スミス家

  水の大陸、おだやか村。

  かつて隕石が落下した直後、暴徒が雪崩れ込んだ村は村民や関係者を全員殺害され、廃村と化した。その後のディアルガ教徒による攻撃と暴動により、各大陸は混乱の渦に巻き込まれたが、少しずつ復興していき、戦いの傷跡も癒えてきている。

  おだやか村も例に漏れず、かつての暴徒による虐殺を忘れず、後世に伝えるためにも復興が進み、現在では幾つもの家々と商店、公共施設が建てられている。

  村を見渡す丘の上には大樹があり、その根本には暴徒に殺された村民達の墓、そして隕石の落下を阻止したライラとリラの墓がある。以前はライラが一人で管理していた墓だが、今では移住した新たな村民達が管理し、清掃や手入れが行き届いている。

  暖かな太陽の日が照らす昼下がり、丘の上には幾つもの影があり、墓石の合間を走り回っている。ピチューとピカチュウ、アチャモ、ワカシャモ達は墓石を手入れする人影の傍で遊んでおり、辺りには子供達の楽しげな笑い声が響いている。

  人影は近くを走り回る10人以上の子供達を見渡し、苦笑しながら墓石を磨いている。

  「スミスさん」

  人影、スミスは名前を呼ばれ、振り向いた。彼の振り向いた先には村民のメガニウムの姿があり、蔦を器用に扱い、御供物の果物を運んでいる。メガニウムは丘の斜面を登り、スミスの隣へ移動した。

  メガニウムは御供物の果物を墓石の前に置き、蔦を合わせて黙祷した。

  スミスは隣人のメガニウムに向かって微笑み、「お疲れ様です」と声をかける。メガニウムも微笑み返し、視線を子供達へ向ける。

  「相変わらず、スミスさんのお家は賑やかですね」

  メガニウムに話しかけられたスミスは照れ臭そうに笑い、視線を子供達へ向ける。

  「全部で12人も居ますからね…1番上のお姉ちゃんは初級学校を卒業して、ワイワイタウンへ出稼ぎに行きましたよ」

  「…双子ちゃんや三つ子ちゃんも居るとはいえ…奥さんも凄いですよね」

  メガニウムは苦笑しながら、12人もの子を産んだスミス夫人の努力を賞賛した。彼の言葉を聞いたスミスは恥ずかしそうに笑い、小さな声で呟いた。

  「…もうねぇ、妻は夜になると元気になるんですよ…私は仕事でへとへとですけど、妻が希望するのでね…」

  「…わぁ」

  スミスは疲れた顔で呟き、メガニウムは驚きを隠せずにいる。メガニウムの脳裏に美人なスミス夫人の姿が映り、彼は苦笑いを浮かべた。

  「スミスさんも仕事を頑張り、お金を稼がないといけないですね」

  メガニウムの言葉を聞いたスミスは溜息を漏らし、肩を竦めながら応えた。

  「我が家は常に火の車ですよ…幸いにも野菜や木の実は庭で採取できますが、それでも14人家族の家計はきついですね」

  「それは大変ですね…でも夫人とアインスちゃんも働いているから、少しは楽になるでしょう?」

  メガニウムに尋ねられたスミスは、ワイワイタウンで働く長女アインス、いやエリスの顔を思い出しながら口を開く。

  「あの子の稼ぎはあの子のために使って欲しいですね。幸いにも、ワイワイタウンには私の知り合いも居ますし、生活の世話はしてくれますので…」

  牝のリザード、エリスの顔を思い出したスミス、いやライラは嬉しそうに目を細める。

  暴動から10年が経過した頃、ライラとリラは秘密裏に調査団の面々と連絡を取り、生存と結婚、そして子供を儲けた事を報告した。暴動直後から定期的に連絡を取り合っていた団長とウルスラ以外の調査団の面々は、驚き泣き、喜びの表情で彼らを出迎えた。

