昔取った掌

  黒縁の大きな画面に映し出されているのは、昼間の他愛もないニュース番組。どうやら近くの競技場で女子マラソンでもやってるらしく、実況中継は知らない選手の称賛に大忙しだ。大真面目に見るわけでもなく、メディアを腐す穿った視点も持ち合わせず、ただ時折手元の小型端末に意識を移しながら、ぼうっと眺めるだけの休日を過ごしていた。

  最近の日曜日はいつもこうだ。仕事柄、平日は保育園の子供達を世話したり遊んだり、体力的にも消耗が激しい。若い頃は休日に飲みに行ったり、多少の男漁りもしたもんだが、40を越えてから外に出歩く元気が無くなってきた。とはいえSNSを見れば、同年代たちが家族と共に山登りやキャンプをしていたりするんだから、どうしたって後ろめたさは拭えない。何度も挫折してきた筋トレを再開しようと思案するが、健康グッズばかり増えて雑多な部屋で、結局のところソファでふて寝する。それも込みで、いつもの日曜日なのだ。

  『───佐藤選手、本大会で二位の記録を収めまして、現在の率直な気持ちをお聞かせください』

  「……………………」

  『そうですね、まずはずっと支えてくれたコーチと、チームのみんなと、お母さんに感謝したいです』

  何の気なしにインタビューを流し見ていると、佐藤選手のドキュメンタリーのような映像が始まった。この大会には他の日本人選手もいたけれど、全員分用意してあるんだろうか。

  綺麗なピアノと共に始まるその映像では、佐藤選手の練習風景や母親へのインタビュー、高校、中学までも遡りルーツが紐解かれていく。どうやら幼い頃に父親が他界し、母子家庭の中懸命に陸上選手として努力してきたらしい。

  「…………立派だなぁ」

  ボソッと久しぶりに出した声が、自分で聞いててもあまりにも昔の父親に似ていたもんで、思わず自嘲してしまった。このお母さんも、俺と大して歳が変わらないんだもんなぁ。

  暇があるとしょっちゅう色んなことを考えてしまう。大抵は考えなくても良いようなことだ。例えばこのお母さんと自分を比較して、勝手に人として負けたような気になったり。俺は独身が確定しているけど、もし父親になる世界線があったら、一体どうなっていたんだろう。子供は好きだから、子育ては頑張ったと思うけれど。

  するとその時、唐突にピンポーン、とチャイムが鳴り響いた。重い腰を上げて、少し早歩きにインターホンへ駆け付けると、カメラの前にはどう見ても運搬業者の制服が見えた。

  『沙川急便ですー』

  「はーい、今開けます」

  カメラを切って、念のため洗面所の鏡をチラ見する。いつも通りただの中年のコヨーテだが、一日中だらついていたから、あまり不潔だと思われたくなかった。

  すぐに玄関を開ければ、思いの外大きな人影がドアの前にのっそりと立っていた。

  「……っ…………………………」

  「…………………………あの、荷物…………」

  最初は大きめの段ボールに目が行ったが、不自然な沈黙に顔を上げる。水色の爽やかな制服を着た若々しい虎獣人。ガタイが良くて背も高く、重い段ボールも軽々と抱えている。しかし何より俺の目に印象的だったのは、その黄色い瞳を見開いて、穴の空くほど顔面を凝視されている、ということ。思わず後ずさりしたくなるような、場所が場所ならガンをつけているような鋭い視線。数秒は目を合わせてしまったが、怖くなってすぐに背ける。

  だがその次の一言に、俺も驚かされることになる。

  「……………保坂先生?」

  「っ、え、どこかでお会いしました……?」

  虎獣人は少し背を屈ませて、俺に顔を近づけた。

  「ゆうちゃん先生……ですよね!?」

  「ッ!!!ッもしかして、仁空くん!?」

  近所への騒音も厭わずに、俺が大声をあげてしまったのは、20年来の教え子が、変わり果てた姿で目の前に現れたからだった。

  およそ20年前、俺が初めて持ったのが仁空くんの二歳児クラス。それから卒園までずっと見守ってきた、一番印象深い期だった。これまで数々の子供達を見送ってきたけれど、最初というのは何故か記憶に残り続ける。仁空くんはそのクラスの中でも、一番俺に懐いてくれた虎の子供だった。

  仁空くんは苦笑いを浮かべて、気まずそうに頭を掻く。

  「いや…………まさかこんなとこで会えるなんて。名字が一緒だったんで、まさかとは思ったんですけど」

  「いやぁ…………立派になったねぇ!あんなに小さかったのに……えぇ……」

  仁空くんの全身を見渡せば見渡すほど、感嘆の声が溢れてしまう。虎獣人とはいえ子供の頃なんて腰元くらいまでしかなかったのに、今やドアに頭がぶつかりそうなくらい背も伸びて、何より社会人としてちゃんと仕事をしている。あんなに甘えん坊だったのに、立派に成長した姿を見て……驚きとも感動とも言えるような、絶妙な幸福感に包まれていた。

  「あ、とりあえず荷物…………重いんで、中に運びましょうか?」

  「あぁ、じゃあ、うん。お願いします」

  玄関開けっ放しで立ち話というわけにもいかないし、とりあえずは中には入ってほしいけれど、大人になった彼との難しい距離感を実感する。仕事の邪魔してもいけないし。

  玄関を閉めて、廊下の前に段ボールを置いてもらう。腕の筋肉がグッと強調されて、逞しくなったなぁと改めて感動する。自分のクラスの子が、こんなに大きくなるなんてなぁ。

  「…………保坂先生……会えて嬉しいです」

  「いやこちらこそ……沙川で働いてるんだ?」

  「はい、あの……最近上京してきて………保坂先生は、まだ先生なんすか?」

  「はは、相変わらずつつじ保育園だよ」

  彼が上京してきたという話を聞いて、当時の記憶が少しずつ甦ってくる。仁空くんは卒園と同時に四国かなんかに引っ越してしまい、当時の友達と別れを惜しんでいた覚えがある。最近ということはそれまでずっと地方にいたのかな。

  仁空くんは胸ポケットからペンを取り出して、用紙にサインを求める。慣れた手つきに感心しつつ、もう少し話したいなと寂しくなる。

  「……よく一目で分かったね。保育園の先生なんか、覚えてない人も多いのに」

  「…………保坂先生は、オレに気づくまで遅かったっすね」

  「ははは、いやぁ……だって全然見た目違うもん。大きくなったねぇホントに」

  彼にペンを返すとき、自ずと手が触れ合った。自分よりも一回りも大きな掌に、ますます感慨深くなる。

  「保坂先生……ちょっと老けたっすね」

  「ちょっとどころか……もうおじさんだよ」

  「いくつですか?」

  「えー41。仁空くんは?」

  「22っす」

  若いなぁ、とも老けたなぁとも言えるような、変な感覚。卒園からだから、14、5年ぶりの再会ということになる。こんな小説のような偶然が、人生にはたまに訪れる。退屈だった日曜日が、一瞬にして意義のある日に思えてきた。

  仁空くんはサインを貰った後も、少し名残惜しそうにモタモタと玄関のドアを開けると、その端正な顔立ちに微笑を浮かべた。

  「じゃあ、あの………また届けにくるかもっすけど、会えてよかったです」

  「あぁ、いやぁこちらこそ。頑張ってね」

  「はい!では、ありがとうございましたー」

  感動の再会の後には何故かよそよそしくなるもので、仁空くんはぎこちなくドアを開けて出ていった。腰から伸びる尻尾も太くて縞々の虎らしいもので、もう大人の男なんだなぁ、としみじみと実感した。

  「………………連絡先…………いや、聞くのも変か」

  空っぽの玄関で佇んでいると、一抹の寂しさと名残惜しさに襲われる。もう少し昔話や今の話もしたかったし、心なしか彼も同じように思っている気がした。ただ呼び止めるのは仕事の邪魔になりかねない。とはいえただの昔の保育士に、今後関わるかも分からないのに連絡先を聞かれるのも嫌かもしれない。これもまた運命の巡り合わせだから、機会があればそのうち会うことになるだろう。

  リビングに足を運びながら、感動の余韻に浸りつつもう少しじっくりと当時のことを思い返してみる。

  仁空くんは初めて持った二歳児クラスから、四年間成長を見守ってきた。幼い頃はあまり覚えてないが、年長になるにつれて、よくゆうちゃん先生と懐かれていた覚えがある。ゆうちゃん先生、というのは最初の頃だけ使っていたあだ名で、先輩の先生に子供に舐められ過ぎるという理由で名乗るのをやめた思い出深いものだ。だからそれを知っているのは仁空くんのクラスの子だけで、さっき久々に呼ばれたときに一瞬でピンと来たのだ。

  獣人の本能か、子供たちは種族問わず男性より女性の先生に懐きやすい傾向がある。目に見えない母性、みたいなものかもしれない。しかし仁空くんは珍しく俺にだけ懐いてくれていて、よく腰元に抱きついては離れなかった記憶がある。それについては邪推していて、仁空くんは幼いながら母子家庭で、父親が居なかったからじゃないかと考えていた。母親もあまり印象が良い人ではなく、仁空くんはいつも保育園のギリギリの時間まで母親を待っていた。長い年月が経っても仁空くんを覚えているのは、それだけ印象深く、心に残りやすい経験をしたからだった。

  「………元気そうでよかったな」

  フローリングの上で立ち止まり、しみじみと独り言が漏れる。あの複雑な家庭に育って、仁空くんの将来を多少なりとも不安視していたが、立派な大人になって、逞しく自立していた。筋骨隆々な体と、大きな掌、整った顔のワイルドな若い虎…………自分の好みではある。

  邪な考えが頭に浮かびそうになって、俺はブンブンと頭を振った。自分の元教え子に、そんな嗜好を向けるべきじゃない。彼は彼の人生を、しっかり歩んでいくだろう。俺は俺なりに慎ましく、のんびりと畳んでいこう。

