初夏。鬱蒼と茂る木々の中を、二人の獣人が駆け抜けていく。筋肉質な肉体をした狼獣人と、すらりと細身な犬獣人だ。いずれも、濃緑色のジャケットとトラウザーから成る戦闘服を身にまとっている。体のシルエットを素直に映し出すそれらは、選りすぐった木綿を丁寧に縫製して頑丈に仕上げられ、生半可な斬撃は通さない。彼らが所属する傭兵ギルドより支給されたもので、つまるところ二人は、依頼を受けて悪人を討つことにより生計を立てているのである。
世界を南北に分断する大戦が終結して、二十余年。しかし世の中は未だ、平らかというには遠い状況だ。埋まらない貧富の差が各地であぶれ者を生み出し、盗みをはじめとする犯罪に手を染める者が後を絶たない。それどころか近頃は、大小様々な盗賊団が組織され、人々の平穏な暮らしを脅かしている。こうした背景が、傭兵ギルドを生み出した。
国から正式に認められたこの組織は、個人や団体から護衛や罪人討伐などの依頼を受けると、精査の後に、所属する傭兵たちに任務として割り当て、報酬を分配する。全ての傭兵は、任務の達成度合いに応じてAからEまでのランクを持ち、上位ほど高難度かつ高収入の任務が与えられる。狼と犬のギルドは国の各地に拠点を構え、数千人の傭兵を擁する大組織だが、Aランクは数えるほどしかいない。そして彼らは、そのうちの二人である。
「……やつらのにおいが強まってきた。近いぞ」
山の悪路を難なく疾走しながら、狼がつぶやく。冷たさを帯びた灰色の被毛と、ぎらりと輝く金色の瞳が、そのいかめしい顔立ちを、よりいっそう際立たせている。無表情を保っているが、その内に潜む危うい闘争心は隠しきれない、そんな男。
「ああ、オレも感じている。さっさと片付けよう」
犬もうなずく。赤茶色と白から成るその顔は、各部位が狼のそれよりも丸みを帯びているが、物心ついたころから今まで、可愛らしいと評されたことは一度もない。星のない夜空のような漆黒の瞳が、その表情全体からも光を奪い、近寄りがたい印象を周囲に与えてきたのだ。
寸分乱れぬペースで並走する二人だが、彼らはお互いに親しいわけではない。同じギルドに所属しているというだけで、ほとんど言葉も交わしたことのない間柄だった。こと争いに関しては全く異なる価値観を持ちつつも、寡言で感情を表に出さないという点では似たもの同士。それぞれ異なる経緯により、十六で成人するとともに傭兵となり、三十路をとうに過ぎて今日に至るまで、ひたすら命を懸けた戦いに身を投じてきた手練れの戦士たちである。
「――ここか」
途中に小休止は挟みつつも、ほぼ走りっぱなしで四時間ほど。日が高く昇りきる前に、二人は目的の場所にたどり着いた。そこは草木深い山の中腹。山道からは離れ、常人ならば絶対に近づかないであろう場所だ。
行く手を阻む緑の壁を抜けると、少し先に切り立った高い崖が現れ、その手前には少し開けた空間がある。そしてそこには、身長180センチメートルほどの犬や、それよりもやや長身な狼と同程度の高さを持つ、ごつごつとした巨大な岩が鎮座していたのだった。
「この岩は目隠しのつもりか? オレたちの鼻を欺けると思ったのか」
「どうやらそのようだ。その証拠に、見張りすら立てていないのだからな」
皮肉っぽくそう言うと、狼は足音を殺し、岩を避けて先へと進んでいく。犬もそれに続く。長距離の疾走後であるにもかかわらず、両者ともに息の乱れもなく、平静そのものだ。目隠しの裏側に回り込むと、剥き出しの岩壁にぽっかりと大きな穴が開いている。そして奥からは、ここが野生動物の住処などではないことを物語る、揺らめく炎の光が漏れていた。
今回二人に与えられた任務は、最近になって出現した盗賊団の殲滅である。
構成員は二十人足らずの小規模なもので、個々の戦闘力も大したことはないとみられている。それでも普通の傭兵二人ならば苦戦は必至だが、Aランクでも指折りの狼と犬の実力ならば、簡単に片付けられると判断された。昨今はこういった犯罪集団の出現が後を絶たず、ギルドへの依頼も増える一方。大量の人員を投じる余裕はなく、編成も必要最小限にせざるを得ないのだ。
「……話し声が聞こえるな。どうやらこの洞窟、なかなかに広いぞ」
ぴくぴくと動く二人の耳に、複数の会話が届いていた。それぞれの音の大きさ、帯びる残響の長さから、対象は何組かのペアに分かれ、洞窟内の離れた場所に散らばっていることが分かる。会話の内容までは聞き取れないが、少なくとも、警戒の気配は全くない。
「しかしまあ暢気なもんで。このまま踏み込んでも問題ないと思うが、どうする」
「俺も同感だ。まとめて外におびき出すより、一体ずつ仕留めたほうがいいだろう」
「そうだな。この広さなら、オレの槍を使うにも不自由はなさそうだ」
小声での簡単なやり取りで、今回の方針は定まった。うなずき合った二人は、まずは狼から、洞窟内に足を踏み入れる。内部の道幅は五メートル前後といったところだろうか。ごつごつした岩肌で囲われたその空間は、広さに限れば盗賊の巣窟にはもったいないほどのものだが、空気はじめじめとして冷たく、まばらに配置された松明の明かりも頼りない。
「思ったよりも……暗いな」
少し進んだところで狼が不意に立ち止まり、ぽつりとこぼす。
「おい、どうした?」
「ああ……いや、何でもない」
揺るがぬ自信をもって臨んでいた仲間が、突然いくらか弱気な雰囲気を覗かせたことに対し、犬は怪訝な顔をする。毛を短く刈り揃えた長い尾も、心なしか垂れ気味のようだ。しかし、狼はかぶりを振ると、何事もなかったように背に抱えていた武器を構える。全長は持ち主よりもいくぶん短いが、肉厚で幅広な両刃を備えた両手剣だ。
「そうか。さあて、じゃあ手早くすませるか」
犬も愛用の長槍を構える。いずれもギルドから支給された品で、材質から加工までこだわり抜いた逸品なのだが、飾り気は全くない。標準装備の質はランクごとに異なるが、地味な外見だけは共通だ。そのため、見た目の良い武具を別途買い揃える傭兵が多く、中には報酬の大半をつぎ込んでしまう者もいるのだが、この二人はそういったことに全く興味はなかった。
***
巧妙に気配を隠しながら、傭兵たちは曲がりくねった洞窟を進んでいく。すると、数分歩いたところで、早速討伐対象の一人を発見する。猿獣人だ。穴だらけのみすぼらしい青ジーンズだけを身に着け、上半身の体毛は洞窟の闇に溶け込むような灰褐色、そして裸出した真っ赤な顔が目立っている。用でも足しに来たのだろう。下着に突っ込んだ手で尻でも掻きながら無防備に歩くその男は、狼の攻撃範囲に入るまで、その存在に気付きもしなかったようだ。
「な、てめ――ッ?」
ようやく侵入者の存在を認めた猿は、猛り立った――ほんの一瞬だけ。腰に差したぼろの小刀に手を伸ばす隙も与えられず、瞬時に距離を詰めた狼の剣が、その細い喉笛を切り裂く。二十歳前後であろうか。おそらく何が起きたのかも分からぬまま、若者は地を舐め絶命した。
「賊が。目障りだ」
「ひゅう。やるね」
猿の死体を隅に蹴り飛ばしながら吐き捨てる狼に、犬は賛辞を送る。口調は冷やかしのようだが、重い大剣を軽々と器用に操り、首を斬り飛ばすことなく、しかし悲鳴も上げさせず確実に仕留めたその手腕には、素直に感心していた。
「じゃあオレも、一仕事するか」
犬はそう言うなり、狼の横をすり抜け、目前の暗闇へ閃光のごとく踏み込む。
「ぎぃッ――」
青緑の鱗が鈍い輝きを放つ蜥蜴人が、そこにはいた。衣服と呼べるものは、腰に巻いて太い尾に括りつけた粗末な布だけ。そして、黄白色に微かな緑をまとった胸部の中央は、槍で一直線に貫かれている。猿の連れだったと思われる、白目をむいて全体重を預ける蜥蜴。犬はそれを軽々持ち上げて、猿の死体の上まで運ぶと、槍をするりと引き抜いて放り捨てる。
「お前もさすがだな」
「……どうも」
早速敵を二体片付けた二人は、お互いの実力を認め口角を上げる。ギルド内で双璧とされるに不足ない彼らだが、それゆえに任務を共同で遂行した経験はなかった。小悪党がのさばる時代。単独で済む仕事が多く、パーティを組む場合でも、リーダーは一人で十分だからだ。人手不足というのっぴきならない事情がなければ、こうして共闘する機会は訪れなかったかもしれない。
「さあ、姦賊どもを根絶やしにしなければ。先を急ごう」
「ずいぶん熱心なことだな。まあ、早く帰りたいのはオレも同じだが」
任務に臨む動機にこそ差はあれど、背中を預け得る仲間を得て、狼と犬はさらにペースを上げながら、深い洞窟の奥へと歩を進めていく。
――事前に聞いていたとおり、容易い仕事だった。種族も年齢もバラバラな賊どもは、奇襲を受けて慌てふためき、連携を取ることもなく闇雲に突っ込んでくるばかり。数多くの強敵と対峙してきた狼と犬の敵ではなかった。寄せ集めの雑兵たちが、捨て身で挑んで成したのは、戦闘服の末端にわずかばかりの傷を与えることのみ。あとはもう、薄闇にきらめく剣と槍により屠られるばかりである。中には命乞いをしたり、逃走を図ったりする者もいた。もちろん二人は、依頼に基づきただ粛々と、職務を遂行するのだが。
全長数百メートルの洞窟は、端々に小さな横穴があるもののほぼ一本道で、入り口から奥へと流れるように制圧されていく。狼と犬の歩みに合わせて、猫の少年、狐の青年、狸の中年――斬られ砕かれ貫かれ、できあがった屍はかれこれ十七体ほど。やがて二人は、最奥部と思しき場所にたどり着く。そこは円形に広がる大きな空間で、片隅には、近隣の村の住人や行商人などから強奪したと見られる装飾品やその他の品物が、うずたかい山を形成している。
「……ふむ、久々に骨のある戦士が来たようだ。これは腕が鳴るわい」
どこからか、重々しい声が響いた。その出処を探って、二つの視線が一点で交差する。空間の隅に、大きな人影が一つ。滅びゆく盗賊団の、最後の生き残りだ。
しかし、薄闇に佇むその姿は、二人が想像だにしないものであった。
「な……」
「こいつは、いったい」
袋の鼠をひとひねり。そのような感覚でいた狼と犬は、絶句する。
木の幹を斜めに切り落としたような、平たく大きい、黒ずんだ鼻面。長く飛び出た鋭い犬歯。そして暗褐色の粗い体毛に覆われた、ずんぐりとした体。猪獣人である。しかし、普通の猪ではない。身長が三メートルに迫ろうかという、恐ろしく巨大な猪なのだ。漆黒の腰蓑だけをまとった太く丸い体も、よく見れば、脂肪ではなく、隆々とした筋肉の塊になっている。そして、ぎらぎらと光る緋色の眼に鋭利な殺意をみなぎらせながら、大猪は不敵に口の端を歪めてみせる。
「なんだ、怖気づいたか? 早くかかってくるがいい」
立ち尽くす二人を見下して、猪は挑発する。その岩のごとき両手には、巨大な戦斧が握られていた。直径が身長の半分ほどもある肉厚な半円刃が、単体でも武器となりうる極太の柄に取り付けられたものだ。松明の炎が、まだらに赤錆の浮いた鋼を禍々しく浮かび上がらせ、二人の傭兵たちは、見ただけで押し潰されそうな重量感に足を竦ませる。
「気をつけろ。まともに食らえば、終わりだぞ」
「ああ……だが、あれだけの金属の塊だ。隙はあるはず」
弱小盗賊団の頭領が、まさかこのような化け物とは。しかし、あの斧の破壊力は確かに想像を絶するものだろうが、当たらなければ意味はない。こちらには数の利もある。攪乱しつつ攻めれば勝つのは難しくないだろう。犬はそのように考えていた。
「オレは左からいく。あんたは反対を頼む」
「了解した」
お互いの耳にのみ届く声量と目配せで、二人は示し合わせる。
「いくぞっ」
犬が細身の体を活かした瞬発力で、左へ大きく膨らみながら猪へと駆け出す。そして、あえて少し遅らせて、狼が右から迫る。犬と比べて出だしは緩やか、しかし服をはち切れさせんばかりに膨らむ両脚の筋肉で、急峻な加速を生み出し白銀の弧を描く。
「むう、これは……」
猪の動きは鈍重であり、左右に分かれて接近してくる狼と犬に、対応する術もなく立ち竦んでいる。やはり思ったとおりだと、犬はほくそ笑んだ。あの巨大過ぎる武器は、雑魚の群れを一掃するには効果的かもしれないが、少数精鋭の自分たちには無力なのだ。
大猪の左右、正反対の方向から、二色の光筋が迫る。それも同時に、寸分違わぬ完璧なタイミングで。鈍重な斧では、両者をまとめてさばくことなどできはしないだろう。
「くたばれッ――」
犬は勝利を確信し、槍を構え、無防備な猪の喉元へと飛びかかった。そして狼もそれに続く。だが、次の瞬間、彼らの顔に浮かんでいた勝者の余裕が、氷結する。それぞれの切っ先が暗褐色の表面に触れる寸前、猪が牙を剥き出しにして、笑ったからだ。
「思うたとおりだな」
そして同時に、体の前でまごついていたはずの斧がかき消えて、代わりに、ひゅうと空を切る軽い音が、旋風のように巨体の周囲を薙ぐ。
「がぁっ!」
「ぐ……っ!」
二人は空中でバランスを崩し、飛びかかった勢いのまま、後方の地面に受け身も取れず全身をしたたか打ち付ける。それでも彼らは即座に体を起こし、再び敵を視界にとらえる。首筋から、鮮血をぽたぽたと滴らせながら。
「ふむ。かわしおったか。やはりなかなかの強者のようだ」
くつくつと笑う大猪を前に、狼も犬も、青ざめていた。常人ならば持ち上げることすら叶わぬような鉄の塊が、まるでナイフのように宙を舞い、自分たちを襲ったのである。恐るべき速さ、そして首を精緻にとらえて。とっさに各々得物を振るって体を反らし、軽傷に抑えたが、そうでなければ二人そろって、遠ざかる自身の胴体を眺めていたことだろう。
「くそッ、話が違う! これが、これが簡単な仕事だって?」
左手で傷口を押さえながら、犬が毒づく。身体にとっては些細な傷、しかし精神には計り知れないダメージがもたらされていた。なにせ彼はここ十年近く、かすり傷一つ負っていないのだ。早期討伐を優先し、あえて攻撃を避けなかった場合を除いては。
「落ち着け、少し油断しただけだ。確かに速いが、避けきれないほどではない」
表向きは仲間への呼びかけ、しかし自分に言い聞かせるようにして、乱れた呼吸を整えながらつぶやく狼。あまりにも唐突に訪れた最大の脅威を前にして、彼は懸命に勝ち筋を探っていた。だがそんな姿を見て、猪はせせら笑う。
「少し油断……か。しかしそれで、うぬらは命を落とすわけだ。滑稽と言うほかあるまいな」
何を言われているのか理解できず、呆気にとられる二人。
「戯言を。こんなもの、かすり傷だ!」
「なるほど。そうか、そうか。まだ気づいておらぬか。己の体を蝕む魔の手に」
「何を……」
狼ははっとして、鼻をひくつかせ自らの傷口に嗅覚を集中させる。それを見た犬もまた、血の付いた手のひらを慌てて鼻先に押し当てる。鉄の臭いの中へ深く潜り、奥底に得体の知れない何かが潜んでいることに気づいたとき、二人は愕然として凍り付いた。
「わしの得物には、東方の貴重な植物から抽出した毒が塗ってあるのよ。これがなかなかに素晴らしい品でな。たっぷり一時間以上かけて全身を麻痺させ、確実に、死に至らしめる」
「ば、馬鹿なっ」
あっさりと語られた自らの末路に、犬は思わず吠える。しかし鋭敏な嗅覚が、それを否定することを許さない。猪はさらに、畳みかける。
「獅子獣人にも何度か試したが、ただの一人も耐えられんかったのう」
「……ま、さか」
獅子獣人は珍しい種族で、南の隣国に少数が存在しているとされる。かつての戦争では大軍を率いてこの国へと攻め込み、悪夢のような惨禍をもたらした。その体躯は大きく、しなやかかつ頑強で、斬っても刺しても簡単には死なず、不死身とまで恐れられたという。そんな獅子獣人にすら死をもたらす毒だということ、そしてこの猪が、獅子獣人で効き目を試すことのできる存在であるという事実は、狼を戦慄させるに充分であった。
「チッ……なら早く片付けて、ふもとの村に――」
「ああ、解毒剤などありはせぬよ。そもそもこの毒の存在自体、誰も知らぬであろうが」
犬を急かす微かな期待を、猪は愉快そうに打ち砕く。数多の依頼を通じて、世の裏側をまざまざと見せつけられてきた敏腕の傭兵ですら知らない毒だ。犬とて、治療できる見込みが薄いことは理解していた。しかし、薄いことと皆無であることには大きな隔たりがある。
「だが、なあに、心配は要らぬさ。毒が回るより先に、わしが引導を渡してやるからな」
褐色の悪魔はそう言うなり、その巨体からは信じがたい速度で突進を開始する。それで、狼狽していた二人も我に返った。戦士としての本能である。戦いの最中にあっては、戦いのことだけ考える。一時間後ではなく、今目の前に迫る死だけを見て動くのだ。
「やはり、かわせる!」
突進からの斬撃が、狼をまっすぐ狙う。それもまた、速さだけならば熟練の剣士ですら舌を巻くほど。しかし、巨体ゆえに動きは直線的で、小回りは効かない。気を抜かなければ、回避するのは難しいことではなかった。攻撃を外した猪は、蹄で硬い岩肌を削り取りながら急転回、そして今度は犬へと凶刃を振りかざす。だが犬もまた、容易に身をかわした。
「よし、それならこのまま避け続ければ」
攻撃を避けることはできても、常軌を逸した巨大戦斧の攻撃範囲と威力はあまりにも大きく、反撃する隙がない。しかし、あれだけの質量を振り回し続ければ、体力の消費は莫大だ。攻め込まなくとも、動き回っていれば勝機は見えてくる。二人はそう考えて、逃げに徹した。いかに惨めな思いをしようとも、勝つためにはそれしかなかったのだ。
「つまらぬやつらだ。わしを体がでかいだけの豚と侮ったか?」
――だが、その目論見は外れる。
「くそっ……何なんだよ、こいつは!」
猪突猛進を繰り返しながら、その勢いは衰えるどころか、体が温まってきたとでも言わんばかりに、ますますキレを増している。類を見ない巨体、非常識な持久力。まっとうなやり方で得られたものとは考えられない。片時も休むことなく、一撃必殺の攻撃を繰り出し続ける猪に、追い詰められているのは二人の方だった。
「らちが明かぬな。どれ、そろそろうぬらから攻めてみてはどうだ」
息ひとつ乱さずに、四半時間も小さな戦士たちの作戦に付き合った猪が、退屈に飽き飽きした様子で立ち止まると、斧の構えを解き、にやりと笑って手招きをしてみせる。あまりにも露骨な挑発だが、犬にも狼にも、それに応じる余裕はない。
「これは、一旦退いたほうがよくないか」
「退く、だと?」
駆け寄った犬が退却を提案した途端、狼は目を見開き、唸りとともに剥き出しの牙をぎりりと鳴らした。冷静沈着の皮を破った憤怒の発露に、犬は思わず息を呑む。
「退いたところで、山道で野垂れ死にするだけだ。お前も分かっているだろう」
「それは……」
戦いの緊迫に覆い隠していた真実を突きつけて、傍らの男を黙らせる。そもそも逃げ場などは最初からなかったのだ、この狼には。たとえ毒の話が偽りだったとしても、生きるか死ぬかにかかわらず、為すべきことは一つしかない。それだけが、彼の生きる理由なのである。
下卑た笑みを浮かべる邪悪を憎々しげに見据えながら、狼は口を開く。
・「俺がやつの動きを止める。その隙に、お前が仕留めろ」 [jump:2]
・「逃げたければ一人で逃げろ。俺はあんな外道には決して屈しない」[jump:5]
[newpage]
「俺がやつの動きを止める。その隙に、お前が仕留めろ」
息をゆっくり吐き出して怒りを鎮めると、狼は小さく、しかしよく通る声で告げる。汗にぬめる両手の肉球を交互にジャケットの裾で拭い、再び大剣をしかと握りしめながら。
「何をする気だ」
