店長に渡し、チェックをしてもらってる最中、レトリバーの女性は更衣室のようなカーテンの中に消えていった。

  ここは多分従業員の休憩室も兼ねてるんだろう、あちこちに表のような紙が貼ってあったり、テーブルの上におやつがあったり、ここの店がある程度の年季を重ねていることは伝わってきた。

  「よし!じゃあ最後ここに一箇所サインもらえるかな?そしたらまずは……着替えてもらおっか」

  「あ、はい……」

  店長に言われるがまま書類に名前を書いて、中身を見ずにサインする。きっと労働契約とか税金とかまだ俺が見ても分かんない内容のことだろうけど、なんとなく不安は芽生えた。

  「さくらさん、渡嘉敷くんと結構シフト被ると思うんだけど、色々教えてあげてくんないかな?」

  「またそうやって教育係サボるんですかー?」

  「いやぁ教育学部のさくらさんの方が適任かなぁってね~」

  カーテン越しに二言三言交わしてから、中から桜さんと呼ばれた女性が出てきた。すっかりファミレスの店員の制服になっていて、あの短時間で着替え終わるなんて相当慣れてるのかなと邪推した。

  「はい、渡嘉敷くんの制服。短期だから靴もレンタルだけど、ちゃんと洗ってるから安心して」

  「はい」

  「あっ、荷物は適当に空いてるとこでいいからね」

  渡された制服を持ってカーテンの中に入ると、狭いスペースの中になんとか鞄が入りそうな場所があった。一時的とはいえ一人になって、多少は安心できる。あまり待たせたくないし、着替えはなるべく急いだ方がいいだろうけど。

  カーテンの向こうからは、店長と桜さんの会話が聞こえてくる。

  「あっ、私この間上田さんとシフト代わるって話だったじゃないですかーあれやっぱり大丈夫みたいです」

  「あーわかった。そっちの方が助かるかなぁ」

  「店長休めますもんねー」

  「いやまぁその日はどっちみち三時間はいないとなんだけどね」

  話の内容は業務的だし、あんまり意味は分からなかった。関係性は……良いとも悪いとも言えない感じがなんとなくするけど。

  「店長働きすぎですよー人手不足なんで仕方ないですけど」

  「いやでも熱田の方はもっと足りないらしいよ。なんか三人くらいまとめて辞めたらしい」

  「えぇーなんかあったんですかね?」

  「一応別々の理由って言ってたけどねぇ、長岡さんがいるからねぇ」

  「え絶対そんなんじゃないですよー」

  会話は聞こえるがそんなに気にもしてられないので、手早く着替えて最後に帽子を被った。壁掛けの鏡で様子を見てみるも、似合う……という感じじゃないな。

  自分の服を鞄にしまってから、カーテンを開けて靴を履き替える。向こうを見ていた店員も振り返ってこっちを見る。

  「キマッてるねぇ~サイズ大丈夫?」

  「あはい、大丈夫です」

  「じゃあ最後エプロンつけて、出勤の流れから一個ずつ説明しよっか。メモは……あ持ってる。いいね!」

  にこやかだがどこか業務的に見える笑顔に戸惑いつつも、俺は真剣に店長の話をメモし始めた。

  店長は面接の時に、俺が田舎者で世間知らずだと知ってるので、かなり噛み砕いて分かりやすく説明してくれた。きっと都会の人やバイト経験者なら知ってるような当たり前のことも丁寧に教えてくれるおかけで、俺のメモは一瞬でページが埋まっていった。お店の中の案内から用具の機能や主な仕事についてまで、こんなに簡略化して伝えられるのは、きっとマニュアルがあったり店長自身もたくさんこの説明をしてきたからだろう。正直いちいちメモを見ないと思い出せないくらい覚えるのに苦戦したが、俺が必死にメモを取る姿を見ると店長はどこか嬉しそうにしていた。

  9時頃になり、タイムカードの押し方を教わったあと、説明が一段落したのか少し息をついた。

  「よし、とりあえずこのくらいで、ここからはさくらさんに仕事を教えてもらおうかな。あ、質問は?」

  「え、えっと……多分大丈夫です」

  「分かんないことあったら、とにかく聞いて。短期だし、そんなに覚えきらなくても大丈夫だからね」

  「……はい」

  まだ店の説明だけで音を上げてる場合じゃない。実際の仕事内容を覚える、そっちの方が重要だ。

  するとタイムカードを押し終わった桜さんが現れて、ひょっこり顔を出した。

  「渡嘉敷くんはオープンとレジとサーバーやってもらう感じですか?」

  「そう。任せていい?」

  「店長キッチンだから私しかいないじゃないですか」

  「はは、そうだけど。10時から古田くんくるから」

  「はーいじゃあさっさと行って下さい」

  軽く談笑してから店長はキッチンの奥へと消えていき、桜さんと対面する。改めて間近で見ると、ファミレスの制服を着ているのに美人だなと思ってしまい、つい目が逸れてしまう。そんな邪な感情は仕事に必要ないんだから、切り捨てなければ。

  「自己紹介遅れちゃったね?改めて、さくらです、よろしく!」

  「は、はい!渡嘉敷です、よろしくお願いします」

  「珍しい名字よねー渡嘉敷くんは……高校二年生?」

  「そうです」

  「初バイトなんだっけ?大変だけど頑張ろうね!」

  そう言って可愛い女性から屈託のない笑顔を向けられると、ドキリと胸が鼓動して、目を合わせられなくなる。元々女の子と関わる経験は少なかったが、稲光に入ってさらにその機会が減った気がする。気づけば雄か女装した雄とつるんでいて、女の子がこんなに可愛いと忘れていた。

  ただ少し前に、女装した上柴と長く過ごしたおかげで美少女には免疫というか、多少の心構えができるようになっている。桜さんは可愛らしいけど、仕事には関係ない。デレデレするのはカッコ悪いし気をつけよう。

  「じゃあまず、オープンの説明ね?基本的にやることは、フロアとトイレを掃除して、駐車場を整備して、お客さんがいつ来てもokな状態にすること!まずは床の掃除お願いしようかな。こっちの用具入れに掃除機があるから、これでフロアの床を簡単に掃除してください!」

  桜さんの説明のままに、奥の雑多なロッカーから掃除機を借りて、端から床掃除が始まった。角から始めてテーブルの下、説明を受けた1番テーブルから順に綺麗にしていく。たくさんの人が来る場所だし、ご飯とか溢れてたり汚れてるイメージだったが、思いの外目につくゴミは少なく、とりあえず見た目だけは綺麗になっていった。

  掃除機で吸って、そこをモップ掛けして、大体10分くらいを目安にと指示を受け、ペースアップしながら無心で掃除を進める。今のところ仕事感というか、学校や寮でもやってることだから新鮮味はないが、まだ序の口も序の口だろう。

  ふと桜さんの方を見ると、何やらドリンクバーの辺りをごそごそしていた。サボるわけにはいかないので、横目で見ながら掃除を進めるも、桜さんの作業スピードは職人のように早かった。どれくらいここでバイトしてるんだろう。というかそもそもいくつなんだろう。大型犬だし背は高めだが、そんなに歳上という感じもしない。でも高校生ではないよな……大学生くらいかな。

  その瞬間ハッとして手元を見る。桜さんのことを考えて掃除する手が止まっていた。邪念を振り払うように頭をブンブン振ってから、再び掃除に集中する。遊びに来たわけじゃないんだがら、ちゃんと仕事に取り組もう。

  床掃除が終われば、ソファーと椅子の掃除、テーブルの掃除、トイレの掃除……粗方見えてる範囲を簡単に掃除し続ける。レストランはそもそもあまり来たことがないけど、これを毎日始まる前にやってたんだなと知ると、これから店員さんを見る目が変わりそうだ。

  言われるがまま清掃していると、桜さんに声をかけられる。

  「手際いいねー仕事覚えたら即戦力!って感じ」

  「い、いえ……えっと、ありがとうございます」

  「あはは、渡嘉敷くんちゃんとしてるね。真面目な子は大歓迎!でもキチッとやりすぎると時間に間に合わなくなるから、ちょっとルーズめでもいいよ?」

  微笑みかけられてドキリとすると同時に、理性の声が聞こえる。桜さんは、作業を丁寧にやろうとしすぎると時間がかかってしまうのを遠回しに教えてくれてるようだ。確かに、目安と言われた時間は少しオーバーしている。普段桜さんはこれを一人でやってるのだから、半分の時間でこなしているのだ。

  「はい、わかりました」

  「じゃあトイレはそれくらいで、今度は駐車場の掃除に行こっか。手袋はそこのゴミ箱に捨ててね!」

  「…………はい」

  掃除が終わったら別の場所の掃除へ。既に覚えることが多くてパンクしそうだけど、オープンまでの一時間、俺はがむしゃらに手を動かすだけだった。

  「お客さんが来たら、いらっしゃいませ!厨房にいても、入店音が聞こえてきたら言うようにしてね」

  「はい」

  「まぁタイミングは他のクルーの真似すればいいから、とにかく大きな声で挨拶しようね!最初は恥ずかしいけど、そのうち慣れるよ」

  「……はい」

  掃除やら準備やら終わってようやくオープンの数分前。いよいよお客さんが入ってきて、接客をすることになる。今日やる仕事についてオープン前に教えてもらったけど、ほぼ練習もしてないし覚えきれてもない。とりあえずメモはいつでも見れるようにエプロンのポケットに忍ばせつつ、頭の中で反復する。

  店内は既にピカピカに掃除し終わっていて、並べられたメニューや流れるBGMまで、当たり前だけどお店らしくなっていた。俺の仕事は、料理を運ぶことと会計をすること。やり方はさっき教えてもらったが、しばらくは店長や桜さんも目をかけてくれるそうだ。

  その時、ピンポンピンポーン、と店内に響き渡った。扉が開いたときのチャイムに、キッチンにいた桜さんは早足で入り口に向かった。俺も後を追いかけて、元気な声でいらっしゃいませー!と言った桜さんに続く。