  未だ同じニュースが続くテレビを前に、どっしりと腰を下ろした。

  それから1週間ほど経った頃だろうか。たまたまテレビで流れていた映画に、好きな俳優が出ていて何となく没頭していた。筋肉質な虎獣人のハリウッドスターで、子供向けのスパイアクション映画ながらもついつい上裸のシーンは魅入ってしまう。その浅ましさに自分でも呆れつつ、凡庸な時間を過ごす夜。

  しかしその時、それなりに遅めの時間帯だったが玄関のチャイムが鳴る。インターホンを確認すると、あの水色の制服がカメラに映っていた。大きな段ボールを抱えている逞しい腕は虎の縞模様で、目に入った途端心臓がドキリと脈打った。少し早足で玄関へ向かい、鍵を外して扉を開ければ、予想通りやや疲れ顔の仁空くんが立っていた。

  「……あ、保坂先生……」

  「あぁ、こんばんは。今日もありがとう」

  1回地面に下ろしたり、俺に渡すこともできただろうに、軽く会釈しながら当然のように玄関に入る仁空くん。相当重いだろうに、中に運んでくれるのは腰痛が怖い中年からしてもありがたかった。

  「……また会えたっすね」

  「仁空くんは、ここら辺の管轄なの?」

  「はい。家も営業所の近くなんで、しばらくは」

  廊下の前にドシン、と置いた段ボール。流石の虎獣人でもため息をついていた。

  「……毎度重い物ばっかりすまないね」

  「あぁいや全然。ちなみにこれ……」

  「あ、ウォーターサーバーの水。結構飲むから、毎月届けてもらってるんだ」

  痛風が怖い40代、そのままでも飲むし料理でもありがたく使わせてもらっている。仁空くんがしばらくこの辺にいるってことは、もしかしたら月に1回は顔を合わせるのかもしれない。この間は感動の再会だったけれど、そう何度も会うんだとしたら普通の配達員さんとの距離感に変わっていきそうだ。

  廊下に段ボールを下ろしてくれた仁空くんだったが、サインを求めることもせずじっと俺の顔を見つめる。

  「…………じゃあ良かったら、中まで運びましょうか」

  「えっ?いいよ全然……」

  「結構重いですし、運びますよ。ホントはダメなんすけど、知り合いだし」

  そう言った仁空くんの表情は感情が読み取りづらく、断ろうか数秒間迷った。だが実際重いものを運ぶのは怖いのもあるし、何より仁空くんともう少し話してみたかった。昔のこと、どれくらい覚えてるか聞きたかったのだ。

  「…………じゃあ……頼もうかな。ありがとう」

  「うっす。あ、足臭いかも」

  「気にしないよ、男の独り暮らしだから」

  仁空くんはその大きな靴を脱ぐと、廊下に上がって腰を屈め、また段ボールを持ち上げた。すぐ近くでフワリと香った汗の臭い、恐らく1日中荷物を運んでいたんだろう。つい当たり前に思ってしまうけど、彼らのおかげで便利な暮らしが出来ていることに、通販好きな自分は尚更感謝しなければならない。

  廊下から左右の扉に洗面所やら寝室やらあるが、通り過ぎて突き当たりのリビングに入る。キッチンとくっついていて、家にいるときはほとんどここにいる。清潔かは分からないが、小綺麗にしておいて良かったとホッとした。

  「……めっちゃ広いっすね」

  「そうかな……普通だと思うよ」

  「うちの倍くらいあります。めっちゃ綺麗だし」

  「上京してきてすぐは、物価も変わるし大変だよね」

  「部屋汚いのはオレのせいっすけどね。片付けらんなくて」

  二十歳すぎの独り暮らしなんてそんなものだ。独身が長いと自然と生活に凝るようになり、掃除や自炊が上手くなってしまう。世の同世代はもう子供がいて奥さんにやって貰ってるのかなと、想像すると切ない。

  仁空くんに頼んで、冷蔵庫横のウォーターサーバーのそばに置いてもらう。この家でも彼の体格が良いせいで、天井が低くなったような気がする。

  「保坂先生は独身すか?」

  「うん、見た通り」

  「……結婚しないんすか」

  「はは、できないって感じかなぁ」

  「モテそうなのに」

  「いやいや全然。仁空くんこそ、こんな男前になってびっくりしたよ。保育園の頃は、あんなに甘えん坊だったのに」

  さりげなく保育園の話を出すと、仁空くんは苦笑いを浮かべた。当人は覚えていたりするんだろうか。

  「………そんなに覚えてねぇすけど……オレ一番帰るの遅かったんで、保坂先生にずっと見ててもらってたのは覚えてます」

  「あ、覚えてる?絵本読んだり、トランプやったり……あ、折り紙とか、よくやったよね」

  「……っ………今でも風船折れるっすよ」

  仁空くんはちょうど思い出したのか爽やかに微笑んで、懐かしそうにどこかを見つめていた。しかし本当に、とても感慨深い気分だ。保育士は自分が持った子供と再会することなんて滅多にないから、大人になった彼と話しているのが不思議な感覚だ。そんな長い時の流れを経ても、自分が教えた折り紙を覚えててくれていることに、じんわりと胸に喜びが広がった。

  「他に、何か覚えてることある?」

  「えっと………………恥ずいんですけど、昼寝の時間のとき、保坂先生の隣を……取り合ってたなって」

  「あ、あぁ!!そうだ望結ちゃんとよく喧嘩してたねぇ………懐かしい……」

  バッと記憶がフラッシュバックして、お昼寝の時間、最初だけ横になる俺の隣を争って、仁空くんと望結ちゃんが何度か喧嘩をしていた。結果二人の真ん中に寝ることになったが、当時は懐いてくれて満更でもなかったのを思い出す。

  記憶が戻れば戻るほど、仁空くんとは長い時間一緒にいたなと再認識する。今ほど働き方も整備されてないし、仁空くんのお母さんが来るまで帰れない、みたいな日々だった。残業は当たり前だし賃金も安かったから、仁空くんのクラスの卒業を見送ったら辞めようかなと当時は考えたりもしていた。

  その流れで、ふとお母さんのことも気になった。

  「……仁空くんのお母さんは元気?」

  「………………まぁはい」

  「あぁそっか……良かった」

  母親の話題を振った途端、ふっと表情が真顔に戻って、口数が減る。あまり親子関係は良好じゃないようで、地雷を踏んだと後悔した。もしかしたら学生時代も放任主義だったのかもしれない。

  急に冷えてしまった空気の中、仁空くんは少しもじもじとしながら、視線をあちこちに向けていた。

  「…………あの、まだ今仕事中なんで…………」

  「あぁぁ、ゴメンゴメン!引き留めちゃって」

  「いやあの、なんで………良かったら今度…………呑み行きませんか?」

  慌てて帰そうと体を退けたとき、予想外の言葉が聞こえてきて、一瞬固まった。しかしすぐに胸が暖かくなり、答えるより先に頷いていた。

  「行こう行こう、ゆっくり話したいし」

  「マジすか、じゃ連絡先………あてか呑めますか?」

  「うん、強くはないけど。えっとどうしたらいい?」

  電子機器が苦手な訳じゃないけれど、SNSの友達追加のやり方がなかなか覚えられない。若い子に任せた方がいいだろうと早々に諦めて、携帯を手渡した。

  「……いつぐらい平気すか?」

  「基本いつでも。保育士はシフト制だから、候補日出してくれたら助かるよ」

  「えっとじゃあ……………今週の土曜とか」

  「あぁうん、大丈夫」

  「よっしゃ。じゃまた時間帯と店、Lineで決めましょう。また連絡するんで」

  「わかった……あ、これもう入ってるの?」

  パッと携帯を返されて、この短時間でもう連絡先を交換し終えてるなんて、流石若者だなぁと感心した。と同時に自分が爺臭く思えてきた。

  尻尾をぶらぶらと揺らしながら、玄関へ向かう仁空くんに着いていく。この逞しい大きな背中からでは、寝る場所で女の子と喧嘩していたとは到底思えない。今の仁空くんに腰に抱き着かれたら半ばタックルで、吹き飛ばされそうだなとこっそり笑った。

  さっさと乱雑に靴を履く姿を見守っていると、手早く身なりを整えて、くるりと振り返った。

  「………じゃあ……お疲れっす。絶対連絡します」

  「……うん、お疲れ様。また土曜に」

  無骨にはにかんでから、出ていこうと扉を半開きにした彼の手が、突然バタンと閉まる。

  「っ、サイン…………もらうの忘れてました」

  「あぁ……っ……ははは、そうだったね」

  慌ててペンを探す彼を見て、思わず笑ってしまう。恥ずかしそうに苦笑して、サインする俺を見下ろす。そんな彼の笑顔は、あの頃の面影を感じさせてくれる、無邪気ながらも寂しそうなままだった。

  6/7

  『海鮮居酒屋とか』

  『どうすか』

  「いいですね❗」

  『じゃあ予約取っときます』

  『何時からいけますか』

  「土曜は休日だから何時から                        でも大丈夫です。八時とか❓️」

  『了解っす』

  『当日仕事なんで』

  『現地集合でいいすか』

  「いいですよ❗」

  6/10

  『先着いてます』

  仁空くんからの連絡が来て、待ち合わせの居酒屋の前でふぅとため息を漏らした。駅前の飲み屋街の一角にある海鮮居酒屋は、数回来たことがあるくらいの店だが、どうも緊張感が拭えなかった。安易に飲みに行こうと了承してしまったものの、20歳も下の若者と居酒屋に行くなんて未知の経験で、どんな服を着ていけばいいのか、どんな話をすればいいか、どんな注文をするかまで変に考え込んでしまった。一般的な会社員と違って、飲みニケーションとか呼ばれる仕事仲間との飲み会もほとんど無いし、このご時世飲み会自体も減っているし、そもそも保育士って殆ど女性だし。俺が男性と最後に飲みに行ったのは、数年前のマッチングアプリ以来。もちろん仁空くんをそういう目で見ている訳では無いが、それだけ拗らせたおっさんには不慣れでハードルが高いものなのだ。

