枷を外す

  1

  部下の名前が書かれた[[rb:稟議書 > りんぎしょ]]を開いたのは、昼飯を済ませて席に戻った直後のことだった。

  窓際の冷房の風がスーツの襟元に当たり、首筋の被毛を逆撫でする。デスクの上で蛍光灯の光を吸い込んでいる書類に視線を落とし、俺は項目を一つずつ指で追った。

  外注先の選定基準に、引っかかるものがあった。

  社内規程に照らせば、禁止とまでは言い切れない。だが、許容の範囲内かと問われれば、首を傾げざるを得ない内容だった。複数の部署が絡む案件であり、この外注先の選定については隣の部署が主導している。俺は書類から目を上げ、フロアの向こうに視線をやった。訊くべき相手の名前は、すぐに浮かんだ。

  椅子を引く音が妙に大きく響いた気がした。立ち上がり、書類を手に取る。スーツのボタンを指先で確かめてから、俺はフロアを横切った。

  窓を背にした部長用のデスクとオフィスチェアは、俺に割り当てられたものと同じはずだった。だが、そこにふんぞり返って座っている大柄な虎──[[rb:虎佐渡 > とらさど]]のデスクは、いつ見ても雑然としていた。

  書類が積み上がり、ペン立てには用途不明のクリップが山のように刺さっている。中途半端に中身を残したボトルが数本並んでいる。せめて飲み切るくらいはしろ、と俺は内心で思いながら顔を[[rb:顰 > しか]]めた。

  席の主は上着を椅子の背にかけたきり、ネクタイは外してシャツの袖を肘の上まで[[rb:捲 > まく]]り上げていた。山吹色に縞模様の入った太い前腕がモニターの光を受けて、短い被毛の一本一本が微かに光っている。

  同じ部長職でありながら、この男はいつもこうだった。

  「おい虎佐渡。なんだこの内容は」

  声が思った以上に硬くなっていたが、俺はそのまま書類をデスクの上に置いた。叩き付けた、と言われても否定はできない程度の音がした。虎佐渡の黒く縁取られた耳は、俺の声を聞いてぴくりと揺れた。

  「今日はなんだ[[rb:熊蔵 > くまぐら]]……」

  虎佐渡は顎を引いてこちらを見上げ、それからゆっくりと椅子の背にもたれた。

  俺は該当箇所を指で示した。虎佐渡は面倒そうに身を乗り出し、顔を近付けて字面を追う。その横顔に浮かぶ表情は、読み進めるにつれて変わっていった。眉間の皺が深くなるかと思えば、鼻先で小さく息を吐いて肩の力を抜く。

  「ああ、これか」

  虎佐渡はそう言うと、太い指先で書類の端を弾いた。

  「別に禁止されてるわけじゃないだろ。明記されてねえんだから、問題ない」

  「明記されていなければ、という話ではない。規程の趣旨を汲めばグレーだとわかるはずだ」

  「趣旨ねえ……」

  虎佐渡は首の後ろに手を伸ばして、指の腹でごしごしと掻いた。

  「この外注先の方が納期もコストも合うんだよ。わざわざ遠回りする理由がわからねえな」

  「遠回りだろうが、規程に沿った手続きを踏むのが筋だろう」

  「筋ねえ。筋を通すのに三週間余計にかかって、その間に客が痺れを切らしたらどうすんだ」

  虎佐渡はそう言うと、乗り出した身を再び背もたれに預けて俺の顔を見た。鋭利な印象を与える双眸は青く、背後の窓に広がる初夏の空に似た色をしている。その眼差しを見据えながら、俺は書類に乗せる指に力を込めた。

  虎佐渡の言い分に理がないとは言わない。現場では、規程の隙間を縫って走らなければ間に合わない場面がある。それは俺だって重々承知している。だが、それを当然のものとして通すのは別の話だ。繰り返せば規程は形骸化し、いつか取り返しのつかない穴が開く。俺たちの仕事は、その穴を塞ぐ側にいることだ。

  「手続きにかかる時間を見越してスケジュールを組め。それがお前の部署の仕事だろう」

  「そりゃ正論だな。正論だが、現場はそうはいかねえんだよ」

  虎佐渡は椅子を軋ませながら腕を組んだ。その腕の太さが、妙に目についた。

  同期入社で、歳も同じ。俺よりもやや筋肉質で、脂が乗ってもなお身体の芯には硬いものが残っている。そういう[[rb:体躯 > たいく]]の男が腕を組むと、それだけでこちらの言葉を跳ね返す壁ができるような気がした。

  「最終的にうまくいけばいいだろ」

  鼻息とともに虎佐渡はそう言った。その一言が、胸の内側の何かを擦った。ちりちりと焦げるような感覚が腹の底から上がってきて、喉元を[[rb:灼 > や]]いた。

  「──うまくいけばいい、だと?」

  自分の声が一段低くなったのがわかった。

  「結果が良ければ過程はどうでもいいのか。部長という役職の重みを考えろ、虎佐渡。お前の判断ひとつで、下がそれを前例にするんだ。規範を示す立場のはずが、都合のいいときだけ規程を無視するような真似をして──」

  言葉が溢れ出していた。自分でも歯止めが利かなくなっているのがわかっていた。虎佐渡の目が据わり、口元が引き結ばれていくのが見えていた。それでも俺は止められなかった。こんな言い方をすべきではないと、頭のどこかで理解しながら。

  声が途切れたとき、フロアが静まり返っていることに気が付いた。

  キーボードを打つ音がない。電話の呼び出し音すら聞こえない。周囲のデスクに座っている社員が、モニターに目を落としたまま指を止めている。誰もこちらを見ていないが、誰もがこちらに耳を傾けていた。

  蛍光灯の微かな唸りが、やけに大きく耳に届いた。

  俺は目を[[rb:瞑 > つむ]]った。鼻から息を吸い、肺の中に空気を押し込む。冷房の風に混じった、オフィス特有の乾いた埃っぽさが鼻腔を通り抜けた。呼吸を三つ数えてから目を開く。虎佐渡は腕を組んだまま、表情を動かさずに俺を見ていた。

  「……とにかく、これは、許可できん」

  声が平坦に戻っていることを確かめるように、俺は一語ずつ区切って言った。

  「修正案は俺の方で作る」

  それだけ言い残して、俺は[[rb:踵 > きびす]]を返した。背中に視線が刺さっているのを感じたが、振り返らなかった。自分のデスクまでの十数歩が、いつもの倍ほどの距離に感じられた。

  椅子に腰を下ろすと、太ももの上で拳を握っていることに気が付いた。指を一本ずつ開くと、手のひらが汗ばんで湿っていた。

  やりすぎだ、と思いながら息を吐いた。

  あの言い方は、正しかったとしても適切ではなかった。規程の話をしていたはずが、いつの間にか虎佐渡自身を責める言い方になっていた。長い付き合いの同期に、フロア中に聞こえる声で説教をする。それが部長の振る舞いかと問われれば、俺自身が一番よくわかっていた。

  モニターに目を戻す。稟議書のファイルが開いたまま、画面の中で静かに俺を待っていた。カーソルが点滅するその光を見つめながら、俺は自分がさっきまで口にしていた「部長という役職の重み」という言葉の、その重みに押し潰されそうになっていた。

  椅子を回し、窓の外に視線をやる。ビルの谷間に挟まった空は、初夏の陽に照らされて白々とした光に満ちていた。

  

  2

  

  虎佐渡との口論は今に始まったことではない。同期で入社した頃から、顔を合わせれば言い合いになるのは季節の巡りのようなもので、周囲もそれをわかっている。だが今日は、少し燃えすぎた。フロアを静まり返らせてしまったあの瞬間の空気が、午後いっぱい俺の背中に張り付いていた。

  書類の文字が頭に入ってこない。赤ペンを握ったまま、同じ行を三度読み返していることに気付く。修正案は俺が作ると[[rb:啖呵 > たんか]]を切った手前、今日中に片を付けたかった。だが、こんな頭では[[rb:碌 > ろく]]なものにならない。

  俺は小さく息を吐き、赤ペンのキャップを[[rb:嵌 > は]]めた。デスクの端に積んである書類の角を揃え、引き出しにペンケースをしまい、パソコンの電源を落とす。壁掛け時計の短針はまだ六の手前を指していた。定時に席を立つのは、この部署に来てから数えるほどしかない。

  ビルの自動ドアが開くと、むっとした空気が顔に貼り付いた。梅雨にはまだ早いが、夕刻を過ぎても気温の落ちない日が続いている。スーツの裏地が背中に吸い付き、歩くたびに布と毛の間で熱が籠もる。ネクタイの結び目が喉を締めているのが急に不快になって、俺は結び目を少しだけ緩めた。

  どうにも帰る気にならなかった。玄関を開けて灯りの点いていない部屋に、ただいまと言う気力がない。ワイシャツのボタンを外して缶ビールを開けるという、いつもの夜を想像するだけで足が重くなる。

  俺はそのまま駅の改札を素通りして、当てもなく繁華街の方へ歩き出した。

  アスファルトから立ち昇る熱気と排気ガスが鼻先に[[rb:纏 > まと]]わりつく。すれ違う若い連中の話し声や、居酒屋から漏れ出す換気扇の匂いが夕暮れの空気を騒がしくしている。俺はスーツの上着を腕にかけ、肩にかけた鞄の重みを感じながら、雑居ビルの立ち並ぶ通りを抜けていった。

  路地の奥に、赤提灯がひとつ灯っていた。立ち飲みと書かれた看板の下で、仕事帰りの背広姿が立っている。店先まで届く香ばしい煙の匂いに、腹の底が鳴った。考えるより先に足が向いていた。

  カウンターに立ち、生ビールのジョッキを受け取る。一口目の冷たさが喉を下っていくとき、肩の辺りに溜まっていた力がわずかに抜けた。傾けるうちに、串焼きの煙と喧騒が心地よい壁になって、午後の記憶を少しだけ遠ざけてくれる。

  隣の席では、若い犬の男たちがジョッキを突き合わせていた。

  「最近サウナにハマっちゃって。週二で通ってるんすよ」

  「へえ、いいじゃん。俺も興味あるんだけど、どこがいいか分かんなくて」

  「あそこいいっすよ、水風呂がキンキンで──」

  声が自然と耳に入る。サウナか、と俺は思った。最後に大きな風呂に浸かったのはいつだっただろう。自宅の狭い湯船では、この身体を十分に伸ばすことすらできない。湯に肩まで沈めてのぼせる寸前まで温まり、水風呂で一気に引き締める。悪くない。そうして帰れば、今夜はよく眠れるかもしれない。

  俺はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、地図を開いた。検索窓に「サウナ」と打ち込む。すると、周辺地図にピンが立ち、画面に結果がずらりと並んだ。老眼の進んだ目を細めながら、それを指先で上へ送る。そうしながら、残りのビールをちびちびと舐めた。

  行くなら清潔感があって、静かなところがいい。隣で盛り上がっている若い連中のような客層が集まる場所は、俺には居心地が悪い。スパリゾートだのリラクゼーションマッサージだの、サウナとは関係のなさそうな店名がいくつも流れていく。どれもこれも横文字ばかりで、看板を見ただけでは何の店なのか判然としないものが多かった。

  「ん……」

  指を止めたのは、一つの店名が目に留まったからだった。

  どこで聞いたのかは思い出せない。だが、その名前には覚えがあった。

  それが何の店であるかを、俺は知っていた。

  発展場──サウナと大浴場を備えた、男が男を求めるための場所だった。行為に及ぶための部屋が用意されているという話も知っている。掲載されている写真を開いてみると、看板がなければただの雑居ビルにしか見えない外観が映っていた。

