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第一章 診断
隔離病棟の白い壁が、蛍光灯の光を無機質に反射している。
「残念ながら、陽性です」
川瀬医師の言葉を聞いた瞬間、僕の手が震えた。三十歳。母と二人暮らし。ギグワークで細々と生計を立てている引きこもりがちな男。それが僕、高橋誠だ。
「種異変性変態症候群……SMTS」川瀬医師は淡々と続ける。「あなたの場合、遺伝子解析の結果、ハイイロギツネへの変態が予測されます。進行は比較的緩やかですが、確実に進みます」
窓の外では、秋の陽が傾き始めていた。2033年。この奇病が初めて報告されてから五年。今では世界中で数百万人が罹患している。人間が動物になる。それも、身体だけでなく精神も。
「どのくらい……時間は」
「個人差がありますが、おそらく六ヶ月から八ヶ月。最終段階まで意識は保たれますが……」川瀬医師は言葉を濁した。「精神面での変容も避けられません。ただし、人間だった頃の記憶は残ります。完全に消えることはありません」
その言葉が、唯一の救いだった。記憶が残る。母のことを覚えていられる。
川瀬医師は続けた。「変態の過程は段階的です。最初は身体的な変化から始まります。骨格、皮膚、感覚器官。次に神経系統が変わり、本能が表れ始めます。最終的には……」
「最終的には?」
「あなたは、ハイイロギツネになります。外見も、中身も。でも、高橋さんとしての記憶と、ある程度の感情は残ります。野生動物ではありません。人間の心を持った、ハイイロギツネです」
その夜、母に電話で伝えた。電話口で母は泣いた。あの優秀な、いつも凛としていた母が。東京大学を卒業し、大手企業で管理職を務め、一人で僕を育て上げた母が。
「お母さん、ごめん……」
「謝らないで、誠。あなたは何も悪くない」母の声は震えていた。「明日、病院に行くわ。必ず」
電話を切った後、僕は窓の外を見つめた。街の灯りが星のように瞬いている。この景色を、あとどれだけ人間として見られるのだろう。
第二章 兆候
入院から二週間。最初の変化は尾骨の違和感から始まった。
朝、目覚めると腰の奥、骨盤の最下部に鈍い疼きを感じた。まるで筋肉痛のような、しかしもっと深い場所での痛み。骨が軋んでいる。内側から何かが押し出そうとしている。
触診に来た川瀬医師が僕の背中を診る。
「始まっていますね。予想より少し早いですが、これが変態の第一段階です」
その言葉の意味を理解したのは、翌日の朝だった。
シャワーを浴びようと鏡の前で下着を下ろすと、尾骨の先端、皮膚がわずかに盛り上がっている。赤く腫れたような、まるで巨大なニキビのような突起。直径は一センチほど。指で触れると、芯がある。柔らかい皮膚の下に、硬い何かが。骨だ。尾骨が伸び始めている。
「うっ……」
思わず声が漏れた。痛みではない。存在してはならないものが、そこにあるという違和感。異物感。それが自分の一部として育ち始めているという現実が、脳を混乱させる。
人間に尻尾はない。それは絶対的な事実だった。しかし今、僕の体はその事実を否定し始めている。
三日後、突起は明確に尾の形を取り始めた。長さは五センチほど。根元は直径二センチ、先端に向かって細くなっていく円錐形。皮膚の色は周囲より濃く、灰色がかっている。表面は滑らかで、血管が透けて見える。触れると、筋肉の動きを感じる。自分の意思とは無関係に、ぴくりと動く。
「これが……尻尾」
呟いた瞬間、それが左右に揺れた。まるで僕の言葉に反応したかのように。いや、反応したのだ。感情と連動している。驚きや戸惑いに反応して、尻尾が動く。
恐怖を感じた。これは僕の体だ。僕の一部だ。しかし、僕の意思では完全にコントロールできない。
看護師が検温に来た時、尻尾を隠そうとシーツを引き上げた。しかし看護師は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、高橋さん。ここにいる患者さんは皆、同じような変化を経験しています。恥ずかしがることはありません」
その言葉に、少しだけ心が軽くなった。
一週間。尻尾は十二センチまで伸びた。根元は太く、直径三センチ。先端に向かって滑らかに細くなっていく美しい曲線。表面には産毛のような短い毛が生え始めている。灰色と白が混じった、ハイイロギツネ特有の色合い。
触り心地が変わった。皮膚は柔らかく、その下に筋肉と骨を感じる。軽く握ると、筋肉が収縮する。尻尾が僕の手の中で生きている。
座るたびに、尻尾が邪魔になる。椅子に座ろうとすると、尻尾が圧迫されて鋭い痛みが走る。無理に座ると、尻尾の付け根に激痛が走り、立ち上がらざるを得ない。仕方なく、尻尾用の穴が開いた特製のズボンを着用するようになった。
そして尻尾は動く。最初は無意識の痙攣だったものが、次第に意図的な制御が可能になっていく。嬉しいことがあると、尻尾が左右に振れる。母が面会に来ると、尻尾が激しく揺れる。不安なときは、足の間に挟み込む。恐怖を感じると、尻尾が体に巻きつく。
これはキツネの行動パターンだ。人間としての僕は、それを奇妙に思う。しかし尻尾を持つ僕は、それが自然に感じる。身体が本能を教えてくれる。