  「…………っい、らっしゃいませ……!」

  ぎこちなくつっかえてしまったし、後半は尻すぼみに小さくなってしまう。ただ挨拶するだけなのにこんなに難しいなんて。

  すると背後から店長の笑い声が聞こえきた。

  「いやぁまぁ最初は誰でも緊張するよね。もっと大きな声で頑張ってみよう!」

  にっこり笑う店長に恥ずかしさで俯きながら頷く。大きな声で挨拶……頭では分かっていても実行するのはなかなか難しい。もっと恥を捨てるというか……緊張を解さないとな。

  お客さんは桜さんに案内されて角の方のテーブルに座っていた。キッチンの張り紙によればあそこは5番テーブルだろう。まだ注文も来てないから、料理を運ぶのはもう少し先だな。

  ボーッとしてるわけにもいかないので、店長に聞いてアイスの個数を確認したり、端の段ボールを畳む簡単な作業を進める。手を動かしながらも、もしかしたら接客よりキッチンの方が手伝いやすかったかもな……と安直な後悔をする。社会勉強……兼お小遣い稼ぎでバイトを思い立ったが、あちこちにアンテナを張りながら勉強以上に頭を回転させているようで、早くも気疲れしそうだ。やっぱり少しでもへまをしたら迷惑がかかるのが自分だけじゃない、というのがプレッシャーでもある。

  するとそのとき、再び玄関のチャイムが鳴った。今度は数回連続、団体のお客さんが来てるのかもしれない。

  鳴った瞬間に脊髄反射のように、店長や桜さんの挨拶が飛び出して、慌てて俺も便乗して声を出す。

  「っいらっしゃいませー!!!」

  キッチンからでも届くように、さっきより声を張り上げた途端、店長がおぉ、と目を開いた。

  「いいじゃんいいじゃん!その調子で頼むよ」

  「は、はい!」

  自分でも単純だな、と思いつつ、褒められて普通に嬉しくなる。やっぱり自分がお客さんだったとしても、声は小さいより大きい方がいいもんな。

  作業を続けようとしたそのとき、桜さんがキッチンに顔を出す。

  「渡嘉敷くん、サラダ運んでみよっか。もうすぐ店長がそこに出してくれるから」

  「あっ、はい」

  キッチンはコンロや鉄板があるようなスペースとホール側とで分けられていて、窓口のような形の銀色の長い台がある。そこで完成した料理を受け取って、持っていくまでが俺の仕事だ。端にあるベルがチーンと鳴ったら、急いで配膳しないといけない。

  桜さんの言ったとおり、小さな器にレタスやトマトが載ったサラダが出てきた。いつの間に注文が通ったのかと、料理ができるまでもあまりに早くて驚きつつ、とりあえず桜さんを見る。

  「さっき教えた持ち方で持ってみて?そうそう、そしたら『おまたせしました、ランチセットのミニサラダです』って言って、5番テーブルに運ぶ。すぐ後ろで見てるから、頑張って!」

  説明を受けるがまま、恐る恐るサラダをとって、小さな声で何度も復唱する。そのままキッチンから出て、緊張に脈を早めながら、角の5番テーブルの前に歩き出る。狐のおばさんは携帯を見ていたけど、俺が近づいたのを見て視線をこっちに向けた。

  そっと息を吸う。

  「あまたせしました!ランチ……セットのミニサラダです……!」

  あれだけ復唱したのに本番は全然違って、甘噛みしながらもたついた感じになってしまった。こんな短い文章でも、お客さんの視線があるだけで、失敗のプレッシャーがのしかかる。そんな緊張しいでもなかったはずだけど、ことバイトに関しては自信が無さすぎる。

  狐のおばさんはすぐにサラダから目を逸らして、気持ちの入ってないありがとうございまーすを言って、携帯の方に意識を戻した。

  やはり配膳が気にくわなかったのか……と少し肩を落として厨房の方へ戻る。俺のこと一秒も見てなかったな。

  すると、桜さんがニコニコして近寄ってきた。

  「どんまい、初めてはみんなそんな感じだよ!噛んじゃったけど声は出てたし」

  「あ……あのお客さん気悪くしてないですかね」

  「全然!ていうかね、こっちが思ってる以上にお客さんからしたら店員なんてどうでもいいの。高級店じゃないから、お客さんもサービスにそんな期待してないよ。だから相手をかぼちゃだと思って、気楽にやって大丈夫」

  桜さんは俺の背中をポンポン、と叩いた。柔らかい励ましに少し心臓がドキリとする。

  「私の最初のときなんか料理を床に───あ、いらっしゃいませーー!!」

  話の途中でまたチャイムがなって、次のお客さんが来たようだ。面白そうな話だったから気になるけど、油売ってるわけにもいかないし、俺も早く仕事に慣れないとな。

  「いらっしゃいませー!!」

  「ふぅぅぅぅ…………………………」

  柔らかいベッドに倒れ込んで、俺は深くため息をついた。疲れやら、眠気やら、色んな気持ちをぐっと集約してベッドに押し潰す。そんな感覚で仰向けのまま天井を見つめる。いつもの自分のベッドだけど、部屋の中にこーすけの気配が無いというのは、かなり違って思えた。個室、というもののありがたさというか、やっぱり一人になる時間って誰しも必要だ。実家では当たり前だったものが、無くなってみると重要さを思い知る。

  バタンッ!

  「センパイおつかれぇっす!あれもう寝る感じすか?」

  

  「はぁ……………………」

  ノックもせず当たり前かのように部屋へ入ってくる篠崎めがけて、迷惑顔でため息を飛ばす。この学園にいる限り一人の時間はあっという間に無くなるものだ。

  篠崎は風呂上がりなのかミントのシャンプーを香らせたまま、俺の寝ているベッドに腰かけた。

  「先輩の部屋ノックくらいしろよ…………」

  「あーすんません。でも鍵かかってなかったっすよ?」

  「……どうせ誰か来ると思ってたから開けにいくのめんどくさかったんだよ」

  「じゃあもう閉めていいすか?」

  「……………………………………………………」

  俺の呆れた顔に篠崎はニコニコ顔から少し表情を落ち着かせる。

  「疲れてるっぽいすね。バイト大変っすか?」

  「…………体力的にはそんなに。でも分かんないことだらけで疲れた」

  今日は朝の9時から5時間働いたが、覚えなきゃいけないことでメモが何枚も必要になった。大失敗はなかったけど、小さなミスは大量にしたし、ちょっとお客さんを不機嫌にしたこともあった。

  そして何より、夏休みの日中の混み具合は凄まじく、学生や家族、社会人もごった返してカオス状態だった。次から次へとお客さんがローテーションし、信じられない早さで料理が並び、厨房には大量の皿がドカッと盛られていた。後半はレジに長蛇の列ができて、俺はひたすら会計をし続けていた。まぁそのおかげでレジはある程度できるようになったと思うけど、明日からもこれがあるのか……と思うと、自然とため息は出るものだ。

  「数ヶ月前まで信号もないとこにいたのに、中央駅のファミレスでバイトしてるなんて、スゴいっすよ。めちゃくちゃ偉いっす」

  そう言って篠崎は俺の横に寝転がると、頭をポンポンと撫でてきた。後輩のくせに。

  「…………子供扱いすんな……」

  「はは、すいません。でも本心っす」

  篠崎は片肘立てて横向きのまま、俺の体を抱き寄せた。マズルを首元に近づけて、吐息が当たる。

  「…………当たり前みたいに添い寝すんなよ」

  「いいじゃないすか……利根川センパイいないんだし」

  「………………………………っ!」

  篠崎の言葉を聞いて、そこで俺はハッとした。そうだ、こーすけがいないってことはコイツやりたい放題じゃないか。

  パン!と腕を払い除けてベッドから起き上がる。篠崎の驚いたような声がする。

  「え!どうしたんすか!?」

  「一年ってお前しかいないのか?」

  「あーそっすね。サッカー部俺だけなんで」

  「二年は…………あんま喋ったことないしな」

  「いや、ホントにどうしたんすか??」

  立ち上がって篠崎を一瞥する。

  「出てけ。お前に襲われたときどうしようもなくなる」

  「…………で、私のところに来たのね」

  「まぁ…………はい…………とりあえず」

  俺はとりあえずあやめ先輩の部屋に来ていた。寮の実態として、夏休みも練習のあるサッカー部、受験のため補修のある三年生以外はほとんど帰省しており、二階と三階はガラガラの状態だった。あの部屋で篠崎に手を出されたら気づく人もいないし、誰も助けにこない。

  あやめ先輩は椅子に座っていつも通り女性用のパジャマを着ている。そしてその奥にはいつも通りタンクトップの久郷田先輩がじっとこっちを見ている。

  「うーんでもこの部屋も久郷田がいるしねぇ」

  「あ?篠崎と一緒にすんな」

  「…………篠崎より危ないじゃないですか」

  久郷田先輩は不服そうに強面で睨んでいるが、俺は実際のところ篠崎が無理やり襲ってくるような真似はしないだろうと思っている。次の日から俺に嫌われることが確定するからだ。ただ、寝ている間に何かしたり、アイツは雰囲気を作るのが上手いから、えっちな方へ誘導されてしまうかもしれない。だからまだ、あやめ先輩のいる部屋の方が安全だと思ったのだ。