  不意に、自分の手元が視界の外にいる誰かに覗き込まれているような気がして、俺は画面を伏せた。心臓が一つ、大きく打った。立ち飲み屋の喧騒はさっきと何も変わっていない。隣の若い連中はまだサウナの話で盛り上がっており、カウンターの向こうでは店主が黙々と串を返している。誰も俺の手元になど注意を払っていない。そんなことはわかっている。わかっていて、それでも動悸が止まるまでに数秒を要した。

  残りのビールを一息に飲み干す。ジョッキの底に沈んでいた薄い泡が、喉を通り過ぎていく。空になったジョッキをカウンターに置き、それからもう一度、携帯電話の画面を点けた。

  地図上にピンが立っている。現在地からの距離は、電車で三駅だった。

  俺のような親父が行って、相手にされるものなのだろうか。そもそも暗黙の作法のようなものがあるはずで、それを知らずに行けば場違いな振る舞いをしてしまうかもしれない。俺は仕事でもそうだが、事前に調べもせず飛び込むような真似が最も苦手だった。段取りを踏み、手順を確認し、起こりうるリスクを洗い出してから動く。それが俺のやり方で、そうでなければ落ち着かない。

  だが、画面の上の雑居ビルの写真を見つめているうちに、ベルトに乗る下腹の奥でじわりと疼くものがあった。それはずいぶんと久しぶりの感覚だった。日々の業務と帰宅後のビールの繰り返しのどこかで、いつの間にか忘れていた熱が、カウンターの下でひっそりと頭をもたげている。

  別に──と俺は思った。

  別に、普通にサウナに入って、大きな風呂で手足を伸ばして、さっぱりして帰ればいいだけの話だ。大浴場があるなら、それだけで行く価値はある。この蒸し暑さの中を歩いてきた身体を流して、水風呂にでも浸かれば、虎佐渡の顔を思い出して沸き上がる苛立ちも少しは薄まるだろう。

  そう自分に言い聞かせている時点で、本当の目的が別にあることくらいわかっていた。自分自身を欺くような年齢ではない。ただ、一歩を踏み出すためには、そういう言い訳がひとつ必要だった。携帯の画面を消すと、そこには微かに強張った熊の顔が映った。

  俺は会計を済ませ、鞄を肩にかけ直した。立ち飲み屋の暖簾をくぐると、すっかり暮れた空に街灯の明かりが滲んでいる。蒸した夜気が被毛の間に入り込み、ワイシャツの襟元がじっとりと湿っている。

  駅へ向かう足取りは、来たときよりもいくらか速かった。

  

  3

  

  暮れなずむ空の下に、そのビルはあった。

  六月も半ばを過ぎて陽はすっかり長くなり、定時に退社してもまだ街は夕凪の中にある。雑居ビルと雑居ビルの間に挟まれたその建物は、周囲に完全に溶け込んでいた。テナントの看板が並ぶ中に、目当ての名前がひっそりと灯っている。携帯電話の画面に表示した地図と照らし合わせなければ、前を通り過ぎていただろう。

  俺は道路の向かい側から、そのビルを眺めていた。

  誰かが出入りする様子はない。一階は貸し駐車場のようで、今は空いていた。二階より上の窓はくすんだ磨りガラスで塞がれており、中の様子は窺えない。ただ蒸し暑い風が、スーツの下で汗ばんだ被毛にへばりつくばかりだった。

  心臓が首の付け根まで響いているのがわかる。立ち飲み屋で傾けたビール一杯の酔いは、歩くうちに醒めていた。それでも足がここまで運んできたのは、下腹の奥底に沈んだ疼きが、帰宅を許さなかったからだ。

  別に、サウナに入って汗を流すだけでいい。大きな風呂でゆっくり湯に浸かれば、今日の鬱憤も多少はましになるだろう。そう自分に言い聞かせてから、俺はもう随分長いこと道路の向かい側に立っていたことに気が付いた。

  信号が青に変わる。俺は腹を[[rb:括 > くく]]って歩き出した。

  階段を上った先の二階に、自動ドアがあった。重たい身体を運ぶだけで、すでに息が切れそうになっている。膝に手を付いて息を整えながら顔を上げると、曇りガラスの向こうに蛍光灯の白い光がぼんやりと透けていた。ドアの脇に貼られた案内には営業時間と料金表が記されており、その事務的な体裁がかえって場違いなものに思えた。

  ドアが開くと、靴箱が整然と並んでいた。その脇に受付のカウンターがある。立て札の指示に従い、俺は靴を脱いで空いている靴箱に収めた。平日の真ん中のせいか、靴箱は空いていて選び放題だった。

  受付には若い狐の男が座っていた。俺がカウンターの前に立つと、慣れた様子で料金を告げ、タオルと館内着の入った袋を差し出してくる。ロッカーの鍵を受け取り、簡単な館内の説明を聞く。ロッカーと休憩室、大浴場、大部屋の仮眠室。それだけ聞けば、どこにでもあるサウナと変わらない。

  なんだ、普通じゃないか。そう思った矢先、俺の視界の端を何かが掠めた。

  受付の背後の壁に、ポスターが貼られている。[[rb:逞 > たくま]]しい[[rb:体躯 > たいく]]の男たちが、身体を重ねている写真だった。その隣には物販の棚が据えられており、パッケージに裸の男が印刷されているソフトや、用途を想像するだけで耳の奥が熱くなるような器具の類が、ごく当たり前の顔をして陳列されている。手錠のような玩具まであった。あんなものを誰が買うのだろうかと俺は思い、それから自分が今どこに立っているのかを改めて自覚した。

  受付の男と目が合いそうになり、俺は鍵を握りしめて足早にその場を離れた。

  ロッカールームは、やはり閑散としていた。蛍光灯の明かりの下、金属製のロッカーが等間隔に並んでいる。どこかで換気扇が低く唸っていた。鍵の番号を確認し、俺は自分に割り当てられたロッカーの前に立つ。

  ネクタイを解き、スーツの上着をハンガーに掛ける。ワイシャツのボタンをひとつずつ外していくあいだ、指先がわずかに震えているのに気がついた。

  初々しさが許される年頃はとうの昔に置いてきただろう、と俺は自分を笑う。こんな歳にもなって、服を脱ぐだけのことに何を緊張しているのか。家で風呂に入るのと同じだ。ただ場所が違うだけで、やることは変わらない。

  ランニングシャツも脱ぐと、一日の蒸し暑さを吸い込んだ汗の匂いが鼻についた。褐色の被毛は脇の下や胸元がしっとりと湿っており、それが自分でもわかるほどに中年の体臭を纏っている。風呂に入る前にこの匂いを嗅がれるのは気が引けるが、ここに来ている連中は皆そんなものだろうと自分を納得させた。

  俺はスラックスを脱ぎ、ロッカーに手をついて靴下を脱いだ。トランクス一枚になってから、もっと見栄えのいい下着を履いてくるべきだっただろうかと思った。視線を下ろすと、でっぷりと突き出した腹の下で、色褪せたトランクスの裾がちらりと見える。いつ買ったものかわからない。だが、どうせこれから脱ぐのだという考えに至った。

  そのとき、ロッカーの列の向こうから足音が聞こえた。

  タオルを腰に巻いた黒牛が、水滴を被毛に光らせながら通り過ぎていく。鍛えているといった風な身体付きをしていた。すれ違いざま、男の視線が俺の顔に触れ、それから胸元から腹、腰のあたりまでをさっと撫でるように動いた。ほんの一瞬のことだった。男はそのまま何事もなかったように自分のロッカーへ向かっていく。

  俺はロッカーの扉に手をついて、浅く息を吐いた。

  ここにいるのは全員、男を求めている男なのだ。

  品定めをされているような居心地の悪さが、胸の内側をちくりと刺す。同時に、自分のこの身体が──だらしない肉に覆われた腹も、歳相応にくたびれた被毛も、そのすべてが誰かの目に映っているという事実が、腹の底でじわりと熱を持った。不快なのか、そうでないのか、自分でもよくわからなかった。

  俺はトランクスを脱ぐ。尻尾穴のボタンを外して布地を引き下ろすと、[[rb:股座 > またぐら]]に収まっていたものが、ひどく心許ない姿で外気に晒された。こうして見ると、たいした代物ではない。袋ばかりが重たげにぶら下がり、その上に載っているものは皮を余らせて、茂みに隠れるように縮こまっている。芯が入れば格好が付く程度の太さはあると思うが、年々衰えて保たなくなっているのを感じる。普段であれば気にも留めないそれが、この場所では急に頼りなく思えた。

  俺は手早くタオルを腰に巻いた。荷物をロッカーに押し込み、鍵を閉める。金属の軋む音が、やけに大きく響いた。

  大浴場へ向かう階段を上りながら、俺は自分の足音を聞いていた。タイルを踏む裸足の音が響くたび、その一段一段が日常から遠ざかっていく距離のように感じられた。部長用のデスクも、虎佐渡との口論も、修正案を作らなければならない稟議書のことも、階段を上るごとに薄れていく。代わりに、湿った空気と消毒液の匂いが、俺の鼻先を満たし始めていた。

  4

  

  かごにバスタオルを放り、浴室の引き戸を開ける。身体に触れたのは、むっとした湿気を含んだ温かい空気だった。

  しかし、そこに誰かの気配はなかった。洗い場のシャワーヘッドが等間隔に並んでいるだけで、湯気の向こうに動く影はない。浴槽の水面は[[rb:凪 > な]]いでおり、波紋ひとつ立っていなかった。

  拍子抜けした、というのが正直なところだった。ロッカールームですれ違った男たちの視線に身構えていた緊張が、糸を切ったように緩んでいく。それならそれで構わない。ひとっ風呂浴びて、さっぱりして帰ればいい。元々そのつもりで来たのだ。

  洗い場の椅子にどっかりと腰を下ろし、シャワーの蛇口を捻る。湯が頭から被毛を伝って流れ落ちていくのを感じながら、俺は丁寧に身体を流した。備え付けのボディソープを手に取って泡立てながら、首筋から胸、腹、脚と順に洗っていく。スーツの下で蒸れていた被毛が、ようやく息をつけたとでもいうように泡の中でほぐれていった。

  それから思い立ち、皮に包まれている自身を丁寧に擦って洗う。鏡に映るのは中年の熊で、その表情には緊張と期待が入り混じっている。側から見れば滑稽な様子かもしれないと思いながら、俺は蒸れた下腹部を清潔にした。

  泡を流して浴槽に向かう。縁に手をかけ、片脚ずつ湯に沈めていく。ぬるめの湯は疲れた身体に丁度よく、肩まで浸かると、腹の底からゆっくりと息が漏れた。立ち飲み屋で引っかけたビールの酔いは欠片も残っていなかったが、それに代わるように湯の温もりが血管を伝って全身に回っていく。

  天井の照明は薄暗く、浴室全体が仄かな橙色に包まれている。タイルの壁に反射した光が湯気の中で滲んで揺れていた。どこかで水滴が落ちる音が、一定の間隔で響いている。

  五分ほど浸かってから、俺は浴槽を上がった。身体から湯気が立ち、被毛の先から雫が滴り落ちる。タオルで軽く水気を拭い、浴室の奥へと歩を進めた。ドライサウナの扉の前を通り過ぎ、その隣にある曇りガラスの向こうへ目を向ける。

  そこはミストサウナだった。中を覗くと、温かい蒸気が充満した、薄暗い空間が広がっていた。ベンチがいくつか並んでいるだけの簡素な造りで、先客の影はない。壁の隅にある噴出口から、蒸気が低い音を立てて吐き出されている。室温は浴室よりも高いが、湿度のおかげで息苦しさはなかった。

