葦原さして、狼(ろう)啼きわたる

  どこからか囁き声が聞こえて、狼は閉ざしていた目蓋をゆっくりとあげた。

  今宵は満月。

  煌々とした月あかりが、夜をつめたい青に染めぬいている。

  おとといまで降りつづいていた雨のせいか、暦のうえでは夏だというのにわずかに肌寒い。

  [[rb:不寝番 >ねずのばん]]として、平田屋敷主殿の座敷一角に控えていた狼は、端坐の姿勢をくずさぬままに視線を流し、変事がないかを確認する。

  座敷の中央には狼の主でもある平田の御子、九郎が横になっている。

  竜泉川から吹きあげてくる風が庭に面する障子をかたかたと揺らし、庭木の影が九郎の寝着のはしまでのびている。

  それから正面右手、隣りの間へとつづく襖の奥をさぐるが、いずれも変わった気配はない。

  さらに、左。襖と正対する床の間には紫紺の紫陽花が活けられ、花器をとりまくように紙風船が並べられている。

  桜色、黄金色、若竹色、薄墨色…――ミブ風船と呼ばれる、蝋をひいた和紙で浄めの水を封じた縁起物だ。赤子の頭ほどの大きさのそれらは、平田の本家筋にあたる葦名から昨日届けられたものだと、お蝶に聞いた。

  義父の任に付き従い、狼がふたつきほど平田屋敷を離れていたその間、九郎の身辺警護はお蝶にまかせていたのだ。

  あんたをわたしが預かったのも、ちょうどこのくらいの時分だったかね。いや、もっと大きかったか。

  去り際、九郎の頭にやわらかく手をそえて、お蝶は笑った。

  この子のほうがあんたよりも愛想があって、可愛かったけれど。

  回想をみだすように、障子がかすかに動いた。

  狼の良い目が、引き戸のみならず、障子紙までもが微細にふるえているのをとらえる。

  けものの[[rb:咆>ほ]]え声。山犬。おおかみだ。

  人の心の琴線を爪弾く、もの悲しい調べ。

  狼は目を閉じて五感をほそく[[rb:縒>よ]]り、全身を耳にする。

  近くはないが、遠くもない。無意識に、狼はその手を傍らの楔丸へとのばした。

  「狼」

  名を呼ぶ声に目をあけると、九郎が枕から頭をあげて、褥から身を起こそうとしていた。

  狼は楔丸を手に足音をたてることなく畳を歩き、褥の傍らへと両膝をついた。

  「いかがされましたか」

  寝着をはぐって半身を起こした九郎が、狼へ問いかける。

  「この声はなんだ。なにが啼いておるのじゃ」

  「おおかみの咆え声かと存じます」

  「おおかみ……」

  訝しげな顔で首をかしげる九郎に、狼がゆるやかに眉をひらいた。

  「けもののほうの、おおかみです」

  「なるほど。ややこしいのう」

  九郎が目をほそめてにこやかにうなずいた。けれどもその表情は、わずかに硬い。

  「屋敷の近くにはおりません」

  狼のことばに、九郎は重ねてうなずいた。

  「そうか。近くにおらぬのに、これほど大きく響いてくるのだな。まるで木枯らしのような声じゃ。聞いていると、胸が痛うなる」

  「眠れそうにありませんか」

  「うむ……なんだか目が冴えてしまった。すまぬが、少しのあいだ話しあいてになってくれぬか」

  「では、明かりを」

  腰をあげようとした狼を、九郎がとどめる。

  「いや、このままでよい。月あかりで、じゅうぶんじゃ」

  そのまま九郎が話しはじめた日常に、狼はあいだに短いあいづちを差しはさみながらも、おおかたは黙って耳を傾けていた。

  「そなたが留守のあいだに、紫陽花が咲いた。雨が多かったためか今年の紫陽花は色が冴えて、見事だぞ。なかのひとつを蝶々がえらんで切って、手ずから活けてくれた」

  床の間のあれだ。きれいであろう?