二週間後、尻尾は二十五センチに達した。
川瀬医師が定期検査に来た。尻尾を丁寧に触診し、可動域を確認し、記録を取る。
「順調です。尻尾の成長速度、筋肉の発達、神経系統の統合、すべて予測範囲内です」
「先生……これ、止められないんですか」
僕の声は弱々しかった。
「止められません。でも、高橋さん」川瀬医師は僕の目を真っ直ぐ見た。「これは病気ですが、死ではありません。変化です。あなたは新しい形で生き続けます」
その夜、ベッドの中で尻尾を撫でた。柔らかい毛。温かい体温。脈打つ血管。これは僕の一部だ。もう異物ではない。受け入れるしかない。
尻尾が、まるで慰めるように、優しく僕の手に巻きついた。
第三章 加速
一ヶ月が過ぎた。
尻尾は四十センチを超え、ふさふさとした毛で覆われていた。根元の直径は五センチ。灰色の毛並みに、白い毛先。まさにハイイロギツネの尾。美しいと思った。自分の体の一部を美しいと思えることに、複雑な感情を抱いた。
夜、ベッドの中で尻尾を撫でると、不思議な安らぎを感じる。毛の手触り。温かさ。尻尾が軽く揺れて、まるで「大丈夫だよ」と言っているかのよう。
しかし変化は尻尾だけではなかった。
耳が尖り始めた。
最初は耳の上部がわずかに引き伸ばされたように感じた。鏡を見ると、耳介の形が微妙に変わっている。人間の丸みを帯びた耳介が、上方へと引き伸ばされていく。毎朝、鏡を見るたびに耳の位置が高くなり、形が変わっていく。
二週間後、耳は明らかに三角形になっていた。尖った先端。広い耳介。そして、毛が生え始めている。外側には灰色の短毛。内側には白い毛。
音が変わった。
聞こえる音の範囲が広がっている。以前は聞こえなかった高音が聞こえる。遠くの音が鮮明に聞こえる。廊下の向こうで看護師たちが話している会話が、はっきりと聞き取れる。
そして耳が動く。音の方向に、自動的に耳が向く。意識しなくても、耳が音源を追跡する。
顔の骨格も変わり始めた。
ある朝、鏡を見て驚愕した。顎が前方へ突出し始めている。口元が、わずかに前に出ている。鼻が黒ずんで湿り気を帯びる。人間の鼻ではない。動物の鼻だ。
匂いが強烈になった。
世界が匂いで満たされている。病室の消毒液の匂い。廊下を歩く人々の体臭。遠くの給食室から漂う食事の匂い。すべてが層をなして、立体的に感じられる。
歯が痛む。犬歯が伸び、臼歯の形状が変わっていく。肉食獣の歯列へと。鏡で口の中を見ると、明らかに歯が長くなっている。鋭くなっている。
食事が困難になった。人間用の食器で食べることが難しい。箸が使えない。スプーンも持ちにくい。手づかみで食べるようになった。それが自然に感じる。
手足の変化は特に苦痛だった。
指の骨が短くなり始めた。第一関節、第二関節が徐々に縮んでいく。朝起きると、指が昨日より短くなっている。爪が厚く鋭くなっていく。人間の平たい爪が、動物の鉤爪へと変わっていく。
キーボードを打つことが困難になった。以前は一日中パソコンで作業していた。ギグワークのほとんどがデータ入力やライティングだった。しかし今、キーを正確に押すことができない。指が短すぎる。爪が邪魔をする。
スマートフォンの操作もままならない。画面をタップしようとすると、爪が当たって誤作動する。文字を打とうとしても、指が太くなり、複数のキーを同時に押してしまう。
デジタル世界から切り離されていく。人間社会から切り離されていく。
足の構造が変わり始めた。
かかとが持ち上がり、つま先立ちのような形状になっていく。足首の位置が変わる。骨が再配置されている。立つことが辛い。二本足で立つと、バランスが取れない。
ある日、立ち上がろうとして転倒した。足が言うことを聞かない。人間の足ではなくなっている。四つ足の動物の後肢へと変わっている。
看護師が駆けつけてくれた。優しく支えられながら、ベッドに戻る。その時、気づいた。
四つん這いの方が楽だ。
手と足を床につけて移動すると、安定している。痛みがない。自然だ。これが正しい姿勢だと、体が教えてくれる。
そして体毛。
全身から灰色と白の毛が生え始めた。最初は産毛だったものが、日ごとに太く長くなっていく。腕を見ると、細い毛が密生している。触ると柔らかい。
腕、足、胸、背中。人間の肌が見えなくなっていく。毛皮に覆われていく。
鏡を見るたびに、人間から遠ざかっていく自分を確認する。これは誰だ。僕なのか。高橋誠なのか。
川瀬医師が回診に来た。
「順調に進行していますね。体重の減少も予測通り」
僕の体重は六十五キロから四十五キロまで落ちていた。骨格が小さくなり、筋肉の質が変わっていく。人間の直立二足歩行用の筋肉から、四足歩行用の筋肉へ。
「先生……僕は、どこまで人間でいられますか」
「身体的には、あと一ヶ月ほどでしょう。精神的には……それはあなた次第です」
「どういう意味ですか」
「記憶は残ります。人間だった頃の記憶は消えません。しかし、その記憶をどう捉えるかは、変わっていきます。あなたは高橋誠であり続けます。ただ、高橋誠の在り方が変わるだけです」
川瀬医師は僕の頭を、毛に覆われ始めた頭を、優しく撫でた。
