籠の中の鳥が飛び立つまで。

  窓の外を眺める雨月に、息子の友介が声をかける。

  「お母さん、どうしたの?」

  「ん?なんでもないよ。これから僕はお仕事だから、友介は違うお部屋に行っててね。」

  雨月はΩの男娼。本名はなく、源氏名しかない。

  「この店だろ?珍しいΩの男娼もいるっていう…」

  外では雨月の噂がされている。雨月は売れっ子なのである。

  「Ω自体が珍しいからなぁ…。」

  「この店でもΩはあまりいないんだろう?」

  「女の子のΩはいるよ。」

  「しかし…一度でいいから、Ωの男娼にも会ってみたいなぁ。」

  店の外で噂されているように、Ωの男娼は珍しい。それを専門に扱っている高級な店も世の中には数件あるが、この店では雨月は花魁と同等に扱われていた。

  売れっ子は簡単にその姿や肌を見せない。雨月は、店の一番上の階で、息子と共に隠すように閉じ込められている。

  「雨月、なにしてる。」

  「店主さん…。」

  「早く用意しないか。」

  店主の男が無表情に友介を見つめて部屋にやって来た。まだ四歳ばかりの友介は、店主が不満げに対応する理由を知らない。

  「お母さん、お腹空いた。」

  友介は店主を見ても何もわからない。すぐに雨月に向き直って甘えた。

  「うるせぇガキだ。どきな。」

  店主は友介を突き飛ばした。

  「お前の母さんはな、これから身体を売るんだ。」

  「友介…!!」

  雨月は倒れた友介に駆け寄って、店主を睨んだ。

  「何を怒ってる。ガキ共々置いてやっているだけ、感謝するんだな。」

  「わかってる。でも、この子はまだ何もわからない子だ。変なこと言わないでくたさい。」

  ポカンとしている友介を抱きしめて、雨月は怒りを見せた。

  「お前は本当に可哀想になぁ。誰の子かもわからんガキを、身体を売って稼いだ金の半分を店に取られて育てて…。」

  店主の言うように、雨月は友介を育てるため身体を売り、稼いだ半分を店に渡すことで育てることを許してもらっている。

  「Ωとは…本当に哀れな生き物だなぁ。」

  店主は笑いながら部屋を出た。ピシャリとふすまが閉じられる。

  「お母さん?」

  友介が雨月を見上げた。雨月は無理して微笑む。

  「大丈夫。ご飯食べておいで。」

  「うん。でも、お母さんは?」

  「僕はいいよ。一人で行けるでしょう?」

  「うん!僕ね、最近は一人でお風呂も入れるよ。」

  友介はニカッと笑って胸を張る。雨月は愛息子の愛らしい姿にクスリと笑って頷いた。

  「すごいね。友介はいい子だ。」

  友介は「えへへ」と笑って、部屋を出た。その後ろ姿を見送ってから、雨月は支度を始める。[newpage]

