Re:verse Moon #1 神堂シグレは、憂鬱な気持ちを治したい。[サンプル]

  ~~~~~プロローグ~~~~~

  また……また最悪な朝が来てしまった。この下腹部にまとわりつくようなイヤな感覚で目を覚ます朝が。

  こんな朝を迎えるのはこの数か月でもう3回目になる。

  「う、え、えぇ……またかよぉ……」

  パジャマはグシャグシャで毛もグショグショ。薄暗い部屋の中でもわかるくらいに布団もびっしょり。

  これは哀しいけど寝汗じゃないし寝ぼけてお茶をこぼしたんでも無い。むしろそうだったらどれだけ良かっただろう。

  「おれの体……どうかなっちゃってるのかぁ……?」

  カーテンの外はどうやら晴れてるみたいだけどおれの気持ちはメチャクチャ曇天。寝起きから最悪な気分だとその日の気分が回復する事は滅多に無い。よっぽど良いお菓子なり、肉を沢山食うとかすればマシにはなる。

  それ以外だと……ファンの子に応援される、のが良いんだけど……

  「こんなんじゃまずい、まずいんだよぉ……!」

  何がまずいって……おれがこんな状態じゃますますファンがつかなくなっちゃう。

  おねしょしてるアイドルなんて誰も好きになるわけがないんだから……

  [uploadedimage:17472443]

  おれは神童シグレ。19歳のハイエナ種で職業は……一応アイドルをやってる。でもアイドルって言ってもバンバンテレビに出てるようなタイプじゃない。メン地下……いわゆる地下アイドルだ。

  ちなみに名前はほとんど本名で苗字の漢字だけを変えてる。ホントは進藤って普通の名前。

  そんなアイドルのおれにはでっかい悩みが2つある。

  高校在学中にたまたま行った原宿でスカウトされたアイドル業界。子供の頃から人前で目立ったりするのは好きだったし、その上女の子にも振り向いてもらえるならいい仕事だと思った。男子校だったから女の子と触れ合えるタイミングなんて全然無かった。だからそこも含めてチャンスだって感じたんだ。

  最初はめちゃめちゃ順調だった。運動神経には自信があったからダンスはすぐに踊れたし。あんまり経験無かったけどわりと歌うのも楽しかった。だから売り出してすぐはそれなりに注目も浴びたんだけど、それも一瞬の事だった。

  アイドルってのは大体メンバー全員が同じ立ち位置か、もしくはセンターに立つリーダーみたいなキャラがいる場合がある。

  おれ達『レインボービーツ』はセンターが居るタイプで、そこに抜擢された一ノ宮の人気には誰も敵わなくなっていった。

  まず最初に男のおれから見ても顔がいい。度胸が据わってるおかげか思い切りが良くて歌もダンスもキレがある。

  場を繋ぐトークも面白くてメンバーいじりもしっかりやってくる。その上で個人的なファンサービスも上手い。

  つまり……悔しいけど現状のトップは一ノ宮だってメンバー全員が認めざるをえない状態だ。

  おれ達は7人のグループでみんな出身校とか別々。おれはまだ10代だけどメンバーの中には20歳超えてる人もいる。

  そんな中でおれの人気はと言うと……自慢にもならないけど最下位。ネットでやった人気投票に少しは票も入ってたけど、ファンサービスが苦手なおれはどうしても人気が伸び悩んだ。

  ツーショットで写真撮れるイベントとかもあって、その時にファンの子と話したりするんだけど。正直女の子との会話って何が普通かわからない。何言ったら喜ぶとかそんなのみんなどこで学んだんだよ。共学ならそれが学べたって事か?

  別に妬んでるわけじゃないけど、みんなが普通にやってることはおれにはかなりハードルが高いって話。部活が忙しすぎたって事もないけど、女の子と遊ぶ機会も出会いもそもそもかなり少なかった。

  自分から機会を作ってガンガンナンパとかするような奴じゃないと、おれの高校では習得できないスキルだった。つまり、時既に遅しってこと。

  そんなだから現時点ではグループの中じゃお荷物扱い。ネットでは『ハイエナはハイエナらしく他のメンバーのおこぼれに与ってるんだな』なんて種族差別までされる始末。

  そんなん言われてもおれにもやる事は沢山ある。日常生活は当たり前として、ボイトレとダンスのレッスンに勿論ライブ本番だってあるわけで。女の子の扱い学ぶタイミングなんて作るの難しいんだよ。

  ぶっちゃけネットの評価なんておれの事情を知らない奴の勝手な言い分だけど。それでもまぁ……正直、ダメージにはなる。

  これが、悩みのひとつ目。そんでもうひとつが……これがかなり人に相談しづらいし、比重はこっちの方がかなりデカい。

  メンバーにはもちろん相談できない。普段は『グループ一致団結して、最高のパフォーマンスを』なんて言ってるけど。

  一人一人かなりクセが強くて、人の弱みと見るや解決法を探るなんてするわけなく、他人を蹴落とす材料としか考えちゃいない。

  そんな奴らに言えるわけがない。おねしょの悩みなんて……口が裂けても……だ。

  そもそもこんな事になったのは人気の事で悩み始めたからで。それをあいつらに相談なんてしたら良くて笑い物、悪けりゃおれを辞めさせる口実にしかねない。

  だからおれは決めたんだ。

  こっちの悩みは『外』に解決法を探そうって。