  俺はそこに足を踏み入れた。温かい霧が全身を包む。被毛の一本一本に微細な水滴がまとわりつき、表面がしっとりと湿っていくのがわかった。ベンチに腰を下ろすと、タイルの冷たさが尻に触れ、すぐにそれも体温で温まっていく。

  しばらくそうして座っていた。蒸気の中に身体を預けているうちに、職場での出来事も、ここに来るまでの葛藤も、輪郭がぼやけて遠のいていくような感覚があった。

  ふと、股に置いていたタオルに手が伸びる。

  それを持ち上げ、両手で広げて頭に巻き付けた。額から目元にかけてを覆うようにして、後頭部で端を挟み込む。視界が暗くなり、蒸気の温もりだけが顔の下半分に残った。

  そういうものを、見たことがあった。自宅のパソコンの画面の中で、目隠しをした男がベンチに座って待っている映像を。あのとき画面の向こう側にいた男と、今の自分が同じ姿をしている。その事実が、下腹部のあたりにじんわりとした熱を灯した。

  自分にそのような嗜好があると気付いたのはいつのことだっただろうか。男が好きである、という指向なら、物心ついた頃から自覚していたような気がする。ただ、嗜好の話となると思い出せない。男が[[rb:辱 > はずかし]]められるような作品を目にしたからだろうか。それとも、規律に厳格であろうとする自分に反抗する、内なる自分がいるのだろうか。

  「……この歳で今さら考える話でもないな」

  真面目に考えるつもりもなく、俺はそう呟いて口元を緩めた。

  両手を太ももの上に置き、股を大きく開く。被毛に覆われた脚の内側に蒸気が触れ、湿った空気がゆっくりと身体を撫でていった。身体を巡っていた血が、露わになったそこへ行き先を定めていく。突き出した腹の肉と、盛り上がった股座の肉に挟まれるように埋もれていたそこに、徐々に芯が入っていく。

  視界を失うと、それ以外の感覚が鮮明になった。噴出口から蒸気が吐き出される低い音がやけに大きく聞こえる。自分の呼吸の音、タイルの上で水滴が弾ける微かな音。そのすべてが耳の中で膨らんで、頭蓋の内側に反響するようだった。

  ここで自分が何を待っているのか、頭のどこかではわかっていた。知らない男が入ってきて、この身体に触れるかもしれないということ。相手がどんな顔をしているのか、どんな身体つきをしているのか、何も見えない状態でそれが行われるということ。そういう状況を想像するだけで、股座で硬くなっているものが疼く。想像だけでここまで[[rb:滾 > たぎ]]るのは、いつぶりのことだろうか。そこに手を伸ばしたい衝動を堪え、俺は姿勢を正して待った。

  ──俺は待った。それなりの時間を待った。しかし、サウナの扉が開く気配はなかった。

  蒸気の音だけが変わらず響いている。館内にはそれなりに客がいたはずだ。ロッカールームですれ違ったいくつかの顔が浮かぶ。だが、こちらに来る気配はない。平日の夜ではこんなものなのか。それとも、だらしなく肉の付いた親父の身体など、誰の食指も動かさないということなのか。

  微かに膨らみかけていた股座の熱が、時間とともに引いていく。期待と恥ずかしさのバランスが崩れて、後者の方が勝ち始めていた。もし今、誰かが入ってきたとして、目隠しをした中年の熊が黙って股を開いて座っているのを見て、どう思うだろうか。

  そのうち、考えることは自然と昼間のことに戻っていた。虎佐渡の顔が浮かぶ。腕まくりをしたシャツの袖から覗く太い前腕と、資料を突きつけられても動じない図太い態度。あの男はいつもああだ。結果さえ出ればいいだろうという姿勢で、手順や規程を軽んじる。それで今まで大きな問題が起きていないのは、運がいいだけだ。

  しかし──今日は、少しやりすぎたかもしれない。

  声を荒らげたあとの、あのフロアの沈黙。部下たちの、動きを止めた背中。あれは俺が作り出した空気だった。

  俺が言うだけの根拠があるのは間違いない。だが、言い方というものがある。あれでは部下の前で虎佐渡の[[rb:面子 > めんつ]]を潰したことになる。同期入社でもあり、向こうも部長だ。いい歳をした男同士が、あんなふうにやり合うのは見苦しい。

  だが、虎佐渡も虎佐渡だ。「最終的にうまくいけばいいだろ」などと言うから、こちらも引けなくなる。あいつはもう少し手順というものを──いや、逆にあいつの[[rb:奔放 > ほんぽう]]さが俺を苛立たせるように、俺の[[rb:杓子定規 > しゃくしじょうぎ]]な性格もあいつを苛立たせているのだろう。

  虎佐渡も、黙っていればいい男だと思うのだが。

  あの被毛──縞模様が肩から腕にかけて流れていく、あの独特の紋様。隙を見せれば噛みつきそうな面構えのくせに、部下には甘い。そのせいか慕われている。あいつの部署は風通しがいいと、社内でも評判だ。対して俺の部署はどうだ。部下の成長のためなら手間を[[rb:厭 > いと]]わないように心掛けているつもりだが、その部下が何を思っているのかは知りようもない。

  俺も、虎佐渡のように上手く立ち回ることができればいいのだが。

  ──何を考えているんだ、俺は。

  息を吐いた。蒸気を吸い込んで、もう一度、深く吐く。

  もういい。粘ったところで今日は誰も来ないだろう。明日もいつも通り仕事がある。修正案を作ると言った以上、朝一番には仕上げておかなければならない。水風呂にでも浸かって、頭を冷やして帰ろう。

  目元を覆うタオルに指をかけた。布地の端を摘んで、持ち上げようとした。

  そのとき、扉が開く音がした。指が止まり、心臓が一拍だけ大きく鳴った。

  タオルから手を離して太ももの上に戻し、膝を開いた。自分でもわかるほど、ぎこちない動作だった。

  湿ったタイルを踏む足音が響く。それは重たく、大きな身体の持ち主だと感じた。足音は一歩、また一歩と近づいてきて、やがて俺の正面で止まった。

  相手の呼吸が聞こえる。鼻から漏れる吐息が、蒸気の向こうから俺の胸元あたりに触れた。視線を感じる。目は見えないが、相手がこちらの身体を上から下まで眺めているのが、毛先を流れる空気の流れで感知できた。値踏みされているのか、物色されているのか。そのどちらであっても、身体の奥がじんわりと熱くなっていくのを止められなかった。

  その手が、俺の肩に触れた。

  ぬるりとした湿り気を帯びた指先が、肩から胸元へゆっくり滑っていく。褐色の被毛の中で、胸元だけは弧を描くように薄い色の毛が生えている。男はその紋様をなぞるかのように、指先を滑らせていた。

  俺は手を伸ばして相手の腕に触れた。短くて滑らかな被毛の感触だった。それから、腕を離して男の輪郭を探る。次に触れたのは、おそらく腹であろう部位だった。たっぷりと肉が付いていて手のひらが沈むが、その下地には筋肉が詰まっているのがわかる。固太りの、大きな身体だった。

  「……目隠しまでして、気合が入ってるな」

  低い声が、蒸気の中から降ってきた。掠れた、しかし太い声だった。耳の中に染みていくような響きがある。

  「拒否なしか?」

  俺は頷いた。声が出せなかった。喉が渇いて、唾を呑み込む音が自分の頭の中でやけに大きく鳴った。

  男の手が、俺の顎を持ち上げた。太い指が顎の被毛を掻き分けるようにして、口元を上に向けさせる。次の瞬間、口吻に押し当てられたのは、弾力のある熱の塊だった。

  それが何であるか、理解するのに一秒もかからなかった。

  「っ……!」

  口元に触れた瞬間に広がったのは、湯と汗の匂いの下から立ち上る、濃い雄の匂いだった。石鹸で洗った後もなお消えきらない、体温に蒸された匂いだ。その匂いを吸い込んだ途端、引いていたはずの股座の熱が一息に戻ってきた。

  舌を出して、口を開いた。男は[[rb:屹立 > きつりつ]]しているそれを躊躇なく押し込んでくる。男のものは太く、口の中がいっぱいになり、顎の関節がぎしりと軋んだ。息苦しさが込み上げるが、その圧迫感こそが、身体の奥にある何かを強く揺さぶった。

  噴出口から蒸気が吐き出される音が遠のいて、意識を占めるのは口内を侵すものの存在感だけになる。昂りに満ちている先端は、高く張っている首を持っていた。それが俺の口を抉るように入り込んでくる。脈打つ熱を舌の上で感じながら、俺は夢中で口を動かしていた。

  根元まで咥え込むと、鼻先が股座の被毛に埋まる。そこから立ち上る匂いは、口吻に触れたときよりもさらに濃かった。汗と体温に蒸された、歳を重ねた雄の匂いだった。

  「うまいか?」

  男の声が頭上から降ってきた。俺は咥えたまま頷いた。頷くたびに喉の奥が圧迫されて、涙が滲むのがタオル越しにわかった。

  男の手が胸に伸びてきた。被毛の下にある突起を、太い指先が探り当てる。

  「んぉ゛……っ⁉」

  力を込めてつねられた瞬間、喉奥の震えとともに身体が跳ねた。下腹部がびくりと脈打ち、股座で萎えかけていたものが、急速に芯を取り戻していく。腰が勝手に浮き上がろうとするのを、尻に力を込めて堪えた。

  「なんだ、身体までマゾ野郎なのか?」

  笑いを含んだ声で言いながら、男は俺の胸をつねり続けていた。蒸気の向こうで、男が口元を歪めているのが見えるような気がした。

  「ちょうどいい、溜まってんだよ。口使わせてくれ」

  その言葉が終わるか終わらないうちに、男の手が俺の頭を鷲掴みにした。後頭部のタオルごと指の間に挟み込まれ、頭が固定される。そのまま、男は腰を動かし始めた。

  自分の意思で咥えるのと、相手に使われるのでは、まるで違った。呼吸の主導権を奪われ、息を吸うタイミングすら相手に委ねている。口の端から唾液が溢れて糸を引き、顎を伝って胸に垂れ落ちていく。[[rb:嘔吐 > えず]]きそうになるたびに喉が締まり、そのたびに男の低い声が漏れた。

  苦しさが意識を満たしていき、顎が痛む。酸素が足りずに、頭の中に[[rb:靄 > もや]]がかかっていく。

  それなのに、股座のものは一向に萎える気配がない。むしろ限界まで張り詰めて、触れてもいないのに先端から透明な液が垂れ落ちているのが、太ももに伝う感触でわかった。苦しければ苦しいほど、乱暴にされればされるほど、身体の芯が甘く痺れていく。自分の身体ながら、一体どういう仕組みなのだろうか。

  「あぁ……いいな、こりゃすぐ出ちまいそうだ……」

  呻くように男が言った。腰の動きが速くなる。俺のことを気遣う素振りは微塵もなく、ただ自分が果てるためだけに口の中を使っている。

  蒸気で満たされたサウナの中に、粘ついた水音がやたらと大きく反響していた。ぴちゃり、ぴちゃりと、蒸気の噴出音に混じって響くそれは、自分が発しているものだと知りながらも耳を塞ぎたくなるほどに卑猥な音だった。

  「お、おぉ……出る、口ん中に出すからな……っ」

  こちらの同意など待たず、男の手に力が入る。張り詰めたものが喉の奥まで押し込まれ、鼻先が被毛に押し付けられた状態で、男の身体が大きく震えた。唸るような低い声──喉の奥底から絞り出されたような、地を震わすような声が蒸気の中に響き渡る。

