囚われた野獣と盲目の王子

  (※全年齢版。こちらは全年齢向けに改稿したものとなります。R指定完全版&後日談は「アルファポリス」か「ムーンライトノベルズ」に置いてあります)

  ***

  王宮の地下――そこは、陽の光の一片さえ届かぬ、石と鉄でできた獄の底だった。

  鉄錆びた檻の奥から、鈍い唸り声が漏れている。  獣たちが蠢いていた。戦で使われることを前提に飼われた、“野獣”たち。喰らい、殺し、命ずれば何にでも牙を剥く生きた兵器。

  アゼリアンは、硬い石段を「コツ、コツ」と叩く細い杖を頼りに、手探りで階段を降りていた。

  視えぬ世界のかわりに、杖の微かな抵抗と、足裏に伝わる段差の感触がすべてだった。

  暗闇に慣れていても、この地下だけは湿気と瘴気のようなものが濃く、嫌でも空気の違いを感じ取らされた。

  「……ここが、餌やりの場所?」

  肩に下げた袋には、カビが生え、嫌な臭いのするパンと腐った肉。これが“餌”なのだと兄に言われたとき、彼は黙ってうなずくしかなかった。

  ――せめて、落とさずに運ばなければ。

  視えぬ目の代わりに頼るのは、足裏の感覚と壁伝いの手、そして手に握られた細い杖の反響。

  硬い床を「コツ、コツ」と小さく叩くその音が、進むべき道を教えてくれる。

  慎重に進んでいたはずだった。だが、不意に段差を踏み外し、肩にかけていた袋がずり落ちた。

  「……!」

  布袋が石畳に落ち、中身が転がる。アゼリアンはしゃがみ込んで、手探りで一つひとつ拾い集めた。  土の匂いにまみれたパンを、申し訳なさそうに握りしめる。

  「――……何やってんだ、人間」

  声がした。低く、冷たく、興味も憐れみもない声。

  アゼリアンは驚きに目を見張り、反応がわずかに遅れた。

  視えない代わりに、彼の聴覚は研ぎ澄まされている。

  だからこそ――声のする位置は、正確に把握できるのだ。

  「……あ、えと……ごめんなさい、ごはんが……」

  うつむいたまま手を伸ばす。見えない指先が、ゆっくりと、鉄格子の位置を探っていた。

  「その目。……見えてないのか」

  無機質だった声に、わずかな濁りが差す。

  アゼは戸惑いながら、うなずいた。

  「生まれつき、見えないんです」

  返事のあと、しばし沈黙が流れた。

  それは人間にとっては気まずい間で、獣にとってはただの無意味な“空白”だったかもしれない。

  「お前、なにしに来た」

  「……兄さんに、“お前でもこれくらいは出来るだろう”と、あなたたちのお世話を命じられました」

  「ふん、新しい餌やり係か」

  吐き捨てるような声。

  だが、その直後――野獣は一歩、檻の中で体を起こした。鉄がきしむ音。アゼの鼻先に、動物の匂いが強くなる。

  「……置いてけ。触れるな」

  「……はい」

  アゼは袋からパンと肉の欠片を取り出し、檻の隙間からそっと差し入れた。獣の気配は、触れる寸前でぴたりと止まる。

  息づかいだけが、目の前にある。

  「あなたの名前は?」

  「名乗るほどのもんじゃねえ」

  即座に返された言葉は、まるで壁のようだった。

  けれどアゼは微笑む。かすかに、優しく。

  「僕はアゼリアン。アゼで、いいよ」

  沈黙。

  そして、目が見えぬ少年の指先が、すこし傷つき、埃まみれになっているのを、野獣はちらりと見やった。

  ――見えないくせに、こんな場所で、なにやってんだ。

  そう呟きかけて、口を閉ざす。

  アゼは白い杖を手に、手探りで進んでいた。

  床をそっと撫でるように、つん、と前を突きながら、不器用ながらも他の檻の連中に「どうぞ」と声をかけ、丁寧に食事を配っていく。

  時折、段差に躓き転びそうになりながらも、ひとつひとつ確かめるように、歩を進めた。

  かつてここに来た餌係たちは、乱暴に食事を投げ入れる者、与えるふりをして結局何も渡さなかった者、わざと地面に落とし、踏みにじってから檻へ蹴り入れる者。

  そんな奴らしかいなかった。

  だが、この少年は違う。

  まだ興味はない。けれど、“異物”としての人間ではなかった。

  あの手だけは、少しだけ違う気がした。

  泥にまみれても、傷ついても、どこまでもまっすぐで。

  役目を終え、よたよたと歩き出すアゼの背中に、野獣はふいに「おい」と口を開いた。

  「……ガルヴァンだ」

  それは、長いあいだ誰にも呼ばれなかった自分の名。

  まるで岩に刻まれた記憶のように重たく、けれどどこか――あたたかさを孕んでいた。

  アゼの足が止まる。振り返る気配。けれどその目は、どこも見ていない。

  「ガルヴァン……? うん、覚えた。……また来るね。ガル」

  それは、はじめて名前で呼ばれた瞬間だった。

  ***

  また来た。

  コツ、コツと階段を降りる細い音が、重苦しい地下牢の空気を裂いて響く。かび臭い石壁に、ほんの微かな人の匂いが混じるたび、ガルヴァンは無意識に鼻先を動かしていた。

  アゼリアンは、今日も白い杖を手に、ひとりでやってきた。

  その手には、掃除道具と、替えの藁。肩からは古びた布袋。

  檻の奥、壁際には木の樽が置かれていた。本来なら水が入っているはずのそれは、排泄物を受けるためのものとして使われている。

  清掃など滅多にされず、溢れた汚物は床に広がり、悪臭が立ちこめていた。

  手にも負えないような腐った残飯の残り、乾いた糞、泥に混じった藁くず。

  アゼリアンは、白杖の先で床をなぞりながら、左手に握った箒を持ち直した。

  床に散った藁や食べカス、乾いた泥を、粗く編まれた箒で集めていく。

  傍らには、板を削って作られた簡素な塵受け。彼は器用にそれを足先で支えながら使うようになっていた。

  「……ごめんね、すぐ替えるから……今日は、ひどい匂いだね……」

  そう呟く声は、不思議と柔らかかった。

  何度も階段を上り下りして、替えの藁を抱えて戻ってくる。息を切らせ、額に汗を滲ませながら、それでも動きは止まらない。

  「今日は風があるから、少しは楽かな……」

  そう言いながら、藁を敷き直すその手は、まるで誰かの寝床を整えるように優しかった。

  ガルヴァンはただ、じっとそれを見ていた。

  この場所に、こんな手があるなんて思わなかった。

  人間は、嫌悪の目で睨みつけ、鉄格子越しに嘲笑い、汚物すら投げ込む存在だった。

  だがこの人間は、目も見えず、細い体で、命じられただけの仕事以上のことを黙って続けている。

  「……アゼリアン」

  名を呼ぶつもりではなかった。けれど喉の奥から漏れたその響きに、アゼは顔を上げた。

  「ガル……? 大丈夫……藁、もう少しだけだから……」

  白杖を握る手が、薄く赤く染まっていた。縄の擦れか、何度もぶつけたのだろう。

  人間など、どうでもよかったはずだった。

  なのに。

  どうして、こんなにも目が離せない。

  「……アゼ」

  また、名前が漏れた。自分でも意図せずに。

  アゼはぴたりと手を止め、こちらへと顔を向けた。

  「……ガル? あ、ごめん……踏んじゃってた?」

  違う。

  だが言葉にはしなかった。

  代わりに、ただその姿を見ていた。

  視えぬ目で、すべてを見ようとするように、檻の奥まで必死に手を伸ばすその姿を。

  あの手は、やはり――少しだけ、違う。

  ***

  床に膝をつき、箒でこつこつと汚れを掃き寄せていたアゼリアンは、不意に手元の白杖が無くなっていることに気づいた。焦って手を伸ばした先に、乾いた笑い声が降ってくる。

  「お探しかい、お坊ちゃん?」

  その声の主は、隣の檻にいる[[rb:猫獣 > びょうじゅう]]、ライグだった。細身の体躯にしなやかな尻尾、吊り目がにやりと歪んでいる。ライグはアゼの杖を指の先で弄びながら、檻の隙間からひょいと手を伸ばす。

  「細い腕だな。ちょっと握ったら折れるんじゃないか?」

  冷ややかな悪意と戯れが混じった声。次の瞬間、アゼの手首が乱暴に掴まれた。びくんと肩が震え、喉奥から掠れた声が漏れる。

  「……っ、やめてっ!」

  ――バチン!