「これ以上長引けば、俺たちに勝ち目はなくなる。一か八か……」
尾はピンと伸びて短い毛が逆立ち、額の毛には汗がにじんでいる。その様子から、死を覚悟しての賭けであることを犬は悟った。猪の大戦斧は攻防を兼ね備え、こちらから攻撃を差し込む余地はない。しかし、避け続けても勝ち目はない。ならば、どうするか。
「……分かった。任せろ」
「感謝する。頼んだぞ」
短くうなずきあうと、狼は疾風のごとく駆け出す。そして猪のもとへと一直線に迫ると、その胴体目掛けて斜めに斬り上げを放つ。大剣が淀んだ空気を切り裂き、鋭く叫んだ。ギルドの若者たちの誰もが憧れる、たゆまぬ修練の結晶、淀みのない剣さばきである。
「こそこそと相談をした割には、芸のないことよ」
「く……っ」
しかし老獪なる猪は、斧を右手に取ると、器用にもくるりと逆手に持ち替えて盾とし、斬撃を防ぐ。そして、そのまま横薙ぎに刃を振るい、弾かれて体勢を崩す狼を上下に両断せんとする。しかし狼も容易くやられはしない。上体を瞬時に大きく反らし、すれすれのところで回避。その勢いを使って後方へ宙返りし、体勢を立て直す。
「ほれ、どうした! 逃げてばかりでは勝てぬぞ」
再度の挑発だが、狼は動じない。鼻先に残る粗い金属の質感と臭いを、ふんと鼻息で勢いよく吹き払うと、勝利を確信したように口の端を歪めて宣言する。
「黙れ、外道よ。焦らずとも、俺たちがすぐに引導を渡してやる」
猪のこめかみが、三角の両耳の間でぴくりと引きつるのを、少し距離をおいて槍を構えている犬の目は見逃さなかった。
「口だけは達者なようだ。しかし、挑発で油断を誘えるなどと思わぬことだな」
冷静を装っているが、内なる怒りを引き出すことには成功したようだ。体躯も力も獣人離れしたこの猪に、敵対しようとする者などそういなかっただろう。今はただ腐りゆくのを待つばかりのあの手下どもが、へこへこして従う様が目に浮かぶ。
「ほざいていろ。では、行くぞ」
再び、狼の俊足が硬い地面を蹴る。右に左にと駆け回りながら、袈裟斬り、燕返し、さらには刺突までも絡めて、多彩に攻めていく。そのたびに猪は例外なく反撃をし、狼が間一髪で回避することを繰り返す。犬も背後を狙った立ち回りで、定期的に急所や関節を狙った鋭い突きを放つのだが、あくまでも主役は狼である。
「ええい、虫けらどもめ。ちょろちょろと鬱陶しい!」
実のところの力関係は膠着したままだが、形式上は防戦一方になっている敵の側には、確実に苛立ちが募っている。反撃が条件反射的に繰り出されるようになってきたのが、その証拠だ。とはいえ、致命傷たりうる攻撃を命中させるには、あとひと押しが要る。
いよいよ、機は熟した。
全身から汗を散らしながら、狼が勢いよく踏み込み、再び胴横斬りを放つ。猪は斧を右手に持ち替えて、真横からの斬撃を軽く弾き飛ばすと、そのまま大きく振り上げ、振り下ろす。もはやルーチンワークと成り果てた反撃だ。それを見て、狼がにいと笑う。
「ぬっ!?」
当然、今回も回避されるとばかり思っていた猪が、驚愕する。狼は避けず、それどころか大剣を保持する両腕を瞬時に交差させ、そのまま頭上に突き上げたのである。太く頑強な鋼鉄の柄により、莫大な質量と速度を得て襲い来る戦斧を受け止めようとしているのだ。
「うおぉおおおっ!」
両足を大きく開き腰を落とした狼は、洞窟全体に響き渡る咆哮を上げながら、戦闘服をはち切れさせんばかりに四肢の筋肉を膨らませて、衝撃に備える。一方の猪は、巨大な鉄塊の質量に引きずられ、もはや右手一つでは、攻撃を止めることも軌道を逸らすこともできない。最大限の勢いのままで、鈍色の刃が振り下ろされる。
次の瞬間――薄暗い洞窟が眩い閃光に包まれる。そして少し遅れて、耳をつんざく落雷じみた音が炸裂し、四方の石壁を激しく揺るがした。崩れた石片が、ぱらぱらと落ちていく。
「ぐおッ!」
「があぁあっ!」
狼の鍛え抜かれた肉体は、それでも悲鳴を上げていた。全身のバネを極限まで活かしても、骨を媒体にして広がった衝撃は想像を絶する。とりわけ、途方もない一撃を直接受け止めた両腕のダメージは甚だしいものだった。しかし、狼は耐え抜いた。鋼鉄の柄がひしゃげても、狼は潰れることなく、斧が勢いを完全に失うまで立ち続けたのである。
一方、岩をも両断せんとする一撃を防がれた猪は、予想外の事態に怯んだ。狼を襲ったのと同じだけの衝撃が、いかな剛腕であろうとも、片手に集中すれば平気ではいられない。物理的にも精神的にも大きく揺らぎ、わずかながら隙が生じた。
そしてその一瞬を、犬は虎視眈々と狙い続けていたのだ。
「喰らいやがれぇッ!」
狼が身を挺して作ってくれたチャンスだ。ここで仕留めねば、次はない――研ぎ澄まされた緊迫感が、睨み合う二人のもとへ駆け寄る細い肉体に、限界を超えた速さと力をもたらす。
「しま、っ」
ようやく大猪は我に返るが、もう遅い。雄叫びとともに犬は地を蹴り、高く飛び上がる。手中の槍が、引きつった顔面へと吸い込まれるように、一筋の閃光を描いた。
「グゴ、ォオッ」
ぐずりと鈍い音を立てて、大きな鼻の下に隠れた口から、後頭部まで。厚い骨をもその勢いを削ぐことはできず、犬の槍により、猪の頭部は貫き通されていた。断末魔の叫びとともに、その巨体は後ろにぐらりと傾き、やがて長く尾を引く轟音を洞窟内に響かせる。
「ガッ、グガァ――」
巨体の各部を不規則に痙攣させて、だらしなく開いた長い口吻からは、涎と混じった血がぼたぼたと垂れている。まだしぶとく動いている心臓の脈動に合わせて、断続的に。
「やっ……た」
肩で息をしながら、犬がつぶやく。心身を支えていた興奮が一気に緩み、くずおれそうになるのをどうにかこらえながら、大の字で震える猪に歩み寄り、口から生える槍を引き抜いた。滝のように鮮血が溢れ出し、そして、速やかに勢いを失っていく。辺り一帯の住民を恐怖のどん底に陥れた盗賊団の首領が、ついにその報いを受けた瞬間であった。
しかし、犬に勝利の陶酔はなかった。ただ死が先送りになっただけなのだ。その事実がじわじわと脳内に蘇って、出てくるのは長いため息だけだった。
「ぐぅっ」
その時だった。湿った静寂を破り、呻き声と、ガランと金属が転がる大きな音。驚いた犬がその出処へと振り向くと、そこには、狼が両腕を力なく垂らして、顔を苦痛に歪めながらうつむいていた。足元には、猪の一撃を受け止めた大剣が落ちている。しばらく鍔を軸に揺れ動いていたが、やがて静止して、あとは役目を終えたようにただ鈍い光を放つのみだ。
「おい、あんた……腕が」
「大丈夫だ。とにかく、外に出よう」
平然とした口調で言う狼だが、今も重力に引かれるがままの両腕と、引きつった顔の被毛ににじむ脂汗が、痩せ我慢であることを如実に示している。それを指摘されるのを嫌ってか、返答を待つことなく出口へと向かい歩き出していく狼。
「待てよ、剣は?」
犬は、置き去りにされている大剣のもとへ駆け寄ろうとする。狼が手入れを重ね、大切にしてきたものであることは、ギルド内でもよく知られていたし、ともに戦った犬には聞かずとも明らかであったからだ。しかしそれを、当の狼が制する。
「そのままで構わない。俺にはもう、必要のないものだ」
「……だが、これは」
「いいんだ」
声に力はなく、ただ、反論はしてくれるなという切実な願いだけがこめられていた。再び足だけで歩き出したその背中はひどく頼りなく、犬は剣を諦めて後を追う。すぐに追いついて、振り返らずに前を目指す狼の右隣に立つと、自らの肩を何度か叩いて見せた。
「ほら。そんな調子じゃ転ぶぞ」
パーティの仲間が負傷したとき、手伝うのは当然のことだが、犬にはそれが苦手だった。どのような態度で振る舞えばいいのかが分からず、居心地の悪さを覚え、どうしてもぶっきらぼうになってしまう。今回はとりわけ、そうだった。
「……すまない、助かる」
狼もまた逡巡していた。他人に助けられるなど、初めてのことだったからだ。しかし結局は、犬の肩を借りることにした。足場の悪い洞窟を、この鈍重な体に手をぶら下げて歩くのは、想像以上に難しい。自力で歩いていては、生きて再び日の光を浴びることはないかもしれない。悪の巣窟で、悪に紛れて朽ちていく自分の姿を想像すると、狼は怖ろしくて仕方がなかった。
***
曲がりくねった洞窟の帰り道は、侵入時とはまるで別物だった。アンバーと黒のまだら模様を成す、進めども進めども変わらない岩肌。やけにうるさく共鳴する自分たちの荒い息、血なまぐさくよどんだ空気。本当に出口へと向かっているのかすら確信を持てなくなり、二人は戦士の強靭な精神のみを頼りに、不安に耐えながら前進する。
言葉もなく、足並みだけを揃えて、一歩、また一歩。無限じみた道のりを越えて、ようやく視界が少しずつ明るさを取り戻していく。動き始めた空気が、全身の被毛を微かに揺らした。
「見ろ。出口だ」
犬が指す前方には、真っ白ににじむ大きな光の円。垂れていた二つの尾が、ゆっくりと上がっていく。伏し目がちだった狼も、いくらかの活力を得て、引き込まれるように歩調を速める。闇に呑まれそうだった精神は、光を切望していたのだ。
しかし、その光は、彼らが望むような優しいものではなかった。近づくにつれて、清らかに思えた輝きは暴力的なまでに強まり、暗闇に慣れた二人の目を眩ませてしまう。
「うぅ……っ」
「おい、しっかりしろ」
ついに光の中へ踏み入ったその瞬間、怒涛のごとき白の流れに圧倒されて、狼がよろめく。意識すらも飛びかけて、犬の肩に体を預けていなければ、転倒は免れなかっただろう。
「情けないな……すまない」
「なんで謝る。それより、あんた、顔色が悪い」
狼の鼻先や歯茎、舌といった粘膜から、赤みが失われつつあることに犬は気づいていた。そして自分の左肩が、ぐっしょりと濡れていることにも。密着した狼の腋窩から、撥水性にも優れた厚いジャケットすら越えて、多量の汗が染み込んできているのだ。強い苦痛を帯びた汗が。
「ああ……少し、苦しくてな」
「まさか、もう毒が」
「いや、そうではないのだ。しかし、いずれにせよ……」
悪を滅することに全てを捧げ、泣き言など許さない。そんな男が、ここまで憔悴しきっていることが、犬には苦々しかった。愛剣を捨て、心の支えまでも失ってしまったのだろうか。もっと気楽な生き方が他に見つかれば、武器も仕事もためらいなく捨てるであろう犬には、狼の心痛を推し量る術はない。そのことがなぜだか、ひどくもどかしく思われた。
「ここで休もう」
眩い光にようやく慣れた二人の目の前に、洞窟を隠すように佇む大岩が映る。表側へ回り込むと、ずっと跡をつけてきていた亡者たちの臭気が、森を渡る風に吹き消されていった。
「もう大丈夫だ。ありがとう」
狼は犬の肩から体を離し、ふらつく足取りで岩へと歩み寄る。自らの目線よりもずっと高い岩壁にもたれかかると、体を回して背を預け、そのままずるずると腰を下ろしていく。
「ぐぅっ」
尻餅をついて両足を投げ出し、短く呻く狼。両手はだらりと地に垂らし、深く長い息を吐き出しながら、全身を脱力させた。その左隣に、犬もまた座り込む。尻と地面に挟みこまれてしまった尾を、乱雑な手つきで横に引き出しながら。
「腕が、痛むのか」
「……そのとおりだ。歩いていると、無数の針で串刺しにされたようでな」
「損な役回りをさせてしまった。あんたは自分を情けないと言ったが、それはオレの方だ」
苦虫を噛み潰すように犬が言つ。冷静な判断という皮を被せても、恐怖と焦燥に駆られて逃げ出そうとした、それが真実。あの猪の速さを思えば、逃げ切れたかどうかも疑わしい。自分が少しでも信念を持って戦っていたならば、狼だけが一方的に傷つくことはなかった。
「だが、仕留めてくれたのはお前だ。それに、心配は要らない」
「なぜだ?」
「痛みが和らいできている。まあ、麻痺しただけかもしれないが、どちらでも同じことだ。だいたいあれは、俺が望んでやったこと。お前が気に病むのは間違っている」
そう言って、狼は不器用な笑みを浮かべる。引きつったような奇妙な表情に、犬もつられて、負けず劣らずぎこちなく笑った。ニヒルでない笑顔は、いつぶりのことだろうか。先刻繰り広げた死闘が夢幻のように思えるほど、森の中には牧歌的な時間が流れている。土と緑の香りを感じながら、二人の戦士はしばらく体を休めた。
「……どうだ、痛みの方は」
「全く感じない。腕の感覚自体が、もう全くないな。最初から腕などなかったようだ」
数分間の休息で、狼を苛んでいた激痛は消えていた。しかしその顔と声に、安堵はない。隣に座る犬もまた、ただぼんやりと、深い木々の海を眺めるだけだ。
「痛みは消えた。しかし」
「ああ……あんたも感じているんだな」
「残念ながらな。俺たちの体は、少しずつ壊れていくらしい」
二人ともに、毒素が全身を蝕んでいく気配を感じ始めていた。体を構成する要素一つ一つが、自分のものでない何かに置き換えられていくような、違和感、嫌悪感。あの洞窟を満たす空気のように淀んだ穢れが、肺や心臓、全ての臓器を侵していく。今はまだ些細で、獣の鋭敏な感覚でなければ捉えられない、にじり寄る死の気配だった。
「あと、どのくらい持ちそうだ」
「正確には分からんが……せいぜい、二、三十分といったところだろうな」
「そうか。おそらくオレもそのくらいだと思う」
それきり、二人は黙りこくる。頭の中で、通り一遍の生き延びる可能性を探りながら。
ふもとの人里まで、全速力でも半時間はかかる。これからさらに毒が回れば、遠からず歩くのもままならなくなるだろう。間に合わない。仮に間に合っても、治療できなければ意味がない。あの猪の発言ははったりで、本当は解毒剤があるのではないか。そんな可能性も、獣の直感に否定された。奇跡など起こらないことは、身に染みてよく分かっている。
「オレもあんたも……ここで、終わりか」
「そのようだ。傭兵として、覚悟はしていたつもりだったが」
二人は逃れ得ぬ最期を認識し、ぽつりとつぶやいた。彼らには、わずかな希望にしがみついて足掻く気力がない。犬は昔から、生に対する執念というものが稀薄であった。そして、今ここにおいては狼も、それを失ってしまっていた。
「ギルドの主力だなんだともてはやされても、最後はつまんねえもんだな」
「だが、お前はあの大猪を仕留めただろう。俺たちは、凡百の戦士では太刀打ちできない巨悪を討ったのだ。それは、誇るべきことではないか」
「そういう感覚は、オレにはないのさ。くだらねえんだ。最初から最後まで、何もかもが」
投げやりな犬の言葉が、場に沈黙を下ろす。狼が天を仰ぐと、森にぽっかりと空いた穴から朗らかな青空が覗いていた。初夏の日差しと涼やかな風が、織り交ざって、死に行く獣たちを嘲笑うようになでていく。二人が死んでも変わらずに、世界は続いていくのだと。
「殺されないように戦っていたら、いつの間にか傭兵なんてもんになってただけだ。オレに誇りなんてない。思えば、死なないために生きるだけの人生だったな」
「……そうか」
気の利いた言葉など、狼は持ち合わせていなかった。誇りなどと言ってみたが、そんなものを抱いたことは、実のところ狼自身にもなかったのである。数え切れぬほどの咎人を斬り捨てて、結局何を得られたのか。そこに思いを巡らす虚しさから逃れるための、隠れ蓑に過ぎない。
「だからよ……最後くらい、オレはいい気分で終わりたい。あんたはどうだ」
静寂に溶けかけていた時間が、唐突に再び動き出した気がして、狼は怪訝な顔をする。
「何を言っている?」
「この毒のせいなのか、あるいは獣人の本能なのかもしれないが。さっきからオレは、どうにもムラムラしてきちまってな」
目線も合わせず喋る犬ではあるが、冷めていた声に、今は小さな活力が宿っていることに狼は気づいた。全身から漂う匂いも強まっている。興奮した獣特有の、わずかな伝染性を帯びた匂いである。しかしその物言いは、どうにも要領を得ない。
「だから、お前は何を言いたいのだ」
再度問いただすと、ようやく犬は向き直る。その目を見て、狼の心臓がとくんとわずかに跳ねた。全ての光を呑み込むかのようだった黒の瞳が、今ではしっとりと濡れて、どこか艶めかしい輝きを放っていたからだ。
「鈍いやつだ。あんたも男なら分かるだろう? これだよ、これ」
犬は右手の親指と人差し指で輪を作り、狼に見せつけてから自らの股間に添えると、わざとらしく上下に動かしてみせる。軽く盛り上がったトラウザーの表面に、鋭い爪が何度もこすれて、いやに煽情的な音を立てた。
「ああ……」
特に動揺する風もなく、狼はうなずく。
独り者の雄獣人ばかりの傭兵の世界では、旺盛な性欲を満足させることは重要である。トラブルを避けるためにも、そして、荒んだ闘いの日々を潤すためにも。ギルド自体がその手のサービスを斡旋しているくらいには、欠かせないことだった。
「俺が手を動かせないのは、知っていると思っていたが」
「もちろん。だから、あんたの分もオレが一緒にやってやるよ。悪くないだろう」
近い死を悟った者は、残された時間を幸せで満たしたいと思うものだ。可能なら、大切な家族や友人と寄り添いあって。あるいは、それらとの思い出に浸って。だが犬には、そのようなよすがはない。恋愛や友情といったものは実感したことがないし、家族に至っては言葉を聞くだけで虫唾が走る存在だ。最後に振り返りたいと思えるような人生でもなかった。
そんな犬にも唯一手の届く、残されたわずかな時間を埋める幸せが、性の快楽なのである。
「さあ、どうするんだ。もう悩んでいる暇はないぞ」
右手で空を揉みしだきながら急かす犬に、狼は答える。
・「そうだな……それも、いいかもしれん」 [jump:3]
・「いや、ありがたい申し出だが……遠慮しておこう」[jump:4]
・「くだらない。そういうことなら一人でやってくれ」[jump:6]
[newpage]
「そうだな……それも、いいかもしれん」
見るからに堅物な狼のことだ。このような提案を易々と受け入れはしないだろうと思っていた犬は、予想外の返答に目を丸くし、それから、ふさふさの尾を岩との間で大きく一振りする。
「驚いたね。正直、意外だ」
「俺の役目はもう終わったんだ。最後くらい、欲望に身を任せても悪くはない」
狼は遠い目をしながら、小声でそんなことを言う。自棄を起こしたわけではなさそうだ。どちらかというと、肩の荷が降りたような声音だと、犬は感じた。狼の言う役目とは、傭兵としての責務のことなのか。犬には分からなかった。ただ、狼が何かに縛られて生きてきたなら、それから解放されたのは喜ぶべきことだ。あるいは、縛るものに出会いすらしなかった自分に、目の前の男が近づいてきてくれたことが、嬉しかったのかもしれない。
「じゃあ、ファスナー下ろすぞ」
「俺からか?」
「どっちが先でも同じだろう。本当は丸ごと脱がせたいところだが……あんたの体を持ち上げるのは骨が折れそうだ。我慢してくれ」
「むう……」
狼は羞恥を不満という形で表すが、立場上、受け入れるほかはない。しぶしぶうなずき、犬がやりやすいように腰を前に出して足を開く。戦闘時の勇猛な姿とのギャップに、犬は得も言われぬ感覚を抱きながら、ホックを外し、続いてわずかに覗く銀色のスライダーに手をかける。その指先に微かな温もりと弾力が伝わると、二人の間で空気がにわかに色めきだした。
特に言葉もなく、ただ息を呑みながら、ファスナーが下ろされる。現れた狼の下着は、腰に巻かれた細いバンドに、局部を包む真っ白なポーチが縫いつけられたものだ。
