Hell and Heaven ──D──

  俺は警察官だ。

  十八歳で警視庁巡査を拝命し、今年三十六で警部補になった。

  人生のほぼ半分の時間背負ってきたその『警察官』という肩書きは、もはや自分にとって何より強固なアイデンティティとして、切っても切り離せない程深くまで自意識に根を張っている。

  たとえ手帳を携帯していない勤務外であろうと、その職責は常に背中へつきまとってきたし、同時に俺自身の背骨を強く支えてくれる支柱でもあった。

  俺は、この先の人生、何があろうと、いつ如何なる時でも、警察官である。

  善良な市民の平穏安全な生活を守るため、どんな不正も不法も見逃さず、法令を遵守し、公共社会へ全身全霊をもって奉仕する。それが全警察官の、俺の使命であると信じてきた。信じて疑わなかった。

  だからこそ、許すことは出来なかった。

  東京都郊外。

  インターチェンジを下りて長閑な田園風景の中を五分程道なりに走り、ポツンと立つバーベキュー場の案内看板に従って交差点を左折。その先で短い橋を越えてすぐの脇道を更に左折し、河に沿ってしばらく直進すると、案内のあったバーベキュー場が見えてくる。目的地はそのすぐ向かい側だ。

  オレンジ色の高い塀がグルリと敷地を取り囲み、何故かインドの寺院を思わせる様式に統一された外観。今は昼間なので点灯していないが、高々と聳え立つ看板には夥しい数の電飾が縁を彩り、夜ともなればそれはそれは眩く存在を主張することだろうと目に浮かぶ。周囲の落ち着いた景観の中、そこだけ景色を切って張ったように際立つ、異彩な建造物。

  繁華街で見かけることは殆どないが、東京でも少し市街地を外れれば、こうした施設は存外に多い。

  所謂、ワンルームワンガレージタイプのラブホテルだ。

  バーベキュー場という人の集まる場所に隣接してはいるが、オフシーズンであるこの時期ともなれば殆ど人目はなく、何より平日の真っ昼間からこんな場所を利用する人間は多くない。

  料金案内の掲示された入口から敷地内へ乗り入れ、目隠し用の下品な色の暖簾をくぐって地下へと下りると、予想通り一番奥のスペース以外は全て空いている様子だった。

  その一番奥のスペースに向かって車を進め、一旦停車。車を降りて使用中を意味するビニールカーテンを無造作に引き開けると、本来であればおかしなことだが、そこには待っていましたとばかりに空の駐車スペースが口を開けていた。

  とは言え、それも事前にわかっていたことなので、俺はさしたる感慨もなく足早に運転席へと戻り、左右後方の安全を確認しながらゆっくりとバックで車を駐車させた。

  エンジンを止め、シートベルトを外して一息つく。

  と、うっかりしていた。一度開けっぱなしにしていたカーテンを手早く戻して外から目隠しをすると、再び車内へ戻って腕時計を確認する。

  午後十四時二十分。指示された時間の丁度十分前だ。

  履歴の残らないチャットツールを起動し、到着の旨を短く発信する。既読の通知はすぐに入った。先に到着しているハズの相手が現れるまでは、もう間もなくだろう。

  その間、サンバイザー裏の鏡を睨んでネクタイと襟を正す。わざわざ時間を作ってもらってこちらから呼びつけたのだ、礼を失する訳にはいかない。

  ⋯⋯のは山々だが、鏡の向こうからは、隈取り模様のアライグマが酷い仏頂面でこちらを睨み返してくる。眉間の皺はどんなに揉んでも取れず、目の下の黒ずみは自前か睡眠不足の表れか判別も出来ない。

  刑事課時代は、この人相も体格も職務執行の大きな助けになったものだが、体調を持ち崩して生活安全課へ異動になり、よりにもよって少年係に配属されてからは、それも無用の長物。日夜、不必要に少年少女を威圧しないよう心を砕くばかりである。

  しかしそれも、今や自分にとっては身命を賭して殉ずるべき大切な職務だ。今日の用件も、表向きに公務として動くことこそ難しいものの、目的は青少年の心身の安全を保護することである。そのために、わざわざ公休の日を利用してこんな場所での密会を手配したのだ。

  表情一つのことでとやかく言うような人ではないが、今日のこの顔の険しさは用向きの真剣さ故でもある。顔を合わせること自体随分久方ぶりだというのに、気安く笑い合えないことについてはご勘弁願おう。

  そうこうしている内に、やや軋んだ音が頭上から響いた。ウィンドウ越しに見上げると、駐車スペース脇から二階へと伸びる階段が視界に映る。その先で、ホテルの客室へと繋がる扉から、小柄でずんぐりとした人影が現れた。

  少し、痩せられただろうか。

  グレーのジャケットに黒のセーター、ベージュのチノパンと比較的ラフな出で立ちをした中年のブルドッグが、こちらに気づいて柔らかく笑顔を浮かべながら階段を下りてくる。

  本来なら、ここで俺の方から車を降りて出迎えなくてはならない立場だが、人目を忍んでの密会のうえ、施設の用途外の目的で駐車スペースを利用している手前、ご容赦頂くしかない。

  日野惣一郎(ひのそういちろう)警部補。

  今でこそ階級は同じだが、警察学校時代に非常にお世話になった教官であり、卒業後も何くれとなく世話を焼いてくれた、俺の恩師である。本庁の警務部に在籍していた経歴もあり、警察内部への人脈も人望も厚い。再来年には退官を控えられているが、現在は本人の希望で地域課に配属され、後進の育成と共に地域貢献へ尽力されているそうだ。

  「お疲れ様です、日野教官」

  助手席のドアを開けて隣に乗り込んできた教官へ、背筋を延ばして頭を下げる。

  「三上、君また太ったなぁ⋯⋯」

  対して教官は、開口一番そんな軽口で俺の肩から力を抜き取った。

  「⋯⋯生安異動して、走る量減った所為ですかね」

  「運動不足もだがね、まずは食生活から見直したまえよ。だから早く嫁さんを貰いなさいと言うのに」

  ぐ⋯⋯またその話か。敬愛する恩師だが、これだけは玉にキズだ。毎度毎度、顔を合わせる度にこれだからこちらも参る。この人に限らず、警察官は一定の年齢に達すると部下に見合いを勧めなくてはならない服務規程でもあっただろうか。

  仏頂面を一層顰めさせた俺の表情がそんなに可笑しかったのか、教官は声を殺して喉の奥でくつくつと笑うと、ジャケットのポケットから取り出した缶コーヒーを俺に差し出した。

  「いやすまなかった、久しぶりに愛弟子から二人だけで会いたいなんて言われたものだから、ついに仲人を頼まれる日が来たかと思ってね」

  「ご冗談を⋯⋯本気でそう思ったなら、待ち合わせにこんな場所選ばないでしょうに」

  礼を言いながら缶コーヒーを受け取り、プルタブを起こす。一口含むと、途端に舌へ広がったクドい程の甘味に、苦笑いと懐かしさが込み上げる。甘党なのも、相変わらずか。

  「そう言ってくれるな。ここのオーナーとは古馴染みでね。防犯カメラもないから、人目につかない話し合いにはもってこいの場所だ」

  自分も同じラベルの缶コーヒーへ口をつけながら、教官は横目に俺へウィンクしてみせた。

  話の内容については、会ってから話したいとしか伝えていなかったハズだが、どうやらそれだけで表沙汰にしたくないこちらの意図を汲んでくれたらしい。ありがたい気遣いに、自然と頭が下がる。

  正直、こんなことをこの人に相談していいものか、未だに迷いはある。他人を、ましては恩師をこんな厄ネタに巻き込むことになるぐらいなら、俺一人で動き続けた方がずっといい、そう叫ぶ感情と、これ以上俺一人だけで動くには限界がある、そう冷静に諭す理性が、今も胸の中でせめぎ合っている。

  だが、しかし。ここまで来て、ここまで来させておいて、「やっぱり何でもありません」などと言う訳にはいかない。

  俺は手にした缶コーヒーを一息に呷り、甘さと苦みをまとめて胃の中へと押し込むと、腹を括った。

  「⋯⋯今日お呼び立てしたのは、以前私が補導したある少年について、その安否を確認するためにお力添えを頂きたかったからです」

  まず、本題を単刀直入に伝える。思えばこれも、警察学校時代から教官に口酸っぱく教え込まれたことだった。

  その教官は、俺の言葉にピクリと眉根を寄せ、顔から常の穏やかさを失せさせてこちらを見据えている。

  「続けてくれ」

  「はい。彼と最初に出逢ったのは、二ヶ月程前のことです」

  言いながら、俺は持参して来ていた資料の中から一枚写真を取り出し、教官へ手渡した。

  写っているのは、グレーの毛並みにピンと立った耳が特徴的な、まだ凛々しさよりあどけなさが目立つハスキーの少年である。

  「名前は新島陽翔(にいじまはると)。十二歳で小学六年生です。四年前に両親が離婚、その後引き取った母親から暴力や充分な食事を与えられないなどの虐待を受け、児童相談所の判断で二年前から児童養護施設で生活していました」

  種族や年齢の割に小柄に見えるのは、栄養不足の所為で発育が遅れているためだろう。辛い生い立ちながら、本人は周囲に気をつかって努めて明るく振る舞おうとする、心優しく利発な少年だ。

  「二ヶ月前、マル暴事案の応援で、生安からも私と同期の武田が夜間に赤色灯を回して管内のパトロールに出たんですが、深夜零時過ぎ、路上を一人で歩いていた彼を発見し、その場で補導しました。ですがその際、名前や年齢については素直に答えたものの、住所や保護者の連絡先については頑なに回答を拒否したうえ、何やら奇妙なことを口にした為、一度署に連れ帰って話を訊くことにしたのです」

  「奇妙なこと?」

  「はい⋯⋯『このままでは売られてしまうから帰りたくない』と」

  その時の彼の様子は、今も克明に覚えている。

  嘘や冗談で言っている訳でも、子供らしい無邪気な勘違いを口にしている訳でもない。陽翔は真剣に、確信を持って俺にそう告げてきたのだ。そして何故だか、その時の俺には、それを家出少年の他愛ない言い訳と聞き流してしまうことが、どうにも出来なかった。

  「売られる、とは⋯⋯また穏やかでない。つまりその子は、自分が身売りされるのではないかと危惧して施設を飛び出してきたと、そう言うのかね?」

  「えぇ、少なくとも本人は、本気でそう恐れている様子でした」

  「そして君も、それを信じた訳か」

  「もちろん確証はありませんでしたが、しかし無視は出来ませんでした」

  署へと戻り、空いていた会議室へ彼を通して二人きりになると、ぽつりぽつりと、少しずつながら詳しく話をしてくれるようになった。

  「彼がそう思うに至ったキッカケは、春先まで同じ施設で生活していた一つ年上の少年が、中学進学を機に里親へ引き取られることになったことからのようです」

  名前は尾沢陸(おざわりく)。陽翔から写真を見せて貰ったが、背が高く活発そうな印象の熊の少年だった。

  彼は両親が離婚後、母親と内縁関係にあった男から虐待を受けており、陽翔より一年早く施設へ入所。陽翔にとっては、共に過ごした期間こそ短かったが、似た境遇同士であることも助けて最も親しい間柄であったようだ。

  「ふむ。施設の方針にもよるだろうが、児童が里子として一般家庭に引き取られることは、そう珍しいこととは思えないがね」

  「はい。それは陽翔も承知していたようです。寂しさはあれど、二度と会えなくなる訳ではないと、親友の門出を笑って送り出したとのことでした。⋯⋯しかし、彼が不審に思うようになったのは、それからのことだったようです」

  言いながら、スマートフォンを取り出して陽翔から送られた画像を呼び出す。それは、地図アプリの画面をスクリーンショットしたものだ。

  「これを見てください」

  そのまま端末を手渡すと、教官は目を細めて画面を遠ざけながら、ためすがめつ画像を確認した。

  「施設の子供達には、一人一台ずつキッズスマホが与えられていました。陽翔と陸は、居場所確認アプリでお互いの位置情報を共有出来る設定にしていたそうです。その画像は陸が施設を退所した日、最後に位置情報が発信された地点を示しています」

  「ここは⋯⋯東京港かね?」

  「はい。より正確には港湾倉庫の一部のようです」

  その地点を最後に陸の位置情報は途絶え、以降陽翔が何度メッセージを送信しても、返信はおろか既読にすらならなくなったのだという。

  「陽翔によると、陸は八王子市在住の一般家庭に引き取られたと聞いていたため、大いに混乱したと話しています」

  「⋯⋯GPSの不具合か、もしくは何らかの理由で彼の端末のみその港湾倉庫へ輸送された、という可能性は否定出来まい?」

  「私もそう説諭しましたが、どうやら根拠はそれだけではなかったようです」

  教官に一言断ってスマホを受け取ると、更に一枚別の画像を呼び出す。

  「これは、夏休み直前に陸の名前で施設宛に届いたという絵はがきの画像です」

  写っているのは、デフォルメされたイルカやカニ、スイカのイラストが散りばめられた、夏らしいごく一般的なポストカードである。その下半分の面積に、力強くのびのびとした筆致で『お元気ですか? オレは元気です。また遊びましょう』と大きく手書きの挨拶が書き込まれている。

  「うん? 本人から絵はがきが届いたというなら、何の心配があるのだね? この字は本人のものだったのだろう?」

  「ええ。陽翔も、見覚えがあるから間違いないと」

  「だったら────」

  「はがきの絵柄から文字の大きさ、払いやハネの長さに至るまで、全てに見覚えがある、と。彼はそう断言しました」

  教官の眉が、初めてピクリと持ち上がった。

  「これは確かに陸本人が書いたものです。ただし、昨年の夏、既に退所した別の友人宛に送ったハズの絵はがきと、全く瓜二つのものだったそうです」

  陽翔によると、こうした絵はがきのやり取りはこれまでも珍しくなかったようだ。里子として引き取られたり、別の施設へ移った児童達からは定期的に便りが届いていたし、反対に職員に促されてこちらから送ることもよくあったと。

  その中で、何故陽翔がこの絵はがきのことをそんなにも克明に覚えていたかというと、その宛先が陸にとって、片思いを抱いたまま離れ離れになってしまった、初恋の相手だったからだという。恥ずかしそうにしながらも、一画一画、精一杯丁寧に書こうと集中していたのを、間近に隣で見ていたからよく印象に残っているのだそうだ。

  「児童が出す手紙類は、一度全て職員が回収し、宛名や住所を書くことになっているようです」

  「つまり⋯⋯一年前に本人が別人宛に書いた手紙が、実際には発送されず施設内で保管され、今年本人から施設宛の手紙として流用されていた、と?」

  「恐らく。絵はがきの販売元についても確認したところ、絵柄は毎年更新されているもので、当該絵柄の商品は今年既に販売も生産もしていないとの回答でした」

  教官は、顎を引いて拳を唇に押し当てるてると、しばし空気を噛み締めるようにして押し黙った。頭の中で深く思索を巡らせている時の、教官の癖だ。こうなった時は、集中し過ぎて周りの声が聞こえなくなっていることも多い。次に教官自身から口を開くまでは、こちらも黙っていた方が得策だ。

  「⋯⋯しかし、まだ弱い。その時点では君に警察官として対応出来ることは殆どなかったハズだ。そうだね?」

  「ええ、残念ながら仰る通りです。結局その日は陽翔と連絡先を交換し、少しでも何かあればすぐに連絡するよう伝え、施設へ迎えを寄越させることしか出来ませんでした」

  言いながら、俺は膝の上に乗せていた拳を強く握りしめた。

  何が「何かあれば」だ。己の不甲斐なさが頭に来る。

  当直だった施設職員に連れられ、こちらを振り返りながらトボトボと去っていく陽翔の背中が、今も鮮明に目に焼き付いている。

  あの時、あの瞬間であれば、俺の手はまだ届いたハズだった。それなのに俺は、その場に馬鹿みたいに突っ立って、ただ見送ることしかしなかった。

  子供一人守るために、俺は「何か」なければ、手を伸ばすことすらままならない。

  「それからしばらく、メッセージのやり取りをしたり、勤務外に様子を見に行く程度のことは続けていましたが、それ以上の実際的な対応は出来ないまま時が過ぎ⋯⋯先月の頭のことです」

  今度はスマホからメッセージアプリを起動し、陽翔との最後のチャット履歴を教官へ見せた。

  「⋯⋯? 最後のメッセージが、送信者から取り消されているようだが」

  「はい。しかし取り消される直前まで、確かにここには⋯⋯『たすけて』と表示されていました」

  その日は、丁度当直明けの非番だった。メッセージが届いたのが午前十時過ぎ。取り消されたのはそれから二分と経たない内のことだった。

  血の気が引いた。

  誤送信やイタズラの可能性など、最初から頭に浮かびもしなかった。

  取るものも取りあえず、俺は着の身着のまま自家用車に飛び乗って養護施設へと向かった。

  だが⋯⋯

  「それから、私が施設に到着したのがメッセージを確認してから三十分後。その時には既に、そこに陽翔の姿はありませんでした⋯⋯」

  施設の職員へ陽翔の行方を問いただしてはみたが、担当者は既に里子として引き取られたと答えるばかり。引き取り手の里親について尋ねてみても、守秘義務を理由に回答を拒否されてしまった。

  当然の話ではある。俺と陽翔の間には、主張出来るような関係性など何一つとしてない。

  警察官という立場であれど、であるからこそ、情報開示を拒否する相手に対し、令状もなしに強制力を働かせることは出来ない。

  実際に、そこで何が起きたのかはわからないのだ。

  現状事実として明らかなのは、一人の少年と一人の警察官の間で、連絡が途絶えているという、ただそれだけのこと。客観的に見て、事件性を疑うに足る根拠はあまりにも乏しい。

  だが、しかし。

  居ても立っても、いられなかった。

  俺にはもう、そこで何もせず立ち止まっていることは、どうしたって出来そうになかった。

  あの子の安否を、この目で確かめるまでは。止まれない。

  「なるほど⋯⋯つまり君は、その児童養護施設が裏で児童の人身売買を行っており、新島陽翔少年、尾沢陸少年含めた複数名がその被害に遭ったと、そう確信している訳だね」

  「確信、と言う訳には⋯⋯」

  「隠す必要はない。君ほどの警察官が確信もなしにここまで動くとは考えられない。少なくとも君の勘は、間違いないと言っているのだろう?」

  「⋯⋯はい」

  教官からの信頼に、胸が熱くなる。

  やはりこの人を頼って良かった。心からそう思う反面、それ以上に申し訳なくなる。これからこの人を巻き込むのは、それほどに厄介な事案なのだから。

  「しかし、やはり職務として捜査員を動かすには客観的な根拠が足りないな。それで、人目を忍んでこの老骨を頼ってきたという訳か」

  「⋯⋯いえ、それだけであれば、わざわざお呼び立てしてお力添えを頂こうとまでは、考えませんでした」

  事件の端緒を掴むだけなら、こうして恩師の手を煩わせる必要などない。自分一人で駆けずり回れば、きっと事足りただろう。

  だが、話はそれだけに及ばなかった。

  「その児童養護施設についての資料です」

  持ってきたのは、件の養護施設のパンフレットだ。裏側にはその運営母体である社会福祉法人と、その代表理事について掲載されている。

  「名称は『種の舎』。社会福祉法人『天地会』が運営する施設です。そしてその天地会の代表理事は⋯⋯」

  「────草間五郎氏⋯⋯警察庁OBか」

  俺の言葉を引き継いだ教官に、無言で顎を引いて答える。

  そう。これこそが、警察官として表立って動くことが出来ない、主たる理由だ。

  警察組織は明確な縦社会であり、組織内、身内同士の結束は非常に固い。そしてそれは、退官後のOBであったとしても、変わることはない。

  草間氏は過去に警備局長を務められていた経歴もあり、未だ組織内部で彼を慕う者は多いと聞く。そんな人物が理事として運営する施設を、確たる証拠もなく嗅ぎ回ることなど、おいそれと出来ようハズもない。

  「なるほどな⋯⋯どうりで、君があそこまで思い詰めた声で電話してきた訳だ」

  「すいません⋯⋯こんな話、教官以外に頼れる相手が思い当たらず」

  「それは大いに光栄な話だね」

  隣から、ガリガリと短い頭の毛を乱雑に掻き乱す音が聞こえてくる。

  俺の話はここまでだ。

  気づけば、コーヒーで洗い流したハズの口の中は、酷くベタベタに乾き切っていた。張りつめるような緊張が、重く胸を押しつぶす。

  ここまで話をしておいて、俺は急に怖じ気づいてきた自分に気づいた。先の言葉に偽りなく、他に頼れる人がいなかったのは事実だ。とは言え、俺は恩人に対して、何と大それたお願いをしているのだろうか。

  後悔している訳ではないが、申し訳なさと居たたまれなさにのしかかられ、自然と首が落ち込む。教官の顔が見れない。

  短い沈黙が、ちくちくと鼓膜に突き刺さるようだった。

  「⋯⋯まったく、そうまで頼られてしまっては、尻尾を巻いて引き下がる訳にもいくまい。退官までのんびり勤め上げるという、私のささやかな希望がパァじゃないか」

  苦笑いから、溜め息一つ。

  それから、ウィンクも一つ。

  断られる可能性だって、想像していた。手持ちの情報はあまりにも心許なく、しかもその不確かな手掛かりだけを頼りに、身内の懐を探るような真似をしなくてはならなくなるのだ。

  退官まで後二年。ここに来て、立場を悪くさせる恐れだって充分ある。

  だがそれでも。教官は頷いてくれた。

  俺の、ただの勘を、信じてくれた。

  それだけで、俺は顔を上げられた。この先何処までも、自分の信念を貫き通せる気がして、目の奥が熱くなる。

  「⋯⋯ありがとうございます」

  「なに、他でもない君たっての頼みだ。構わないよ。それに、この件が事実だとすれば、一警察官として放っておく訳にはいかん」

  仰る通りだ。もしも事実として、児童福祉を隠れ蓑に人身売買などという卑劣な犯罪がまかり通っているのだとすれば、しかもそれに警察官OBが関与しているのだとしたら、決して許す訳にはいかない。

  「さし当たっては、草間氏の同期に当たる人物に心当たりがある。まずはその方に渡りをつけてみるとして⋯⋯その前に、幾つか確認しておきたいことがあるのだが、良いかね?」

  「はい、もちろんです」

  とは言え、こちらから提供出来る情報はそう多くはない。だが今後の方針を決めていくためにも、情報交換と認識のすり合わせは密にしておかなくてはならない。

  拳を唇に当て、教官はしばし思案すると早速口を開いた。

  「まず、君の同期の武田君。陽翔少年を補導した際同行していたそうだが、彼はこの件についてどのぐらい知っているのかね?」

  「いえ、あいつは何も。聴取の際も、陽翔が嫌がったので退出させていますし、以降もこの件について話したことはありません」

  「それがいい。その際の調書は取ってあるね?」

  「はい。署の簿冊に保管してあります」

  「うむ。それから先の話にあった絵はがきだが、原本は何処に?」

  「陽翔が持っていたハズです。その後の所在までは不明ですが⋯⋯」

  「そうか。画像のやり取り含めて、陽翔少年とは君のスマホのみで連絡していたのかね?」

  「ええ」

  「他にバックアップは?」

  「自宅のPCに」

  「わかった。では最後に⋯⋯今日ここで私と会うことを、誰かに話したかい?」

  「⋯⋯いえ、課長にも自宅で休養する予定としか報告していないのれ、ぁえ⋯⋯も⋯⋯?」

  ⋯⋯?

  なんだ、おかしい⋯⋯

  急に、どうしたんだ?

  呂律、が⋯⋯

  「そうか、そうか。それを聞けて安心したよ」

  いや、呂律だけじゃない。目も霞んで⋯⋯焦点が合いづらい。すぐ隣にいるハズの教官が、今どんな表情をしているのか、まるで窺えない。

  「いや、流石は三上君だ。少々肝を冷やしたよ。心苦しくはあったが、早めに手を打ったのは正解だった」

  「ぁ、にを⋯⋯?」

  身体に、力が入らない。

  おかしい。何が起きてる?

  さっきから、教官は、何を言って⋯⋯?

  「少量過ぎて不安だったが、缶の口に塗っただけの量でも充分効果があるようだね。“会社”お墨付きの麻酔薬だけはある」

  麻酔薬?

  困惑する俺を余所に、教官は身を乗り出して運転席のドリンクホルダーへと手を伸ばす。そこにあるのは、先程教官から頂いた、缶コーヒーだ。それをサッと手に取り、自分の鞄から取り出した密閉容器に手早くしまい込んだ。

  「悪く思わないでくれ、と言っても無理な話か。恨むんなら君に助けを求めてきた哀れな子犬と、それを見捨てることが出来なかった自分の正義感を恨みたまえ」

  思考が追いつかない。

  思考がまとまらない。

  何が起きている?

  何が、どうなってる?

  ⋯⋯今、隣に座っているのは、本当に日野教官なのか⋯⋯?

  声も、話し方も、俺の良く知る教官のそれだ。しかし、語っている言葉の中身が、決定的に俺の知る教官と一致しない。

  この人は、この男は⋯⋯いったい、誰なんだ?

  「ああ、勘違いをしないでくれよ? 私としても苦渋の決断だったんだ。君は私が受け持った警察官の中でも、取り分け優秀だったからね。この先何事もなければ、ゆくゆくは本庁勤務になるだろうと確信してさえいた。だが、こうなってしまったからには致し方ない。君の活躍が聞こえなくなるのは、私も寂しいよ」

  淡々と、一方的に話し続ける男。

  淀みなく口を動かしながら、その手は俺の首元へと伸び、ネクタイを緩めてワイシャツの襟を寛げていく。

  何をするつもりなのか。問いたくとも、もうマトモに舌も動いてくれなかった。抵抗らしい抵抗も出来ず、ただされるがまま、その手を見守っていることしか許されない。

  「損な役回りだよまったく。いやしかしだね。こんなことを言っては君に幻滅されてしまうかも知れないが、長年こうした汚れ仕事を請け負っていると、役得だなと思う場面も多々あってね」

  そうして、理解の及ばない独り言を続ける男の手が、開けはだけられた俺の胸元へスルリと忍び込んできた。

  「こんな風に、前々から旨そうだと思っていた男を束の間好きに出来るのだから、そう悪いことばかりでもない」

  右胸に、ぎゅっと五指が食い込む感触がする。

  「んん、いい感触だ。ただの脂肪ではこうはいかない。いや実に堪らんね。脂の乗った男の身体というものは⋯⋯」

  興奮の乗った熱い吐息が、顔にかかる。

  興奮、しているというのか。男の、俺に。

  グニグニと俺の胸を掴む指は、まるで女性の乳房をそうするような手つきで、無遠慮に全体をまさぐってくる。別段それに特異な感覚がある訳ではないが、それが性的な意味合いを持った接触であると認識した途端、例えようのない不快感で背筋が震えた。

  やめろ、と声を上げようとしても、喉が引きつったような掠れた音が漏れるだけで、まるで意味を成さない。

  「おや、もしや胸で感じるクチかね?」

  あまりに勝手な物言いに、屈辱感が募る。

  これまで、痴漢被害者の聴取に立ち会った経験は幾度もあったが、俺は本当に、彼女らの気持ちに寄り添った対応が出来ていただろうか。彼女らが抱いた恐怖を、嫌悪を、恥辱を、どれだけ慮ることが出来ていただろう。自分が被害に遭って初めてそこに思い至る己の不明に、強い憤りを覚える。

  そしてより一層、加害者に対する怒りが込み上げてきた。

  「⋯⋯表情筋も弛緩するハズなんだが、まだそんな目が出来るとは、驚きだ」

  身体にも顔にも力は入らない。だから目に、有らん限りの熱を込める。

  ────刑事は目で語れ。

  警察学校時代、刑事課志望だった俺にそう教えてくれた人がいた。刑事は被疑者や被害者と直接相対する職務上、表情を読まれてはならない場面が多々存在する。感情は顔に出すな。代わりに目で殴れ。

  そう教えてくれた人物の顔が、ぼやけて霞む。

  「怖い怖い⋯⋯もう少し堪能していたいところだったが、時間もないことだし、致し方ない」

  そう言って男は俺の胸元から手を引くと、鞄の中から何やらペンケースサイズの箱を取り出し、それを慎重な手つきで開いてみせた。

  「名残惜しくはあるがね、そろそろお別れだ」

  中身は、細い注射器とガラスのアンプル。それらを慣れた様子で取り出し、手際良くアンプルから薬剤を吸い上げる。

  アンプルに貼られたラベルは読めなかったが、正体が何であれ、どうせ俺にとって都合が悪い物には変わりない。

  悪意を滲ませ、これ見よがしに針先へ玉を作る男の手。今の俺に、滴り落ちるその透明な悪意から逃れるだけの力はない。だがそれでも、俺は必死に動かない身体を叱咤し、右腕に命令を送る。

  目指す先は、クラクション。この状況下で、外部へ非常事態を伝えられる可能性があるとしたら、これしかない。

  人気のない郊外。人目のない施設。可能性が限りなく乏しいのはわかっている。

  だとしても、諦める訳にはいかなかった。俺自身の為だけじゃない。ここで俺が消えれば、陽翔や陸の行方を追える者が、誰一人としていなくなる。彼らを無事に、その未来まで含めた全てを取り戻す為にも、俺は諦める訳にはいかなかった。

  身体に残る力を全て注ぎ込み、全神経を右腕に集中する。そうして気力を総動員して息を吹き込んでいると、微かにだが、腕が膝の上から持ち上がったのを感じた。

  「おっと、なんだね? 手を握っていて欲しいのかい?」

  だが、それも束の間。上がりかけたその手を、上から男の手が阻む。空いていた左手で俺の右手と指を絡ませ、しっかりと動きを封じてくる。

  「怖がらなくていい。痛いのは一瞬だ」

  握り込まれた指から、劣情と悪意が染み渡る。もう、そこから抜け出せるような力は残されていない。

  そのまま、無情にも注射器の先端が俺の首筋へと迫る。

  「生まれ変わったら、もっと賢く生きられるようになりたまえ」

  そんな囁きを耳元で聞かされながら、ちくり、と毛皮を越えて地膚に突き刺さった感触に、短く呻きが漏れる。

  同時に、視界がぐるりと裏返った。目玉がひっくり返って、瞼の裏側へ転がってしまったかのような感覚。

  突然真っ暗に反転した視界の中、自分が意識を失ったのだとはついぞ気づかないまま、俺はあっという間に深く暗い水底へと沈んでいった。

  [newpage]

  ざらざらと、耳元で砂が洗われるような音がする。心地よさと不快さが斑に混ざり合った、奇妙な感覚。どちらともつかない曖昧な汽水域を、ゆらゆらと漂い、浮かんでは沈み、温度のない波間をあてどなく揺蕩う。

  夢を、見ていた。

  誰かに呼ばれている。そんな気がする。それだけの夢。

  ────三上。

  ────主任。

  ────刑事さん。

  ────圭吾。

  ────三上君。

  記憶の中にある色々な声が、口々に耳の中で反響する。うるさくこだまする。

  ⋯⋯煩わしい。静かにしてくれ。頼むから。

  眠い。このまま、眠っていたい。眠り続けたい。

  なんだか、酷く疲れていた。頭も身体も、ずしりと重い。とても、起き上がれそうにない。

  起こさないでくれ。やめてくれ。目を覚ましたくなんて、ない。

  だって、いいじゃないか。

  このまま、目を開けずにいたって。何も悪いことなんてない。目を開けたって、きっといいことなんてない。

  もう、何を信じたらいいかだって、わからないんだから。

  ────ケイちゃん。

  ────おまわりさん。

  ────税金泥棒。

  ────三上。

  ────⋯⋯おじさん。

  どくん、と心臓を掴まれたような感覚がした。

  その声だけは、最後の声だけは、何故だかハッキリとわかった。いつ、誰に呼ばれた記憶だったか、鮮明に思い出せる。

  何度も、何度となく思い返した記憶だったから。瞼の裏に、耳の奥へ、克明に焼き付いて離れなかった記憶だったから。

  その背中を、振り向いたその顔を、掠れるようなその声を、深い後悔と共に強く脳裏に刻み込んできた。

  あの日、陽翔と初めて出逢ったその日、養護施設の職員に連れられて行くその姿。その瞬間の記憶。手を伸ばし損ねた、二の足を踏んだ情けない記憶。

  そんな苦い痛みも後悔も、全て腹の中に飲み込んででも、俺は手を伸ばし続けると決めたのではなかったのか。彼らの無事を確かめるまで、決して立ち止まらないと決意したのではなかったのか。

  寝ぼけていた神経に熱が走る。指先に力が入る。

  起きろ。眠っている場合じゃない。

  俺には、まだやらなければならないことがある。しっかりしろ三上圭吾。

  お前は、警察官だろう⋯⋯!

  乾ききった眼球から必死に瞼を引き剥がし、俺は何とかして目を開いた。

  ギシギシと、油の切れた蝶番のように目頭が軋む。

  そうして辛うじてこじ開けた視界は、しかし変わらず暗闇のままだ。

  何も見えない。

  いや、微かにだが⋯⋯隙間から明かり漏れて見える。

  ⋯⋯隙間?

  目を凝らして、よく見る。

  するとそこには、確かに、縦に長く、真っ直ぐに伸びた隙間が見えた。一ミリ程度もない、ほんの僅かな隙間。それが目の前にある。

  違う。そうじゃない。目の前を塞ぐ壁に、隙間が開いているんだ。

  壁? いやそもそも壁でいいのか?

  自分から見て、すぐ正面を塞ぐ形で対面していることから、無意識にそれを壁だと認識していたが、徐々に目覚め始めた感覚が疑問を呈する。

  重力の方向。背中触れる感触。

  そこでようやく、自分が仰向けに横たわっていることに気づくと同時に、目の前のそれは壁ではなく、蓋と表現する方が正しいのだと認識を改めた。

  蓋、即ち容器等を上から閉じる役割をする物。

  正面から、周囲へと視線を巡らせる。

  隙間から漏れる光だけではハッキリと視認出来なかったが、自分の四方をぐるりと壁が取り囲んでいるのがわかる。

  これは、箱だ。

  縦二メートル弱。幅一メートル。高さ五十センチ程の直方体。匂いと背中に当たる感触からして、材質は木製だろうか。

  俺は、その中にいる。

  狭く、窮屈で息苦しい、箱の中。

  これはいったい、どういうことなのか。

  どうして、俺はこんな所に⋯⋯?

  目は覚めたが、まだ意識が覚醒しきっていないらしい。頭の中に砂が詰まっているかのように、思考が重い。鈍い。それに、頭痛も酷い。顎の付け根がジンジンする。

  そもそも、俺は眠っていたのか?

  いつ? 何処で?

  普段通り自宅の部屋で床に着いた、という覚えはない。なら、覚えている限りで最後の記憶は⋯⋯ダメだ、思い返そうとしても覚束ない。

  ああ、クソ。クラクラする⋯⋯

  不可解な状況への困惑も手伝ってか、頭蓋の中身が寝返りを打つような激しい目眩に襲われた。

  咄嗟に、揺れる頭を支えようと手を伸ばしたところで、両手首に纏わりつく違和感に気づく。

  右手を持ち上げようとしたハズが、それにつられて左手も一緒についてきたのだ。ひとりでに、という訳ではない。手首をぐるりと一周する馴染みのない感触。それに引っ張られるようにして、右手と左手が同時に動いた。

  なんだ、コレは?

  視界が殆どない中、加えて大幅に鈍った思考でその正体を判別するのは、困難を極めた。

  感触からして、手首に巻きついているのはゴム⋯⋯いや、匂いからして革か?

  それがどうやら、金属の金具のような物で連結されているらしい。片方の手を動かそうとして、両手共持ち上がったのはそのためだ。

  気づく。

  触れている感触そのものに、確かに馴染みはなかった。しかし俺は、何より『ソレ』をよく知っているハズだった。材質こそ違えど、名称と用途は変わらない。

  ────手錠。

  スッ、と息を飲んだ。ヒヤリとした空気が肺へ滑り込み、頭にかかっていた靄を吹き晴らしていく。

  両手を、拘束されている。

  狭い木箱の中に閉じ込められている。

  意識を失っていた間に。

  一つのピースが嵌まったのをキッカケに全体像が浮かび上がるように、掴み損ねていた現状が見る間に鮮明になっていく。

  朧気だった身体の感覚も蘇り始めた。

  情報が一気に神経を駆けずり回り、脳に痺れるような負荷がかかる。

  いい加減、寝ぼけている場合じゃない。

  ここは何処だ? 何が起きてる?

  窮屈な中で身を捩ろうとすると、身体の周りでザラザラと軽い感触が毛皮を撫でるのを感じた。気づくのがだいぶ遅れたが、何か小石大の、細かくて軽い物が周りを埋め尽くしているようだ。

  コレは⋯⋯発砲スチロールか? よくある梱包資材の。

  その感触を、全身の毛皮に感じる。腕や脚だけに及ばず、腹や尻、股間にさえも。

  つまり、これはあまり気づきたくなかったことではあるが、俺は今何も服を着ていないということらしい。

  くそ、ますます状況がわからん。

  とにかく、まずはこの狭い木箱の中から脱出することが先決だろう。外がどうなってるかわからない以上不安はあるが、閉じ込められたままの現状より悪くなることはないだろう。

  両手を木の蓋に押し当て、強く力を込める。

  が、ダメだ。上手く力が入らない。両手を叩きつけてみても、狭過ぎて大した勢いがつかない。

  なら、足で蹴り上げるのはどうか。

  窮屈ながらどうにか膝を曲げ、足を振り上げるスペースを作ろうとした所で、足首にも手首と同じ感触があることに気づいた。どうやら、両手と同じく両足も拘束されているらしい。

  これでは、碌に足を持ち上げることすら難しい。

  だったら、次はどうする?

