「狼よ、おまえ弦一郎と祝言をあげよ」
「は?」
それはまさしく彼の人生における渾身の『は?』であったし、葦名の国を納めるその男もそれを確実に聞いていた筈であるのに、全く意に介さぬ顔で続けた。
「では決まりだな。次の良日にとり行うぞ」
「できませぬ」
「弦一郎にはわしから話しておく。なあに、おまえたちは自分たちで思っている以上にいい夫婦(めおと)になるだろう」
「できませぬ」
「なんせ、我が孫ながら弦一郎は引く手数多のくせして、あまりにも実直な上にかなりの奥手でな。今まで好いた惚れたなどの話を聞いたことがない」
「一心様」
「そんなときに、だ。おまえに相対するとき、弦一郎の様子が普段と違うということを小耳に挟んだのだ。これを逃す手はないと、そう思わんか隻狼」
「……」
あまりの話の通じなさに、狼はそれでも表情を変えない。しかし発せられるオーラはどんどんと濃いものになっていく。葦名一心はそれを知ってか知らずか、相変わらずカッカッカと高らかに笑って堂々としていた。狼が微動だにしなくなったので、自らの手でお猪口を傾け晩酌をしながら、それでも往年の鋭い眼光はそのままに、「わかったな」とだけ言うのだから困ったものである。
「なんの……謀があるのですか?」
「ない」
即答だった。狼は更に眉間の皺を深くする。
「純粋に、孫を思ってのことだ。勿論、わし直々の命がどんな意味を持つのか……知らんわけではないな、隻狼?」
のう、と杯を向けられれば、狼はそのままなにも言わずにいることしかできなかった。さしあたって晩酌を続けながら、この酔狂を誰が止められるだろうかと考えあぐねた。
御子様は駄目だ。平田は葦名の分家であり、本家の最高権力者の命に背ける筈がない。というより、此のような余計な話は聞かせぬ方がいいだろう。
エマ殿はどうだ、と考えたときに、一心の世話係である彼女に言うことで、別の迷惑を掛けてしまうのではないかという考えにたどり着いた。猩々はもっての他だ……あの家から出られるならば、とっくにそうしているだろう……ならば、いったい誰に。
そのとき、狼に妙案が浮かんだのは事実だった。弦一郎殿、その本人に事の次第を聞いてみるのが最も良いに違いない。案外全ては一心様のとんだ勘違いであり、実際は己に一切の執心など、抱いていないかもしれぬ。いや、そうに決まっている。あの御方から、たった一片でも慈悲深さやら、それ以上の想いなどを、感じたことは一度もないのだから。
晩酌後、遂に寝所でそのことに思い当たった狼は、次の日弦一郎殿を訪ねてみようと思い、安堵にも似た気持ちで目蓋を閉じることにした。
夢の中で、或る日の光景が煌々と浮かんだ。それまで当然、話す処か近寄ることすらなかった御方である弦一郎殿が、金剛寺に参っていた日のことだ。高貴な御方ゆえか、柿の食べ方も覚束なかったあの人に、気まぐれに柿を放って、皮のまま食べられることを教えた。食べて感じた美味をはっきりと訴える、彼の初めて見る表情も狼は鮮明に覚えている。
思い出をあまり残さない忍にとって、養父や御子と過ごした日々以外の、唯一色の付いた記憶だった。
そして、あれから確かに弦一郎殿は柔和になった、と狼は思い当たる。何気ないことも話し掛けられ、それだけでなく高い知識や生活の知恵、兵法やら武芸やら、狼を飽きさせない内容の話も取り揃えていた。弦一郎殿と話すのはいつも快かった。まさか、まさか?
翌朝、小さな懸念を残したまま狼は彼を探した。意中の人物を橋の中程に見つけた時には、屋根から鉤縄で弧を描くように降りた。
「弦一郎殿」
威風堂々たる甲冑姿に、狼は小走りで近寄った。相手はまさか呼び止められると思ってはいなかったらしく、三白眼を更に細めて見つめ返してきた。
「なんだ……?」
「一心様にうかがったことを、確かめに来たのです」
「おう。お祖父様が何を言ったのだ」
「あなたと夫婦(めおと)になるよう言われました」
「はっ……」
喉がつまったような、そんな危うげな声が聞こえた。
「弦一郎、殿……?」
見上げた瞬間、狼の目も丸く大きくなった。話すようになったとて、どこか遠くに感じていた男である筈なのに、その頬はあの日の柿のように熟れて、視線も何処か宙を舞って定まる気配がない。其処まで露骨な反応をされてしまえば、狼も大いに戸惑い、どうしていいかわからなくなる。そして、今まで意識したこともない感情がせり上がってきた。
「お」
「……?」
「お祖父様め……!」
「……っ!」
弦一郎みるみるうちに顔に怒りを広げたが、しかし頬は紅いままなので狼の気恥ずかしさは抜けていかなかった。
「必ず見つけて、訂正させる……!」
今までにない語気の強さに、狼も、「は、はい」と言うことしかできなかった。
「おまえも来い」
羽織を翻し、葦名の紋を背負った男は、言葉の勢いのまま狼の肩に触れた。狼はその手を見てから弦一郎の顔を見た。弦一郎はそうしようとは思っていなかったらしく、あ、っという顔をした。そしてなるべく自然に手を引っ込めたが、鈍い狼もそれがどういうことなのか、わかってしまった。今度こそ堪えきれず、狼は顔を隠した後、弦一郎と共に歩みを進めた。鉤縄を使えば速いのに、そうはしなかった。
「それにしても、祝言はちと早すぎたかのう、エマ」
「知りません」
流石に五本目は見逃せないと、エマは一心の手から問答無用で徳利を取り上げた。