「すまない、汗まみれだな。それに……臭うだろう?」
「……多少は。だが、それは仕方ないことだ。オレたちは戦いに来たんだから」
心配する狼に気遣いの言葉を返しながら、犬は気もそぞろである。立体的に縫製された小袋にぴったりと象られ、圧倒的なボリュームをこれでもかと主張する狼の中身に、その目は釘付けにされていたのだ。じっとりとした触感も汗の臭いも、その前では大した問題ではなかった。
「これは、ジョックストラップとかいうやつか」
「そうだが……珍しかったか?」
「若いやつらに最近流行っているとは聞いたが、まさかあんたが穿いているとは」
それは隣国から伝わってきた下着で、輸入に頼っているため品薄ではあるが、陰部をしっかりと支えてくれるため、激しい動きを求められる雄獣人たちの間で広がりつつある。犬たちの傭兵ギルドでも、近接戦を主とする若者たちに好評なのだそうだ。もっとも、あまりに露出度の高いデザインがゆえに、自分とは無縁のものだと、犬は思っていたのであるが。
「なんだ、まるで若作りだとでも言いたげだな」
「別にそんなつもりは」
「……いいんだ。実を言うと俺もそう思う。ただ普通の下着では、戦っていると、その……玉がどうしても擦れてしまってな」
「なるほど……確かに、これでは」
両の拳に匹敵するほどの大きさを持つ球体を見て、犬は納得する。狼獣人は、犬獣人よりも野生の血を色濃く残す種族であるから、これもまたその表れなのだろう。
「そんなことはいいだろう。それより、やるなら……早くやってくれないか」
「ああ、すまない。それもそうだな」
隠しておきたい秘密をまじまじと観察し、辱めてしまったことに気づき、ごまかすように犬は陰部へと手を伸ばす。指先が触れると、厚い布越しの時とは比べ物にならない豊かな弾力が、各部位の形状を生き生きと伝えてきた。汗に濡れて薄く透けた滑らかな布地をなぞり、太腿の付け根までたどり着くと、爪を立てぬよう気をつけながら、指先を滑り込ませる。
「じゃあ……」
ぐっしょりとした感覚。死闘の後とはいえ、涼やかな森の風が吹き抜ける中、ここまで汗が引かないものだろうか。これから起こることへの羞恥と期待か、それとも、毒の影響か。急いだほうがいいだろうと考え、犬は思い切って布袋をめくり上げる。
あらわとなった狼の生殖器は、果たして、想像に違わぬものであった。短い白毛に覆われた対の睾丸は鶏卵のようであり、その間に生える薄黄色の陰茎もまた、子供の腕に匹敵するほどの太さを持つ、まさに巨根と呼ぶにふさわしい威容を誇る。皮は剥けておらず、先端からわずかに赤い亀頭が覗いているが、それをもって可愛らしいと評するには、外観があまりにもふてぶてしい。極めつけは、汗に蒸れた強烈な雄獣の匂い。鼻を無意識にひくつかせながら、喉から水分がみるみる失われていくような気がして、犬はぐっと唾を飲み込んだ。
「触っても、いいか」
「何をいまさら……どうせ触ることになるのだろう?」
「あ、ああ」
そっぽを向いた狼だが、短毛をまとった尾は緩やかに揺れており、機嫌が悪いわけではないようだ。それをさりげなく確認して、犬は恐る恐る手を伸ばす。人差し指で、皮を剥けば雁首に当たる部分に触れてみると、主の体がぴくりと小さく震えた。
「ぐぅ……他人に、それも男にここを触られる日が来るとはな。なんとも奇妙な気分だ」
「初めてなのはオレも同じだが……気持ち悪いか?」
「いや。考えてもみれば、そんなことを気にするのも、この期に及んで馬鹿らしい」
「違いない」
そんな会話を通して少し遠慮が和らいた犬は、中指も添えて、太い竿を上下になぞってみた。しかし、肉球越しに感じていた柔らかな感触に、徐々に芯が入ってきていることに気づき、慌てて手を放す。狼は少し呆れたように目を細め、犬の方を見ていた。
「一緒にやるのだろう? 時間はないぞ。お前も早く脱いだらどうだ」
返す言葉もなく、犬はしぶしぶベルトを緩め、前と後ろのホックを外し、腰を浮かせてトラウザーをずり下げる。鈍重感は悪化しつつも、まだ体は不都合なく動き、黄色のトランクスをさらけ出した。狼は意趣返しのつもりか、それとも純粋な興味ゆえなのか、自身のものより明らかに控えめな膨らみをじっと見つめている。それをやめろとも言えず、犬は嘆息して下着の両端に手をかけ、ぐいと陰部を初夏の外気にさらした。
「……そうか、お前は剥けているんだな」
全身の鮮やかな赤茶色に対し、腹部から股間にかけての被毛は、日差しを浴びて透き通る白。そこに垂れ下がる陰茎もまた白く、ただしわずかに赤色をまとっており、体格と同様に、狼よりも細いが長さは肉薄している。目立つのは、しっかりと露出した先端だ。雁首は浅いがくっきり立ち上がり、亀頭の形状は左右に均整が取れ、暗紅色が背景と生々しい対照を成している。
「こんなの、何の役にも立ちはしない。見てくれの違いだけだ」
「確かにそうだ。しかし大きさは重要だろう。お前のそのサイズが、俺には羨ましい」
「それは嫌味か?」
「どうしてそうなる。先ほども言ったが、大きくても邪魔なだけだからな」
実際、狼の言葉に他意はないようだ。そして、性器の太さ長さなどに頓着しないのは、犬も同じである。ギルドの拠点に設置された更衣室で、互いに大きさを比べて一喜一憂する男たちの姿を目撃するたびに、下らないと蔑みの目で見たものだった。しかしこうして、全く別種の生き物であるかのような違いを見せつけられた今、犬の心境はそう単純なものではなかった。
「しかし……お前は近寄りがたい男だと思っていたが」
「ん?」
「こうして見れば、なかなか愛嬌のある顔じゃないか」
犬の精神状態を映した表情を覗き込んで、狼が言う。ふざけた様子はなく、しかしあまりにも唐突なその言葉に、犬は吹き出しそうになった。
「あ、愛嬌? オレが?」
種族柄、赤茶色の顔の輪郭は柔らかく、白いマズルも黒の瞳も丸みを帯びている。形態の特徴だけを挙げれば、確かに愛くるしい子犬のようだ。しかし、三十路を過ぎた今はもちろん、少年だったころからずっと、犬をそのように見るものはいなかった。
「すまない、気を悪くしただろうか」
「ああ……いや、そうでも、ない。別に、全然。ただ、そんなこと言われたのは初めてだから、よく分からなくなっちまっただけだ」
幼少期には、相対する誰もが、目線を合わせようとすらしなかった。ギルドで一目置かれる戦士になると、同伴する若い傭兵との会話も増えたが、彼らは引きつった笑顔を浮かべて、隙を見せればそそくさと逃げ出す。犬もそれが当然のあり方だと思って生きてきた。だからそれ以上に踏み込まれたときに、対応する術を持たない。
「そ、そんなことより、さっさと始めるぞ」
話を打ち切るべく、犬は右手を再び狼の股間へ伸ばし、鎮座する陰茎をぎゅっと掴む。
「むぐ……ぅ」
犬の決して大柄とはいえない手には、萎えていても十分な握り心地。それはとりもなおさず、握られる側にも確かな力がもたらされるということだ。
「やはり太い……な……?」
太さを確かめていた犬の手に、大きな脈動が伝わった。それを合図に、触れるか触れないかという具合だった親指と人差し指が、ぐいっと押し広げられ離れていく。目前で起こっている生々しい変化に、犬はしばらく、絶句せざるを得なかった。
「……あんたは、ずいぶん溜めていたようだな」
わずか数秒の後には、狼の男根は、赤紫色をした血管の絡みついた巨大でグロテスクな獣茎へと姿を変えていた。握られただけで、臨戦態勢に移行したのだ。しかし、亀頭の露出は拡大したものの、未だ大部分は隠されたままで、これが途中形態に過ぎないことを示している。限界まで到達すれば、どうなってしまうのだろうか。犬は生唾を飲み込む。
「このようなことには、慣れていないだけだ。あまり、からかわないでくれるか」
「あ……」
狼は顔を赤らめながらふてくされ、犬も二の句を継げずにいる。戦いを取り去られると、この二人は今も子供のままだった。そしてもう、大人になることはないのだ。
「いいから、早く始めてくれ」
ぶっきらぼうに促されたことで、許しを得たかのように、犬は再び動き出す。まずは、股間の毛に埋もれている小ぶりの自身を、左手でまさぐり出して包んだ。右手に感じる膨満感とのあまりの違いに顔が強張るが、これはまだ勃起に至っていないためだと自分を納得させつつ、左手をぎこちなく上下させる。
「んぅっ」
ふにゃふにゃと柔らかく、隣の男に負けず劣らず湿ったものを、利き手でもない方で扱くのはやりづらい。しかし、そのぎこちない動きはすぐにこなれていく。熱く脈打つ狼の茎から興奮が流れ込むように、犬の性器もまた、ぐんぐん勃ち上がっていったからだ。
「なんだ、お前も大して変わらないではないか」
「はは……そうだな」
長さだけなら狼をも上回るような逸物が、威勢よく天を仰ぐまでに、時間はかからなかった。威圧的な重厚感を誇る狼と、研ぎ澄まされた鋭い輪郭の犬。奇しくも彼らの得物と特徴を同じくして、二本の雄は屹立している。
「なあ。他意はないんだが、あんた、童貞か?」
唐突な問いかけに、狼の全身、とりわけ局部がぴくりと震えた。
「いや……そう、だが。お前は違うのか」
「もちろん、違わないさ。生まれてこの方、女とも男とも、一度もな」
その返答を努めて無表情で受け止めながら、内心では安堵している狼。恋愛沙汰に興味はなくとも、血をより多く後世に残すべしと喚き立てる獣の本能がそうさせるのであった。
傭兵の世界は男中心で回っている。そして、常に命の危険に曝されており、恨みを買う機会も数知れない。そういうわけで、妻をめとり家庭を持てる者は必ずしも多くはない。それでも精力は旺盛な戦士たちは、かなりの数が欲望を発散すべく日常的に娼館を利用しているほか、さらに気軽に快感を得られるとして、男同士での交わりも広く行われている。しかし、そのいずれも、仕事以外はほとんど食べて寝るだけだった狼と犬には、無縁の存在だ。
「だからこれが、オレたちの初体験ってことになるわけだ。よかったじゃないか。死ぬ前に一度でも、普通の傭兵らしいことができて」
「ふっ……確かにな」
「ああ。それじゃあ……」
急がなければならないことを知りながら、二人ともそれとなく、開始を先延ばしにし続けてきた。下らない会話も不快ではなかったし、ひとたび手淫に踏み込めば、もう止められないことも分かっていた。そして達してしまえば、待っているのは虚しい死だけだから。
しかし、もはや猶予はない。
「……いくぞ」
両手に握りしめた二つの雄の証を、犬は勢いよく、上下に扱き上げた。
「うぉおお、んっ」
吐息に混じる快楽の叫びが、背を弓なりに反らした狼の口からほとばしり出る。その大げさな反応に犬が驚いて顔を向けると、ぽかんと開いた長い吻の先から真っ赤な舌をはみ出させ、ただ息を荒らげる狼の姿があった。
「ゆ……くり」
「ん? どうした、聞こえなかった」
「もっと、ゆっくり、頼む」
甘えたような、媚びるような声。盗賊団の根城に臆することなく踏み込み、敵を容赦なく斬り捨て蹴り飛ばした、勇敢で非情な戦士の姿はもうそこにはない。蕩けた瞳で見つめられ、犬の心臓が大きく跳ねる。自分でも知らなかった感情を、強く強くそそられたのだ。
「分かった。ゆっくり、だな」
犬は手の動きを緩める。自らを慰める左手は速めに、狼を攻める右手は遅めに。接近戦に備えた短剣の心得もある犬は、手先は器用で、リズムをずらしながらも、敏感そうな皮と亀頭の境目あたりを捉え続けることができた。
「ああっ、ぐ……ぁあ」
とはいうものの、性技についてはずぶの素人である。児戯にも等しい単調な往復運動。それでも狼は、体をくねらせながら、喘ぎ声を抑えることで頭がいっぱいのようだ。
「あんたは反応が面白いな。聞くまでもなさそうだが、具合はどうだ」
犬はさらに、ほとんどさする程度にまで右手の動きを緩めてやる。それでようやく狼は、まともに返事ができる程度の状態に回復した。
「ああ……悪くない。久方ぶりだからだろうか、それともお前が上手いのだろうか。ぐっ、どうにも声が、抑えられんのだ。ふう、は……っ」
「オレは自分を慰めたことしかねえよ。しかし、どのくらいご無沙汰だったんだ?」
「もう、思い出せないほどだ。こう言ってはなんだが、こんなことをやる時間が……いや、やろうとする気持ちの余裕が、俺にはなかった」
三十三になった今でも二日に一度は自慰にふけり、その本能的快楽を生きるための大きな糧としてきた犬には、その述懐は、哀れみの対象としてしか受け止められなかった。
「そうか。それは辛い人生だったな」
「同情など結構だ。俺はただ、たたか……あ、があっ!」
しかし、言い争いなどするつもりはない。右の指先に意識を集中し、適度に湿気を帯びた肉球を二つ、亀頭の前と後ろにあてがって、素早く摺動させる。それで狼の理性は再び途切れた。始まりの時点で巨根としか形容のしようがなかったものが、さらに膨張していく感覚を犬は得る。皮は剥け切り、慣れない刺激に赤く染まった粘膜が、生々しく姿を晒していた。
「ぐぅ、がぅっ! がぁ、あぐっ」
人の言葉とも吠え声ともつかない音を上げて、狼は全身を何度も震わせる。まさに、快楽に溺れた獣そのものだ。さらに数度扱き上げると、ぱっくり開いた尿道口から、いよいよ歓喜の涙がどろりと何度かに分けて溢れ出す。
「じゃあオレの方も、そろそろ……」
この調子だと、狼が果てるまでにさほどの時間はかからないだろう。そう思い、左手の律動を速めていく。犬はロマンチストではないし、まして恋人同士でもないのだから、一緒に達したいとまでは思わないが、タイミングが離れすぎるのも興醒めである。
「ふっ、く、ぅ」
利き手によらない刺激はいつもと違い、少しじれったく感じる。それでも、以前に左手でした時とは違って、確かな快感が得られている。あの日は、戦いが長引くのが面倒で、あえて強引に攻めて少々深い傷を負った。そのせいか性欲が尽きることなく、夜更けまで何度も繰り返しているうちに、右手が疲れ果ててしまったのだった。それで左手に切り替えたのだが、ちっとも感じることはなかった。今は違う。甘い吐息が、牙の隙間から漏れ出していく。
森の中、死にゆく二人の雄が、淫らな音を響かせながら思い思いによがり狂う。傍から見れば異様な光景だろう。しかし彼らは、この状況をどこまでも自然に受け入れて愉しんでいた。狼はもはや快楽の虜であるし、一回扱くごとに鉄を鍛えるがごとく硬度を増し、先走りに濡れそぼっていくその逸物に、犬もすっかり魅了されていたのだ。狼が興奮するほどに、自身の鼓動も速く激しくなるものだから、攻め立てる手を止められないでいる。
「ぐあぁっ、ま、待てっ、もう、い……っ!」
すっかり泡まみれになった巨根が、さらにはち切れんばかりに膨張し、まっすぐに天を向く。根本に引き寄せられていく大きな睾丸と、いっそう赤黒く色づく亀頭。いっぱしの男が見れば、射精寸前であることは一目瞭然である。それにやっと気づき、犬が慌てて勢いを緩める。
「……そろそろイキそうか」
ぜえぜえと荒い息で肩を揺らしながら、面と向かって答えるのがどうにも恥ずかしい狼は、ただ目をそらし、無言のままうなずいた。灰色の奥に透けて見える顔色はすっかり真っ赤だ。
「そうか。じゃあ……いいんだな?」
自身も欲望をいきり立たせながら、どうにか平静な調子を保って犬が問う。性の衝動がどれほどに抗いがたいものであろうとも、ここだけは、流されるわけにはいかなかった。
これが、最後なのだから。もう二度と、やり直すことはできないのだから。
「ああ……頼む。いかせて、くれ」
甘やかにかすれて、今にも泣き出しそうな声で、狼は希う。
「分かった」
それで念を押す気持ちも削がれて、再び犬は右手に力を込めていく。粘液をたっぷりと吸った手のひらがねちゃりと音を立てて、狼の体を何度も跳ねさせた。
「思い切り、楽しめ」
まるで我が身の一部のように感じられる肉棒を、勢いよく上下に扱く。肉球を亀頭に密着させて、毛束を冠状溝に絡めて。余すところなくこそぎ取り、虚しい年月を生き抜いた戦友を労う。そして狼は、言葉ではなく身体で、最大限の感謝を表すのだ。
「うおお、ぉおおっ!」
歓喜の咆哮が森を駆け巡る。睾丸の脇に押しのけられた下着も、男泣きにぐっしょりと濡れている。獣としての原初の快楽で、三十六年の全てを燃やし尽くして。もはや狼は、たとえ犬が手を動かさずとも、ただ握られているだけで、自らの脈動により高みへと上り詰めていける段階に入っていた。全身の毛が逆立ち、ぴんと伸びた尾が何度も岩を叩いて小気味良い音を立てる。
「ぐるるっ、がぁっうぅ……ッ!!」
大粒の涙を流して狼が吼えると、破裂寸前まで張り詰めた狼茎が、ひときわ鋭く脈動した。尿道を押し広げていく力強い流れは、海綿体を越えて、犬の手にはっきりと伝わるほどだ。そして次の瞬間、黄色を帯びた大量の子種の塊が、滑らかな曲線を描いて空高く打ち上がる。何度も、何度も。そのたびに狼は絶叫し、半ば意識を失った。また犬も、吐精とともに噴き出す、雄の存在を煮詰めたような濃厚な香りに、理性がぐずぐずに溶かされて、陶酔したのだった。
あまりにも強烈で、しかし、時間にすればわずか数秒の快楽が終わりを告げたとき、口の両側からだらだらと涎を垂らし、魂の抜けたような目で狼は全身を脱力させていた。
「……大丈夫か?」
犬が問いかけるが、反応がない。
「おい、まさか――」
「平気だ……まだ、生きている」
慌てた犬が手を伸ばそうとしたところで、狼はゆっくりと口を開いた。それで犬は安堵する。自分がまだ達していない中、先に死なれてしまっては敵わない。
「どうだった、久方ぶりの一発は」
「ああ、ああ……よかった。最高だったと、言っても、いい」
「ふっ。確かに、これだけ出せばな」
狼の身体は、首筋から下腹部までべったりと、厚い白の斑模様に覆われていた。それらは陽光を浴びて淫らに輝きながら、ゆっくり滑り落ちて、服の濃緑をくまなく濁らせていく。先刻までの存在感が嘘のように萎んで、犬の小柄な手の中に隠れてしまった陰茎と睾丸が、吐き出された精の量がいかに膨大であったかを物語る。
「次がないのは、なんとも……名残惜しいものだが」
涎を肩口で拭いながら、狼がつぶやいた。言葉とは裏腹に、その声音のどこにも未練の色はない。射精とともに、命そのものまでも撒き散らしてしまったかのようだ。
「これで、心置きなく、逝ける。礼を言うぞ。さあ……お前も早く、出すといい」
「ああ、そうするか」
狼に促され、犬は今も貪欲に勃起を続けている自身のものに目を落とす。雄ならば誰もが憧れるような絶頂を目の当たりにして、犬の期待は高まる一方であった。自分も早く、この無味乾燥な人生の檻から自由になって、生の喜びに打ち震えたい。そのためには、利き手を使うのが一番だろう。左手も悪くなかったが、やはり右手には敵わない。犬はそのように思って、なおも狼の恥部へとつながっている右腕を引き寄せる。
「あ……?」
しかし、奇妙なことが起こった。今頃は自分の股座で、ひくつく硬い感触を楽しんでいるはずの手のひらに、なぜか未だに、柔らかく縮んだ狼の体温だけがあるのだ。理解ができず、犬はもう一度、腕を動かそうとする。それでも、脳内と現実の状態が一致することはなかった。相変わらず、粘液にまみれたままの右手は、微動だにしていない。
「おいおい、嘘だろ……」
「どうした?」
「手が……手に全然、力が入らねえんだ」
