咲き誇っていた桜が散り始める四月の中旬頃。中学二年生になってクラス替えやら新しい時間割などにも慣れてきた俺は、平凡ながらも目立ったトラブルやアクシデントに見舞われることもなく、幸せと言って差し支えのない平和な日々を送っていた。
しかしそんな俺のありきたりな日常が今日、学校帰りにたまたま立ち寄ったコンビニで一変するとも知らずに。
【ノンハッピーエンド】
第一話『幸せな青い鳥』
「腹減ったなあ……」
放課後の夕暮れ時。小腹が空いてそんなことを呟きながら俺、[[rb:日向衛 > ひゅうがまもる]]は学校から駅まで続く道をぼんやりとした足取りで歩き続ける。
このまま空腹を我慢して家に帰れば温かい晩ご飯が俺を待っている。しかしその夕方のこの時間に訪れる、間食一つ分の空腹というものは絶妙に人を誘惑してくる。そんな誘惑に付け込むかのように、駅周辺のこの道には様々な系列のコンビニエンスストアが立ち並んでおり、その入り口付近では俺と同じような歳の中学生たちがホットスナックを片手にたむろしている。
更に追い討ちをかけるように、その中学生たちが手に持っている唐揚げやアメリカンドッグなどのホットスナック特有の脂っこい匂いがこちらに漂ってきて、俺の鼻をくすぐってきた。カロリーの高そうなその匂いは俺の鼻腔を通じて脳へと刺激を与え、空腹感と食欲を掻き立ててきた。
俺はそこからゆっくりと歩くスピードを落としていき、そのまま立ち止まり、考える。結果。
――ちょっとぐらい、いいか。そんな甘い誘惑に負けてしまった俺は、近くにあったコンビニに向かってずかずかと大股歩きで直行した。
自動ドアを通っていざ入店。すると、ちょうど店から出ようとした犬獣人のおじさんとぶつかりそうになったので、人一倍図体のでかいライオン獣人の俺は右手側にある雑誌コーナー前に向かって大きく移動して避ける。おじさんはこちらに軽く会釈をしてくれると、そのまま開きっぱなしの自動ドアを通って店から去っていった。
雑誌コーナー前の大きな窓ガラスから見えるおじさんの後ろ姿に俺も軽く頭を下げると、店内の客の動きに合わせてレジ前へと移動していく。店内を行き交う人の流れの中、我ながら胸板の厚いこの巨体を滑り込ませるようにしながら、俺は何とかレジに向かう列の最後尾へと辿り着いた。
学校帰りの中学生が集まる時間帯のためそこそこに人数が列に並んでいたが、軽くスマホでパズルゲームをしながら待っているとあっという間に順番が回ってきたので、俺はいつも買っている唐辛子風味の骨なしフライドチキンを選んだ。
「お支払いは?」店員さんがそう尋ねてくる。
「電子決済で」
「かしこまりました。でしたらコードの表示をお願いします」
店員さんに促されて俺は支払いコードが表示されたスマホ画面を見せる。店員がバーコードリーダーでその画面を読み込むと、支払い完了を知らせる電子音が鳴った。それを確認した店員さんから、商品が入っているレジ袋を受け取る。
「ありがとうございまーす」
そう頭を下げる店員さんに俺も軽く頭を下げながらレジを後にする。そしてそのまま店の出入り口にある自動ドアを通ろうとした、そのときだった。
「おっ、と」
不意に前方から訪れた軽い衝撃に思わず声を漏らす。視線を下ろすと、俺の前には真っ黒な詰襟制服を着た中学生らしき小柄な鳥獣人の男子が立っていた。どうやら、店を出ようとした俺とぶつかってしまったようだ。
「悪い。大丈夫か?」俺はすぐさま相手の視線に合わせるため軽くかがんで、様子を窺う。
「だ、大丈夫です。こっちこそごめんなさ――……」
そう顔を上げて俺と目が合った瞬間、その小柄な男子の言葉が止まる。
いや彼だけじゃない。彼の顔を見た俺も、思わず言葉を失ってしまった。
小柄で肉付きの良い身体を包み込む真っ黒な詰襟制服から覗くその顔は、柔らかそうな体型に見合うように丸々としており、その小さな嘴が余計に小さく見えるほどだ。加えて常に微笑んでいるような細長い目つきが、更に柔和な雰囲気を醸し出している。
そして何より目を引くのは、その毛色である。スズメ、カラス、タカ、クジャクなど鳥獣人にも様々な種類がおり、その毛色、いや羽の色にも様々な種類が存在する――だが、目の前にいる彼の羽の色は、晴れ渡る空を思わせる美しい青色であった。
一目見たら忘れられない、その珍しい羽の色に俺の記憶が一気に呼び起こされ、一人の名前が頭に浮かび上がる。
「アオイ……もしかしてお前、葵か?」
俺がその名前を呟く。すると目の前にいる青い鳥はまず「えっ?」と戸惑いの声を漏らし、それから「えーっと……?」と俺の顔をじっと見つめたまま少し考えた様子を見せたと思うと、はっと何かを思い出したように目を見開いた。
「もしかして……マル、くん……?」
マルくん。俺のことをそんな風に呼ぶのは、今まで出会った人たちの中でただ一人しかいない。
[[rb:絵空葵 > えそらあおい]]。いつもニコニコと幸せそうに笑う、青い羽を持つ鳥獣人。
