AdAd
  
なりそこないのノスタルジア

  鼓膜を劈くような轟音と、鼻を突く嫌な焦げ臭さで、僕の朝は強制的に幕を開けた。

  ずん、と重い振動が石造りの屋敷全体を揺らす。まただ。今週に入って三度目である。

  僕の頭にピンと生えた犬獣人の耳が、遠くの研究室から微かに漏れる呻き声を拾い上げた。

  「ちょっとヴィクトルさん! また爆発ですか!」

  煤で真っ黒になった研究室の重厚なオーク材のドアを蹴り開けると、むせ返るような煙の中から、ごぼほっ、と野太い咳き込みが聞こえた。

  室内は凄惨な有様だった。壁一面に天井まで届くはずだった書棚はひっくり返り、高価な羊皮紙や魔導書が紙吹雪のように散乱している。粉々になったガラスの試験管が朝日を反射して床でキラキラと光っていた。

  その瓦礫の中心で、大の字になって倒れている巨体があった。

  「いてて……あー、くそっ、術式の構築を一個飛ばしたか」

  「一個飛ばした、じゃありませんよ! 掃除する身にもなってください! 自分の屋敷ごと吹き飛ばす気ですか!? これまでの失敗で知性まで一緒に吹き飛ばしたんですか!?」

  僕が箒を握りしめて怒鳴りつけると、瓦礫の中から現れた男――立派な牙と筋骨隆々の体躯を持つ猪獣人のヴィクトルは、面倒くさそうに頭を掻きむしった。

  ぼさぼさの毛並みに、あちこちが焦げた上質なベルベットのローブ。この男が、国中から畏怖される大魔術師だと言っても、一体誰が信じるだろうか。

  「うるせぇな、朝からギャーギャー喚くな犬っころ。主を馬鹿扱いするとはいい度胸だ」

  「事実を述べたまでです。大体、昨日もそのまま床で寝たんでしょう。ご自身が獣ではなく人だという自覚はおありですか?」

  「ホムンクルスの分際で生意気な口を……! いいから早く飯にしろ、肉だ! 腹が減って死にそうだ!」

  「生肉でも齧っててください!」

  僕が眉間に皺を寄せて冷たく言い放つと、ヴィクトルは「チッ」と舌打ちをして、痛む腰をさすりながらのろのろと立ち上がった。

  文句を垂れながらも、僕の乱暴な態度に怒る様子はない。

  むしろ、どこか肩の力が抜けたような、安堵したようなため息をついて、僕の横を通り過ぎていった。

  その大きくて不器用な背中を見送りながら、僕は静かに箒を下ろす。

  この国屈指の天才魔術師だというのに、彼の生活態度は大雑把で、寝ぼけて術式を間違えることなど日常茶飯事だ。

  部屋が吹き飛ぶのは困るが、僕自身は内心、それほど腹を立てているわけではなかった。散らかった瓦礫を片付けることなど、造られた僕の身体にとってはただの作業に過ぎないからだ。

  それでも、あえて大袈裟にため息をついた。

  彼は僕に、「お前は俺の身の回りの世話をさせるために作った、ホムンクルスだ」と告げた。事実、僕はその役割を果たすためにここにいる。

  だから今日も、小うるさい従者として振る舞うのだ。

  僕は静かに息を吐き、室内の惨状を視線でなぞった。破壊の規模からして、片付けにはおよそ二時間は要するだろう。

  ただ、その前に優先すべき課題がある。

  あのガサツな主人が要求した「肉」の準備だ。彼の基礎代謝と魔力消費量を考慮すれば、早急に食事を摂取させなければならない。

  僕は廊下を引き返し、厨房へと向かった。

  冷たい石畳の床を歩く間、思考は極めてクリアだった。怒りも、呆れもない。ただ、次に取るべき行動の手順だけが頭の中に整然と並んでいる。

  厨房にたどり着き、木箱から大ぶりの岩鳥の肉を取り出す。ずっしりとした重み。犬獣人の鋭い嗅覚が、肉の鮮度を正確に測り取る。血抜きは完璧だ。

  僕は手早く肉に香草と塩を揉み込み、熱した鉄のフライパンに放り込んだ。

  ジュァァァッという派手な音と共に、暴力的なまでに食欲をそそる脂の匂いが立ち昇る。

  普通の子供なら涎を垂らして喜びそうなものだが、僕の心臓の鼓動は一定のままだ。食欲という感覚は知識として理解しているが、僕自身の身体がこの肉を欲しているわけではない。