その手の温かさが、唯一の慰めだった。
第四章 精神の変容
二ヶ月目。身体の変化とともに、精神にも変化が現れ始めた。
最初に気づいたのは、言葉への違和感だった。
母が面会に来た。ガラス越しに。感染のリスクがあるため、直接の接触は禁止されている。病院の規定だ。
「誠、元気?ご飯ちゃんと食べてる?」
母の言葉。意味は理解できる。音として聞こえる。しかし、言葉を紡ぐという行為そのものに、漠然とした疲労を感じる。話すことが、億劫だ。
「うん……食べてる」
短い返答。それ以上、言葉が出てこない。伝えたいことはある。母への感謝。これまでの謝罪。一人で育ててくれたこと。いつも優しかったこと。でも、言葉にする気力が湧かない。
言葉が重い。複雑すぎる。もっと簡単な方法で伝えたい。
代わりに、尻尾が揺れた。ゆっくりと、左右に。母を見て、嬉しい。会えて、嬉しい。尻尾がそれを表現している。
母は泣いた。
「誠……わかってるわ。お母さんにはわかる。あなたの気持ち」
母は手をガラスに当てた。僕も手を当てた。毛に覆われた手を。ガラス越しに、温もりを感じようとした。
その時、喉の奥から小さな音が漏れた。
「クーン……」
甘えた声。子犬のような、子ギツネのような声。意図したわけではない。自然に出た。
母の涙が増えた。でも、悲しい涙ではない。何か別の感情。受容? 愛?
集中力も変わった。
本を読むことができなくなった。以前は一日に一冊のペースで読書をしていた。小説、ビジネス書、哲学書。活字が好きだった。しかし今は、一段落を読むだけで気が散る。文字を追うことが苦痛だ。
なぜこんなに複雑なのか。文字という記号。抽象的な概念。
それを理解するために脳が働く。疲れる。
代わりに、音に敏感になった。
廊下を歩く看護師の足音で、誰が来るかわかる。足音のリズム、重さ、速度。それぞれが個性を持っている。遠くで鳴る救急車のサイレン。窓の外の鳥のさえずり。すべてが鮮明に、立体的に聞こえる。
耳が、ハイイロギツネの耳が、音を拾い集める。そして脳が、その情報を瞬時に処理する。考えるのではない。感じるのだ。
そして匂い。
世界が匂いで満たされている。人間の頃は気づかなかった、無数の匂い。消毒液の刺激臭。給食室から漂う肉の匂い。特に肉の匂いには強く反応する。唾液が出る。
川瀬医師の香水の残り香。いつも同じ香り。安心する匂い。看護師たちそれぞれの体臭。一人ひとり違う。その違いで個人を識別できる。
時間の感覚も変わった。
時計を見ても、意味が理解できなくなっていく。数字が読めない。いや、読めるが、それが何を意味するのか理解するのに時間がかかる。
代わりに、太陽の位置で時間を感じる。窓から差し込む光の角度。明るさ。それで、今が朝か昼か夕方かわかる。
食事の好みも変わった。
野菜への興味が失せ、肉を求めるようになった。特に生肉。調理された肉よりも、血の匂いが残る生肉に強く惹かれる。
ある日、病院食の焼き魚を見ても、食欲が湧かなかった。しかし、間違って配膳された生の鶏肉を見た瞬間、本能的に飛びついてしまった。
看護師が慌てて止めに入った。でも、その一瞬で僕は理解した。これが僕の本当の食事だ。調理された食べ物ではない。生の肉だ。
川瀬医師が説明してくれた。
「精神の変容は段階的に進みます。まず感覚の優先順位が変わり、次に思考パターンが単純化し、最終的には本能が思考を支配します。ただし、記憶は残ります。人間だった頃の記憶は、失われません」
「でも……僕は、僕でなくなる」
「いいえ」川瀬医師は首を振った。「あなたはあなたです。ただ、あなたの在り方が変わるだけです。高橋誠という存在は消えません。高橋誠がハイイロギツネになるのです」
その言葉の意味を、僕はまだ完全には理解できなかった。
しかし、少しずつわかり始めていた。僕は変わる。でも、消えるわけではない。
夜、一人でベッドに横たわる時、尻尾を抱きしめた。温かい。柔らかい。これは僕だ。新しい僕だ。
第五章 境界線
二ヶ月半が過ぎた頃、僕は人間と動物の境界線に立っていた。
見た目は、もはや人間とは呼べない。しかし、完全な動物でもない。
鏡に映る姿は、半人半獣だった。顔は細長く、鼻は黒く湿っている。耳は大きく三角で、頭の上部についている。目は黄色味を帯び、瞳孔が縦長になり始めている。
体は毛で覆われている。灰色と白の美しい毛皮。触ると柔らかく、暖かい。
手足は……もう手足とは呼べない。前足と後足だ。指は短く、肉球が発達している。爪は鋭く、引っ込めることができない。
尻尾は五十センチを超えた。体とほぼ同じ長さ。ふさふさとした毛で覆われ、先端は白い。
立つことはできない。二本足では立てない。骨格が完全に変わってしまった。四つん這いが自然な姿勢だ。
しかし、心はまだ人間だった。考えることができる。記憶がある。母のこと。過去のこと。人間だった頃のこと。
でも、その記憶が遠のいていく。
ある日、自分の名前を思い出せなかった。
いや、思い出せないわけではない。知っている。高橋誠。それが僕の名前だ。でも、その名前が何を意味するのか、一瞬わからなくなった。
名前。それは人間が自己を定義するための記号。しかし、僕にそれが必要なのか?
