鳴り子の儀:残雨

  ●

  ジイジイ、と蝉の大合唱が森の奥から響き渡ってくる。

  靱やかで逞しい肉体を覆う黒灰色の被毛を湿った潮風が揺らす。蒸した船室から、眩い陽光の下へと踏み出した狼獣人は、船から港に降り立っていた。

  半島にあるドが付くような田舎町。陸路より対岸の港からの定期船の方が便利が良いという辺鄙な場所の町。変わらない故郷の風景に彼は目を細めた。

  晴れた空を貫く陽光が肌に突き刺さるようだ。

  ボディバッグから取り出したペットボトルを指の間に引っ掛けたまま、口を付ける事もなくぶら下げる。取り出したは良いものの、体中から水分を奪っていくような眩い日光にキャップを開ける事も億劫になっていたのだ。

  そのまま掌で庇を作り、夏の輝きを容赦なく降り注がせてくる太陽から目を守りながら青空を見上げた。青く、青く澄んだ空。遠くに雨を運んでいるのだろう入道雲。

  電車と定期船を乗り継いで訪れた久方ぶりの故郷は何も変わってはいないのだと、嗅ぎ慣れた香りが教えてくる。

  吸い込んだ空気には潮騒が息づいていた。波の音、蝉時雨、かもめの声。汗で張り付くシャツをばさばさとはためかせて一時凌ぎの涼を取る。

  潮風と汗でベタついた被毛が気持ち悪い。

  「着いたら、まずはシャワー浴びて、着替えだな」

  二十四歳。

  この町を――この半島の町を離れてから七年か。と改めて実感する。

  空は快晴。風も緩やか。

  少しぐらい到着が遅れても構わなかったというのに、天候は至って良好。どうやらこの場所は、俺を歓迎してくれているらしい。

  そんな下らない空言を零すと、いささか憂鬱な気持ちになって三角耳を少し寝かせた。

  ペットボトルを鼻先に持ってくれば、その底に1センチほどだけ残る水が日光に煌めいている。躊躇いの残滓のようなそれを飲み干そうとも思えず、そのまま容器ごと近くのゴミ箱へ突っ込む。

  中身の残ったペットボトルは空になった同類達の中に紛れ込む事も出来ず、乾いた音を立ててその上に転がっていた。

  ほんの少し、違和感を感じた。記憶との相違。少し考えた後で、それが新しいゴミ箱に変わっているからだと理解する。錆びだらけだった鉄のゴミ箱は、真新しいステンレスへと変わっている。やはり、そこかしこで小さく変わっていることは多いらしい。

  まあ、それでも、ゴミ箱の場所もここから見る景色も大枠としては何も変わっていないのだけれども。

  それとも、気づかないだけで何かが大きく変わったりしたのだろうか、と記憶と相違ない景色を見回し、自問する。

  息を吸う。喉に絡まる空気は倦むような暑さを孕んで肺に落ちていく。ふと、仲の良かった年下の友人の顔を思い出していた。

  「……まあ、小学生だったアイツらが高校生ってのは、一番変わったことか」

  狼森・閑玖はそう呟いた。着替え一式と家族への土産を詰め込んだボストンバッグを肩に担ぎ直しながら、未だに記憶に染み付いている家路を辿っていく。

  喉が渇く。あの水も飲み干しておけばよかったか、と。

  吹いた風に、そう思った。

  ●

  二年と少し。

  大学から連れ添った彼女と別れた。

  特に喧嘩をしたわけじゃない。ただ、互いの距離の取り方に噛み合わなくなっていったのだ。視線を合わせる度、音もなく二人の間に軋みが走るような感覚。

  「私と君は、合わないんだと思う」

  急にそんなメッセージを寄越した彼女を部屋に招き入れた、その日。そんな言葉から始まった別れ話は、互いに疲れたような笑みを浮かべて終わりを告げた。不思議と悲しいとは思わなかった。

  窓を叩く雨、誘われるように視線を逸した時、向かいに座っていた彼女が席を立った。部屋に残る彼女の荷物をまとめるのだと。それを手伝う。

  灰色の影が部屋を包んでいる。ジュースを飲まない閑玖が冷蔵庫の中からペットボトルを取り出した。チェストの一つを占めていた着替えをバッグに詰めていく彼女にそれを差し出せば、彼女は数秒それを見つめた後に、小さくくしゃみをするように吹き出した。

  「それは置いてくよ、ゴメンだけど」

  「いや。ま、そうだよな」

  バッグを背負いながら笑う彼女。まあ気が向いたら飲んでよ、という彼女に肩を竦める。そして、そのまま彼女は玄関へと向かい「それじゃあね」と手を振った。

  「次は誰かを愛せると良いね」

  そう言ったきり、振り返らない背中を見送った後の、部屋に残る雨音が胸の奥に焦げ跡を一つ残す。

  彼女に振り返した手を下ろして、「ごめん」と口を突いて出た言葉が閉まった無機質な扉に跳ねては落ちる。

  両親を通して故郷の自治体から便りが届いたのは、それから数日後のことだった。

  ●

  ああ、と閑玖は目の前の建造物に思わずため息をこぼしそうになった。

  「そういや、これがあったか」

  そこにあるのは海を望む6部屋程度のビジネス旅館。閑玖の記憶から一番変わっているといえば、それに違いないだろう。

  元、閑玖の実家。

  そのビジネス旅館が建っているのは、元々、閑玖の家があった場所だ。

  閑玖が大学へ進学し一人暮らしを始めるや否や、両親は「もう不便な田舎暮らしはうんざりだ」とばかりにこの半島から引っ越していった。郊外にある大学近くの学生マンションに住むことになった閑玖よりも都会に住みだしたのだから、とんだ笑い話だろう。

  丁度、この半島へ戻ってきた猫谷という老夫婦が宿をしたいというので土地ごと売ったのだと、電話越しで聞いてその行動力に驚いたものだ。

  そういう事で、両親が手放した家は十八年の間の思い出の中に消え去り、今や、この町の数少ない宿泊施設へとすっかりと変貌を遂げていた。三人家族でも十分に広かった家はリフォームして小綺麗になりながらも、それでも、そこかしこに面影が残っている。知っているようで知らない風景。

  ビジネス旅館『尾荷島』――この島の名前をそのまま宿にも付けている安直なネーミングと残る面影に、なんとも言えない心地になりながら、閑玖はその引き戸を開けた。

  「すみませーん……」

  和風のエントランス。受付の右手には海に面して広いガラス窓を眺めるラウンジ。元の家だと丁度物置があった辺りだ。こうして開けてみれば良い景観だったんだなと感傷に浸りながらも、閑玖は誰もいない受付に声を掛けた。

  「はーい!」

  すると、受付の奥から女性の声が響いてくる。高い小刻みな足音が近づいてきたかと思えば、奥の暖簾から若い茶猫獣人が顔を出した。

  「狼森です、予約されてると思うんですけど」

  「はい、狼森さんですよね! ようこそいらっしゃいませ、えっと……」

  と彼女は受付の裏側で、予約確認用の端末を操作し始める。

  てっきりこの土地を買い取ったという老夫婦のどちらかが出てくるものだと思っていた閑玖は、戸惑ったままその若い受付を見つめていた。

  手入れをこまめにしているのだろう、その夏の暑さでしっとりと汗ばんだ被毛は艶めいている。顔立ちも幼く、その年頃は高校生程度だろうか。細い睫毛が瞬くのが妙に色っぽく見えた。