  あと他に出来ることと言えば、声を上げて外へ呼びかけるぐらいか。

  声量には、それなりに自信があった。外の状況は相変わらず不明だが、運が良ければ誰かの耳に届くかも知れない。それがどんな相手であれ、何がしかのリアクションが得られるのを期待するしかない。

  鼻から深く息を吸い込み、腹の奥へ空気を溜める。そして、グッと力を込めて喉を開いた。

  「が、ァぐッ⋯⋯うゥウッ⋯⋯!」

  だが、そうして俺の口から出て来たのは、SOSというにはあまりにも不細工な唸り声。碌に言葉にすらなっていない上、大して響きもしてくれない。

  口に、何かがつっかえているような感覚があった。何とも知れないが、それが発声を妨げているのは間違いない。思えば、意識が戻ってからずっと、顎の付け根に鈍い痛みを感じていた。

  慎重にその感覚を噛み締めてみれば、口の中に確かな異物の存在を認める。より正確には、何か棒状の物を噛まされているようだ。舌で触れてみると、硬い質感と苦いゴムのような味を感じる。

  手錠、足枷と続いて、ご丁寧に猿轡まで。

  鈍った頭でも、ここまで揃えば流石に現状の見当もつく。

  どうやら俺は、何者かによって拉致監禁されているらしい。何処の誰とも知れないが、現役警察官を相手にいい度胸だ。現役警察官として、甚だ情けない限りではあるが。

  しかしもしも、俺を警察官と知った上での犯行だとするなら、営利目的ではなく怨恨の類によるものだと考えるべきだろうか。服を全て脱がされていることからも、屈辱を与えようという意図のようなものが予想出来る。

  俺個人に対する恨みか、それとも警察組織全体への敵愾心かまでは想像の域を出ないが、こんな見てくれも悪い大男を拉致する目的など、逆恨みの報復が関の山だろう。

  となれば、このまま自力での脱出を試みるべきか、或いは救助を期待して体力を温存すべきかは悩みどころだ。

  通常であれば、というのもおかしな話だが、余計な抵抗はせず救助を待つのが選択肢としては正しい。誘拐犯はそのパーソナリティとして、目的にかかわらず他者を自分の管理下に置きたがる傾向が強い。下手に反抗や不従順な態度を見せると、犯人を逆上させる可能性が否応なく高まる。

  とは言え、今回は犯人の目的が俺に直接危害を加えることであるという恐れもある。なら、このまま大人しくしていたところで、待っているのは良くて拷問、悪くて殺害。

  悠長に構えていられる場合でもない。

  それに、個人としてのプライドの問題もある。ここまで無様を晒しておいて、これ以上黙っていいようにされているなど、とてもじゃないが我慢ならない。

  警察官はメンツ商売だ。

  どのような状況下であったとしても、舐められることだけは絶対にあってはならない。侮られるということは、即ち市民からの信頼の失墜であり、執行力の著しい低下に直結する。

  『だから、ウチの会社には毎年君みたいな顔採用枠が必要不可欠という訳さ』なんて、昔よく教官からからかわれ────

  ぎしり、と心臓から硝子が軋むような音がした。

  何か、開けてはいけない抽斗へ指先が掛かった、そんな実感が湧く。

  思い出したのは、顔。よく見知った、ブルドッグの笑顔だ。

  しかしたった今目に浮かんだのは、俺の全く知らない顔で笑う、同じ人間の顔。あの人のそんな表情を、俺は、いったい⋯⋯いつ目の当たりにしたのだろう。

  知らない。知らない。覚えていない。

  無意識が拒絶する。上から抑えつけて押し止めようとする記憶の蓋を、しかし内側から溢れ出す奔流が無情にこじ開ける。

  車の消臭剤の匂い。品のないビニールカーテンのピンク色。舌に絡みつくクドい甘味。右胸に食い込む指の感触。

  次々と蘇る記憶の濁流に、強い吐き気が込み上げてくる。ドクドクと、重苦しい鼓動が胸を叩いていた。

  ────生まれ変わったら、もっと賢く生きられるようになりたまえ。

  ⋯⋯思い出した。

  何もかも。

  意識を失う直前、俺が何をしていたのか。何処にいて、誰と会っていたのか。そして、何をされたのか。

  理解した。同時に失望した。

  知りたくなかった。信じたくなかった。全て嘘であれば、夢であれば、どれだけよかっただろう。

  しかし、この目で見た光景は、聞いた言葉は、起きた事実は、一つとして覆らない。何より今のこの状況が、全てを物語っている。

  裏切られた。

  俺が、今まで信じて慕ってきた人物は、その全てが嘘偽りだった。これまで目指すべき指標として定め、追いかけ続けてきたハズの背中は、見せかけの蜃気楼でしかなかった。

  虚しさが冷たく臓腑を刺す。鳩尾に空いた穴から、肺に含んだ空気が音もなく抜け出ていくようだった。

  だが嘆きより、悲しみより、今俺の胸を掻き毟るのは、底冷えがするほど熱く、燃え滾るような怒りだった。

  日野惣一郎。

  あの男は言った。『長年こうした汚れ仕事を請け負っている』と。

  つまり、だ。あの人は、奴は、これまでもずっと、ああして笑いながら、何人もの人間の口を闇で封じ、その人生を踏みにじってきたということに他ならない。

  警察官でありながら。それも、警察官という立場を利用して。

  許せない。許し難い。絶対に、許してはおけない。野放しにしてはならない。

  必ず、必ず報いを受けさせてやる。何としても。どんな手を使ってでも。俺が、この手で。

  憎悪にも近い激情に猿轡を噛みしめながら、俺は握り締めた拳を力の限り暗闇へ叩きつけた。

  ────ばき、と音が響いたのは、その直後だった。

  木の板が割れるような音。しかし、割ったのは俺の拳じゃない。

  割れ目から、強い光が差し込んでくる。その割れ目へ棒状の物体が深く割り込み、更に音をたてながら隙間をこじ開けていく。

  それがバールのような物だと見当がついたのは、蓋がすっかり剥がされ、眩い照明が容赦なく降り注いできた後になってのことだった。

  「グッ⋯⋯!」

  明順応で瞳孔が軋む。

  眼球そのものを握り締められるような、鋭い痛み。

  堪らず呻き、両手で顔を庇っていると、頭上から釣り鐘を鳴らすような野太い重低音が降ってきた。

  「なんだ、随分寝相の悪い奴かと思ったら、もう起きてやがったのか」

  白く飛んだ視界の中に、のそりと黒い影が割り込む。遠近感が狂いそうになる程、巨大な影。

  いや、あながち錯覚でもない。

  声が降ってきた高さからして、こちらを見下ろしているのは、俺から見ても相当な巨躯の持ち主らしい。影の輪郭は、岩肌が剥き出しになった山の稜線を思わせる。

  両腕も、もはや岩塊そのものだ。その手が、握っていたバールを適当にその辺りへ放り捨てると、俺の二の腕をガシリと掴んだ。

  そのまま、グンと身体が浮き上がる。

  「ッ!?」

  おいおい嘘だろ。

  こっちは体重百十キロあるんだぞ。身長だって百八十はある。だと言うのに、ソイツは木箱の中で寝転んでいた俺を易々と引っ張り起こしたばかりか、腰回りへ腕を回し、いともあっさり、それも小脇に抱えるようにして担ぎ上げてしまった。

  まさか、自分の身体がそんな風にして持ち上げられるなんて、夢にも思わなかった。地面から足が完全に浮いている。にもかかわらず、まるで不安定さを感じない。

  「よぉ先生、コイツもう起きちまってるみてぇだがどうするよ」

  腹の底へ響くような声に、ハッと我に返る。

  惚けている場合じゃない。

  言動からして、コイツが俺を拉致した側の人間であることは疑いようもない。

  依然手足は拘束されたまま。上手く腕をかいくぐれたとしても、そのまま逃げおおせられる見通しは薄い。しかしだからと言って、何もせずされるがままなど、まっぴらだ。

  「ングッ、ゥウウッ!」

  離せ。不自由な口で精一杯喚きながら、力の限り手足を振り回す。

  「おっと、活きがいいなこりゃ」

  だが、やはりと言うべきか、俺を抱える腕はビクともしない。釣った魚が暴れる程度の抵抗としか思われていないことが、声色からも窺える。

  ならばこそ、次の一撃の有効性が高まる。

  「────フッ!!」

  闇雲に暴れる動きに紛れ、振り上げた肘を全力で突き刺す。狙うのは肋骨の後ろ付け根。裏電光とも呼ばれる、人体急所の一つだ。表側からは腹筋と肋骨に守られている肝臓を、背中側からダイレクトに叩く。

  どんな大男でも、マトモに入れば悶絶は免れない。不安定な姿勢からの一撃ではあったが、手応えは充分にあった。

  ⋯⋯あった、のだが。しかしそれは、およそ人体を殴った手応えではなかった。

  身近で想像しやすい例を挙げるなら、ブロック塀か電柱だ。打ち据えたこっちの肘の方がイカレてしまいそうな程、強固な感触。

  「⋯⋯イイね。こりゃ躾甲斐のありそうなじゃじゃ馬だ」

  声からしても、何ら痛痒を感じていないのがわかる。

  視線を感じて見上げると、振り向きざまにこちらを見下ろす男と目が合った。

  男は、鼻の上から鋭い角を生やしたシロサイのようだ。体表をまるでコンクリートのような分厚い皮膚が覆っており、こちらの打撃がまるで通用しなかったのも頷ける。

  だが何より、俺を身震いさせたのはその目だ。

  自慢じゃないが、俺はこれまで色んな人間を見てきた。逮捕した被疑者だけじゃない、被害者からその関係者、数え切れない程の人間と対面してその顔を、目を見てきた。

  しかしその男の目は、今までの人生で目の当たりにしてきたどんな人間の目とも違って見えた。

  俺を見る、相手の目。

  男は俺を見ているが、俺を一人の人間として見ていない。人を人とも思わない極悪人と対峙した経験だって、それなりにある。だが違う。コイツの目は、そういった犯罪者達とは、根本的に違って見えた。

  笑っているように細められてはいるが、無機質、無感情。さっきそんなつもりもなく『釣った魚』と表現したのが、もしかしたら的を射ていたかも知れない。

  一人の人格を持った人間ではなく、釣果や収穫物、経済動物でも見るようなその目に、俺は心底おぞましさを覚えた。

  「おーい、先生ったらよぉ」

  「デカい声出さんでも聞こえとるわ。サッサといつものとこに吊せ」

  「へいへい」

  意識の外から聞こえてきたもう一人の声に、ハッとする。

  声の主を探そうと身を捩るよりも早く、シロサイの腕がヒョイと俺の身体を持ち上げた。

  「ジッとしてろよ」

  「んッグ⋯⋯!」

  両腕を掴まれ、頭上へ持って行かれる。まるで大人と子供だ。抵抗が碌に意味を成さない。

  されるがまま、俺の両腕は天井から吊り下がっていたフックへと捕らえられた。

  「おし、そのまま動くな~」

  言いながら、男の手がテキパキと動く。足元にあった金属製の台の上へ俺を降ろすと、両足の枷をそれぞれ肩幅よりやや開いた程度の位置へ固定された。

  「ウゥッ⋯⋯ぐっ」

  ガチガチと、金具の音が耳障りに擦れる。力ずくではどうにもなりそうにない。

  脚も閉じれず、両手は頭上。裸の身体を隠すことも出来ない、実に屈辱的な格好だ。恥辱と苛立ちに耳が焼ける。

  「こっちは準備出来たぜ先生」

  そんなこちらを視野にも入れないシロサイを改めて睨むと、冗談のようなその体格に少なからず圧倒された。

  身長は二メートルなどゆうに超えている。幅や厚みも、成人男性が二人並んですっぽり影に隠れられそうだ。さっきまで俺を抱えていた腕など、太さや質感も相俟ってそれこそ電柱のそれだ。

  そんな規格外の巨漢が、上下レザーのベストにチャップス、ロングブーツに、ビキニパンツといういかにもな異装に身を包んでそうして佇んでいると、古い洋モノ裏ビデオに出てくる男優そのものにしか見えない。

  悪い冗談にも程がある。

  警戒しながら周囲を見回すと、どうやらそこは十メートル四方程の広さのある空間のようだった。壁は白く、汚れた印象はないが無機質で殺風景。出入口は俺から見て左側に両開きの扉が一つと、逆側にやたら重そうな鈍色の鉄扉が一つ。窓はない。

  室内にあるのは俺が乗っている四角い台と天井から吊されたフックの他、壁際にスチールデスクと書類棚が一つずつと、キャスター付きのキャビネットが一つ。それからさっきまで俺が押し込まれていた木箱が横たわっているだけ。

  当然ながら見覚えはないし、ここが何処か窺えるような情報も碌にない。

  こっちは手足を拘束された上に全裸。おまけに目の前には機動隊五人がかりでも制圧出来るか疑いたくなる巨漢が構えている。

  現状、俺にこの状況を打開出来るような手立てはない。業腹だが、今は様子を窺うより他はないだろう。機を待つしかない。

  拘束が解かれる瞬間。シロサイがいなくなるタイミング。いずれ脱出出来るチャンスが必ず来ると信じて、今は堪えるんだ。

  苦い轡の味を噛み締めながら、そう繰り返し己に言い聞かせて機会を窺っていると、カツンと軽い音が床を打った。

  「まったく、ここのところ随分と入荷が立て込むじゃないか。毎度立ち会わされるコッチの身にもなって欲しいものだ」

  「そう言うなって先生。と言うか割と愉しんでる癖に」

  「バレとったか」

  言いながらシロサイの影から現れたのは、背の低い中年のチワワだった。白衣に銀縁眼鏡という出で立ちだが、骨張った痩躯にギョロリとした黒目、ボサボサの毛皮は医師というより正しくマッドサイエンティストという風体だ。

  男優ルックのシロサイと親しげに会話していることからも、マトモな人間でないのは明らかである。

  こちらの警戒も余所に、チワワは革靴の底を軽快に鳴らし、手元のバインダーへ何事かを書き付けながら足早にこちらへ近づいてきた。

  「さて、と。では早速“検品”に取りかかるぞ」

  続けて口にした言葉に、思わず耳を疑った。

  ⋯⋯“検品”だと?

  チワワの目は、間違いなく俺を見据えている。それは、隣にいるシロサイと同じ目だ。目の前の相手を、俺を、人間と見做していない、異常者の目。

  「しかし、随分歳がいっているな。⋯⋯三十六だって? まぁ体格はいいし丈夫そうじゃあるが⋯⋯需要はあるのか?」

  「余計なこと嗅ぎ回ってたから、邪魔になる前に摘まれたんだとさ。ま、素材がどうあれ、売れるように仕上げんのが俺らの仕事ってね」

  予感として感じていたものが、今確信へと変わった。

  コイツらは、人身売買組織だ。

  陽翔の懸念は、どうやら最悪の形で的中していたらしい。

  衝撃的な事実に愕然すると同時に、胸の奥が俄に熱を帯びた。

  沸々と、臓腑の底で血が煮立っていく。

  陽翔と陸の失踪を追った末、日野に裏切られて陥れられた俺が、今こうして捕らえられている。

  ならば、陽翔と陸は⋯⋯

  俺が、手をこまねいていた内に、二人は⋯⋯

  行き着いた最悪な結論に、耐え難い程の怒りが全身を駆け巡った。毛皮という毛皮が一斉に逆巻き、血流が荒れ狂う。吐き出した息が、燃えるように熱かった。

  手足を振り乱し、衝動に焼かれるに任せて身を躍らせる。

  「グッ⋯⋯ゥウぉォッ!!!」

  だが、しかし。

  「グゥウッ⋯⋯!!」

  枷は、外れてくれない。

  どれだけ筋肉へ血を送っても。いくら前に向かって全身を投げ出そうとも。手足を縛る拘束はビクともしない。

  鎖が、気の触れたコマドリのような甲高い鳴き声を上げるだけ。あたかも、頭上から俺を嘲笑うかのように、ひたすら耳障りに。

  「⋯⋯なんだなんだ、驚いた。急にどうしたのかねコイツは」

  「自分の行く末でも悟ったんでしょうや。そういや元警察官だかって話もあるし、そりゃ俺らみたいなのは気に食わねぇわな」

  “元”じゃねぇ、俺は現役の警察官だッ!

  ちくしょうっ、ふざけやがってこの野郎⋯⋯ッ!

  今すぐぶっ飛ばして、全員引きずって留置場ぶち込んでやる!!

  喚き散らした言葉は口の中でシリコンに噛み潰され、飛沫になって床へ飛び散る。

  くそッ⋯⋯くそくそくそくそッ!

  目頭に、熱が滲んだ。悔しさで、奥歯が折れそうだ。

  俺は⋯⋯っ、俺は警察官なんだよッ⋯⋯市民を守らなくちゃ⋯⋯こんな悪党共から子供を守るために、俺は⋯⋯ッ!

  「やれやれ、こうも暴れられちゃ検品にならねぇし⋯⋯仕方ねぇ」

  ゴツリ、と重い足音が近づいてくる。

  そうだ、いいぞ。もっと近づいてこい。手が届かなくたって、頭突きでも何でもぶちかましてやる。余裕ぶったその面、鼻血で真っ赤に────

  「ちょっと頭冷やせや」

  空気が爆ぜる音がした。

  「ぎッ⋯⋯?!」

  瞬間、右の太腿に焼けるような痛みが弾ける。

  なん、だ⋯⋯

  今、何が起きた。

  これまでに、体感したことのない類の痛みだった。毛皮の表面で爆竹が破裂するような、それでいて皮下の神経に突き刺さるような、鋭い激痛。

  それが続けざま、脇腹、内腿、下腹部へと襲う。

  「がッァ⋯⋯グゥッ!」

  「あんまし聞き分け悪くすんなよ。検品前から傷入れたくねぇんだ」

  痛みにうなだれていた顔を、ぺしぺしと硬い感触が叩く。警棒にもよく似た、黒い棒が視界に入る。先端に二つある金属質の突起が電極だとするなら、察するにバトンタイプのスタンガンか。

  「因みに今のが最弱レベルでな。ちょっとしたお仕置き用ってとこだ。レベルは五段階あってよ。調教用までなら三、それ以上は制圧用の電圧になる訳なんだが⋯⋯」

  不意に、男の目に冷たい光が走った。

  「もしお前がこのままおとなしく出来ねぇなら、不本意ながら俺はお前を静かにさせなくちゃならなくなる」

  「⋯⋯ッ!」

  股間に、冷たい感触が触れる。

  思わず、ヒュッと喉が鳴った。

  「なぁ、俺はどうしたらいいと思う? お前を聞き分けよくさせるために、俺は何をしたらいい?」

  グリグリと、垂れ下がった幹に硬い突起物が押し付けられる。どんなに腰を引いても、それ以上ソコを脅威から逃がすことが出来ない。

  もし、男の指が少しでも滑れば、つい今し方受けた痛み、或いはそれを超える衝撃が急所を襲うかも知れないという想像が、沸き立っていた全身の血管を急速に凍りつかせていく。

  「さ、もういいぜ先生」

  呆気なく股間から退いた重圧に、いつの間にか固まっていた肺が酸素を求めて喘ぎ始めた。毛皮が脂汗で湿る。

  暴力を前に脅迫に屈したのは、生まれて初めてのことだ。抗うことの出来ない横暴に服従を強いられる屈辱。身体を拘束されてのこととは言え、それは俺の自尊心を削るには充分な状況だった。

  更に、それから始まったことは、ただでさえ傷つけられた俺の尊厳を、徹底的に貶めて踏み躙るような所業と言って差し支えなかった。

  “検品”と男達が口にした通り、奴らは俺の身体を隅々まで検め始めたのだ。

  身体測定などとは訳が違う。身長体重は当然のこと、腹囲、胸囲、腕や首、頭に手指まであらゆる部分の太さから長さを逐一細かく計測されていく。もちろん、裸の身体へメジャーなどの計測器具を押し当てられて、だ。

  「乳輪は十二ミリ、乳首は直径高さ共に五ミリというところか」

  「小っせぇな。まぁ本来平均サイズなんだが、出荷までに最低限倍にはしねぇとな」

  「⋯⋯っ」

  勝手な物言いと、ノギスの冷たい感触が乳首へ直接触れる感触に、身体が強ばる。

  男の乳首のサイズに何の意味があるというのか、俺には全く理解が及ばない。

  それでも男達は真剣な表情で、淡々と作業を続けていく。

  そしてその手が、とうとうソコへと伸びた。

  「くッ⋯⋯」

  「そうそう動くなよ」

  シロサイの太い指が、俺の陰茎を柔らかく摘まむ。他人の手が、それも同性の男がソレに触れる感触に、堪らず総毛立つ。

  「太さは十二ミリで平均以上だが、長さは七ミリ弱か。肉に埋まってるのを差し引いてもだいぶ寸詰まりだな。皮もかなり余ってるしよ」

  カッ、と頭の先まで熱が灯った。

  自分にとってコンプレックスだった部位を、ただ見られるだけに及ばず、口に出して指摘され、手に触れられ、事細かに記録までつけられる恥辱。

  しかもそれを、俺は抵抗一つ許されず、ただ黙したまま甘んじて受け入れることしか出来ない。

  なんで、俺がこんな目に遭わなくちゃならないんだと、つい無意味に嘆きたくなる。

  その手を振り払って身を躱したくなる心を、しかし身体へ直接刻みつけられた痛みが、自ら縛りつけて離さない。情けなく震えそうになる膝を、意地と理性で必死に抑えつけ、俺は強く目を瞑った。

  身体は逃げられない。代わりに、意識だけでも逃がす。一刻も早く終わってくれと、頭の中で念仏のように祈りながら、硬い屈辱に牙を立て続けた。

  「睾丸は二十二ミリ、と。こっちはデカいな」

  「アンバランスだね。サイズが合うのあったかね?」

  「とりあえず三日持たせりゃいいし、急場は五号で間に合うだろ」

  会話の中身については理解出来ない。と言うより殆ど聞いていなかった。

  それよりも、瞼の暗闇の向こうで股間から手が引いていくのを感じて、俺は歓喜した。

  よかった⋯⋯やっと終わってくれた。

  心から安堵の息が漏れる。

  もう、いい加減気が済んだろうクソ野郎共。こっちはとうに限界だ。頼むから、もう終わりにしてくれ。

  祈るような気持ちで目を開いた俺の耳に、しかし続けてあまりにも信じがたい、絶望的な言葉が飛び込んできた。

  「よし、じゃあ次は勃起時のサイズだね。とっとと勃たせてくれ」

  「はいよ」

  チワワの言葉に、シロサイが応える。

  は?

  ボッキ⋯⋯、たたせる、だと?

  まさか、いや待て嘘だろ。

  考えたくもない、最悪な想像だ。だが目の前で、チューブから透明な液体を手に取り、手のひらに薄く塗り広げ始めたシロサイの動作で、それが勘違いでも聞き間違いでもないと悟る。

  本気か⋯⋯?

  コイツら、この状況で俺を勃起させようっていうのか?

  というか、こんな状況で俺が勃起すると、本気で思ってるのか?

  シロサイとチワワの顔を交互に見回すも、どちらの顔にも大した感情は浮かんでいない。それは、不思議と何度も見たことのある表情だった。

  丁度、違反切符を切っている際の交通課員や、取調後の被疑者を留置場へ移送する留置係。ガサの最中、床まで顔をつけ、ベッドの下へ目一杯腕を突っ込んでいた時の俺と、きっと同じ顔をしていた。

  要するに、「仕事だからそうしている」という顔だ。そこに悪意も劣情もない。これからしようとしていることを、ただの作業としか思っていない。

  そんな当たり前の顔をして、シロサイは濡れた手を俺の股間へと差し伸べた。

  「ぅグッ⋯⋯!」

  ヌルリとした感触が、陰茎を這う。全体にローションを馴染ませるような手つきで、指が竿全体、陰嚢、下腹部から内腿に至るまでネットリと滑る。

  くすぐったい。それが率直な感想だった。

  俺だって男だ。人並みに性風俗に通って、性欲を発散することもある。男なら、それぐらいさして珍しくもないだろう。潤滑剤を使用しての下半身マッサージだって、幾度となく経験がある。

  だが、しかし。

  「ハッ⋯⋯んっぐ⋯⋯!」

  息を飲んでしまう。腰が震える。

  くすぐったさが性感へと移ろうまでに、そう時間はかからなかった。

  男の太い指は、不気味な程器用に、艶めかしく動いて俺を辱める。絶妙な圧力をかけ、柔らかく全体を扱かれたかと思えば、ゆっくりと包皮を剥かれて晒け出された亀頭を、指の腹で丹念に撫で回される。

  女性のしなやかな手指とは似ても似つかない、無骨でゴツゴツと節くれだった男の手。それが、風俗嬢も顔負けの指づかいで責め立ててくる。

  マズい。率直にそう感じた。

  弄ばれ続ける陰茎に、僅かずつ芯が通り始めているのがわかる。

  気分は偽りなく最悪だ。男に触られる気色悪さ、恥辱。理不尽への怒り。これまでの人生の中で、これほどまでに不快な気分を味わったのは初めてのことだと、誓って断言出来る。

  しかしそんな最悪の精神状態にもかかわらず、俺の下半身は真逆の反応を示してしまう。与えられる刺激を素直に感受し、自然な生理反応としてそこに血液を集めていく。

  鎮まれ。収まれ。頼むからおとなしくしてくれ。

  どんなに頭の中で念じようが、ソコに俺の意思は伝わってくれない。

  男の手の中で、自分自身がみるみる膨張していく感覚。体積を増大させていくソコとは対照的に、俺の自尊心は今にも萎んで消えてしまいそうだった。

  「へぇ⋯⋯膨張率で言やなかなか」

  鼻の奥がツンと熱くなる。

  もしも今気を抜いたら、その熱がすぐにでも目頭から滲んできてしまうだろう。

  完全に勃起状態となった俺の陰茎は、男の手を離れても真っ直ぐに上を向き、恥じらいもなく反りたっている。その浅ましい頂点に、他人の視線が集まっているのを、嫌という程に感じる。

  情けない。惨めで堪らない。

  身体を突き刺す羞恥心で、息が出来なくなりそうだ。この場から跡形もなく消えてなくなれたら、どれだけよかっただろう。自分が今、地に足をつけて立っているという事実、たったそれだけのことが、もはや我慢ならなかった。

  思えば、俺はこれまで、公務の中で数多くの変質者、性犯罪者達と向き合ってきた。取調室で、とても理解出来ない嗜好の話を聞き取り、中には本気で自らの歪んだ欲求に対する苦悩を述懐していた者もいた。

  そんな彼らに、わかったような顔をして都度説諭してきたのは、誰だ。果たしてそこに、どれだけの真剣みがあっただろう。蔑み、侮り、哀れみ、そして自分はこんな連中とは違うという驕りがなかったとは、今となってはとても言えない。

  数々の異常性愛者を見てきたからこそ、彼らと比較して自分の凡庸なセクシャリティを、正常で健常なことだと、あたかも上の立場にいるかのように思い上がった視点で見下してはいなかっただろうか。否、などとはとても言えなかった。

  だが、今やどうだ。

  全裸で縛られ、男に触られて勃起を晒している今の俺は、果たして正常か。俺が思っていたような健常な性嗜好だろうか。今まで手錠をかけてきた被疑者達と、いったい何が違う。

  何より、これが公の秩序と善良な風俗を守護する者の姿なのか。

  当然だと思い込んでいた自らの足場が、端から音をたてて瓦解していくような喪失感、焦燥感がある。

  きっと、泣き叫んで暴れ狂ってしまえたら、少しは楽になれたかも知れない。何もかも否定して、目も耳も閉ざしてしまえば、これ以上苦しまずに済んだハズだ。

  だがこんな有様でも、ほんの欠片程に残った最後の矜持が、俺自身に壊れることを許さなかった。許してはくれなかった。

  ひび割れ、崩れかけのみすぼらしい自我を支えに、俺は辛うじて顔を上げる。

  虚勢なのは、見て明らかだっただろう。笑うなら笑えばいい。それでも俺は、両目に有らん限りの敵意を込めて、目の前の男を全霊で睨みつける。

  俺はまだ、屈してなどいない。どんなに辱められようが、嬲られようが、俺は最後まで抗い続ける。そう挑みかかるように、俺は轡の上から牙を剥いた。

  「⋯⋯おいおい、よしてくれよ」

  不意に、気圧が変わったような気がした。

  男の低い声が、嫌に耳の底へと響く。

  項辺りの毛皮が、チリチリと騒いでいる。

  「ゥ⋯⋯ッ!」

  顎を捕まれた。

  つい先程まで、俺の下半身を愛撫していた右手だ。ローションで濡れた感触を下顎に感じる。

  不快感に顔を顰めている暇もなく、そのまま力ずくで引き寄せられ、鼻がぶつかりそうな程の距離からシロサイと顔を突き合わせる。

  「そんな目で見つめられちゃ、コーフンしちまうだろ」

  鋭い角越しに、その目を見た。

  赤みの強い錆色の瞳。

  ほんの少し前まで、家畜動物か産業資材でも見るような、何ら特別な情緒も感慨も浮かんでいなかったハズのその目に、溶けた鉄が音もなく煮え滾るような、昏い色の火が揺れて見える。

  まるで、活火山の火口を覗き込んでいるような、底知れない畏怖。生物的な本能が、脳髄から全身の神経を駆け巡って警鐘を鳴らしている。

  目の前の男は危険だ。

  どんな暴漢を前にした時とも違う。人が単独で相対していい脅威ではない。

  そこにいるのは、邪悪そのものだ。鬼畜か悪魔か。人の形をした破滅。人に仇なす者。意思を持った厄災。

  逃げろ。それに対して己が出来るのは、ただそれだけだ。

  なら、鎖に繋がれた今の俺は、どうしたらいい⋯⋯?

  「⋯⋯ぅおっほん」

  飲んだ息を喉に詰まらせ、なすすべなく立ち竦んでいた俺に助け船を出したのは、視界の外から割り込んできた何ともわざとらしい咳払いだった。

  「モチベーションが高いのはよいことだがね。今は目の前のタスクに集中してもらえると助かるよ」

  「おっと、悪いね先生。つい」

  顎を掴んでいた手が離れると、嘘のように重圧が消えた。軽くなった空気が途端に喉を通り抜け、代わりに肺の中から重い息が押し出される。

  何だったんだ、今のは⋯⋯?

  目の前の人間が、突然得体の知れない怪物に変じたような、或いは人の皮を被った化物がその片鱗を覗かせたような、言い知れない怖気が今も背筋を行き来している。

  鼓動がうるさい。握り締めていた手のひらは、いつの間にか汗でグッショリと濡れていた。

  緊張に硬くなっていた肺を解しながら、俺は果たしてと考える。果たして、俺は今、命拾いをしたのだろうか。それとも、いつか必ず来る地獄を猶予されただけか。

  どちらにせよ、俺の苦難は未だ終わりが見えてきそうにない。

  「ゥぐっ⋯⋯!」

  張り詰めていた局部を、強い圧迫感が襲う。

  見れば、リング状になった黒いゴムのような物が、俺の陰茎に深く食い込んで根本を括れさせている。

  ただでさえ血流が集まって膨張していたソコが、鬱血して一層強く強張るのを感じた。

  「これでよし。さ、萎える前に手早く測っとくれ」

  「あいよ」

  シロサイがメジャーとノギスを手に取り、再び辱めの時間が始まる。

  「長さ百三十二ミリ、太さ十二ミリ。通常時と比べて勃起時のサイズは平均的だね」

  「元サイズからのギャップは、それなりにいい売りになりそうだな。勃ったら剥けるし、亀頭の形も悪くない」

  「それに、年齢の割に遊んでなさそうな色だね。こういうのも存外ウケがいい」

  男二人に、勃起した性器を弄ばれながら、口々に好き勝手言われる屈辱。

  今は、堪える時だ。雌伏の時だ。そう自らへ言い聞かせ、必死に堪え忍ぶ。どんなに辛く苦しい時間も、いつか必ず終わる時がやって来る。時間は前にしか進まないんだ。そして、堪え続ければ、いつかは奴らにこの報いを受けさせる時が、必ず来る。それまで、しばらくの辛抱だ。

  そう、ありきたりな言葉を並べて自身を鼓舞する。今にもくずおれそうになる心を必死に抱き留め、俺は力の限り轡を食いしばった。頭の中で、過ぎていく時間だけを数えながら。

  「さて、測定項目はこんなとこかい先生?」

  「うむ、ご苦労さん」

  数え始めて三百二十秒。

  シロサイの手が離れた。チワワは手元のバインダーに走らせていた手を止め、こちらに背を向ける。

  終わった、のか⋯⋯?

  窺うように、そろそろと息を吐き出す。

  シロサイは手にしていた測定器具をキャビネットの上に戻し、チワワはスタスタと足早に壁際の机に向かっていく。

  終わった。終わったんだ。

  心からの安堵が、胸を震わせた。膝から、今にも力が抜けそうだ。

  だが、気を抜く訳にはいかない。

  拷問のような時間が終わったとは言え、依然危機的状況に変わりはない。まずこの手足の拘束をどうにかしなくては、状況が好転することはない。

  力ずくでどうにか出来ない以上、何とか隙を窺うしかない。雌伏の時はまだ続くが、それでもあんな恥辱に堪えきったのだ。ただ機会を待ち続けるぐらい、どうってことない。

  「それじゃあ、最後は精液採取して終わりでいいかい?」

  「ああ、頼む。あと参考で構わんからイくまでの時間も計測しといてくれ」

  「了解」

  突然心臓に氷水を流し込まれたように、ギュッと脈拍が乱れた。

  淡く抱きかけていた希望を、容赦なく踏み潰す男達の言葉。

  聞き間違いであれ。聞き間違いであってくれ。

  祈るだけ無駄なのは、もう頭の何処かでわかっていた。それでも、そうせずにはおれず、無意味に、不自由な口で、譫言のように繰り返す。

  間違いだと、嘘だと言ってくれ。

  その内、視界の外からピリリとビニールを破く音が聞こえた。

  絶望感が黒く胸を浸す。

  思わずそちらに目をやると、見知った形状の透明なゴムを手に、ゆっくりとこちらへ迫ってくるシロサイと目が合った。

  その目。その瞳に浮かんでいるのは、先程消えて失せたハズの、危険な色をした滾りだ。こちらを害するという、明確な意思を秘めた眼光。加虐の悦びに歪む双眸に正面から射抜かれ、俺は堪らず後退った。

  もちろん、虚しく鎖が鳴るだけだったが。

  「そうつれなくすんなよ。長い付き合いになるんだ。仲良くしようぜ」

  躙り寄る男の腕が、懸命に後ろへ逃がそうとしていた俺の腰を抱き寄せる。裸の身体が、否応なく男と密着する感触に、どうしようもなく寒気が走った。

  「まぁ、こんなに優しくしてやるのは今日限りだけどな」

  「⋯⋯ッ」

  先端にゴムをあてがうと、男は片手で器用に竿全体へ膜を被せていく。嫌悪感に身の毛がよだつ程、手慣れた手つきだ。

  逃げようにも、鉄骨のように重く太い男の腕からは逃れようもなく、見る間にゴムの輪が根本まで到達するのを、ただ眺めていることしか出来ない。

  「あんまし早いと張り合いねぇからな。精々頑張ってくれよ」

  ピッ、とストップウォッチと思しき電子音が、他人事のように耳を掠めた。

  同時に、男の手が動く。

  「ングぅッ⋯⋯!」

  コンドームの上から、ぐるりと頭を一捻りする手のひら。

  強過ぎる刺激に思わず跳ね上がった腰を、しかし男の腕が強く引き寄せて離さない。逃げ場もなく、容赦なく、間断なく浴びせられる快楽。

  羞恥に喘いでいる暇もない。

  目まぐるしく襲いかかってくる男の手淫に、俺はなすすべもなく翻弄される。

  息が止まる。膝が笑う。腰が抜ける。

  すぐに、まともに立っていられなくなっていた。

  「もっと声出してもいいんだぜ⋯⋯」

  耳元で囁きかけてくるバリトンが、鼓膜を抜けて脳髄に響く。頭の芯が痺れてきたような感覚がある。目の前が眩む。

  腰に回されていた腕が背筋を撫で下ろし、尻を艶めかしく揉まれるその手つきに、ゾクゾクと震えが駆け上がった。その大きな手が円を描くように尻を撫でるのを感じる度、力が抜けて喉が勝手にいななく。

  怖い。と思った。

  自分の身体が、自分の意思に関係なく反応してしまうことが。その反応が、男の手によってもたらされていることが。

  屈辱の先に、嫌悪の奥に、恐怖が口を開けている。

  その先に進みたくない。これ以上されたら、おかしくなる。薄氷一枚隔てた向こうに、何か取り返しのつかない破滅が待ち受けている。そんな不確かな不安が、胸の中へずっと張り付いている。

  泥のように、冷たく、重く。

  そんな胸中とは裏腹に、下半身で募りゆく熱は止められない。

  「ハッ⋯⋯ぁッ、ぐっ⋯⋯!」

  シロサイの手の中で、腰が、揺れてしまう。

  キモチイイ。と、思ってしまった。認めてしまった。

  込み上げてくる射精感を、意識してしまう。

  理性と本能が、せめぎ合いを始める。

  早くイきたいと欲する身体と、こんな男の手で、人前で、射精などしてたまるかと拒絶する心。

  決して相容れない二つの主張が、身の内で同時にもつれ合いながら、出口に向かって殺到していくのを感じる。

  マズい。ダメだ。抑えきれない。

  根本を締め付けるゴムの辺りへ、熱が怒涛の如くせり上がってくるのを感じた瞬間。

  「ぐッ⋯⋯んゥッ!?」

  突如としてねじ込まれた痛みと異物感が、上り詰めかけていた絶頂感を阻害した。

  何が起きたのか。理解できなかったのは一瞬のこと。

  すぐに、自分の身に起きた異常の、その発生源を悟る。

  悟って、青ざめた。

  身体の背面側。腰よりもさらに下の位置。つい先程まで撫で回されていた尻の、割れ目の中心。

  肛門に、男の指が突き刺さっている。

  「はッ、⋯⋯ぐッ、んんゥッ!」

  壮絶な嫌悪感に、吐き気がした。

  やめろ。やめろ。やめろ。

  頭を振って必死に懇願するも、構わず指は更に奥へ奥へと突き進んでくる。

  拒もうとして力を込めたところで、ヒリつく痛みが増すばかりで少しの足止めにもならない。

  「硬ぇな。処女の穴だ」

  耳元でシロサイが呟く。言葉の意味は拾い損ねたが、侮辱されていることだけはわかった。

  しかし、それに反発や屈辱を覚えている余裕さえ、今の俺にはない。

  痛みはもう、さほどなかった。感じるのは、便意に近い異物感。当然と言えば当然か。直腸に質量のある物体が存在しているのだから、身体がそう感じるのも自然なことだ。違う点があるとしたら、それが出口から遡り、体内を這い上がってきているという、救いようのない一点のみ。

  逃げようとして腰を前へ押し出すと、シロサイのもう一方の手が俺の前を一層激しくこね回す。その刺激に耐えかねて腰を引けば、後ろを侵す指がより深く押し入ってくる。

  進退窮まれり。これでは、迂闊に身動ぎも出来ない。

  もう、指はどれぐらい入っているのだろうか。第二関節辺りか、いやこの存在感からして、殆ど根本まで入ってしまっているのではないか。

  こんな苦痛が、いったいいつまで続くんだ。タイマーがスタートする音がしてから、今どれぐらい経ったのかも、まるでわからない。

  吊されたままの両手は、とっくに痺れて手首から上の感覚がない。全身から流れ落ちた脂汗で、足下には小さく水溜まりが出来はじめている。

  俺は⋯⋯、俺はどうして、ここにいるんだったか。何故、俺はこんな目に遭っているんだ?

  現実逃避、なのだろう。

  思考が白く濁ってきて、実感が薄く遠く、不確かになってきた。

  苦痛と恥辱に喘ぐ自分を、何処か少し高い位置から、他人事のように俯瞰して見ている自分がいる。

  なんていう様だ。こんなこと、悪夢以外のなんだって言うんだ。こんなことが、現実に起きてたまるものか。

  疲れてるんだ。仕事のし過ぎだ。心が弱っているのかも知れない。

  少し、休みを取ろう。そう言えば随分長いこと旅行なんてしていない。まとまった休みを貰って、何処か遠くでゆっくり羽を伸ばすのもいい。今まで、ずっと身も心も削って、市民のため実直に働いてきたんだ。それぐらい、きっと罰は当たらない。

  少しの間休んだら、また頑張れるさ。いつもの通り、非行少年や家出少女を補導して、違法風俗店の内偵したり⋯⋯ああそうだ、未決書類が随分溜まってるんだったか。早く処理して決済を貰わなければ。

  やっぱり、休んでる暇なんてないな。早く、仕事に戻らないと⋯⋯

  「っ⋯⋯ッ、ンぐぅウっ!?」

  ぶるり、と身体が飛び上がった。

  ぬるま湯のような淡い白昼夢は、下半身から押し出された熱で一瞬にして消し飛ばされる。

  腰の底から心臓まで、甘い衝撃が一息に駆け上った。全く未体験の官能。今まで、自分では知らなかった部分の神経を快感が走ったのを感じた。

  「ふぐッ、ぅっんウゥっ!!」

  目を白黒させて喘いでいる俺を、更に翻弄するように同じ刺激が繰り返し襲う。

  発信源は、前からじゃない。いや、陰茎にも変わらずシロサイの手が刺激を加えているようだが、今俺を苛んでいるのはそこからの反応じゃない。

  もっと、奥深く。体の中。自分の身体の、知らない部位。未知の臓器。

  そうした本来触れてはいけない箇所を、指先で弄くられている。そんな感覚。

  痛みはない。苦痛はない。

  だが、触れられる度、自分の根源的な部分から精気を搾り出されているような、一抹の恐ろしさの混じった快感が溢れ出してくる。

  これは、何だ。俺は今、何をされている?

  「イイ反応するね。ハジメテの割にケツの才能ありとは。こりゃ今後が楽しみだ」

  「ぐガッ、んゥうッ⋯⋯ッ!」

  ぐるり、と何かを掻き回されるような感触があった。後ろの方からだ。下からだ。

  ああそうだ。理解した。

  肛門の、中だ。指を突っ込まれたケツの穴の中から、その感覚は響いていた。

  それなら、知識として理解出来る。

  前立腺。

  警察官、それも生安畑の人間なら、嫌でも性知識に関して広く深く習熟することになる。同性、特に男性同士による性行為に際しては、しばしば肛門を擬似性器に見立てて男性器を挿入し、被挿入者はこの前立腺を圧迫されることで快感を得るというのは、一般的な知識とは言えずともよく知られた話だ。

  だが知識として知っていても、自分の身で体感するとなれば、全くの別問題である。

  まさか自分が、尻の穴を弄られて快感を感じてしまうなどとは、想像も出来なかった。考えたくもなかった。

  しかし望むと望まざるとにかかわらず、現実は非情に牙を剥いてくる。

  「ぐッぅ⋯⋯ぁ、ンンッぅっ!」

  前と、後ろ。

  交互に、時に同時に、息つく暇も与えられず襲い来る、怒濤の快感。

  中を指の腹で押し潰すようになぞり上げられたかと思えば、じわりと込み上げてきた熱い滾りを、前から強く搾り上げられる。

  背骨を中心にして、身体を快楽に挟み撃ちにされているかのようだ。前後から荒い岩壁に挟まれたガラス玉が、波濤に煽られ、表面をゴリゴリと削り取られていくが如く、理性が音を立てて磨耗していく。

  身体が、自然と動いてしまう。自ずから、より強く、より大きな快感を求めて、腰が揺れる。

  もう、何も考えていられない。何もかも、どうでもよく思えてくる。

  いつしか羞恥も嫌悪も、高まっていく熱に薄く溶け、すっかり形もわからなくなっていた。後に残ったのは、煮立った高ぶりだけ。

  されるに任せて身を委ね、ただ無心に悦楽を貪る。

  目的地は、もう見えている。頂上まではすぐそこだ。後は一直線に、そこを目指すだけ。

  息を止め、目を閉じ、最後の急斜面を一気に駆け上る。

  来る。来る。来た。

  股座の筋肉が、一斉に唸りをあげる。

  「ぐッうぅッゥウウウッ!!」

  腰の奥底から、身体の内外をひっくり返されるような衝撃が突き抜けた。脈動し、躍動する括約筋が、股の間でギリギリと痛みを訴えている。

  だが、そんな訴えに耳を貸している余裕などない。痛みを凌駕して余りある、絶大な快楽が狂ったように全身を戦慄かせる。

  繰り返し、打ち寄せる怒濤が堰を越える度、腰が引けて頭が揺れる。

  重い。

  未だかつて、達したことのない程の強烈な絶頂感。単なる性行為や自慰では、到底至ることが出来ない、強かな射精。

  長い。長い。

  快感の強さに比例するように、絶頂へ浸っている時間も、ひいては射精量も通常と比較にならない。

  被せられたコンドームが、重く膨らんでいくのを感じた。

  「⋯⋯ッぐ、はっ、⋯⋯はっ」

  ぶるり、と身震いする。

  熱が引いていく。緊張して強張っていた筋肉が弛緩すると共に、血圧が下がり、体温が低下していくのを感じる。

  そうして、途端にズシリとのしかかってくる疲労感に伴い、重く黒く押し寄せてくるのは、暗澹とした陰鬱。

  射精後に訪れる憂鬱感は男の性ではあるが、そんなものとは比べものにならない重篤な嫌悪感が、激しく胸を蝕んでくる。

  同性の、男の手で射精させられた。それも、肛門に指を突っ込まれた上で、その行為に快楽して。人前で、全裸で。

  自己嫌悪に押しつぶされてしまいそうだ。

  冷えていた頭に、再び血が上ってくる。

  怒りからじゃない。絶望的なまでの、恥辱にだ。

  俯けば、自分が浅ましく吐き出した精液と、それを湛えたゴムが嫌でも視界に入り、目も開けていられない。

  息をするのも嫌になる。

  「二分十二秒。早すぎるだろ」

  目の前で呟かれる嘲りにも、睨み返す気力がない。

  無反応な俺の態度が余程気に食わなかったのか、男はフンと短く鼻を鳴らすと、乱暴ながら呆気なく穴から指を引き抜き、股間からコンドームとゴムリングを同時に取り払った。

  「先生、終わったぜ」

  「ご苦労。採取した精液はケースに入れておいてくれ。あと、ナンバーは用意出来たぞ」

  「お、了解了解」

  シロサイとチワワの間で交わされる、内容のわからないやり取りを聞き流す。

  もう、どうだってよかった。

  何も聞きたくない。何も見たくない。

  このまま何もかも終わってしまえ。

  半ば本気で、そんなことを考えていた。

  全てを拒んだ瞼の裏で、ゴツゴツと重い足音がだけがやけに耳につく。一度離れていった音が、再び一回りして戻ってくる。

  「おら、頭上げろ」

  うるさい。誰がお前の指図なんか受けるか。くそったれ。

  無視を決め込んでうなだれたままでいると、頭の上で小さく舌打ちする音が聞こえた。

  「そうかい、ならコッチからだ」

  何がコッチからなのか。疑問符を浮かべるよりも先に、股間をグッと捕まれる。

  「グゥッ!」

  思わず目を開けると、すっかり萎えて首を落としていたソコへ、陰嚢ごと金属のリングを通された。

  さっきのゴムリングと同じ、再び半強制的に勃起させるのが目的かと腰を引こうとしたが、男の手がそれを許さない。有無を言わせぬ力加減で根本まで深くリングを嵌められ、その感触に慣れる間もなく、続けて陰茎全体をヒヤリとした感触が包み込む。

  そして、カチリと小さく金属が噛み合う音が身体に響いた。

  何だ、コレは⋯⋯?