僕は僕だ。名前がなくても、僕は僕だ。
言葉も失われつつあった。
喉の構造が変わり、人間の言葉を発音することが物理的に不可能になった。舌の位置が違う。口の形が違う。声帯が違う。
試しに「おはよう」と言おうとした。
「ウ……ウ……」
かすれた音しか出ない。明確な音節を作れない。
代わりに、鳴き声が出る。キャンキャンという高い声。グルルという唸り声。クーンという甘えた声。ヒンヒンという不安な声。
これが僕の言葉だ。新しい言葉だ。
でも、不思議と不便は感じなかった。
言葉がなくても、意思は伝わる。尻尾の動き。耳の向き。体の姿勢。匂い。これらすべてがコミュニケーションの手段だ。
川瀬医師が部屋に入ってくると、僕は尻尾を振る。嬉しいという意思表示。医師は微笑んで、僕の頭を撫でてくれる。
看護師が食事を持ってくると、僕は耳を前に向ける。興味があるという表現。看護師は「はいはい、わかってるわよ」と言って、皿を置いてくれる。
母が面会に来ると、僕は全身で喜びを表現する。尻尾を激しく振り、耳を立て、小さく跳ねる。母は泣き笑いをする。
「誠、わかるわよ。あなたが喜んでるって、ちゃんとわかる」
思考も変わった。
複雑なことを考えられなくなった。哲学的思索。社会への批評。未来への不安。そういった抽象的な思考が、霧のように消えていく。
なぜ生きるのか? そんな疑問を考えることができない。いや、考える必要がない。生きているから生きる。それだけだ。
社会はどうあるべきか? そんなこと、どうでもいい。社会は遠い。僕には関係ない。
将来どうなるのか? 将来? そんな概念が曖昧になる。今がある。今日がある。それだけだ。
代わりに、今この瞬間に集中するようになった。
今日の食事は何か。肉が食べられるか。外の天気はどうか。日差しがあるか。川瀬医師は今日来るか。頭を撫でてもらえるか。母は面会に来るか。会えるか。
単純な、しかし切実な関心事。
ある日、気づいた。
僕は幸せだ。
人間だった頃、いつも不安だった。将来のこと。お金のこと。社会での立場。母への申し訳なさ。三十歳なのに定職につかず、母に頼って生きている自分。優秀な母に比べて、何もできない自分。
そういった重荷が、すべて消えていた。
今、僕は食べて、眠り、目覚める。それだけで満足だ。
太陽の光を浴びる。暖かい。気持ちいい。それだけで幸せだ。
川瀬医師に撫でられる。優しい。安心する。それだけで幸せだ。
母に会える。嬉しい。愛されている。それだけで幸せだ。
これでいいのかもしれない。
第六章 群れ
三ヶ月目。病院の特別区画に移された。
SMTS患者専用の施設。ここには、様々な動物に変態した人々がいた。
廊下を歩く――いや、歩くという表現は正しくない。四つ足で移動する看護師に連れられて、僕は新しい病棟に入った。
広い部屋。床は柔らかいマットで覆われている。壁際にはベッドではなく、クッションや毛布が置かれている。窓は大きく、外の景色がよく見える。
そして、動物たちがいた。
一匹の犬。いや、犬になった人間。大型犬、ゴールデンレトリバーのような姿。金色の毛並み。優しい目。尻尾を振りながら、僕に近づいてきた。
匂いを嗅がれる。僕も相手の匂いを嗅ぐ。挨拶だ。これが動物の挨拶だ。
一匹の猫。いや、猫になった人間。三毛猫のような模様。窓辺で丸くなって、僕を観察している。警戒しているが、敵意はない。
そして、二匹のハイイロギツネがいた。
一匹は若い女性だった。変態前は大学生だったと、川瀬医師が教えてくれた。もう言葉は話せないが、目に知性の光が残っている。
彼女は尻尾を高く上げて、僕に近づいてきた。鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐ。僕も彼女の匂いを嗅ぐ。
同じ匂いだ。同じ種だ。
仲間だ。
彼女は小さく鳴いた。キャンという声。そして、尻尾を左右に振った。
僕も尻尾を振った。
言葉はない。でも、通じ合った。
もう一匹は中年の男性だった。変態がかなり進行している。ほとんど完全にキツネだ。しかし、目が合うと、何かを伝えようとする意思を感じる。
彼は僕に近づき、頭を軽く擦り付けてきた。挨拶。歓迎。
僕は本能的に同じようにした。頭を擦り付ける。仲間への挨拶。
その瞬間、何かが変わった。
僕は一人じゃない。
孤独じゃない。
ここには仲間がいる。同じ境遇の仲間が。人間から動物になった仲間が。
