羽毛のように大きくふわふわした雪が降る寒空の下、誰の足跡もついていない公園に二種類の足跡をスタンプのようにつけていく。今日は日曜日、明日から再び始まる学校に持っていくための宿題とか、先週喧嘩をしてしまってお互いに謝ったものの未だどこかよそよそしいクラスメイトの存在だとか、そんなものは雪で覆い隠すようにして雪景色の中を駆け回る。
「それっ! こっちだよ!」
少し白に汚れた木の影に隠れて仕舞えば、成長の早い獣人の子供が投げるような雪も怖くなく、手の内を明かさぬように用意していた雪玉をカウンターのように投げつける。
「ちょっ! 尚ちゃん冷たいって!」
と言いながらも降参するつもりはないらしく、彼は雪玉を作らずに新雪を両手に取って水のようにかける。パラパラと防寒具に雪が当たって、口の中に冷たい雪の味がする。
——時計を見ると、すでに午後十二時を指していた。楽しい時間はあっという間とはよく言ったものだ。
「じゃ、そろそろお昼ご飯だから帰るね」
いつものようにそう言って立ち上がるも、今日の彼はそれを拒むように雪の上に座り込む。
「⋯⋯あのさ、今日何の日かわかる?」
「バレンタインデーでしょ? 二月十四日」
「だから、さ——」
気まずそうに渡したのは、さっきの遊びのせいかぐしゃぐしゃになってしまったお菓子のようなもの。
「なにこれ、ぐしゃぐしゃじゃん」
「⋯⋯遊ぶ前に渡したかったけど、忘れてた。ってのと、別にこれ姉ちゃんが多く作りすぎたってだけだし」
早口で捲し立てるようにそのチョコレートが生まれた経緯を話す。
「⋯⋯別に、いらなかったら捨てていいし」
どこか目を逸らすようにしてつぶやいて、逃げるように去っていく。そんな彼の背中に向かって僕は叫んだ。
「ありがとう! お返しするから!」
余り物だろうと、今まで誰からもそのようなものをもらったことがない僕は少し大人の階段をもらったような高揚感で胸が音を立てるのを感じた。
実際に彼がどのような表情をしたのか、どんなことを思ったのかは遠目からでは分からなかったが、少なくとも拒んでいるような様子ではなかったような気がする。
アスファルトが剥き出しの地面を歩く。こんな昼頃でも東京の街というのは人に溢れていて、地元の田舎とは大違いだった。無理を言って何もないあの地から飛び出して来た都会での大学生活も、もう残りわずか。あっという間に流れてしまった時間を経て、僕は雪を踏む感触をすっかりと忘れてしまったようだった。
最初の頃は家にも度々帰っていたのだが、親と進路のことで揉めてしまったことが原因でここ一年は多分家に帰っていない。それが寂しく思うほどの歳でもないから、ズルズルと何かと理由をつけて帰省を拒みつづけた。
午前だけの授業。そのため電気代がむしろ安くなるという迷信のようにも思える理由でエアコンを付けっぱなしにしていたために、部屋に入っても寒さは感じなかった。
特に注視してみるわけでもないテレビをつけて、昨日作った夕食のあまりを電子レンジにかける。
「⋯⋯県では記録的な積雪となっており〜」
カクテルパーティ効果というのだろうか。生活の雑音としてつけていたテレビから聞き覚えのある地名が流れて僕は思わず液晶を見てしまう。そこには僕も見たことがないような、それくらいの雪に覆われた地元の映像が流れていた。
「雪、今年は多いですか?」
「ま〜、多いけどここの人は大丈夫じゃねぇかね。毎年恒例さぁ、ねえ爺さん」
「そーだ、雪の降らねぇ年なんて今まで数えるぐれぇしかねがった」
近所に住んでいた爺さんと婆さん。そして、その2人が映るということは⋯⋯。
『田村花店』
雪で覆われてしまっていても、昔から馴染んでいたその古ぼけたダサいフォントは読めてしまうもので。僕は呆気に取られてその様子を見ていた。寂れた商店街の中に、必死にしがみつくように経営して来たそのお店。こんな雪の日じゃただで少ない客が足を運ぶこともないようで。それでも、両親は美しい花を絶やさぬように手入れをしていた。
「それでは、続いては人気アーティストの⋯⋯」
トピックが変わり、見慣れた東京の景色をテレビは映す。さっきの地元と別の国なのではないかと思ってしまうほど明るく雲ひとつない青空が印象的で。あんな雪の多くて、空がいつも鈍色でどんより暗く、肌を突き刺してしまうような寒い場所、普通は誰も行きたくなんてないだろう。それなのに、なぜかその全てに今触れてみたいという衝動に駆られた。
幸い、後期分の授業は全て終わっている。問題はバイト先への連絡だが⋯⋯。
「あ、いいよ〜。いつも田村君には頑張ってもらってるし今回くらい言って来なよ〜」
お盆も、年末年始もシフトを入れていたのが功を奏したのか、はたまた法律的に休ませなければいけないのだろうか、マネージャーは二つ返事で了承した。シフト自体も割と緩めのバイト先というのも理由だろうか。
「⋯⋯あと必要なのは」
歯ブラシと歯磨き粉、着替え、パソコン、充電コード。そんな必需品をキャリーケースに詰めていく。その途中で、僕はあることを思い出した。
「⋯⋯ちょうど、バレンタインデーと重なるのか」
バレンタインデーといえば特に思い出はなくて、むしろ僕はたくさんチョコレートをもらっているクラスの中心人物を指を咥えて見ていた側の人間だった気がする。
それは大学に入ってからも同様で、もともと自分から輪の中に入っていけるようなタイプじゃなかった僕はそのような立場とは無縁の生活を送っていた。負け惜しみでは決してないが、僕自身もあまり積極的に恋愛をしようという気にもなれなかった。
ただ一人だけ、毎年僕にお菓子をくれていた物好きな奴はいたのだが。いわゆる、バレンタインデーにお菓子をたくさんもらう、「クラスの中心人物」がその彼だった。
