草の大陸、トレジャータウン近郊。
薬草や鎮静剤、芥子の花を求めて牡のジュプトルのカフカや牡のヨノワールのフランツ、ヤミラミ達、牝のマフォクシーのヘレンはトレジャータウンの近郊の草原や商店を回っていた。もっとも、暴徒や異端審問官、時の守護者と鉢合わせた場合に備えて、個別で行動せず、カフカとフランツ、ヤミラミ達とヘレンの組み合わせで行動していた。
トレジャータウンの街並みを見下ろせる丘の頂上に立つカフカは、持ち前の素早さで手際良く薬草を集めて回り、ときおり辺りを見渡し、状況を把握している。丘の麓ではフランツが大きな腕を使い、薬草を次々と採取し、背中に背負う籠に入れている。
強い風が丘を包む。
風を浴びたカフカは動かしていた手を止めると、鼻を鳴らし、風上の方に目を向ける。独特の生臭さを含んだ風に包まれるカフカは、表情を強張らせ、生唾を飲み込む。
「…まさかKが医療活動を手伝っていたとはな」
カフカの様子に気づいていないフランツは視線を手元に落としたまま、低い声で呟く。背中の籠の中には大量の薬草が入っており、フランツは粛々と作業に勤しむ。
だが、カフカの表情は凍りつき、丘の上から遠方を見つめている。
「将校の片腕として流刑地で処刑を手伝っていたKが、今では人助けに励む、か…」
カフカの様子に気づいていないフランツは静かな声で話を続ける。目を細めるフランツは大きく伸びをして、空を仰ぐ。
夕暮れ時の空は赤く染まり、カフカとフランツを優しく照らす。
「…ヴィレムはダメだ、あれは欲望に忠実過ぎるあまり、もはや止める事はできまい。将校もディアルガ様を信奉し、過去の世界へ遺恨を抱いている…だがKは違う」
そう呟き、夕焼け空を見上げるフランツは目を細める。
「Kだけでも…許される手段はないだろうか…」
ポツリと呟き、フランツは僅かに息を吐き出す。
直後、カフカが走り出す。
突然の行動にフランツは目を丸くさせるが、カフカは一気に丘を駆け下り、フランツの傍まで走り寄る。彼の表情は硬く、視線は丘の向こうを見ている。何事かとフランツは視線でカフカに問い、彼は重たげな口調で話し出す。
「…トレジャータウンの近くまで暴徒が来ている」
予想外の早さで暴徒や異端審問官達がトレジャータウンに到着してしまい、カフカは急いで走り出す。この情報をいち早く伝えるため、カフカはトレジャータウンへと走り、フランツは洋館にいるヤミラミ達へと知らせるために移動する。
同時刻、トレジャータウンの入り口付近。
プクリンギルドに続く階段の下、街の外に繋がる交差点には保安官事務所とギルドメンバーによりバリケードが敷かれ、街の住民やレシラム教穏健派、ゼクロム教徒、旅人などが次々にプクリンギルドへ避難している。
「慌てずに!ゆっくりで良い‼︎階段で躓くなよ‼︎」
交差点の入り口で弟子のドゴームとグレッグルがジバコイル保安官と共にバリケードを設置し、避難民をプクリンギルドの方へと誘導している。彼らの周囲には複数のコイルの姿もあり、辺りを警戒しながらギルドの方向へと誘導する。
交差点に面したパッチールの地下カフェも臨時閉鎖しており、スタッフは全員ギルドに避難した。街で店を構える商人達も店じまいし、共にプクリンギルドへと避難している。
「…マダ、タクサンノヒナンミンガイマスネ」
ジバコイルはトレジャータウンに続く道に目を向ける。そこには最低限の荷物を持った避難民の列があるが、街外れまで列が伸びている。街中ではヘイガニとビッパが避難誘導しているが、それでも一部の者がパニックを起こしたり、牝や子供を襲おうとする者もいる。