僕たちは一緒に過ごすようになった。
広い部屋で、一緒に走り回る。遊ぶ。じゃれ合う。尻尾を追いかけっこする。
女性のキツネが、僕の尻尾に飛びつく。僕も彼女の尻尾を追いかける。くるくると回る。転がる。笑う。いや、笑えない。でも、楽しい。
この感覚を何と呼ぶのか、もう言葉では説明できない。でも、心が満たされている。
犬になった青年も一緒に遊ぶ。彼は大きいから、少し怖い。でも、優しい。決して乱暴にしない。尻尾を振って、遊ぼうと誘ってくる。
猫になった女性は、少し離れたところから見ている。猫らしく、マイペース。でも、時々、僕たちのそばに来て、一緒に日向ぼっこをする。
僕たちは種を超えた家族だった。
ある日、外庭に出された。
初めての外。三ヶ月ぶりの外の世界。
草の匂い。土の匂い。風の匂い。太陽の暖かさ。空の青さ。
圧倒された。感覚が溢れる。嬉しい。楽しい。
僕は走った。四本の足で、全力で走った。
風が体を撫でる。毛が風になびく。尻尾がバランスを取り、風を切る。身体が軽い。自由だ。
これが生きるということ。
人間だった頃、部屋に引きこもり、画面を見つめ、世界から隔絶されていた。孤独だった。不安だった。生きている実感がなかった。
でも今、僕は生きている。
草の上を駆け、土の匂いを嗅ぎ、風を感じる。太陽の光を全身で浴びる。
他のキツネたちも一緒に走る。犬も走る。猫は木陰で優雅に毛づくろいをしている。
僕たちは自由だった。
人間の姿は失った。でも、何か大切なものを得た。
川瀬医師が記録を取っている。僕たちを見守っている。優しい目で。
その日から、毎日、外に出るようになった。
天気の良い日は、外庭で過ごす。走り回り、探索し、匂いを嗅ぎ、日向ぼっこをする。
女性のキツネとは特に仲良くなった。彼女の名前は――名前? そういえば、もう名前で呼び合わない。匂いで識別する。姿で識別する。
彼女と一緒に走る。一緒に遊ぶ。一緒に休む。彼女の匂いが好きだ。彼女の存在が安心する。
これは友情なのか。それとも別の何かなのか。言葉では説明できない。でも、確かな絆がある。
中年のキツネは、僕たちを見守っている。まるで父親のように。彼の名前は――記憶が曖昧だ。山田? 田中? いや、どうでもいい。彼は僕たちの仲間だ。それだけで十分だ。
ある日、雨が降った。
外には出られない。部屋の中で過ごす。
僕たちは窓辺に集まり、雨を見ていた。ガラスに当たる雨粒。雨の匂い。濡れた土の匂い。
女性のキツネが僕の隣に座った。体を寄せてきた。暖かい。
僕も体を寄せた。
言葉はない。でも、通じ合っている。
雨の日は、こうして過ごす。それでいい。
第七章 母との絆
三ヶ月半。母の面会の頻度が増えた。
最初は週に一度だった。次に二度。そして、ほぼ毎日。
母は仕事を調整して、毎日、僕に会いに来てくれる。
ガラス越しに、母が語りかける。
「誠、今日も元気そうね。よかった」
僕は尻尾を振る。全身で喜びを表現する。
母が笑う。
「お母さんね、この近くに引っ越したの。小さいアパートだけど、病院まで十分で来られるわ」
母の言葉。意味を完全には理解できない。でも、トーンから感情は読み取れる。愛情。献身。
僕は鳴いた。クーンと甘えた声で。
母の目に涙が浮かぶ。でも、悲しい涙ではない。
「ありがとう、誠。お母さんね、あなたがこうなって、最初は辛かったの。とても辛かった。自分を責めたわ。何か悪いことをしたんじゃないかって。でもね、今は……今のあなたも愛してる。変わらず、愛してる」
母は手をガラスに当てた。
僕も前足をガラスに当てた。もう手ではない。前足だ。肉球がガラスに触れる。
母の温もりを感じたい。でも、ガラスが邪魔をする。
「もうすぐ、触れられるようになるって、川瀬先生が言ってたわ。変態が完了して、感染のリスクがなくなったら、直接触れられるって」
その日が来ることを、僕は心から待ち望んだ。
母に触れたい。母の温もりを感じたい。母に抱きしめてもらいたい。
それは人間の欲求なのか。それとも、子ギツネの欲求なのか。
どちらでもいい。
僕は母が好きだ。母に会いたい。それだけだ。
ある日、母が写真を持ってきた。
「これ、覚えてる? 誠が小学生の頃の写真よ」
写真には、二人の人間が写っている。若い女性と、小さな男の子。
母と、僕。
人間だった頃の僕。
見ても、ピンとこない。これが僕? 本当に?