「⋯⋯菓子折りってことで、適当に実家用になんか買っていくか」
それを忘れる事がないよう、僕はスマートフォンのメモにそれを書き記した。新幹線のチケットも無事に予約して、いよいよ帰省が現実味を帯びだしていた。
度重なる電車の遅延、それに屈する事なくたどり着いたのは予定時刻を大幅に超えた午後三時。なんとなく帰省することを言い出しづらくて、何時に帰るとかを伝えていなかった僕は最寄駅からの長い道のりを歩くことになった。
東京の、エアコンのおかげで暖かかった部屋の中で見ていた時はあんなにも愛おしかったのに、実際その環境に身を置くとやはり寒さとは不快なもので、風が地面から雪を巻き上げながら吹き付ける。それのせいでフードが何回も外れて、雪が顔にかかる。
「⋯⋯やっぱこんな時期に帰ってこない方よかった」
独り言のようにぼやいても、その声は風に乗って飛ばされる。かと言ってここまで来てすぐに帰るのは旅費の観点から実現することは無理そうだった。
吹雪の中を歩み、実家のある場所を目指す。だんだんと僕の馴染み深い風景が増えて来て、どこかノスタルジーな気持ちが湧き上がってくる。剥き出しの電柱も、柱についた汚らしい錆も、まるで隙のない都会の風景に馴染んだ僕を絆すように包み込む。
「⋯⋯久しぶり」
たどり着いて十分弱ほどの葛藤の末、僕はようやく古ぼけた花屋のドアを開けた。最初客だと思っていたらしい両親は「いらっしゃいませ〜」と言葉にした後に、硬直する。
「尚哉! お前、ずっと帰ってこないで!」
店に響き渡るような声で父がそう叫ぶ。幸いにも、他に客はいないようだったので特に問題はなかったのだが。
「ほんと、心配かけて⋯⋯!」
ただ一年強、顔を見せていなかっただけ。それでも、二人にとっては長い時間だったようで僕の中に秘められていた罪の種が芽吹くような感覚がした。
「⋯⋯ごめんなさい。テレビでここが映ってたから、懐かしくなって」
「寒かったでしょ、ほらこっち入りなさい。こんな大荷物、雪の中どうやって来たの!」
「新幹線と電車乗って、その後は歩いて⋯⋯」
「東京じゃこんな雪降らねから大変だったろ、ほら今から付けるっけストーブ当たれ」
「いいよいいよ、つけたら花がダメになるだろ」
おせっかいを適当にあしらいながら、僕は店内を見渡してみる。スイートピーの甘ったるい香りが、まだ咲くには一足早そうな固く閉じたチューリップの蕾が、冬ということを知らせてくれる。
「ま、とりあえず今日は家に帰ってなさい。早めにお店閉めるから」
「え、いいよそんな。客が来るかもだし」
「いいからいいからほら。送ってってあげるから」
「⋯⋯うん」
東京じゃあまり見かけないかなり昔の軽自動車。それのドアを開けると、ふと見覚えのある姿が映る。バンに乗った狼の男。その正体が分かった僕は、気づかれないように僕はそそくさと車に乗り込んだ。
「あ、そういえば[[rb:柊夜 > とうや]]君お店で働いてくれることになったのよ。呼んでくるね」
「⋯⋯いいっていいって! 仕事中だろ、それに気まずいし」
いわゆる幼馴染だったからか、母がそういういらない気遣いを見せようとするのを慌てて止める。いくつかの理由で僕は彼と会うのが少し怖いというか、まだ上手く話せる自信がなかった。
「ほんと、せっかく帰って来たのに冷たい子ねぇ。ま、明日からあんたにも手伝ってもらうからちゃんと挨拶すんのよ?」
「え、家にいちゃいけないの?」
「何言ってんの、人手足りてないんだから! 特にこれからの時期はバレンタイン。フラワー、バレンタイン? っていうの、それでお花がよく売れるのよ」
そんなことを言ったって、今日も店には人がいなかったじゃないか。それが僕に気を遣わせないための嘘というのをなんとなく察して、これからも経営の苦しくなっていくのであろうあの店を後にした。いずれ、あの店もノスタルジーの一部となってしまうのだろうか。
次の日、母の宣言は嘘ではなかったらしく僕は朝から叩き起こされ花屋の手伝いをすることになった。大学生には辛い時間、にも関わらず父も母もいつものルーティンだと言わんばかりにテキパキと身支度を始める。
「おはようございます」
突如、ガラガラと玄関の引き戸が音を立てる。こんな時間に誰が来たのだろうと恐る恐る覗いてみると、そこにはやはり寝起きではなさそうな狼の獣人が立っていた。ドアを通るのに軽くかがまないと頭をぶつけてしまうのか、会釈をするようにして玄関に入る。
「おはよう、柊夜君。じゃ、市場に行ってくるから尚哉と店の準備をしておいてくれ」
柊夜は僕の名前を聞いてピクリと耳を動かすも、特に動じたようなそぶりも見せずに彼はバンに乗り込んだ。まあ、僕が考えすぎているだけなのかもしれないが。
「⋯⋯じゃ、尚哉行こうか!」
身支度を終えた僕は、またあの軽自動車に詰め込まれるようにして花屋に向かうのだった。
「それじゃ、まずは雪かきをしてもらおうかな。昨夜も雪がかなり降ったみたいだから」
そう言ってスコップを手渡される。何年ぶりだろう、これを手に握ったのは。
「私は花のお手入れをしてるから、終わったら呼んでね」
外を見ると、真っ白な道。アーケードがあるにも関わらずそれを無視するように積もってしまった雪はこの地域で暮らすことの厳しさを物語っている。
「⋯⋯やっぱ向こうでゆっくりしていたほうがよかったな」
雪にスコップを差し込んで、邪魔にならない場所に投げ捨てるたびにそう思う。せめて、こんな雪のないお盆に帰ってくれば。完全に時期を間違えてしまったようだ。
雪もだいぶ片付いて来た頃、バンが店の前に停まる。そして後方から色とりの花を取り出して父と柊夜が店と車を往復する。それをなんの気無しに見つめているとチラリと柊夜と目があって、彼は仕事の途中だったためかすぐにプイッと目を逸らす。
