墓守とリラ

  水の大陸、おだやか村の跡地に牡のライチュウ、ライラはいた。目元を白い布で覆い、杖をついて歩くライラは廃墟と化したおだやか村の通りをゆっくりと移動すると、村外れにある丘へと辿り着いた。

  丘の上には大木があり、空から降り注ぐ陽光から逃れる日陰を作っている。ライラは大木の幹に寄りかかると、息を整えていた。

  丘には数多くの石、いや墓標が広がっている。

  形は不揃いだが、おおよそ似通った形の石が並んでおり、一つ一つに名前が彫られている。それらを守るかのように大木の枝木が伸びており、丘には心地よい風が吹き込んでいる。

  ライラは風と日光を肌で感じると、白い布越しに周囲を見渡すように首を動かした。

  「ただいま、おじい」

  墓標の一つ、一際丁寧に磨かれている墓標を触りながらライラは言った。その表面を撫でながらライラは小さくなった祖父の姿に苦笑すると、報告するように口を開いた。

  「今日は良い知らせを持ってきたよ。ペストの治療法が見つかって、全ての大陸で治療拠点も設立されたんだ。感染症に効果のある薬も大量生産されているから、前みたいに疫病が広がる可能性が減ったよ」

  ライラは呟くと、おだやか村の廃墟の方に顔を向けた。

  「…疫病が広がると、おじいの作ったオレンの実を煎じた薬を飲んだよね。特効薬という訳ではないけど、それでも精神的に救われた住民もいたよ」

  ライラの脳裏に平和だった頃のおだやか村の光景が広がる。ライラがまだピカチュウだった頃は、村唯一の学校に通い、学友や先生と楽しく過ごしていた。時には遠足に行き、時には祭りに参加し、時には村の畑作業にも参加した。疲れたら帰路につき、おじいの作った美味しいご飯を食べて、暖かいベッドで眠りにつく。

  友人と仲間と家族と自然に囲まれたおだやか村の生活は、ライラにとって素晴らしい記憶である。

  そんなおり、おじいが牝のアチャモを保護した。盗賊か山賊に襲われた家族の生き残りであり、おじいはアチャモを助け、家に連れ帰った。その日からライラとアチャモ、リラは共に過ごし、学校にも通い、同じ時間を共有した。

  いつか大人になり、仕事に就き、愛する者と結ばれ、家庭を築く。

  そのような美しく残酷な夢を抱いていた。

  ライラとリラが思春期を迎えた頃、彼らは学校を卒業した。学友達は村の仕事に就いたり家業を継いだりした。だが、ライラとリラはワイワイタウンへと旅立つ、団長率いる調査団に入団した。

  そこから、ライラとリラは世界を回った。

  あちこちの大陸の土地や文化、資源などを調べ回り、時にはギルド連盟からの依頼や街の住民の依頼を解決し、彼らの名前は少しずつ広まっていった。

  そんなおり、調査団の一員であるジラーチが得意分野の天文学から隕石の落下を予言し、ライラとリラはレックウザに助力を求めた。

  だが、寸前のところで彼らは間に合わず、隕石は風の大陸のあちこちに落下した。

  ライラが覚えているのは、そこまでだった。

  ライラが最後に見た視界は怒りに燃える暴徒に襲われる瞬間であり、ライラの横にリラの姿はなかった。その後、ライラの視界は黒一色に染まり、足の腱も潰された。団長達に保護されたライラは調査団の本拠地で治療を受けたが、目と足は元には戻らず、以降は調査団のサポート役として簡易な仕事に就いていた。

  ライラは、リラがどうなったのか団長に尋ねた。

  だが団長達は「リラは元気にしている」としか答えなかった。同時期にレシラム教に新たな異端審問官の名前が連なり、その腕と残忍さはあちこちで噂になっていた。

  ライラは理解した。

  その異端審問官の正体を、団長達がリラの所在を黙っている理由を。

  そうして疲れ果てたライラはおだやか村に戻ろうとしたが、ライラとリラがおだやか村出身である事が周りに知られており、村は怒りに燃える暴徒の報復を受けた。おじいや学友達、住民、先生、おだやか村の関係者は例外なく暴徒に襲われ、生きたまま膾斬りにされたり、暴行を加えられたり、燃やされたりした。おだやか村は一晩で壊滅し、村唯一の生き残りとなったライラとリラは全てを失った。