  冷たい、硬い、重い感触。

  男性器の形状をそのまま象った、金属製の筒のような物。それが、自分の陰茎をスッポリと覆い隠している。

  見慣れたハズの自らの股間が、金属質な光沢を放っているその異様な光景に、思わず呆気に取られる。理解が及ばない。

  状況も忘れ、馬鹿みたいに呆然とそれを見下ろしていた俺の眼前で、見せつけるようにチラチラと細い金属片が舞った。

  「よぉ、コレが何だかわかるかい?」

  鍵だ。

  何の変哲もない、簡素なピンシリンダーキー。見れば、そんなことは一目でわかる。問われるまでもない。

  何に使うかなど、それこそ考えるまでもないだろう。

  問題があるとするなら、それが何処を封じた鍵なのか、ということだ。

  スッ、と体温が下がるのを感じた。

  「察しのいい奴は嫌いじゃないぜ」

  耳元まで裂けんばかりの、凶悪な笑みが目の前に迫る。血の気を引かせて引きつった俺の表情を、心から嘲り笑う下卑た笑顔。他者の苦しみを本気で悦ぶ、破綻者の顔だ。

  その手が、俺の股間に触れる。

  ツルリとした金属の上から、僅かな圧迫感を遠巻きに感じた。親指が亀頭に当たる部分の上をぐるぐると撫でているハズだが、殆ど何も感じられない。

  「当分コイツには用がねぇと思え。場合によっちゃ、さっきのが最後の射精になっちまうかもな」

  カツカツと、男の指先が金属を叩く音が響く。

  その言葉の意味を飲み込むのに随分と苦労したが、何より身体はこれ以上なくその事実を理解していた。

  外部からの物理的な刺激を一切遮断され、更に少しの遊びもないその閉鎖空間では、体積を膨張させる余地などまるでない。

  男性としての機能を、完全に拘束された。

  別に俺は、普段から性欲の強い人間という訳ではない。性欲の解消のため、偶には風俗を利用したり、一人で自慰をすることぐらいは当然あれど、それも頻度としては決して多い方ではなかった。寧ろ、仕事の多忙さに流され、随分ご無沙汰だったのが実情だ。

  射精出来ないということが、そこまでの苦痛に繋がるということはない。

  しかし、その自由を奪われるとなれば、話は別だ。選んでしない、自由意思の下、結果的にしてこなかったのとは訳が違う。明確に禁じられ、権利を侵害されたとわかると、本来重要度がそれほど高くない事柄であっても、人は多大なストレスを覚えるものだ。

  その時俺が感じた絶望感も、過剰なものだという自覚はあった。だがそれでも、目の前を真っ暗な壁が塞ぎ、肺に鉛を押し込まれたようなその重苦しい感情を、大袈裟だとやり過ごしてしまうことは、どうしたって出来なかった。

  「そんなに嬉しそうにするなよ。プレゼントはまだあるんだぜ?」

  俺の表情とは引きかえ、男は一層笑みを深める。

  思わせぶりな仕草で背中に隠していた手を伸ばすと、その手をおもむろに俺の首元へと回す。

  股間に続き、首にも同じ冷たく硬い物がヒタリと触れる感触に、ゾクリと身が竦んだ。

  そしてカチリ、と聞き覚えのある絶望的な音が、喉元を揺さぶる。

  「うん、よく似合うじゃねぇか」

  そう言われても、自分からは見ることが出来ない。満足げにのたまう男の言を真に受ける訳ではないが、確認しようにも俺の視界からはどうしようが死角になる。

  わかるのは、首を一周する金属の質感と、喉元でチャラチャラと何かが揺れる音だけ。

  それを察したのか、シロサイは俺の首から下がる何かを、指で遊ぶように掲げて見せつけてきた。

  「D465。いいな、よく覚えとけよ。それが今日からお前の名前だ」

  ゆっくりと、一音一音よく噛んで含めるように、アルファベットと数字を並べる。

  首から下がっているプレートには、きっとそう刻まれているのだろう。さしずめそれは、首輪とネームタグといったところか。

  人間を番号で呼ぶ。

  それ自体は、警察官をしていれば別段珍しいことじゃない。拘留中の被疑者は、留置場で番号で呼ばれるのが常である。これは留置場内の規律と治安維持を目的とした側面と、被疑者の個人情報を保護するという目的のための措置だ。そこには、合理性と人権への配慮が存在する。

  だが、しかし。

  俺の首に着けられたそれは、そうではない。特に人権への配慮といった目的とは、決定的に異なるものだと、男の目がハッキリと語っていた。

  「ふざけんな、って面だな。個人的にゃそういう態度も嫌いじゃあねぇんだが⋯⋯」

  男の声が、俄に凄みを帯びる。

  「いい加減、立場ってヤツを教えといてやらねぇとな⋯⋯」

  それから、その手がおもむろに腰のスタンガンへ伸びるのと、

  「────悪いが、それは後にしてもらえるかね? コッチも後がつかえてるんだよ」

  遠くから制止の言葉が飛んできたのは、ほぼ同時のことだった。

  「⋯⋯頼むぜ先生、こういうのはその場その場で即キチンと躾てやらねぇとさ⋯⋯」

  「そちらの都合など知るか。ワシはこれからまだ後二件、今度は出荷前の検品があるんだぞ? どうせこれからソイツに構ってやる時間はいくらでもあるんだろう。シバくなら、時間と場所を変えて好きにシバけ」

  こちらには目もくれず、背中越しに言いたいことだけ言って自分の作業を続けているチワワに対し、シロサイは肩を竦めるだけでそれ以上何も反論しなかった。

  「期待させて悪いな。お仕置きはお預けだ」

  何が悪いものか。

  何処か残念そうに溜め息をつく男の顔へ、轡越しに唾でも吐きかけてやりたい気持ちだったが、努めて自らを宥め、落ち着かせる。

  男の手は、まだ腰へ伸びたままだ。

  「いい子だ。動くなよ」

  向こうも、わかっていていちいち挑発めいた言動をしているのだろう。ニヤついた顔を見れば、嫌でも透けて見える。

  見え透いた罠だ。

  シロサイの手が、俺の両手を鎖から下ろしていく。緩慢とまでは言えないが、初めに俺を拘束した手際からすれば、幾分隙のある手つきだ。こちらが本気でその気になれば、この隙に一撃くれてやることも出来ただろう。

  しかし、手錠をされたままの俺の一撃では、この男を相手には到底歯が立たないということは、既に先刻承知している。

  そしてそれは、あちらも同様。

  大方、わかりやすく隙を作って俺に反撃を促し、即罰を与えるための名目を作れれば幸い、とでも考えているのだろう。

  試しに軽く肘を持ち上げてみたが、気づいていない素振りをしながらも微かに耳が反応したのがわかった。

  おとなしく従うのは業腹だが、無駄を承知でこんな安い思惑に乗ってやる訳にはいかない。

  新たに鎖で手錠と首輪を繋がれながらも、俺はただ甘んじて待った。

  そうしていると、男もこちらが挑発に乗る気がないと悟ったのか、聞こえるか聞こえない程度の舌打ちを鳴らしながら、手早く作業を続けた。

  「それじゃ先生、時間取らせて悪かったな」

  「あいよ。次呼ぶからとっとと行け」

  チワワの言葉を聞き終える間もなく、首輪に繋がれた鎖を乱暴に引かれ、思わずつんのめる。両足は肩幅よりずっと短い幅の鎖で繋がれており、ちまちました歩幅でしか歩けない。

  にもかかわらず、それを考慮する素振りもなく、シロサイは俺の首輪を引いてズカズカと靴音も荒く歩きだす。

  このっ、クソッタレが。無駄を承知で、やはりその背中に跳び蹴りでも見舞ってやるべきか。

  しかし、ついて行くのがやっとで、地面を踏み切るだけの隙も余力も得られない。

  振り返りもせず、顧みせず、大股で足早に先を行くシロサイに遅れぬよう、俺は短い歩幅で懸命に足を動かし、その後を追った。

  最悪に、惨めな気分だ。

  足を踏み出し、腰が揺れる度、股間に垂れ下がった重い感触が、音をたてて内腿にぶつかるのを感じる。

  考えたくなくても、自分が全裸で、それもいかがわしい装具を身につけさせられていることを、意識してしまう。

  気を紛らわせようにも、シロサイの歩幅についていくには、ひたすら足を動かすしかない。

  重そうな鉄扉を開き、白い部屋を後にすると、薄暗く長い廊下に出た。床は足裏を切りつけるように冷たいコンクリートで、男の硬い靴音と俺の裸足の足音だけが静かにこだましている。

  ココは、いったい何処なのか。

  最初に想像したよりもずっと広い。

  窓もなく、景色も変わらないため方向感覚や距離感も曖昧になってくるが、先程の白い部屋と合わせてもかなりの規模だと窺える。

  殺風景な廊下といい、やたらと分厚く厳重な扉といい、反社組織の拠点というよりは、以前信者への逮捕監禁致死が発覚して臨場した、とある宗教施設と雰囲気が近い。

  無機質で、閉塞的で、圧迫感のある造り。

  人を、外部から隔離し、拘禁するにはうってつけの施設だ。

  しかし警察署の留置場とは、明らかに違う。地肌を刺すような暗く、重く、冷たい空気。最低限の清潔さだけは保たれている様子だが、被拘禁者の基本的人権に配慮する気がさらさらないのだけは、しかと肌身に伝わってくる。

  何か少しでも、場所を推察するヒントになり得る情報がないかと、足を動かす合間に視線を巡らしている内、不意にシロサイの足が止まった。

  またも、厳重に閉ざされた金属扉を前に、物々しく音をたてて解錠していくシロサイ。

  よく見れば、扉の脇のプレートには、『D』と刻印されているのがわかった。

  「さっさと来い」

  意味を読みとるよりも前に、再び首輪を引かれ、たたらを踏むようにして扉をくぐる。

  その先は、またしても同じように狭く暗い廊下が続いているようだ。ただそれまでと違っていたのは、両側の壁にズラリと金属扉が並んでいること。扉毎の感覚はかなり狭く、四、五メートル程しかない。部屋が並んでいるというよりは、ロッカーが並んでいるような印象だ。

  その廊下を、連れられるまま奥へと進む。突き当たりはすぐだった。

  立ち並ぶ扉の、一番奥。

  その一番端の扉を、シロサイの手が開く。鍵は、最初からかかっていなかったらしい。

  「入れ」

  顎をしゃくり、短く命じてくるシロサイ。

  そこで、僅かに逡巡した。

  俺の位置から、扉の先は見えない。

  だが、ここまでずっと先導してきた男がそう言ってきた以上、恐らくはそこが目的地だったのだろう。

  その先で何が待っているはわからない。だが、それが俺にとって歓迎すべきものじゃないことだけは確かだ。この男が、俺にとって益になることをする人間じゃないということは、既に骨身に沁みて理解している。

  なら、素直に従いたくはないというのが本音である。しかしここで反抗したとして、結果それが良い結果に結びつくかといえば、それは否だろうということもわかっている。

  どちらの方がまだマシか。いずれにせよ悪い結果しかない二択を迫られ、躊躇わない人間の方が少数だろう。

  たがシロサイにとって、そのほんの一瞬の迷いすら、許し難い反抗として映ったらしい。

  「ぎッ────ぅ⋯⋯!!」

  鳩尾から脳天に向かって、無数の針金で貫かれたような衝撃が走った。目の前を星が散り、耳鳴りが激しく鳴り喚く。

  反応さえ出来なかった。

  シロサイが腰からスタンガンを抜いたのまでは、確かに見えていた。しかしそこから、その巨体からは想像も出来ない動きで一息に間合いを詰め、俺の腹部目掛けて容赦なく先端を突き込んでくるまでは、ほんの瞬く間のことだった。

  先に受けた電撃とは比較にならない。まともに立っていられなくなる程の激痛が一瞬にして身体を駆けめぐり、俺は堪らず膝を折った。

  だが、床に倒れる間もなく、シロサイは俺の首輪を掴んで振り回すような勢いで引きずると、片腕だけで軽々と俺を放り投げた。

  足が、地面から離れる。相変わらず、人間離れした腕力だ。

  ただでさえ手足を拘束され、更に電流を浴びて強張った身体では、体勢を立て直すどころか受け身を取る余裕もない。

  間もなく身を襲うであろう衝撃に備えることも出来ず、俺は半ば祈るような気持ちで固く目を瞑った。

  「ぐっ⋯⋯!」

  その祈りが通じたのかは定かではないが、俺の身体を地面で出迎えたのは、コンクリートにしては些か柔らかな感触だった。

  強くぶつけた肩や肘に痛みがなかった訳ではないが、明らかにダメージが少ない。頭も打たずに済んだ。

  軽く前後不覚になりながらも、何とか上体を起こした俺の真下にあったのは、薄手のマットレスのような物だった。

  ベッドのマットレスのようなスプリングの効いた代物ではない。どちらかと言えば、体操マットの方がイメージとして近い。クッションとしては頼りないが、コンクリートに叩きつけられるよりは、幾らもマシだ。

  余計な怪我を負わずに済んだことに安堵していたのも束の間、背後から響いた鈍重な音に、状況を思い出させられる。

  ハッとして弾かれたように立ち上がるも、とっくに遅かった。

  閉ざされた扉の向こうから、閂をかけるような殊更硬い金属音が鳴る。

  「ぐゥッ⋯⋯!」

  扉へ取り付いてはみたが、叩いても揺すっても、もはや壁と一体化しているかの如くビクともしない。そもそも、内側には取っ手どころか指がかかりそうな突起物すらも乏しく、中から開けられるような構造になっていないのがわかる。

  何度か叩いてみた感覚として、厚さはかなりのものだ。当然ながら、強行的な手段で突破出来るような代物じゃない。

  試しに耳をそばだててみたが、反対側の音を拾うのも難しい。まだ、この向こうにシロサイがいるのかどうかもわからない。

  こうなった以上、開かない扉にいつまでも縋っていたところで、時間の無駄だ。

  改めて後ろを振り返ると、先程俺が倒れ込んだマットレスが床面積の半分以上を占めた、あまりに狭小な空間がそこで待っていた。広さで言えば、自宅アパートの玄関から廊下までが丁度同じぐらいだろうか。

  これなら刑務所の独居房の方がずっと広く、まだ快適だろう。

  左右を剥き出しのコンクリート壁に隔てられてはいるが、正面には鉄格子しかない。

  痛みの残る身体に鞭を打ち、よろつきながらもその鉄格子へと手を伸ばす。

  握ってみると、硬く、冷たい感触が手のひらに伝わってくる。少し揺すってはみたが、こちらもビクともしない。

  期待はしていなかったが、やはり何処にも抜け出せそうな隙は見当たらなかった。

  くそったれ。

  鉄格子に額を押し当て、轡越しに悪態を吐く。

  身体は疲れきっていた。スタンガンを押し当てられた場所は今もズキズキと痛むし、枷に捕らわれたままの手足は毛皮も擦り切れ、轡を噛み続けた口角もひび割れて傷が入ってしまっている。

  だがそれでも、座り込む気にはなれなかった。身動きが取れないのなら、身体を休めて体力の回復に努めるべきだ。冷静にそう思考する自分と、ココに腰を下ろすことを心理的に拒んでいる自分がいる。

  まだ、まだだ。

  まだ止まるべき時じゃない。

  そうだろう?

  下を向きかけていた視線を、意識的に前へと持ち上げる。

  脱出の手立てが見当たらなくとも、まだ見える限りの範囲で情報収集は出来る。身体を落ち着けるのは、それからでもいい。

  纏わりつく疲労感を振り払うように一度頭を振り、そのまま鉄格子の向こう側へと目を向ける。

  見るに、造りだけではなく、漂う空気や薄暗さまで、先程の廊下と酷似している様子だ。通路の幅もほぼ同じに見える。

  ただ違っているのは、壁に並んでいるのが鉄の扉ではなく、鉄格子であるということ。正確に数えていた訳ではないが、扉の数とおよそ一致している。

  なら、その一つ一つが独房であると考えるのが自然だ。

  薄くわだかまる闇の中へ、目をすがめて注視する。

  向かい側の、鉄格子の向こう。

  部屋の中全てを見通すことは出来ないが、それでも中程までなら、辛うじてわかる。その、かなり低い位置。マットレスが敷かれているであろう辺りで、何か微かに動くものがあるのが、見えた。

  やはり、そうだ。予感が外れていてくれることをいくらか期待したが、現実はそうはいかない。

  俺以外にも、ここに監禁されている人間がいる。それも、複数人。何なら、目に見える限りの独房は、全て埋まっている様子でさえある。

  寒気がした。

  自分の境遇を、今日自分の身に起きた信じがたい出来事の数々を反芻する。

  何者かに拉致され、当人の意に添わない形で、不法に監禁されている。そんな人間が、ここにこうして、これだけの数いる。

  この中で、特異行方不明者として警察が把握し、捜索が行われている人間が何人いるのだろう。

  今、ここにいるだけじゃない。いったい過去何人の人間が、社会の裏でここに連れてこられ、その人生を奪われたのだろう。

  目の前を塞ぐ闇が、その濃さを増したような錯覚を覚えた。

  警察官として、社会秩序を守る者として、市民の生活を守る者としての矜持が、揺らぎそうになる。

  何も知らなかった。想像すらしていなかった。

  自分が平和だと信じて見守ってきた世界の裏で、いったいどれだけの人の不幸を見過ごしてきたのか。

  その現実を目の前にまざまざと見せつけられ、俺は全身から血の気が引く思いを味わった。つま先から耳の先まで、血流が停止して芯から凍り付く。

  そのまましばしの間、俺は耳鳴りの音だけを聞いて呆然と立ち尽くしていた。

  時間にすれば数秒。されど、二度と取り戻すことの出来ない貴重な時間。その僅かながらの暇を、放心状態のまま無為に過ごしていた俺を、けたたましく開け放たれた扉の音が引き戻した。

  ジャラジャラと鳴る鍵束の音。重く硬い靴音。つい先程まで耳にしていた聞き覚えのある音が、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。

  「よぉ、どうだい新しいお家の住み心地は。気に入ったか?」

  俺を痛めつけて少しは溜飲が下がったのか、スッカリ機嫌が治った様子のシロサイが、鉄格子の向こう側へ姿を現した。

  卑しく口元を歪ませ、こちらの神経を逆撫でしてくる物言いが実に忌々しい。

  口を塞がれていなければ、警察官人生で培った語彙の限りを尽くして挨拶してやっていたところだ。

  「おっと、騒がしくするんじゃねぇぞ。もう寝てる奴だっているんだ。近所迷惑だろ?」

  臆面もなく社会常識を語るその面の皮の厚さに、鉄格子を握る手が熱くなる。

  血の気が引いて凍てついていたハズの血管が、息を吹き返したように膨張する。グツグツと腹の底で煮え滾った血液が、頭と言わず指先まで駆け巡るのを感じた。

  「⋯⋯まぁだそんな面が出来るか。骨がある奴なのは認めてやるが、物覚えが悪いのは頂けねぇな」

  やれやれと肩を竦めながら、シロサイは思わせ振りに腰に手を当てた。もちろんそこには、先程も猛威を振るったスタンガンが納められている。男がその気になれば、逃げる間もなく再びあの激痛が俺を襲うことになるだろう。

  そう認識した途端、急速に血圧が下がる。鳩尾で、架空の疼痛が脈打つのを感じた。

  ほんの一度、一瞬のことだったハズだが、それでも俺の神経に畏れを刻みつけるには、充分な一撃だったらしい。

  震えそうになった膝を、音もなく鉄格子へ打ちつける。自らを叱咤するためというよりも、誤魔化しのために。

  目の前の相手と、自分に対しての。

  「⋯⋯よろしい、一度で聞き分けられるようになったなら上出来だ」

  しかし表情にでも出ていたのか、男は俺の顔を見るなり満足そうに頷いて矛を納めた。

  屈辱的だが、それに僅かながらでも安堵してしまった自分に、余計腹が立つ。

  「せっかく聞く耳が出来たみてぇだし、この際ついでだ。さっき教えてやれなかった“立場”ってヤツを、改めて教えといてやるか」

  立場。その言葉を殊更強調して俺を見下ろす男の目は、見るからに不遜な愉悦に満ちていた。

  他者を見下す目。圧倒的に優位な場所から、相手を蔑み笑う歪んだ優越感を隠しもしない、のぼせ上がった顔。

  その口が、どんな戯れ言をほざくかは想像に難くない。

  「いいかよく聞けよ。今までのお前は、そこら辺を我が物顔でうろついちゃ余所の餌場嗅ぎ回った挙げ句、所構わずドデカい野糞垂れて回る薄汚ぇ野良の畜生だ。無意味で無価値。何の役にも立ちゃしねぇ。ここにいんのはな、みんなお前と同じ、惨めで哀れな害獣共よ」

  それでも、ある程度は予想していたこととは言え、あまりにも聞くに耐えない妄言に吐き気がする。

  よくもまぁ、そんな世迷い言を恥ずかしげもなく口に出来るものだ。並べられた語彙が、男の品性をそっくりそのまま物語っているではないか。

  卑賤で下劣。醜く腐り果てた性根が、口から溢れて滴って見えるようだ。

  「わかるか? 息して糞するしか能がねぇお前らみたいな肉袋を、最低限人様にご奉仕出来る家畜ぐらいまでには躾てやるのが、俺の仕事って訳よ」

  胸焼けがやまない。

  いや、臓腑から這い上がってくるこの熱感は、胃酸とは違う。物理的な感覚と錯覚してしまう程の、苛烈な激情。

  「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったな。俺が今日からお前の調教を担当するトレーナーだ。名前なんざ知らなくていい。俺を呼ぶ必要があるときは『ボス』と呼びな。どのぐらいの付き合いになるかはお前次第だが、今日から当分の間は俺がお前のボスだ。わかったな、D465?」

  男の言葉を聞き流しながら、もしもこの手が届けば、とつい考えてしまっている自分に気づく。

  それは、抱いてはいけない衝動だ。

  一般市民であれば、それを抱くことまでは許容されるべきなのだろう。思想、良心の自由は憲法でも保障されている。何人たりとも、いかに内心で邪な犯意を抱こうと、実行に移さない限りその事で裁かれることがあってはならない。

  しかし、俺は違う。それこそ“立場”が違う。

  俺は、国民であると同時に警察官である。一般市民である前に、警察官である。そうである以上、それは頭に過ってさえいけない感情だ。

  何故か。俺はそれを取り締まる側の人間であるという以上に、それを実行に移すことがあまりにも容易になってしまう道具を、普段から手にしていたからだ。

  市民からの信頼の証として、携えることを許された道具。他人の命を容易く脅かすことが出来る凶器を身近に置く者として、その感情が一瞬でも胸に仄めくことを、俺はずっと恐れてきた。

  それが今、自分の中で確かな形を持とうとしている。指先に、撃鉄を起こす感触を感じる。目の前に、照星の影を幻視する。

  男の額に、暗い穴が空く光景を強く望んでしまう。

  初めて抱いた本物の殺意は、手によく馴染んだ黒鉄の形にそっくりだった。

  「っはは、煽り甲斐があるねぇ。久々のじゃじゃ馬で俺も嬉しいぜD465。腕が鳴るってもんだ」

  挑発に乗せられてしまったようだが、構いはしない。

  正当な司法の下で拘禁されるなら、俺は喜んでそれを受け入れよう。

  だが、コイツは許さない。自らの愉悦と利益のため、多くの無辜の人々を暗闇の中に沈めてきた外道に、どうして白日の下で公正に裁かれる温情を甘受させてやらなければならないのか。

  警察官として逸脱した思考なのは、言うまでもない。

  それでも俺は、この男を社会からではなく、世界から排除したいという歪んだ義憤を抑えることが出来なかった。

  「殺る気充分なとこ悪ぃが、お前の調教は明日からだ。今日は色々あって疲れてんだろ。明日に備えて、ちゃんと休んどけよ」

  対して、男の表情が不意に和らぐ。

  全く、突然の変化だった。豹変とも言える変わりぶりだ。こちらは、呆気に取られるしかない。

  いったいなんだ、その顔に、その物言いは。

  まさか、こちらを慮っているつもりなのか?

  冗談じゃない。

  鉄格子を握っていた手を放す。拳を握る。

  何とかして、隙間からその拳を届かせられないかと距離を測っていた、そんなときだった。

  「ぐッ!?」

  首輪に繋がっていた鎖を掴まれ、強く引き寄せられる。手で庇うことも間に合わず、額を鉄格子に衝突させた直後。

  開きっぱなしだった唇に生暖かい感触が張りついた。

  「⋯⋯ッ」

  湿った音が鼓膜にこびりつく。

  眼前に、黄ばんだ太い角が聳えて見える。

  生臭い、自分の物とは別の唾液の味が舌に纏わりつくのを感じて、俺はようやく何をされたのかを悟った。

  同時に、全身が総毛立つ。

  何ならそれは、指で尻の穴をほじくられるより、手で射精させられるよりも、ずっとおぞましい嫌悪感で俺を身震いさせた。

  「⋯⋯ッグゥ⋯⋯!」

  視界が傾く。

  思わず飛び跳ねるようにして後退ったのと当時に、掴まれていた首輪を手放されたようだ。不自由な足では一旦崩れたバランスを取り戻すことも出来ず、俺は情けなくその場に尻餅をついた。

  運良く、そこが丁度マットレスの上だったことだけは幸いだった。

  おかげで身体にさしたるダメージこそなかったが、しかし精神に受けた動揺はそれどころではない。

  立ち上がることもままならず、腰が抜けたように無様に座り込みながら、唇に残る不快感を必死に腕で拭い続ける。

  「ははっ、案外ウブな反応するねぇ」

  咄嗟に、睨み返すことも出来なかった。

  見せつけるようにベロリと自らの唇を舐めるシロサイの仕草に、怖気が這う。

  怒りも殺意も、気付けば何処かへ顔を隠してしまっていた。

  散々に渡って猥褻行為を受けながら、ただ唇を奪われたことの何がそんなにショックだったのか。自分でもサッパリわからない。

  ただ、男の手ではなく口を使って施されたその接触が、酷く艶めかしく、生々しく俺の神経を舐ったのだ。

  「じゃあな、おやすみD465」

  どこか満足げな笑みをその場に残して、シロサイはアッサリと鉄格子の向こうから去った。

  重い足音が、一つ一つ遠ざかっていく。その音を聞きながら、結局俺はこの手を届かせるどころか、立って後を追うことすら出来ず、ただ脅威が目の前から立ち去るのを黙って見送ることしか出来なかった。

  視界から見えない遠くで、ずしんと扉が閉まる音が壁を震わせる。

  そして訪れる静寂に、胸に詰まっていた吐息が意図せず溢れ出した。

  ⋯⋯くそったれ。

  誰にも聞こえることのない悪態を、頭の中だけにこぼす。無意味で惨めな、自分に向けた独白。

  なんなんだ、これは。

  鎖に繋がれたままの両手と足を見る。

  その流れで一緒に視界に入った裸の身体と、股間で光る戒めに胸が鬱ぐ。

  野良の畜生? 家畜? 調教?

  ふざけやがって。俺を、人間を何だと思っていやがる。

  こんな非道が、現代の、それも世界有数の治安を誇るこの国で、まかり通って良いハズがない。

  いや、良いハズがなくとも、実際に目の前の現実は変わらない。これが、こんなことが、一見平和に営まれてきた社会の裏で、平然とまかり通ってきたのだ。

  許されることじゃない。決して許さない。

  この俺が、これ以上好きにはさせない。

  こんな所、こんな現実、俺が必ずぶっ潰してやる。

  そして、これまで虐げられてきた人々を、ここにいるかも知れない陽翔と陸を、必ず助け出す。どんな手を使ってでも。どんな手段に手を染めてでも。

  そのために、今は身体を休めなければならない。

  手足を拘束され、檻に囚われたままでは結局どうすることも出来ない。

  体力を取り戻し、情報を集め、機会を窺う。

  そうして、必ずや。

  例えこの手で殺人を犯すことになったとしても、必ずこの悪夢を終わらせてみせる。

  そう心に決意しながら、俺は静かにマットレスへと身体を横たえた。

  薄くて硬い、お世辞にも寝心地がいいとは言えない代物だが、床よりは断然マシだ。まともに眠れるとは思っていないが、横になっているだけでも幾らかは休息になる。

  実際、もう心身共に疲れ切っていた。

  今が何時なのか、昼か夜かすら皆目見当もつかないが、まぁ恐らくは夜なのだろう。シンと静まり返った鉄格子の向こうで、そこかしこから微かに寝息のような音が聞こえる。

  ⋯⋯彼らは、もうどのぐらいココにいるのだろうか。こんな所で眠れるようになるまで、いったいどれだけの仕打ちに耐えてきたのだろう。

  想像もつかない。

  あの男は、『調教は明日から』と言った。それが後何時間後のことなのか、そしていったい何をされるのか、俺には何もわからない。

  暗い不安が胸にのしかかる。

  また、今日のような辱めを受けるのだろうか。あんな屈辱を、陵辱を、これから何度耐えなければならないのだろう。

  胸に突き立てたハズの決意へ、底知れぬ不安が上から覆い被さってくる。ともすれば、頭を抱えて叫びだしたくなってしまいそうな衝動が、腹の奥で渦巻いている。

  怖い。

  率直にそう感じた。

  拉致監禁。強制猥褻。現実として自分がその犯罪被害に遭って、初めてその恐怖を実感した。

  逃れようのない理不尽に、自分の権利を侵害される。それがこんなにも恐ろしいことだとは、残念ながら想像だにしていなかった。

  震えそうになる身体を縮め、口の中の轡を強く噛みしめる。

  駄目だ。よせ。これ以上余計なことを考えていても、弱気になるだけだ。

  意識して手足から力を抜き、仰向けに脱力して大きく息を吸った。

  視界には、狭い天井。今は消灯しているが、短い蛍光灯が一本取り付けられただけの、簡素な天井を見上げる。

  コンクリートの微かな斑模様をしばらく無心で見つめ、それが動き出して見え始めた頃に、ソッと瞼を閉じた。

  体力勝負の捜査では、徹夜続きの中でも僅かな時間休息して、活動する体力を回復するなどお手の物だ。

  こんな状況でも、仮眠を取るまではいかなくとも体力回復に集中することは出来るハズだ。

  不安も恐怖も、今は一旦心から追い出す。怒りも屈辱も、腹の底にしまって閉じこめる。

  きっとそれが、今俺に出来る最善だ。

  明日出来る最善は、明日探せばいい。

  そうして、俺はひたすらに時を待った。

  これから始まる過酷な地獄を予感しながら。

  [newpage]

  けたたましい鐘の音が鳴り響く。

  火災報知器の警報音もかくやという大音量に、思わず身体が飛び起きた。

  そして思い知る。

  朝だ。朝が来た。

  またしても、朝が来てしまった。

  目が覚めた途端、重く陰鬱な気分に胸が鬱いだ。目が覚める度、目が覚めてしまったことを本気で呪いたくなる。

  最低の、最悪の朝。

  本当に朝なのかどうかは、俺にもわからない。時間の経過も日付の更新も、俺には知る術がない。ただいつも、この耳をつんざく騒音に起こされるタイミングのことを、便宜上“朝”と呼んでいるに過ぎない。

  そしてこれが、俺にとって通算十四度目の“朝”だった。

  壁に傷をつけて数えた訳ではないので、そこまで信頼出来る数字とも言い難いが。

  それでも、一人の人間を消耗させるのに、不足な数字ではない。

  胸の中以上に、身体そのものが重い。

  目を閉じたのが、ほんのついさっきのことのように感じる。夢の一つも見なかったのは、それだけ深い眠りだったということだろうか。あまりにあっという間のことで、逆に殆ど眠った気がしない。

  実際に、疲れは少しも取れていなかった。

  頭の中を掻き回すような騒音に耐えながら、苦労してなんとか上体を起こしたが、節々に昨日の痛みが鈍く残っている。

  中でも特に痛むのは、股間だ。

  見下ろせば、何も纏う物のない剥き出しの下半身で、鋼鉄の鎧が冷たい光を放って睨み返してくる。その内側で、反逆の声を上げる中身を冷酷に弾圧しながら。

  だが、勘違いをされては困る。こちらだって、別にしたくて自己主張している訳じゃない。以前なら、朝のこうした生理反射も、それ程強い方ではなかったハズだ。

  しかし今、ココでの環境や日々与えられる仕打ちの影響を受け、ソコは自らの首を絞めることも厭わず、自身の存在を大袈裟に誇張しようとするようになってしまったのだ。

  男なら誰しもわかることだとは思うが、頭でどんなにそれに鎮まれと命じたところで、そう簡単に治まってくれることはない。

  絶えず急所を苛む鈍痛に悩まされながらも、俺にグズグズとうずくまっている暇はない。

  ひっきりなしに響き続ける警報音に追い立てられ、俺は自分の匂いが染み付き始めたマットレスからやっとのことで裸の身体を引きずり起こした。

  もはや、常に裸でいることに対する抵抗は殆どない。慣れていい話ではないが、そんなことを気にしているような余裕がないという方が正しい。

  ゆらゆらと足取りも重く、鉄格子へと向かう。

  独房の鉄格子は間隔も狭く、腕を通しても精々が二の腕の太さまでしか入らない。

  だが一カ所だけ。足下にあるほんの僅かなスペースのみ、頭が通る分だけの間隔が開いている。

  そこに、跪いて四つん這いになり、頭だけを潜らせる。端から見れば酷く惨めで間抜けな格好だとは思うが、何もそれは俺一人だけではない。

  真向かいの檻へ視線を上げると、既に顔を出していた虎の青年と目が合う。

  言葉を交わしたことはないが、俺よりも長くココにいることだけは確かだ。

  歳は若く、精々二十歳そこそこに見える。かなり鍛えられたいい体格をしており、顔つきも精悍で刑事課に欲しいタイプだ。

  こんな所にいなければ、将来を嘱望されてやまない若者のハズだ。それが今、俺と同じように裸で檻に入れられ、光のない疲れきった目でこちらを見ている。

  その暗い視線に耐えられず、俺はすぐに目を逸らしてしまった。

  彼が何を思ってこっちを見ていたのかはわからない。俺が警察官だと知っている訳もないし、助けを求めてのことではきっとない。

  だがそれでも、二週間もの間脱出の糸口も掴めず、奴らにされるがままいいように陵辱されているだけの情けない自分が、自分より長く虐げられ続けている彼の目を真っ直ぐに見返すことが、どうしても難しかったのだ。

  そうして顔を背けていた俺の目の前に、べしゃりと濡れた音をたてて何かが降ってきた。

  見下ろせば、顔のすぐ真下にある半円状の容器に、茶色いペースト状の物が並々と盛られている。

  すぐ傍らを見上げると、いつからそこにいたのか、表情のないツナギ姿のシマウマがバケツと柄杓を手に佇んでいた。

  そしてそのまま、こちらに一瞥すらくれることなく向かいの虎の方へと脚を向けると、同じようにバケツの中身を柄杓で掬い、それを容器の中へと放り込んでいく。同じ動作で、端から順に、同じ事を繰り返す。

  その光景は、まるきり厩舎の給餌だ。

  正しく。その通り。

  目の前に盛られたこのどろりと濁った茶色のペーストが、俺に与えられた朝の食料⋯⋯『餌』である。

  「⋯⋯ヨシ」

  陰気な声が、遠くから聞こえた。

  それを合図に、鉄格子から顔を出していた男達が一斉に餌箱へ頭を突っ込み、音をたててペーストを貪り始める。

  当然、向かいの青年も。

  そして、それに混じって、俺も同様にペーストへ口をつける。手を使わず、浅ましく、犬喰いで。

  無論抵抗がなかった訳がない。今だって、屈辱を必死に噛み殺して無心に口を動かしているに過ぎない。

  しかしこうでもしなければ、身体が保たないのだ。

  実際に最初の一日目、この『餌』と犬喰いの強要をキッパリと拒絶した結果、水さえ与えられないまま一昼夜苛烈な拷問に晒され、本当に死ぬような思いを味わわされたのも記憶に新しい。

  そうして、最初に生殺与奪の権限を完全に握られていることを思い知らされたことで、その後はいかに屈辱的な行為を強いられる場面でも、何とか自分を説き伏せて今日まで耐え続けることが出来た。

  尊厳やプライドよりも、今は生きることを優先するという選択をしたのだ。

  こんな日々が、いつまで続くのか。

  誰も答えてはくれないが、この先いつ何時脱出の機会が巡ってくるとも限らない。

  そのためにも、日々栄養を摂取することは必要不可欠である。

  そう自分に言い聞かせ、俺は懸命に口を動かした。

  味付けはまるでなく、食材をそのままミキサーしただけのペーストは、殆ど咀嚼する必要もなく喉を通っていく。それでも、朝晩の二度で必要な栄養素とカロリーを補給するため、一回に出される量はそれなりに多い。加えて、非効率な犬喰いの所為もあって、全て食べきるまでには毎回それなりに時間がかかった。

  その時間を、奴らは決して無駄にしない。

  いつものように、背中の後ろで独房の扉が開く音がした。

  だからといって、迂闊に振り向くことは出来ない。何せもう、二度も実践済みだ。

  その二度とも、立ち上がるよりも早く背中にスタンガンを突き立てられ、激痛で気絶するまで電撃を食らわされた。その後、意識が戻ってから待ち受けていた壮絶な仕打ちを思えば、三度同じ愚を犯そうとは思えなかった。

  ドスドスと、無遠慮な足音がすぐ背後へと近づいてくる。

  これから行われることを思うとすぐにでも逃げ出したくて仕方がないが、鉄格子を強く掴み、目を瞑ってその衝動を抑え込む。

  しかし、身体を強張らせてばかりもいられない。口は変わらずペーストを貪りながら、意識的に大きく呼吸を繰り返す。筋肉の緊張を解し、特に下半身を脱力させる。

  そうしていると、四つん這いになっていた両足の間で、密閉されていた蓋が持ち上げられたのがわかった。その下は、独房の地下を流れる水路へと繋がっている。言葉を取り繕わずに言うなら、下水だ。

  そして、背後の人物が独房の外から引き込んできたホースを、すぐ後ろまで引きずってくるのを気配で感じる。

  何度されても、これだけは慣れない。

  「ぅっ⋯⋯」

  思わず、口が止まって小さく呻きが漏れた。

  剥き出しのまま晒されていた肛門へ、金属製のノズルが挿入される。太さはさほどでもないため、圧迫感は少ない。先端が丸く、首元が括れた形状をしており、自然には抜け落ちにくい構造になっている。

  そして次の瞬間、そこから温かいお湯が勢いよく流れ込んでくるのを、嫌でも感じてしまう。

  ダメだ。意識するな。

  下半身から伝わってくる感覚を必死にシャットアウトして、俺はがむしゃらに餌を喉に流し込んだ。

  ここでの朝は、必ずこの食事と洗浄から始まる。他の独房でも、皆同時に、一斉に行われているハズだ。

  あまりに人間性を無視したこの非人道的な扱いに、憤る気持ちは今も失っていない。

  だがそれでも、今の俺にはこの非道を黙して享受するより他に、自身を守る術がないのだ。

  一回、二回、三回。

  繰り返される辱めに身悶えしながら、俺は餌箱に残された最後の残り滓まで丁寧に舐め取り、朝食を全て平らげた。

  「⋯⋯っ、ぐ⋯⋯ッ」

  だが、洗浄が終わらない。

  いつもなら、大抵食事が済むのとほぼ同時に後ろの洗浄も終わるハズだが、今日はヤケにしつこい。

  それだけじゃない。一度に入れられるお湯の量が、明らかに多い。普通なら二、三秒毎にノズルを抜かれ、直腸部分の汚れがなくなるまで排出を繰り返すだけだが、今は違う。

  まだだ、まだ入れるのか?