  10年の月日は異端審問官リラの名前を人々の記憶から薄れさせ、レシラム教の大聖堂の石碑に彫られた名前も、薄らと消えていった。同じ頃、ライラとリラは故郷のおだやか村が復興しつつある事を知り、10人の子供達と共におだやか村へと帰ってきた。

  その頃になると団長とウルスラが用意した別人の戸籍を使い、ライラはジョン、リラはジェーンと名乗り、子供達にも名前と偽名を与え、スミス一家はおだやか村での生活を始めた。その後の数年間、リラはライラの子供を更に2人産み、スミス一家は仲睦まじい大家族として過ごしている。

  ライラの呟きを聞いたメガニウムは「そうですね」と返し、丘の上から見える村へと視線を向ける。

  「生活を支えてくれる人が居るなら、アインスちゃんも安心ですね。おだやか村も、スミスさんが保安官を務めてくれるおかげで、平和な毎日ですよ」

  メガニウムは話しながら保安官事務所のある方角を見る。

  暴徒により村民が虐殺された歴史があるため、おだやか村にはレシラム教騎士団の駐屯地と保安官事務所が設置されている。現在のおだやか村の保安官はライラとリラが務めており、特に戦闘技術に長けたリラの存在は騎士団からも一目置かれている。

  もっとも、騎士団やレシラム教関係者の間では、リラは15年前に死亡し、騎士団立ち会いの下、死体を埋葬しているため、保安官のスミス夫人と異端審問官のリラを同一人物と捉える者は誰一人としていなかった。

  ライラはメガニウムの言葉を聞き、疲れているが嬉しそうな表情で話しかける。

  「褒めてもらえて光栄ですが…妻が妊娠したので、近々お休みを取らせるつもりです」

  ライラの言葉を聞いたメガニウムは硬直し、「わぉ」と小さな声で呟く。

  「それは…おめでとうございます…」

  メガニウムは眼前の優男が想像以上のスタミナの持ち主である事に驚きを隠せず、目を見開いてしまった。ライラは苦笑いと共に感謝の言葉を伝え、墓石の手入れを続ける。

  墓石は、翁の物である。

  翁の墓石の横にはライラとリラの死体が埋葬された墓石もあり、それらを見たライラは苦笑いを浮かべた。ライラの心情を知らないメガニウムは、遊び回るスミス一家の子供達を眺めながら墓石を手入れする。

  汚れを落とし、水で清め、周囲を清掃する。

  ライラやリラと違い、メガニウムや他の住民には縁もゆかりもない墓であるが、おだやか村の歴史を知る身としては、墓を放置する事ができずにいる。ライラはメガニウムや新たな住民達の心優しい行動に感謝しつつ、作業を続けた。

  ライラの耳が、聞き慣れた足音を捉えた。

  ライラが視線を向けた先には、丘を歩いて登ってくるバシャーモの姿が映る。牡のバシャーモは荷物を抱えており、牝のバシャーモは腹に手を当てつつ、ゆっくりと斜面を歩いている。