  「あやめ先輩がいたら、大丈夫かなって思ったんですが……」

  「分かんないわ。私も熟睡してたら久郷田が何やるか分かったもんじゃない」

  「おい」

  「前のときは大丈夫そうでしたけど……」

  「あれは久郷田も怪我してたじゃない。両手が使えるなら話は別よ」

  「てめぇら人をケダモノみてぇに言うな」

  久郷田先輩は柔らかいクッションをあやめ先輩にぶつけた。慣れてるのかあやめ先輩は見もしなかった。

  まぁただ、ここがダメならどこで寝ればいいか難しい。他に頼れそうな人はいるだろうか。

  「…………つーか鍵かけりゃいいだろ。合鍵でも持ってんのか?」

  久郷田先輩は小さなあくびをしながら面倒そうに口を挟む。もっともらしい意見だが、それは相手が篠崎じゃなければの話だ。

  「前に篠崎をちょっとだけ無視してた時期があって……入れないようにしてたら、朝部屋の前で座ったまま寝てました」

  「ホントに!?シノちゃんの愛たまに怖いわよね」

  「怖いっつーか重いだな。なら俺んとこで寝ろ」

  当然のように言い放つ久郷田先輩を一瞥して、困ったような顔のあやめ先輩を見る。何か良い解決策はないものだろうか。

  「久郷田先輩か篠崎、どっちかと寝たらどっちかがうるさいでしょうし……」

  「こーすけちゃんがルームメートって、意外とバランス良かったのね」

  「………じゃあ、相田先輩に頼むしかないですかね」

  悪くない案だと思ったが、俺の言葉にあやめ先輩は首を横に振った。

  「相田を甘く見すぎよ。アイツもああ見えてちゃんと男。隣にトーカちゃんが寝てたら邪なこと考えるわよ絶対」

  「え、彼女いるのにですか?」

  「性欲ってそういうもんなのよ。相田に襲われたらそれこそ逃げられないわ」

  ………俺は性欲ってものを軽視しすぎなのか?正直、世の猥談で聞くような興奮を、俺は覚えたことがない。特に理性が揺らぐような欲望……久郷田先輩も篠崎もたまにあるみたいだけど、あまり共感できない。相田先輩は理性的で優しいイメージがあったけど、二年も一緒にいるあやめ先輩がそういうなら、そうなんだろうか。

  「だから俺んとこで寝ろってんだろ」

  「じゃあどうしたらいいですかね…………」

  「うーん、トーカちゃんに手を出さなそうな男。誰かいるかしら…………」

  「おい無視すんな」

  やはり難しいか。思えば俺の周りにはいつも俺のことを好きな人達がいた。全員いるときは逆にバランスが取れていて、いざ一人欠けるとややこしい。上柴かこーすけがいたら良かったんだけど、両方とも帰省してしまった。

  「トーカちゃんのことタイプじゃなくて、いざってなったら力で勝てそうで、添い寝が頼めるくらい仲が良い奴…………」

  「いねぇだろそんな奴」

  「…………誰かいますか?」

  あやめ先輩は思いついている様子だったが、少し言うのを躊躇っていた。そして小さくため息をついてから、久郷田先輩のことをチラリと見た。

  「……………………三下?」

  「…………で何バカ正直に俺んとこ来てんだよ」

  「まぁ…………はい………………すみません」

  三下先輩の部屋に訪れたのは初めてだった。たまたま会ったら話す、くらいの関係性だから、わざわざ部屋に行ったり遊びに行ったりしたことがない。特に久郷田先輩がいるときは呼ばない方がいいだろうし、こーすけもちゃんとお互いの話は出さないように気を遣っていた。

  三下先輩の側のスペースは、黒を基調としたシンプルなシーツや、かけてある服と勉強机の小物も、色味が少なく落ち着いていた。その代わりと言ってはなんだが、何かのロゴが入ったタオルとか、机の横にある大きなギターケースとか、音楽に関係してそうなものは数多く見受けられた。

  先輩と反対側のスペースはルームメートの立島先輩がいるはずだけど、ベッドも畳んで荷物もあまりなくスッキリしていた。

  「立島先輩は……帰省してるんですか?」

  「あぁ、なんかひいばぁちゃんが死んだとかで早めに帰省した。やっと一人でゆっくりできると思ったのによ」

  少し文句っぽい言い方だが、拒絶してる感じは全く無かった。三下先輩はこーすけ曰くツンデレって性格らしく、見た目では強気に振る舞っていても意外と心境は穏やかなことが多い。何回か関わるにつれてそれが分かってきてからは、だいぶ話しやすくなった。

  先輩は元いたベッドの上に座って壁に寄りかかると、つけていたイヤホンを外す。

  「……まぁお前も大変だな。入寮してから毎日ケツ追っかけ回されて、夏休みにも帰れねぇとか」

  「いやまぁ…………そうですね。なんか当たり前になってたけど、普通おかしいですよね……」

  「あぁおかしい。他のダチと喋ってるときも、たまにお前の話になるけど、みんな高評価でビビる」

  「えっ、ホントですか?」

  「篠崎とかまでの奴はいねぇけど。それでもお前は男にモテすぎてる」

  「………………………………………」

  直接話しかけてきたり、アプローチしてくるような人は一握りだけど、うっすらとでも俺は色んな人にモテているらしい。何かした覚えはない。ていうか喋ったこともない。でもなんで俺に好印象を持てるんだろう。

  「…………あの、泊まってもいいってことですよね?」

  「あぁ。お前何時くらいに寝んの?」

  「11時前か……遅くても12時ですね」

  「はっや。俺なんか2時だぞ」

  今の時刻は11時過ぎ。個人的にはちょっと眠気が襲ってくる時間帯だけど、三下先輩は元気そうだ。こーすけも結構夜更かし型で、俺が寝る時間に部屋を暗くしたあと、しばらく携帯を見たりして起きてることが多い。実際何時に寝てるかは知らないけど、猫だからかわりと睡眠はたっぷり取ってるようだ。

  「んじゃもう寝るか?」

  「…………いいんですか?」

  「健康的な生活してる奴に夜更かしさせんの申し訳ねぇだろ」

  「健康……ってほどでもないですけどね」

  三下先輩はベッドの上を適当に片付けて、シーツの皺を伸ばして軽くベッドメイキングをした。その様子を見ながらふと思ったのは、自分から誰かのところへ添い寝しにいくのは初めてだということ。今までも、久郷田先輩のときだって、常に向こうから誘われたしリードされた。だからされるがままで何も難しくなかったのだが、いざ自分から隣に寝に行くのはなんだか緊張するしタイミングも分からない。篠崎が当たり前のようにやってるのは、やっぱりアイツがおかしいんだろう。

  三下先輩に言われて電気を消したあと、部屋はカーテンの隙間から漏れる外の光の薄明かりだけになった。壁際に寝転がる三下先輩の隣に、ぎこちなく腰かけた。

  「…………なんか緊張しますね」

  「なんでだよ……お前寝るとき横向くか?」

  「あぁ………仰向けです」

  「俺横向きじゃねぇと寝れねぇから……まぁいいか」

  壁際で俺に背を向けて寝る三下先輩。その横に仰向けで寝ると、ベッドの狭さのせいで必然的に肩が当たる。三下先輩はこーすけくらいの背丈で、やや肩幅は広いかもしれない。先輩も居心地悪く感じてるんだろうか。

  「………誰かと寝んの、久しぶりだな」

  「…………いつぶりですか?」

  「……………………わかんねぇ。彼氏いねぇやつはそうそうねぇだろ」

  「篠崎なんかは毎日誰かと寝てるみたいですけどね」

  「アイツは異常だろ……コミュ力高すぎて逆に怖ぇ」

  三下先輩と篠崎は、あまり絡みが無いように感じてたけど、やっぱり苦手なんだろうか。まぁ確かに、気づけば心の壁を通り抜けて接近してくるのは、怖いという表現が適切かもしれない。

  「…………添い寝…………嫌ですか?」

  「………いや別に。慣れねぇけど、そんな嫌でもない」

  「俺もです…………当たり前ですけど、抱き締めたりされないのもいいですね」

  「はぁ?お前いっつもそんなんしてんの?」

  「いつもじゃないですけど………誰かと寝ると大体」

  「そんなに抱き心地よさそうにも見えねぇけどな」

  話をしながらも、やわらかいベッドの上で、俺はだんだんと眠気に襲われていた。普段より狭いし人のベッドなのに、俺はいつの間にか誰かと寝ることに抵抗が減っているようだった。そりゃ誰でもいいわけじゃないだろうけど………三下先輩と寝るのは普通に受け入れられた。

  仰向けでまっすぐに手を伸ばしていると、背を向けている先輩の尻尾が手に当たる。緩やかに揺れているようで、あまり嫌がってもないのかもしれない。

  

  「…………三下先輩の尻尾、ジャッカルにしては短めですね」

  「…………あぁ。遺伝だな」

  「…………………………俺も、短めなんですよ」

  「眠いなら寝ろよ。無理して話さなくていい」

  「じゃあ…………寝ます…………おやすみなさい」

  「あぁ………………………………………………おやすみ」

  やや曖昧な意識の中、俺はストンと落ちるように眠ってしまった。隣に感じる高い体温と、手に触れるふさふさの尻尾、三下先輩の匂い。どれか、どれもかに安心感を覚えて、ただ投げ出すように意識を手放した。

  [newpage]

  今日も延々と鳴り続けるチャイム、厨房から聞こえるベル、信じられないくらいの騒音に、俺は頭をくらくらとさせていた。

  「お会計2190円です………はい、レシートは……あ、ありがとうございました!お待たせしました……」

  一人また一人と会計を済ませているにも関わらず、一向に終わる気配のないレジ地獄。お客さんの顔を見る余裕もなく、ひたすらお札と小銭をやり取りし続け、トレーを無限に往復させる。考える前に口からありがとうございましたと飛び出し、今自分が疲れてるのかも分からないレベルで、沸騰しそうな頭を回していた。

  犬獣人の家族が終わり、鶴の女子高生が終わり、熊の小学生、豹のおじさん、ウサギの大家族。次から次へとお客さんはやってくるし、一息つく暇もない。ずっとレジの前に立ちっぱなしで会計を続けるだけ。

  …………辛い。そう思う自分が顔を出す度に、俺は自然とホールで走り回るように働く桜さんを目で追っていた。案内をして、注文を取って料理も運んで片付けもする。常に忙しなく動き回りながらも、お客さんと話すときには笑顔を忘れない。高くて澄んだ声は厨房までよく届き、みんな桜さんの挨拶を聞いてそれに続いている。

  桜さんを見る度に、会計だけしている俺が辛いなんて思っちゃいけないな、と自省する。立ちっぱなしだろうと、体力だけが俺の唯一の取り柄なんだから、頑張らないと。

  そうは思っているものの、日に日に桜さんを見る回数は増えていくばかりだった。

  「渡嘉敷くん、もうすぐ時間だから、玄関の掃除行ってもらえる?」

  「………………あ、はい……!」

  夏休みの日中は信じられないくらい人が混む。特に11時から14時にかけて、常にテーブルが埋まるくらい。それからようやく人が落ち着いてきて、余裕ができるのは15時以降だ。俺の勤務時間は10時から16時、ちょうど終わるくらいに夜に向けての掃除をしてから帰るのが日課になっていた。