  それから、ライラは墓守になった。

  皆の遺体を埋葬し、墓を作り、手入れしていた。時々、団長から仕事の依頼が来たが、それ以外の時間は墓守に費やした。

  おだやか村の廃墟の方に顔を向けていたライラは、溜息をこぼすとおじいの墓石に寄り掛かった。ライラの頬に冷たい墓石が触れ、その感触はおじいの甲羅の冷たさを思い出させた。

  「…やっぱり寂しいよ、おじい」

  ライラはそう呟くと、地面の下に眠るアバゴーラの顔を思い出した。その小言や優しい言葉を聞く事は、不可能であった。ライラは青空の下、墓石の隣で思い出に浸っていると、やがて意識を丘の麓に向けた。

  「それで用件はなんでしょうか、団長」

  唐突に名前を呼ばれた牡のデンリュウ、団長はゆっくりと丘を登ってくると、ライラの隣の墓石に向かってお辞儀をした。そしてライラを見ると、「ごきげんようです」と言った。

  「気がついていたなら、教えてくださいよ。気配を消した意味がなかったでしょう」

  団長の呟きを聞いたライラはくすりと笑うと、顔を団長に向けた。

  「団長の気配はもっと前から気づいていましたよ、もっとも…私に配慮してくれたんでしょう」

  ライラに指摘された団長は肩をすくめると、「やれやれ」と呟いた。団長は肩から下げた鞄から焼き菓子と酒の瓶を取り出すと、それらを墓石の前に置いた。

  「草の大陸に住む友人から頂いた物です。私は下戸なので、是非とも翁に飲んでほしいものですね」

  団長はそう話すと、両手を合わせて黙祷した。ライラも気配で察すると、共に黙祷を捧げた。やがて団長は目を開くと、隣に座るライラを見た。

  「…やはり、おだやか村はとても良いところですね。心が洗われるような気がします」

  団長の呟きを聞いたライラは嬉しそうに口角を緩めると、白い布越しに団長の顔を見上げた。

  「そうでしょう…もし可能なら団長にもおじいの作ったオレンの実を食べて欲しかったです…」

  ライラの言葉を聞いた団長は暴徒に襲われる前に見たおだやか村の光景を思い出し、懐かしむように目を細めた。やがて、団長は目を開くとライラの顔を見て、表情を変えた。

  「仕事の依頼です」

  はっきりとした口調で団長は話すと、ライラを見た。団長の言葉と雰囲気から何かを察したライラは、姿勢を正すと団長と向き合った。

  「…はっきり申し上げますと、かなりリスクのある依頼です。しかし…依頼主の事を考えると、ライラに依頼するのが適切だと私は思います」

  そう話すと、団長は息を呑み、ゆっくりと口を開いた。

  「…依頼主はリラ、内容は生まれたばかりの赤子を外に逃して欲しいとのことです」

  かつての相棒の名前を聞いたライラは、おだやかな表情のまま団長の方を見た。そして溜息をつくと、おじいの墓石にもたれかかり、口を開いた。

  「風の噂でリラがオズボーンの子を産んだ、と聞きましたが…まさか赤子を外に逃す依頼とは」

  ライラは小声で呟くと、愉快そうに低い笑い声を漏らした。白い布越しに空を仰ぐと、ライラは団長の方に顔を向けた。その顔には憎悪や嫌悪感はなく、おだやかな雰囲気のまま、団長に向かって口を開いた。

  「…その依頼、引き受けます」

  ライラの返答を聞いた団長は安心したように息を吐くと、少し戸惑うような口調でライラに尋ねた。

  「…ライラは、リラを恨んでいないのですか?」

  団長に尋ねられたライラは不思議そうに首を傾げると、静かな口調で答えた。

  「確かにリラは私を見捨てました。ですがリラが助けに戻ったところで、揃って袋叩きにされるのがオチですよ…もしかするとリラは捕まり、売春宿にでも売り飛ばされたかもしれない」

  そう話すと、ライラはゆっくりと立ち上がり、墓石を撫でた。

  「私の目と脚が犠牲になり、リラを守れたのです。安い物ですよ」

  ライラの言葉を聞いた団長は呆れたように溜息をつくと、首を左右に振った。

  「その言葉は関心できませんね。ライラの目と脚は決して安いものではないですし、暴徒が奪って良いものでもない」

  団長は強い口調で話すと、かつての部下であるライラの頭を撫でた。そして寂しそうな目をみせると、小さな声で呟いた。

  「…もっと私を頼りなさい、これでも調査団の団長です。そこらのアンポンタンよりも有能ですよ」

  団長の温かい手により撫でられたライラは、久方ぶりに子供扱いされた事で、少し恥ずかしそうに俯いた。団長は初めて出会った時のライラとリラの顔を思い出し、懐かしむように目を細めると、そのままライラの頭を撫で続けた。

