赤ずきんと狼のよくある話

  赤ずきんは悪しき狼を退治した英雄ではない。

  慢心から罠に嵌り、自らのみならず祖母まで命の危険に晒した愚かな娘だ。

  猟師が助けに来ていなかったらどうなっていたことか。

  しかし真の英雄たる猟師の血筋はいつしか途絶え、悪名高き赤ずきんの呪われた血だけが受け継がれている。

  それ故に狼の末裔は今も赤ずきんの命を狙って満月の晩を迎える度に森を彷徨うのだという。

  「だから赤ずきんは責任を取って、村の安寧のためにギセイにならなきゃいけないんだって」

  ひととおり伝承を語り終えると、腰まで伸びる茶髪に青い瞳の少女はふうと息をついた。

  満月も近い、夏の昼下がりの森の中。

  少女の憂いを隠すようにちょうど木の葉の影が顔のあたりにかかった。

  「狼を倒すんじゃないのか?」

  隣に腰かけていた短く束ねた黒髪に金の瞳の青年は怪訝そうに尋ねる。

  「今の話、そういう流れだったろ」

  「甘いなぁモンド君は」

  ちっちっと少女は指を振った。

  「だって狼を倒す方法は分かってないんだよ。猟師は聖別された銀の弾を使っていたなんて話もあるけど、それも後から他の話と混ざってる可能性が高いし」

  「なるほど」

  モンドと呼ばれた青年は考え込むように顎に手を当てる。

  「銀の弾でも死ぬ確証はないのか」

  「何、倒したかったの?」

  揶揄うように少女が言えばモンドは苦笑する。

  「いいや。でもいざって時に誰かが倒せる方が安心するだろ」

  誰かが、ねえ、と少女は噛み含めるように呟く。

  「あたしがもし狼を倒したら、みんな喜んでくれるのかな」

  どこからか夏とは思えないほどの涼やかな風が吹いてくる。

  少し遠くに目をやると、色とりどりの花々が寄り添うように咲いて絨毯のようになっている。

  伝承によればあの花畑こそ赤ずきんが悪しき狼と出会した場所らしい。

  「ヘレナが?狼を?」

  少女の名前はヘレナと言った。

  「何よ、私じゃ無理だとでも?」

  「いや。出来るかもな」

  「適当だなぁ」

  まあ絶対に無理なんだけどね、とヘレナは心の中で呟いた。

  [newpage]

  彼と出会って、こんな他愛のない話をするようになってからどれくらいが経っただろう。

  ヘレナは初めて____正確には10年ぶりにこの森に来た時のことを思い出す。

  暮れかける太陽を眺めながら、自分の未来をただ悲観していた。

  もう人生に二度と夜明けは訪れないような気がしていた。

  いつかの赤ずきんみたいに、頭巾は持っていないが、素足のまま誘われるように森の奥の花畑に立ち入った。

  花畑というのは元々魔物の集まりやすい場所らしい。

  理由は分かっていないが、美しさに惹かれるのは人も魔物も同じとか、そんなメルヘンチックな理由だったらいいのにと年頃の少女らしく考えていた。

  大の字になって、このまま夜が来て魔物に襲われて死んだって構わないと思った。

  (どうせあたし、居るだけで迷惑な存在なんだもん)

  赤ずきん。

  忌々しいその名が、彼女の唯一にして絶対の肩書きだ。

  その肩書きのために少女は放浪の旅から村へと戻ってきた。

  『悪しき狼が村人を苦しめている。一族の汚名を雪ぐため、その身を捧げよ』

  村長様のありがたいお達しを受けて。

  そして本当にそのまま眠りこけていた。

  細い三日月が天頂に掛かる頃、ようやく人の気配に気づいて彼女は目を覚ました。

  「大丈夫ですか」

  見ると黒いぼさぼさ頭の青年が怪訝そうにヘレナを見下ろしていた。

  「ここは魔物が集まるんで危ないですよ。道に迷ったなら送っていきますけど」

  片手に何やら荷物を抱えている。

  彼もどこからかの帰りがけらしい。

  「あっごめんなさい。少し休むつもりが寝ちゃってたみたい」

  へらへらと笑いながら誤魔化した。

  自分が赤ずきんで人生に絶望してたんですなんて言えるはずもない。

  少女の挙動不審ぶりに感じるものがあったのだろうか、青年は何も言わず優しく手を差し伸べた。

  お互いに詮索をすることはない。ただ天気や植物の話などしながらゆっくりと歩いた。

  それだけなのに妙に心地良かった。

  森の出口で別れた時ヘレナはつい口にしていた。

  「あの、また会いませんか?今日のお礼もしたいので……さっきの花畑で」

  「俺と?」

  よほど意外だったらしく青年は目を見開いた。

  「い、嫌だったらいいです」

  「いや。あー、嫌じゃない。分かった」

  それが、ヘレナとモンドとの出会いだった。

  結局あれから毎日のように花畑の周辺で他愛無い話をするのが日課になっていた。

  時が来れば、ヘレナは村長との約束を果たすためその身を捧げる覚悟だ。

  しかしもう少し、あと少しだけ、こんな穏やかな時間が続くことを願っていた。

  「モンドはさ、森近くの小屋に住んでるわけじゃない。怖くないの?いつ狼が来るかなぁとか」

  彼はヘレナが赤ずきんであることを知らない。

  そもそも彼も村の外から来ているようで、伝承の類には明るくないらしい。

  ならばわざわざあんな話をする必要もなかった気はするが、隠してかえって不審がられるのも面倒なので話してしまうことにした。

  正体について話すかは未定だ。

  少しの間が空いた。

  彼は何か別のことに思いを馳せているようだった。

  「俺に怖いものはないよ。俺が誰かに迷惑をかけることの方がよっぽど怖い」

  根の優しい彼らしい答えだ、とヘレナは思った。

  [newpage]