両親を失った幼き日の俺が児童養護施設にいた頃に一番仲が良かった、幼馴染である。
[newpage]
きっかけが何だったのかは、もう覚えていない。でも小学一年生の時にはもう既に「うるさい」だの「あっち行け」だの乱暴な物言いとともに、父親から叩かれたり突き飛ばされていたりしたのは覚えている。
最初の頃は痛くて泣き叫んでいた気もするが、泣き止まない限り父親の暴力が終わらないことに気付いた俺は、いつしか泣き声を上げることもやめた。いつ爆発するか分からない父親の暴力に無言で耐え忍ぶことが、あの頃の俺にとっての日常であり、平穏を守る唯一の方法だったのだ。
しかし、母は違った。トイレに行こうと夜遅くに起きたときなどに、リビングで父と言い争う母の声を聞いたことがあった。今思えば母はああして声を上げることで、異常とも言える父の暴力から俺を助けようとしてくれていたのだろう。
そんな母は、ある秋の日。階段から落ちて亡くなった。
母が亡くなった経緯については、「いつものように夜遅くにリビングで話し合いをしていたが、仕事の疲れが溜まっていたこともあり早めに話を切り上げて二階の寝室に戻ろうと階段を上っていたところを後ろから追いかけられて、ついカッとなって突き飛ばしてしまった」と、母を運ぶ救急車の中で父が救急隊員に話しているのを、幼い頃の俺は隣で聞いていた。
病院に運ばれた母は、医師たちの懸命な処置も空しく、ほどなくして息を引き取った。
俺の日常は、そこから一気に目まぐるしく変化した。
まず母の転落死がきっかけで、我が家の家庭事情に警察の捜査が及んだ。それによって自身の家庭内暴力を暴かれた父は警察に拘留され、独りになった俺は児童養護施設に引き取られることになった。
結果として俺は父の暴力から解放されたわけだが、だからといってそれで心が休まることはなかった。帰る家と大好きな母。今まで当たり前にあったものを同時に失った当時の俺に、慣れない環境と厳しい現実の両方を受け入れる余裕なんてなかったのだ。
そして施設に引き取られてから数日が経ったある日の昼。施設の子供たちが外で遊んでいるのを尻目に、部屋の隅で膝を抱えて蹲っていたときだ。
「ねえねえ、大丈夫?」
そう声をかけられたので、俺は膝に顔を埋めたまま視線だけを上に向ける。俺と同い年ぐらいの、青い羽の色が特徴的な丸っこい体型の鳥獣人の少年が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「お腹痛いの?」青い鳥の少年がそう尋ねてくる。
「……違う」俺は視線を伏せながら、そう答えた。
「じゃあどうしたの? 嫌なことでもあったの?」
「…………」
青い鳥が続けてそう尋ねてきたが、その質問に俺は口を閉ざす。その重苦しい雰囲気を感じ取ったのか、青い鳥はそれ以上何も聞いてこなかった。
そうしてしばらく沈黙が続いた後、青い鳥が俺の前から動いた。やっとどこかに行ってくれる、と緊張が解けた俺は心の中で安堵した。しかし。
「よいしょっ」
何と青い鳥は俺の隣に、その柔らかそうな尻を下ろして座ってきたのだ。
「お、おいっ。お前っ、何、ち、近っ。や、離れろよっ」
おいお前。何してんだ。近いんだよ。やめろ。離れろよ。そう抗議したいのに、突然の行動に驚きながら飛び退いた俺の口は上手く回らず、言葉が繋がらない。
そして一方の青い鳥はというと、俺のそんな様子を気にすることもなく、何が面白いのかニコニコと楽しそうな笑みを浮かべている。そして。
「ボク、絵空葵。キミは?」
と、自己紹介とともにこちらの名前を聞いてきた。
こちらの都合など微塵も気にしないその無遠慮な、いやあまりにも無邪気な距離の詰め方に、毒気を抜かれた俺は大きく息を吐いた。
「……日向。日向衛」
「ヒューガ……ママル?」
舌足らずな口調でそう言う鳥に、俺は首を横に振った。
「違う。マモルだ」
「ママル、くん?」
「だからマモルだって言って……いや、別にいいか」
俺はため息をつくと、膝を抱えていた両手を解いて壁に背中を預ける。少しだけ、楽になった気がした。
「好きに呼べよ。葵」
俺がそう名前を呼ぶと青い鳥、絵空葵は、ぱあっと晴れやかな笑顔を浮かべて――。
「うん! よろしくね、マルくん!」
――と、嬉しそうに俺の名前を呼んでくれた。
*
「懐かしいなあ~。そう言えばマルくんって最初、ちょっと怖かったよね」
「うるせえ」
そう返す俺の隣で、葵はニコニコと目を細めて笑っている。
コンビニでばったり再会した俺たちは、近くにあった公園のベンチに並んで座って、そこで昔話に花を咲かせていた。
「そういうお前はずっとニコニコ笑ってたよな」
「あはは。だってマルくんと一緒にいるの楽しかったからね~」
「いや、俺がいないときでもお前ずっと笑ってた気がするぞ」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ」
「え~? そうだったっけ……?」