  首輪に埋め込まれた法具が反応した。淡い光を帯びた紋が一瞬煌めき、野獣の首元から電撃が走る。  肉が焼けるような音と共に、猫の野獣が悲鳴を上げてのたうった。

  「ぐ、あああっ……くそっ、なんだよ……ちっと可愛がってやろうとしただけじゃねぇか……!」

  アゼは思わず後ずさった。床に転がった白杖に手を伸ばすが、震えてうまく掴めない。

  「自業自得だ。人間に手を出したら、こうなると分かっていただろ」

  静かに、だが低く抑えた怒りの声が響いた。ガルヴァンだった。金属のように冷たい声音で睨みを利かせ、じりじりとライグへと視線を送る。

  アゼは、その声に縋るように顔を向けた。何も見えない目は揺れ、唇が震える。

  「……あの、ごめんなさい……僕のせいで……」

  その言葉に、ライグがかすれた声で嗤った。

  「あ……? ハハッ……俺たちに謝る人間なんて、初めて見たぜ」

  ガルヴァンの眉が、ほんの少しだけ動いた。

  ――こいつは、他の奴らとは違う。

  一通りの掃除を終え、パンと水を配っていたアゼの前に、影が落ちた。

  足音。床に沈むような重さ。肩幅の広い、無骨な気配。

  「……粗末だけど、焼きたてだよ」

  怯まず、アゼは焼きたてのパンと水袋を差し出す。

  大きな手が、それらをそっと受け取った。意外にも、その仕草はとても丁寧だった。

  「……ありがてぇ」

  くぐもった低い声。それだけだったが――アゼは、そこに微かなぬくもりを感じた。

  しばしの沈黙ののち、[[rb:猪獣 > ちょじゅう]]のバムがぽつりと呟く。

  「……ライグが、ちょっかいかけてごめんな。あいつ、ホントは悪いやつじゃねぇんだ」

  アゼは少し驚いたように顔を上げた。

  「たぶんアゼのこと、好きなんだと思う。……あいつ、好きな子に意地悪するタイプだから」

  向かいの牢から抗議の声が飛んだ。

  「おいバム! 余計なこと言ってんじゃねぇ!」

  バムはパンをかじりながら、ぽつりと返す。

  「ほらね」

  アゼが小さく笑った。

  その笑みを、ガルは黙って見ていた。

  この牢に来る前――獣たちは、ただ飢え、怒り、諦め、牙を磨いていた。

  笑い声など一つもなかった。希望など、とうに失われていた。

  だが、あの少年が現れてから――

  掃除をして、焼きたてのパンを配り、水を汲んできて、毒もないのに味見までして。

  名前を呼んで、言葉をかけて、ひとりひとりに怖れずに接する。

  ただそれだけのことが、ここにいた全員の何かを少しずつ変えていった。

  ライグでさえ、もう前のような殺気を纏っていない。

  そして、今。アゼが笑った。

  ほんの小さな笑みが、薄暗い牢の空気を、ほんのわずかに、けれど確かに照らしていた。

  ――守らなければならない。

  このささやかなぬくもりが、また踏みにじられぬように。

  いつの間にか、そう思っていた自分に気づき、ガルはそっと目を伏せた。

  ***

  アゼの父――この国の王が治める王都は、今やかつての栄華の面影を失いつつあった。

  隣国との冷戦状態は長引き、度重なる小競り合いのせいで、国の資源は枯渇。焦土のような荒野を広げるばかりで、国民の生活も逼迫していた。

  それでも国を守らねばならぬ王家の者たちは、弱みを見せるわけにはいかなかった。

  「……アゼ」

  廊下の途中で、鋭く名を呼ばれた。

  それだけで、アゼリアンは足を止め、肩をぴくりと震わせる。

  第二王子――セリオス。彼の異母兄が、苛立ちを隠しもしない声で言い放つ。

  「あとで、俺の部屋に来い」

  返事は、できなかった。

  聞こえなかったふりをするには遅すぎる距離だったし、かといって従順に頷くのは悔しすぎた。

  けれど、この命令の意味は知っている。

  アゼは、父の側室の子だ。

  正式な后の子ではない自分は、王宮のなかではいつだって「余計な存在」だった。

  母は、自分を産んだ直後に忽然と姿を消した。

  王である父には見向きもされず、王妃には疎まれ、そして――腹違いの兄に慰み者として扱われている。

  「……兄さんっ……お願いだから、もうやめて……」

  「……黙れ。お前なんて、こんなことしか能がないだろう」

  人目のつかぬ王宮の片隅で、声も上げられぬまま、ただ黙って耐える夜が幾度あっただろう。

  何も持たない自分にとって、拒むことは贅沢だった。

  「王子」と呼ばれることすら、もうなかった。

  居場所も与えられず、使用人としてこき使われる日々――それが、アゼの「王族」としての現実だった。

  ***

  今日もまた、コツ、コツと、あの優しい音が降りてくる。

  遠くから階段を降りてくる、あの細い杖の音。

  耳に届くたび、無意識に尻尾が揺れそうになるのを、いつもどおり平静を装って抑え込んだ。

  だが、見慣れたはずのその姿に、今日だけは違和があった。

  俯きがちに項垂れ、長い前髪が顔を隠している。どこか、息をひそめるような歩き方だった。

  「……アゼ?」

  牢の奥からではよく見えない。

  だが、扉の外から差し込んだ松明の明かりが、彼の顔を照らした時——

  切れた唇。血がにじむ口角。腫れ上がった頬。

  「……どうした、その顔は」

  低く問いかける声が、自分でも抑えたつもりだったのに、怒気を帯びていた。

  その声に、ほかの獣たちも牢の中から心配そうに顔をのぞかせていた。

  アゼは笑った。痛々しく、力なく。

  「今日も……みんなに、焼きたてのパンを持ってきたよ。食べて……」

  手探りで袋を探る。その指先が震えているのに、気づかないふりをするには限界があった。

  差し出された腕。袖がずり落ち、痣がひとつ、またひとつ。

  ガルは咄嗟に、その細い手首を掴んだ。

  「アゼ……誰にやられた」

  「大丈夫。ぶつけただけ、だから」

  また、笑う。今にも泣きそうな顔で。

  「はい、ガルの分。食べて」

  その手には、焼きたてのパンが握られていた。ほんのり、温かい香りがした。

  アゼがパンを渡そうとする腕を、ガルはそっと引き寄せる。

  袖をまくると、そこには皮膚の薄い手首に、指の形が残るほどの痣。

  「……人間の傷は、放っておくと膿む」

  低く唸るような声で言って、ガルはそのまま手首に顔を寄せた。

  「……え?」

  戸惑うアゼの問いかけの前に、ぺたりと温かな感触が走る。

  傷の上を、獣の舌がひと舐めした。

  「ガル……?」

  「黙ってろ。……癒やせる気がする」

  それが確かかどうか、本人にも分かっていなかった。人間に、その効力があるかどうか試したことがなかったからだ。

  ただ、本能がそうさせていた。

  この柔らかい肌に、こんな痣を残していいはずがない。誰のものでもないはずなのに、誰かが痛めつけたことが許せなかった。

  もう一度、傷に舌を這わせながら、ガルは低く、唸るように呟く。

  「チッ……こんな檻越しじゃ、届かないな」

  ガルは低く呟き、鉄格子の中で音を立てる鎖を引いた。

  首輪につながれた枷が、彼の動ける範囲を制限している。

  「来い。……酷いことはしない。誓う」

  その声は、いつもより少し低く、けれどどこまでも穏やかだった。