  「雨月…あなたは本当に綺麗だなぁ。」

  「ありがとうございます。」

  「手は絹のように触り心地がいい…。」

  雨月は高齢な客に手を撫でられて、ゾクリとしながらも顔には出さないようにした。本当は逃げ出したいほど嫌だ。

  「褒めるのがお上手で。」

  雨月は微笑んだ。ヒートはまだ先だし、相手は番のいるαだ。今日の相手は抑制剤がなくても平気そうだと思い、安堵している。

  「お時間です。」

  ふすまが開いて、見習いの少女が声をかけてきた。

  「そうか…短いなぁ。次の予約を入れて帰ろう。」

  「ありがとうございます。」

  「君は売れっ子で、予約が取れなくて困る。」

  客の老人はそう言いながら帰った。見送りは見習いの少女がしてくれる。売れっ子の雨月はめったに部屋を出ない。まさに籠の中の鳥である。

  「雨月様。化粧を直しましょう。」

  見習いの少女がそう言った。

  「うん。ありがとう。」

  微笑むと、少女は顔を赤くする。そんな少女も、雨月と同じように花街に売られた子供だ。

  「ゆうりちゃん。今日のお客様って…αの方いるかな。」

  「雨月様のお客様は…αの方しかいませんね…。」

  「最近はずっとそうだなぁ…。」

  少女と話しながら、雨月は苦笑いした。Ωの男娼はαの男に買われる。なぜなら、αの男はβの男より稼げるから。Ωの男娼は貴重で高いから。

  けれど、Ωはαと行為をしてしまえば子供ができてしまう可能性がある。さらに、Ωの男性の出産は危険が伴う。

  「抑制剤と避妊薬…飲んでおかなきゃ…。」

  雨月は腹の傷をさすりながら呟いた。

  雨月が友介を産んだのは十四歳の時。無理な妊娠だったために、腹を切って産んだのだ。

  「雨月様…その…」

  少女は言いづらそうに手紙を差し出した。実家からの手紙だ。

  「はぁー…」

  雨月の母親はΩの売れっ子遊女。名前は月詠。

  彼女は身請けされて嫁いだ先で雨月を産んで、自殺してしまった。理由は身請け先の男、つまり雨月の父が最低なαだったから。

  その父親からの手紙だった。

  「あ、ゆうりちゃんは気にしないで。」

  「いえ…その…雨月様をこの街に売った人ですよね…」

  「あ…そうだけど…」

  「今更、どんなことで手紙を?私の親は手紙すらよこしません。」

  雨月はうつむいた。

  雨月の父は政治家だ。αである正妻との間にはβの息子がいた。しかし、望んでいたαが産まれず、αを妊娠出産しやすいΩの遊女を妾として迎え入れようと考えた。

  そして、無理矢理に身請けした月詠との間に子供を作ったが、そのすぐ後に正妻との間に子が産まれた。

  どちらも息子。正妻はαとわかる前から勝ち誇ったように月詠をいじめ、夫はそれを無視し、結果自殺に追い込んだ。

  「それで…結果は?」

  「奥様のお子さんはαです。」

  医師の言葉を聞いた五歳の時に、雨月は絶望した。一歳年上のそのαにはいつもいじめられていた。これからさらにいじめられると思った。なぜなら、自分はΩだったから。

  「お前、Ωか。」

  αの兄はニヤリといやらしく笑って、雨月を見つめた。血の繋がらない家族からは毎日「お前」と呼ばれた。唯一血の繋がった父ですら雨月を「おい」「お前」と呼んだ。

  正妻との間にはβの娘、αの息子。妾との間にはΩの息子。妾の息子を邪魔に思った父は、政治家らしくΩを扱った。

  「これと遊びませんか。」

  「え…父さん?」

  呼ばれたから来てみれば、いやらしく笑った政治家の男たちが自分を囲った。雨月は父の政治仲間から行為を強制された。七歳の時だ。

  「お前も私の役に立てて嬉しいだろう?」

  父はそう言って、雨月に毎日のように「仕事」をさせた。珍しいΩの男児と遊んだら政治家としてそれなりの地位を雨月の父に渡す。いわゆる賄賂のように雨月を扱った。それを見ていたαの兄は雨月を「Ω」として見るようになった。

