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シトロン

  蒸し暑さはそのまま、ただ日付けだけが更新されていく、とある夏の夜。美しい星空も、ちょっと歩けば喉が鳴る、気の利いた飲み屋街もあるというのに、このむさくるしい1課の凸凹な2人の刑事らはさてさて、何か1枚の紙切れを前にして腕を組んだまま、ひと口もしゃべらない。

  「あー…」と、そのひとりの斎藤が、特あつらえの椅子をメキメキ言わせながら、大きく後ろへと背をそらす。あくびをしながら、グッと両手を握りしめる。浮き出る血管。背中の毛が一斉に逆立ち、いい加減に着たシャツが、千切れんばかりに後ろへと引かれ、厚い胸の形をなぞった。ギュッとつむった目から涙が、底無しの穴のようにあいた口からはヨダレが流れる。犬歯の先はやや丸みを帯び、口元まで居並ぶゴツゴツとした歯という歯はみな黄ばんでしまったが、まなこだけはなお、少年のように生々しい。

  「おぃ、飲みに行こうぜ。」斎藤はのけぞった勢いで、今度は両手をドシンと机に落とす。「今夜はユキコちゃんと飲める日じゃねぇか。」片手を持ち上げて、くっと、グラスを傾ける仕草をする。

  「そだね。」とだけ言って、相方の五十嵐は、斎藤の向かいの自席を立つ。坊っちゃん顔にズレて乗っかった、丸いメガネを片手で押し上げて、長いこと眺めたその紙切れを元通りの封筒にしまい、捜査ノートに挟む。

  斎藤も立ち上がって、今度はグァァという感じで、全身の伸びをする。ん?、見れば、相方の五十嵐が、シャツからはみ出す自分の胸毛を見やって、うわ…、という顔をしている。斎藤は片手で、シャツの胸辺りをなでつけ、はにかむような、ニヤけた顔になる。

  「残業続きで、ろくな手入れもできん。おまえらニンゲンは楽でいいよな。乾かすの大変なんだぜ。」

  「洗っては、いるんだ。」五十嵐は、片手を胸に置いたままで無防備につっ立っている斎藤の前へ来て、シャツからはみ出す胸毛を触ろうとした。その手を斎藤のゴツゴツした大きな手がつまむ。そのまま鼻へ持ち上げてフンフンと嗅ぐ。

  「何だ?、レモンか?」斎藤は相方の手を捨てて、捜査ノートをつかみにかかる。自分の胸と机との間で相方がギュウとか言っているが、それより先の封筒を取り上げて、嗅いでみなけりゃ。

  「どう?」と言う五十嵐の後頭部が、手を伸ばす斎藤の脇の下から出ている。

  斎藤は何も言わず、封筒を開いて、先の紙切れを爪で器用に取り出し、嗅いでみる。もう一度封筒を嗅ぎ、また紙切れを嗅いでみる。

  「封筒だけについてやがるな。指紋は出なかったんだよな?」斎藤は、ようやく身を起こして、自重から解放した相方の顔を見やった。

  「うん。出なかった。中の紙切れも。」五十嵐は振り向いて、斎藤の顔を見上げる。「つまり、紙切れを入れた奴と、封筒をポストに投函した奴とは、別ってことか。さすが。歩くクロマトグラフィー。」五十嵐は斎藤の顎をつつく。鼻をつつきたかったが、指が届かない。つつかれた斎藤の、ムッとした顔が視野の外に見えた気がして、五十嵐はとっさに手を引いたが、今回は間に合わなかった。

  斎藤も、いつものことで、相方が避けるだろうと思った。が、実際は手をモロに食ってしまって、嫌な感触が口のなかにあった。慌てて、吐き出すようにして相方の手を離す。

  「大丈夫。ほら。」五十嵐は、轢かれた被害者が直後に見せるカラ元気そのままに、血の引いた顔のままで、食われた手を何度も握っては開いて見せる。握るたびに床にシミが広がる。

