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鼓膜を叩くようなアナウンスと、ひっきりなしに行き交う人々の足音。
改札口を抜けた先で、僕は耳を少しだけ伏せて、小さく息を吐き出した。地元からほとんど出たことのない僕にとって、都会のターミナル駅の喧騒は少しばかり刺激が強すぎた。
「おーい! 凪、こっちこっち!」
人混みの中から、よく通る明るい声がした。
声のした方へ視線を向ける――正確には、少しだけ視線を下へ落とす。
そこには、僕を見つけてぶんぶんとちぎれんばかりに尻尾を振っている、一人の青年が立っていた。
「やっと来た! 駅、迷わなかったか?」
「陽ちゃん。久しぶり」
人の波を掻き分けて駆け寄ってきたのは、一つ年上の幼馴染――陽ちゃんだ。
僕の名前は水無瀬 凪(みなせ なぎ)。そして目の前で安心したように笑っているラブラドールの獣人は楠 陽太(くすのき ようた)。
僕はサルーキ特有のひょろりとした長身と細身のせいで、人混みでも嫌でも目立ってしまうのだが、対する陽ちゃんは僕より頭一つ分ほど背が低い。大柄な犬種の獣人にしては随分と小柄で、その割によく食べるせいか、昔から全体的にぽっちゃりとした体型をしている。
僕と並ぶとどうしても見下ろす形になってしまうのだけれど、本人は「俺の方が年上なんだからな」と胸を張り、昔から何かと僕の世話を焼きたがる『お兄ちゃん気質』だった。
「相変わらずでかいな、お前。また少し痩せたか?」
陽ちゃんが僕の背中をポンポンと叩きながら、少しだけ眉を下げる。
「陽ちゃんが縮んだんじゃない?」
「んなわけあるか! ストレスで横に成長したとは言われるけど……って、うるさいわ!」
自分でノリツッコミをして笑う陽ちゃんの姿は、僕の知っている昔のままだった。
大学を卒業して、社会の荒波に揉まれていた陽ちゃん。
そんな彼から、突然「俺の住んでるマンション、部屋が一つ余ってるからお前も来い」と強引な誘いを受けたのは、数週間前のことだ。もう地元に固執する理由も気力もなかった僕は、ただ流されるままに荷物をまとめ、こうして新幹線に乗ってやってきた。
「よし、じゃあ行くか。うちの最寄り駅まで電車で20分くらいだから」
「うん、案内よろしく」
歩き出した少し丸い背中を追いかけて、僕も歩き出す。
窓の外を流れる景色は、背の高いビルばかりで空が狭い。地元とはまるで違う都会の賑やかさに目を丸くしていると、隣に立つ陽ちゃんはすっかりこの街に馴染んでいるように見えて、なんだか少しだけ不思議な気分になった。
***
「ほら、適当に上がって」
駅からしばらく歩き、案内された陽ちゃんの家は、聞いていた通り一人暮らしには随分と贅沢な2LDKのマンションだった。
玄関を開けた瞬間、ふわりと『陽ちゃんの匂い』がした。日向のような、少し大雑把な男の一人暮らしの匂い。
「……うん。すごく陽ちゃんの部屋っぽいね」
脱ぎっぱなしのスニーカーや、リビングのテーブルに積まれた雑誌を見て、僕は思わず小さく笑った。
「うっ……これでもお前が来るからって、昨日めちゃくちゃ掃除したほうなんだぞ!」
「あはは、知ってる。昔から片付け苦手だもんね」
抗議の声を上げる陽ちゃんの隣を通り抜け、僕は部屋を見渡した。どこを見ても、物が溢れていて、生活感に満ちている。
「とりあえず、こっちがお前の部屋な」
案内してくれた扉を開ける。
そこには、マットレスと布団一式が、ぽつんと置かれているだけだった。
「……本当にこの部屋、全然使ってなかったんだね。勿体ない」
生活感に溢れたリビングとは対照的な殺風景さに、僕はぐるりと室内を見渡して呟いた。
「だから、お前を呼んだんだろ」
陽ちゃんは照れ隠しのように少し口をとがらせて、垂れた耳を掻いた。
「あ、悪いんだけど、お前用の新しい布団セットがまだ届いてなくってさ。とりあえずこれ、俺のお古で悪いんだけど、しばらく我慢してくれ」
「ううん、全然構わないよ。用意してくれてありがとう」
「よし! じゃあとりあえず荷物置いたら、すぐ買い物行くぞ! これサイズ測るメジャーな!」
「えっ、今から?」
「当たり前だろ! 今日中に生活できる状態にするんだよ!」
休む間もなく僕の腕を引っ張る陽ちゃんに、僕は小さくため息をついた。
下から強引に引っ張ってくるこの熱量には、昔からどうにも抗えない。
***
マンションから電車で数駅の場所にある大型ホームセンター。
休日の店内は家族連れでごった返しており、人の熱気と独特の建材の匂いが入り混じっていた。
「おい凪、カーテンどっちがいいと思う? お前の部屋の壁紙、白だったからこのネイビーか、少し落ち着いたグレーが合うと思うんだけど」
カートを押しながら、陽ちゃんが二つのサンプルを両手に持って振り返る。
「うーん……どっちでもいいよ。陽ちゃんのセンスに任せる」
「出たよ、お前の『どっちでもいい』。あのな、これからお前が毎日起きて、一番に見る色なんだぞ? 少しは生活に執着しろよ」
陽ちゃんがむっとして、太い尻尾をパタンと足に打ち付けた。
昔からこうだ。僕の身の回りのことになると、何故か自分のこと以上に一生懸命になる。
「じゃあ、ネイビーの方で」