  いつも何かから逃げ惑っている夢を見る。

  それはいつか見た狼なのか、母を糾弾した村人たちなのか。

  母は狼狩りに失敗した。

  無謀な試みであることはきっと彼女自身にもわかっていた。

  それでもあの時はやるしかなかったのだ。

  村人たちの期待に応えるために。

  ドンドン、と今にも扉を蹴破りそうな音がする。

  狼が追ってきたのだ。

  母は幼いヘレナを文字通り命懸けで裏口から逃がした。

  間もなく、張り裂けるような悲鳴が聞こえた。

  『逃げて、早く逃げて』

  一瞬振り返った先で、黒い影によって森の奥へ引き摺られていく母だったモノの姿が見えた。

  最期の言葉が耳の奥で今も響いているような気がしていた。

  後から聞く話によれば、狼は結局、屈強な村の男たちによって森の湖の水底に生きたまま沈められたそうだ。

  そんなことなどつゆ知らず、ヘレナは逃げ続けた。

  はじめは森を越えて、さらに遠くの村に住む親戚の家へ。

  しかし赤ずきんの呪いに巻き込まれることを恐れた彼らから早々に家を追い出され、孤児院に預けられた。

  やがて孤児院からも逃げ出して、時に森の獣同然の暮らしをしながら方々を彷徨っていた。

  逃げて、逃げて、逃げても、逃げても。

  あの大きな黒い影に追われているような感覚が拭えない。

  だから村長から手紙が届いたとき、絶望と同時に安堵する自分がいることにヘレナは気づいていた。

  もう、逃げる必要はないのだ。

  今まで逃げ続けてきた罰として再び現れた狼と対峙する。

  最初に聞いた時は例の狼が湖の底から蘇ったものと思っていたが、噂を信じるならばそれは10年前に現れたものよりもさらに巨大な個体だという。

  とすれば先代の後継者といったところだろうか。

  同じく赤ずきんの後継者たるヘレナを見たとき、一体どのような感情を抱くのだろう。

  怒り?憎しみ?復讐心などがあるのか。

  何にしても彼女のやることはただひとつ。

  非力な彼女に化け物を討つことはできない。

  ならば贖罪と献身の心を持って赦しを請うだけ。

  これまでと同じように。

  (大丈夫。あてどなく逃げ続けるよりよっぽどいい)

  布団の中で自分を元気づけるように手を握りしめる。

  結局、モンドに自分が赤ずきんだと明かすことはできなかった。

  ある日突然、いつもの花畑に見知った少女が来なくなったら、少しは悲しんでくれるだろうか。

  それとも案外、すぐに忘れてしまうだろうか。

  『狼の目撃情報があった。明日、私の家に来い』

  酷く簡潔に書かれた村長名義の追加の手紙が、枕元の電灯の下で揺れていた。

  きっと今度こそ、終わりが近い。

  [newpage]