  メガニウムはライラの視線を追い、その先にいるスミス夫人、いやリラと彼らの息子である牡のバシャーモ、ツヴァイに挨拶した。

  「やぁ、こんにちは…良い天気ですね」

  メガニウムに挨拶されたリラとツヴァイは挨拶し、ライラの傍へと歩み寄る。ツヴァイは抱えていた荷物から御供物の果物を降ろし、ライラが清掃した墓石に並べていく。

  その姿を見ていたメガニウムは、ふとリラに声をかけた。

  「そういえば、旦那さんから聞きましたが…おめでとうございます」

  メガニウムに祝福されたリラは驚きの表情を浮かべたが、すぐに恥ずかしそうにはにかみ、自身の腹を撫でる。リラは「ありがとうございます」と応え、穏やかな表情で話す。

  「そろそろ4ヶ月になります…もう少ししたら、私もお休みを貰いますが…皆さんにはご迷惑をおかけします」

  リラはお辞儀しながら話すが、メガニウムは「いえいえ」と穏やかな表情で応える。

  「仕事よりも家族を優先すべき事なのは明白です。なにより…このおだやか村は平和ですからね。保安官もジョンさんが居るだけで安心ですよ」

  メガニウムの言葉を聞き、リラは微笑みながら「ありがとうございます」と返す。彼らの会話を横で聞いていたツヴァイは、笑いながら口を開く。

  「姉さんが街に出稼ぎに行っているけど…俺も居るから安心してください。こう見えて…腕っ節は姐さんに負けていませんよ」

  ツヴァイの覇気のある声を聞き、リラとライラは呆れ顔で溜息を吐き出す。

  「あんたの腕っ節が良いのは認めるけど、傲慢さは命取りになるわよ。父さんを見習いなさい」

  「ツヴァイはまだ子供なんだから…学校に通い、弟達の面倒を見てくれるだけで良いからね」

  母親と父親から苦言を呈されたツヴァイは、恥ずかしそうに目を逸らせる。スミス一家のやり取りを傍で見ていたメガニウムは笑みを浮かべ、穏やかな声でツヴァイに話しかける。

  「お姉ちゃんが働き始めたから、長男として思うところがありますよね」

  メガニウムに指摘されたツヴァイは苦笑いを浮かべ、頷いた。長女である姉が働きに出ている以上、長男として弟や妹達を守り、両親を支える必要があると感じているツヴァイは、照れ臭そうに視線を外した。

  その事に気がついたライラとリラは、彼らも気付かないうちに成長しつつある息子の考えを理解し、嬉しそうにツヴァイの頭を撫でる。

  「そう…お兄ちゃんだからこそ、みんなを守りたいよね」

  「でも安心して良いよ、ツヴァイは僕達の子供なんだから…今は守ってあげられるからね」

  リラとライラに頭を撫でられたツヴァイは恥ずかしそうに視線を下に向ける。自分自身より身長の低い2人に褒められたツヴァイは、恥ずかしさと嬉しさの感情を同時に抱き、「ふんっ」と小さな声を漏らす。

  隣人一家の仲睦まじい光景を見たメガニウムは、にこにこと笑みを浮かべていた。リラも苦笑いを浮かべ、メガニウムにお辞儀をした後、墓石の合間を走り回る子供達に向かって声を張り上げる。

  「ゼイン‼︎ノクス‼︎アハト‼︎あんた達、庭の野菜を収穫するように言ったでしょう‼︎」

  リラに名前を呼ばれたピカチュウとワカシャモ達の脚が止まる。彼らは母親に言われた手伝いの事を思い出し、顔を強張らせた。

  「フィア‼︎ゼーベン‼︎父さんが墓を掃除する間、エルフとヴォルフをお世話しなさいと言ったでしょうが‼︎」

  張り上げたリラの声を聞いた子供達は遊ぶのを止め、慌ててそれぞれの手伝いへと戻っていく。蜘蛛の子を散らすように駆けていく子供達の姿を見たリラは、呆れたように溜息を吐き出し、メガニウムに向かって苦笑した。

  「すみません…お見苦しいところを…」

  リラに謝られたメガニウムは首を左右に振り、笑顔で応える。

  「気にしていませんよ、それにスミスさんのお子さん達を見ていると…ワイワイタウンに住む息子や孫の事を思い出しますので…むしろ嬉しいですよ」

  メガニウムの話を聞いたリラは苦笑しつつ、「それでは失礼します」と言い、子供達を連れて家路についた。荷物を纏めたライラもリラと子供達の後についていこうとしたが、メガニウムに呼び止められた。