  腹が、重く張ってきた。水流で押し拡げられる腸壁が、ジワジワと痛みを訴え始めている。もう、かなり苦しい。

  額に脂汗が滲む。膝が震えだした。

  「ぅッ⋯⋯くッ」

  堪らず呻きが漏れたところで、俺はようやく解放された。

  ノズルが引き抜かれ、途端に大量のお湯が勢いよく噴出する。自分の尻の穴から、音が聞こえる程の勢いで液体が迸っていく感覚に、忘れかけていた羞恥心が顔を焼く。

  だが、恥ずかしがってばかりもいられない。鉛を飲んだような腹痛を抑えながら、グッと息を止めて腹圧をかける。

  さっきので、明らかに直腸よりも奥に水が入った。それも全て出しきってしまわなければ、後になってから後悔することになる。

  まだ二週間程の短い経験ではあるが、それでも少なからずここで学んだ教訓の一つだ。忌々しいことだが、馬鹿には出来ない。

  「⋯⋯っはぁ」

  何とか、注ぎ込まれたお湯は全て出せただろうか。

  ガタンと重い音が響き、排水口の蓋が再び閉じられる。

  ホッと息を吐いたのも束の間、鉄格子を握っていた手を背後から掴まれ、力ずくで頭の後ろへと回された。

  そうだ。安堵している場合じゃない。

  これはあくまで、これから始まる地獄の為の準備でしかないのだから。そのことを思い出し、憂鬱さに肺を押し潰されそうになる。

  手首に嵌められたままの革手錠を首輪の金具に繋がれ、両足の枷も短い鎖で繋げられる。

  「立て」

  短く命じられるまま、俺はよろめきながらも何とかその場に立ち上がった。両手が使えないこの不自由な姿勢では、普通に立ち上がるのでさえ一苦労だ。

  気怠さを押して振り向くと、ニヤニヤと卑しく笑うハイエナと視線がぶつかった。先程餌を配りに来たシマウマと同じく、“厩務員”であるとこを示す灰色のツナギ姿ではあるが、そのスタンスはシマウマとは対照的であるらしい。

  一切の感情を見せないシマウマと違い、この男は嗜虐心をまるで隠そうとしない。

  全裸で拘束された俺の身体を上から下まで舐めるように見回し、ベロリと舌なめずりまでして見せる。

  先程、無駄に長く俺の尻にお湯を注ぎ込んだのもワザとだろう。

  コイツらは“トレーナー”とは違って、俺達のような“畜生”と性的な接触を持つ権限はないらしい。だから時折、こうして他にバレないようなタイミングを見計らって、細かい嫌がらせのようなちょっかいを度々繰り返してくる。

  迷惑なことこの上ないが、それでもこちらには文句を言えるだけの権利もない。精々が、苦々しい思いを噛み潰して睨みつけてやることぐらい。

  そんな、抵抗と呼ぶことも出来ない虚しい俺の態度を鼻先で一笑に付し、ハイエナは俺の首輪へ乱暴に鎖を繋いだ。

  「ぐッ⋯⋯」

  この野郎⋯⋯いい気になりやがって。

  ヘラヘラしたその顔つきも、抵抗出来ない相手を前にイキがるその態度も、丸きり普段相手にしてきたチンピラそのものだ。

  手足が自由なら、こんな状況でなければ、一捻りでねじ伏せて検挙数の足しにしてやるところだ。

  しかし現実は冷たく、俺はこんな若造になすすべなく首輪を引かれ、いいように扱われてしまう。

  前のめりに転びそうになりながら何とか足を踏み出し、ハイエナについて独房から連れ出されると、既に廊下には俺と同じ全裸の男達が一列に並んで待っていた。

  彼らのことは、何も知らない。向かいの青年同様一度も言葉を交わしたことはなく、名前も年齢も、それぞれがどのぐらいここにいるのかも知らない。

  それでも恐らくは、俺と同じように何処からか拉致され、自らの意思とは無関係に暴行を受けている被害者達のハズだ。

  数は四人。俺を含めれば五人になる。

  俺はその列の最後尾、少し小柄なビーグルの後ろへと並んだ。

  若い、と言うよりは幼い印象を受けるその顔立ちは、控えめに見積もっても十代後半、いや義務教育を終えたか否かという年齢にしか見えない。普段、生安の公務で一番接することの多い年頃の少年だ。

  その裸の背中を見ていることしか出来ない己の不甲斐なさに、忸怩たる思いばかりが募る。ここにこうして立っている一分一秒が、俺の警察官としての矜持をすり減らしていくようだった。

  しかし、立ち尽くしてばかりもいられない。

  首輪と足枷の鎖を、それぞれ少年の首輪と足枷へと繋がれると、先頭に立つ厩務員の号令で足並みを揃えて行進が始まる。

  刑務所の囚人さながら⋯⋯いや、一般の受刑者はこんな不当な身体拘束を受けることはないか。

  一歩進む度、裸足の足音と鎖の音が重なって響く。歩幅が制限されているため、鳴り響く音は鈴を振るように小刻みに廊下をこだまする。

  ここに来てから、もう十回以上こうして隊列を組んで廊下を歩かされてきたが、未だに何処をどう歩いて移動したのか覚えられずにいる。目指す場所は毎度同じハズなのだが、通る道順は都度違う。代わり映えのしないコンクリート造りの通路を複雑に折れ曲がり、時折鞭やスタンガンで打たれながら、距離も方向もわからず延々鎖に引き回されている内、自分がどのぐらい歩いたのかもわからなくなってしまう。

  そして今日も、気付けば同じ鉄扉の前へと辿り着いていた。既に見るのも嫌になった、物々しく分厚い、両開きの扉。

  先導していたハイエナが重そうにその扉を開き、続いて先頭から順にそこをくぐっていく。

  そうして到着したのは、テニスコート一面分程の空間。当然のように窓はなく、四方を冷たいコンクリートに囲まれ、今入ってきた扉の他に外へと通じているのは、隅に二つある換気用のダクトのみ。

  殺風景と言えばそうだが、しかし何もないと称するには見過ごすことの出来ない異物が、等間隔に整然と床に並んでいた。

  地面から天井を目指すように屹立する、大小様々な男根を模した、黒いシリコン。所謂ディルド、古い呼び方をすれば張り型だ。

  それが、左右の壁沿いに並んで、片側五本ずつ計十本。天井から照らす水銀灯の冴え冴えとした光を受け、艶やかな光沢を放っている。

  そして、向かって右側の列には、既に先客が待っていた。

  どうやら俺が遅れた所為で随分先に到着していたらしい、別の五人の男達。皆一様に両手は頭の後ろ、足を肩幅に開き、丁度足下のディルドを跨ぐようにして横並びに整列している。

  一番手前には、お向かいさんの虎の青年の姿もあった。

  遅参を詫びる暇もなく、俺達もまた彼ら同様に列を横一列へと切り替え、ディルドを跨いで整列する。その間、両足の枷は床に設えられた金具へそれぞれ固定され、碌に身動きが取れなくなった。

  足下からこちらを睨み上げてくる猥褻物をチラリと盗み見て、込み上げてくる憂いを音もなく吐き出す。

  何度こうしてこの場に立っても、一向に慣れる気がしない。

  それはそうだ。見た限り、そこに聳える山嶺は、昨日見たそれよりも明らかに太く、大きくなっている。日に日にサイズが増しているのは明白だ。

  それがもたらす感覚を思うだけで、石を飲んだかのように胃が重く痛んだ。

  「遅刻した癖によそ見とは、いい度胸だなD465」

  カツン、と硬い音がコンクリートを蹴り、目の前に陰がかかる。

  見上げれば、俺がこの世で最も憎悪する男が、鼻先程の距離からこちらを睨んでいた。

  岩塊から荒々しく削りだしたような岩肌を黒いハーネスで締め上げ、下半身にはレザーのチャップスとビキニという、いかにもいかがわしい異装に身を包んだ、巨躯のシロサイ。

  自らを「ボス」と名乗り、この施設の中で俺へ直接的な危害を加える機会が最も多い男。他にも何人もいるらしい“トレーナー”の中で、中心的な立場にいると思しき男だ。

  ここに来てからの二週間、俺は毎日この男の手によって筆舌に尽くし難い暴行と辱めを受けてきた。そして今日もまた、これからまた、新たな陵辱を受けることになるのだと思うと、胃だけではなく肺にまで石を詰め込まれたような圧迫感で、肋が軋んだ。

  「⋯⋯申し訳ありません、ボス」

  喉に詰まった石を吐き出すような思いで、心にもない謝罪を口にする。思考と口を完全に切り離して、思ってもない台詞を舌に乗せることにも随分慣れた。

  それがどんなに屈辱的な言葉だろうと、定型句だと思えば「いらっしゃいませ」や「お箸をお付けしますか」と何ら変わらない。

  気に入らない上官や、道端で酔っ払った爺さんの相手をする要領と同じだ。

  面従腹背。

  いつでも喉元に食らいついてやるだけの殺意を腹に隠しながら、上っ面だけは従って見せる。それが、今俺に出来る精一杯の奴らへの抵抗であり、身を守るためには仕方のない選択だった。

  「遅刻への罰だ。今日は錘をいつもの倍にしてやる」

  しかし、素直に従ったからといって、苦痛から逃れられる訳ではない。

  理不尽な仕打ちは、いつも予想出来ないタイミングで、想定外の方向から俺を襲う。

  「どうだ、嬉しいだろう?」

  「っ、はい、ありがとうございますボス」

  一瞬ぎくりと躊躇してしまったが、何とか間を置かず返事をすることが出来た。

  いつもの倍、その言葉がもたらす苦痛を想像しただけで、身が竦みそうになる。

  俺の返事に満足したらしいシロサイが、ニヤリと下品に口元を歪めながら取り出したのは、鈍く光る二つのクリップ。

  と言っても、書類を挟むための物では当然ない。それぞれに小さなリングが取り付けられており、今は小振りな分銅が二つずつぶら下げられている。

  男はそれを、何の断りも遠慮もなく、俺の左右の乳首へと噛みつかせた。

  「っ、⋯⋯」

  声こそ堪えはしたが、思わず顔が歪んでしまう。

  昨日の痛みが、まだ奥に残っているようだった。すぐにズキズキと、疼くような痛みが表面に蘇ってくる。

  毎日のようにこうして嬲られ続けてきた俺の乳首は、二週間前とは比べ物にならない程色赤く、そして大きく肥大してしまっていた。今では、寒気を覚えると毛皮越しでも微かに頭が浮かび上がって見えてしまう程だ。

  加えて、神経も過敏になってしまっている気がする。

  そこまで強くないハズのクリップの力でも、時間が経つにつれまるで焼けた火箸を押し当てられているかのような、烈しい苦痛へと移り変わっていく。

  そこに加えて、

  「ィ⋯⋯っ、ッ⋯⋯!」

  左右に二つずつ、分銅が追加でぶら下げられる。

  重さに負けて下へ引き伸ばされていく乳首に、想像以上の痛みが脈を打つ。身体の震えに合わせて振り子が揺れる度、身を裂かれるような激痛で余計に全身が戦慄いた。

  だが、歯を食いしばって、耐える。

  こんなものは、ただの痛みだ。ただそれだけならば、俺はいくらだって耐えてみせる。これまでも、そうやって何だって乗り越えてきたのだ。

  俺は唇を引き結んで顔を上げ、正面からシロサイを睨み返した。

  対するシロサイはと言うと、俺の意気を鼻先ですかし、目を合わせようともせずにあっさりとその場で踵を返した。

  そしてドスドスと大股で部屋の中央まで歩いていき、そこでガツンと踵を踏み鳴らす。

  「おはよう畜生共」

  『おはようございますボス!』

  十人の声が一斉に重なった。

  毎朝繰り返してきたルーティンだ。声を出すタイミングもピタリと揃って、嫌なことに随分慣れてしまったものだ。

  「今日も朝から愉しい愉しい調教の始まりだ。そうだな⋯⋯今日の口上は代表してD465にやってもらおうか」

  普段はこのまま、全員でとあるふざけた文句を唱和することになるのだが、何の気まぐれか、今日に限っては俺一人にそれを言わせるつもりらしい。

  忌々しい限りだが、無視することも出来ない。

  乳首の痛みを宥めながら、俺は静かに息を吸い込んだ。

  内容はもう頭に入っている。台詞の意味を考える必要はない。

  警察学校時代、教官の前で服務の宣誓を繰り返しさせられたのと同じだ。違うのは、そこに何の意義もないことだけ。

  可能な限り頭の中を空っぽにして、俺は口を開いた。

  「はい、この汚らしい口を開くことをお許しくださりありがとうございますボス。⋯⋯我々は、名前も、価値も、生きる意味も権利もない、卑しく薄汚い畜生です。こんな惨めで哀れな我々を拾い、保護して下さった皆様に日々感謝し、一日も早く有用な家畜としてご奉仕出来る存在となるため、本日も厳しく愛ある調教を宜しくお願い致します」

  何とか噛まずに言い切ることが出来たが、舌が腐り落ちそうな不快感に吐き気がする。心にもないこととは言え、自分の口からこんなふざけた文句が垂れ流されている事実に、臓腑が焦げ付く。

  表情に出さずに済んだだろうか。声色に険が含まれていなかったか。

  シロサイは、俺のほんの些細な反応にさえケチをつけてくるから油断ならない。

  チラリと横目に表情を盗み見てみたが、どうやら特段何か不興を買ったような様子は見られない。

  「フン⋯⋯まぁいいだろ。それじゃ全員構え!」

  気に食わない物言いには違いなかったが、それに反発する意味もない。

  シロサイの号令に従い、十人が一斉に動き始める。と言っても、その場から動くことが出来ない以上、出来ることと言えば体勢を変えることぐらいだ。

  足は肩幅。両手も変わらず頭の後ろ。背筋を伸ばしたまま膝を曲げ、ゆっくりと腰を落とす。

  そうして、各々股の間にそそり立っていた黒いディルドの真上へ、自らの肛門を導いていく。

  ふぅ、と口から漏れた溜息は、力を抜くためのついでだ。

  いくら吐き出しても胸は軽くならないが、それでも溜め込めば心を重く押し潰す。こんな所で、こんな事で、俺はまだ潰れる訳にはいかないのだから。

  「スクワットはじめ!」

  覚悟を決め、俺はゆっくりと腰を下ろした。

  「ぐッ⋯⋯!」

  穴の縁が、大きく引き延ばされていく。

  やはり、太い。まだ頭の半分も越えていないというのに、既にギチギチと危うい感触が伝わってくる。括約筋に込める力加減を誤れば、すぐにでも裂けてしまいそうだ。

  苦痛を堪え、慎重に、だが時間をかけてもいられない。ペースが遅れれば、容赦なく鞭が飛んでくるのは経験済みだ。

  腰を下ろす動きに合わせ、肛門で咀嚼するような要領でイキむ。毎朝繰り返す度、こんな事がすっかり身についてしまった。

  呼吸も合わせ、着実に異物を尻の中へと飲み込んでいく。

  身体を内から広げられ、肉が軋む感覚。滑らかな表面が腸壁を滑って入ってくる感触。本来の出口へ、侵略者が遡航してくる圧迫感。

  その全てを飲み込み、俺は何とか膝を曲げきってディルドの根本へと到達した。

  「は⋯⋯ぁっ」

  しかし息をつく暇はない。

  「イぃーチ!」

  『ィいーちっ⋯⋯!!』

  シロサイの号令に合わせ、掛け声を上げながら膝を伸ばす。

  雁首を越え、ディルドが抜けるギリギリのところまで。そこで制止。

  「ニィー!」

  『にぃー⋯⋯っ!!』

  再び、一気にしゃがみ込む。

  その度、掛け声では消せない粘着いた音が広場に響く。

  全裸で横一列に並ばされ、床に固定されたディルドに跨がって、それで自ら肛門を犯す。

  最悪に屈辱的な日課だ。

  これを、毎朝必ず百回行う。それが一日の調教の始まりだった。

  単純なスクワット百回でも充分キツいところだが、それに輪をかけて、太いディルドを繰り返し直腸へ出し入れしなくてはならないのが尚辛い。肉体的にも、精神的にも。

  この時ばかりは、乳首にぶら下がる錘がありがたかった。痛みが、僅かでも肛門からの感覚を紛らわせてくれるからだ。

  「っん、⋯⋯く、ふ」

  掛け声の隙間に、息を漏らす。

  ああ、ダメだ。くそったれ。

  身体が慣れてきた。

  苦痛で誤魔化していた感覚が、官能が、俄に鮮明になる。

  ディルドを飲み込む度、張り出した雁首が出入りする度、いや、直腸内である一点を掠める度、ジンと甘い疼きが響く。

  それは熱い滾りを込み上げさせ、前へと滲むように送り出す。

  否定しようのない、快感。

  ここに来て知ってしまった、前立腺を刺激される快楽。肛門で感じる悦楽。

  その背徳的な味が、俺を苛む。

  自ら腰を上下する度、鉄の枷に押し込まれた俺の性器から絶えず透明な糸が滴り落ちていく。中身は、もうずっとパンパンだ。

  自分の浅ましさに、何度失望したことだろう。

  日に日に、日を追う毎に変えられていく身体。一日一日を乗り越える度、後戻り出来なくなっていく肉体。

  もしもこのまま毎日調教を受け続けたら、俺はこの先本当に奴らの言う『家畜』とやらになり果ててしまうのではないか。

  それが堪らなく恐ろしく思えたが、その恐怖さえ、尻から湧き上がる快感に紛らわされてしまう。

  乳首を嬲る痛みも、その奥に疼くような熱を帯び始めた。

  「ぁっ、は⋯⋯んっく」

  口から溢れる喘ぎは、疲労による息切れかそれとも恍惚の表れか、自分でもわからない。

  「よぉっし、そこまで」

  百を数え終わる頃には、足下に汗と汁で小さく水たまりが出来ていた。

  しゃがみ込み、ディルドを奥までくわえ込んだ体勢のまま、全員が息をつく。

  華奢で体力に恵まれていない隣のビーグルなどは、ペースに遅れがちで身体に毛皮の上からでもわかる程、幾つものミミズ腫れを刻まれていた。

  苦悶に顔を歪めながら呼吸を整える彼に、手を差し伸べてやることも許されない己の無力が憎い。それどころか、自分の快感に耽って下半身を腫らしている俺なんかに、そもそも手を差し伸べるような資格などないのではないか。

  自分という存在に対する肯定感を、維持出来なくなりつつあった。

  これも、奴らの調教の成果だろうか。

  「休憩終わりだ。サッサと次いくぜ」

  休憩と呼べる程の暇などなかっただろう。

  未だ乱れた息のまま、抗議を込めて睨み上げた視線の前に、シロサイが立ちはだかる。

  しゃがみ込んだ姿勢の俺の鼻先へ、自らの股間を突き出すようにして仁王立ちし、遙か上から見下す巨漢。

  次のメニューはわかっている。わかっているからこそ、俺は牙を剥いてヤツを睨み続けた。

  そんな俺の視線など意に介さず、シロサイは股間を覆っていたビキニパンツを目の前でずり下げ、その男根を露出させた。

  周囲でも、十人それぞれの前に一人ずつトレーナーが立ち、思い思いに陰茎をぶら下げる。

  「んじゃ、いつも通り制限時間は二十分な」

  男の声が頭の上を飛び越していく。

  いくらヤツにガンをつけてやっても、無駄なのは明白。俺の視線は、すぐに次の脅威へと向いた。

  鼻先へダラリと垂れ下がるそれに、生理的な怖気が走る。同性の性器をこんな距離まで近づけられて、嫌悪感を抱かない人間の方が少数派だろう。

  赤黒く色づいた、ピンポン玉程もあろうかという亀頭。皮は根本まで剥けきり、ズシリとした重量感が見て取れる。太さも長さも、平常時とは思えないサイズだ。

  それを前に、男としての畏怖からか、喉が小さく音をたてた。

  「よーい、はじめ!」

  シロサイの掛け声が響く。

  同時に、俺は男の股間に向かって一気に口を開いた。

  それに牙を突き立てられたら、どれだけ良かっただろう。

  だが、俺にはもう二度とそんな真似は出来ない。

  『畜生』から『便器』に格下げされるのだけは、もう二度と御免だ。

  忌まわしい記憶を過去に投げ捨てて、俺は一心不乱に口の中の陰茎へ吸い付いた。

  吐き気は止まらない。

  自分から、いったい何て真似をしているんだ、俺は。他人の男根を口に含むなど、正気じゃない。

  もうとっくに、正気ではいられなかった。

  両手は使えないまま、頭を前後に揺さぶりながら音をたててそれを舐め回す。

  味は特にしない。柔らかくプルリとした舌触りは、蒟蒻に近い。

  目を瞑り、それが他人の男根だという事実を頭の中から追い出し、必死に口を動かす。唾液を溜め、それを全体に塗りつけ、唇で柔らかく食みながら吸い上げる。

  望まずとも身についてしまったその口遣いの甲斐あって、口の中のそれがゆっくりと硬くなり始めるのを感じた。

  「う⋯⋯ぐ」

  それに伴って、当然ながら口腔内の容量は次第に圧迫される。舌が奥へと押しのけられ、上顎と下顎を内から割り開くように肉が膨張する。

  完全に勃起されると、根本まではどうしても咥えられない。喉を突かれる前に何とか頭を後ろに引いて逃れる。

  「ッぐ、ごェッ!?」

  だが、俺が逃げるよりも先に、追いかけてきた一突きが容赦なく俺の喉を捉えた。

  思わず、今朝胃に入れたペーストが戻ってきそうになるのを気力で押し返し、涙の滲んだ視界でヤツを睨む。

  ボヤケた輪郭の中でも、その忌々しい笑顔だけはハッキリと見てわかった。

  感情的にだけはならないよう、鼻から落ち着いて息を吸う。噎せ込みそうになるのを堪え、吐き気を抑え、俺は再び口を動かし始めた。

  制限時間は二十分。

  この二十分以内に、口だけを使ってトレーナーを射精させるのがこの課題だ。

  自分の口の中に射精されるなど、想像するだけで身の毛がよだつが、そう簡単な話ではない。

  同じ男が感じる部位については、まぁわからないでもない。自分自身の敏感な箇所を考えればいい。しかしそれを口だけで刺激し続け、射精するまで快感を高めるのは、ハッキリ言って至難の業だ。

  実際に、俺は今まで一度もこの男をイかせられていない。サイズがデカ過ぎて口に収まり切らないのと、相当な遅漏れであるらしいことを差し引いても、いくら時間をかけたところでイかせられるような気がしない。

  本気でイかせたいだなんて夢にも思っていないが、出来なければ出来ないで罰が待っている。

  そのジレンマに挟まれながら、結局時間ばかりが過ぎていく。

  そうして今日もまた、男が射精感を覚えている素振りすら見せないまま、時間切れを報せるブザーが空虚に鳴り響いた。

  「おーし、そこまで」

  シロサイの言葉に合わせ、口からヤツの男根を吐き出す。

  自分の口と男の性器が、唾液の糸で繋がっているのを目の当たりにして、思い出したように再び吐き気がせり上がってくる。

  こんなものを自分から口に咥えていただなんて、一秒前の自分を殴り倒したくなる。

  しかしその感情も、もはや毎朝のことだ。

  男に気づかれないよう、噎せる演技に合わせて唾を吐く。それで、口の中に居座る男の名残をいくらか始末出来たような気がした。

  「モーニングルーティンは以上。各々休憩挟んだ後、個別調教に移れ」

  今のは、シロサイから他トレーナーに対する指示だ。それに思い思いの返事を返しながら、黒革の異装に身を包んだ男達が一人一人自分の担当する『畜生』を連れ、この場を後にしていく。

  俺とシロサイは、決まって一番最後だ。

  向かいの虎が大柄なシロクマに連れ出されていくのを見送った後、シロサイが改めて俺に向き直る。

  「⋯⋯ったく、デキの悪いヤツだな。いつまで経っても上達しやがらねぇ。やる気あんのか?」

  ねぇよ。

  そう口から飛び出さなかっただけ、大した進歩だ。

  シロサイは、未だ勃起して硬さを保ったままの男根を振るい、それで何度も俺の頬を叩く。別に痛いものじゃないが、その屈辱は拳で殴られるよりも遙かに重いダメージとして俺の心へ響く。

  「⋯⋯申し訳、ありません」

  震える声を喉の筋肉で引き締め、なんとかそれだけ絞り出した。

  「謝っときゃいいと思ってんじゃねぇぞ落ちこぼれが。覚悟しとけよ、今日もみっちり扱いてやるからよ」

  「ありがとうございます⋯⋯」

  両脚を床の金具から解放され、ようやく立ち上がる。

  ゆっくりと膝を伸ばすにつれ、深く入りっぱなしだった異物が抜け出ていく感触に、思わず鳥肌が立つ。雁首部分が肛門を通り抜けるタイミングで、再び滴が床に向かって糸を引いた。

  それを見ないようにしながら、しゃがんだままで凝り固まっていた背筋を伸ばそうとするも、間もなくすぐに首輪へリードを繋がれる。

  「く⋯⋯ッ」

  首が絞まる感覚に、堪らず苦鳴が漏れる。

  先に歩き出したシロサイは、もうこちらを見向きもしない。自分の歩幅も歩くペースも、一切考慮していない足運び。

  両手を首輪に繋がれたままの不格好な姿勢の俺には、その足取りについていくのも一苦労だ。乳首に付けられたままの錘も、踏み出す足の動きを鈍らせる。

  それでも、文句の一つもこぼさず大人しくシロサイの後を付き従う。

  部屋を出て、再び長い廊下を複雑に折れ曲がって進む。道順を頭で追うのは、早々に諦めた。

  朝のルーティンワークの後、連れて行かれる場所はいつも違う。ここには用途の違う調教部屋が幾つもあるようだが、いったいどれだけの種類があるのか、その全容はまるで見えてこない。

  その所為もあって、これからいったいどんな目に遭わされるのか、予想して身構えることさえ碌に出来なかった。

  そう思っている内に、どうやら今日の目的地へ到着したらしい。

  他と代わり映えのしない鉄の扉をくぐり、シロサイに続いて中へと入る。

  広さで言えば、先程の空間と比較して随分と手狭な印象を受けた。床面積は目測で六畳程しかないだろう。

  だが、四方の壁どころか天井までもが全面鏡張りになっており、実際の広さを錯覚してしまいそうな造りになっている。

  そんな異様な空間の中でも、一際目を引くのは、中央に鎮座する革張りの椅子だった。

  無論ながら、それもただの椅子ではない。普通に腰掛けるには幾分高さがある上、背もたれがかなり後ろに傾いた姿勢をしている。これでは座るというより、寝そべるといった方が用途として近い。

  加えて、オットマンと呼ぶには些か以上に奇異な形状をした台座が、足元の位置から伸びていた。もしそれに足を乗せようとすれば、大きく股を開いた体勢を取らざるを得なくなるだろう。

  などと、遠回しにそれのことを言い表してはみたが、それが何なのかなど、一目見たときからわかっていた。

  所謂、分娩台である。

  と言っても、その名称が適しているかどうかには疑問符がつく。

  何せ、その用途が分娩でないことは明白なのだから。

  ここに妊婦はいない。

  なら、そこに乗せられることになるのは誰か。

  「おらっ、ボサッとすんな」

  首輪を引かれ、たたらを踏んで椅子の前まで歩み出る。

  間近に立ってみれば、やはり座面の高さがより際立って感じられた。俺の腰の位置よりもまだ高い。もし無理してそこに座ろうとするなら、助走でもつけて飛び乗る必要があるだろう。

  足場らしき物も見当たらない。

  いったいどうしろと言うのかと当惑していたところ、ふと正面に影が差した。ハッとして見上げるよりも早く、両脇に腕を差し込まれ、そのままいとも容易く、無遠慮に抱え上げられる。

  「ぅ、おッ⋯⋯!」

  何度経験しても慣れない。両足が地面から離れ、自分の身体が軽々と浮き上がる現実離れした感覚に、思わず焦りが口からこぼれる。

  相変わらず、ふざけた腕力だ。

  体格差があるとは言え、それでも俺の体重を何でもない様子で持ち上げられるその怪力には、寒気を禁じ得ない。

  その悪寒が、もしもと想像させる。

  もしもこの力を、純粋な破壊力としてぶつけられたとしたら。例えばもしも、このまま男が気紛れを起こし、俺を頭から全力で地面へと投げ落としたとしたら⋯⋯

  俺の頭蓋は、熟れすぎたトマトのように、呆気なく、見るも無惨に床のシミになることだろう。

  足下に見えたコンクリートの僅かなくすみが、過去そうして出来たシミなのではないかとありもしない想像を働かせ、俺に迂闊な行動を躊躇わせた。

  そうしてされるがまま、背中を革張りの背もたれへと沈める。寝心地は、案外悪くない。クッション性も程良く、長時間座っていたとしても苦にはならないだろう。

  しかし当然、寛いでいられる訳もない。

  両足をそれぞれ、左右分かれた位置へ伸びた足場へ乗せられる。ふくらはぎの曲面に沿うような半月状に窪んだそこには、当たり前のように足を固定するためのベルトが備えつけられている。

  加えて、胸元にも太いベルトを這わされ、胴体をガッチリと椅子に固定された。

  両手は変わらず首輪に繋がれており、これで俺は椅子の上で殆ど身動きが取れなくなった。

  身を捩って少しでも収まりのいい姿勢を探そうとしてみたが、胸を締め付ける圧迫感に負け、すぐに諦めた。溜め息と共に起こしていた首を椅子へと預け、天井を仰ぐ。

  それがよくなかった。

  天井に何があったか、この時俺はすっかり忘れていたのだ。

  視界に入ったのは、全裸で情けなく大股を開いた、中年太りのアライグマ。つまり俺だ。天井の鏡に反射した、今の俺の姿。

  乳首と股間にいかがわしい金属の飾りをぶら下げ、首輪まで着けたその姿は、何処からどう見ても日頃仕事で相対していた変質者のそれだ。

  今の自分の有様を客観的に見せつけてくるこの部屋の造りは、俺にとって劇物にも等しい。

  鼻の奥が焼けるように痛む。瞼がヒリヒリする。耳が火傷しそうだ。

  顔を背けたくて、身を隠したくて、逃げ出したくて、全身が戦慄く。

  だが、身体は椅子から離れない。拘束は、固く、重く、俺をその場に縛り付ける。

  「照れるなよ。せっかくいい格好してんだから、目ぇ開けてよっく拝んどけ」

  「ふッ⋯⋯っ!」

  ざけんな、と続きそうになった言葉は、辛うじて飲み込んだ。

  眼窩に、赤熱した鉄球を押し込まれたかのようだった。煮え滾った血が網膜の血管を焦げ付かせ、瞳孔が軋みを上げて開く。

  数秒前に感じていた腕力差への畏怖も、頭に上った血で全て押し流されてしまった。

  「おぅおぅ、威勢だけはいつでも一丁前ってか? 俺としちゃあ愉しみ甲斐があって結構なことだがよ、それじゃあいつまで経っても家畜として卸せやしねぇ。悪ぃが、ウチも穀潰しをいつまでも食わせちゃやれねぇんでな」

  そう言い残すと、シロサイは踵を返して一度部屋から出て行った。

  そして五分とせず、再び戻ってきた。

  その短い間で、何かしらの用意をしてきたことは想像に難くない。事実、戻ってきた男の両手には、大きなジェラルミンケースが二つ重そうにぶら下がっていた。

  「あんましこういう手は趣味じゃねぇんだが⋯⋯ま、仕事に趣味持ち込んでるようじゃプロとは言えねぇよな」

  それぞれのケースを床に置き、独り言を続けるシロサイ。

  そうして床にしゃがまれると、俺の視界からはヤツの背中しか見えなくなる。

  パチパチとロックを外す冷たい音が聞こえ、ケースの中身を取り出しているであろうことが気配だけが伝わってくる。

  金属製の何かを組み立てるような音。厚手のビニールが擦れる音。プラスチックが割れるような音。

  これまでの調教ではあまり聞くことのなかった音の数々に、不気味さが募る。

  固唾を飲んで男の背中を見守っている内、もったいつけてようやく視界に入ってきたのは、細い銀色のポールだった。先程の金属音は、これを組み立てていた音だったようだ。

  脚でも付いているのか、それは地面と垂直に自立し、高さは二メートル程もある。先端はT字型になっており、何かをぶら下げるためと思しきフックまで付いていた。

  何処かで見覚えがあるような気がしていたが、察しがつかなかったのも数秒。立ち上がったシロサイが、そのフックへ何やら液体の入ったビニール袋を吊り下げたことで、既視感もすぐに氷解した。

  点滴台だ。

  それを、俺のすぐ傍らまで移動させ、見せつけるようにおもむろにゴム手袋を嵌めるシロサイ。

  「先生みたく上手かねぇからな。暴れたりしねぇでくれよ?」

  ビニールから繋がる長い管の先には、プラスチックの羽と、鈍く不吉に光る針が見えた。

  ゴム手袋に握られたその先端は、俺の左腕に冷たく狙いを定めている。

  男の意図も、脅し文句の意味も、嫌という程理解出来てしまった。

  俺の位置からは、点滴バッグに貼られたラベルの文字は読めない。まぁ読めたとしても、専門的な薬品の名称や効果が俺にわかるとは思えない。

  しかし、俺の身体にとって有益な物質ではないことだけは確かだ。そんな物を血管に直接注入されるなど、まっぴら御免である。

  だからと言って、無闇に抵抗することも出来ない。男の言葉は、下手に暴れでもすれば危険な箇所に針を刺しかねないと、俺を牽制するものだった。

  初日に見た白衣のチワワとは違い、目の前の男にマトモな医学的知識や技能があるようには見えない。

  そんな男から、正体もわからない薬品をデタラメな場所に注入されるかも知れないリスク。運が悪ければ、重要な血管に穴を開けられる恐れすらある。

  結局、揺れ動く天秤を止めることも出来ないまま、近づいてくる針先を見守ることしか出来なかった。

  「くッ⋯⋯!」

  斜めに穴の開いた切っ先が、毛皮を抜けて皮膚の下へ音もなく潜り込む。

  痛みは一瞬だけ。

  言葉とは裏腹に、シロサイの手つきは実に手慣れたものだった。

  針の根本にあるプラスチックの羽を、毛皮の上からテープで貼り付け、固定する。滴下速度の調整も手早い。

  先の言葉がただの脅しであったと気づいた時には、もう既に薬物が俺の血管へ流れ込んで来た後のことだった。

  ポタポタと、透明な管の中で次々に滴が落ちていく。

  どのぐらいで、身体に影響が出てくるものなのか。またどんな影響が出てくるのか。予測もつかない。

  そうしている間にも、シロサイはもう次の準備に取りかかっているようだった。

  足元にあるらしいジェラルミンケースから新たに取り出したのは、黒い楕円状のカップに、太い蛇腹の管が付いた異物。先程の点滴台と違って、既視感もなく、純粋に何だかわからない。

  困惑する俺を余所に、男はそれを片手に構えると、有無を言わせず俺の口元へと被せてきた。

  「ゥっ、ムぐぅウッ!?」

  抗議の声を上げる間もなく、口の中にシリコンの苦みがねじ込まれる。

  どうやら、カップの内側に太い棒状の突起物が固定されていたらしい。それを、おしゃぶりのように無理矢理咥えさせられた形だ。舌に触れる感触からして、ご丁寧にもわざわざ男性器を象っているらしい。

  カップは俺の鼻先を全て覆い、ラバーのクッションで隙間なく顔に密着している。

  そして、ゴム製らしきベルトで後頭部へ固定されれば、もはや猿轡と変わりない。

  それどころか、口を塞がれて鼻呼吸を余儀なくされた上、空気の出入りは密閉されたカップから、長い管を通してのみに限定される。

  息を吸うにも、吐くにも、普段よりも重い負荷が肺にのしかかる。

  その上、その唯一の生命線を文字通り手に握られている始末。

  もしも気紛れに、男がその先端を手のひらで塞いでしまうようなことがあれば、俺は一分と待たず、同じく文字通り息の根を止められてしまうことになるだろう。

  「ムッぅ⋯⋯ひゅッ⋯⋯!」

  シロサイの手の中で、喘ぐように管の先端が鳴る。

  吸っては吐き、必死に息継ぎをするそこを握りながら、しかし特別大した感慨も関心も見せず、男は無造作にそれを手繰る。

  そうして、何をする気かと見守っていた俺の視線の先に、いつの間にか点滴台に吊り下げられていた透明なボトルが飛び込んできた。

  容量は一リットル程だろうか。中は何やら無色透明な液体で半分程満たされているのが見える。

  まさか、と思う間もなく。

  男の手がボトルの口と管の先端を握る。

  「ムごッぐ⋯⋯んんぅウッ!!」

  椅子の上で暴れたところで、今更その手を止めることなど出来るはずもない。

  予感は悪いもの程当たる。

  男の手の中で、ボトルがクルクルと回される。その回転が進む程に、ジワジワと呼吸が詰まっていく。喉が痛む。鼻が熱い。

  水中で、ストロー一本だけを頼りに息を繋いでいるような感覚がした。

  「ぶッ⋯⋯ぐッ⋯⋯ごッ」

  重い。肺から、溶けた鉛を吐き出しているかのようだ。

  管と完全に接続されたボトルの蓋には、申し訳程度に弁のような物が付いているらしい。吐いた息が、か細い音をたててそこから抜けているのが辛うじてわかった。

  腹筋に力を込めて懸命に搾りきった肺を、続けて今度は力の限り膨らませる。空気を腹の底まで引っぱり込むように、全身に行き渡らせるだけの酸素を稼ぐため、深く、大きく。

  そうして管を通して入ってきた空気に、まず鼻を焼かれた。

  甘さとエグみを合わせたような、脳を揺さぶる匂い。知っている匂いだ。何度となく嗅いだことがある。

  捜査情報をホワイトボードへ書き込んだ際、外壁への落書き被害現場を確認しに行った際、建築現場の前を通り過ぎた際、公衆トイレにたむろしていた女子中学生を補導した際。

  匂いに紐付けられた記憶が、一斉に脳内を駆け巡る。

  その可能性に思い至った瞬間、反射的に息を止めようとしたが、遅かった。吸い込んだ臭気は既に肺腑の底深くまで染み渡り、血液に溶けて急速に心臓へと運ばれていく。

  視界が揺れる。世界が回る。眼球が縦に一回転したかのような錯覚に陥った。

  「ぐ⋯⋯ぼッ⋯⋯がッ」

  溺れる。溺れる。溺れる。

  ボコボコと、泡が溢れる音が聞こえた。

  裏返っていた黒目を気力で戻し、音の出所へ視線を向ける。

  焦点の定まらない視界の中、見えたのは無色透明の液体の中へ中程まで浸かった、細いゴムチューブ。逆側はボトルの外側まで伸びており、どうやらそこから空気を取り込んでいるらしいことがわかる。

  そして、チューブから入ってきた空気は、ボコボコと大きな泡となって液体の中を潜る。

  恐らくその液体には、有機溶剤に類する何がしかの物質が溶け込んでいるのだろう。

  息を吸い込む度、鼻を抜けた独特の匂いが脳を掻き乱す。心臓が暴れだす。耳鳴りがサイレンのようにうるさい。視界が異様に眩しく感じる。

  熱い。身体の内側は茹だるように熱いのに、体表面はヒヤリと冷たい。

  全身から、汗が吹き出してきた。

  濡れた毛皮が針のように尖り、その毛先に向かって滴が伝い落ちていく感触までも、一つ一つ感じる気がする。

  身体中がザワつく。そこかしこが擽ったくて、気がおかしくなりそうだ。

  何より、麻痺しかけていた乳首が、ムズ痒い。息苦しさに身を捩る度、乳首へ噛みついたままの錘がゴロリと胸の上を転がり、耐え難い疼きとなって神経を蝕む。

  今すぐ、そこを掻き毟りたい。可能なら、その真っ赤に色づいた肉片を、胸から引きちぎってしまいたかった。

  ガチガチと、首元で苛立たしげな金音が響く。首が絞まるのも構わず、俺の両手は狂ったように独りでに暴れ回っていた。

  息が、苦しい。

  激しくなっていく心臓の鼓動に急かされ、荒く、大きく鼻から息を吸い込む。

  そうして益々、肺に入り込んできたガスが思考を溶かしていく。

  「お⋯⋯ぃ、聞⋯⋯ぇ、か?」

  遠くから、近くから、波打つように声が寄せては返す。いや、もしかしたら幻聴だったかも知れない。耳鳴りと泡が弾ける音に紛れて、もはやよくわからない。

  天井の鏡に写る自分が、七色にブレて見え始めた。大きくも小さくも、近くにも遠くにも見える。

  もうダメだ。正気を保っていられない。

  本当に気が触れてしまう前に、いっそ早々に意識を手放してしまう方が賢明なのではないか。

  違いない。

  そう結論づけるや、瞼から力を抜いた。吸い上げた空気が脳髄へ染み入るのに任せ、頭を軽くする。

  目の前で明滅していた虹色の波紋が、次第に白黒に滲み、やがて混ざり合って、暗く昏く、闇色へ沈んで⋯⋯────

  「っんぐゥうッ!?」

  しかし、突如として突き刺された衝撃が、目の前の暗闇を鮮烈に切り裂いた。

  「聞こえてるかって、訊いてんだよ」

  男の声が、鮮明に耳を打つ。鼓膜の振動が頭蓋の内側へ反響し、幾重にも連なって脳を揺さぶり起こす。

  堪らず喉を反らして、見上げた。

  自然と視界に入るのは、大きく股を開いたアライグマの虚像。その股の間。角度的に見えにくくはあるが、股間に隠れた後ろ側当たりに、黒い異物が見えた。

  ディルドか、バイブか、どうせそれらの類だろう。いきなり挿入された衝撃こそあれ、痛みもなくすんなりと入ったことからも、大きさはそれ程でもない。

  だが、どうやら形が普通とは違うらしい。もちろん見えている訳ではないが、“当たる”感触が違う。何やら、ピンポイントに前立腺を抉るような、そんな尖った形状をしているようだ。

  無意識に括約筋が締まると、グッと奥へ入り込もうとするその先端が強く内側へ食い込み、ブルリと下半身を震えさせる。

  鉄の殻の中で、愚息が泣き濡れているのを感じる。鈴口から亀頭周りがドロリと熱い。中はすし詰め状態だ。

  「碌に返事もしやがらねぇ。こりゃあ罰三倍だな」

  エコーがかかったようなシロサイの声が、何処か別世界で鳴っている音のように聞こえた。他国の言語を頭の中で翻訳しているような、言葉の意味を情報として処理するのに、いくらかタイムラグが生じてしまう。

  その間に、鏡の中でシロサイが動く。

  手にしているのは、何本かの細い紐。光沢のある黒色で、素材はゴムかビニールか。それぞれ先端部分にはワニ口のクリップが付いているのが窺える。

  それを、乳首の錘へ左右一本ずつ、股間の貞操帯へ二本繋げられた。

  その一部始終を目で追いながらも、今の俺にはそこから得られた情報を組み立てて理解するだけの思考力がない。男が何をしているのか。何をしようとしているのか。行動の意図、目的を想像することが、あまりにも難しい。

  僅かに残された脳のリソースは、今や多大な負荷と苦痛を要する呼吸の制御と、下半身からせり上がってくる抗いがたい快楽情報の処理で殆ど圧迫されていた。

  息が苦しい。キモチイイ。

  頭の中がその二色で塗りつぶされ、斑に混ざり合っていく。

  視界に写る全裸の男は、果たして誰だっただろう。贅肉の垂れただらしのない身体が小刻みに痙攣しているその様を見ると、何故だか無性に笑いだしたくなった。

  しかし、笑っていられる余裕など、すぐになくなった。いや、最初からありもしなかったのだ。

  「ぐ⋯⋯がッ!?」

  ドン、と身体の内側から殴られるような衝撃が走った。

  それも連続して。一定の間隔で。

  いや、時に変則的に、時に断続的に。

  ゴツゴツと硬い鈍器で、下半身を、特に前立腺を執拗に殴りつけられている。

  重く。強く。鈍く。

  内部から急所を突かれるにも等しいその感覚に、最初こそ痛みで背を反らしたが、それも束の間。息を飲んでぐるりと目を回した拍子に、すぐに胎内でその色を変えた。

  「ぐっ、んっ⋯⋯ぅっ!」

  抉り込む。

  何度も。何度も。自ら。独りでに。

  括約筋が、俺の意思とは無関係に、繰り返し強く収縮し、中に入った異物を自ずから自身の奥へと突き込んいく。

  まるで、望まない自傷行為を強いられているかのようだ。

  しかし、感じているのは既に痛みではない。膿んで爛れるような、今に病みつきになってしまいそうな、快感。

  ならばこれは、自傷ではなく自慰行為と呼ぶのが正しいのだろうか。自分の意思の介在しないこの行為を、自慰と呼ぶべきとも思えないが。

  そも、疑問視すべきはそんなことじゃない。

  自分の身体が、筋肉が、意思に反して勝手に運動しているという、この異常現象についてだ。

  自分の身に、いったい何が起きているのか。

  その答えは、思いがけない形で、思いもよらない場所にもたらされた。

  「むッぐ⋯⋯ぁッ!」

  ビクビクと、表皮で無数の泡が弾けるような刺激が連続して襲う。度重なる虐待で敏感になっていたソコは、与えられたその不可解な感覚をより増幅し、神経へと送り込む。

  両胸。その先端。

  未だ固くクリップに挟まれたままの乳首に、ビリビリと震えが走る。

  いや、これは痺れだ。

  鋭敏な箇所を刺激されたことによって、それがハッキリした。

  この感覚には覚えがある。

  何せ、身体にスタンガンを押し当てられたのは、ここに来て一度や二度のことではない。電撃が地肌を焼き、神経を貫通するあの独特の苦痛は、文字通り骨身に沁みて理解している。

  だが、しかし。

  「んっ⋯⋯ぐっ!」

  出力が調整されているからだろう。敏感な箇所だからだろう。薬物を投与されているからだろう。

  もたらされた痺れは、甘さを伴って踊るように脊椎を走り抜けていく。それが下半身からの刺激と合流し、お互いを相乗的に高めあって身体を苛む。

  バイブやローター等による表面的な刺激とは訳が違う。皮膚の内側にまで浸透し、神経を波打たせるような逃れようのない快感が、繰り返し襲う。

  更に、脅威が降りかかるのは二箇所のみにとどまらない。先程、クリップを繋げられた場所は、もう一つ。

  「ぐぎッ⋯⋯が⋯⋯っ!」

  張り詰めた股間を取り囲むように、痺れが竿全体を叩く。

  貞操帯は総金属製だ。加えて、中は隙間なく密着している上に全体が先走りで濡れそぼっている。流された電流は、滞りなく俺の陰茎を駆け巡ってやまない。

  叩かれるように、絞られるように、弾けるように、乳首とも肛門とも違った感覚が、俺を狂わせる。

  「むッ⋯⋯ごッ⋯⋯っ⋯⋯!」

  ガタガタと、椅子が激しく軋んだ。しかし軋むばかりで、返ってくる感触はあまりにも強硬だ。椅子やベルトその物はおろか、構造的に弱い箇所になるハズの金具部分ですら、頑なに戒めを緩めない。

  これまでにも、何度となくこうして、死に物狂いで身体を暴れさせたことはあった。当然あった。しかしこれまで一度として、拘束具を壊せたり、緩ませることが出来た試しがない。

  今も同じだ。

  決して、逃げられない。

  逃れ得ない苦しみが、絶え間なく襲いくる。

  それも、今回の拷問はこれまで経験した中でも、とびきりに最悪だと言って良い。

  気を、身体を休められる瞬間が、瞬きの間さえもない。

  肉体の中でも一際敏感な三箇所を、同時に、或いは連続して、強過ぎる刺激に晒され続ける苦痛。それに耐えようと歯を食いしばろうにも、口腔を塞ぐ栓で、歯と歯を噛み合わせることも出来ない。乱れた呼吸を整えたくとも、横隔膜を動かすだけで普段の倍近い負荷がかかる上、息を吸い込む度に揮発した毒物が肺腑を犯す。

  心臓が高鳴ってやまないのに、送り出していく血液は凍えるほどに冷たい。呼吸の度、意識が蕩けて朦朧としていくのに、感覚だけはどこまでも冴え渡っていく。

  何も、何も考えられない。考えたくない。

  眩しい。うるさい。くさい。

  苦しい。怖い。つらい。

  切ない。狂おしい。きもちいい。

  視界が揺れる。

  遠く、天井から見下ろしてくる男の姿が、二重三重にブレる程激しく痙攣して見えた。

  「⋯⋯ぃい具合に、キまッて⋯⋯か? おし、そんじャ⋯⋯しばらく一人デ、ゅ⋯⋯っくりタノしんで、くれゃ⋯⋯」

  いよいよマトモな言葉として認識出来なくなったシロサイの声が、遠くから聞こえる。耳が遠くなっているのもあるが、何より現実として、物理的に距離が遠ざかっているのがわかった。

  ぐるぐると転回する眼球を無理に動かし、この狭く広大な空間を端から端まで見渡す。

  すると、見つけた。

  出入り口の鉄扉を片手に、肩越しにこちらを振り返る、男の横顔。

  足は、既に半ば廊下の外へと踏み出してしまっている。もう半歩も進めば、その巨体はすぐにでも扉の向こうへ消えてしまうだろう。

  その光景に、俺は身震いする程の焦燥に駆られた。

  取り残される。置いていかれる。一人で。こんな所に。こんな地獄へ。

  「ぐッぶ⋯⋯ンぅううう゛ッ!!」

  喉をかき鳴らし、必死に叫んだ。

  待ってくれ。行かないでくれ。

  ヤツに対してこんなことを思うのは、きっと初めてのことだっただろう。

  それでも、今の俺に縋れる相手は、たった一人しかいない。

  例えそれが、どんなに望みのないことだったとしても。無駄だとわかりきっていたとしても。

  目の前を遠ざかっていく一縷の藁へ、手を伸ばさずにはいられなかった。

  「そん⋯ゃあ、三時間後⋯⋯にゃ様子⋯⋯くるからよ」

  水を吸ったように重い鼓膜が、ビクンと震え上がる。

  三時間⋯⋯三時間だと?