「よし、決定。防音・遮光バッチリのやつにしとくからな。次はラグマットと……あ、食器! お前の分のマグカップと茶碗も買わないと」
ずんずんと歩き出す小さな背中を見失わないように、僕はのんびりとその後を追う。
懐かしい距離感が、ひどく心地よく感じた。
気がつけば、カートの中は僕のための生活用品で山盛りになっていた。
バスタオルに歯ブラシ、ハンガー、ネイビーのマグカップ。陽ちゃんが一つ一つ、「これ使いやすいんだよな」と楽しそうに選んでくれたものばかりだ。
会計を済ませ、両手にずっしりと重い袋を下げる。
「僕が持つよ、陽ちゃん。いっぱい買わせちゃったし」
「バカ言え、これくらい俺だって持てる……っつーか、お前腕細すぎ! 少しは筋肉つけろ!」
強がる陽ちゃんだったが、少し息を切らしているのがわかって、僕は思わず吹き出してしまった。
***
「あー、疲れた……。よし、とりあえずカーテンつけるぞ」
マンションに帰り着くなり、陽ちゃんは休む間もなく買ってきた袋の口を開けた。
「貸して。僕がやるよ」
陽ちゃんからカーテンを受け取り、レールに取り付ける。
シャッ、とネイビーのカーテンを引くと、真っ白で無機質だった部屋に、急に「色」が落ちたような気がした。
「……いい感じじゃないか。とりあえず『部屋』っぽくはなったな」
陽ちゃんが満足げに頷く。
床には新しいラグマットが敷かれ、壁にはカーテンが掛かり、部屋の隅には買ってきたばかりの生活用品が置かれている。ほんの数時間前まで何もなかった空間が、彼の手によって強引に、けれど確実に『僕の居場所』として塗り替えられていた。
「よし、夕飯にするか。今日は引っ越し初日だし、出前でも取るか! ピザと寿司、どっちがいい?」
「さっき『どっちがいい』はダメって怒られたばかりなんだけど」
「こういう時はいいんだよ! 俺が今、両方食いたい気分だから!」
理不尽な兄貴分はからからと笑い、スマートフォンを取り出しながらリビングへと戻っていった。
***
夜。
ベッドに横たわり、僕は静かに目を閉じた。
かすかに聞こえてくる、リビングで陽ちゃんが片付けをしている物音。
――これからお前が毎日起きて、一番に見る色なんだぞ。
昼間の陽ちゃんの言葉が、耳の奥でじんわりと蘇る。
毎日起きる。明日も、明後日も、生活が続いていく。
すっかり空っぽになって、ただ静かに一人で過ごすだけだった僕の時間は、あの騒がしくて温かい幼馴染によって、もう一度動き出そうとしている。
毛布を深く被ると、そこにもうっすらと陽ちゃんと同じ、日向のような匂いがした。
体を丸めるようにして、僕はゆっくりと、深く、久しぶりの穏やかな眠りへと落ちていった。
[newpage]
「じゃ、そろそろ寝るね。おやすみ。陽ちゃん」
「おう、おやすみ」
自分の部屋に向かう凪の背中を見送る。
パタン、と静かにドアが閉まる音がリビングに響いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れたように全身の力が抜けた。
そのままズルズルとソファに深くもたれかかり、大きく、長く、溜め込んでいた息を吐き出す。
ぼーっと見上げた白い天井の照明が、やけに眩しい。
今日一日、気付かないうちに全身に力が入っていたらしい。首から背中にかけて、ズシリと鈍い疲労感がのしかかっている。
ここまで来てくれたとはいえ、あいつが急に「やっぱり地元に残る」と言い出さないか、ずっと気が気じゃなかったのだ。
……よかった。ひとまず、手の届くところに引っ張り込むことができた。
同じ屋根の下で、ちゃんとあいつが息をして、眠りについている。その事実に、ほっと安心する。
眩しさを遮るように、目元を腕で覆った。
一ヶ月前のあの日のことを思い出すと、今でも胸の奥が冷たく強張ってしまう。
もしあの時、俺が実家に帰省していなかったら。
違和感を見て見ぬ振りして、そのまま家に帰っていたら。
今頃、凪はこの世界から静かに消えていたかもしれなかったのだから。
***
昨夜遅く、久々に実家へと帰り着いた俺は、自室のベッドに倒れ込むなり泥のように眠りこけた。
激務続きだった部署の繁忙期がようやく一段落し、なんとか取れたまとまった休みだった。
すっかり日の高くなった時間に目を覚まし、首の後ろを掻きながらリビングに顔を出す。キッチンにいた母さんが、温かいコーヒーとトーストをテーブルにコトッと置いた。
「よく眠れた? 昨日は随分遅かったし、やつれてたから心配したわよ。ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ、コンビニ弁当ばっかだけど。あー、よく寝た……。父さんは?」
「お父さんは今日は出かけてるわ」
そう言いながら向かいの椅子に腰掛けた母さんは、エプロンで手を拭きながら、ふと視線を落とした。ラブラドールの垂れた耳が、いつもより元気なく下がっている。
「……ねえ、陽太。その、落ち着いて聞いてね」
ひどく静かな声のトーンに、俺の尻尾の動きが自然と止まった。
「何? 改まって」
「実はね……一ヶ月くらい前なんだけど。お隣の、凪くんのお母さんが……亡くなったのよ」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「は……?」
「交通事故だったの。本当に、急なことで」