自覚がないのか、大きく首を傾げる葵。と言ってもやはりその柔らかい表情はどこか愛嬌があって、深刻に悩んでいるようには見えない。
思えば、葵は昔からこういう奴だった。いつもニコニコと笑っていて、誰にでも愛想が良くて。辛い境遇を抱えている子供たちが大勢いる施設の中でも、常に明るく振舞っていた。
そんな葵に声をかけてもらったおかげで、あの日。ずっと膝を抱え込んでいた俺の日常はまたもや一変したのだ。
朝になれば「おはよー!」と葵が布団越しに抱き着いてきて、昼は葵に誘われて一緒に色んな絵本を読み、夜になると時たま葵が布団の中に潜り込んでくることもあった。そんな葵の手を握って目を瞑ると、父から暴力を受け続けた恐怖や、もう二度と母に会えない悲しみが和らいで、心身ともに穏やかな状態で眠りに就くことが出来た。
失ったものが返ってくるわけじゃないのに、独りじゃないというだけでこんなにも心が安らぐのだと、初めて知った。
「本当に、懐かしいな……」
しみじみと、俺はそう呟いた。現在、中学二年生の春。確か俺が施設を出たのは小学一年生の冬だったから、こうして葵と会うのは六年ちょっとぶりということになる。
施設では小中学生はスマホを持てない決まりなので、施設を出たばかりの頃は手紙で葵と連絡を取っていた。だがいつしか俺が送っても葵からの返事が届くことが少なくなったため、次第に俺も手紙を書かなくなり交流も途絶えてしまった。だからここ数年ほどの葵の近況はあまり把握できていないのだ。
「そう言えば、お前はあれからどうしてたんだ?」
気になった俺は、葵にそう尋ねる。すると葵は変わらず笑顔のまま。
「ボクの方は相変わらず。施設で元気にやってるよ」と、答えた。
「……そっか」
それは良かったな――と、流れで言いかけるも寸前で止めて、俺は少しぎこちない答えを返す。
「それよりさ。マルくんこそどうしたの? 確か遠くに住んでる親戚の人に引き取られたはずよね?」
「その親戚が、前々から夢だった道場付きの一軒家を知り合いから貰うことになってな。それで中学に上がると同時にまたこっちの方に引っ越してきたってわけだ」
「道場?」
「ああ。定年退職でずっと暇だったから、新しく何か始めたいってずっと思ってたんだと」
俺を引き取った親戚というのは、俺の父方の祖父の兄。つまり大伯父にあたる人だ。そのため今年でもう七十近くになるのだが、警察官として長年働き続けていた大伯父としては定年退職後、ずっと家で過ごす日々を退屈に感じていたのかもしれない。というか暇さえあれば家でも筋トレやストレッチをしていたし、晴れている日にはジョギングにも行っていた。
「そんな人だからさ、思いっ切り身体を動かせる場所が欲しかったんだと思う」
そう話す俺の隣で、葵は「へえ~」と深く感心した様子を見せる。
「道場ってことは、そこで剣道とか柔道とかやってたりするの?」
「空手をやってたんだよ。たまに稽古つけてもらうこともあるんだけど、七十近いくせに冗談みたいに強いんだよな……あの人……」
ははは、と乾いた笑いがこぼれる。隣にいる葵は俺の苦労を察してくれたのか、苦笑いを浮かべていた。
「何か……マルくんはマルくんで大変そうだね……」
「ま、まあな……」
葵も俺も歯切れの悪い会話しか出来ず、気まずい雰囲気が漂い始める。
「――ねえ。マルくん」
そんな沈黙を破ったのは、葵だった。葵は少し腰を浮かすと、学生ズボンの尻ポケットからスマホを取り出した。
「良かったら、連絡先交換しない? これからもっと色々話そうよ」
笑顔でそう提案する葵の手に握られているスマホの画面には、メッセージアプリのIDが表示されていた。
初めて会ったときと同じような葵のその無邪気な笑顔に、強張っていた俺の口も緩んだ。
「そうだな。改めて、これからよろしくな」
そう言って俺もスマホを取り出して、葵と連絡先の交換をした。
*
公園からそのまま駅まで一緒に向かった俺たちは改札口で別れ、それぞれ別のホームから電車に乗った。
そこから途中で電車を乗り換えつつ二十分ちょっと、駅から歩いて五分。片道およそ三十分程度の帰り道を経て、夕方の五時頃。俺はようやく我が家に帰ってきた。年季の入った石畳の上を渡って、屋根瓦が立派な二階建ての母屋、その玄関の引き戸に手をかけて、がらりと開ける。
「ただいまー」
いつもと同じようにそう声をかけながら後ろ手で引き戸を閉め、玄関に上がった俺は脱いだ靴を揃えてからリビングへと向かう。薄暗い廊下を進んでいくと、その奥にあるリビングに通じる扉の向こうから、様々な素材が溶け合ったまろやかなスパイスの匂いが漂ってきた。
「ただいま」そう言って俺は扉を開けてリビングに入った。
「おう、おかえり!」
リビングの奥、キッチンの方から聞こえてくる換気扇の音量にも負けないはっきりとした声でそう出迎えてくれる俺の大伯父、[[rb:日向一道 > ひゅうがかずみち]]さん。俺と同じ獅子獣人の一道さんは定年退職で警察官をやめてもう十年近く経っているため、腹回りなどは少々丸みを帯びているが、ぱつぱつになったTシャツの袖から覗かせている腕の筋肉は加齢による衰えを全く感じさせない。