地元の友達と盛り上がって。そんな講義室の隅から聞こえて来た談笑。僕の場合はむしろ盛り上がるどころか言葉を交わすことだってできなさそうだった。
「尚哉! 雪かき終わった? 次こっち!」
「⋯⋯あ、うん!」
母に呼ばれて彼と同じく店の中に入る。どこか息苦しい空気がこれからの仕事に支障が出そうで嫌だった。
もうすぐバレンタインデー。そんな企業戦略に操られた人々がこぞってチョコレートや花を買う日。それが僕の抱いていた感想だった。
それはこの田舎でも健在のようで、若いカップルや女子高生、老夫婦。いつもよりは客の入りが多い気がする。そんな彼らに僕は愛想を振り撒いて、途中僕の分からないような昔話をされたりして、花を渡すのが僕の仕事だった。一時期花屋を継ぎたいと思っていた頃、拙いながらも暖かく見守られながら接客していたのでなんとなく勝手は分かる。
⋯⋯それは昔の話で、もうお釣りを間違えるなどのつまらないミスを許される歳ではないのだが。
その間父は客の相手をこなしながら花の手入れを。母と柊夜は作業部屋の方でコソコソと作業をしているようだった。客の入りも落ち着いた頃、チラリと覗いてみるとそこにはあまりにも多すぎるアレンジメントが並んでいた。店にはすでにブーケやアレンジメントが十分並んでいる。そんな状態でこんなにたくさんの商品を作ったら売れ残ってしまうだろう。
「⋯⋯ちょ、そんなたくさん売れるわけ! もう表には商品並んでるんだよ!?」
「あ、尚哉。言ってなかったっけ、あのね。あんたが帰ってこない間に⋯⋯」
インターネットでお花の通販。そんな、スマホアプリを満足に使うことすらままならなさそうな彼ら二人には到底無理であろうそれ。誰かに依頼したのだろうが、ふと嫌な考えがよぎる。
「⋯⋯それ、いくらくらい?」
「え? まあ十万くらい? サーバー管理費の月額も含めるともっと増えるけど⋯⋯」
それが適正価格なのか、それともぼったぐられているのか僕にはわからなかった。しかし、こんな辺鄙な花屋からそんな元を取れるほどの収入が得られるとは考えられなかった僕は、帰省しなかったことを後悔した。この店の寿命が、短くなってしまったような気がして。
⋯⋯しかし、それは僕の思い過ごしだったらしい。
「なによそんな詐欺師に騙されたんじゃないかみたいな目は! もうすでに黒字も黒字よ。なんせ、柊夜君がかなり力を貸してくれたんだから」
と言って、大きな柊夜の肩を叩く母。そんな彼を見てみると、僕よりもはるかに大きな手で器用に花を紡いでいく。熟練した花屋のようなそんな手つきで。
完成したのは、無骨な手から生まれたとは思えない繊細で可愛らしいブーケ。『Happy Valentine's Day』と書かれたプレートを最後に添えれば、見劣りしないバレンタイン用のギフトになる。
「実は、柊夜君高校でてすぐにネットショップ開業代行の会社に勤めてたみたいなんだけどパワハラでやめちゃってね。そこでネットショップを開くお手伝いをしてもらって、ついでにお花の資格も取っちゃったってわけ」
「⋯⋯そ、そう」
何も言わないで、またアレンジメントの製作に取り掛かる柊夜。その話を聞いても、まだ僕は声をかけることができずにいた。それは、かなり昔のバレンタインデーの日が原因だった。
「⋯⋯おい、やっぱ考え直した方いいって! 奨学金って言ったって、借金だぞ?」
「そうだよ。でも、僕が返せばなんの問題もないでしょ。誰にも迷惑かけないし、それの何がいけないの?」
「それなら、⋯⋯近くにあるだろ。大学。そこじゃダメなのかよ」
「⋯⋯お前はバカだから分からないかもしれないけど、あんなところ行ったって将来困るんだよ。あの花屋だってもうすぐ終わる。そうなった時に、支えていけるほどのお金を僕が大人になった時に稼げるようにならないといけないんだよ!」
「花屋は大丈夫だって! 俺がなんとかしてやる」
「そんなこと、お前になんかできるわけないだろ。⋯⋯他人事だからって適当抜かすなよ!」
別の高校に通うことになって、中学生の頃は毎日話していなような彼と久しぶりに口を聞く。一週間ぶり程度のものなのだが、それでも僕達にとっては長い時間だった。そして最後に口喧嘩をしたのは多分一年や二年くらい前。
「⋯⋯まあいいや。これ、なんかもらいすぎて。モテ期きたのか——」
差し出された綺麗な小包。僕がこんな大変な時期にそんな自慢のような話。同時に襲う、言語化が不可能なモヤモヤとした感情が胸に満ちる。それを払いのけるように、僕は差し出された小包に八つ当たりした。
「⋯⋯いらねぇよそんなもん。てか、何? お前。こんな時にモテ自慢かよ。分かったようなふりも、何もできないくせに無責任なこと言うところも⋯⋯。空気読めないところとか。キモいんだけど」
雪の上に落ちた菓子。それを拾うことなく僕は公園を出た。高校三年生の直前。親と進路で揉めたり、受験勉強のストレスでピリピリしていた僕は、最低な行為をしてしまった。それを謝ることもできないのが、また最低さに拍車がかかるのだが。
実際に、彼は花屋のためにネットショップの開業を手伝い、あろうことか花屋として仕事もしている。一方で僕はまた院へ進むとかどうとかで親と喧嘩して、顔も見せずにいた。そんな現実が、また自分自身を嫌いにさせる。
「⋯⋯じゃ、レジ戻るわ」
絞り出せたのはその一言。気にしていないかのように柊夜は花を見つめ、母は柔和な微笑みを浮かべたままだった。