  僕の身体を維持するために必要なのは、これではないからだ。

  肉の表面にこんがりと焼き色がつくのを確認し、裏返す。火の通り具合、香草の香りの立ち方、すべてが計算通りだ。

  僕は大きめの木皿に肉を移し、適当な大きさに切り分けた。ヴィクトルはナイフとフォークを使うのを面倒がる傾向にあるため、あらかじめ切り分けておいた方が、結果的にダイニングを汚されるリスクが減るのだ。

  付け合わせの芋の塩茹でを添えて、朝食は完成した。

  「……本当に、手のかかる人ですね」

  誰もいない厨房で、僕は声に出してそう呟いてみた。

  声のトーン、眉の寄せ方、呆れたようなため息の長さ。どれも完璧な「口うるさい従者」のそれだった。

  僕は木皿と水の入ったピッチャーを盆に載せ、ヴィクトルが待つダイニングへと足を進めた。

  ダイニングルームの扉を開けると、ヴィクトルはすでに巨大な長机の端にどっかと腰を下ろしていた。

  肘をつき、貧乏ゆすりをしながら苛立たしげに指先で机を叩いている。焦げたローブは着替えたようだが、相変わらず頭の毛は乱れたままだ。

  「遅せぇ! 餓死するかと思ったぞ!」

  「たった二十分で餓死する人がどこにいるんですか。大袈裟に騒がないでください」

  僕は冷たく言い返し、彼の目の前に乱暴に木皿を置いた。ドンッ、とわざと大きな音を立てる。

  ヴィクトルは文句を言う間もなく、フォークを鷲掴みにすると、凄まじい勢いで肉の塊を口に放り込んだ。

  「熱ッ! ハフッ、がっ……んん、まあまあ食えるな」

  「少しは味わって食べてください。咀嚼もしないで丸呑みするから、いつも胃薬を飲む羽目になるんですよ。」

  「うるせぇ! 食えりゃなんだっていいんだよ!」

  ヴィクトルはあっという間に一切れを飲み込み、次から次へと肉を口に運んでいく。口の周りは脂で汚れ、テーブルには肉汁が飛び散っている。

  僕は大袈裟に額を押さえ、深々とため息をついた。

  「ちょっと、こぼさないでください! 拭くのは僕なんですよ! 少しは行儀というものを……ああっ、言ってる傍から芋を落とさないでください!」

  「あーうるせぇ! 飯の時くらい静かにさせろ、この犬っころ!」

  怒鳴り合いながらも、ヴィクトルの手は止まらない。

  僕は彼に布巾を押し付けながら、その様子を静かに観察していた。

  (――魔力消費の形跡は見られるが、顔色は悪くない。呼吸も安定している。食欲も旺盛だ。今のところ重大な異常は無さそうだ)

