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夏休みの始まり

  「といったようにこの時期は皆、中だるみが目立つ。来年には公立の生徒は高校受験を控えているんだ。私立の中高一貫にいるからといって甘えていちゃ、中学受験した意味がない。だから——」

  ここは教室、頃は夏。

  冷房のそよそよしたやわ風が毛並みの海をかき分け、やさしく通り抜けていく。

  遠く真正面からおおよそ誰の興味もそそらないであろう御託を水牛獣人の担任が教卓の前でペラペラ熱弁しているのが聞こえる。当人としてはやる気のない中学二年生どもに発破をかけているつもりなのだろうけど、残念ながらここの陽気な連中の脳内は今朝から心待ちにしていることでいっぱいで、ありがた迷惑な説法もただ耳を通り抜けるだけというのが実状だ。僕みたいな日陰者だって机に肘を乗っけて、さっきから肉球をいじって爪を出し入れしたり飛行機雲を追ってカーテンの隙間を眺めたりと物思いにふけっている。どうして教師の話というのはこうも長くてつまらないのか。発言からして勉強を習慣でなく義務として刷り込ませようとする魂胆がみえみえで、心底うんざりする。好きなようにやらせてほどほどの成績を納めさせれば、それでいいだろうに。

  「なあなあ」

  (またか)

  担任にバレないようにか、後ろの席からひどくかそけき声で僕を振り向かせようとしてくるヤツがいる。九割九分九厘、正体は例の阿呆だ。どうせまたロクでもないお誘いだろう、それに乗ってマトモな目にあった試しがない。ここは無視を決めこむのが一番だ。狸寝入りしてやり過ごそうと居眠りの体勢に入る。窓際の末尾から三番目の席なので特に見つかる恐れはないものの、カーテンから漏れる昼間の日射しが強くてすこし汗ばむ。反応したら負けなのでここはひたすら耐える。

  「おーい起きてんだろ、こっち向けよー」

  ほんのりと鼻息を感じるばかりに先ほどよりつめ寄られるものの、相変わらず聞こえるか聞こえないか撫でるような声でアホは訴えかけてきた。ちょっとばかしウザさが目立ってイライラする。耳が無意識に後ろを向こうとするのを勘づかれまいと、必死にこらえた。ああ、早くこの時間から解放されないだろうか。丁度お腹が空いてきたし、寒すぎる教室からもとっとと抜け出したい。

  「なるほど、無視するとはいい度胸じゃねーか。ならばこちらは手段を選ばないまで……!」

  突如したたかな啖呵らしきものを切られ、なんだろと思った次の瞬間、いきなり尻尾をぐゎしと握られた。前ぶれも遠慮もなしに勢い強くつかまれたせいで人目もはばからずギニャッと情けない声をあげ、ガバッと起き上がってしまう。途端に教室内の視線がこちらへ集中してアホを怒ることも忘れ、オドオドたじろいだ。そんな僕よそにヤツは立ち上がり、

  「先生、[[rb:骨躙 > ほねにじり]]くんが居眠りしてたので尻尾つかんで起こしてあげましたー」

  と白々しく手をかかげ、いけしゃあしゃあと言ってのけた。自分のもくろみがすべて裏目に返ってきた気がして顔から火が出そうになる。周囲のせせら笑いになにも言い返せずうなだれていると、

  「おう眠いなら顔洗ってくるか? 休みの間も生活習慣に気をつけていないと、今の骨躙みたいに話に集中できなくなるから気をつけるんだぞ。それと[[rb:人行潟 > にんぎょうがた]]、尻尾を引っ張るのはやりすぎだ」

  と担任に軽くたしなめられた。

  「へーい、合点です」

  「……すみませんでした」

  阿呆こと白い狼の人行潟[[rb:三八 > さんぱち]]が生返事なのに対し僕こと黒猫の骨躙[[rb:一朔 > いっさ]]はいかにもバツが悪そうに謝るほかなかった。クソが。なんでいっつも三八が絡むとこうもしっぺ返しを喰らうというか、巻き添えにされる上に一段と恥ずかしい仕打ちを受ける羽目になるのか。幼なじみの悪友って間柄だから今までしぶしぶ面倒なことに付き合ってきたけれど、こうも一方的に不利益をこうむるのはなんであれ我慢ならない。……せめて夏休みの間ぐらい縁をキッパリと断つのも、手の一つか。

  そんなことをもぞもぞ考えていると三八は席に座る間際、一枚の紙切れをサッと机に差し出してきた。見るに何かのメモのようで、とりあえず目を通すと『さっきはゴメン。急だけど[[rb:稲根川 > いなねがわ]]駅に昼過ぎ集合な。新しい廃墟見つけたからそこで探検しようぜ!』と走り書きで一言。やっこさんが尻尾ぶん回しながら生あたたかい眼差しをこちらに向けてる様子が、背中からありありと伝わってくる。まったくと[[rb:辟易 > へきえき]]しきった僕の大きなため息で、紙片がすこしだけ浮かんだような気がした。

  コンクリ剥き出しの内装に木目が張り巡らされた六角形を基調とする古い校舎は隣接する増改築が何度も繰り返され迷路状になった直方体の集合のような高校棟に比べると、訪れた人にいささか有機的な印象を与えるかもしれない。実際、前者は有機物であふれている……住宅街の動物や昆虫の主要な住処という意味合いで。かつて宿直が行われていた時代、見回りの際に懐中電灯であたりを照らせば夜闇にうごめく得体の知れない生物の群れが確認できたと聞く。また校舎裏手の[[rb:人気 > ひとけ]]のない通路はむかし野良犬たちの主要な動線となっており、ときたま生徒教員構わずスネをかじっては回る狂犬が出没していたという伝承がひそかにささやかれている。現代においても自由気ままな生き物らの動向を把握するのは困難らしく、衣替えの季節空調が点検される段に内部からコウモリ一家が元気よく飛び出し教室中が大パニックになるという事件が起こってからしばらく経つ。