  疲れたなぁ、と思いながら仕事をしていたところに、店長に指示を受ける。俺が掃除に向かおうとすると、店長に引き留められた。

  「渡嘉敷くん、もう5日経つけど、どう?顔が疲れてるよ」

  「ぁ………………えっと、思ってたより……大変でした」

  店長は苦笑しながら、軽く俺の肩を叩く。

  「まぁ……うちの店は比較的価格が安いから、たくさん人が来るしねぇ。でも、渡嘉敷くんは真面目だし仕事覚えるのも早いから、結構助かってるよ」

  「ホントですか……………なんか、足手まといかなって…………」

  「全然そんなことないよ!頑張ってくれてるじゃん」

  「………僕は…………会計してるだけですし」

  そう言うと店長は大げさに首を横に振った。

  「渡嘉敷くんがレジに居てくれるから、周りが他のことに集中できる。そもそも短期バイト募集したのは、人手が足りなかったからなんだ。十分、助かってるよ」

  「………………は、はい……」

  「まぁとりあえず、これから二日間ゆっくり休んで、また来週頑張ろう!ね!」

  「…………はい」

  店長は笑顔で俺を励まそうとしている。そう捉えることもできるだろうけど、どこかこの人の笑顔には業務的というか、心からの笑顔に見えないときがあった。性格も穏やかだし口調もハキハキしてるけど、なぜだろう、信用しづらいというか仲良くできないというか…………まぁ目上の人と仲良くってのもおかしな話だけど、距離を取りたくなってしまう感じがある。

  店長に背を向けると、スプレーと布巾を持って玄関の方へ向かう。一通り水拭きして、軽く床を掃けば今日の仕事は終わりだ。早く帰って寝たい。最近は点呼まで仮眠を取るのが当たり前になってしまった。

  その時、

  「ありがとうございましたー!!」

  すぐ近くで桜さんの声がしてハッとすると、かなり空いた店内からまた一組お客さんが帰るところだった。慌てて俺もそれに続くと、隣で桜さんがふぅーとため息をついた。

  「あ、渡嘉敷くんはこれで終わり?」

  「はい…………お疲れ様です」

  「おつかれーほんと毎日忙しいよねー」

  ハハハ、と明るく笑う桜さんに、自然と頬が弛んだ。忙しくて大変だけど、続けられるのは半分この人のおかげだ。

  「渡嘉敷くんだいぶ慣れたよね?なんか自然と声が出てる感じ」

  「あ、はい…………いつの間にかあんまり恥ずかしくなくなってました」

  「分かるー私もそうだった。でも私より馴染むの早いよ、ちゃんと自分の仕事できてて、偉いなって」

  「そう……ですかね」

  「うん!私の高二のときより絶対しっかりしてる。明日から休みでしょ?」

  「はい」

  「忙しすぎて私も日曜休みにしてもらっちゃった。じゃまた月曜日がんばろ?」

  「っ…………はい!」

  俯き気味な俺の顔を、下から覗き込むように眩しい笑顔をぶつけてくる桜さん。目をずっと合わせられないのは、可愛い女の子に不慣れだからだ。少し顔が熱っぽくなるのを隠すように、俺は適当に挨拶しながら玄関に行った。

  桜さんと店長、どっちも会話の内容は似たようなものだったけど、なんでこんなに嬉しさが違うんだろう。言い方とか、表情だろうか………女の子とおじさんっていうのも抜きにしても、俺は桜さんに褒められるとすぐに尻尾を揺らしてるような気がする。

  ……まぁそりゃ桜さんの方が好きだもんな。

  「………………ん?」

  自然と頭に浮かんだ気持ちに、俺は声が出るほど動揺していた。勝手にポンと出てきた心の声。でも俺は、桜さんのことが好きだと…………思った?

  その瞬間、鼓動が早くなって顔が赤くなった。扉を拭く手は動かしながらも、全く集中出来ていない。頭の中に桜さんの顔が浮かんで、ザワザワと心が揺れる。

  俺は…………桜さんが好きなのか?いや、今までその恋愛感情で好きというのがよく分からなかったから分からないけれど、人として、明るくて優しくて可愛らしい、桜さんを好意的に見てるのは確かだろう。それを踏まえて……例えばこーすけが俺に思うように、桜さんのことが好きなのだろうか?

  ぐるぐるぐるぐる頭が混乱する。こんなこと理屈っぽく考えたって仕方ないことだろうに、慣れない感覚、感情に心をかき混ぜられている気分だった。俺一人がどうこう考えてどうにかなる問題なのか?

  思考はだんだんと自問自答から、空想に移り変わる。もし桜さんのことが好きだとしても……向こうが俺を好きなわけないし……というかまだ出会って5日だし、桜さんのこと何も知らないし。

  ……でも、篠崎もこーすけも俺が入寮して1週間で告白してきたから、別におかしいことじゃない……のか?これから知っていけばいい?というか短期バイト終わったら会えなくなる人を好きになっていいのか?

  考えれば考えるほど、自分の気持ちと行動が分からなくなっていった。そしてふと、ドアノブを五回も拭いていたことに気づき、俺だけでは答えは出ないと諦めることにした。恋愛について相談できる人……誰かに話しながら、意見をもらうことにしよう。

  俺は頭をブンブンと物理的に振って、一度今の考えを忘れようとした。脈はまだ、早いままだったけれど。

  「はぁ!?恋って何か??なんだその質問」

  隣で携帯を見ていた三下先輩は驚いたような声を上げた。暗闇だというのにこっちを向いて、薄明かりに目を見開いているのが分かる。ちょっと唐突過ぎただろうか。

  もはや日課的になっている三下先輩との添い寝も5日目を迎えていた。少し気まずかった最初に比べて、寝る前の雑談は随分スムーズになったものだ。多分お互いに添い寝に慣れてきたのもあって、話も弾むことが増えたんだけど、基本的に冗談や世間話が多かった会話に急に恋の話なんかし出すから、先輩も理解が追い付かないところだろう。

  ただ俺も、バイトから帰ってからずっと頭の片隅に追いやっていた、桜さんのことを解決したかった。好意的な感情を自覚してから、自然と篠崎や久郷田先輩を避けるようになってしまった。本当になぜかは分からない。

  三下先輩は茶化そうか呆れようか迷っているような間を開けてから、ゆっくりとため息をついた。

  「………本気で聞いてんのか?」

  「はい…………もちろん。恋愛感情って、どんな気持ちなんですかね…………」

  俺の深刻な口調に冗談じゃないことを感じ取ったのか、三下先輩は小さく呻いた。

  「急にどうしたんだよお前…………恋とか愛とか興味ない田舎のイモ男だっただろ」

  「いや…………まぁはい。でも、アルバイト先に、気になる人がいて…………」

  「あぁ………そのパターンか。どんな人だ?」

  「…………犬獣人の、大学生の人です。いつも笑顔で明るくて優し……くて、なんか…………俺…………その人が好きなのかな、って」

  自分で喋りながらも、なんだか幼稚かもしれない、と思ってしまった。そのパターン、と言われるくらいにはあるあるなんだろうか。

  暗闇で細かい表情までは見てとれないけど、特にネガティブにもポジティブにも思われてないような気がした。触れている肩からは、相変わらず高い体温が伝わっている。

  三下先輩は再び小さくため息をつく。

  「…………まぁ正味下手なこと言えねぇから、当たり障りないこと言うけど……その人と一緒にいたいとか、その人のこと常に考えちまう、とかが恋なんじゃね?」

  「…………一緒にいたい………………」

  「盲目っつーだろ。他のことそっちのけでその人が一番になるのが、恋とか愛なんじゃねーの」

  「………………………………」

  真面目な話になると、三下先輩は恥ずかしいのか棒読みっぽくなる。だからこそ、真面目に答えてくれるのが分かる。俺の中で桜さんが一番なのか……それはちょっと分からない。でも一緒にいたい、っていうのは少なくともあって、月曜日が同じシフトだと知って嬉しいと思った自分がいた。

  三下先輩は黙っている俺の肩を小突いた。

  「つーかバイト先の大学生に恋したのか?出会って数日とかだろ」

  「………………5日です」

  「向こうからなんかアプローチされたとかもないんだろ?」

  「…………………………はい」

  「お前男にはやけにモテるけど、女子大生はどうだろうな。向こうからしたら高校生なんかガキだろうし」

  「………………………………………………………………」

  「……おい本気で落ち込むなよ」

  

  別に落ち込んでるわけじゃないけども、現実を想像すればするほど実りがないな、とはかなり思う。桜さんは誰にでも優しいし、明るい。それは裏を返せば、俺のことなんて何とも思ってない、ってことだ。それは当然のことなんだけど、万が一も無さそうなのは三下先輩の言うとおりだ。

  ただそれはそれとして、俺の中で生まれた一つの感情。これが恋なんだとすれば、俺はようやくカイに追いついたと言えるのかもしれない。

  「…………こーすけとか、篠崎とか、久郷田先輩とか………みんな俺に、こんな感じの気持ちを持ってるってことですかね」

  「まぁ、全く一緒じゃねぇけど、雰囲気そんな感じだろ。アイツらも四六時中お前のこと考えてんだよ」

  「……………………今、なんか篠崎の顔見れないの……理由がわかった気がします」

  「…………申し訳ない、ってことか?」

  「…………………………はい」

  ストレートな恋愛感情を俺にぶつけ続ける篠崎。その気持ちの片鱗を共感してしまった今、その愛情を受けながらも桜さんのことを考えてる自分が、ひどく残酷に思えてしまった。いつものように蔑ろにも、逆に受け入れることもできない。俺はこの感情にどう折り合いをつけるべきなんだろうか。

  「また月曜からバイトだろ?頭で考えてもしょうがねぇ、会って喋ってを繰り返して、ちゃんと自覚してみろよ」

  「…………はい。そうします」

  三下先輩の言葉を、俺はそのまま素直に受け入れることにした。そしてその日はこれ以上喋らずに、そっと重たい瞼を閉じた。

  [newpage]