何度も試してみるが、上腕が微かに震えるだけ。狼を扱くのに夢中で、右手を酷使し過ぎたのかもしれない。それならば、左手でも構わない。多少ぎこちない動きでも、今なら難なく達することができるだろう。皺の上に短毛をまとった陰嚢と、少し硬さを失いつつある肉棒との境目にある指先へ、犬は意識を集中させる。だが――。
「……なんだよ、これ」
動かない。
筋肉が意思に沿って収縮しようとしているのは分かる。しかし、その力はあまりにも微弱だ。重力に逆らって指の一本を持ち上げることすら叶わないほどに。
意識すれば意識したとおりに体が動くのは、当たり前だと思っていた。それがいかに甘い考えであったかを、犬はまざまざと思い知らされる。知らぬ間に全身のすみずみまで広がった毒が、筋肉を麻痺させていたのだ。
「クソっ、なんで、なんで動かねえんだよ!」
肉体と精神が分離してしまったような、あるいは、自分の身体が他人に乗っ取られてしまったような、名状しがたい感覚に犬は苛まれていた。そしてそれ以上に、焦っていた。唯一の救済がその手をすり抜けていく恐怖が、やるせない怒りや妬みが、ないまぜになって。
「ちくしょう、動け、動いて……くれよ……」
全身をぴくぴくと震わせながら、犬の目には涙すらにじみ始める。
「お前……」
その様子を目の当たりにして、狼は言葉を失っていた。生きる目的を奪われ、朽ち果てるのを待つばかりだった自分に、最後の喜びを与えてくれた戦友が今、すぐそばで苦悶しているのだ。犬の希望は、萎えかかっている。そしてその命も、間もなく尽きるだろう。
狼は――
・不憫に思うが、どうしようもなかった。[jump:7]
・どうにか助けてやりたいと思った。 [jump:8]
[newpage]
「いや、ありがたい申し出だが……遠慮しておこう」
狼は力なく首を振る。狼もいっぱしの男であり、射精の快感はもちろん知っている。そして、犬とはまた事情が異なるが、今得られる楽しみがそのくらいしかないという点も同じである。ただこの狼の心はすでに、肉体よりも早く、朽ちてしまっていたのだった。
「そうか、無理強いするつもりはないさ」
特に説得を試みることもなく、犬はゆっくりと立ち上がる。結局のところ、自分が気持ちよくなれればそれでよかった。犬は人にも物にも興味のない男だった。自分自身にさえも。生理的な反応のみに動かされて生きてきた。それは今この瞬間も、変わらない。
「じゃあオレは行くぜ。目の前でシコられちゃあ、迷惑だろう」
「……待ってくれ」
よろめきながら歩き去ろうとする犬だったが、ふいに呼び止められて振り返る。
「もしよければ、一つ頼みを聞いてくれないだろうか」
「オレに頼み? 何だ」
「俺を……殺してほしい。毒で死ぬ前に、どうかお前の手で」
内容に反して静かに淡々と語られた、狼の最後の頼み。犬の気だるい表情に、怪訝とわずかな驚きが混じった。生に執着はないが、死を希求することもしない犬にとって、どのみち半時間もすれば尽きる命をさらに削る行為は不可解であった。
「そんなに死に急ぐもんじゃないぜ。ひょっとすると助けが来て、奇跡的にも解毒剤があって、オレらは助かるかもしれねえんだから」
「いや、いいんだ。どのみち俺は、もう生きていたところで仕方がないのだから」
おどけてみせる犬の言葉にも、口調を変えずに狼は応える。見るものを畏怖させる狼の鋭い顔立ちも、今は魂が抜けたように儚く、哀れっぽい。願いの真意は犬には分からない。毒にもだえ苦しむことを恐れているわけではなさそうだ。戦士の誇り、だとでもいうのだろうか。
「やれやれ、盛り下がっちまうな。いくらオレでも、ギルドの仲間を手にかけて、それから何の憂いもなくイケるわけじゃねえんだぞ」
犬は単独行動を好むが、ギルドに身を置く以上、他者と組んで戦うことも多い。まさに今回のように。そして時には、同行者が命を散らすこともある。他人に興味がない犬ではあるが、仲間を失い涙にむせぶ者たちを見て、多少痛める程度の心は持っていた。
「お前の言うとおりだ……申し訳ない。忘れて――」
「分かった。やってやるよ。あんたがそれを望むのなら」
罪悪感を覚えて頭を垂れていた狼が、予想外の返答を受けて、目を丸くする。
「いい、のか?」
「もう聞いちまったんだ。捨て置いたって同じことだろ」
今でも犬には見当がつかない。何が狼を死に向かわせるのかを。それでも、大猪との死闘では借りのある相手だ。一人だけで黙ってすることもできたのに、手の使えない狼にも手淫の代行を提案したのだって、多少なりとも狼を気にかけてのことだったのである。だから、この程度の頼みなら、引き受けることに抵抗はなかった。
「すまない、恩に着る」
深々と頭を下げている狼がいじらしく思え、犬は微かに牙を覗かせる。
「あんたはそれで、どんな死に方をご所望なんだ」
「それは……任せよう。ああ、無責任に丸投げしようというわけではないんだ。お前が一番楽にできる方法を選んでほしい。苦しくとも……俺は構わない」
ならばなおのこと、毒が回るのを待てばいい。そう言いかけて、犬は口をつぐむ。もしかすると、この屈強な男が真に恐れるものは、死の瞬間の苦しみではなく、何もできずにただ死を待つ時間なのかもしれないと、想像したのだ。
「あんた、ツイてるぜ。オレは槍以外に、短剣も隠し持っていてな。手入れも万全だ。そいつで心臓を一突きにするのが、一番楽な死に方だろう」
ジャケットの内側に忍ばせた短剣を示しつつ、犬は言う。長物を扱いづらい戦場もある。そこで活躍するのが、槍と同じくギルドの支給品であるこの一品だった。
「それはありがたい。先ほどはああ言ったが、あの槍で口から串刺しにされるのは、さすがに勘弁願いたかったからな」
「ふっ……確かに」
あの憎き大猪がついに斃れた瞬間を思い出し、二人は苦笑する。依頼達成に必要でない会話は極力避けていたのだが、その意外にも快い感触に、犬はしばし浸っていた。ただ、ならばもっと積極的に話しかけてみればよかった、とは思わない。結局のところ、間もなく死ぬ状況が、刹那二人をつないでいる。きっと、それだけのことなのだから。
「……悪いが、あまり時間がない。そろそろ、始めよう」
「分かった。俺は従うだけだ。好きなようにやってくれ」
柔らかな時間は幻のように過ぎ去って、たちまち空気は重く、両者の肩にのしかかる。
「上だけ、脱がせるからな」
犬は狼のそばに片膝をつき、ジャケットのボタンを外して、薄汚れた白のTシャツをあらわにする。それから愛用の短剣を右手に取ると、じっとり湿った襟ぐりを左手で引き寄せ、刃を内側からあてがってそのまま縦に引き裂いていく。狼は両手を動かせず、脱がせるのは難しかった。この薄い布ごと体を貫くのは造作もないことだろうが、それでは狙いを外し、無用な苦痛を与えてしまうかもしれない。
「すまないな、俺のわがままに付き合わせてしまって」
「気にしないでいい。あんたがいなけりゃオレはあいつに潰されてた……。少しだが、こうして生き長らえたんだ。このくらいの手助けはするさ」
死は避けられないとしても、こうして死に方を選ぶ時間は持てた。それはきっと喜ぶべきことなのだろう。人は遅かれ早かれ死ぬもので、違うのはどう死ぬのかということだけ。あの醜悪な敵の手でなぶり殺しにされるより、ずっとまともな最期ではないか。犬がぎこちない感謝を伝えると、狼もそのいかめしい表情をわずかに和ませる。
「……じゃあ、いくぞ」
「ああ、頼む」
ゆっくりとまぶたを閉じた狼の体側を左手で支えつつ、冷たく輝く切っ先で胸の中心に狙いを定める。犬の指先は、狼の汗ばんだ体が震えていることをはっきりと感じ取っていたし、鋭敏な嗅覚と聴覚もまた、その心の内を克明に捉えていた。しかしそれを口にはせず、態度に表れることもないよう努める。
「ゆっくり眠れ。オレもすぐに逝く」
それだけ告げて、犬は短剣を、灰色の毛の奥でまだ脈動する心臓へと一息に突き刺した。
「がぁ……っ――」
刃渡り四十センチほどの短剣は、初めこそわずかな抵抗を受けたものの、あとはただ滑るように狼を貫き通し、背を支える大岩を甲高い音で打ち鳴らす。
微かな呻きを漏らし、体をびくりと跳ねさせはした狼だが、ついに叫ぶことも暴れることもしなかった。強張っていた全身が緩んでいくのを犬の手が感じ取る。そして頭をゆっくりと垂れ、狼の命の火は穏やかに、消えたのだった。
「大したやつだ。オレにはきっと、できない」
全てを虚ろな目で見ながら、生とも死ともつかない人生を送ってきた男には、この狼の最期がとても崇高で美しく思えた。手の負傷さえなければ、狼はきっと、誰に頼ることもなく自ら幕を下ろしていたのだろう。亡骸から短剣をまっすぐに引き抜きながら、犬はつぶやく。傷口から、血はほとんど流れなかった。このために作られたのではないかと思うほどに、この武器は見事に狼の願いを叶えてみせたのである。
「これであんたは、楽になれた。そうだろう?」
ポケットから布を取り出し、表面を薄く覆った赤い血を拭うと、刃は誇らしげにきらめいた。心がすっと軽くなって、犬は短剣を懐にしまい、再び狼の隣へ腰を下ろす。辺りを見渡せば、そこにあるのは、あの血なまぐさい戦闘が嘘のように美しい、山の風景だけだ。
「ああ……案の定、冷めちまったな」
いまさら自慰にふけることができるほど、犬の肝は太くなかった。しかし、決して悪い気分ではない。土の匂いをたっぷり含んだ初夏の風が、草木をさざめかせながら、爽やかに抜けていく。犬はただぼんやりと、緩やかな時間を味わっていた。だからだろうか、毒の巡りは遅い。このまま森で、野生に帰って生きていけるのでは。そんなことを思ってしまうほどに。
つかの間の白昼夢。だが、やはり奇跡など起こらないようだ。現実に意識を戻せば、そこにはただ鈍重な体と、真綿で首を絞められるような息苦しさがある。かつて護衛任務で高山に登った時の感覚に似ていると、犬は思う。死まで一直線に伸びる道。
それでも、恐怖はなかった。傍らの男の存在が、奇妙にも、犬に深い安心を与えていたのだ。もう死んでいるのに。同じギルドに属していただけで、ろくに挨拶を交わしたことすらなかったのに。理由について犬はほんの少し考えて、すぐに止めた。深入りすればきっと、この快い気分は失われてしまうだろうから。
身じろぎをする犬の太腿に、狼の左手が微かに触れる。軽く握った状態で地に落ちているその手は、爪も毛も短く切り揃えられ、擦れて硬くなった肉球がささくれだっている。剣とともに生きてきた男の手だ。終戦からもう二十年余り。戦いが誇りとなる時代はとうに過ぎ去った。狼は何に突き動かされて、ここまで生きてきたのだろう。
「あんたの手、ちょっとだけ触ってもいいだろう」
もう少し深く知りたくなって、犬は狼の手を握ってみる。
だが、得られた感触は、期待していたものとは全く違っていた。その拳には、芯がなかった。本来あるべき骨格の抵抗が、完全に欠落していたのだ。軽く力を入れただけで、あらゆる方向にぐにゃりと曲がる。例えるなら、ある種の木の樹液から作られるというゴムの触感に近い。
「ひどいな……まさか、ここまでとは」
大猪の破城槌じみた一撃を剣で受け止めた衝撃で、狼の手の骨は、粉々に砕かれていたのだ。まさに想像もつかないほどの威力である。それでも狼はこらえきった。さもなければ、軽く全身を両断されていただろう。そしてそうなれば、次は自分の番だったはずだ。どれほどおぞましい最期が待っていたことか。それを思えば、こうして日の光を浴びながら死ねることがいかに幸運であるかが身に染みて分かる。
「だが、これではもう、二度と戦うことはできなかっただろうな」
骨折などという生易しいレベルではない。たとえ生き延びても、身の回りのことにすら困難を覚えていただろう。もちろん、剣士として戦いの場に戻ることなど夢のまた夢だ。
狼が死を希った理由は、そこにあるのだろうか。戦うことこそが狼の生きる意味だったのだとしたら、それを奪われることは、死よりも大きな苦痛になりうるのかもしれない。実入りの良い仕事として敵を葬ってきただけの犬には、想像しかできなかった。
「向こうに行ったら、オレに教えてくれるか」
少しずつ温もりを失っていく戦友に、ぽつりと問いかける。返事など、ない。
「……んっ」
ふと、嫌な臭いが犬の鼻をかすめる。風にも吹き消されずに届く、すえた臭気だ。その出どころはすぐに分かった。隣で黙りこくる狼の股座に目をやると、緩やかな稜線の頂から、暗緑の布地でもはっきり分かる、黄色を帯びた黒いしみがじわじわと広がっていた。
「そうか……先に済ませておけばよかったな」
毒による影響もあるのかもしれない。かなりの量が漏れ出し、下の土にまで液だまりを作っていく。虚しい最期を厭い、潔い死を遂げたはずの狼が、このような姿で野ざらしにされるのは、犬にはひどく耐え難いことのように思われた。
「待ってろ。オレが、どうにか……」
このまま座して死を待つつもりだった犬だが、手を前に突いて四つん這いの姿勢を取り、ゆっくりと体を起こす。すでに全身の筋肉は麻痺しつつあり、立ち上がるだけで息が上がり、目がくらんでしまう。加えて神経が蝕まれたことによるものなのか、動くたび、体のあちこちにびりっと鋭い痺れが走って、汗のにじんだ顔面を歪ませる。
「ぐ……ぅ」
ふらつきながら、全ての意識を転ばないことに集中させて、犬は歩いていく。向かう先は、わずか二十分ほど前に戦闘を繰り広げた、あの洞窟である。
薄暗い洞窟内は、屠った盗賊どものむせ返るような臭いで満たされていた。奥から漂う一段と強い悪臭は、狼の両手を奪い、今は自らの血の海に沈んでいる大猪のものだろう。だが犬は、それらには一切気をかけず、壁伝いに洞窟内を進んでいく。自分にはもう時間がないことを、よく分かっているからだ。
「よし、これだけあれば、少しは……」
狙いは、あちこちの壁に配置され、洞窟内を照らしている松明だった。犬はそれらを持ちきれるだけ抱えると、自らに燃え移らぬよう気を配りながら、もと来た道をよろよろと引き返す。外に出ると、風に煽られた炎の熱が、犬へと容赦なく襲いかかってきた。意識が急に遠のき、視界が暗く揺らめいて前が見えなくなる。それでも犬は、まだ微かに残る嗅覚だけを頼りに、おぼつかない足取りで、どうにか狼のもとまで帰り着くことができた。
「本当は埋めてやりたいが、どうか、我慢してくれよ」
それから、両手いっぱいの松明を一旦地面に下ろすと、一本一本、狼の腹部を中心に、震える手で並べていく。戦闘服である濃緑のジャケットとトラウザーは、いずれも耐火性が高く、なかなか火がつかない。だが、はだけた胸元から溢れる灰色の被毛だけは、すぐに炎を受け入れた。喜ぶようにぱちぱちと爆ぜ踊り、その赤い輝きを、たちまち狼の全身へと広げていく。
この程度の量の松明では、体を燃やし尽くすことなどできはしない。それでも、何もしないよりはまだ、狼も救われることだろう。ぼやけた視界の中でも、燃え盛る炎の様子だけは何となく分かり、犬は満足気に微笑むと、狼の隣へ倒れ込む。
「……どうやら、オレももう、終わりみたいだ」
緊張の糸が切れた瞬間、五感がみるみる失われていく。暖かな日差しや清々しい風の音、そして土の匂いも消えて、傍らの狼の存在すら、感じ取れなくなっていく。虚無の中にひとりうずくまる犬は、やがて呼吸もできなくなった。それなのに意識だけは鮮明で、脳ががんがんと鳴らす警鐘、逃れられぬ猛烈な恐怖感に、狭い世界は埋め尽くされていく。
「ああ、死ぬのが、こんなに苦しかったなんてな」
そうだ。懐の短剣で、自分も命を絶とう。そう思って、右手に力をこめようとする。しかし、それは叶わない。腕も胴も足も、すでにそこにはなかった。もはや犬には、滅びゆく精神だけしか残されていなかったのだ。
「くそ、怖え……」
恐怖で涙が流れる。それは、記憶の限り初めてのことだった。死への恐怖は、生への渇望の裏返し。ならば自分は、生き続けたかったのだろうか。この渇ききった人生を。誰と交わることもなくいたずらに過ぎていく、孤独の日々を。
いや、それとも――。
その時だった。全てが失われたはずの空間に、ふわりと不思議な温もりが広がったのは。その正体はすぐに理解できた。炎だ。狼の体を包んでいた炎が、行く手を阻む厚い服を乗り越えて、隣に座る犬の体に燃え移ったのだ。
「ああ、あった、かい――」
全く熱さは感じなかった。柔らかな温もりが、絶望に染まった心に染み入っていく。この世に優しさなどないと思っていたが、それは間違いだった。苦しみから解き放たれた狼が、こうして今度は自分に、救いの手を差し伸べてくれているのだから。
人生最初で最後の歓喜に満たされながら、犬の意識はやがて眩い光の中に溶けて混じり合い、その存在を失っていくのだった。
***
小さな港町に築かれた、ある有名な傭兵ギルドの本拠地は騒然としていた。
盗賊団の殲滅依頼を受けて派遣された狼と犬の二人が、数日経っても戻らない。両者は、二十年近い経歴を数え切れない功績で飾る、寡黙だが優秀な戦士だ。ギルドの名声に大きく貢献し、これからもその活躍は続くものと誰もが期待していた。そんな彼らが、有象無象を寄せ集めてできた小さな盗賊団に敗れるとは、にわかには信じがたい話であった。
事態を重く見た重鎮たちの判断により、ギルドの青年たちが数人、標的の拠点へと向かった。獣人の足なら半日ほどの山中にある洞窟だ。しかし、内部へと足を踏み入れることなく、彼らは立ち尽くす。入り口を隠すように佇む大岩の前に、狼と犬の姿を認めたからである。
二人は、焼け焦げて一部骨の露出した亡骸となって、並んで岩肌に背を預けていた。当初は敵に焼き殺されたのかと思われたが、大きく燃え残った体の具合から、火の勢いは弱かったと見られ、特に拘束された形跡もなかったこと、狼の心臓が正面からおそらく無抵抗に貫かれており、それ以外には目立った外傷がないことから、二人は何らかの理由――おそらくは、遅効性の毒か何か――により自決したものと結論された。
続いて洞窟内の探索が行われた。ほぼ全ての死体は、あぶく銭を求めて盗賊に身をやつしたごろつきどもにふさわしい姿であったが、最奥にてただ一人、おびただしい量の血に浮かんでいる大猪だけは、死してなお異様な存在感で青年たちを威圧した。この男が、隣国の軍人崩れ、かつての戦役にて無辜の民を蹂躙した者たちの一人であること、そして戦争終結後は隣国内で大規模な犯罪組織を率い、暴虐の限りを尽くしたが、敵を多く作りすぎてしまい、この国へと逃れてきたということが判明するのは、それからしばらく経ってのことである。
もしこの猪が見過ごされていたならば、この土地に再び大きな戦禍がもたらされていただろうことは間違いがない。狼と犬は、その命と引き換えに大勢の人々を救ったのだ。彼らの遺体はギルドへと運ばれ、丁重に弔われた。そしてその偉大なる功績を称えて、敷地の東西にある二つの門のそばには、それぞれの名を刻んだ記念碑が建てられることとなった。
主力の戦士である二人を失ったことは、ギルドにとって大きな痛手である。しかし、残された者たちは英雄の意志を継ぎ、悪との戦いに邁進していく。
まだ遠い平和な世界を目指して、戦士たちは今日も戦い続ける――。
【ノーマルエンド】
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[newpage]
「逃げたければ一人で逃げろ。俺はあんな外道には決して屈しない」
そう吐き捨てるなり、狼は大剣を構え直し、そのまま勢いよく飛び出した。悠然と待ち構える巨大な敵に、単身で挑みかかったのである。