  九郎の問いかけに、狼は無言でうなずく。

  「群れて咲く紫陽花のあでやかさを、そなたにも見せてやりたい。竹林坂の下へ、夜が明けたら、共にまいろう」

  「はい」

  「きれいと言えば、あのミブ風船も。あれは、弦一郎殿がわたし宛にと寄越してくださったものだ」

  「……弦一郎殿」

  名をおうむ返しにする狼に九郎が、ああ、そうじゃった、とつづける。

  「そなたは会うたことがないか。葦名の侍で、わたしの…義理の従兄にあたる方だ。とても、おつよいのだぞ」

  普段ものしずかな九郎にはめずらしくはずんだ声に、どれほどの人物なのかと、狼にもささやかな興味がわく。

  「領内を見廻るついでにと、以前はよくこの屋敷へもお立ち寄りくださったのだが、ここしばらくお顔を見せてくださらぬ」

  はずんでいた声が、寂しげにしぼんでいく。

  「いろいろと、お忙しいのだろう。それでもこうして、折にふれて心づくしの品や文を届けてくださる。ありがたいことじゃ」

  「………………」

  九郎が、狼のほうへと身をのりだした。

  「なんだか、わたしばかり話しておるな」

  声から憂いを消して、はにかむような笑みを[[rb:泛>うか]]べた九郎の手が狼の膝上へとのび、指さきを握りしめる。

  狼は、すっと息をのんだ。

  まったく心構えをしていなかったので、反応が遅れた。反射的に手をひこうとして、なんとか踏みとどまる。

  ささくれだった人差し指を包みこみ往復する、やわらかな感触。かすかな湿り気と重み。

  こうして邪気のないふれあいを求めてくる手に、狼はいまだに馴れない。

  「狼」

  「は」

  「そなたも、なにか話してくれ」

  いきなり水を向けられて、狼は眉間に皺よせて押し黙る。話せといわれても、何をどうすればいいものか。

  九郎がくすりと笑った。

  「狼よ」

  「はい」

  「そなた今、いったい何を話せばいいのかと、困っておるのだろう」

  「は……」

  「そなたの話しなら、なんでも聞きたい。どんなことでもいいのだが、それでは、そうじゃな……」

  なぞかけでも考えるかのように、九郎の目線が宙をさまよう。

  「そなたは梟に拾われてすぐ、蝶々のところにあずけられたのであろう。忍び修行のために」

  「はい」

  「どんなことを教わったのじゃ。蝶々にたずねても、そなたに訊いてみればよいと笑うばかりで、答えてくれなかった」

  「それは」

  「うん」

  「少し、お待ちいただけますか」

  狼が眉間の皺をふかめて何やら迷っているあいだ、九郎はせかすことなく、彼と繋いだ手に視線を落とした。

  不寝番をつとめるために、狼は普段どおりの忍び装束を纏っているが、手甲だけをはずしている。

  節がたかく長い指。甲にうすく残るいくつもの傷跡。寡黙な男がたどってきたけわしさを雄弁に語る、手。

  平田に狼がやって来て、二年ちかく。

  忍びは冷徹非情というが、九郎は狼からそういった翳りをみじんも感じない。

  たしかに愛想はないが、彼は関わる人すべてに対して、不器用ながらも親切に礼儀ただしく接している。

  ただ、人に心をひらかないところがあり、主である自分にも心の[[rb:裡>うち]]を[[rb:覚>さと]]られないように常に構えているふしがある。

  そのことをすこし寂しいと思いこそすれ、九郎には狼を責めるつもりは欠片もなかった。

  忍びとはそうしたものであるし、そもそも自分たちが馴れあうような関係でも立場でもないと、わきまえている。

  けれどそれとはまったく別のところで、九郎は心のなかに、このままでは嫌だと囁く自分を認めてもいる。

  狼が、何を考えているのか知りたい。彼のことなら何でも知りたい。

  どんなことでもいい。話してくれなければ、何を考えているかわかりようがない。それとも狼にとって、いまだに自分は他人同然なのだろうか。

  誰かひとりに対して、こんな風に御しきれない思いをもてあますのは、初めてだ。

  九郎がくちびるを噛みしめるようにして思いをめぐらせていたとき、しばらくやんでいた咆え声が、[[rb:渺渺>びょうびょう]]と響きわたった。

  九郎は障子の向こうの、するどい気配に目をやった。おそろしい声だ。けれど、胸に迫ってくる。とても、切ない。

  「九郎様」

  「うん」

  「こちらをご覧ください」

  「………………」

  「おそろしいですか」

  「いや……、うん。少しおそろしい」

  「私は義父とお蝶殿から、忍びたるものの心得を伝えられました。ですがそれ以外にも、学んだことが多くあります。それを、お話しいたしましょう」

  野山に生きる鳥獣たちが、まとう毛皮の色を染めかえるのは何故か。彼らが呼びかわす啼き声に隠された意味あい。道行き出会う草木のなかで、口にできる葉や実はどれなのか。野外で火を熾し暖をとるすべ。[[rb:天穹>そら]]にきらめく星々の動き、川面をわたる風のにおい、それらではかる先々の天候――そうしたことを。