  その部分だけ、嫌にハッキリと聞き取れてしまったのが、俺にとって益々の不幸だった。

  無理だ。

  こんなの、五分⋯⋯いや一分だって保ちっこない。

  嫌だ。助けてくれ。

  目に涙さえ浮かべて、俺は必死に懇願した。

  塞がれた口の中で、無意味に媚び諂いの言葉を転がす。今まで、頭に思い浮かべたことすらないような、胸の悪くなる汚れた文句を並べ立て、叫ぶ。

  見捨てられないように。置いていかれないように。一分、一秒でも、男をこの部屋へ引き留められるように。

  「あばよ」

  しかし、全てを裏切って、扉は重く閉ざされた。

  同時に、視界が、希望が閉ざされた。

  光源が変わった訳でもないハズだが、視界の明度がハッキリと落ちた。ような気がする。

  耳鳴りが痛い。

  針で刺したような沈黙の中、男が残した最後の言葉が、頭蓋の内側へ幾重にも爪を立てる。

  あまりにぞんざいに放られた、たった一言。そのたった三文字の言葉が、幾度もこだまし、重なり、連なり、頭痛のように脈打つ。

  絶望感で、頭が割れそうになった。

  これから、三時間。そんな途方もない時間を、一人で、これだけの苦痛に耐え続けなくてはならないというのか。

  無理だ。無理だ。無理だ。

  正気でいられる訳がない。無事で済むハズがない。助かるとは、到底思えない。

  「ぐ⋯⋯ぼッ、が⋯⋯ッ」

  その確信を肯定するかのように、下半身から身の毛がよだつ程の官能が駆け上ってくる。中からか外からかの区別もつかない。猛烈な熱を帯びたうねりが、行き場を求めて、逃げ場を求めて下腹部を渦巻く。

  出口は何処か。行き着く先は何処か。

  逃げ惑った熱量は、やがて我先にと狭い道へと殺到し、止め処なく突き抜ける。

  止まらない。止められない。止めようがない。

  股座で、熱い飛沫が弾けるのだけを感じた。

  痛烈な感覚を伴い、心臓よりも激しく脈打つ股間。

  狭い殻の中、突然熱湯を注がれて暴れ狂う死にかけの魚、とでも例えれば良いか。まるで自分の身体の一部とは思えないその狂乱ぶりに、腹の底が冷える。

  今、ソコを濡らしている液体が何なのか、目で見て確認することも出来ない。

  中と外から、目には見えない手で同時にソコを握り締められる度、次から次へ湯水の如く溢れて止まない体液。

  これも、このまま垂れ流し続ければ、果てはどうなることだろう。

  いつかは枯れるのか。尽きるのか。絶えるのか。

  干からびるか。溺れるか。発狂するか。

  俺を待ち受けているのは、果たしてどの結末だろうか。

  「ごッ⋯⋯ぼッ⋯⋯!!」

  胸が反る。

  先端を焼く痛痒が激しさを増す。

  陰茎がねじ切れそうだ。

  前立腺だって、今に破裂してしまうかも知れない。

  それでも、だからこそ、快感が、興奮が、絶頂が、枯れない、尽きない、絶えない。

  ふくらはぎと太腿を同時に攣った。

  握り締め続けた指から血が滲んでいる。

  頭痛で、目玉が飛び出しそうだ。

  それでも。それでも。それでも。

  気持ち良い。心地良い。快い。

  苦痛と快楽。

  それが同じ肉体の中で共存しながら、互いに薄紙一枚隔てた両面で、質感と温度だけを伝え合っている。

  もし、このままその紙切れが溶けてなくなれば、それらはたちまち混ざり合って、濁り、決して元には戻らなくなってしまうだろう。そう、漠然とした確信がある。

  既に、幾度となく経験してきたことだ。

  自分の中の認識、常識が決定的に損なわれ、汚染されていく感触。

  いつからだっただろう。

  人前で裸でいることが当たり前になった。

  肛門に異物を挿入されることに慣れた。

  他人の男性器を咥えることに抵抗がなくなった。

  乳首が性感帯になった。

  目の前で虐げられている他者を、助けることが出来なくなった。

  そうした、一つ一つの変化と同じことが、再び俺の身に起きようとしている。

  俺という人間を、変えられていく。

  自分が変わっていく。

  着実に。確実に。如実に。

  三時間後の俺が、いったいどんな変化を迎えているのかは、想像もつかない。

  それを恐ろしく思えている内は、まだ俺が俺でいられているハズだ。

  だが、そうではなくなったら。

  もしもこの先、それすらも変わってしまう時がきたとしたら。

  その時俺は、俺は⋯⋯

  

  [newpage]

  人は、変わっていくものだ。

  生物学的な側面からも、精神的な側面からも、それがどのような形であれ、人は日々必ず変化していく。

  細胞は日毎に代謝を繰り返し、脳の神経回路は刹那毎に天文学的な数の電気信号をやり取りし、情報を処理、蓄積していく。

  三つ子の魂百までとは言うものの、肉体や脳が同じ状態を維持し続けるということは、およそ不可能なのだという。

  肯定的な言い方を探せば、それは『成長』と表現出来るだろう。時間の経過や培った経験が人を変化させることだ。人間の肉体、精神に必ず起きる現象であるが、いずれそれは『老化』という変化へとその呼び名すらも変える。

  しかし。

  人間に起こり得る変化は、当然ながらそうした肯定的なもの、また避け得ないものばかりではない。

  今、まさに。

  俺の身に起きている変化を言葉にして言い表すとしたら、それは『堕落』と称する他はないだろう。

  「────ん、ぅっ」

  舌に、喉に、唇に、奥から搾り出した艶やかな振動を感じる。

  だがそれは、俺のものじゃない。

  繋がった、触れ合った、重なり合った感触の向こう側。交じり合い、絡ませ合った舌と唇。深く口づけを交わしている相手の、喉の奥から響いてきた声音だ。

  「⋯⋯ぁ、むっぅ」

  ほんの一瞬、息継ぎのような合間に隙間から漏れた声が、ゾクリと俺の胸を掻き立てる。鼓動が早まり、どうしようもなく甘く沸き立つのを感じる。

  渇きのように胸を焦がす衝動に突き動かされるまま、俺は目の前にある唇へ再びかぶりついた。短い毛に覆われた唇へ音をたてて吸い付き、間髪を入れず舌を割り込ませる。鋭い牙の列を掻い潜り、上顎の裏を舌先で擽ってやる。

  「ンゥっ⋯⋯!」

  そうすると、一際甘い声が漏れることを、俺は知っていた。

  興奮に鼻息を荒くしながら、薄く目を開ける。すると、固く閉じた眦に薄く涙を浮かべ、毛皮を透かす程頬を色付かせた青年の顔が、間近に見える。

  D470。俺の向かいの房の、虎の青年だ。

  本名も、年齢も知らない。性格も、好物も、趣味も、ここに連れて来られる前は何をしていたのかも、何も知らない、

  だが、それでも。それなのに。

  彼の性感帯については、随分とわかってきたように思う。

  どうすれば、どう動けば彼がよがり、歓喜に喘ぐのか。手探りながら一つ一つ、自分の手で探り当ててきた。

  例えば、そう。

  絡ませた唇はそのままに、密着していた身体を少し浮かせる。そうすると、自然、俺達の間に繋がっていた銀色の架け橋が、ピンと互いを引き合う。

  「んっンンっ」

  甘えるようにすり寄ってきていた舌が、俄かに強張った。

  重力に従って垂れ下がった俺の胸と、若々しく張り詰めた彼の胸。その間で、お互いの乳首を繋ぐ銀の輪が、噛み合って微かな囀りを奏でる。

  両胸揃いのシンプルなリング。それは、毛皮から浮き出すまでに膨らんだ俺達の乳首へ直接穴を開け、深々と刺し貫いて飾られたものだ。

  つまり、ピアスである。

  調教開始から一定期間が経過し、フェラチオの熟達やアナルの拡張などがある程度の水準を満たしたと判断された畜生に、家畜の証として与えられる物、なのだという。

  だが、今はそんなことどうでもいい。

  俺はそこから浮かせていた身を捩り、角度を変えてピアスで繋がった乳首を更に引き伸ばした。

  「ムっぁ⋯⋯っ!」

  すると耐えかねたように、青年の口が大きく開いた。漏れた喘ぎは一層花やいで、ゾクリとする程に艶めかしく俺の胸を擽る。

  いや、それは何も比喩表現だけのことではない。

  当然だ、彼の乳首へ負荷をかけてやった分だけ、自らの乳首にも同じだけ力が加わっているのだから。

  穴を開けられ、直径三ミリはある金属の輪に串刺しにされた俺の乳首は、大きさだけに及ばず、感度も以前とは比較にならない程高まっている。それをこんな風に自ら引っ張ってやれば、自分自身息が続かない程の悦楽に見舞われることになる。

  それでも、俺にはこうすることしか出来なかった。

  彼の身体を愛撫したくとも、両手は使えない。腕は揃って背中の後ろだ。

  乳首に加えて、首輪同士も短い鎖で繋がれているため、まともに動ける範囲はあまりにも狭い。出来ることと言えば、精々こうしてキスをするか、ピアスを利用して乳首を責めるか、後は⋯⋯

  「んっぐぁ⋯⋯っ!」

  開かれた股の間へ、腰を打ち付けるぐらいか。

  ジャラジャラと耳障りな金属音と共に、俺の下で彼の身体が大きく揺れる。

  鉄パイプで組まれた支柱から、四本の鎖で宙にぶら下がったハンモック。或いはブランコ。その四本の鎖へそれぞれの四肢を繋がれ、腕も脚も大きく開いた無防備な姿勢で、D470はあられもない声を上げる。

  その股座。畜生の証たる貞操帯が重い光沢を放ち、僅かに開いたその隙間から歓喜の印が伝い落ちて行くのを見送った、その先。

  肉の色を覗かせた、淫猥な穴。

  そこに、俺の腰から伸びた棒を突き入れる。

  「はっあ⋯⋯んんっ!」

  再び、彼の口から熱っぽい声が漏れた。

  それに誘われるように、煽られるように、俺は繰り返し腰を振るう。不自由な姿勢ながら、ブランコの揺れを利用して、何度も、何度も、尻穴を掘る。

  とは言っても、俺自身の性器を挿入している訳ではない。俺の愚息は、彼と変わらず今も貞操帯の中だ。

  では、今彼のアナルを犯しているのは何なのか、と言えば、シリコン製の模造品である。俺の腰にベルトで固定された、所謂ペニスバンドというヤツだ。

  つまり、いくら腰を振ろうが、彼の中を突き上げようが、俺に一切の見返りはない。快感はない。ヨがり喘ぐその姿に、扇情的に写るその痴態に、貞操帯の中が一層窮屈になるだけだ。

  だがそれでも、それがわかっていても、腰を止めることは出来なかった。

  止めればすかさず鞭が飛んでくるのは、言うに及ばず。

  何より、それ以上に、臍の下から、胸の奥底から込み上げてやまない、灼け爛れた情念が、燻り燃ゆる興奮が、俺に腰を止めさせないのだ。

  改まって言うが、誓って言うが、俺は同性愛者ではない。男性の裸体に性的欲求を抱いたことなど、以前の人生では一度たりともなかったことだ。

  結婚こそしてはいないが、人並みに女性経験もある。恋愛も性愛も、対象は常に異性であった。それが、自分にとって“普通の当たり前”だと思って、信じて生きてきた。

  それが、ここに来て変わった。

  徐々にだが、着実に、確実に変えられてしまった。

  毎日の食事には興奮剤を混ぜられ、その上で同性の男から性的な刺激を与えられ続ける日々。逆らえば苦痛を、従えば快感を与えられる環境。

  そんなことで、と俺も考えていた。

  環境や習慣が人にもたらす影響について軽視していたつもりはないが、性的嗜好ならいざ知らず性的指向が短期間の間に変化することなど、そう簡単に起こり得るとは思えなかった。

  それが、どうだ。

  今の俺はどうだ。

  期間については、厳密にはわからない。

  もはや、日数を数えなくなってからの期間の方が長くなっているハズだ。

  だが俺は、今確かに、同性である目の前の青年へ、心から欲情している。

  性的快感が得られる訳でもないというのに、自ら腰を振り、淫らに悶える男性の姿態に、狂おしい程の劣情を抱いている。

  それを信じがたい気持ちで俯瞰している俺も、心の隅には確かにいる。

  こんなことでいいのか。こんなことがあっていいのかと、声なき声はいつも頭の片隅で囁き続けている。

  だがそれでも、打ち寄せる怒濤のような肉欲が、その小さな声を押し流してしまう。荒れ狂う波は簡単に理性を飲み込み、正に畜生の如く俺に腰を振らせる。

  こうして、日に日に人間性を奪われていくのを実感する。

  人権を奪われ、動物のように着衣を纏うことも許されず、檻に閉じこめられ、餌を与えられる日々。

  尊厳を奪われ、同性の肉体へ性的奉仕を強要され、犯される日々。

  人間から畜生へ、そして家畜へと変えられていく。三上圭吾という個人から、D465という個体へ、作り変えられていく。

  これが奴らの言う『調教』なのだと、日毎に思い知らされる。

  肉体の変化など些細なことだ。

  より重大なのは、深刻なのは、精神の変調にある。

  禁忌的、倒錯的行為に対する抵抗感の希薄化。道徳観、倫理観の磨耗。公序良俗、社会通念との乖離。

  今こうしているのだって、言ってみれば加害行為への加担に他ならない。身体を拘束され、暴力によって強要されている状況であるとは言え、抵抗出来ない無防備な被害者へ、自ら進んで暴行を加えていることは否定しようもない事実でもある。

  以前の、ほんの少し前までの自分なら、例え脅されようが殴られようが、こんな風に罪もない青年へ危害を加えようなどとは、決してしなかっただろう。

  長期に渡る監禁。薬物の投与。暴行。陵辱。極限状態へ追い込まれてのことではある。それもれっきとした事実だ。自己弁護の余地はある。

  しかし。

  俺は、警察官ではなかっただろうか。

  市民の安全と社会の秩序を守ることこそが、俺の使命なのではなかったのか。

  そう叫ぶ声は、あまりにも小さい。

  「ぁっあっあっそこっ⋯⋯あっくっぅ⋯⋯!」

  その叫びすらかき消すように、喜色に裏返った悲鳴が響く。

  ぶるり、とD470の全身が一際大きく戦慄いたのが、乳首を通して伝わってきた。

  続けて、一定のリズムで繰り返し痙攣しているのが、目に見えてわかる。

  視線を向けなくともわかった。

  彼の性器は、貞操帯に収まったまま、手を触れられることなく射精に至ったのだと。

  そう至らしめたのが自分である、という僅かばかりの達成感。それと同時に、消え入りそうな程微かに、しかし無視出来ない程切なく胸を過った情緒のことを、俺には羨望と呼ぶ以外なかった。

  射精したい。

  それは、今俺の中に存在する願望の中でも、相当な上位を占める欲求の一つに違いない。

  ここに連れて来られた初日、検品の際に精液を採取されて以来、俺は今に至るまで一度もまともに射精出来ていなかった。

  四六時中、散々性的行為を強いられてきたにもかかわらず、である。

  強過ぎる刺激に失禁してしまったことならある。だが射精となると、無論ながら話は違う。

  常に貞操帯を装着している以上、性器へ直接触れることが叶わないのは当然のこと。

  しかし目の前の彼のように、アナルからの刺激だけで射精に到達することが出来る者がいるのも確か。

  それには、単純な感度だけではなく、体質や精神状態による影響も大きいのだという。

  肉体。精神。

  どちらも変化の過渡期にある俺だが、その域に到達出来るとすれば、果たしてそれはいつになることだろう。

  そして、もしもそれが叶ったとき、俺という人間はどうなっていることだろう。それこそ、身も心も、彼らの望む『家畜』となり果てているのだろうか。

  「ヨシ、そこまで」

  不意に、背後から声がかかった。

  すっかり耳に馴染んだ、骨身に響く低音。脳髄深くまで刻み込まれたその声が命ずるまま、反射的に身体が静止する。

  「おつかれさん。そのままジッとしてろよ」

  声に従い、身体の力を抜いて荒くなった呼吸を整えながら待つ。

  その声に、命令に、抵抗なく従うことが出来るようになったのは、一体いつ頃からだっただろう。

  今や俺にとって、それは自然で当たり前のことに等しかった。

  言ってみれば、上から下された命令に従うという点では、以前の人生からもそう変わりない。組織内で、理不尽に思える上官からの命令に従わざるを得なかった場面は、指を折るどころでは済まない。

  命令系統が変わっただけだと思えば、適応するのはそこまで難しくなかった。

  命令通り従順なフリをしていれば、いちいち心を波立たせず静かにさえしていれば、余計な苦痛も屈辱も味わわずに済む。

  それだけは、何処にいても変わりはなかった。

  そうしてただ大人しく待っていると、背中側から回された太い手が、首輪と乳首ピアスを繋いでいた金具を手際良く外し始めた。

  窮屈だった身体が、僅かに軽くなる。密着を余儀なくされていた互いの間に隙間が生まれ、少しだけ熱が逃げる感覚が侘しい。

  繋がりを失ったピアスを虚しくぶら下げた乳首が、切なく疼いた。

  「立て」

  そんな感傷も、首輪を引かれればたちどころに消える。

  後ろ手に繋がれた手錠はそのまま、短く命じられた声に従ってゆっくりと身体を起こす。

  拘束されたままでも、体重移動を駆使しながらバランスを取って動くことには、随分と慣れた。

  前傾していた体勢を真っ直ぐに立て直し、それから慎重に後退る。

  「んっ、は⋯⋯」

  まだ熱っぽい吐息と共に、彼の中に隠れていた異物がズルリと抜ける。

  そうして全貌を現したのは、実際の俺の性器などより、遥かに長大な模造品。太さも長さも、五百ミリリットルのペットボトルと遜色ない。黒く、表面にビッシリとイボが浮かんだ、シリコン製のディルド。

  それを今の今まで咥え込んでいた穴は、しかし物足りないとでも訴えるように未だ細かくその濡れた唇を震わせている。

  誘うように。強請るように。

  そのあまりに淫猥な光景から、目が離せない。

  「おい」

  「んっぐ⋯⋯!」

  だが、後ろから蹴り上げられた衝撃に、堪らず天を仰いだ。

  俺のアナルには、まだプラグが入ったままだ。それを膝で強く押し込まれ、前立腺を突き抉られた感覚に、膝が笑う。

  今の今まで雄々しい興奮に突き動かされていた身体を、一転して淑やかな愉悦が絡め取る。

  濡れた内壁がキュッと締まり、中に嵌まった栓の形状を鮮明に脳髄へ伝えてくる。

  自分を内から支配するその重さに、硬さに、大きさに、俺は取り繕うことも出来ず快楽した。

  「弁えろ。スケベ心出しやがって」

  「あっは⋯⋯申し訳、ありま⋯⋯っ」

  グリグリと、尻に膝を押し当てられながら、耳元で詰られる。

  吐息を吹きかけてくる口の位置は、俺の耳の高さとほぼ変わらない。それほどの身長差がある。

  背中に当たる、被毛のないザラついた表皮の感触。岩肌を思わせるような分厚く硬い筋肉。

  そして、この背骨に響くような重低音が、俺に本能的な服従を強いる。

  「跪け」

  有無を言わせぬ言葉に、ゾクリと背筋が躍った。

  すぐさま、半ば反射的に、背後の相手へ向き直りながら命じられるがまま床に両膝をつく。

  見上げると、それだけで首が鳴りそうな程の巨躯。峻険な岩山からそのまま削り出したような、荒々しく重厚な存在感。

  黒光りして艶めくボンデージ衣装に身を包み、顔に身震いする程の悪意を浮かべて俺を見下ろすのは、シロサイの巨漢。

  今の俺にとっての、ボスだ。

  上官。或いは教官。

  いずれにしても、逆らってはならない相手である。

  憎しみはある。殺意もある。

  だが、それに上から蓋をされてしまう程の、絶対的な畏怖と諦念が、俺に恭順を強いていた。

  その嘲りに歪む口元が、おもむろに形を変えて窄まる。

  「ぺッ」

  殊更に音を立てて吐き捨てられたのは、濁った唾。

  それは狙い過たず真っ直ぐに飛び、シロサイが履くブーツの甲へピシャリと跳ね散った。

  「舐めろ」

  何を、などとはわざわざ言わない。言わずともわかるだろう、とその目が告げてくる。

  事実、言われずとも明らかだった。

  見上げていた視線は、自ずと下へ。

  コンクリートの床を踏む、ゴツく太い足。目の前へズイと差し出されたその靴と、表面にへばりつく泡立った唾。

  そのネットリとした光沢を前に、込み上げかけた吐き気や抵抗感といった雑多なものを、一息に飲み込む。

  躊躇していた時間は、自分でも驚く程短かった。

  背中を丸め、その場へ屈み込む。そのまま前へと首を伸ばせば、靴はもう目の前だ。

  そして口を開け、舌を伸ばす。

  「んっふ⋯⋯」

  ツンとした鞣し剤の匂いが鼻をつく。それから舌を刺す苦みに混じり、空気の混じった唾液独特の生臭さが口内へと広がる。

  えづきそうになる喉を気力で慰め、俺はつま先から上に向かって、曲面をなぞるようにしてゆっくりと靴を舐め上げた。

  そうしながら、チラリと目の端でボスの顔を盗み見る。

  腰に手を当て、嘲りと蔑みが浮かんだ目でこちらを見下ろしてくるその顔に、今の所変化はない。

  当然か。自分の唾を舐め取らせるのだけが目的の訳もない。

  いや、目的という目的があるのかも定かではないが、とにかく、許しが出るまでは同じことを続けるしかない。

  俺は、繰り返し何度か角度を変えながら、音をたてて男の靴を舐め続けた。

  改めて思うまでもなく、酷く惨めな気分だ。

  全裸で、床へ跪いて、他人の靴を舐める。

  『屈辱的な行為を想像してください』と言われたとき、万人が真っ先に思い浮かべるシチュエーションと言っていいだろう。

  まともな自尊心を持った人間なら、やれと命じられて素直に肯くような真似はすまい。

  なら、俺はどうなのか。

  こうして殆ど躊躇うこともせず実行に移った俺は、余程恥知らずな痴れ者だということか。

  違う。

  そうだ。

  二つの声が頭と胸で同時に響いた。

  自尊心も羞恥心も当然ある。今だって、熱くなる体温を必死に宥めながら、手のひらへ固く爪を食い込ませて精一杯耐えているのだ。

  こんな状況でなければ、誰がするものか。

  たが、しかし。

  頭で否定する理性とは別の声が、胸から込み上げてくる。

  ジワジワと熱を上げていく体温は、単なる羞恥心によるものなのかと。その鼓動の高鳴りは、本当に怒りによる興奮なのか。

  そもそも、今も両脚の間で、ギチギチと自ら貞操帯内部の内圧を高めているものを、どう説明するつもりなのか。

  こんな状況と言うが、お前はこの状況にこそ高ぶっているのではないか。

  背反する二つの声の軋轢を聞きながら、俺はそれでも口を止めることなく、許しがあるまで靴を舐め続けた。

  「そのまま答えろ。お前の名前は何だ?」

  「⋯⋯っD、465です」

  舌を動かす合間に、ボスからの問いかけへ答える。

  いつからか、『三上圭吾』という返答を特別意識して抑える必要もなくなった。

  「お前は何だ?」

  「⋯⋯家畜、です。権利も、自由もない、人様にご奉仕することしか価値がない、惨めで見窄らしい経済動物です」

  『警察官だ』と、屈託なく答えられていた頃が、今は懐かしい。胸の中だけでなら、何度だって言えるのに。

  「よしよし、お前もすっかりイイコになったモンだ。最初の頃はそりゃあ手間かけさせられて、使い物になるか心配してたんだがよ⋯⋯」

  何やら、感慨のこもった言葉が上から降ってくる。

  妙な口振りだが、とりあえず機嫌が良さそうな様子なのは幸いだ。

  許しは出ていないので口を止めることは出来ないが、理不尽に殴られることはない。

  それだけで幸いというのも、既に理不尽な話ではあるが。

  「これで、俺の肩の荷も降りるってモンだ」

  ⋯⋯やはり、様子が変だ。

  いつもとは何か違う。

  そもそも、今日の調教メニューからしておかしかった。

  俺とD470だけモーニングルーティンから外され、こうして別室での調教となった。それも、体感ではあるが身体への負担の少ないメニューばかりだったように思う。

  所感を述べるなら、調整⋯⋯或いは試験的な内容のように感じた。

  それが何を意味しているのかはわからない。俺にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか。

  いずれにしても、言いしれぬ不安が胸を騒がせた。

  「うッ」

  その不安を肯定するかのように、背後から小さな呻きが聞こえた。

  思わず、許しが出ていないのも忘れて顔を上げる。

  聞こえたのは他でもない、D470の声だ。

  鋭く息を飲むような悲鳴に、胸騒ぎは戦慄へと変わる。

  振り返った俺の目に飛び込んできたのは、ブランコへ吊された体勢はそのまま、しかしグッタリと力なく首を横に垂らした虎の姿と、いつの間にそこへいたのか、片手に注射器を携えた白衣のチワワ。

  見た顔だ。覚えがある。

  「おぉ、お前さんとはしばらくぶりだな。どうやらワシの手を煩わせん程度には元気しとったようだ」

  「な、なにを⋯⋯っ」

  言葉が問いの形を取るより前に、敢えなく上から押し潰された。

  物理的に。

  「ぐッゥ⋯⋯!」

  先程まで俺が舐めていた靴が、今は頭の上にある。

  分厚く重い靴底と、冷たいコンクリートの床。その二つの間で板挟みにあい、噛み締めた歯の隙間から堪らず呻きが漏れる。

  「誰がやめていいっつッた?」

  物理的な重量のみならず、声に含まれた重圧が更に重くのしかかってくる。

  ギシリ、と頭蓋が軋む音が聞こえた気がした。

  もし今、この右足に全体重を乗せられでもしたら⋯⋯

  不吉な想像に、ヒヤリと鳩尾辺りが凍える。

  いくら何でもそこまではしないだろう、などという楽観視が出来る相手じゃないことは、既に身にしみて理解していた。

  「ぁ⋯⋯ッも、もう⋯⋯しわけッ⋯⋯」

  苦痛に押し出される呻きを何とか飲み込み、許しを請う。

  それでいくらかは圧力が減じてくれた気がするも、頭から足が退く気配はない。

  口の端から漏れ出した唾液が泡を作り、薄く床へ広がって頬を濡らす。

  「あぁ、丁度いい。暴れんようにそのまま押さえといてくれ」

  視界の外から、声と共に足音が近づいてくる。床を通して頭へ直接響いてくる足音は、冷たく、軽い。

  足早に迫ってくるその男が直前まで手にしていた物を思うと、身体が竦んだ。

  「まぁそう怯えんなって。お前にとっても悪い話じゃねぇんだからよ」

  先の威圧感は何処へやら、コロリと再び機嫌を直した様子のボスの声に、耳が上向く。

  「名残惜しかあるが、精々達者でやれや」

  それはまるで、別れの言葉のようで⋯⋯

  「ッ⋯⋯ぅっ!」

  チクリ、と首輪の隙間から針が刺し込まれる冷たい感触が、毛皮を貫いた。

  途端、ぐるりと視界が反転する。

  この、眼球ごと世界が裏返るような感覚には、覚えがあった。

  きっと、あの時と同じ⋯⋯

  まともに思考を保つことが出来たのは、そこまでだった。

  真っ暗な夜の海へ、頭からザブンと身を投げてしまったかのように、俺の意識は一瞬にして闇に沈んだ。

  揺れる。揺れる。

  揺れる⋯⋯

  [newpage]

  ユレて、ゆれて⋯⋯

  不意に、浮かんだ。

  ざらざらと、耳元で砂が洗われるような音がする。

  いつか、聞いた覚えのある音だ。

  「⋯⋯ぁ」

  掠れた声が、喉に張りついた。

  覚えがある。

  俺には、この状況に覚えがあった。

  既知感が手がかりとなって、手綱となって、沈んでいた意識が引き上げられていく。

  この、泥のように重い倦怠感も。乾ききった眼球に瞼が軋む感覚も。全身を隈無く覆う、細かく軽い物体の感触も。

  手足の拘束感も。口に噛まされたシリコンの苦みも。背中に当たる木板のザラつきも。息の詰まる閉塞感も⋯⋯

  まるで、過去に時間が巻き戻ったかのように、そっくりそのままだ。

  だがしかし、そんな訳もない。

  言うまでもなく、時間は不可逆だ。

  過去に起きたことはなくならない。俺の身に起きたことは変わらない。取り返しはつかない。

  発泡スチロールがほんの軽く当たっただけで、浅ましく愉悦する乳首。そこを貫通するピアスの存在感。馴染んでしまった貞操帯の感触。首輪の重さ。

  あの時とは違う。

  拉致され、初めて目を覚ましたあの時。

  まだ何もされていなかった頃。

  俺がまだ、辛うじて人間だったあの日。

  あの日を境にして、俺は人から畜生へ成り下がった。

  なら、今日は。

  この日をキッカケに、果たして俺は何に変わるのだろう。

  ばき、と木の板が割れるような音が鼓膜に突き刺さったのは、それから間もなくのことだった。

  黒く塗りつぶされていた視界に、光が割り込む。僅かな隙間をこじ開け、耳障りな破壊音を響かせながら、蓋が開く。

  瞳孔が引き絞られる痛みに呻き、堪らず細めた瞼の隙間からまず見えたのは、見知らぬ男の顔だった。

  バールのような物を手にし、紺色の作業服姿で無機質にこちらを見下ろす、若いドーベルマン。服装からすると厩務員のようでもあるが、施設内で見た顔ではない。

  勿論、施設の人員全てを把握しているとは言えないが、人相を覚えることに関しては多少なりと自負がある。これまで、一度も顔を合わせたことがない人物であるのは確実だ。

  続けて視界に入ったのは、男越しに見える天井。これも男と同じく、まるで見覚えがないものだった。

  施設の天井は、何処も殺風景なコンクリートの打ちっぱなしだった。今見えているのは、鈍色の金属製で縦横に太いパイプや配線が幾重にも走っている。

  見知らぬ光景だ。

  見知らぬ男。見知らぬ場所。

  状況はまだ掴めない。

  「おい、起きてるならさっさと出ろ」

  初対面の男からの突然の命令にも、身体は無意識に従ってしまった。

  発泡スチロールの梱包材を掻き分けながら、身体を起こす。

  そうすると、やはり予想した通り。自分が今まで入っていたのは、あの時と同じ木製の箱だったとわかる。

  どのような輸送手段を使っているかまではわからないが、どうやら意識のない人間をこの木箱に詰めて貨物輸送するのが、奴らの常套手段らしい。

  これで『ワレモノ注意』とでも貼ってあれば、外からは高価な美術品か骨董品にしか見えないだろう。

  現に、周囲に並んでいる同じ木箱を見ても、まさか中に人が入っているなどとはとても思えなかった。

  自分が横たわっていた箱も含め、横並びに六つ。暗い鉄色をした二十畳程の床へ、それが等間隔に並んでいる。

  それぞれ、バールを手にした男達が次々とその蓋を開けていけば、果たしてその中には俺と同じ全裸の人間⋯⋯もとい家畜達の姿が見えた。

  チラホラと、施設内で見た顔もある。

  どうやら、既に全員麻酔は切れている様子で、作業服の男達に促されるまま各々箱の中から身体を起こしていく。

  俺も、彼らに遅れないよう、毛皮にまとわりつく梱包材を振り払いながらゆっくりと箱から足を踏み出した。

  両手は後ろ手にされているため少し苦労しつつ、鉄の床に足を下ろす。

  その時ふと、奇妙な違和感のようなものを感じた。

  硬いハズの床が、頼りなく不安定に揺れるような感覚。重力が波打つような、足下が蠢くような、そんな不可解な体感。

  いや、なんてことはない。なにも不可解なことじゃない。

  寝覚めのことで戸惑っただけで、落ち着いてみればすぐにその感覚の正体に思い至る。

  波だ。

  緩やかに、穏やかに揺蕩う浮遊感。

  気づいてみれば、湿り気を帯びた空気の中に、ハッキリと潮の匂いを感じる。

  ここはどうやら、海の上らしい。

  更に言えば、それなりに大きさのある船の中なのだろうとわかる。

  海⋯⋯船⋯⋯

  ジワジワと、胸の内側が冷えていく。

  足場がぐらりと揺れる。今のが波によるものか、それとも俺の精神状態が作り出した錯覚なのか、区別がつかない。

  海。海の上。海の外。

  日本という国は、島国だ。周囲を海に囲まれている。

  もちろん、国家には領海というものがある。陸地から外に出たからと言って、そこが即ち国外であるということにはならない。

  しかし、それでも。

  船が出航して、どれぐらい時間が経ったのか。どの方角に向かって、どのぐらいの距離航行したのか。

  その目的地は何処なのか。

  嫌な予感ばかりが頭を過る。

  これまでは、何処ともわからない施設内であったとは言え、確実に日本国内だった。現代法に守られた、法治国家の中で起きた出来事だった。

  世界有数の治安を誇る我が国に於いて、影でこれほどの人権侵害がまかり通っている事実は衝撃的ではあったが、しかしそれも施設内だけのこと。一歩外に出れば、当たり前に自由と権利と平等が保証された社会が広がっているハズだった。

  外に逃げられれば、外から助けが来れば、こんな悪夢からはすぐに解放されるのだと、どれだけ虐げられようとも心の奥でそう信じてきた。

  それが、揺らぐ。

  逃げ場は?

  船の外は当然海。陸からどれほど距離があるか見当もつかない。

  助けは?

  三上圭吾という人間が、今こうして船に乗せられ何処ぞへと連れ去られようとしていることを、知っている者が何人いることか。いや、この船の中の人員ですら、俺が三上圭吾という人物であることさえ知らないかもしれない。

  と、いうことは?

  つまり?

  そうなると?

  駄目だ。いけない。やめろ。

  その先に続くであろう結論を、頭が拒否する。それ以上進むな。考えるな。

  しかし、胸から立ち上ってくる絶望感が、思考停止を許さない。

  「おい、なにボーッとしてんだ。サッサと歩けウスノロ」

  「ウッ⋯⋯!」

  幸か不幸か、そんな俺の物思いは後ろから尻を足蹴にされたことで、一緒に遠くへ蹴飛ばされてしまった。

  よろめきながらも、言われるがまま足を動かす。

  それ以上の指示がなくとも、俺を含む六人は自然に縦一列に整列していた。施設内で何度も教え込まれた、移動の隊形だ。

  そうして、それぞれの首輪の前後を鎖で繋がれる。

  俺は、箱の位置関係からそのまま列の先頭に並ぶことになった。

  俺の首輪から前に繋がる鎖を握るのは、先程のドーベルマンだ。

  「早く来い」

  言うや否や、鎖を引かれる。

  こちらを振り返ることなく、大股に足を進めるドーベルマンに従い、その後へ続く。

  先導されるまま鉄の扉をくぐると、人がどうにかギリギリすれ違える程度の狭い廊下が、ただ真っ直ぐに続いていた。

  今いた場所は、船倉か何かだろうか。

  船なんて観光用のフェリーぐらいしか乗ったことがない俺にとって、そこは全く未知の領域だ。今ある僅かな情報から内部構造を推測するというのは、流石に無理がある。

  いったいどれぐらいの規模の船なのか、見当をつけることすらままならない。

  そのまま、足の裏で冷たい床の感触を味わうこと、ほんの数秒。

  廊下の突き当たりには、廊下の狭さとは不釣り合いに大きなエレベーターが口を開けて待ち構えていた。

  荷物の搬入用だろうか。

  このまま俺達六人とドーベルマンが乗り込んだとしても、まだ充分にスペースがありそうだ。

  と思いきや、箱の中には既に先客がいるらしい。

  ホテルのベルボーイを思わせるようなツバのない白の帽子に、同色のハイカラージャケットとツータックスラックスというフォーマルな出で立ちのサモエド。両手を前で組み、背筋をピンと伸ばした隙のないその佇まいは、正に一流ホテルマンといった体裁だが、些か場所も場所だ。ベルボーイならぬエレベーターボーイという方がしっくりきてしまう。

  どうやら、そこで受け持ちが交代になるらしい。

  ドーベルマンは無言のまま俺の首輪に繋がる鎖をサモエドへと手渡し、自分は脇へ避けてエレベーター内には足を踏み入れようとさえしなかった。

  察するに、貨物室エリアはツナギ姿の船員、エレベーターから先はこの制服姿の船員が担当する、といった具合に厳密に区画分けがされているようだ。

  それがわかったところで、俺からすれば何が変わる訳でもないのだが。

  鎖を引く手が変わっただけ。その力加減の容赦のなさに、ドーベルマンもサモエドも変わりはなかった。

  言葉もなく首輪を引かれるまま、エレベーターの中へと揃って乗り込んでいく。

  さり気なく階数表示を盗み見ようとしたが、どうやら目的階直通らしく、扉の開け閉め用のボタンしか見当たらない。

  他に内部にあるのは、後方天井隅にある監視カメラぐらいか。

  圧迫感のある鼠色の壁が周りを取り囲み、当たり前のことだが逃げ道は見当たらない。

  目の前で扉が閉まるのを、ただ見ていることしか出来なかった。

  見送るドーベルマンの姿が完全に消えるのと同時に、僅かな揺れを伴って稼働を始めるエレベーター。

  動き出した感覚としては、どうやら上昇しているらしい。

  手持ち無沙汰な時間が続く。

  それなりにスペースがあるとは言え、密室に裸の男が六人、ボーイを含めれば七人もの成人男性が、鎖の所為で間隔を取ることも出来ず密集を余儀なくされていれば、流石に息も詰まる。

  一応、互いに身体が触れ合わない程度には気を使っているが、少し身を捩れば否が応でも毛先同士がぶつかるし、体温や息遣いを間近に感じてしまう。

  否応なく、乳首と股間へぶら下がる重みへ、意識が向いてしまう。

  そうした雑念を振り払うべく、自然と視線は上へと吸い寄せられる。一般的なエレベーターなら、階数表示のある辺りの虚空を、ジッと見つめる。

  目的階まで何階層あるのか、今何階部分まで上昇したのか、何もわからない。

  十秒経ったか、二十秒過ぎたか。

  耳鳴りと駆動音が静かに重なる。

  そして不意に、短くベルの鳴る音が響いた。

  由緒正しい、エレベーターの到着音だ。

  それから間を置かず、扉が左右に滑る。

  開けた視界の中に現れたのは、先程通ってきた狭小な通路とは打って変わり、ショッピングモールや大型店舗のバックヤードを思わせるような廊下。やや雑然としながらも、機能的に動線が確保され、台車やワゴンでも余裕を持ってすれ違える程度の広さはあるだろうか。

  床も金属から、リノリウムのような質感に変わっている。

  左右両側の黄色い壁には両開きのスイングドアが幾つも並んでおり、バックヤードという見立てはあながち間違っていなさそうだ。

  サモエドに鎖を引かれ、長い廊下を再び一列になって進む。

  途中、サモエドと同じ制服を纏った船員数人とすれ違ったが、誰もが忙しなく行き来するばかりで、こちらを気にとめている素振りもない。

  哀れむでも蔑むでもない。

  全くの無関心。

  全裸で拘束された男達の存在を、少しも異質なものとして捉えていない様子だ。

  あたかもそれが、当然のことだとでもいうように。ありふれた、いつもの職場の光景であるとでも言わんばかりに。

  視線がこちらを向いたとしても、運搬される備品資材に向ける程度の注意しか向けられていないのがわかる。

  それはつまり、インターカムで何処ぞへと指示を送っている壮年の現場責任者から、リネンカートを押す年若い清掃員の一人に至るまで、人を人とも思わぬ犯罪組織の構成員であるということを意味する。

  あの施設でさえ、相当な数の人員が確認出来た。

  複数名を長期間に渡って監禁出来る施設のみならず、拉致した人間を人知れず港まで運搬出来る輸送経路。加えて、規模は不明だか船舶丸々一隻。

  それらを平然と運用する組織を、単なる反社会的組織の枠に当てはめて考えることは、もう出来なかった。

  組織の全容が、まるで掴めない。

  目隠しをされたまま、手探りで少しずつその大きさを確かめていた壁が、何処まで行っても果てがないことに気づかされたような、途方もない感覚がした。挙げ句、行けば行くほど、深みに足を取られ、身動きが出来なくなっていく。後戻り出来なくなっていく。

  最初から間違っていた。

  一介の警察官、所轄署配属の警部補一人で対処出来るような事案ではなかった。

  今になって、己の行動を悔やむ思いが、微かに胸の奥で燻っているのに気づく。

  後悔しているのか?

