部長、それって“セクハラ”ですよ!

  「おいゴルァ!タイスケぇ!」

  ある日の終業間際のことである。

  「あだっ!」

  ドスの利いた怒鳴り声と共に、べちんと後ろから頭をはたかれて、俺は声を上げて後ろを振り向いた。

  そこに立っていたのはスーツ姿の一人の獣人。小山のような体躯の熊が、燃えるような爛々とした目つきで俺を見下ろしていた。

  「……な、なんすか部長」

  第二営業部部長、熊笹達雄(くまざさたつお)、42歳独身。

  俺の上司である。

  仕事は出来るがその分部下への当たりも強い、味方になれば心強いが敵に回すと非常に厄介な人物でもあった。

  そんな彼が褐色の被毛を逆立たせ、肩を怒らせ眉を吊り上げている。その光景を見て、正直あまりいい予感はしなかった。

  「えーと、すんません」

  よくわからないが部長が大層怒っているようなので、俺はとりあえず頭を下げてみる。

  「……なんで謝る」

  「いや部長が頭に来てらっしゃるようなので」

  俺がそう言った途端に熊獣人の太い眉がさらに角度を上げた。

  かと思った瞬間、熊の口から怒号が飛び出してきた。

  「アホかお前は!タイスケ!身に覚えも無いのに謝っとんじゃねえっ!!!」

  どわあっ、とオフィス中に響き渡るような怒鳴り声を上げて、部長は踵を返す。

  「ここじゃ迷惑になるから続きは俺の部屋だ!今日という今日はお前のふざけた態度を叩き直したるからなァっ!!」

  腹の底に響くような重低音の大声でそう言い残すと、鼻息を荒げた熊獣人はのしのしとオフィスを出ていった。

  まるで台風が過ぎ去った後のように、室内がしんと静まり返る。

  俺は深々と溜め息をつく。

  全く。もう少しで帰れるところだったというのに、面倒くさいことになったものだ。

  「……タイスケ、一体何やらかしたんだよ。っていうかさ、お前ってなんでいつも部長に目の敵にされてんだ……?」

  隣に座っている同期の狼獣人が、心配そうな顔をしてひそひそと声をかけてくる。

  取り立ててミスが多いわけでもないのに明らかに部長に怒鳴られることの多い俺を、心から案じてくれているらしい。

  いい奴である。

  俺を見つめる狼の真摯な瞳には、困惑を装うスーツ姿の丸っこい猪獣人の姿――俺のことだ――が映っていた。

  「……さあ、俺にもあの部長の考えてることはよくわかんねえだ」

  だが、俺はそう嘘をついた。

  *

  「失礼します」

  俺が部長の執務室に行くと、熊笹部長は机に両肘をついて、顔の前で組んだ両手に向けて俯くようにして座っていた。

  入室した俺に気付くと少し目線を上げてジロリと睨むような視線で射抜いて来る。そのポーズが昔のアニメに出てくる司令官に似ていて、てっきり部長は真似でもしているのかと思ったが、それを言うと火に油になりそうなので俺は黙っていた。

  「――タイスケ」

  俺を睨んだまま、部長が重々しく口を開く。「お前、今日が何の日だか分かっとるだろうな……!」

  中年熊の眉根には深い深い皺が寄っている。かなりご機嫌斜めだ。

  しかし俺は内心で首を傾げる。

  今日はまだ給料日ではないし、頼まれていた仕事の締め切りは来週だし、月末の決済にはさすがに早すぎる。勿論部長の誕生日、なんてふざけた話もない。もしそうだとしても俺にはそれを祝う気はさらさら無いが。

  「すんません、全くわかりません」

  俺は素直に謝った。

  だが果たして予想通り、部長の怒りが爆発した。

  「分からん!?分からんだと!?お前は何年社会人をやっとるんだ!呆れてモノも言えんわ!馬鹿者め!大体お前は配属された時からだなあっ!」

  少し離れて立っている俺の被毛までびりびりと震えるような大音量だった。

  (いやモノも言えんて割には、部長はさっきからだいぶ喋ってますがな)と俺は心の中でツッコんだが口にはしなかった。

  配属当初は部長のことが怖くて仕方なかったが、今では彼の怒声にもだいぶ慣れてしまった。もちろん俺だって頭ごなしに叱られて、全くいい気分はしていないが。

  ひとしきり俺を怒鳴りつけてから部長は一際高く咆哮する。

  「――今日は社員旅行の申込みの締め切り日だろうがっ!こんの馬鹿者めがぁっ!」

  その言葉に、俺の目が点になる。

  「……は?シャインリョコウ?」

  しかし俺の声が聞こえていないのか、部長の怒りはまだ収まらない。

  「何故お前はまだ希望用紙を出さんのだ!」

  「いや部長。その日は俺、予定が」

  俺は言いかけるが部長は聞く耳を持たない。

  「今回の宿はな!露天風呂付きだぞ!しかも俺の部屋には内湯もある!俺がどれだけこの旅行を楽しみにしていたと思っとる!」

  部長が楽しみにしていることと俺が行くかどうかは全く関係ないだろう、と思ったが俺は黙っていた。

  いや。正確に言えば全く関係が無いわけではないことを俺はよく知っているのだが、それを認めたくないというかなんというか……。

  熊獣人はまだ顔を真っ赤にしたまま怒鳴り散らしている。

  「温泉だぞ温泉!せっかく公的にお前の裸を見れるチャンスだ!しかも浴衣姿もだぞ!俺の権限でお前と同じ部屋にしたら、酒を飲んで裾のはだけたお前を見れると思っておったのに!」

  「え」

  部長の言葉に、俺はぽかんと呆気に取られる。

  「その後は露天でもいい!内湯でもいい!お前を泥酔させた後、深夜の湯船でイチャイチャするいい機会だろうが!いや!やはりここは内湯だな!どんなに声を出そうが誰に見咎められる心配も無いからな!」

  そこまで言うと部長はがたりと音を立て立ち上がる。

  ついでに、そのズボンの前も大きくテントを張っている。

  げえっ、と俺は思った。

  ――仕事中に何考えてんだこの熊オヤジ!

  「ああくそ!お前の身体を想像するだけでムラムラしてきおった!タイスケ!ぼさっとしとらんでそこで脱げ!全く気が利かんヤツめ!」

  そう言いながら部長はベルトをカチャカチャと外しながら俺に向かって歩いてくる。

  俺はそんな彼を無表情に見つめる。

  「……部長、とりあえず一言いいすか」

  俺の言葉に、まだ怒りが冷めないのかそれとも自分の妄想に興奮しているのか、熊獣人は鼻息を荒げながら唾を飛ばす勢いで怒鳴り返してくる。

  「なんだタイスケ!?当日のプレイの希望でもあるのかっ!?」

  目を血走らせて迫ってくる熊獣人に、俺はあっさりと言い放つ。

  「――てめえ、マジで一回くたばりやがれ」

  [chapter:部長、それって“セクハラ”ですよ!]