  本能で相手の気を察するアゼには、ガルの言葉が嘘ではないと分かった。

  「……うん」

  ほんのわずかな逡巡のあと、アゼは鍵を外し、そっと中へ足を踏み入れる。

  「そこに座れ。……顔、見せろ」

  そっとしゃがみ込んだアゼの腫れた頬に、ガルが顔を寄せてくる。

  ぺたり、とあたたかい舌が肌を撫でた。

  「っ……」

  くすぐったさと、少しの安堵。

  「これで少しは、マシになるといいが」

  アゼはそっと指先で腫れていた頬に触れる。

  痛みを思い出して身構えたけれど――何も、感じない。

  「……あれ……?」

  指でなぞった肌は、あんなに腫れていたのに、今はほとんど平らだった。

  切れていた唇も、ぬるりと濡れていた舌の感触だけを残して、もう痛まない。

  「ガル……これ……治ってる……?」

  「ああ、俺には癒しの力がある。……人間に試したのは初めてだけどな」

  ガルは、爪を立てぬよう注意しながら、そっとその頬に触れた。

  その手を、アゼが両手で包み込むように重ねる。

  「……ありがとう……ガル」

  「いや……。お前の目までは、治してやれないが……」

  「ううん、十分だよ」

  舌が傷口を優しくなぞり終えると、ガルはただ黙って、目の見えぬアゼを見つめ続けていた。

  その熱い眼差しに気づかぬまま、アゼはほっとしたように微笑んだ。

  ――本当は、アゼの目を癒せるかどうかなど、俺にも分からない。

  だが、もしそれが叶ってしまったら……

  光を取り戻したお前が、俺の顔を見て怯え、もうここへ来なくなるかもしれない。

  そう思うと、願うことさえ怖かった。

  ガルの爪が、ごくわずかに震えた。

  「……どうしたの?」

  アゼがふと、小さな声で問いかける。

  その手が、ガルの指先に添えられ、温もりが静かに伝わる。

  「……なんでもない」

  ガルは首を横に振り、それ以上は何も言わなかった。

  ただ、そのぬくもりが逃げないように、そっと自分の手を重ね返した。

  ***

  石畳を叩く規則的な足音が、遠くから近づいてくる。

  その響きだけで、アゼには誰なのか分かった。

  息を潜めるように壁際に身を寄せ、長い前髪で顔を隠して俯く。

  気づかれませんように、通り過ぎてくれますように——。

  祈るような願いは、無情に打ち砕かれた。

  不意に腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。

  身体が揺れた拍子に、顔を隠していた髪がふわりと流れ、傷一つない頬が露わになった。

  「隠すな。見せろ」

  低く冷たい声とともに、覗き込まれるように顔を引き上げられる。

  視えぬアゼは、ただ怯えたように眉を寄せ、小さく震えながら唇を噛んだ。

  兄、セリオスの目が細くなり、アゼの頬を無遠慮に掴んで更に顔を上げさせる。

  「貴重なポーションを、誰の許可で使った?」

  「っ……使ってない、僕は……」

  真実を告げかけたその口が、かすかに震えた。

  ——ガルのことを話してはいけない。

  あの力を人に試したのは初めてだと言った。

  話してしまえば、彼はまた“使える道具”として目をつけられる。檻の中に、あんな穏やかな笑顔を向けてくれる場所など、もうなくなる。

  アゼはぎゅっと拳を握り、視えぬ目を伏せて言った。

  「……勝手にポーションを使って、ごめんなさい」

  嘘だった。けれど、守りたいもののためにつく、精一杯の嘘だった。

  セリオスはしばらく黙っていたが、やがて氷のような声音で告げた。

  「……仕置きが必要なようだな」

  その眼差しに、もはや情の欠片はなかった。

  ***

  体のあちこちが痛む。

  ぐったりとベッドに身を沈めながら、アゼは虚ろな目で、あの温かな手の感触を思い返していた。

  優しく触れてくれた、あの大きな掌。怖くなかった。心地よかった。ただ、そばにいるだけで癒されていくような……。

  ――会いたい。今すぐにでも。けれど、行けない。

  こんな姿を見せてしまったら、きっとガルはまた心を痛めてしまう。

  彼を、これ以上、傷つけたくない――その想いだけが、アゼの細い体を縛っていた。

  その日、アゼは一歩も部屋から出られなかった。

  薄暗い寝室の中、誰にも届かない小さな声が、喉の奥からこぼれた。

  「……ガル……」

  今夜は、あの軽やかな杖の音は聞こえなかった。

  ガルはいつもの場所に座ったまま、檻の向こうをじっと見つめていた。

  夕方に灯された松明の火はすでに消え、今は闇だけが地下を満たしている。

  アゼの足音が、気配が、何も届かない夜は初めてだった。

  「……来ない、のか」

  そっと呟いた声が、誰にも聞かれずに石壁に吸い込まれていく。

  気づけば、長い尾が寂しげに床をなぞっていた。

  アゼの姿がないだけで、こんなにもこの場所が冷たく感じられるとは思っていなかった。

  あの小さな笑顔。ふんわりと香るパンの匂い。細くても真っ直ぐに差し出された手。

  そのすべてが、心を満たしていたのだと――今になって、強く痛感する。

  「ふあぁ……なんだよ、あのチビ坊や、今日はお休みか?」

  ライグだった。

  鉄格子に片肘をついて、尻尾を揺らしながらガルの方をちらりと覗き込んでくる。

  「……退屈だなぁ。最近の楽しみって言ったら、あいつのうっかり転び芸くらいだったのに。なー、あんたもそう思うだろ?」

  無言のまま、ガルは目を閉じた。

  「……ふん」

  短く鼻を鳴らすと、ライグはまた檻の奥に引っ込み、毛繕いを始める。

  「ま、来ない理由なんて、だいたい碌でもねぇもんだ。あの細っこい腕、折られてなきゃいいけどなぁ……」

  それを聞いて、ガルの耳がぴくりと動いた。

  ――胸の奥を、何か冷たいものが這いずる。

  嫌な予感が、静かに忍び寄っていた。

  ***

  不定期で設けられる屋外訓練の場。

  日差しが焼けつくように照りつけるなか、ガルはいつものように鎖の届く範囲で身体を動かしていた。

  だが今日に限って、視線の端に違和感が刺さる。

  ──監視。

  見なくてもわかる。

  静かに、けれど確実にこちらを値踏みする視線。

  その先に立っていたのは、訓練に付き添っているとは思えない格式ばった装いの男。

  あの男、戦場で見たことがある。

  指一本汚さずに命を操る。血の匂いを纏わぬくせに、戦場の空気よりも冷たい男。

  ──セリオス。この国の第二王子。

  己の野望のためなら、誰の命も惜しまぬ、冷徹な支配者。

  「……チッ」

  思わず舌打ちが漏れる。

  その時だった。

  ふらりと遅れて姿を現した細い影。

  アゼ──。

  見るな、と頭が叫ぶ前に、ガルの視線は彼を捉えていた。

  その歩みは遅く、不自然にぎこちない。

  表情は見えないが、明らかに何かがおかしい。

  動きを追っていた鎖の先、彼の腕が風に煽られて 揺れた瞬間──袖の隙間から、紫色に変色した肌がちらりと覗いた。

  「……ッ!」

  呼吸が荒くなる。

  内側から湧き上がる怒りが、体内で爆ぜた。

  拳を強く握りしめ、爪が掌を食い破らんとする。

  喉の奥で唸るような低音が漏れた。

  (また、あの男か──)