  そうだ。

  していることには、している。

  但しそれは、行動を起こしたことに対してではない。

  信じる相手を、間違えたことに対してだけだ。

  そう、僅かな時間だが物思いに耽っている内に、廊下が終わりを迎えた。

  足を止め、正面で待ち受けていた扉を見る。

  それは、それまで壁に並んでいたスイングドアとは、明らかに様相が異なっていた。両開きであることこそ共通だが、それ以外は素材から造りから、何もかも違う。

  全体を真っ白に塗られた木製の框扉で、華美とは言わないまでも瀟洒な造形が、質素で殺風景な廊下からは滑稽な程浮いて見える。

  まるでそこから、別世界にでも通じていそうな程、違和感のある光景だった。

  嫌な感じだ。鳩尾の辺りが冷たく疼く。

  その扉の向こう側に広がっている世界は、俺にとって決して生易しいものではないと、経験から直感する。潜れば最後、良くて地獄、悪くてどうなるかは想像もつかない。

  しかし、先を行くサモエドは、少しも足を止めてはくれない。当然ながら俺の内心など意にも介さず、それに設えられた金色のレバーを迷いなく握る。

  滑らかに、ゆっくりと押し開けられる扉。

  真っ白な合わせ目の隙間から、向こう側の景色が覗く。

  果たしてそれは、正しく。

  俺には、別世界そのものに見えた。

  身体が強張る。足が竦む。

  結果としては悪い方だろう。

  目の前の異世界では、間違いなく自分の存在が異物であると、地膚で思い知る。

  まず見えたのは、足下に広がる深紅の絨毯。金色の刺繍に彩られた見るからに高級そうな素材を、惜しげもなく、ただ踏みつけにするためだけに敷き詰められたそれこそ、正に贅の極み。

  一平方メートル分だけでも、下手をすれば俺の月収を軽く超えてくるんじゃないだろうか。

  当然、豪奢なのは床だけでない。

  視線を上に持ち上げる毎、視界に入る物尽くが華美にきらめいて映る。

  広い円形の広間の中、中央に鎮座する荘厳な裸婦像。四方から吹き抜けの上階へと延びる幅広の階段。天井から降り注ぐように極彩色の光を投げるシャンデリア。

  そして、そこを行き交う男女の身なり。

  実際にこの目で見たことなどないが、まるで三つ星ホテルのエントランスのようだと、漠然とそんな印象を抱いた。

  「っぐッ!?」

  だが生憎、俺には呆気に取られている暇さえもないようだ。

  ボンヤリと上を見上げていた俺の首根を、サモエドに握られた鎖が強く引きつける。

  これまでも何度となく受けてきた仕打ちではあるが、首という身体機能の中枢へ与えられるこの衝撃には、何度繰り返されても慣れることがない。

  思わずたたらを踏んで、拍子に踏み出した足が、柔らかな絨毯の感触をついに踏んだ。

  瞬間、ゾッと背筋が粟立つ。

  扉を、くぐった。

  今俺は、目の前の別世界に、足を踏み入れた。

  そう実感した途端、全身の毛穴を針で刺されるような羞恥心が襲った。

  一歩、また一歩。

  それは、足が床に触れる毎、空調に撫でられて毛皮がそよぐ度に、強く荒々しく俺の表皮を炙っていく。

  首が絞まる以上に、息が詰まった。

  膝が震える。顔を上げられない。

  久しく、忘れていた感覚が蘇るのを感じる。

  異常なことだ。あってはならないことだった。

  人前で裸を晒していることが、当たり前になっていたなど。そのことに羞恥心を感じなくなっていた事実を、ここに来て改めて再認させられた。

  行き交う人々の視線が、声が、身体を煽る。

  広間にいる人々は人種こそ様々だが、皆おしなべて上質なスーツやドレスに身を包んでおり、靴や時計、サングラスに至るまで総身ハイブランドの逸品だと一目でわかる。

  誰も彼もが、絢爛豪華なこの空間に似つかわしい出で立ちと言えるだろう。

  俺とは、正に対照的に。

  ここは、彼らの世界だ。彼らのための舞台である。俺がいていい場所ではない。

  だと言うのに、首輪を繋ぐ鎖は頑なに俺を離してくれない。

  身なりの整った衆人の真っ只中を、惨めに全裸で歩かされる恥辱。

  施設内で、厩務員やトレーナーが行き交う中を連行されていた時とは、比較にならない羞恥心が身を灼いた。

  あの時と、奴らといったい何が違うのかと考えて、やはり身なりが違うのだという結論に行き着く。

  周囲を取り巻く彼らは、一見してただ富裕層の一般人のようにしか見えない。憎むべき犯罪組織の構成員ではなく、守るべき市民であると、頭が無意識に判別しているようだ。

  しかし現実には、彼らもバックヤード内の船員達と同じである。

  今も、こうして鎖で繋がれた俺達を目の当たりにしながら、誰もが涼しい顔で悠々と行き去っていく。船員達程無関心ではないが、その顔に浮かぶのは好奇や嘲りが精々。憐れみなど欠片も見当たらない。

  状況の異質さと内装の豪勢さに忘れそうになるが、ここは一隻の船の上。洋上のこの限られた空間を共有している以上、こうして現に発生している犯罪事実と無関係な者など、存在しないのだ。

  俺達が何なのか、承知の上でこの船に乗っている。客として。決して安くはないであろう金銭と引き替えに。

  確かに、犯罪現場を前にして、それを黙って見ていること自体に罪はない。法的には、単なる目撃者に通報義務も救護義務もありはしないのだから。

  しかし、彼らを指して『単なる目撃者』であると、本当に呼べるだろうか。

  目に目に浮かぶ悪意を、嗜虐を、敢えて無視してまで彼らを『善良な市民』と呼ぶことに、意味があるだろうか。

  自問する。果たしてと。己の内に問う。

  そうすることで、今も全身を舐める羞恥の炎を、何とかやり過ごそうとあがいていた。

  我ながら益体もない。それに、結果として殆ど意味もなかった。

  そうして自分のつま先を見つめながら、引きずられるようにして歩くこと数分。

  行き着いたのは、広間の最奥部に位置する壁際。

  そこは、横幅五メートル程のカウンターが設置された、受付スペースのような場所に見えた。内側には制服姿のスタッフが三人、折り目正しく等間隔で並んでいる。

  デパートの総合案内、ホテルならばチェックインカウンターといったところだろうか。

  いや、そうではないらしい。カウンター上部に書かれた文字を見て、すぐに思い直した。

  クローク。

  つまり、来客の手荷物やコートを預かるためのスペースだ。

  どうやらそこが目的地だったようだが、しかし何故そんな場所に連れて来られたのかがわからない。

  当然だが、預けるべき荷物もコートも持ち合わせていない。受け取るべき荷物があるとも思えない。

  ならば、他に考えられることがあるとしたら⋯⋯

  「お疲れ様です。東京港搬入分、移送してきました」

  「ご苦労様です。六体確かに、お預かりします」

  サモエドの手から、カウンター内側にいたコヨーテへと鎖が手渡される。

  想像した通り、俺達こそ預けられる荷物である、ということらしい。

  本当に、荷物か資材のように軽々しく身柄を受け渡されていく事実に、目眩がしてくる。

  刑事時代は、俺も他者の身柄を預かる立場にあった。取り調べを終えた被疑者を留置係りへ引き渡すことなど、日常業務の一環として何度となく繰り返してきた。だがそれにも、当然ながら厳密に手順と手続きが存在してのことだ。

  法に則って人権のある被疑者の身柄を扱っていた過去の俺と、経済動物か備品資材を扱っているとしか認識していない彼らとの差は、あまりにも大きく、重い。

  手渡された鎖の重さとは、比べ物にならない程。

  「では、後はお願いします」

  その場で二、三簡単な受け答えを済ませた後、サモエドは自分の仕事はここまでとばかりにその場で踵を返すと、振り返ることなくスタスタと歩き去っていった。

  その背中を見送る暇もなく、今度はコヨーテの手で鎖を引かれ、カウンター端のスイングドアからクロークの内側へと連れ込まれる。

  クローク内部は、外側から見るよりも広く感じた。奥の壁際へ、カーテンのない試着室のように個別に仕切られたスペースが並んでおり、そこへ一人一人首輪の鎖を繋がれ、立ったまま押し込められていく。

  幅も狭く、俺にとってはかなり窮屈な空間だ。逃げ場がないどころか、碌に身動ぎする余地もない。

  圧迫感から逃れるように目線を上げると、三人の職員の背中越しに、変わらず広く豪奢なホールの景色が見えた。

  やはり、と改めて思う。先程まで自分がそこを歩いていたとはとても思えない、別世界のような光景だ。ここからだと、尚更そう見える。遠く、現実味の薄い世界。

  ふとその中に、先程までとは少しばかり変化している点があることに気づいた。いや、それを『少しばかり』と称するのは、流石に欺瞞だろう。

  ホールを行き交っている人々は、変わらずその殆どが高級ブランドで全身を固め、鼻につく我が物顔で悠々と絨毯の上を闊歩している。

  その傍ら。正に今、カウンターの目の前を横切ろうとしている背の高いシマウマの足元へ、ピッタリと侍るように付き従っている大型犬の存在に気づく。

  しかしそれは、動物の犬ではなかった。

  人だ。

  全裸で、首輪から伸びるリードを引かれながら、床を四つん這いの姿勢で不格好に進む、ラブラドールレトリバーの男性。

  見た目から察して、俺よりも年上のようですらある。一般社会であれば、家庭を持ち、勤務先でそれなりの役職に就いていてもおかしくはない齢だろう。

  しかし、床を這うその男性の姿から、そうした社会的地位の一端どころか、まともな社会性すらも窺い知ることが出来ない。

  恥じらいながらも恍惚に染まった頬。骨の形をした口枷の隙間から滴る涎。垂れ下がった両胸の先端からぶら下がるピアスは、俺の物よりずっと太い。

  そこから伸びた細いチェーンに目を引かれ、それが繋がる先を目線で辿っていった矢先、思わず目を見張った。

  チェーンが繋いでいたのは、勃起した性器の尿道から裏筋までを貫通する、リング状のピアスだ。

  ソコに装着するピアスの存在は知識としてだけ知っていたが、実物を見るのは当然初めてのことだ。そのあまりに凄絶な有様に、同じ男としてゾッとしてしまった。自分のことでもないのに、ソコを貫かれた瞬間の痛みを想像して、身が竦む。

  とても凝視してはいられない。

  堪らず逸らした視線が次にぶつかったのは、真っ赤なスパンコールドレスに身を包んだ狐の女と、その後ろで身を寄せ合うそっくりな見た目のレッサーパンダ二人。

  二人とも当然のように全裸で、両手を後ろ手に拘束されて首輪を引かれながら、ヨタヨタと不格好に歩いている。

  双子だろうか。先のラブラドールと比しても、年齢はかなり若く見える。成人しているかも怪しい。

  二人とも同じ顔で、しかし一方は何処か心ここにあらずといった風に、夢見心地で焦点の合っていない目をさまよわせているのに対し、もう一方は今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、しきりに相手を気にしている様子に見える。

  同じ顔で、まるで違う表情をしている二人。二人の関係性も、彼らの身に何があってここにいるのかも、俺に推し量ることは出来ない。

  さっきのラブラドールもそうだ。

  リードを引くシマウマや狐との関係は何なのか。合意の下の────合意があろうと公然わいせつに変わりはないが────一種のプレイとしてそうしているのか。それとも俺と同様、拉致された上で意思とは無関係に強要されているのか。

  俺にそれを知る由もないが、俺という実例が存在する以上、同じ境遇の人間が他にいないと考えるのは、些か楽観が過ぎるだろう。

  他にも、目線を動かせば動かしただけ、全裸で拘束された男達が視界に入るようになった。そのどれもが必ず、制服姿のスタッフか着飾った成金に連れられている。その数は、時間が進むにつれて増えていっているように感じた。

  異様である。異様な光景だ。

  その中を、人混みを掻き分けるようにしてこちらに向かって来る人影があった。

  「Good evening,sir」

  カウンターの前に立った体格の良いライオンを、コヨーテの流暢な英語が出迎える。

  「May I have your name please?」

  「Adam Mirror.」

  「Thank you,sir.Could you wait for a

  moment?」

  人混みを見回して薄々感じてはいたことだが、どうやら乗船しているのは日本人だけではないらしい。

  英語の発音だけで出身地がわかる程語学に明るくはないが、聞き取れた名前の響きからして、男が欧米人であるらしいことだけはわかった。

  骨格からしてもそうだ。上背もあるが、太い首から連なる肩は山の稜線を思わせる程峻険に張りつめ、ネイビーのタキシードが内側からはちきれんばかりに盛り上がっている。鍛え込まれた身体をゆったりとカウンターへ預けるその佇まいは、無意識に目を惹かれずにはいられない風格を纏って見えた。

  そうして穏やかに微笑むライオンをその場へ残し、コヨーテはクロークを振り返る。無駄のない所作でその足が向かったのは、俺のすぐ隣のスペース。

  そこから、一人の青年を連れ出した。

  青年⋯⋯いや、少年、違う、やはり青年だろうか。外見年齢で戸惑ったのは、彼の種族的な特徴に原因がある。

  連れ出された彼は、カウンターで待つ男と同じくライオンのようだった。ようではあるが、それにしては奇異な外見をしていると言わざるを得ない。男性なら二次性徴期に生え始めるハズの鬣が、陰も形もない。綺麗に、剃り上げられてしまっているようだ。

  顔立ちや背格好からして、成人しているのはまず間違いない。裸の肉体を見れば、それも一目瞭然だ。しかし、ライオンにとって雄性のシンボルとも言うべき鬣がないことが、その印象を狂わせている。ほんの一瞬だが、子供か、或いは女性のように見間違えてしまいそうな程。

  恐らくは無意識の偏見からくる錯覚だろう。喉仏や肩幅、腰つきなどはどう見ても男性的だというのに。

  「Thank you for your patience.Here is your property.」

  カウンターから出たコヨーテが、青年の首輪から繋がる鎖をタキシードの男へと手渡した。

  そうして向かい合うと、錯覚はますます顕著になる。

  青年も、日本人としては決して小柄な方ではない。身長も百七十センチ以上はあるように見えるし、先程も感じたが、体つき自体は男らしいと言って過言はない。

  だが、それもその男の前では霞む。体格差は歴然。鬣の有無もあって、青年の印象は哀れな程小さく、儚く、華奢に見えてしまう。

  「Hm⋯⋯,you looks so nasty.」

  男の手が、柔らかな手つきで青年の頬を伝った。太く節くれだった指からは想像もつかない程、繊細で、優美な指づかいに、青年の顔もとろりと弛む。

  「I'll take care of you⋯⋯my boy.」

  「ぁ⋯⋯、Thank you⋯⋯master⋯⋯」

  しかし次の瞬間、ピシャリと鋭い音が青年の頬を弾いた。

  「Damn,faggot⋯⋯Didn't they teach you what to call me?」

  「ッ⋯⋯Sorry,⋯⋯I'm sorry,dad⋯⋯」

  「Good.」

  その一連のやりとりに、言いようのない嫌悪感が湧き上がった。

  男は、青年に自分を“父”と呼ぶことを強要しているらしい。

  だが種族こそ同じとは言え、青年と男の間に血縁関係がないのは目にも明らかだ。

  もしも養子縁組みなど、何らかの形で親子関係を結んでいたのだとしても、目の前で繰り広げられる陰惨な光景が家族の形であるハズもない。

  裸の息子に首輪を填めて殴る親が、いったい何処にいるというのか。

  「Please enjoy your stay.」

  コヨーテの見送りに背を向け、男は青年の首輪を引きながら、やって来たのと同じように再び人混みの中へと消えていった。

  二人を飲み込んだ人波を遠巻きに眺めながら、改めて思う。異様な光景だ。異常な光景だ。

  贅を尽くした広間の中、疎らに行き来する裸の男達の存在は、確実に景色から浮いている。紛れもない、紛れようもない異物である。

  だというのに、そこにいる誰しもがその異物を当たり前に扱っている。荷物のように、従者のように、ペットのように。

  自分の当たり前が、当たり前に通用しない世界。あり得ないことが、当たり前にまかり通っている世界。

  ずっと眺めていると、吐きそうな気分になってくる。

  正常なのは、間違いなく自分の方だ。

  常識的にも。道義的にも。

  社会通念と照らしても、倒錯しているのはこの光景の方だ。

  だと言うのに、実際とは反転した現実が、容赦なく網膜に飛び込んでくる。

  その傾いだ視界が、歪みが、波の揺れよりも強く俺の脳を眩ませて、酔わせて、狂わせる。他人の吐瀉物を飲んだような苦い酩酊感に耐えきれずに、俺は思わず瞼を閉じた。

  逃げ場のない現実から、視界の裏へ逃げる。見たくもない景色を見過ぎて痺れた目を、束の間休ませる。

  そうしていると、気休めでも、ほんの僅かな暇でも、不条理を忘れていられた。それが自己欺瞞意外の何ものでもないと、わかりきってはいても。

  「ようこそおいで下さいました」

  「これはどうも」

  しかし、どうやら俺にはそんな束の間の逃避すら許されないらしい。

  瞼の向こう側から飛び込んできた声に、痛い程耳を引っ張られる。

  まさか、と思う。そんな馬鹿な、と思う。

  聞いたことのある声だった。

  聞き馴染みのある声だった。

  その声から予想される人物、頭に浮かんだ人物の顔が、一気に脳裏を駆け巡る。

  「お名前を頂戴しても宜しいでしょうか?」

  違っていて欲しいのか、当たっていて欲しいのかは自分でもわからない。

  その正体不明の感情に突き動かされるまま、俺は次に聞こえてくるであろう音を一つも聞き逃すまいと、全神経を耳へと集中させる。

  「日野惣一郎です」

  どくん、と心臓が重く脈打った。

  エンジンに火が入ったように、急速に回転数が上がる。血管が焼けつく。全身の筋肉が、真っ赤に火を吹くのを感じた。

  忘れるものか。その名前を。聞き間違えるものか。その声を。

  瞼を開ける。

  目に入る。

  その姿が。その顔が。

  そこにいる。すぐそこに。

  俺が、この世で二番目に憎悪している男が、そこに立っていた。

  「少々お待ちくだ────おっとっ!」

  ガシャンッ、と首輪を繋ぐ鎖が鳴く。

  気づけば、独りでに身体が突進しようとしていた。背中の後ろで、手錠が戦慄く。口枷が欠ける。

  自分から首が絞まるのも、手首に血が滲むのも構わない。

  赤熱した眼球が煮え滾る。沸騰して濁った視界の中、カウンターの向こうでふんぞり返るブルドッグの顔だけが、明るくハイライトされて見えた。

  その顔を八つ裂きにしてしまえれば、それでいい。それだけでいい。後はどうなってもいい。

  本気でそう思っていた。

  「こらッ、おとなしくしろみっともない!」

  「グッゥ⋯⋯!」

  しかし、届かない。

  腕も、殺意も。

  バチンッ、と鳩尾に懐かしくも耐え難い苦痛が突き刺さり、呼吸が止まる。

  施設内では何度となくお見舞いされながらも、ここしばらくは受けることのなかった、電撃による痛打。電圧レベルはさほど高く設定されていないようだが、過去散々痛めつけられたその刺激に、身体が反射的に硬直する。

  「大変お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ありません日野様⋯⋯」

  「いやいや、構いませんよ。彼が元気な様子を見れて、私も嬉しいぐらいだ」

  何を、白々しく⋯⋯。

  そもそも、俺がこんな目に遭ってるのは、何もかもお前の所為だろうが⋯⋯ッ!

  奴の口から出る言葉の一つ一つが、俺の神経を逆撫でする。

  この首輪が無ければ、手錠が無ければ、口枷が無ければ。今すぐ飛びかかって、殴りつけて、有らん限りの罵声を浴びせてやるというのに。

  「とは言え、こうも元気一杯では私の手に負えるかどうか⋯⋯」

  「ご心配には及びません。こうした多動なお預かり品のために、特別な器具のご用意もございますので」

  そう言ったコヨーテが目配せすると、カウンターに並んでいた他二人、バッファローとイボイノシシが言葉もなくこちらへ迫る。

  「ゥッぐ⋯⋯っ」

  三人がかりとは言え、嫌に手慣れたものだ。

  一人が俺の首根を掴み、もう一人がぐるりと俺の向きを反転させると、脚を開いてカウンターに向かって尻を突き出すような姿勢で押さえつけられる。

  「おぉっ、これは良い眺めだ」

  背後から聞こえる弾んだ声に、ヒリついた熱が顔を撫でた。

  今や憎しみしか感じないと言っても、相手はかつての上官だ。警察官としての、以前の自分を知っている人間に、今日まで散々嬲られてきた尻の穴を覗かれる屈辱は、筆舌に尽くしがたいものがあった。

  それに、屈辱はそれだけにとどまらない。

  「ングっ⋯⋯ぅッ」

  グリッ、と押し当てられる滑らかな感触。既に、表面がローションで濡らされているのがわかる。あてがわれた先端の感覚だけを頼りに、その物体のだいたいの最大経を推測して、括約筋を弛める。

  ここまでが殆ど反射で行われるようになってしまったことに、一層込み上げる羞恥を轡ごと噛み締めた。顔を見られずに済むこの体勢は、いっそ救いだったかも知れない。

  「ふッ⋯⋯ゥ⋯⋯」

  さしたる苦痛もなく、押し込まれた異物はツルリと括約筋の輪を通り抜けた。

  予測通り、大した太さはなかった。

  形状からしてプラグだろうか?

  だが、これが何だというのか。異物を挿入されて多少動きが鈍ることはあるだろうが、それも抜けてしまえば何の意味もない。俺からすれば、なんら反抗の抑止にはなり得ないだろう。

  そう思った矢先のことだ。

  「ぐゥッ⋯⋯!?」

  ガチッ、と金属質な音がしたかと思えば、内部の圧迫感が急激に増大した。

  ポンプで膨張するタイプの感覚とは、明らかに違う。中で、傘が開いたような、蕾が花開いたような、そんなイメージが脳裏を過る。

  それが、中で起きたというのか。

  背筋が凍った。

  いったいどれほど凶悪な返し構造になっているのか。どれだけ目一杯腹圧をかけて息んでも、一向に出て行かない。括約筋がキツく引き伸ばされるばかりで、まるで抜ける気がしない。

  「このように、鍵をかけて穴用の貞操具としてもご利用頂けます」

  「ふむ、ではこちらのスイッチは?」

  「どうぞ、押してご覧になってください」

  背後からの会話に耳をそばだてる間もなく、次なる衝撃が俺を襲った。

  「ぎッゥッ!?」

  股間を、内側から蹴りつけられたかのようだった。重く、鋭く、目が眩むような激痛。たったの一度で、膝がガクガクと震えて、立っていることもままならなくなる。

  思わずその場へ崩れ落ちそうになる身体を、しかし両側から二人に支えられ、うずくまることも許されない。

  「ほぉ、今のは?」

  「内部の電極から体内へ直接電流が流れる構造となっております。お手元のダイヤルで電圧の調整も可能です。今のは最弱レベルに抑えてありますが、最大にすれば一瞬で失神させることも出来るでしょう」

  息も絶え絶えになりながらも、コヨーテの言葉を耳にして戦慄を覚えた。

  今ので、最弱⋯⋯?

  外側からスタンガンを押し当てられるのとも、調教の一環として電気責めを受けたのとも違う。まるで棘のついた鉄球で、防御のしようがない体内を直接殴打されたような、慈悲も容赦もない、思わず血の気も失せる一撃だった。

  これでは、急所に爆弾を仕掛けられたようなものだ。

  その恐ろしさに身震いする俺を余所に、両脇のバッファローとイボイノシシが俺の体勢を引き起こし、再び日野へ向かい合わせる。

  頭に昇っていた血が少し冷め、向き直ったことで改めて日野の姿が目に映る。

  先程までは気づかなかったが、日野の身形は他の乗客達にも決して引けを取らない、上質な装いに見えた。俺の知るかつての奴は、既製品の安物の背広か制服姿のイメージしかない。経歴を差し引いても、一公務員の収入でそこまで羽振りよく振る舞えるとは、どうにも思えない。

  何故、この男がこんな所にいるのか。

  いや、こんな所とはいったが、そもそもこの船がどんな所なのかも、俺は知らない。

  わからないことが、知らないことが多すぎる。

  切実に、情報が欲しい。

  だが、今の俺にはどうすることも出来ない。奴に掴みかかって、問い詰めてやることが出来れば。奴じゃなくなとも、他の関係者からでもいい。任意などと言わず、多少強引にでも聴き取って、情報収集することが出来れば。

  叶わないことばかりが頭を巡る。

  口惜しい。

  捜査も、聴取も、逮捕も。

  かつては当たり前にしてきたことが、今の俺には、何一つ出来やしない。

  それらの権限どころか、人として当然持ち得るハズの権利が、今や一つとしてないことを、改めて突きつけられる。

  「それでは、どうぞ滞在をお楽しみください」

  「どうもありがとう」

  カウンターから連れ出された俺は、先程のライオンと同じように、首輪から繋がる鎖を日野へと受け渡された。

  ここではどうやら、それが身柄を引き渡すという意味を持つらしい。つまり今、俺を自由に扱う権利が日野の手に渡ったということだ。

  日野は、俺の首輪と自分の手の中の鎖を交互に見てから、こちらへ満足げに微笑んでみせた。

  まるで、あたかも、互いの関係が主人と奴隷であることを確かめるように。

  「さぁ、ついてきなさい」

  言うやこちらに背を向け、日野は悠々と先を歩き始めた。

  抵抗出来ない俺には、それに従う意外ない。

  人の増えたホールの中を、再び全裸で歩かされる。今度は、かつての上官に首輪を引かれながら。尻の中に入れられたプラグの存在を感じながら。

  幸いにも、歩くペースはそれほど早くない。何処へ向かうつもりなのか。足取りには迷いもなく、目指す目的地に向かって真っ直ぐに進んでいっている様子だ。

  その先に視線を向けると、筒状のエレベーターが見えてきた。ホール内には他にも幾つかエレベーターがあるようだが、それは目的階への直通のものらしく、吹き抜けを真っ直ぐ上階に向かって貫いているのが見える。

  どうやら、タイミング良く他に乗客はいないようだ。

  ドアの前にいたボーイへ日野が何やらチケットのような物を見せると、ボーイは恭しくお辞儀をして日野と俺を中へと導いた。

  「どうぞ、良いひとときを」

  「ありがとう」

  滑るように、ドアが閉まる。

  さほど広くはない、円形のエレベーターの中。密室に、二人きり。

  これは、チャンスだろうか⋯⋯?

  日野は閉まったドアの方を向き、こちらに背を向けて立っている。

  両手は拘束されているが、脚は自由だ。

  体格差もある。体当たりで壁に押しつぶしてやれば、コイツとてひとたまりもないハズだ。

  エレベーターは既に上昇を始めている。時間はない。

  ジリ、と素足が床を擦る。

  「滅多なことは考えてくれるなよ」

  しかし、それを見越したようなタイミングで日野が振り返り、手の中のリモコンを掲げて見せてきた。

  「いや、もし君がどうしてもさっきの痛みをまた味わいたい、というのなら話は別だがね」

  指がスイッチの上を思わせぶりに撫でるその仕草だけで、俺はギクリと身体を強張らせ、立ち竦んでしまった。

  たった一度、ほんの一瞬のことだが、脳裏に深く焼き付いた激痛。それが再び身体を貫く恐怖を想像し、冷や汗が吹き出す。

  そうして立ち尽くしていた俺を、思惑とは逆に日野が壁に向かって押さえつけてきた。

  「いや、しかし見違えたよ三上⋯⋯おっと、今はD465⋯⋯なんだったか?」

  含み笑いを見せながら、俺の身体を下から上へ舐めるように見上げてくる。今の、俺を。俺の有様を。

  「さっきも、解しもせずにあんな玩具をスンナリ飲み込んで⋯⋯胸にこんなピアスまで着けて、見ない間に随分イイ身体にしてもらったようじゃないか」

  手が、触れる。下から無遠慮に胸を鷲掴みにされて、先端を貫くリングを指先で掬い上げられる。

  ほんの、軽い刺激だ。

  愛撫と呼ぶには雑で、暴行と呼ぶには弱い。

  そんな、取るに足らないハズの接触だけで。

  「ンっ⋯⋯」

  声を、抑えられなかった。

  ツンと、甘く囀る疼きを、無視出来ない。

  貞操帯の中の愚息が、ひくりと唾を飲むのを感じてしまう。

  自分の身体を、こんなにも恨めしく思ったことはない。

  よりにもよってこの男の前で、この男の手でそんな反応をしてしまうなど、恥辱でどうにかなってしまいそうだ。いっそ、今すぐ舌を噛み切れたらと、半ば本気でそう思った。

  「ほぉ⋯⋯これはこれは」

  案の定、日野は一瞬驚いたような顔を見せたかと思えば、見るに耐えない程醜悪に頬を弛ませた。

  「ゥっ⋯⋯くッンンっ⋯⋯!」

  嬉々として、日野の指が踊る。

  左手でピアスのリングを捻りながら、右手は逆側の乳首を指の腹で押しつぶしてくる。繊細な手つきとは言い難い。ボスを筆頭としたトレーナー達の指づかいには、到底及びもつかない。

  だとしても、与えられる快感はジリジリと着実に俺の身体を蝕んでいく。

  膝が笑う。下半身が熱を帯びる。その熱が血流を伝って、全身を火照らせる。

  「イヤらしい奴め⋯⋯こんな所で、そんな格好で、こんな風に身体を触られて感じているのか⋯⋯ぇえ?」

  聞いていて恥ずかしくなるような言葉責めだが、今のは俺には充分過ぎる程痛烈に突き刺さってしまう。

  頬に昇った熱が、目頭から涙を押し出そうと這い上がってくる。だが、こんな男の前で涙など見せてなるものかと、意地が轡を噛み締めさせる。

  それでも、隙間からこぼれる喘ぎを止めることは出来ない。

  「ハっ⋯⋯グッ」

  日野の鼻先が、俺の首筋へ触れた。

  フスフスと鼻を鳴らして匂いを嗅がれ、ため息混じりに生温かい吐息を吹きかけられる。興奮した、男の吐息だ。

  ゾクゾクと、毛皮が浮き立った。

  背中に当たるガラスの冷たさが痛々しい。尻の割れ目から飛び出したプラグが、カツンと硬い音を背骨に響かせる。

  疼く。中が。熱い。

  無意識にグッと括約筋に力がこもり、その拍子に煮えた滾りがドロリと前から糸を垂らした。

  気が狂いそうだ。

  身の内で、とめどなく募りゆく劣情と、それを抑えこもうとする理性が軋みを上げてせめぎ合っている。その軋轢が、摩擦が、羞恥心という形となって身も心も焼き焦がしていく。

  そしてそれによって生じた熱が、また際限なく体温を引き上げてしまう。

  やめてくれと、叫びたかった。

  相手が誰かということも、一瞬頭から消える。

  恥も外聞もなく、ただ沸き上がる情動に任せて泣き叫んでしまいたくなった。癇癪を起こした子供のように、滅茶苦茶に暴れまわってやりたくてたまらなかった。

  それを止めてくれたのは、誰かの慈悲でも温情でもなく、ただ機械的に鳴り響いたチャイムの音だった。

  上昇していた箱が、いつの間にか減速しているのを感じる。

  目的階に着いたようだ。

  俺にとってそのチャイムの音は、これ以上ない福音のように聞こえた。

  ドアが開くのと同時に、日野が舌打ちをしながら身体を離す。

  「⋯⋯まぁ、こんなところでつまみ食いするのもはしたない」

  ホッと息を吐いたのも束の間、乳首から離れた手が再び首輪の鎖を掴み、強く引き寄せられる。

  「愉しみは後に取っておくとしようか⋯⋯どうせ君は私の奴隷なのだから」

  耳元で囁きかけられ、ゾクリと身体の芯が甘く痺れた。

  [newpage]

  俺が、コイツの奴隷⋯⋯?

  さっきから我が物顔で好き放題してくるとは思っていたが、これはどういう了見か。

  何故、どうしてそんなことになる。

  誰が決めたっていうんだ。

  疑問を差し挟む隙もなく、日野はクルリと踵を返して開いたドアをくぐっていく。

  当然、鎖を引かれる俺もそれに付き従わざるを得ない。

  エレベーターの外は、短い廊下へと続いていた。その先には、大きく開け放たれた両開きの扉が待ちかまえており、ここからでは窺えないが、向こう側から広い空間で大勢の人間が愉しげに賑わう気配が、断片的に伝わってくる。

  そちらに向かって足を進めながら、日野は振り返らずに語りかけてきた。

  「実はね、私も長年裏方仕事を請け負ってきた訳だが、こうしてこの船に乗るのは初めてのことでね。何せ、一部の特権階級しか招かれない特別なクルーズなのだよ。私なんぞでは、本来逆立ちしたって足を踏み入れることは出来ない世界さ。わかるだろう?」

  その問いかけには、内心で首肯する。

  先も思ったことだが、一公務員という肩書きはこれだけの豪華客船の中に於いて、明らかに不釣り合いである。

  日野が一連の組織の中でどんな地位にいるかは定かではないが、口振りからして都合の悪い人間の後始末といった汚れ仕事を担っていたのは想像に難くない。そうした掃除役は、どんな組織でも末端の人間の仕事だと相場が決まっている。

  そんなこの男が、これまで目にしてきたように、乗務員達からあれだけの歓待を受けられる道理が見えない。

  「だがね。それでも組織にとってはこれもなくてはならない役割だ。特に今回は、高い捜査能力を持った警察官、という非常に厄介な立場にある不穏分子の排除へ貢献したことを、それは高く評価頂いてね。組織からの恩賞としてこうして招待に預かる幸運を得た、という訳だ」

  つまり、と言葉を切って肩越しにこちらを振り返る日野。

  「これも、全部君のおかげだ。滅私奉公の体言じゃないか。自分の身を犠牲にしてまで、こんなにも私に報いてくれるとは。良い教え子を持って、私も誇らしいよ」

  挑発だ。乗るな。

  そう必死に自分へ言い聞かせた。

  鎖を握るのとは逆の手で、今もリモコンのスイッチへ指を置いているのが見えている。

  先程悶絶した俺の反応が、余程お気に召したらしい。自分でも試してみたくてウズウズしているのが、背中越しにも見え透いてわかった。

  そこまでわかっていて、わざわざ楽しませてやる義理もない。

  ヤツからは見えない背中の後ろで、俺は拘束された両手の平へ強く爪を突き立てた。突き刺さる痛みと、爪が肉へ鋭く食い込む手応えが、僅かでも激情を慰めてくれるのを期待して。

  「ああ、それと恩賞ついでに君のことも私が貰い受けることになってね。調教途中の未完成品ということもあって、快く譲り渡して頂けたよ」

  爪が表皮を突き破った感触がわかった。

  人のことを何だと⋯⋯ッ!

  「ンッぎ⋯⋯ゥッ!!」

  腰の中で、爆発が起きる。

  有刺鉄線で、前立腺を締め上げられたような心地がした。

  堪らず、立っていられずその場で床へくずおれてしまう。

  目の前がチカチカする。床の色が、白黒反転して見える。

  「ふっ⋯⋯ははっ、スゴいなコレは。武道採用の君が形無しじゃないかっ」

  頭上から、心底愉快そうな嘲りが降ってくる。今すぐ立ち上がって殴りかかってやりたい気持ちとは裏腹に、ズキズキと痛む下半身がピクリとも動こうとしてくれない。

  惨めに尻を上げて床に這いつくばり、呼吸を整えて痛みが引くのを待つしかない。

  「そら、何してる。サッサと立て」

  無理を言うなッ、このクソったれ⋯⋯ッ!

  「グぎッァ⋯⋯ッ!!」

  再び、股間で炸裂する激痛。

  失禁してしまわなかったのが、奇跡のように思えた。

  突っ伏していることすらも出来ず、床へ転がってのた打つ。肺が痙攣して、息が続かない。無意識に垂れた涙と涎が、絨毯へ染み込んでいく。

  「ご主人様の命令だぞ? 一も二もなく従うのが奴隷というものだろう。わかったらサッサと立つんだ、D465」

  首輪を引かれ、息も絶え絶えになりながら日野を見上げる。

  その目に浮かぶのは、抵抗出来ない相手を思いのままにいたぶることへの、尽きない愉悦。

  正気も理性もない。

  支配欲。征服欲。

  奴が、長年内に秘めたまま決して満たされることのなかった欲望。それをようやく手にした悦びが、念願叶った歓喜が、人としてすべからく有すべき倫理観や道徳心を、自ずからかなぐり捨てさせている。

  今の日野に、理性的な判断も論理的な思考も期待すべきではない。

  施設のトレーナー達のように、人体が耐えうる負荷の限界を見極められるとは思わない方がいい。

  身を守るために、今は服従を選択する。

  軋む身体を気力で黙らせ、俺はどうにか床から身を起こす。首輪を引かれるのに任せ、膝を立て、何とか手を使わずに立ち上がることが出来た。

  「それでいい。次からは不従順だと判断したら即お仕置きを食らわせてやるから、覚悟しておけよ?」

  満足そうな、しかしどこか物足りなさそうな表情でこちらを見上げてくる日野。

  その顔からして、次も単に嗜虐心を満たすだけの理由で恣意的に電流を流してくるつもりなのは、見て明らかだった。

  「⋯⋯返事がないぞ、D465」

  「っゥ、あぅ⋯⋯っ」

  「っくく⋯⋯犬のようだが、まぁそれでよしとしよう」

  轡を噛まされた口で何とか返事をする。

  とりあえずは、今ので電撃は免れたらしい。

  「しかし、番号で呼ぶのも悪くはないが、D465というのは些か呼びにくいな⋯⋯その内新しい名前をつけてやらんとな」

  再び背を向けて歩き始めた日野が、背中越しにそう独り言のように呟くのが聞こえた。

  冗談じゃない。

  番号で呼ばれるだけでも業腹なのだ。その上、勝手に名前をつけるだと?