  「そういえば…保安官はテンケイ山の麓の話は聞いていますか?」

  ライラは首を左右に振り、彼の反応を見たメガニウムは話を続ける。

  「私と聞いた話なのですが…少し前にテンケイ山の麓に新たな集落ができたのですが…なんでもディアルガ教徒達の集まりだとか…」

  「…」

  メガニウムの話を聞いたライラは黙り込む。

  「私も色眼鏡で見たくはありませんが…やはりディアルガ教徒の名を聞くと…どうしても暴動の記憶が蘇りますからね…」

  ライラはメガニウムの言葉を聞き、頷く。かつて時の守護者の一員であるカウフマンに利用された経験のあるリラの相棒としても、ライラにとっては看過できる話ではない。

  頷くライラを見たメガニウムは語尾を弱めながら話を続ける。

  「それに…ディアルガ教徒とレシラム教ゼクロム教の戦いの歴史を知る年寄りとしても…やはり良いイメージは抱けませんね」

  そう話したメガニウムは悲しそうな顔で俯く。彼の話を聞いたライラは、自身の知らない過去の話が話題に出た事もあり、微かに首を傾げた。まだ若いライラの反応を見たメガニウムは「あぁ」と納得した様に呟き、笑顔をみせる。

  「年寄りの長話に付き合わせてしまい、申し訳ない…私はもう少し掃除をしたら帰りますので…」

  メガニウムの言葉を聞き、ライラは頷き「失礼します」と口に出した。ライラはそのまま斜面を歩いて降りて行き、先に見えるリラと子供達の背中を追った。

  ふと、ライラの脚が止まった。

  丘の斜面に立つ彼は、テンケイ山のある方角に目を向け、小さな声で呟いた。

  「…ディアルガ教徒、か」

  *

  ワイワイタウンにある調査団の拠点。

  団長の指揮下、日々地図の作成や地理情報の収集、ダンジョンでのトラブル解決などを生業とする調査団は、ギルドやレシラム教ゼクロム教からも一目置かれる存在であり、高い知名度を誇る。

  拠点内にある庭は団員達の訓練場を兼ねており、団長とエリスの姿があった。エリスは訓練用の剣を構え、団長に向かって斬りかかる。

  「おっとっと」

  団長はエリスの剣筋を見切り、間の抜けた声と共に軽やかなステップで避ける。だが、エリスはそれを予想しており、訓練用の剣を投げ捨て、鞘を片手に殴り掛かる。

  「おりゃあ!!」

  エリスの全力を込めた打撃であったが、団長は軽やかに回避し、エリスに足払いを仕掛ける。重心が前方に偏位していたエリスは、そのまま地面を転がり、青空を見上げる事になった。

  母親譲りの美貌を持つエリスの顔は、泥と土埃で薄汚れているが、エリスは気にせずに身体を起こし、団長を見上げる。

  「やれやれ…鞘で強襲とは考えたものですが、自ら武器を捨てるのは頂けませんよ」

  団長はエリスの落とした訓練用の剣と鞘を拾い、剣を鞘の中に収める。エリスは息を整えつつ、その場に立ち上がり、「ありがとうございます」と団長に礼を述べる。

  団長はにこやかな笑みを浮かべ、エリスに話しかける。

  「エリスの戦闘技術はお母さんと同様に、非常に優れています。ですが…まだ荒削りの段階なので、無鉄砲な戦い方は避け、確実に生き残る方法を会得するようにしてください」

  団長からアドバイスをもらったエリスは頷き、顔についた汚れをタオルで拭う。汚れの下にはリラに負けず劣らずの美しい顔があり、異性を魅了するものである。

  「…お母さんには、まだ敵いませんね」

  エリスは苦笑いしながら団長に尋ねる。団長は無言のまま頷き、冷たい水の入ったグラスをエリスに差し出す。水滴のついたグラスを受け取ったエリスは、喉の奥へと流し込み、疲れた身体に潤いを与える。