  「失礼します」

  どこにでもある田舎村といった素朴な石造りの他の家々と違って、村長の屋敷は外観も内装も王都のそれと見紛うほどに立派だった。

  赤い絨毯の敷かれた長い廊下を進んでいき、聖なる銀の装飾の施された大理石造りの大きな扉を開ける。

  村人の話によれば『狼』は王都から指定を受けた災害級の魔物であり、それを森に閉じ込めておくという約束で莫大な支援金を受け取っているらしい。

  そのせいで被害が出ているのなら村長はもう少し誹りを受けてもいいとヘレナは思うが、結局それも全責任を『赤ずきん』に押し付けることで上手く逃れているのだろう。

  「来たか、赤ずきん」

  眉間に深く皺が刻まれたいかにも偏屈そうな白髪の老年男性が、革張りのソファの真ん中に深々と腰かけたままヘレナを値踏みするように睨みつける。

  ヘレナはなるたけその視線から逃れるようにしながら、向かい合わせに据えられた2人掛けのソファの端に座る。

  「狼が現れた。正確には遠吠えを聞いた者がいる。満月の前であるにも拘らず、だ。お前は今まで何をしていた」

  淡々と、機械のように彼は言葉を紡ぐ。

  「今日が満月の晩だ。お前が来てから三度目の、満月の晩だ。これまで二度お前を森で待機させた。しかし狼の影すら見なかったとそう報告したな」

  「その通りです。二回とも手足を縛られていたので逃げようもありませんでした」

  「では何故狼は姿を現さなかった!」

  苛立ったように彼は目の前の楕円状のテーブルを叩いた。

  彼の分だけ用意されたティーカップが揺れた。

  「分かりません」

  ヘレナは心を無にして返答した。

  知るわけがない。狼は赤ずきんに会いたくなかったのでは?なんて言えたら楽だったろうが、言えばこの場で射殺されてもおかしくない。

  それくらいの気迫がこの老人にはあった。

  「何かを企んでいるのなら無駄なことだ」

  「え?」

  「赤ずきんは長い間厄介者として扱われてきた。自業自得とはいえ積怨の類もあろう。大人しく従う振りをして実際には村の破滅を願っていたとしても理解できぬ話ではない」

  「まさか!」

  この老人、疑り深さに妄想癖まで加わったらしいとヘレナは内心溜息をつく。

  「育ててくれたこの村を貶めるようなことはしません。大体、お疑いになるなら何故あたしを呼び戻したのですか」

  一息に言うが、村長が疑いの目つきを変えることはなかった。

  「呼び戻したのは村の平穏のためだ。思い上がるな、儂はお前を信用したことなど一度もない」

  彼は立ち上がってヘレナに背を向ける。

  「今回も同じ結果に終わるようなら、次はお前の身体中から血を抜いて森に撒いてくれる。お前が死んだと分かれば狼の怒りも静まるだろう」

  [newpage]

  胃のむかつきを抑えながら、ヘレナは帰り道をとぼとぼと歩いていた。

  村の中心であるはずの大通りも今日は人出が少ない。

  満月だからだ。まだ日は出ているが、狼の噂がある以上いつ何があるか分からないので、みな極力外出は控えているのだろう。

  時々通りがかる主婦などもヘレナを振り返ることはない。

  赤ずきんの正体は村人たちには伏せられている。

  ただ、近々供物が捧げられるので狼によって人々が苦しめられることはしばらくなくなる……という曖昧な噂に縋っている。

  そもそも狼が具体的にどのように人々を苦しめているのか、ヘレナは知らない。

  何か惨殺死体でも見つかったのかもしれないが、ヘレナは見ていない。

  狼なんて本当にいるのかと、未だに悪夢に苦しめられる身ですら疑問に思う。

  そんな曖昧尽くしの存在のためにヘレナはこれから身を捧げようとしている。

  それでも理不尽だとは思わなかった。

  逃げ続けた罰が当たった、そして死ねばきっと天国の母さんに会える。

  ただひとつだけ心残りがあった。

  「モンド、お別れ言えなくてごめんね」

  今日は花畑に行く気が起こらなかった。

  [newpage]

  最後の夜は思いのほか早く訪れた。

  前回、前々回と同じように手足を縛られて、出荷される家畜の如く荷車に乗せられ森の奥まで運ばれる。

  今回はこれまでと違う場所に連れていかれるらしい。

  より狼の現れる可能性の高い場所、と村長の付き人たちは言っていたが、そんなもの誰も知らないくせにとヘレナは心の中で呟いた。

  狼はこれほどまでに多くの噂があるのに、その棲み処については誰も知らないと言う。

  確かなのは満月の晩には必ずどこかに現れるということ、昼間に姿を見た者はいないということ、それだけだ。

  「ここ……」

  乱暴に荷車から降ろされてぐらつく視界のまま、しかしヘレナはそこがどこであるかすぐにわかった。

  胸いっぱいに花の香りが広がる。

  「伝承の花畑だ。お前には似合いだろう」

  ヘレナを物のように投げ捨てた付き人は、汚いものを触ったというように手を払いながら、他の男たちとともにそそくさと立ち去った。

  回を重ねるにつれて扱いが雑になっていく。

  最初はきちんと木の幹に縛り付けていたのに、こんな簡単に転がしておいては逃げられたって文句は言えない。

  しかしヘレナは到底逃げ出す気にはなれなかった。

  何と言う偶然だろうか。

  ここは彼女の大好きな場所だ。

  幾度もモンドと語り合った、ひと時だけでもごく普通の少女のように過ごせた場所。

  満月が東の空から昇りかけている。

  静かに降り注ぐ光が花々を幻想的に照らし出していた。

  確かに魔物を惹きつけるというこの花畑なら、狼も姿を現すかもしれない。

  「ぅ……あ………」

  満月が、南の空に差し掛かる頃。

  暗い視界の片隅で、誰かの呻くような声がする。

  それはとても聞き覚えのある声のような気がした。

  「ああ、がああア、ゥゥ……」

  やはり気のせいだろう。

  低い、獣のように低く荒々しい声だ。

  ヘレナは暑さと喉の渇きと束縛されている痛みとでもはや何かを考える気力も失っていた。

  ただぼうっと、あれはきっと狼だ、と思った。

  とても恐ろしいのに酷く苦しんでいるようにも感じられて、ヘレナは同情すら覚えていた。

  どこに行っても正体がばれれば呪われた血としてその場所を追われた。

  村に戻ってくれば愚かな娘と罵られ、平穏に生き続けることすら許されなかった。

  「オオオーーン………」

  狼の遠吠えが響き渡った。

  彼は自分と同じだ。

  「ここ、だよ」

  ヘレナは気づけば声をあげていた。

  「狼さん、あたしは……赤ずきんはここだよ」

  こんな自殺行為、思考がまともだったならするはずもなかっただろう。

  誰かにここにいることに気付いてほしかった。

  誰でもいい、村人でも村長でも、天敵である狼でも。

  「もう、疲れちゃった。早く……早く楽にして」

  足音が近づいてきた。

  肌を震わせるような瘴気が強まってくるのを感じる。

  そして______

  [newpage]