  「俺とも遊べよ。」

  そう言われて、無理矢理に襲われた十三歳の時に妊娠してしまった。それを恥じた父は雨月を花街に売った。

  「それで…あの人は心配になると口封じに手紙をよこすんだ。」

  雨月は少女に説明した。そして送られてきた手紙を見せる。雨月が子供を産んだことは秘密だ。

  αの兄は知っても助けてはくれないだろう。一時の気まぐれにしか思っていないから。

  店としては、Ωの男児なんて逸材だ。しかし、子持ちとなれば、花街の男娼としても価値が下がってしまうから、秘密にしている。

  利害の一致で店と雨月の父は交渉が成立し、雨月は高値で売られた。

  「あの…もしかして雨月様が、男娼の中でも…贅沢な暮らしができていないのって…」

  少女は言いづらそうにうつむいて、瞳をチラチラと雨月に向けて尋ねる。

  「売り上げの半分が友介ちゃんに…もう半分が…お父様に行っているからですか?」

  「よくわかったね。」

  「私ももう十二です。それに…雨月様付きの禿をしていますから。でも友介ちゃんの分なんて嘘ですよ。店に行ってます!」

  少女はそう言った。雨月は何も返せなかった。

  雨月は籠の中の鳥。このままだと、死ぬまで雨月の父のために身体を売ることになる。けれど学もないため、なにもできなかった。

  「いいんだよ。友介が無事に大きくなれば言うことない。僕の宝物だもん。」

  雨月はやっと考えて言い返すと、少女「ゆうり」は再び言いづらそうに口を開いた。

  「襲われて…子供ができるなんて…花街のΩじゃあ、よくあることです。けれど…雨月様のようにあんなに大事に育てる人はなかなかいません。」

  ゆうりは目を泳がせて話した。

  「どうして…友介ちゃんを愛せるんですか?雨月様を襲ったお兄様に似てきたら、愛せますか?」

  「っ…!!」

  雨月は言葉を詰まらせる。

  「そ、それは…」

  「友介ちゃん…言ってしまったら、望まない子です。」

  雨月は視線を落として畳を見つめた。

  「ゆうりちゃんは…望まない子ができたら…産まないの?」

  「私はβです。」

  「でも、花街で商品として売られるからには危険があるんだよ。」

  「それは…」

  「友介に罪はないよ。」

  雨月はそれだけ言って、もう一度視線を落とした。友介が大きくなるたびに愛しいけれど、たまに複雑な気分になることは自分で感じていた。しかし、それを他人に突きつけられると、苦しくて辛い。[newpage]