そんな逞しい腕で一道さんは、ことことと煮込まれている寸胴鍋の中身をその手に持ったお玉でぐるぐると優しく掻き混ぜている。その様子に中身が何か察した俺は、軽くため息をついた。
「またカレー? ユミさんは?」
ユミさん、というのは一道さんの恋人である。一道さんより二十歳以上も年下ながらも売れっ子恋愛漫画家で、我が家の家計を支えてくれる稼ぎ柱だ。
「急な人手不足でスケジュールに追い込まれてるって連絡が来てな。今日は仕事場から帰れそうにないらしいから、今日の晩飯は儂が丹精込めてカレーでも作ろうと思ってな」
「今日も、だろ? 先月も作ったばかりじゃねえか」
「馬鹿野郎! これでも具材を変えたりスパイスの配合を調整したり、色々工夫してるんだぞ!」
苦言を呈する俺に向かって、そう力説する一道さん。確かに、月に一度は披露される一道さん特製カレーはどれも美味しい。だが申し訳ないことに大雑把な味覚の持ち主である俺には、一道さんが言っている工夫で味にどれほどの変化があるのかはよく分かってない。
にもかかわらず、一道さんはカレー作りの研究に熱心だ。その理由はもちろん、分かっている。
「本当、凝り性だよな。一道さんって」
「当たり前だろ? 新作カレー出すと、ユミくんが美味しいって言ってくれるんだからな」
ふふふん、と嬉しそうに鼻歌交じりにカレーを煮込み続ける一道さん。カレー作りの研究やら工夫やらはよく分からないが、こんな風に好きな人のことを想いながら料理に没頭する一道さんのその姿勢は、素直に尊敬している。
そんな一道さんの幸せそうな姿を見ると、「飽きるからやめてくれ」なんて野暮な言葉も引っ込んでしまうものだ。
「――よしっ、ひとまずこんなもんだろ」
満足いく仕上がりになったのか、カレーを掻き混ぜるのをやめた一道さんがコンロの火と頭上の換気扇を止める。そして鍋に蓋を被せると、くるりとこちらを振り向いた。
「衛。晩飯の前にちょっと稽古でもせんか?」
そう言ってにかっと歯を見せる一道さんの笑顔に、俺は思わず眉をひそめた。稽古自体はもう何年も続けていて習慣化していることだし、一道さんも喜んでくれるので嫌いなわけじゃない。だが正直、手加減を知らない一道さんの稽古を受けるのは中学生になった今でも気乗りしないときがある。
しかし。だからと言って逃げたくもなかった。母親を亡くしたあの事件のように、何も行動しなかったせいで全て失うのは、もうごめんだ。
「……分かったよ。部屋で道着に着替えてから行くから、先に道場に行っててくれよ」
「おっしゃ! そんじゃ、待っとるからな!」
待ち切れないといった風にぱたぱたと早足でリビングを飛び出した一道さんの足音は、あっという間に道場に続く廊下へと遠のいていき、ほどなくして聞こえなくなった。
誰もいなくなったリビングで俺は一人、肺の中の空気を出すつもりで一気に、大きく息を吐く。そうして呼吸とともに気持ちを切り替えてから、俺はゆっくりとした足取りで廊下に出て、自分の部屋がある二階に続く階段を上った。
*
道場にて一時間ちょっとの稽古を終えて汗だくの疲労困憊となった俺は、一道さんと一緒に風呂に入って汗を流した。
風呂から上がってリビングに戻った俺たちは晩ご飯の準備に取り掛かった。テーブルを布巾で軽く拭いたり、ご飯をよそった皿にカレーをかけたり、スプーンを取り出して皿と一緒にテーブルの上に並べたり。そうして晩ご飯の支度を終えた俺たちは、四人掛けのテーブルの椅子に腰を下ろした。
「いただきます」
豊かな香りを漂わせるカレーに両手を合わせた俺と一道さんの声が揃う。
俺はスプーンを手に取りながら、ちらりと目の前の一道さんの方に目を向ける。一道さんは自分の新作カレーの感想を早く聞きたいのか、期待の眼差しでこちらを見ていた。その眼差しに俺は仕方ないと言葉にする代わりに軽くため息をついてから、カレーを一口食べた。
「どうだ? 美味しいか?」一道さんが前のめりにそう訊いてきた。
俺はもぐもぐと咀嚼を繰り返してから、ごくんと飲み込んで口の中を空っぽにしてから口を開いた。
「――うん。美味しい」
いつもと同じように。と続けなかったのは、先ほど一道さんが「具材やスパイスを変えて工夫している」と言っていたからだ。正直、どこがどう変わったのか分からなかったが、美味しいことには変わりなかった。だから率直に「美味しい」と答えるしかなかったのだ。
だがそんな俺の凡庸な感想に一道さんは納得がいかないのか、口をへの字に結んでいる。ごめんね一道さん。
「――ところで、衛。学校の方はどうだ?」
「え?」
突然の一道さんからの質問に、スプーンを持つ手が止まる。
「どうって……。別に、普通だけど……」
戸惑いながら俺はそう答える。別に噓をついているわけではない。特別仲の良い友達がいるわけではないが、クラスメイトとは普通に話すし、いじめられたり仲間外れにされているわけでもない。至って平凡かつ、平和な学校生活を送っているつもりである。