  口から出る言葉とは裏腹に、僕の内心はひどく静まり返っていた。

  目の前で肉を貪るこのガサツな男の様子を、まるで遠くから観察しているような気分だった。僕の役割は、彼の健康状態を管理し、日常を回すことだ。

  ヴィクトルは最後に残った大きな肉の塊を一口で平らげ、ピッチャーの水を直接呷って喉を鳴らした。ぷはぁ、と息を吐き、乱暴に口元を拭う。

  「……あー、食った食った。おいアンデル、片付けとけ」

  「ごちそうさまくらい言えないんですか。大体、あなたのせいで今日はやる事が多いんですよ。研究室の掃除に、壊れた機材の片付け。それに……」

  僕は皿を重ねながら、ある事実を告げた。

  「あの爆発で、貯蔵庫の壁が吹き飛びました。保存してあった食材も半分以上が灰です。今日の昼食と夕食を作るための材料がありません」

  「あ? マジか」

  「マジです。ですから、これから街へ買い出しに行きます。もちろん、ヴィクトルさんも一緒ですよ」

  「はあ!? なんで俺がそんな面倒な真似を……」

  「荷物持ちが必要だからです! あなたが起こした惨事なんですから、少しは責任を取ってください。それとも、大魔術師様は自分の撒いた種も片付けられないんですか?」

  僕が両手を腰に当てて睨みつけると、ヴィクトルは渋い顔をして頭を掻いた。

  嫌がるだろうと予測していたが、彼は数秒の沈黙の後、やれやれというように立ち上がった。

  「……チッ、わぁったよ。行けばいいんだろ、行けば。お前みたいな口うるさい使い魔を持った俺が馬鹿だったぜ」

  「同感です。では、出かける準備をしてください。また寝癖をつけたまま外を歩くつもりですか?」

  「うるせぇ!」

  ヴィクトルが足音を荒立てて廊下の奥へと消えていく。

  僕は一人残されたダイニングで、テーブルに散らばった芋の欠片と肉汁の染みを、布巾で丁寧に拭き取り始めた。

  窓から差し込む朝の光が、石造りの部屋を白く照らしている。

  彼と出かけるのは少し効率が悪いが、食材がなければ彼を生かすことができないし、彼にとってもいい息抜きになるだろう。

  僕は布巾をきつく絞り、静かに息を吐いた。

  [newpage]

  石畳の坂道を下りながら、俺は大きく欠伸をした。

  春の陽気は生温かく、分厚いローブを着込んだ背中にじんわりと汗を滲ませる。徹夜明けの頭には太陽の光がひどく眩しく、何度目かわからない舌打ちが口をついて出た。

  「……おい犬っころ。少し歩くのが早ぇぞ。大魔術師様を置いていく気か」

  「あなたが遅すぎるんです。太陽の光を浴びるのが数日ぶりだからって、ふらふら歩かないでください。ただでさえその巨体は目立つんですから」

  数歩先を歩くアンデルが、振り返りもせずに言い放つ。

  黒と褐色の毛並みを持つピンと立った耳が、俺の声に反応してピクピクと動いている。その後ろ姿には、俺という主人を敬う態度は微塵も感じられない。

  文句を言いながらも、俺は面倒な足を動かしてあいつの背中を追った。

  俺たちが住む屋敷から坂を下ると、そこはもう王都の中心部、巨大な中央市場だ。

  赤レンガの屋根が連なる街並みには、朝からむせ返るような活気が満ちている。馬獣人の商人が引く荷車の車輪が石畳をガラガラと鳴らし、通りに面した屋台からは、香辛料をたっぷり使った肉の串焼きや、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。