  「ゆうりちゃん、お客様が来たって。」

  ふすまの向こうで、違う少女が声をかけるのが聞こえた。

  「わかったー。雨月様、お客様連れてきます。」

  「うん。お願いね。」

  雨月はゆうりに微笑んで答えた。部屋まで客を連れてくるのは禿と呼ばれる少女たちの仕事。特に雨月は部屋を出ることが許されていないので、禿たちに世話をお願いしている。

  中には男娼として花街に売られたβの少年もいる。雨月は特にそんな子たちを教えるように言われている。

  「雨月様、お客様のことなんですけど…」

  ふすまが開いて、少年が顔を覗かせた。鏡越しに見た雨月は首を傾げる。

  「どうしたの?」

  「あの…獣人さんみたいです。」

  「え?」

  「猫の獣人さんだって。外交官の方で…人間の人が接待に…お連れしたって。」

  雨月は驚いて、体が固まってしまった。接待に花街を使う人は多い。しかし獣人は珍しく、雨月も相手をしたことがない。

  「が、外交官って…」

  「雨月様は高値の男娼だから…。」

  少年は言いづらそうに呟いた。雨月は言うなれば花魁である。特に社会的地位のある人ばかりが買うのだ。

  「教えてくれてありがとう。」

  雨月は微笑んで言った。すると、その笑顔を見た少年はホッとしたように顔を緩ませてから、頭を下げた。

  「じゃあ…失礼します。」

  「うん。」

  ふすまが閉められると、雨月は一人になった。華やかの着物を着ても、気持ちは晴れない。

  「政治家の家に産まれても…Ωじゃなぁ…。」

  昔に言われた言葉が、頭にふっと現れた。いつまで、友介と共にこの籠に囚われたままなのだろうか。政治家の父にいつまで、監視されるのだろうか。

  「雨月様、お客様です。」

  「はい。」

  ふすまの向こうから声が聞こえた。雨月は頭を下げて客を待つ。

  スッと音がして、足音が聞こえた。

  「雨月と申します。」

  獣人と聞いて、いつもより緊張した顔で頭を上げる。見えたのは、白い毛の猫だった。

  「よ、ようこそお越しくださいました。」

  雨月はニコリと笑う。すると、あまり乗り気ではない様子の獣人は、共に来た人間に話す。

  「ほぉ…初めてです。人間のΩの方で、男性は。」

  「そうでしょう。いることにはいますが…花街で遊べるΩはあまり居ませんからねぇ。」

  得意げに接待する人間も、贅沢なスーツを身にまとっている。雨月は性別のことを話されていて、あまりいい気分になれず、引き攣った笑顔をしていた。

  「すみません。お名前は?」

  雨月に獣人は優しく尋ねる。雨月は膝立ちでいる獣人に、ポカンとしながら答えた。

  「雨月と申します。」

  「雨月?日本人のお名前で…そんな名前は初めて聞いたなぁ。」

  獣人は目を丸くした。接待している男たちは笑った。

  「おやおや、レインさんは花街が初めてですかな?」

  レインとは獣人らしく、彼は男たちを見て首を傾げた。

  「源氏名といってですね、いわゆる商品名ですよ。」

  男の一人がそう言うと、レインは一瞬だけキッと瞳を釣り上げた。雨月だけ、その様子に気がついた。

  「怒ってる?」と思ったが、口にはしないようにした。

  「そうですか…花街は来たことがなくて。すいません。」

  「いえいえ。なんなら一晩買いますか?雨月はなかなか予約が取れない男娼でして。貴重ですよ?」

  「ほぉ…そうなんですか。」

  レインはにこやかに答えるが、雨月はその声が先程より低いことに気がついて、ゾッとしていた。

  「見ての通り綺麗でしょう。」

  「ええ。それは思います。」

  男が言った言葉に、レインはそっと雨月を見つめる。その瞳が優しくて、声との違いに雨月は驚いた。いつまでも膝立ちの彼に、雨月はΩの扱いとは思えなかった。

  「花街の中でも一番と言っていい人気です。」

  「そうなんですね。だから、私に勧めてくれたわけだ。」

  「ええ。一緒に茶を飲むだけでも一ヶ月待ち。抱こうと思ったら三ヶ月の給料を積まなければ。」

  「へぇ。そんなに高いのですか。」

  男たちは胸を張って自慢気に、自分たちの接待がいかにすごいかを話していた。その間、レインはジッと雨月を見つめる。そのおかしな状況に、雨月は落ち着かなくなってきた。

  「ならば、一晩買おう。」

  レインが突然にこやかに笑って言った。すると、男たちは大喜びして声を上げる。

  「本当ですか!おい!」

  「は、はい。」

  ふすまの向こうに控えていた少女、ゆうりを男は呼んだ。

  「一晩買う。準備してくれ。」

  「は、はい。」

  ゆうりは返事をしながらも、チラリと雨月を心配そうに見つめていた。雨月は微笑んで「大丈夫」と答えておく。

  「ごゆっくり。」

  あっという間にその準備がされて、男たちは嬉しそうに部屋を出た。

  雨月はついに獣人を相手にする日が来たかとうつむく。

  「大丈夫。抑制剤も飲んだし、堕胎剤もある。」

  心の中で何度も繰り返す。

  レインは雰囲気と香りからして、おそらくαの獣人だ。猫の獣人とはいえ、αであれば子供ができてもおかしくはない。

  「あの…お茶、飲みますか?」

  正座をしているレインに声をかける。正直、誰かに抱かれるのは嫌いだ。いつも苦しいと思いながら働いている。自殺を考える時だってあった。

  できれば、それが起きないようにしたい。

  「ありがとう。もらいます。」

  レインは微笑んで答えた。お茶をついで渡すと、受け取る手のひらには肉球がある。雨月は内心驚いた。

  「相手は本当に獣人なんだ」と心の中でつぶやく。

  「驚かせてすまない。けれど、あなたの目にくまがあるから。」

  突然レインが言った。雨月は驚いて顔を上げる。

  「眠れていないのでは?」

  図星だったので、雨月は固まった。たしかに、友介が産まれてからは良く眠れていない。友介が夜泣きをする時期はもちろん、友介が大きくなってからも仕事で眠れていない。夜はもっぱら男たちの相手だ。