  1

  セクハラ発言のオンパレードとはいえ、熊笹部長は一応俺の上司である。何故に俺が彼に暴言を吐くことになったか、その経緯を語っておくべきだろうか。

  俺と彼の出会いは、俺の記憶では今年の春に現在の部署に配属された時だ。

  が、熊笹部長に言わせると、彼の方は俺が入社した時から俺のことを知っていたというから驚きである。

  「――井乃地泰輔(いのじたいすけ)、24歳の猪獣人か。俺はな、部下を下の名前で呼ぶようにしているのでお前もそうさせてもらうぞ。タイスケは、何かスポーツでもやっとったのか」

  この部署への配属初日の朝のこと。

  出社早々、新しい上司である熊笹部長の部屋に呼び出された俺は、いきなり『仕事は出来るが部下には大層厳しい』という評判の熊獣人と二人きりで話すことになって相当緊張していた。

  そうでなくても、少々肥満気味の猪獣人である俺はただでさえ汗っかきである。

  握りしめた掌はじんわりと汗ばみ、着ているワイシャツの背中が冷や汗で湿っている。早まる鼓動を感じつつ俺は答えた。

  「はあ。学生時代には柔道を少々」

  言葉だけ見れば落ち着いて答えているようだが、俺の胸の内では心臓がバクバクとしていた。元来小心者の俺であるが、曲がりなりにも格闘技をやっていたせいか相手に舐められないようにポーカーフェイスを作るのは得意だった。臆したことを表に出すのは、相手に隙を見せることに他ならないからだ。

  「なるほど、いい身体をしているわけだ。鍛えた筋肉の上にうっすらと肉がついている。タイスケ、お前の履歴書と写真を見て、なんとも俺好みのヤツが入って来てくれたと思ってな……」

  熊はうんうんと満足げに頷きながらそんなことを言った。

  緊張で頭が上手く回っていなかった俺は、その部長の言葉を完全に聞き逃した。

  (んあ?今なんつったんだこの熊オヤジ?)

  俺は思わず怪訝な顔をする。

  「――だもんで、人事部を脅してその日のうちにお前の住所と連絡先を手に入れた。ぐふふ、残念ながらまだ一度も使っていないがな。今回の異動も俺の鶴の一声だ。……言っておくがなタイスケ、俺はお前の外見がいいと言っているだけであって、お前の人間性に惚れとる訳ではない!勘違いするなよ!」

  勘違いも何も。

  いきなりそんなことを言われた俺は唖然としてしまった。ぽかん、と大口を開けて目の前の熊を見返すしかなかった。

  が、外見がいい、だと……?

  言うまでも無いだろうが、部長は男だし俺も男である。

  しかも俺は厳つい猪獣人。兎だとか猫のような種族なら女性と間違えられるような可愛らしい男もいるかもしれないが、俺はどう贔屓目に見たってそんなことは言えない強面の顔つきとずんぐりむっくりとした体格である。

  部長にも言ったように、俺は昔から柔道なんかやってたもんだから学生時代はそれなりに筋肉も付いていたのだが、社会人になって運動習慣が無くなってからは腹周りの肉は増えていく一方だった。

  おかげでますます可愛い、などという概念からは程遠くなってしまっている。美男子、ともまるで言えない面構えなのはよく知っているし。

  そんな俺を捕まえて外見がいい、などとのたまう目の前の熊獣人は、春の陽気で頭が沸いてしまったのかと本気で思った。

  だが、俺の顔をじろりと睨んでいる熊獣人の表情は真剣そのもの。次期プロジェクトに向けたプレゼンの粗さがしをする役員たちのような目つきをしていて、俺はかなり怯んでしまった。

  「え、えーっと……。つまり部長は、お、男が好きなのですか」

  俺は目を白黒させながら、言葉を探してそう尋ねるのが精一杯だった。

  

  一応断っておくが俺が好きなのは勿論女性である。可愛らしくておしとやかで小柄な人がタイプだ。料理が上手くて家庭的であればなおいい。取れたワイシャツのボタンを恋人に付けてもらうのが俺のささやかな夢だったりする。

  当然、中年男性などアウトオブ眼中だ。

  ……ん?今まで俺に恋人はいたことがあるのかって?

  ほっとけ!

  こんな丸っこいなりで女性にモテたら苦労は無いのである。

  しかし、今一番の問題は目の前の部長だ。

  俺の恐る恐るの質問に、部長は顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。

  「誰が好きだと言った!単にお前の見た目がいいと言ったにすぎんだろうが!この馬鹿者め!」

  

  ……何が何だかわからない。

  とりあえず怒らせてしまったことは確かなようだ。

  「はあ、すんません」

  頭ごなしにバカ呼ばわりされてムッとしたが、俺はそれをおくびにも出さずにぺこりと頭を下げる。

  「ふん、分かればいいのだ分かれば」

  部長はそう言うとこちらに向き直り、急に表情を変えた。熊笹部長は、目尻を下げ口の端をにんまりと吊り上げたのである。

  どうも彼なりに微笑んでいるつもりらしいが、部長みたいな中年熊がそんな顔をしても口元から牙が覗いて凶悪な獣にしか見えない。「……ところでだなタイスケ、今夜は時間があるかァ?ん?」

  突然猫撫で声を出した部長の質問に、瞬時に俺の毛並みが逆立つ。俺は既に、本能的に部長のことを警戒していた。

  「え、な、な、なんでですか?」

  俺のどもりながらの質問に部長は鼻を鳴らす。

  「ふん、愚問だなタイスケ。上司に今夜時間があるか、と聞かれたら飲みの誘いに決まっておろうが!馬鹿めが!慣れない新人のお前と二人きり、無礼講で話してやろうと言う俺の気遣いだ。有り難く来るがいい。……その後は、きちんとホテルの最上階を予約済みだぞ、ぐははは!」

  熊笹部長はご機嫌で笑っているが、対する俺は再び呆気にとられる。

  というか、こんな話をされた後でノコノコと部長について行ったら、何をされるか分かったもんじゃない。

  大体、なんでホテルの部屋なんか予約してやがるんだこのエロ熊!

  「安心しろタイスケ。何もお前を取って食おうというつもりはゼーンゼン無いからなァ……」

  そう言って俺を舐め回す様に眺める部長の目線は、どう見ても好色じみたオッサンのそれである。目は口ほどにモノを言うとは正にことのこと。

  俺はぶるりと身震いした。

  まさかもまさか。自分がそんな目で見られる日が来ようとは夢にも思わなかった。

  

  返事は一つしかない。

  「すんません部長!今日はうちで飼ってる熱帯魚が急病で危篤なもんで!」

  逃げの一手である。俺は声を張り上げるやいなや、頭を下げて速攻で執務室を後にする。

  当然、俺は熱帯魚なんて飼っていないのであるが。

  「……ん?あ、ゴルァ!!タイスケ!!ちょっと待たん」

  背後から熊笹部長の怒声が追いかけてきたが、俺は聞こえないふりをして早歩きで扉を通るとバタンと音を立てて閉じてやった。

  その内側ではどったんばったん、みたいな何かが倒れるような音が響いてきた。おそらく俺を慌てて追いかけようとした部長がすっ転んだに違いない。

  しかしそれでも部屋の中からはくぐもった喚き声が近づいてきた。まだ部長は諦めていないらしい。

  怖くなった俺は急いでその場を離れ、後ろも振り返らず一目散にオフィスに戻ったのであった。

  だがそれからというもの、熊笹部長による俺へのセクハラの日々が始まってしまったのだ――

  [newpage]