  俺には三十六年名乗ってきた「三上圭吾」という立派な名前がある。親から受け継ぎ、共にアイデンティティを形成してきた二つとない俺の名前だ。

  それを知りながら、勝手に別の名前をつけようなどというその思い上がった神経に、本気で虫酸が走った。

  腹の中で憎悪が膨らむ。

  しかし、それを外に出すことは出来ない。日野の右手には、変わらずリモコンが握られている。痛みは、まだ憎悪よりも深い場所に居座っているのだ。

  刃向かわず、逆らわず、付き従うしかない。

  そうして少しも歩かない内に、開かれた扉の前まで辿り着いた。

  「日野様ですね、ようこそおいで下さいました」

  「こちらこそ、私のような者がこのような場へお招き預かり、大変光栄です」

  入口脇に控えていた制服姿の馬へ、下でも見せていたチケットのような物を手渡す。

  「拝見しました。どうぞ、今宵は心ゆくまでお楽しみください」

  「ありがとう」

  首輪を引かれ、日野の後に続いて扉をくぐる。

  中は、正しくパーティーホールといった趣だった。広々として、天井が高い。見上げると幾つものシャンデリアがきらびやかに金色の光を投げかけてくる。

  中央付近に料理を乗せたテーブルが並んでいる他は席もなく、どうやら立食形式となっているようだ。

  既に集まっている人々は、やはりそれぞれが仕立てのいいタキシードやドレスに身を包み、そして当然のように傍らへ全裸の奴隷を侍らせている。中には、壁際で四つん這いにうずくまらせた男の背を、椅子代わりに腰掛けている者まで窺えた。

  極めつけは、ホール最奥に見えるステージだ。

  「ッィぎ⋯⋯ッTwentythree⋯⋯Thank you dad⋯⋯っ!」

  鋭い音が耳をつんざく。

  ステージの中央には金属の支柱でやぐらが組まれ、そこに一人の青年が手足を大の字に拘束されている。

  よく見れば、あの鬣のないライオンの青年だ。その背後にいるのは、彼をクロークから引き取った男に間違いない。

  四肢を鎖に囚われ、大きく開いた股の間では錘を吊された陰嚢が痛ましい程に引き延ばされ、床に向かって重々しくぶら下がっている。

  「ぁっ、は⋯⋯ッンぐぅッ! T⋯⋯,twentyfour⋯⋯Thank you dad⋯⋯ッ!」

  息も絶え絶えな青年の背中で、再び空気を切り裂くような音が閃いた。

  一瞬だけだったが、見えたのは黒い鞭だ。それも、細い革をより合わせて出来た、長い一本鞭。

  あれに打たれる痛みは、思い出しただけでも身の毛がよだつ。

  施設での懲罰として幾度か経験があるが、刃物で斬りつけられるよりも余程肌身を痛めつけるあの痛みは、とても常人に耐えられるものではない。毛皮を越えて地膚を引き裂き、表皮の下の真皮にまで痛みを刻みつけてくる、おぞましい凶器だ。

  さしもの俺も、二十発を越えてからは立っているのもやっとのことで、ボスを相手に泣いて許しを請うことしか出来なくなった。既に二十四回打たれているのだとしたら、まともに数を数えられているだけで大したものだ。

  だが、あと何発耐えられるだろうか。

  あんなものがパーティーの余興なのだとしたら、悪趣味にも程がある。

  再び乾いた音と悲鳴が響きわたるのを余所に、日野はホールの中を歩き進む。

  すると、全裸のアナグマらしき男が一人、おずおずとこちらへ歩み寄ってきた。

  「っ、お好きなドリンクを、お選びください」

  そちらへ目をやると、確かに手にしたトレーには、シャンパンやワインらしきグラスが幾つも並んでいる。

  いや、「手にした」というのは語弊がある。彼の両手は、俺と同じように後ろ手に拘束されているようだ。

  では、グラスの乗ったトレーを保持しているのは何かというと、両胸の乳首から繋がった細いチェーンと、勃起状態の男性器だ。

  彼が息を漏らす度、時折不安定にドリンクが波打っているものの、トレーの上に液体が零れた跡はない。こうした訓練を何度となくさせられてきたのだろう。

  勃起を維持するためか、意識的に興奮状態を保とうとするように赤らめた頬が、見ているだけで痛ましく思えた。

  「ああ、これはどうも」

  しかし、日野からすればそうは見えていないらしい。

  日野の手はシャンパングラスを何故か二つ手に取ると、おもむろにこちらを振り返ってきた。

  「君も飲むかね? ⋯⋯ぉおっとすまない、今はそんな身分になかったな。忘れてくれ」

  ワザとらしい口振りと共に、手に持っていた片方のグラスをわざわざトレーの端へ、それも明らかにトレーへ押しつけるような動作で戻してみせる。

  「あっん⋯⋯っ!」

  短く喘ぐアナグマ。それでも、グラスを落とすどころか滴一つこぼさなかったのは、見事としか言えない。

  「っごゆっくり⋯⋯」

  慣れているのか、すぐに立て直してその場を去っていった彼に、少なからず敬意を覚えた。

  「いいね。是非君にもああした奉仕を覚えてもらいたいものだ」

  誰がするものか。死んでも御免だ。

  思わずそのニヤついた顔を睨みつけてしまいそうになり、しかしグラスを持つ指からぶら下がったリモコンが視界に入って、慌てて目を逸らした。

  そうして、痛みに恭順してしまう自分が、惨めで情けなくなる。

  「さて、ほらボサっとするな。行くぞ」

  こうして首輪を引かれるがまま、その後ろに従うしかない自分にも嫌気がさす。

  いや、耐えろ。冷静に。頭を冷やせ。

  あの電撃は脅威だ。何度も食らえば、それだけ動きが鈍る。最弱設定でさえあれなんだ。もし、あれ以上のレベルの電撃を受ければ、その場で身動きすら出来なくなってしまうだろう。

  体力を温存しなければ。

  今は、自分の身を守るのが先決だ。

  「ッ⋯⋯づぁッあ゛ァ⋯⋯ッ!!」

  裏返った悲鳴が鼓膜を叩く。

  鞭の音は、もう三十を超えただろうか。

  横目で見ると、スポットライトに照らされながら、力なくうなだれた青年の姿が視界に入る。

  「⋯⋯Hey,What's wrong?」

  数を数えなかったことに苛立っているのか、背後のライオンが厳しい声と共に鞭で床を打った。

  しかし、尚も青年はグッタリとしたまま、何も答えない。

  「Answer me.」

  焦れた男が、素早く腕を振り上げた。

  「ひッぎぁ⋯⋯あ゛ッ」

  青年が叫んだ。

  もう限界だ。俺の目から見ても、それがわかった。

  「かハッ⋯⋯ぁッもッ、も゛ぅムリッ⋯⋯ぃヤだッ、だれかっ、ダレかタずけでッ、だれかァッ⋯⋯っィぎあ゛ぁあ゛ッ!!」

  思わず、耳を塞ぎたくなる。

  あまりにも、悲痛な慟哭。頭を振り乱して助けを請うその姿は、正視に耐えない。

  だと言うのに、会場内からは次々に歓声が上がる。口笛を吹いて煽る者までいる始末。

  息を飲んだ。

  何なんだ、コイツらは。

  日野はどうかと盗み見てみれば、こちらもまるでストリップかポルノショーでも鑑賞しているかのように、だらしなく鼻の下を伸ばして笑みを浮かべている。

  あまりに醜悪で、おぞましい表情だ。

  人が苦しみ、泣き叫んで助けを求めている様を、笑って見ていられるその神経がわからない。

  価値観が、感性が、性根が、根本的に俺達とは違う。同じ人間とは思えない。同じ赤い血が通っているとは、到底思えなかった。

  そしてそんな、人の皮を被った人でなしが、この場にこれほどの数集まっているという事実が、空恐ろしくなった。

  悪寒に身震いする俺を余所に、再び空気を張り裂くような音が轟く。

  どうやら、今ので青年は完全に気を失ってしまったらしい。鎖に吊られたまま膝を折り、ダラリと力なく首を落として、もはや少しも動かない。

  そんな青年の有様にも、大した感慨を見せることなく肩を竦めてみせると、鞭を持った男はステージの前に進み出て恭しく一礼した。同時に、会場からは盛大に拍手が巻き起こる。

  なんだ、これは。

  気絶した青年はステージ脇から上がってきた乗務員の手で拘束を解かれ、手際良く担ぎ上げられながらステージを降ろされていく。

  これにて、ショーは幕引きといったところか。

  反吐が出る。

  「いや、これは素晴らしい催しでしたな」

  だが、日野は全く逆の意見らしい。

  大仰に拍手をしながらの物言いに、信じがたい思いでそちらを見やるも、しかしどうやら、俺に向けた言葉ではなかったようだと気づく。

  日野の視線の先には、二人の男の姿があった。一人は、何処かで見た覚えのある、恰幅の良い中年の黒牛。日野よりもやや年嵩だろうか。石膏で塗り固めた作り物のような笑顔に、薄気味が悪い程真っ白に浮いた歯。一目で、信用して良い人間ではないと直感出来る顔だ。

  だが、何処で見た顔だったかが思い出せない。恐らく、直接対面したことはないハズだ。なら、前歴者リストにあった顔だろうか。或いは過去の担当事件の関係者だったかも知れない。

  一方でもう一人は、完全に知らない顔だ。スラリと長い手足に、タキシードと同じくしっとりと艶やかな黒色の毛皮。長い耳をピンと真っ直ぐに伸ばした年齢不詳の黒ウサギが、その真紅の瞳を穏やかに細めていた。

  「やぁ日野君、待っていたぞ」

  黒牛の方が、まず口を開いた。

  口振りの気安さからして、どうやら日野とは面識があるらしい。ならば、まさかとは思うが警察関係者なのか⋯⋯?

  「お久しぶりです、草間さん。ご無沙汰しておりました」

  日野が口にしたその名に、戦慄が火花のように脳神経を走った。

  記憶が繋がる。

  草間、草間五郎か⋯⋯!

  警察庁OB。社会福祉法人『天地会』の代表理事。そしてその『天地会』といえば、児童福祉施設『種の舎』の運営母体でもある。

  全ての発端。俺がこの件と関わることになったキッカケ。俺が、今こうしてこんな目に遭っている、全ての元凶とも言うべき施設。

  その事実上のトップである男が、今目の前にいる。それはあの日、日野に対して打ち明けた疑惑の内容が、全て正しかったということに他ならない。

  口惜しさに、歯の根が軋む。

  「早速愉しんでいるようで何より。ソレは君のかね?」

  「はい、元は警察学校時代の教え子だった男ですが、如何せん鼻が利き過ぎましてね」

  「なんと、部下を侍らせているのか。相変わらず趣味の良い奴め」

  「草間さんの『育苗箱』を嗅ぎつけかけていましたのでね、致し方なく」

  「む、知らぬ内とは言え、また面倒をかけていたか。いや、君にはいつも苦労をかけてばかりだね。すまない」

  「とんでもない。草間さんのお蔭で、こんな分不相応な場所にお招きに預かっているのですから、光栄の至りです」

  こちらのことなどそっちのけで、社交辞令が続く。その言葉の節々から、二人の外道ぶりは聞くに堪えない程よく理解出来た。

  会話の中で『育苗箱』などと称されていたが、それがあの児童養護施設を指していることは、疑いようもない。あそこが、奴らにとってどういう施設なのかは、その言い種だけで充分理解出来る。

  事前の調査では、『種の舎』は設立から十五年とあった。その間、いったいどれだけの数の子供達が、あそこで未来を奪われてきたのだろう。何の罪もない、多くの子供達が。

  ただでさえ身寄りがないという彼らの不幸を、自らの肥やしとして食い物にしてきた男達が、今目の前で何ら屈託もなく談笑している。その光景は、あまりにもおぞましく、思わず目を背けたくなる程醜悪に映った。

  「それで、草間さん。そちらのお方が⋯⋯」

  「おっと失敬、紹介が遅れましたな。総裁、彼が話にあった日野です」

  総裁。

  耳に入った何とも仰々しいその響きに、背けていた目をチラリと戻す。

  日野に促されて歓談を中断し、決まり悪そうにした黒牛が半歩退いて身体を開いた先には、赤い瞳の黒ウサギがいる。

  「ご挨拶が遅くなってしまって大変申し訳ありません。日野総一郎と申します。この度はご招待頂き誠にありがとうございます」

  「ようこそ、私の船へ。かねがね話には聞いている。長年我々のために尽くしてくれたことを思えば、当然のことだ」

  穏やかに微笑みながら挨拶を交わす両者。

  初めて、その男の唇から爪弾かれた声を耳にして、まずゾクリと言い知れない感覚が背筋を踊った。

  低く、静かに、脳の奥を甘やかに振るわせるような、独特な声音。音楽に造詣が深い訳ではないが、チェロのような低音域の弦楽器を間近で聴いているような、そんな錯覚を覚えさせられる。

  顔立ちも、かなり整っていると言えた。十人いれば十人が美形だと評するだろう。何処か非人間的な、ある種の美術品のような、造形物的な美貌だと感じさせる。

  ありのままに言えば、同性の俺から見ても魅力的に映ると言わざるを得ない。性別を問わず他人を魅了するタイプの人間だ。

  そう感じながらも、俺は別の部分でその男に、何か酷く異質なものを感じていた。

  底が知れない。

  自慢ではないが、これまで何人もの悪人と向き合ってきた。凶悪犯と呼べる程の罪状を犯した被疑者はそう多くなかったが、それでもその内に巣くう悪意に触れてきたという自負がある。中には本当に救いようのない、性根から腐り果てた悪党だって見てきた。

  しかし、この男は違う。そうした『悪人』とは、何かが違う。何が違うとは、具体的に言い難い。

  目か、表情か、仕草か。

  見ていると腹の底が冷えてくるような、声を通して耳から内側へ這い寄ってくるような、暗く深い闇。

  暗闇だ。黒く、重く、冷たい闇が人の形を取っているような、悪意そのものが服に袖を通しているような。

  先程、ここにいる他の人間を指して人でなしと評したが、この男は違う。

  人とは、何かが違う。

  そう感じた。

  その悪意が、俺をその視界に収める。

  「どうかな、ソレは。未完品を納めるのは主義に反するが、気に入ってもらえているかい?」

  「えぇ、それはもう。あのカタブツだった彼がこんなにも淫乱に成り果てるとは、トレーナーの皆様の手腕には敬服するばかりです」

  「んっく⋯⋯!」

  言いながら乳首のピアスを軽く指で弾かれ、つい声が漏れる。

  さっきのような密室ではない、多くの人が周りを行き交う広間でそんな声を上げてしまったことに、顔が歪む程の羞恥が襲う。

  「ウブな反応をするね。やはりまだ人間だった頃の価値観が壊れきっていないようだ」

  いつの間にそうしていたのか、日野から首輪の鎖を受け取った黒ウサギが、すぐ眼前から俺の顔を覗き込んでくる。首輪を引きつけられて逃げられないのもあるが、そこにある二つの紅い瞳から、目を逸らせない。

  蛇に睨まれた蛙というのもありきたりな例えだが、それが正しく相応しい。捕食者と被捕食者。目の前の存在の胸三寸で己の生死が決まるのだと、本能が悟っている。

  緊張で肺が狭まる。

  この一瞬、自分が全裸であるという事実すら忘れた。

  「これはこれで面白い玩具だが、功労者に粗悪品を押しつけたとあっては、私の沽券に関わる。どうだろう、少しばかりコレをお借りしても宜しいかな?」

  「⋯⋯と、言いますと?」

  戸惑ったように日野が聞き返す。

  その顔は、せっかく自分の物になった玩具を取り上げられるのでは、と心配している顔だ。

  「なに、心配はいらない。ステージで少々面白い余興を思いついただけだ。あなたもここで愉しむといい」

  ステージ。その言葉を聞いてゾッと背筋が凍った。

  ついさっき、ステージ上で繰り広げられていた惨状を目の当たりにしたばかりだ。

  只でさえ、こんな格好で衆目の集まる壇上へ上げられるというだけで充分に苦痛だというのに、そこであんな風に気絶するまでいたぶられるのかと思うと、脚が震えた。

  「⋯⋯ふふ、存外可愛い顔をする。嬲り甲斐がありそうだ」

  日野からの返事もそこそこに、黒ウサギは鎖を引いてステージへと向かう。抵抗出来ないままそちらへ脚を進める度、ドクドクと恐怖が胸を叩いた。

  ステージの脇にいたスタッフへ幾つか小声で指示を出すと、男は備え付けられていた小さな階段を上がり、壇上へと俺を引っ張り出す。

  スポットライトの当たる、ステージの中央。金属の支柱に囲まれたそこで立ち止まると、男はスタッフから渡されたマイクを口元へ運んだ。

  『ご歓談中の皆様、今宵は私共が主催する夜会へお越し頂き、誠にありがとうございます。ここで予定外ではありますが、一つ皆様もきっとお愉しみ頂けるショーをご覧頂きたいと思います』

  男の挨拶に、会場全体から拍手が上がる。当然、視線はこちらへ集中しているハズだ。それを意識すると、身体が熱くなる。

  『こちらをご覧ください。コレはD465。二ヶ月前までは人間だった、未だ調教途中にある家畜未満の未完成品です。今宵はこの場を借りて、コレの調教を皆様にもお手伝い頂きたく、こうして連れて参りました。どうぞご容赦ください』

  鎖を引かれ、前へと進み出る。

  男よりも前に立つと、尚のこと会場の様子がよく見えた。

  誰も彼もが、俺を見ている。丸裸で、局部を隠すことも出来ず、それどころか卑猥な装飾品まで着けられたこの身体。性感帯へ少し触れられただけで、身悶えしてしまう程堕落した身体を、大勢の人間に見られている。

  膝が笑って、喉が干上がる。

  俯いてなるべく小さくなりたかったが、首輪を引く鎖がそれを許してくれない。

  顔を上げ、肩幅に脚を開き、腰を突き出すような姿勢を強いられる。

  そして、男の手が俺の股間へと触れた。

  『粗末なモノをお見せするのは忍びないですが、これも必要な措置ですのでご勘弁を』

  そこで、カチリと軽い音がした。

  途端、身体の一部をどれぐらいぶりかも思い出せない程の解放感が見舞う。

  何処だか、わからない。わからないまま、その場所を視線で探して、ヒュッと喉が鳴った。

  会場から歓声が上がる。

  いったい、それを見たのはいつが最後だっただろう。

  だらしなくせり出した俺の腹。その下から、真っ直ぐに観客の方を指し示すようにして突き出した、俺自身。

  俺の、陰茎。

  長らく貞操帯の中に閉じ込められていた俺の性器が、久方ぶりに外気へ触れることを喜んでいるかのように、高々と勃起を晒している。

  「あッぅ⋯⋯!」

  呼吸が乱れる。上手く息が吸えない。

  その場で後ずさろうとしたところで、バシンと後ろから尻を打たれた。

  見られ、見られている⋯⋯っ!

  こんな、大勢に。裸で、勃起した姿を。

  逃げたい。隠れたい。

  そう焦る気持ちを、繋がれた首輪が縫い止める。

  『皆様にだけお伝えしますが、なんとコレは二ヶ月前まで国家権力の一端を担う警察官でした。かつては正義と秩序を愛し、法と市民を守る高潔な使命を全うしていたお巡りさんの姿が、今やこの有様』

  会場の端々から、せせら笑うような声が上がった。

  脳が煮える。眼球が融解する。

  悔しさと羞恥心で、溢れた端から涙が沸騰した。

  かつての経歴と、今の自分。その落差を一番理解しているのは、他でもない俺自身だ。その情けなさを最も嘆いているのも、俺に他ならない。

  それを、何も知らない奴らが笑うな。

  誰も、好きでこうなった訳じゃない。好きでこんな所にいてたまるか。

  ちくしょう⋯⋯コイツら、今に見ていやがれ⋯⋯っ!

  ギチリと軋む手錠の感触を感じながら、俺はその場で恥辱に耐え続けた。

  どれだけ頭の中で念じても、勃起は収まってくれない。まるでそこだけ、自分とは別の生き物に寄生されてしまっているかのようだ。

  それならいっそよかった。この場で切り落としてしまえたらと、半ば本気でそう思っていた。

  そうして身体に突き刺さる視線と戦っている間、隣では着々と何かの準備が進んでいる。四本の支柱へ一本一本鎖が繋がれ、その中央へ黒革のシートが吊り下げられる。

  一目見た印象は、小さめのハンモックだろう。背中が乗る程度の大きさしかなく、両足を乗せるための革帯が左右の鎖それぞれに取り付けられていることを除けば、であるが。

  嫌という程、見覚えがあった。

  施設でも何度となくそれの上に乗せられ、何時間と犯され続けた記憶がベッタリと脳裏に貼りついている。

  やぐらの支柱数カ所に設置されていくカメラ。ステージの背面他、数台に分かれて設置されるスクリーンとモニター。

  それらの配置から察せられるこの先の展開に、喉が喘ぐ。

  これから、ココで犯されるのか?

  晒し者にされながら、カメラで写されながら。

  勃起は収まらない。あまつさえ、犯されることを想像した身体は、意思とは関係なく反射的に尻穴を熱くさせる。

  駄目だ。今、肛門を犯されたとして、痴態を晒さずにいられる保証はない。

  寧ろ、頭の隅で微かに『射精させてもらえるかも知れない』と期待する自分の存在を、拭い去ることが出来ない。

  耳の中でドクドクと鳴り喚く心音がうるさくて、思考がまとまらない。

  嫌だ。逃げたい。

  走って遠くへ。

  駄目だ。鎖を掴まれたままだ。

  振り解いて逃げられるか?

  いや、それも難しい。尻にはまだあのプラグが入っている。

  今リモコンを持っているのは誰だ?

  ウサギか、日野か。

  そもそも、この場を脱したからといって、何処へ逃げるつもりだ?

  ここは船の上だぞ。逃げ場なんて最初からない。

  無理だ。どうしようもない。

  なら、いっそ。

  諦めて、全て受け入れてしまった方が⋯⋯

  『さてここで、もう一人ショーのゲストをご紹介しましょう』

  薄暗い方向へと流されそうになっていた思考を、現実に引き戻される。

  思索に耽るばかりで気づいていなかったが、ステージ上には黒ウサギを挟んで俺とは反対側に、もう一人登場人物がいるらしかった。

  だが、人影はかなり小さい。

  長身のウサギの影になって、俺からだとその人物の顔はよく見えない。

  と言うか、背丈からして、まさか子供⋯⋯?

  『コレはB273。年齢はこの通り十二歳の少年ですが、奴隷としてはD465よりも二ヶ月余り先輩となります』

  紹介されるのに合わせ、その小さな人影が一歩前に踏み出した。

  ようやく俺からも見えたその姿は、黒ウサギの言葉の通り紛れもなく子供だった。

  シベリアンハスキーの少年。

  まだ成長期に差し掛かったばかりで、顔からもあどけなさが抜けていない。

  だというのに、その表情からはおよそ感情というものが感じられなかった。瞳は真っ黒に沈み、何処にも焦点が合っておらず、何も映してはいない。

  しかしそれも、無理からぬことだろう。

  俺と同様一糸纏わぬその裸体を見れば、その幼い身体が受けてきた仕打ちが、ありありと窺い知れる。

  小豆を思わせる程肥大した乳首に、それを貫くリング状のピアス。そこから繋がる細いチェーンは彼の性器に向かってピンと延び、包皮を引き伸ばすように貫通したピアスのリングへ繋がっている。

  形として目に見える所業だけでこれだ。俺よりも長い期間奴隷として嬲られてきたのだとしたら、その未成熟な身体でどれほどの地獄を味わってきたのか、想像もつかない。

  そのあまりに残酷な有様に、体中を巡っていた血が一気に冷めた。迷走していた思考もクリアになってくる。

  そうして冷静さを取り戻しつつあった俺の脳裏に、僅かな違和感が引っかかる。それは頭が冷えてくるのに比例して、霧が晴れるようにその輪郭を鮮明にしていく。

  違和感、というよりも既視感⋯⋯だろうか?

  その正体を探ろうとして己の内を見つめ直すも、上手くいかない。それではと、代わりに目を凝らす。

  目で、視る。

  視えるのは、少年の横顔だ。

  違和感が、既視感が強まる。

  彼の顔に、見覚えが⋯⋯────

  「は⋯⋯ッ」

  全身が震えた。総毛立つ。

  心臓が裏返りそうだ。

  何故。何故。何故だ。

  どうして⋯⋯

  疑問符が駆け巡る。

  頭を埋め尽くす疑問符の重みで、まず何を問いたかったのかまで思い出せなくなる。

  吸い込んだ息が凍る。血圧が下がる。

  冷え切った酸素が、頭蓋の隅までゆっくりと行き渡る。

  どうして?

  何故?

  どうして────俺は今の今までこの子の顔を思い出せなかったのか。

  何故────この子がここにいるのか。

  記憶の奔流が疑問符を洗い流していく。

  蘇る。

  あの日、最後に見た背中が。

  俺を呼んだ声が。

  彼の名前が。

  「ぁッァぐ⋯⋯ッはゥォおッ!!」

  口枷も忘れて、俺は叫んだ。

  知っている。知っている。

  俺はこの子を知っている。

  ずっと捜してきた。ずっとその身を案じてきた。

  無事でいてくれたらと。いつか一目でもまた会えたらと。ずっと祈ってきた。

  それが、今目の前にいる。

  こんな、変わり果てた姿になりながらも、生きて、ここにいる。

  それだけで、胸が張り裂けそうだった。引き裂かれそうだった。

  「ぐッゥ⋯⋯ッ!?」

  思わず駆け出そうとしたところで、強く首輪を引かれて堪らず仰け反る。

  コイツ⋯⋯細身に見えてなんて力だ。

  急所の首を捕らえられていることを差し引いても、これ以上一歩も近づけない。

  『おっと、これは危ない。急にサカりがついてしまったのでしょうかね。危うく舞台が整う前に盗み食いされてしまうところでした』

  会場からドッと笑い声が上がるも、そんなことに構っていられない。

  ずっと捜し求めてきたものが目の前にあるのだ。こんなことで、立ち止まってなどいられるものか⋯⋯ッ!

  「ひッぐゥッ!?」

  だが、股間から脳天を串刺しにされたような衝撃に、足どころか全身が硬直する。

  そのまま床へ倒れ込みそうになった身体を、背後から男に抱き止められた。

  「お手つきにはペナルティだ。なに、焦らなくとも、もうすぐ好きなだけ味わわせてやるから、それまで大人しくしておけ」

  耳元で囁く声と共に、その手に握られたリモコンを見せつけられる。

  そのリモコンがある限り、やはり俺に抵抗の余地はない。

  何とかしてプラグを抜き去るか、リモコンを奪うか、活路があるとしたらまずどちらかを実行しなくてはならないだろう。

  しかしそのいずれの手段も、今の俺には文字通り手が届かない。男の腕に寄りかかるしかない口惜しさに、強く轡を噛みしめた。

  『失礼しました。ではショーに移りましょう』

  黒ウサギの合図と共に、少年は自らその背を黒革のシートへと預けた。

  続けて、周囲のスタッフ達が手際よくその細い手足を鎖へと繋いでいく。その間も、彼は抵抗らしい抵抗も見せない。表情も変えず、完全にされるがままだ。

  そうして、俺に向かって恥ずかしげもなく股を開いてみせる。

  尻の割れ目が開き、その奥にある秘所まで、包み隠さずよく見える体勢だ。

  そんな所を見られても、眉一つ動かさない彼とは対照的に、俺は少しも平静ではいられなかった。

  一目見ただけで、理解出来てしまった。

  淵が盛り上がり、僅かに内部の肉色が覗いて見える程、拡げられてしまった穴。

  これまで、彼のソコがどれだけ酷使されてきたのか、今の俺にはわかってしまう。

  そしてそれは、心の何処かで予想していたことでもあった。

  俺のような、客観的に見て明らかに魅力のない中年太りの男でさえ、あれだけ執拗に性的暴行を受けてきたのだ。同じ組織に拉致されたであろう幼い少年が、どんな目に遭わされていることか。調教される日々の中、折に触れては幾度も頭を過ってきたことだ。

  あの子も、こんな目に遭っているのではないか。そう思う度、そうではないことを何度も願った。

  だが、その願いはこうして裏切られた。しかもそれを、これほど残酷な形で突きつけられることがあるだろうか。

  鉛を飲んだような絶望感に、場所も時間も忘れてそこに立ち尽くした。いや、まともに地面に立てているのかさえ、不確かだった。足下が砂のように崩れて、真っ暗な奈落の底に向かって堕ちていくような心地でいた。

  そんな俺の背を、黒い悪鬼が突き飛ばす。

  完全に、不意のことだ。

  踏み出した足が、全く身体を支えてくれない。足下が覚束ない状態だったから、尚更だ。二歩、三歩、それでも身体は止まってくれず、そのまま情けなく前へと倒れ込む。

  その先いる、少年の上へと。

  「ゥ⋯⋯ッ!」

  呻きが漏れたのは、俺の口からだけだった。殆ど彼の身体を腹肉で押しつぶすような形になってしまったというのに、不満や不快を表すどころか、苦しそうな顔一つ見せない。

  あたかもそれは、良く出来た人形であるかのようで⋯⋯

  そう、俄に頭を過ったその発想に、身も凍るような寒気がした。

  しかしそれも一瞬のこと。直接触れ合った部分からは確かな温もりと鼓動が伝わってきて、自分の下にいるのが紛れもなく生きた人間であることを教えてくれる。

  生きている。ここにいる。こんなにも近くに。

  それなのに、俺には抱き締めてやることも出来ない。

  そして、すぐに身体を離すことも出来なくなる。

  「ゥッ⋯⋯!」

  周囲のスタッフが、俺の身体を支柱へと繋げていく。

  首輪の後ろへ繋いだ鎖を頭上のやぐらへ渡し、その先を後ろ手の手錠へと繋がれる。肩へかなり負荷がかかる体勢だが、腕を下ろそうとすると首が絞まる。自然、中腰で前屈みの姿勢を取らざるを得ない。

  更に、俺の乳首を縫い止めたピアスを少年の首輪へと繋がれてしまい、上体を起こすことも出来なくなった。

  かなり、危うい体勢だ。

  首、肩、腰、それから乳首へ常に負担を強いられる。とても長時間耐えられるような姿勢ではない。

  そして、何よりも危ういのは⋯⋯

  下半身だ。

  解放された、俺自身。

  その先端が、少年の穴へピタリと接している。

  「んっ⋯⋯くっ」

  まるで剥き出しの神経を舌先で舐られるような刺激に、息が止まった。

  鼓動が跳ねる。脂汗が滲む。今にも、腰が抜けそうだ。

  だがそれ以上腰を引きたくとも、先に乳首の方がちぎれてしまうだろう。

  ギリギリの膠着状態。

  そんな逃げ場のない俺を誑かすように、濡れた唇が控えめに啄んでくる。

  「ぐッ⋯⋯くっ」

  汗と涎が、並んで顎を伝った。

  意識が遠退きそうだ。

  なけなしの理性を総動員して己を戒めなければ、取り返しのつかないことをしでかしてしまいそうで、それが何より恐ろしい。

  駄目だ。駄目だ。駄目だ。

  しっかりしろ。気を確かに持て。

  自分が何だったのかを思い出せ。

  そうだ。

  俺は警察官だ。

  善良な市民を守り、法を逸脱する卑劣な輩を排除し、公共の安全と秩序を維持する為に奉仕することこそが、俺の使命。俺の責務。

  俺の、存在意義だ。

  だから、こんなことがあってはならない。

  虐げられてきたか弱い少年へ、自ら危害を加えることなど、絶対に。

  許してはならない。

  たとえそれが、自らの一部を引きちぎることになったとしても。

  轡を食いしばる。

  覚悟が決まる。

  構うものか。

  恥ずかしげもなく自己主張するその飾りを、忌々しく思ったことは一度や二度ではない。

  いっそ、ちぎれて無くなってしまった方が、清々するに違いない。

  痛みになら慣れた。

  恐れる程じゃない。

  あとは、どうせなら一思いに⋯⋯

  『どうした、そんなにまごついて。もしや童貞だったか?』

  周囲からドッと上がった笑い声に、一瞬でも恥を感じてしまった自分の浅ましさに、思わず気勢を殺がれてしまった。

  ハッとして頭を振ったのも束の間、尻に靴底が押し当てられるヒヤリとした感触に、背筋が強張る。

  『それなら仕方ない。人肌脱いでやろう』

  グリッ、と毛皮を踏み躙るように靴底が移動していく。丘の上から、谷に向かって。割れ目の中心へと。

  「ゥッ⋯⋯!」

  躱そうにも、逃げ場がない。

  「ぐッゥッ!」

  ずん、と下半身を貫く衝撃。

  殆ど蹴りつけるような勢いで、プラグの尻を強く押し込まれた。

  ここで、ニュートンのゆりかごを思い出してみて欲しい。吊り下げられた鉄球同士がぶつかった際、静止していた鉄球がどうなるか。

  真っ直ぐに突き抜けた運動エネルギーは、そのまま同一の方向と威力を保ったまま、その先にある物体へと伝わる。

  その先にあるのは⋯⋯

  「⋯⋯ッ」

  鋭く喉が鳴った。

  下半身から、想像を絶するような官能が這い上がってくる。こんな感覚は、味わったことがない。寒気がするような、怖じ気づきそうになるような、強すぎる快感に意識が飲み込まれる。

  すっかり忘れていた、性器への直接的な刺激。錆び付いていた神経が端から目覚めていく鮮烈な感覚に、背骨が痺れる。

  駄目だ。駄目だ。駄目だ。

  ぬるりとした、柔らかく、温かい感触。

  それが、ゆっくりとせり上がってくる。

  渇き切り、枯れ果てていた胸の内を潤わせ、満たしていくような快い多幸感に溜め息が漏れる。

  入っていく。入っていく。

  止められない。止まらない。

  駄目だ。駄目⋯⋯ッ。

  「⋯⋯ぁっ」

  その小さな息遣いを、俺の耳は聞き逃さなかった。

  聞き覚えがある。聞き間違えようがない。知っている少年の、聞いたことがない声。

  濡れた、艶のある喘ぎ声だった。

  顔を見る。見下ろす。

  自分の身体の下にある、幼い少年の顔。

  無表情だった顔は僅かに上気し、薄く開いた口から赤い舌が覗いて見える。

  何よりも、その目だ。その眼に、ゾクリと胸をかき乱された。

  一見変わらず、何も映していないような茫洋とした瞳。だが、力なく僅かに細められたその双眸は、恍惚としてドロリと濁り、湿った熱を帯びているのがわかる。

  第二次性徴も迎えていない年頃の少年が、見せていい目ではない。

  そのおぞましいまでのアンバランスさに、醸し出される色香に、無意識に息を飲む。

  目線が、独りでに彼の身体をなぞる。

  俺と同じ、銀色の首輪。その下で、毛皮を透かして浮き出た鎖骨。小さく細い肩。開かれた腋の下の窪み。薄いながらも柔らかく弧を描く両胸。ピアスに貫かれた赤い乳首。浅く形の良い臍。子供らしく包皮を被りながら、子供らしからぬピアスで縫い止められた性器。

  そして。それから。

  俺の。

  俺を根本まですっかり咥え込んでしまった、肛門。

  『どうやら無事に挿入出来たようですね。それでは皆さん、未成年者の尻穴で童貞卒業した変態警察官に祝福の拍手を!』

  会場から湧き上がった篠つくような拍手が、全身を叩く。

  俺にとっては、石を投げつけられているようなものだ。拍手も歓声も、非難と罵声にしか聞こえない。

  それで正しい。

  非難されて然るべきだ。

  裸の子供へ自らの劣情を押し込むなど、決して許されてはならない。

  恥ずべき、忌むべき蛮行だ。

  例え自由を奪われ、自分の意思とは無関係に強要されてのことだとしても、そんな愚行を、俺は俺に許すことなど出来ない。

  「ふッ⋯⋯ぐッ」

  腹に力を込める。

  性器から伝わってくる快楽を、下腹部でせき止める。下半身の感覚を、頭から切り離す。

  下は見ない。顎を上げて、自分を嘲笑する聴衆だけを睨みつける。

  そうしながら、慎重に腰を引いていった。

  「ッ⋯⋯」

  少しでも動く度、仰け反りそうになる程の刺激が走る。それを、気力で忘れる。次から次へ。神経を遡ってくる端から、脳の外へ追い出していく。

  なんとか、首の辺りまではきた。

  もう少し、もう少しだから待っててくれ。今、すぐにこんなもの、抜いてやるから⋯⋯

  『自分から腰を振るとは、卑しい奴め』

  「ンぐゥ⋯⋯ッ!?」

  だが、それを見越したようなタイミングで、再び後ろからプラグを足蹴にされた。

  中を抉られる重い衝撃に加え、引き返してきた道のりを再度逆走させられる刺激に、目の前が白く飛ぶ。

  飲んだ息が、喉に詰まった。腹筋が食いちぎられそうに痛む。腰の痙攣が止まらない。身体が、宙で不安定に揺れる。

  『そら、動くならもっと腰を入れろ。でないと、相手を気持ちよくしてやれないぞ?』

  「グッ⋯⋯ぅっ、ウッ⋯⋯!」

  まるでブランコを漕ぐように、一定の間隔で後ろから尻を踏みつけられる。碌に身体を支えられない俺は、揺さぶられるに任せ、否応なく腰を前後させるしかない。

  当然、俺と少年の接触部分も、前へ後ろへとスライドすることになる。

  湿った音が耳につく。

  鎖が軋む音。毛皮同士がぶつかる音。

  自分の息づかい。心臓の鼓動。

  少し鼻にかかった、変声期前の少年の甘い声。

  一つ一つの音が重なり、俺の胸の奥で鳴り響く低い叫び声と共鳴する。それは、ガラスを掻き毟るような不協和音と、恐ろしい程よく似ていた。

  罪悪感。焦燥感。背徳感。

  羞恥。嫌悪。官能。情欲。

  浮かんでは沈み、温度の違う情緒が斑に入り混じって、身体の内側を対流する。そのうねりが、激しい濁流となって精神を削り取っていく感触を、手応えとして感じる。

  心が、軋みを上げていた。

  上下にブレる視界の中、見ないように目をそらしていた少年の姿態に、釘付けになってしまう。

  既視感のある視界だ。

  すぐに、施設でのことを思い出した。

  種族も体格も、まるで違う。にもかかわらず、網膜に残る虎の青年の痴態が、少年とオーバーラップする。

  あの時の感覚が、興奮が、記憶の中から蘇ってくる。

  焼け付くような、煮え滾るような、熱烈な欲望。異性に対するものとは何かが違う、色濃く、粘度が高く、質量の大きい情動。

  あの時と違うのは、偽物ではない、自分本来の情欲を相手に押し込んでいるということ。

  克明で破滅的なその快感に、狂暴で野性的なその衝動に、何もかも委ねてしまいたくなる。

  自ら、より強く、更なる快楽を求めてしまいそうになる。

  本能が欲するまま、腰を奔らせてしまいたくて仕方ない。

  浅ましい劣情の限りを、その華奢な肉体に打ちつけて無茶苦茶にしてやれば、どれだけ快いだろう。

  そんな、自分のものとは思えない、信じがたい欲求が次々と去来してくる恐ろしさに、心が引き裂かれそうだった。

  人として培った理性。動物として備わった本能。

  警察官として築いてきた矜持。奴隷として狂わされた性欲。

  自分の中に生じた相反する側面が、互いに牙を剥いてしのぎ合う。

  そして互いに、削り合う。

  しかし、拮抗はしない。

  時を追う毎に、身体が往復する度に、音が激しさを増すにつれ、膨れ上がっていく快楽が俺の人間性を押し潰していく。

  キモチイイ。

  そのたった五文字が、自分の頭の中を圧迫していくのを抑えられない。思考が、たったそれだけのことに支配されていくのを、押しとどめられない。

  「かッは⋯⋯っんっぐ⋯⋯!」

  動くと、堪らなくキモチイイ。

  乳首が、ピアスに引っ張られて甘く疼く。もっと、上下にピンと張りつめるように、上体を揺すってしまう。

  肛門が、中を貫くプラグを乱暴に押し込まれる度、鈍くほころぶ。もっと、イイ所に当たるよう、角度をつけてしまう。

  性器が、肉の襞の中を泳ぐ歓喜に打ち震えている。もっと、その柔らかな悦楽を味わいたくて、動きをエスカレートさせてしまう。

  駄目だ。駄目だ。駄目だ。

  念仏のように繰り返していたハズの自制の言葉は、いつしか蚊の羽音程にも聞こえなくなっていた。

  代わりに身の内から胸を叩く心音と、外側で打ち鳴らされる湿った打音が、次第にペースを合わせ、重なり合うように高鳴っていく。

  脈拍が、体温が、快感が、募っていく。

  この高ぶりを追いかけていった先にあるものを、俺は知っている。その行く末がどのような結果をもたらすかも、ほぼ正確に予測出来ていた。

  それでも、にもかかわらず。

  俺には、自分自身を止めることが出来なかった。

  「ふッぐ⋯⋯んんぅゥ⋯⋯ッ!」

  身体の一点に、感覚が集束していく。

  怖くなる程の熱量と興奮、快感が爆発的に増大し、抑圧から一気に解き放たれる。

  その瞬間を迎える。

  「グッ⋯⋯ぐゥウう゛ッ⋯⋯!!」

  自我も、意思も、何もかも奪い去られた。知性も理性も何もない。ただ真っ白に、突き抜ける奔流に無惨に噛み砕かれ、押し流されていく。流れ出ていく。

  溢れる。溢れる。溢れる。

  止め処なく。白い波濤が飛沫を上げて迸る。

  全身がポンプになったかのように、身体が繰り返し収縮した。波が打ち寄せる度、腰が折れてガクンと首が墜ちる。

  キリキリと鳴る鎖の音も、何処か遠い。

  強過ぎる官能が感覚神経を独占し、他の情報が渋滞を起こしているようだ。

  目に見える光景より、聞こえてくる音より、快楽が優先して脳で処理される。

  しかしその処理が追いつかない程、膨大な快感が次から次へと送り込まれてくる。押し寄せてくる。

  懐かしい、とさえ思った。

  いったい、どれぐらいぶりに味わう絶頂だったことだろう。期間は定かではないが、拉致されてからは初日の検品の際、あの一度きりが最後だったのは確かだ。

  快感と興奮を身体に教え込まれながら、ひたすらに抑圧され続けた末に訪れた、無上の悦楽。

  身震いが止まらない程の至福の時間に、俺は目を瞑って浸った。

  今、俺を取り巻く世界には、この暖かな祝福しか存在しない。

  今だけは。

  数秒と続かないハズのこの時間。今この時だけは、あらゆる苦痛も嘆きも、忘れていられた。ほんの束の間。一呼吸、二呼吸する内に過ぎ去ってしまう、仮初めの極楽だったとしても。

  わかっていても、これが永遠に続いてくれればと、願わずにはいられなかった。

  その切なる願いも、次の瞬間には虚しく断ち切られる。

  思いもよらなかった形で。

  「────⋯⋯なんで」

  耳元で、声がした。

  「なんでたすけてくれないの?」

  心臓を、凍てついた死人の手で握り潰されたような心地がした。

  目を開ける。

  俺を見上げる少年と目が合った。

  必ず助けると、誓った少年だ。

  そうでなくとも、人として、警察官として、守るべき子供である。

  そんな彼に、俺は何をした?

  自分の身体を見下ろす。

  未だ、少年の中で張り詰めたままの自身と、隙間から溢れて滴る白い汚濁が視界に入る。

  己の所行を、目の当たりにする。

  ⋯⋯ちがう。

  違わない。

  俺は、子供を犯した。

  強要されたのは事実だ。それは否定させない。

  だが、勃起しているのは誰だ?

  あの胸を爛れさせた苦い情動は、誰のものだった?

  揺れる腰の動きに、自らの意思は少しもなかっただろうか?

  それらは否定出来るのか?

  違わないだろう。違わないだろう。違わないだろう。

  糾弾する声が止まらない。

  頭が割れるように痛む。

  ────なんでたすけてくれないの?

  そうだ。

  何故。俺はこの子を助けようとしていないんだ。

  この子だけじゃない。

  『誰か助けて』と、数分前にそう叫んでいた青年の声が耳に残っている。

  助けを求めて必死に泣き叫ぶ被害者を目の当たりにしながら、俺は何をしていた?