  「私が一晩買えば、その間私とあなたが何をしようと構わないでしょう。」

  「え…」

  「お茶を飲むだけだって。話し合うだけだって。」

  レインは微笑んでそう言う。つまりは、抱くつもりはないと言っているらしい。

  「どうせなら寝てください。私も本を読んで過ごします。」

  レインはカバンから医学書を出して笑った。そしてカバンからさらにメガネを出してかけると、分厚い医学書を開いて読み始めた。

  「あ、あの…困ります…」

  雨月は震える声で話しかけた。レインは顔を上げると、ポカンとして首を傾げる。

  「なぜ?」

  「ば、バレたら…」

  雨月は行為をしたくないと思いながらも、なぜかこの状況に否定的になっていた。レインはそれに気がついていないのか、首を傾げたままだ。

  「あなたは、香りからして子供がいますよね?」

  「え…?!」

  「あぁ…バラしませんよ。猫は鼻が効くんです。起きている間は、犬の獣人に負けませんよ。」

  レインは笑って言う。

  「子育てしながらこの仕事は大変でしょう。私が客としている間だけでも、リラックスしてください。」

  「リラックス…?」

  「あぁ、ゆっくりしてくださいって意味です。」

  雨月はその言葉に緊張していた力が抜けて、肩を落とした。

  「日本に来て驚きました。Ωの扱われ方が酷いですね。」

  「人間の国は…どこもこんなものなのでは?」

  「たしかに、そうかもしれませんね。このような接待は初めてです。気分が悪い。」

  レインはそう言ってメガネを外した。

  「嫌なら…僕の相手するなんて嘘をつかなくても…」

  「あなたは被害者です。接待に商品として使われる…あなたは怒っていい。」

  「お、怒る…?」

  レインの言葉で気がついた。怖い、苦しいという感情だけで忘れていた、怒るということ。

  「この国のΩは…諦めていて…怒るなんて…」

  「それはいけない。怒って当然ですよ。」

  レインの言葉に、雨月は間違っていたと思った。本当はもっと強気でもよかったのかもしれない。けれど、強気になることが怖い。

  「獣人の国では…Ωはどうなっているんですか?」

  「普通ですよ。αもΩもβだって、何一つ違わない。」

  「そうなんですか。」

  「気になりますか?獣人の国。」

  雨月の憧れる表情に、レインはクスリと笑う。雨月は少し恥ずかしくなって、顔が熱を持つ。

  「あなたは綺麗だけれど、笑っている顔は可愛らしい。」

  「え…」

  「人間は獣人よりもコロコロと変わる表情が良いんですよ。もっと心から笑ってください。」

  レインのその言葉に、雨月は初めて心臓が高鳴る感覚を覚えた。[newpage]