  「…………おはようございます……!」

  「あ、おはよー渡嘉敷くんいっつも早いねー」

  桜さんのシフトは俺と被ることが多い。大学が夏休みだからか、かなりの頻度で朝から夜まで働いているようだった。人手不足を補うためとはいえ、少し心配になるレベルでこの店の人たちは毎日忙しく働いている。そんな中でも、挨拶の度に疲れた顔もせずにこやかに接してくれる桜さんは、やはり他の従業員たちにも人望があるようだった。

  オープン、と呼ばれる俺の作業はまだ一人で任されるほどではないのか、桜さんの手伝いから始まる。まだ店が開く前の静まり返った店内、厨房とは別作業で、フロアには桜さんと二人きり。長々と雑談している暇なんてないけれど、嵐の前の静けさが、俺には心地が良かった。

  「土日は遊んだりしてたのー?」

  「いや…………宿題と、ずっと寝てました」

  「もう宿題やってるの?偉いなー私溜めちゃうタイプだから」

  「最終日にやるんですか?」

  「はは…………いっつも間に合ってない」

  苦笑するさくらさんに、俺も頬がほころぶ。仕事はキッチリしてるけど、それ以外はめんどくさがり屋なのかもしれない。

  「高校までは実家だったから、兄とかに言われて無理やりやってたんだけどねー。大学入ってからほんとサボるようになっちゃった」

  「大学生って、忙しそうですね」

  「うそー全然だよ。まぁ人によるけど、私の周りは遊んでばっか。私もバイトづくめだし」

  「………朝から夜まで働いてて、凄いです」

  「ありがと。でも私なんか全然だよ」

  桜さんにお礼を言われて、無意識に尻尾が揺れた。ようやくスムーズにコミュニケーションできるようになってきた、と思ったところで、桜さんは違う箇所の掃除へ行ってしまった。

  優しいし、明るいし、謙虚だなと良いところばかりが目についてしまう。めんどくさがりとかサボり癖とか聞いた上でも、性格に合ってるというか桜さんだったら許されるだろうなと思った。

  ただふと頭に浮かんだのは、このペースで会話していたら仲良くなるまでに短期バイトが終わってしまう、ということだった。朝と帰り際にちょこちょこ話すくらいじゃ、周辺情報を交換する程度が関の山だ。なんならまだ下の名前も知らないし、お兄さんがいることも初めて知った。俺は携帯も持ってないし、連絡先………そもそも聞くことすらハードルが高い。

  どうしたものかとぐるぐる考えながら掃除を続けていくうちに、今日もあんまり喋れないままオープンの時間がやってきてしまった。夏休みは本当に人がよく来るもので、開店前の扉の前でお客さんが待機していることも少なくない。ファミリーレストランって結構どこにでもあるらしいし、一番乗りしたい理由は分からないが、どちらにせよ今日も忙しい一日が始まるということだ。

  チャイムが鳴って、玄関の鍵を開けに行った桜さんがお客さんと共に入店してくる。いらっしゃいませー!と声をかけ、女子中高生っぽい二人組の案内を見届けつつ、厨房に戻って店長にやるべきことを聞いてみる。

  「あーじゃあ冷凍庫のアイス補充してきてもらえるかな?」

  「はい!」

  店長は忙しそうに厨房で料理の仕込みっぽいことをしていた。一緒に働いてるとはいえ厨房の人がどんな仕事をしてるのか具体的には一切分からない。桜さんは厨房に入ることもあるらしいが、店内でも両方できる人は限られてそうだ。

  店の奥にはかなり大きい冷凍庫があって、冷凍部屋の中に大量の棚が並んでいるような作りだ。入るとかなり寒いものの、ここに来ると少しテンションが上がる。理由は言わずもがな、田舎者には珍しいからだ。

  アイスのラックから薄い段ボールの箱を取り出して、バニラとチョコを2つずつ運ぶ。冷凍庫からさっさと出て、今度は厨房にある小さい方の冷凍庫にアイスを補充する。

  ………自分自身でも手慣れたな、と思うところもあるが、やっぱり全ての仕事が効率化されているのが凄いと感じることがある。細かい手順やルールがしっかり決まってて、覚えてその通りにやるだけで効率的に仕事ができる。しっかりしたマニュアルがあれば高校生でもすぐに働けるのが、仕事、特に洗練された都会の仕事というような印象だ。じぃちゃんの郵便局なんかだいぶ適当だったと聞くし。

  アイスの補充を終えると、店内に早くも次のお客さんが入っているようだった。案内を終えた桜さんが厨房に顔を出して、店長が料理をサラダを出すのを待っているようだ。

  「店長ーあのボーダーコリーさんまた来てますよー」

  「えぇ……?この間クレームつけてきたのになんで来るんだろうねぇ……」

  「焼き加減が嫌なんでしたっけ。勝手によく焼きにしときましょうか?」

  「そうだねぇ……まぁ何かしらいちゃもんつけてきそうだけど」

  アイスの補充をしつつ、二人の会話に聞き耳を立てる。基本的にホールにいる桜さんがクレームを受け付けて、解決しそうになければ店長を呼ぶという流れみたいだから、直に聞いてる分思うところがあるんだろう。俺は新人の札もついてるし、話しかけられてもすぐにさくらさんが来てくれるおかげで、直接クレームを言われたことはなかった。

  補充を終えた俺を見て、桜さんがサラダを持ちながら声をかける。

  「渡嘉敷くん、ドリンクバーのグラス整理するのお願いしていい?」

  「あっはい!…………すみません」

  オープン前にやっておかないといけないのに、忘れていたようだった。抜けているのを言わずに、遠回しに気づかせてくれる心遣いに胸を痛めつつ、俺は急いでドリンクコーナーへ向かう。

  グルートのドリンクバーはジュースの機械が二つとコーヒーマシンがある。前に来たときは訳も分からず秋沢と戸惑った覚えがあるけど、機械の中身まで見て補充の仕方も教えてもらったら、全く苦手意識は無くなった。

  島には無かった、という理由で俺は電子機器を触るのが苦手だし敬遠していたが、ちゃんと教えてもらえばそれなりに覚えるのかもしれない。それこそ携帯とかあったら連絡がもっと便利になるだろうし……そうか、桜さんと連絡先を交換できたら、バイトが終わった後も交流を続けることは一応可能だ。まぁ友達になるのすらハードルがあると思うけど……その辺は俺の努力次第かもしれない。せめて電話番号くらい聞いてから辞めようか、食い下がらない方が潔いのか。

  くよくよ頭を悩ませながら、無意識にグラスを替えていたところで、不意に手の中の感触がつるりと滑り落ちていった。途端にハッとして慌てて掴もうとするも、空を切る手の下に落ちていくグラスが目に入る。

  その瞬間、バリンッ!!とやや大きな音が辺りにこだまして、付近にいたお客さんもぎょっとして目を向ける。やってしまった、と頭が一瞬パニックになったが、すぐさま周りを見て被害を確認する。

  ドリンクバーの下の床に、ガラス片が散らばっている。粉々にはならずに大きめの破片がいくつかあるようだが、飛んでいって見えないやつがあるかもしれない。とりあえず屈みこんで片付けようと手を伸ばしたときに、足音と共に桜さんの焦ったような声が耳に刺さる。

  「渡嘉敷くん!?大丈夫?ケガない!?」

  少しピクッとしつつも慌てて桜さんに頭を下げた。

  「はい、すいません……割ってしまいました」

  「ビックリしたー!誰もケガしてないならいいけど……あ、ちょっと素手で触らないで!!」

  すぐに片付けないと、と思い伸ばした手を再び引っ込める。

  「す、すみません……」

  「箒とちり取りで大きいの片付けたあと、掃除機で片付けてね。私箒持ってくる」

  言うや否やサッと立ち上がって用具のある方へ動き出す桜さん。その姿を見て俺も立ち上がって掃除機を取りに行くも、心の中はとてつもない後悔に満ちていた。

  もしグラスを割ることだけだったら、ここまで心がザワつくことはなかっただろう。普通に仕事に集中していれば、うっかり手が滑ることなんてなかったかもしれない。俺は桜さんのことを考えていたせいでミスをした、そのことが心中に重りのようにのし掛かってきている。

  「………………何やってんだ俺…………」

  ため息混じりに呟きながら、厨房の奥からコンパクトな掃除機を取り出す。桜さんが気になるのは仕方ないけど、そもそもここには働きに来てるんだから……自己嫌悪が涌き出て、心臓がきゅっと絞められているような気分だった。

  この掃除機で邪な考えも吸い出せないかな、と変な想像まで至ったところで、ドリンクバーの前に戻ると、既にある程度ガラスを片付けている桜さんの姿があった。

  「す、すみません本当に…………」

  「あ、持ってきてくれた?小さい破片とか意外と遠くに飛んでっちゃうから、いつもより念入りに掃除してね?」

  「は、はい!…………あの、弁償ですよね……?」

  屈んでちり取りを持ってこちらを見上げる桜さんの顔が一瞬きょとんとした表情を浮かべた。そしてその直後、口元を覆って小さく吹き出した。

  「っ、全然!えっと、弁償しなくていいよ!多分そういう契約だから」

  「え、そ、そうなんですか?」

  「うん、大丈夫。そっか、バイト初めてだもんね」

  俺の不安げな顔を見てさらに口角を上げる桜さん。てっきり弁償するもんだと思ってたから、いくらなのか聞こうとしてたんだけど、笑われてしまうくらい常識的なことらしい。

  ただ不思議と、桜さんに間抜けな部分を笑われるのは何の不快さもなく、素の笑顔が見れたことに和やかな気持ちになっている俺がいた。

  桜さんは粗方破片をちり取りに入れると、すくっと立ち上がった。表情はまだ笑みを隠せていない。

  「すいません……世間知らずで」

  「えーいや全然。でもなんか、嬉しかったかも」

  俺の微妙な顔を見て一度いつもの表情に戻ってから、柔和な微笑みに移ろいだ。

  それに絆されながらも、よく分からない感想に疑問符を浮かべる。

  「………はい?」

  「渡嘉敷くんって、真面目だしあんまりミス無くこなしちゃうから、しっかりしてるなーって思ってたんだけど……私みたいなうっかりもするんだ、ってなって……親近感?みたいな」

  「…………………………………っ」

  「ちゃんと可愛い高校生で安心した。次から気をつけようね?」

  桜さんは屈託のない笑顔で俺を見ながら、去り際に軽く背中を叩いてくれた。俺は微動だにせずなるべく平静を保っていたけれど、桜さんが行ってから、とても深く深呼吸をする。

  可愛い、って言ってたよな……?