  エリスの口から息が漏れる。

  「あなたのお母さんは…私の知る限り、最高の戦闘技術を持っています。ですが、単騎では限界があるため、お父さんのサポートが必要になりますね」

  団長の話を聞いたエリスは頷き、空になったグラスを近くにあるテーブルへと置く。パラソルが支えたテーブル上にはタオルや水差しがあり、簡易な休憩が取れるようになっている。

  「さてと…休憩にしましょうか」

  団長はにこやかな笑顔で話し、エリスと共にテーブルの傍にある椅子に座る。日差しは強く、エリスと団長はパラソルの作る日陰へと避難し、タオルで汗を拭く。乾いたタオルは汗を吸収し、エリスは心地良さそうに目を細める。団長も汗を拭き、グラスに注がれた水を飲む。

  少し強い風が訓練場に吹き込み、エリスはそれを肌で感じ、火照った身体を冷まさせていく。

  エリスは視線を感じた。

  彼女が振り向いた先には笑顔の団長の姿があり、彼は心底嬉しそうな顔でエリスに話しかける。

  「それにしても…あのエリスがここで働く事になるとは…未来とはわからないものですね」

  団長は懐かしむような口調で話し、視線を空へと向ける。彼の反応を見たエリスは不思議そうな声で団長に尋ねる。

  「お母さんとお父さんも…ここで働いていたんですか?」

  エリスに尋ねられた団長は少しの間、沈黙した。やがて彼は口を開き、「いいえ」と端的に応える。

  「エリスのお母さんとお父さんは…旅人でしたね。ここに来たのは…スタイリッシュな私によるスタイリッシュな教えを請うためであり、スタイリッシュな戦闘技術を学ぶため」

  「そうですか」

  戯けた口調で話す団長を見たエリスは淡々とした口調で応える。エリスの反応を見た団長は「やれやれ」と呟き、自身のグラスに水差しから水を注いだ。

  団長の反応を見たエリスもまた、グラスに新たな水を注ぎ、それを口に流し込む。

  (…核心に触れた、か)

  エリスは団長の反応を見た上で、先ほどの質問が両親と団長に関して、核心に触れたために誤魔化されたものであると捉えていた。彼女の観察眼は的を得ており、両親について、そして自身について何か情報を得られないかとエリスは考えていた。

  エリスの両親はバシャーモとライチュウであり、通常の子供はアチャモやピチューである。だが、エリスはリザードであり、その例に当てはまらない。

  エリスの瞳の色、顔の造形から母親はリラで間違いない。それは父親や団長も認めるものであり、エリスにとってリラは自慢の母親である。

  (じゃあ…父親は…?)

  口に出さずにいるが、エリスは疑問を抱いている。自身がリザードである以上、父親はリザードンという事になる。だが、両親に尋ねる訳にもいかず、またおだやか村の人々は、引っ越してきたエリスの過去を知らないため、エリスが尋ねられる相手は誰も居なかった。

  唯一、眼前の団長は何かを知っているようだが、両親の過去や自身について尋ねてみても、はぐらかされるだけである。

  エリスは不満げな表情で僅かに頬を膨らまし、グラスに注がれた水を飲む。

  辺りに、鐘の音が響いた。

  それは街の中心部にあるレシラム教の教会の鐘が上げる音色であり、1時間ごとに鳴る仕組みになっている。それを聞いた団長は「仕事に戻りますか」と呟き、テーブル上の荷物を片付ける。

  鐘の音色を聞いたエリスは視線を教会の方に向け、眉根を寄せる。

  彼女の反応を見た団長は疑問の目を向け、それに気がついたエリスは教会から目を逸らしながら口を開く。

  「…私、あの教会が嫌いなんですよ」

  エリスの返事を聞いた団長は「嫌い?」と疑問の声を漏らし、視線を教会へと向ける。特に変わった点のない教会の様子を見た団長は、不思議そうな目をエリスに向ける。

  エリスは静かな声で話す。

  「別に…レシラム教が嫌い、という訳ではありません…おだやか村にもレシラム教の教会はありました…ただ、この街の教会が嫌いなんですよ」

  「…」

  エリスの返事を聞いた団長は黙り込み、グラスの水を飲む。

  エリスの話す教会、そこは彼女が生まれた場所であり、リラと共に軟禁されていた場所でもある。15年前、オズボーン殺害の前の日に、教会から連れ出されたエリスは、団長も知らぬ協力者の手に渡り、他の大陸へと逃がされた。

  (…まさか、覚えている?)