  「お母さん?」

  「ん?顔、赤い!」

  「え?!ひ、ヒートはまだ先…」

  友介の言葉に、雨月は顔を隠した。窓の外をぼんやり眺めながら、レインを思い出していたのだが、そのせいだと気がつくと余計に恥ずかしくなった。

  「お母さん、恋してる?」

  「こ、恋っ?!どこでそんな言葉を覚えたの?!」

  そう言うと、友介が不思議そうな顔をして言う。

  「この前、お姉ちゃんたちが話してた。」

  当たり前のようにそう言う。「お姉ちゃんたち」とは雨月の暮らす遊郭の遊女たちのことだ。

  「お母さん、なんでそんなに動揺してるの?」

  「ど、動揺…」

  息子が難しい言葉を話していることに、雨月は驚きが隠せない。

  「友介は…僕が恋するの…」

  「どう思う?」と言う前に、友介がニッコリと笑った。

  「素敵だね!」

  無邪気にそう言う姿に、思わずキュンとした。その時、部屋の外から足音がした。雨月は驚いて友介をギュッと抱きしめる。足音は男の重たい音で、店主かと思ったのだ。

  「お、お待ちください!」

  雨月付きの禿である、ゆうりの声が聞こえる。スッとふすまが開く。誰かと思いながら、キッと睨むとそこにはレインがいた。

  「えっ…?!」

  「すいません。あなたとのお話が楽しくて来てしまいました。」

  「え…あの?まだ、開店時間では…」

  雨月が言うと、レインの後ろに居たゆうりが息を切らしながら答えた。

  「店主さんが、レインさんは上客だからって。」

  レインは大金を積んでやって来たらしい。雨月はポカンとして、友介を隠すことを忘れていた。

  「おやおや、お子さんですか。可愛らしい。」

  レインは優しい手のひらで、友介を撫でた。その姿に、ゆうりは驚いていた。普通なら子付きの男娼など、下に見られてしまう。

  「猫!」

  友介は指を指して笑う。雨月もゆうりも落雷に遭ったように衝撃を受けた。江戸の世なら切られている。それほど失礼な言葉だ。しかし、レインは笑って尻尾を上機嫌にゆっくり揺らす。

  「そうだよ。私は猫の獣人で、レインといいます。君の名前は?」

  「友介!これは母さん!」

  友介はそう言って雨月を指差した。

  「綺麗なお母さんだね。」

  「うん!」

  友介とレインのやり取りに、雨月はキュンと胸を締め付けられた。「この人が夫なら…」と心の中で思う。

  「雨月さん、パートナーの方がいたんですか?」

  レインが尋ねた。なぜか、レインの尻尾は下がっている。雨月はうつむいて首を横に振った。

  「お…襲われて…」

  それだけで終われば良かったのに、雨月は過去を全て話した。友介の耳を塞いで話す雨月の様子に、ゆうりは驚いていた。

  「そう…でしたか…」

  レインは再び厳しい顔をする。レインが怒っている様子を見ると、雨月は不思議と嬉しくなる。

  「ありがとうございます。僕の代わりに怒ってくれて。」

  雨月はそう言った。その言葉を聞いたゆうりは、何やら理解できたようで、部屋から出て行った。

  「友介、違う部屋に行ってて。」

  雨月は友介の耳を塞いでいた手を取って言うと、レインがその手を掴んだ。

  「いいや、ここに居て。」

  「え…あの、レインさん?」

  「友介くんと遊ぶ時間も、いつも無いのでは?」

  レインがそう言った。雨月は驚いてレインを見つめてしまう。

  「私があなたの時間を買っている時くらいは、友介くんと遊んだらどうです?」

  「え…い、いいんですか?」

  「もちろん。」

  レインが微笑むと、嬉しそうに友介が雨月に抱きついた。

  「やった!お母さん!僕ね、お母さんに話したいこといっぱいあるの!」

  「う、うん。」

  雨月は嬉しくて頬を緩ませた。

  それから毎日、レインがやって来た。レイン曰く、「お金は趣味がないから持て余している。」らしい。

  レインがやって来る時は、こっそりと友介も同じ部屋に居る。これは店主には秘密。

  友介が違うところで遊んでいる時は、雨月はレインに様々なことを教わった。獣人の言葉などの様々な学を学んで、幼少期に知らなかったことを知って、やっと十八歳らしくなった。[newpage]