  やがて、ライラの頭から手を離すと、団長は声を低くして話した。

  「…近々、オズボーン教皇の正妻に当たる巫女殿が出産されるとか…次期教皇が生まれるかもしれない日なので、教会内の警備に偏りが生まれる可能性があります」

  団長の言葉を聞いたライラは静かに頷くと、その意図を汲み取った。ライラの反応を見た団長は静かに息を吐くと、空を見上げた。

  蒼い空に浮かぶ白い雲がライラと団長の座る丘に日陰を作り、心地よさに団長は目尻を緩めた。

  「当日、嵐になれば最高なのですが…晴れた場合でも決行するしかありませんね」

  団長の口調は力強いものである。

  彼の言葉を聞いたライラは小さく頷くと、静かな声で団長に尋ねた。

  「…赤子を外に連れ出したとして、それ以降はどうするのですか?まさかレシラム教の本拠地の街で、調査団が育てるのですか?」

  ライラの問いに団長は首を左右に振ると、おだやかな眼差しでライラを見た。

  「残念ながら、そこから先はライラにはお話しできません。仮に知ってしまったら…レシラム教に狙われる可能性がある」

  「もちろん、私も知りません」と呟くと団長は溜息を漏らした。管理職として、友であり、かつての部下の無茶な依頼に付き合わされる団長の心情を察したライラは、苦笑を浮かべた。

  「では…赤子を連れ出した後は別の誰かに託すという事ですか?」

  ライラの問いに団長は頷くと、寂しそうな表情で呟いた。

  「それがリラの願いです。赤子をレシラム教とは無関係な環境で、異端審問官リラの子としてではなく育てたいのでしょう」

  仮に団長が赤子の所在を知っていたら、レシラム教は団長達を襲い全力で情報を集めようとする。そのために拷問や火炙りに遭う可能性がある事は、異端審問官であるリラが最も理解している。故に団長達にも赤子の所在を把握できないようにする事で、全ての責任を依頼主であり母親であるリラ自身が被ろうとしていた。

  団長とライラはリラの考えを見抜いており、揃って溜息を漏らした。

  「…ほんとう、アンポンタンな部下ですよ」

  「えぇ、アンポンタンなやつですよ」

  彼らの呆れたような声は、おだやか村の空へと消えていった。

  *

  砂の大陸、ラムルタウンの港から出港した帆船は、大洋を渡っていた。

  レシラム教司祭である牝のエースバーン、エリースと牡のラウドボーン、ルールの率いる医療団は必要最低限な人数と物資を残し、他は水の大陸へと撤収した。その帆船に同乗した牡のルカリオ、オズワルドは船内の客室にある椅子に座り、窓から大洋を眺めていた。

  海洋を泳ぐラプラス便やホエルオー便の姿を見たオズワルドは、テーブルの上に置いてあるミネラルウォーターの入ったグラスを手に取ると、それを口に含んだ。

  氷の敷かれた冷蔵庫で冷やされたミネラルウォーターの感触が口内に広がり、オズワルドは僅かに目を細めた。

  数時間前にラムルタウンの港からゼクロム教の大司祭である牝のアローラライチュウ、ハルと助司祭である牡のレントラー、ランプに見送られた光景を思い出し、オズワルドは視線を窓の外に向けた。

  「…また会えるでしょうか」

  特別な医療技術を持たないオズワルドが医療キャンプでできる事は、物資や患者の搬送、在庫の管理や掃除などの作業だった。だが、ハルやランプ、そしてラムルタウンの住民達はオズワルド達に感謝し、何度も礼を述べていた。

  その光景を思い出したオズワルドは照れ臭さを再認識すると、嬉しそうに頰を緩めた。

  ラムルタウンに設置された医療キャンプは感染症やペスト、他の外傷などの治療拠点としても機能しており、オズワルドは自身が誰かの役に立っている事を認識した。

  ハル達の笑顔を思い出したオズワルドはミネラルウォーターを飲むと、グラスをテーブルに置いた。

  船室の扉が開いた。

  扉の向こうからは牝のゾロアーク、ニコルが鬣を拭きながら歩いてくる姿が見えた。室内にはオズワルドしか居らず、ニコルはガブリアスのゼーンの姿ではなく、本来の姿で過ごしていた。