バレンタインデーの終わった花屋は、ひどく閑散としていた。当日や前日は久しぶりに忙しいと思えるくらいの客足だったくせに、イベントが終わればこれだ。そして、何よりも父はバレンタインデーに張り切りすぎてぎっくり腰、母は無理だったか風邪をひいてしまった。そうなると、店を回すのは僕と柊夜になるのだが。
「いらっしゃいませ」
「あれ、今日は二人?」
僕が実家に帰省したきっかけのテレビ番組で取材を受けていた近所のおばあさん。数少ない花屋の常連で、お花が好きなのかなんでもない日にも花を買うことの多いお客様だ。
「え、ええ。ぎっくり腰と風邪で⋯⋯」
「あらあらあら、でもまあ柊夜君もちょうどよかったねぇ。尚ちゃんが手伝いに来てくれて」
「⋯⋯どうなんでしょうか。運転もできないし、アレンジメントも作れないし。接客と簡単な手入れくらいしかできないのでいなくても変わらなさそうですけど」
「そんなことないわよ。ずっと柊夜君、尚ちゃんが帰ってくるの待ち遠しそうにしてたのに。ねえ?」
僕の後ろを覗き込むようにしてそう言った視線の先には、完成したアレンジメントを抱えて店を出ようとする柊夜の姿があった。
「⋯⋯ま、配達行ってる時に店に誰もいなくなったら困るし」
それだけ呟いて、バンに乗る。少なくとも邪魔には思われていないようなのでホッと一息ついていると不思議そうな顔を向けられる。
「おかしいねぇ、この前のお正月なんて尚ちゃんのことずっと話してたのに」
「まあ、お正月も忙しい時期だし人手が足りなかったんでしょう。⋯⋯お花、どうしましょう?」
「それじゃ、チューリップで。赤色がいいわ」
花を取り出して、軽くラッピングする。それを差し出すと嬉しそうに花を抱えて店を去っていった。この瞬間が好きだった。花を持って、幸せになる人の表情が。
だから、本当はこのお店を継ぎたかった。でも郊外のショッピングモールにある洗練されたお花屋さんには敵わなくて、無骨なこのお店は経営が苦しくなっていった。もう、花屋さんは終わりの時代。そう悟った僕は両親に楽をさせるために花屋ではなく別の道を歩むことを選んだ。⋯⋯言い換えれば逃げたのだ。自分の夢から。
誰もいない時間が続く。昔は僕の方が詳しかったはずなのに、今では柊夜の方が花の知識は豊富だろう。だから、お手入れも簡単なものしかできなくて、暇を持て余していた。売れ残りとなって、今日廃棄となってしまうおつとめ品のお花を作業部屋に持っていって見よう見まねでアレンジメントを作ってみる。
⋯⋯も、無惨も無惨。くたびれたその姿は飾るだけで陰鬱になってしまいそうで、僕はそれを無かったことにするようにゴミ箱に入れた。
「⋯⋯何してんの?」
昔よりも一段と低くなった声が頭上から聞こえる。驚いて振り返るとそこには配達を終えたらしい柊夜が立っていた。
「⋯⋯おつとめ品でアレンジメント作ってみたけど。やっぱダメだね、下手くそだ」
「どれ」
「捨てたよ。みっともないし」
と言うと、ゴミ箱を漁って僕の作ったアレンジメントの風上にも置けないようなそれを手に取る。
「⋯⋯ぷっ、なんだよこれ。センス終わってんな」
わざわざ拾い上げて、バカにしたように笑う柊夜。こうやって笑われるだろうから隠すために捨てたのに。
「だから言ったでしょ。早く捨てろよ」
「⋯⋯貰う。あの時のお返しとして」
何かを思い出すような、懐かしさを噛み締めるような表情を浮かべた後、作業台の前に立つ柊夜。そして、僕におつとめ品のお花を持ってくるように指示した。
「⋯⋯今年のバレンタインデー。やるよ、これで最後ってことで貰ってくれよ」
それはおつとめ品で作ったとは思えないほどハイセンスなアレンジメント。少し鮮度が落ちて垂れ下がってしまった花材が、むしろ落ち着きのある大人っぽいデザインになっているような気がする。あのショッピングモールの中のお花屋さんにも負けないようなお花。
「⋯⋯捨ててもいいぞ」
「っ捨てねーよ。ごめん⋯⋯てか、ありがと。いや、これだけじゃなくてお店のこととか、さ」
「だから言ってただろ。俺がどうにかするって。ま、本当はここまでお世話になるつもりはなかったんだけど甘えさせてもらってるって感じ。むしろ俺がお礼する側だわ、仕事なかった時に拾ってくれて」
「ただでさえ金がないと言うのに」
「優しすぎるな、お前に似て」
「⋯⋯僕はそうでもないだろ。あんなことして、親にも迷惑かけて」
「ま、それもそうか。で、また揉めたんだろ?」
「なんで知ってるんだよ」
「言ってた」
予想通り。まあ、別にいいのだが。
「そういえば、今そっち家大変なんだろ。今日お前ん家行ってやろうか?」
「⋯⋯お願いしたいです」
ぎっくり腰の父と風邪をひいた母。一人暮らししかしていなかった僕にとって、その二人をどうこうするのに不安があったのは事実だった。
「本当にありがとう。その、なんて言ったらいいか」
「いいよいいよ、別に。むしろいつもお世話になってるし」
僕の自室で缶のお酒を飲みながら、つまみを食べる柊夜。夜にかけてあまりにひどい吹雪とのことで、今晩は家に泊めることになった。
「てか、いつまでこっちにいるん?」
「んー、まあ母さんは風邪だから一週間で治ると思うけど。問題はぎっくり腰だよなぁ⋯⋯。だから、大体二週間くらいはこっちにいると思う」
「⋯⋯そうか」
本当はもう少し早くに帰る予定だったのだが、柊夜一人にあの店を任せるのは酷だろうということで僕も滞在を伸ばすことになった。
特に話すこともなくなって、沈黙が続く。それが気まずくて僕はスマートフォンを開くと時計は二十二時を超えていた。
「明日も早いし、そろそろ寝ようか」
「そうだな」
二つ布団を敷いて湯たんぽを置いて布団に入る。一緒の部屋で寝るのは多分、中学の修学旅行以来だったと思う。その時はベッドが離れていたから隣で寝るのは小学生の時以来。その頃とはすっかり大人びたマズルの長さと手の大きさ。あれから経ったのかをよく考えなければ推定できないほどに時間というものは過ぎ去っていたらしい。