  「今日もレインさん来るかなぁ。」

  「どうだろうね。」

  早朝、友介と楽しく会話している時だった。

  「おい、雨月。」

  スッとふすまが開いて、店主が入ってきた。

  「は…はい…。」

  雨月は友介を抱きしめて、構えながら店主を睨む。しかし、それを無視して店主はニヤリと笑った。

  「お前に身請け話だ。」

  「え…?」

  雨月は驚いた。雨月を身請けするには、よっぽどな身分の人間でないとキツイほどの金が必要だ。

  「ど、どういうことですか?」

  「お前のそのガキを受け入れるとさ。」

  「え…?!」

  雨月は体が冷えていく感覚を感じた。子供のことを知っているということは、あのαの兄だ。なぜなら、友介の存在を知っているのは父か、店主とこの店の従業員のみ。それ以外で知ることが可能で身請けするような身分の者は一人しか思いつかない。

  「な、なんで…どうやって…」

  雨月が震えていると、部屋にもう一人やって来た。

  「調べたんだよ。お前が忘れられなくてなぁ。」

  雨月は襲われた時を思い出す。恐怖に声も出なかった。

  「久しぶりだなぁ、雨月。」

  「と、父さんが…僕の身請けなんて、了承するはずがありません。」

  「父さんなら死んだよ。」

  「え?!」

  雨月は驚きながらも、友介を守ろうと必死に抱きしめた。ジリジリと近づくからだ。

  「俺があとを継いだ。」

  「で、でも…お母様は…」

  「母さんにはなにも言わせない。友介っていったっけ?そいつも可愛がってやるよ。性別はαか?」

  「あなたには関係ない!」

  男が友介に手を伸ばしたので、雨月はパシリとその手を叩いた。すると、雨月の頬を男は殴る。

  「お母さん!」

  友介は庇ってくれていた母である雨月に、駆け寄ろうとする。しかし、そんな友介に興味もない男が、友介よりも先に雨月に近づいた。

  「おいおい、俺に手を出させるなよ。」

  男は雨月の腫れた頬に手を伸ばす。店主は座って茶をすすっており、無視している。

  「可愛く俺の側にいたらいい。」

  「い、いまさら…なんで…」

  「好きなんだよ。だからお前に手を出したんだろう?」

  「小さい頃はいじめられた…あなたにだ。」

  雨月の頬を撫でる男に、雨月は睨むことしかできない。

  「小さい頃の話だろう。いじめたって言ったって、可愛いから可愛がっていたんだがなぁ。」

  「殴ったり、蹴ったりが?」

  「Ωなんだから、当たり前の扱いだろう。」

  雨月の髪を引っ張りながら、男は嬉しそうに笑っている。友介は泣いてしまった。雨月はすぐに駆け寄りたいけれど、男が怖くて動けない。

  「匂いでわかるんだよなぁ、αは。あのガキはαだ。」

  男はニヤリと笑った。

  「俺の言うとおりに動く跡継ぎにする。」

  「あの子は…あなたの子なんかじゃ…!」

  「なーに言ってんだ?俺と同じ髪色してるし…なにしろ、四歳のガキ。ちょうど俺とした年だろう?」

  雨月は言い返せない。

  「俺とそっくりだ。」

  男がそう笑ったとき、ふすまがピシャッと開いた。

  「どこが、そっくりなんですか?」

  「は?」

  男が振り向くと、レインが立っていた。店主はレインの後ろで、驚いて尻もちをついている。男も震えて尻もちをついた。それほどに、レインは恐ろしい顔をしていた。

  猫が獲物を狙う瞳をしている。牙と爪を剥き出し、険しい顔をしている。

  「お、お前が…最近雨月を買っていた…」

  「それがなんですか?」

  「こ、こいつは俺が買う!」

  「彼は商品ではない!」

  そう言うと同時に、シャーと声を立てた。雨月は驚いてその様子をジッと見てしまう。

  「な、なにを言ってるんだ!こいつはΩで…男娼で…」

  男は尻もちをつきながらも、必死に喋っていた。レインは無視して友介をチラリと見る。