  彼らだけじゃない。この船の中だけじゃない。

  今日、この日に至るまで。俺は何人もの人々が不法に権利を侵害され、虐げられる様をこの目で見てきたハズだ。そしてその非道に憤り、奴らに牙を剥いて抗ってきたことも、これまで一度や二度のことではなかった。

  しかし、いつからだろう。

  目の前の悪逆を、黙って見過ごすようになってしまったのは。

  奴らに対して、反抗ではなく恭順を選択するようになったのは、いったいいつの頃からだったか。

  この世で最も憎んでいるハズの男を、「ボス」などと呼ぶようになったのは、果たしていつからだったか。

  思い出そうとすると、酷く心が揺らいだ。自分が今まで歩いてきた道のりが、途中から保身と自己欺瞞で舗装されていたことに、気がついてしまったからだ。

  足場が、崩れる。

  今まで自分を支えてきた芯のようなものが、足下から静かにくずおれていくのを感じる。

  俺は警察官だ。

  絶望に膝を折りそうになる度、何度となくそう繰り返してきた。

  十八歳で警視庁巡査を拝命し、今年三十六で警部補になった。

  人生のほぼ半分の時間背負ってきたその『警察官』という肩書きは、もはや自分にとって何より強固なアイデンティティとして、切っても切り離せない程深くまで自意識に根を張っている。

  たとえ手帳を携帯していない勤務外であろうと、その職責は常に背中へつきまとってきたし、同時に俺自身の背骨を強く支えてくれる支柱でもあった。

  俺は、この先の人生、何があろうと、いつ如何なる時でも、警察官である。

  善良な市民の平穏安全な生活を守るため、どんな不正も不法も見逃さず、法令を遵守し、公共社会へ全身全霊をもって奉仕する。それが全警察官の、俺の使命であると信じてきた。信じて疑わなかった。

  だからこそ、許すことは出来なかった。

  自分を。

  「ッ⋯⋯っ⋯⋯」

  凄絶な自己矛盾に、心が軋みを上げている。ひび割れた硝子同士が、心臓の中でこすり合わされているような、身の毛もよだつ痛みに声もなく苦悶する。

  その最中、開いた口から滴った唾液が、少年の頬へと落ちた。

  ゆっくりと頬を伝い落ちていく汚れを気にする素振りもなく、彼は乾いた目でジッと俺を見上げてくる。相変わらず、そこに感情らしい感情は浮かんでいない。

  恨みも悲しみも、失望さえ見えない。

  空っぽな色。虚ろな洞。

  透き通った、無垢で透明なビー玉。

  しかしその目が、不意にそらされた。

  俺という存在から、興味を失ったように。関心がなくなったように。

  見上げている意味を見失ったように。

  ガシャン、と胸の中で硝子が割れるような音がした。

  たったそれだけ。それだけのことで、充分だった。

  割れた破片がバラバラと内側へ降り注ぐ。粉々になって、元の形もわからなくなった残骸が、無惨に底へ降り積もる。

  俺が今日まで縋り、しがみついてきたものは、たったそれだけのことで脆くも崩れ去った。

  跡には、何も残らない。

  抜け殻が一つ、虚しくそこに立っているだけ。

  何か聞こえた気がする。

  何かを言われた気がする。

  それに何か反応したような気もするし、何も応えなかったようにも思う。

  何もかもがあやふやだった。

  現実が遠い。

  その中で、胸を刺す痛みだけは確かだった。

  [newpage]

  「⋯⋯ンっ、よしもういいぞ、そこまでだ」

  ポンポン、と頭を叩かれる感触に、不意に我に返った。

  我に返って、ハタと気づく。

  俺は今、何をしていたのだろう。

  自分が今何処にいるのか、何をしていたのか、まるで自覚がない。

  無自覚のまま、無意識のまま、俺は言われた通りにそれまで行っていた行為を停止した。

  気づけば急に時間が飛んでいた、などという訳ではない。

  ここまでの記憶はキチンとある。

  あのパーティーホールでの出来事からその後、拘束を解かれてステージから降ろされ、再び日野に首輪を引かれてその場から連れ出されていくところも、ハッキリと思い出せる。それから、何処をどう歩いてきたかまで、全て記憶にある。

  ここは、日野にあてがわれた客室なのだろう。広さや内装、船内の位置関係からしても、かなり上等な部屋のように思う。

  五十平米はあろうかという寝室。

  その中央に設えられた天蓋付きのキングサイズベッドの上で、俺は膝をついてうずくまっていた。

  両手はずっと背中の後ろ。この船上で目を覚ました時から、そこで繋がれたまま一度も外されていない。

  そんな体勢で、俺は今の今まで何をしていたのか。

  「いや大したものだ。気を抜いたらあっという間にイかされてしまうところだったよ。あのてんで面白みのなかった君にこんな才能があっただなんてね。驚きだ」

  耳と耳の間を、カサついた指で撫でられる。

  嬉しくなどない。嬉しいハズなどないが、そうして柔らかく毛並みに沿って撫でられる感触は、不思議と心地よかった。

  耳を寝かせながら、口に含んでいたものを吐き出す。

  硬いゴムのような弾力。唇を溶かす熱。舌に残る味。

  俺の唾液をまとい、部屋の間接照明に照らされて琥珀色に艶めくソレを、俺は食い入るように見つめた。

  ボスと比較すれば寸詰まりではあるが、太さは僅かに勝っているだろうか。舌に触れた感触でわかっていたが、幹に幾つかゴツゴツとした凝りが浮き出ているのが見える。

  間近から見る、勃起した他人の男性器。それも真珠まで入った、一見してグロテスクなそのイチモツに、かつてなら吐き気や生理的な嫌悪感を抱いていたものだ。

  かつての自分が持っていたハズのその感性を懐かしみながら、今の自分がソレに抱く粘性の強い高揚感に薄く目を細めた。

  「物足りんかね? なに、すぐに好きなだけくれてやる」

  言いながら、ベッドボードに預けていた背中を起こし、こちらへ身を乗り出してくるブルドッグ。

  両肩を掴まれ、されるがままに体勢を後ろへ傾けていくと、そのまま柔らかく仰向けに押し倒された。

  手錠の金具が背中に食い込むのも気にならない。

  上から覆い被さられ、開いて膝を立てていた股の間へ割り込まれる。

  両手が頬へ添えられ、顎を持ち上げられた。

  顔に影がかかる。

  唇を濡らす音。

  柔らかく、温かい感触。

  煙草の酸味と、ワインの渋味が舌に触れた。

  似合わないキスだ。

  控え目に唇を食み、ゆっくりと舌を差し入れてくる。

  情熱的でない訳ではないが、そこに傲慢さや独善的な振る舞いは感じない。自分が味わおうとするよりも、愛でるような、慈しむような、そんな情緒を感じる口づけだった。

  「むっ⋯⋯ん」

  喉の奥から声が漏れる。

  心地よいと思った。

  唇を吸われ、上顎の裏を擽られ、舌同士を絡められ、甘い興奮が胸を煽る。

  不思議な気分だ。

  どういう訳か、自分でもわからない。

  自分に覆い被さる男に対する怒りも憎悪も、胸の中からすっかりいなくなってしまっている。

  消えて無くなった、というと違うのかも知れない。そこにあったハズの重くて大きな何かと一緒に、底が抜けて何処かへ落っこちてしまった、そんな感覚だ。

  新しく湧き上がってこようとする度に、底へ開いた穴からあっという間に零れ落ちてしまって、例えようのない虚無感が常に胸を塞いでいる。

  そんな空っぽの胸の中、ドロリと粘着いた劣情だけが、壁にへばりついて居座ってくれる。それだけが、胸の隙間を埋めて温めてくれるような気がした。

  その乾いた寂寥感を少しでも埋めたくて、俺は自ら自然と唇に吸い付いた。舌を差し出し、流れ落ちてくる唾液を啜る。

  喉を鳴らすと、そのまま心臓の中に唾液が流れ込んでくるような気さえした。

  「んっ、ふはっ⋯⋯」

  瞼にかかる鼻息の熱さ。頬を挟む手のひらの力。股間に重ねられる情欲の質量。

  相手の興奮が、包み隠さず伝わってくる。

  鼻を通り抜ける吐息の熱さ。自然と手のひらへ擦り寄る頬。のしかかってくる圧力に負けず、押し返すように張り詰めた劣情。

  俺の興奮も、相手に伝わっているだろうか。

  「⋯⋯思えば、私はずっとこうしたかったんだ」

  唇の間へ僅かに出来た隙間から、男が独り言のように漏らす。

  「警察学校時代からそうだ。何の疑いもなく純粋に私を慕う君を、いつか手酷く裏切って、無茶苦茶に犯してやりたいとずっと夢想してきた。そうして妄想しながら、何度自慰のネタにしたことか⋯⋯」

  当然ながら初めて聞くその告白に、少なからず動揺はあった。まさかそんな頃から性的対象として見られていたなどとは、夢にも思っていなかった。

  もしも、あの時代の自分がそれを知ったら、どう思ったことだろう。尊敬してやまない教官からそうした目で見られ、あまつさえ自慰のネタにされているなどと知ってしまったとしたら、どう感じただろうか。

  少なくとも、今の俺は何も感じなかった。嫌悪も失望もない。既に見下げ果てていたというだけではなく、心が波立たない。波打つ暇もなく、底の穴から漏れ出してしまう。

  空焚きされる胸の熱を吐き出しながら、俺は空虚な目でブルドッグの顔を見上げた。

  見慣れた顔だ。初めて出逢ったときからすると随分と皺が増えたが、それでも幾度となく向き合い、色々なことを教わり、沢山の言葉を交わしてきた。知っているつもりだった顔だ。

  しかし今、俺が見上げている顔こそが、この男の本当の顔なのだろう。長年被ってきた仮面を脱ぎ去った、剥き出しの本性。

  年齢を感じさせない程熱に漲った瞳。口角が裂けそうな程深くつり上がった唇。永きに渡る夢想が叶えられた歓喜に、心から満ち足りた表情をしている。

  「君は⋯⋯お前は私の物だ」

  言葉を噛みしめるように、男はゆっくりと口にする。

  「この身体も、心も、命でさえも⋯⋯、全て私の所有物だ。私個人の財産だ。どう扱うのも、売買するも処分するも、全て私の自由、私の一存で決められる」

  俺と、自分自身へ言い含めるように、事実として確認するように、言葉が続く。

  同時に、頬を撫でていた両手が肩へと降り、滑るように両胸を掴む。

  「あっ⋯⋯」

  少し前までなら、「ふざけるな」と自然に吐き出していたであろう口が、今は無意味な喘ぎ声しか漏らさない。それも、鼻にかかった、甘く媚びた声。

  口枷のない今、その情けない声を抑えてくれる物は何もない。自分の意思でさえも。

  「私が、お前の主人だ。飼い主だ。私の命令には全て従え。反抗も口答えも許さん。私の言葉には全て「はい」と答えろ」

  「っ⋯⋯ぁ、ん⋯⋯っ」

  ピアスの上から、指先でクルクルと乳首を転がされる。かなり控えめな力加減ではあるが、優しく愛でるようなその愛撫に、切ない快感が胸を締め付ける。

  「おい、聞いているのか? 返事をしろ」

  「ンっく⋯⋯は、はいッ⋯⋯!」

  切ない快感から一転、ピアスごと乳首を抓られる強い刺激に晒され、思わず反射的に返事をしていた。

  「いいぞ、その調子だ。お前は私の奴隷だな?」

  「⋯⋯っ、はい」

  「お前のご主人様は私だ。そうだな?」

  「はいっ⋯⋯」

  手綱を引くように両手でピアスを引っ張られ、俺は刺激に悶えながらも返事を返す。

  不思議な気分だった。

  相手を見上げながら、反抗を考えることなくただ従順に返答する。そうして一つ一つ返事をする毎に、空っぽのハズの胸の奥でソワソワと何かが騒ぐ感覚があった。

  「ならば呼んでみろ。私は、お前の何だ?」

  その問いかけに、一層胸の中がザワついた。胸からさざ波が広がるように、背筋へゾクゾクと何かが駆け上がる。

  その感覚に押されながら、俺は口を開いた。

  「⋯⋯っご主人様、です」

  心臓が高鳴る。

  自分の中で、何かが変わった。何か一つ、箍のような物が外れた気がした。

  「そうだ、そうだ⋯⋯よく言えた、エラいぞ」

  褒められる。

  頭を撫でられて、またキスをされた。

  それが無性に、胸を温めてくれる。

  『ご主人様』と、今度は心の中だけで呼んでみた。

  それは、支えとなる物を失った今の俺にとって、ひどく甘美な響きに思えた。

  自分が何者であるのか、これまでこの世界で自立した自己を定義してきた支柱を丸ごと無くしてしまった俺にとって、寄る辺となってくれる他者の存在はあまりにも都合がよかった。

  それがたとえ「隷属」や「服従」を強いられる関係性であったとしても、裏を返せば無条件で全てを委ねてしまえる相手が出来た、と言っても過言ではない。

  自由も、権利も、責任も、今の俺には重すぎる。何かを背負って立つことなど、もう出来そうにない。

  何も、考えたくない。

  ただ命令されるままに従って、このまま堕落と淫蕩に耽るのも、悪くない。

  どうせ、身体はとっくにそれを望んでいる。

  なら、いい加減心の方も、素直にそれを受け入れてしまっても構わないじゃないか。寧ろ、いっそ遅いぐらいだろう。

  もう守るものなどない。耐える理由もない。

  俺はもう、『警察官』などではないのだから。過去『警察官』だった自分を裏切ったのは、他ならぬ自分自身だ。もう二度と、自ら『警察官』を名乗ることは出来ないだろう。

  なら、今の俺は何なのか。その問いかけに、一つここに明確な答えが出来た。

  俺は、ご主人様の『奴隷』だ。

  自己を喪失し、空白のまま虚ろだった器の中に、再び中身が宿った。自己を再定義したことで、自分の存在が確かに定まるのを実感する。

  本当に、それでいいのか?

  誰かがそう訊ねてくるのが聞こえた。

  誰の声だったかはわからない。聞き覚えのある声だった気はする。

  それでも、それが誰ともわからないまま、俺はさして悩むこともなく答えを返すことが出来た。

  もちろん、構わない。それでいい。

  もしも、この人が本気で俺という存在を求めてくれるのなら、俺は喜んでこの人の物でいられる。それを、後悔することはきっとないだろう。

  「ご褒美だ。主人として、お前に新しい名前をつけてやろう」

  新しい、名前?

  俺の名前は⋯⋯

  そうか、俺はもう以前の俺ではないのだ。

  かつての自分として、元の日本で警察官をしていた頃の生活に戻ることは、二度とない。三上圭吾という男としての人生は、もう終わった。

  D465も、単なる管理番号に過ぎない。

  なら、この人の奴隷として、新しい人生を生きていく上で、新しい名前は必要だろう。

  俺自身も、欲しいと思った。

  「『ディッカー』、それが君の新しい名前だ。自画自賛になるが、君にピッタリの名前だと思わんかね?」

  ディッカー。

  声に出さず、口の中で繰り返してみた。

  不思議と、しっくりくる響きだ。

  そこでふと気づいた。

  確か警察犬の名付けをする際、犬舎毎にアルファベット順で、英語かドイツ語から取った名前を付けていく決まりがあったハズだ。頭文字のDは、俺の管理番号から取ったのだろう。

  そして、『ディッカー』はドイツ語名。意味合いとしては「太った男」といったところか。

  皮肉だが、嫌な気分はしなかった。

  「なかなか真剣に考えたのでね、気に入ってくれると嬉しいのだが、どうだねディッカー?」

  「⋯⋯はい、ありがとうございます、ご主人様」

  新しい名で呼ばれ、こちらからもご主人様と呼び返す。

  そこに、これまでとは違う繋がりが芽生えるのを感じた。

  お互いの関係性は、これで完全に刷新された。

  恩師と教え子、加害者と被害者という関係を経て、最終的に主従関係へと決着した俺達。あまりに数奇な変遷を経たものだとは思うが、これで行き着くべき所へ落ち着いたのかも知れない。

  自由と権利を奪われ、自己も人生も手放し、何の意味も価値も失った俺に、名前と身分を与えて、新しい拠り所となってくれた人。

  目の前で俺を見下ろすその人物に、俺は初めて、かつては感じなかった胸の高鳴りを自覚した。

  「ご主人様⋯⋯っ」

  いつしかもう、胸の中は空っぽじゃなくなっていた。

  気づかぬ内に胸を満たしていた切ない何かに押し出され、口が自然と相手を求めて鳴き声を漏らす。

  背中の下で繋がれた両手が、もどかしくてならない。もうこんな物なくとも、逃げも抵抗もしないというのに。

  悩ましくて、焦れったくて、俺はシーツの上で背中を浮かせて身悶えた。

  妙な気持ちだ。

  僅かに残っていた以前の価値観が、今の俺の気分を怪訝な面持ちで見つめている。

  過去、女性に対してや、虎の青年、そして今日少年に対して催した劣情とは、ハッキリと異なる性衝動。胸を熱く興奮させていることには変わりないが、それよりも何処か静かで、湿度が高く、艶めかしい情動。

  能動的ではなく、受動的な情欲。

  男性に対して、『抱かれたい』と強く望んだのは、初めてのことだ。

  犯されたことは数知れない。その快感も身に沁みて覚えている。

  だが、心から望んで男性器を挿れられたいと欲したのは、これが初めてのことだった。

  ご主人様も、俺の表情からそれを察したのか、或いは彼自身も限界だったのか、敢えて焦らすような真似はせずにその滾りを俺に押し当ててきた。

  「さぁ、約束通りくれてやろう。待ちかねたかね、ディッカー?」

  「⋯⋯は、いっ」

  喉は、思った以上に切迫した音で鳴いた。

  縁をなぞるヌルリとした感触に、自然と力が抜ける。もはや条件反射の域だ。そうまで使い込まれた自らの浅ましい身体が、急に恥ずかしく思えた。直接触れているご主人様には、隠すこともなく伝わってしまっているだろう。隠しきれない期待と熱望が、自分でも制御出来ない。

  プラグを抜かれてスペースを持て余していた穴が、餌をせがむ雛鳥のように入口を蠢かせているのを感じる。

  胸に開いていた穴は、既に満たされたかも知れない。しかしそこで口を開けている穴は、今も塞いでくれるものを求めていた。

  「あっ⋯⋯!」

  窄まりが、押し広げられる感触。

  軟らかな頭の形をなぞり、濡れた唇がゆっくりと綻ぶ。

  待望の瞬間。望んでやまなかったものが与えられる歓喜に、全身が打ち震える。

  ほんの少し前まで、快感こそあれど屈辱でしかなかったその行為に、これ程までの多幸感を得られる時がくるとは、思いもしなかった。

  身も心も、いたく悦んでいる。

  敏感な粘膜を、真珠のゴツゴツとした感触が這い上がっていく刺激。熱く硬い重量物が、括約筋の収縮に逆らって直腸を遡行してくる感覚。内部で脈動し、その猛々しい興奮を直に伝えてくる生の実感。

  そうした物理的な体感のみに及ばず、精神的にも繋がりが深まっていくのを目線の交わりで感じ、より幸福感で満たされていく。

  強姦ではない、望んだ同性との性行為。

  それが、こんなにも心地良いものだったなんて、知らなかった。

  「あっ⋯⋯ぁっあ⋯⋯!」

  上擦った声が繰り返し喉から溢れる。恥ずかしいが、とても抑えられる気がしない。それぐらい、気持ち良くて仕方ない。

  入っていく。入ってくる。

  胸の隙間が埋められていく。ひび割れた心が癒えていく。

  苦痛も、後悔も、絶望も。

  義憤も、悲嘆も、恥辱も。

  誇りも、責任も、自由も。

  正義も、信念も、意志も。

  過去も、未来も、人生も。

  何もかも忘れさせてくれる。

  何もない、まっさらな、裸の自分でいられる。

  無垢に、純粋に、正直に、ただ快楽のことだかを考えていられる。

  それが何より幸福だった。

  「感じるかね、ディッカー?」

  問われながら、咄嗟に言葉を返すことが出来ず、喘ぎながら何度も頷いた。

  感じる。ご主人様を。

  自分の身体の中にある、その存在感を、強く、深く。

  今、全部入った。

  尻と、腰。お互いの身体が密着する。

  キモチイイ。嬉しい。

  身体と心の最も深い部分で、ご主人様と繋がり合えた。そんな気がする。

  胸を満たす温かな充足感を口から逃がしていると、上から同じ温度の吐息が降りてきて、目の前の空気の中で溶けて混ざり合うのが目に見えた。

  ご主人様も、同じ気持ちでいてくれている。そう確信出来た。

  ゆっくりと、見つめ合いながら、ご主人様の身体が倒れてくる。

  手を差し出せないのが、狂おしく切ない。

  両肩に手を乗せられ、体重がかかる。その重さまでもが愛おしく思える。

  肘が折り畳まれ、顔に落ちる影が色を濃くしていく。待つだけの時間が、こんなにも苦しいだなんて。縮まっているハズの距離が、あまりにも遠く見えた。

  永遠にも思える程待ちわびた、待ち焦がれた時間。

  それはヒタりと、時計の針が重なるような静けさの中で訪れた。

  「んっ⋯⋯」

  再び、重ねられる唇。

  身体と身体。

  毛皮と毛皮。

  体温が、重なり合う。

  「ふっ、ん⋯⋯っ」

  親指が肩口を撫でる感触。唇を濡らす熱。押し潰すように容赦なく預けられる体重。

  乳首と乳首。臍と臍が触れ合う。

  腹の上で寝そべっていた俺自身が、互いの贅肉に挟まれてはしたなく涎を垂らすのを感じる。

  興奮していた。これまでの人生で、感じたことがない程に。

  括約筋が、無意識に収縮する。

  中にある、その存在を確かめるように。それを、より深く中へ導こうとするように。自分の良い所へ当たるように。

  浅ましく、ねだるように。

  「卑しいヤツめ⋯⋯」

  目前で罵られて、ゾクゾクと背筋に愉悦が走った。

  ただ蔑まれた訳ではない。

  声色で、喜んでくれているのが伝わってくる。表情に、見て表れている。

  「私も歳だというのに⋯⋯そんな顔をされて、張り切らずにいられんだろうが」

  そう言われても、自分が今どんな表情をしているのか、自分ではわからなかった。

  だが、もうそんなことはどうでもいい。

  「あっぁあっ⋯⋯あっ」

  ズルズルと、内に納まっていた塊が引き抜かれていく感触。その虚脱感にも似た感覚に、喉が戦慄く。

  「あっ」

  続けて、息を飲む。

  一転して、逆流する。遡ってくる。

  太い杭が、奥深くを目指して食い込んでくる。押し込まれる。押し入られる。

  「あっ、ぁっぁっあ⋯⋯!」

  口からは、もう情けない喘ぎ声しか出なくなっていた。

  ゆっくりと、繰り返される抽挿。

  波のように、引いては寄せ、寄せては返す官能。

  響いてくる音は、潮騒と呼ぶには些か品がないだろう。浅い水面を爪弾くような軽い水音と、濡れた洗濯物を叩くような湿気た打音。

  それが、間隔を狭めていく。テンポを上げていく。音階を高く、音量を大きくしていく。

  次第に大きく、強く、激しく。

  それは、快感も同じだった。

  「ッあっあぁっああぁっぁあッ!」

  喉が裏返る。

  自分の身体から、こんなに甲高い声が出るなんて知らなかった。

  キモチイイ。キモチイイ。

  尻を掘られるのが、こんなにキモチイイだなんて。

  この数ヶ月、幾度となく犯されてきた。

  もっと太くて長い男根で犯されたこともあったし、バイブや電極で強制的に快感を刺激され続けたことだって、いくらでもある。

  腰の動かし方や技術で言えば、あのシロサイの方が一枚も二枚も上手だろう。

  だが、それら過去のどんな経験よりも、今この瞬間が格別に気持ちがいいと、断言出来た。

  腰を打ちつけられる度、陰茎を打ち込まれる度、快感が中に響く度、それを心が、胸の中でときめく悦びが、何倍にも増幅してくれる。

  自分から腰を振っているから、というだけじゃない。自分でイイ所に当たるよう導いてはいるが、それだけでこうまで感じ方が変わることはないだろう。

  やはり心理的な、自ら相手を受け入れようとする精神状態が大きく作用しているように感じた。

  抵抗もせず、嫌悪感も反抗心もない、初めての肛門性行。恥じらいはまだあるが、それも興奮を引き立てる要素に過ぎない。

  「っあンッぁっあああッんぁっ!」

  声を、張り上げた。

  大きく、抑えることなく、取り繕うことなく。

  これまでは、必死に押し殺そうとしてきた。口を閉ざし、息を止め、時には舌を噛み締めて堪えてきたこともある。どんなに激しい快楽の中に晒されても、身体が悦んでいることを他者に知らせたくなかったからだ。かつての価値観と理性が、そうさせていた。

  だが今、俺を縛るしがらみはもうない。

  隠す必要も、意地を張る意味もない。

  寧ろ、伝えたい、さらけ出したいとまで思っていた。

  自分がどれだけ歓喜に咽んでいるか、喜悦に打ち震えているか。

  ご主人様に、知ってほしい。

  「ふッ、はっ⋯⋯ハハっ、随分、乱れるじゃないか⋯⋯そんなに、イイのかね、ぇえっ?」

  「あっぁああっあっ!」

  イイ。堪らなくイイ。キモチイイ。

  口枷もないのに、意味のある言葉を返せない。口が、言葉を喋るという機能を忘れてしまったかのように、まるで舌が動かない。何も言えない。

  代わりに、首を縦に振り乱して必死に訴えた。それだけしか出来ない。これだけで、何とか伝わって欲しいと願いながら、俺は馬鹿みたいに頷き続けた。

  全身を縦に揺さぶられ続ける中、それがどこまで意味のある行為だったか自分ではわからない。

  それでも、激しさを増していく腰の動きが、俺にはまるで頷き返してくれているように思えた。そうだといいと思った。それでいいと思った。

  「はッ、はっふ⋯⋯ッ!」

  腰の回転数が、更に上がる。それにつれ、明確にご主人様の口数が減ってきた。息切れも激しい。日頃の運動不足が如実に窺い知れるようだ。

  顔から噴き出した汗が、大粒の滴となって幾つも降り注いでくる。

  だが、汗の量なら俺とて負けてはいない。

  お互いに毛皮を絡めて折り重なった身体同士は、既に隅から隅までしとどに濡れそぼっていた。背中の下で握り締めていたシーツの感触が重い。二人分の体液が染み込んだ生地が、動く度にピッタリと地膚へ張り付いてくるのを感じた。

  部屋に響き渡る水音は、もはや波飛沫を思わせるまでに荒れ狂っている。

  興奮と快楽の嵐。

  熱と乱気流の渦に揉まれながら、それとは別の熱源がせり上がってくるのがわかる。地中深くを繰り返し掘削されたことで圧力が増し、熱を滾らせていたマグマ。その灼熱の奔流が、出口を求めて地上を目指している。

  つまり、射精感が込み上げてきていた。

  性器には、今直接触れているものは何もない。動きが加速して体勢が変わったことで、直接的な刺激が加わる位置からはややズレている。

  それでも、俺は今確かに、頂点を目指して登り詰めようとしているのを実感していた。

  性器への刺激による、あの駆け上がるような絶頂感とは、何処か違う。緩やかな稜線を一歩ずつ踏みしめるように、ジワジワゆっくりと頂に向かって上昇していく。

  クる。クる。クる。

  もうクる。そこまでキている。

  ああ、キた。キた。キたぞ。

  イく。

  「ぁっ⋯⋯ぁぁああっあッあああっ!!」

  痙攣する。戦慄く。

  背骨が独りでに曲がって、全身が勝手に縮まろうとする。

  少し怖いぐらいの、経験したことのない感覚だった。

  絶頂感はある。尿道を押し広げ、精液が幾度も陰茎を走り抜けていく射精感も、確かに感じる。今日二度目の射精だというのに、腹の上に降りかかる粘液の量は、臍に液溜まりが出来る程に多い。

  数ヶ月分の蓄積なのだから、それも当然だ。

  但し、異様に長い。

  射精、精液の排出自体はもう止まっている。だが絶頂感だけが、いつまでもそのまま続いていく。「絶頂」に到達したにもかかわらず、その頂点にひたすら広大な地平が広がっていたかのようだ。

  思えば、穴への刺激だけでイくのは、産まれて初めてのことだった。

  ボスに、あのシロサイにいくら調教されようとも一度も達することのなかった、後ろだけでの絶頂。肛門からの快感だけでは到底至ることの出来なかった、無上の極地。肉体的な悦びのみではなく、精神的な歓びも合わさってようやく手が届いた高み。

  そこに、ご主人様と二人で辿り着いた。

  「うッ⋯⋯ぐぅっおっ⋯⋯おッ!」

  低い唸り声が腹に響く。

  当のご主人様自身も、俺に遅れること刹那、一気に巻き上げるようにして同じ所まで駆け上がってきたようだ。

  ズン、と一際強く中へ押し込まれる衝撃。

  と同時に、身体の奥深くで熱い鼓動が轟いた。そこに、二つ目の心臓があるかのような、力強い拍動が響いてくる。

  慣れ親しんだ感覚だ。中に出されたことなど、もちろん初めてではない。これまで嫌という程味わってきたし、嫌でしかなかった。

  男に犯されたという屈辱を、これ以上ない形で突きつけてくるその感覚は、何度経験しても嫌悪感を催さずにはいられなかった。そのハズだ。かつては、確かにそうだった。

  それがどうだ。

  こんなにも、充足感に満たされながら中出しされたことが、かつて一度でもあっただろうか。注ぎ込まれてくる熱が、愛おしくてならない。

  俺に、欲情した証。俺で快楽した証。

  俺を求めて、俺を使って、俺で満足したという事実そのもの。

  人の役に立てた。それが嬉しい。

  今の俺にとっては、その種汁こそが存在意義の証明にも等しかった。

  「⋯⋯ッは、っあぁ⋯⋯最高だ⋯⋯」

  荒い吐息と共に、熱い賛辞がもたらされる。

  「最高の、仕上がりじゃないか⋯⋯驚いたよ、まさかここまで夢中にさせられるなんてね。余程腕の良い調教師と巡り会えたらしい」

  夢中になってくれたのか、俺の身体で。

  誇らしさが胸に詰まった。

  報われたような気がする。

  あの過酷な日々が、苛烈な調教が、あれだけの苦難を乗り越えたからこそ、今この瞬間の悦びがあるのだと、やっとそう思えた。

  この手で殺してやりたいとまで思っていた、あのシロサイ⋯⋯ボスへの感謝が、ようやく芽生えてくる。悪辣で非道な男だったが、やはり人間を性奴隷へと堕とす手腕については、紛れもなく一流だったようだ。

  満ち足りた時間が長く永く続き、高止まりが続いていた快感がようやく緩やかな下降線を描き始めた。神経の高ぶりも落ち着きを見せ、深く呼吸が出来るようになる。

  ご主人様の方も、乱れていた息づかいが徐々に収まってきている。

  穏やかな時間。熱の名残を味わいながら、瞼を閉じて余韻に浸る。気だるくも、幸福なひととき。

  脱力し、のしかかってくるご主人様の重み。ゆっくりと上下する腹の膨らみ。胸の奥から響く低いリズム。汗と粘液の濡れた感触。全てが、祝福のように感じられた。

  「どうだね、人生が変わった感想は?」

  訊ねられ、俺は目を開けた。

  目の前で俺を見下ろすご主人様の顔に、皮肉や嘲笑といった表情はない。ただ純粋に、俺が今どう思っているかを聞きたいようだ。

  それならと、少しばかり興奮の醒めた頭で考えてみる。

  自暴自棄と自己嫌悪、それから禁欲からの解放も相まって極端な思考に走った嫌いも否めない。手放してしまったアイデンティティにも、無理をして手を伸ばせば、まだ指先ぐらいに引っかかってくれるかも知れない。

  改めて、今の自己を見つめ直した上で、俺は口を開いた。

  「⋯⋯いい気分です」

  結局、それが素直な感想だった。

  振り返って、省みて、やはり俺にはもうどうしたって、かつての自分には戻りようがない。それはもう決定的だった。

  元のように、社会全体への奉仕者にはなれない。だとしたら、代わりに個人への奉仕者になるというのが、順当な選択肢だと思えた。

  俺の意思で選択したという訳ではないが、それでもこの道へ導いてくれたのはご主人様だ。背中を押されたと言うよりは、手綱を引かれて引きずられたようなものではあったものの。引きずられて、引きずり落とされたようなものではあるものの。

  堕ちた先で、受け皿になってくれたのも、ご主人様だ。

  新しい人生。

  俺に、新しい生き方をくれた人。

  新しい自分をくれた人。

  俺はこれから、生涯この人の為だけに尽くす。それでいい。

  「何よりだ」

  俺の返答に満足したのか、ご主人様は薄く笑うと、ソッと頬にキスを落としてきた。

  なんだか気恥ずかしくて、くすぐったい仕草だ。

  だが、心地よい。

  心が安らいだ。

  「私も、最高に良い気分だとも」

  そのまま耳元で囁きかけられ、ツンと胸が弾んだ。

  同時に、腰の奥が切なく疼く。

  そこにある熱は、未だ燻り続けている。

  「ああ、2ラウンド目を始める前に、少しこれからのことを話しておこうか」

  「あっ⋯⋯ん」

  そう言いながら、ご主人様は既に緩やかに腰を動かしつつある。燻る火種に風を送るように、正しくふいごの動きを真似るように。俺を煽ってくる。

  話がキチンと耳に入るか、どうにも不安だ。

  「予定では、クルーズの日程はあと三日。その間、船内では毎日趣向を凝らしたイベントが目白押しだそうだ。オーナー同士、奴隷同士の交流会や、今夜のような公開調教ショーも定期的に開催される。お前さえよければ、またステージに上げてやろう」

  その言葉に、今夜のパーティーホールでの一幕が頭を過る。

  思い起こされるのは、かつての自分が、決定的に壊された瞬間。生まれ変わったとは言え、文字通り他人事ではない。あそこで死んだのは、俺なのだ。

  身震いが起きるのと同時に、あの焼け付くような興奮も蘇る。数え切れない視線に晒されながら、身を焼き焦がす程の羞恥の中、尊厳を蹂躙し尽くされたあのひととき。自分のそれまでの人生を徹底的に否定され、身の破滅を現実のものとして突きつけられた絶望。脆くも崩れ去った足場から、生暖かい汚泥の底へ頭から墜落するような、破滅的な快楽。

  思い出すだけで、胸から黒煙が立ち上るようだった。

  「そして三日後には、このクルーズの目的地でもあるプライベートアイランドへ到着する予定だ。クルーズへ参加した者だけが立ち入ることの出来る、外界から完全に隔絶された孤島でね。参加者である我々にも詳しい海域は知らされていないという徹底ぶりだ」

  頭の隅で欠片程残っていた理性が、その言葉に薄ら寒さを覚えていた。船どころか島まで所有しているとは、流石に恐れ入る。ここまできて、更に驚きが増えるとは思いもしなかった。前から不透明だったが、いよいよ組織の規模が底知れなくなった。

  今更ながら、俺一人で追えるような、俺一人の手に負えるような相手ではなかったのだと痛感する。

  いや、手に負えないと考えたからこそ、この人に助力を求めたことが、こうして今に繋がっているのだったか。

  もう今となっては、考えても仕方のない話ではあるが。

  「その島は世界中どの国にも属しておらず、いかなる国際法も適用されない。奴隷にとってはオーナーの命令が全て。君を縛るのも守るのも、法の下の秩序でなく私の一存という訳だ」

  もちろん、オーナー側にも守るべきルールやマナーはあるがね。そう付け足しながら、ご主人様は続ける。

  「島全体が何処でも奴隷を連れ歩けるリゾートになっているそうだよ。地下にはちゃんと奴隷用の収容所と調教施設が併設されている。世界中から選りすぐられた一流の調教師が常駐していて、いつでも最上級の調教を受けられる環境が整っていると聞いた。今から実に楽しみだと思わんか、ディッカー?」

  「あっ⋯⋯は、はいっ」

  返事はしたものの、果たして俺にとって楽しみな要素はあるのだろうか。

  高級リゾートをご主人様と連れ立って歩ける、というのは魅力的かも知れない。ロマンチストのつもりはなかったが、想像すると仄かに胸が弾んだ。当然、全裸で首輪を引かれながらであろうことに目を瞑りさえすれば。

  いや、いずれはその羞恥心ですら、楽しめるようになるのかも知れない。

  この先自分がどうなるかなど、想像もつかない。今のこんな俺のことを、想像もしていなかったように。

  「そうかそうか、私も楽しみだとも。ゆくゆくは私達にとって終の住処になるのだ。その下見と思って、存分に楽しもうじゃないか」

  「んっ⋯⋯ぁ、はっ」

  ⋯⋯なんだろう、今とても肝心なところを聞き逃したような気がする。

  徐々に大きくなってきたストロークに、意識がブレる。つい、感覚を下半身の方へ集中させてしまう。

  「今回、私が滞在出来るのは一週間程だ。まだ日本でやり残した仕事があるのでね。お前を一人残していくのは心苦しいが、二年の辛抱だ。私の定年まで、あと二年。諸々の引き継ぎを済ませて無事に退官した暁には、島での永住が認められることになっている。そうすれば、老後はお前と二人で悠々自適な淫蕩生活⋯⋯もとい隠遁生活だ。悪くないだろう?」

  悪くない、だろうか?

  思考に快感が割り込んできて、考えがまとまらない。

  実際、問いかけの形を取りながらも、それは既に確定事項なのだろう。

  揺れの中、辛うじて拾えた断片的な情報を繋ぎ合わせて推測するに、俺はその島とやらに二年近く置き去りにされるように聞こえる。ご主人様と離れて、一人で。それはあまり、“悪くない”話には聞こえなかった。

  「私が日本に戻っている間、お前の面倒はとびきり腕利きのトレーナーに依頼してある。寂しい思いをさせてしまうかも知れないが、許してくれ」

  「あっん⋯⋯んっ」

  しかし、「嫌だ」とは言えなかった。俺に拒否権などあるハズもない。これは、既に決まっていることを事前に伝えてくれているに過ぎないのだから。

  これまでのように、何もわからないまま翻弄されるよりは、ずっとマシだ。

  それでも、言葉には出せないまでも、俺の本音だけは理解しておいて欲しくて、身体に想いを託す。離れたくないと、別の口に語らせる。

  「ああ⋯⋯そうだ。気持ちは同じだとも。私だって、本音を言えば寂しいさ。やっと私のモノになったというのに、二年も離れ離れにならなくてはならないなんて、あんまりじゃないか。耐え難い」

  言葉が無くとも、通じ合うことは出来る。肌と肌より、もっと深い所で繋がっているのだから、それも当然だ。

  俺の締め付けに応えるように、ご主人様は腕の抱擁を強くする。その腕を通して、俺にもその切実な想いが伝わってくるようだった。

  「だから、船が着くまでの時間、島で過ごす時間を大切に過ごそうじゃないか。お互いに、二年間の空白を耐えられるように。忘れられない時間にしよう」

  ああ、そうだ。その通りだ。

  離れている間も、この体温を、声を、匂いをいつでも思い出せるように、深く身体に刻みつけなくては。

  この先誰に抱かれようと、犯されようと、常にこの人を想い続けられるように。

  俺のご主人様は、この人なのだと。

  「二年後の再会は、きっと素晴らしいものになる。隔たりが、時間が、私達をより強く結びつけてくれるハズだ。私も己を磨くことに努めよう。だからお前も、今よりもっと、上質な奴隷を目指して、調教に励んでくれたまえ。私のために、私に尽くし、私だけに奉仕する、最高の奴隷に」

  最高の奴隷。

  その響きに、以前は感じ得なかった強い魅力を抱いた。

  いいじゃないか。望むところだ。

  二年かけて、ご主人様にとって理想の奴隷になってみせよう。

  目指すべき目標が出来た。

  瑞々しい未来への希望が、胸を高鳴らせる。

  新鮮な気分だ。こんな気持ちは、いったい何年ぶりだろう。

  果たして、かつての人生の中でこんなにも張りのある情緒を抱くことが、一瞬でもあっただろうか。思い出そうとした過去の記憶は、どれも灰色にくすんで、彩りも味わいもない。

  過去の人生。警察官としての自分。

  善良な市民のため、社会に尽くし、見ず知らずの他人に奉仕する。そんな日々。

  己を殺し、身も心も削って、人生を切り売りしながら、昼夜問わず働く。そんな日常。

  罵詈雑言を浴び、暴力に晒され、自由もなく、他者への献身を己の悦びとする。そんな生き方。

  それは、奴隷といったい何が違ったのだろう。

  何ら違わない。俺には、実感を伴ってそう断言出来た。警察官も奴隷も、両方経験したからこそ、わかる。

  気づいてみれば、俺にはそのどちらにも適性があったということかも知れない。

  途中で潰えはしたものの、これまで俺が歩んできた道は、決して無駄ではなかった。これから進む道は、これまで辿ってきた道の延長上にある。

  それは、とても平らな道とは言えないだろう。これまでの道の先にありながら、これまでの道を汚し、泥で塗り潰すような道のりでもある。まともに両脚で歩くことも許されない、泥濘を這いずって進むような、惨めで過酷な道程だ。

  それでも、隣を歩いてくれる人がいるなら、首輪を引いて導いてくれる人がいれば、俺はきっと立ち止まらずに進んでいける。

  たとえ別れ道で少しの間離れることになったとしても、進んだ道の先で待っていてくれるなら、信じてその先を目指していける。

  そこに待ち受けているのが、天国でも地獄でも。それが、自暴自棄と自己欺瞞の最果てに行き着いた、仮初めの幸福だとしても。

  俺は、この人と生きていける。

  「愛しているぞ、ディッカー。私の奴隷よ」

  「あっ、ぁっ⋯⋯ご主人、様っ⋯⋯!」

  俺の名前はディッカー。

  ご主人様の奴隷。

  それが俺の、新しいアイデンティティ。俺が俺であることの証明。存在意義。

  この先の人生、何があろうと、いつ如何なる時でも、それが変わることはない。

  多くを手放した代わりに手に入れた、かけがえのないもの。目には見えないそれを背中の後ろで大切に握り締めながら、俺は歓喜に叫んだ。

  夜はまだ長い。

  薄明かりが満ちる静寂の中、俺の生まれ変わりを祝うかのように響く、濡れた拍手の音。それに応えて、俺は濁った産声を上げる。

  互いの汗と精液を産湯に、船を揺りかごにして、俺はこの世界に再誕を果たした。

  揺りかごは穏やかに揺れながら、俺達を新しい世界へと運んでいく。そして刻々と、夜が更けていくにつれ、元の世界から、日本から遠ざかっていく。

  そこに未練はない。望郷の念など、とうに置き去りにした。

  昨日を忘れ、明日を夢見る悦び。

  ああ、明日のことを楽しみに思うなど、いったい何年ぶりのことだろう。そんな当たり前のことすら忘れていたことに、今やっと気づいた。

  明日は、今日よりもきっと良い日になる。

  今の幸せを確かに噛みしめながら、未来に約束された更なる希望に胸を膨らませ、俺は瞼を閉じた。

  こうして、俺が辛うじて人間として生きた最後の一日は、幕を閉じた。

  人生の幕を下ろし、また新たな幕が開く。

  舞台の上でスポットライトを浴びる自分を想像して、俺は興奮を抑えられなかった。