そういう手合いには無慈悲に対応すべし、と厳命されている弟子達は、暴れる輩を手早く処分し拘束していった。
「…ギルド内は広く、食料医薬品の備蓄もある…いざという時は要塞としても機能できるが…」
そう呟き、ドゴームは視線を街の外に向ける。彼の視線の先には森の中に建てられた洋館があり、ニコルやヘレン、オズワルド達の医療拠点としても機能している。
辺りに血の臭いが濃くなる。
「…周りの村々が襲われたとして…負傷者はあの洋館に逃げ込む…負傷者を追いかける暴徒が洋館を襲う可能性も…」
「…」
ドゴームの予想を聞いた保安官は不安そうな表情を浮かべるが、すぐに視線を避難民の方へと向ける。ドゴームも同じように視線を避難民に向けて、同じような言葉を繰り返す。
ドゴームも保安官も理解している。
洋館の事が心配だからといって、持ち場である此処を離れるわけにはいかない。避難民の誘導とバリケードの防衛は絶対に守るべき任務である。
故に、彼らは自身の持ち場を守るべく、身体を動かし続ける。ドゴームの視界の隅に、走り寄ってくるカフカの姿が見える。
血の臭いが濃くなっている。
*
森の中に建てられている洋館。
いち早く薬剤や鎮静剤、医療物資を確保した牝のゾロアーク、ニコルはヘレンとヤミラミ達が届けに来た物資を館内で整頓していた。そんなおり、ニコルの鼻は濃くなる血の臭いを捉え、彼女は不安げな表情で外に目を向ける。
洋館の外には複数の影があり、誰もが血塗れの身体で駆けている。彼らの更に先から怒号や罵声、悲鳴が森の木々の中で響き渡っている。
状況をいち早く理解したニコルは洋館の入り口を開け放つと、付近の村々から避難してきた村人や旅人を館内へと誘導する。
「奥に処置室がある‼︎そこに行け‼︎」
普段ならガブリアスのゼーンに変幻するが、今のニコルにそのような余裕はなく、元の姿のまま声を張り上げる。普段見かけるガブリアスではなく、ゾロアークがいる事に疑問を持つ余裕もなく、動ける負傷者達は館内に入り、動けない者は他の負傷者や軽傷者により運ばれる。
ニコルは両手に消毒液をかけ、処置室に向かう。
だが、室内には何人もの負傷者がおり、一つしかないベッドに辿り着けない者もいる。農家の娘として、平時は農作業に取り組んでいる牝のミミロップがいる。既知の顔を見たニコルが駆け寄り、彼女を見て息を呑んだ。
ミミロップの左腕は肘から切断されており、股の間は白く汚れている。
それらが意味する事を理解できるニコルは肺の奥から空気の塊を吐き出し、ミミロップに止血処理を施す。その間にも続々と負傷者が館内に雪崩れ込み、辺りは血の臭いが濃くなっていく。
「なによ、これ…」
廊下から声が聞こえる。
ミミロップに応急処置を施したニコルが顔を覗かせると、廊下にはヘレンとヤミラミ達の姿がある。彼女らの腕には再度採取した薬草や確保した医薬品があり、洋館内に裏口から再び入ったところ、その惨劇を目の当たりにして、動きを止めていた。
ヘレン達の存在に気づいたニコルは声を上げると、応援を頼む。
ヘレンは荷物をヤミラミ達に託し、自身は手を消毒し処置室に入る。処置室内には付近の村々の住民達の姿があり、誰もが傷を負っている。
「…全員を助けるのは無理ね…トリアージするしかない」
ニコルの指示を受けたヘレンは頷き、洋館の内外にいる負傷者の下へ向かう。その間、既知の顔であるミミロップを隣の病室へ運ぶように指示し、ヤミラミ達がシーツごと彼女を運んでいく。
それを横目で見たニコルは次の負傷者を救うべく、傷の軽い者と動ける者には口頭で治療方法を指示し、自身はまだ救えるが動けない者の手当に入る。