  「お風呂が空いたよ」

  ニコルの声を聞き、オズワルドは頷いた。レシラム教が有する帆船内には入浴設備があり、砂の大陸で砂混じりの風を浴び続けたニコルは嬉しそうな顔で清潔になった縦を拭いていた。オズワルドも続けて風呂に入るために立とうとしたが、彼の方を見るニコルの視線に気がついた。

  オズワルドは恐る恐るといった雰囲気で口を開くと、ニコルに尋ねた。

  「あの…なにか?」

  オズワルドはニコルの視線の意図を尋ねると、彼女は「いや…」と小声で応えた。ニコルは視線をオズワルドに向けたまま鬣を拭き終えると、タオルをテーブルの上に置いた。

  「オズワルドも雰囲気が変わったわよね…前は暴力に頼り、共感性に欠けていたけど…今は普通に見えるわ」

  唐突なニコルの言葉を聞き、オズワルドは目を丸くさせた。彼女の指摘を脳内で反芻すると、彼はニコル達に保護されたばかりの頃と現在のオズワルドを比べていた。やがて、ニコルの意図を理解すると、オズワルドはクスリと笑い、彼女を見た。

  「ニコルやヘレンの影響ですよ」

  その言葉を聞き、ニコルは僅かに口角を上げると、椅子に座った。そして視線を浴室の方に向け、オズワルドに早く入るように促した。

  オズワルドは足早に移動すると、浴室の中へと姿を消した。

  オズワルドの姿が扉の向こうに消えるのを視認すると、ニコルはグラスにミネラルウォーターを注ぎ、それに口をつけた。

  先ほどのニコルの言葉は本心から出たものである。ニコルが保護したばかりのオズワルドは、他者への共感心が欠けており、暴力的な言動が見られた。時には指名手配された盗賊団を皆殺しにし、被害者の心を打ち砕くような言葉を発した。

  だが、最近のオズワルドは多くの人々に出会い、彼らと対話し、その影響を受けていた。今のオズワルドから暴力的な言動は見られず、医療キャンプでもニコルやヘレンに協力し治療に当たっていた。

  その姿を脳裏に描いたニコルは、ミネラルウォーターのグラスを傾けると、浴室の扉へと視線を向けた。

  いまだに、オズワルドの記憶は戻らない。

  生まれは何処か、いつ生まれたのか、家族や友人はいるのか。

  そもそも、なぜ奴隷商人に捕まり、売春宿に売り飛ばされたのか。

  オズワルドの言動は変わりつつあるが、記憶や詳細については不明なままである。もしかすると、オズワルドはとんでもない秘密を持っているかもしれないが、それも不明である。

  ニコルはミネラルウォーターを飲んだ。

  彼女は浴室の扉を睨みつけると、オズワルドの顔を脳裏に描いた。穏やか且つ丁寧な口調なオズワルドの本性とは、過去にどのような事をしてきたのか。

  ニコルはミネラルウォーターをグラスに注いだ。

  なぜオズワルドは戦闘能力に長けているのか、なぜオズワルドは売春宿でアルファベットを読めたのか、なぜオズワルドは異教徒の言葉を唱えたのか。

  様々な疑問を抱くと、改めてオズワルドという存在の正体が理解できずにいた。今のオズワルドは暴力的な言動が改善しているが、もしかすると本性はより粗暴かもしれない。或いは、何か罪を犯した指名手配犯かもしれない。

  ニコルはミネラルウォーターを飲み干した。

  異様な喉の渇きを自覚したニコルは、新たなミネラルウォーターをグラスに注ごうとしたが、水差しは空になっていた。空になった水差しにはニコルの顔が反射した。

  彼女の顔は硬い表情をしており、唇を強く噛み締めていた。

  *

  水の大陸ワイワイタウン。

  レシラム教の教会敷地内にある一際高い塔の窓から牝のバシャーモ、リラは眼下の街を見ていた。彼女の腕の中には牝のヒトカゲの姿があり、寝息をたてている。産着に包まれたヒトカゲを見下ろしたリラは愛おしそうに目を細めると、ヒトカゲの顔を指で撫でた。