  仁空くんにダサいと思われたくはないし、でも変に若作りして無理してると思われたくもない。年相応の服装って改めて考えると難しく感じた。特段そういうものにこだわりを持って生きてこなかったタイプだから。

  ゴタゴタ考えていても仕方ないと、扉を開けて店員に軽く会釈する。やや混みくらいの居酒屋の中を見渡すと、端のテーブル席に虎獣人の大きな背中を見つけた。

  「…………っ…………仁……空くん、こんばんは」

  「あ、保坂先生……うっす」

  携帯を見ていた彼にぎこちなく挨拶すると、その強面を上げて軽くお辞儀をされる。彼はシンプルな黒いTシャツに、銀色のチェーンネックレスをしていた。虎獣人は白や黒の服が似合う人が多くて、若者といえど俺の世代とそんなに変わらないファッションでなんだか安心した。

  席に着いたタイミングで、おしぼりが運ばれてきた。テーブルの上を整理しながらも、店員さんに注文する。

  「あ、とりあえず生ビール……」

  しかし俺が口走ると同時に、仁空くんがクスリと笑った。

  「……先生、ここQRっすよ」

  「えっ!?前は無かったのに……!!」

  壁側のメニューがある所には、QRコードの書いた札が一つ立てられている。前回来たのがいつだか覚えてないが、時代の変化の早さに置いていかれた気分になった。

  店員さんはニコニコと笑いながら去っていき、多少の気恥ずかしさから気を取り直して仁空くんと顔を合わせる。

  「じゃあ……生中でいいすか?」

  「あぁ……お願いします」

  「っ、何で敬語なんすか」

  「ははは……いやなんか申し訳なくて」

  ポチポチと手際よくスマホを操作する仁空くんに任せつつ、注文をどんどん決めていく。自分でも勿論スマホとかちゃんと使えるけど、若い人って操作が速いよなぁとぼんやりと思った。

  ひとしきり終えたところで、ようやく落ち着いて世間話が出来そうな空気だった。真正面でちゃんと向かい合うと、成長を感じながらも子供の頃の面影もまだ残っていて、特に顔の周りの縞模様なんかにそれが感じられる。仁空くんと居酒屋に来ているのが、やっぱりまだ1割くらい信じられなかった。

  「保坂先生は、前も来たことあるんすか?」

  「うーん結構前にね。メニューとかも色々変わってたなぁ」

  「居酒屋よく来ます?」

  「あんまりかな。家で飲む方が多いよ」

  実際は9対1くらいで家飲みだった。友達はみんな結婚したし、アプリにも疲れてしまってどうも外で飲む気にならなかった。

  「仁空くんはよく飲むの?」

  「……先輩に連れてってもらってちょくちょく。でもビールばっかで、カクテルとか日本酒はあんま分かんないんすよね」

  「そうなんだ。良かったら今度オススメするよ」

  「あざす」

  ちょうどそのタイミングで、店員さんが中ジョッキを持ってきてくれた。家だとこんなキンキンに冷えないから、思わず喉鼓を鳴らす。

  「……じゃあ、乾杯!」

  「……あざす…………っ………」

  二人してジョッキを重ねて、小気味良い音を鳴らしてから、グビグビと喉を上下して飲み干していく。二口三口くらいで口を離し、はぁーと満足げなため息をついた最中、向かいの虎獣人のジョッキは傾き続け、7割くらいを一気に飲み干してしまった。

  「ッはぁぁ…………染みる…………ッ」

  「ははは、仕事帰りなんだっけ?」

  「うす……………今日は残業少なめに済んだっす」

  「暑い中大変だねぇ、お疲れ様」

  昨今は6月でも十分暑くなってきて、子供達と遊んでいてもすぐ汗をかいてしまう。一日中外にいる配達員は大変だろうと同情する。

  「保坂先生は、休みの日何してるんすか?」

  「休みの日ねぇ…………ちょっと凝った料理作るくらい。あんまり何もしてないよ」

  「へぇ……キッチンデカかったすもんね」

  「仁空くんは自炊する?」

  「………………あの、ちょっといいすか……」

  何気ない質問を振ったときに、仁空くんは頭をかいて苦笑した。どうしたのかと見つめていると、やや気まずそうに切り出した。

  「オレ、仁空って名前…………あんま好きじゃなくて」

  「あほんと?何で?」

  「なんかキラキラネームっぽくないすか」

  まぁ確かに当時の子供の名前では珍しい方だけれど、今の子の初見じゃ読みようがないキラキラネームに散々触れてる身からしたらあんまり気にならなかった。

  「そうかなぁ」

  「なんで、初めて会った人とか、友達には仁って名乗ってるんすよ。保坂先生にも、そう呼んでほしいっす」

  「あぁうん、分かった。でもそれ言うなら保坂先生も何だか職場の人みたいだなぁ」

  「保坂先生………保坂さん、ゆうちゃん……は流石にあれっすもんね」

  「ははは、まぁお互い大人だしね」

  今の仁くんがゆうちゃんと呼ぶのは、それはそれで別の可愛らしさがあるけれど。

  「ゆうさん……祐輔さん…………」

  「あ、よく名前知ってるね」

  「…………やっぱ保坂先生が一番しっくり来るっすよ」

  色々と考えた挙げ句最初のに戻ってしまった。園児の頃はゆうちゃん先生だったけど、大人になった今の距離感は難しい。こうやって飲みには行ってるがうっすらとした上下関係はあるし、例えば学校の恩師とかには一生先生って呼び続けるし。距離が縮まればと安易に思ったが、今くらいがベストなのかもしれない。

  「じゃあ今のままでいっか。あれ、で……何の話だったっけ?」

  「呼び名すか?」

  「いやその前………えっと、あ、仁くんは自炊するんだっけ?」

  「あぁ、いや全くっす。コンビニとスーパーばっかっすね」

  何となくイメージしていた通りで、仕事は出来るが生活力の無いタイプだ。元々こういう人への憧れもあって、昔から結構ガサツな人がタイプだった。恋愛もガサツだから、付き合っても長続きしなかったけど。

  「まぁ忙しいもんね……」

  「保坂先生料理得意すか?」

  「それなりかな。自炊歴長いから」

  「うわ食べてぇっす。今家庭料理に飢えてて」

  そう言ってじっと目を見つめられた途端、頭の中で仁くんにご飯を振る舞う妄想が浮かんできた。働き盛りだし大柄だから、たくさん食べてくれそうだ。人に料理を振る舞うことなんか滅多に無いが、美味しい美味しいと食べてくれたら相当嬉しいだろうな。

  「……よかったら、今度振る舞うよ」

  「マジすか、アツ。絶対食べ行きます」

  「家近いんだっけ?」

  「えっと……車で4、5分すかね。チャリで行けます」

  仁くんは前のめりに俺と会う予定を立てようとしてくれる。独身でインドアな自分には嬉しさもあるけれど、何故昔の保育園の先生にそんなに会いたいんだろうか。こんなオッサンの手料理を食べるより、同年代の子とたくさん遊んだ方がいいんじゃないのかと頭に過る。

  「………でも、俺なんかより彼女に手料理作ってもらった方がいいんじゃない?」

  それとなく彼の交遊関係について話を逸らす。男前だし、女の子と遊ぶには困らないだろう。

  しかし仁くんは、けろりとした顔で言い放った。

  「あーオレゲイなんで、女の子興味ないっすね」

  「……っ…………」

  こんな場所で、ほとんど初対面の人相手にも平然とカミングアウトするなんて……今昔のゲイの違いにジェネレーションギャップを感じつつ、驚きを隠すためにとりあえずビールを口に運んだ。

  もし本当に初対面だったら、自分もゲイだと言えたかもしれない。でもここで俺もゲイだと言ったら、まるで仁くんのことを狙っていたかのように捉えられかねない。いやそんなことは杞憂かもしれないが、仁くんの見た目や印象が自分好みだったせいで、嫌われたくないという意識が強く働いてしまった。

  結果的に俺は、

  「んー、いいと思うよ」

  この長いゲイ人生で散々言われてきた反応をなるべくトレースし、精一杯なノンケのふりを見せることに落ち着いた。仁くんは何とも言えない顔でこっちを見ているが、嘘が見抜かれたような様子ではなかった。

  やや気まずくなった空気に、ちょうど良いタイミングで店員さんがやってくる。

  「……こちらお通しでございまーす」

  「あぁ、ありがとうございます……」

  「………………あざす」

  お通しに夢中なフリをして、なんとかその話から逃れようとしていると、仁くんの方から話題を変えてくれた。

  「つつじ保育園は、変わんないっすか」

  「あー仁くんがいた頃とちょっと建物が違うかな。一回内装をリフォームしたから。あでも園庭はほとんど変わってないと思うよ」

  「見に行きたいけど、今行ったら不審者っすもんね」

  「はは、確かに。母校訪問の保育園版は聞いたことないもんなぁ」

  それはひとえに、仁くんが何故か保育園を大事に思ってるからだろう。皆自分がいた保育園なんて、興味ないだろうに。

  「仕事でなんか届けることがあるかもっすね」

  「あぁどうだろう……うちは沙川じゃなくて山都が多いかなぁ」

  「保坂先生の力で、沙川に乗り換えてくださいよ」

  「ははは、そんな権力ないよ。意識して山都にしてるわけじゃないし」

  俺が笑うと、仁くんもつられたように微笑みを浮かべた。普段が強面なだけに、笑顔はギャップがあって可愛らしい。年相応の清々しい笑みにハートを射貫かれそうになりながらも、勝手ながら親のような気持ちで温かい目を向けてしまう。今持っている子供たちも、こんな風に成長するのかもしれないと想像すると、自然と喜びににやけてしまいそうだった。

  [newpage]