  訥々とかたる狼に、九郎は目もとをやわらかくした。

  「梟と蝶々は、狼にいろいろなことを教えてくれたのだな」

  握りしめた狼の指を、九郎はゆるやかに揺らした。

  「まるで、まことの父上と母上のようじゃ」

  「……はい」

  狼はおだやかな表情をつくり、ただ[[rb:肯>うべな]]う。

  親愛の情をやどす九郎の瞳に、私たちはそんなに上等なものではないと、胸中で首を振りながら。

  あなたに伝えられないことも多いのだと、口には出さずに。

  狼はあらためて九郎とまなざしを合わせる。明るい茶色の瞳が光をはなって、狼ただひとりを映している。

  何もかもを見通しながら、すべてを赦しやさしく包みこむ。菩薩の目かと、錯覚しそうになる。

  九郎に話した内容に嘘はひとつもない。やましいところも。それなのに何故、胸骨のなかがつめたく痛むのだろう。

  九郎といると、ときどきこうしたことがある。おそろしいと感じることすら。

  いったい、何故なのか。いくら思いをめぐらしてみても、狼は、あと一歩のところでその解を得られずにいる。

  このやさしい目と手をもつ幼子の、自分はいったい何をおそれているのか。

  そこまで考えて、狼はけものが毛皮についた雨雫を振りはらうように、心気を澄ませて雑念を断ち切った。

  「……九郎様」

  「なんじゃ」

  「おおかみについてですが」

  けもののほうの、と言い添えると、九郎が笑う。

  「わかっておるぞ。して、おおかみがどうした」

  「はじめて聞いたときは、私もあの声を獲物を求めるおそろしいものと感じました。しかし、違うのです」

  「そうなのか?」

  「あのように[[rb:疳高>かんだか]]く尾をひくように啼くときは、遠くにいる仲間へ呼びかけているのです。己は、ここにいると」

  「さようか……もしかして道に迷って、連れとはぐれてしまったかのう?」

  「おそらくは」

  「ああ、だからこんなに、胸に迫ってくるのだな。可哀そうじゃ。早く会えるといいのう」

  胸に拳をおしあてて、九郎はそっと目を落とした。その声は気づかわしげで、いたわりにみちている。

  しばらくそうしていた九郎が、ふっと睫毛をもちあげた。

  「なあ、狼」

  「はい」

  「もしも、わたしがそなたとはぐれてしまったら、どうすればいいのだろう。わたしは、咆えることはできぬし」

  「おそれながら。大きな声で私を呼んでくだされば、何処にいらしても九郎様のお傍に駆けつけます」

  「だがもし叫んでも届かないほどに、離れてしまったら」

  そのときは、どうする。

  九郎は、まっすぐに狼を見た。ごまかしや、身を避けるような言葉をゆるさない目をしている。

  狼はその視線を受けとめ、しばらく考えをめぐらせていたが、やがて言った。

  「九郎様は、笛通信をご存じですか」

  「いや、知らぬ」

  「けものほどではないですが、忍びも、耳を頼りに生きております」

  「うん」

  「九郎様や皆さまが文をしたためられるように、私たちは音を紡ぎます」

  「音、か」

  「はい」

  狼は目を伏せた。

  思考が駆ける。短い情景。記憶のどこかから、声と教えが湧いてくる。[[rb:滾々>こんこん]]と。

  この国は水源がゆたかだ。だから水が厚く地をうるおして……――見てみよ、狼。そこらじゅうに葦が生えておるだろう。この葉をちぎって丸めれば、笛となる。