だが俺の答えに一道さんは納得していない様子で、渋い表情を浮かべていた。
「普通って……新しいクラスで友達は出来たのか? それに、部活とかは入らんのか?」
一道さんがそう追及してくる。その質問に俺は静かに首を振った。
「入らねえよ。やりたいこともねえし」
「空手部とかは入らんのか?」
「別に。あまり興味はないかな」
「も、もしかして、空手は嫌いか……?」
と、大きな図体に不釣り合いなほど心配そうな声を出す一道さん。
「嫌いじゃねえよ」
俺ははっきりとそう答える。しかし一道さんはまだ何か懸念があるのか、なおも心配そうな眼差しでこちらを見つめていた。そんな一道さんの不安を払拭しようと俺は、その眼差しをしっかりと見据えたまま、話を続ける。
「でも、俺は全国大会とかに出るために空手をやってるんじゃねえからさ。学校の部活に入るより、家で一道さんに稽古つけてもらう方が好きなんだよ」
少し気恥ずかしいが、俺は普段思っていることをそのまま伝えた。しかし一道さんと目を合わせたままそんなことを口にしたのが照れ臭くなり、俺は誤魔化すようにカレーを頬張った。カレールウに溶け込んだスパイスが血流を促進させ、頬の赤らみと熱を紛らわせてくれる。俺は更に一口、カレーを頬張る。
「衛……」
その声に顔を上げる。するとこちらを見つめる一道さんの肩が震えていた。一瞬ぎょっと身構えたが、しかし。
「――嬉しいこと言ってくれるじゃないか~! この親孝行者め~!」
「うわっ! ちょっ!?」
驚く俺を意に介さず、一道さんは俺の頭に手を伸ばして、その大きな両手で俺の頭を撫で回してくる。
「全く! 稽古のときは心底しんどそうな面してるくせに、内心そんなこと思ってくれてるなんて! お前って奴は本当に素直じゃないな~! うりうり!」
「いや稽古自体は普通にしんどいから! ちょっ! やめろ! こら!」
半ば怒りに任せて一道さんの両手を振り払うと、俺は椅子から立ち上がって距離を取る。
「まだご飯食べてる途中だろうが! 行儀悪いぞ!」
「おお、すまんすまん。せっかくの料理が冷めちまうな」
俺の注意に、そう素直に謝って席に着く一道さん。俺は「やれやれ」と軽くため息をつきながら、再び椅子に座る。
学校の方はどうだ? 新しいクラスで友達は出来たのか? 部活とかは入らんのか――? さきほどの一道さんの言葉が、脳裏に蘇る。
「一道さん」
スプーンを手に取る前に、俺はそう名前を呼ぶ。そして再び一道さんの目を見つめたまま、続ける。
「友達なら、そのうち紹介するからさ。だから心配しないで待っててくれよ」
一道さんに安心してもらおうと、俺は出来る限りの笑顔を浮かべる。今日、およそ六年ぶりに再会した幼馴染の顔を思い浮かべながら。
[newpage]
あれは両親を失った俺が施設に引き取られたばかりの頃。一人ぼっちの俺の隣に葵が座りに来てくれた出会いから数日後のある日のことだった。
「マルくんはさ、ハッピーエンドって信じる?」
俺の隣で絵本を読んでいた葵が、突然そんなことを訪ねてきた。
そんな彼が手に持っている絵本は、『シンデレラ』。意地悪な継母や義姉たちから理不尽な扱いを受けながらも、華やかな舞踏会を夢見るシンデレラに魔法使いが現れ、そのおかげで運命の王子様と結ばれるという、ハッピーエンドとして定番の童話である。
「急にどうしたんだよ?」
俺がそう尋ねると葵はぱたんと絵本を閉じて、こちらに顔を向けた。
「お母さんがね、言ってくれたんだ。良い子にして待っていれば、きっとボクを迎えに来てくれる人が現れる――って」
話しながら徐々に俯いていく葵は、先ほど閉じた絵本を胸元に持ってきて、それを大事そうに両手で抱き締める。
「だからボク、信じてるんだ。きっとこの絵本の王子様みたいに、ボクを迎えに来てくれる人が現れるはずだって。そしてその人が、ボクをハッピーエンドに連れて行ってくれるはずだって」
両手で絵本を抱き締めたまま、夢見るように細めた目でハッピーエンドについて語る葵。
だけど俺は――。
「――幸せなんて、いつなくなるか分かんないだろ」
気付けば、そんなことを口にしていた。葵が少し驚いたような表情を見せている。けれど俺は、先ほどの葵の言葉に対して素直に頷くことが出来なかった。
ある日突然、母は亡くなって、父は逮捕された。帰る場所もなくなって独りになってから、俺はようやく気付いたのだ。父親に殴られる日常はひどいものであったが、家に帰れば母が待っている日常は、ささやかながら確かに幸せなものだったのだと。
でもそんな日常はもう返ってこない。あんな日々がまた訪れるかどうかも分からない。失われた幸せがどこに転がっているのか、俺には見えないのだ。
「あるかどうかも分からない幸せを待っていたって、そんなの何の意味も――」
「そんなことないよ!」