  2

  「……あの、クマザサ部長」

  俺が新しい部署に配属されて数日後のことだ。

  書類への捺印を貰いに部長の部屋まで赴いた俺であったが、モニターに向かいパソコンでなにか作業していたらしい熊は、入室した俺のことをじろりと見返してきた。

  その額にはでっかく絆創膏が貼られている。どうも先日転んだ時デスクの角にぶつけてしまったらしい。

  オフィス内では、部長と俺の間に何かひと悶着があったようだと噂になってしまっていた。

  俺は否定も肯定もせず曖昧に流したが。そもそもあれは部長の自業自得もいいところである。

  だが部長は、配属初日から自分の誘いを袖にした俺に対して怒っている様子だった。

  「……なんだ、タイスケ。俺は忙しいんだが」

  部長の憮然とした顔つきと不機嫌そうな声がそれを物語っている。俺と部長が二人きりになるのは、配属初日以来のことであった。

  だが俺だって仕事の用事でここに来たのである。そんなふてくされた子供みたいな真似をされても困る。

  「あの。ここに、部長のハンコがほしいんですが」

  俺が書類の束を前に出しながらそう言うと

  「俺の、ハンコ。……だと?」

  部長は重々しくそう言い、片眉をぴくりと持ち上げる。

  かと思うと、がたん、と音を立てて部長は椅子から立ち上がった。

  俺は思わず後ずさる。

  立ち上がった熊の出で立ちに、ただならぬ迫力を感じたからだ。数日前の部長の『俺のことが好み』発言もある。

  怖くないわけがない。

  だが、部長はそんな俺に向けて呆れたような顔を向けると、

  「……なに怯えとるんだお前は。いいからこっちに来いやタイスケ。そいつを見せてみろ」

  そう言って俺を手招きする。熊の表情は真剣なものに変わっていた。

  (ありゃ。部長ってば案外怒ってねえんかや……?)

  俺はそう早合点して部長の机に近寄ると、その上に持ってきた書類の束を置いてぺらぺらとめくった。

  俺の後ろに立った部長が、俺の手元を覗き込んで来る。

  普通に仕事をしてくれそうな部長の様子に、ホッとしながら俺は説明を始めた。

  「えーとですね、これ来月の企画書なんですが、こことここに部長のハンコが欲しいんですが……、――んぐぁっ!?」

  話の途中で俺は思わず妙な声を上げてしまった。

  というのも、自分の股間をいきなり後ろから鷲掴みにされたからである。んなことをされたら誰だって悲鳴を上げるに決まっている。

  下を見ると、俺の股の間から、部長のごつい手が伸びていた。

  「……ぐふふ、油断したなぁタイスケ。たった独りで俺の部屋に来るとはなァ」

  俺の耳元で部長が嬉しそうに囁く。舌なめずりをしそうな様子である。

  はっとした。

  

  ――こ、この熊野郎、さっきの真面目そうな態度は俺を油断させるための演技だっただな!

  

  俺が頭の中で怒りを吼えると同時に、部長の手が俺のモノをにぎにぎと揉みほぐすように蠢いたので、俺は嫌悪感に身体を震わせた。

  「……っ!」

  「ぐふふふ、タイスケ、お前なかなか立派なモノを持っとるようだな。全く、この淫乱猪めが……」

  部長は嬉しそうに舌なめずりをする。

  ぞぞぞ、と俺の全身の総毛立つ。

  「ちょ、マジ、や……っ!」

  俺は声を上げて抵抗しようとするが、部長の手つきが妙に艶めかしくて声が詰まってしまった。

  「タイスケ、今日はどこに俺の自慢のぶっとい“ハンコ”が欲しいんだ?ええ?ここか?ここに入れてほしいのかぁ?」

  そう言って部長の手が俺の尻をつつ、と撫で回した。

  初めてされる経験に、俺の頭がフットーしそうになる。

  ――な、何がぶっといハンコだこのボケくそエロ熊が!

  かと思うと、部長が自分の下半身を俺の腰へとすりつけるようして動かしてきた。

  俺の尻に、布越しに硬い棒状のモノが触れる。

  それが一体何なのか、考えるまでも無い。

  それはスラックスの中で屹立した部長の『雄』の部分に間違いなく。

  俺の頭は混乱と恐怖と怒りで真っ赤に染まった。

  反射的に俺の身体は動いていた。

  右手で背後に立つ部長のネクタイを掴むと同時に、俺はその場で一気に沈み込んで部長を背中で担ぎ上げた。

  「こんのセクハラ熊があああァっ!!!!!!」

  「ちょっ!待て――!」

  後ろで部長が俺を制止しようとする声が聞こえたが、俺は止まらなかった。止める気も無かった。

  得意の背負い投げの要領で、渾身の力で部長を投げ飛ばしてしまった。

  熊笹部長の身体は宙を舞い、どがしゃあん、と派手な音と共に落下した。

  「ぐああああああああっ!!!!」

  背中からデスクに叩きつけられた部長は悲鳴を上げてのたうち回っていたが、俺はもう知らなかった。

  机の引き出しを漁って“熊笹”と書かれた印を見つけ、手早く必要な箇所に押すと、俺は後ろも振り向かず逃げるようにして執務室を後にした。

  ――も、もうだめだでこりゃ。今日中にクビにされるに決まっただな、俺――

  と頭の隅で、絶望しながら。

  しかし。

  俺は自分の机に戻りビクビクしながら仕事を続けたが、その日の終業時間になっても部長からは何の音沙汰も無かった。仕事を終えた俺は恐る恐る様子を見に行ったが、いつの間にか執務室も空っぽになっており、俺もとぼとぼと退社するしかなかった。

  暗い気持ちで帰ったアパートでは、仕方なくビールを片手に転職情報誌を眺めながら時間を潰した。

  田舎の母ちゃんになんて言ったらいいかやぁ……母ちゃん泣くかもしれんだな……などと考えながら。

  

  

  そしてロクに眠れずに迎えた翌朝。

  部長の部屋に呼び出されて行ってみると。

  「……来よったな、タイスケ」

  いつもの灰色のスーツにネックカラーを巻いた熊が、腕組みをして仁王立ちで俺を待っていた。ネックカラーとは、頸椎を痛めた時などに首に巻くぶっとい首輪みたいなやつである。どうやら部長は俺に投げられた時に首を痛めてしまったらしい。右目の上も少し腫れている