  「お待たせしました、こちらにご記入をお願いします!」

  と顔を上げた彼女は、スタンドに刺さったボールペンとチェックインカードを閑玖に差し出してから、背を翻し暖簾の中へと頭を突っ込んだ。

  「おじいちゃん、狼森さん来たよー!」

  「はいはい。狼森様、お待たせしてしまってすみません。ようこそいらっしゃいませ」

  呼ぶ声に応えた男性の声。それはここに来るまで閑玖が想像していたように、年齢を感じさせるもので少し安心する。その声に耳を向けて、カウンターの中に立った人影へと記入したチェックインカードを差し出した。

  そこには、サバトラの猫獣人の男性。事前に聞いていた通りの風貌に彼がこの宿の主人の猫谷だと分かった。

  「ありがとうございます、鷹代様からのご予約ですね。お代は鷹代様より頂戴しております」

  鷹代はこの半島にある神社の神主だ。自治体を通して閑玖を呼んだ張本人でもある。

  施設の利用時間などの説明を受けた後、両親は元気かなどという話を幾らか交わしてから、閑玖は最後に先ほどの受付の少女について気になって聞いてみた。

  「そういえば、あの……えっと」

  「ああ、海咲ですか。孫でしてね。高三なんですが、受験勉強の息抜きに時折ああやって手伝ってくれるんですよ」

  あの子は、と言いそうになって、もし大人だったら失礼かと言い淀む。主人はそんな閑玖に何を言いたいのかを察したようでそんな説明をしてくれた。

  受験の年。大変な時期だろうに祖父母の手伝いもしている、ということらしい。

  なるほど、それはなんとも。

  「実家から離れて、こんな田舎まで。孝行なお孫さんですね」

  「はは……」

  と伝えれば、猫谷は心底困ったような笑みを零しながら、こう言った。

  「実のところ……夏休みだからって家出してきたんですよ、アレ」

  「……」

  そんな思わぬ返答に、閑玖は閉口したまま二の句が告げなくなってしまった。

  ●

  六畳の部屋には座椅子と卓、それと一式の布団。海に面した窓際の広縁には旅館らしく椅子とテーブル、小さな冷蔵庫が置かれていた。

  閑玖はその広縁の椅子に座って、窓の外を眺めていた。

  その景色は、自分の部屋から見ていた海と同じだ。

  見覚えのない部屋から眺めるよく見知った光景というのは、却ってどこか居心地の悪さを覚えるものなんだなと、開いた窓の潮風に思う。

  「まあ、変わりようもないか」

  たかだか七年程度で海岸線の岩々が削り取られる訳もない。そんな当たり前のことに失笑を零しながら、閑玖は窓枠に肘をついた。

  暗い海が月明かりを跳ね返す。

  まるで、巨大な黒曜石が静かに息をしているような夜景色を眺めながら、閑玖はこの島に帰ってきたその理由に思いを馳せていた。

  お盆から少し外れた時期に纏まった休みを取ってまで、こうして島に戻ってきたのは、ビジネス旅館へと変わった実家をひと目見る為……などではない。

  明後日から始まる、この町に伝わる儀式。その神事の補助を務める為に、閑玖はここに帰ってきたのだ。

  この島で十七歳になった男子が受ける通過儀礼。

  時代遅れだとしか思えないそれはひっそりと、しかし、確かに現代まで続いている。

  『鳴り子の儀』

  閑玖にとってそれは、決して爽やかな心地で思い返せるものでは、なかった。

  ●

  翌朝。閑玖は海に面した緩やかな坂道を上っていた。神社への道だ。

  微かに冷えた風が毛肌を撫でていく。

  朝靄が半島を覆っていた。

  夜も熱を蟠らせたままだった島が吐く空気。海の肌で冷やされたそれが霧となり、町に傾れ込んできているのだ。灰色の毛に絡みついてくる細やかな水滴が、その靄の中を進む足を掴んで鈍らせてくる。

  吸い込む靄が徒に肺を膨らませて息苦しい。

  体が重い。

  気が重い。

  それでも、踵を返して怠惰へと招く布団に包まれ約束の時間をすっぽかそうとできる程の横着者でも、不誠実な男でもない。

  いや、ただ誠実かと問われれば、そうじゃないのだと自分では分かっていた。

  ただ逃げる理由がないだけ。一度、理由を与えられてしまえば、それに縋り付くように楽な方へと流されてしまうのだろうことは。

  分かっていた。

  靄の向こうに神社のシルエットが浮かび上がり、するはずのない匂いが鼻腔を満たしていく。甘く、痺れるような香。

  足が止まる。

  胸が痛い。

  「閑玖くん?」

  かつてその儀へと共に臨んだ男の声に、顔を上げる。だが、靄霞む道には、掠れた潮騒と船舶のエンジン音だけが横たわっていて、脳裏に浮かんだその姿はそこにはなかった。

  黒い毛並み。

  小柄な背丈。

  閑玖よりも丸い三角耳。柴犬獣人の――黒柴・大和の柔らかい眼差し。

  「……」

  閑玖はその姿が無いことに安堵した。

  彼に、どんな顔をして会えばいいのか分からない。今から白奉衆の研修に行くんです、と笑って話せばいいのか。共に鳴り子の儀に臨んだ相手に、それは気が重い。

  閑玖は無意識に詰めていた息を吐き出して、再び歩き出す。靄が風に擦れる、その些細な音がやけに耳障りに聞こえていた。

  ●

  鳴り子の儀がどういった儀式か、と端的に閑玖の感覚から言ってしまえば、十七歳になった男子が大人の男とセックスさせられる。

  そんな儀式だ。

  まるで、性欲に感けて妄想を膨らませる中学生の創作じみた儀式は――呆れ返ることに――確かに実在している。

  世間一般的な大多数と同じく恋愛対象を女性とする閑玖にとって、当然、その儀式は気が進むものではなかった。それはそうだろう。雄としてのプライドを強く持っている思春期の男子に、男に抱かれろと言った所で尻尾を悦びに振る者は少ない。それでも、強くそれを拒否できなかったのは、周囲の大人たちがその儀式を至極当然として受け入れているから。

  実の父ですら、自分の子供が別の男に掘られようとしている状況だというのに『ま、難しく考えるから気になるんだ。声変わりくらいの感覚で適当に済ませておけ』と多感な時期に理解は示しつつも、鳴り子自体に対しては否定的な姿勢は一切なかった。

  その代わり、誰々は止めてくれと近所の誰かの名前を言っていた。

  曖昧な記憶なので誰かは覚えていないが、多分あまり仲の良くない相手なのだろう。儀式について詳しくないだろう母が呆れて苦笑していたのは、はっきりと覚えている。

  その程度だ。

  この島の男にとって、それだけ普通にありふれた通過儀礼でしかない。

  むしろそれを気にしていたのは閑玖だけだったのかも知れない。島の外に遊びに行くことが多く、その時の彼女と若気のままに初体験を済ませていた、という事も大きいのかもしれない。