  6/14

  『明後日』

  『飯食いに行っていいすか』

  「いいよ👌」

  「何食べたい❓」

  『白飯と味噌汁てきな』

  「そんなんでいいの❓」

  『定食みたいな』

  『はい』

  「了解❗」

  『楽しみっす』

  6/16

  『8時過ぎに行けるんで』

  『大丈夫っすか』

  「うん、大丈夫❗」

  「苦手な物とかあったりする❓」

  『しそとパセリっすね』

  「了解笑笑❗」

  盗み見していた携帯を切って鞄の中に仕舞うと、早々に切り上げようとしている事務仕事と一度目が合ってしまう。これを片付けずに週末に入るのは、未来の自分に借金し過ぎている気もする。ただ今日は珍しく予定があるのだ。仁くんが家にご飯を食べに来てくれる、大事な予定が。自分の晩御飯なんて30分もかからないけれど、誰かに振る舞うってなったら凝りたくなってしまうものだ。楽しみだと言ってくれる仁くんの期待を裏切りたくないし、今日次第では今後も家に来てくれるきっかけになるかもしれない。

  少しの間続いたにらめっこを終わらせて、パソコンの電源を切って書類を整頓すると、残っている先生たちに軽く挨拶をしてから、後ろめたいことがあるかのように足早に玄関へ歩みを進める。

  しかしそのとき、背後から声をかけられた。

  「あ、保坂先生お帰りですか?」

  「あぁぁ、そうです今日はちょっと……」

  話しかけてきたのは猫獣人の松村先生だ。30歳前後の女性の先生だが、新卒の先生よりも悩み事を多く抱え、主任として頻繁に彼女の相談を聞いてきた。大半は他の先生への遠回しな愚痴だったりするけれど。

  俺の苦笑いに露骨に残念そうな顔を浮かべる松村先生。

  「えぇぇ今日ちょっとお話したいことがあったんですけどぉ……」

  「すみません、急用で………」

  「えぇどうしてもダメですかぁ?保坂先生しかいないんですよぉ……」

  チラリと上目遣いで猫なで声を発する松村先生。こういうところが、他の先生や保護者との確執を生んだりするんだけれど、きっと自分の魅力をよく理解しているんだろう。

  「そうですね……ちょっと今日は残業できなくて……」

  「でもぉ……明日いらっしゃらないでしょ?」

  そう言った松村先生のキラキラとした瞳の奥には、様々な意味が込められているように感じた。きっと俺が深読みしている意図も、想像もつかない感情も、何が混ざった瞳なのかは正確には分からない。先月までの俺なら、承諾していただろう。拒否するリスクより、いいなりになるストレスの方がましだったから。ただ今の頭の中の天秤には、仁くんがいる。たった一人で仕事よりも大きな比重を持つ虎獣人の姿が浮かんだとき、俺は知らない内に片足を踏み出していた。

  「すみません、本当に大事な用事で、また来週時間作りますから、今日は……さようなら!」

  段々と加速する早口に呼応して、その場から逃げるように靴箱へ向かった。松村先生の顔は怖くて見れなかったし、声も聞けなかった。来週の自分に更なる負債を作りながらも、園を出る頃には晩ご飯のことで頭がいっぱいになっていた。

  帰宅して早々、スーパーで揃えてきた具材を整理し、ひとまず部屋着に着替える。人に見せびらかせるようなルームウェアはないけれど、一番シンプルで清潔なものを選んだ。料理に取りかかる段階で午後の七時、手際よくやらないと間に合わないかもしれない。

  エプロンを締め、手始めに白米を三号計量し、せっせと研ぐ。数回繰り返して水を入れたら、キッチンのテーブルに三十分ほど放置だ。原理は知らないがこうした方が美味しく炊けるらしい。

  次に味噌汁用の出汁を引く。普段は市販のものを使うが、かつお節から取ることにした。その間にひじきを戻したり野菜を切ったり、慌ただしく行程を進めていく。主菜を肉にするか魚にするかはギリギリまで迷ったが、若者は肉だろうと勝手な偏見で照り焼きに決まった。

  こまめに時計を見ながら、頭の中で工程を組み立て、平行で作っていく。普段は何か聴きながらだらだらと料理してるのに、仕事より集中して及んでいるのは、いかに今日が楽しみだったかということだ。子供のような年齢の若者に、手料理を振る舞うだけでこんなに心踊っている自分が馬鹿みたいだ。そう自覚しながらもデザートまで買ってきてしまうんだから、理性の声は一度無視して、一心不乱に料理を作り続けた。

  白米の土鍋に火をかけ始めたくらいで、ふと時計に目が行く。八時まで十分弱、かなりギリギリというかオーバーしそうなことは自明だった。豆腐と長ネギの味噌汁、照り焼きと千切りキャベツ、ひじきの煮物にだし巻き玉子までは出来ていたが、洗い物もしたいし部屋に掃除機もかけたかった。そういえばトイレも掃除したかったんだ……と今朝やればよかったと後悔する。初めて彼氏が来る乙女じゃないんだからと言い聞かせるも、無性にドキドキした感情は抱えていた。思えば誰かに手料理を振る舞うなんて十年はやってない。

  「中火でじっくり……そろそろ沸騰するかな」

  自然と増える独り言。時計を見ながら何度も土鍋を覗き込む。ここが一番失敗したくないからな。

  「…………よし、このくらいかな」

  換気扇へと吸い込まれる湯気を嗅ぐと、炊ける前の馴染み深いお米の匂いに包まれる。弱火にして、プツプツ音が消えるまで、さらにじっくり加熱していく。

  しかしその時、予想よりも早くインターホンが鳴り響いた。ピンと耳を張り、早歩きでチラリと画面を確認すると、虎柄の太い腕と逞しい胸元が映っていた。

  すぐに玄関へ行き、ドアを開けると大柄な彼の身体が割り入るように勢いよく入場してきた。

  「保坂先生!……あ、こんばんは」

  「ははは、元気だね。どうぞ入って」

  「うわ、なんかめっちゃ良い匂いする」

  「あぁ……ご飯まだ途中なんだ」

  仁くんをリビングまで先導していたとき、そう言うとピタリと彼の足が立ち止まった。

  「……あの、オレ仕事終わりで家帰ってすぐ来たんで、結構汗臭いっつーか……」

  「え?あぁ……でも気にしないよ」

  彼はすごくラフなTシャツと短パンで、じんわりと脇汗のシミを作っていた。犬科の俺はその強い汗の臭いも当然嗅ぎとっているが、別に不快とも思わなかった。

  「…………いやあの、よかったら、風呂貸してくれませんか?」

  「えっ!?お風呂?」

  予想外な頼みにピンと尻尾が張ってしまう。貸すのは全然構わないが、何か変な物置いてないよなと念のため数秒考える。いや人に見られて困るような物は無いんだけど。

  仁くんはやや申し訳なさそうな顔で俺をじっと見つめている。

  「……ムリすか?」

  「あぁいや全然いいけど、替えの服とかあるの?」

  「一応パンツ以外は着替えてきたんで、これで。もう汗かいてるっすけど」

  自嘲気味に笑う仁くんに、絆されて微笑んでしまう。こんな顔されたら、断る方が難しい。

  「……じゃあよかったらその服洗っとくよ。乾燥機あるから」

  「え、マジでいいんすか?」

  「うん。三十分くらいだと思うから、ゆっくり入っておいで。その間にご飯作っとくよ」

  俺がそう言うと、仁くんは少し屈んで俺の顔をじっと覗き込んでくる。近いとより迫力を感じて、目をしばたたく。

  「保坂先生、優しすぎ。マジ大好きっす」

  鋭い牙を見せながらニカッと笑った彼の顔に、あの園児の頃の無邪気な面影と、成長して男前になった格好良さを同時に感じて、照れ臭いような懐かしいような、言い知れぬ感情で胸が熱くなった。

  仁くんが風呂に入っている間に、彼の服を洗濯機にかけつつ、料理の方はほとんど出来上がっていた。なるべく出来立てを食べて欲しいから、盛り付けるのは直前でいいだろう。となれば洗い物やリビングの掃除でもしようかと止めていた足を動かそうとしたとき、ピーッピーッと洗濯機の音が聞こえてきた。お急ぎにしたからこんなもんだろう。

  洗面所の方へ歩いていき、ドアを開けようとノブに手をかけた瞬間、反対側からぐいっと扉が押されて開いた。あっ、と思わず出そうになった声が、目の前に現れた仁くんを見て飲み込んでしまう。何故なら彼は腰にタオルを一枚巻いただけの姿だったからだ。

  「……あ、乾燥機、やり方分かんなくて」

  「っ、あぁいややっとくよ。早いね浴びるの」

  仁くんの身体は布越しに想像していたよりもはるかに雄々しく、逞しいものだった。分厚く膨れた胸筋に、乾いた体毛の上からでも感じる腹筋の凹凸。他よりさらに発達した腕回りの筋肉は、配達業で毎日鍛えられているんだろう。少しくびれた腰元には俺のバスタオルが巻いてあり、膝から下も長く太い足が伸びている。明日にでもモデルにスカウトされそうな、雄性の塊のような肉体美。俺のような典型的なゲイにとっては目に毒だ。

  「シャワーだけなんで。でもあちぃっすね」

  仁くんはまるで二の腕や腹斜筋をアピールするように肘を上げて後頭部を掻いた。思い過ごしだろうが、魅入ってしまうのをバレたくない一心で、彼の筋肉から目を逸らす。洗濯機を開けて、湿った塊になっている彼の服を乾燥機に移し、さっさとリビングに戻ることにする。

  しかし当然といえば当然だが、仁くんはそのまま俺の後を着いてリビングへと入ってきてしまった。

  「風呂あざした。シャンプーとかタオルも」

  「いやいや全然。なんか飲む?」

  「いいんすか?じゃあ……」

  暑いと言っていた彼のために冷蔵庫を開けると、お茶と牛乳とビールくらいしかなかった。吟味している最中、不意に背後に気配を感じて、次の瞬間彼の顔が真横にあった。

  「冷蔵庫でか。お茶がいいっす」

  「ッ、あぁうん……」

  二人で並べるほど広くないキッチンで、仁くんの体がわざとらしいくらいに密着する。彼の鮮やかな体毛からは、普段使いしているシャンプーの香りと、仄かに汗の香りが混ざっている。平静を装いながらも、彼の脇の下で頭を屈めながら麦茶のポットを取り出した。

