カイルがベルーガに到着する二日前の夜。
『不帰の森』の奥深くにある神殿には、夜の気配を濃くしながらも、静謐な魔力の光が満ちていた。
天井から垂れ下がる蔦に絡められた魔法灯が、淡い緑の光を放ち、古代文字の刻まれた石柱を照らしている。
その中央に置かれた円卓で、エレンは古びた書物を広げ、そのか細い指先で慎重にページを押さえながら口を開いた。
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「……改めて整理しますわ、マイ・ロード」
カイルとリンドがエレンに視線を向ける。
「カイル様が解読された古代の文字にある通り、この世界には『宝具』と呼ばれるものが五つ存在していますわ。人族、ケモノ族、エルフ族、ドワーフ族、そして聖都の司祭たち。この五か所でそれぞれ保管しています。それぞれ『宝具』には特殊な魔術が施されており、その魔術により各部族の均衡が保たれていますのよ」
「ご主人様は現在、ドワーフの『剛鍛』の鉄槌と、エルフの持つ『迷霧』のペンダントの二つを手にした」
「えぇ、その通りですわリンドお姉様」
エレンが頷きながらそう答える。
「残る宝具は三つ。ケモノ族のナハト女王が持つ宝具『潜影』の腕輪、人族の宝具『言霊』のチョーカー、そして聖都の宝具『結界』……この中で今、もっとも手を出しやすいのは、ケモノ族の国ベルーガにある宝具、ナハト女王の持つ『潜影』の腕輪ですわ」
エレンはそこで一度言葉を切り、少しだけ表情を曇らせた。
「……ですが、問題はその魔術。ナハト女王の持つ宝具『潜影』の腕輪の力は、その使用者の姿を完全に消し、その気配すら断ち切るものですの」
リンドが腕を組み眉間に皺を寄せる。
「視覚も、聴覚も、魔力探知も効かない……か」
「ええ。私たちエルフ族の宝具『迷霧』は結界による外界からのあらゆる魔術の遮断、ドワーフ族の『剛鍛』は物質を変化させ、硬度を極限まで鍛えて武具を強化するものでしたが……ナハト女王の『潜影』は、純粋に『使用者を見えなくする』だけの魔術。これは最も厄介な魔術ですわ」
エレンは広げていた書物を閉じ、別の書物を取り出す。
そこには、かつてエルフの賢者が記した『宝具』に関する解析記録が残されていた。
「ナハト女王の持つ宝具『潜影』について、分かっていることを整理しますわね」
エレンは指で書物の文字をなぞりながら全員に聞こえるように読み上げる。
「『潜影』は、装着者の姿と気配を完全に消す宝具である。被装着者の視覚、聴覚、嗅覚による索敵、または魔術による生命反応探知など、あらゆる感知手段を無効化する。さらに装着者の足音や衣擦れなどの物理的な音も、ある程度まで抑制する効果がある」
エレンの言葉にリンドが思わず顔をしかめた。
「打つ手がないな。もともとケモノ族は隠密行動や暗殺行動に長けた種族。それがこの宝具の力を使ったら、もう誰にも止めようがない」
「はい……ですが一つだけ、この宝具には綻びがありますの」
「綻び?」
カイルが呟く。
「はい、マイ・ロード。この『潜影』は完全な静止状態においてのみ、その効果を完全に発揮できますわ。しかし装着者が静止状態から動き出す瞬間、ほんのわずかに魔力の揺らぎが生じますの」
エレンの説明にリンドが身を乗り出す。
「動き出す瞬間……?」
「たとえば、じっと立っている状態から一歩踏み出す瞬間。あるいは、腕を振り下ろす瞬間。その初動のときだけ、魔力の膜がわずかに乱れますの。ええとわかりやすく致しますと……」
エレンは指先で空中に魔法陣を描くと、簡易的な図を浮かび上がらせた。
人型のシルエットが透明な膜に包まれている図を指さしながら、エレンが説明を始める。
「このシルエットの周りの膜が『潜影』の効果ですわ。静止している間は膜が均一で認識できない。でも動き出す瞬間……」
エレンは人型のシルエットの足元や肩のあたりを指し示す。
「ほんの一瞬、膜がその動きを感知し、揺らぎが生じますの」
「その一瞬を捉えられれば、装着者の位置が分かる、というわけだな」
「えぇ、リンドお姉様。理屈の上ではそうなりますわ。ただし、その揺らぎは本当に一瞬。見逃せば終わりですし、揺らぎを感知できるだけの魔力感知能力も必要ですわ」
「……エレンならその魔力感知ができるか?」
カイルの問いかけに、エレンは少しだけ胸を張って答える。
「もちろんですわ、マイ・ロード。私はエルフの中でも、特に感知系の魔術に長けていますのよ。ナハト女王が本気で動いた瞬間であれば、その揺らぎを捉えられる自信がありますわ」
そんなエレンに対しリンドが続けて尋ねた。
「だがその瞬間に何をするんだ? 位置が分かったところで姿は見えないんだろう?」
「揺らぎを捉えた瞬間、私がその座標を固定する魔術を展開します。対象をその空間を縫い止めるようなイメージですわね。ほんの一瞬ですが、そこにいるという情報をこちら側に引きずり出せます。その情報を視覚で共有して」
「俺が宝具に触れる」
「はい。しかし、カイル様がナハト女王と本気で相対する状況を作らないといけませんので、なかなか難しいかもですわ」