  まあ、そんな理由はともかく、この話で大切なのは一つだけ。

  ――閑玖はこの儀式がイヤだった。

  そういうことだ。

  ●

  「元々、この島は女人禁制を敷いていた……というのはご存知でしょうか?」

  閑玖はそんな声に回想から立ち戻る。

  場所は神社の社務所。閑玖は、初めに『鳴り子の儀』について教えられた時もここだったなと、思い出を振り払うようにして、目の前の鷹鳥人に視線を遣った。

  その神主が語るのは、鳴り子の歴史。鳴り子の儀を進行する『白奉衆』を務める為、その歴史について知ってもらいたいという神主――鷹代の頼みでもあった。

  「……いえ」

  唐突に振られた質問。それに閑玖は少し押し黙ってから首を振って返した。

  もしそうだったなら、どこかで聞いていそうな話だが初耳だ。閑玖の母親が普通に暮らしていたように、今はそんな面影は無い。本当だろうか、と少し疑心を目に浮かばせた閑玖に、鷹代はその嘴を二、三度上下に揺らすように頷いた。

  「ええ、不思議に思うかも知れませんが、この事は殆ど伝わっていません。というのも、それが守られていたのも二十年程の間だけだったそうです」

  その短い女人禁制は、とある一人の為だけに敷かれたもの。

  尾荷薬志良羽比古――オニクスリノシラハネヒコ。

  それが、この神社に祀られている御霊の名らしい。

  「それはそれは美しい白羽を纏う烏であったそうです。彼が山を歩けば、その尾羽根に貴重な薬草が絡みついてくるという伝承がありながら、しかし、彼自身が病を運ぶ荒神であったという伝承も残されています」

  「御霊……」

  そう呼ばれるのは、確か、生まれ持っての神ではなく、祟りを起こすほどの恨みを持った怨霊を鎮めたものだったか、と閑玖はどこかで聞いた雑学を思い出していた。

  「女人禁制が敷かれていたのは、彼が生存し、この島に軟禁されていた間のみでした」

  この地を治めていた烏鳥人氏族、その中に真っ白な羽毛を持った一人の烏が生まれたのだという。まるで水に晒したばかりの麻布のような、見事な白色の羽。磨かれた柘榴石のような赤い瞳。

  それはそれは美しく、まさに天の神が生まれた時から身に受ける穢れを全て祓ったかのような姿に人々は彼を敬った。神の寵愛を受けた指導者が誕生したのだと。

  だが、人々の畏敬に反し、彼は体が弱く、床に伏せがちであった。陽の光に当たれば目を焼くばかりの痛みに襲われ、少しでも埃の舞う場所にいれば忽ち深い咳を発し肺を患うような虚弱体質だったという。それでも、周りの甲斐甲斐しい介護もあり、成長の遅い彼が成人と認められる程に成長したその時。

  彼の周りで奇病が流行りだした。

  「その様子はあまり詳しく残されていません。ですが、皮膚を焼くような痛みに苛まれて、衰弱していくような病だったようですね」

  鷹代は、その病が何だったのか、病を恐れたのか情報の少ない文献からでは予想も難しいと首を振った。

  そんな病への恐怖、その中で体の弱いはずの真白い烏だけは、その病に罹患しなかった。病がちだった彼が既に抗体を得ていたのか、それともその体質故、外出もままならなかったからか。ともかく、人々が恐怖を紛らわせるために縋ったのは、病への対処法ではなく、病が起こった理由探しであった。

  そうなると、矛先はかつて期待を向けていた者へと向かう。喜びへの対価を精算しようと。

  彼に辛く当たっていた人々が率先して病に掛かった偶然もあってだろう。根も葉もなく湧いて出た噂は瞬く間に広がっていった。

  つまりは、その病を運んだのは、彼なのだと。

  「そうして、彼はこの島に隔離されました。初めの付添人以降は、病人や軽犯罪者が彼の身の回りをする為に島へと送られるようになったそうです。そして、彼の血を残さぬようにと、この島は彼が死ぬまで女人禁制を敷かれました」

  酷い話だ。

  閑玖は、話の顛末に思わず顔を顰めていた。

  アルビノに生まれただけの子を、崇めたて、挙げ句病の原因だと責を押し付け島流しにしたのだ。ただでさえ病弱な若者をこの島に閉じ込めたなら、長く生きられるはずもない。

  と、そこまで考えた時、閑玖はふと違和感に気づいた。

  「鷹代さん」

  「はい、なんでしょう?」

  「……でも、女人禁制は二十年続いたんですよね? その人は、結局それから二十年は生きてたってことですか」

  問いかける閑玖に、鷹代はゆっくりと頷いてみせた。

  「はい、それから彼は、この島で三十半ばまで生きたそうです」

  「でも、それは……」

  「病弱な彼には難しかったはず。そうですね……狼森さん、初めに語った伝承を覚えていますか?」

  「えっと……」

  まるで、講義を聞いているような心地になってきた閑玖は、鷹代が語っていた伝承を思い返す。

  病を運ぶ云々の前に、もう一つ話していた伝承。

  「山を歩けば薬草が手に入るとか、なんとか……?」

  「ええ、伝承ではそのように言われています。彼が薬草についての知識をどこかで手に入れたのか、もしくは付添人や島に送られた人々の中に薬学を知る人がいたのか」

  閑玖はそう語る鷹代が不思議に思えた。

  現実的な意見を口にしながらも、鷹代の声色は、本当に彼にその力があったのだと信じているように思えた。盲信とも違う、理知的な取捨選択の中でその結論を得たとでもいうような、彼の中にある確信がそう感じさせるのか。

  そんな閑玖の困惑を余所に、鷹代はこの神社に祀られている一人の若者の話を締め括っていく。

  「はたして、それは分かりませんが、彼は病人達の療養を行いながらこの島で残りの人生を送ったそうです」

  そして、彼の死後。島の人々が葬儀を終えて数カ月後に女人禁制も解かれ、島が開放された。そして、再び病が起きぬようにと氏族がその住まいに社を建て彼を祀ったのが、この神社の始まり。

  「……え、鳴り子については」

  「安心してください」

  鳴り子の話が入っていない。鷹代はそんな閑玖の疑問にこう答えていた。

  「鳴り子の儀が始まったのはそこから更に後。凡そ二百年後……島の男たちが子を成すことができなくなる病が蔓延し始めました」

  ●

  当時、仲良くしていた小学生の黒柴・和真。

  閑玖がその父親を鳴親に、と考えたのは、ひとえに『彼がこの島の出身じゃない』という理由だった。元々役所勤めだった大和は、結婚した相手がこの島の出身だったという事で、この島の役場へと転勤となった。

  「鳴り子? ああ、うん。尾荷神社さんで執り行う成人儀式って話だよね」

  元々忙殺気味だった大和は、むしろ喜んで転勤に応じたという話は聞いていた。そこで、閑玖が少し探りを入れてみれば、案の定、大和はこの儀式について詳しくは知らなかった。