  勝手に尻尾が小さく揺れ始め、心臓が脈を早めていた。掃除機の電源を入れ、床の掃除をしながらも、この感情のジェットコースターを落ち着けるのに必死になる。桜さんのことを考えたい俺を、必死に理性で押さえつける俺。仕事に集中するってさっき言い聞かせたばかりで、またミスをするわけにはいかない。

  その日のバイトは、やけに元気に仕事ができた。と同時に、必要以上に仕事に集中しようと意気込むことになった。

  いつものように何の気なしに食堂へ足を踏み入れた瞬間、しまった、と後悔が生じた。俺はまったくもって忘れていたけれど、今日から8月に突入し、とうとう寮食が出なくなってしまったのだ。

  夏休みでも居残りや部活がある寮生たちのために、7月いっぱいまでは通常通りの寮食が出ていたけれど、8月からは自分で用意するようにと寮監さんに再三言われていたはずだ。今日のバイト帰りに何か買おうと昨日まで思っていたのに、なんで忘れていたんだろう。

  ガラガラの食堂には誰もいない。電気は点いてるがテレビも消えてるし、いつもいっぱいのゴミ箱も空っぽだ。配膳をするカウンターのような場所も、洗い物をする水道も人の気が無く、すごく寂しさに似た違和感を覚えた。

  中に入ってもしょうがないけど、現実逃避にテレビでも見ようと思い、食堂に足を踏み入れた。今日の晩御飯はこーすけのカップ麺を勝手に食べることになりそうだ。

  一番奥、入り口から離れた二年テーブルのいつもの席に座り、テレビをつけてみる。チャンネル権は大体三年生が握ってるから、俺はいつも何気なく流れているのを食事のときに見る程度だった。田舎はチャンネルも少ないから元々テレビっ子でもないし、都会のテレビを自由に鑑賞するのも、今だけの贅沢かもしれない。

  ポチポチ、とリモコンをいじり出したとき、食堂の扉がガラリと開いた。

  「……………………よぅ」

  「…………ぁ………………久郷田先輩」

  少し体を屈めて扉をくぐり、先輩はまっすぐこっちに歩いてきた。どうやらお風呂上がりのようで、首にタオルをかけている。

  …………返事とは裏腹に、俺は少し動揺していた。ここ数日、篠崎と同様に久郷田先輩を避けぎみだったからだ。さりげなく距離を取るように努め、篠崎には気づかれていないようだったが、久郷田先輩は分からない。もとから何を考えてるかも分からないのに。

  すぐ真横まで歩いて来たあと、先輩は二年生のテーブルの上にどかっと腰かけた。

  「…………………………………………」

  「………………あ、リモコン……どうぞ」

  この動揺を気づかれまいと、一秒でも早く気まずい時間を減らすために、俺はリモコンを差し出した。しかし久郷田先輩は目もくれず、俺の顔だけをじっと見たまま言い放った。

  「お前俺のこと避けてんだろ」

  「…………っ………………………………」

  そんな開口一番に言わなくてもいいだろ、と思った自分はいたが、事実なので先輩の方を見て小さく頷く。強面だから分かりにくいが、先輩の顔は怒ってるわけではなかった。

  …………というか、先輩は俺に怒ったことがなかった。

  「理由は?言いたくねぇならいいけどよ」

  「………………はい。言いたく………ないです」

  「……………………………………」

  桜さんのことは、今はまだ俺の中で折り合いがついていない。けど会うたびに、魅力的だと思う回数が増えている気がするのだ。バイトが終わるまであと九日 。あと何回会えるのかは分からないけど、それまでに結論付けたいとは思っていた。だからこそ、篠崎や久郷田先輩にはまだ言うべきじゃないし、言えなかった。

  バイト先で好きな人ができて、そのせいで久郷田先輩と話しづらいです…………そんなこと簡単に言えるわけがない。それは俺を好きな人にとって、一番残酷なことだろうから。

  ………だから本当は、そんなに優しく話しかけないで欲しかった。クズなセクハラ先輩だったら、ちゃんと拒絶できたのに。

  久郷田先輩は、テーブルからそっと腰を上げた。そのまま踵を返して帰ってしまうかもしれない。自分勝手でわがままな久郷田先輩が、俺の一言に従っているこの現状が、なんだか気持ち悪く感じてしまう。

  そのとき、俺は無意識に先輩の手首を掴んだ。

  「……あ?」

  振り返った久郷田先輩の顔は、少し威圧的な……それでいて寂しそうな顔だ。先輩は動揺しているはずだ。俺と同じか、それ以上に。

  「………ぃ…………今はまだ、言えないですけど………そのうち…………」

  「………………歯切れ悪りぃな。別に気にしてねぇよ。もしバイト先でなんかあったんなら、紹介した俺に責任がある。なんでも言えよ」

  「は、はい……………大丈夫です。俺の問題なので……」

  「…………あやめは帰省しちまったから、相談乗れそうな奴はいねぇけど」

  頭をボリボリと掻く久郷田先輩の尻尾は、僅かながら揺れていた。掴んでいた手首をそっと離して、自分の椅子に腰かける。

  「大丈夫です………すいません、引き留めちゃって」

  「おう」

  久郷田先輩はこちらを一瞥してから、食堂の扉から出ていってしまった。何か食堂に用事があったのかもしれないけど、俺がいたらそれどころじゃないだろう。

  テレビから聞こえる音は、夜のバラエティ番組だ。それでも画面の中の笑い声より、目の前にある問題を片付けないと、という意識の方が強かった。先輩には言えなかったけど、俺には相談できる相手がいる。今日は夜更かししないといけないかもしれない、と思いつつ、空いた腹を満たすために俺も席を立つことにした。

  いつものように部屋に入ると、三下先輩は既にベッドに寝転がっていた。冷房のついた部屋でシーツだけのベッドの上に薄着で寝ている。ここ最近の暑さは本格的に夏の猛暑というか、クーラーがないと生活するだけで汗が出る感覚だ。田舎とは違う都会の蒸し暑さに毎日消耗している。

  「おー来たか。皆勤賞だな」

  こちらを見ずに携帯をいじりながらおじさん臭いことを言う三下先輩をだんだんと見慣れてきていた。初めの頃はベッドに座るだけでも緊張していたはずだが、今は特にどぎまぎせず横に寝ることができる。部屋にきて、電気を消してそのままごろ寝する。日課的になるのに時間はかからなかった。

  「今日から寮食無くなったんですね」

  「残ってる奴もサッカー部くらいしかいねぇしな」

  「三年生の補習も終わりですか?」

  「補習っつってもほとんど自習だからな。稲光は上と下の学力の差がデケェから、結局みんな自習するしかねぇんだよ」

  それは俺も聞いたことがある話だった。LGBTの生徒を全面的に受け入れるあまり、校内でも他校よりも激しい学力の差が生まれているらしい。だから偏差値で見ると全国平均くらいだが、秋沢みたいな奴もいれば高田みたいな奴もいる、というややいい加減な学校でもある。

  三年生の補習も終わり、あやめ先輩や相田先輩も帰るとなると、いよいよ誰もいなくなってきているが、部活もバイトも無い三下先輩は相変わらず寮にいるようで、理由が気になった。

  「三下先輩は、いつまでいるんですか?」

  俺がそのまま聞くと、

  「あ?帰ってほしいのか?」

  冗談じみた不機嫌ボイスが返ってくる。三下先輩が帰ると篠崎と寝なきゃいけなくなるので、俺がいるまでは居てほしいのが正直なところだ。

  「いえ……でも、用事はないんですよね?」

  「あぁ」

  「じゃあ…………なんでですか?」

  暗い部屋で携帯に照らされていた三下先輩の顔が、ふと消えてしまった。電源を切ったらしい。

  「………………実家に帰りたくないから」

  「……………………なんでですか…………?」

  少しトーンダウンした先輩の声色から、あまり聞かれたくないことなのはわかる。でも隠す気もないようなので、せっかくの機会に少し図々しくなることにした。

  三下先輩は軽くため息をついてから、ボヤくように喋りだす。

  「俺の地元はガラが悪くて、片田舎みたいなとこだから、中学の同級生はみんな地元の高校にいんだよ。稲光に行ったのは俺だけで、地元に帰ると知り合いにイジられるからめんどくせぇ」

  「あぁ…………なるほど」

  「なんなら中退した奴らも大量にいるし、地元の先輩に見つかるし、寮の方がよっぽど快適だ」

  三下先輩は北九州に住んでいたらしく、地元の治安が悪いと言っていた。俺は詳しくないからなんとも言えないけど、三下先輩はそれをあまり好ましく思ってないようだ。

  余計なお世話かもしれないけど、一言聞いてみることにした。

  「……でも、家族に会いたいってなりませんか?」

  「ならない」

  三下先輩は即答する。強がり、ではないだろう。純粋にそう思っている感じがする。

  「………………あんまり仲良くないんですか?」

  「…………別に仲悪いわけじゃねぇけどさ。地元とか実家に帰るたびに、俺の居場所はここじゃない、って思うんだよな。ゲイとかなんとか言ったって、親はさっぱりわかんねぇし」

  「………世代ですかね」

  「ちげぇよ。頭と育ちが悪りぃんだ」

  三下先輩はまた深呼吸をした。暗闇では表情も何も分からないし、仰向けだから尻尾の様子も知らないが、なんとなくの声色で嫌そうなのがわかる。部外者としてはこれ以上何か言えることがないので、話題を変えようかと模索してみる。しかし三下先輩は一呼吸開けてから、再び口を開く。