「ねえ」
特に話題もないのだが、恐る恐る呼んでみる。昔とは変わってしまったのではないかみたいな、そんな変化に対する不安をどうにかするために声を、言葉を聞きたかった。しかし、すでに柊夜は眠りに落ちていた。
「⋯⋯はっや」
眠りにつくのが早いのは昔から変わっていないらしい。そういえば、二人で夜更かしなんて一度もできた試しはなかった。図らずも僕は昔と変わらない彼の姿を見て少し安心する。
それから三日ほど経って母の風邪も治り、またしばらくして父のぎっくり腰もまた回復する。つまり、僕はもうここにいる必要はなくなる。
「⋯⋯尚哉。やはり、きちんと話しておかなければいけないと思うんだが」
昔と同じように机を三人で囲んで夕食をとる。神妙な表情をした父は、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、どうして進学しようと思うんだ」
多分、またこの前と同じように拗れてしまうのを恐れて家族の誰もが避け続けた話題。それをついに目の前に突きつけられる。
——うやむやにせず、全てを話そう。『あの店が終わってしまうかもしれないから』なんて、残酷かつ失礼なことを言えばそれこそ怒られてしまうかもしれないが、僕なりに二人の今後の生活を考えた選択ということを伝えよう。これで理解されなかったとしても、もう後戻りはできない。
「⋯⋯そういうこと、か」
意外なことに、この前とは違って静かに酒を一口飲む父。そして、おもむろに立ち上がりクローゼットから封筒を取り出して机の上に置いた。
「お前の考えは分かった。それなら、これを使いなさい。学費の足しにはなる」
茶色の封筒にはお金が入っていた。それを僕は丁重に断る。
「大丈夫だよ、もうそんなに子供じゃないそこまで甘えていられない」
「いいから、受け取りなさいよ。あの後二人で考えたのよ。そして、今日尚哉の話を聞いて本気ということが分かったの。だから二人で貯めたのよ」
「⋯⋯あと、あの店のことをお前がそんなに心配するんじゃない。そこまで落ちぶれちゃいないし、今は柊夜君もいる」
封筒を手に握らされる。水を扱う仕事柄綺麗とは言えない、少しだけ荒れた手。昔よりもシワの増えた手。そこから伝わる熱、そして想いのようなものを僕は受け取ったような気がした。
「ところで、もう明後日には向こうに戻るのよね? 最後くらい、ゆっくり柊夜君と話してきなさいよ。あんた、次いつ帰ってくるのか分からないし」
「⋯⋯今まで帰ってなかったのは気まずかったからで」
「せっかくこっちに来たんだ、友達は大切にした方がいいぞ。明日は店も休みだし、遊んでくればいい」
「遊ぶって子供じゃないんだから⋯⋯」
と言いつつ、スマートフォンで明日の予定を柊夜に訪ねてみるとどうやら彼も暇だったらしい。僕の帰省してから初めてのまともな休日を一緒に過ごしてくれることが決まった。まあ、こんな田舎じゃ遊ぶところなんて限られていると思うが。
「それで、カラオケと」
「ほら、尚哉も歌えよ」
「子供じゃないのにこんなところって」
「仕方ないだろ、この辺じゃカラオケくらいしかないんだし」
文句を呟きながらもマイクを手に取る。中学時代、時々通っていた以来のカラオケ。あの時はグループで来ていた気がするが今日は柊夜しかおらず、なんだか歌うのが恥ずかしかった。
「⋯⋯なんか、恥ずかしいんだけど」
「別にそんなことないだろ。俺しか聞いてねぇし」
「いや、それがむしろ原因というか」
フリータイムではないから、ここで足踏みをしていては勿体無い。そう自分に言い聞かせて、当時はやっていた懐メロソングを僕は液晶パネルで予約した。
「⋯⋯さて。カラオケ行って、ショッピングモールで買い物ちょっとしたわけだけど」
一日というのはあっという間に過ぎ去るもので、すでに外は暗くなっていた。柊夜の車に乗りながら僕は街灯くらいしか灯のない暗闇を窓から眺める。
「⋯⋯今日、俺ん家泊まらね? 母ちゃんがめっちゃカレー持ってきてくれたんだけど俺一人じゃ食べきれなくて」
「んー、親に聞いてみる」
メッセージアプリで外泊の旨を伝えると、しばらくしてから既読の文字が表示されて、親指を立てたスタンプが送られてくる。
「あれ、ってことは今一人暮らししてんの?」
「まぁ、な。就職の時に一人暮らし始めて、そこやめた後今も続いてる感じ」
「なるほどねぇ」
柊夜カレーライス。かなり昔に食べた気がする。家庭によって味が変わるのものの代表例だと個人的に思っているのだが、彼の家のカレーライスは割と辛めで、昔はヒイヒイ言わせながら食べていたのをなんとなく思い出す。
「あれ、辛くない」
「昔からそうだろ、なんでお前辛そうに食べてたのか不思議なくらいだったんだけど」
スパイシーではあるのだが、一口食べるたびにコップの水を口に含む必要があるほどの辛さはない。幼少期の思い出補正というものだったのだろうか、それとも僕自身が成長したからだったのだろうか。
男二人でも完食に割と苦戦した量のカレー。美味しいので苦痛ではないのだが、食べ終わる頃には満腹で何もする気が起きなかった。
「あのさ、明日もう電車に乗って帰るんだろ?」
「うん」
「次、いつ帰ってくるんだ?」
「んー、来年から卒業研究があるからなぁ。分からない」
しばらくして、聞いてもいいのか分からないといったような様子でマズルが小さく開き言葉がポツリと溢れる。
「そういえば、結局進学するのか?」
「うん、納得してくれたし」
「⋯⋯良かったな」
「進学した後は戻ってくるのか?」