  リラが腹を痛めて赤子を産み、2ヶ月ほどが経過した。

  その間、産婆である牝のニドクイン、カヌレや侍女達のサポートもあり、赤子は健やかに育っていた。だが、赤子の父親であるレシラム教の教皇、牡のリザードンのオズボーンはリラに性処理を強要し、我が子に対しては微塵も興味を示さなかった。

  オズボーンの要求に対してリラは従順に応じて、口や手、胸や肛門、性器などを提供した。

  リラに対するオズボーンの振る舞いにカヌレや侍女達は苦言を呈したが、オズボーンは気にせずにリラに暴力を加え、自身の欲求の捌け口にしていた。リラが従順に従う事により、オズボーンは赤子に手を挙げる事もなく、見かけだけの平和な日々が過ぎ去っていった。

  赤子が身じろいだ。

  その感覚で我にかえったリラは赤子を抱き締めたまま立ち上がると、室内を歩き、あやしていた。彼女の声を聞き、赤子は微笑むと眠りについた。

  「…」

  その姿を見たリラは、改めて自身が奪ってきた人々の命の重さや残された家族や友人の想いを意識し、顔を硬くさせた。

  リラの脳裏に自身が異端審問官として磔や火炙りにした人々の姿が過ぎる。時には素手で骨を折り、或いは武器を使い、無実の人々を嬲ってきた。男や女は殺し、老人は殴り殺し、子供は滅多刺しにして、赤子は踏み殺した。

  リラ自身の手脚を使い、踏み殺した。命を刈り取ってきた。

  赤子の寝息が聞こえた。

  リラが視線を向けると、腕の中の赤子は穏やかな顔で寝ていた。その顔は母親に守られ、心の底から安心しきった顔である。

  だが、リラの心中は穏やかでない。

  自身の赤子を見るたびに、リラが踏み殺した赤子の姿が脳裏を過ぎる。リラが殺してきた人達の姿が脳裏を過ぎる。彼らの手がリラの四肢に絡み付き、彼女の耳元で恨み節を紡ぎ出す。肌に走る指の爪が喰い込む感覚、耳元に広がる死者の吐息、両脚に纏わりつく死者の重さを自覚したリラは、胃液を吐き出しそうになり、急いで赤子をベッドに置いた。

  直後、リラは近くにあったゴミ箱の中に嘔吐した。

  胃酸が食道を焼き、鼻腔と口腔から大量の胃液が逆流し、リラの呼吸が止まる。胃酸の独特な臭いが鼻腔に広がり、リラの目尻から涙が溢れ落ちる。

  10秒ほど吐き続けたリラの隣で、目を覚ました赤子の泣き声が轟く。

  なんとか身体を起こそうとするが、リラの脚に力が入らず、彼女はそのまま嘔吐を続けた。

  数秒後、隣室に控えていたカヌレと侍女達が赤子の泣き声を聞きつけ、室内に入ってきた。カヌレは室内を見渡し、素早く状況を把握すると、侍女達にテキパキと指示を出した。

  「さぁ、御子様…こちらへどうぞ」

  カヌレは赤子を抱き上げると子守唄を歌い、宥めていた。その間に侍女達はリラを立たせると、汚れた口元を拭い、長椅子に座らせてミネラルウォーターの入ったグラスを用意した。別の侍女はゴミ箱を片付け、大きな扇で室内の空気を入れ替えていた。

  「リラ様、どうぞ…」

  侍女の差し出したグラスを受け取ろうとしたリラだが、そのまま長椅子に横になり、頭を抱えていた。その姿を見た侍女は戸惑うようにカヌレを見ると、彼女は寝かしつけた赤子を別の侍女に手渡し、自身はリラの側の椅子に腰掛けた。

  侍女達と赤子が隣室に姿を消し、室内に静寂が広がる。

  「眠れないのですか?」

  沈黙を破ったのはカヌレだった。彼女の問いにリラは閉口したまま頷くと、隈のできた目を向けた。赤子の世話などで、産後に寝不足になる母親が居るが、リラの場合は原因が別にあった。その事を理解しているカヌレは「失礼します」と言い、リラの隣に腰掛けると、彼女の頭を自身の太腿の上に置いた。