脚に深い切り傷のある牡のザングースの傍に屈み、ニコルは煮沸した水とアルコールで傷口を洗う。痛みにザングースは悲鳴をあげるが、ニコルは冷静な表情で傷を縫合し、切れた動脈の止血処理を施す。痛みのあまりにザングースは歯茎に力を込めてしまうため、彼は近くにある棒切れを噛み、力を逃がしている。
やがて、処置を終えたニコルは「飲みなさい」と言い、酒瓶をザングースに手渡す。本来ならば血管拡張や血液の循環を促すアルコールの摂取は負傷者にとって好ましくないが、この異様な状況で処置を我慢したザングースに対する痛み止めと労いの意でもあった。酒瓶を受け取ったザングースはそれに口をつけ、喉の奥に流し込む。高純度のアルコールが喉を焼くが、ザングースの抱く痛みと恐怖心を誤魔化してくれる。
その姿を横目で見たニコルはザングースの隣に座る牝のニャスパーの子供を診る。母親の腕の中で震えるニャスパーの脚にはボウガンの矢が刺さっており、ニコルは彼女の傍に屈み、傷を確認する。
(…骨も動脈も無事ね)
幸いにも腿の肉に矢が刺さっているだけであり、ニコルはその事を確認し、「怖くないよ」とニャスパーに向かって微笑む。母親のニャオニクスがニャスパーを優しく抱きしめ、その間にニコルはニャスパーの脚を掴み、矢を引き抜く。
室内に、ニャスパーの悲鳴が響く。
ニコルは泣き喚くニャスパーの傷を消毒し、包帯を巻く。そして彼女の額に口付けし、「ご褒美よ」と甘いジュースの瓶を手渡す。涙目のニャスパーはニコルを見上げ、自身を助けてくれた彼女に向かって微笑んだ。
その笑みを見たニコルは僅かに口角を緩め、少しだけ肩の力が抜ける。ニャスパーの頭を撫で、ニコルは視線を母親に向ける。
母親のニャオニクスは別の村民を手当てするニコルに向かって、状況を説明しだす。
「…いきなりでした、カピンタウンの方向からレシラム教の異端審問官達が現れたと思ったら…村の人達や旅の方を次々と…」
そう話すニャオニクスは涙を拭い、ニャスパーを安堵させようと、落ち着いて静かに話す。
「私達の住む村は丘の上にあったので、麓の村の火事と煙で、事前に異常に気付けました…ただ、多くの村が…」
そう話すニャオニクスの言葉を聞き、ニコルは別の村民の傷の手当てをしながら口を開く。
「騎士団は?治安維持のために出動するはずよ」
ニコルの問いに対して、ニャオニクスは首を左右に振る。
「騎士団はカピンタウンと周辺の治安維持に動員されているそうです…辺境の治安維持は後回しになるようです」
レシラム教の本拠地である水の大陸ワイワイタウンと草の大陸カピンタウンのレシラム教騎士団はある程度の組織力を保持している。だが、隕石の落下の影響で荒れ果てた風の大陸パラムタウンやワイワイタウンから遠い地である霧の大陸ノエタウン、ゼクロム教の本拠地である砂の大陸ラムルタウンではレシラム教騎士団の組織力は保持されず、ほぼ機能していない。
トレジャータウンのある草の大陸は比較的、治安維持に成功しているため、まだ恵まれた環境にあると言える。とはいえ、大都市の治安維持を優先しているため、辺境の農村での治安維持活動は後回しになる。
その事を理解しているニコルは唇を硬く噛み締め、処置室にいる負傷者を見渡す。ニコルの口頭指示もあり、動ける負傷者や軽傷者の処置はある程度完了している。しかし、洋館の廊下や外には重傷者がたくさんおり、加えて森の向こうには暴徒や異端審問官、そして暴徒に混ざり、時の守護者もいるかもしれない。
そのような状況下では、取るべき行動が限られてくる。ニコルはニャオニクスや近くにいる動ける者達を呼び寄せ、声を伏せながら話す。