「……ちょっと待ってよ。一ヶ月前って、なんで俺に……」
「ごめんなさい。でも陽太、あの時期、忙しくて連日終電だったでしょう? 連絡しても繋がらなかったし……」
「だからって……」
頭の芯が冷えていくような感覚がした。
凪にとって、おばさんはたった一人の家族だった。高校卒業後に進学しなかったのも、母親を一人にしないためだった。
サルーキ特有の気品ある綺麗な顔立ちなのに、いつもコロコロとよく笑う人で、ガサツな俺のことも本当の息子みたいに可愛がってくれていた。
「私たちも何か手伝おうとしたんだけど……凪くん、『親族もいませんし、お葬式はせずに火葬だけで見送りますから』って固辞してね。結局、あの子たった一人で、直葬でお骨にして帰ってきたのよ」
「一人で……?」
「ええ。それで、お骨が家に帰ってきてから、私とお父さんでご自宅へお線香だけあげさせてもらったの。その時もね、『陽太には事後報告でいいから、仕事忙しそうだから邪魔をしないでやってください』って……」
俺はただ呆然と、遠くで鳴っているような母さんの声を聞いていた。
大事な親友の一番辛い時に、俺は何も知らずに呑気に仕事にかまけていたのか。思考が停止した頭の中で、その事実だけがじわじわと冷たく広がっていく。
「でね……お線香をあげに行った時、凪くんすごく落ち着いていたのよ。涙ひとつ見せずに、私たちにお茶まで淹れてくれて。……それが逆に心配になっちゃって」
「心配?」
「なんていうか……無理して笑っているっていうよりも、すーっと感情が抜け落ちちゃったみたいで。お母さん、あの子のあの顔を見てたら、なんだか胸がざわざわしてしまって。陽太、あんたも小さい頃からお世話になっていたんだから、ちゃんとお線香をあげに行きなさい。……それとなく、凪くんの様子も見てきてあげて」
「……わかった。連絡してみる」
自室に戻り、俺はスマートフォンを取り出した。
すぐに電話をかけようとして、指を止める。もしあいつが声を出せる状態じゃなかったら。
そう考えて、通話ボタンではなくメッセージアプリを開いた。お悔やみの言葉すらまともに思い浮かばず、何度も文字を打っては消した。
結局、『母さんから聞いた。お線香あげに行ってもいいか?』とだけ送信した。
既読はすぐについた。
『うん、ありがとう。今日は家にいるから、いつでもいいよ』
『今から向かっても大丈夫か?』
『大丈夫だよ、待ってるね』
その見慣れた文面に、息をつく。
なんだ、ちゃんと返信もできるし、しっかりしているじゃないか。母さんはひどく心配していたが、少し考えすぎだったのかもしれない。
俺はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。
***
俺は家を出て、隣の家のチャイムを鳴らした。
「……陽ちゃん、久しぶり。ちょっとやつれた?」
玄関を開けた凪は、少しだけ目を丸くして、いつも通り穏やかに微笑んだ。
母さんの言った通りだ。ひどく取り乱しているわけでも、憔悴しきっているわけでもなさそうだ。
家に通され、部屋の隅に設けられた遺影と白木の箱が置かれた祭壇に線香をあげて手を合わせる。
凪は冷たいお茶を淹れてくれて、向かいの席に座った。
「忙しいのに、わざわざ来てくれてありがとう。色々と事後報告になっちゃってごめんね」
凪はそう言ってから、ぽつぽつとこの一ヶ月の出来事を語り始めた。
親族がいない分、役所の手続きが少し大変だったこと。でも、スーパーの仕事にはもう復帰していて、職場の人たちも気遣ってくれているということ。
それらを語る凪の声に淀みはなく、時折いつものように小さく笑いながら話してくれた。
よかった。こいつはちゃんと現実を受け止めて、自分の足で前を向いて歩き出そうとしているんだ。
俺はすっかり油断しきっていた。
「ごめん、ちょっとトイレ貸して」
「うん、わかるよね?」
「ああ。昔から散々入り浸ってたからな」
廊下に出て、トイレで用を済ませる。
すっかり強張りが解けた状態でリビングへ戻ろうとした、その時のことだった。
リビングに戻る手前にある、おばさんの部屋。
昔から入り浸っていたとはいえ、入ったことなどないそのドアの前で、俺の足はふと止まった。
『あの子のあの顔を見てたら、なんだか胸がざわざわしてしまって』
母さんの言葉が頭をよぎった。
何故かひどく嫌な予感がした。
開けてはいけない。そう思いながらも、どうしても何かが気になって、無意識にノブに手をかけていた。
静かに扉を押し開ける。
「……っ」
息を呑んだ。
部屋の中には、何もなかった。
家具も、ベッドすらない。ただ、窓のカーテンだけが閉められていた。
いくら遺品整理をしたからといって、これは異常だ。
一気に嫌な汗が背中を伝う。さっきまでの安心感が、足元から崩れ落ちていく感覚がした。
俺は足音を殺して階段を上がり、二階にある凪の部屋のドアを開けた。
そこには、床に敷かれた布団と、数着の服が置かれているだけだった。以前はあった机も、本棚も、私物も何もない。
まるで、引越しの前のような状態だった。
……違う。引越しなんかじゃない。
深呼吸をして、リビングに戻る。
あらためて部屋の中を見渡して、ようやくこの家が抱えていた異常性に気づいた。