  適当なコップに注いでいると、並べられている料理を見たのか、仁くんからやや興奮気味な声があがった。

  「うわッ、マジで旨そう。早く食いてぇ……」

  「はは、お腹空いてる?」

  「うす。昼飯抜いてきたんで」

  「え!?大丈夫なの?」

  「大丈夫っす。今からいっぱい食うんで」

  麦茶が注がれたガラスのコップを手渡すと、仁くんは小さく礼を言いながらグビッと飲み始めた。またしても持ち上がった腕のせいで、強調される筋肉と、ゴクッゴクッと飲み干していく度に上下する喉仏が、あまりに性的だったもんだから、思わず唾を飲んでしまった。

  しかしここまで触れないのも逆に変だと思い、仁くんの体について話題を振る。

  「……すごい体だね。ボディービルみたい」

  「……ッふぅ……あざす。ラグビーやってたし、仕事でも体動かしてるんで」

  「虎獣人だしなおさら迫力があるよ。職質とかされない?」

  「めっちゃされるっす。東京来てもう五回くらい」

  「五回!?やっぱり目立つのかなぁ」

  「反社顔なんすよ」

  ニヤリと笑った彼からコップを受け取るのも、どこか意識してしまう。冷静に考えてみると、居酒屋でゲイだって平然とカミングアウトして、うちに来て、上裸でアピールしてくる。これってもしかして、俺のこと気になってるんだろうか。

  すぐにでも辿り着きそうな結論に、何度も何度も抵抗して、思い上がらないようにしてきた。ただ最早それが不自然なくらい、仁くんは距離を詰めようとしている気がする。ただ俺は仁くんにノンケだって認識されているはずだし、まだ正確な意図は分からない。勘違いするのが一番恥ずかしい。二番目は平静が保てなくなることだ。

  「……料理途中だから、ソファとかでくつろいでていいよ」

  「うす。あでもタオル濡れてるっすけど」

  「気にしなくていいよ。乾燥機終わったら、早く服着なよ、風邪引いちゃうから」

  「はい……なんか、親みたいっすね」

  小さく笑いあってから、先に出来ていたいくつかのおかずを火にかけて温め直す。その間に食器を取り出して、少しずつ盛り付けていく。いつか使うかもしれないと、昔買ったまま置いていたペアの食器を使える日が来ることにも喜びが湧いている。

  箸を使ってなるべくそれっぽく飾り付けてから、お盆の上に一人前の定食を並べていく。ふんわり炊けたご飯と芳しい味噌汁の湯気が混ざって、まさしく家庭料理の匂いがする。味見した分にはまぁいつもと変わらないくらいだが、満足してもらえるだろうか。

  またしても仁くんをチラ見すると、ソファに座って携帯を見ているようだった。どの角度から見ても逞しい筋肉と艶やかな若い毛皮に、あまり長いことそのままでいると邪なことを考えそうになるので、乾燥機の通知音が鳴ったのを聞いて謎に安心感を覚えた。

  「……仁くん、乾燥機終わったよ」

  「……ぁマジすか。うわ、めっちゃ旨そう……ッ」

  「はは、早く着替えておいで」

  足早にリビングから出ていく彼の広背筋も目に焼き付けてから、お盆をダイニングテーブルに運び、さっきのコップに麦茶を注ぎ直す。自分の分は少量でいいかと、やや雑めに数品盛り付けて向かいの席に皿を並べる。あぁ、もしかしたらマヨネーズとか欲しいかな。

  テレビを付けて適当なバラエティ番組に変えて、何か準備を忘れてないかとぼんやり立ちすくんでいると、さっきの服を着た仁くんがリビングに戻ってきた。

  「……やべぇ。マジで最高っすね」

  「いやまだ食べてないでしょ……」

  「保坂先生が作る料理なんか旨いに決まってますもん」

  軽口のようにも聞こえるが、ん?どういう意味だと一瞬引っかかった。なんとなく保育士に家庭的なイメージを持ってるのかな。

  仁くんと共に向かい合って席に着くと、定食が気になって仕方ない仁くんと、その様子を見るだけで笑みがこぼれてしまう俺がいる。

  「……旨そう。もう食っていいすか?」

  「ははは、もちろん。感想聞かせて」

  俺が手のひらを差し出すようなジェスチャーをするや否や、いただきまーすと言いながらお肉の照り焼きにかぶりつく仁くん。そしてすぐさま白飯をかき込んで、若干マズルを膨らませながら微笑んで咀嚼する。

  ごくりと飲み込んだ瞬間に、満足げなため息と共に第一声が飛び出した。

  「マッジで旨い!!最高!」

  「はは、ほんとに?良かった」

  返事も惜しいというかのように、すぐに味噌汁の器を傾ける。しばらく啜ったあと、あぁぁと野太く低いため息が吐き出された。

  「……味噌汁うめぇ………無限に飲める」

  「あぁ、大体おかわりあるから、欲しかったら」

  「マジすか、じゃあ白飯……」

  食い気味に差し出された茶碗には、一粒たりとも白米が残っていなかった。

  「ッ、え!!?もう食べちゃったの?」

  「旨すぎて……おかわりいいすか」

  思わず笑いながら茶碗を受け取って立ち上がり、土鍋によそいに行く。お肉一枚でこんなスピードで平らげてしまうとは、虎獣人の、加えて配達員の胃袋をなめていた。三号しか炊いてないから彼の胃袋を満足させるには足りないかもしれない。

  白米を多めに盛って席に戻ると、煮物や玉子にも箸をつけ、舌鼓を打っているようだった。

  「全部旨いっす。なんか全部優しい味っつーか、懐かしい感じがする」

  「あぁ……なんかお袋の味みたいな?」

  流暢に喋っていた仁くんの表情が、一瞬だけ強ばったように見えた。しかしかぶりついていた玉子を飲み込むと、何食わぬ顔で口を開く。

  「……俺の母親、飯作んなかったんで。今日からこれが俺のお袋の味っす」

  「あはは……そっか」

  仁くんは平然と食べ進めているが、思わぬ地雷を踏んでしまったと後悔した。園の頃からやや粗暴な印象はあったが、引っ越してからも放置気味な家庭環境だったらしい。本人がどう思っているかは分からないが、赤の他人が聞き出すのはもっと仲良くなってからだろう。家族関連の話題は避けるべきだ。

  再びテーブルについて、俺も箸を持って食べ始める。まずは味噌汁に口をつけて、出汁をじっくりと探して味わいながら、心を落ち着かせる。お味噌も知り合いに貰った少しいいやつを使ったから、濃厚ながら飲みやすい。

  ふと前方に視線を向けると、黙々と箸を進めながら、気持ちいいくらいの食べっぷりを披露する仁くんの姿。大口を開けて一気に放り込み、モグモグと時間をかけて咀嚼する。茶碗の白米が一口で三分の一ほど消えてしまい、マジックを見ているようだった。

  俺の視線を感じてか、仁くんに見つめ返される。

  「………………なんすか?」

  「あぁ……いや、気持ちいいくらい食べてくれるから、見てるだけでお腹いっぱいになりそうだよ」

  「……めっちゃ腹減ってて。ほんとはもっと味わって食いたいんすけどね」

  「でも、よく噛んで食べて偉いよ」

  仁くんの食べる様子はずっと見ていられるような気がした。食べ方が綺麗で尚且つ豪快なのもあるし、自分が作った料理だからなのもある。そして噛んでいるとき、俯きながらたまに嬉しそうな微笑みを見せてくれるのだ。ご飯と共に、幸せを噛み締めてるような。

  あまり凝視していたら食べづらいだろうと思い、盗み見しながら自分の分にも箸を進めていく。普段の料理が八十点だとすると、九十点くらいはあげてもいいだろう。そりゃ普段より手間をかけてるんだから当たり前な気もするが。

  そのとき、前方から仁くんの視線を感じて思わず顔を上げる。

  「…………どうかした?」

  「…………出来立ての飯って、こんな旨かったっけって思って」

  「最近コンビニばっかりって言ってたもんね」

  「……あ"ぁぁ毎日食いてぇ……」

  小さく天を仰ぐように上を向き、チラリと黄色い瞳を俺に向ける。たくさん褒めてくれて嬉しい限りだが、冗談なのか本気なのか絶妙に分かりづらい。本気で受け止めないよう、軽く受け流すような態度を心がける。

  「……毎日ちゃんと作ってるわけじゃないよ。ベーコン焼いて終わりの日もあるし」

  「……オレベーコンもめっちゃ好きっす」

  そう言い放った彼は真面目な顔でじっと見つめてくる。その視線から逃げるように席を立つ。

  「………おかわりいる?よそってくるよ」

  「……………………………」

  空になった器をお盆ごとキッチンに運んで、彼に背を向ける。鼓動は早くなっている。

  「……ッ………………………………」

  仁くんは俺のことが好きなんだろうか。

  普通に考えて保育園の頃の先生を、食事に誘って、手料理を食べに来ることなんてあるだろうか。冗談とするにはあまりにも、仁くんの瞳は真剣だ。ただどうしてそんな気持ちになるのかは分からない。大人になって数回しか会ってないってのに。

  時間稼ぎにゆっくりと、器に運ぶ手は止めない。俺はガスコンロの火をつけた。

  食事が終わって、俺はキッチンで洗い物をしていた。ご馳走のお礼にと、仁くんは皿洗いを申し出てくれたが、客人だし家事は苦手そうなので断った。もともと誰かをもてなしたり世話を焼くのが好きで、リビングで寛いでくれればくれるほど嬉しいのだ。

  加えて嬉しいことに、仁くんは作った分を全部おかわりして残さず食べてくれて、余り物もなくすっきりと洗い物ができる。それこそお米の一粒まで平らげて、それでも尚満腹ではないようで、次食べに来る機会があったらさらに量も必要だと悟った。