「なっ、無茶だ! あんただけじゃ――」
あまりにも無鉄砲な行動に驚愕した犬が、どうにか我に返って制止を試みるが、もう遅い。狼はすでに、斬撃を見舞わんと地を蹴っていた。
「さっさと滅べ、下衆があッ!」
そして激情をむき出しに剣を振るう。狼は、苛立っていた。
ギルドに身を置いてから、いや、それよりも前からずっと、悪を滅ぼすことだけを考えて生きてきた狼。傭兵という職業は彼にとって、その願いを合法的に叶えられる都合の良い手段に過ぎなかった。数え切れないほどの罪人を斬り捨ててきたのは、ただ胸中に煮えたぎる憎悪に動かされてのことだったのである。狼には、目の前で醜悪な笑みを浮かべる大猪が、悪魔の化身のように映る。そんな相手に弄ばれている状況が、我慢ならなかった。
「このっ、おおォッ!」
悪は無様に朽ち果てろ。狼の頭を満たすのは、もはやそんなどす黒い感情だけになっている。なまじ剣の才能に恵まれて、訓練も怠らなかったばかりに、狼には苦戦の経験がなかった。初めての危機に精神の均衡を失った狂戦士は、手当たり次第に巨人へと斬りかかる。もちろん軽くいなされてしまうのだが、それがますます怒りに火をつけていくのだ。
「おい、踏み込みすぎだっ! いったん下がれ!」
焦燥に駆られた犬が必死に呼びかけるが、大剣と戦斧がぶつかり合うけたたましい音に阻まれて、届かない。我を忘れていても、狼の体に染み込んだ太刀筋は鋭く、確実に猪の急所を狙い続けてはいる。しかし、しょせんは一本調子。盾代わりになった巨大な刃体に、容易く防がれてしまう。いつしか猪の顔からは、余裕の笑みすらも消えていた。
「うおぉおおおッ!!」
「愚者が。もう飽いたわ。消え失せろ」
獰猛な咆哮に、淡白な声が重なった。頸動脈を狙った狼の斜め斬り上げを防ぐと同時に、猪は斧を器用に操って、その軌道を大きく上方へと反らせたのだ。
「ぐぅっ!?」
渾身の一撃を受け流された狼は、驚愕の表情とともに、前へつんのめる。それでも強靭な脚の筋肉を膨らませ、すぐさま体勢を整えようとするが、猪が一手早かった。太い手首を荒々しくひねり、その恐るべき力で狼の大剣を弾き飛ばしながら、得物を高く振りかざす。
無防備となった狼の頭上には、一筋の刃が冷たい光を放っていた。
「馬鹿、な――」
「避けろっ!」
犬はあらん限りの声を張り上げる。だが一方で、もはや手遅れであることも直感的に理解している。無慈悲なる大斧は、すでに狼へと向かって銀色の弧を描き始めていた。次の瞬間に起こる惨劇を直視する勇気がなく、犬は反射的に目を閉じてしまう。
だが――すぐさま響くはずだった断末魔の叫びも、それに続く地に倒れ伏す音も、聞こえてはこなかった。研ぎ澄まされた聴覚が捉えたのは、宙を舞った剣が岩肌を叩く硬い音と、その後に残された不気味なほどの静寂だけだ。
「どう、なってる……?」
怯懦な己に抗い、恐る恐る目を開いた犬が見たのは、異様な光景であった。
振り下ろされた半円の凶刃は、狼の股の下で、黒ずんだ銀の輝きを放ちながら静止している。そして狼自身は、先ほどと寸分違わぬ上段の構えを保ち、平然と立っているのだ。まるで、斧が狼の体をすり抜けて、そのまま時間が止まってしまったかのように。
「よ、よしっ、逃げろ! 早くっ!」
不可解な状況に困惑しつつも、間一髪で危機を逃れたことだけは理解した犬が、刹那に勢いを得て叫ぶ。誰もが羨む優秀な剣士である狼のことだ。その超人的な反射神経と瞬発力をもって、上体を反らせて斬撃を避けたのだろう。何にせよ、やはりここは一旦退却すべきだ。盗賊団は壊滅し、依頼の大部分はすでに達成されている。完璧ではないかもしれないが、構うものか。もともと、割に合わない仕事だったのだから。
そういった思考を巡らせつつ、犬は逃走の体勢へと移行しようとする。だが、狼は反応を示さない。まさか本当に時間が止まっているのか。いや、見れば猪は股下から斧を引き抜いて、おもむろに構え直しているではないか。固まっているのは狼だけだ。急げ、次が来る。都合良く何度も避けられはしないぞ。焦りで、犬の全身に汗がどっと噴き出していく。
「おい、どうし――」
「……かぁ……ッ」
そこでようやく、狼の体に変化が現れた。上下とも濃緑色で統一された戦闘服、その中心線をまっすぐなぞり、奇妙な黒の模様が浮かび上がったのだ。初めはきれいな直線だったそれは、靄のように輪郭を不確かにさせながら、左右へと広がっていく。
それに続いて、狼の筋肉質な下半身をぴたりとなぞっていたトラウザーのウエスト周りが、黒線を軸に、つぼみのように左右へ開いて、ずり落ちる。あらわとなった狼の下着は、戦いの日々を生きる傭兵の間で人気が広がりつつある、ジョックストラップと呼ばれるものだが、その配色は、主のイメージとは離れた奇抜なものだった。大きく膨らんだ局部は、なぜか中央のみが深紅に染められ、周りの白へと鮮やかなグラデーションを描いていたのである。
「うっ、ぐぇえっ……」
なぜか、犬は猛烈な吐き気に襲われた。
涙で眼前がにじんでいくのを、手の甲でこすってどうにか食い止める。再び狼の体を視界に捉えた時には、その下着は不思議なことに、ウエストバンドに至るまで全体が赤に覆われていた。そして次の瞬間、重たげな動きで中心線から左右へ分離し、残像を描きながら落下していく。局部を包んでいたポーチは、ふくらはぎで引っかかっているトラウザーに触れると、べちゃりと音を立て、周りの地面に自らと同じ色をまき散らした。
「ひ、ああ……っ」
上着や下着の分割線は、よく見れば、あらわとなった狼の陰部にまでつながっている。はだけたジャケットの下から伸びるそれは、赤黒く艶めく太い陰茎の先へと進み、包皮の隙間から小さく覗く鈴口を通って折り返し、裏筋をなぞり、陰嚢の奥へと消えていく。突端からはぼたぼたと液体が垂れ落ちて、狼の足元にねっとりと広がる影に、重い波紋を広げている。
「ああぁぁあああッ!!」
――必死に現実を拒み続けていた犬。しかし、もう限界だった。
「ふむ……他愛もない。もう少し頭の切れる狼かと思うたのだが」
猪は血まみれの戦斧を掲げ、片手で振るった。脂の混じった狼の血が、軽やかな音とともに振り払われて、絶叫する犬の全身に降り注ぐ。
わずかな時間だがともに戦った狼は、一撃、たった一撃のもとにあっさりと両断され、服を被っただけの肉塊と化した。そして、次は自分が同じ目に遭う番なのだ。逃げられない現実を突きつけられて、犬はただ狂乱する。
「集めた塵芥どもで軍資金を得るはずが、うぬらのせいでまた一からやり直しよ」
未だ上段に虚空を構えている狼の顔面を、侮蔑の色を浮かべた猪が太い指先で小突く。それだけで、奇跡的に保たれていたバランスは崩壊し、狼の体は、無抵抗に斜め後方へと傾いていく。そして右肩が地面に打ち付けられると、体の断面から粘着質な音が上がり、その瞬間、今まではにじみ出るだけだった血液がおびただしく溢れ出す。経験したことのない、鉄と排泄物の混じり合った強烈な臭い、そして、半分ほどずれてしまった狼の頭部から生々しく覗く、鼻腔、頭蓋、脳――。
「ぐおぇええッ」
犬はついに嘔吐した。血も死体もいくらでも見てきたはずなのに、胃をひっくり返したように内容物が全て逆流し、それでもなお嘔気は治まらない。視界がにじみ、渦を巻くように歪む。まともに立っていられなくなり、その場にくずおれてしまう。
「まあよい。次はもう少しばかり慎重に進めることにしようか」
口から黄ばんだ液体を垂らしながら震えている犬とは対照的に、いたって平然とした様子で猪はぼやき、眼前に転がる狼の成れの果てを一瞥する。その視線の中心にあるものは、魚の開きのようになって萎びている、狼が雄だった証。海綿体を仕切る陰茎中隔や尿道、丸々とした一対の睾丸などが、今も溢れ続ける血の下に見え隠れしている。
「なんとも醜いものよの」
猪は顔を歪めると、その股座目掛けて唾を吐きかけ、そのまま犬のほうへと向き直る。虫けらを見るような無機質な眼光が、薄闇の中でぎらりと光った。
「ひ……っ」
生への執着などなかった。目的もなく戦うだけの下らない人生に、飽き飽きしていた。いつかへまをして死ぬなら、それもいいと思っていた。それなのに今、犬は怯えおののいている。目と鼻の先、血の海に浮かんでいる狼の無惨な死にざまが、本能的な恐怖を呼び覚ますのだ。
「たすっ、助けてくれっ」
ほとんど無意識に、犬は懇願の言葉を漏らす。もはや羞恥など感じる余裕もなく、震える声でぎこちなく。しかし猪は、すっかり威勢を失った情けない戦士の姿を、嘲笑うでもなく哀憫するでもなく、ただ冷然と見下すのみである。
「わしの可愛い手先どもを屠るとき、一部には命乞いをした者もあったろう。うぬはそれに応えたか? たった一度でも応えたならば、あるいは助けてやらぬこともないが」
「な……」
錯乱した犬は、猪の台詞をそのまま受け取って、必死に記憶を掘り返し始める。そんなやつもいたかもしれない。だが、頭に残るイメージは曖昧だった。犬に限らず、ギルドに所属する傭兵たちの多くにとって、討伐対象は倒してしまえば終わりの存在でしかないのだ。
いや、たとえ命乞いがなされていたとしても、自分がそれに応えるはずがないだろう。そんな当たり前のことに、長々と思い悩んでからようやく思い至った。真っ黒な絶望に襲われ、そして自棄を起こして、犬は声を荒らげる。
「ぞ……賊の分際で、何を!」
「いくら正義を気取ろうとも、しょせんはうぬらも人殺しよ。己一人だけ助かろうなどと、虫が良すぎるとは思わぬか?」
禍々しい凶斧を再び両手に構え、猪が歩み寄る。正義などどうでもいい。いや、自らが正義だなどと考えたこともない。今はただ、生き延びたい。あの哀れな狼のようにはなりたくない。その一心で、逃げ出そうとする犬。だが、渦巻く殺気に当てられてか、震える足には全く力が入らない。何度もがいても身を起こすことは叶わず、犬は悲鳴を上げながら、それでも少しでも前に進まんと、両手で必死に硬い地面をかきむしる――だが。
「うがッ!」
わずかばかり這い進んだところで、犬の臀部を、猪が丸太のごとき右足で踏みつける。侮蔑をたっぷりと浮かべながら、巨体の常人離れした重量を乗せて、股に巻き込まれている尻尾ごと、力いっぱい踏みしだく。たちまちボキボキと鈍い音を立て、わずか数秒で、あっさり犬の骨盤は砕けてしまった。
「がぁあ、ッ……い、いやだ! やめ、やめろっやめてく――」
「見苦しいことだ。こんな腰抜けに殺られたのか、あやつらは」
無様に手足をばたつかせる男に嘆息しながら、巨獣は冷酷にも、すっと鉄塊を振り上げる。
「果てよ」
そして、ためらうことなく振り下ろす。力をこめる必要すらもない。重力に任せるだけで、まるで鍬で畑を耕すように、刃はざくっと軽い音を立てて、犬の胴体にあっさり沈み込んだ。その勢いは、硬い地面を深くえぐるまで止まらない。すぐさま犬は鼻と口から鮮血をほとばしらせ、分かたれた体をそれぞれ跳ねさせる。
「ぐ、ふッ――」
もはや痛みとして認識すらできない奔流に引き裂かれて、余韻すら残さずに、犬の意識はぶつりと切れた。
***
小さな港町に築かれた、ある有名な傭兵ギルドの本拠地は騒然としていた。
盗賊団の殲滅依頼を受けて派遣された狼と犬の二人が、数日経っても戻らない。両者は、二十年近い経歴を数え切れない功績で飾る、寡黙だが優秀な戦士だ。ギルドの名声に大きく貢献し、これからもその活躍は続くものと誰もが期待していた。そんな彼らが、有象無象を寄せ集めてできた小さな盗賊団に敗れるとは、にわかには信じがたい話であった。
事態を重く見た重鎮たちの判断により、ギルドの青年たちが数人、標的の拠点へと向かった。獣人の足なら半日ほどの山中にあるその洞窟は、暗闇と死の臭いで満たされていた。ランプのわずかな明かりを頼りに、彼らは息を殺し、慎重に歩を進める。やがてたどり着いた最奥部には、凄惨な光景が広がっていた。
狼は縦に、犬は横に――それぞれ体を真っ二つに両断され、地面に染み込み切れず残った大きな血だまりの上に、冷えた骸となって転がっていたのである。それらを目の当たりにした哀れな若者たちは、ほとんど正気を失い、一人は即座に昏倒してしまったという。
それでも彼らは懸命に、数時間をかけて二人の死体を洞窟外に運び出した。半身をそれぞれ分けて運べば楽なのだろうが、まだ二十そこそこの若い男たちには、そのような気力はなかった。犬は、腰の周りに布をきつく巻きつけるだけで済む。しかし狼については、全員の上着を総動員して、全身をぐるぐる巻きにしなければ、持ち上げることすらままならなかった。
心をすり減らしながら、どうにか魔窟から逃れた彼らは、その場で犬と狼を火葬することにした。そのままギルドに連れ帰ることなど、とても考えられなかったのである。洞窟内で見つけた薪を、交代でくべ続けた。血肉が燃え尽きていくのを、死んだ目で見つめながら。
白骨となって帰還した強者たちの姿に、ギルドの誰もが衝撃を受けた。いかにして二人は死んだのか、その詳細は伏せられたが、口に戸は立てられず、脚色を含んで広がっていく。若者たちは精神を病み、間もなく傭兵を辞めた。
ギルドを代表する戦士二人があえなく殺されたとあって、残された傭兵たちの士気には甚大な悪影響が生じた。依頼をこなすメンバーの編成も、慎重に行わざるを得なくなった。狼たちが果てていたその周囲に、彼ら以外の血の跡はなかった。つまり、最高位の戦士二人が手も足も出せなかった強大で残忍な敵が、今もどこかに潜んでいるのだ。
余分な人員を割り当てれば、それだけ高額な報酬が必要となり、依頼が減る。かといって無理な編成を強行すれば、傭兵が離れていく。盤石であったギルドの運営に、一時的ではあっても、軋みが生じていた。それはとりもなおさず、土地の治安がさらに乱れるということでもある。生じた歪みは、大きな禍根となって、人々の未来を蝕み続けていくだろう。
闇にまぎれ、大猪は今もほくそ笑んでいる――。
【バッドエンド・1】
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[newpage]
「くだらない。そういうことなら一人でやってくれ」
狼はひどく冷めた口調で吐き捨てた。この世界に図々しくのさばる害悪どもを駆逐し、安寧をもたらす大切な責務を帯びた傭兵が、名誉の戦死を遂げようとしているのだ。その尊い最期を、自慰などというふしだらな行為で破壊しようとする犬の主張に、失望していた。
「そうかい。無理強いするつもりはねえよ」
特に説得を試みることもなく、犬はさっさと立ち上がる。結局のところ、自分が快感を得られればそれで十分だった。犬は人にも物にも興味のない男だった。それでも、あの怪物に弄ばれ、想像するだけで吐き気を催すような死を迎えずに済んだことについて、狼に最低限の感謝の念は抱いていた。それで、わざわざ興味のない男に手淫を施すという提案までしたのだが。
「目の前でシコられちゃ迷惑だろうし、オレは行くぜ。せいぜい、いい最期をな」
それでもまだ微かに残る気遣いに動かされて、犬はよろめきながら歩き出す。このまま黙って見送ることができていれば、少なくとも狼は、ギルドの誇る英雄として、語り継がれる最期を迎えられたのかもしれない。しかし、余計な一言とは、いつも口をついて出てしまうものなのだ。
「俺はお前を、尊敬できる戦士だと思い始めていたのだが……見損なったぞ」
「見損なうも何も、あんた、オレのことなんて全然知らねえし、興味もなかっただろ? まあ、それはオレも同じだけどな」
ぼそりとつぶやかれた嫌味を、聞かなかったふりができるほど、犬は器用にはできていなかった。売り言葉に買い言葉。類まれなる戦いのセンスを除けば、二人は全くもって幼稚な子供でしかなかった。彼らの心は、幼少期からずっと、成長というものから隔絶されてきたのだから。
「そうだな。このような恥知らずを……俺の目はきっと節穴だったのだろう」
「ふん、虚しい男だ。死ねば何も残らねえぞ。誇りだなんだと、気にしたってな」
「誇りか。俺はそんなものを抱いたことはない。これはそんな高尚な話ではなく、戦士、いや、獣人として最低限の品性の問題だ」
「品性! 戦闘狂いの果てに毒で野垂れ死にする人形が品性とは、とんだお笑いだ」
語彙だけはそれなりでも、中身のない罵詈雑言が飛び交う。それをひとしきり続けた後、犬はふと意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。
「……無駄に時間を食っちまったし、もういい場所を探してる余裕はねえな」
「何だ、それはどういう意味だ」
「やはりあんたは勘が悪いな……こういうことだよ」
言い放つなり、大岩にぐったりと背を預ける狼の正面に犬は仁王立ちし、自らのトラウザーに手をかける。そして狼が目を疑う中、尻尾穴のホックを、次いで前のホックも外し、ファスナーも下げて、そのまま足元まで引きずり下ろしたのだ。露出した黄色のトランクス、そしてその中央に浮かび上がる、小ぶりでありながらも鋭利な膨らみを見せつけるように。
「この、下衆犬が……っ」
ようやく犬の意図を汲み取り、狼が激しく顔を歪める。一般人ならば見ただけで失禁してもおかしくないような、鮮烈な殺意がにじみ出ているが、犬にはそれが心地よかった。なにせ狼は、唯一の得物も両腕も失い、もはや立ち上がることすらままならない無力な獣に過ぎないのだ。
「自業自得だろう? せいぜい、恥知らずのオレがよがり狂う様を嘲笑うがいいさ」
そう言って見下しながら、犬はついにトランクスまでも一気に引き下ろし、まず左足だけ引き抜いて、トラウザーともども右足で振り飛ばした。股間を覆う真っ白な被毛から生えた男根が、ぶるんと大きく揺れる。それは、体格同様に細身だが十分な長さを持ち、雁首を境に露出した亀頭は、彫りが深く美しい形と、純白を背にした暗紅色が映える逸物である。
「ぐ……ぅ」
狼は不本意にも、生唾を飲み込まずにはいられなかった。それを見て勝ち誇ったように犬は口角を上げると、さらに一歩狼に近づいて、堂々とあぐらをかいてみせる。
「下らねえ人生の終わり。せめて、楽しませてもらうぜ」
土に触れそうなほどに長く垂れた自身の陰茎を、犬は右手に包み、ゆっくりと上下に動かし始める。ぺちんぺちんという柔らかい音が、肉筒に芯が入るにつれて徐々に消え、手の毛と肉球が表面を擦る軽やかなリズムが、心臓の鼓動と同期していく。
「はあ……っ」
三十路を過ぎても衰えることを知らない獣欲が、死を前にしたことでさらに高まり、体を蝕む毒がそれをいっそう研ぎ澄ましているようだ。一擦りするたびに犬の竿はぐんぐん勃ち上がり、甘い痺れが全身をくねらせる。わずか二、三分後には、その雄はぴんと背を伸ばし、まっすぐに蒼穹を仰いでいた。
「ダメだ、気持ちよすぎて、長くは、持たねえな」
偽りなき本心であると同時に、狼への当てつけでもある言葉。手の動きを継続しながら、さりげなく目の前にいる狼の様子をうかがう。そっぽを向いてはいるものの、やはり気にはなるようで、ちらちらと横目で犬の恥部に視線を送っているようだ。
なぜ素直になれないのだろう。哀れみすら覚えながら、それすらも興奮の燃料に変えて、犬は上下動を激しくしていく。吹き抜ける初夏の風が、汗ばんだ手と肉棒に快い。自らの股間を見下ろすと、見慣れたはずの亀頭はいつもよりも大きく膨らみ、鮮やかな色をしていた。