  「っ、ぐ……出す、ぞっ……!」

  咥えているものの太さが一際増し、口内を圧迫するように脈打った。次の瞬間、口の中に熱いものが広がった。青臭い匂いが鼻腔を満たし、苦味と臭気に嘔吐きそうになるのを必死に堪える。男は相変わらず気遣う素振りも見せず、俺の頭を掴んで腰を振り続けていた。

  男のものが脈打つたびに、舌の上に乗る精の量が増えていく。口内に放たれた白濁が潤滑剤となり、泡立っていくのを感じた。

  口の中がいっぱいになっても、男はすぐには引き抜かなかった。最後の一滴まで搾り出すように、ゆっくりと腰を動かしてから、ようやくそれが口から離れていく。男は乱れた呼吸を整えるように深く息を吐き、その生温かさが頬を撫でていった。

  俺は舌を出した。舌の上に残った泡立つ白濁を、見えない相手に向かって見せ付ける。それから、喉を鳴らして飲み下した。口の中に残る青臭さと粘つきが、食道を伝って胃の底に落ちていく。

  男が息を呑む音が聞こえた。

  しばらくの沈黙のあと、温かい手が俺の頬に触れた。蒸気で湿った手のひらが、[[rb:口吻 > こうふん]]の下から耳までをゆっくりと撫でていく。その手つきには、先ほどまでの乱暴さとは別種の、奇妙な優しさがあった。

  「……なあ、ベッドでもっと可愛がらせてくれよ」

  低い声が、耳元で囁いた。

  俺は頷いた。自分の股座はまだ張り詰めたままで、触れてほしいという欲求が全身を脈打っていた。もう少しだけ、この見知らぬ男に身を委ねていたかった。

  タオルに指をかけて、目元から引き剥がす。蒸気で曇った視界に、ぼんやりと光が戻ってくる。瞬きを繰り返しながら、俺は正面にいる男の輪郭を見た。

  大きな身体に厚い胸板、丸みを帯びた腹。

  そして──肩から腕にかけて流れる、虎特有の縞模様。

  「お、おまっ……熊蔵じゃねえか⁉」

  その声は、蒸気越しにではなく、はっきりと俺の鼓膜を叩いた。

  [[rb:霞 > かす]]んでいた視界に焦点が合う。蒸気の中から浮かび上がったのは、今日の昼間、資料を叩きつけた相手の顔だった。気性の荒そうな青の[[rb:双眸 > そうぼう]]を備える、見慣れた面構えの虎。

  「と、虎佐渡……っ⁉」

  その声をきっかけにして、ミストサウナの時間が止まったように思えた。蒸気が噴き出す音だけが、何事もなかったかのように響いている。

  俺の口の中には、まだこいつの精の味が残っている。舌の付け根がまだ痺れている。喉の奥にまだ青臭い匂いがこびりついている。それが、よりによって、虎佐渡のものだった。

  どうしてここに虎佐渡が、言いふらされたら、いやこいつもそうなのか、明日会社でどんな顔をすれば──まとまりのない思考が湧き上がっては絡み合い、舌がもつれた。

  先に目を逸らしたのは、俺の方だった。そうしてから、どうして俺が目を逸らさなければいけないのだと思った。

  「……どこかへ行け」

  声が掠れていた。俺は壁の方を向いたまま続けた。

  「今日のことは、お互い忘れろ」

  沈黙が降りた。蒸気の音がやけにうるさい。虎佐渡が何かを考えている気配が、背中越しに伝わってくる。

  「別に……いいじゃねえか」

  虎佐渡の声は、存外落ち着いていた。

  「ここにいるってことは、熊蔵も同族なんだろう? 続きをしようぜ」

  「だ、誰がお前などとするか!」

  信じられない言葉に振り返って睨み付けたが、その勢いは自分でもわかるほどに上滑りしていた。全身が蒸気と汗でしっとりと濡れ、顎には唾液の跡が乾ききらないまま残っている。股座のものは変わらず屹立しており、隠しようがなかった。

  「へえ……あんなにうまそうに咥え込んでいたくせに、今さら言えたことか?」

  虎佐渡の声には、[[rb:揶揄 > やゆ]]と余裕が同居していた。俺のことなど取るに足らないとでも言うような、あの仕事中の態度と同じ種類の、図太い自信だった。

  「ぐ、ぬ……」

  反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。事実だからだ。さっきまで知らない男のものだと思って、夢中で咥え込んでいたのだ。舌を出して白濁を見せつけたのも、飲み下したのも、すべて自分の意思で行ったことだった。

  虎佐渡の足が動いた。俺の股座に、湿ったタイルの上を滑るようにして伸びてくる。足の裏が、張り詰めているものに触れた。

  「こんなにおっ勃てておいて、今さら真面目ぶるなよ」

  つま先で軽く擦り上げられるたびに、腰の奥が甘く痺れた。声が出そうになるのを奥歯で噛み殺す。虎佐渡の足の裏は、ごつごつとした硬い感触がして、その荒い質感が敏感になっている表面を容赦なく刺激していく。

  「なあ、いいだろ──マゾ熊さんよ?」

  その言葉が、下腹部の奥深くまで響いた。

  身体が、否応なく反応してしまう。びくりと脈打ち、先端から透明な液が新たに溢れ出すのがわかった。それを見た虎佐渡の口元が、蒸気の向こうで歪むのが見えた。

  5

  ロッカールームの空気は、大浴場ほどの湿気はないにしても、蒸気の名残が天井のあたりに澱んでいた。俺はバスタオルで全身の被毛を押さえるようにして水気を取りながら、さっきまでのことを[[rb:反芻 > はんすう]]していた。そのたびに腹の底が疼いて、こんな歳にもなって自分は何をしているのかという呆れと、それでも消えない熱の[[rb:残滓 > ざんし]]が、交互に胸を行き来する。

  口の中にはまだ、あの味が微かに残っていた。

  ミストサウナで互いの顔を見てしまってからの記憶が、妙に鮮明に焼き付いている。虎佐渡の──あの虎佐渡の声が、蒸気越しにくぐもって聞こえたときの心臓の音を、俺は忘れられそうにない。何でもない顔をして追い返したつもりだったが、追い返されなかった。追い返しきれなかったのは、あいつではなく俺の方だった。

  バスタオルを腰に巻き直して、俺はロッカーの前に立ち尽くしていた。虎佐渡の姿はない。浴室を出るとき、少し待っていろと言い残してどこかへ消えてしまった。やはり気まずくなって姿を消したのだろうか。それならそれで、俺もすぐにここを出て今夜のことは──。

  そのとき、ロッカールームの入口から足音が聞こえた。タイルを踏む、やや重い歩調。俺は知らず顔を上げ、すぐに後悔した。

  虎佐渡が戻ってきていた。被毛の水気は拭き取られているが、肩から腕にかけての縞模様はまだ湿り気を帯びて、館内の蛍光灯の下でくっきりと浮き上がっている。腹回りは白く、柔らかそうな毛並みに覆われている。俺と同じように太い腰にタオルを巻いているだけのその姿は、先ほどミストサウナで対峙した時よりも、妙に生々しく見えた。

  そして、あいつの右手には──ちゃちな造りの手錠がぶら下がっていた。

  銀色の金属が蛍光灯の光を鈍く弾いて、軽い音を立てる。俺はそれを見た瞬間、息を呑んだ。受付の脇にあった物販コーナーの、透明な袋に入ったあの手錠。誰がこんなものを買うのかと思いながら、入館時に視線を止めてしまったことを、今になって思い出す。

  「こんなもん誰が買うんだと思っていたが」

  虎佐渡はロッカーの列の間を抜けてきながら、手錠を指先でくるりと回した。同じようなことを考えていた事実に、内心で舌打ちを放つ。

  「目隠しで待機するような変態なら、こういうの好きだろ」

  「誰が変態だ。好きではないし、俺はしない」

  俺は即座に否定した。視線は虎佐渡の顔に向けたまま、手元には落とさないようにしていたつもりだった。

  「ふうん?」

  虎佐渡は鼻を鳴らして、数歩の距離に立ち止まった。手錠を持った右手を、ゆっくりと意味ありげに持ち上げる。

  「そういう割には、興味津々に見てるじゃねえか」

  その言葉に、俺はさっと視線を逸らした。ロッカーの扉の通気口──規則正しく並んだ長方形の穴が目に入る。何の意味もない形を見つめながら、首筋に血が昇っていくのがわかる。

  「……見ていないし、興味もないな」

  「そうかい」

  虎佐渡はそれ以上追及しなかった。代わりに、俺の隣のロッカーに背中を預けるようにして寄りかかり、手錠をぶらぶらと揺らした。安物の金属が擦れる、軽い音が耳元で鳴る。間が空く。虎佐渡はこちらを見ているはずだが、俺は視線を合わせない。合わせたら、何かが動く。この男と一緒にいると、いつもそうだ。

  「なあ、せっかく買ったんだし付き合ってくれよ」

  虎佐渡の声は、会社で面倒な書類を押しつけるときと大して変わらない調子だった。

  「手錠をかけるの、一度やってみたかったんだよな。男の子の憧れってやつだ」

  俺は黙った。断ればいい。ロッカーを開けて服を着て、虎佐渡のことなど無視してここを出ればいい。それだけのことだった。

  手錠の鎖が揺れて、かちゃりと小さな音を立てた。その音が、腹の奥の何かを引っ掻いた。ミストサウナでの──あの蒸気の中で、目隠しをしたまま、誰かもわからない相手に口を使われていたときの感覚が、みぞおちのあたりに甦る。

  「む……仕方ないな」

  俺は吐き捨てるように言った。

  「お前がそこまで言うのなら、試すくらいはしてやってもいい」

  ロッカーの扉に触れる手が、微かに震えていた。俺はそれを虎佐渡に悟られないよう、拳を握り締めた。

  「いいか、試すだけだ。すぐに外すんだぞ。いいな?」

  「ああ、はいはい。わかったわかった」

  虎佐渡は軽い返事をして、俺の背後に回った。両腕を後ろに回すよう促され、俺は従った。冷たい金属が右手首に触れ、かちりという音とともに締まる。続いて左手首にも。後ろ手に拘束された状態で、俺は自分の肩甲骨の間にこもる力に気が付いた。身体が強張っている。だが、その強張りの下を、別の何かが静かに這っていた。

  「これで満足しただろう……さっさと外せ。試しただけだ」

  「まあそう急ぐなよ。ここに立ってるのもなんだし、大部屋まで行こうぜ」

  「おい!」

  俺は振り向いて虎佐渡を睨んだ。虎佐渡はその視線を受けても、表情を変えなかった。厚い口の端がわずかに上がっている。

  「すぐ外すと言っただろう」

  「言ったか? 大部屋までって言った気がするけどな」

  「お前──」

  「ここで揉めてると見物が来るぞ。それでもいいのか?」

  虎佐渡の声には、からかいの色よりも淡々とした合理性があった。会社で「結果的にうまくいけばいいだろ」と言い放つときの、あの調子だ。俺は言い返す言葉を呑み込んだ。後ろ手に縛られた状態で他の客に見られるのは、さすがに耐えられる羞恥ではない。