  『それ』は姿を現した。

  夜の闇よりも黒い、硬質の毛皮と引き締まった筋肉に覆われた大きな身体。

  成人男性の二倍、いやそれ以上はありそうだ。

  弓形に大きく曲がった背骨と、人間の頭など軽く握りつぶせそうな鉤爪を携えた大きな手、対して踵が見当たらぬ以外はほぼ人のそれと見紛う歪な形の足。

  しかし顔は野生の狼そのもので、黒く湿った鼻と、剥き出しになった牙の間から長い舌が覗く。

  黄金色に爛々と輝く瞳はヘレナの姿を認めると、ガラス玉のように大きく見開かれた。

  「オマエ、ハ……」

  驚いたことに、その口からは人の言葉が漏れた。

  獣の唸り声がそのまま言葉へと変わったような低く不明瞭なものだったが、確かに言葉として認識できた。

  知性がある。人間と同等か、もしくはそれ以上の。

  ヘレナはそこでようやく、自分が全身ガタガタと震えていることに気づいた。

  生物として魂に刻まれた根源的な恐怖。

  決して敵わない、逃げられもしない絶望感。

  細胞の一つひとつが拒絶するかのように肌が粟立ち、叫び出したくなる衝動をどうにか堪える。

  しかし最後の最後にしくじるわけにはいかない。

  代わりに気丈に声を上げた。

  「赤ずきん、です。狼さん、あなたに食べられに来ました」

  ずっと頭の中で反芻していた台詞だった。

  狼はますます目を見開いた。

  そこから間合いを詰めて屈み込んでくるまではまさに一瞬だった。

  毛むくじゃらの手が覆いかぶさる。

  ああ、このまま握りつぶされてミンチになっちゃうんだ。

  頭が真っ白になった。

  だが、その手はそのまま背中へと回された。

  ぶち、ぶちと何かを千切るような音が聞こえる。

  腕でももぎ取られているのか。

  いやその割には痛みを感じない。

  むしろ身体が自由になっていくような……。

  「あ、れ……?」

  縄を解かれていた。

  狼が、解いていた。

  鉤爪を操りながら一本一本器用に断ち切っていく。

  見なくても分かるほどに鮮やかな手業であるのに、その爪がヘレナに当たることはない。

  最後に足の縄を外すと狼は彼女の背中を抱き、近くの木の幹にそっと寄りかからせた。

  予期せぬ行動にヘレナの思考は完全に停止していた。

  きっと今際の際に都合のいい幻覚を見ているに違いない。

  「大丈夫、カ?」

  嗄れた声が案じるような響きを帯びているような気がして、ヘレナは恐る恐るその顔を見上げた。

  屈み込まれているせいで吐息がかかるほど近い。

  瞳は変わらず剣呑な光を湛えており、大きな口は少女を呑み込む瞬間を今か今かと待っているようだ。

  「た……食べるんですよね」

  震える声で問うと、狼は僅かにその口を開く。

  「食ワナイ」

  「赤ずきんですよ、あたし」

  「ソウ、ラシイナ」

  「らしいなって……」

  狼の末裔は今も赤ずきんの命を狙って満月の晩を迎える度に森を彷徨うのだ。

  その伝承が事実でないことなどあるものだろうか。

  「駆け引きとかいいですから。あたし、食べられる覚悟で来てますから。あたしが供物になれば村の人たちの安全を保証してくれるんでしょう?」

  ヘレナは震えを隠さぬまま懸命に言葉を紡ぐ。

  もうどうにでもなってしまえという心境だった。

  しかし、狼から返ってきた答えは予期せぬものだった。

  「ソンナ、約束、ハ、知ラナイ」

  背筋に寒気が走る。

  聞いていた話と違うではないか。

  「じゃあ何が欲しいの。何になら満足してくれるの。何でもするわ、だからお願い、みんなを____」

  「ヘレナ」

  今聞こえるはずのない名前が聞こえた。

  次の瞬間だった。

  ヘレナは狼に抱きすくめられていた。

  しかし強く締め付けるわけでもなく、何かから守るように。

  「え……?」

  「話、シタイ。付イテ、来テ、クレ」

  [newpage]