  斎藤は相方を抱え込んで、部屋のドアを一撃で吹っ飛ばし、隣の病院へと走った。たまたま夜間診療の当番病院で助かった。

  「ヤクザの喧嘩で噛まれちゃって」と顔を赤らめつつ処置室に入る五十嵐。斎藤は気が気ではない。自分ら用の頑丈な椅子ではなく、近べの普通の長椅子に座ってしまっていることも忘れて、斎藤はその大きな手で頭を抱えた。と、誰かの手が自分の腕に触れる。小さな手。見れば、いつの間にか、呼吸機をつけた子どもがひとり、斎藤の隣に座っていた。

  「かいじゅうさん」と、その子は呼吸機のせいか、消え入るようなか細い声で言い、斎藤の顔を見上げて、ニッコリと笑った。斎藤は思わずその小さな手を取って、両手の内にポンポンと抱いた。処置中のランプはなかなか消えない。子どもは斎藤の腕に寄り添い、斎藤は呼吸機に注意しながら、子どもの肩をその逞しい腕のなかへ迎えた。

  「よっ。誰その子、可愛いね。」いつしか処置中のランプは消えて、手にギブスを巻いた相方の姿があった。あっと、斎藤はその真っ白なギブスを凝視する。長椅子が悲鳴をあげる。

  「親指の付け根の骨が割れてたみたい。」事も無げに言う五十嵐。えっという顔をして、斎藤は固まってしまうが。しかし子どものことは忘れていない。

  「さ、飲みに行こうよ。あのコに会うの、楽しみにしてたろ?」と言っても動かない斎藤に、五十嵐はも一度「さあ。」とせかし、自分はスタスタと歩きだす。

  斎藤は、子供の顔が完全に隠れるほどの手で、子どもの頭を撫でて、ようやく長椅子を立つ。長椅子がギュッと安堵の溜め息をつく。

  「かいじゅうさん、ばいばい。」子どもは座ったまま、力なく斎藤に手をふって、それから億劫そうに長椅子に両手をついて立ち、廊下を奥へと歩いていく。斎藤は、子どもの姿が廊下の暗がりに紛れるまで、手を振り返した。

  「払う。俺が払うから。」そこだけ明るい会計の窓口に相方の姿を認めて、斎藤は手を前へ突き出してドシドシと駆け出す。

  薬瓶が揺れだして、地震かと、会計の若いコが窓口から頭を突き出した。駆けてくる斎藤を認めるなり、「走らなきで!」と、声を抑えて叫ぶ。

  斎藤は立ち止まり、頭をかきながら、「スンマセン。いくらですか?」と言って、Gパンのポケットから財布を出した。らしくない斎藤の仕草に、五十嵐は思わず笑ってしまった。

  「あ〜ら、狐さんいらっしゃい。待ってたのよ。今夜は来ないのかと思ったわ。」ユキコは今夜も張り切っている。道々、浮かない顔で歩いてきた斎藤だったが、ユキコの顔を見てようやく元気を取り戻したようだ。五十嵐のギブスのことは、ユキコは何も言わなかった。ただ、いつもであれば歩合のいい酒を勧めるところ、今夜は自分から「烏龍茶でいいかしら?」と言ってきた。経験から、傷の具合を見て取ったのだろう。

  「ユキコちゃん、ついでくれ。」早速、斎藤の横へ陣取ったユキコ。チビチビと烏龍茶をすする五十嵐の向かいで、斎藤はゴクゴクと酒を飲み込んでいく。そのガタイだもの。空瓶がゴロゴロと転がっていく。ユキコは斎藤の口元から垂れる酒を、斎藤の腕にすがって手を伸ばし、紙ナプキンで拭いてやる。

  五十嵐はふたりの様子を笑って見ている。もう目がトロンとしてきた斎藤の顔を見上げて、コイツは狐なのかなと、その配色を改めて確認する。なるほど、耳先の黒いのや、赤っぽい毛並み、それでいて腹の側は、今はもうシャツからはみ出し放題にはみ出した胸毛なんかは、つややかなクリーム色で。手が黒くないのを除けば、まあ狐と言われても妥当だろう。斎藤はユキコの手を取って、頬でスリスリをやりだす。もうほぼ出来上がっているらしい。