でも、記憶がある。この日のこと。遊園地に行った日。母と二人で。楽しかった。
記憶が蘇る。人間だった頃の記憶。
「誠は、いつもいい子だったわ。優しくて、静かで。お母さんの自慢の息子よ」
母の言葉。
僕は何も答えられない。ただ、尻尾を優しく振るだけ。
「病気のことも、誠のせいじゃない。誰のせいでもない。ただ、そうなっただけ。でもね、誠は誠よ。お母さんの大切な息子よ。それは変わらない」
その夜、一人で考えた。
僕は高橋誠だ。母の息子だ。
でも、僕はハイイロギツネになっていく。
矛盾しているのか? いや、矛盾していない。
僕は高橋誠であり、ハイイロギツネだ。両方だ。
その理解が、心を軽くした。
翌日、女性のキツネに会った。彼女も、誰かの娘だ。誰かの大切な人だ。
中年のキツネも、誰かの夫かもしれない。誰かの父親かもしれない。
僕たちは皆、人間だった。そして今、動物になりつつある。
でも、人間だった頃の記憶がある。大切な人がいる。愛されている。
それは変わらない。
第八章 完全な変態
四ヶ月目。僕の体は、ほぼ完全にハイイロギツネになっていた。
体重は三・五キロ。体長は五十センチ。尻尾の長さは四十五センチ。
鏡に映る姿は、完全なハイイロギツネだ。灰色と白の美しい毛皮。尖った耳。黄色い目。黒い鼻。細長い顔。そして、ふさふさとした長い尻尾。
人間の面影はない。
でも、目を見ると、何か違う。野生のキツネとは違う。知性の光が残っている。
知能も、ハイイロギツネのレベルまで低下していた。
複雑な思考はできない。文字も読めない。数も数えられない。
川瀬医師が簡単な知能テストをした。
三つの箱がある。一つに食べ物が入っている。どれかを選ぶ。
僕は匂いで判断した。正解。
次に、二つの道がある。一つは食べ物、一つは空。どちらを選ぶ。
僕は迷わず食べ物の方に行った。正解。
最後に、レバーを押すと食べ物が出る装置。
僕は何度か試して、理解した。レバーを押す。食べ物が出る。
「ハイイロギツネとして、標準的な知能です」川瀬医師は記録を取りながら言った。「でも、学習能力は野生個体より高い。やはり、人間だった頃の経験が影響しているようです」
僕は医師の言葉を理解できない。でも、トーンから、褒められているとわかる。
尻尾を振った。
でも、記憶は残っている。
僕は誠だった。人間だった。母と暮らしていた。ギグワークをしていた。引きこもりがちだった。
その記憶は、まるで遠い夢のように、頭の片隅にある。はっきりとは思い出せない。でも、確かに存在する。
そして、その記憶が僕を他のキツネと区別する。
野生のハイイロギツネは、人間を恐れる。でも僕は恐れない。人間は仲間だ。特に、川瀬医師と母は、特別な存在だ。
川瀬医師が部屋に入ってくると、僕は尻尾を振って駆け寄る。医師は僕を撫でてくれる。頭を、背中を、そして尻尾を。
気持ちいい。安心する。
これが幸せだ。
母が面会に来ると、ガラスに前足をかけて、できるだけ近づこうとする。母に触れたい。でも、ガラスが邪魔をする。
それでも、母の匂いは感じる。母の声は聞こえる。それだけで満足だ。
ある日、川瀬医師が告げた。
「来週から、直接接触が可能になります。変態が完了し、感染のリスクがなくなりました」
その意味を、僕は完全には理解できなかった。
でも、何かいいことが起こる。そう感じた。
第九章 触れ合い
四ヶ月半。
その日、母が部屋に入ってきた。ガラス越しではない。直接、部屋の中に。
僕は驚いた。嬉しかった。尻尾を激しく振った。
母は僕に近づいた。ゆっくりと、優しく。
そして、しゃがんで、手を伸ばした。
僕は母の手に鼻を近づけた。匂いを嗅いだ。母の匂い。懐かしい匂い。好きな匂い。
母の手が、僕の頭に触れた。
温かい。
母の手が、僕の毛を撫でた。
優しい。
「誠……」
母の声が震えている。
「会いたかった。ずっと、触れたかった」
母は僕を抱きしめた。
僕は母の腕の中にいた。温もりに包まれている。
安心する。幸せだ。
これが、ずっと求めていたものだ。
僕は小さく鳴いた。クーンと。甘えた声で。
母は泣いた。でも、笑っていた。
「ありがとう、誠。生きていてくれて、ありがとう」
僕は母の顔を舐めた。塩辛い。涙の味。
母は笑った。
「くすぐったいわ」
そして、母は僕の尻尾を撫でた。
「立派な尻尾ね。きれいよ」
尻尾が揺れた。褒められた。嬉しい。
その日から、母は毎日来て、僕を抱きしめてくれた。
撫でてくれた。話しかけてくれた。
僕は言葉で返せない。でも、尻尾で、耳で、体全体で反応した。
母が笑う。僕の尻尾が揺れる。
コミュニケーションだ。言葉がなくても、心は通じ合う。