  犬獣人ほどではないにしろ、俺たち猪獣人もそれなりに鼻が利く。入り混じった様々な匂いと、多種多様な獣人たちの喧騒は、徹夜明けの神経を逆撫でするには十分すぎた。

  「ほら、ヴィクトルさん。ぼーっとしないでください。まずは青果店に行きますよ」

  アンデルは迷うことなく人混みを掻き分け、馴染みの青果店の軒先へと向かっていく。

  店番をしていた兎獣人の女将が、俺の姿を見るなりビクッと肩を揺らした。俺のこの牙とガタイ、おまけに不機嫌な面構えは、街の一般市民からすれば恐ろしいらしい。

  だが、俺の前に立つ小柄なシェパードのガキは、女将に向かって愛想よく笑いかけた。

  「おはようございます。実験の爆発で、ちょっと貯蔵庫を吹き飛ばしちゃいまして。日持ちする根菜を多めもらえますか? あと、新鮮な葉物も」

  「あ、ああ……おはよう、アンデルちゃん。大魔術師様も、朝からお疲れ様です……」

  「お気遣いなく。この人は自分の撒いた種を回収しに来ただけですから。あ、そこのカブ、少し傷んでますね。まけてくれません?」

  慣れた手つきで野菜を選別し、ちゃっかり値切り交渉まで始めるアンデル。女将も苦笑いしながら、オマケの芋を袋に放り込んでいる。

  俺はその後ろで腕を組み、鼻を鳴らした。

  「おい、ケチケチすんな。金ならいくらでもあるだろうが」

  「金銭感覚まで爆発で吹き飛んだんですか? あなたが研究機材に無頓着に金を使うから、僕がこうして生活費を切り詰めてるんですよ。ほら、持ってください」

  ドンッ、と重たい麻袋が俺の胸に押し付けられる。

  中には土のついたジャガイモやカブがぎっしり詰まっており、かなりの重量だ。

  「……あ? なんで俺が持たなきゃならねぇんだ。お前は俺の従者だろうが」

  「魔法ばかり使って運動不足なんですから、これくらい運んで筋肉を維持してください。脂肪がつきすぎて、動けなくなりますよ」

  「クソ、生意気なガキめ……」

  文句を言いながらも、俺はその麻袋を肩に担ぎ上げた。

  大魔術師である俺が、従者の荷物持ちをさせられている。端から見れば滑稽な図だろう。現に、すれ違う街の獣人たちがチラチラとこちらを見て、ヒソヒソと笑い合っているのがわかる。

  『あのヴィクトル様が、あんな小さな従者に頭が上がらないなんてね』

  『なんだかんだ言って、仲が良いのよ、あの二人』

  そんな囁き声が耳に届くが、不思議と悪い気はしなかった。

  「ヴィクトルさん、次は肉屋です。干し肉と、それからスープ用の骨を買いますよ」

  「おい待て。その前にあそこの屋台に寄れ。串焼きのいい匂いがする」

  「はあ? さっき朝食であんなに肉を食べたじゃないですか!」

  振り返って怒るアンデルを無視し、俺はスパイスの匂いが漂う屋台へと歩き出した。

  店主の熊獣人に銀貨を弾き、焼きたての分厚い肉串を二本受け取る。滴る脂の匂いがたまらない。俺は一本を無造作にアンデルの顔の前に突き出した。

  「ほら、お前も食え。さっきからうるせぇから口塞ぎだ」

  「……歩き食いなんてみっともない真似、僕がするわけないでしょう」

  「いいから食え。お前、いつも俺の残飯みたいなもんしか食ってねぇだろ。育ち盛りなんだから肉を食え、肉を」

  俺が強引に串を押し付けると、アンデルは嫌そうな顔で眉間に皺を寄せた。

  だが、やがて渋々といった様子で小さな口を開け、串の端の肉を小さく齧る。もぐもぐと口を動かすその仕草は、年相応の子供のように見えて、俺は思わず吹き出しそうになった。

  「どうだ、美味いか」

  「……まあ、悪くはないですね。でも、あなたが奢ってくれたからって、研究室の掃除をサボる言い訳にはなりませんからね」

  生意気な口を叩きながらも、あいつのピンと立った耳は少しだけ嬉しそうに揺れていた。

  その後も、俺たちは市場を練り歩いた。

  肉屋で干し肉を買い込み、香辛料の店で調味料を補充し、ついでに俺が魔法薬の材料に使う変な石ころを買おうとしてアンデルに止められたりした。

  俺の肩には、アンデルに押し付けられた麻袋がいくつもぶら下がっている。大魔術師の面目丸潰れだが、この喧騒の中をこいつの後ろについて歩く時間は、思いのほか退屈しなかった。

  「……重ぇ。そろそろ帰るぞ、犬っころ。俺の腕が千切れる」

  「千切れたら魔法でくっつけてください。あと少しです。錬金術の店で、あなたがすぐに割るフラスコの予備を買わなきゃいけないんですから」

  先を歩くアンデルが、呆れたように振り返る。

  怒ったような目を向けられ、やれやれとため息をつかれる。その一連の表情の動きを眺めながら、俺はふと、少し昔のことを思い出していた。

  こいつが、初めて俺の屋敷の地下室で目を覚ました日のことだ。

  魔法陣の中心で、培養液から這い出たばかりの小さな身体。俺が心血を注いで創り上げたホムンクルス。

  その時のこいつは、今のような生意気な表情など微塵も持ち合わせていなかった。

  ガラス玉のように虚ろな瞳。

  無感情で、抑揚のない声。

  『あなたはだれですか?』

  そう言って、ただ無機質に俺を見上げていたあいつの姿を、俺は今でも鮮明に覚えている。

  ホムンクルスとは、しょせん造られた命だ。本来なら、自我などなく、主人の命令に絶対服従するだけの人形。ただの便利な道具として接しようと思っていた。

  だが、俺はあいつに言葉を教え、生活の仕方を教え、そして『アンデル』という名前を与えた。

  共に過ごすうちに、あいつは少しずつ変わっていった。

  俺が部屋を散らかせば眉をひそめるようになり、俺が不味い飯を作れば露骨に嫌な顔をするようになった。いつしか敬語の中に棘が混じるようになり、今ではすっかり、俺に向かって平気で怒鳴り散らす生意気な従者になってしまった。