  すべてを察した。

  アゼが、どれだけの痛みを抱えてここに立っているのか。

  何も言わず、ただ従うしかないその姿に──

  「……セリオス」

  その名を呟いた瞬間、野獣の目が怒りに染まった。

  鎖がなければ、今すぐ飛びかかっていた。

  あの薄ら笑いの喉元に、迷わず牙を立てていた。

  ガルの呼吸が荒くなるのを、横目で見ていたのはライグだった。

  獣のごとき気迫が肌を刺す。拳は血が滲むほど強く握られている。

  「……ちったぁ落ち着け」

  ライグが低く囁いた。

  ガルは振り向かない。けれど、その肩がほんの僅かに揺れる。

  「今ここで騒ぎを起こしても、チビ坊やが悲しむだけだぜ」

  淡々と、けれど真剣な声音だった。

  それでもガルは答えなかった。

  だがその瞳に宿っていた狂気の色が、ほんの少しだけ、揺らいだ。

  アゼはまだ、ゆっくりとこちらに歩み寄っている。

  何も知らず、ただ日常の一部として。

  ──だからこそ、騒ぎ立ててはいけない。

  その小さな平穏を、今はまだ守らなければならない。

  ガルは苦しげに息を吐き、拳をほどいた。

  だがその目には、燃えるような怒りが静かに灯り続けていた。

  ***

  夜。静寂を割るように、どこか心地よい杖の音が地下牢の石畳に響いた。

  その音を耳にした瞬間、ガルの耳がぴくりと動く。

  「今日は、傷んでないお肉と綺麗な水を持ってきたよ」

  囁くような声とともに現れたのは、いつもの少年──アゼだった。

  昼間、セリオスの傍らで所在なげに伏し目がちだった彼の顔は、今はまるで別人のように穏やかで、  優しい微笑みをガルに向けていた。

  その笑顔が、ガルの胸を余計に締め付ける。

  無理をしているのが、わかってしまうから。

  「……アゼ」

  名を呼びながら、ガルは格子の隙間から手を伸ばし、アゼの細い体を引き寄せた。

  鉄の柵越しに、抱きしめる。

  途端に、アゼの体が小さく震え──そして、ごくわずかに、顔を歪めた。

  「……痛むのか?」

  ガルが囁くように問うと、アゼは慌てて首を振った。

  「違う、そうじゃない。大丈夫……だよ」

  けれどその言葉とは裏腹に、薄く開かれた襟元から覗いた鎖骨や腕には、淡い紫の鬱血がにじんでいた。

  指でそっとなぞれば、すぐにでも壊れてしまいそうな、脆い痕跡。

  ――どれほど、我慢してきたのか。

  胸の奥で、じくじくと熱を帯びた怒りが膨れあがる。

  だが、今ここでぶつけるべきは怒りではなく、癒しだ。

  ガルはアゼをそっと引き寄せ、額を触れ合わせるようにして目を閉じた。

  「……アゼ。お願いだ。俺の傍に来てくれ」

  その声音に、欲などひとつもなかった。

  アゼはゆっくりと檻の扉を開け、中へと足を踏み入れる。

  わずかに震える指先。けれどその顔には、怖れよりも、どこか安心したような色があった。

  ガルがそっと、その細い体を自分の胸に抱き寄せる。

  片腕を背にまわし、もう片方の手でアゼの肩口にある鬱血をそっとなぞった。

  「……冷たいか?」

  「ううん……その、……くすぐったい、かも」

  アゼの声が微かに震えた。

  それが痛みのせいではないと、ガルにはすぐに分かった。

  「……治してやりたい。俺の力で」

  低く、熱を孕んだ声でそう言いながら、ガルはアゼの鎖骨に唇を落とした。

  舌先の代わりに、あたたかな吐息がそっと肌に触れた。

  まるで壊れものを扱うような、慎重で静かな気配。

  「……あっ」

  小さな声が思わずこぼれ、アゼ自身も驚いたように息を呑む。

  けれどその気配は止まらず、そっと顔を寄せ、傷に優しく口づける。

  心を撫でるような、その仕草に、アゼの身体がわずかに震えた。

  「すまない……痛くないか?」

  「……ううん。痛くない。でも、なんか……変な感じで……」

  吐息が鎖骨の辺りをかすめ、さらに腕の内側へ。

  そのたびに、ふわりと身体が熱を帯びていく。

  アゼは無意識に、細い指でガルの服の端をつかんでいた。

  「……どうして、こんなにやさしいの?」

  ぽつりとこぼれた声に、ガルはそっと顔を上げた。

  まっすぐアゼを見つめる。たとえその瞳が何も映さずとも、心は通じると信じて。

  「お前を、大事にしたいんだ。

  ……誰にも、もう傷つけさせたくない」

  その言葉が胸に触れ、アゼの喉が小さく鳴る。

  まだ知らない感情に、心が戸惑っているのが自分でもわかる。

  「……変な声、出ちゃったら……ごめん」

  「いい。お前の声なら、全部、覚えていたい」

  そっと、また温もりが触れる。

  それは唇か、ただの吐息か。けれど確かに、アゼの心を撫でてくる。

  「……ガル……」

  静かな地下牢。

  重なる鼓動の音だけが、やさしく壁に反響していた。

  そっとシャツの裾に手をかけると、アゼの体がわずかに強張った。

  布越しに指先が滑り込む。静かにめくり上げたその下――。

  ガルの眉が僅かに寄る。

  本来なら白く滑らかなはずの肌には、無数の痣や傷が刻まれていた。まだ赤く腫れた新しい傷もあれば、褪せた紫に変色した古傷もあった。何度も何度も、癒えぬままに重ねられた苦痛の痕。