  「……大部屋に着いたら、必ず外せ」

  「わかったわかった」

  虎佐渡は片手を上げてひらひらと振り、先に歩き出した。俺はその背中を睨みながら、ロッカールームを出た。

  大部屋に至る廊下は薄暗かった。等間隔に配された足元の誘導灯が、湿った床に橙色の光を落としている。

  虎佐渡の幅広い背中が、その光の中を横切っていた。広い肩から下がっていく腰、タオルの縁から伸びている縞模様の長い尾。会社では見ることのない、あの男の身体の輪郭を、俺は後ろから眺めていた。年相応に余分な肉と脂がたっぷりと付いているが、その下を支える筋肉はあるようで、俺よりも引き締まって見える。具体的にどうというわけではないが、それが[[rb:癪 > しゃく]]に触った。

  歩くたびに、後ろ手にされた手首の金属が肉に食い込んで、自分が拘束されている事実を思い出させる。腕が使えないというのは、想像していた以上に心許ないものだった。バランスを取るために歩幅が狭くなり、普段よりも一歩一歩が慎重になる。それがまるで、虎佐渡についていくしかない自分を演出しているようで、俺は苛立った。

  苛立ちとは別に、下腹部に圧迫感を覚えた。膀胱が、先ほどまでの行為と緊張で限界に近づいているのだと、数歩歩いてから気が付いた。立ち飲み屋で飲んだビールが、今になって主張を始めている。

  「おい、待て」

  俺は虎佐渡の背中に声をかけた。

  「手洗いに行く。外せ」

  虎佐渡は足を止めたが、振り返らなかった。

  「あ?」

  「手錠を外せと言っている。小便に行くんだ」

  虎佐渡はゆっくりと振り返った。その瞳は蛍光灯の光を吸い、底知れぬ水面を思わせる色を浮かべている。

  「言葉遣いに気を付けろよ?」

  虎佐渡の太い指が、タオルの端に挟んでいた手錠の鍵を[[rb:摘 > つま]]み上げた。小さな鍵が、指と指の間でゆらゆらと揺れる。

  「おい、調子に乗るな……!」

  俺は声を低くして凄んだ。会社のフロアで虎佐渡の稟議書を叩き返すときと同じ声が出ているのを、自分でも感じていた。だが、ここは会社ではない。俺の手首には安物の金属が嵌まっていて、そしてこの男は──鍵を持っている。

  「さ、さっさと外せ……っ」

  膀胱の圧がまた一段強くなった。足元が落ち着かない。つま先に力を入れて堪える動作が、自分でも滑稽に思えた。いい歳をした親父が、小便を我慢して足踏みしている。虎佐渡の目にそれがどう映っているかを想像すると、顔から火が出そうだった。

  「ぐっ──は、外して、ください」

  プライドと膀胱を天秤にかけて、膀胱が勝った。俺は虎佐渡の目を睨みつけたまま、奥歯を噛み締めてその言葉を絞り出した。

  虎佐渡は無言だった。鍵を揺らす動きが止まらない。

  「……どうしたもんかねえ」

  虎佐渡の口元が弧を描いた。にやついた、という形容が正確だろう。[[rb:下卑 > げび]]てはいるが、どこか余裕のある──部下の報告書を読み流すときに浮かべるような、あの笑みだった。

  「まだ態度が反抗的だな」

  鍵が、俺の鼻先で揺れた。金属の匂いが微かに鼻腔を擦る。

  我慢の限界は、もう目の前まで来ていた。ここで漏らすわけにはいかない。それだけは、何があっても避けたかった。

  「た、頼む……」

  口から放たれた声は震えていて、俺は顔の芯が熱くなるのを感じた。

  「お願い、お願いします……」

  そう言って頭を下げた。年下への遠慮でも業務上の配慮でもなく、ただ身体の切迫に屈服して懇願している。首筋に熱が集まり、耳の奥がじんじんと鳴っている。同時に──自分でも理解しがたいことだが──股座の奥で、何かが微かに頭を持ち上げようとしていた。

  虎佐渡は、その様子を見下ろしていた。薄暗い廊下の中で、瞳に浮かんだ光は、ミストサウナで俺の頭を掴んだときのそれよりもずっと深かった。獰猛な笑みが口元に刻まれ、牙の先端がその隙間から覗いている。

  「小便も我慢できねえとは、仕方ねえな」

  虎佐渡はため息混じりに言った。

  「まあ、俺だってここで漏らされちゃ困る。トイレにゃ連れてってやるよ」

  連れていくとは言ったが、外すとは言わなかった。

  俺はそれに異を唱える余裕を、すでに失っていた。

  手洗いは、廊下の突き当たりにあった。扉のない入口から中を覗くと、小便器が三つ並んでいるだけの簡素な造りで、先客はいなかった。蛍光灯が一本だけ点いており、白いタイルの壁が無機質な光を反射している。消毒液の匂いが鼻を突いた。

  虎佐渡に背中を押されるようにして、俺はスリッパに足を差し込んで小便器の前に立った。立ったはいいが、手が使えない。腰に巻いたタオルをどうすることもできず、俺は虎佐渡を振り返った。

  「お、おい、手錠は──」

  言いかけた言葉が途中で消えた。虎佐渡の手が伸びてきて、俺の腰に巻いたタオルを掴んだ。引き抜くように剥ぎ取られる。薄い布一枚が身体を離れただけで、むき出しになった下半身に手洗いのひんやりとした空気が触れた。

  萎えている俺のものは、股座の厚い肉に埋もれて、皮に包まれたまま縮こまっている。ミストサウナでの興奮はとうに冷めていて、今はただ膀胱の圧だけが下腹部を支配していた。

  「男なんだから立ち小便でいいだろ?」

  虎佐渡が横に立ち、俺の下腹部に視線を落とした。

  「ああ──皮余りだから、あらぬ方向に飛んじまうか」

  顔が熱くなった。内心でずっと気にしていることを、こいつは無造作に口にする。会社でも同じだ。誰もが暗黙に避ける話題を、虎佐渡だけは何でもないように言い放つ。そのたびに俺は苛立っていたが、今この瞬間に感じているのは、苛立ちとは少し違う熱だった。

  「手伝ってやるよ」

  虎佐渡のずんぐりとした指が、俺の埋もれているものに触れた。肉を押し分けるようにして引き出し、余った皮を剥く。

  その手付きは、ミストサウナで俺の頭を掴んでいたときの荒々しさとは違って、妙に手慣れていた。冷静で、実務的で──だからこそ、余計に羞恥が煽られた。

  先端が露わになった瞬間、堪えていたものが決壊した。虎佐渡の手に支えられたまま、勢いよく尿が[[rb:迸 > ほとば]]る。白いタイルの小便器の内側を叩く音が、静かな手洗いにやけに大きく響いた。

  「見、見るな……」

  掠れた声は太い水音にかき消されそうだった。虎佐渡は何も言わなかったが、手は離さなかった。排泄の快感と、それを他者の手で──しかも虎佐渡の手で、為されているという事実が、頭の中で混ざり合っている。膀胱の圧が引いていくにつれて、別の感覚が下腹部に兆し始めていた。手の中で、俺のものが徐々に芯を取り戻していくのを、虎佐渡も感じているはずだった。

  最後の数滴が落ち、排尿が終わった。あくまで実務的な手付きのまま、虎佐渡は俺のものを振り、残っている滴を落とした。

  それが終わっても、虎佐渡の手は離れなかった。

  親指の腹が先端をゆっくりと拭うように撫で、それから根元に向かって握り込むように降りていく。扱くというには緩やかで、触れるというには意図的な動きだった。俺のものは、その手の中で確実に膨らんでいた。皮がじわじわと押し退けられ、熱を帯び始めた先端が露わになっていく。

  同時に、もう片方の虎佐渡の手が、俺の尻に触れた。

  そこを撫でる手のひらの感触に背筋が震えた。虎佐渡の手は、下から持ち上げるようにして尻の肉を揉み、やがて割れ目に沿って指を滑り込ませた。分厚い肉を押し分けていく指先が、奥の閉じられている部分に触れた。

  思わず息を呑んだ。そこは、自分でも驚くほど柔らかかった。指先が少し沈んで、肉が吸い付くように馴染んでいくのがわかった。

  「おいおい、真面目な部長さんよお」

  虎佐渡の声が、耳の後ろで低く響いた。吐息の熱が、首筋の被毛を揺らした。

  「ずいぶん遊んでるみたいじゃねえか」

  「ち、違う……そんなことは、断じて」

  俺は否定したが、その声は掠れていた。否定しながら、虎佐渡の指が沈み込んでいくあの感触を、身体が待っていたことに気が付いていた。

  虎佐渡の手が尻から離れた。代わりに、両手で俺の腰を後ろから掴まれた。引き寄せられるようにして、虎佐渡の下腹部が俺の尻に密着する。タオル越しに、硬く、熱い何かが押し当てられていた。

  さっき、口の中に収まりきらなかったもの。顎が外れそうになるほどの太さ。あの圧迫感が、今度は尻の割れ目に沿って存在を主張している。虎佐渡は小さく腰を揺らし、俺の身体の線に沿うようにして、ゆっくりとそれを擦り付けた。

  小便器の中で、俺のものは完全に屹立していた。先走りが先端から糸を引いて垂れ、白いタイルに落ちていく。

  「……まあ、俺のは[#「俺のは」に傍点]太いからな」

  虎佐渡の声が、急にぞんざいな調子に戻った。腰の動きは止めないまま、世間話でもするような口ぶりで続ける。

  「慣れてねえなら、やめとくか」

  腰が止まった。尻に感じていた圧が、ほんの少しだけ離れる。だが完全には離れない。距離にして指一本分ほどの隙間だった。触れるか触れないかの境界に、虎佐渡の熱だけが残っていた。

  「俺だって、無理矢理やって傷つけるような趣味はねえよ」

  その言葉を聞きながら、俺は自分の身体が裏切っていることを知っていた。尻は無意識に後ろへ押し出されかけていて、小便器の縁を掴みたいのに手は後ろで繋がれたまま、どこにも逃げ場がない。虎佐渡のものの輪郭が、タオル越しに割れ目をなぞるように微かに動く。それだけで下腹部がびくりと跳ねた。

  「お、俺は──俺にはお前などに抱かれる趣味はない……っ」

  声が震えているのは、自分でもわかっていた。

  「おいおい……そうはっきり言われると傷付くんだが」

  虎佐渡はそう言うと、腰を引いた。尻に感じていた硬さが、完全に離れる。背中に触れていた体温も。冷房の効いた手洗いの空気が、虎佐渡のいた場所に流れ込んできた。

  俺は小便器の前で、後ろ手に拘束されたまま立ち尽くしていた。屹立した俺のものは、行き場を失って脈打っている。一歩引いた虎佐渡の気配が背後にあるのに、触れてこない。その距離が、ミストサウナで誰も来なかった時間よりも、ずっと長く感じられた。

  「……お前が」

  俺は呟いた。声が喉に引っかかって、うまく出ない。

  「どうしてもと言うなら、付き合ってやってもいい」

  「ああ?」

  虎佐渡の声が、わざとらしく間延びした。

  「よく聞こえねえなあ。会社みてえに、でけえ声で言ってみろよ」

  挑発するような物言いに憤りが湧き上がる。だが、その響きに呼応するように、[[rb:昂 > たかぶ]]りを現している下腹部が脈打つのを感じた。

  「お、俺を──」

  小便器の白が視界いっぱいに広がっている。手洗い場に染み付いた特有の匂いが鼻を突く。こんな場所で、こんな格好で、俺は何を言葉にしようとしているのか。口を開きながら、今まで積み上げてきた全てのものが下腹部の熱に融かされていくのを感じた。

  「……俺を、だ、抱いてくれ」

  部長として、会社員として、男として維持してきた[[rb:矜持 > きょうじ]]が音に解けて薄れていく。だが、虎佐渡は黙っていた。その沈黙が、俺の中の何かを追い詰める。声を出さなければと、その何かが囁いたような気がした。