  「リラ様はご存じでしたか?眠れない時は添い寝すると良い場合もありますよ」

  カヌレは笑いながら言うと、リラの頭を撫でながら子守唄を口ずさんだ。室内にカヌレの歌声が広がり、窓から外の風が入ってくる。

  おだやかな空気が広がり、リラの記憶の宮殿に生まれ育ったおだやか村の光景が広がる。

  既に滅びた、おだやか村の光景が。

  次の瞬間、リラは大声をあげて泣き出した。

  堰を切ったようにリラは感情を吐露し、カヌレの太腿に顔を埋めて泣き続けた。赤子のように泣くリラの姿を見たカヌレは、何も言わずにリラの頭を撫で続け、子守唄を口ずさんだ。

  室内にリラの泣き声が響き、やがてリラは涙と鼻水で汚れた顔で言葉を紡ぎ出した。

  「私が…殺した人達が纏わりつくんです…」

  「…」

  カヌレは何も言わずにリラの頭を撫で続け、自身の太腿が汚れる事を一切気にせずにいた。

  「オズボーンも私や巫女を犯す事を楽しんでいる…もう抱かれたくない…汚されたくない…」

  「…」

  「夜になるとオズボーンが来る…私が殺した赤子や子供が私の枕元に立つ…」

  カヌレは一言も発さずにリラの言葉を聞き続けた。ここで肯定や否定をする事は、オズボーンに対する意見に直結する可能性もあるため、カヌレは何も言えずにいた。

  だが、リラは言葉を紡ぎ続ける。

  「おだやか村のみんなは殺されて…ライラも救えなかった…オズボーンに孕まされて…もう死にたいです」

  「…」

  「でも、死んだら私が殺した人達が私を八つ裂きにしに来ます…地獄に突き落とそうとしている…部屋のあちこちに死んだ人達が立っているんです…」

  故郷と家族、友人、相棒を失い、愛していない牡に孕まされて子を産み、過去の罪の記憶に苦しめられるリラの精神状態は限界を迎えていた。幻覚症状や不眠など生活にも影響が出ているリラの指差す箇所には、何も居ない。

  産婆であり、医師であるカヌレは何も言わずにリラの頭を撫で続けると、落ち着いた声で彼女に話しかけた。

  「安心してください、あそこに居る人は怒っていませんよ」

  「ただの通行人です」とカヌレは続けると、リラの幻覚を否定せずに安心させようとした。安易に幻覚を否定するとリラがより興奮する可能性があるため、彼女の不安感を受け止める事にしたのだ。

  

  カヌレの言葉を聞いたリラは彼女の太腿に顔を埋めたまま泣き続けた。彼女の頭を撫で続けると、カヌレはおだやかな声色で話しかけた。

  「以前にもお伝えしたとおり、異端審問官として多くの命を刈り取ってきたリラ様の事は好きにはなれません。ですが、私は何者でもないリラ様と御子様の味方です」

  

  静かだが、心に染み渡るカヌレの声を聞き、リラは大声で泣き続けた。大衆の憎悪に晒されて、故郷と相棒を失い、怒りで他者の命を刈り取るリラの姿は、赤子そのものであった。

  そんなリラの頭を撫で続けるカヌレは、難しい表情をしていた。

  リラが異端審問官として他者の命を奪った事実は否定できない。それを受け入れて、罪を償う事がリラには必要である。だが、今のリラの精神状態では先にリラの心が崩壊する事が目に見えている。

  産婆として医師として、カヌレ個人としてリラを受け入れたいが許す事はできない。許すのは異端審問にかけられた者達の遺族や残された者である。

  非常に難しい状況にカヌレは苦い表情でリラの頭を撫でると、彼女に聞こえないように溜息をこぼした。

  やがて、落ち着いたリラは泣き止むと顔を上げた。

  彼女の目は赤く染まり、美しい顔が腫れぼったくなっている。リラはミネラルウォーターのグラスを飲み干すと、恥ずかしそうに「すみません」と言った。

  そんなリラの頭を撫でると、カヌレは優しく微笑んだ。

  「気にしないでください。どのような者も、時には泣く事もあります」

  「…」

  「オズボーン様のリラ様に対する仕打ちは確かに考えるべき点があります…私も華族や貴族の出産や育児に立ち会った経験もあるため、どなたか助力をいただけないか、相談してみようと思います」

  優しいカヌレの言葉を聞き、リラは泣き枯れた声で「ありがとうございます」と返した。その姿は異端審問官として恐れられるリラではなく、年相応のうら若い娘であった。

  そんなリラの頭を抱き締めると、カヌレは安心させるように子守唄を歌った。

  室内に、優しい声が反響していた。