  そんな熊笹部長の痛々しい姿に、俺の背中を冷や汗が伝う。

  ――しょ、傷害事件だろうか、これは。

  会社を辞めさせられるくらいで済めばまだいい方かもしれない。下手をすれば裁判で訴えられてしまうのかも。

  そうなれば俺の社会的信用というヤツは地に堕ちる。上司に暴力を振るって会社を辞めさせられたなどという話が広がれば、次の就職先を探すのだって困難になるに違いない。

  ここはひたすら謝るしかないと思った。

  「あ、あの、その、――き、昨日はすいませんでした……」

  俺は深々と頭を下げる。

  だが部長は何も言わない。

  しん、と沈黙が部屋を満たした。

  床しか見えてない俺に、熊がゆっくりと歩いて近寄ってくるのが分かった。

  俺は怯える。

  たとえセクハラをされたとはいえ、暴力を振るってしまったのは良くなかった。どう言い訳をしようとも先に手を出したのは俺だ。どう考えても俺の方が悪いことにされてしまう。

  だがそんな風にビクビクとしている俺の背中に、ぽん、と部長の手が置かれた。

  俺はその感触に身を竦めるが、

  「……タイスケ。昨日のことは反省しとるか、ん?」

  それは老練の教師のように落ち着いた、穏やかな声だった。

  予想もしていなかった部長のその優しげな声音に、俺は思わず素直に返事をした。

  「は……はいっ」

  俺の真摯な応えに満足したのか、部長が小さく笑ったような気がした。

  「全く仕方のない奴め。お前がそんなに反省しているなら、俺だって昨日のことを大ごとにする気は無いぞ?……まあ俺にも悪いところはあったからな。少々お前との関係を焦り過ぎていたのかもしれん」

  部長のなんだか殊勝な言葉に、俺は思わず顔を上げてその顔を見た。

  

  ――まさか、このセクハラくそ熊部長がこんなセリフを吐くとは!

  ――少しは俺の気持ちを分かってくれたのか!

  だがしかしおい、と俺は考え直す。

  俺との関係を焦りすぎてたってのはなんだ。

  俺と部長は只の部下と上司である。部長の方は知らんが、俺は最初っからそれ以上の関係を望んではいない。願い下げである。正直、そこんとこははっきりさせておきたい。

  だが俺が何か言う前に、部長はうんうんと頷きながら俺を真正面から見つめた。

  「だからだなあ、タイスケ」

  俺の肩に部長が再び両手を置く。

  大柄な熊が、俺の顔を正面から見つめてニヤリと笑う。

  「――今夜俺んちに来るなら、昨日のことは無かったことにしてやるぞ?なァ?気持ちイイこと、沢山教えたるからな?んん?どうだ?」

  部長の下心丸出しの言葉に、俺の身体は反射的に動いていた。

  熊の身体の下に潜り込むようにして部長の脚の間に右腕を入れると、下半身の力で一気に自分の肩の上に担いだ。

  「ちょ、待て!タイスケ!何を照れとる!大丈夫だ!決して痛くはせんぞ!」

  高々と持ち上げられた熊は、俺の身体に掴まって必死に喚くが、

  「そうじゃねええええええこのボケ熊あああああっ!!」

  肩車の要領で、俺は全力で熊の身体を床の上に叩きつけてやった。

  「ぐがああああああああ!」

  

  背中から落ちた部長は断末魔の悲鳴を上げ、ぱたりとその四肢から力が抜けた。

  ぴくぴくと痙攣しつつ、床でノびてしまった中年熊を見下ろしながら俺は思った。

  ――ダメだコイツ……!早く何とかしないと……!

  [newpage]

  3

  だが、俺に部長をどうにかできる権限は無いわけで。

  かといって柔道技で実力行使をしても、部長は全く懲りないのである。

  肩車を食らわせてやった次の日はさすがに全身打撲で一日休んだが、その翌日にはいつも通りに会社にやって来てしまった。部長は少しもへこたれないのである。

  そして、事あるごとに俺へアプローチを仕掛けてくるのだ。

  *

  

  例えば。

  狭い廊下で熊笹部長と出くわしてしまった時。そんなこと社内では日常茶飯事である。

  そんな時、俺はなんでもないような顔を取り繕って、普通に会釈をして通り過ぎようとするのだが、

  「あでっ」

  腹に鈍い痛みを覚えて俺の足が止まる。

  横を通ろうとした俺の腹の肉を、部長がワイシャツの上から鷲掴みにしていた。

  「ちょっ、や、やめてくださいよ部長……!」

  俺は小さな声でそう抵抗するのが精一杯。

  だが俺の迷惑そうな声も何のその、熊笹部長はそのまま体重をこちらに預けてくるものだから、押された俺の背中が壁に押し付けられてしまう。

  部長の顔が近い。

  壁ドンみたいな状況になっている。

  こんなところ誰かに見られたら、と考えるだけで俺は顔から火が出そうな気がした。

  ま、まるで恋人同士みたいじゃねえか。勘弁してくれ。

  「ぐふふ。思った通り、素敵な揉み心地だなタイスケ」

  部長は俺の腹肉をぐにぐにと揉みつつニヤニヤ笑いながらそんなことをのたまう。それから俺の耳元に口を近づけ、「……今夜はどうだ、空いてるかタイスケ?」

  などと低い声でほざくものだから、俺の背中をぞわぞわと悪寒が駆け抜けた。

  俺は咄嗟に部長の手を振り払い、素早く距離を取り、

  「いえ!今日は!友人と!飲みに行くもんで!」

  と顔を真っ赤にしながら言い訳してダッシュで逃げた。

  

  *

  『合同新人研修』の名目で休日に呼び出されたかと思えば、部長と俺の二人きりだったこともある。

  休日なので私服姿でやって来たのだが、独りぽつんと会社の会議室で待っていても他の若手は誰一人来なかった。

  (おっかしいな、集合場所間違えただか……?)

  などと思いながら腕時計を見ていると、部屋の前方のドアが開いた。

  「待たせたな、タイスケ」

  と部屋に入って来たのは熊笹部長であった。その時点で俺は不穏なものを感じる。

  しかも入室の際、部長がさりげなくドアの鍵をガチャリと閉めたことを俺は見逃さない。なんと、あれはこちら側に鍵穴があるタイプの扉である。俺には開けられないわけで。

  いやーな予感がした。俺は椅子から立ち上がる。

  なんで新人研修で鍵を閉める必要があるんだ……?

  「えっと。あ、あれ?もしかして、今日は俺一人ですか部長」

  平静を装いつつ口に出した、答えの分かりきった俺の質問に部長は大きく頷く。

  「その通り、俺とのマンツーマンの個人研修だ。ぐははは、嬉しいだろうがタイスケ!」

  熊は自信たっぷりに笑うが、俺の顔は引きつる。

  いやいや身の危険しか感じられませんが。

  俺は座っていた椅子から立ち上がると素早く視線を巡らす。熊笹部長が入って来た入り口は部長の背後。しかも鍵が無いと開けられない。

  もう一つの出入り口は、俺と部長からはちょうど同じくらいの距離、ちょうど二人からは正三角形になるような位置である。あっちのドアはサムターンがこちら側についているので、摘みを捻れば俺でもすぐに開けられるはずだ。

  「ぐふふ……。タイスケ、お前はスーツ姿もいいが私服姿もそそるものがあるぞ。その少しピッタリとしたポロシャツもお前の丸い腹を強調していて、実に、実にけしからんなァ……」