「…この先のトレジャータウンにあるプクリンのギルドが避難民を受け入れているわ。自力で動ける者はそこに向かいなさい…ここは、地獄になるわ」
ニコルの指示を聞いたニャオニクス達は頷くと、ニャオニクスはニャスパーを抱き上げ、動ける者達は脚の遅い軽傷者に肩を貸し、処置室を後にする。裏口から洋館を離れ、彼らは近くのトレジャータウンへと移動していく。
その後ろ姿を見届けたニコルはトリアージを終えて洋館内に戻ってきたヘレンに目を向け、静かな声で話しかける。
「ここでは重症者を受け入れるわ。軽傷者や動ける者は処置を施して、自力でトレジャータウンに逃げてもらうしかないわね…」
ニコルの言葉にヘレンは頷き、声を抑えながら応える。
「…逃げてきた者からの情報よ。森の向こう側には暴徒達が既にいると…逃げるのは今しかないわ」
ヘレンの話を聞いたニコルは目を見開き、処置室内と廊下、洋館の外に目を向ける。軽傷者や動ける者は除き、まだ多くの重症者がいる。加えて、森の向こうから怒号や罵声、悲鳴が響いている。
その状況を見渡したニコルは、小さく身体を震わせ、ヘレンの顔を見る。
「…ヘレンはヤミラミ達と一緒に脱出の準備と負傷者の搬送の準備をお願い、ここは私に任せて」
静かな声でニコルは告げる。彼女の意思を見たヘレンは小さく頷き、処置室に戻ってきたヤミラミ達と共に貴重品や医薬品の梱包、退路の確保に向かう。ニコルが要請した仕事は、ヤミラミ達でも可能である。しかし負傷者の搬送となると、医学的な知識を有する者が必要不可欠となる。マンパワーをヤミラミ達に頼り、医学的な面はヘレンに頼ることにしたのだ。彼女らの背中を見届けたニコルは、残りの負傷者達の処置をすべく、廊下を駆ける。
窓の外の空にニコルの目が向く。
森の向こうの空には雨雲が広がる。その方向はオズワルドが芥子の花の採集に向かっている方角である。
「…オズワルド」
ニコルは心配そうに呟くが、すぐに駆け出し、負傷者の手当てに向かった。
*
水の大陸ワイワイタウン。
騎士団の活躍により、市街地での暴動は鎮圧された。武装した時の守護者達も調査団団長とブイゼルの支援攻撃と副団長ガロンにより壊滅し、市内は一定の落ち着きを取り戻している。
暴徒は逮捕され、暴動を扇動していた過激派も騎士団が処分した。
市内では死体の処理と負傷者の救出、手当が同時進行で進み、避難所兼野戦病院としてレシラム教の教会が利用された。教会内の大広間には避難民で溢れており、礼拝室には負傷者が横になっている。暴動の初期段階では死者が多く、また人手不足と状況の混乱もあり、多くの命が失われた。しかし、暴動が落ち着き、治療に専念できる状況となり、負傷者の多くが適切な治療を受け、大広間へと運ばれていく。
また1人、止血処置を受けたゼクロム教徒が大広間に運ばれていき、その背中を見届けた牝のエースバーン、エリースは血で汚れた手を洗い、消毒液をかける。
暴動が広がり、どれだけの時間が経過したのだろうか。
オズボーンの暗殺から広がった暴動はようやく終わりが見えてきており、エリースは疲れた表情で椅子に腰かける。現状、礼拝室に負傷者は数多くいるが、命の危機にある者はいない。負傷者の周りにも他の医療スタッフが付き添っており、とりあえず一息つける状況となったエリースは侍女からグラスを受け取り、冷たい水を一気に仰ぐ。氷の浮かぶ冷水がエリースの体内を冷やし、興奮していた精神と身体に冷静さを取り戻させる。
エリースは空になったグラスを侍女に返し、視線を辺りに向ける。
部屋の隅では従者のレオンが疲れ切った顔で眠っており、ルールは避難民や負傷者の数を確認し物資と照らし合わせている。他の医療班や慈善事業のスタッフも疲れた雰囲気を纏っており、交代で休みを取っている。