「いや、向こうに住み続けるよ。こっちじゃ仕事もないし。お金だけ家に入れるかな。たまに家には帰りたいとは思うけど」
「花屋は継がないのか」
「⋯⋯無理だよ。大学に行って結局花屋を継ぎますなんて親に顔向けできないし。それに柊夜と違ってセンスないし、継ぐ資格なんてとうにないよ」
「そんなこと⋯⋯」
テレビの音だけが部屋に反響する。お酒の力でも借りて別の話をなんとか生み出そうと思ったのだろう柊夜は冷蔵庫から酒を持ってきて、乾杯した後に喉に流し込む。酔いが回るまではしばらくかかりそうなので、またテレビを黙ってみるのだが。
東京のオシャレスポット特集だとかいう番組が映されており、最近人気のある女性タレントがわざとらしく食べ物を映して、口にする。
ぼーっと画面を見ているとちょうどいい話題を見つけたのだろうか、柊夜が再び口を開いた。
「こういう人がタイプなのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどテレビに出るくらいには整ってるなぁとは思うよ。柊夜はタイプなん?」
「いや、違うけど」
「えぇ、意外。こういう清楚系な人がタイプだと思ってたけど。意外とギャル系が好きなん?」
酒に頼っても高校生のようなトークデッキしか用意できないことに我ながら呆れてしまうのだが、昔に戻ったようでなんだか懐かしい気持ちになる。そういえば、彼のタイプを僕は聞いたことがないかもしれない。
「じゃあ、もしかしてロリコン?」
「なっ、ちげぇよ!」
「じゃあなんですか〜」
「⋯⋯お前が先に言えよ」
僕のタイプ。と言われても、急には思いつかない。ただ殆どの人がそうかもしれないが、意地悪な人よりは優しい人の方がいい。
「うーん、ベタだけど優しい子かなぁ」
「マジでベタすぎるな」
「ほら言ったんだから言えよ」
「⋯⋯俺のタイプは」
つらつらと自分のタイプを述べ始める柊夜。要求が多すぎていつまでも結婚できない相談者を相手にしている結婚相談所の職員のような気持ちになる。
「そんな人いるわけなくない? 全部当てはまる人なんて」
「いや、いる」
断言する柊夜。もはやそれは特定の誰かを指している様で。かと言って思い当たるような人も思い浮かばない。
「気づいてないのかよ」
少しまどろんだような、色っ気のある目を向けて僕の手を取る柊夜。アルコールのせいか、体温が少し高い。
「酔いすぎ酔いすぎ⋯⋯。二日酔いなるからもう飲むのやめろよ」
「なあ、もう明日帰るんだろ? そしたらこの前のバレンタインデーのお返しっていつ返すんだよ」
「えぇ、現金なやつ⋯⋯。うーん、じゃあ今? できる範囲でならなんでもいいよ。まあ、肩揉むとかくらいしかできないけど」
「⋯⋯じゃあ、一回だけでいいからさ」
口に熱がふれる。恐る恐る遠慮がちに、それでも僕に拒否権などないというように水音を立てながら舌が口内を順に触れていく。
獣人特有の、火傷してしまいそうな体温。波打つ心臓の音が、服を経由して僕の身体の芯にまで伝わる。どうやらひどく緊張しているらしい。
「ごめん、これで忘れる」
泣きそうな、寂しそうな表情をした柊夜。唐突のキスを咎めようとは思っても、そのような顔をされてしまうと僕はいきなりの行為を責めることもできず、ただ理由を問うことしかできなかった。
「⋯⋯おい、大丈夫? なんでそんな顔」
「絶対引かれると思う」
「いいよ、てかもうキスされたし今更」
「⋯⋯俺は、ずっと昔から尚哉のことが好きだった。でも、そんなこと本人に言えるわけないからずっと黙ってたけど。お前ともう、しばらく会えなそうだから」
ふと今までのバレンタインデーの会話が走馬灯のようにフラッシュバックする。『姉が作りすぎて』『バレンタインにチョコたくさんもらったから』『親がお菓子作りにハマって』そんな理由で受け取ってきたお菓子たち。味は別の人が作っているはずなのに毎回どことなく似ていた理由は多分、柊夜が作っていたのだろう。
僕のお返しが目当てなんだとか、知り合いのよしみだとか、特に深い意味があるわけないと思い込んでいた。期待してしまえば傷ついてしまうのは自分だし、初めから掴もうとしなければ全てうまく行く。
その結果、僕は多くの間違いを犯してきたようだけど。
「⋯⋯本当に、何してんだよ」
それは柊夜に向けての言葉であると同時に、僕自身に向けた言葉でもあった。
喧嘩別れしたバレンタインデー。彼がもしかしたら僕のことを好きなんじゃないかと思っていたのに、他人からもらったからとお裾分け。いつもならどうも思わなかったのだろうがその日はタイミングが悪くて、僕に対しての想いなんてちっともないことが確定したように思って、馬鹿馬鹿しさと恥ずかしさで僕はあんな態度をとったのだ。
忘れてしまいたいから僕は避け続けて、この数日また恋愛感情とは別の、友達として関われるようになったと思ったのに。そんなことを言われてしまったら、僕の今までの苦労が無駄になってしまう。
——さっきのお返しのように僕は柊夜の毛皮に覆われた頬を両手で押さえて、キスをする。
「っ何してんだよ!」
「何、嬉しくないの」
「揶揄うなよ。本気なのに」
「揶揄ってないよ。本当お互い遠回りすぎたとは思ったけど」
目を瞬きしながら、何をいっているのかわかっていなさそうな顔を前に、多分伝わっていないのだろう彼に僕はより分かりやすい言葉を投げかける。
「⋯⋯だから、好きだよって言ってんだけど。なんで伝わらないかな」
「なら、最初から言えよ⋯⋯!」
「そっちこそ最初から変な理由つけないで正直にバレンタインデーにお菓子寄越せばよかったんだろ」
そんな小競り合いをしながらもおかしくて笑ってしまう。のだが、しばらくするとまたお互い恥ずかしくなったのか目を合わせることすらしなくなる。