「くうぅ、はっ、ああッ」
そうこうしているうちに、興奮の度合いは刻一刻と限界へ近づいていく。人差し指の爪を立てて、裏筋の先端から鈴口までをこすり上げてみると、背筋がぞくぞくとして、透き通った液が勢いよく飛び出した。
「んぐっ、ふ……ぐっ!」
精液ではない。先走りだ。それが一度ならず二度、三度と射出され、放物線を描いて、眼前の狼の股座へと見事に降り注いでいく。そのたびに、射精とは全く異なる、微弱でもどかしい快感が犬にくぐもった声を上げさせる。
「くそ、はあ、はあ……」
そして、荒い息を抑えられないのは犬だけではない。いくら目を背けても、どれほど蔑もうとも、至近距離から漂う濃い雄の香りと甘いうめきは、狼の情欲を刺激してやまなかったのだ。今ではその鋭い金色の瞳は、べったりと濡れて泡立ち始めた興奮の証に釘付けとなっている。
そして、そんな狼の様子すらもはや眼中になく、犬はすっかり手淫の虜だ。さらなる刺激を求めて、両手を駆使し始めた。右手は継続して上下させながら、左手の腹で亀頭から雁首までを覆い、ぐりぐりと強くねじってこする。槍のみならず、華麗な短剣さばきでも知られる犬は、その器用さを存分に活かした非対称の攻めで自らを追い詰める。
「イ、ク……っ、あぁああッ!」
ペース配分など考えず、ただひたすらに快楽を貪って、絶頂に至るのはあっという間だった。肉の長槍がひときわ硬く引き締まり、鋭い突きを放つと、ぶら下がる二つの睾丸からありったけの子種が吸い上げられて、そのまま高く噴き上がる。その勢いは凄まじかった。射精のたびに痙攣するように腰が跳ね、犬の細い体は宙に浮いた。
雄臭い精液はまず垂直に打ち上げられ、犬の顔や胸に降り注ぐ。そして徐々に穂先の角度が緩むと、着弾先は狼へ移る。まずは狼の股間、そして腹、胸、首元へ。その後は飛距離を落とし、最後は再び股間を穿つ。優に十回を超える吐精を終えたとき、濃緑色の戦闘服は、すっかり黄白色の粘液にまみれていた。
「はあ、はあ……すっげえ。こんなに出たの、初めてだぜ」
「き、さま……」
肩で息をしながら、至高の余韻に恍惚とする犬。一方、自慰を見せつけられた挙句に、体液までぶちまけられた狼は、悪態とともに目前の犬を睨みつけている。
その蕩けた表情が、睨んでいると言えるのであれば、だが。
「……なんだ、あんたも勃ってるじゃねえか」
ようやく呼吸が落ち着いてきた犬が、身を乗り出して好色な笑みを浮かべる。視線の先には、他人の先走りと精液とでべっとりと光る、狼の股間。そこには今や、見事な三角錐の形をした山が、堂々たる姿で屹立していたのだった。
「これは……お前が見せつけたから……ただの生理現象だ」
反論のしようもなく、狼はもごもごとつぶやいて視線を逸らす。自身が男に惹かれる性質なのか、そうでないのかすら判然としないほど、こういった経験に乏しかった狼。だから、襲いくる火照りの正体が分からず、混乱するばかり。そしてその哀れな姿に、犬の嗜虐心がうずく。
「最後の情けだ。もしあんたが心から頼むなら、今からでもそれ、扱いてやってもいいぞ」
その言葉に、狼の骨抜きにされていた苛立ちが、ほんの一瞬勢いを取り戻した。
「ふ、ざけ――」
「もう一度だけ聞く。いいか、次はないからな。イキたいなら……懇願してみせろ」
しかしそれを一切無視し、鼻先が触れ合うほどに近づいて、揺れる金色の瞳の奥を覗き込みながら、犬は告げる。冷徹な口調とは裏腹に、吹きかけられる吐息は熱く、また絶頂の名残を色濃く残していて、狼に残されたわずかなプライドは、どろどろに溶かされていく。
「最高に、気持ちよかったぜ?」
とどめの甘い一言に、孤高の戦士だった男は、ついに膝を屈した。
「……た、のむ」
「あ? 頼むって、何をだ」
「お、俺も、出したい。最後に、俺を、射精……させてくれ。お前の手で、どうか」
性欲に支配された一匹の雄獣が、すっかり潤んだ瞳で、上目遣いに乞う。征服欲を大いに満たされて、犬は邪悪に微笑んだ。厚く頑丈なトラウザー越しにもその質量がはっきり伝わる、圧倒的な存在感。熱くたぎっているであろうそれをこの手で握りしめ、屈服させ、勇猛な狼の精を無為に撒き散らさせる。そんな期待に、犬の性器は再び頭をもたげかけていた。人生最後の享楽。どうして一度きりの射精で満足などできようか。
「謙虚さが足りねえが、まあ、いいか。じゃあ、早速始めるぜ」
返答を待たずして、犬は狼の下腹部に手を伸ばす。喉の渇きに急かされて、まず掴んだのは、ウエストを一周するベルトだ。伸縮素材の帯を、両端に縫い付けられた鉤状の金属で留めただけの簡単なものだから、乱雑に引っ張るだけですぐに外れた。続いて間髪入れず、ごちそうを目の前にした子供のように、せわしなく前のホックへ。
だがここで、異変が起きる。
「くそ、変だな。うまく、いかねえ」
ホックを外そうとする犬の手が、酒に魅入られた者のように小刻みに震え、そこに大きな痙攣まで不定期に重なって、全く主人の思うような動きをしないのだ。それでも初めはどうにか工夫して、例えば手首を狼の太腿に押し当てて、振戦を抑制しながら留め具をずらそうと試みる犬であったが、ままならない自分の体に間もなく苛立ちを見せ始める。
「チッ……ああ、イライラするなッ」
「お、おい」
どことなく幼さを感じさせる顔を豹変させ、歪んだ口から牙を剥き出しにする眼前の男に、狼は驚いた。しかし犬は意に介さない。毒に蝕まれる焦りに、心の余裕を奪われている。
「無理やり開くぞ。いいな」
犬はそう吐き捨てるなり、即座にウエスト部、ホックの左右を両手で鷲掴みにし、思い切り前後へ引っ張る。力が入ったことで一段と激しくなる手の震えにも構うことなく、噛み締められた牙をぎりぎりと鳴らして。やがて、責め苦に堪えかねた部品が大きな音を立てて生地から外れ、弾けた勢いがそのままファスナーまで全開にする。
唖然とする狼をよそに、犬は目を爛々とさせる。ようやく宝物にありつける、と。
「あんたがこんな下着なんて、意外だな」
「……そう、か?」
現れた狼のインナーは、腰を一周する細身のバンドに、陰部を包んで支えるよう立体的に縫製された白い袋が取り付けられたものだ。和平協定を結んでいる隣国から近年導入され、動きの激しい職務に従事する若者たちの間で人気を博しているという。
「しかし、見た目から想像はしていたが……ここまでとは」
その性質上、平常時で性器がぴったり収まるよう設計されている布袋。それが今、張り裂けんばかりに大きく引き延ばされ、極太の竿のシルエットを鮮明に浮かび上がらせている。亀頭冠の段差、裏筋の様子までくっきりと分かるほどだ。そしてその先端は、垂れ落ちそうなほどに染み出した粘液で、ほの暗い紅色に艶めいている。
「オレがイクのを見て、よっぽど興奮したようだな。なあ、最初から素直にしてくれれば、こんな手間かけずに済んだんだぜ」
「う、ぐ……」
狼は顔をしかめる。返す言葉はなかった。変な意地を張ったばかりに、こうして余計な羞恥を味わうことになったのは紛れもない事実だからだ。もっとも今はその羞恥すら、興奮と期待を高める材料と成り果てているのであるが。
「まあ、いまさらだがな」
そして犬の側もまんざらではない様子で、早速バンドを掴もうと両手を伸ばした。これも容易にとはいかず、幾度かの試みを経てようやく成功すると、そのまま力任せに引き伸ばし、一息に下ろす。
「んが……ぁ」
布地で思い切り亀頭を擦られ、たまらず狼が情けない声を上げる。その一方で、ぶるんとしなり現れた大迫力の逸物に、犬の視線は釘付けだ。いくら形状が事前に分かっていても、熟成された汗と先走りの濃厚な臭気と、繊維が食い込み続けた肉の生々しい色や質感が、童貞である犬を魅了してやまなかった。
「すげ、え」
思わず感嘆の声を漏らした犬。その漆黒の瞳はとろんとして焦点が定まらず、呼吸も荒く乱れ始めている。もちろん、原因は性的興奮だけではない。絶頂とともに全身に浸潤した毒が、血液の循環や呼吸までをも妨げ始めていたのである。そのため血色は悪く、赤茶色の被毛には脂汗がにじんでいる。目前に迫った死を直視したくないから、犬は意識を、魅惑的な狼の砲身だけで埋め尽くすのだ。彼の股間には、再び勃起した細長い欲望が突き出していた。
「あ……ッ!」
雷に打たれたような衝撃が、狼の全身を震わせる。じっとりと濡れた犬の右手が、突き出した極太を握っていた。あまりの太さに、指の長さが足りていない。
「やばいな、これは。どうだ、触られた気分は」
「い、い……ぐる、がるる……ぅ」
「そうか、言葉も出ないか。だよな。品性なんて、くだらねえよな」
生殺しにされていた肉筒を、不規則に震え続ける細い手で急に扱かれると、今までに体験したことのない快感が溢れ出し、狼の理性を真っ白に塗り潰す。ぽっかりと空いた口からくぐもった唸り声を上げ、呆けた顔はすっかり上気していた。
「ああ、今のあんた、そそるぜ。じゃあ、一気にいくぞ」
「ぐあぁっ、うおおおぉんっ!」
犬は右手の往復運動を開始する。雰囲気など微塵も考えない、フルスロットルだ。全身を貫く爆発的な刺激が、遠吠えとなって狼の喉からほとばしる。ふてぶてしい面構えの亀頭から、弾力豊かな巨大な睾丸までを一扱きするたびに、うっすら白を帯びた液体がどろっと溢れ出す。犬のものよりもはるかに濃い、精液かと見まごうような先走りだった。
上半身を振りたくり、汗を撒き散らして快楽を貪る狼。犬は辛抱たまらず、余った左手を、痛いほどに張り詰めている自分自身へ。右手に伝わる力強い鼓動と、左手に伝わる速く不規則な鼓動とが、渾然一体となっていくような不思議な感覚に酔いしれる。
「ぐぅっ……も、もうっ、出る……!」
「オ、オレも、また……イ、クッ!」
大きな口の両側から涎をだらだら垂らしながら、狼は、今まさに訪れんとしている究極の快楽への期待に打ち震えている。そして犬もまた、もうすっからかんのはずの精嚢を絞り上げ、二度目の絶頂を迎える寸前だった。死にゆく二人の戦士は、あと少しで、虚しかった人生の最期に、極彩色の幸せを得られる。あと、ほんの少しで。
「あ、ガ……ァッ!?」
そんな彼らの期待は、犬が唐突に上げた苦悶の声にかき消される。そして同時に、刺激の供給が失われて、狼を包んでいた快い陶酔が晴れていく。
「……おい、どうした」
「しん、ぞ……と、ま……っ?」
訝しむ狼の問いに、打ち上げられた魚のように口をぱくぱくとさせながら、不明瞭な発声で犬は答える。直前まで激しく暴れ回っていた両手は今や、狼と犬自身の我慢汁にまみれたまま、凍りついたように動かない。
「ち……く、しょ――」
犬は黒目をまぶたの裏へ吊り上がらせ、小刻みに痙攣しながら、ぐらりと狼の股間へと倒れ込む。マズルを硬くそそり立った獣茎にぶち当てると、[[rb:額段部 > ストップ]]を肉壁にこすり付けながら、陰毛の茂みへと滑り落ちていく。声にもならない呻きとともにぶくぶくと泡を吹き、最後に体を大きく震わせて、それきり犬は動かなくなった。
「おい、おい、嘘だろう」
解放の瞬間を待ちわびる欲望の陰から、血走った白目が狼を見つめている。これまでに多くの敵を屠ってきた経験から、もうこと切れていることは疑いようもない。
「待てっ、そんな……ここまで、来て」
かつてないほどに硬くまっすぐそそり立っていた自らの男根が、わずかにしぼみ角度を失っていくのを見て、狼は青ざめる。そして次の瞬間には、気が触れたように腰を振り上げていた。まだ使える腹筋や下肢の筋肉を、めちゃくちゃに動かして。
「早く、早くっ!」
股座に顔を埋めて死んでいる男を、哀れに思う気持ちがないわけではない。だが、それに構う余裕は狼にはなかった。早くしなければ、自分も同じように死んでしまう。死ぬ前に、どうしても絶頂を迎えたい。火事場の馬鹿力を発揮するたび、[[rb:額溝 > ファロー]]の柔らかな毛が裏筋をなでる。しかしそれは、犬の手で扱いてもらった時の壊れそうな快感からすれば、取るに足らないものだった。
それでも狼は、死にもの狂いで腰を振る。体をねじって角度を変え、敏感な亀頭の側面を口吻にこすりつけたり、先端を口腔内にねじ込んで、後臼歯に押し当ててみたりする。全身からぼたぼたと垂れ落ちる汗。死体を貪る、飢えた猛獣の息遣い。微かな刺激を何度も積み重ねて、あと一歩の距離を埋めていく。あと少し、あと少し。
「あ、ああ……っ」
持てる力を全て投じて、狼はついに、念願の射精に到達できた。鈴口のあちこちから血を流した巨根が、ぴくぴくと震えて、白く濁った粘液が小さな玉となって現れる。だが――。
「これ……だけ?」
こぼれ落ちた雫は、雀の涙。すでに竿全体をしとどに濡らしている先走りと比べて、あまりにも少ない。それに比例して、生じた快感もごくわずか。一瞬で疲労に呑み込まれ、消えていく。膨らみ過ぎた期待は裏切られ、あとに残されたものは、虚脱と絶望だけだ。
「いや、そんな、そんなはずは」
まだだ。勃起はまだ持続している。昔自慰にふけった時の記憶に照らせば、むしろこれからが本番なのだ。もっと扱けば、今度こそはきちんと射精できる。犬と同じように、生臭い子種を何度もたくさん噴き上げて、孤独も憎悪も全て忘れるほどの白い恍惚が、頭をいっぱいにしてくれる。そう信じて、祈るような思いで、もう一度腰に力を込める。
しかしもう、狼の身体は微動だにしなかった。
「は、はは……」
懸命に維持していた興奮が、みるみるうちに冷めていく。欲望の残滓を垂らしながら、萎んでいく陰茎を見ていると、乾いた笑いしか出てこない。
残酷な明晰を取り戻していく意識。そして狼は、気づいてしまう。死闘をともにした仲間の青ざめた死に顔が、白い泡にまみれてぐちゃぐちゃになっていることに。それは、狼が垂れ流した体液が、犬の唾液とかき混ぜられてできたものだ。今も強膜を晒したままの大きな目から、赤茶と白の二色でできた少し丸っこいマズルまで、全てが汚らしい泡で覆われて、ひどい悪臭を放っている。
「俺は……何をしていたんだ。これを、俺、が?」
狼の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。血だまりの上に、目を剥いてこと切れている壮年の男。その横で冷え固まった、一糸まとわぬ姿にされて、下半身を粘液で汚した女。そして燃え盛る家の中で呆然と立ち尽くす、二人の面影を宿した幼い少年。毎晩夢に見る、おぞましい記憶。そこに、目の前で死んでいる犬の姿が、重なっていく。
「変わらないじゃないか、俺も。俺の全てを奪ったあいつらと!」
悪を、私利私欲のために他人を傷つける連中を、狼はただひたすら憎んで生きてきた。やつらを惨たらしく切り刻んで、世界中から根絶やしにしてやる。そのために、命の全てを捧げてきたのだ。自分自身がその仲間入りをするなどとは、夢にも思わずに。
「傑作だ、傑作、ひひ、ひひひひッ」
涙混じりの狂った笑声が、森の中に響き渡る。
その瞬間――瑞々しい緑の風景が一変した。視界が毒々しい赤紫色に染まり、ぐにゃぐにゃと歪み出す。同時に、股のあたりから急に漂い始める腐肉の臭い。そして、全身を這ってまわるような、おぞましいうめき声。恐怖に駆られて狼が視線を下ろすと、死んだはずの犬が、助けを求めるように、震えながら腕を伸ばしていた。
「ひぃいいッ!?」
黒ずんだ腕から肉がぼろりと崩れ落ちて、骨が露出する。相貌だけ見れば愛嬌すら感じさせた顔も腐り果て、ぽっかりと空いた眼窩からは、底知れない暗闇がこぼれ出している。狼は甲高く絶叫し、眼前に迫る化物を振り払おうとするが、腕も胴も足も、もはや彼の意思に従ってはくれなかった。
「やめろ、やめ、許してくれ、この、このとおりだぁっ! だから、ゆるっ」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、狼は懇願した。しかし、犬の残骸は止まらない。肉のこびりついた骨の指をうごめかせて、じりじり、狼の胴体を這い上がってくる。まぶたを閉じることすら叶わずに、目も鼻も判別できない亡者の顔で、視界が黒く埋め尽くされていった。
「俺が、なんでッ、どうし……ア、ガァァ――」
極限の恐怖に狂乱した心臓は、跳ね暴れ、そして唐突に停止する。他人に誇れるような人生ではないが、それでも懸命に生きてきた。日に日に薄れていく自我をどうにか保って、悪を滅するためにこの身の全てを捧げてきた。それなのに、どうして。どこで間違えたのか。最初から間違えていたのか。何も分からないまま、狼は断末魔の叫びを上げた。
***
小さな港町に築かれた、ある有名な傭兵ギルドの本拠地は騒然としていた。
盗賊団の殲滅依頼を受けて派遣された狼と犬の二人が、数日経っても戻らない。両者は、二十年近い経歴を数え切れない功績で飾る、寡黙だが優秀な戦士だ。ギルドの名声に大きく貢献し、これからもその活躍は続くものと誰もが期待していた。そんな彼らが、有象無象を寄せ集めてできた小さな盗賊団に敗れるとは、にわかには信じがたい話であった。
事態を重く見た重鎮たちの判断により、ギルドの青年たちが数人、標的の拠点へと向かった。獣人の足なら半日ほどの山中にある洞窟だ。しかし、内部へと足を踏み入れることなく、彼らは立ち尽くす。入り口を隠すように佇む大岩の前に、狼と犬の姿を認めたからである。
二人の有様は異様なものであった。岩肌にぐったりと背を預け、虚空を仰ぐ狼。そして、その股間に顔をうずめて微動だにしない犬。若者たちは困惑しながらも、わずかな希望にすがってそばへと歩み寄る。だがその希望は、悲鳴とともに打ち砕かれた。
座っているだけに見えた狼は、大口を開けて舌と涎を垂らし、眼球が飛び出さんばかりに見開かれた目は、常人には想像もつかないような恐怖と絶望を表している。一方、露出している狼の陰茎にしなだれかかった犬は、自身もまた下半身裸で、白目を剥いて呪詛と後悔を抱いたまま冷たくなっている。そして、残り香が描き出すのは、性欲に狂った男たちの様子。
なぜこのようなことになったのか。若者たちには想像できなかった。彼らに分かったのは、憧れていた戦士たちが、いかに醜く虚しい最期を遂げたのかということだけだ。その後洞窟内の探索により、犬と狼が任務を果たしていたことは確かめられた。最奥にあった巨猪の骸は、ここで繰り広げられた死闘を物語っていたが、それと二人の悲惨な死がどうつながるのかは、ついに分からずじまいだった。考える気力すら、彼らには残されていなかった。だから、二人の遺体は布でくるまれたうえで、そのままギルドへと運ばれることとなる。
それぞれ性器をさらけ出し、戦闘服を乾いた精液まみれにした「英雄」たちの帰還に、誰もが言葉を失った。しかしそれは最初だけで、ほとぼりが冷めると、両者が死に際にしていたことについて、興味本位の憶測が飛び交い出すのだ。
犬と狼は、実は元から爛れた仲だったのではないか。いや、実際に死体を嗅いだ者によれば、まともに射精をしていたのは犬だけだったという話だ。きっと二人は毒か何かに侵されて、それで自棄を起こした犬が、最後の慰みにと、腕が潰されていたらしい狼を強姦したのだろう。それならば、あの恐怖に歪んだ死に顔にも合点がいく。しかし、あの狼だぞ。抵抗くらいはできたのではなかろうか。そうしなかったのは、やはり――。