  「友介くん。大丈夫。」

  「お、おい!獣!そいつは俺のガキだ!」

  「雨月さん、大丈夫ですか?」

  「おい!雨月に触るな!俺のものだ!」

  二人を優しく抱きしめたレインに、男は必死に叫ぶ。すると、レインが口を開いた。

  「あなたの父上がやっていたことを、外交官仲間に伝えましたよ。」

  「なっ?!」

  「政治家としては終わりです。あなたも。」

  「な、なに…言って…たかが獣人の言葉で…そんな…」

  外交官たちにΩの息子を使って色仕掛けをさせた、そんな噂が出れば政治家としては最悪の印象だ。男は青ざめて震え始めた。

  「お前!なにしやがったんだ!俺はこれから政治家として…!う、雨月は俺のものだ!ガキも!」

  「いいや。私のパートナーだ。」

  レインがそう言った。雨月は驚き、友介は笑顔でレインを見上げた。

  「えっ?!」

  雨月は腕の中に抱きしめられている状況に恥ずかしくなって、顔が熱くなった。

  「私が身請けする。それでいいですね?店主。」

  猫の目は感情を真っ直ぐに伝える。店主は恐ろしいのか、何度もうなづいた。

  「雨月さん、あなたが訳した本なんですが。」

  「え、ええ?本?僕が訳した?」

  突然の話に驚いて、雨月は必死に思い出した。

  勉強にと、レインが本を訳すように言っていたので、一晩で訳したことがあった。その原稿をレインが持って帰ったが、そのことだろうか。

  「その本、好評ですよ?ご存じないですか?最近売れています。あなたの名前で。」

  レインが日本語の新聞紙を渡してきた。読み書きができる今ならわかる。

  『猫の国の本。大変人気であり、行列ができる。』

  「これ、僕が…訳した…」

  「あなたが稼いだお金は、あなたが使うべきです。」

  レインはそう言って、雨月の手にお金の入った袋を渡した。雨月は初めてお金を手にした。

  「こ、こんなに…?!」

  「ええ。」

  「こ、こんなにあれば…」

  「もう自由ですよ。」

  レインは微笑んだ。そのお金は見た目は少ないものの、大金だった。店に渡せば、もう男娼をしなくていいほどに。

  「ま、まて!勝手なことを!そのガキは俺のものだ!」

  男が大声を出した時、それを上回る声で友介が言った。

  「お前なんて嫌いだ!」

  そう言い終わると、レインと雨月に抱きつく。男は目を丸くして、力を失ったようにその場に座り込んだ。[newpage]

  「あ、あの…もう下ろしてください。」

  店を出るまでレインに抱きかかえられていた雨月は、真っ赤な顔で言う。レインはポカンとした顔で雨月を見つめた。

  片手で雨月を抱きかかえ、もう片方では友介と手を繋いでいる。

  「すいません。重いですよね…。」

  「いいえ。軽いですよ。」

  そう言いながら雨月を下ろしたレインに、雨月は恥ずかしくなりながら尋ねる。

  「あの…ほんとうに…僕とパートナーに?」

  「はい。」

  「な、なぜ…?子供のいるΩなんて嫌でしょう?」

  雨月が言うと、レインは首を横に振る。

  「いいえ。一目惚れです。あなたの香りを嗅いだときから。」

  「え?か、香り?」

  「抑えるのに必死でした。」

  レインはそう言うと、グルグルと喉を鳴らしながら雨月に擦り寄った。自分の香りをつけるように。

  「あなたの友介くんを見つめる瞳にも。初めて会ったときから、あなたに惚れています。」

  レインがそう言いながら、険しい顔で尻尾を雨月の足に絡める。匂いを付けたい本能を必死に抑えるその姿に、雨月は嬉しくなった。そして、レインの白い毛に触れて答えた。

  「ぼ…僕も…あなたが好きです。友介の父に、なってくれますか?」

  「ええ。もちろん。」

  レインが頷いたとき、雨月は客にもしたことのないキスをレインにした。