  ~~~~~1~~~~~

  「ここが、逆月医院……」

  山の中に隔離されているみたいに建っているでっかい病院。見上げると自然に声が漏れた。

  どうにかおれのおねしょ癖を治せないかと色々調べていたら、ここに行きついた。その筋じゃかなり有名らしくて、おれみたいな悩みを抱えてる人の専門医らしい。

  それにしても数時間の車での移動でだいぶ疲れた。町からタクシーに乗ったからその代金も結構かかったし……でも、この程度でおれの悩みが解決出来るなら安いもんだ……!

  ある種の期待を胸に自動ドアをくぐって院内に入る……が、そこには何か特別なものや光景があるわけでは無かった。

  清潔そうな廊下や装飾に平和そうな受付と待合室。もっとこう、老人とか子供とかがうろうろしているような良くないイメージを勝手に持ってたけど……予想を遥かに上回る綺麗な病院だった。

  「あの、予約していた者です」

  「はい、お名前をお願いします」

  「あ、と」

  「……?」

  受付で名前を言うのは当たり前だけど、ついついおれは言い淀んでしまった。

  もしかするとおれを知っている誰かが居て。その誰かが、アイドルがそんな病院に通い始めてるって事をSNSに投稿でもしたらどうしよう……

  そんな心配が、ふ、と頭を過ぎる。看護師さんは不思議そうに首を傾げているし、あまり悩んでいると不審に思われてしまう。

  ええい。ここは仕方ない……なるようになれ!