伝聞でその伝説に触れるだけの若い傭兵たちには、崇拝の対象であった二人だが、戦いをともにする機会が増える中堅以上には、人付き合いが悪く、誰も信用していない二人を疎ましく思う者も少なくなかった。だから彼らの名誉は、一方的に貶められていく。やがて外聞をはばかった上層部が、この話題を禁忌とする通達を出したことにより、これまで二人が成してきたギルドへの多大な貢献すら、徐々に忘れられていくことになる。
戦士たちの魂は、永劫の孤独に囚われたまま――。
【バッドエンド・2】
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[newpage]
犬は、一心不乱に身をよじり腰を揺らして、だらりと股に横たわる左手に性器を擦り付けている。狼のものを包んでいた右手が、その動きに引きずられて地に落ちても、気づきすらせずに。そんな様子を見て、狼はいたたまれなかった。従前の彼ならば、愚かな行いだと切り捨てていたかもしれないが、今はとてもそんな気分にはなれない。
「……すまない」
自然と口をついて出た言葉。その瞬間、犬の動きがぴたりと止まる。向けられた表情は、目尻に涙を溜めて、打ち捨てられた子供のように、ひどく弱々しい。
「なんで、謝るんだ」
「いや……助けてやれたらいいが、俺はこのとおり、手が」
潰された腕へと交互に目線を向けて、狼は訴える。どうしようもないのだと。だからどうか、恨まないでくれと。ひどい罪悪感に、彼は苛まれていたのである。
「いいんだ。あんたが気に病むことは、ない」
か細い声で、犬が応える。一瞬だけ漏れ出た失望を覆い隠す、引きつった作り笑い。それは、請われた許しを決して狼に与えはしなかった。恨むのも妬むのも、筋違いだ。しかし、すぐ隣でうなだれる男の姿が、自分にはそうする権利があるのだと、犬に思わせてしまう。
「だが、もしオレを、哀れんでくれるなら……少し、体貸してくれねえか」
「それは……どういう」
「心配すんな。別に、挿れよう、ってわけじゃ、ない。ただ、こうして」
犬は、まだかろうじて動く足を使い、おもむろに体を起こして膝立ちとなる。そして、困惑する狼のもとに、ふらつきながら、少しずつにじり寄っていく。もとより肩先が触れ合うほどの、このわずかな距離が、今はとても遠い。
「うぅ、っ」
ごく小さな地面の起伏に、犬がバランスを奪われる。ぐらりと倒れる体。しかし、腕が使えない彼らには、支えることも抱き留めることもできない。狼の屈強な体が、細い体にいとも容易く押し倒される。そして気づけば、両足を広げて仰向けになった狼に、犬が体を密着させてのしかかっていた。客観的に見れば、それはいわゆる、正常位という形に近い。
「悪い、大丈夫か」
「あ、ああ……平気だ。それより、これは」
「いや、まいったな、押し倒すつもりなんて、なかったんだ。だが、もう……」
犬は押し当てた額を支えとして体を浮かし、視線を自身の下腹部へと下ろしていく。狼も首を傾け、それを追う。わずかに空いた肉体の隙間、精液にまみれて力なく腹にもたれる狼の男根の上で、萎えかけてもなお鋭く突き出した犬の最後の希望が、細く筋を垂らしながら、その切っ先を覗かせていた。
「もう、時間がない。頼む、いいだろう」
「まさか、お前……だが、それはっ」
「ああ、あんたの穴じゃ、ねえよ。ほら、この辺……」
怯えたように瞳を揺らす狼に、犬は構わず動き出す。下ろされたファスナーの陰に、生殖器の脇に押しのけられて縄状になった、狼の白い下着が覗いている。押し倒された際に尻の下に引き込まれ、強く張ってはいるが、萎んだ睾丸との境目にわずかながら隙間があった。そこに、足と首の力だけで浮いている体の震えをどうにかこらえて、犬は腰を落としたのだ。
「うあ……っ」
「ぐぅっ」
柔らかな陰嚢を押しのけて、門渡りと布の間隙へと陰茎が入り込んでいく。ぽかんと開いた二人の口から漏れるのは、快と不快の混じり合った吐息。汗で湿った狼の尻の毛が、濃縮された先走りをまとう犬の動きを妨げる。それを無理やり押し切って、犬は進む。ついにその先端が、わずかに盛り上がった肛門の肉に触れたとき、狼は顔を強張らせた。
「挿れねえ、って。ただ、こうやって、さ」
一瞬だけ悲しげに目を細めて、犬は再び腰を引く。会陰いっぱいを覆っていた熱が去って、代わりに、冷ややかな風が吹き抜ける。狼は、安堵した。しかしそれと同時に、変にもの寂しい感じに襲われて、思わずため息を漏らしてもいた。
「ああ……きっ、つ……な」
穴から抜けてしまわない程度まで体を上げた犬は、息も絶え絶えだった。当然である。麻痺しかかった太腿と首だけで、胴体の重量を全て支えているのだから。酷使された筋肉の悲鳴が、胸に押し当てられた頭蓋から、激しい震えとなって狼にも伝わってくる。
「いく、ぜ」
そしてまた、犬が腰を突き入れる。
「がっ、あぁああッ!」
しかしそれは、全身が脱力して、重力に引きずられたと表現するほうが正しい動きだった。剥き出しのファスナーの務歯が噛み込んで、脆い表面がえぐり取られる。さらに、張り詰めた布に亀頭が引っかかってしまい、竿全体が折れかねないほど大きく歪む。快感をかき消して余りある激痛が、ひしゃげた絶叫を犬の喉からほとばしらせた。
「あが……っ、痛え、痛えよッ!」
「もう、もうよせ。その状態では……余計に苦しいだけだろう」
「い、イヤだ、オレ、も最後に、あんた、みたいに」
駄々をこねる子供のように、押し当てた頭を振り、犬はもう一度腰を引く。前回よりも動きは明らかに遅く、小刻みに震えるばかりでなかなか必要な高さを取り戻せない。乱れた赤茶の毛から、粘りを帯びた脂汗がぼたぼたと滴り、狼のジャケットをこぼれ落ちていった。
「お前は、どうしてそこまで」
結局、半分まで引き抜くことしかできずに、細い体は落下へと転ずる。犬にはもう、制動するための力は残されていない。だが今回は、その表情に強い苦痛は表れなかった。高さが足りないことも、理由の一つではある。しかし最大の原因は他にあることを、狼は実感していた。先ほど挿入された時には、尻周りの毛を引っ張られる痛みがあったのに、今回はそれが全くない。柔らかい肉棒が隙間を滑り、抵抗もなく門を渡っていく感触だけなのだ。
「なん、で。なんでっ」
勃起が、解けかけている。それは他ならぬ犬自身が最も分かっているのだろう。弱々しい言葉が涙声に染まっていく。こうなってしまっては、もう性的興奮どころではなかった。
「イキ、てえ……だれか、イカせて、くれ、よお」
狼の大きな胸に顔を押し当てて、犬はむせび泣く。密な布地に弾かれた涙が、ぽたぽたと垂れていく。その様子が、狼の胸を衝いた。この男には、今際の虚しさを紛らせるものが、射精への期待しかないのだ。絶頂の快楽でごまかさなければ、耐えられないのだ。それほどまでに空っぽの人生しか、築けなかった。自分と同じように。
「ならば、俺が……」
「え、っ?」
「待っていろ。きっと、まだ、間に合う」
腹と足に、狼は持てる全ての力をみなぎらせる。そして、決して軽くはない犬の体ごと、思い切り腰を突き上げる。その途端、今まで自覚せずに済んでいた鈍重感、倦怠感が一気に襲ってきた。血が回らなくなって、遠のきかける意識を気力でつなぎ止めながら、狼は咆える。
「ぐっ、うぉおおっ」
跳ねて犬の腹を叩いた狼の性器が、鼓舞するように音を立てる。得られたストロークは、大きくない。玉袋越しに狼へと伝わる硬さも、頼りないものだ。それでも犬は、嬌声を上げていた。喜びが狼を満たしていく。持てる者がこの光景を見れば、きっと笑うだろう。構うものか。救いが他にないのなら、俺はやる。不思議な使命感、一体感が、狼を突き動かしていた。
勢いが徐々に衰えて、体が震えだしても、狼は止まろうとはしなかった。うっすらと悪臭が漂ってくるのは、あまりにも腹に力を込めすぎたから。恥や外聞など、彼にはもうない。戦士としての評価や名声など、何の慰めにもならなかった。そんなものより、どんなに醜くとも仲間を助けたいという、この初めて知る気持ちこそが、大切に思えたのだ。
「もう、いいよ……あり、がとな」
ところが犬は、突然ひどく怯えた声で狼を制止すると、精一杯に腰を引き上げる。
「あ、諦めるな。俺なら、まだ動ける。だから、頑張っ――」
「ダメなんだ。無理、なんだよ。ほら、もう、もう……」
狼には犬の顔は見えないが、視線が股座に注がれていることは分かる。そしてその先にあったのは、力なく頭を垂れる陰茎だった。雁首を中心にいたるところで粘膜が裂け、どす黒い血にまみれて萎んでいる。均整の取れた美しい亀頭の姿は、もはや面影すら残っていない。
「え……?」
下から力任せに突き上げられるたびに、傷だらけのそれはさらに深くえぐられ、押しつぶされ続けた。犬はずっと、悲鳴を上げていたのだ。しかし、突然湧き上がった感情に酔いしれていた狼には、それが嬌声に聞こえていた。そのことを理解して、狼の顔がさっと青ざめる。
「なんか、よく分かん、ねえんだ。あんたの、声とか、匂い、も」
青年らしさを残した声音は、か細く上ずって消えていった。同時に全身から力が抜けて、犬は吐息を漏らしながら、狼の上に崩れ伏す。その壊れた体は、もう動かない。吐き出してしまった空気は二度と戻らず、逃れられぬ窒息感が、かすむ意識の全てを覆い尽くしていく。
「なあ、オレの、人生……って、何だったんだろ、な」
胸元から見つめるうるんだ瞳と、風の音にかき消されそうな息だけの言葉が、狼の義侠心を深くえぐった。結局、自分は何もできなかったではないか。それどころか、自己陶酔に浸って、最後の最後にひどい苦痛を与えただけだ。
「お前の……お前のおかげで、救われた者は、きっと……」
どうにか犬を癒やそうとしても、出てくるのは中身のない言葉だけ。当然だ。狼も、生きる意味など知らないのだから。それを聞いて、目を細めながら、犬は青ざめた顔にわずかな微笑みを浮かべる。この世にかくも悲しい微笑みがあることを、狼は知りたくなかった。
「あんた、みたいに、立派に生き、た、か――」
最期の言葉は、儚く途切れて、あとには静寂だけが残される。永遠の後悔に塗りつぶされて、犬は息絶えていた。ゆっくり脇へと滑り落ちていく体を、狼は抱き留めてやりたかったが、それは叶わない。ごろりと冷たい地に落ちる亡骸。涙ににじんだ二つの闇色の瞳が、羨むようにして狼を見上げている。
「立派なんて、言わないでくれ」
いつの間にか、狼もまた涙を流していた。堰を切ったように、溢れ出して止まらない。
「俺は、お前と同じだ。同じ……だろう?」
憎しみだけを糧として、喜びも希望もなく、ただ無意味で無価値な人生に押し潰されないように生きてきた。どうして俺だけが。心の奥底ではいつも、自らの境遇を呪い、孤独に苛まれて。けれど死の間際にようやく、秘めた苦痛を分け合える仲間に出会えた。そんな思いこそが、あの高揚感の正体だったのだろう。それなのに。
立派という言葉に、全てを拒絶されたような気がした。
――三十年ほど前、狼は両親を失った。
都市から離れた静かな森の中に、狼の故郷はあった。灰色の狼獣人たちが寄り添い、誰もが慎ましやかに、日々の小さな幸せを望んで生きる、そんな村。当時、国は隣国と苛烈な戦争状態に陥っていたが、争いを望まない彼らは、息を潜めながらも、平和に暮らしていた。
ある日突然、戦火に焼かれることになるまでは。
大義のない侵略だった。少しでも金になる物は奪われ、容姿に優れた者は犯されて、最後には皆殺された。隠された地下室に逃れてどうにか生き延びた狼を残し、優しかった父と母も、温かかった日々の思い出も、一夜にして全て滅び去ってしまったのだ。
涙とともに全てを失った狼には、その空っぽの精神を、代わりに憎悪で満たすことしかできなかった。いつか自分は軍人となり、戦場に身を投じて、両親を奪った憎き敵国の兵たちを、一人残らず殺し尽くしてやろう。その思いだけが、彼の原動力だった。
しかし、狼の願いは叶わなかった。惨劇から七年後、戦争が和平により終結したせいで。
標を失った狼は、それでも胸にくすぶり続ける黒い感情に従い、少しでも多くの闘争を求め、傭兵として生きる道を選んだ。悪を一つでも多く滅することにしか、彼は生きる術を見出だせなかったのである。幸いというべきか、戦争が終わっても世に安寧は訪れず、倒すべき敵は絶えることがない。狼はこうして、命をつないできた。
一日も欠かさずに続けてきた鍛錬が、狼を、ギルドの誰もが羨むほどの剣の使い手へと導いた頃には、彼は自国も敵国もなく、「悪」と認められるものを殺戮するだけの存在と化していた。苦しむ民や、ともに戦う仲間は大切にしたので、狼は時に英雄視すらもされたが、それは自分の暴力行為を正当化し継続するための防衛機制に過ぎなかったのである。
そんな一生も、もう終わる。
いつもの簡単な任務のはずが、突然現れた異形の怪物に毒を仕込まれ、あっけなく尽きる命。たとえ治療できても、両腕が完膚なきまでに破壊された今、生きていく理由もない。虚飾がはがれて、虚しさだけが残った。そんな自分の中に一歩踏み込んで、ささやかで、長らく忘れていた喜びを与えてくれたのが、たまたま運命をともにしたこの犬獣人だった。
ギルド内で自分と並ぶ双璧と称される戦士の存在を、狼が初めて耳にしたのは、戦いに埋没して数年が経ったある日のこと。しかし、同じく天涯孤独の身で、近しい苦しみを抱えているであろうその男と、心を通わせようとは思わなかった。内心では孤独に凍えていても、上っ面の自分はそれを認められなかったからだ。だが、人生の幕を下ろす瞬間になってようやく、狼は一歩を踏み出した。様にならない形でも、踏み出した、つもりだった。
「お前は、俺を、助けてくれた。それなのに、俺は、何も……できなかった」
すぐそばに横たわる細い体から、温もりが失われていく。そしてそれに引きずられるように、狼自身の生命力も、限界を迎えつつある。ひゅうひゅうと今にも絶えそうな呼吸と、弱々しく不規則な心臓の鼓動。死はもう、すぐそこまで迫っていた。
「……だから、俺を認めては、くれないんだな」
もっと早くに触れ合っていたら、自分たちには違った未来があったのだろうか。馬鹿らしいと分かっていても、想像せずにはいられない。友人として語らい、時には酒を酌み交わして、お互いの孤独を埋め合いながら、ともに老いていけたのではと。自分の中に、このような願望があることにすら、気づかずに生きてきた。そして、身勝手な妄想の世界が暖かく輝くほどに、浮き彫りになるのがこの惨めな現実だ。
「うぅう、っ」
ぼろぼろと溢れる涙が、胸を濡らしていく。最後に泣いたのは、いつのことだっただろうか。この涙で、わだかまりを洗い流せたら。そんな願いとは裏腹に、流れ出すのはようやく見つけた希望ばかりで、慟哭すればするほどに、狼の中には絶望だけが残される。
落ちた涙の黒いしみが、ふいに揺らいだような気がした。それらは、獲物に群がる蟻のようにうごめきながら、瞬く間に、にじんだ視界を呑み込んでいく。
「ああ……」
暗闇の中で、諦観の吐息が漏れる。
何者をも恐れぬ狼が、唯一恐れるもの。それは、暗闇だった。息を殺してひとり震えていた、あの日の記憶を思い出させる。家が焼け焦げる臭いも、愛する両親の悲鳴も、全て夢だ。手の込んだいたずらだ。そんな虚しい希望にすがる小さな狼を、冷たく抱いていた存在。
「結局、俺も、あの日に死んでいた、のかな」
この三十年は、何だったのだろうか。復讐のためだけに生きてきた。そうすれば、逃げても逃げてもつきまとう暗闇の影から、自由になれると信じて。とんだ勘違いをしていたのだ。自分は逃げ延びてなどいなかった。ずっと、あの暗闇の中に囚われたままだった。
「父さん、母さん……」
視界を覆い尽くす黒の塊が、狼の体にまとわりついていく。足先から胴まで、じわじわ食いつぶされて消えてしまう。急激にこみ上げる嘔吐感と、悪寒。三十年に培った記憶と経験が、色あせていく。真っ暗な世界にはもう、わんわんと鳴り響く悲鳴と、すすり泣く幼い声だけ。それらもやがて、痛みすらない虚無に丸呑みにされて、あとにはもう、何も残ってはいなかった。
***
小さな港町に築かれた、ある有名な傭兵ギルドの本拠地は騒然としていた。
盗賊団の殲滅依頼を受けて派遣された狼と犬の二人が、数日経っても戻らない。両者は、二十年近い経歴を数え切れない功績で飾る、寡黙だが優秀な戦士だ。ギルドの名声に大きく貢献し、これからもその活躍は続くものと誰もが期待していた。そんな彼らが、有象無象を寄せ集めてできた小さな盗賊団に敗れるとは、にわかには信じがたい話であった。
事態を重く見た重鎮たちの判断により、ギルドの青年たちが数人、標的の拠点へと向かった。獣人の足なら半日ほどの山中にある洞窟だ。しかし、内部へと足を踏み入れることなく、彼らは立ち尽くす。入り口を隠すように佇む大岩の前に、狼と犬の姿を認めたからである。
真っ先に目に入ったのは、そよ風の吹く森に、局部を晒しながら仰向けに寝そべる狼だった。そしてその奥、狼の傍らには、ふさふさの尾と臀部をむき出しに、犬がうつ伏せで横たわる。遠目には、仲睦まじく一夜を明かした恋人同士の姿であった。憧れの先輩、そして色恋沙汰とは無縁という二人のイメージからはほど遠い光景に、若者たちは怪訝に思いつつ、英雄にも息抜きは必要なのだという親近感とともに、最悪の事態にならなかったことに胸をなでおろす。
だが、歩を進めるうちに、彼らの表情はみるみる曇っていった。精液の残り香に隠れて漂う、悪臭。微動だにしない二つの体。そして、その身にいったい何が起きたのだろうか。涙で固まった毛に濁った黄土色の瞳、一目で胸をかきむしられる悲哀を帯びた、狼の表情。中でも二人を最も敬愛していた虎の青年は、いても立ってもいられず駆け寄り、そしてくずおれた。
狼が絶命していることが明らかである中、残りの若者たちは一縷の望みにかけて、狼の脇下に顔を埋めている犬の体を抱き起こし、そしてまた絶望する。冷え切った小さな体。どろりとした黒の双眸からは、羨望だけがにじみ出ていた。さらに、露出した股座には、あちこちが痛々しく裂けて血にまみれた陰茎が、力なくぶら下がっている。
若い傭兵たちの尊敬を一身に集めていた二人が、誰に看取られることもなく、このように痛ましく悲しい最期を迎えていたことに、青年たちは衝撃を受けた。一人がすすり泣きを始めると、伝染するように残りも泣き出す。いつかは、自分たちも。そんな熱い輝きに満ちていた未来がかすんでいく喪失感は、耐え難いものだったのだ。
ひとしきり涙を流してから、彼らは洞窟内の探索を行った。あちこちに散らばる盗賊の死体を一つ一つ確認し、ついにたどり着いた最奥では、狼と犬に降りかかった災厄の一端を垣間見た。このおぞましい猪を倒し、そして二人は力尽きたのだろう。使命を遂げ、最後にせめてもの慰めを得ようとしたのか。そう思うと、再び涙を堪えられなくなった。
青年たちは、物言わぬ二つの亡骸から丁寧に汚れを拭き取り、乱れた服装を整えて、ギルド本部へと帰還を果たす。そこでは多くの者たちが驚愕し、英雄の死を悼んだ。家族のない二人のために大々的に葬儀が執り行われ、数々の貢献を称えて記念碑まで建てられたのである。
狼と犬の物語が美しく演出されていく様子を、その本当の末路を知る若い戦士たちは、ひどく悲しく思った。傭兵は、対価を得ているとはいえ、市民の幸せのために命をかける尊い存在だ。しかし、その傭兵自身の幸せが、なおざりにされてはいないだろうか。功績でランク付けして、英雄だなんだと祭り上げるが、その人の中身を見ようとはしなかった。自分たちも含めて。
