「囚われた獣たち」
意識を取り戻したマリが最初に感じたのは、周囲に漂う不快な臭いだった。
血や腐った肉、ネズミやより大きな獣の汗や吐しゃ物や排泄物。
ありとあらゆる、不快臭が混じりあい空気を汚している。
マリは、胃の腑が込みあげるのを抑えるため人間の姿に変じた。
完全に匂いを遮断できるわけではないが、狼の鼻でいるよりはずっとマシだ。
吐き気が落ち着くと、彼女は自分の置かれている状況を確認した。
服はない。
手足は自由に動かせるが、首には枷がはめられ上手く動かせない。
枷からは細い鎖が伸び反対側は杭で地面に縫いとめられていた。
鎖は、一見脆そうだが、強力な魔法がかけられ簡単には引き千切れそうに見えない。
厄介なことに、鎖はグレイプニルと呼ばれる主に退魔騎士が好んで使う近くの者の魔力を吸収しながら強度を増す鎖だった。
マリは、鎖の観察を済ませると、続けてまわりを見渡した。
周りにあるのは石の壁のみで、他にあるモノと言えば、壁の内の一つが鉄格子になっているだけだ。
鉄格子には、ところどころ剥がれ落ちているが、銀のメッキが施されていた。
どうやら、ここは牢屋らしい。
それも人狼を閉じ込めておくのに特化した特別な牢屋だ。
個体差はあるものの人狼は総じて銀が苦手だ。普段銀製品を身に着けているマリもそれは例外でなく、肌が直接触れれば触れた箇所が爛れたりミミズ腫れになってしまう。
そして、今彼女を拘束している鎖も主な原料は銀だ。
もともとグレイプニルは、ウールヴヘジンで作られたモノだ。
気の触れた仲間を他のまだ正気を保っている仲間から守るための狗肉の策であった。
もっとも、この道具は後に情報が洩れあらゆるところで量産されるようになったのだが。
「これは素晴らしい。連中は、特別室を用意してくれたってわけか?」
マリは、皮肉交じりに独り言をつぶやいた。
その時だった。
「ようやく、起きたか?」
突然近くで声が聞こえた。
マリは、声のした方に目を向けた。
そこには、一人の人狼がいた。
人狼は、彼女よりも酷い様子だった。
右腕に直接杭を打ち込まれた状態で壁に張りつけにされ、骨が浮き出て見えるほどやせ細った身体には数々の拷問の痛々しい跡があった。
その背にある壁には赤黒いシミがびっしりとこびりついている。
「見たところ、あんたストレイのようだな? こんなところに何しに来たんだ?」
人狼は問いかけた。
「そこまで分かってるなら、聞くまでもないだろう? 魔物狩りだよ」
マリは、そっけなく答えた。
「ミイラ取りがミイラになったって訳か」
人狼の言葉に嘲笑の色はなかったが、マリは不快感に一声唸った。
マリは、この場に連れて来られる前のことを思い出した。
思い出しただけで腹立たしい。
ブラムたちの元を離れ目の前の襲撃者を殲滅し一瞬気を緩ませていた時、ソレはいきなりマリに襲いかかった。
背後の物陰から姿を現し、彼女の右腕に喰らいつく。
噛まれた瞬間、マリは血管に何か異質なモノが侵入するのを感じた。
―毒だ!