教会の周囲は騎士団が警備しており、大広間の避難民達は安心して休めている。街の治安も回復しつつあるとはいえ、武装した騎士に護られる安心感は避難民の心を癒す。
その騎士団の指揮官、牡のガオガエンのルドルフは潰れた右眼の痛みに耐えつつ、自身は巫女の助けを借りながら礼拝室内を歩き、負傷者に声をかけている。少し前に意識を取り戻したルドルフであったが、自身の傷や潰れた右眼に関しては「そうか」と呟き、代わりに巫女の細い身体を抱きしめ、彼女を傍に置いて行動している。
その姿を見たエリースは先のルドルフの発言を踏まえても、驚きの表情を隠せずにいた。
「団長⁉︎なにをしているんですか⁉︎」
礼拝室内にガロンの声が響いた。
市街地の安全を確保し、報告と状況把握のために教会へと帰還してきたガロンは、教皇の妻である巫女を自分の物のように扱う上司の姿に驚きを隠せずにいた。ガロンの声を聞き、ルドルフは包帯だらけの痛々しい身体を動かし、彼女の方を向く。
「ガロンか…見ての通り、巫女殿は俺の牝になった」
ルドルフは椅子に座り、巫女の細い身体を膝に乗せ、ガロンに告げる。上司の発言にガロンは目眩を覚え、頭に手を当てる。そんなガロンの傍に歩み寄ったルールは婚約者の身体を支えて、視線をルドルフに向ける。
ルドルフは痛みに耐えつつも涼しい表情でガロンに応える。
「巫女殿を傷つけてしまった以上、俺は彼女と子供を護ってみせる。文句は言わせん」
元々、ルドルフは職務に忠実であり、レシラム教や民衆を護ることに意義を感じる性格である。教皇であるオズボーンを護ることに関しては、職務上のタスクと考えており、個人的な敬意を抱いていなかった。それにオズボーンの巫女に対する仕打ちを嫌悪しており、そのオズボーンが死亡した以上、巫女を娶ることに対する抵抗感もなかった。
巫女自身も欲望に忠実でサディスティックなオズボーンよりも、厳しい鍛錬と実戦により身体を鍛え上げた武人であるルドルフに牝としても惹かれており、満更ではない表情でルドルフに己の身体を預けている。
ルドルフの包帯に覆われた右眼と残った左眼が巫女を見つめており、巫女は嬉しそうな表情でルドルフの胸筋を伝う汗を舐める。
その光景を見たガロンは呆れたように溜息を吐き出すが、その身体をルールが支える。
「…巫女殿が望むなら、私から言うことはありません」
ガロンは疲れた顔で呟くが、ルドルフは鋭い視線をガロンに向ける。それに気づいた巫女とガロンは怪訝そうな表情を浮かべるが、ルドルフは冷静な声で話し出す。
「時にガロン、私が動けない間、暴動の治安維持と民衆を救出した事は流石と言えるな」
ルドルフはそこまで話し、「だが…」と続けて話す。
「身重のお前が戦場に出る事を許可した事はないぞ。あくまで新兵教育と訓練指導を許可した。実戦や危険な事は俺の仕事だ」
ルドルフの言葉を聞き、エリースは「えっ」と驚いた表情でルールとガロンを見る。2人は照れくさそうに笑い、ガロンは自身の腹を撫でる。
いつの間にか子供をもうけているルールの手の速さにエリースは眼を見開いている。婚約者とはいえ、ガロンは成人していない牝である。成人しているルールが実際に結婚する前に手を出していたという事実に、エリースは「あの慎重なルール様が…」と驚きを隠せずにいる。
当のガロンはルドルフに目を向け、口を開く。
「お言葉ですが団長、団長不在で指揮系統が麻痺した以上、副団長に指揮権が譲渡されるのは騎士団の教に記されています」
「…」
「時に柔軟な対応も必要です。それこそ、巫女殿やルール殿も同じ意見ですよね」