  作りながら片付けてもいたので、大した量でもなく、手早く洗い終わってタオルで手を拭く。ダイニングテーブルの奥で、まるで我が家のようにソファーに寝転んでいる仁くんに近づいてみる。

  「…………保坂先生のエプロン姿……懐かしいっすね」

  だらりと仰向けで携帯を見ていた様子だったが、額の上に手をつけて、緩く微笑む。こうして見ると仁くんの体はやっぱり大きくて、三人掛けのソファーに寝転んでも太い足がはみ出して、その筋肉の重さでクッションを深く沈ませている。肩幅も広いから少しでも動いたら落っこちそうだ。

  「園だとずっとしてるもんね。これも園で使ってたやつを縫い直してるんだ」

  「えーすご。何でもできるんすね」

  俺がソファーのそばまで来ると、仁くんはグッと腹筋で上体を起こして、俺が座れるスペースを作った。何気ないと思っているフリをして、空いたスペースに腰をおろした。

  ソファーは三人分あるのに、仁くんが真ん中にいるせいでスペースが狭い。そして彼のふてぶてしく太い足に、俺の足があたってしまう。

  「…………そんなことないよ」

  意識していることを、意識されたくない。どんなことにも動揺せず、どっしりと構えていたい。そんな意図を見透かして嘲笑うかのように、仁くんは俺の首の後ろに右腕を回してきた。

  さすがにこの行動は、指摘しないと変だろう。まるで恋人や………口説く前段階のような。

  「…………仁くん、あの、腕…………」

  緊張しつつも、頭をフル回転させて適切な言葉を探していたときだった。仁くんはそのまま肩を抱いて、彼にとっては軽い力でぐいっと引き寄せる。胸元に俺の肩がぶつかり、思わず上げた顔。想像よりずっと近く、ずっと真剣な整った顔が視界に入る。逞しい腕に抱かれながらも、離れることができないのはゲイの本能かもしれない。

  「…………先生……ゲイでしょ」

  「……………………バレてたんだ」

  「オレの体見てたし……………今も抵抗しない」

  「…………………………………………」

  仁くんの低い声が、耳のすぐそばで聞こえる。誰かと体を寄せあって、何とも言えない空気の読み合いをする……久しぶりの感覚。それにしたって俺は緊張し過ぎているし、仁くんは余裕過ぎる。口説くのに慣れていたりするんだろうか……上京したてなのに。

  「………………保坂センセ………」

  やめてくれ。無理やり顔を合わせようとしないでくれ。こんな情けない姿見せたくない。自分のタイプにドンピシャの、若くて筋肉質で虎獣人。そんな彼からアピールを受けて、生娘のような恥じらいを見せている俺。経験豊富な大人の余裕なんて持っていられない。彼の腕の中で、揺れる尻尾を抑えるのに必死なんだ。

  「………………オレ先生のこと……好き」

  「…………っ…………………困るよ………」

  口から出た声はひどく情けなく聞こえた。仁くんはイタズラっぽくニヤリと微笑んで、空いてる左手で俺の顎を持ち上げる。

  「………困らせたい………」

  「ッ、………………仁くん………………」

  整った顔立ちの虎獣人が、逞しい体で俺を抱き締めながら、少しずつ顔を近づけてくる。その先は容易に想像できる。身を委ねて、若い情欲を、全てを受け入れマズルを重ね合わせるだけだ、仁くんと。

  しかしその時頭の中で、何かが俺を引き留めた。

  …………待て、仁空くんと?

  「……っあの、一つ聞きたいんだけど………」

  「……え?」

  自ら顔を遠ざけた俺に、仁くんも動きが止まる。さっきまでの余裕な顔が、少し驚きの色を見せていた。

  「……どうして、俺を好きになったの?」

  「………………保坂先生、優しくて可愛いから」

  「……でも………まだ久しぶりに会って数回だよ」

  「回数とか…………関係あるっすか」

  「いや、まぁ…………そうだけど、まだ俺たち、お互いのこと全然知らないから………」

  何を律儀に話してるんだと、頭の中で声がする。あのままキスを受け入れてしまえば、何も考えずに後は濃密な大人の時間を過ごすだけだ。全てがタイプの人と結ばれて、すぐに幸せになれるっていうのに、俺は一体何に引っ掛かっているんだろう。

  仁くんは真剣な表情のままだが、心なしか怪訝な面持ちにも見受けられた。

  「……何で………………保坂先生はオレのこと嫌なんすか」

  「いや、全然嫌じゃ……ないんだけど…………」

  むしろ好きになりそうだった。今ですら、自分からキスをしに行かない自分が信じられない。

  ……でも答えは薄々分かっている。俺の中で、まだ整理がついていないだけだ。今目の前いるのは仁くんだけれど、どうしたって昔の仁空くんが脳裏にちらついてしまう。あの甘えん坊でいつも寂しそうな仁空くんを腰元で抱き締めるのと、余裕そうで人懐っこい仁くんに抱き締められるのじゃ、意味が全く違うのだ。

  「…………けど?何でダメなんすか」

  仁くんの声色は、少し不機嫌にも受け取れた。強面で凄まれているような圧もあって、取り繕うように口調が早くなる。

  「……っまだ、お互いのこともっと知ってからでもいいと思うんだ。焦ることじゃないっていうか……」

  「ッ、オレは……………っ………………………」

  仁くんは語気を強めると共に、俺の肩を掴む握力を強めた。痛みは無いが、その迫力に小さく息を飲む。

  次の言葉は、若さ故の大きな感情をぶつけられるんじゃないかと予想していた。しかし思いの外、仁くんは数秒瞼を閉じて、大きく肺が呼吸したのを胸越しに感じた。

  「…………確かに……焦ることじゃない…………すね」

  「うん、その…………俺もどこかに行くわけじゃないし」

  「…………ぅす……………………………っ」

  仁くんは気持ちを鎮めたのか、抑えたのか……抱いていた肩から手を外して、ひとまず普通の関係に戻った。

  俺は仁くんの気持ちを断るような真似をしたが、拒否したいわけじゃない。むしろ付き合いたい……けれど、もう少し時間が欲しい。我ながらおっさんが何を偉そうに言ってるんだと思うが、仁くんとの関係はちょっと特殊で、気持ちの整理が必要なんだ。子供の頃を知っているからこそ、勝手に親のような視点も持ってしまっているから。

  ここで空気を気まずくしたくなかったから、少し無理してでも前向きに、仁くんとの何気ない会話に努めた。やや落ち込んだような様相も見せていたが、仁くんも俺に合わせて、ぎこちない世間話やちょっとした過去の話をしてくれた。談笑とまではいかないが、一度本心をさらけ出したからこそ、とても話しやすくて落ち着いた時間が、俺には心地よかったけれど。

  ソファーには揺れる肩が二つ、その影は決して触れることがなかった。

  [newpage]

  6/16

  『保坂先生』

  『会いたいっす』

  「いつ頃がいいの❓」

  『今日とか』

  「今日はちょっと急かな」

  『じゃあ明日』

  「明日も残業だよ」

  「ごめんね💦」

  『早く会いたい』

  携帯をソファーに投げ出して、うつ伏せでぐったりと横になる。明日から仕事だというのに、ろくに休まった気がしない。

  それは紛れもなく仁くんのことで頭を悩ませているせいだ。まだ気持ちの整理がつかない自分にも疑問符を浮かべるし、それを急かすようにメッセージを送ってくる仁くんにも、ちょっと待ってくれと言いたかった。この二日間、なんであの時仁くんの告白を受け入れなかったのか不思議でしょうがなく、とはいえ彼にメッセージを送ろうとすると、何かが自分を引き留めている。もう彼は大人になって、自分のクラスの園児じゃないというのに。

  「…………はぁ…………何年甲斐もなく悩んでんだろ」

  四十代独身、ゲイの俺にとっちゃ、孤独に余生を送る前の最後のチャンスかもしれない。パートナーを見つけに行きもせず、運命的な再会でまさに棚からぼたもちのような話だ。相手は自分の理想のタイプ。何を迷ってるんだと怒られるような話だ。

  「………………でもなぁ…………俺の中ではまだ仁空くんなんだよなぁ…………」

  頭の中の声に反論するように、薄暗い部屋で独り言をぼやく。まだ再会して数回だし、昔の話や面影を見つければ見つけるほど、恋愛対象としてではなく、懐かしい親戚の子供に会ったかのような気持ちになる。抵抗感があるのはここだ、彼の変化をまだ認められていないこと。完全に俺のせいなんだ。

  「……………………俺じゃなくても、いいと思うけど。何で仁くんは俺がいいんだろう」

  優しくて可愛いから、と仁くんは言っていた。でもそんな人たくさんいるし、その特徴の頂点に自分がいるとは到底思わない。むしろ恩師的な人って、恋愛感情とは真逆の好きに向いていく気がする。俺の高校の時の担任も、かっこよかったけど付き合いたいとは思わなかったな。

  でもそんなの個人の価値観だから、あれこれ邪推しても仕方ないか。あこがれが好きに変わる人もいるだろうし。

  「…………ぅーーーん………………」

  ぐぐっと両手足で伸びをして、気持ちよさに欠伸が出る。次の呼吸で吸い込んだソファーからは、まだほんのりと仁くんの匂いがする。

  「……仁くーーん……………………ちょっと愛が重たいんだよなぁ………………」

  でも若いときってみんなそうかもしれない。運命の人とか、出会い系だろうが占いだろうが本気でやって、傷ついたり悩んだりして勉強していく。俺だって昔はこのくらい情熱的だったかもなぁ。

  なら年上として、人生の先輩として出来ることはなんだろう。彼の情熱をそのまま受け入れるんじゃなくて、たまには窘めながら寛容な心で愛するべきだ。この筋を通すのであれば、必然的にすべき行動も見えてくる。メッセージの返信の仕方でさえも。