「……ナハト女王はどんな人物だ?」
カイルの問いかけに対し、エレンは少しだけ目を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「見た目は幼子ですわ。ですが、その実態は狡猾で、計算高く、そして……無邪気でもありますの」
エレンの言葉にリンドが鼻を鳴らす。
「無邪気で狡猾、か。いちばん厄介な組み合わせだ」
「ええ。彼女は悪意を悪意として自覚していない節がありますの。面白いからやる、楽しいからやる。その結果として、誰かが泣こうが死のうが、あまり気に留めない性格ですわね」
エレンはページをめくり、ベルーガに関する記述を示した。
「ベルーガの国内事情もまた歪ですわ。数年前から、ナハト女王が思いつきで始めた政策で、獣人、完全に動物の姿をした亜人たちは差別され、一方で半獣人、体の一部だけが動物の亜人たちは優遇されていますの」
「……ああ、聞いたことがある。多くの獣人たちが都市の下層で重労働を強いられ、一方の半獣人たちは能力の有無にかかわらず官吏として取り立てられている、と」
「その通りですわ。ナハト女王は、人族の姿に近いほど上等という価値観を持っているようですわね。最も、それも深い思想というよりは、その方が面白いからという程度の理由かもしれませんけれど」
カイルは静かに息を吐いた。
「……子どもの残酷さ、ってやつか」
エレンは小さく頷く。
「ええ。彼女は遊びの延長で国を動かしている節がありますわね。だからこそ、予測が難しい」
「……ナハト女王の戦闘能力はどうだ? 幼子なら、力でねじ伏せられるんじゃないのか?」
リンドの問いにエレンが答える。
「確かに外見は幼子ですけれど、身体能力は完全に獣のそれですわよ、リンドお姉様。跳躍力、反応速度、嗅覚、聴覚、どれも一級品。リンドお姉様とは言え、かなり苦戦を強いられることでしょう」
エレンの言葉にリンドは眉をひそめた。
「それに彼女は『狩り』を好みます。自ら森に出て、獲物を追い、仕留める。宝具『潜影』を使えば、獲物は彼女の存在に気づくことすらできません。そういう点では戦闘経験も豊富かと」
「獣人たちをその『狩り』の相手にしている、という噂もあるよな」
カイルの言葉にエレンの表情がわずかに曇る。
「……ええ、マイ・ロード。半獣人たちの前で獣人を遊び道具のように扱うこともあるとか。『ほら見て、ちゃんと逃げないと食べちゃうよ?』なんて笑いながら」
カイルは目を閉じた。
幼い声で残酷な言葉を無邪気に告げる女王の姿が、脳裏に浮かぶ。
「……最悪だな」
リンドが呟く。その声には怒りだけでなくどこか冷静な色も混じっていた。
「だがそういう相手の方がいろいろやりようはある」
カイルのその言葉に聞いていたリンドが眉を上げる。
「というと?」
「……エレン、ナハト女王は退屈を嫌うんだったよな?」
カイルからの問いにエレンが頷く。
「え? あ、はい。ベルーガの記録や周辺国の報告を総合すると……彼女は確かに飽きっぽい性格のようですわね。政策も遊び感覚でコロコロ変えることがあるようですし」
「なら簡単だ。ナハト女王にとって最高に面白そうな遊び相手として、俺が近づけば良い。そうすれば彼女は自分から距離を詰めてくるはずだ」
カイルの言葉に、エレンは唇を噛む。
「しかしマイ・ロード……ナハト女王は気に入った相手には徹底的に執着しますわよ。『もっと遊ぼう』『もっと見せて』と、何度も何度も必要以上に対象を責め立てる。そして獲物を飽きるまで嬲り、最後には……」
「……ご主人様、あまりにも危険すぎます」
エレンの言葉にかぶせるようにしてリンドがそう述べる。だが、
「そこまでしないとナハト女王が本気を出さないだろ?」
カイルは余裕そうにそう言葉を継いだ。
「ナハト女王が本気で俺を殺しに来るような状況を作れば、エレンが『潜影』の揺らぎを捉え、リンドがその動きを止めることができる。そして最後に俺がその腕輪に触れる」
カイルの無茶な作戦提案に、リンドが深く息を吐いた。
「……確かに理にはかなっていますが」
「そもそもマイ・ロード。その作戦のためにはカイル様が女王に認識してもらわないといけませんわ。どうやってナハト女王に近づくんですの?」
エレンの問いかけにカイルは自信ありげに答える。
「簡単さ。ナハト女王は新しい遊びを好む。見たことのない相手、聞いたことのない力……そういうものに目がないはずだ。そこをつく」
「というと?」
「獣人でも半獣人でもない、異国の人間である俺がベルーガに乗り込めば、すぐに向こうから会いに来るさ。面白そうな獲物がいる、ってな」
そこまで話を聞いていたリンドが腕を組む。
「しかし、どうやってベルーガに潜入するんです? ベルーガの中に協力者がいるわけでもないですし」
「そこで利用するのが獣人たちさ。女王に差別されている獣人たちの中には、女王を憎んでいる者も多い。普段は隠しているそいつらの『本音』を俺が引き出してやるのさ」
そう述べるカイルの右目が黒紫色に明滅していた。