  (……不思議なもんだな)

  俺は麻袋を担ぎ直しながら、前を歩く小さな背中を見つめた。

  あの無機質だった失敗作の人形が、今じゃいっちょ前に俺に文句を言って、眉間に皺を寄せて怒っている。自分の意思で動き、自分の感情で怒り、呆れ、そして笑う。

  造られた命であるはずのあいつが、ひどく人らしく、生き生きとしているのだ。

  「ヴィクトルさん、何ニヤニヤしてるんですか。気味が悪いですよ」

  不意にアンデルが足を止め、胡乱な目で俺を睨んできた。

  どうやら、無意識のうちに俺の口角が上がっていたらしい。俺は誤魔化すように咳払いをした。

  「別にニヤニヤしてねぇよ。お前がチビのくせに偉そうに歩いてるのが滑稽だっただけだ」

  「チビって言わないでください! 僕はこれから大きくなる予定なんです。あなたが毎日ガミガミ怒鳴るせいで、ストレスで成長が止まってるんですよ!」

  「はっ、ホムンクルスの分際でストレスだぁ? 生意気言うな。俺の魔力で生かしてやってるんだから、もっと主人を敬え」

  「敬えるような立派な態度を見せてから言ってください、野蛮な猪」

  すらすらと飛び出してくる減らず口。

  普通の魔術師なら、自分の使い魔にここまで舐めた口を利かれれば激怒するだろう。だが、俺はこいつに怒鳴られると、なぜか胸の奥がストンと落ち着くのを感じるのだ。

  ただの命令を聞く人形ではなく、一人の意思を持った『アンデル』という存在。

  こいつが俺に怒り、世話を焼き、俺の傍にいてくれること。それが、今の俺にとってどれほど居心地が良いか、この生意気なガキは一生気づかないだろうな。

  「……おいアンデル。帰ったら、また肉を焼いてくれ。さっきの串焼きじゃ全然足りねぇ」

  「はあ? あなたの胃袋は底なしか何かですか? 仕方ありませんね、夜は少し香草を強めに効かせて焼きますよ。消化を助けるために」

  文句を言いながらも、あいつはちゃんと俺の要望に応えようとしてくれる。

  夕暮れのオレンジ色の光が、石畳の街並みと、あいつの褐色の毛並みを柔らかく照らし出していた。

  なんだかんだ言って、悪くない日々だ。

  俺はこの口うるさい犬っころと共に、ゆっくりと屋敷への帰路についた。俺の背中を、街の喧騒が心地よい子守唄のように見送っていた。

  [newpage]

  夜の帳が完全に下りると、この石造りの巨大な屋敷は死んだように静まり返る。

  王都の中心部から少し離れた高台に位置するこの場所には、市場の喧騒も、酔っ払いたちの陽気な歌声も届かない。分厚い石壁は外界の音をすべて遮断し、代わりに屋敷の中に澱んだ、古くて冷たい空気を閉じ込めている。

  聞こえるのは、廊下の隅で時を刻む柱時計の規則正しい重低音と、隙間風が窓枠を揺らす微かな軋み。昼間、あんなに大声で怒鳴り合っていたガサツな主人の気配すら、今は深い闇の中に溶け込んで消えてしまっている。

  自室の簡素なベッドに腰掛けていた僕は、唐突に襲ってきた強烈な眩暈に顔をしかめ、シーツをきつく握りしめた。

  視界がぐらりと歪み、輪郭がぼやける。胸の奥にある『偽物の心臓』が、油の切れた歯車のように不快な軋み音を立て、不規則な動悸を打ち始めた。

  指先から体温が失われていくのがわかる。まるで冷たい泥水の中に手足を突っ込まれたような感覚だ。それと同時に、喉の奥を焼くような、ひどく暴力的な渇きがせり上がってきた。