  今、ヘレナは狼の後を付いて歩いている。

  月光降り注ぐ花畑の横を抜け、さらに奥へ。

  木々はますます鬱蒼と密度を増していき、外に居るのに閉塞感すら覚えてくる。

  どこまで行くのだろう。

  不安を感じて見上げた月を、厚い雲が覆い隠そうとしていた。

  狼は不意に立ち止まった。

  「グウゥ……ア、ア……」

  唸り声と共に黒い毛並みが脈打つように揺れる。

  ヘレナは思わず身を引く。

  星明かりだけの空の下では判別しづらかったが、彼の身体に何か信じがたい変化が起こっていることは分かった。

  手の鉤爪がみるみるうちに短くなっていく。

  尖った耳は丸みを帯びて顔の横へと移動していく。

  突き出たマズルは徐々に平たくなり、犬歯は折れて地面に落ちる。

  「がアア、……カハッ、はっ、……はあ……」

  全身を覆っていた毛も抜け落ちて、露わになった肌は人間のそれと同じ色をしている。

  筋肉は風船の空気が抜けるように萎んでいき、それに合わせて体長も縮んでいくようだった。

  背骨はバキリ、と音を立てながら真っ直ぐに伸びて、足には踵が形成されようとしていた。

  そう、彼は人間に_____それもヘレナがよく見知った人物の姿に変わろうとしている。

  8割方変化が終わったところで彼は這うようにして茂みの方へと姿を隠す。

  今度出てきた時には人間の服を着ていた。

  もう見間違えるはずもない。

  しかし信じられなかった。

  「モン、ド?」

  彼はモンドだ。この村に戻ってきてから毎日のようにあの花畑で語り合った、心優しいヘレナの友人、モンドだった。

  「月の隠れてる間だけだから手短に話す」

  モンドは肩で息をしながら続ける。

  「ずっと黙ってて悪かった。俺は『人狼』だ。満月の夜に狼の姿になる……多分、お前が言ってた伝承の狼そのものだ。でもそれだけなんだ、誓って人を害するつもりはない。お前が赤ずきんだろうが関係ない」

  硬直したままのヘレナを見て、彼は力なく笑う。

  「信じてくれなくてもいい。ただ、無防備なこの姿を晒したことを俺なりの誠意と思ってほしい」

  変化を終えたばかりの彼の身体はボロボロで、ところどころ出血もしていた。

  どれほどの痛みを伴っていたのか、そして今もまだ痛むのかは表情を見ても分かる。

  ヘレナはようやく我に返った。

  彼は確かに、彼女の知っているモンドだ。

  「その……痛くない?」

  ようやく言葉を発すると、モンドは一瞬驚いたように目を見開いてから頷いた。

  その仕草が先ほどの狼を思い出させた。

  「痛いけどもう慣れた」

  「そう、なんだ」

  何と返すべきだろうか。

  逡巡した末、ヘレナはようやく言葉を絞り出した。

  「ありがとう。助けてくれて」

  モンドは再び、我慢できなくなったようにヘレナを強く抱き締めた。

  [newpage]

  少し気分が落ち着いたので、ヘレナは改めて状況を整理することにした。

  「でもどうして。モンドが本当にあの狼なら、赤ずきんのことが憎いでしょう。赤ずきんだけじゃない、人間そのものが」

  伝承を思い浮かべながら問い掛ける。

  これまで何度も狼の一族は人間の手にかけられている。

  完璧に殺すための方法こそ確立していなかったが、10年前のように生き埋めにしてしまった例ならいくらでもあった。

  あれは本当にただのお伽話ではないのだ。

  だがモンドはきっぱりと首を振った。

  「俺には恨む理由がない」

  「あるよ。先代の狼は赤ずきんと争って湖に沈められたんだもの」

  「親父は自分勝手なクズだった。可愛がってもらった記憶なんか一つもない。俺の親は今も昔も人間だった母さんだけだ。俺は心だけでも、人として人を守りたいと思ってる」

  そう言い放つと忌々しげに自分の掌を見つめる。

  「こんな体質じゃ何も説得力ねえけど。でも本当なんだ」

  絞り出すような声に、ヘレナの心臓はずきりと痛んだ。

  彼女の知っているモンドはいつだって優しく他人のことを第一に考えていた。

  さっきだってそうだ。

  怯えるヘレナに躊躇なく手を差し伸べて縄を解いていった。

  「だったら……あたし……ごめんなさい。ずっと誤解してた。狼は怖いものだって決めつけてあなた自身のことを何も知ろうとしなかった」

  「それはこっちの台詞だ。まさか赤ずきんがこんな近くに居るとは思わなかった。もっと早く正体を明かすべきだった」

  モンドは何かを思い出すように苦笑した。

  「この前も、満月じゃないのに抑えきれなくて変身しちまったときがあったんだ。今思えば赤ずきんの血に反応してたんだと思う。あの時に気づいておけば良かった」

  それを聞いてヘレナは不意に納得する。

  「そっか、村長が言ってたのはその時のことだったんだ」

  「村長と話してたのか」

  「つい昨日ね。あたし、村長に呼ばれてこの村に戻ってきたの。狼の供物になれって」

  モンドはその言葉に明らかに傷ついたような顔をする。

  「そんなもん望んでないのに」

  「でもそれで村が平和になるって言われたの」

  「そうか……」

  考え込む様子を見せたのち、意を決したようにモンドは口を開く。

  「明日俺から村長に話をしてみるよ。どこまで聞いてもらえるかは分からないが」

  「危ないよ、殺そうとしてくるかも」

  「その時はその時だな」

  「絶対に駄目。……どうしても行くなら私を連れていって。村長の相手なら慣れてるから」

  ヘレナはモンドの手を握った。

  傷だらけの硬い手だ。

  傷を負うことに慣れた体は己を傷つけることを躊躇しなくなる。

  どれほど助けになるかは分からないが、最悪の事態を避けるためにも、自分が側についているべきだと思った。

  「なら頼むかな」

  「任せて」

  「ああ、お前がいてくれて良かっ……ぐっ……」

  突然モンドは苦しげに胸の辺りを押さえた。

  「どうしたの?」

  焦ったように空を見上げる、黄金色の瞳の中に眩い光が映っていた。

  月を覆っていた雲が晴れようとしているのだ。

  それはつまり彼が再び狼の姿に戻ることを意味している。

  「離れてろ、傷付けたくない」

  「わ、分かった」

  [newpage]