  「お前のものを──[[rb:挿入 > い]]れてほしいと、言っているんだ……っ!」

  声が手洗い場のタイルに反響した。自分の声が壁に跳ね返って、耳に戻ってくる。その響きを聞いて、言ってしまったのだと思った。もう取り消せないのだと遅れて理解する。湧き上がる悔しさに牙を剥き、俺の口からは粗野な唸り声が漏れた。

  「……なんだ、照れてるのか?」

  虎佐渡の声が少し近付いた。

  「口うるさい頑固親父になったと思ってたが、まだ可愛らしさが残ってるじゃねえか」

  その言葉と同時に、硬くなったものが俺の尻に押し付けられた。さっきよりも強く、直接的に。虎佐渡のタオルは、いつの間にか外されていた。剥き出しの熱が被毛越しに伝わってくる。太さが、割れ目の肉を押し拡げるようにして圧をかけてくる。

  「だが──」

  虎佐渡の口が、俺の耳のすぐ後ろにあった。息が被毛を掠めて、その下の皮膚に届く。

  「言葉遣いを忘れたのか?」

  それは会社で見せたことのない冷たい声だった。部長としての威厳でも、同僚としての気安さでもない。俺を組み敷くためだけに研がれた声が、耳元を這った。

  「お願いするなら、それなりの態度ってやつが必要だよな? 違うか?」

  俺は歯を食い縛った。顎が痛いほどに力を込めたが、下腹部の熱は一向に引かない。虎佐渡のものが尻に押し当てられている限り、俺の身体は言葉よりも先に答えを出してしまう。

  後ろ手に拘束された手が、無意識に虎佐渡の方へ伸びていた。指先が膨らみに触れた。石のように硬い熱の塊は、小便器の内側で屹立している俺のものよりも、雄として優れていた。脈動が指先に伝わってきて、俺の下腹部もそれに呼応するように跳ねた。

  「ぐ……ぅ……っ」

  腹を震わせる呻きが漏れた。プライドの残滓が舌の上で砕ける。この歳まで築き上げた壁が、この男の体温一つで崩れていく。もはや抗うことに意味はないのだと、身体の方が俺に教え込んでいた。

  「お願い、します……」

  その声は、自分でも聞いたことがないほど細かった。後ろ手の指が、虎佐渡の太さを確かめるように這った。さっき口に収めきれなかったそれの輪郭を、指先でなぞる。先端は張り詰めていて滑らかで、卑猥な熱を帯びていた。

  「これを、俺の……し、尻にっ……挿入れてください……っ!」

  手の下で、虎佐渡のものが大きく脈打った。雄の拍動が指から腕を伝って胸の奥まで響き、それに呼応して俺自身のものも脈打つ。二つの鼓動が、手洗いの冷たい空気の中で重なった。

  虎佐渡が一歩踏み込んだ。背中に、広い胸板が密着する。突き刺さるような被毛の感触と、その下にある分厚い筋肉の圧が、俺の背中全体を覆った。

  鼻先が俺の首筋に埋まる。身動きの効かない両手が、肉厚な腹に押し付けられる。虎佐渡の息を吸う音が、頸動脈のすぐ近くで聞こえた。雄の匂いを、俺の匂いを嗅いでいる。その鼻息の熱さに、膝から力が抜けそうになった。

  「初めからそう言えばよかったんだよ」

  虎佐渡の口元が開き、首筋の毛に触れながら言葉を形作った。尻尾を器用に動かして、俺の太ももを撫で始める。毛束がくすぐるように被毛を這う。その感触に、喉奥から漏れ出そうになる声を必死に押さえ込む。

  「──望み通り可愛がってやるよ……マゾ熊」

  その囁きが鼓膜を震わせた瞬間、下腹部の熱が頂点に達した。屹立しているものが何かを求めるようにひくひくと動き、先走りが糸を引いて床に落ちる。誰にも触れられていないのに、果てる直前のような痺れが全身を駆け巡っている。

  手洗い場の蛍光灯は、白いタイルを無感情に照らしていた。消毒液と汗と、それから虎佐渡の匂いが混ざり合って、俺の鼻腔を満たしている。後ろ手に繋がれた手首の金属が、雰囲気に似つかわしくない軽い音を立てた。

  6

  大部屋は薄暗かった。仄かな電球の光が天井の隅でぼんやりと灯っているだけで、二段ベッドが整然と並ぶ空間は、まるで合宿所のようだった。殺風景な雰囲気は、消灯後の宿直室も思い出させる。新入社員の頃、泊まり込みで仕事をした夜のことが、どういうわけか頭の片隅をよぎった。

  だが、ベッドの木枠の内側で匿名の影が蠢き、雄の低い喘ぎ声が響いていた。客の少なさに忘れかけていたが、ここはそういう施設だった。

  虎佐渡が空いているベッドを選び、俺の背中を軽く押す。後ろ手に拘束されたまま寝台に膝をつくと、仰向けになることができないのだと今さらのように思い知らされた。手首にかかった安物の手錠が、動くたびにかちゃりと鳴る。

  「どうした、ずいぶんと従順になったな」

  虎佐渡の声が背後から聞こえた。その声は、さっきまでの粗暴な調子とは少し異なり、どこか確かめるような響きを帯びていた。

  俺は膝をついたまま顔を横に向けた。枕の匂いが鼻先をかすめる。誰のものかわからない汗と洗剤の混ざった匂いだった。そこに身体を預けること自体が、もう引き返せない場所に来てしまったことを意味している気がした。

  俺は返事をする代わりに息を吐いた。ここに来た時点で、とうに引き返す道など失くしていた。俺は上体を倒して、虎佐渡に尻を突き出す。まだ閉じられているそこを、部屋の冷房が撫でていくのを感じた。

  ぱちん、と何かの蓋を開ける音がした。続いて、ぬるりとした液体の感触が尻の割れ目に垂れてくる。冷たさに身体が強張り、被毛が逆立つのがわかった。潤滑剤はさっきの物販で売られていたものだろうか。そんなことを考えている場合ではないと頭では理解しているのに、部長としての習慣が、つい状況を分析しようとする。

  「力、抜けよ」

  虎佐渡の指が、俺のそこに触れた。ざらついた指の腹が、閉じている部分の周りをゆっくりと撫でる。[[rb:滑 > ぬめ]]りと体温が混ざり合い、じんわりとした熱が広がっていく。その指が圧をかけた瞬間、俺の身体はそれを拒むことなく受け入れた。ずるりと、真ん中あたりまで呑み込む感触があった。

  「……へえ」

  虎佐渡が感心したような声を漏らした。その声に含まれている意味を考えたくなくて、俺は顔を枕に押し付けた。

  二本目の指が添えられる。少しだけ圧迫感が増したが、痛みはなかった。潤滑剤の冷たさはすでに体温で溶けて、内壁を滑る指の感触だけが鮮明に残っている。虎佐渡は指を曲げたり開いたりしながら、俺の中の感触を確かめているようだった。

  三本目が入った時も、抵抗はほとんどなかった。

  「慣らさなくてもいけそうだな?」

  虎佐渡の声に、揶揄するような色が乗る。わかっているし、自分でも思っている。ときおり、風呂場で自分の指を使っていたことを、今この瞬間に証明されている。今まで誰にも見せたことのないその事実を、よりによってこの男に晒している。

  「……するなら、早くしろ……っ」

  声が震えた。枕に埋めた顔が熱い。

  「なんだその態度は?」

  虎佐渡の指が俺の中でぐりと回転した。不意打ちの刺激に腰が跳ね、手錠がかちゃりと音を立てる。

  「じ、焦らさないでください……」

  口調を変えるたびに、自分の中で何かが削れていくような感覚を抱いた。積み上げてきた体裁は剥がれ、部長としての貫禄や威厳も、虎佐渡の指の動き一つで崩れていく。誰にも聞かせたことのない声で懇願する今の俺は、一体何者なのだろうか。

  「なんだよ、そんなに俺に抱かれたいのか?」

  その問いに答える間もなく、虎佐渡の指が引き抜かれた。代わりに、あの太さが俺のそこにあてがわれる。先端の丸みが押し広げようとする圧力を感じた瞬間、身体の奥底が疼いた。

  卑猥な水音とともに、虎佐渡のものが俺の中に入ってきた。

  「う゛──⁉」

  鈍い声とともに息が止まった。先ほど口で咥え込んだときのあの圧迫感が、今度は下腹部の奥で再現されている。口腔とはまるで違う場所で、あの太さと硬さを受け止めている。内壁が押し広げられていく感覚に、目の前が白く明滅した。

  「ぐ……っ、ぬぉ……あ、ぁ……」

  虎佐渡は容赦がなかった。先端が収まったことを確認すると、そこからさらに腰を押し込んでくる。少しずつ、しかし止まることなく、根元まで収められていく。俺の中が虎佐渡の形に変えられていく。内壁を擦る熱が、痛みなのか快感なのか判別がつかないまま脳を灼く。

  根元まで収まったとき、虎佐渡の股座の被毛が俺の尻に触れた。短くて硬い被毛が、汗ばんだ尻にちくちくと当たる。俺よりも張りのある腹の肉が尻の上に乗る。その些細な感触が、今この瞬間、虎佐渡と身体が繋がっているのだという事実を、生々しく俺に教えた。

  「おぉ……全部、挿入ったぞ……っ」

  虎佐渡の声が、少しだけ掠れていた。余裕のあるふりをしているが、呼吸が荒い。その荒さが、俺の身体が虎佐渡にも何かしらの影響を与えているのだと教えてくれる。その事実に、不思議な充足感を覚えた。

  虎佐渡が腰を引いた。内壁を逆方向に擦られる感触に、俺は声を殺した。引いたものが再び押し込まれる。今度はさっきよりも速く、深かった。粘ついた水音が、薄暗い大部屋に響く。

  三度、四度と繰り返されるうちに、痛みの輪郭がぼやけていった。代わりに、腰の芯がじんわりと痺れるような感覚が広がっていく。頭の中に靄がかかり始め、思考が[[rb:蕩 > とろ]]けていく。

  ぱん、と乾いた音がした。虎佐渡の手のひらが、俺の尻を叩いた音だった。分厚い肉が震え、その振動が繋がっている箇所を通じて内側にまで伝わる。

  「んぁっ……」

  甘い声が喉の奥から漏れた。慌てて口元を引き締める。こんな声を、こんな場所で、よりによってこの男の前で出したくなかった。だが、虎佐渡はそんな俺の抵抗を嘲笑うように、もう一度、今度はもっと強く尻を打った。叩かれた箇所が熱を帯び、それが下腹部へ染み込んでくるように思えた。

  「こんなとこで我慢すんなよ、誰も見てねえぞ」

  虎佐渡の腰遣いが激しさを増していく。ずるりと引き抜かれて、一息に押し込まれる。その度に俺の身体は前に揺さぶられ、手錠がベッドのフレームに当たって軽い音を響かせた。たっぷりと肉の付いた腹は下に垂れ、その湿り気をシーツに移していく。内壁を擦られるたびに、背骨の下のほうから頭蓋の裏側に向かって甘い痺れが駆け上がっていく。

  「っ、ふ……ぐ……ぁっ──」

  もう少しで声が出る。もう少しで、堪えている何かが口から溢れ出す。

  だがそう思った矢先、虎佐渡は唐突に動きを止めた。取り残された快感が、行き場を失って身体の中で渦を巻いている。腰が勝手に揺れようとするのを、辛うじて理性で押さえ込んだ。