  「……進藤シグレ、です」

  小声で言った後に一応周囲を見てみて。誰もこちらを見てない。それがわかってちょっとした安堵と、大きめのがっかりがのしかかってきた。

  「はい、確認が取れました。お呼びするまであちらでお待ちください」

  受付の人に言われるがままに診察室の近くの椅子に座る。そこで一人、自意識過剰過ぎた自分の今の姿を振り返り反省タイム。何考えてんだおれ……

  一人悶えていると診察室が開いて、一人の先生らしき人が顔を出した。

  「お待たせしました、お入り下さい」

  「あっ……よ、よろしくお願いします!」

  第一印象で。ぶっちゃけ、うちのメンバーの誰よりも顔が良い!と思ってしまった。

  大人な感じで優しそうで。髪が長くてすごい綺麗で、女性にも男性にも見えて。

  先生ってもっとインテリを気取ってたり気難しそうな人が多い気がしてたけど。良い意味で先生っぽくない先生だなって、そんな風に思った。

  「僕が進藤さんの担当をさせてもらう事になった、黒峰ジュンです」

  「はい、よろしくお願いします!進藤シグレです!」

  声も落ち着いている上に、ふんわりと良いにおいもして。なんだか緊張するのにリラックスしそうになるような、ふわふわした気持ちになってくる。

  それでもおれは取り柄だと思ってる元気さで、しっかりと挨拶をした。

  すると、黒峰先生はにこ、と優しく笑ってくれて。

  「進藤さんだね。遠い所お疲れ様でした。移動長かったでしょう?」

  「え。あ、まぁー……?」

  「まずは僕とお話ししましょっか。紅茶は嫌いじゃ無いかな?」

  「え、と?あ、あー……頂き、ます」

  病院に行って先生に会って、いきなり紅茶を勧められるなんて誰も思わないだろう。おれだって勿論そんなの考えても無かったから、ついついそっけない返事をしてしまった。

  この黒峰という先生。あまり医者らしく無いと思ったのは第一印象だけではなかった。

  とは言え決してそれは悪い意味ではなく、親しみやすいという意味でだ。

  「驚かせちゃったかな?こういう病院だからね、緊張しちゃう患者さんも結構多いんだ。だからお互いを知る為にリラックスし出来る場を作ろうとしてるんだ」

  「あ、へぇぇ、なるほど……!」

  おれの疑問を読んだかのように適切な説明をしてくれた黒峰先生。紅茶も美味しいし、おれは段々と緊張が解けていく。

  「どうやって逆月医院の事を知ったの?ネットでかな?」

  「えと、そうです。その、あの……悩みで……調べてて」

  「あ!っと、ごめんごめん!気にさせるつもりはなかったんだ!」

  自らおねしょのことを切り出しそうになって、さすがにいきなりは言いづらくて言葉を濁してしまった。それを黒峰先生は、自分のせいで気にさせた、と考えてくれたようだ。

  黒峰先生の声は妙に聞き取りやすい。頭に一字一句がスーッと入ってきて、不思議と安心するような温かいような気持ちになってくる。

  「お仕事は……問診票には無かったけど、何かしてるか聞いてもいい?」

  「え、あ、あのー……地下……」

  思わず。

  黒峰先生の言葉に溶かされて一気に喋りそうになってしまった。

  おれにも一応アイドルとしてのプライドはある為、そこをどうにか踏ん張って少しだけ言葉を濁す。

  「げ、芸能関係、です」

  「あぁ、そうなんだね。僕はあまりそちらの方には明るくなくて、進藤さんのことを知らないんだけど……もしかして有名な人なのかな」

  ここでおれのことを知ってたらおれの方がびっくりする。黒峰先生の当たり前の反応に、普通に首を横に振って否定した。

  「いや、まだ全然で……これからもっと売り出していきたい、って所です」

  「そうかぁ、そうなんだ。でもそれなら逆月医院はピッタリだと思うよ」

  「ピッタリ、って言うと……あー、こう、芸能人からすると隠れ家的な……?」

  おれのちょっとネタっぽい言い方に、ジュン先生はにこやかに頷いてくれた。

  「その通りさ。ここには進藤さんみたいな悩みでくる人も多いけど、普通の小児科もあるんだ。それになかなか来難い場所にあるから、有名な人がお忍びで来る場合もあるんだよ」

  「へ、へぇぇぇ」

  たまたま辿りついた先がここだったけど、まさかそんな信頼がある場所だとは。もしかすると、おれもお忍びの先輩に会えることがあるかもしれないってことか。

  「特に政財界や芸能界の人は、ストレスも多いみたいでね。進藤さんと同じような悩みを抱えている人は大勢居るんだ」

  「あ……お、おなじ……うー……」

  同じ悩みと言われて思い浮かぶのは、もちろんおねしょのこと。恥ずかしくはあるけどそれを否定しても仕方がない。

  その気は無いのに、うう、と低い唸り声が出てしまう。

  「初めはいつ頃からだったか、聞いてもいいかい?」

  「は、い……」

  診察や問診だとわかっていても、面と向かって聞かれると恥ずかしい。ん、だけど……なぜか、この先生の前ではなんでも話せてしまうような……妙な魅力がある。

  隠し事ができないような。もしも隠したら申し訳なくなるような……

  「最初は3ヶ月前くらいで……」

  「3ヶ月前だね……し始めちゃった理由とか思い当たるかな?」

  「理由はー……仕事上のストレスと言うかー……」

  いくらメン地下と言ってもアイドルであることを公言するのは抵抗があり過ぎる。だから詳しい事はぼやかして伝えようと思っていた。のだけど。

  「なるほど。きっと話しにくいこともあると思うんだけど……」

  黒峰先生が、す、っと椅子を立ち上がって。

  キレイな指で、優しく、おれの肩に触れた。

  「治療に必要なことなんだ。詳しく話してくれると嬉しいな……?」

  「へ、あ……は、い……?」

  その先生の言葉と、何度か肩を叩いた指の感触で、妙にぼうっとしてしまって。

  起きてるはずなのに、

  眠ってるみたいな……

  不思議な感覚に……なって……

  次に気がついた時には、目の前に黒峰先生の微笑みがあって。

  「うんうん、アイドルの子が夜尿症なんて大変だよね。でも大丈夫!逆月医院は以前にも、アイドルの子を治療したことがあるからね」

  「あ……あ、はぁ、そうなんですねぇ……って、あ、れ?」

  おれは自分からアイドルをやっていると言うことを話してしまった……んだ、っけ?

  でもおれは話した覚えはないぞ?