  「ねぇ、何か匂う?」スリスリをやめて、ユキコの手を鼻でクンクンする斎藤に、困惑気味な面持ちでユキコが聞く。向かいで見ていた五十嵐も、スリスリは尋常だが、クンクンは見たことないなと、相方の未知の仕草に注目している。

  「ユキコちゃんの手、レモンの匂いがする。これなに?」と斎藤が言う。五十嵐は思わず烏龍茶のグラスを握りしめ、もう片方の手で、ずり落ちた丸メガネを押し上げた。

  「え?分かる?さすがワンちゃんね。」ユキコは斎藤のうなじを撫でながら、嬉しそうに話した。「店に出ると何度も手を洗うから、肌荒れが嫌なのよ。オクシテっていう外国のハンドクリーム、女友達の間で評判がよくてね。前から欲しかったんだけど。高くてなかなか買えなかったの。こーんな、スイカみたいなレモンの原種を使ってるそうよ。それをプレゼントしてくれたひとがいたの。」

  「なにぅ!」と、頭をあげる斎藤。「俺のユキコちゃんにプレゼントあげたのどいつだぁ。ね、ユキコちゃん、そいつ食べていい?」もはや可愛いペットだなと五十嵐は笑った。

  「無理じゃないかしら。」思わせぶりなユキコ。あなたもご存じよと言いたげな感じで、五十嵐の顔をちらっと見て微笑む。自分の腕にすがる、狐ちゃんのうなじを優しく撫でてやりながら、ユキコはそっと、「署長さんよ。」と斎藤に耳打ちした。

  ばっと、斉藤が起き上がる。両耳をピクピクさせてから、今度は本当に突っ伏して、軽いイビキをかいて寝てしまった。

  「うふふ。可愛い寝顔。」ユキコは、愛おしそうに斎藤の頭を撫でて、五十嵐に、「このまま看板まで寝せてあげて。何があったか知らないけど、今日はいつもと違ったし。」

  「すいません席使っちゃって。」五十嵐は相方の代わりに詫びた。けど、看板までに起きなかったらどうしよ?。おぶって帰るなんて絶対に無理だ。

  「チャージはよろしくてよ。店長にお願いしときます。あなたもゆっくりしていって。お好きなもの召し上がって。」ユキコはそう言って、斎藤の盛り上がった肩を撫で、次の接客へと向かった。

  結局、斎藤は起きず。起こしてはみたものの、

  マトモに歩かれずで。困った五十嵐は、はす向かいの店に斎藤の知り合いがいることを思い出して、お願いしに向かった。

  「お客さん?ここはヒトはちょっと無理だよ。」開いた小窓の向こうから、馬面がそう告げてよこす。さっさと小窓を閉めようと、大きな茶色い手が小窓のノブをまさぐる。

  「斎藤のことで来たんです。酔いつぶれてしまって。」五十嵐は慌てて小窓に取りつき、シッシッという馬面の手ぶりにもひるまずそう言った。すると相手の態度が変わり、今度は大きな目が小窓からこちらを覗く。

  「斎藤って、狐ちゃんかい?へぇ!、あいつが酔いつぶれるなんてことがあるのかい。それは、そいつは。あんたじゃ無理だわ。」そうだけ言って、馬面は小窓の向こうへ行った。「狐ちゃん」「えぇあいつが?!」みたいな声だけが聞こえてくる。やおら、馬面が戻ってきて、「あの店だろ。今ケンちゃんが行くから、あの店で待ってな。借りは作ったぜ。」それきり、ピシャンと小窓は閉まった。

  ケンちゃん?誰だろ。そう思いつつ店へ戻ると、もうケンちゃんは来ていて、斎藤を脇から抱えに入るところだった。

  「う、牛?」急いで来たんだろう。腰みのをつけただけの半裸のミノタウルスが、五十嵐の目の前に立ち上がった。

  「あ、あなた、パートナーの五十嵐さんね。俺、連れて帰るから、心配しないで大丈夫。」そう言い残して、ミノタウルスは軽々と斎藤を背負い直すと、ドシドシと店を出て行った。出て行きしな、斎藤がそれと聞きまごうような、か細い声で、すまん、すまん、と言っているのを五十嵐は聞いた。