匂いがしないのだ。人がそこで息をして生活している匂いが何一つない。リビングにも必要最低限のものしか置かれていない。
これじゃまるで……。
喉がカラカラに乾いていた。
俺は震えそうになる声を必死に抑え込みながら凪に問いかけた。
「……凪、お前、引っ越すのか?」
むしろそうであって欲しい。内心で強く祈りながら問いかけた。
「えっと……」
凪の長い耳が力なく伏せられ、視線が宙を彷徨った。
「引っ越すわけじゃないよ。ただ……一人で暮らすには物が多すぎたからね、色々と整理しておいた方がいいと思って」
凪は静かに笑った。
その乾いた笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが張り裂けた。
やっぱり、全然平気じゃなかった。平気なはずがなかったんだ。
おばさんと二人だけの家族だった。母親のために地元に残ることを決めるような、優しい奴だったのだ。
俺はすぐに言葉を返すことができなかった。
「バカな事は考えるな」と止めるのか、「俺がいるだろ」と慰めるのか。どんな言葉を紡いでも薄っぺらく思えて、なんて声をかければいいのかわからなかった。
喉の奥がギュッと詰まったように、声が出なくなってしまった。
重く、冷たい沈黙がリビングに落ちる。
それでも。このまま何も言わずに引き下がれば、こいつを完全に失ってしまう。それだけはわかった。
「凪、俺と一緒に暮らさないか?」
気がつけば、唐突にそんな言葉を口走っていた。自分でもよくわからないままの提案だった。
「えっ。どうしたのさ急に」
凪が驚いて目を丸くする。
「今住んでるとこ、部屋が一個余ってるんだ。親の伝手で借りたマンションで、家賃はそれなりなんだけど、部屋を余らせてるのは勿体無いからさ……」
自分でも無茶な理由を並べているのはわかっていた。
「え、なんでそんな? 流石に急すぎるし。俺、仕事もあるし……」
「しばらくは俺がなんとかする! 俺を助けると思って、お願いだよ」
なりふり構わず捲し立てる。どんなに不格好な嘘でもいい、俺のエゴだと言われてもいい。ここでこいつを一人残して帰る恐怖が俺を突き動かしていた。
異常な気迫に押されたのか、凪は戸惑ったように尻尾を揺らし、小さく息を吐いた。
「えっと……もしかして、部屋、見ちゃった?」
静かな声で図星を突かれ、言葉に詰まった。言い訳を探すよりも先に、喉が引きつる。
「……別に、死のうとか、そういうことを考えてるわけじゃないよ」
凪は困ったように微笑んで、俺を宥めるように言った。
「ただ、少し心の整理をしたかったんだ」
「嘘だ……」
絞り出すような声が出た。
「だって、あんなの……普通じゃない……」
あの空虚な部屋が「整理」なんて言葉で片付くはずがない。思い出も未来も、全てを消し去ろうとしているような異常な空間だった。
凪は少しだけ視線を落とし、自嘲するように口の端を上げた。
「なんていうかね……大事なものが急に無くなるのは、もう辛いから。……だから、自分の意思で手放そうと思ったんだ」
その言葉が、俺の胸を鋭く抉った。
「なんで、そんな悲しいことするんだよ……っ!」
堪えきれず、凪に縋り付いた。
凪の身体は、細くて、薄くて、今にも折れてしまいそうだった。
「お願いだ、凪。俺のそばにいてくれ。このままじゃ、お前……いつか本当に消えちゃいそうだよ」
涙声になっていたかもしれない。
「俺が安心するまで、俺の側にいろ」
めちゃくちゃな理屈だった。同居の理由すら、凪のためではなく『俺が安心するため』にすり替わっていた。
それでも、凪は俺の背中にそっと手を回し、ふふっ、と力なく笑った。
「なにそれ。自分勝手だなぁ」
「勝手でいい。頼むから……」
「……わかったよ。陽ちゃんの気が済むまで、一緒にいようか」
凪の口からこぼれたその約束の言葉に、俺は全身の力が抜けるほど安堵した。
「でも、色々と準備があるからすぐには無理だよ? 職場にも言わないといけないし」
凪が少しだけ困ったように、長い耳を揺らす。
「俺が手伝う。手続きも引越しも、全部俺がやるから」
絶対に逃がさないと念を押すように、俺はもう一度、凪の身体を強く抱きしめたのだった。
[newpage]
月曜日の朝。
洗面所の鏡の前で、陽ちゃんが手慣れた様子でネクタイを締め、ゆっくりと身支度を整えている。
昔はあんなに朝が弱くて、僕が起こしに行かないと布団から出てこなかったのに。今ではすっかり社会人してるなぁと、少しだけ感心してしまう。
スーパーの早番勤務の名残で、陽ちゃんよりも早く目が覚めていた僕は、キッチンの匂いで彼をリビングへ呼び戻した。
「おおっ、マジか! ありがと、すげえ助かる!」
僕が淹れたコーヒーと焼き立てのトーストを見るなり、陽ちゃんは嬉しそうに太い尻尾をパタパタと揺らした。二人でテーブルに向かい合い、ゆっくりと朝食をとる。
「今日からまた仕事だけど、お前は家で適当に休んでろよ」
サクサクとトーストを齧りながら、陽ちゃんが言う。
「……でもさ。実際、僕って今日から何してればいいの?」
僕が率直な疑問をぶつけると、陽ちゃんの動きがピタッと止まった。
「えっと……」
あからさまに視線を泳がせている。
やっぱり、何も考えてなかったんだ……。
行動力は人一倍あるのに、後先を考えないのは昔とちっとも変わらない。僕は思わず呆れ笑いをこぼしそうになる。
