どこまでも線路が続くような夜行列車の旅で18時間。
ビジネットの北東、チョキンシーの街についたのは午後1時。イチによると不満足な昼食を採った後に馬車を借り、更に北東の山間部まで3時間弱。
妖精湖と呼ばれる湖を麓にもつケルプ山の山間部にヅィーコプカイン精神病院はある。
この山は温められた湖の熱気が山の斜面を昇り、そのまま山間部に滞留することで夕方前から霧がたちこめはじめる。
「お嬢さん、ここいらがケルプ山なんて呼ばれるのはね、ケルピーが山に入った人間を霧で迷わせて、湖に引きずりこんで食っちまうっていう伝説から来てるんでさ」
「ふむん。確かに、この霧ならそういう話も生まれるか」
御者の男は息を切らせはじめた2匹の飛脚馬の様子を気づかいながらイチにそんな小話を聞かせた。
馬車の御者は鳥人族が多いが、この御者も例に漏れず灰色の羽毛をもつ男だった。
御者が言う通り、かろうじて50m先までなら見えるがそこから先は怪しい。
「面会っておっしゃったな? 夜になる前に終わらせてくだせえよ。あっしもケルピーに攫われたくないんでね」
御者の言葉は冗談半分でもあるが、夜にこの山道を通りたくないのだろう。地元の人間らしく、夜のケルプ山の怖さを知っている。
「そう遅くなるつもりはないが、あまりにも遅いようなら先に街に戻ってもらってかまわない」
既に報酬は先払いしている。
想定外が発生した場合を考えるのは冒険者の常だ。
「しかしお嬢さんも健気だねえ。行害者のお兄さんにわざわざこんなところまで会いに来てやるなんてねえ」
イチの言葉に満足したのか、御者はイチに同情したような態度を見せた。
その言葉には行害者を疎ましく感じているだろう響きもある。
あまりヅィーコプカイン精神病院に良い感情を持っていないのかもしれない。
「どうなんだ? 地元の人間からしてあの病院は。従兄弟がちゃんと療養できてるか、気掛かりでな」
「さぁねえ。山の中にあるから、私ら街の人間にはあまり縁のない場所でさ。ただ、行害者が何人もいるんでしょ? 脱走でもしたらちょっと不気味には思いまさぁね」
それとなく病院の噂を聞こうとしたが、なるほど、理由がなければ普通の人間は病院に近づかないのだろう。
他にもいくつか病院について尋ねてみたが、帰って来た言葉は大した情報にはならなかった。
それからしばらくして馬車はその車輪を止めた。
「さ、着きましたぜ。ここでさぁ」
「うん。ご苦労だった。しばらく待っていてくれ」
馬車から降りるイチの背中に御者が声をかける。
「くれぐれも遅くならないでくだせえよ。なんだか不気味でね。あまり長居したい場所じゃないからねぇ」
「わかってるよ」、そう答えるイチの眼前には人の背丈よりも大分高く作られた塀と厳重に閉められた格子の門が待っていた。
霧の中に包まれたヅィーコプカイン精神病院の全容はまだ見えてこない。
◆
門を預かる警備の職員に面会の胸を伝えると、特に怪しまれる事無く、少し待たされた後に案内役であろうハーフエルフの少女に入るよう促された。
門を過ぎしばらく石畳で舗装された通路を歩くと、霧に包まれたヅィーコプカイン精神病院の姿が朧気に見えてくる。
かつては貴族の私邸であったその施設は、乳白色の建材で建てられており霧のせいもあって得体の知れない雰囲気を感じさせる。
____しかし、この手の靴はなれないなあ。
イチは石畳を蹴るコツコツとした音と、足の土踏まずに伝わる感触に違和感を感じている。
今回の依頼は冒険者の身分を隠しての行動を必要としている。
その為、山でも谷でも難なく動ける冒険者の装備は一切身に着けていない。
頑丈な生地の冒険者装束は白いブラウスと青いドレスに白いストッキング、どこまででも歩けそうな特注のブーツはピカピカに磨かれた革のドレスシューズに変わっている。
変わらないのはいつでも大切に被っている瑠璃色のベレー帽だけか。