俺の言葉を遮るほど語気の強い大声とともに、葵が立ち上がった。葵がこんな風に大声を出すのは初めてのことだったので、俺は面食らって葵の顔を見上げる。
座っている俺の前に立ち、顔を俯ける葵。天井にある蛍光灯の光がちょうどシャワーのように背後から葵に注いでいるため、逆光で彼の顔に影がかかる。葵の表情はよく見えないものの目を凝らすと、わずかにその口が震えているように見えた。
「……何の意味もないなんて、そんなことないよ。信じていればきっと、ハッピーエンドが待っているはずだよ」
震える声でそう言うと、葵はゆっくりとその場に膝をついた。そして持っていた絵本をそっと床に置くと、空いた両手で俺の手をそっと包み込んできた。
突然のことに慌てて葵の顔を見ると、葵はいつもと同じような優しい眼差しで俺の顔をまっすぐ見つめてきた。そして。
「キミをハッピーエンドに連れて行ってくれる人が迎えに来るまで、ボクが一緒にいてあげる。だから、そんな寂しいこと言わないで……?」
真摯で、それでいて切実な声で。俺の目をまっすぐ見つめたまま、絵空葵はその柔らかい両手で俺の手をぎゅっと握り締めた。
その手の感触に俺は、葵が布団の中に潜り込んできた夜のことを思い出した。葵は夜になると時々、俺の布団の中に潜り込んでくることがある。そういうとき葵はいつも、こんな風に俺の手を握ってきて、そのまま寝てしまうのだ。
出会ったばかりの俺に、葵がどうしてこんなに関わってくれるのか。それは分からない。
でも、誰かに手を握ってもらえる夜は不思議と心が落ち着いて、俺も安らかに眠ることが出来た。たとえ寂しさに押し潰されそうになっても、独りじゃない心強さに身を委ねることが出来るから。
葵はいつだって、その優しさで誰かに寄り添ってくれる。
そしてそれは、今だって同じだ。幸せを諦めようとした俺に寄り添おうと、その両手で握ってくれている。
「――分かったよ」
囁くようにそう答えると、俺は葵の手を強く握り返した。
「じゃあ、お前が一緒にいてくれるうちは俺も信じるよ。ハッピーエンドってやつが来るのを、さ」
葵を安心させようと、俺は慣れない笑顔を作ってみせる。驚いた葵は目を見開いたかと思うと、すぐにいつものように目を細めた笑みを見せる。
「うん! きっと大丈夫! 大丈夫だから!」
元気な声で葵は俺を励ましてくれた。その言葉に俺は、また口元に笑みを浮かべた。
それからしばらくした後、一道さんとユミさんが俺を引き取るために施設を訪れるのだが、それはまた別の話。
*
翌朝。随分と懐かしい夢から目を覚ました俺は、枕から頭を上げて上体を起こした。ベッドから床に足を下ろして、窓に歩み寄ってカーテンを開けると、春の暖かい日差しがガラス越しに部屋の中に降り注いだ。
俺は振り返って、明るくなった部屋の中を見渡す。さっきまで寝ていたベッドは、一道さんが俺を引き取る際に気分を一新しようと景気良く買ってくれたものだ。その隣には、ベッドと一緒に買ってくれた勉強机がある。こちらもベッド同様に長年愛用しているお気に入りのものだ。
机とは反対側の壁には本棚が置かれている。この本棚には俺が好きな漫画の他にも、一道さんが好きなアクション漫画や、ユミさんが薦めてくれた推理小説などが収められている。またこの部屋に備え付けられているクローゼットの中には、普段学校で着ている真っ黒な詰襟制服や、一道さんに買ってもらったりユミさんから譲り受けたりした私服が仕舞われている。
そんな自分の部屋を見渡しながら、先ほどまでの夢を思い返す。両親を同時に失ったあの頃、まさかこんな風に勉強机やベッドを買ってもらって、一人でも落ち着いて朝までぐっすり寝れる日が来るなんて、夢にも思わなかったな――と。俺の口元から自然に笑みがこぼれる。
そして同時に、葵の笑顔が思い浮かぶ。俺は窓から引き返して、ベッドの枕元に置いてあったスマホを手に取る。このスマホも、一道さんたちに買ってもらったものだ。
メッセージアプリを開いて、連絡先一覧から『絵空葵』の名前を選択する。表示されたメッセージ画面にあるのは、連絡先を交換したとき確認のため送信し合ったスタンプや短いメッセージだけ。
まさか葵とも、こんな風にスマホでやりとりする日が来るとは思っていなかった。施設を出てからしばらくの間、手紙でやりとりをしていたあの頃が懐かしく思えてくる――。
「――ん?」
そこまで考えたところで、俺の思考が止まる。そして一つの疑問が湧き出てきた。
葵は、どうしてスマホを持っているんだ?
施設では自分で働いてスマホ代を払える高校生を除いて、バイトが出来ない小中学生たちは個人のスマホを持つことは出来ないはずだ。俺がスマホを持ち始めたのだって、一道さんたちに引き取られて施設を出てからのことだ。昔、葵と手紙でやりとりをしていたのも、施設で暮らしている葵がスマホを持つことが出来なかったからだ。
そして昨日、俺が葵の近況を尋ねたとき、あいつは確かにこう答えたはずだ。『まだ施設で暮らしている』と。なのになぜ、葵は自分のスマホを持っているんだ?