「お、お前は何もしなくてもいいんだよ! 俺が呼んだんだから!」
「いや、いくらなんでも一日中何もしないのは、それはそれで辛いんだけど」
「うっ……」
正論を返すと、陽ちゃんの垂れた耳が図星を突かれたようにしゅんと下がった。
「ふふ、まあ冗談。自分で適当に考えてみるよ。近所でバイトとか探すのもいいかもしれないし」
「お、おう。無理だけはすんなよ?」
のんびりとした朝食を終え、靴を履いた陽ちゃんの背中を見送る。
「行ってきます!」と慌ただしく出ていく彼を見送り、ガチャリと重い金属音がしてドアが閉まると、部屋にふっと静寂が落ちた。誰かを見送る側になったことへの、ひどく不思議な感覚。
さっきまで陽ちゃんの立てる物音や生活感に溢れていたはずのリビングも、主がいないと嘘のように静まり返ってしまう。
さて、どうしたものか。
僕は一人、ソファに腰を下ろして物思いに耽る。
それにしても、あのゴリ押しに負けて仕事を辞めてきてしまったのだから、我ながら思い切った決断をしたものだ。
まあ、当面の生活費やお金に困っているわけではない。これといった趣味もなく、実家で暮らしていたこともあって、数年くらいは働かなくてもやっていけるくらいの貯金はある。
ただ、いくら陽ちゃんから言い出したことだからといって、いつまでも幼馴染の厚意に甘えるわけにはいかないだろう。
頭の中で、あの時の陽ちゃんの必死な様子が蘇る。
今思い返してみてもめちゃくちゃな言い分だったなぁと、僕は誰もいない部屋で小さく笑ってしまった。
正直なところ、陽ちゃんが顔を真っ青にして心配していたような、自ら死を選ぼうなどという極端なことを考えていたわけではなかったのだけど……。
でも、まあ確かに、自分の行動はいささかやりすぎだったかもしれない。
思い出の詰まった家財道具をすべて捨てて、空っぽの部屋にポツンと座っていた自分。あの時の僕は、きっと自分で思っていたよりもずっと、冷静さを欠いていたのだろう。陽ちゃんが強引に連れ出してくれなければ、心の中まで完全に抜け殻になってしまっていたかもしれない。
この先、どうしていくか。細かいことは追々二人で話し合っていくしかないか。
僕はゆっくりと立ち上がり、小さく伸びをした。
ひとまずは、目の前に散らかっている陽ちゃんの脱ぎっぱなしの服を片付けて、掃除でもするとしよう。
***
掃除と洗濯を済ませてから、僕は夕飯の買い出しのために見知らぬ街のスーパーへ向かった。
マンションのエントランスを抜けると、ふわりと春特有の土と花の匂いが鼻先をくすぐった。長い耳を優しく揺らす風はもう冷たくなく、どこからか飛んできた薄紅色の桜の花びらが、歩道の隅に点々と落ちている。見上げる空は霞がかったように柔らかく、ぽかぽかとした日向の温もりが心地良い。
見慣れない街並みも、この陽気の中を歩けば少しだけ息がしやすい。
地図アプリを頼りに駅近くのスーパーにたどり着いた。
自動ドアを抜け、カートを引きながら、夕飯のメニューを考える。
昔からよく食べる子供だったけれど、今の陽ちゃんは何を好んで食べるのだろう。あのぽっちゃりとした体型を思い出すと、やっぱりお肉だろうか。
自分のためではなく、誰かのために献立を考えるのは随分と久しぶりな気がした。
料理教室の先生だった母の影響で、僕も昔から手伝いを通して料理を仕込まれていた。せっかくだから、今日は少し手間をかけて『ムサカ』を作ることにしよう。ナスとジャガイモ、ミートソースを重ねて、一番上にたっぷりのホワイトソースをかけてオーブンで焼くギリシャ料理だ。
ミートソースに少しだけシナモンを効かせるのが、母流の隠し味だった。
***
「ただいまー……あー、疲れた……」
玄関のドアが開き、垂れ耳をくたくたに下げた陽ちゃんが帰ってきた。
しかし、リビングへ続くドアを開けた瞬間、その動きがピタッと止まる。
「……って、うおっ!? なんだこのめちゃくちゃいい匂い!」
チーズとミートソースが焼ける香ばしい匂いを嗅いだ途端、陽ちゃんの太い尻尾がちぎれんばかりに揺れ始めた。
「おかえり、陽ちゃん。ちょうど焼けたところだよ」
「お前、これ作ったのか!? すげえ!」
スーツのジャケットを放り投げるようにして手を洗いに行った陽ちゃんは、目を輝かせながらテーブルに着いた。
オーブンから出したばかりの熱々の料理を切り分けて、お皿に乗せる。
「うまっ! なにこのグラタン? むちゃくちゃ美味い!」
陽ちゃんはハフハフと口元を火傷しそうになりながら、大きなスプーンで次々と口の中へ運んでいく。だが、ふと二口、三口と食べたところで、その動きが不自然に止まった。
「あれ……? なんかこれ、昔食べたような気がする……」
不思議そうに首を傾げる陽ちゃんに、僕は自分の分を取り分けながら答える。
「『ムサカ』って言うんだよ。そういえば、昔、母さんが作ったのを陽ちゃんも一緒に食べたことあったね」
両親が共働きで帰りが遅くなることがあった陽ちゃんは、昔からよく僕の家で夕食を食べていた。
陽ちゃんはいつだって、母が作る料理を「美味い、美味い」と幸せそうに平らげていて、母も「作り甲斐があるわ」と、僕の分よりも少しだけ多めにおかずを盛ってあげていたのだ。
「……あ」
陽ちゃんの目が、ふっと見開かれた。