  「…………俺のコンプでもあんだけどよ。うちの親は喧嘩っ早くて学もねぇ。口も悪いしすぐキレる。親っつーか地域全体がそういう奴が多いんだよ。だから俺は東京に来て、地元のやつとは思われないくらい変わってやろうと思って……た」

  いつも流暢な三下先輩が珍しく言葉をつまらせているように感じた。先輩の口調は変わらないが、デリケートな話題に俺も慎重に相槌を打つ。

  「………………でもなかなか変われねぇ。勉強はともかく、口の悪さと喧嘩腰が染み付いて取れねぇ。方言捨てても俺は俺のままだ。地元の奴らと変わんねぇ」

  「…………そんなことないですよ」

  「嘘つけ。口悪ぃなって思ってんだろ?」

  そう言われてから改めて少し考えてみると、三下先輩は、たまに乱暴な言葉遣いになるときはある。でもそれは俺からしたら正当な怒りというか、誰かを貶めるために言ってる悪口ではない気がする。

  暗闇の中、かろうじて見える先輩の顔に向いてみる。距離が近いから顔の横にすぐマズルを向けてしまう。

  「思わないです。口調が荒いときも、本当に怒ってないのが分かりますし、悪口も冗談のときしか言わないじゃないですか」

  「近っ、どうした急に」

  「横向いたらすぐ顔があって……近くなっちゃいました。やっぱ狭いですね」

  「……………………あぁ」

  三下先輩はそっと寝返りを打って、壁の方を向いてしまった。ちょうど俺に背を向ける格好だが、俺のことが嫌じゃないのは、尻尾を見れば一目瞭然だぅた。普段から感情が尻尾に出にくい三下先輩が、緩やかに揺らしているのを見て、先輩が犬科でよかったとぼんやり考えた。

  珍しく少ししんみりしてしまいそうな空気の中、俺はせっかくだからと相談に乗ってもらおうと黒い背中に問いかけてみる。

  「三下先輩…………俺の相談聞いてもらえませんか?」

  「…………んだよ。恋話か?」

  「……まぁ、はい………………久郷田先輩のことなんですけど」

  名前を出すと、三下先輩はふん、と鼻を鳴らした。少し仲が悪い二人だが、嫌い合ってるわけでもない不思議な関係だった。

  「バイト先の人が気になって、久郷田先輩を避けてたんですけど…………でも、いつかは言わないといけないと思うんです」

  「…………好きな人がいるからごめんなさいって?」

  「…………はい。バイト先の人じゃなくても、例えば篠崎と付き合うことになっても、久郷田先輩とかこーすけには言わないといけない…………けど、それって、残酷なこと…………ですよね」

  それを伝えたときどんな反応をするかは、正直未知数だった。まだ諦めないと食いつかれるかもしれないし、悲しそうにいなくなるかもしれない。特に久郷田先輩は…………それが難しく感じた。

  三下先輩は少しの間黙っていたが、ため息混じりに返事をする。

  「………だからって放っとく方が残酷だろ。みんなに良い顔をすることはできねぇ」

  「良い顔…………というか、俺のこと好きになってくれた人に……………」

  「しょうがねぇだろ。向こうは玉砕覚悟でエゴを押し付けてきてんだ。お前のエゴで応えるしかない。少なくとも、向こうの気持ちが変わるまで、お前にできることはねぇよ」

  言葉は少し強めだが、先輩の口調は柔らかかった。諭されている気はするものの、俺はどこかこの返事を求めていたのかもしれない。

  好い人になりたいわけじゃない。人をたぶらかしたいわけじゃない。俺は誠実でいたいだけだ。たまたま好きになってくれた人たちを、傷つけて別れたくなかった。でもそれは、真の意味での誠実ではないのかもしれない。

  桜さんへの気持ちは……まだ不確かで中途半端な感じだ。他人の話で聞くような、盲目的で燃え上がるような感じではない。ただ漠然と、好意がそこにあるだけのような。

  未熟なんだ、俺は。

  「………………じゃあ、やっぱり…………言うことにします。それが、誠実な対応ですよね」

  「つってもまだその女子大生と付き合ってもねぇんだろ?気が早ぇよ」

  「そうですけど…………もしものときを考えてるだけじゃないですか」

  「そういうの机上の空論っつうんだよ」

  「…………先輩勉強できるじゃないですか」

  「うるせぇ。さっさと寝ろ」

  乱暴な口調にふふっと俺が笑うと、先輩の尻尾がゆらりと一振り大きく波打った。だんだんと、三下先輩との付き合い方が分かってきた気がする。そして分かれば分かるほど、根は良い人なんだろうな、という側面が色々と見えてくるのだ。

  ………これだけ話した三下先輩でさえ、地元にコンプレックスがあるというのを初めて知った。人はたくさん話さないと、心の奥の本音まで見えてこないようだ。

  だから、明日からも桜さんと話そう。もっと詳しく知って、本当に俺が思うような素敵な人なら……恥を承知でアタックしてみようか。

  それからは先輩とは一言も交わさなかったが、俺はしばらくの間寝ることができなかった。

  「お会計2980円です……はい、お預かりします。20円のお返しです、レシートは……はい、ありがとうございました!」

  工場に置かれているロボットのように、迷いの無い手つきで会計を終わらせる。そりゃこの二週間、何時間も会計をやり続ければ勝手に最適化されていくものだ。お札を数えるのだって、こんなにたくさんの紙幣を持ったことがない、なんてレベルから、今はスムーズにお釣りのやり取りまで出来ている。領収書やカードのやり方も覚えて、店長を呼ぶことはそうそう無くなった。

  会計に長蛇の列だったお客さんが帰って、店内にはまだ人がいるものの、大体これから夕方か夜くらいまで長居するような人ばかり残っていく。聞く話によると夜もめちゃくちゃ混むらしいから、客足が減るこの時間帯は比較的休憩できるようだ。

  レジを軽く整理してから、とりあえず厨房を覗いて料理がないか確認してみる。オーダーはいくつかあるから、少し待てば運ぶものが出てくるだろう。フロアは桜さんと小林さんがやっているし、基本おまけみたいな俺は簡単な雑用でもしていようかと周りを探す。

  するとそのとき、チーン、厨房のベルが鳴っていた。パッと見会計に来るお客さんはいなさそうだし、カウンターの方へ近づいて料理を受け取る。

  銀色のカウンターには、明太子のスパゲッティが乗っていた。オーダーを見るにこれとドリンクバーだけだから、レシートも一緒に持って厨房を離れる。

  基本的にはお会計をすることが多かったせいか、料理を運ぶのは正直慣れていない。店長にも少しずつ運ぶよう言われてるし、俺もかなり注意を払ってしっかりと掴むようにしている。

  24番テーブルに行って、お待たせしました……明太子スパゲティです………頭の中で一応シミュレーションしながら、角の席へ料理を運んでいった。

  「お待たせしました、明太子……っ、お前っ!」

  いつものように、恐る恐るテーブルの上にスパゲッティの皿を置いた瞬間、俺はビクっと体が跳ねそうになった。

  そこには、こーすけが座っていたからだ。

  「あっ!哲也じゃーん。えー制服似合ってる」

  「………何しにきてんだよ」

  私服のこーすけが、角の席で携帯片手にイチゴミルクを飲んでいた。実家に帰ったはずなのに、なんでここにいるのかを問い詰めたい気持ちと、仕事の邪魔だな、とかいろんな気持ちが一瞬でごちゃごちゃになった。

  相変わらず飄々とリラックスした様子でジュースに口をつけるこーすけ。

  「なんかどうしても気になっちゃって。連絡手段無いから人伝てに聞いてたけど、バイトしてるとこ見たいなって」

  「はぁ…………お前千葉だろ。あと忙しいからもう行くぞ」

  「えーーなんかご注文以上ですかとか言ってよー」

  「レシート置いとくぞ」

  ニヤニヤした笑みで見てくるこーすけにすぐ背を向けて、厨房へと踵を返す。なんだろう、友達が見ているところで働くのが、なんだか凄く居心地が悪い。本当はちゃんと業務と割り切って、知らない人のように対応した方がいいんだろうけど、半分冷やかしで来ている友人に丁寧な接客をするのも癪だった。

  何来てんだよ……とため息をつきつつ、極力あいつから距離を取った位置で仕事することにした。

  少し時間が経って、店内のお客さんが少なくなってきたころ、俺も仕事を探してうろうろとしていた。料理を運ぶのも、会計をするのも、平日の昼間ならフロアは本来一人でできるようになっているらしい。夏休みじゃなければ桜さん一人でもいいくらいで、そうなると俺ができることがどんどん減っていく。雑用や補充も厨房の人に聞きながらしていたが、毎度終わるたびに聞きに行くのも迷惑かと思い、とりあえず目の前にあるものを片っ端から掃除していた。

  チーン、と厨房のベルが鳴って、すぐさま振り返るとバニラアイスが乗っていた。よし運ぼうと思った瞬間には、料理が出るタイミングを読んで待機していた桜さんがサッと持っていってしまう。やっぱり経験もあるせいか、仕事のスピードも気づく速さも俺より断然すごくて、尊敬と同時に申し訳なく思うところだ。

  ……すると、桜さんがアイスを運んだのは24番テーブルだった。レジスターから遠くに見える、こーすけと桜さんがやり取りしている姿。

  その瞬間、心がバクッと脈打った。二人は何の関わりも無しに、店員と客、というだけなのに、その二人が並んだ途端すごくいたたまれない気持ちになって、すぐさま手元に目を戻した。

  浅い呼吸を整えながら、震える手を落ち着かせる。この心情に名前がつけられるとは思えない。それくらい言語化は難しいけれど、一人は俺のことが好きな人、もう一人は俺が好きな人………でも全くそんなことも知らずに二人が話している光景が、ひどく心を波立てた。

  「……………………ふぅ………………すぅ…………」

  こーすけは、俺がこんな気持ちを抱えてることを知らない。何なら桜さんへのことも知らない。でももし、打ち明けたらどうなってしまうんだろう。嫉妬に怒る?悲しみに暮れる?潔く引く?何も想像できない。でも頼むから、万が一にも何も起こらないでほしいと考えた。そんなわけないのに。

  再び顔を上げてみる。桜さんとこーすけは、まだ会話をしているようだった。バニラアイスを持っていくだけで、あんなに会話をするだろうか?というか店員と客だよな?俺の話とかしてるのか?