  「……俺は、お前の兄を殺すかもしれない」

  震えるような吐息混じりの言葉に、アゼは目を伏せた。

  「ガル……」

  「少し、我慢してくれ」

  祈るように、赦しを乞うように。

  ガルは温かな息を吹きかけるようにして、傷跡のひとつひとつにそっと顔を寄せた。

  まるでそれが消えてしまうことを願うような、丁寧で静かな動きだった。

  じんわりと沁みる温もりに、アゼの肩がふるりと震える。

  「……ん……っ……」

  押し殺そうとした声が、思わず漏れ出す。

  そのわずかな音が、ガルの胸の奥を強く打った。

  アゼの手が、彼の柔らかな体毛にそっと触れる。

  その指先の震えにこめられていたのは、拒絶ではない。

  怖さを抱えながらも、信じようとする、小さな勇気だった。

  ――愛おしい。

  その感情に名を与えるのは、これが初めてだった。

  獣の身でありながら、誰かをこんなにも大切に想うことがあるなんて。

  今だけは、この小さな命を守るために、すべてを捧げてもいいと思えた。

  「おいおい、ガルヴァン。お楽しみは一人占めか?」

  突如、気怠げな声が響いた。

  鉄の格子の隣側、暗がりの中に立っていたのは、同じく囚われの身である男――ライグだった。

  乱れた金の髪に、どこか人懐こさと毒気を混ぜた笑みを浮かべている。

  「ねぇ、おチビちゃん。ガルヴァンなんかより、もぉっと優しくしてやるよ。こっちへおいで?」

  その声に、アゼの肩がびくりと揺れる。

  とたんに、ガルの喉奥から低い唸りが漏れた。

  「……ダメだ。俺のだ」

  牙を剥き出しにして、野生そのものの眼差しで睨み据える。

  それは明確な拒絶であり、支配の宣言だった。

  「おー、こわ……」

  ライグはわざとらしく肩をすくめ、鼻で笑うと、興味を失ったように踵を返した。

  その背に向かって、バムがニヤリと声をかける。

  「ライグ、振られたな……」

  「うっせ!! ……まっ、せいぜい壊さないようにしろよ? 俺らみたいなもんは、壊れたら取り替えがきかねぇんだからさ」

  意味深な言葉を残し、彼の足音は奥の牢へと遠ざかっていった。

  腕の中のアゼに視線を戻すと、彼は小さく震えていた。

  ぎゅっと瞑られた瞳、唇を噛み締めて、何かを必死に堪えている。

  上気した肌に、熱の混じった吐息がこぼれていた。

  その理由に、ガルはすぐに気づいた。

  「……アゼ」

  名を呼ぶと、アゼはかすかに顔を伏せたまま、震える声で答えた。

  「ごめんなさい……僕……。こんなふうに、優しく触れられたこと……なかったから……」

  その言葉は、まるで棘のように、ガルの胸に突き刺さった。

  最初は、ただ傷を癒したいという一心だった。けれど、今はもう、それだけではない。

  この華奢な体を、過去の痛みから解き放ちたい。

  どんな恐怖も、悲しみも、もう味わわせたくない――。

  こみ上げる想いを抑えて、ガルはそっとアゼの金色の髪を撫でた。

  「……大丈夫だ。楽にしてやる」

  そう言って、ガルはアゼの衣服を少し緩め、傷のある場所へと顔を寄せた。

  近づくと、そこから微かに花のような香りが漂い、ガルの胸が締め付けられる。

  危ういほどに、愛おしい。

  それでも理性を保ち、そっと傷に口づけを落とすように、慎重に舌を這わせた。

  ひやりとした呼気に混ざる温もりが、アゼの体にじんわりと広がっていく。

  「ん……っ」

  その声に、ガルの背に小さな手がそっとしがみつく。

  震える肩から、アゼの戸惑いと、それでも心を預けようとする決意が伝わってくる。

  ガルはただ静かに、痛みを追い払うように、繰り返し優しく癒し続けた。

  それはまるで、過去の傷痕に「もう大丈夫だ」と伝える祈りのようだった。

  やがて、アゼの体から力が抜け、ゆっくりと深い息を吐く。

  「……ありがとう、ガル……」

  かすかな声が、安堵とともに闇に溶けていく。

  その夜、静かな地下牢に響いていたのは、ふたりの鼓動の音だけだった。

  何も言わず、ただ強く、強く抱きしめる。

  その腕の中は、まるで春の陽だまりのように、やさしく、温かかった。

  二人はしばらく、互いのぬくもりを確かめるように抱き合いながら、そっとまぶたを閉じて眠りについた。

  ***

  突如として隣国からの使者が現れたのは、ひどく静かな朝だった。

  城門の前、陽の差さぬ陰に佇んだ男は、無表情のまま布に包んだ文書を差し出す。

  「これは、我が国王より貴国陛下への最後通牒にございます」

  その一文を読み上げる兵の声が、城内に重く響く。

  ――数日後、貴国へ攻め入る。覚悟されたい。

  セリオスはわずかに眉をひそめ、「想定よりも早いな」と呟き、すぐさま軍の動員を命じた。