  熊笹部長は気が狂ったことを呟きながら俺にじりじりと近寄り始める。涎でも垂らしそうなほどにニヤニヤとしまりの無い顔をしながら。

  一方の俺は気にしている腹のことを言われて内心赤面しつつ、自分の置かれた状況のまずさに総毛立つ。

  ――やばい。

  休日なので社内にはほとんど人がいない。今までの部長は他の社員の目がある場所では俺に手を出すようなことはしてこなかったので逃げ切れていたが、今日は違う。

  きっとこの状況を狙って部長は俺を呼び出したに違いなかった。

  俺は一計を案じる。

  「ぶ、部長、今日の研修って一体何をやるんですか……?」

  俺は顔を引き攣らせつつも、懸命に笑顔を作って真面目に聞いてみる。

  その俺の素直さに、ついに俺が観念したと思ったのか部長はマズルの端を吊り上げるようにして笑う。

  「そうさなァ……タイスケ、まずは上司へのマナー講座から行くか」

  「ま、マナー講座?」

  それなら入社時にもやったはずだが。俺は椅子からゆっくりと立ち上がる。

  「言っとくがな、入社時にやらされる一般的なモノとは全く違うぞ。言うなれば、この“俺専用”とでも呼ぶべきか、ん?」

  部長の語尾が嬉しそうに上がる。熊笹部長は、俺を舐め回すような目線で眺めつつじりじりと歩み寄って来る。

  「部長専用の、マナー、ですか……?」

  俺は部長から目を切らないようにしつつ、先程まで座っていた椅子を机に収め、自分の邪魔にならないようにした。

  「ぐふふ、その通りだ。例えばだなタイスケ、夕刻に俺がお前を突然執務室に呼び出したとしよう」

  「はあ」

  俺は返事をしつつ、一瞬だけ下に目線を向けて自分の靴紐を確認する。

  大丈夫だ、緩んだりはしていない。動きやすい靴を履いてきてよかった。

  だがその俺の動作で、何を勘違いしたのか部長は本当に舌なめずりを始め、嬉しそうにこう言った。

  「……勘がいいなタイスケ。そんなに物欲しそうに見よって」

  部長の言葉に俺の目が点になる。

  「はい?」

  モノホシソウってどういうことだ。

  「お前、今一瞬俺の下半身を気にしただろうが。俺には分かるぞ、お前がチラチラと物欲しそうに俺の自慢の“コイツ”を見ていることがなっ……!全く、いやしんぼなスケベ猪めが」

  そう言いつつ、下卑た表情のまま部長は自分の股間をさする。それに反応したかのように、部長の股間が鎌首をもたげていくのが服の上からでも分かった。

  俺は呆れる。

  靴の確認のためにちらりと下を見た俺の行動を何やら勘違いしているらしい。

  ――どういう思考回路してやがんだこのエロ熊!見るわけねえずら!

  

  呆れつつ俺は頭の中で吼えるが、部長はお構いなしである。

  「話を戻すぞタイスケ。――夕方に突然俺の部屋に呼ばれたお前。そしてお前を手招きする俺っ。椅子に座ったままの俺は両脚を開くっ。そして、その時お前が取るべきマナーはだな――っ!」

  言いつのりながら熊笹部長はベルトをカチャカチャと外し始める。その行為に興奮したのか、部長はギラギラと目を輝かせながら大声を上げる。

  「つまりはだなタイスケぇ!お前はその可愛いお口でッ!!俺のセガレをしゃぶ」

  それ以上言わせるかこのアホ熊!!

  俺は唐突に、部長に負けじと大声を上げた。

  「あ!!しゃ、社長!!!お疲れ様です!」

  もちろん口から出まかせである。俺はそのまま部長の背後に向かってその場で最敬礼をとった。

  「な、なぬっ!?」

  鍵のかかった部屋なので俺と部長以外に誰かがやって来るはずもないのだが、そこは俺の迫真の演技のなせる技、さすがの部長も焦って一瞬後ろを振り返った。

  ここしかなかった。

  その隙に俺は弾かれたように走り出し、全力でもう一つの扉を目指した。

  「……おいタイスケ、社長なんぞどこにもおらんぞ――あ!?ゴルァ!タイスケ!!俺を騙しよったな!!!」

  謀られたことに気付いた部長が怒鳴り始めたが後の祭り。俺は既に鍵を外してドアを開けていた。

  部長はこちらに向かって駆けてくるが、ベルトを外したせいでズボンが太腿のあたりまで落ちてしまいドタドタと上手く走れていない。おまけに、トランクスが丸見えである。部長ご自慢のブツが中から突き上げているのもよくわかった。

  俺はその光景にげんなりしながら部屋から出ると、わざと一旦大きくドアを開く。そして、部長が到達するタイミングを狙って渾身の力でドアを蹴り飛ばしてやった。

  「ぐごッ!?」

  勢いよく閉じたドアに、どごおんっ、と何かが激突する音と共に部長の短い悲鳴が聞こえた。

  うまく部長の鼻面に命中したらしい。俺は小さくガッツポーズをとる。

  ずるずる、と部屋の中で部長が崩れ落ちていくのが分かった。

  はあ、と俺は大きくため息をつき、

  「完全に時間の無駄をしただに……」

  貴重な休日をドブに捨ててしまったことを嘆きつつ、さっさとその場を後にした。

  「……お、覚えておけよタイスケ……俺は、お前を、決してあきらめんぞ……!」

  

  ドアの向こうから聞こえてきた声は、当然のごとくシカトした。

  *

  またある時は飲み会で。

  その日は和食が有名な店で、畳敷きの座敷で職場の皆と飲んでいた。

  俺はなるべく部長の座る席の傍には寄らない様にして、なんとか乗り切っていたのだが。

  「おいタイスケぇ!お前こっち来て俺に酌をしろお!」

  などと、顔を真っ赤にして既に出来上がっている様子の熊笹部長に言われてしまうと、他のメンバーの手前さすがに無視をするわけにもいかない。そこは社会人の哀しい性である。

  幸い『新人研修』の時とは違って、部署の飲み会の席なので部長と俺以外にも多くの目がある。

  これならばあまりにあからさまなことは仕掛けてこないだろうと考え、渋々行った。

  「……オツカレ様デス、クマザサ部長」

  俺は明らかにいやーな顔をして棒読みで言ってやったのだが、

  「うむ」

  対する部長はご満悦のようで偉そうにふんぞり返っている。空気を読めやくそオヤジめ。「まあそう気を遣わんと、ここんとこに座れやタイスケ。無礼講だ無礼講!」

  部長が自分の隣の座布団を指差すので、俺はそこへと嫌々腰を下ろす。一応、こんなセクハラ野郎でも上司は上司なので正座することにした。

  「どうだ、タイスケ。慣れたかここの仕事は」

  俺が(このアホ熊に毒でも盛ってやりてぇだな……)などと考えながら手にした熱燗を部長の御猪口に注いでいると、そんな当たり前の、普通の上司のようなことを聞いてくるので俺は少々拍子抜けした。

  「ええ、まあ」

  俺が曖昧に応えると、お礼とばかりに部長は俺のグラスにビールを注いできた。そして御猪口を少し高く持って俺の前に差し出すので、俺はグラスを軽く当ててビールを飲み干した。