  一度落ち着けた脈がまた荒れ始めてしまう。まずいことなんか一つも無いのに……なんなんだろうこの気持ちは。

  「……………………そうか」

  俺の中で、桜さんが好きということが固まり始めているんだ。もし桜さんがどうでもいい人だったら、こんなことにはならない。気になってるからこそ、この先を考えてしまうからこそ、こーすけと会わせたくないと心が不安になってしまうんだ。

  それに気づいた途端、早く動いていた鼓動がゆっくりと落ち着いてきた。俺の頭の中で、心の中で勝手に起きていること。そんなのは重々承知だった。それでも俺は、その過程が、本当に悩ましかったのかもしれない。

  「何がそうか、なの?」

  「ッ……………………あぁいや………………」

  不意に声をかけられて驚いてしまった。声の主はいつの間にか戻ってきていた桜さん。クリーム色のレトリバー、クリクリした目、整った顔立ち。自然と良いところに目が行ってしまう。

  俺の反応を見て少し微笑んで、桜さんはそっとオーダーを取る機械をレジのそばの充電器に差した。

  「もうけっこう暇っぽいから、私三十分早く休憩入るね?小林さん一人でも大丈夫そうだし……」

  「あっ、はい!了解です……」

  「じゃあお疲れ!って言っても渡嘉敷くんももうすぐだね?」

  ニコッと笑ってからバックヤードへ戻っていく桜さんの背中を見て、俺は静かにため息をついた。可愛いなとふと浮かんだと同時に、この人と連絡先も交わせずにバイトを辞めたら、後悔するんじゃないかという気持ちが湧いてきた。俺の人生で、一番素敵な女性に思えた。恋心かとかは後でじっくり考えよう。時間が無い今は、ただ距離を詰めることを目指した方がいい。

  言うなら周りに誰もいないときがいい。休憩室は店長がいるときもあって、運にはなってしまう。オープンのときは二人きりだから、そこなら確実だが後日になってしまう。

  だがまず少なくとも、あと何回桜さんとシフトが被るのかは確認しなければならない。最終日に聞いた方がいいんだろうか……お盆休みは帰省するから、かなり日が空いてしまうし……どんな聞き方をすればいい?

  頭の中を様々な疑問が駆け巡っては消えていく。こういうことは一度三下先輩に相談しておいた方がいいかもしれない。でも少なくとも決めたのは、連絡先を聞こうということだ。バイトの給料で携帯を買おうか……考えることは山ほどあった。

  その後三十分間、俺は半分上の空で仕事をしていた。人が少ない時間帯で事故やミスも起こらなかったが、こーすけのお会計だけは逃げるように小林さんに任せることになってしまった。

  休憩室のドアを開けると、机に寄りかかってだらりと寛いでいる桜さんの姿があった。携帯片手に飲み物を飲んでいたが、ドアの音を聞いてか少し姿勢を正した。

  「お疲れ様です……!」

  「ん、渡嘉敷くんおつかれー」

  携帯から目を移してちゃんと挨拶をしてくれるところに好感が持てる。休憩中なので帽子を脱いでいるが、すごく綺麗に毛並みを整えていて、さっきまであんなに走り回っていた人とは思えなかった。

  再び携帯に目を落とす桜さんを背に、少しドキドキしながら、休憩室の壁付けにあるシフト表の前で立ち止まる。ここにはしょっちゅう色んな人が見ていたり書き込んだりしているけれど、完全にシフトが決まっている俺には見る必要がないところだ。桜さんに変な目で見られなきゃいいけれど。

  「渡嘉敷くんあがりだよねー」

  「は、はい!」

  急に声をかけられて少し驚く。さっきも言ってたことだし、何か用だろうか。

  「寮生なんだよね?大変だよねーホント」

  「いえ、全然ですよ……」

  「高校生で掃除とか洗濯とか自分でやってるんでしょ?ほんと偉いよね~」

  桜さんの方をチラ見すると、未だに携帯を見ているようだった。大した用事というわけでもなさそうで、世間話程度に話しているようだ。

  俺も固くなりすぎないように、適当な相槌を打ちながらシフト表の方へ視線を戻す。もしかしたらいつもは更衣室に直行の俺がここにいるのが気まずくて声をかけてくれてるのかもしれない、と余計なことまで考えてしまう。

  なんだかんだ初めてちゃんと見るシフト表は、見方が分かるまで数秒かかったが、横の行で名前を探せば今月分が分かると把握し、じっと桜さんの名前を探していく。

  桜さん…………桜さん…………………………?

  パッと見た感じで見当たらなく、もう一度じっくり上から確認していたとき、俺は突然ゾクッと背骨を揺すられているような感覚に陥った。

  シフト表の中に、見覚えのある名字を見つけたからだ。

  毛並みがざわざわと波打って、尻尾が不安に逆立ってしまう。震える声、緊張を必死に隠そうとしたまま、桜さんにそっと声をかける。

  「…………すみません桜さん…………フルネームお聞きしてもいいですか…………?」

  頼む。たまたまであってくれ。

  「ん?私??久郷田さくら。え、待って…………」

  桜さんの方へ向き直ると、桜さんもひどく混乱した顔をしていた。俺も信じられない気分だった。ただ呆然と、お互い見つめ合う時間が数秒流れたあと、先に全てを理解した桜さんがぷっと吹き出した。

  「ええぇ~!!??知らなかったんだ!!うそ、圭吾言わなかったの!!?」

  「っ…………………………あの、えっと………………」

  桜さんは目を丸くしながらも笑いが止まらないようで、小さく手を叩きながら体を揺らして笑っていた。

  そしてようやく理解が追い付いた俺は、そこからとてつもない感情の濁流に襲われた。

  「えっとっ………………ふふ、改めて、圭吾の姉の久郷田さくらです。ごめんね、ややこしかったよね!」

  「は、はいえっと……色々聞きたいんですけど」

  「私も!っまさか言ってないと思わなかった~えぇ~!」

  再び笑いの波が来たのか、口元を抑えてツボに入るさくらさん。俺は全然笑う気になれなかった。

  この人は久郷田先輩のお姉さんだ。少ししか情報は知らないけど、いるってことは知っていた。ただ東京で大学生しているとは全く知らなかった。

  俺は知り合いの店、と聞いて久郷田先輩からバイトを紹介された。でも特別紹介してもらったわけではなく、応募も面接も自分でやったのだ。

  そして大事なのは、久郷田先輩は何故かお姉さんが店で働いてることを全く言わなかった。そしてさくらさんの反応からすると、さくらさんは俺が来ることを知っていたようなのだ。

  そこで生まれる疑問を、さくらさんにぶつけてみる。

  「さくらさんって…………みんなからさくらさんって言われてますよね?」

  「っ、そう…………私久郷田って名字あんまり好きじゃなくて、皆に下の名前で名乗ってたの。それがさらにややこしかったねー」

  「でも、あの…………俺が久郷田先輩の後輩って知ってたんですよね?」

  「うん!聞いてた……っていうか、圭吾の恋人がうちで働けるか、って聞かれたの。だから私もえっ!って感じだったんだけど、渡嘉敷くん全然圭吾の話とかしないから、あれ?もしかして私嫌われてるのかな、とかこの子じゃないのか?とかもーう色々考えちゃったよ!!」

  さくらさんは笑いながらも少し悔しそうに足をバタバタさせる。その仕草も五分前なら可愛らしいと思えたはずなのに、信じられないほど複雑な心境だった。

  頭がパンクしそうになって、一瞬目を閉じて心を落ち着かせる。

  「いやもうー知らないとは思わなかった、なんで圭吾言わないんだろうね?」

  「いや、ホントにそうですよ………」

  まず帰ったら真っ先に久郷田先輩に問い詰めに行かなきゃならない。故意なのか過失なのかでも話は変わってくる。

  そして俺はさくらさんの言葉を聞き逃さなかった。

  「あの、久郷田先輩……圭吾先輩から、恋人だって言われたんですか?」

  「え?うん、そう!…………えっ?え!?」

  さくらさんは笑顔が少し真顔になって、顔がひきつる。

  はぁ………………あの人ほんっと。

  「ただの後輩です。圭吾先輩から、何回か告白されてるんですけど、断ってます」

  「えええぇぇぇ!!??マジ!?え色々びっくりなんだけど!!」

  さくらさんは最初のときより驚いたような顔をして、目を真ん丸にしていた。そりゃ嘘と勘違いが織り混ぜれば、こんな変なことになるだろう。

  久郷田先輩には困らされてる分、少しオーバーにでも話すことにした。お姉さんに文句を言われてほしい。

  「いや、まず……恋人じゃないのもビックリだし……ていうか、渡嘉敷くん告られたの?あの圭吾に?」

  「…………はい。断っても何回でも来るんです」

  「えぇ信じらんない。圭吾が誰かに告るのも意外だし、アイツがフラれてるのもビックリ…………えっ、圭吾のどこが嫌?」

  そこからさくらさんは少し身を乗り出して、俺と久郷田先輩の関係性の話を興味津々で質問責めにした。それはついさっきでは考えられないくらいフランクで打ち解けた会話だったが、俺はなんだか複雑な心のまま、さくらさんの休憩が終わるまで根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。

  「自分勝手なところですかね………………」

  [newpage]

  おまけ

  「ふーーん……おもしれぇじゃん」

  「全然ですよ………………なんか…………自分がバカみたいじゃないですか…………」

  「久郷田に理由聞きに行ったのか?」

  「…………はい。本人もなんか言うの忘れてたらしいです」

  「アイツそういうとこあるよな……まぁでも連絡先聞けそうでよかったな」

  「そう……………………というか…………なんかもういいや、ってなっちゃって…………」

  「ん、じゃあその久郷田のねぇちゃんはもうどうでも良くなったのか?」

  「どうでもいいわけじゃないですけど…………なんか、ドキドキしてた気持ちとか……………消えました」

  「」

  「笑いすぎですよ……」