返答に対して沈黙するルドルフに対して、ガロンはぴしゃりと言い放つ。名前を呼ばれた巫女とルールは僅かに身体を震わせる。
教皇ではなく騎士を牡として選んだ巫女、婚約者とはいえ成人前の牝に手を出したルール。
どちらも常軌を逸しており、ガロンの言う「柔軟な対応」と言わざるを得ない状況にある。引き合いに出された巫女とルールは顔を僅かに引き攣らせるが、ルドルフは低い声で唸り、小さく頷く。
「…巫女殿を引き合いに出されると、俺も何も言えないな…わかった、今回の件は不問とする」
ルドルフの決定にガロンは「ありがとうございます」と応える。ルールもまた、婚約者の上司であるルドルフに対してお辞儀をし、敬意を示す。
「話は変わりますが、捕縛した暴徒や過激派は異端審問官に引き渡しますか?」
プライベートな部分から仕事の話へ切り替えたガロンの問いに、ルドルフは首を左右に振る。
「いや、犯罪者は我々で捕縛し…保安官に引き渡す。レシラム教が裁くのではなく、レシラム教の外で司法に裁かれる必要がある」
レシラム教親衛隊指揮官兼騎士団団長とは思えないルドルフの発言にルールやエリースは目を丸くさせるが、ガロンは予想通りといった表情で彼を見る。
ルドルフは脳裏にリラや異端審問官達の姿をよぎらせ、表情を険しくした。
「異端審問官やリラ達が治安維持に協力したのか?ヤツらは過激派を煽り、暴動を扇動し、無垢の民衆を虐殺している。オズボーン様は異教徒の命を利用できる駒と考えているようだが、我々騎士団は違う」
今は亡きオズボーンの顔を思い出すルドルフだったが、ゆっくりと顔を左右に振る。ルドルフは視線をガロンに向け、自身の考えを述べる。
「我々騎士団、そして親衛隊は民衆を護るためにある。それは異教徒とて同じだ」
ルドルフの言葉を聞いたエリースとルールは首肯する。
オズボーンとルドルフには決定的な違いがある。民衆を使える駒と考える点と護るべき存在と考える点である。オズボーンが亡き今、ルドルフは自身の信条を優先し円卓の一員、騎士団団長として命令を下す。
「異端審問官と暴徒を捕縛鎮圧し、民衆を護る。各地の騎士団には私の名前で命令を発令せよ」
以前と変わらぬルドルフの指示にガロンは嬉しそうな笑みを見せ、敬礼する。一時は「巫女を娶る」という発言もあり、彼がおかしくなったのではとガロンは考えていた。だが、ルドルフの左眼に宿る炎を見て、彼の意思を再確認できたガロンは、電信室へ移動しようとする。
そこに騎士団の一員であるエンニュートが姿を現した。エンニュートはルドルフとガロンに向かって敬礼し、何かをガロンに手渡す。彼女に向かって状況説明し、エンニュートはその場を後にする。
ガロンは手渡された紙面に目を通し、ルドルフに向かって口を開く。
「速報です。電信で各地の騎士団と連絡を試みたところ、1箇所のみ暗号通信に引っかかったようです」
ガロンの報告を聞いたルドルフは「なに?」と呟くが、視線をエリースとルールに向ける。騎士団以外の者に話すべきかとルドルフは考えた。
やがて彼は「詳しく説明しろ」とガロンに命ずる。
ガロンは通りの良い声で説明を始める。
「我々騎士団では緊急時に電信で連絡しますが、電信機の奪取や電信室の乗っ取りを考慮し、通信前に暗号で確認します」
そこまで話したガロンは視線をルドルフに向ける。暗号の詳細を尋ねて良いか視線で尋ねるガロンにルドルフは頷いてみせる。
「…通信開始前に『異常はないか?』と尋ねます。答えは騎士団の駐屯地毎に異なり、例えば正常ならば『青色』、異常ならば『問題なし』と返します。この結果、異常のある駐屯地を把握できるようにしています」