「ちなみに、その。エロいことみたいなのってすんの?」
「しなくてもいい、ただ一緒にいられれば俺は」
「⋯⋯したくはないと?」
「⋯⋯したくはないといえば、嘘にはなるけど」
正直だな、と思いながらも隠したところで僕たちの場合またこんがらがる気がするのでそれくらいの方がいいのかもしれない。
「じゃ、してみる? 次いつこっち来れるか分からないし」
正直自分は恋愛に関して淡白な方だと思っていたが、多分それは柊夜のことをどこかしらで忘れられなかったからなのかもしれない。そんな考察を頭の隅で思い浮かべながら、もう一度今度は片方が受け身になるようなキスではない、双方からのキスをする。
服を全て脱ぐと、獣人と人間の違いが如実に現れる。毛に覆われた触り心地の良さそうな身体、それを見たのは多分かなり昔以来。恐る恐る触れてみると、昔よりも硬くはなっているがそれでも心地の良いものだった。
「⋯⋯そんな触るなよ」
「あ、ごめん。ちなみに、どっちが⋯⋯その」
「どっちっていうのは、その、そういうことだよな⋯⋯? どっちでもいいよ、尚哉のしたい方で」
こういう時に、どのような表現をしたらいいのか。僕は端的な言葉を使いたかったのだが、口にするのが憚れた。
「⋯⋯方がいい」
「え?」
「⋯⋯挿れられる方が、いいんだけど。その、怖いかも」
「じゃあ、無理そうだったら代わるから。うつ伏せになって、力抜いてみろ」
言われた通りにできる限り脱力する。すると、思ったよりもすんなりと異物が侵入する感触。高熱を出した時に坐薬を入れた時のような、そんな特有の違和感。
「痛いか?」
「痛くない。なんか、坐薬みたい」
「⋯⋯坐薬って。まあいいや、とりあえず慣らしてくか」
しばらく指が動くこともなく、硬直状態が続く。苦しくも痛くもないのは多分潤滑剤のおかげだろうか。
「ってか、なんでローションあんの? 使いかけ」
「そんなの別にいいだろ」
「もしかして他の人ともやってんの? なんか手慣れてるし」
もしもそうだとしたら少し嫌だな。でも、そんなのは人の自由だから僕に咎める権利は無い。ただ表情が引き攣らないように、平然を装うようにして尋ねてみる。
傷ついてしまうかもしれないけど、それでも今は彼の全てを知りたかった。
「ちげぇよ! ⋯⋯一人で、する時に使うんだよ」
「あ、なるほど。アナルだけに?」
それが本当だったのか、僕に気を使ったのかわからない。それでも心持ちは軽くなって安心からか頬が綻ぶ。
「余裕そうだな、そんなアホみたいなこと言って。緊張してるこっちがバカみたいだ」
多分、柊夜がかなりゆっくりと事を進めてくれているからこんなことを言ってられているのだと思う。それくらいに、割と余裕があった。
「痛くないか?」
「痛くないよ、余裕余裕。指三本なんて無理だと思ってたけどいけるもんだね」
「⋯⋯俺の方がなんか怖いんだけど」
「なんでさ、ただ挿れて腰振ればいいだけなのに?」
「そんなことして嫌われたらどうすんだよ」
「まあチンコ小さかったらそんな心配もないでしょ」
「⋯⋯じゃあ、そろそろ挿れてもいいか? 顔見ながらがいいから、仰向けになってくれ」
「うんいいよいいよ、どっからでもかかって——」
姿勢を変えた後目に入るのは、さっきまでの大きさとは全く違う凶悪な逸物。指三本よりも明らかに大きなそれは、さっきまでなかったはずの恐怖心を再び甦らせる。
「えまって、なんかデカくなってない?」
「いや、さっきまでは半勃ちで」
「⋯⋯だ、大丈夫だと思う。ゆっくり、挿れてみる?」
足を広げるも、柊夜はすぐに挿入はせずに焦ったような仕草をする。今になって怖気付いたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あれ、ゴム空だ⋯⋯」
「なんで持ってんの?」
「え、一人でする用。量多いからティッシュじゃ無理だし」
ティッシュペーパーでは受け止めきれない量。それを暗に示したその言葉にぎょっとしながらただ気まずい空気が流れる。
「⋯⋯抜いてくるから、寝てろ」
「え。なんで? こう見えて童貞処女だから病気とかはないと思うんだけど」
「⋯⋯俺もそうだけどさ。いや、腹壊すって聞くし」
「そんなん迷信に決まってるでしょ。てか、ここまできて寝れるわけないじゃん」
「⋯⋯コンビニで買ってくる、のも気まずいんだよな。店員、知り合いしかいないから」
「田舎の嫌なところだなぁ。だから、いいって。そのままで」
大切にしてくれているのは嬉しいのだが、苦しそうな股間のモノを見ていると居た堪れなくなる。あと、なぜだか小っ恥ずかしい。
「⋯⋯欲しい。そのままで、柊夜」
ふと、少し誘うように言ってみる。冗談のつもりで試してみただけなのだが、思ったよりも効果が強かったようで、さっきまで挿入を躊躇していたとは思えないほど乱暴に僕の手首を掴んみベッドに押しつける狼。鋭い瞳で僕をじっと見定めるように見つめる。
「マジで⋯⋯。もう、いいよな? お前が誘ってきたんだからな!」
「いいって言ってんだけ——」
言葉を遮るように口を塞がれる。そして、唐突に腹部が圧迫されるような感覚に襲われる。
「っちょ、まって! なんでそんないきなり!」
「⋯⋯はぁ、ごめん、とまんね」
あのセクシー、かどうかは賛否両論な誘いが完全に彼の理性をぶっ壊してしまったようで僕は少し後悔する。慣らしていたとはいえ、指三本よりも明らかに大きなそれは侵入のたびに痛みを伴う。
「いっ、痛いかも、しんない! ちょ。とうっ、柊夜っ」
「痛っい? はぁ、っはぁ、めっちゃ、気持いい⋯⋯」