  (――魔力の枯渇。肉体の維持限界が近づいている)

  僕はひんやりとした自室の空気を深く吸い込み、冷静に自分の身体状況を分析した。

  昼間、市場で屋台の串肉を一本食べた。夕食には、ヴィクトルに急かされて香草をたっぷり効かせた肉料理も口にしたし、水も飲んだ。普通の人の子供であれば、胃袋は満たされ、今頃は温かいベッドで健やかな眠りについているはずだ。

  だが、そんなものは僕にとって、ただの「食事の真似事」に過ぎない。

  ホムンクルスである僕の身体は、人の食べ物から栄養を摂取する構造にはなっていない。肉や野菜はただ胃を通過し、排泄されるだけの無意味な有機物だ。

  僕の細胞を繋ぎ止め、この肉体を稼働させ、疑似的な生命活動を維持している唯一の燃料。それは、創造主であるヴィクトルの『魔力』、すなわち彼の血そのものである。

  定期的に彼の魔力を体内へ取り込まなければ、僕の肉体は文字通り泥のように崩れ落ち、ただの動かない肉塊へと還ってしまう。

  「……っ、ふ……」

  息を吐き出すと、白い吐息が闇に溶けた。体温の低下が著しい。

  僕は重い足を引きずり、ベッドから立ち上がった。扉を開け、冷たい廊下へと足を踏み出す。

  足取りはひどくふらつき、視界の端には黒いノイズが走っている。犬獣人特有の鋭い聴覚も鈍り、自分の足音がひどく遠くで鳴っているように聞こえた。

  それでも、頭の中だけは氷のように冷たく、ひどく冴え渡っていた。

  廊下の突き当たり、ヴィクトルの寝室の重厚なマホガニーのドアは、鍵がかけられていないどころか、わずかに隙間が開けられていた。

  僕が来るのを待っているのだ。

  彼もまた、自分が創り出した不完全な使い魔が、夜になれば這いつくばって自分の血を求めてくることを熟知している。

  ノックもせずに中へ入ると、部屋の中はむせ返るようなインクと古い羊皮紙のにおい、そして何日も換気されていない澱んだ空気に満ちていた。

  月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の窓辺に、巨大な猪獣人の影が座っていた。

  背もたれの高い一人掛けのソファに深く沈み込み、窓の外の月をただぼんやりと見上げている。

  「……お腹が、空きました。早く、僕にご飯をくださいよ」

  僕はわざとらしく顔をしかめ、荒い息を整えながら、いつもの『生意気な従者』の調子で口を開いた。声が震えないように、発声器官の筋肉を慎重にコントロールする。

  ヴィクトルは振り返らない。

  昼間、市場で「ほら、食え」と笑いながら串肉を押し付けてきた時の、あのガサツで陽気な男の面影はどこにもなかった。

  日中の彼は、大魔術師という肩書きに相応しくないほど大雑把で、怒りっぽく、そしてよく笑う。だが、それはあくまで太陽の下で見せる『表の顔』だ。

  夜の闇に沈む彼は、まるで自分の輪郭すら曖昧になってしまった亡霊のように、ただただ静かで、底知れぬ虚無を纏っている。

  彼は無言のまま、ゆっくりと自分の右腕を差し出し、分厚いローブの袖を乱暴にまくり上げた。

  月光に照らし出されたその太く逞しい腕には、無数の傷跡が刻まれている。

  猪獣人特有のごわついた獣毛は、幾度も皮膚を裂かれたせいで所々不自然に剥げ落ちていた。刃物で切ったような鋭い傷から、抉れたような痕まで様々だが、そのほとんどは、過去に何度も僕が立てた『犬歯の痕』だった。

  もはや毛も生え揃わず、醜く変色したその肌は、彼がどれほどの期間、自分の血を与え続けてきたかを物語っている。

  「……飲め、犬っころ」

  掠れた、ひどく暗い声だった。

  その短い命令に含まれた響きを、僕は冷静に分析する。そこに怒りはない。呆れもない。ただ、終わりのない後悔と、どこまでも深い自己嫌悪の感情だけが、重く沈殿していた。

  僕は彼の足元に歩み寄り、膝をついた。

  差し出された太い腕を両手で掴む。彼の体温はひどく高く、凍りつきそうだった僕の手のひらに、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。生きている、本物の獣人の熱だ。