  地下牢の鉄扉が、重く軋む音を立てて開いた。

  たちまち空気が張り詰める。

  響く鉄の靴音。

  鎖につながれた獣兵たちの前に現れたのは、冷ややかな目をしたサリオス王子だった。

  「出撃命令だ。戦場へ向かえ」

  かつてのガルであれば、それに何の感情も抱かず従っただろう。だが、今の彼は違っていた。

  鋭い視線が、一瞬、誰かを探すように揺れる。けれど――アゼの姿は、そこにはなかった。

  その事実が、体の奥底に火を点ける。

  サリオスが近づいてくる。

  この男が、アゼを傷つけた。

  喰い千切ってやりたい。骨ごと噛み砕いて、二度と喋れぬように。

  血まみれのまま屍に変えて、アゼに手を出すとはどういうことか、王族の脳に刻み込んでやりたい。

  喉の奥が、獣の咆哮を抑え込むように震えていた。

  今ここで飛びかかることはできる。鎖があろうがなかろうが、関係ない。

  だが――アゼが望むのは、それじゃない。

  「せいぜい暴れてこい、獣ども」

  サリオスが鎖の接続部に手を伸ばし、王家の血がそれに触れた瞬間――「カチャリ」と、静かに外れる音がした。

  「死ぬなら、せめて敵を道連れにしろ。犬死には見苦しいからな」

  その瞳に、命の価値など一片も宿っていない。

  けれどガルは、ただ静かに、足元の鎖を踏み越えた。

  この命令は、王のためではない。

  アゼを守るため――ただ、それだけが彼を動かしていた。

  「さぁて、久々の出番か」

  ライグが愉快そうに武器を担ぐ。

  「チビ坊やが泣かねぇように、俺たちが全部蹴散らすとするか」

  その頃、アゼは厨房の片隅で交わされた使用人たちの会話に凍りついていた。

  「獣兵部隊まで出されたってよ……もう、終わりかもしれないな、この国も」

  言葉の意味がすぐには理解できなかった。ただ、耳に残った“獣兵”の響きに、心臓が早鐘のように打ち始める。

  ――まさか、そんなはずはない。

  そんなはず、ないのに。

  乾いた喉で息を呑み、アゼはふらりとよろめいた。

  けれどすぐに我に返り、何かに突き動かされるように踵を返す。

  足元が崩れるような感覚に襲われながら、アゼは地下牢へ向かった。

  不安と焦燥が胸を締めつけ、ただ願うのはひとつ――そこに、ガルがいてくれ、と。

  地下牢へとたどり着いた時、そこにはもう、彼の姿はなかった。代わりに、空っぽの檻と、彼を繋いでいた太い鎖が冷たく残っている。

  アゼはその鎖を抱きしめ、震えながら嗚咽した。

  「……っ、ガル……」

  誰の温もりも届かない場所で、せめて残された痕跡だけでも抱きしめるように、ガルが寝床にしていた敷き藁の上で、アゼはその重く錆びた鎖を抱え、小さく身を丸めた。

  どれだけそうしていただろうか。冷たかった鎖の感触は、いつしかアゼの体温を帯び、ほんのりと温もっていた。

  頬ずりをするように、そっと頬を寄せ、もう一度抱きしめる。

  鎖が腕に絡み、手のひらが自然とその先端――金属の飾りのような突起に触れた。

  無意識のまま、指先でなぞる。……円形。指に伝わる、浮き出た細工。

  それは、幼いころに一度だけ触れたことのある、王家の紋章にそっくりだった。

  「……なんで、こんなところに……」

  確信はない。けれど、ふと胸に灯る微かな予感。

  ――もし、王族である自分の手で、これを……外せるのだとしたら――。

  アゼはそっと手のひらを重ねた。

  鎖の奥で、何かが微かに、呼吸するように脈打った気がした。

  静かな鼓動が、胸に残る。

  ***

  爆発音が、遠くで続いている。

  地響きのような振動と共に、天井から細かな塵がぱらぱらと舞い落ちてきた。

  外の空気は、張り詰めたような緊張に満ちていた。

  それは、嵐の前の静けさ――敵軍はすでに城の外郭を囲み、いつでも牙を剥ける距離まで迫っている。

  そしてついに、砲撃が始まったのだ。

  石壁が崩れ、天井が砕け、土と火薬の臭いが空気を満たす。

  耳をつんざくような轟音。衝撃に膝が抜けそうになる。

  恐怖で喉がひりつき、息を吸うだけで肺が痛い。

  アゼは崩れかけた柱の陰に身を寄せ、頭を抱えた。

  目が見えなくとも、破片の飛ぶ気配がわかる。

  そのたび、全身がびくりと震えた。

  だけど――その中で、瓦礫の落ちた隙間から感じた熱風に顔を向ける。

  耳を澄ます――遠く、確かに聞こえる。

  あの咆哮。

  「……ガル……!」

  それは、獣の咆哮でありながら、アゼにとっては救いの音だった。

  彼がまだ、どこかで生きている。誰かの命を奪い、誰かを守っている。

  自分のために。

  ――急がなければ。確証はない。……だけど。

  ――もし、ガルの……皆の首輪を、外すことができるのなら……!