  それはそうだろう。

  その詳細までは、誰も表立って語るものではない。ただ暗黙の了解として男たちの間で意識されている。

  だからこそ閑玖自身、神社の神主からその儀式の内容を知らされるまでは、鳴親から正しい性知識を伝える程度の儀式だろうと思っていた。

  「僕に鳴親を? よく知らないんだけど、大丈夫かな……?」

  余所からやってきた大和が、そういう神事があるんだな、という程度の認識でも驚くことはない。むしろ、閑玖にとって彼の無知は天恵に他ならなかった。

  不安そうな困った笑みを浮かべる大和に、本気で頭を下げた。

  鳴り子のことを知らない。

  奥さんと子供を作っている。

  男同士の交合の知識もなさそうな。

  そんな、普通の大人の男。

  かつて『鳴り子の儀』を経て育った、この島の男たちと交わる事はどうしても避けたかった。

  だから、彼だけだった。

  閑玖には彼以外、考えられなかった。

  ●

  病に罹れば、全身が腫れ熱を持つようになる。そして、病が治った後、男は子どもを作る能力を失ってしまったのだという。

  「その病に対して、島の人々は神社に祀られている尾荷薬志良羽比古様に助けを求めたんです」

  と鷹代は、その鳴り子の始まりを語る。

  真昼に出歩く事もできず、夜でも出歩く元気も無かった彼は、昼の間は少し曇らせた鏡に映る外の景色をよく眺めていたという。その鏡は目を殆ど失明していた晩年も大事に携え、侍従達は皆、鈴を服に括り付け生活をしていた。

  そして、その侍従達は、彼の傍に仕えている間に病に罹ることもなかったのだと。

  そういった伝えられている話を元に、尾荷薬志良羽比古と縁を結ぶ為に行った儀式がその始まりだとされている。

  「よくある血や食料を捧げるといったものではないのは、彼の白い羽を汚すからとか、あまり食に関心がなかったからとか……定かではないところですけどね」

  その儀式が、やがては成人の儀式として取り扱われるようになった。

  初めは、元服の歳に行われていたらしいが時代とともに少しずつ歳が上がり、今は十七の歳に執り行われるようになっている。

  閑玖は、その始まりを聞き、納得の念を抱きながらも、しかし懐疑的な心象を拭うことは出来なかった。

  「でも、それじゃあ、大人と……その……鳴親がいる必要はなくないですか?」

  「ああ、それはですね」

  閑玖の疑問に、鷹代は続ける。

  「子種というのは、自らの魂や体の分け身のようなもの。それを捧げるという行為で体から魂全てを抜き取られてしまわないように、その体に馴染んでいない雄の子種を注ぎ、それを防ごうとしたそうです」

  「……」

  閑玖はなんでもないように語る鷹代に、閑玖は思わず閉口したまま彼の顔を見つめることしかできなかった。

  暴論だ。尻の座りの悪さを覚えながら、足先を擦り合わせる。

  神を騙して、恩恵だけを受けようとしている。それは彼を島へと押し込めた人々と変わらないのではないだろうか。

  今、閑玖がそう感じたのだとしても、当時の人々は本心から病に怯え、その加護を信じたのだろう。

  「まあ、そういうわけで今も、成人前の男子に無病息災を祈願する儀式として『鳴り子の儀』が継承されているわけです」

  鷹代は、そう話を締めくくり、それじゃあ白奉衆の仕事について話しましょうか。と長い前置きをついに終え、本題へと入っていった。

  「と言っても、難しい事ことをするわけではないですので、気楽に構えていてください」

  ●

  その言葉通り、主な仕事は神主である鷹代が行うものだった。その補助をする閑玖の役割は、鳴り子に飲ませる薬水を杯に注ぐ。それだけだ。

  その準備が主な仕事ということで、儀式中にする事と言えばそれだけ。それ自体は何も難しいことは無く、一通り道具に触れて感覚を掴むだけでその日は解散になった。

  「はあ」

  と、突き刺すような夏の陽射しから冷房の効いた空間に逃げ延びた閑玖が、旅館の入口で安堵の息を吐いた、その時。

  「大きい溜息ですね。神事のお手伝い、お疲れ様ですか?」

  エントランスを箒で掃除していた猫獣人の娘が声を掛けてきた。主人曰くの家出少女だ。名前は、海咲と言っていたか。

  「ああ、はい」

  お疲れ様ですか? という中々聞かない問いかけに気を取られながら返事をする。それから『鳴り子』を知っているのか、と訝しむが、そもそも鷹代の予約なのだから神社の手伝いであることは伝わっているか、と思い直した。

  予想を裏付けるように海咲は、箒を運ぶ手を止め閑玖に問いかける。

  「あの、神事ってどんな事するんですか?」

  「え、……なんで?」

  だが、その質問は予想外だった。いや、話の流れとしてはむしろ自然ではあるが、まさかその話を振られるとは全く思っていなかったのだ。

  なにせ、内容が内容だ。

  そりゃあそうだろう、と閑玖は首肯した。彼も母親にそれを問われれば、何も答えようとは思えないだろう。

  瞬時に脳内で思考が駆け巡り、まさか未成年の女子に『雄同士で掘って掘られてして、精液を捧げるんだ』などと言えるはずもなく苦し紛れにそう問い返せば。

  「んー、おじいちゃんは教えてくれなかったので」

  彼女はなんてことはないようにそう言った。

  海咲は詳しく掘り下げようというわけじゃなく、話のきっかけにしただけなのだろう。それを察した閑玖は、つい身構えた緊張を解いた。

  「まあ、新成人の健康を祈って、薬を飲む……みたいな?」

  「へえ……漢方的なですか」

  「うん、そんな感じ」

  頷きながら、微妙な勘違いをしてくれたことにそっと胸を撫で下ろす。波の音と蝉時雨が耳をくすぐる。玄関外に揺れる風鈴が涼し気な音を揺らしていた。

  「お父さんも最近漢方調べてるんですよ。結構お腹の調子崩しやすかったんですけど効いてる気がするって昨日言ってました」

  「あ、お父さんとは話すんだ」

  家出している、と聞いてたからてっきり余り家族とは話さないものだと思っていた。メインの喧嘩相手は母親だろうか。

  となれば家の中で娘と妻に喧嘩されて挙げ句、娘の家出……と考えるだけで、その父親の板挟みに胃がきりきりと痛くなってきそうな状況だ。そんな閑玖の同情を露知らず、海咲は顎の下で箒を杖にして長い尻尾をゆらゆらとゆらゆらと揺らしている。

  「話しますよー、スマホあるんですから。まあ、お父さんにかけても、話すの殆どお母さんですけどね」

  「……ん?」

  その言葉に、母親とも話すのか? と閑玖は反射的に問いかけるような声色を出していた。聞けば聞くほど、家出をするような険悪さが感じられない。

  「家出、してたんじゃないの?」

  「え……?」

  「え?」

  と彼女は、そのくりくりとした目をパチクリと瞬かせた。まるで彼女自身の事だというのに寝耳に水といった反応だ。彼女は不可解げに耳をぴくぴくと動かす。

  「私、家出なんてしてないですよ?」

  「あれ、そうなの」

  と閑玖はなにか変な事を言ったかと、気まずい空気に冷や汗をかきながら苦笑いを浮かべる。そんな閑玖のように察するものがあったのか「もしかして」と呟くように口を開いていた。