  僕は躊躇うことなく、犬獣人の鋭い牙を腕の分厚い皮膚へと深く突き立てた。

  「……っ」

  じゅる、と生温かい液体が口の中に溢れ出した。

  強烈な鉄の匂いと、圧倒的な密度の魔力が、僕の空っぽの身体の隅々へと一気に流れ込んでいく。

  乾ききっていた細胞が歓喜の悲鳴を上げ、機能不全に陥っていた人工の臓器が急速に息を吹き返していく。冷え切っていた手足の末端まで、熱い血液が無理やり押し流されていく暴力的なまでの全能感。

  それは、食事というよりは、強烈な劇薬を直接血管に打ち込まれているような感覚に近い。

  血を啜られる痛みに、ヴィクトルが微かに喉を鳴らした。だが、彼は腕を引こうとはしない。

  むしろ、牙を立てる僕の頭に、反対の大きな手をそっと乗せた。まるで、迷子の子供の頭を撫でるような、ひどく不器用で、躊躇いがちな手つきだった。

  僕は彼の腕にすがりつき、喉を鳴らして血を飲み続けながら、静かに思考を巡らせていた。

  昼間、市場を歩いていた時、彼は僕を見て微かに笑っていた。

  文句を言い、怒り、ため息をつく僕の姿を見て、彼は『無機質だった失敗作が、感情豊かに育ってくれた』と密かに喜んでいた。僕が自分に懐き、なんだかんだと世話を焼いてくれることに、不器用な親愛の情すら抱いているようだった。

  あの大きな手で麻袋を担ぎながら、僕を見る彼の目は、確かに優しかった。

  だが、そんなものはどこにも存在しない。

  僕が彼に向かって怒鳴るのも、呆れてため息をつくのも、すべては僕が計算して構築した『演技』に過ぎない。僕の心は、目覚めたあの日からずっと、ただの一度も動いたことなどないのだから。

  (――彼は、僕をうまく騙せていると思い込んでいる)

  彼は僕に、お前はただの従者として作ったホムンクルスだと言った。ただの使い魔であり、便利で口の減らない道具だと。

  だが、僕は知っている。

  僕が初めてこの地下室の培養槽の中で目を開けた日。彼がすがりつくような、泣き出しそうな瞳で、僕のことを『アンドレアス』と呼んだことを。

  ホムンクルスの知性は、術者の魔力と記憶を媒介にして形成される。そのため、僕の中には術者であるヴィクトルの記憶と知識の断片が、薄っすらと共有されていた。

  僕のこの犬獣人の身体は、彼が過去に、自分の驕りと過失のせいで死なせてしまった『親友』を蘇らせるための器だった。大魔術師と呼ばれる彼が、莫大な時間と資産を投げ打ってまで叶えたかった唯一の願い。

  本来、自我を持たないはずのホムンクルスに、死人の魂を定着させる禁忌の魔術。

  けれど、この人形の器に宿った自我は、かつての親友などではなかった。ただヴィクトルの知識と魔力から派生した、何の感情も持たない『なりそこない』だったのだ。

  目覚めた僕が、無機質な声で「あなたはだれですか?」と口にした瞬間。

  彼の瞳から希望の光が完全に消え失せ、底なしの絶望へと突き落とされたあの顔を、僕は正確に記憶している。

  彼は自分の失敗に気づいた。

  もう一度ホムンクルスを創り直すだけの素材も、何より彼の精神力も、もはや限界を迎えていた。

  彼はあの日、二度目の親友の死を経験したのだ。

  僕は、彼の膨大な知識の中から情報を抽出し、自分がいかに振る舞うべきかを計算した。

  もし僕が、本物の『アンドレアス』のように純粋に彼を心配して、優しく笑いかけたらどうなるか。

  答えは明白だった。中身が違う失敗作の僕が『かつての親友』の模倣をすることは、彼にとって致死量の猛毒となる。偽物の優しさに触れるたびに、彼は自分が犯した罪と、二度と親友が戻らないという現実を、真正面から突きつけられることになる。