  ただならぬ殺気にヘレナが立ち上がって距離を取るのと反対に、モンドは呻き声を上げて倒れ込み地面に四つん這いの状態になる。

  「ぅぅあ、ああアッ………!!!」

  黄金色の瞳孔が震えるように収縮する。

  先ほど人間に戻る時とは反対に、身体中の筋肉が風船のように膨らむとブチブチと音を立て、シャツとズボンを食い破りながらそれ自体が生き物のように脈打ち巨大化していく。

  同時に髪の毛も躍動しながら背中へ、胸へと広がってゆき、やがて身体の表面から生えてきていた漆黒の剛毛と完全に同化した。

  「フーッ、フーッ」

  ゴキン、バキンと骨が割れ砕けるような音が絶えず響き、その度に彼の口から悲鳴が漏れる。

  身体を支えていた手は骨張って、地面に突き立てた爪が鋭さを増しそのまま地中に食い込む。

  後ろ足は踵が持ち上がるような形となり、平たい爪はもはや前脚となった手と同じように立体的な鉤爪と変わっていった。

  「ぐア、アア、おおオオオオ」

  耳が上へと引っ張られるのと鼻面が前に引っ張られてマズルを形成するのはほぼ同時だった。

  大きく開かれた口の上下から犬歯が伸びて、端から流れ出た血液が涎と混じり体毛を濡らした。

  「ガアアアアああアッ!!!」

  血の匂いに興奮したのか、それとも絶え間ない苦痛からか。

  ひと際大きな咆哮が響き渡った。

  身体はなおも変化を続けており、背骨は大きく湾曲すると山のように盛り上がり、いよいよ四肢で駆けるのに適した体勢になる。

  それでもどうにか二足で立ち上がると、身体に張り付いた服の端を爪で引き裂くようにして乱雑に取り払う。

  「グルル………ウ、ウゥ………」

  最後に、尻の辺りからズルズルと引き摺られるようにして、長く太い尻尾が飛び出した。

  狼はよろめきながら近くの木の幹に背中を預けた。

  「ハッ、……ハッ………」

  その姿は紛れも無く、満月の夜に現れる怪物。

  あらゆる生物を蹂躙する森の覇者。

  黄金に輝く瞳も、長く伸びた犬歯も、巨大な鉤爪も、全てがその獰猛さを示すようだった。

  しかし離れた場所で見守るヘレナは無意識のうちに涙していた。

  その変化は彼女にとってはあまりに痛々しく映った。

  「大丈夫?」

  変化が終わって少しした後、ヘレナはそばに寄って声を掛けた。

  恐怖を全く感じないわけではなかったが、改めて変身を目の当たりにした今では心配の方が勝っていた。

  狼は荒々しく呼吸をしながらコクリと頷く。

  少女に目を合わせようとはしない。

  変身過程を見られたことに気まずさを覚えているのかもしれなかった。

  ヘレナは狼の隣に座り込む。

  先ほどまでの喧騒が嘘のように静かな夜更けが訪れた。

  二人の時は止まったように、いつしか狼の荒々しくも規則正しい呼吸にヘレナは安心感すら覚え……毛皮に頭を預け眠りこけていた。

  狼はと言えば、内心大いに動揺していた。

  短時間に変身を2回も繰り返したことで神経が昂っていたのもあったが、警戒心なく眠ってしまった少女を起こさないよう、そしてうっかり傷付けてしまわないように必死だった。

  [newpage]