「それで…異常のある駐屯地はどこだ?」
ルドルフは静かな声で尋ねる。ガロンは「はい」と短く返し、手元の紙に視線を向ける。
「霧の大陸、ノエルタウンの教会駐屯地と周辺の村々の警護隊です」
ガロンの返事を聞いたルドルフは考え込むように顎に指を当てる。
「…霧の大陸は遠隔の地…異常があれば我々の目に届きにくい駐屯地ではあるが…」
「…わざわざ騎士団の駐屯地を暴徒が襲う、とも考えにくいですね」
ルドルフの言葉に続き、エリースが呟く。彼女の指摘にルドルフは頷き、低い声で唸る。
「ノエタウンの駐屯部隊は志気も練度も低い…低いとはいえ、仮にも騎士団だ。武装した兵士に暴徒が勝てるとは思えない…」
「…暴徒ではなく、より強い武装の敵に敗れた、ということですか?」
ルールがルドルフに尋ねる。ルドルフはゆっくりと頷き、自身の右眼を覆う包帯に触れる。
「俺の右眼を潰してくれた新型の砲…あれならば武装した騎士団にも勝てるが…」
「誰が製造運用しているか、ですね」
ガロンが指摘する。ルドルフは「うむ」と応え、右眼を覆う包帯を触る。ルドルフの動きを見た巫女は心配そうに彼の頬を撫で、ルドルフは恥ずかしそうに巫女の頭を撫でる。
部屋の隅では巫女とルドルフのやり取りを見ていた産婆のカヌレが溜息をつき、巫女の赤子をあやしながら歩いている。巫女は我が子の鳴き声を聞き、ルドルフの傍を離れ、侍女に支えられながら赤子の下へ行く。そのまま巫女はカヌレと侍女と共に礼拝室を離れ、静かな隣室へと姿を消した。
巫女と赤子の背中を見届けたルドルフは視線をガロン達に向け、真剣な表情で話す。
「金属加工と火薬…技術と資金、人脈も必要だが…新たな武装を作り出したとしても兵士に技術を習得させる時間と場所も必要だ…」
そう話すルドルフは静かに考え込む。彼の知る限り、軍隊と呼べるのはレシラム教騎士団やゼクロム教自警団である。他にもギルドの探検隊や賞金稼ぎ、保安官事務所、村々の警備隊などもあるが、これだけ大規模な開発と運用をするには莫大な資金力と技術、人材が必要である。
敵の正体を見抜けずにいるルドルフは、低い唸る声を漏らす。
礼拝室内に人影が入ってくる。
影、調査団団長のデンリュウは室内の面々に挨拶しながら入ってきた。彼はルドルフ達の近くまで歩み寄り、穏やかな笑みで挨拶する。
「皆さん、お疲れ様です。街の治安が戻り、我々も安心しています」
団長の言葉を受け、ガロンとルールは礼を述べながら握手する。団長の戦術と支援がなければ、ガロン自身も命を落としていたかもしれない。ガロンとルールにとって、団長は命の恩人とも言える。
団長は和かな笑みでガロン達に応え、視線をルドルフに向ける。掴みどころのない団長の笑みにルドルフは顔を顰めるが、続く団長の言葉を聞き、目を見開く。
「草の大陸、トレジャータウンのプクリンのギルド、ヘンデル氏から電信が届きました。『円卓のカウフマン氏とヴィレム氏に叛乱の疑いあり、新型の武器はマスケット銃、製作はカウフマン氏、犯人はディアルガ教徒』との事です」
さらりと伝えてくる団長の言葉を聞き、ルドルフ、エリース、ルール、ガロンの動きが止まる。にこにこと笑う団長の言葉にルールは「いったい何を…」と戸惑いを隠せない言葉を漏らす。
「言葉の通りです。ヘンデル氏ほどの人物が安易に発言するとは思えない…確実な情報源を有していると考えるべきでは」
団長の言葉を聞き、エリースは「あっ」と小さな声をあげる。周りの視線がエリースに突き刺さるが、彼女は意に介さずに口を開く。