万一の場合に備え太股にファンクル17式護身拳銃をベルトで巻きつけガーターベルトを利用し保持している。
肉を締め付けるその感覚もあまり歓迎できるものではない。
「可愛いお洋服ですね。いいなあ。わたしもお給金が貯まったら、買っちゃおうかなあ」
道すがら案内役のハーフエルフの少女、セインがイチの服装を見て言った。この黒髪のハーフエルフの少女も看護婦なのか、白衣に身を包んでいる。
イチは病院側の人間であるセインを警戒してはいるが、どうも目の前の少女に邪悪なものは感じない。
「そうか」
敢えて言葉少なめに答えたイチだが内心悪い気はしていない。
イチとてまだ少女と言っても差し支えない年頃だ。
素直に服装を褒められるのは嬉しい。
服が可愛いということは、自分も可愛いということだ。と感じるは女の子の心理か。
____ふふふ。きな臭い依頼だが、潜入のために服を揃えてもらったのはラッキーだったな。
このイチの内心を気のゆるみと見るべきか、よい余裕と見るべきか。
「あっ、ちょっとすみません」
ふと、セインがイチに待つよう頭を下げた。
何事かと思えば、セインは庭の花壇の前でしゃがみ込んでいる人族の中年女性を見つけ駆け寄り話しかけた。
「ビョインさん、どうしたのかな? もうすぐお部屋に戻らないと、暗くなっちゃうよ」
ビョインと呼ばれた中年の女は行害者のようだ。
セインが近づいてもボーっとしたまま動かない。
介護のためかもうひとり看護婦のハーフエルフの少女が付き添っている。
どうやら、部屋に戻る時間になってもビョインが立ち上がらず困っているように見えた。
「ビョインさん。お花綺麗だねえ」
「うん、きれい。きれいだよ。きれい」
セインはビョインに優しく声を掛けながらもうひとりのハーフエルフにアドバイスをしている。どうやらセインのほうが先輩なのだろう。
「夕食の時間に遅れちゃうと、ビョインさんパニック起こしちゃうからそれまでに戻らないと。しばらく頑張ってダメだったら、後でみんなで応援に行くから頑張ってみて」
「わかりました」
それだけ言うとセインはイチを案内しに戻って来た。
「すみませんお待たせしちゃって」
「いや、大丈夫だ」
「ビョインさん、お花好きで、ああなっちゃうと立ちたがらないこともよくあるんです」
「大変そうだな」
イチは思ったままを素直に言った。
イチが行害者の面倒をみた事はないが、それでも看護婦の苦労は推し量れる。
「大変ですけど、お給金もいいですし、それに仲良くなると患者さん、なんだか可愛くて」
「ふむ、ん………………そうか」
イチは屈託のないセインの笑顔に戸惑った。
万一病院側に不正があるとして、目の前の少女が患者に対し例えば虐待などを加えるという姿は、心情的に想像し難い。
ひょっとすると依頼者側の杞憂に終わるかもしれないな、と考え始めてさえいた。
「ガーク院長、診察があるので少しお待ちしてもらうかもしれませんね。遅くならないといいんですが」
セインの話を聞いているうちに病棟が見えてきた。
遠くからは真っ白に見えた壁は、雨や湿気の為にところどころひび割れている。
元々は貴族の別邸だったという話だが、モーリンの情報によるとその貴族はこの場所でなにか公にはできない邪悪な行為に耽っていたらしく、そのせいか白い外観に反してどこか陰鬱な雰囲気を漂わせてもいる。
ブリーフィングで聞いた通り、本棟の東に別の棟があり、今のイチの位置からは見えないが北にはまた別の病棟があるとのことだった。
____思った以上に大きいな。
モーリンから予め見取り図をもらい、何人の職員がおり何人の患者が収容されているか聞いていたので大体の大きさを予測していたが、その予測はあまり当たらなかったようだ。
「さ、お入りください」
笑顔でイチの為に病棟の扉を開くセイン。
しかしその頭上では、病室の窓に冷たい鉄格子が嵌められているのにイチは気づかざるを得なかった。