  「まあ慣れない仕事だと大変なこともあるだろうがな、若い頃の苦労は大きな財産だ。今のうちに沢山失敗するがいい。責任は俺が持つからな!ぐははは!」

  ――うーむ。なんか、普通だぞ今日の部長は。むしろいいヤツみたいじゃねえか。

  二杯目、三杯目と注がれ、部長と当たり障りのない会話を交わしながら俺は考える。

  あまりに部長が普通に振る舞っているので俺は違和感を覚えるが、さすがにこういう場ではセクハラめいた真似は出来ないということか。

  だが部長に次々と酒を注がれてしまうため、その度に飲んでいると次第に俺の方も酔いが回ってきてしまった。かっかと頬が火照っている。

  まずい。

  ふらふらしてきた頭で俺は考える。こんな状態では部長のセクハラを躱せない気がする。逃げるにも足元が覚束ないかもしれない。

  その時。

  俺の様子を見ていた部長が、牙を見せつけるようにしてニヤリと笑ったように見えた。その邪悪な笑みに、果たして俺にはまたまた悪い予感しかしない。

  部長は、皿に残ったエビフライをそそくさと口に一本咥えると、その尻尾の方を俺に突き出してきた。

  何故かそうして俺の方を見つめてくる。

  「……?」

  中年熊の謎の行動に俺が訝しげな顔をしていると、部長はエビフライを素手で持って口から離し、

  「何だお前は。タイスケ、ポッキーゲームも知らんのか」

  と不機嫌そうに言い放つ。

  「え、なんすかそれ」

  本当になんなのか俺には分からなかった。

  部長はニヤニヤと笑う。

  「ぐふふ。知らんのかお前は。全く初心な奴め……。これはな、巷で大流行のゲームだぞ……!」

  「ええ?マジっすか」

  本当だろうかと俺は思ったが、近くで飲んでいた狼の同僚が面白そうな顔をしてこちらを見ていた。

  「クマザサ部長、野郎とポッキーゲームなんかでいいんすかあ?」

  狼もしたたかに酔っているらしく、真っ赤な目をしてそんなことを口走る。

  「ぐはは、本当なら若いねーちゃんとやりたいところだがな、コイツで我慢したるわ」

  そう言って部長はエビフライを咥えると再び俺に向き直る。

  「えーっと……」

  だが、ゲームと言われても俺にはルールがよく分からない。何をすればいいのだ。

  「イノジ、お前はそのエビフライの尻尾を咥えんだよ。そんでな、部長と互いに食べ進んでって、先に口を離したほうが負けってことだ。簡単だろ?」

  狼が教えてくれる。狼は単に面白がっているだけのようだが、俺はカチリと固まった。

  ちょっと待て。もしやそれって部長と物凄く顔を近づけることにならないだろうか。しかも正面から。

  どう考えても危険だ。っていうか絶対やりたくねえ。

  「何しとるタイスケ!はよやらんかい!」

  部長が焦れたように吼える。

  狼が俺の背中に寄ってきて小声で言う。

  「ほらイノジ。部長が楽しんでくれてんだからさ、それくらいやれって」

  狼の言うのは至極真っ当な意見。

  俺は若手の社員、それもこの春から異動して来た新参者なのだから、それくらいの泥をかぶるべきなのだろう。むしろ上司が自分にふざけて絡んでくれていることを歓迎するべきなのかもしれない。

  ……が、それは普通の上司相手ならば、である。

  この熊は明らかに俺を狙っている。

  自分でもあんまり言いたくないが、おそらく、せ、せ、性的な意味合いで!

  このポッキーゲームとやら、部長は絶対何か企んでいるに決まっている――あ、部長の野郎、すげえ悪どい笑み浮かべてこっち見てるし。

  うぐぐ。一発殴ってやりたい。

  「……タイスケぇ、お前が来ないならこっちから行くぞ?」

  部長はぼそりとそう言うと、いきなり俺の顔を横からがしりと掴んできた。

  「やっ……!待った!部長!」

  俺は慌てて迫りくる部長の身体を押し留めようとするが、

  「だはは。ほらーイノジ、いつものお前らしくもねえ。観念しろってえ」

  焦る俺が面白かったのだろう、狼が後ろから俺を羽交い絞めにしてしまった。「どうぞ、部長!」

  正座をしていたことが仇になった。俺は前にいる部長を蹴り飛ばすことも出来ない。両腕は狼によって制されてしまっている。

  俺のこめかみを冷や汗が伝う。

  ゆっくりと熊笹部長の顔が俺に近づいて来る。

  「まっ、部長!やめてくださいって!」

  「ぐふふ。そうやって嫌がっとるお前も大変そそるモノがあるぞタイスケ……!」

  部長は口から涎を垂らしそうな勢いで、嬉しそうにそう言い放つ。

  ……って部長!てめーよく見たらエビフライ咥えてねえじゃねーか!

  「ぶっ――!」

  だが俺がそれを指摘する前に、急接近して来た部長に口を塞がれてしまった。

  部長の口で。

  何がゲームだ。

  ただの無理矢理なキスじゃねえか!

  「んーっ!んーっ!」

  俺は必死に悲鳴を上げようとするが、部長のマズルはそれを許さない。俺の喉からはくぐもった呻き声しか出なかった。

  そして更に

  (!?)

  俺の口内に生暖かいモノが侵入してきて、俺の頭の中は真っ白になる。

  どう考えても部長の舌だった。俺をべろべろと嘗め回し、犯しつくすように俺の中を蹂躙していく。

  目の前の部長の瞳が爛々と嬉しそうに輝いていることに気付いて、俺の身体からがくりと力が抜ける。

  完全に心が折れた。

  も、もうどうにでもしてくれ……。

  

  そして、たっぷり30秒はディープキスを強要されたろうか。

  ちゅぷ、と湿っぽい音を立てて部長の口が俺から離れる。やっと俺は解放されたのである。

  「……ふん。男とのキスなぞ面白くもなんともないな」

  部長は俺から顔を背けてわざとらしくそう言うが、口元が吊り上がっているのを隠せていないし、よく見るとズボンの前も盛り上がっているようだった。すぐに隠すように胡坐を掻いて座ってしまったが。

  対する俺は。

  狼から拘束を解かれると、その場で畳に両手をついてがっくりとへたり込んでしまった。

  ――は、初めて、だったのに……!

  異性と付き合ったことどころか手をつないだことも無い俺は、当然の如くキスだって未経験だった。要はファーストキスである。

  ……うるさい。ほっとけ。奥手なんだよ俺は。

  それを、こ、こんな熊のくそエロ親父に奪われる羽目になるとは!

  いっそのこと舌を咬んで死んでやろうかと思った。

  怖いからやらなかったが。

  *

  部長が取引先に出向くのに、名指しで同行させられた挙げ句、社会的に死にかけたこともある。

  「すいません部長。自分、この件に関しては全然タッチしてないんですけど」

  部長のことだから絶対なんか企んでるな、と勘繰った俺は丁重にお断りしようとしたのだが、

  「タイスケ、部長直々の命令だぞ。嬉しいだろうが?……それとも何か、お前は仕事を回されん方がいいのか?ん?」

  などと厭味ったらしく言われては着いて行かざるをえなかった。

  そして俺は、部長と二人で乗った満員電車で部長の狙いを知ることになる。

  (んなっ!?、ど、どこ触ってんすか部長!)