  「……おじいちゃんですね? まだ喧嘩してると思ってるんだ」

  「う……、うん、そう」

  これは隠しても仕方がない。と、閑玖が正直に答えると、得心のいったように額を抑えて眉間を指圧する。少しして海咲は寄せた皺を伸ばし終わったのか顔を上げた。

  その自然体の具合に、彼女が嘘や誤魔化しをしているとは思えず、あの主人が勘違いしている――というよりそう思い込んでいるらしいと肩の力を抜いた。

  家出少女という、普段接さない類の相手に無意識に緊張していたらしいと後になって気づく。

  「ああ、じゃあ……違うんだ」

  「違いますよ、もう……びっくりした」

  海咲は、茶トラ柄の耳を照れ隠しのように撫でつけながら、一瞬何かを迷うようにロビーと閑玖の顔の間で二、三回視線を往復させた。

  それから、まあいいか、とその宝石のような目が嬉しげに笑った。

  「私、カフェを開きたいんです。だからその為に店舗経営を学びたいって言ったら……反対されちゃって」

  と困ったように笑みを浮かべる。

  聞けば、両親は堅実な道に進んでほしかったらしい。結論から言えば、海咲自身も始めから店舗の経営を考えていたわけではなく、友人と資金を集めて計画を立てていく、という話だったらしいが、両親に夢を打ち明けたときにはその辺りの話をすっ飛ばして説明した為、話が拗れてしまったとか、なんとか。

  「でも、もう話し合って、経営学んでみてからちゃんとした計画立ててみるって話になったんです。受験合格したら下宿先とバイト先と探して、まずは独り立ちです」

  と、細い腕に力こぶを作るようなポーズでおどけて見せる。

  力強く、それでいてまっすぐに見つめてくる海咲の眼差しに、閑玖は思わず圧倒される。その感情は、尊敬だったのだろうか。それとも、無謀への憧憬だったのか。

  「バイト代でやりくりして、食事も自分で作って、勉強して、っていう。予行演習的な? まあ、バイト代も絶対多いんですけどね」

  「じゃあ、……大変なんだね」

  と閑玖は言葉に困り、そんな当たり障りの無い返事を返していた。

  応援したいとは思った。だが、「がんばって、応援してる」という言葉は喉に引っかかって出てこなかったのだ。

  それを言う関係性もないだろうと。

  「はい、あ、引き止めてすみませんでした! 私、家出じゃないので心配無用ですからね!」

  と言い、フロントの裏へと消えていく海咲。

  「……」

  その背を見ながら、伝える事を躊躇った言葉が喉奥に蟠ったまま、部屋へと戻る事にした。

  ●

  あの夏は、雨の多いジメジメとした夏だった。

  地面を叩く雨粒。跳ねる土の匂い。木々がざわめく葉音。

  シャワーを頭から浴びながら、閑玖は雨音と似た音に目を瞑っていた。脳裏に浮かび上がる記憶。ざわざわと被毛が波打ち、喉が震えるような感慨。閑玖は水の滴る喉を指でなぞり、胸へと、腹へと下ろしていき、その更に下で硬い感触に触れてそれを握り込んだ。

  「……っ」

  腰から喉仏にかけて、青い痺れが走る。

  あの時もそうだ。七年前。

  何をしているんだろう。閑玖は確かにそう思っていた。

  窓の外で雨音が響いていた。

  「おまたせ、閑玖くん」

  バスルームに一人の男性が入ってくる。

  黒い毛並み。一回りは年上である彼は、閑玖よりも小柄な体躯をしていた。柴犬獣人の彼は、閑玖が先に入っているバスルームに当然のように顔を覗かせ、そのまま入ってきた。

  銭湯などではない家庭のバスルームは、男二人で入るには少し手狭に感じる。だが、当の柴犬――大和は気にした様子はない。

  「冷た、閑玖くん、水浴びてたの? 大丈夫かな……冷えてない?」

  裸の体を隠すことも無く、バスルームに入ってきた大和は足に触れる水に驚いていた。短い黒毛に包まれた雄肉が跳ねるように揺れ、露茎しきったすもものような雁首に視線が吸い込まれる。

  「あ、暑かったんで……」

  湯船の淵にシリコン製の男性器とローションを置いた大和に、その視線を気付かれないように閑玖は自らのそこに視線を落とした。先端まで皮の被ったそこは、剥いたとしても彼のように使い込まれた色はしておらず、鮮やかな色を見せている。

  子どものそれだ。水で冷やされたそこは、いつも以上に縮こまって惨めなものだ。

  「そっか、えっとじゃあ……」

  大和が、閑玖の尻尾の根本を撫でる。腰骨から毛の束を梳くように指を通す。体が強張る。シャワーで無理矢理に冷やした体が、夏の暑さに引きずられるように被毛が痺れるような感覚が腹の奥底から広がっていく。

  鳴り子の儀に臨む男子は、こうして、鳴親と『準備』に勤しむのだ。

  ぐちり、とローションが空気を含んで耳に残る粘着く音が、バスルームに反響する。

  「すんなり入るようになったね」

  「ん……っく……」

  骨ばった二本の指が、閑玖の尻の中を蠢いた。体内で温められた指の熱が返ってきて、火照る体を自覚させられる。その声は落ち着いている。閑玖が体中を暴れまわる獣欲が溢れ出してしまわないように抑え込んでいるというのに、大和はまるで気にしていないかのように、屹立した雄茎を曝け出している。

  鈴口に先走りを膨らませながら、彼はそれに触れようともしない。閑玖は己のそれに今すぐ触れて扱き上げてやりたいというのに。

  「痛くない?」

  「……っ、はい」

  その返事に、安心したように大和は深く息を吐き出すと、指を引き抜く。喪失感と、次にくるものを想像する閑玖の体が微かに震えた。

  「ひ、ぅ……」

  大和が手にしたのは、持ってきていた作り物の男性器。大和の腰に聳える肉槍に近しい大きさのディルドにローションを纏わせ、彼は閑玖のひくつく秘孔にその先端を宛てがう。冷えた潤滑剤の滑りが閑玖の喉を鳴らした。

  「この前は、途中までだったけど……今日は全部入るかな」

  「っ、ぁ……ッ、は、い……っ」

  「うん。じゃあ、力抜いて、深く呼吸して……」

  大和の雄熱を受け入れる為の馴らし。

  男であるはずの自分の体が、少しずつ、それでも確かに、彼の剛直を受け入れるために変わりつつある。

  始めは殆ど挿らず指だけだった。それが、先端の雁首までを呑み込み、次はその中程まで。そして、今日は。

  「んぅ……ぁ……っ、はぁ……ッ、く、ぅ……!」

  「……入ったよ、閑玖くん」

  その根本までを咥え切っていた。

  大和がその健闘を褒めるように、ぎちぎちにそのディルドを締めている蜜肉の縁を撫でる。それだけで、微かな振動が腸の中まで伝播して、疼く閑玖の肉壁を刺激する。もどかしい快感が脊椎を突き抜けて脳を侵していく。