  「よし………………まぁうまいことやろう!」

  一つ決意を言葉にして、自分に気合いを入れてから、投げ出した携帯を再び手に取った。

  6/17

  『今日の夜』

  『会えますか』

  「昨日も言ったけど

  残業だから難しいよ」

  『何時でも』

  『待ちます』

  「気持ちは嬉しいけどちょっ

  とだけしつこいよ(笑)」

  「前にも言ったけど、焦るこ

  とじゃないからさ」

  「ちょっとだけ時間をくれな

  いかな?ごめんね」

  『保坂先生は俺のこと』

  『好きじゃないんすか』

  「好きだけど、まだ気持ちが

  整理できてなくて」

  

  『俺も大好きです』

  『早く会いたい』

  「…………………………………………」

  彼からのメッセージを見て、深いため息をついてしまった。会って話してみれば、こんなに話が通じない子ではないのに、メッセージになるとどうも受け取ってくれない気がする。だから苦手なんだ、SNSは。

  「俺の書き方が悪いのかなぁ…………」

  「保坂先生、どうかされました?」

  思わず心の声が漏れてしまって、声をかけられたのにすぐさまパッと顔を上げる。松村先生が不思議そうな顔でこっちを見つめていた。

  ひとまず事務仕事中に私的なメッセージをやり取りしていたのを誤魔化すために、そっと電源を切って鞄に放り込んだ。

  「いえ、独り言です……すみません」

  「いえいえ、保坂先生いつもお忙しくされてるから、体調とか心配になるんですよぉ」

  「自分なんか全然です。うちは園長もいますし、楽させてもらってる方ですよ」

  「またご謙遜なさってぇ。保坂先生がいないと、うちの園は終わりですよぉ」

  褒められているようで、チクリと他の先生方を刺す一言。そんなこと言わなければいいのに、となるべく顔に出ないよう留意する。

  何も言わずに作り笑いを浮かべていると、松村先生はずいっと一歩近づいてきた。

  「お疲れのところ申し訳ないんですけどぉ……先週のお約束…………」

  「……ぁ、あぁそういえばそうでした。すみません」

  「お話聞いていただけます?」

  「はい、じゃあ…………図書館に行きましょうか」

  「えぇ」

  事務仕事を中断して──元々中断しまくってたが──松村先生を先導して保育所内の図書館に向かう。子供も帰ってこの時間なら誰もいないだろうし、先生の面談にはよく利用していた。

  ガラガラと音の鳴る引き戸の扉を開き、静寂した図書館の電気をつける。小学校にあるような大きなものではなく、絵本や知育本、少々の玩具があるくらいだ。手近なパイプ椅子を二つ出して、松村先生に座るよう促した。

  「ありがとうございます」

  「……それでどう言ったお話ですか?」

  「はい、まずは先日信じられないことがありましてね…………」

  トーンをあげて流暢に話し出した松村先生の話を、頷きながら適度に相槌を打つ。たまに共感するような声を出すと、興奮した口調に拍車がかかる。

  「──そのとき前田先生何て言ったと思います?『自分の仕事じゃありません』って、信じられなくないですか!?」

  初めの頃はメモを取りながら、カウンセラーになるような気持ちで話を聞いていた。解決策や、アドバイスなんかも少しずつしていたが、それもやめてしまった。何故なら松村先生の話は9割がただの愚痴だからだ。聞いていて建設的な展開になることはなく、聞く耳もあまり持ってくれない。他の先生方からも松村先生の愚痴を聞くことがあるが、正直個人的にはわざわざ面談で話すようなことじゃないと思っていた。

  それでも聞く体は保ちながら、ヒートアップしそうなら宥めることはする。それでも段々と意識が逸れて、松村先生の背後に見える本棚をボーッと眺めてしまっていた。

  「やっぱり私あの人とは合わないです。副担任だからって責任が無いとでも思ってるんですかねぇ?」

  「えぇはい」

  ここから見える本棚は、背表紙が立派で他の絵本とは少し毛色が違う雰囲気がしていた。あそこは確か、毎年卒園した子供たちのアルバムが並んでいるところだ。この園もかなり長いから、一年に一冊でも本棚をぎゅうぎゅうにしてしまっている。今年も作るけどどこにしまうんだろうか。

  「そんなこと言われても困るじゃないですか?ねぇ?」

  「は、はい……まぁでも、前田先生の価値観もあるでしょうからねぇ…………」

  「でもね保坂先生、この間こんなこと言ってたんですよ!」

  相槌が疎かになるのを悟られそうになって、慌てて聞いてるフリを続行する。念のため話を聞こうとするが、前田先生が致命的な失態を犯したわけでも、職務怠慢なわけでもない。本当にしょうもない、獣人の相性が悪いだけなんだが、俺はイエスマンに徹するしかない。愚痴すら溢せない職場は窮屈だし、松村先生が辞めると人手不足が面倒だし。

  獣人の相性……同じ職種でも、たとえ家族でも、合わない人は合わない。それで言うと、俺と仁くんの相性はいいんだろうか。俺はリードされたい人だし、仁くんは我が強い人だ。甘やかしたいと甘えたい、パズルのピースのようにハマっている気がする。しかし恋愛の価値観はどうだろう、彼の激しい愛情を、俺は受け止めきれるんだろうか。

  「───ちょっと保坂先生聞いてます!?」

  「…………ッ!は、はい………………」

  いけない、松村先生のことをすっかり頭から追い出してしまっていた。返事が疎かになっていたんだろう、面倒とはいえこれも仕事だし、少なくとも悟られてはいけないなと反省する。

  松村先生が俺を軽く睨み付け、何かを言いかけたときだった。ガラリと扉が開いて、年配の羊獣人が顔を覗かせた。

  「すみません、お話中だったかな?」

  「あぁ、園長先生…………」

  「個人的な相談をさせていただいてました」

  少し邪魔、という感情が隠しきれていない松村先生に、ため息をつきたくなって踏みとどまる。

  園長先生はにこやかに図書館に足を踏み入れると、松村先生の方を向いた。

  「……二人とももう遅い時間だし、明日にしては?」

  「………あぁ、もうこんな時間ですか」

  「………………えぇ、そうですね」

  松村先生は少し不完全燃焼といった様子だったが、案外素直に俺たちに丁寧な挨拶をして帰っていった。図書館に残った俺と園長先生……少し微妙な空気が流れる。こんな風に助けてくれるのは珍しい。

  「…………あの、ありがとうございました」

  「ん?何が?」

  少し意地悪く微笑む園長先生に、俺も笑みが溢れる。この人とは20年以上の付き合いで、俺がつつじ保育園に入ったころ、当時ベテラン保育士だった園長先生に、色々と怒られつつ助けてもらってきたのだ。彼女がいるからこそ、俺はここにずっと身を置いている節もある。

  「…………帰らないの?」

  椅子を片付けてもその場で立ち竦んでいる俺に、不思議そうな声をかける。

  「……ちょっとアルバムが気になって」

  「あら……もうそんな歳?」

  野次られつつも気になっていた本棚に近づき、年号を見ていく。中から一つ手に取ったのは、俺が最初に卒園を見送ったクラス……仁くんの代のアルバムだ。

  表紙の写真から、当時の懐かしい雰囲気が感じ取れる。夢ちゃん、健太郎くん、望結ちゃん………仁空くん。幼い虎獣人の彼は、まだ若い頃の俺の隣に陣どって、カメラに冷たい表情を向けていた。

  「懐かしいっ……!これ最初のクラスのよね?」

  「そうです…………見返すと懐かしいですね」

  この集合写真を撮ったのは、確か年明けだった。仁空くんはあまり大きく笑わない子だったけど、この頃は引っ越しを控えていて輪をかけて暗い時期だった。このくらいの子供には、全く違う環境に行くことが、プラスにもマイナスにも大きく変わりやすい。最後にさよならしたとき、仁空くん大泣きしてたな。

  ページを捲っていく度に、行事を楽しむ子供たちの写真がたくさん目に飛び込んでくる。一つ一つに懐かしさと、笑いがこみ上げそうな愛しさがある。このクラスはずっと担当してきたから、思い入れが大きいのも無理ないかもしれない。

  「……あっ!いたわねそういえばこの子………保坂先生にべったりだった子」

  「え?あぁ…………仁空くんですか?」

  「そう…………本当に保坂先生にしか心を開かないから、卒園まで保坂先生のクラスだったのよねぇ……」

  「…………そうでしたっけ」

  本当はよく覚えている。色んな先生が仁空くんに声をかけてアプローチをしても、二歳三歳の頃ですら返事をしなかった。でも俺が話しかけると面白いくらい反応するから、次第に俺の担当みたいになっていた。

  「……確かこの子お父さんがいなかったのよね……あの時男の先生保坂先生しかいなかったから…………」

  「…………そうですね」

  本当にそれが原因かは分からないが、今ではゲイになっている。もしかすると、仁くんは俺に父性を求めていたりするんだろうか。

  次々とアルバムを捲っていくと、自然と虎の子供ばかりに意識が集中してしまっていた。仁空くんはカメラもあまり好きではなかったから、撮りたいときは俺が駆り出されていた。明るくは無かったが友達はできていて、年長さんになる頃には引っ越しを惜しんでいる子もたくさんいた。泣くときは顔を埋めて静かに泣くから、男泣きと他の先生方にいじられるときもあった。

  捲れば捲るほど溢れ出す、仁空くんとの思い出。彼にとっても俺にとっても、当時は大きな存在だった。

  ページを捲り終わって、最後のページに行き着いた。写真かと思いきや、そこにはクラス全員の子たちの夢が書いてあった。小さな枠の中に、歪なひらがなで各々書いている。ケーキ屋さん、仮面ライダー、お菓子屋さん、サッカー選手…………