  「葦の葉を丸めて葉笛として吹き鳴らせば、遠くまで音を届けられます。私たちはそうして、はなれた仲間に無事をしらせるのです」

  葦の根がつよいことと言ったら、まるで絡み合った男と女さ。葦の根のねもころ思いて……って歌に詠まれるくらいだからね。

  「それは、何処にいても聞こえるのか」

  「はい」

  「いつわりはないか?」

  「忍びのまことはただひとり、主に捧げるべきもの。九郎様に、嘘は申しませぬ」

  風が障子を揺らす音にまじり、おおかみの遠咆えが聞こえる。

  「そなたがそう言うのなら……、なあ、おおかみ…」

  先ほどまでとは調子が変わって。痛々しく哀切をきわめていた調べに、恍惚と…――甘えるような艶と悦びがまざっている。

  「はい」

  「なんだかずいぶん、うれしそうな声じゃ。ふふ。探していた連れと、会えたのかのう、のう?」

  はぶえ……つぶやきながら、九郎が目をすりはらい、ちいさくあくびを噛み殺す。

  狼と、けもののおおかみ。どちらに語り掛けているのか。舌がもつれ、語尾がみだれている。

  「おやすみください、九郎様」

  繋いでいた手指をほどき、九郎が起こしていた半身を横たえるのをたすけながら、狼は言った。

  「葉笛については、お目覚めになりましたら、そのときに」

  「狼」

  「は」

  「できるかぎりで構わぬから、これからもこうして、わたしと話しをして欲しい」

  「はい」

  「そなたがおらぬあいだ、蝶々は、とてもやさしくしてくれた」

  「はい」

  「だが、できればわたしは、狼、そなたに傍にいて欲しい」

  「………………」

  「いつも。ずっと一緒に、我が忍び」

  「……御意」

  子どもの寝入りは、あっという間だ。

  狼は九郎の寝着のみだれをなおし、肩まですきまなくつつんでやる。

  そのまま、すこやかな寝息をたてる九郎のくちびるの上に、そっと左手をかざした。呼吸は一定。眠りがふかいのをたしかめ、安堵する。

  静寂がもどった夜にひとり。主の傍らを離れがたく、狼はおだやかな寝顔を見下ろす。

  わたしにはおまえだけと、ひたむきな声に溢れていた真摯さに、さわりと擽られた心を、もてあましたまま。

  ぬるい湯に肌をひたしてでもいるような心地よさと、薄氷を踏んでいるかのように心もとない、やるせなさ。

  つめたく、おそろしく、それでいながら慕わしく、あたたかい。いつまでも身をよせていたくなる。

  この情意をどう名づけるべきなのか、狼には、やはりわからない。

  なににも心を動かさず、囚われず、身を乾かすようにして生きてきた。そうであれと、教えられてもきた。

  世は乱れきっている。すべての絆は、永久にはつづかない。

  誓いも祈りも、なにもかも。うつくしいものほどたやすく[[rb:毀>こわ]]されてしまう。

  それがわかっていてもなお、狼は九郎のために、ただ一筋のまことを貫きたいと願うのだ。

  狼は膝をうかし、音をころして立ち上がった。

  座敷の隅でふたたび端坐し、障子の向こうにひろがる夜を、じっと見つめる。

  あの啼き声は、単に仲間を呼ぶものではない。つがいを恋う、ひびきがあった。

  いまごろは、夜露に足もとを濡らして踊るようにむつみあいながら、互いの無事をたしかめあっているだろうか。

  「……――」

  心中の声を、吐息にのせて。

  感じる心とともに、狼はふたたび目蓋を閉ざした。