スプーンを持ったままの彼の目から、不意に、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちた。テーブルにポツ、ポツと丸い染みが広がっていく。
「……ごめん。俺、なんか急に……」
陽ちゃんは慌てて自分の顔を覆い、しゃくり上げるのを必死に堪えようとしていた。
「ごめん、凪……美味くて、懐かしくて……っ」
母が死んだ時、僕は一滴の涙も流せなかった。
でも今、陽ちゃんが僕の目の前で、母の料理の味を思い出して、子供のように泣いてくれている。
僕の代わりに泣いてくれているのだ。
――俺が安心するまで、俺の側にいろ。
めちゃくちゃな言い分だと笑ってしまったあの言葉の本当の意味が、少しわかった気がした。
目の前で涙を流す彼は、僕の心がまたちゃんと温度を取り戻して、こうして「悲しい」と泣けるようになるまで、僕を一人にしないつもりなのだ。
「……謝らなくていいよ」
僕は静かに微笑んで、ティッシュを箱ごと陽ちゃんの前に差し出した。
母の思い出の味と、陽ちゃんの涙。
冷え切って、何も感じなくなっていた僕の胸の奥に、少しだけ、温かいものが流れ込んでくるのを感じていた。
[newpage]
PCのモニターとにらめっこしながら、仕様書の細かい数値を追っていた時のことだ。
「楠君、もうお昼だよ。休憩はちゃんととりなー」
ふわっとした声に顔を上げると、パーテーション越しに先輩社員の外屋敷(ほかやしき)さんが顔を出していた。
外屋敷さんは、チームの中では俺に次いで若手の二十九歳。俺の教育担当でもある彼は、おっとりとした性格の猫の獣人だ。決して太っているわけではないのだが、全身のふわふわとした毛並みのせいで、いつもふっくらとした丸いシルエットをしている。
「ああ、すみません。集中してて気付きませんでした」
「今日はどこ食べに行く?」
「あ、いや。今日は弁当があるんで」
「え、弁当?」
いつもコンビニか外食ばかりの俺の言葉に、外屋敷さんが目を丸くして猫耳をピンと立てた。
俺はデスクの下からカバンを引き出し、中に入っていた紺色の包みを机の上にそっと置く。
結び目を解き、プラスチックの弁当箱のフタを開けた。
中には、梅干しの乗った白いご飯に、大きな鶏の唐揚げ、綺麗な黄色のだし巻き卵、きんぴらごぼう、そしてほうれん草の和え物が、見栄え良くぎっしりと詰められていた。
掃除、洗濯、夕食。しまいにはお弁当まで。
俺が無理やり凪を連れてきたというのに。これじゃあ、どっちが世話を焼いているのかわかったもんじゃない。
「……はぁっ! て、手作り弁当だ!」
息を呑むような声がして隣を見ると、外屋敷さんがふさふさの猫耳をペタンと下げて、この世の終わりのような顔をしていた。
外屋敷さんは仕事も早くて正確だし、後輩への気遣いもできる完璧な先輩なのだが、何故か昔から全く女性の影がないらしく、「彼女いない歴=年齢」であることを度々嘆いている人だった。
「ああ……とうとう楠君にも彼女ができてしまったんだね……。こんないかにも手作りですって感じの、美味しそうなお弁当を作ってくれるなんて……。僕だけ置いていかれてしまった……」
「ち、違いますよ外屋敷さん! 彼女とかじゃないです!」
「えっ?」
机に突っ伏して泣き真似を始めた先輩に、俺は慌てて手を振った。
「幼馴染です!男の! ちょっと事情があって、今は俺の家に居候してるだけで!」
「男の幼馴染が、お弁当まで作ってそんなに尽くしてくれるの? へぇ……いいお嫁さんになりそうだねぇ」
「いや、だから男なんですって」
俺が少し呆れ気味に返すと、外屋敷さんはスーッと目を細めた。
「ふーん……」
何が面白いのか、外屋敷さんはひどく意味深な表情を浮かべて、背中の後ろで長い尻尾の先をゆらりと揺らした。
「まあ、どっちでもいいんだけどね」
「どっちでもよくないっすよ」
「でも、よかった。最近の楠君、すごく顔色が良くなったから安心したんだよ」
外屋敷さんは、俺のおかずの唐揚げをじっと見つめながら、おっとりとした声で続けた。
「先月あたりの楠君、何かにひどく焦ってるみたいで、目が血走っててさ。仕事のミスはなかったけど、見てて少し心配だったんだよね。……美味しいご飯を作って待っててくれる人がいるって、いいことだねぇ」
その言葉に、俺はハッとした。
先月。あの出来事があってからは気が気じゃなくて、確かにまともに眠れていなかった。
あいつを助けるために、俺のエゴで無理やり家に引っ張り込んだつもりだった。でも、家に帰れば「おかえり」と言ってくれる声があって、こうして温かい手作りのご飯を食べさせてもらっている。
救われているのは、もしかして俺の方なんじゃないか。
「……ええ。本当に、ありがたいと思ってます」
俺が照れ隠しのように短く答えてだし巻き卵を口に運ぶと、外屋敷さんは「僕は一人寂しく外食してくるよ……」とフラフラした足取りで去ってしまった。
***
「お疲れ様でした。お先に失礼します!」
「お疲れ様ー。奥さんによろしくね〜」
「だから違いますってば!」
定時になり、外屋敷さんの気の抜けたお見送りを受けながら、俺はそそくさと会社を後にした。
いつもなら、このままコンビニに直行して適当な弁当とビールを買って帰るだけだ。だけど今日の俺は、迷わず駅前にある小さな洋菓子店へと足を踏み入れた。