  「お、おれがアイドルだって、なんで知って……!?」

  「えぇ?今君自身が話してくれたんだよ、進藤さん」

  話した、ん、だっけ。

  正直記憶はないけど、いずれにしてもおれがメン地下と言うことは知られてしまって。そして自分がおねしょ癖を治したくて病院に来てるってバレてしまった。

  顔が熱くなって、帰りたい!恥ずかしい!って気持ちがバカみたいに湧き上がってくる。

  「お、おれ、あの、その」

  「大丈夫、当たり前の秘密はちゃんと守るよ。でも……」

  「……でも……?」

  おれが聞き返すと、黒峰先生はすこーしだけイタズラっぽい笑みを浮かべた気がした。

  「もし通院するとなるとしょっちゅうレッスンを休まなきゃいけないし、メンバーのみんなにはバレやすくなるかもしれないね」

  「うぐっ!?」

  それは……かなりエグい。数少ないファンの子にバレるよりもイヤかもしれない。

  「進藤さんさえ良ければ、僕は入院治療をオススメするよ。それなら療養のためと胸を張って言えるし、費用も相場よりかなり安いと思うんだ」

  「入院、かぁ……」

  家族とは離れて暮らしてるから、入院したとかそう言う連絡はしなくても何とかなる。メンバーにも確かにその方が説明はしやすいだろう。

  「んんーむぅー……」

  「ねぇ、シグレくん?」

  おれが迷っていると、黒峰先生はおれを君づけで呼んで。ふ、と顔を近づけてきた。ふわりといい匂いがする。

  「しっかり治したいでしょう?お、ね、しょ……」

  「うっ、ぅ……!」

  小声でそんなふうに言われると、ぐ、っと言葉に詰まる。そんなの治したいに決まってる。

  「な……治したい、です……」

  おれがこくりと頷くと、黒峰先生はにっこり微笑んだ。

  「なら、決まりだね。明日から入院しよっか、シグレくん」

  「うー……わ、わかりました」

  あれよあれよと言う間に、おれは入院する運びになっていってしまっていた。でも言われてみれば確かに、そうすればメンバーの誰かにバレる確率もすごく低いはずだ。

  さっさと治して出ていけばいいんだ。たかがおねしょの治療だし、明日から少し入院する程度で済むだろう。

  おれはこの時、事態を軽く見てそんな風に考えていた。

  「それじゃあちょっとしたことなんだけど。僕はこれからシグレくんを名前で呼んでいきたいんだけど、いいかな?」

  「え、え?」

  突然に申し出に狼狽えるおれに、黒峰先生は笑顔で続ける。

  「この逆月医院ではね。患者と近い距離で密接に、より深い信頼関係を築くのをモットーにしているんだ。何せデリケートな治療内容が多いからね」

  「ふむ、ふむ……?」

  「ってことで、ここではお互いに名前で呼び合うことが多いんだ。その方がより親近感が湧くからね。ほら、僕のことも呼んでみてくれないかな……?」

  まぁ言いたいことはわかる気がする。そういうことなら男子校の頃のことを思い出して、気楽に呼んでみよう。

  「ジュン、先生。で、いいんですよね?」

  おれがそう呼ぶと、ジュン先生は嬉しそうに笑って。

  「そう!ふふ、呼んでくれて嬉しいよ」

  ジュン先生は本当に嬉しそうに笑うと、ぽふ、とおれの頭の上に手を置いて。名前を呼んだだけなのに随分大袈裟に喜んでくれて、わしゃわしゃと頭を撫でてきた。

  おれはもう大人なのに。頭なんて撫でられても全然嬉しく無いはずなのに。

  「あ、う。や、やめろ、よぉ……」

  「ふふ、照れない照れない」

  おれはすごく照れくさくて、それを隠すためにタメ口を叩いたりした。

  だけどおれの尻尾は正直が過ぎちゃってて。意識なんてしてないのに、ふさふさと嬉しそうに揺れてしまっているのだった。

  [newpage]

  ~~~~~2~~~~~

  「じゃあ、以上で手続きは終わり。後はわからない事があったら何でも聞いてね?」

  「はい、オッケーです!」

  問診が終わった翌日。必要な私物を少しだけ持ち込んでおれの入院生活はスタートした。ジュン先生が一緒について回って院内を見せてくれて、どこに何があるかも大体教わった。

  そして最後におれの病室に戻ってきた。おれが入院する部屋は個室で見晴らしも日当たりも良い。ベランダもあって、そこからは向かいの小児病棟が見える。

  「それじゃあこれ。今日は夕食の後この薬を飲んでね」