  「よってここ中学棟は中途半端に管理された廃墟と見なすことが可能であり、怪現象やらナニやら穏やかならぬ出来事が起こってもなんら不思議じゃない。な、証明終了」

  ——というのが入学当初聞いちゃいないのに三八が語り出した持論だ。正直、なにが証明終了したのか今でも僕にはちっとも理解ができない。加えてやたらもったいぶって話していた理由もてんでわからないのだけれど、都内から郊外の学校まで往復一時間半をかけて通学してまで幽霊が見たいという謎の根性だけはつくづく尊敬に値するのだった。

  「おーし、通知表も配ったことだからここらで解散とするか。日直、よろしく頼む」

  今学期最後の号令がかかる。一学期は案外あっけなかった。中学ならこんなもんなんだろうか。

  「きりーつ。きょーつけ、礼。ありがとうございました」

  「「「ありがとうございましたー」」」

  椅子のガラガラに引きずられて大掃除で取り切れなかった埃が舞い、気の抜けた挨拶が響く。

  「お前ら遊び過ぎるなよ〜、また九月になったら会おうな!」

  ニカッと歯を見せた担任はそういって、颯爽と去ってゆく。と同時にドッと和気あいあいとした空気が教室中にあふれ出した。皆口々にどこそこへ遊びに行こうやら、今日の帰りにどっか寄ろうやら、これから一ヶ月あまり続く長い休みをどうやって過ごすつもりなのか思い思いのまま楽しげに語らっている。一方で僕はといえば荷物の整理を事前にやらなかったツケが回って、持って帰るものが大量に残されてるってので、自身の計画性のなさを否応もなく痛感させられている。これは困った。このあと図書室に寄って長期貸し出しする本もあるってのにこのままじゃ潰れてしまう。あたふたして何から手をつけようか考えもなく、とりあえず手当たり次第に学校指定のカバンへと教科書をつめ込んでいると、不意に右肩をポンと叩かれた。まんまと無意識に振り返ってしまった僕は頬をぽふっとつままれる。

  「うわちょ——て、てめっ。[[rb:三八 > ザッパ]]!! さっきといいふざけんなっての!!」

  「へへぇ、案外モチモチしてんのな」

  ふざけた腕をふり払って目の前のニヤニヤ野郎を[[rb:睨 > ね]]めつける。半袖Yシャツを着た、同じくらい小さな背丈の白いオオカミ。明らかに三八は調子に乗っているだろう浮ついた表情でなれなれしく僕に迫ってきた。一体全体なんなんだコイツは。例によってボディータッチが甚だしい。

  「お前小学生の頃とは違うんだからもう少しキョリカンってのを覚えろよ!! そんでいきなり尻尾にぎるとかサイテーが過ぎるんだよ……ったく」

  「あーあれはな。イッサに後ろ向いて欲しくてつい、さ。悪かったと思ってる、たぶん」

  「つい? 悪いと思うならはじめからするなよ、こちとら大恥かいたじゃねぇかアホ!!」

  あらぬ方を向いてごまかそうとする三八が一段と[[rb:癪 > しゃく]]にさわって、心の中だけに抑えていた罵倒がつい表に出てきてしまう。尻尾が教室の床を何度も強く打ちつけ、明確に抗議の意を示す。

  「大丈夫大丈夫。皆そんな気にしてないだろうしお詫びとして廃墟連れてくし」

  「埋め合わせになってねーよ!! なに屁理屈こいてつくろった気になってんだこのっ……はぁ」

  怒りのボルテージが次の段階へ移行する前にむくれてた自分がバカバカしくなって、感情が一気に冷めてゆき、結局いつものあきれ顔に落ち着いた。はたから見たらこんなのコントそのものじゃないか、小っ恥ずかしいことこの上ない。まあ今更だけど。

  「さっきから謝ってんじゃん、そうむかっ腹ばかり立ててんと健康に悪いぜ」

  「あーザッパにだけは諭されたくなかったわ。……で、何用?」

  未だ煮えきらないものに蓋をして、ジトーッと冷ややかに目線を送る。全くなんだってんだ。

  「いや、探検の件もそうなんだけど恒例の“アレ”をやりたくてさ。アレだよアレ」

  「あ……、思えばすっかり忘れてた。ちょっと待ってて」

  パンパンになったカバンの中からクリアファイルを探して、そこから折り畳まれた一枚の厚紙を引っぱり出す。小学校でも配られていた通知表、それは学期ごとの総決算という意味以上に中学生になった僕らにとって深い存在となりつつあった。つまるところ、僕と三八は買い食いでどちらが奢るかを賭けて毎度のこと評定の合計を比較しては競い合っているのだ。

  「さてさて、ここまでのところ一勝一敗一引き分け。ブツはフォーティワンでいいでしょ」

  「ああ十二分さ。……前置きはこのへんにして。いざ、尋常に」

  「「せーの!!!」」

  キーンコーンカーンコーン

  僕らは勢い同じタイミングで、通知表の中身をぶちまけた。それと同時にチャイムも鳴る。

  真剣な表情のまま固まった僕らネコとオオカミには、放課を知らせる鐘の[[rb:音 > ね]]は自分たちの雌雄を決する神の啓示のように感じられたのだった。

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