ショーケースに並んだ色とりどりのケーキを眺める。
確か凪は、甘すぎるものより、少し酸味のあるフルーツ系のケーキが好きだったはずだ。
イチゴのタルトと、レアチーズケーキを一つずつ買って、店を出る。
紙袋を片手に提げて歩く帰り道。
足取りは、自分でも驚くほど軽かった。
***
「ただいま」
「おかえりなさい、陽ちゃん」
玄関のドアを開けると、リビングからエプロン姿の凪が顔を出した。
「これ。駅前で美味そうなケーキ見つけたから、食後にでも食おうぜ」
「えっ、ほんと? ありがとう、冷やしておくね」
紙袋を受け取る凪の長い耳が、嬉しそうにふわりと揺れる。
スーツから部屋着に着替え、手洗いうがいを済ませてリビングに戻ると、すでにテーブルには夕飯が並べられていた。
「今日は和食だよ」
そう言って凪が用意してくれたのは、こんがりと揚がったチキン南蛮だった。たっぷりのタルタルソースがかかった鶏肉の横には、千切りキャベツと、真っ赤なミニトマトが添えられたサラダ。それから、湯気の立つ温かい豆腐とわかめの味噌汁。
「おおっ、うまそう!」
尻尾を無意識にブンブンと振りながら、俺は向かいの席に座った。二人で手を合わせ、賑やかな夕食が始まる。
弁当の感想を伝えたり、今日の外屋敷さんとのやり取りを話して凪が呆れ笑いをしたりしているうちに、あっという間に皿は空っぽになった。
食後。凪がキッチンに立ち、お湯を沸かして紅茶を淹れてくれた。
テーブルの中央に買ってきたケーキを並べ、凪が注いでくれた琥珀色の紅茶に口をつける。
「……ん? この紅茶、すごく美味しいな。なんていうか、香りがいい」
俺が素直に感想を漏らすと、凪は少しだけ誇らしげに口角を上げた。
「よかった。今日、少し散歩に出た時に、近くで紅茶の専門店を見つけてね。そこで飲んだのが美味しかったから、つい茶葉を買ってきちゃったんだ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ目を見開いた。
凪が、自分の意思で外に出て、自分の「好き」や「欲しい」という感情に従って買い物をした。
少しずつ、確実に日常の彩りを取り戻している。その事実がどうしようもなく嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……そっか。いいじゃん、そういうの。今度俺にもその店教えてよ」
「うん、いいよ。すごく落ち着く雰囲気のお店だったから」
凪がイチゴのタルトを切り分けていると、ふと、つけっぱなしにしていたテレビから聞き慣れたアナウンサーの声が流れてきた。
『——続いて、今週末の桜の開花予想です。関東各地では見頃を迎え……』
画面には、薄紅色の花をいっぱいに咲かせた桜並木が映し出されている。
俺はレアチーズケーキを一切れ頬張り、凪に向かって身を乗り出した。
「そうだ。今週末、花見に行こうぜ」
「えっ、花見? ……いいね。でも、今週末だとすっごく人が多そうじゃない?」
人混みがあまり得意ではない凪が、少しだけ困ったように眉を下げた。
「それなら、夜桜を見に行こう。夜でもライトアップされてる穴場があるって会社の人が言ってたんだけど、俺も行ったことないんだよな」
「夜桜かぁ……」
凪は少し考えるように視線を落とし、それから、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「うん。……ちょっと、楽しみかも」
テレビから流れる春の気配と、甘いケーキ、そして温かい紅茶の香り。
凪のその柔らかな笑顔を見ながら、この穏やかな時間が、これからもずっと続いていけばいいと心の底から思っていた。
[newpage]
西の空を染め上げていた茜色がゆっくりと溶け落ち、街に夜の帳が下りる頃。
僕たちは二人並んで、駅の反対側にある川沿いの遊歩道を歩いていた。
「おおーっ、すげぇ! ほんとに満開じゃん!」
陽ちゃんの弾んだ声に顔を上げると、視界いっぱいに薄紅色の雲が広がっていた。
川沿いに続く立派な桜並木。すっかり暗くなった空の下、ライトアップされた夜桜が夜の闇にふわりと幻想的に浮かび上がっている。春の夜風に揺れる無数の花びらは、息を呑むほどに美しかった。
「な? 来てよかっただろ」
「うん、すごく綺麗」
誇らしげに笑う陽ちゃんの横顔を見つめながら、僕も小さく微笑み返した。
川面に反射する光と、ひらひらと舞い散る花びら。
それらを静かに目で追っているうちに、ふと、胸の奥に冷たい風が吹き込んだ気がした。
どんなに綺麗に咲き誇っても、いつか散って消えてしまう。
形あるものはいつか無くなる。当たり前のように隣を歩いて、一緒に温かいご飯を食べている今のこの生活だって、いつかは終わりが来るのだ。
わかっているはずなのに、無意識に耳が力なく下がるのを感じた。
「……凪、寒くないか?」
不意に、肩にぽすんと温かい重みが乗せられた。
見上げると、陽ちゃんが自分が着ていたコートを脱いで、僕の肩に掛けてくれていた。
「え、でも陽ちゃんが……」
「俺は平気。お前、薄着で来たから冷えたんだろ。耳下がってるぞ」
僕の気分の落ち込みを「寒さ」だと思ったらしい。本当に、どこまでも真っ直ぐでお節介だ。