  あの首輪がある限り、彼らは人間の「道具」のままだ。

  自由も、命すら奪われる。

  アゼは力を込めて、瓦礫をかき分けた。砕けた石に指が裂け、腕が傷ついても、かまわなかった。

  わずかに空いた隙間に、躊躇なく身をねじ込む。

  ――この先に、きっと彼がいる。

  外の世界に出ても、視界は暗闇のままだ。

  だが、確かに聞こえる。あの咆哮が。

  それは、闇を裂くような音だった。

  アゼにとっての“光”とは、姿ではない。

  「……ガル……!」

  その声がある限り、進める。

  震える足に力を込め、アゼは闇の中を踏み出した。

  恐怖も迷いも、すべてを置き去りにして。

  杖はとうにどこかへ吹き飛ばされていた。だが今は、そんなことに構っていられない。

  もつれる足を懸命に動かし、瓦礫に取られながらも、ただあの声のする方へと身を進める。

  ――ガル。

  直後、アゼのすぐ背後に爆弾が落ちた。轟音とともに爆風が巻き起こり、細い身体はなす術もなく宙を舞う。地面に叩きつけられ、うつ伏せに倒れ込んだ。

  「……うっ……!」

  痛みで身体がきしむ。砂利を握りしめ、涙に濡れた声で、名を呼んだ。

  「ガル……ガル……!」

  「――ッ! 坊っちゃん!? こんなとこで何してやがる!!」

  荒々しい声が飛ぶ。顔を上げると、そこにはライグの気配がした。

  「ライグ……?」

  「ったく、死にてぇのか!」

  そう怒鳴るなり、ライグはアゼをひょいと抱き上げる。逃げ道を確保するように走り出す。

  「待って、ライグ! お願い、ガルのところへ連れてって!!」

  「は? バカ言ってんじゃねぇ、死ぬぞ!」

  「じゃあいい、降ろして……自分で行く……!」

  「……ああ~~もうっ!! どうなっても知らねぇからなッ!」

  言葉とは裏腹に、ライグの腕は力強くアゼを支える。

  「……ありがとう、ライグ」

  「しっかり掴まってな!!」

  ***

  味方軍と獣兵部隊は、なんとか敵兵の進軍を食い止めようと、最前線の砦に立て籠もっていた。

  だが、それももはや限界だった。砦の壁は崩れ、地面は血と炎に塗れ、崩壊は時間の問題だった。

  ガルの身体は血にまみれていた。

  返り血か、自分の血か──それすらもはや、わからない。

  痛みも、疲労も、とうに感じなくなっていた。

  それでも構わない。

  アゼが逃げるための時間稼ぎにさえなれば、それでいい。

  それだけを胸に、ガルは獣の本能すら超えた意志で、なおも立ち上がる。

  城の一角が崩れ落ちているのが見えた。爆撃の煙が立ち込め、火薬の臭いが鼻を刺す。

  向かってくる敵兵を、ガルは鋭い爪でなぎ倒し、喉元に喰らいついては噛み千切り、唾を吐くように吐き捨てた。

  「……ガル!!」

  一瞬、幻聴かと思った。だが振り返れば、ライグがアゼを抱きかかえて、こちらに向かって走ってくるのが見えた。

  目を見開く。

  「なぜ連れてきた!!」

  怒声を放つガルに、アゼがすぐに声を重ねた。

  「違うッ、ライグを怒らないで。僕が……僕が、ライグに頼んだんだ……!」

  「……アゼ、ダメだ。ここは危険すぎる……ッ」

  「……でもっ!」

  ガルはアゼに背を向け、低く命じる。

  「ライグ……アゼを連れて逃げろ」

  「……ガル!」

  「早く行け!!!」

  だがアゼは必死に暴れ、ライグの腕から抜け出す。

  「あっ、こら! 坊っちゃん!!」

  アゼはガルに飛びつき、しがみつく。

  「イヤだ、行かない……! ここにいる……っ。ガルと、ずっと一緒にいる……!!」

  「……アゼ……!」

  その瞬間、すぐ近くで爆撃が起きた。ガルは即座にアゼを庇い、身を挺して覆いかぶさる。

  土煙が舞う中、アゼが震える手で、ガルの首元に触れた。そこにも王家の紋章が確かに刻まれていた。

  アゼがそっと目を閉じ、静かに念じる。

  ――どうか、外れて。

  この人を、縛るものが、もう何もありませんように。

  首輪から、小さく「カチッ」と音がして、留め具が外れた。

  ガルが、わずかに目を見開く。

  「……首輪が……」

  「わかったんだ、地下牢で……この首輪、王族の力で外せるかもしれないって……!」

  アゼは震えながらも、はっきりと頷いた。

  「僕が……僕が皆を自由にする。今しか、もうチャンスはないから……! だからお願い、みんな僕の近くに集まって……っ」

  アゼは次々と獣兵たちの首輪へ腕を伸ばした。土煙の中、獣の姿をした兵たちが驚きに目を見開く。

  「お願い、逃げて……! 首輪が外れれば、もうあなたたちは戦わなくていい……!」

  だが、外れた首輪を見つめた獣の一人、バムが、アゼを見つめて静かに言った。

  「アゼ……俺たちは、お前を守るために戦う」

  「……!」

  「ガルヴァンと、どうか一緒に逃げてくれ。それが、俺たちの願いだ」

  「アゼ、時間がない……!」

  ガルが手を伸ばす。砲撃の音がまた、近づいてくる。

  アゼは、躊躇いながらも最後の一人の首輪を外し、涙を堪えて叫んだ。

  「お願い……皆、死なないで……!」

  まるでそれが合図であったかのように、敵の軍勢が怒涛の勢いで押し寄せてきた。

  ライグが叫ぶ。

  「もう、ここもヤバい! 俺たちが食い止める!!」

  仲間の兵たちも次々と駆け出す。誰かが叫ぶ。

  「ガルヴァン、アゼを頼む……!」

  アゼの世話になった獣兵たちが、アゼのために命をかけて立ち上がる。