  扉近くでぴたりと俺の後ろにつけた部長は、俺の脇の下から両腕を前に回し、そのまま胸を揉んできたのである。

  (ぐふふ。どうだタイスケ、公共の場で辱められる気分は。ひどく興奮するだろうが……!)

  部長は俺の耳元でそう囁きながら、下半身を俺の尻に押し付けてくる。いつだったかのように、硬くなった部長の興奮の証が俺に当たり、俺は、ぞわり、と嫌悪感で全身の被毛を逆立てた。

  ――こ、こ、興奮してんのはてめーだけだろうが!!

  しかしここは獣人たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれた満員電車である。俺は身動きも出来ず、いつものように柔道技で撃退することも出来ない。

  俺は歯を食いしばって、黙って部長の好きにさせるしかなかった。次の駅までの辛抱である。そう自分に言い聞かせて。

  そのままたっぷり5分は揉まれていたろうか。

  ……そのうち、俺はなんだか変な気持ちになってきた。

  部長の手つきが妙に艶めかしいせいである。こんな風に胸を揉まれるなど、当たり前だが俺にとっては初めての経験だった。最初は嫌悪感しかなかったのに、悔しいがなんだが少しずつ気持ちよくなってきてしまった。

  そのせいか下半身が微妙に反応して来てしまい、俺の愚息に芯が入り始めてしまった。

  俺はごくりと唾を飲み込む。

  まずい。

  俺の意に反して、下着の中で愚息が少しずつ大きくなっていく。

  中年熊に胸を揉まれて股間をおっ勃てている猪、それが今の俺である。しかも電車の中で!

  これじゃ俺もとんだ変態じゃねえか。

  俺はとにかく早くこの時間が終わるように祈った。

  が。

  突然、部長のごつい指がワイシャツの上から俺の乳首を弾いた。普段ならそんなことされても何も感じないはずなのに、今の俺には電流が流されたように感じられた。あまりの刺激の強さに、俺はびくりと身体を震わせてしまう。

  「――ッ!」

  声が漏れそうになってしまい、俺は思わず手で口を押える。そんな俺の反応を、後ろの部長が見逃すわけも無く。

  (……どうしたァ、タイスケ。こんなところで声を出すと周りにばれちまうぞォ?)

  俺の耳元で嗤っているかのような声で囁いてくる。

  ぐぎぎ。

  俺は悔しさと羞恥で歯を食いしばる。

  (ぶ、部長ッ!こ、これってセクハラですよ!セクハラ!!)

  俺も小声で必死に抗議するが、そんなことで部長の手は止まらない。

  (ふん。これがセクハラだとォ?……男の俺が、男のお前に?ぐはは、お前がホントウに嫌がっとるならそうかもしれんがなァ)

  対する部長は落ち着き払った声である。俺の頭に血が昇る。

  (い、嫌がってます!嫌がってますよ!それくらいわかるでしょ!!)

  頭と身体がカッカと熱くなり、俺の敬語も崩れてしまう。

  (……ほほう。言ったなタイスケェ?)

  顔を見なくてもこのスケベそうな声で分かる。部長は今間違いなく俺の後ろでこれ以上ないくらいにニヤニヤ笑いを浮かべているに違いなかった。

  部長の右手が俺の胸を離れる。

  そしてその手は。

  半勃ちの俺の股間へと伸びる。

  「――んぐッ!?」

  今度は声を抑えられなかった。

  敏感な先端を一撫でされて俺の視界に火花が飛び散る。他人に触れられたことなど一度も無い俺の愚息は、たったそれだけの刺激で簡単に勃起してしまった。

  ぐふっ、ぐふふふっ、と背後のアホ熊が我慢しきれずという様子で笑い声を漏らす。

  (口では強がりを言っとっても身体は正直だなタイスケ……。こんなにギンギンにおっ勃てよって)

  (こっ、このクソボケアホ熊……!)

  俺は遠慮もせずに悪態をつきながら後ろの部長を睨み付けてやったが、部長は涼しい顔である。

  (いいぞォ、その顔だタイスケ。恥辱と快感に耐えるお前の顔……全く堪らん……!)

  部長はトチ狂っているとしか思えないことを小声で言ったかと思うと、今や完全に反り返ってしまった俺をズボンの上からゆっくりと扱き始める。

  その上下運動の度に俺はびくびくと身体を震わせてしまう。

  「うっ……んんっ……!」

  俺は顔を顰めて呻くしか出来なかった。もうどうしようもない。俺は、部長の手で完全に発情させられてしまっていた。

  部長の手は止まらない。俺の先端を掌で優しく包み込むと、捻るようにして刺激を加え始めた。敏感な亀頭が下着の生地で擦られた俺は、刺激が強すぎて前屈みになってしまう。

  「っは……!いっ……!」

  さすがに様子がおかしいと思ったのだろう、俺の隣に立つカバのサラリーマンが俺を怪訝そうな顔で見つめてくる。だが、電車内が混み過ぎていて俺がどんな状況に置かれているかまでは分からないらしい。カバからは、隣の猪が冷や汗をかいてうんうん唸っているようにしか見えないのだろう。それがいいことか悪いことかはわからないが。

  

  ――や、やべえ。このままじゃ俺、イかされちまうだ……!

  クソバカ部長の手コキなんかで、俺は呆気なく限界を迎えようとしていた。必死に耐えようとしても、部長は相当手慣れているらしく俺の愚息が悦ぶポイントを的確に突いてくる。俺がどんなに意識を逸らそうとしても、股間への甘美な刺激で俺の頭は一杯になってしまう。

  経験値の低い俺の愚息は、情けないことに先走りまで出してしまっているようで、下着が濡れているのが分かる始末である。最近仕事の忙しさで抜く暇がなく、だいぶ溜まっていたのもまずかった。あっという間に俺は上り詰めていた。

  下腹部の奥に、熱がわだかまっていくのが分かる。

  股間がこれ以上無いほどに硬くなり、射出の準備を始めてしまう。

  込み上げてくる。

  「うぅぅぅ……ッ!」

  

  ――あと三扱き、いや一扱きで、い、イかされちまう……っ!