  「ああ、これが例の。わかりました」

  入院するにあたり、問診以外にも簡単な検査をしてもらった。その結果おれの腎臓が少し活発に活動しているのがわかった。今渡された薬薬はその腎臓の活動を緩やかにする、という薬らしい。

  「この薬を飲んで、俺がその……失敗しなくなったら、すぐに退院できるんですか?」

  おれが治療を甘く見た質問をしてもジュン先生は決してバカにはせず、笑顔で大きく頷いて返事をしてくれた。

  「そうだね。投薬治療だけで済んだら早ければ1週間で退院できるよ」

  「おお、マジっすか!?」

  たったの1週間。それなら誰にも怪しまれずに済みそうだ。こんな事ならもっと早く病院を探して来るべきだったな。

  「じゃあ……あっと言う間に出て行ってやりますよ!」

  「うん!頑張って治療していこうね」

  おれのガッツポーズにジュン先生は微笑んで返してくれた。ジュン先生には悪いけど、頑張る必要なんて無いくらいだ。さっさと治して出て行こう。

  おれは一切何の疑いもなくそう考えていた。

  の、だけど……

  「ん……んん……」

  入院して1日目の朝。昨日の夜、ジュン先生と『とりあえず様子を見ていこうね』と話していたばかりだった。おれだって毎日おねしょばっかりしてたわけじゃ無いんだから大丈夫だろうと思っていた。

  そのつもりだったからこそ余計に、その朝の目覚めは最悪な気分から始まった。

  「……う、っげ!?」

  目を覚ましたと同時にうっかり叫んでしまった。病院の清潔でサラサラなシーツがぐっしょりでべしょべしょだったからだ。

  こんな不快な感覚はアレ以外に知らないし、無くていい……

  「や、べ、ぇ……う、うそだろ……」

  いきなり失敗して最悪な気分なのに。この病院ではおねしょとかそういう……いわゆるおしっこ関連の失敗をしたら、絶対にナースコールを押さなきゃいけない決まりになっている。

  そうすればジュン先生が来てくれるそうだけど。それはつまり、おねしょしたってのを完全にバラす事になるわけで。

  (い、いや、だ、けど、う、うううう)

  おねしょなんて、毎晩クセがあると言うほどしてしまっているわけじゃなかったのに。むしろほとんどしなかったのに、まさか入院初日にしてしまうなんて。

  決まりがあるなら仕方ない……けど。こんなはずじゃないって大声で叫びたいくらいの気持ちをこらえて、イヤイヤながらナースコールを押した。

  それからしばらくしてからジュン先生はにこやかに病室にやってきてくれた。

  「おはようシグレくん。……おねしょ、しちゃったのかな?」

  「お、おはようございます……うう、は、はいぃ……」

  「良いんだよ、気にしない気にしない。これを治すためにここに居るんでしょ?」

  「あう……そうです、けどぉ……」

  それは確かにその通りなんだけど、メチャクチャ照れくさいし気恥ずかしい。それでもジュン先生にそう言われると随分と楽な気持ちになった。

  「とは言っても、濡れちゃったものはどうにかしなきゃね」

  「あ、は、はい……?」

  「はい、ばんざいしましょうねー」

  「う、うっ、うううっ……!」

  これもこの病院の決まり。医師の指示がない限り、患者は勝手に自分の失敗の片付けをしてはいけないというのがある。治療が順調に進んでいるかを確認したり、異常な失敗になっていないかを確認するためだそうで、言っていることはわかる。けど。

  「はーい、足も上げられるかなー?」

  「ひ、う、うう」

  パジャマを上下脱がせてもらって、濡れたパンツまで脱がされて。じっとりと濡れてしまっている足や股ぐらを清潔なタオルで拭かれるなんて。

  こんなのガキの頃だってされた覚えは無くて、その上今の自分の年齢を考えると死ぬほど恥ずかしい……

  「んー……しっかりおねしょしちゃうようなら、オムツを穿いた方が良いかもしれないね」

  「おっ、おむっ!!?」

  オムツ。おむつ。おしめ。

  その類の単語はここ数年おれの口から出た事はないし、雑談で聞いた覚えすら無い。いくら俺たちのグループの空気が冷えててもそんな言葉を口にするような奴はいなかった。

  「そ、そそ、それは。ちょ、っとぉ……」

  いくら何でも恥ずかし過ぎる。

  と、思ったのだけど。

  「まぁイヤなら仕方ないけど……とりあえず濡れた布団は、っと」