  リラがエリスを逃した時、エリスは生後2-3ヶ月であった。通常ならば覚えているはずもないが、死亡したリラとライラが生き返った前例もあるため、あながち否定できない。

  団長は閉口したままグラスの水を飲み、辺りには鐘の音色のみが響いている。

  やがて、鐘も止まり、再び静寂が訪れる。直後に団長は椅子から立ち上がり、荷物を抱えて拠点内へと歩いていく。エリスも団長の後を追おうとしたが、団長は振り返り、エリスに声をかける。

  「さて…事務仕事は私の方で片付けますので、エリスはお使いを頼みます」

  団長に頼まれたエリスは頷き、お使いの内容が書かれたメモを受け取る。紙面に目を通したエリスは頷き、拠点の入り口の方向へと歩いてくる。

  その小さな背中を見届けた団長はエリスの記憶の話について思案していたが、やがて踵を返して、建物の中へと入っていった。

  *

  ワイワイタウンの市場には、数多くの住民の姿があり、非常に賑わっている。昼下がりの市場は夕食の買い出しをする者や仕事が終わり、帰宅する者の姿で溢れている。

  市場の中でも生鮮食品を扱うエリアに、色違いの牡のゼラオラ、ロアの姿があった。

  直属の付き人である牡のブリガロン、カルムと共に歩くロアの少し後ろには、民間人に扮した騎士達の姿があり、秘密裏にロアを警護している。対するロアはのんびりとした雰囲気を纏い、出店で購入したリンゴを齧りながら歩いている。

  人混みの中から、子供が飛び出す。

  子供はロアの脚にぶつかり、その場で尻餅をつきかけるが、咄嗟にロアが伸ばした手が子供を掴む。ロアは慣れた手つきで子供を立たせ、「危ないぞ」と話しかける。子供はロアに笑顔を向け、そのまま人混みの中へと駆けていく。

  「お兄ちゃん、ありがとう!」

  子供の声が聞こえ、ロアは笑顔を浮かべる。一連のやり取りを傍で見ていたカルムは横目で後方に目を向ける。

  そこには隠し持った剣に手を伸ばす騎士の姿がある。

  カルムは微かに首を振り、騎士達に警戒を解くように指示する。騎士達はロアの安全を確認し、剣から手を離す。

  その光景を見届けたカルムはロアと共に歩き、市場の中を進む。ロアはリンゴを齧りながら、静かな声でカルムに話しかける。

  「そんなに警戒しなくても良いだろう」

  ロアに話しかけられたカルムは微かに笑い、周囲を警戒しながら口を開く。

  「お言葉ですが殿下…15年前に御父上が殺害されたのは、この広場です。私や騎士達が警戒するのは当然かと…」

  カルムの返事を聞き、ロアは甘いリンゴを齧りつつも、苦い表情を浮かべる。

  「俺だって父上やガロン殿に鍛えられているつもりだ。ある程度の自衛もできるし、あまり皆を怯えさせる様な真似はしたくない」

  「殿下の御心遣いは立派ですが、護りは我々の職務…殿下が剣を握る時が来ない様にする事こそ、我々の役割です」

  カルムの返事を聞いたロアは溜息をこぼし、「堅物め」と呟く。ロアに悪態を吐かれたカルムは穏やかな表情のまま、辺りを警戒しつつ脚を動かす。

  ロアが口を開いた。

  「…先代の教皇はここで殺されたそうだが…俺にとっての父上はルドルフ殿だ。先代の顔も俺は知らない、母上もそいつを愛していなかった…俺の家族は父上と母上、ナツとフユだ」