そう思った時には毒はすでに全身を回っていた。
腕の傷はすぐに完治したが、耐え難い激痛が全身を駆け巡りマリは悲鳴を上げながらその場に倒れのたうちまわった。
治癒の力がなければ即死していたであろう劇毒は、彼女の身体を蝕もうと牙を突き立てた。
「あら?私の毒で死なない子がいるなんて意外ね。下僕の帰りが遅いから来てみたけど、これは上質な獲物が手に入ったみたい」
マリは、そんな言葉を聞きながら徐々に意識を失った。
「ああ、腹立たしい!」
マリは、壁を叩きながら叫んだ。
その直後、彼女はふとブラムのことを思い出した。
「そう言えば、私と一緒に誰かここに連れて来られなかったか? 大きな帽子をかぶったヴァンパイアの子どもなのだが」
マリは、思いなおして人狼に問いかけた。
「いや」
人狼は小さく首を振った。
「お前がここに連れて来られた時は、お前一人だった。それに、ブラムの匂いは覚えているが看守の奴らからアイツの匂いは感じなかったから少なくともここには来ていないことは確かだ」
「お前、ブラムを知っているのか?」
マリの問いに人狼は小さくうなずいた。
「過去に仕事をしたヒトの匂いは全員覚えているからな」
「と言うことは、アンタが、あの村のガーディアンってことか?」
「 “もと“ ガーディアンと言った方が正しいかな? 今では、村を守ることのできなかったただの犬畜生だ」
人狼は自身の腕に打ち込まれた杭を見つめながらつぶやいた。
「ブラム…あいつは少々危ういと所があるが、気の優しい良い狩人だと記憶している」
「確かにそうだな…」
マリは口元に微笑を浮かべながら言った。
「その様子だと、彼は今も変わらぬようだな? こんな状況でなければ、ヤツの土産話でも肴にして酒を飲みたいところだよ」
人狼は自嘲気味に笑った。
マリは、村で起こったことについて聞こうかと思ったが結局口をつぐんだ。
立場は違えど、同業者に不躾なこと聞くべきではない。
ちょうどその時、牢屋の扉が開いた。
逃げると言う選択肢は早々に頭から排除した。
やるとしたら、少なくとも首にはめられた枷を外すか力でどうにかできるほど脆くするかしてからだ。
森で襲撃してきた男たちのような筋骨隆々の男が入ってくと思ったが、牢屋に入って来たのは意外にも若い女性。
服装からして襲撃者たちの仲間ではないようだ。
人狼と似たような虐待の跡を見るに、恐らくは村の住民の誰かが奴隷として働かされているのだろう。
「食事をお持ちしました」
女性はそう言うと、手に持った盆から二つの木の椀を取り出しマリと人狼の前に置いた。
「ありがとう、マルタ。いつも辛い思いをさせてすまない」
人狼は、女性に向かって言った。
「貴方よりは、ずっとマシな方ですよ。むしろ代わってあげられなくてごめんなさい」
女性がそう言うと人狼は唸りながら首を振った。
「よしてくれ! そんなことになったら、俺は本当に壊れてしまう…」
「そう言ってもらえるだけで、今は生きている甲斐があるわ」
女性は、苦痛と喜びが入り混じったような表情を浮かべた。
「それじゃあ、また夕方に」
「ああ、待ってるよ愛しいヒト」
二人はそう言葉を交わすと最後に互いに口づけをして離れた。
「今のは?」
女性が牢に鍵をかけ暗い廊下の中に消えるとマリは人狼に問いかけた。
「私の妻だ」
人狼は答えた。
「人間とそこまでの仲だったのか…。まったく酔狂なヤツもいたものだな」
マリは、皮肉交じりに言うと、椀の中を見つめた。
中にあったのは生肉の塊だった。
鷲掴みにして持ち上げると、血がポタポタと滴り落ち手にほんのりとした温もりが伝わって来た。
新鮮と言うには、あまりにも生々しい代物だ。
欲を言えば火の通ったモノが良かったが、今の状況からすれば随分とまともな食事だろう。
「悪くないな…」
マリは、口をあけ肉に喰らいつこうとした。
「お前、それが何か分かっているのか?」
その時突然、人狼が咎めるような口調でマリに向かって言った。
「私だって人狼だ。臭いで何の肉かは分かるよ」
マリは、肉塊から顔を上げて人狼を睨んだ。
「それでもお前はソレを喰うのか?」
人狼のマリを見つめる視線には非難と嫌悪の色があった。
マリは、その目に見つめられている内にふつふつと腸が疼くのを感じた。
「勘違いするな。私は好んで人肉を喰ったりしない。今みたいに他に食うモノがない時だけで、今まで食ったのも死んだヤツの肉だけだ」
彼女は、そこまで言うと再び肉に喰らいつこうとしたが、結局食欲をなくし肉塊を椀の中に叩きつけるように戻した。
「人間に媚びることしかできない番犬風情が!これで飢え死にしたら、死ぬまで呪ってやる」
八つ当たりだと自覚はあったが、マリはかまわず人狼に吐き捨てた。