  赤ずきん______

  正体に驚いていたのは何もヘレナだけではなかった。

  モンドは幼少期をこの村で過ごし、父親が先代赤ずきんを含む村人を惨殺する事件を起こして以降は、母親と共に逃亡生活を送っていた。

  狼への変身能力を得たのは今から6年前、12歳の誕生日を迎えて初めての満月の夜だ。

  母親はモンドに厳しく言い含めた。

  その力に溺れてはいけない。

  その姿を人にひけらかしてはいけない。

  その魂まで魔物にゆだねてはいけない。

  3年後、流行り病で亡くなる寸前まで母親はモンドの将来を案じていた。

  いつか月の魔力に溺れた自分の夫のようになるのではないかと。

  だからこそモンドは母と、何より自分に対して魔物としての性に抗うことを固く誓っていた。

  そして今から1年ほど前、匿名の手紙がモンドの元に届いた。

  『悪しき血の末裔よ、身の潔白を証明したくば出生の地に戻られよ』

  背筋の凍る思いだった。

  あの村に、自分の正体と居場所を知っている人間がいる。

  しかし誓いを立てた手前逃げるわけにも行かない。

  と言っても何をすれば良いのか。

  村には既に再び狼が現れたとの噂が広まっていた。

  追加で届けられた手紙にはこうあった______

  『誰にも正体を明かしてはならない』

  誰にも正体を明かさず身の潔白を証明するなど、矛盾しているではないか。

  そこでモンドは、ただ『待つ』ことにした。

  村に流れる別の噂では、10年前に死んだ赤ずきんには娘がいたらしい。

  そもそも赤ずきんというのがモンドには何かよく分かってはいなかったのだが、昔どこかで読んだ本に『狼の天敵にして唯一心を通じ合わせる者』と見た記憶があった。

  こちらも矛盾している。

  しかし、その存在に賭けてみる価値はあった。

  その少女が今、狼である彼に身体を預けて寝息を立てている。

  あまりに無防備すぎはしないだろうか。

  このまま喰べられたとて文句は言えまい。

  確かにこれは天敵かもしれない、と狼は考えていた。

  『誰にも正体を明かしてはならない』

  ヘレナに全てを明かした時点で約束は反故になっている。

  もしかすると手紙の主が今もどこかで監視していて、自分は明日にでも処刑されるのかもしれない。

  それでも彼女に隠し事などできなかった。

  明日、村長の家に行こう。

  赤ずきんを生贄に差し出すほどに村が自分の存在に恐怖し疲弊しているのならば、この身がどうなろうとも、真実を話さなくてはならない。

  狼の末裔に村人たちを苦しめる意図はない。

  どうか安心して日々の暮らしを送ってほしい、と。

  [newpage]

  「獣風情が、獲物をひけらかしに来たか」

  翌朝。

  ヘレナとモンドが揃って館を訪れ早々、村長は不快を隠さずに言い放った。

  「でなければ結託してこの村を滅ぼすつもりか」

  ヘレナが言葉を返すより先に、モンドが何か確信したように前へと進み出る。

  「手紙を送ったのはあんただったんだな」

  ここに来る前にヘレナと話を擦り合わせた。

  結果2人とも同じ筆跡の手紙に導かれるようにしてこの村を訪れたことが分かった。

  しかし意図が分からない。

  村長は他の村人同様狼を恐れているようだ。

  狼を誘き寄せ殺したいのならば、赤ずきんを生贄にするような真似をするのはおかしい。

  これではまるで狼に思う存分暴れてくれと言っているようなものだ。

  「……己が正義を示すため、お前たちは必ず殺し合う。10年前もその前もそうだった。ならば今回はとお膳立てしてやったのだが、どうやら無駄だったらしい」

  「あんた達にとっては狼に死んでもらった方が好都合だろ」

  村長は乾いた笑い声を上げる。

  黙って見ていたヘレナが口を挟んだ。

  「村の人から、話を聞きました。子どもが森で行方不明になったのも、畑が不作になったのも、牛の乳の出が悪くなったのも、全部狼の仕業なんだって」

  モンドは目を見開く。

  「そんな、俺は」

  「もちろん分かってる。狼は神様じゃない、そんなことできっこない。でも村人たちは本気で信じてるの。狼って共通の敵がいればみんなが勝手に力を合わせる。あなたの思い通りに動いてくれる」

  村長は苛立ったように机を指で叩く。

  「知った風な口を」

  「でも図星でしょう。だから親の仇としていつか狼に歯向かう可能性のあるあたしの存在は邪魔だった」

  沈黙が流れた。

  答える気はないようだった。

  「……噂を流すだけなら、別にわざわざ俺を呼ばなくても良かったんじゃないか」

  モンドがぽつりと言ったことで、村長はようやく深く息を吐きながら語り始めた。

  「この村は王都から支援を受けている。それは人狼を監視し村に留めておくことの見返りだ。しかし近ごろ他の街から、人のように二本足で歩く馬鹿でかい狼を見たという声が寄せられていた。特徴を聞けば10年前に村に現れた狼と限りなく近い。それが何故他の土地にいる?もしこれが公になれば村の立場はどうなる」

  モンドは息を呑んだ。

  「見られてたのか。それは……申し訳ないことをした。しかしよくその噂を聞いて呼び戻そうと思ったな。もしかしたらまた村人が襲われるかもしれないとかは思わなかったのか」

  「多少の犠牲は仕方あるまい。この村はそうやって発展してきたのだ。その小娘の云う通り、狼への恐怖は時に村を一つに纏め上げた。何十年も、何百年も。ならば積極的に共生の道を模索することに何の罪がある」