  排泄の為だけの器官を押し拡げられ、侵略され、それでも閑玖の若い肉茎はその欲を滾らせていた。いや、むしろ己でそれを慰める時よりも大和に触れられているこの瞬間の方が、その幹は逞しく固く漲っている。

  「それじゃあ、暫くこのまま……」

  過ちだと分かっていた。

  体が快楽を求めているだけ。腹奥に滾る劣情の熱が焚き付ける。欲を満たせと。火花の散るようなあの瞬間が欲しいと。

  それでも、閑玖は己を止めることは出来なかった。

  教えられたのだろう手順通りに進めようとする大和の口を唇で塞ぐ。舌を差し込み、唾液を絡ませて、濡れたその体を抱きしめた。熱が互いの口の間で揺れる。

  「閑玖く……んッ……?」

  「……っ」

  驚いた声を上げる大和に己の体を押し付ける、体の間で互いの熱茎がごりごりと擦れ合う。

  大和はそれを拒まなかった。

  言葉もなく、大和と閑玖はシャワーを被毛に跳ねさせながらキスをしていた。屹立した互いの雄を重ね合わせながら、無心で互いを貪る。

  まるで己が上だと、互いに牙を剥き合うようなキス。いや、闘争のようだと、そう思っていたのは閑玖だけだったのかも知れない。

  大和の指が、散々拡張させられた閑玖の蜜肉、その円縁に触れる。それだけで雌雄は決していた。

  快感。

  紛れもなく性感帯としての機能を呼び起こされた挿入口。そこに埋められた閑玖の腹表面を焦がすような熱を発している雄欲、それと同じサイズの贋作が、確かに閑玖へと待ち侘びていた密な電流めいた快感を齎していた。

  身体を跳ねさせ、息を求めるように喘いだ閑玖の口。そこに噛みつくようにマズルを交差させた大和が、同時に閑玖の剛直を握り責め立てる。限界はすぐにやってきた。

  「あ、……ッく……イ、く……ッ!」

  大和の目が閑玖の痴態をまっすぐに見つめていた。

  冷静で、それでいて熱を滾らせる――雄の瞳。まるで射抜かれたようにその黒い瞳に竦みあがる。大和にされるがままに暴かれたい。喉が鳴る。胸が密やかに悲鳴を上げた。

  大和の、普段見せない熱が瞳に宿っている。

  その瞬間、閑玖は大和に抱かれているのだと強く実感していた。挿入される、セックスをする、というそれだけではない。

  雄に抱かれている。

  尻に沈み込む大和の指を強く締め上げた閑玖は、そのまま彼の手の中で果てた。

  天井を向いた先端を包み込む大和の手。そこに吐き出した白濁が、シャワーの水流に流されてバスルームの床に滴っていく。

  「いっぱい出たね」

  滴る手の平を見つめそう笑う大和。

  閑玖は、快楽の酩酊から覚めていく脳が後悔を思い浮かべるよりも先に、大和の腰の前にしゃがみ込み――脈打つ屹立へ舌を伸ばしていた。

  「ん、ッ……」

  先走りを舌と唾液に絡めた後、飲んではいけないからと、最後は閑玖の手淫で精を吐き出した大和が、息を整えながら閑玖の頭を撫でる。

  自らの手の中で溢れ出した、己に注がれるだろう熱を見つめる閑玖は、その手に誘われるように視線を上げる。

  そうして、彼は、いつものようにこう言うのだ。

  「えっと、……喉、乾いてない?」

  と。

  シャワーの水音があの日々を思い出させる。

  ジュースがあまり好きじゃない。そんな事を言った閑玖に大和は大抵、ペットボトルの水を奢ってくれていた。いつもはお茶やコーヒーを飲むんだ、という意味だった。なんて勘違いは言い出せないままだったな、と。

  降る水滴の音が、その記憶を思い起こさせる。

  舌に残る、あの熱茎の感触。

  あれから時が過ぎ、すっかりと大人の顔を見せるようになった雄茎を押さえ付けながら、閑玖は体に当たる水の感触に目を瞑る。

  温い水流は、茹だる体の熱を冷ましてはくれなかった。

  ●

  鳴り子の儀。その当日。

  外は霧雨が降っていた。

  閑玖は半ば呆然とその成り行きを見届ける。

  黒柴・和真。閑玖が小学生の時から知っている幼馴染であり、大和の家族。そんな大和によく似た若い雄が竜人と体を交わしていた。雄と雄が顔を隠しているとはいえ、衆人に監視されながら交合する。

  睦まじく、それでいて荒々しく。

  もはや懐かしい甘い香を感じながら、弟のようであった幼なじみが精を放つのを見る。疼く体に反して心にあったのは、そういえばいつ精通してたんだろうか。という純粋な疑問だった。

  彼とそういう話をしたことはなかったな、と。

  そして儀を終えた二人をおいて、白奉衆は部屋を出る。廊下を渡り、和真が精を吐き出した盃に御神酒を注ぎ、混ぜ合わせる。

  それを、神主が祭壇に置いた。

  山に捧げ注ぐ。始め、そう聞いていた閑玖は、山の土にでもそれを流すものだと思っていた。こうして祭壇に乗せて終わりだと聞かされた時にそれを問えば、鷹代は説明に困ったような間を空けた後、少し茶目っ気のある笑みを浮かべて「当日になれば分かりますよ」と返してきた。

  そして。

  その理由は、今、閑玖の目の前に提示されていた。

  いや、正しくそれを伝えるのならば、そこには何も無かったと言うべきだろうか。

  捧げたはずの盃は、いつの間にか空になっていた。

  始めからそこに何も注がれてなどいなかったかのように濡れていた気配もなく、盃は漆の艷やかな照りを電灯の光に返している。

  それはまるで、目に見えない誰かがその盃を飲み干したかのようだ。

  「……」

  超常的な現象。

  手足が繋がっていないような浮遊感にも似た感覚が襲う。

  だが、そんな光景を目の当たりにしながら、閑玖の心は至極冷静に凪いでいた。それは恐怖でもなく、畏怖でもなく。そんな事もあるものなんだな、という納得だった。

  その納得と一緒に、心のなかでふわふわと不安定に漂っていた何かがあるべき場所に収まったような、そんな落ち着きがある。

  「さて、今日の所は終わりだけど」

  鷹代は白奉衆の頭巾を外し、閑玖に振り返った。一仕事を終えた。そんな達成感と、煮えるような熱。それを見ても閑玖の心は動じなかった。

  「狼森さんは、この後の宴会は寄ってくかな」

  「いえ、俺は帰ります」

  「そうかい。雨降ってるけど、大丈夫かい?」

  関係者で集まって酒を呑む宴会がある。という話ではあったが、閑玖は他の白奉衆の余裕のなさそうな息遣いに遠慮を申し入れた。閑玖とて、儀に中てられてはいたが、だからこそ早く返って休んでしまいたいという思いが強かったのだ。