  「い、っ!?」

  ジュン先生はおれのおねしょ布団を持ち上げると、そのまま何の違和感も無いかのようにベランダの方に持って行ってしまった。

  丁度そのベランダから見える方向には小児病棟がある。つまりそこにおねしょ布団を干されたら……

  「ちょ、あ、あの、子供達に丸見えになってっ!?」

  「え?でも布団の処理もしなきゃいけないからねぇ。オムツを穿いてたら、ここまでになる事はないと思うけどなぁ」

  「うっ、ぐ、ぐぐぐっ……」

  つまるところ。オムツを穿きたくなくて布団を干されたくないならおねしょをしなければ良い、ってわけで。

  干された布団を見ながら恥ずかしさで頭が茹だりそうになっているおれは、意地を張って牙を剥いて答えた。

  「あ、明日は、し、失敗なんてしませんしっ!」

  「うん、それなら治療も早く終わるだろうからね。それが何よりだと思うよ」

  ジュン先生はおれの照れ隠しもしっかり受け止めてくれた。でもその後に、いつもの微笑みで続けた。

  「でもオムツを穿かせて欲しくなったらいつでも言ってね。ちゃんと応えるからね」

  「そ、そんなのいりませんって!は、はははっ」

  おれの笑い声は自分でもわかるくらい渇いていた。きっとおねしょなんてしてしまったせいで妙に緊張して、喉が渇いているに違いない。

  そうだ。明日はきっと大丈夫。すぐにこんなおね……夜尿症なんて治せる。治せるに決まってる!

  そう考えていたおれは、とても、とても、浅はかだった。

  2日目の朝。昨日寝る前には、絶対に大丈夫だという妙な自信があった。

  おれは大人だし毎日おねしょするような事は本当になかったから……でも……

  「……う……あぁ……!」

  家で起きた時と同じ最悪な感触と共に目を覚ました上に、2日連続でナースコールを押す羽目になるなんて思ってもいなかったのだ。

  「こんなの、どうしてぇっ……!?」

  ナースコールを押してジュン先生が来る間に何でこんな事になっているのか必死に考えてみる。だって、どう考えてもこんなのはおかしい。

  おれはアイドルで、大人で、普通に過ごしている。飲み物も控えてるし寝る前にトイレにも行っている。そもそもこんなこと考える必要も無いくらい問題がないはずなんだ!!

  パニックになっているおれの脳裏に昨日のジュン先生の言葉がリフレインされる。

  『気にしない。これを治すためにここにいるんでしょ?』

  そうだけど!そう……だけど……治すためにここにいるって言うのは間違い無いんだけど……!!

  布団と下着が濡れてるのは何をどうしたって間違いないし恥ずかしいことで。

  これをジュン先生に片付けてもらわなきゃいけないと思うだけで……顔から火が出るくらい恥ずかしくて、耐えられそうにない。

  「うぐぐぐぐ……こんなの……こんなのぉ……!」

  「どうしたの?おねしょ以外にも、何かあった?」

  「うわああっ!?」

  全く気付かなかったけど、ベッドから降りて葛藤してる間にジュン先生は到着してたらしい。突然の背後からの声におれは尻尾を総毛立たせて驚いてしまった。

  取り乱して一気に汗が出てくるけど、何もなかったかのように平静を装う。

  「な、なな、なんでも、ない、です」

  「ふう、ん……」

  「あ……ぅ……?」

  狼狽えているおれを見つめるジュン先生の瞳。吸い込まれそうなその色合いを見ていると、同じ男なのにどうしても目を逸らせない。

  うちの現リーダーである一ノ宮にも似たような魅力があるけど、その何倍も何倍も強烈な惹きつけられ方。それはきっとおれには無い魅力で、カリスマとかオーラとか呼ばれる類のものなんだろう。

  「……まぁ、必要なものとかあったらすぐに言ってね?可能な事は協力するよ。」

  「……は、い、ぃ」

  そんなジュン先生を前にすると、男女とかそう言う垣根なんてないかのように妙にドキドキしてしまう。

  おれは女の子が好きだし、女の子にモテたいとも思ってアイドルをやってるのに。これはいくら何でも変だ。

  必死に息の乱れを抑えようとしていると、ジュン先生が昨日と同じように足元にやってきて。

  「はい、ばんざーい」

  と言うものだから。

  おれの体はとても正直にピンと腕を上げて。おねしょでグショグショになったズボンとパンツを、ジュン先生に脱がせてもらってしまった。