  「おっ、おい……どうして止める……っ」

  「今日は疲れてんだよ。誰かさんのせいでな」

  虎佐渡の声が、妙にのんびりと聞こえた。

  「悪いけどお前が[[rb:跨 > またが]]ってくれよ」

  俺の中から虎佐渡のものが引き抜かれていく。内壁が名残を惜しむように収縮し、空になった箇所に物足りなさが広がった。

  背後で軋む音がして、振り返ると、虎佐渡はベッドの上で仰向けになっていた。腕を頭の後ろに組み、挑発するような目でこちらを見上げている。その股座には、潤滑剤と俺の中の熱でてらてらと光っている雄の象徴が、天井を向いて屹立していた。

  「くそ、お前……」

  「俺は一回出してすっきりしたから、別にここで止めてもいいんだぞ?」

  止められるのか、この状態で。腹の下では俺のものが限界まで張り詰めて、先端から糸を引いている。後ろは虎佐渡の形を覚えたまま、もう一度あの充足を求めて疼いている。止められるわけがなかった。

  「ふざけるなっ……!」

  俺は虎佐渡を睨みつけながら、後ろ手に拘束された不自由な身体で、ぎこちなく虎佐渡の上に跨った。膝を立て、腰を浮かせて、位置を合わせる。余計な肉のついた身体は重く、若い頃のようには動かない。手が使えないから、感覚だけが頼りだった。虎佐渡の先端が俺のそこに触れ、角度を探り当てた瞬間、俺は自分の体重で腰を沈めた。

  すでに十分に押し拡げられていたそこは、虎佐渡のものを抵抗なく呑み込んでいく。むしろ求めるように、内壁がそれに吸い付いた。根元まで収まったとき、虎佐渡の股座の茂みに、俺の尻が触れた。

  「ああ……いい眺めだ」

  虎佐渡は腕枕をしたまま、満足そうに俺を見上げていた。その瞳に映っている光景を想像して、俺は羞恥で目が回りそうになった。くそ真面目な部長だと陰で言われている中年の熊が、同期の虎の上に跨って、後ろ手に手錠をかけられたまま、自分から腰を動かしている。

  それでも、動かずにはいられなかった。

  腰を持ち上げて沈めるたび、腹が波打つ。角度を変えるたびに内壁の違う箇所を擦られ、そのたびに腰の芯が痺れた。手が使えないから上半身のバランスが取りにくく、動きはぎこちない。それでも、自分の意志で虎佐渡を受け入れている。その事実が、被虐的な快楽とは別の何かを俺の胸に灯していた。

  虎佐渡の手が伸びてきて、上下に揺れている俺の胸に触れた。被毛の下に隠れている突起を、指先で弾くように刺激される。

  「ぐぉっ……」

  反射的に締め付けが強くなる。虎佐渡は舌打ちのような息を吐いて、今度は両手で俺の胸を揉みしだいた。被毛越しに突起を摘まみ上げ、転がし、引っ張る。その刺激が腰の動きと連動して、快楽の波が一段高くなった。

  俺のものは、これ以上ないほどに膨らんでいた。皮は完全に剥け切り、先端は赤黒く張りつめて、先走りの透明な糸を止めどなく垂らしている。虎佐渡の腹にぽたぽたと落ちるそれが、微かな灯りに照らされて光っていた。

  「あのくそ真面目な部長さんがこんな変態だったとはな」

  「お、お前っ、お前が誘ったんだろう……っ!」

  「ああ? でけえケツで咥え込んでおいて何言ってるんだよ」

  虎佐渡はそう言いながら、俺の先端に指を伸ばした。

  「がちがちに硬くしながら言われても、説得力がねえな」

  先走りをすくい取るように、張り詰めている頭の部分をゆっくりと撫でられる。触れるか触れないかの力加減だった。それが余計にもどかしく、身体は虎佐渡の指を追おうとする。

  虎佐渡はそれを見て、牙を見せつけるように笑った。どこか満足げな、下卑た笑みだった。

  「苦しそうだなあ熊蔵? 出したくてたまらねえって雄の顔だ……いや、雌熊か?」

  「誰、がっ……!」

  俺は精一杯の鋭さで睨みつける。だが、その目にどれだけの威厳が残っているのか、自分でもわかっていた。今の俺は、虎佐渡のものを根元まで咥え込み、胸を弄られ、先端を焦らされて悶えている。部長としても雄としても、目に凄みなど残っているはずがなかった。

  虎佐渡は、俺の先端を撫でるだけに留めていた。それ以上の刺激を与えようとしない。胸と先端への弱い刺激だけでは、あと一歩のところに届かない。堤防に亀裂が入っているのに、決壊には至らない。その寸止めの快楽が、じわじわと俺の全身を浸していく。

  せめてもと、俺は虎佐渡の腹に自身を擦り付けるように腰を動かした。虎佐渡の丸みを帯びた腹の肉に、張り詰めた先端が触れる。だがその柔らかさでは、摩擦が足りない。足りないのだ。どれだけ腰を動かしても、どれだけ角度を変えても、俺自身の手が封じられている限り、あの一線を越えることができない。

  虎佐渡はそれをわかっていた。わかった上で、俺がもがく姿を眺めている。

  一線を超えることのできない快楽が、意識の[[rb:淵 > ふち]]を侵食していく。頭の芯に靄がかかり、思考の輪郭が溶けていく。積み上げてきたものが、蒸気のように薄れていく。俺は今、虎佐渡の上で、ただ快楽を求めて腰を振っているだけの雄だった。

  「あ……う、ぁ……」

  甘い声が、もう抑えられなかった。口を噛み締めても、顔を背けても、喉の奥から溢れ出してくる。声を出すたびに後ろの締め付けが強くなり、虎佐渡のものが内壁に押し付けられて、さらに快感が増す。快楽が螺旋を描き、俺の意志が底へと堕ちていくように感じた。

  虎佐渡の手が、俺の先端から離れた。代わりに、肉のだぶついた腰に手を回して、短い尾の付け根を卑猥な手付きでさすり始めた。

  その瞬間、何かが決壊した。

  先端への僅かな刺激すら失われたことで、渇きが臨界を超えた。これまで辛うじて保っていた矜持の最後の一片が、虎佐渡の手のひらの温もりに溶かされて消えた。

  「お、俺のをっ、[[rb:扱 > しご]]いてくれ……触ってくれ、頼む……虎佐渡ぉ……」

  その声が自分のものとは思えなかった。[[rb:縋 > すが]]るような、喘ぐような、壊れかけた声だった。今まで生きてきて、一度も出したことのない声だ。上司にも部下にも同僚にも、誰にも聞かせたことがない。それが今、虎佐渡の名前を呼んでいる。

  「虎佐渡、頼むっ……もう、辛抱できん……っ」

  俺の声を耳にした虎佐渡の目に、獰猛な光が浮かんだ。だがそれは、さっきまでの嗜虐的な光とは少し違っていた。もっと深い場所から湧き上がってきたような、熱を帯びた光だった。

  虎佐渡は見せ付けるように舌なめずりをして、俺のでっぷりとした腹をゆっくりと撫でた。太い指が被毛の上を滑り、下腹部へと至り、張り詰めているものの根元を掠める。だが、掴まない。

  「虎佐渡っ──」

  もう一度懇願しかけた俺の前で、虎佐渡は枕の下から手錠の鍵を取り出した。小さな金属の音が耳の奥で響く。虎佐渡は身体を起こし、俺の背中に手を回した。かちり、という音とともに、手首を締め付けていた枷が外れた。

  痺れた手首に血が戻っていく感覚がある。自由になった両手を前に回し、指を開いたり閉じたりする。

  「ほら、外してやったから好きなだけ扱けよ」

  虎佐渡はまた仰向けに戻り、腕枕をして俺を見上げた。余裕たっぷりの声色だった。

  「あ……お、俺は」

  自由になった手を、俺は自分のものに伸ばすこともできたはずだった。性に目覚めてからこの歳になるまで、そうしてきたのだから。独りで処理するのには慣れている。それが一番手軽で、一番誰にも迷惑をかけない方法だと知っている。

  だが、俺の手は自分の身体に向かわなかった。

  代わりに、虎佐渡の太い手首を握りしめていた。

  「……お、俺は、お前に、されたい……っ」

  声が震えた。目の奥が熱い。これは何だ。こんなことを言うつもりはなかった。ただ扱いてほしかっただけのはずだ。それなのに、口から出てきた言葉は、もっと深い場所から搾り出されたもののようだった。

  「頼む、虎佐渡……っ」

  一度口にしてしまえば、もはや抗うことに意味はなかった。自分の喉がこれほど甘い音を出せるとは思っていなかった。俺は虎佐渡の手首を掴みながら、縋るように腰を前後に動かす。内壁が擦れるたびに甘い声が漏れ出て、波打つ腹の下で滾っているものが脈動するのがわかった。

  だが、虎佐渡は俺の顔を見据えたまま、何も[[rb:施 > ほどこ]]してはくれなかった。何故だ、そこまで俺を解放したくないのか。太い手首を握る自分の指が、微かに震えているのに気が付く。どうすればいいのだろうか。意識の片隅、まだ快楽に染まっていない僅かな部分で、必死に考える。態度、言葉遣い──手洗いでの虎佐渡の言葉が、俺の耳元で囁いた。

  「お願いします……俺のを、一思いに扱いてください……お願い、しますっ……!」

  「お、おい熊蔵……どうしたんだよ、急に素直になりやがって」

  虎佐渡の声から、余裕の色が薄れていた。驚いているのだ。からかうつもりで外してやった手錠が、予想外の結果を引き出してしまったことに。

  「……昼間は、言いすぎた。お、俺は──」

  湧き上がる感情を堰き止めるものはなく、俺は欲求のままに口を開く。だが、その言葉は最後まで言わせてもらえなかった。

  虎佐渡が上体を起こした。縞模様の太い腕が俺の背中に回り、引き寄せられる。でっぷりと膨らんだ腹を押し付け合いながら、俺の口元に、虎佐渡の口吻が重なった。

  口元は、思っていたよりも柔らかかった。短い被毛の下に、確かな体温があった。俺は抵抗しなかった。抵抗する理由がなかった。目を閉じて、その口付けを受け入れた。

  最初は触れ合わせるだけの、不器用な動きだった。中年男がぎこちない口付けのために顔を寄せ合っている。おかしな話だと思った。こんな場所で、こんな体勢で、口の中にはまだ先ほど受け止めた虎佐渡の精の残り香がある。それでも虎佐渡は構わず、厚ぼったい舌を俺の口の中に差し入れてきた。

  虎佐渡のざらついた舌が俺の舌に絡みついた。唾液が混ざり合い、口の端から垂れる。荒い鼻息が互いの頬にかかり、息継ぎのたびに虎佐渡の匂いが鼻腔の奥に染み込んでいく。汗と、雄の匂いと、それから──この男にしかない匂い。何年も隣の部署で嗅いでいたはずなのに、今初めて気付いたような、温かい匂いだった。

  舌が深く絡み合う。虎佐渡の牙が俺の口元を軽くなぞり、そのたびに背筋がぞくりと震えた。繋がったままの下半身から伝わる熱と、口の中で交わされる熱が、身体の中で一つになっていく。

  「虎佐渡っ、好きだ、好きだ……っ」

  口付けの合間に、俺はそう漏らしていた。

  これは本心なのだろうか。快楽に溺れた頭が吐き出した言葉に過ぎないのだろうか。わからない。だが、そうだとしても、この言葉がこの男に向かって出てきたことには理由があるはずだった。