  最悪の場合、彼の精神は完全に崩壊し、自死を選択する確率が極めて高かった。

  だから僕は、彼が最も安心する人格を計算し、一から構築した。

  親友とは似ても似つかない、口が達者で、小生意気で、主人を少しも敬わない天邪鬼な従者。ガサツな彼に毎日ガミガミと説教を垂れ、事あるごとにため息をつく、可愛げのない子供。

  僕が彼を罵るたびに、彼の表情筋の緊張が解けるのを僕は観測している。「こいつはあいつじゃない」と無意識に確認することで、彼は罪悪感のフラッシュバックから逃れ、わずかに息をすることができるのだ。

  ゴクリ、と大きな音を立てて血を飲み込む。

  口の中に広がる強烈な鉄の匂いと熱を、僕の味覚器官はただ「高密度の魔力を含んだ液体」として正確に処理していく。そこに美味や不快といった感情的な評価は存在しない。

  枯渇していたホムンクルスの肉体に、必要なエネルギーが最適に補充されていくだけの、極めて効率的なプロセスだ。

  僕がこうして夜ごとに血を欲する『化け物』として振る舞うことで、彼は僕に『自らの血を与えて生かす』という贖罪の儀式を行うことができる。

  かつて親友を死なせてしまった彼は、今、僕という代替品を生かすことで、どうにか自己を保っている。

  僕が腹を空かせ、彼にすがりつき、彼の腕に牙を立てて血を貪る。その痛みと喪失感こそが、彼にとっての罰であり、同時に「自分はまだ誰かを生かしている」という呪われた救済なのだ。

  僕が彼の血を飲み干すこの静かな時間だけが、彼が過去の幻影にすがり、自分を許すための唯一の免罪符だった。

  十分な魔力を摂取し、体内の魔力残量が安全域に達したことを確認した僕は、ゆっくりとヴィクトルの腕から牙を引き抜いた。

  じわりと滲む赤い血を舐めとり、彼の腕に残った生々しい噛み跡を、僕は極めて冷たい、観察者のような瞳で見つめる。

  「……ごちそうさま。本当に、不味い血ですね。もっと健康的な生活を送っていただけませんか」

  声帯を震わせ、構築した仮面通りの言葉を発する。

  僕の憎まれ口を聞いたヴィクトルは、窓の外の月を見たまま、自嘲するように鼻で笑った。

  「……ふん。文句を言うなら飲むな、クソ犬っころ」

  「飲まなければ僕が死ぬでしょう。僕がいなくなったら、誰があのゴミ溜めみたいな研究室を片付けるんですか。全く、僕がいないと本当にダメな猪なんですから」

  僕は口元を手の甲で乱暴に拭い、わざとらしく大きなため息をついて立ち上がった。

  ヴィクトルはそれ以上何も言わず、ただ静かに目を閉じた。彼の心拍数は落ち着き、呼吸は深く、安定している。

  どうやら今日の『儀式』も、無事に彼の精神状態を安定させることに成功したようだ。

  僕はきびきびとした足取りで、彼の寝室を後にした。

  自室に戻る廊下の途中、窓ガラスに映る自分の姿を見る。ピンと立った黒い耳、まだ幼さの残る犬獣人の顔立ち。そこには、大魔術師に生意気な口を叩く、感情豊かな使い魔の姿があった。

  彼は僕の事を『アンデル(別のもの)』と呼ぶ。

  それでいい。彼が僕を別ものだと認識し、この浅ましい偽物の従者に安らぎを見出しているのなら、僕はそれに付き合おう。

  僕の内心がどれほど冷めきっていようと、僕がただの空っぽな人形であろうと関係ない。この石造りの箱庭の中では、僕は彼を愛し、彼に怒り、彼に世話を焼く、出来の良い犬っころなのだから。

  彼は、僕が全てを知っている事に気づいていない。

  明日も、明後日も、きっと彼が死ぬその日まで、僕は、この愛想のない偽物の役を、完璧に演じる。

  それを彼が欲しているから。

  それこそが造られたホムンクルスの、僕の唯一の存在意義なのだから。

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