  「ううー……うぅ……」

  「んー……?まだおねしょの事気にしてるの?」

  「そ、れは、そうですよ……」

  濡れた性器を拭われながら震える声でおれは答える。妙なドキドキを抱えたまま、少しでも羞恥心に抵抗をしようとする。

  「大人で、アイドルなのに……こんな、の、恥ずかしくって……」

  「そうかぁ……でもさ、こうは考えられないかな」

  「へ……?」

  羞恥で震えるおれに新しいパンツを穿かせてくれながらジュン先生は微笑んだ。

  「そうやって大人だから、アイドルだから……って気負いすぎてるからこそ、ストレスが溜まっておねしょに繋がってるんじゃないかな」

  「え……あ……」

  アイドルだからはともかく、大人だから気負い過ぎている……?そんな考え方、一度たりともした事はなかった。

  それに昨日と同じ。ジュン先生の言葉を聞くと、ふわりと心が落ち着く。

  「まずはおねしょの治療に専念してみるのはどうかな。アイドルとしての活動はまた今度一緒に考えよう?」

  「……そう……かも、しれない……ですね」

  ジュン先生の言う通りかもしれない。そうだ、まずはおねしょを治すのが第一優先だ。

  「よ、よし……明日こそ、失敗しないぞ!」

  「うんうん、その意気だよシグレくん!」

  ジュン先生が応援してくれていると思うと、不思議とやる気が出てくる。これならきっとちゃんと治せる気がする。

  「そうと決まれば……今夜もちゃんと、寝る前にトイレに行って、飲み物も控えて……」

  そうと決まれば改めておねしょをしないための計画をしなきゃいけない。意気込んで今夜をどう過ごすかとぶつぶつ呟いていると、ジュン先生がくすりと笑った。

  「……なんですか?」

  気になったおれはキョトンとしてジュン先生を見つめる。するとジュン先生は『あぁ、』とすまなそうな声を上げた。

  「ごめんごめん、笑ったりして。患者さんの前で失礼だったなぁ」

  「や、い、いいですけど。おれ、なんか変なこと言いました?」

  「変、て言うわけじゃないけど。その、今の発言が……」

  ジュン先生はイタズラっぽくクスクスと笑っていて。少しそうして笑った後、おれの耳元で囁いた。

  「……まるで、幼稚園児みたいな計画だなぁ……って思っちゃってね」

  「……っっ!!」

  言われてみれば全くその通り。普通の大人ならこんな事いちいち考えなくて良いはず。

  と言うかさっきまでは確かそう考えていたはずだったのに、いつのまにかジュン先生の言葉に乗せられていたんだ。おねしょを治す事に異議はないけど、やり方が子供のそれだ。

  気付かされたおれは、顔がジワジワと赤く熱くなっていくのを感じた。その火照りを誤魔化すように言葉を押し出していく。

  「とっ、とにかく!明日失敗しなければ良いんですよね!?」

  「そうだね。頑張れそうかな?」

  どう考えても子供扱いをされている。おれは悔しくなって、勢いよく頷いた。

  「あっ……当たり前です!出来ます、やるんすよ!!」

  「うんうん。頑張ろうねぇ」

  ベランダに干されて、小児病棟に晒されるおねしょ布団。

  その恥の勲章を睨みつけながら、おれは明日こそ失敗しない、と心に決めた。

  その日の就寝前。

  おれは何気なくスマホを弄り始めていた。

  入院する前には日課だった行為だけど。入院してからと言うもの、検査だの治療だので忙しくてそれどころじゃなかった。

  「えーと……無線機能の登録は……え!?」

  事前に教えられていたWi-Fiの存在。逆月医院専用のそれに接続してネットに繋いでみると。

  「い、家の何倍早いんだこれ……!」

  とんでもない早さでネットに繋がる。動画も簡単に見られるしダウンロードが早すぎる。普通にネットを見るだけでもわかるくらいその違いは歴然だ。

  「はー……すげぇな……せっかくだ、レインボービーツの公式は……」

  ネットがあまりにも快適なので、おれの所属しているグループのサイトを見る事にしてみた。本当なら治療の為にも見ない方がいいかもしれないのだが、別に禁止されている行為でもない。

  そうして気が向いてたまたま開いたサイト。そこでおれはまさかの情報を見る事になった。

  「いいぃ!?一ノ宮、ソロデビューもするのかよぉ!?」