二人が多くの尊敬を集める一方で、中堅以上の一部からは妬み嫉まれていたことを、しばらくして彼らは知る。その死をチャンスだとみなす者すら、少なくなかったのである。そんな歪んだギルドのあり方に疑問を抱き、あの虎の青年が中心となって、彼らは職を辞す決意をした。己の信ずる正義の形を、どんな手を使ってでも叶えるために。
虚しく散った二人の無念に、若者たちの未来は呑み込まれていく――。
【バッドエンド・3】
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[newpage]
犬は、一心不乱に身をよじり腰を揺らして、だらりと股に横たわる左手に性器を擦り付けている。狼のものを包んでいた右手が、その動きに引きずられて地に落ちても、気づきすらせずに。しかし、すでに毒に蝕まれた体である。すぐに体力は底をつき、わずかな快感すらも麻痺していく。間もなく犬は、絶望に屈した。ぼんやりと天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らして。
「なあ……最期くらい、いい思い、させてくれたっていいじゃねえかよ」
誰にともなくつぶやいた、己が運命を呪う言葉。追うべき明日も守るべき今日もなく、死なないから生きているだけの人生だったが、そんな男にも、本能に刻まれた喜びだけは、平等に与えられていた。狼が達した時に見せた、全ての憂いを忘れたような表情が思い起こされる。自分も同じように、快楽とともに幕を引きたい。一度そう願ってしまったら、もう他の終わり方は考えられなくなった。しかし、それはもう叶わないのか。
「……諦めるな」
不意にそばから聞こえてきた声。諦めるなと言われても、両手は使えない。体もまともに動かない。それなのに、どうしろと。妬みと苛立ちに支配されて、犬は狼へと顔を向ける。
「お、おい……?」
だが、醜く歪みかけていた表情は、次の瞬間、困惑に変わる。狼の灰色の体がぐらりと、犬に向かって傾いてきていたからだ。美しい金色の瞳と精悍な顔が、目と鼻の先まで迫り、犬の心臓が小さく跳ねる。しかし、それらは触れ合うことなく、そばをすり抜けていった。
「うぁ、ああ、っ」
そして、いったい何が起きたのか分からないまま、犬は甘い吐息を漏らす。それは、突然股座に生じた、温かく柔らかな感触のためだった。萎えかけていた興奮が、薪をくべられた炎のように、勢いを取り戻していく。熱に浮かされて急激に退く理性を、どうにかその原因へと集中させる。そこにあったのは、自らの陰茎をぱっくりとくわえ込んだ、狼の姿であった。
「な、にを……」
「だま、っていろ。何も、考えなくて、いい」
巨根とは言えないまでも、決して小さくはない肉棒に口腔を埋められたまま、不明瞭な発声で答える狼。言葉はぶっきらぼうだが、犬は不安を抱かなかった。狼は、潰された両腕に代わり、肩先や胴の力で必死に体を支え、体重をかけないようにしている。その上で、敏感な性器に痛みを与えまいと、鋭い牙が触れないように全神経を注いでいるのが分かるのだ。
「あぐ、ぅうう」
大きく肉厚な舌が、竿の側面を優しくくるむ。硬口蓋のひだが雁首にこすれて心地よく踊り、鈴口の穴や筋に、滑らかな軟口蓋が、ふんわり形を変えながら密着する。まるで、狼の口と犬の陰茎がひとつに溶け合っていくような体験。他者と体を重ねたことのない犬にとって、それはあまりにも鮮烈で刺激的で、漏れる声を押し止めることすら難しい。
「はっ、ふう、ふぅっ」
その一体感を享受しているのは、犬だけではなかった。口淫を行っている狼もまた、熱い息を隙間から勢いよく吹き出して、興奮をあらわにしているのだ。犬の股間を貪りながら、突き出された尻の先では、もう満足に動かせないはずの尾が、びくびくと震えている。
「まさか、あんたも、感じて……るのか?」
返答はなかった。しかし、言葉以上に快楽を語るものがある。犬は少し身を乗り出して、狼の股間を覗き込む。そこには驚くべきことに、ありったけの精を出し尽くして萎れていたはずの狼茎が、前回を上回るほどの巨根となってそびえ立っていた。薄れゆく感覚が一点だけに集約されたことで、狼の口腔は、新たな性感帯として生まれ変わったのである。
「そうか、そうか……じゃあ、一緒に、うっ、んああぁっ」
混濁しかかっていた犬の意識が、初めて知る温かな快感で埋まっていく。
狼の奉仕は、決して巧いとは言えなかった。恋人とはおろか、娼館ですら経験のない犬にも、それは分かる。毒のせいもあるだろうが、その動きはひどくぎこちなく、当てずっぽうで、洗練されていない。それでも狼は懸命に、犬の男根に舌を這い回らせ、口蓋を押し当て、ふくよかな黒い口唇で甘噛みをする。戦友を精一杯楽しませ、そして自分も愉しみたい。そんな健全なる性の営みが、死に瀕した獣たちを、最後の高みへと上り詰めさせていく。
「ああ……すげ、え、もっと、もっと……っ!」
「ぐるる、っ、ごふっ、ふぐぅううっ」
大きすぎる快の刺激に、犬は全てを忘れて狼を求める。そして狼もまた、とめどなく溢れ出す精蜜の味に魅せられて、残る命を燃やし尽くしてのディープスロート。滝のように滴る両者の汗からは、お互いを酔わせる雄の匂いが溢れ出す。狼の息は大いに乱れ、しばしば止まり、そしてその直後には必然的に、凄まじい吸い上げが生じた。
「はげ、しっ、がぁあああっ!」
全てを搾り取ろうとするかのような真空に、犬は絶叫せざるを得ない。細身であった陰茎は、口内で限界を越えて膨らみ、もはや狼のものに肉薄するまでに肥大化している。そして太くなればなるほど、真空度は高まり、温かな粘膜が四方八方からもたらす刺激も、より濃密になる。快感は、加速度的に高まっていくのだ。
「ああ、ダメ、だ、もう、もう……」
ひたすら絶頂だけを求めていた犬だが、それが間近に迫ると、今度は固く目をつぶり、必死に耐えようとする。この幸福な時間を、終わらせたくないがゆえに。しかし、抗えるはずもない。彼の意思に反し、睾丸は根本に引き寄せられ、張り詰めた陰茎がぐっと背伸びを始める。
「くそっ、イク、イク……ッ!」
押し寄せてくる真っ白な奔流。理性が完全に呑み込まれてしまう前に、犬は腰を引いたり体をねじったりして、狼の口を外そうと試みる。しかし狼は、何度も首を横に振りながら、犬のものに食らいついて離さなかった。硬い前臼歯で、竿や亀頭をごりごりとこすりながら――。
「はっ、はぁっ、んぐぅうううッ!!」
とどめの一撃が、犬の全てを快楽へと明け渡す。それは待ちわびた瞬間だった。世界の全てが一点へと集中して、みるみる膨らんで、そして弾ける。鮮やかな輝点が視界を埋め尽くし、呼吸すらも忘れてしまう絶頂感とともに、犬はついに、射精した。
無数の子種が吸い上げられ、精管そして尿道を、恍惚を伴って勢いよく流れていくと、それらを一滴たりとも逃さず眼前の男に注ぎたいという衝動が、犬の腰を何度も鋭く突き出させる。そしてそのたびに大量の精液が噴き出して、狼の口蓋垂や喉奥をまっすぐ撃ち抜く。
「わおおおぉおおんっ!」
圧倒的な生命の歓喜が、犬の口から咆哮となってほとばしる。
犬も一人の雄獣人だ。絶えず生産され続ける精を持て余し、暇を見つけては吐き出してきた。だが、それは全て自分の手の中でのこと。周囲の男たちが、番がああだこうだと惚気る様子を尻目に、犬は自らの性を、退屈な人生を紛らわせる玩具のままに保ってきた。だから、他者の温もりに包まれた射精は、生まれて初めての経験だった。
「はあっ、はぁ……っ」
大きな狼の口腔を埋め尽くし、溢れ出して犬歯の先からぼたぼたと垂れ落ちるまでありったけの欲望を吐き出して、ようやく犬の吐精は終わりを迎える。狼とは違って小ぶりな睾丸の、いったいどこにこれほどの量が収まっていたのだろう。余韻と呼ぶにはあまりにも鮮明な快楽の[[rb:余波 > なごり]]と、生命の全てを奪い去られた疲労感に包まれて、犬はつぶやく。
「こんなに……気持ちいいもん、なんだな。最高、だったぜ。ありがとな」
後頭部しか見えない狼だが、その頬が、犬の左手にそっと触れている。麻痺した神経にも微かに伝わる、強いコシを持つヒゲや、豊かな弾力をたたえた黒い口唇の感触に不思議な愛おしさを覚え、犬の口からは、自然と感謝の言葉がこぼれた。だが、狼は反応を示さない。
無理な姿勢で疲れたのだろうか。股間にマズルを突っ込んだままで、狼は固まっている。手が使えないから、自力では起き上がることができないし、犬の股に挟み込まれて声も出せないでいるのだろう。初めはそう思った。だが、それにしても妙だ。狼はぴくりとも動かない。少し前まで感じていた吐息の暖かさも、いつの間にか、なくなっている。
「……おい、どう、した」
もう一度問いかける。しかしやはり、狼は黙りこくったまま。
犬は全身の筋肉に意識を巡らせる。まだわずかに動かせる部位を探し出し、それらになけなしの気力を集中させて、身じろぎをする。すると、狼の頭が横に傾いて、太腿の被毛に隠れていた左目があらわとなった。半開きになった、狼の目。凛々しく輝いていた金色の虹彩は、濁った白に押しやられ、上瞼の縁にほんの少しだけが覗いている。
「そうか……先に、逝っちまった、か」
すでに絶頂に達していた狼は、疲労と虚脱の中で、犬のために無理をしたのだ。ただでさえ呼吸もままならない中、最期の時を少しでも愉しませようと、決して小さくはない砲身を咥えこんで。そしてついに、犬も射精に至った。大量の精液は、虫の息だった男の喉を塞いだだろう。
「苦しかったろうに。あんたみたいなやつも、この世には、いたんだな」
罪悪感こそは、狼の優しさを踏みにじるものだ。だから、犬に罪悪感はなかった。その心は、感謝だけで満たされなければならなかった。腕が動かないことが、もどかしい。動くなら、開かれたままの瞼を閉じて、それから、この大きな頭を優しく撫でてあげられるのに。
急に体から力が抜けて、ぐらりと前方にうなだれる。それでたまたま、胴に隠れて見えなかった狼の股間が目に入り、犬は驚愕した。そこには絶命した狼の陰茎が、未だ萎えきらずにたくましい姿で突出している。しかもその先端からは、新鮮な白い粘液がとろとろと溢れ続けているのである。直下の土には垂れ落ちた子種が堆積して、濃く厚い層を成していた。
「ああ……もう一度、イケたん、だな」
薄れゆく意識の中で、もう一度、狼の死に顔に目を向ける。白目を剥いてはいるが、よく見れば口元には穏やかな笑みが浮かんでいて、そこに苦痛の色はない。きっと狼は、犬を口で慰めながら、自らも大いに感じ、二度目の絶頂の中で息絶えることができたのだ。
「よかった、よ、か……た」
心がすっと軽くなっていく。それはひどく不思議な感覚だった。記憶の限り、犬はこのような安らぎを得たことが一度もなかった。虚ろに荒んだ人生の中、心のどこかで焦がれていながら、決して手が届くことはないと諦めていたもの。それが、命尽きる瞬間に訪れたのである。
――犬は、六人兄弟の末っ子として生まれた。
一家は貧困にあえぎながらも、互いに支え合いながら、毎日を生きていた。一人ひとり顔立ちも毛色もまるで違えど、絆で結ばれた家族との暮らしは、決して不幸せなどではなかった。そう思っていたのは、幼い犬だけだったのかもしれない。両親は、最も手のかかる子供だった犬を、奴隷として売り飛ばすという選択をした。七歳になって、間もなくのことだった。ある朝突然、力任せに連れて行かれて、檻に閉じ込められて、あっけない今生の別れ。
戦争で誰もが平和な日常を奪われ、荒んでいた時代だった。だから、仕方がないのだ。両親もきっと、苦しみ抜いたに違いない。そうやって理性的に擁護しようとしても、犬の心は彼らを決して許しはしなかった。自らを捨てた父と母を憎み、遺棄を免れた兄弟たちを妬み、こんな境遇を与えた世界の全てを呪ったのである。
それでも、優しい人に買われて、幸せに生きていけるかもしれない。そんな甘い夢想が現実になる道理もなく、売られた先で、酒浸りの中年豹夫婦による陰湿な虐待に曝された犬は、ついにそれらに反旗を翻し、逃走することになる。キッチンからくすねたナイフを手に、深夜に寝室に忍び込んで。事はあまりにも簡単に進んで、拍子抜けするほどだった。
犬はそれから、いわゆるストリートチルドレンとして生きてきた。誰もが明日をも知れぬ状況下で、法の庇護すら失った幼い獣人たちの、腕っぷしの強さと狡猾さだけが物を言う世界。生き抜くために、幼い少年は必死だった。生き抜くべき理由などはなく、ただ本能に導かれるまま。
ある時には、餓死者の溢れる街で豪奢の極みを尽くす貴族の屋敷に忍び込んだ。私兵の手にかかり顔見知りたちが死んでいく中で、犬は粗末なナイフを武器に、天性の身のこなしで、何人もの屈強な男たちを返り討ちにし、傷だらけになりながらも当面の命をつなぐ金を得た。またある時には、野盗に怯える人たちを相手に、用心棒の真似事をした。子供すら雇わざるを得ないほどに、当時の治安は末期的なものだった。
十歳になった頃、長らく続いた戦争が、ついに終結した。多くの市民は歓喜に沸いたが、犬は不安だった。彼にとっては世の混迷こそが生きる糧だったからだ。しかし、終戦は形式的には和平協定によるものだが、実際のところは、犬たちの国の全面降伏に近かった。したがって、真の平和など望むべくもない。落胆に満ちていく街角で、犬は変わらず、淡々と仕事を続けた。
そんな彼に転機が訪れたのは、十五の冬のことだった。荒れた社会の拠り所として生まれた、国家公認の傭兵ギルドが、恐ろしいほどに腕の立つ犬の青年の噂を聞きつけて、勧誘をしてきたのである。
人生の目的など何も持たなかった犬は、より安定した生活を求めて、言われるがままギルドに身を置くこととなった。新入りは、何種類かの武器から好きなものを一つ選ぶことができる。荒んだ少年時代をナイフだけで生き抜いてきた彼は、リーチの短さで何度も命の危機に曝されてきた。その反動で選んだのが、槍であった。もちろん、最も手に馴染む短剣も、懐に忍ばせて。
ギルド所属という肩書きにより、犬は効率的に仕事を得られるのみならず、合法的に人を殺す権利まで獲得することとなる。殺人に、抵抗は全くなかった。それどころか、脳裏にこびりついた家族の面影を醜悪な悪党どもに重ね、そのまま槍で串刺しにすると、不思議な爽快感が得られたのだ。その上に報酬までもらえるのだから、有り余る時間をつぶすにはうってつけだった。
そうして依頼を次々にこなしているうちに、いつしか犬は、ギルドを代表する戦士の一人とまで呼ばれるようになっていた。充足感などない。敵を屠る快感は、最初の数度だけ。それからは二十年近くも、無味乾燥な作業の日々を繰り返してきたのだ。これを、生きていると言えるのだろうか。ただの人形だと、陰で謗る者もいた。そして実際、そのとおりだった。
だが、そんな虚しい人生も、ついに終わる。
息ができない。息苦しさに押しつぶされて、五感が曖昧にかすんでいく。ぐわんぐわんと揺れる世界と、せり上がってくる、吐き出すことすら許されないひどい嘔気。気が狂ってもおかしくない苦痛と本能的恐怖に、犬は襲われていた。しかし彼のそばには、狼が一緒にいる。まだ残る体温が、じんわりと染み込んで全身へ広がっていく。だから、犬の心は安らかだった。
人の温もりに、飢えていた。きっと自分は、愛と呼ばれるものが欲しかった。今はそう、素直に認められる。もっと早くに受け入れていたなら、とも思う。そうすれば、あるいはこの狼と、これから先も、違った未来を歩んでいけたのかもしれない。
犬の体がゆっくりと傾き、狼の大きな背中に重なる。とても温かくて、いい匂いがする背中に顔を埋めて、犬もまた、静かに息絶えたのだった。
***
小さな港町に築かれた、ある有名な傭兵ギルドの本拠地は騒然としていた。
盗賊団の殲滅依頼を受けて派遣された狼と犬の二人が、数日経っても戻らない。両者は、二十年近い経歴を数え切れない功績で飾る、寡黙だが優秀な戦士だ。ギルドの名声に大きく貢献し、これからもその活躍は続くものと誰もが期待していた。そんな彼らが、有象無象を寄せ集めてできた小さな盗賊団に敗れるとは、にわかには信じがたい話であった。
事態を重く見た重鎮たちの判断により、ギルドの青年たちが数人、標的の拠点へと向かった。獣人の足なら半日ほどの山中にある洞窟だ。しかし、内部へと足を踏み入れることなく、彼らは立ち尽くす。入り口を隠すように佇む大岩の前に、狼と犬の姿を認めたからである。
交差するように体を寄せ合う二人。犬は穏やかな表情を浮かべ、虚空を見つめたままこと切れている。いつでも陰りを帯びた顔をして、誰もが実力は認めつつも近寄りがたく思っていた男にしては、あまりにも安らかな死に顔だった。そしてその股間には、もう一人の戦士である狼が、その精悍な顔を埋めている。鋭い牙の並んだ大きな口を覆う、淡黄色の乾いた膜。微かに残る臭気からも、目の前にある犬の性器から放たれた、精液の残渣であることは明白であった。その狼自身も、陰に隠れた腹部を覗き込んでみれば、被毛にこびりついた乳黄色の汚れと、その出所であろう、前開きから露出した陰茎が視認できる。
二人の遺体にはわずかな切り傷を除いて外傷がなく、戦闘が繰り広げられた洞窟内から離れていることから、死因は何らかの遅効性の毒であると、青年たちは推測した。そうであれば、この異様な状況にも説明がつくというものだ。幻滅や嫌悪を、全く抱かなかったということはない。しかし、命が尽きるのを待つばかりの二人が、最後のひと時にせめてもの快楽を得ようとしたことを、責める権利が果たして誰にあるのだろうか。
この青年たちは、狼と犬を尊敬していた。中でも最年少の虎人は特にそうだった。強く憧れ、いつか自分も同じようになりたいと願っていた。しかし一方で、感情を出さずにただ依頼だけを淡々とこなす二人の姿に、人形のような無機質さを感じていたのも事実である。そんな彼らにも、このような獣人らしい一面があったのだ。二つの死に顔に、恐怖はなかった。孤高の戦士たちは、最期にようやく、お互いの孤独を埋められたのかもしれない。
すでに硬直の解けていた狼と犬の亡骸を、青年たちは近くの川へと運び、清流に浸して汚れを洗い落とした。水はまだ冷たかったが、全身をくまなく、それこそ灰色と赤茶色の被毛一本一本まで清めるように。また、脱がせた戦闘服や下着についても、手分けをして清潔に洗いあげた。それから、すっかりきれいになった裸身を初夏の爽やかな風と日差しで乾かし、服装を整えて、代わる代わる背に担ぎながら、ギルドへ向けて山を下った。憧れの先達の最期が、少しでも邪な目で見られることを、純朴な彼らは厭ったのである。
狼にも犬にも、家族はいなかった。そこで、葬儀はギルドの所属員らの手によって行われた。傭兵という性質上、命を落とす者は少なからずおり、このような対応が取られることも珍しくはない。しかし、平時ならば集まるのは故人と親しい一部の者に限られるところ、今回は、若者を中心に数多くの戦士が参列し、二人の死を悼んだのだ。
そうしてギルドの傭兵たちは、一刻も早く故郷に安泰なる暮らしをもたらすべく、平和を脅かす敵との戦いに邁進していくことになる。
隣り合った墓に手厚く埋葬された彼らは、今もふたり、静かに眠っている――。
【トゥルーエンド】
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