  『ゆうちゃんせんせえとけっこん』

  「ッ!!?」

  二度見してからパタンとアルバムを閉じて、少し深呼吸する。隣で読んでいた様子の園長先生も、不審そうにこちらを見る。

  「あら、どうかした?」

  「……いつまでも見ちゃいますから。そろそろ帰りたいと思います」

  「そうねぇ、過去は過去だもんねぇ……」

  バクバクと鳴る心臓を誤魔化すように、アルバムを戻して軽く片付け、図書館を後にする。歩きながら考える、仁空くんのこと。

  思い出した、あのアルバム。みんなの夢を聞いていたとき、仁空くんの回答で他の先生から散々いじられていた。あれだけ懐いていた子供の、支離滅裂な妄想。大人はみんなそう思っていただろう。俺ですら。

  事務室に戻り、すぐさま携帯をチェックする。そういえば電源を切ってしまっていた。

  6/17

  『先生の顔が見たい』

  『先生?』

  『返事ください』

  『保坂先生』

  『ミュートにしてますか』

  『保坂先生』

  『何で会いたくないんですか』

  『俺のこと嫌いですか』

  『俺はこんなに好きなのに』

  『俺そんなに重いですか?』

  『保坂先生返事してよ』

  『先生』

  『結婚しましょう』

  「仁くん、大丈夫?」

  帰り道をトボトボと歩きながら、しばらく目を離せなかった携帯をようやくポケットに入れた。これらのメッセージは二十分前までに来ていたもので、俺がなんとか返事をしてから、既読がつく気配はない。見てすらいないのか、何か他のことに夢中なのか。でも明らかに様子がおかしい。彼のことを悪く思いたくないけど、最近の言葉で言えばメンヘラのような、想像を絶する重い愛情をぶつけられている。先週までのメッセージと同じ人物だと思えない。

  「……はぁ…………どうしたらいいんだろう」

  彼のことが心配で、何か変な気を起こす前に会って話したいのは山々だ。でも俺は向こうの家も知らないし、メッセージも見ていない。とりあえずは返事が来るのを待つしかないが、こんな状態じゃ晩ごはんも喉を通る気がしない。

  暗い夜道を何気なく小走りで急ぎ、自宅のマンションまで到着した。入り口やらどこかに彼が待ってたりしないかと変に勘ぐってチラチラと周りを気にしたが、あの大きな体は見つからなかった。

  止まないため息をつきながら、エレベーターを降りて玄関に鍵を差し込む。あの時キスを受け入れてれば、こうはならなかったのかなと、今さら過ぎる後悔を抱えているときだった。

  ドアを開けた瞬間、凄まじい力でグッと腕が引っ張られ、玄関に引きずり込まれた。

  「───ッ!?うわっ!!!」

  「…………ッ………………………………」

  俺の体を受け止めたのは、感じたことのある胸板、呼吸、匂い。動揺の最中、間違いなくあの虎獣人であることは脳に過っていた。

  「ッ仁────!」

  「せんせッ!!先生!!!」

  切羽詰まった彼の声と共に、強引に玄関の廊下へ連れていかれ、靴を脱ぐのもおざなりに、顔を見る間もなくキスをされた。マズル同士がぶつかるだけの、荒々しく乱暴なキス。彼の激しい鼻息と、ベロリと肉厚な舌でマズルを舐められて、恐怖と不快感にぎゅっと目を瞑る。

  かと思えば力任せに押し倒されて、硬いフローリングに腰を打つ。鈍い痛みに抵抗する暇もくれず、彼は俺の両手首を掴み、体重を乗せて床に押し付けた。

  「ッやめ────」

  「───ッ!!」

  俺の口を封じるように、またしても荒々しい口づけをされる。決して開かない口の隙間に、鋭い牙を嚇しのようにあてがってくる。まるでマズルが食べられたかのような気がして、波のように迫る恐怖心で、目頭が熱くなった。

  両足をジタバタと動かそうものなら、足の間に彼の腰を割り込ませて、強く押し付けてくる。強姦を想起させる体勢と、彼のあまりの乱暴さ。

  激しく動悸する心臓が、俺を焦らせるように、はたまた鼓舞するように耳元まで轟いていた。

  彼の粗暴なキスが終わった瞬間、

  「ッ、やめなさいッッ!!!!!!」

  「──ッ、………………………………」

  俺は大声で仁空くんを叱りつけた。こんな体格差で、筋力の差で、野太くもない自分の声が、仁空くんの動きを確かに止めてみせた。こんな怒り方、彼にしたことはないかもしれない。それでも仁空くんはパッと俺の手を解放すると、薄暗がりの中で俯いていた。

  しかし次の瞬間、顔を上げた仁空くんは、その黄色い瞳から大粒の涙を流していた。

  「……ッなぁんで……ぇ………………ッ……せんせぇ、はぁ……オレに……ッ」

  「………………………………………………」

  激しい吐息を繰り返し、嗚咽する仁空くん。どんな言葉をかければいいか分からなかった。

  「……オレはぁあッ!!!先生のッ……ために…………生きてきたのに……っ、先生、が、………………ッ」

  「………………どういうこと?」

  大きく感情を昂らせる仁空くんに冷静に問いかけてみる。のし掛かった体を退けることよりも、不法侵入に怒ることよりも、大事な対話のように思えた。

  「ずッと、先生と…………会いたかったッ…………結婚したかった…………からッ、先生の好きな顔……ッ好きな体…………に…………」

  「…………なろうとしてくれたんだ」

  「うんッ………………でも、先生、は……っ、オレのこと嫌い……ッ、嫌…………!!」

  「っ、嫌いじゃないよ…………好きだよ」

  しかし俺の言葉を聞いて、仁くんは落ち着きそうだった嗚咽をさらに酷くさせた。片手を持ち上げて、荒々しく目元を拭う。

  「ッ、嘘だァッ!!オレなんか、うまくやるって……ッ……オレを………………」

  逆上した仁空くんの言葉を聞いて、ハッと気がついた。重い、うまくやる……つい昨日、家で口にした言葉。

  及びたくなかった考えに、嫌な汗が噴き出す。

  「…………うちに、盗聴器しかけたの?」

  「…………ッ………………………………」

  彼は無言だったけれど、それは何よりの肯定だ。分かってから、背筋がゾッと凍り、毛並みがブワリと逆立つ。俺が考えていたより、ずっと深刻だった。これは立派な犯罪だ。

  仁空くんが垂らす涙が、俺の首もとに落ちてくる。冷たいようで、暖かいような。

  「……ッ先生は、オレのこと知らないけど……っオレは先生のこと何でも知ってる……ッ!好きな食べ物も、マッチングアプリのアカウントも、実家の住所も!全部ッ!全部調べたッ!!好きだからっ!!!」

  吹っ切れたように紡ぐ、ストーキングの自白。この十五年間、仁空くんはずっと俺のことが好きで、それを目標にしてきたんだ。SNSで俺の好みを調べて、わざわざ住所も近いところに引っ越して、配達業者で働いて偶然を装い、再会する。きっとポストの合鍵のこともとっくにバレてたんだろう、家に盗聴器まで仕掛ける始末だ。

  運命なんかじゃなかった。全ては彼が俺と結ばれるために仕組んだことだった。人生をかけた行動に、俺が応えなかったのが、彼にとってどれだけ取り乱すことだったか……違和感の正体だ。

  エスカレートしていく彼の感情とは相反して、俺は冷静なままだった。運命的な出会いじゃなかったって知っても、俺の恐怖心は薄れかけていた。

  涙でぐしゃぐしゃの、黄色い瞳をじっと見つめる。

  「…………なら俺が、今どんな気持ちか分かる……?」

  「……ッ………………!」

  思わず声が震えた俺にあるのは、強い悲しみだった。彼の中の選択肢が、犯罪にまで及んでしまうほど、狭くなってしまったことに。俺のことを好きでいないと、辛い日々に耐えられなかったことに。人生の目標が、存在証明が、俺に好かれることであることに。

  「…………ッ悲しいよ、先生は。仁空くんに、俺の気持ちが伝わらなくて」

  「……、…………………………」

  一滴だけ流れた雫は、すぐに首もとを濡らす。もうどちらの気持ちか分からなくなった。

  「…………ゅうちゃん先生……ッ…………………ごめんなさい…………っ……………………」

  「………………っ、…………………………」

  今この瞬間だけ、俺たちは子供と保育士に戻っていた。何度もしゃくりあげながら、ゆうちゃん先生、とうわ言のように繰り返す仁空くん。顔を俺の胸元に擦り付けて、静かに泣き続ける。その頭を、俺は優しく撫で続けた。大人になって、自分の頭よりも大きな仁空くんの頭を。

  ずっと寂しかったんだ、この十五年間。それを拭ってくれるものに出会えなかったんだ。仁空くんがしたことは、歴とした犯罪だけれど、それを許せてしまうくらい、俺は彼のことが好きなんだと悟った。

  「…………っ先…………生………………」

  「………うん………………………………」

  「…………ッ、……………………………」

  ぎゅっと服の裾を掴まれる。さらに強くマズルを押し付けてくる。安心するように抱き締めながら、自然と言葉が漏れた。

  「………………俺はどこにも行かないよ」

  

  「……ッ…………………………」

  思い出した、俺の口癖。こうやって仁空くんを宥めながら、どこにも行かないよといつも言っていた。卒園式の日、ずっと泣いていた彼の頭を撫でながら、何度も何度も、繰り返し唱えたんだ。

  俺は結局どこにも行かなかった。だから仁空くんは帰ってきた。またこの胸の中に。

  「…………っ…………せぇんせぇ…………」

  

  「…………大丈夫だよ」

  昔よりもかなり大きくなった体、低くなった声……でも心の奥底は変わっていなかった。あの寂しそうに座って、ずっとお母さんを待っていた、仁空くんだ。

  仁空くんを落ち着かせながら、泣き止んだ後はどうしようかと考えを馳せていた。まずこれまでのことを反省させること、お互いちゃんと正直な気持ちを伝え合うこと、そして。

  彼とどうすれば恋人になれるのか、一緒に考えていくこと。

  [newpage]

  

  6/21

  『日曜日、空いてますか』

  「空いてるよ」

  『祐輔さんと』

  『映画行きたいです』

  「うん、行こう❗」

  『めっちゃ嬉しい』

  『迎えに行きます』

  「│」