  ヘレナとモンドは互いにちらりと視線を交わした。

  どうやら問題は相当に根深いものらしい。

  このままではどれだけ話し合ったところで平行線だろう。

  これ以上刺激しないうちに上手いこと丸く収めてこの場を退散すべきかもしれないと互いに思い始めていた。

  その空気が、伝わったらしい。

  「しかし儂とて怪物に村の命運を託すほど阿呆ではない」

  カチャリ、と村長の手元で何かが擦り合わされるような音がした。

  「何の策も無しに村に招き入れたと思っていたか」

  「!……モンド!」

  いつの間にか右手には拳銃が握られていた。

  ヘレナが叫ぶのと、銃口から弾が放たれるのとはまさに同時だった。

  銀色の軌道が、閃光のように真っ直ぐと、モンドの心の臓目掛けて吸い寄せられてゆく。

  銀の弾だ。

  魔物を打ち倒す聖別された金属。

  「あ………ア………」

  「モンド!しっかりしてモンド!」

  顔面蒼白のモンドの身体が崩れ落ちる。

  それを同じくらいに顔を真っ青にしたヘレナが支え起こす。

  「お願い、返事をして」

  胸の辺りから煙が上がっている。

  何かが焦げるような匂いがする。

  血がどくどくと溢れては繊細な模様の刻まれた青いカーペットへと滴り落ちていく。

  体温が失われていく。瞳が閉じられていく。

  鼓動が弱くなっていく……。

  村長は銃をそのまま彼女へと向けた。

  「まさかこれほど呆気ないとはな。知能は先代に劣るらしい。しかしあの時もこうしていれば、あるいは……」

  「あっ……」

  「過ぎ去ったことを考えても仕方あるまい。村の安寧のため滅びろ、古き呪いの残滓共よ」

  頭が真っ白で、身体が動かない。

  そうだ、こうなる可能性だって考えていたはずだ。

  こうならないために自分がついて行くと言ったはずだ。

  何もできなかった。何の役にも立たなかった。

  後悔が次から次へと湧いて出てくる。

  もう何もかもが遅いのに。

  ヘレナは目を瞑る。

  それとも、ここで終わりでもいいのかもしれない。

  自分は元々死ぬ運命だった。

  彼のいない世界ならもう、それでも……

  [newpage]

  「………なんて、な……」

  幻聴だろうか。

  モンドの声がした。

  「え……?」

  ヘレナは目を開ける。

  「残念だった、な……治りそうだ……ぜ……」

  自分が狙われていることも忘れ、慌てて血塗れのシャツのボタンを開けてみれば、胸に空いた穴がみるみる塞がっていくのが分かった。

  「何故だ。聖別された銀の銃弾を使ったはずだ」

  村長も同様から銃を取り落としていた。

  ヘレナははっと思い出す。

  『だって狼を倒す方法は分かってないんだよ。猟師は聖別された銀の弾を使っていたなんて話もあるけど、それも後から他の話と混ざってる可能性が高いし』

  『銀の弾でも死ぬ確証はないのか』

  他でもない、2人の交わした会話だった。

  「化け物め、ならばコイツから_____」

  「ヘレナ、下がれ」

  モンドは血に塗れたまま俊敏に上体を起こし、ヘレナを後ろに庇う。

  その手が妙に毛深く見えた。

  「こうなることは避けたかったんだがな」

  すると両手でそのまま顔を覆った。

  「ぐ、ウ、オオオオオオッ」

  筋肉が膨張しシャツを食い破る。

  凶器のように硬い毛があっという間に身体を覆い尽くしていく。

  鼻が黒ずんで丸くなり、横に引き裂かれた口とともに前へと突き出していく。

  昨日の何倍もの速度で変化は進んでいった。

  「ば、馬鹿な、月も無いのに何故」

  村長は腰を抜かしてしまった。

  ヘレナは呆然と、ああ、これが本来の彼の変身なのだろうと思った。

  月の光による強制的なものではない、望んで顕わす正体。

  天井を突き破るほどまでに膨らんだ巨体が荒々しく息を吐きながら村長を見下ろす。

  「手ヲ……出サナ、ケレバ……何モ、シナイ」

  辿々しく放たれた言葉は村長には聴こえていないようだった。

  先ほどのモンドのように顔を真っ青にして、ほぼ這うような体勢のまま扉を押し開け出て行った。

  村長の豪奢な部屋は今、流血の跡と散らばった書類や家具とで凄惨な有り様となっている。

  ヘレナ自身も手を血に汚しながら構わずに狼に抱きつく。

  「良かった、生きてて本当に良かった。ありがとう、守ってくれて」

  「危険、ナ目、遭ワセタ」

  「ううん。あたしの方こそ考えなしでごめん。……早く行かなきゃ。もうここにはいられない」

  「アア」

  あの村長のことだ、きっとまた戻ってきて自分たちを殺そうとするだろうとヘレナは思った。

  そしてその判断を間違っているとは言えない。

  銀の弾丸すら効かないと分かった今、狼の脅威は絶対的なものとなった。

  それは彼と結託している赤ずきんも同様。

  村の人たちを安心させるためには一刻も早くここを出て、噂も伝承も届かない何処かへと姿を隠さなければならない。

  必死に頭を巡らせていると、不意に身体が軽くなるような感覚を覚えてヘレナはぎょっとする。

  見れば狼がヘレナを抱え上げ、窓を開けて外へ飛び出そうとしているところだった。

  「あ、あたし……重くない?」

  少女は照れたように視線を逸らす。

  狼がその大きく裂けた口元を僅かに綻ばせた、ような気がした。

  [newpage]

  風を受けて陽の光が視界いっぱいに広がる。

  翔ぶように木々の上を駆けていく狼と、抱え上げられた少女の名は赤ずきん。

  その日彼らの姿を目撃した村人たちの殆どは、夏の蜃気楼の見せた幻と思ったという。

  有り得ない。だって狼が真昼間に現れるはずがないのだから。

  しかも人間の娘を壊れ物を扱うように優しく抱いていたなど誰が信じるだろうか。

  だがそれを境にぱったりと、村を苦しめる狼の噂は消えて、村長も人が変わったように穏やかな人格者となったそうだ。

  その理由は誰にも分からない。

  この村に再び狼が現れることはないだろう。

  赤ずきんの伝承は形を変えて伝えられていく。

  何処にでもある、教訓を込めた御伽話の一つとして______