他の患者たちにも、家族が訪れるようになった。
犬になった青年の両親が来た。最初は戸惑っていた。でも、息子が尻尾を振って駆け寄ると、涙を流して抱きしめた。
猫になった女性の姉が来た。妹を優しく撫でた。猫は喉を鳴らした。
女性のキツネの母親が来た。娘を見て泣いた。でも、拒絶しなかった。受け入れた。抱きしめた。
中年のキツネの妻が来た。夫を撫でた。「おかえりなさい」と言った。
僕たちは皆、愛されている。
姿は変わった。でも、愛は変わらない。
ある日、施設で交流会が開かれた。
患者だけでなく、その家族、保護者も参加する。大きなホールに、人間と動物が集まった。
奇妙な光景だった。でも、温かい光景だった。
人々は動物になった家族を撫で、話しかけ、一緒に過ごした。
動物たちは人間に甘え、遊び、交流した。
種の壁はなかった。
僕は母の隣に座った。母は僕の頭を撫でながら、他の家族と話していた。
「うちの誠は、元々おとなしい子で……」
母が僕のことを話している。誇らしげに。
僕の尻尾が揺れた。
隣では、女性のキツネが母親と一緒にいた。彼女の尻尾も揺れている。
僕たちは目が合った。彼女が小さく鳴いた。僕も鳴いた。
挨拶だ。
そして、僕たちは一緒に遊び始めた。
ホールを走り回る。追いかけっこをする。人々が笑う。
犬になった青年も加わった。猫になった女性も、少しだけ参加した。
僕たちは自由だった。
人間と動物の境界が曖昧になった世界。でも、愛は変わらない。絆は消えない。
その夜、母が言った。
「誠、お母さん、決めたの。あなたを引き取るわ」
引き取る?
母が説明してくれた。変態が完了した患者は、家族のもとに戻ることができる。特別なケアは不要。ただ、家族として一緒に暮らすだけ。
「一緒に暮らしましょう。お母さんと誠、また二人で」
僕は尻尾を振った。激しく、嬉しく。
家に帰る。母と一緒に暮らす。
それは、僕がずっと望んでいたことだった。
第十章 新しい日常
五ヶ月目。僕は母と一緒に、新しいアパートで暮らし始めた。
小さな一室。でも、十分だ。
窓からは公園が見える。緑が多い。鳥の声が聞こえる。
母は毎朝、僕の食事を用意してくれる。生肉。野菜は少し。水。
「はい、誠。朝ご飯よ」
僕は皿に駆け寄る。食べる。美味しい。
母は微笑みながら見ている。
食事の後、母は仕事に行く。リモートワークだ。
「誠、お留守番お願いね。お母さん、仕事してるから」
僕は母のそばで丸くなる。母がパソコンに向かっている間、僕は眠る。時々、母が僕を撫でる。
昼休みには、一緒に公園に行く。
母がリードをつける。最初は嫌だった。でも、安全のため。法律で決まっている。
公園で、僕は走る。草の匂いを嗅ぐ。他の犬に会う。挨拶する。
母は僕を見守っている。笑顔で。
「誠、楽しそうね」
楽しい。とても楽しい。
夕方、母が夕食を作る。僕の分も、母の分も。
僕は母の足元で待つ。尻尾を振って。
「はいはい、わかってるわよ」
母が僕の皿に肉を入れる。僕は食べる。
母も食べる。人間の食事を。
一緒に食べる。これが家族だ。
夜、母とテレビを見る。
いや、見るというより、一緒にいる。母がソファに座り、僕はその隣で丸くなる。
母の手が、僕を撫でる。
「今日もいい一日だったわね、誠」
僕は尻尾を揺らす。
いい一日だった。毎日がいい一日だ。
就寝時、僕は母のベッドの横に敷かれたクッションで寝る。
でも、時々、母のベッドに上がってしまう。
「もう、誠ったら」母は笑う。「でも、いいわ。一緒に寝ましょう」
母の温もり。安心する匂い。
僕は母の腕の中で眠る。
幸せだ。
第十一章 再会
ある日、母が言った。
「誠、今日、病院に行くわよ。川瀬先生に会いに」
定期検診だ。
病院に着くと、懐かしい匂いがした。消毒液の匂い。そして、仲間の匂い。
川瀬医師が待っていた。
「高橋さん、誠くん、お久しぶりです」
僕は尻尾を振って駆け寄った。医師は笑って、僕を撫でてくれた。
「元気そうですね。体重も適正です。毛並みもきれい。お母さん、よくケアされていますね」
「ありがとうございます」母が微笑む。
検診の後、川瀬医師が言った。
「よかったら、他の患者さんたちにも会っていきませんか? 誠くんの仲間たちが、まだ施設にいます」
僕は尻尾を振った。会いたい。仲間に会いたい。
施設の部屋に入ると、懐かしい顔ぶれがいた。
女性のキツネ。中年のキツネ。犬になった青年。猫になった女性。
みんな、僕を覚えていた。
女性のキツネが駆け寄ってきた。鼻を擦り付ける。挨拶だ。
僕も鼻を擦り付ける。嬉しい。久しぶり。
中年のキツネも近づいてきた。頭を軽く噛む。親愛の表現だ。
犬も尻尾を振って近づいた。一緒に遊ぶ?