  同じように何人か辞退したのを聞きながら装束から着替え、一足先に神社を出た。

  「雨……まあ、いいか」

  細かな雨が降っている。絹がそよぐような軽やかな雨音が耳を叩いていく。閑玖は夏の夜には心地いい冷たい雨に身を投じていた。

  服が静かに、濡れていく。

  閑玖の黒灰の毛並みが、艶めいて夜闇に溶けていくようだった。

  涼やかな霧雨が半島を覆っている。

  濡れた体で息を吸い込めば、心地の良い冷えた空気が肺へと流れ込んでくる。昼間の暑さを拭い去っていってくれているようだ。

  雨音。アスファルトを叩き、波を起こし、葉に跳ねては風に舞う雨の音。

  暫くどことなく軽い足取りで歩き、そして宿に着いた、その時。

  「閑玖くん?」

  足を止めた。

  街灯があるとはいえ、ぼんやりと暗い夜道。海の音がする。雨と波の音に紛れるように、懐かしい声が聞こえた。

  振り向けば、そこには閑玖と同じように雨に濡れた一人の人影。

  黒い毛並み。

  小柄な背丈。

  閑玖よりも丸い三角耳。

  「久し振り。あー、えっと……」

  柔らかな眼差し。

  「喉、乾いてない?」

  黒柴・大和は栓の空いていない水のペットボトルを持って、いつかと同じ調子でそう閑玖に問い掛けていた。

  ●

  「いや、和真が鳴り子……でしょ? なんだか居ても立ってもいられずにさ」

  と、大和は閑玖の隣で困ったように笑う。

  「それで閑玖くんの時を思い出してたら、間違って水買っちゃってさ。ごめんね、貰ってもらっちゃって」

  「いえ、ありがたくいただきます」

  雨に打たれたまま、二人は道端のベンチに座っていた。受け取った水を手に閑玖は、その葛藤に頷いていた。鳴親の経験があるとは言うものの、外から来た大和には、なかなか信じがたい風習だろう。むしろ、一度、鳴親として儀式に触れたからこそ、よりその不安は大きいのかもしれない。

  思えば、鳴り子側の感覚を大和は知らない。自らに経験の無い事に、閑玖の父親が言い放ったようなアドバイスすら出来ないのだから。

  「いや、竜堂さんが悪い人だとかそういうんじゃないんだけどね」

  言い訳のように、言葉を補った大和を安心させるように言う。

  「大丈夫ですよ。和真、割りとなんでも気にしないタチでしたから。そこまで気にしてないんじゃないですかね」

  「……そ、そうかな」

  「ええ、声変わりくらいに思っておけば良いんですって」

  父の受け売りだけども。という言葉はしまっておいて、不安そうな大和をそう言い宥める。そして、ふと気がついた。少し前なら、鳴り子の事を話すことなんてしたくもなかったはずなのに、今は特になんとも思わないのだ。

  それは、大和と一緒にいるからだろうかなのか。いや、それはないだろう。何故なら、閑玖は彼に会うことも避けたがっていたのだから。

  「……閑玖くんは、怖くなかった?」

  探るような声色。

  不思議に思いながらその理由を探す閑玖に、大和はそう問い掛けてきた。

  閑玖は、その声にどう答えるかを悩んで口ごもってしまった。それが鳴り子の事だとは分かる。

  男に抱かれるのが怖いのか、と聞かれれば、怖かったとなる。

  実際、大和と何度か密接に睦み合い、あの儀式の間で繋がった、その時。怖いだけだったかと聞かれれば、それは否だ。

  勿論、恐怖はあった。だが、それ以上に閑玖の中には大和に身を委ねるという悦びも確かに存在していた。

  「怖かった、だけじゃないですよ」

  「……、ああ、えっと……はは、……気持ちよかった、みたいな?」

  閑玖は少し茶化すように言う大和に、素直に伝えるべきかを迷う。

  「嬉しかったです」

  だが、その逡巡は瞬く間に融けていた。閑玖の舌は素直に心中を語る。

  夜の海を眺める。霧雨の中に暗く浮かび上がるその広い水面は、細かに揺れているはずなのだが、それでも波一つ無いように見えている。

  「ありがとう……なのかな」

  大和が、閑玖の隣で身じろぎした。それから小さく息を吐く。

  「でもそれは、……父親としては複雑だなぁ……、嫌な感情だけじゃないってのは、わかったけど……。……和真も竜堂さんと、その、出来て嬉しかったりするのかな……」

  「さあ、それは、どうでしょうね。本人に聞かないと」

  大和は、閑玖がここにいる理由を知っている上でそんな事を聞いているのだろうことは、何となく感じ取っていた。

  答えるのは簡単だ。あの二人は、とても仲睦まじく見えた。互いに求め合い、絆を結んでいる。それを感じ取れる儀式に違いなかった。

  ただ体を交えるという表面的な行為にではなく、その深く、根底に親愛を見た気がする。

  だが、それを今ここで彼に伝える気にはなれない。

  あの時、あの場所にいたのは、誰でもない白奉衆だ。あの儀式の中での二人の関係は二人で完結させるべきものなのだろう。神に奪われぬように楔となる役目、それは確かに強固であるほど良いのだろうから。

  「まあ、そうだね……僕が心配したってどうにもならないこと、だからね」

  「……」

  膝に肘をつき、合わせた手の平でマズルを包むように、体を丸めた大和は、そう自分に言い聞かせるように呟いていた。

  息子を心配する親の姿。そう言ってしまえばそれだけだが、閑玖はその姿に何となく違和感を覚えていた。だが、大和の言動に変な所はない。その動揺におかしな所はない。ならば、違和感を感じているのは、自分自身に対してだ。

  ゆっくりと息をして、ゆったりと考える。肩の力を抜いて、目を閉じて、手の中にあるペットボトルの重みを揺らして。雨音が体に染み渡っていくようだった。

  そうだ。

  ああ。この人は、……こうも頼りない人だっただろうか。

  そう思った時、ぱっと閑玖の中で、花開くように弾けた感慨があった。

  そうか。

  閑玖は悩んでいたのだ。

  できるだけ意識しないようにしようと自分自身にも隠していた悩み。

  あの時、大和へと向けていた思いは、恋だったのか、と。

  「……あの、大丈夫ですか?」

  会話もなくなった頃、二人に話しかける第三者の声があった。

  雨の中、振り向けばそこには傘を差し、片手に二本のビニール傘を下げた海咲が立っていた。

  「あ、……猫谷さん」

  「お疲れ様です、神社のお仕事は終わったんですか?」

  「うん、えっと、ああ。傘持ってきてくれたのか。ありがとう」

  閑玖は、差し出される傘を受け取り、片方を大和へと手渡した。

  「びっくりしましたよ。普通に雨の中座ってるんですから。お客さんが風邪引いちゃったら大変じゃないですか」

  と、海咲はビジネス旅館『尾荷島』の方を見る。なるほど、エントランスからなら確かに雨の中でも見えるだろう。客が雨の中、傘も差さずに濡れていれば気になるだろう。

  閑玖は大和に簡単に彼女の事を説明した。

  「ああ、猫谷さんの……。すみません、ありがとうございます」と大和は軽く礼を言い、その傘を広げた。その表情はまだ晴れやかではないものの、少しスッキリしたものになっている。