  

  もうだめだ。終わった。俺の人生は終わっただ……

  俺が目尻に涙を浮かべながらそう覚悟をした時だった。

  「……ちいっ。時間切れか」

  残念そうな声と共に部長の手が俺から離れた。

  ぷしゅう、と扉が開く音が背中側からする。ふと気付くと、既に電車は駅に着いていた。

  「タイスケ!何ぼさっとしとる!さっさと降りんか!」

  振り向けば、既に電車を降りた部長が外で怒鳴っていた。

  俺は慌ててその後ろを追いかける。屹立したままの股間を鞄で隠すことも忘れない。周囲の人々にはバレバレかもしれないが、やらないよりマシだ。

  部長は部長で、ズボンのポケットに片手を突っ込んで大きくなった股間を誤魔化していた。高校生かアンタは。

  俺と部長は上りエスカレーターに乗る。

  立ち止まると身体が火照ってしょうがなかった。絶頂ギリギリまで昂らされた俺の愚息はなかなか収まってくれようとせず、俺はフゥフゥと鼻息を荒げていた。

  「……どうしたタイスケ、だいぶ息が上がってるな?」

  すっとぼけた様子で部長が訊いてくる。

  声は心配している風を装っているが、マズルの端は可笑しそうに吊り上がっているのでこの質問はわざとである。

  もう少しで電車内でイかされるところだった俺は、恥ずかしさも手伝って部長を無視して顔を背けた。

  だがアホ熊は全く意に介さない。

  「ぐははは!何を怒っとるんだお前は。ちょっとしたスキンシップだろうが、ん?」

  「な、な、なにがスキンシップだこのアホ熊……!」

  反論しようとした俺に対し、一段上にいた熊は身を屈めるとまた俺の耳元に口を寄せてきた。咄嗟のことで俺も反応が遅れた。

  (……ぐふふ、さっきイかせてもらえんかったことで怒っとるんだろう?わかっとる、俺にはよぉくわかっとるぞタイスケ……!だからだな、今日この後は会社に戻らず、そこらのホテルでセッ)

  そこまで聞いた時点で俺は反射的に部長のボディにグーを叩き込んでいた。

  「ぐぼェッ!?」

  がくりと部長がその場で崩れ落ちる。

  「すいません部長、俺は今日このまま直帰しますんで!」

  俺はそう宣言すると、部長を追い越してエスカレーターを駆け上がっていった。

  付き合ってられるか!このくそボケ熊!!

  

  「タイスケェ……!な、何がそんなに不満なんだ……!待て、待てーーッ!タイスケえーーーッ!!」

  熊笹部長の叫びで駅が騒然とする中、俺は走って逃げたのだった。

  [newpage]

  4

  「……俺、ホントにあの会社辞めるかもしれんだ……」

  ある晩のことである。

  学生時代の友人と二人きりの飲み会の席で、酒が回ってきてテーブルに顔を付けた俺はついつい愚痴を零した。

  目の前に座っているのはスーツ姿の熊獣人――と言っても熊笹部長ではなく、俺の学生時代の部活仲間の月ノ輪熊である。

  月ノ輪熊は不機嫌そうな面のまま唐揚げを頬張っているが、よく下品な笑みを浮かべている熊笹部長と違って、同じ熊獣人でも彼の場合はこっちが通常の表情である。

  周囲の学生らしき若い集団が盛り上がっている中、俺の気分は最悪だった。結局、熊笹部長によって半ば無理矢理に近い形で社員旅行に参加させられることが決まったからである。

  どうやったんだか知らないが、ホントに俺と部長は二人きりで同じ部屋らしい。

  「……へぇあの大手会社をけ?えら勿体ねえだな」

  月ノ輪熊はむすっとした顔のままジョッキを手に取ると中のビールを煽り、「……まあお前の人生だで、よく考えたことなら俺も止めることはせんけんども」と付け加えるように呟いた。

  この熊と俺は同郷のよしみである。

  現在働いている会社こそ違うが、高校から共に柔道部で部活に励み、大学進学時に二人して田舎から都会へ出て来たので、もう十年程の付き合いだ。

  この熊ときたら強面だし無口だし不愛想だしで一見偏屈そうな男なのだが、そのくせ寂しがり屋なところがあり根はいいヤツでもあるので、俺がよく飲みに誘って二人で飲むことが多かった。

  この熊と飲むと故郷の訛りが自然と出るのもなんだか気楽だし、懐かしくも心地よいのである。

  「そんな冷てえこと言わなんでよツッキー。俺さ、なんかアドバイスでも欲しいだよ」

  旧友をあだ名で呼ぶ俺の縋るような言葉に、熊は憮然として鼻を鳴らした。

  「イノジ、その呼び方はやめろて昔っから言っとるずら……。んなこと言われても、今のイノジの状況がわかんねえと何とも言い様がねえだな」

  そう言われて俺はちょっと困った。

  俺の悩み事なんて、笑い飛ばされるだけの気もする。

  俺がセクハラを働いたならまだしも、俺の方が上司にセクハラされているなど。

  しかも、男に。

  はあ、と俺はまたため息を一つ。

  「……ツッキー。俺の今の状況ってもんを、聞きてえだ?」

  「いや、別に聞きたかぁねえけんどよ。イノジが話してえんなら話せばいいもんでな」

  「……聞いても笑わねえかや?」

  「知ってんだろが、俺は滅多なことで笑わねえだ。……なんだそら、逆に気になって来たわ。いいから話してみろて」

  しつこく念を押す俺に、熊も少々興味が出て来たらしい。腕組みをして俺のことをじろりと見つめる。その目が少しだけ面白がっているようだった。

  俺は逡巡したが、やっぱり誰かに自分の悩みを聞いてほしくもあった。

  溜めるように間をおいてから、ゆっくりと口を開く。

  「いや、その……ちょっと……それがよ……。しょ、職場内の、せ、セクハラで悩んでてよ……」

  俺の絞り出すような声に、熊は目を丸くして一瞬動きを止めたが、その直後にぶはっ、と噴き出して大声で笑いだした。

  しゃらっ汚え。

  熊の飲みかけのビールの飛沫が俺の顔に飛んだ。

  「わ、笑い事じゃねえだに……っ!」

  今度は俺がむすりとする番だったが、月ノ輪熊のヤツはだっはっはっは!と大口を開けて笑うのを止めない。

  「お、奥手なおめえが、せ、セクハラとはな!せんに恋人が欲しいだで合コンに行きてえとか言っとったでねえか……だっはっは!イノジ、会社ではそんな積極的なことやってるだか?このスケベ猪め!」

  多少は彼も酔っているのだろう、滅多に見せないニヤニヤ笑いなど浮かべている。そんな上機嫌な熊を、俺は睨みつけてやった。

  「うっせえだ!俺はずでぇやってねえだに!セクハラしてんのは俺でなくてだな、ぶちょ――」

  そこまで言いかけて、俺ははたと考え直す。

  俺みたいな図体のデカい男がセクハラを受けている被害者の方だ、などと知ったら、この熊はまた大爆笑を始めそうな気がした。

  (へぇイノジにセクハラだぁ!?そらまたえれえモノズキなヤツもいたもんだで!だっはっはっは!)

  などと馬鹿笑いする月ノ輪熊の顔が浮かんでしまった。

  むむむ。

  そいつは酷く癪に障る。

  俺は口に出しかけた言葉を飲み込んで再びビールに口を付ける。

  「……なんだイノジ。ちゃんと最後まで言えて。おめえがしとらんのなら、いってぇ誰が誰にセクハラしとんのだて」

  急に黙りこくってしまった俺を熊は訝るが、俺はぷいと横を向いて、

  「ツッキーが馬鹿みてぇに笑うで、俺もう話すの止めたでな!」

  と子供みたいに拗ねてやった。

  ……やはり俺も酔っていたのかもしれない。