  リーダーである一ノ宮がグループに所属したまま、ソロアルバムを出すと言う衝撃情報が出回ってきた。すでに人気投票でもメチャクチャな差がついているのに、この調子じゃおれがセンターになれる日なんて来るわけがない。

  「くそ、待ってろよ……すぐにこんな悪癖治して、メジャーデビューもしてみせて……そんでトップに上り詰めてやるんだからな……!」

  おれの中のアイドル根性がぐいっと突き出てきて。絶対におねしょなんてしない。強く強く、そう思った。

  そう。思うのは……多分誰がしても良い自由なことなんだけど。

  心で思って行動に移したからといって、それが必ず実を結ぶわけじゃない……その悲しい現実はおれを叩きのめした。

  『お疲れ様!!』

  『お疲れぇ』

  『おつすー』

  ステージが終わってみんな思い思いに休憩に入る。おれは急いでバックステージにあるトイレへと走り出した。

  『ええと、ここを曲がって、ここ進んで、この扉を越えて……』

  あれぇ。トイレまでこんなに遠かったっけ?

  少し疑問に思いつつも、込み上げてくる尿意を耐えながらトイレへと急ぐ。

  でも残念な事に、たどり着いたトイレはまさかの使用禁止になっていて。

  『え、や、やば、もう一つのトイレめっちゃ遠いんだよ……!』

  広いバックステージだ、トイレは複数ある。でもそこに辿り着くにはかなりの我慢が必要だろう。

  『や、だ、いやだ、も、漏らすの、なんてぇ』

  絶対に嫌だと思いながら、必死に耐えて、耐えて。どうにかこうにか耐え切って、遠い遠いトイレに到着した。

  『や、った、間に合ったっ……!』

  トイレは無事に使える。急いで個室に入ってトイレに座って、急いで下着まで下ろして用を足す。ステージ衣装で漏らすわけにはいかなかったし、トイレにも間に合ったし。全部が無事に済んで良かった。

  ……はず、なんだけど。

  『なんか……妙に、あったかい……??』

  ちゃんと便器の中におしっこ出来ているはずなのに。なんだか妙に腰回りが暖くて、湿っているような……

  「……っ、はっっ!!」

  目を覚ました自分の顔色は鏡を見なくともわかった。寝起きなのに血の気がかなり引いて青ざめていたと思う。家にいた時でも3日連続でおねしょなんてした覚えはない。

  あったかい感覚は夢じゃない。明らかに悪化してしまっている。今まではちょっとだけ出てしまう事はあっても、全部出し切る前に起きる事もあったのに。

  どう考えても完全に、ぜーんぶ、すっきり出てしまっている。

  「こ……こん、なの、毎日、続いたらぁ……!」

  毎日毎日ジュン先生に濡れたズボンとパンツを変えられて。濡れている体を拭かれて、布団を小児病棟向きのベランダに干されて。

  それを繰り返すなんて。どんなに頑丈なハートでも耐えられるわけがない。

  「う……う、う、ぅ」

  苦虫を噛みつぶした顔のままナースコールを押す。程なくして、いつも通りどこか色気のある笑みを浮かべたジュン先生がやってきた。

  「やぁ、おはようシグレくん……今日も、だねぇ」

  あんなに計画を立てても失敗はしてしまっている。どんなに我慢して喉がカラカラでも、布団とズボンは湿っている。

  そして遂に、おれの中の『大人の像』が少しずつ壊れ始めた。

  「ジュ、ン、せんせ、ぃ……」

  「ん。なんだいシグレ君?」

  3日目になってもジュン先生は嫌な顔一つせず、おれの失敗を片付けてくれていて。その恥ずかしさと申し訳なさと情けなさ。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、仕方なくその結論に至った。

  「あの……ジュン、先生……お、オムツ……は、穿かせて、ください……」

  歌っている時とは比べ物にならない程のか細い声が、おれの喉から出てくる。それを聞いたジュン先生はにっこりと深く笑みを浮かべてくれた。

  「もちろん。シグレ君の望むままにしてあげる」

  「うぅっ……うぅー……」

  ジュン先生はきっとわざと、アイドルじみた言い回しをしたんだ。おれは自分の中の何かに負けた気がして、ほんの少し涙が出てしまって。

  「ここはステージじゃないからね。泣いたって良いんだよ」

  「う……な、泣いてなんかないです……!」

  ジュン先生に涙を拭われて、その朝は事なきを得た。かのように見えていた。

  でも本番は夜。寝る前だったんだ。