  「じゃあ、僕は帰ろうかな」

  閑玖と話せて少し気が楽になったのなら、それは閑玖にとっても嬉しいことだった。それと海咲のいる所で話す内容ではないと思ったのだろう、大和はそのまま帰ることにしたらしい。

  「えっと、傘ありがとうございます。また明日返しに来ますね。閑玖くんもありがとう、おやすみなさい」

  「はい、おやすみなさい」

  雨の中遠ざかっていく背中を見送りながら、閑玖は不思議そうな視線を向けてくる海咲に「どうかした?」と首を傾げた。すると彼女は、呆れ顔で物を言う。

  「同級生の男子も、あの、雨が降ると飛び出していくんですけど……男の人って皆そうなんですか?」

  『そう』と示唆された言葉が、綺麗に『バカ』と聞こえるような問いかけだった。無いも同然な忖度に苦笑する。

  「……いや、雨に濡れてもいいか、ていうのと、雨に濡れたいってのは違うと思うけど」

  閑玖は、自分はどっちだったのかと思い返して、口を噤んだ。

  神社から出る時、確かに濡れても問題ないとは思っていたが、何となく雨に濡れて帰りたいと思っていたような気がする。となれば、海咲の同級生男子と閑玖は、双方とも後者側だ。

  「割りと……そうかも」

  理解できない。と言いたげな顔に苦い笑いを浮かべながら、閑玖はもう見えない背中を夜闇の中に探す。

  あの時の思いは紛れもなく、恋だった。

  そう思えた。いや、確信だった。

  ただ、自分はそれを認められずにいた。ただの過ちだったと思い込もうとしていた、のだろうと思う。それを今、認められているのは、きっと鳴り子の儀を傍らで見ることが出来たからだ。あの盃を捧げる光景を知ることが出来たからだ。

  世の中には不思議なことがあるものだ。

  もしかしたら、神様は本当にいるのかもしれない。

  もしかしたら、過去に凄い能力をもった烏がいたのかもしれない。

  ならば、別に男が好きじゃなくても、男に恋することくらいあることだろう。

  言ってしまえば、それだけの事だ。

  鳴り子が嫌だったのは、その内容が受け入れ難いものだったから。だが、そこに、己の同性への興味に対しての倦厭があったことも否めはしない。

  大和を選んだのも、そういう経験がないからこそ、それを気付かれにくいだろうという打算もあったのかもしれない。

  そうだと分かってしまえば、なんてことはなかった。

  大人への憧れ。同性への興味。それが、大和への恋心の原動力だった。だから、今こうして彼への思いは消えていたのだ。大和のせいではない。ただ、閑玖が前より少し大人になっていた、それだけだ。

  だとしても、その根本が大和への愛情ではなかったとしても、――確かにあれは恋だった。

  「ああ、そうか」

  閑玖は数日前に別れた相手を思い出す。そうだ、きっと俺は、彼女のことを愛したいとそう思っていた、と。それでも、結局男を好きになってしまうんじゃないか。その迷いが彼女との距離を縮めようとする閑玖に二の足を踏ませていた。

  そうありたいと願う事そのもの。

  紛れもなく、それも恋に違いなかったのに。

  「……馬鹿な事、したな。俺」

  「今更ですか? そんなびしょ濡れになる前に気づいてくださいよ」

  「そうじゃなくてね」

  それでも、そんな閑玖と一緒にいてくれた彼女の口から、俺は別れを告げさせたのだ。

  まったくもって、情けなくなるほどに。なんとも不誠実な男だろうか、俺は。

  そんな自分を笑えた。

  自分自身に呆れながら、海咲の前に数歩歩いて振り返った。

  「……たった今、七年越しの失恋をした所」

  「へえ……そうなん、ぇう、え……ッ!?」

  「はは、今の。いい反応だった」

  遅れて言葉の意味を理解したらしい海咲は、閑玖と大和の背の間で見事な二度見をしてみせる。その機敏な二度見の動きに思わず吹き出した後、閑玖は「帰ろうか」と困惑したままの海咲に言った。

  ●

  鳴り子の儀は、それから二日、計三人の儀式を滞りなく終えていた。

  最終日の昼間ばったりと三人に出くわして、久々の友好を深めたりという一幕はあったが、結局、閑玖が白奉衆として参加していることは言えず仕舞いだった。

  少し迷いはしたが、まだ鳴り子が残っている子の前でそれを言うのも酷だろうと黙っておいた形だ。いずれ言うタイミングがあればとも思うが、きっとその時も何かと理由をつけて言わないだろう。

  何となく、半島の男たちが暗黙の了解としている理由が理解出来た。きっとそれを語るのは、鳴親との間だけなのだ。

  「あつ……」

  そうして、白奉衆の役目を終えた閑玖が帰る日。

  空は、雲ひとつもない快晴だった。

  風は穏やかで、まるで半島が閑玖の出立に際して息災を祈っているようでもあった。本当にそうなのかもしれない。そんな空言を口ずさみ、恨みがましく空を睨む。

  「だったら、薄曇りくらいでもいいんだけど」

  「今日は、海の上暑いですよー?」

  と宿のエントランスを出た所の日陰で、日光の元に歩みだすのを躊躇っていた閑玖に見送りにきたらしい海咲が「ひえー」と熱した風に目を細めては、憐憫の目を向けてくる。

  そんな彼女の後ろを見れば、彼女の祖父が閑玖を睨みつけていた。

  どうにも、鳴り子の儀直後に愛孫と会話をしていたという事に憤慨していたようだった。その場に大和がいた事や、雨に濡れていたから心配してくれたんだという説明もして、一応やましい事は何もなかったと納得はしてくれたようだったが。

  残念ながら警戒までは解いてくれなかったらしい。

  「そろそろ行くかな」

  お祖父さんが怖いし、とは言わずに、閑玖は突き刺さるような陽の光へと歩みだす。

  「っと、そうだ。忘れてた」

  そのまま港へと向かおうとして、一つ伝えそびれていた事を思い出して、立ち止まった。

  「カフェ応援してるよ、頑張れ受験生」

  「……! はいっ、へへ。頑張ります」

  照れ臭そうに笑う海咲を見て、閑玖も笑った。そして今度こそ港へと向かうため歩き出す。

  夏の日差しは強い。

  あいも変わらず蝉時雨は絶え間なく響いている。かもめが低く飛んでいる、海は荒れなさそうだ。昨夜も小雨に洗われた空気に降り注ぐ日射は煩わしくも、清々しい心地がした。

  毛束をまとめて伝う汗を拭う。喉が渇く。

  港に行く前の通りに、自動販売機があったはずと思いながら、ボディバッグからペットボトルを取り出した。軽く振ったそれの中身は少なく、ちゃぷちゃぷと跳ねる水音は軽い。

  「そういえば自販機、レパートリー変わってんのかな」

  どうせ船の上でも飲むんだろうから、新しく何か買っておこうかと。閑玖は残るペットボトルの中身を一気に仰ぎ、飲み干す。

  茹だるような暑さ。

  潮風が肌を撫でていく。

  空は澄み渡っている。雨の気配はもう無い。

  最後の一滴が喉を潤す。

  「……ふう」

  舌の上を滑り落ちていく生ぬるい水は、少しだけ苦い味がした。