ふとしたことから湧いて出てきた疑問。その疑問が不安を呼び起こし、吐き気を催したときのような不快感が胸の奥底から喉を遡ってくる。
俺はそんな吐き気をぐっと堪え、固唾と一緒に呑み込む。そして持っていたスマホにすぐさま番号を打ち込んで、電話をかける。呼び出し音が数回繰り返されたところで、相手が電話に出た。
『はい、こちら児童養護施設「やすらぎ園」です。何かご用でしょうか?』
実に六年ちょっとぶりに聞いたその穏やかな声に、俺は相手の顔と名前がすぐに思い浮かぶ。
「園長先生、久しぶりです。俺です。日向衛です」
俺がそう名乗ると電話の相手、『やすらぎ園』の園長先生は「ああ」と懐かしそうに呟いた。
『衛くんかあ。久しぶりだね。元気にしてたかい?』
「ええまあ、おかげさまで。園長先生こそ、お元気そうで何よりです」
『ははは。でも六十近くにもなると身体のあちこちが言うこと聞かなくて大変だよ』
困ったように言いながらも、穏やかな笑い声を漏らす園長先生の元気そうな声に、俺は懐かしさを覚えてつい口元が綻ぶ。
しかし今は世間話をしている場合ではない。俺はすぐさま気を取り直して、緩んだ顔を引き締める。
「ところで園長先生。俺が施設にいた頃に仲良くしていた、絵空葵って覚えてますか?」
『葵くんかい? 覚えているも何も、彼は今も施設で暮らしているからね。彼がどうかしたのかい?』
やはり葵は今も施設で暮らしているのか。改めて再確認した俺は更なる追及のため、質問を考えながら口を動かす。
「実は昨日あいつと会いましてね。昔の話をしたら懐かしくなって、また葵と話したくなってこうして電話をかけたんですよ。施設で暮らしてるって話でしたけど、いま葵に代わってもらうことって出来ますか?」
『ああー……。すまない、それは出来ないんだ』
「どうしてですか?」俺は詰めるように言葉を挟む。
『葵くんはつい先ほど出かけたばかりなんだ。確か、今日は映画を見に行くと言っていたかな』
「今日は? ってことは、最近出かけたことがあるんですか?」
『あ、ああ。というよりここ数年はほぼ毎週、休日になると出かけているよ』
園長先生の話を聞きながら、俺は再び違和感を覚えた。確かに施設で暮らしている子供たちには月々のお小遣いが与えられていて、漫画を買ったり遊びに出かけたりするのに使うことも出来る。
だがお小遣いと言ってもその金額はささやかなもので、少なくとも毎週遊びに出かけることが出来るほどの余裕があるとは思えない。またお小遣いは子供たちが派手に使い込んだり、他の子の分を盗んだりしないよう、お小遣いは所定の金庫に入れた上で職員たちがその収支と用途を管理しているから、園長先生も葵の外出頻度の多さには違和感を覚えていてもおかしくないはずだ。
『――衛くん』
園長先生の、いつになく真剣なその声に俺は意識を引き戻される。
『まさかとは思うけど……葵くん、何か厄介なことに巻き込まれていないよね……?』
「……どういうことですか?」
俺がそう問い返すと、電話口から園長先生が深く息を吸う音が聞こえた。
『実はこの間、葵くんがスマホを持っているのを見たんだ。施設から支給したはずはないから、不思議に思ってね』
やはり、葵のスマホは施設から支給されたものじゃないのか。しかしそうなると――。
『そう、どこで手に入れたのか気になってね。葵くんに訊いたら、「親戚に貰った」と言っていたんだが、しかし……』
園長先生は納得しきれてないように言葉を濁す。俺も同感だった。
親戚にスマホを貰ったというのは考えられない話ではないが、ならばどうしてその親戚はそんな親切にしておきながら、葵を引き取りに来ていないのか。その違和感を考えると、やはり葵はまだ何か隠している可能性が高い。それも、そんな言い訳を使って誤魔化さなければならないような、後ろめたい何かを。
「園長先生」
意を決した俺は、はっきりとした声でこう続けた。
「葵が今日どこに行ったか、もし知っていたら教えてください。俺も、自分の目で確かめに行きたいんです」
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葵の行き先を園長先生から聞いた俺は、最低限の身支度を整えるとすぐさま家を飛び出した。
葵が向かったのは、休日の外出先として有名な繁華街の一つ。その中でも地上、地下の鉄道を含めて合計九つの路線が交差するこの場所は特に人が多く、様々な年齢、性別、体型、種族の人たちが、四車線もある車道が交わる広大な交差点を埋め尽くす勢いであちらこちらへと行き交っている。
そんな雑踏の中にいるかもしれない葵を探すべく、俺はスマホを取り出す。地図アプリが開かれたスマホ画面には、この周辺の映画館の位置を調べた検索結果が表示されている。俺はその中から一番上に出ている映画館の場所に向かって、人の流れに逆らわないよう歩き始めた。
地図アプリでは徒歩数分の距離と表示されていたその道のりは、人混みのせいで思うように進めなかった。焦りから何度もスマホ画面を見て道のりを確認するが、それで人込みに縛られた足取りが早くなるわけもなく、ただただ人の流れに身を任せて歩き続けるしかなかった。
長い長い人混みを歩き続けて、ようやく目的の建物へと辿り着いた俺は、ほっと一息つく。
しかし問題はここからだ。複合商業施設として飲食店なども内包しているこの建物は地上十四階、地下二階まである。しかもそのうち映画館だけでも半分近いフロア数を占めているらしく、そのスクリーン数は六つもある。虱潰しに葵を探そうとするのはあまりにも無謀だろう。
しかし手がかりはある。園長先生から聞いた話では、葵は話題の恋愛映画を見に行ったらしい。ならば六つのスクリーン全てを探すのではなく、その映画が上映されているスクリーンだけに絞って探せば、見つけられなくもない。