  生来の強面で、周囲に誰も寄り付かないのには慣れていた。入社したての頃から、同期の飲み会に誘われることは少なかった。上司も部下も同僚も友達ではないのだから、業務上の必要があれば、どう思われても構わない。そう言い聞かせてどれほどの時間が経っただろうか。役職が上がるにつれて責務は大きくなり、厳しい判断を下す場面が増えていく。その度に周囲の目は遠くなり、俺の周りには見えない壁ができていった。

  虎佐渡だけが、その壁を気にしなかった。

  俺が怒鳴れば怒鳴り返し、俺が正論を振りかざせば舌打ちをして面倒くさそうに従い、それでいて次の日にはまた何食わぬ顔で俺のデスクに来ては「おい熊蔵、昨日の件だけどよ」と話しかけてくる。あの距離感。あの遠慮のなさ。苛立ちの種であると同時に、俺が唯一、肩書を外して接することのできる相手だった。

  俺はずっと、それを求めていたのかもしれない。

  「可愛いな、熊蔵……っ」

  虎佐渡の声が掠れていた。さっきまでの余裕はもうなかった。こんな親父を捕まえて可愛いなど、どうかしている。だが、不思議と悪い気はしなかった。

  俺の身体が押し倒された。背中がシーツに沈み、非常灯がぼんやりと視界の隅に入る。虎佐渡の巨躯が覆いかぶさってきて、その光が遮られた。脂の下の筋肉は見せかけではないのだなと、俺は意識の片隅で思った。

  虎佐渡の顔が目の前にあった。縞模様の被毛に覆われた厳つい顔。気性の荒い親父そのものの面構え。その目が、今は熱く潤んでいた。

  正面から、虎佐渡が腰を動かし始めた。さっきの背面とは角度が変わり、内壁の別の箇所を擦られる。その刺激に、俺の腰が浮くように反る。

  「ぐ、あ……っ、虎佐渡……っ」

  「熊蔵……っ、いい具合だぞ……」

  自由になった俺の手は、虎佐渡の手を探していた。シーツの上で指が触れ合って絡み合い、握りしめ合う。虎佐渡の手のひらは厚く、じっとりと汗ばんでいた。汗ばんでいるが瑞々しさは失われている、歳を重ねた男の指だった。その温度が、似たような俺の指の隙間に染み込んでいった。

  虎佐渡は空いている方の手を腹の間に差し込み、俺の張りつめているものを掴んだ。さっきまでのように焦らすことはせず、根元から先端まで勢いよく扱き上げる。潤滑剤と先走りで濡れたそこを、虎佐渡の体温が包み込む。湿り気に満ちた温もりの中で、俺のものは限界を訴えて脈打った。

  四肢の先が甘く痺れ、重たい袋が持ち上がってくるのを感じる。腰回りに鈍い熱が溜まっていき、次第に泥のような手触りに変わっていく。痛いほどに張り詰めた自身は、その時を待ち侘びている。

  俺たちは口付けを交わす。さっきよりも深く、さっきよりも切実に。舌と舌が絡み合い、歯がぶつかり、唾液が溢れた。息苦しいが、離れたくなかった。離してしまったら、今感じているこの熱が、どこかへ消えてしまうような気がした。

  「虎佐渡、虎佐渡っ……俺……う、ぁ……っ」

  重ねている口の端で、俺は虎佐渡の名前を何度も呼んだ。胸の内に溢れ出す感情が、自然と言葉を紡がせていた。虎佐渡はそれを聞いて俺に息を吹き込み、わかっているというように舌を吸ってきた。

  くぐもった二つの低い喘ぎが交じり合い、次第にその拍が重なっていく。虎佐渡の腰遣いは一層激しくなる。ベッドが軋み、その音が大部屋に響いた。内壁を擦られるたびに視界が白く明滅し、握りしめた虎佐渡の手に力が入る。手のひらに刺さる爪が、僅かな痛みとともに俺をこの場所に繋ぎ止めていた。

  「虎佐渡……っ、俺は、もう──っ」

  「ああ、熊蔵……俺も、だ……っ」

  虎佐渡の声が掠れて途切れた。薄闇の中で鋭い光を帯びている瞳に、後戻りのできない熱が浮かんでいる。会社で見せることのない必死な雄の表情。それを引き出せたことに、俺は不思議な達成感を覚えている。

  腰の動きがさらに激しくなり、内壁に押し付けられるものが一段と太く、硬くなっていくのがわかった。俺の中で虎佐渡が膨らんでいき、その圧迫感が最後の引き金になった。下腹部に湧き出して溜まっていたものが、器の縁から溢れ出した。

  「虎佐渡……ぐっ、あ……出……るっ──!」

  視界が白み、堰き止めていたものが溢れるように噴き出した。虎佐渡の手の中で俺のものが何度も脈打ち、白濁が勢いよく吐き出されて腹を汚していく。年齢とともに衰えていると思っていた俺のものは、久方ぶりに十分な役割を果たしていた。

  二度、三度と身体を震わせるたびに、俺は後ろを強く締め付けた。それが虎佐渡の引き金に指をかけたようだった。

  「く、熊蔵……出す、ぞっ……ぐ……ぉ──!」

  虎佐渡の眉間の影が濃くなり、喉奥から絞り出すような低い声を上げた。

  大きな身体が震え、握りしめた手に力がこもる。俺の中で虎佐渡のものが大きく脈動し、続いて熱いものが注がれる感覚が下腹部に広がっていった。脈動のたびにその量が増え、満たされていく感覚が身体の芯を震わせた。

  虎佐渡は残りを搾り出すように何度か腰を揺すり、やがて動きを止めた。荒い息が俺の額にかかる。汗で湿った被毛の匂いが、互いの間で混ざり合っている。

  白んだ意識が、ゆっくりと戻ってくる。天井の灯りが滲んで見えた。繋いだ手はまだ離れていなかった。虎佐渡の指が、俺の指の間で微かに動いた。

  意識が完全に戻る前に、虎佐渡が顔を寄せてきた。汗に湿った身体は親父臭かったが、それはお互い様だった。俺たちは口元をそっと触れ合わせる。さっきまでの激しさとは違う。体温を交換するための口付けだった。全身は行為に火照り、絡み合う舌はさらに熱い。ざらついたものが俺の内側をなぞっていき、俺はそれを捕まえるように口を動かす。

  虎佐渡はわかったと言うように息を吐き、差し込んだ舌の動きを止めた。俺は目を閉じて、その温もりを確かめる。握りしめた虎佐渡の手のひらが、じんわりと熱かった。その熱は、俺の手の中で確かに脈打っていた。

  7

  

  窓から差し込む陽射しは、もう夏の盛りのそれだった。

  午後の定例会議を終えた俺は、ネクタイの結び目を軽く緩めながら廊下を歩いていた。背中がじっとりと汗ばんでいるのがわかる。空調の設定温度を下げるべきだと考えるのは、今期になってもう三度目になる。

  自販機コーナーに足を踏み入れたとき、窓際のカウンターから短い声が聞こえた。

  「げっ」

  声の主はすぐにわかった。腕まくりをしたシャツに、だらしなく緩められたネクタイ。虎佐渡が紙コップを片手に、窓の外を眺めながら突っ立っていた。こちらを見た顔には、露骨に嫌そうな色が浮かんでいる。その表情は、数十年来ずっと変わらないものだった。

  「げっ、とはなんだ。他部署の部長相手に」

  俺は素知らぬ態度でそう言いながら、自販機の前に立った。パネルに並ぶ飲み物の写真を見上げる。微糖の缶コーヒーのボタンを押し、硬貨を入れる。機械の内部でがたんと音がして、取り出し口のランプが点灯した。

  腰を屈めて取り出し口に手を伸ばしたとき、尻に何かが触れた。

  指先の感触だった。尻尾の付け根から[[rb:臀部 > でんぶ]]にかけて、撫でるようにゆっくりと動いた。

  「っ──! おい!」

  勢いよく振り返ると、虎佐渡はもう紙コップに口をつけていた。太い腕を組み、窓枠に背中を預けている。その顔には何の表情も浮かんでいない。

  「なんだよ」

  「なんだよ、ではない」

  声が裏返りそうになるのを堪えた。背筋に走った熱が、まだ首の後ろに残っている。あの夜の記憶が、指先の感触ひとつで鮮やかに蘇ってくることに、俺は自分でも驚いていた。蒸気の中で嗅いだ匂い。耳元で聞いた声。手首に食い込んだ金属の冷たさ。それから、自分の口から溢れ出た、あの言葉。

  虎佐渡の視線が、俺の顔をじっと見ている。その目の奥に、ミストサウナの薄闇の中で見たのと同じ光が、ほんの一瞬だけ覗いた気がした。

  「……会社ではやめろ」

  声を落として言った。周囲に他の社員の気配がないことは確認していたが、それでも廊下の向こうから誰かが歩いてこないとも限らない。

  「へえ? 会社では、ね」

  虎佐渡は紙コップの縁を指で弾いた。その仕草に、あの夜、手錠の鍵を鼻先で揺らしていたときと同じ余裕が滲んでいて、俺は口の中が乾くのを感じた。

  缶コーヒーを握る手に力が入る。冷たいアルミの表面に結露が浮いていて、指の間を水滴が伝い落ちた。

  ここは会社だ。俺たちは部長だ。それぞれの部署の社員が、俺たちの一挙手一投足を見ている。そのことを、虎佐渡だってわかっているはずだった。

  だが、わかっていてやるのがこの男だ。規律だの作法だのは二の次で、状況が許すなら踏み込んでくる。仕事でもそうだったし、あの夜もそうだった。そして俺は、その無遠慮さに苛立ちながらも、結局はいつも根負けしてきた。

  虎佐渡は空になった紙コップを握り潰し、ごみ箱に放り込んだ。窓枠から背中を離して、俺の横を通り過ぎようとする。すれ違いざまに、石鹸とも汗ともつかない微かな匂いが鼻を掠めた。

  「……席に戻ったらスケジュールを確認するから、待て」

  自分の口からその言葉が出たとき、心臓が一度だけ大きく鳴った。

  虎佐渡の足が止まる。振り返った顔を見るのが怖くて、俺は自販機の方を向いたまま缶コーヒーのプルタブに指をかけた。しかし背後の気配から、口元が緩んでいることだけはわかった。

  「はいはい、わかったよ」

  虎佐渡はそう言うと、手をひらひらと振りながら自販機コーナーを出て行った。廊下を歩く重たい足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。

  巨体が一つなくなって広くなった自販機スペースで、俺は缶コーヒーの栓を開けた。空気の抜ける小さな音が、静まり返った空間にやけに大きく響いた。一口含むと、微糖の苦みが舌の上に広がる。

  窓の外では、街路樹の若葉が初夏の風に揺れていた。午後の陽射しを透かした葉の色は明るく、その向こうに薄い雲が棚引いている。汗ばんだシャツの襟元から、空調の風がすうっと入り込んできて、首筋の熱を少しだけ冷ました。

  この歳になって今さら、こんな気分になるとは思わなかった。部長という肩書きの下で、胸の奥がこんなふうにざわつくことがあるのだと、今さら知るとは思わなかった。

  虎佐渡が出て行った廊下の先を、俺はしばらく見ていた。もう姿は見えない。代わりに、総務部の若い社員がふたり連れ立って歩いてくるのが見えた。俺は缶コーヒーをもう一口飲み、ネクタイの結び目を元通りに締め直した。

  席に戻ったら、スケジュールを確認しなければならない。

  そう思いながら、俺は自販機コーナーをあとにした。靴底が廊下を叩く音が、規則正しく響いている。いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ速度だった。

  ただ、缶コーヒーを持つ手だけが、妙に温かかった。