  ロアの呟きを聞いたカルムは頷き、声を抑えながら応える。

  「仰る通り…殿下の御家族は団長とアキ様、ナツ様、フユ様です…しかし、世の中には自身の不幸を他人のせいにする阿呆が存在するのも事実…阿呆の怨みが殿下に向けられる恐れもあります」

  「…俺は無関係だろ?」

  ロアの返答を聞いたカルムは頷く。

  「たとえ殿下が無関係だろうと…事実を歪曲して怨みを持つ者もいます。そういう阿呆から殿下を守る事も我らの職務です」

  カルムの返事を聞いたロアは溜息をこぼし、リンゴの芯を紙袋の中へ入れる。ロアは視線を辺りに向け、平和な街の光景を見渡し、疲れた様に息を吐き出す。

  「…これだけ平和な街並みだが、15年前は暴動と虐殺が起きたのか…先代の死がきっかけとはいえ、群衆の心理は恐ろしいな」

  ロアの呟きを聞いたカルムは頷く。オズボーンが殺害された現場にその痕跡はなく、現在では屋台が展開している。オズボーン殺害後に起きた暴動の被害が甚大であり、その原因となった痕跡を、当時を知る皆が忘れたがっている。

  「罪なき聖人の振りをしているが…集団に混ざると暴力に走る…か」

  街の光景を見渡したロアは呟く。直後、彼は辺りを見渡し、突然走り出した。ロアの傍に控えるカルムと護衛の騎士達も慌ててロアを追いかけ、人混みの中を駆ける。

  ロアは広場の端にある裏通りへ飛び込み、通りの真ん中で地面に座る人影に駆け寄る。それは赤みを帯びた体毛を纏う牝のゼラオラであり、ロアの種違いの妹のナツである。

  「ナツ‼︎」

  妹の目立つ体毛を人混みの中から見つけたロアは、彼女の傍に駆け寄る。ナツの近くには人影があり、直後に駆けつけたカルムがロアとナツを守る様に立ち、護衛の騎士達が人影に抜いた剣を向ける。

  「貴様らぁ‼︎ナツ様に何をしたぁ‼︎」

  激昂する護衛の騎士達、冷静に辺りを警戒するカルム、地面に座る妹を抱き抱えるロア、そして剣を向けられた人影。

  裏通りの空気が張り詰めるが、それを壊したのはナツであった。

  「ちょっと待って、お兄ちゃん…」

  ロアに抱かれたナツは涙目のまま声を上げ、ロアやカルム、騎士達の注目を集める。ナツの鼻先は赤くなり、微かに鼻血がついている。彼女の膝と手の甲には擦り傷があり、近くにはナツの鞄が落ちている。

  「…あたしが石畳で転けただけだから…この人達が助けてくれて、手当てしてくれたのよ」

  ゆっくりと立ち上がったナツは涙目のまま、人影に向かって「ありがとうございます」と礼を述べる。それを見たロアと騎士達の肩から力が抜け、彼らは安堵の溜息をこぼす。

  だが、騎士達に剣先を向けられた人影は身体を硬直させていた。

  「…はわぁ」

  人影、いや牝のルカリオのエレナは騎士の覇気に負け、腰が抜けた。彼女はそのまま地面に倒れ込みそうになるが、カルムの逞しい腕がエレナを支えた。

  「…いったい何なのよ‼︎」

  エレナに代わり、色違いの牝のゾロアーク、ゼインが絶叫した。

  ゼインの大声は裏通りに広がり、ロアとカルム、騎士達は困り顔で身体を硬直させていた。

  唯一、ゼインとエレナに救われたナツのみが、好意の目で2人を見ていた。