  その刹那、再びすぐ傍で爆撃音が轟いた。

  咆哮が響き、弓矢が飛び交う。

  波のように押し寄せる大勢の敵兵。

  まるで壁のように立ちはだかる獣兵たちの背中を、ガルはちらと見やった。

  「……ッ、すまない、頼む……!」

  片腕でアゼを抱き、残る手足で地を蹴る。逃げるのではない。獣がただ、守るために走る――それだけだった。

  歯向かってくる残党だけを蹴散らしながら、深く深く茂る森の中へと、その姿を消していった。

  ***

  ガルは、ただ森の中を走り続けた。

  そこがどこなのかも、とうに分からない。行くあてなど、はじめからなかった。

  けれど――もうガルには、その腕に抱いた温もりさえあれば、それでよかった。

  アゼもまた、ガルだけが傍にいれば、それ以上は望まなかった。

  いったい、どれだけ森の中を彷徨ったのだろうか。

  ようやく二人がたどり着いたのは、誰の記憶からも忘れ去られた、小さな古びた教会だった。

  窓は割れ、蔦が這い、壁は風雨に蝕まれて崩れかけている。

  けれど、その場には、なぜか穢れひとつない、澄んだ空気が満ちていた。

  神など、とうに信じてはいなかった。

  いや――初めから、信じてなどいなかったのかもしれない。

  それでも、この時ばかりは、その名も知らぬ存在にすがるように祈った。

  どうか、この先も――アゼのその瞳が、悲しみの涙に濡れることのありませんように。

  その夜、ふたりはただ、互いを抱きしめたまま眠りについた。

  長い夜が明け、淡い木漏れ日が教会のステンドグラス越しに差し込む。

  ガルは眠ったままのアゼの寝顔をしばらく見つめたあと、その瞼をそっと舐めた。

  アゼの目が治っても、治らなくても――どちらでもいいと思った。

  たとえ、自分を見て怯えたとしても……見えないよりかは、きっと、ずっといい。

  その覚悟は、とうにできていた。

  アゼの睫毛が震える。

  ゆっくりと開かれたその目に映し出されたのは、もはや暗闇ではなかった。

  アゼはそのぼんやりとした輪郭を確かめるように、そっとガルの頬に手を伸ばす。

  「……ガル?」

  「アゼ……」

  その目は、しっかりとガルの瞳を見つめていた。

  けれど、しばらくすると、くしゃりと顔を歪ませ、瞬きをした拍子に、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。

  「……すまない。俺は、お前の目まで治せるか分からなかった。なによりも、お前が、俺を見て怯えるのが……恐ろしかった……」

  アゼは目を閉じ、ふるふると首を振った。

  「……君の手は優しいから、きっと、優しい目をしてると思ったよ。僕は君の目が――一番、見たかったんだ……」

  そう言って、アゼはガルを抱きしめる。

  「ありがとう、ガル……」

  「アゼ……」

  ガルは、その小さな肩を、祈るようにぎゅっと抱きしめた。

  まるで祝福するように、天井のすき間から淡い光が降り注ぎ、二人を包み込む。

  ――大丈夫。きっと二人なら、もう、怖いものなんてなにもない。

  ***

  それから数日が経った頃だった。

  アゼの国は――もう、どこにもなかった。瓦礫の山となった城も、戦火に焼かれた街も、すでに他国の兵の管理下に置かれていた。国としての体裁を失ったこの地は、隣国に吸収され、地図からその名を消すこととなった。

  それでも、あの小さな教会の中で交わした誓いだけは、誰にも奪えなかった。

  ガルとアゼは、旅に出ることにした。

  アゼの新しい目に、この世界のたくさんの景色を見せてやるために。

  「……ガル、ここはどこ?」

  「国境の向こう、もう誰も追ってこないさ」

  森を抜け、山を越え、いくつもの村や町を通り過ぎた。アゼの瞳はまだ完全ではないけれど、光も影も、風景も人も、少しずつ映るようになっていた。そんなある日──。

  「……よお、ガル。ずいぶん毛並みが荒れてんじゃねえか」

  ぴくりとガルの耳が動き、即座に身構えた。アゼが驚いてガルの腕を掴む。

  「ガル……? 誰か、来たの?」

  ガルは一拍遅れて、緊張を解いた。

  「……ああ、大丈夫だ。敵じゃない。声で分かった」

  「声……?」

  「おいおい、忘れられてんのか、チビ坊や」

  その言葉に、アゼの目がゆっくりと見開かれる。聞き覚えのある、少し荒っぽくて、あたたかい声。

  「……ライグ……!」

  「おう、生きてたぜ。やられちまった仲間もいるが……生き残った連中は、みんなお前に会いたがってた。いろいろあったが――お前らが無事で、本当に良かった」

  アゼは、震えるように笑みを浮かべながら、ガルの腕をぎゅっと握った。

  ライグは遠くを見て、ふっと笑う。

  「んじゃ、またどこかでな。チビ坊や」

  ひらりと手を挙げて背を向け、ライグは人混みに紛れて去っていった。

  ──風が吹き抜ける。

  アゼはそっと、つぶやいた。

  「ありがとう……また、どこかで」

  アゼはその背中が見えなくなるまで目を細めて見送ると、そっとガルの手を取った。

  「……行こうか、ガル」

  「どこへでもな。お前の行きたい場所へ」

  あたたかな陽射しの中を、二人は並んで歩き出した。

  それがどれほど長い旅になるのか、どんな困難が待ち受けているのか――そんなことは、誰にも分からない。

  ただ一つ確かなのは、二人の手はしっかりと繋がれていたということだった。

  囚われた野獣と盲目の王子 完