一応、ピストンをしないあたり瀬戸際にいるようだがこのままじゃいずれ決壊するだろう。とりあえず力を抜こうと息を深く吸うと、それを邪魔するようにまた柊夜が侵入する。
「あ、また入ってく⋯⋯、尚ちゃん、気持ちよくなってきた? キュウキュウ締め付けてくる」
「ちが、ってか! それで呼ぶのやめろや!」
「なんでだよ、みんな尚ちゃんって呼んでただろ。あ、また緩んだ。やっぱ嬉しいんだろ?」
力を抜いたら、挿入しやすくなって、柊夜はそれを侵入を許可したと思い込んで腰を深く沈める。慣れない感覚は徐々に自分に馴染んでいって、指を一つ一つ離されるかのように少しずつ快楽の谷へと落ちていく。
「っ、尚ちゃん! 尚ちゃん! 俺ずっと、もうここに戻って来ないんじゃないかと、二度と会えないんじゃないかって」
「待って待ってっ、とめっ、はぁっ、お腹くるしっ⋯⋯」
緊張と弛緩の繰り返し。それが癖になって、深みへとハマってしまいそうになる。昔みたいなそんな口ぶり、ずっと昔に見たっきりの泣き顔、とうに二人とも大人になっていると思っていたのに、少しも変わっていない様子だった。
奥まで挿入したらしい柊夜を抱き寄せながら、少しヒリヒリする下腹部を深呼吸して誤魔化す。
「⋯⋯落ち着いた?」
「⋯⋯ほんと、ごめん。痛、かっただろ」
「いいよ、そんなでも無いし。ただ、ちょっと動かないで置いてくれる?」
正直痛みはある。しかし、大きな舌で頭の中をぐちゃぐちゃにしてしまうようなキスが脳をバグらせて、痛みを快楽へと変換されていく。
「本当に、童貞なんだね」
「⋯⋯うるせーよ、黙って聞いてりゃ——」
「いや、嬉しいよ。⋯⋯さっき、使いかけのローション見た時にもしかしたら他の人とこういうことしてたのかと思って、結構嫌だったから」
「てか、尚ちゃんはどうなんだよ」
「童貞処女です。今、初めてを捧げましたけど?」
お腹の中で、ピクリと肉棒が動く。それに同期して思わず声が小さく漏れてしまう。さらに劣情を誘ってしまったらしい。二人の間で交わされる息は、だんだんと荒くなっていく。
「動いて、いいか?」
快楽をねだっているのではないか。そんな方程式が脳裏によぎってしまうから、あまり僕に許可を取らないでほしい。だけど口にしないと多分ずっとこのままだから、素直に動かない口をこじ開ける。
「動いて、いいよ⋯⋯ってか。あんま、言わせないでよ。恥ずかしいから」
「なんでだよ」
「⋯⋯なんか、欲しがってるみたいじゃん」
「じゃあ、欲しく無いの?」
「そうじゃ、無いけど」
じっと、見下ろす柊夜の目。顔がいいから、あまりそうされるとドギマギしてしまって悔しい。そんな弱みを握ったのか、彼はニヤリと笑みを浮かべて意地悪なことを言う。
「おねだりしてみてよ、尚ちゃん」
「⋯⋯なんでだよ、そんなっ」
「ほら、どうしてほしいの?」
少し引き抜かれて、コリッとした部分をなぞられる。本能なのだろうか、雌(僕は雄なのだが)を喜ばせるような行為で僕を嬲る。童貞の癖に、しっかり気持ちがいいから厄介だ。
「⋯⋯っその、動いて」
「どうやって? 具体的に言ってみてよ」
「⋯⋯だから! その、チンコを出し入れ、するっていうか」
「誰ので誰のを?」
「⋯⋯柊夜ので、僕のを」
満足のいく答えだったのか、彼は動き始める。しかし、思ったよりも彼も余裕がなさそうだ。
「やばい、調子乗りすぎた。もう、出そっ」
「早漏じゃん、だっさ」
「うるっせ! 尚ちゃんが、エロいからだろ⋯⋯っ」
さっきまではカッコよかったのだけど、今度は可愛く思えてきた。だけど、そんな雄の端くれだからか時々野生的な目で僕を見つめる。コロコロと変わるその魅力が、僕を惹きつけてやまない。
「尚ちゃんっ、出していいか!? もう、出そう⋯⋯!」
「いいよ⋯⋯っ、てか、狼獣人のって、抜けないだろっ!」
激しく打ち付けられた腰。それはガクガクと震えて、行き場のない腸へと精液を放つ。根本が膨らんで、溢れることなくしばらくは射精が続くのだそうだ。
一方、僕もいつのまにか達していたらしく、柊夜の毛並みをベトベトに汚してしまっていた。またお風呂に入らなければいけなさそうだ。
「前、触ってないのにイッてんじゃん」
「⋯⋯うるさい! たまたまだし」
額を合わせて、ピロートーク。ほんのり熱を帯びたような体温の高まりは、言葉を交わしていくうちに徐々に冬の部屋の温度と同化していく。
「⋯⋯お風呂、入るよ」
用事も終わった。明日も早い。すっかり夜更かししてしまったから、早いところお風呂を済ましてしまおうと声をかけても、大人びたフリをしていた狼はキスをして僕を抱き寄せる。
「もう少しだけ」
少し震えた声は切なそうで、僕にもズキズキとした痛みが伝染する。そのまま、しばらくは目を閉じることにした。多分永遠ではないのであろうこの時間を、味わうようにして。
「⋯⋯じゃ、行ってくる」
車で駅へ送ってくれた柊夜に手を振る。少し早めに着いてしまったが、電車の到着を待つ間はスマートフォンでも眺めていよう。⋯⋯電波が届けばいいのだが。
「⋯⋯尚哉」
尚ちゃん尚ちゃんと昨晩は読んでいた癖に、それを忘れるかのように柊夜はよそよそしくそう言う。何かを喋ろうとしたのか、口を開いて、実際には何も発さずに再び口を閉じるのに気付いた。僕は、駅のホームへ入る前にもう一度だけ柊夜の元へ駆け寄る。
「⋯⋯また帰ってくるよ、近いうちに」
「⋯⋯向こうで遊んでたら、覚えとけよ」
「しないって、なんかその後がやばそうだし」
誰もいない無人駅に、早起きな電車の近づく音がする。僕は、彼の腕を離れてホームへと歩みを進めた。振り返ると、彼は何も言い残すことはないというように顔をくしゃっとさせて、大きな手を振る。
次はいつ帰ってこようか⋯⋯だなんて。流石に早すぎるか。