猫は窓辺から、こちらを見ている。いつも通りだ。
僕たちは一緒に遊んだ。走り回り、じゃれ合い、楽しんだ。
まるで家族の再会だ。
母は他の家族や保護者と話していた。
「誠は家でとても落ち着いています。問題なく暮らせています」
「うちの娘もです。最初は不安でしたが、今は……今の娘を愛しています」女性のキツネの母親が言った。
「うちの息子も、幸せそうです」犬の父親が言った。
みんな、受け入れている。新しい家族の形を。
その日、僕は理解した。
僕たちは変わった。でも、失ったわけではない。
新しい形で生きている。新しい形で愛されている。
そして、幸せだ。
第十二章 季節の変化
冬が来た。
初めての冬。ハイイロギツネとしての冬。
寒い。でも、毛皮が暖かい。自然の防寒具だ。
公園には雪が積もった。白い世界。
母がリードをつけて、一緒に公園に行く。
雪の上を歩く。冷たい。でも、楽しい。
足跡がつく。僕の足跡。キツネの足跡。
母が笑う。
「誠、楽しそうね」
楽しい。雪は楽しい。
僕は雪の中を駆け回る。転がる。雪を鼻で掘る。
母が写真を撮っている。
「いい写真が撮れたわ。あとで見せてあげるね」
夜、暖房の効いた部屋で、母と一緒に写真を見る。
画面の中に、ハイイロギツネがいる。雪の中で遊んでいる。
それが僕だ。
不思議な感覚。でも、悪くない。
「誠、かわいいわよ」母が言う。
かわいい? 僕が?
母は僕を抱きしめる。
「お母さんの大切な息子よ」
僕は尻尾を振る。嬉しい。
春が来た。
公園に花が咲いた。いろんな匂い。新しい匂い。
鳥が戻ってきた。鳴き声が賑やか。
僕は公園で、他の動物に会う。
犬たち。散歩している犬たち。彼らは普通の犬だ。生まれつきの犬。
でも、僕と仲良くしてくれる。一緒に遊ぶ。
違いはない。僕も犬たちも、同じ動物だ。
ある日、女性のキツネに会った。彼女も母親と散歩していた。
お互いに駆け寄る。鼻を擦り付ける。嬉しい。
母親たちも話している。
「お久しぶりです」
「元気そうですね」
僕たちは一緒に遊んだ。公園を走り回り、草の匂いを嗅ぎ、楽しんだ。
その後、また会うことになった。定期的に。
僕たちの仲間は、増えていった。
エピローグ
六ヶ月が過ぎた。
僕は完全にハイイロギツネになった。外見も、中身も。
でも、僕は高橋誠だ。人間だった僕の記憶は、消えない。
母との記憶。子供の頃の記憶。学生時代の記憶。大人になってからの記憶。
すべて、頭の片隅にある。
はっきりとは思い出せない。でも、確かに存在する。
そして、その記憶が僕を僕にしている。
ある日曜日。母と公園に行った。
天気がいい。暖かい。気持ちいい。
公園には、僕の仲間たちがいた。
女性のキツネ。中年のキツネ。犬になった青年。猫になった女性。
そして、新しい仲間も。最近、変態が完了した人たち。
ウサギになった少年。鹿になった女性。タヌキになった老人。
みんな、家族と一緒にいる。
みんな、笑っている。
いや、動物は笑わない。でも、幸せそうだ。
僕たちは一緒に遊んだ。走り回り、じゃれ合い、楽しんだ。
家族たちは見守っている。話している。笑っている。
人間と動物の境界が曖昧になった世界。
でも、それは悲劇ではない。
新しい形の共存だ。
川瀬医師も来ていた。患者たちを見守っている。
医師が僕に近づいた。
「誠くん、元気そうですね」
僕は尻尾を振った。
医師は僕を撫でた。
「あなたたちは、人間の心を持った動物です。新しい存在です。でも、それは素晴らしいことだと、私は思います」
医師の言葉。意味は完全には理解できない。
でも、優しいトーンは伝わる。
母が近づいてきた。
「誠、帰りましょうか」
僕は母を見上げた。尻尾を振った。
母が微笑む。
「じゃあ、もう少し遊んでいい?」
僕は駆け出した。仲間のところへ。
女性のキツネと一緒に走る。中年のキツネが見守っている。
犬が追いかけてくる。猫が木陰から見ている。
楽しい。
夕暮れ時、家に帰った。
母が夕食を用意してくれる。
「今日も楽しかったわね、誠」
僕は尻尾を振る。楽しかった。
食事の後、母と一緒にソファに座る。
母がテレビをつける。ニュースが流れている。
「SMTS患者は現在、世界中で一千万人を超えました。しかし、多くの患者が家族のもとで幸せに暮らしています……」
母が僕を撫でる。
「誠も、幸せよね」
幸せだ。
人間だった頃より、ずっと幸せだ。
あの頃の僕は、孤独で、不安で、生きている意味を見失っていた。
でも今、僕には母がいる。仲間がいる。毎日がある。
それだけで十分だ。
夜、ベッドに入る。母の隣で。
母が電気を消す。
「おやすみ、誠。また明日ね」
僕は目を閉じる。
尻尾が、ゆっくりと揺れる。
幸せだ。
僕は高橋誠。ハイイロギツネの誠。
そして、母の息子。
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