肩を包む陽ちゃんの上着から、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「……ありがとう。そういえば陽ちゃん、はい、これ」
僕は肩に上着を掛けられたまま、持参したトートバッグの中から小さな魔法瓶を取り出した。
「おっ。出かける前、キッチンでなんか準備してると思ったらこれだったのか」
「昨日買った紅茶、淹れてきたんだ。少し冷えると思って」
少し歩いた先にあるベンチに二人で腰を下ろし、魔法瓶のフタのカップに紅茶を注ぐ。
湯気と共に、華やかな茶葉の香りが夜の空気に溶けていく。
「……うん、やっぱりこの紅茶うまい! 外で飲むと格別だな」
カップを受け取った陽ちゃんが、嬉しそうに目を細めた。
「凪は料理も美味いし、淹れるお茶も最高だしさ。マジでそのうち、自分のお店とか開けるんじゃないか?」
「ふふっ、またそんな適当なこと言って」
あまりにも大げさな褒め言葉に、僕は思わず笑ってしまった。でも、自分の淹れたものを美味しいと笑ってくれる人がいるのは、純粋に嬉しい。
一つのカップを二人で代わる代わる口に運びながら、ライトアップされた夜桜を眺める。桜の枝が風に揺れ、薄紅色の花びらが二人の足元にハラハラと舞い落ちた。
「……来年も、また一緒に来ような。」
陽ちゃんが、夜桜を見上げたまま、さも当然のことのようにそんな約束を口にする。
「……来年。そっか、そうだね」
僕はカップの温もりを両手で包み込みながら、曖昧に微笑んで頷いた。
その後、僕たちは遊歩道を抜けて、ずらりと並んだ屋台の通りへと足を踏み入れた。
桜のライトアップに負けないくらい明るい提灯の明かりと、ソースや醤油の焦げる香ばしい匂いが漂っている。
「うおおっ、焼きそば美味そう! あ、イカ焼きもいいな!」
夕飯をしっかり食べたはずの陽ちゃんなのに、屋台を見るなり太い尻尾をちぎれんばかりに振って目を輝かせている。
「ほら凪、はぐれるなよ」
人混みの中で、陽ちゃんが僕の袖口を軽く引いて前を歩く。
結局、陽ちゃんは焼きそばにフランクフルト、たい焼きまで買い込み、子供のようにはしゃぎながら夜桜のトンネルを満喫していた。
***
「あー、食った食った。屋台の焼きそばってなんであんなに美味いんだろうな」
「陽ちゃん、夕飯もしっかり食べたのに、よくあんなに入るよね」
家に帰り着き、手洗いを済ませた陽ちゃんが大きく伸びをした。
「一息ついたし、俺、先風呂入ってくるわ」
「うん、いってらっしゃい」
陽ちゃんが脱衣所へと消え、パタンと扉が閉まる。
暖房の効いたリビングに、僕一人だけの静寂が落ちた。
ソファには、さっきまで僕の肩を温めてくれていた陽ちゃんの上着が無造作に脱ぎ捨てられている。
僕はそれにゆっくりと手を伸ばし、指先でその生地をなぞりながら、ふと昔の事を思い出していた。
父が死んだのは、僕がまだ小学生の頃だった。
単身赴任をしていて、たまにしか家に帰ってこなかった父。珍しく僕が「遊園地に行きたい」とわがままを言い、それを叶えてくれると約束した前日の夜に、父は事故で死んだと聞かされた。
『僕がわがままなんて言ったからだ』と、幼い僕は自分を責め、塞ぎ込んで学校にも行けなくなってしまった。
そんな僕の部屋に、毎日強引に上がり込んできたのが陽ちゃんだった。
『凪が学校に行かないなら、俺も行かない!』と、ベッドに丸まる僕の横に寝転がって、何を話す訳でもなく、ただ静かに居座り続けた。
父の死がトラウマになって、自分のしたい事を言えなくなってしまった僕を、『俺がやりたいから、お前も付き合え』と強引に外へ連れ出してくれたのも、陽ちゃんだった。
あの時も。母が死んだ時も。
いつだって、彼の身勝手で優しい行動が、僕を暗闇の底から救い出してくれた。
僕はソファの上の上着を両手で持ち上げ、そっと自分の鼻に押し当てて、深く息を吸い込んだ。
ほのかな春の匂いと、彼自身の陽だまりのような安心する匂いがした。
——こんな風に救われてばかりいたら、好きになってしまうのも仕方ないよね。
誰にも言えない秘密の感情が、ぽろりと心の中から溢れ出す。
でも、ダメだ……。
彼のその底抜けの優しさに、これ以上漬け込んでしまってはいけない。
この生活は、夢のように楽しくて、温かい。いつまでも浸っていたいと心から思う。
でも、陽ちゃんの人生にいつまでも間借りさせてもらうわけにはいかないのだ。彼は僕の保護者ではないし、いつか彼自身の大切な人を見つけて、家庭を築いていくべき人だから。
陽ちゃんのおかげで、僕は幾分か立ち直ってこれた気もする。外の世界を見て、綺麗だと思えるくらいには。
だから、あと少しだけ。
この心の温もりがもう少しだけ満ちたら、僕はまた、ちゃんと一人で生きていける気がするから。
ガチャリ、と遠くで浴室の扉が開く音がした。
上着から顔を離し、元の形にそっと置き直した。
首にタオルをかけた陽ちゃんが、濡れた頭を拭きながらリビングに入ってくる。
「ふーっ、生き返った! あがったぞ、凪もあったまってこいよ」
「うん、そうするね」
胸の奥で渦巻く切々な思いなど微塵も悟られないように。
僕はいつものように笑顔を浮かべて頷いた。
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