そしてもう一つ、絞り込む方法がある。俺はポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリの通話機能を使って葵に電話をかけた。
葵は昨日、わざわざ俺に「連絡先を交換しよう」と言ってきた。そんな俺からの電話が来たとなれば、例え誰かと一緒にいたとしても何の反応もせず無視するとは考えにくい。断りを入れるためにとりあえず電話に出るか、あるいは電話に出られない事情を伝えるためにメッセージの一つでも送ってくるだろう。
そう考えながら葵が電話に出るのを待ち続けるが、呼び出し音が繰り返されるだけで一向に出る気配はない。そしてそのまま葵は出ることなく、呼び出し音もぷつりと途切れた。
耳からスマホを離した俺は、葵とのメッセージ画面に『もしかして何か用事だったか? いきなりかけて悪かったな。急ぎの用事じゃないから、暇なときにでも連絡くれると助かる』と入力して送信する。それから数分待ってみるが、送信したメッセージに『既読』の表示は出なかった。
電話に出ない。メッセージも見てない。これらのことから葵は、『スマホをすぐさま取り出すことが出来ない状況』――つまり、今まさに上映中のスクリーンにいる可能性が高い。
俺はスマホで現在の時刻を確認しつつ、この映画館で恋愛映画を上映する予定のあるスクリーンのうち、上映中のスクリーンを絞り込む。
該当するスクリーンは、たった一つ。しかも上映終了間際だ。俺はすぐさま建物内のエレベーターに乗り込み、そのスクリーンがあるフロアのボタンを押した。
*
エレベーターから降りた俺は早足で問題のスクリーンへと向かう。そして到着したとき、ちょうど上映が終了したのか出入り口から客が出てくるところだった。
俺は離れたところから、スクリーンから出てくる客を観察し始める。大柄な熊獣人の中年男性、高校生ぐらいの狼獣人と兎獣人のカップル、小学生ぐらいの子供を連れた三人家族の猫獣人たちなど、スクリーンから次々と出てくる客から客へと視線を移していき、その中にあいつがいないか探す。
そしてその人混みに紛れて、ちらりと。あの特徴的な青い羽の色が見えた。
遠目からでも分かるその青い影を、俺は視線で追う。青い影は人混みから抜け出して、その全身がはっきりと見えるようになった。俺の読み通り、見覚えのある青い羽の持ち主はやはり、絵空葵その人であった。
しかしすぐに声をかけることは出来なかった。なぜならば、葵は一人ではなかったからだ。
葵と一緒に歩いているその人物は、眼鏡をかけた穏やかな笑顔が特徴的な犬獣人の男性だった。遠目だからはっきりとは分からないが、顔立ちからして歳はおそらく四十代ほど。すらりとした長い手足が特徴的な痩せ型のスタイルをしており、丁寧に手入れされているその真っ白な毛並みは天井の照明を受けてきらきらと輝いている。
親しげに会話をしている様子の二人を視線で追いながら、俺は気付かれないようその二人の背後に回り、後をつける。一定の距離を保ちながら尾行していくと、二人はエレベーターの前で立ち止まった。俺は思い切って、二人の会話が聞こえるぐらいの距離まで近付いてみることにした。
「あ~! 映画、本当に良かった! 誘ってくれてありがとうね、先生!」
葵はそう嬉しそうな声を出して、隣にいる男性に話しかけている。男性もまた、葵に向かって穏やかな笑みを浮かべている。
「葵くんが喜んでくれて僕も嬉しいよ。今度のデートはまた再来週でいいかな?」
「もちろん! でも、本当は毎週でも会いたいぐらいだけど……」
「ごめんね。でも、次は久々に家で会おうか」
「えっ、本当に!?」
葵は一際大きな声を出して男性の顔を見る。男性はにこりと穏やかな笑みを浮かべたままだ。
「もちろんだとも。その代わり――……」
男性が少し屈んで、葵の耳へと口を近付ける。そして。
「――それまでにしっかり『準備』しておいてね?」
と、不敵な笑みとともに囁いた。その意味深な言葉に葵は顔を赤らめると――。
「……うん。ボク、ちゃんとしてくるから。だから、優しくしてね……?」
そう恥ずかしそうに、でも嬉しそうな声で、その小さな身体を傾けて男性に寄り掛かった。男性は穏やかな笑みを浮かべたまま、葵の小さな頭を軽く撫でた。
先生。デート。家。準備。そして、「優しくしてね」という葵の言葉。
そんな単語が飛び交う二人の会話に頭が真っ白になった俺は、同時にそれらのキーワードから最悪の答えを導き出していた。
まず、葵がなぜスマホを持っていたのか? ――それは、あの男性と頻繁に連絡を取り合うためだ。
次に、葵はなぜ男性の存在を園長先生たちに隠しているのか? ――それは、およそ公に出来ないような関係性だからだ。
そして最後に。葵と男性は一体どういう関係なのか? ――もちろん、親戚同士の付き合いではないことは会話の内容からして明白だ。
これらのことから、考えられる結論は一つしかない。
葵と男性は、付き合っているのだ。おそらくは、恋人同士として。
その答えに辿り着いた瞬間。俺は、自分の胸の奥がざらつくのを感じた。不快感と不安が同時に押し寄せたような、そんな感覚だ。
それと同時に、全身の力が抜けていく。呆然と立ち尽くしたまま、思考と両足が停止する。
やがて『チン』という軽快な音とともにエレベーターのドアが開き、周囲にいた客がエレベーターへと乗り込んでいく。当然、葵と男性もエレベーターへと乗り込んでいく。
だが俺はその場から一歩も動くことが出来なかった。今すぐ追いかけて葵に聞きたいことが山ほどあるというのに、力の抜けた身体は言うことを聞かず、俺はただぼおっと二人の背中を見つめることしか出来なかった。
やがて周囲にいた人のほとんどがエレベーター内部に乗り込んで満員になったところで、ドアが閉まる。一人取り残された俺は、エレベーターの階数表示の明滅を呆然と眺めていた。