「…以前、私が掴んだ情報ですが、カウフマン様が腕の良い金属加工職人を探しているとの事でした。霧の大陸への電信記録に残っているはずです」
ワイワイタウンの教会の電信係を務めるモココからの情報を思い出し、エリースは口に出す。それを聞いたガロンは礼拝室を後にして、電信室の記録と電信係のモココを探しに向かう。
ガロンの背中を見届けたルドルフは視線を団長に戻し、厳しい口調で尋ねる。
「…俺もヘンデル氏を知っているが、確かに安易な事を口に出さない器の主だ。だが…なぜディアルガ教徒の名前が出てくる?ディアルガ教は既に滅びつつある太古の宗教だぞ」
ルドルフの問いに団長は笑みを浮かべ、言葉を紡ぎ出す。
「私もヘンデル氏からの電信で知りましたが、どうやら伝説上の存在である『人間』がディアルガ教徒に知識と技術を与えて、レシラム教とゼクロム教に攻撃を仕掛けているようです。新型の武器とラムルタウンで散布された毒ガスが証拠です」
団長の言葉を聞き、ルドルフは「なに?」と小声をもらす。直後、電信室の記録庫から戻ったガロンが手にした電信記録をルドルフに見せる。
ルドルフがそれに目を通す間、ガロンは良く通る声で報告する。
「電信係のモココ殿に確認が取れました。水の大陸から霧の大陸へ、カウフマン様からフルトという者に宛てた電信記録…間違いなく、モココ殿の書いた記録であるとの事です。また、ラムルタウンでも毒ガスらしき物が散布されたと、医療班並びに護衛の騎士団から報告がありました」
「…ラムルタウンの被害は?」
記録に目を通すルドルフの問いにガロンは端的に答える。
「街への直接のダメージはゼロ、ガスは風向きに弱く、医療班の医師によると『水に溶けやすい』との報告がありました。護衛の騎士団と自警団の中に雨乞いが使える者がいましたので、ガスの散布地域を中心に雨を降らせ、沈静化に成功したとのことです」
団長を通したヘンデルからの情報、モココの証言、エリースの掴んだ情報、それらを吟味したルドルフは沈黙し思考する。やがて、彼は残った左眼でガロンを見る。
「残る円卓のメンバーはエリース殿、ルール殿、俺だ。カウフマンとヴィレム、リラが消息不明である以上、オズボーン様の暫定的な後継を決める必要がある」
ルドルフはそう話し、視線をエリースに向ける。
「俺はエリース殿を支持する」
ルドルフの言葉に続き、ルールも「エリース殿を支持します」とはっきりとした口調で意思表示する。
2人の話を聞いたエリースは目を閉じて、ゆっくりと彼らを見る。
「…わかりました、力不足ではありますが、オズボーン様の暫定的な後継をエリースが勤めさせていただきます」
エリースの言葉を聞いたルールとルドルフは頷き、視線をガロンに向ける。
「聞いての通りだ。暗号通信に引っかかった部隊を除き、全騎士団に新たな命令だ。『宗教に関係なく、暴徒並びに異端審問官達を捕縛或いは排除せよ。住民の保護を最優先にせよ。敵はディアルガ教徒の可能性あり』と。また『円卓のカウフマン、ヴィレム、リラ、そしてフルトという者を見つけ次第、身柄を保護せよ』と」
ルドルフの命令にガロンは敬礼し、電信室へ移動しようとする。円卓のメンバーであるカウフマン達は高貴な華族であるが、『保護』という名目で実質的な『拘束』を意味している。ガロンはルドルフの考えを理解しており、彼女は電信室へと移動した。
その背中を見届けた団長は溜息をこぼし、独り言を漏らす。
「まったく…こんな時にライラは連絡を断つとは…」
暴動直後から姿を消したライラの事を思い、団長は頭に手を当てる。暴動による混乱、そして異端審問官達が各地で活動している状況を踏まえ、ライラの狙いを理解している団長は心配そうに空を仰いだ。