  「これでよし。」夜のしじまに消えゆく斎藤の後ろ姿を眺めつつ、五十嵐はひとつウンとうなづいた。今日は散々だったが、あしたがあるさ。

  「あの、」と、五十嵐の背後で、年配の男性の声がした。「お会計、まだなんですが…」

  「うそっ」と、五十嵐は思わず口に出てしまった。「いくら?。足りるかな…」よかった。クレジットカード使えた。

  「すまん。ほんっとーにすまん。」翌朝、五十嵐は出勤するなり、他の署員の前で、斎藤に土下座された。こんなの初めて。何がどうしたのやら。とりあえず、相手の誠意は受け取らねば。

  「一緒に…、昼メシおごってくれたら許す。」あァブナイ。そして直後、せめて夕飯と言えばよかったと、椅子の背に手を添えつつ自席につく五十嵐。まあ、おごってくれ自体、斎藤に向かって言ったことないから。お互いイレギュラーで釣り合ってんじゃないか?

  斎藤もそこは気づいたようで。「おぅ!なんでもいいぞ。」

  「じゃあ俺、ポークソテーな。」「私はSランチね。」周囲からもお声がかかる。楽しい職場だ。斎藤は照れながら、大きな手を振ってみせる。

  「食いたきゃ俺の相棒になれ。コイツ以上のな。」斎藤はギャラリーにそう応じて、五十嵐の向かいの自席につく。「もいっぺん嗅がせてくれ。あの封筒だ。」

  五十嵐は捜査ノートから、くだんの封筒を取り出して、斎藤に渡そうとした。

  「いや、お前が持っててくれ。俺は昨日、あのコの手に散々触ったからな。」斎藤は両手を後ろへ組んで、鼻先だけを封筒に近づけた。「同じ匂いだ。間違いないな。」

  さすが、と言いそうになって、五十嵐は笑ってごまかした。またかじられでもしたら、面倒なことになる。昨日、斎藤が粉砕したドアは、もう朝イチで交換されていた。部長も何も言わないな。労災と分かって、わざわざ向こうから何か言っては来ないだろうが。

  見れば、斎藤は神妙な面持ちで、両手をひざにして、ゆっくりと腰をおろしている。「でもなんで、指紋が出ないんだ?」言い終えて、斎藤は五十嵐の顔を見やる。

  「それは」と、五十嵐は姿勢を正して言う。ほかの生きものはしないが、ヒトはするのだ。「ハンドクリームの成分をより浸透させるのに、手袋をするからさ。」

  「手袋?」斎藤は上の空だ。そういう目的で手袋をする御婦人がたの仕事明けの場面を、斎藤はまだ見たことがないのだろう。「俺らはしねぇな。」斎藤は自分のゴツい両手を、顔の前に裏にして表にして見入っている。

  「御婦人だけじゃない。男もするさ。」五十嵐はこっそり、部長のほうへ目くばせをして見せた。

  「へぇ、男もするのか。」斎藤は目を見開いて、これは驚いたという顔をしている。が、意を汲んで部長のほうは見ずじまいだ。

  うんと、五十嵐はうなずく。「大体は使い捨ての手袋だから、外側に指紋やクリームがつくことはないだろう。化学分析では何も出ないわけさ。」コイツすごいなと、五十嵐は素直に思う。

  「何かついてるか?」五十嵐に見つめられて、斎藤は顔を手でぬぐってみせる。

  「いや。ともかくこれで、この封筒を扱った奴が、ヒトだということは確かになった。中の紙切れからは、何も感じない?」五十嵐は封筒を開いて、中の紙切れを取り出し、斎藤の鼻先に突き出した。

  「ない。お前のにおいしかしない。」クンクンと鼻を鳴らして、斎藤はそう断言した。「そもそも、この紙切れは何なんだ?。何も書いてないのか?」

  「ない。分析でも、あぶり出しとか、何か書いた跡とかは検出してない。元々はちゃんとした用紙で、何かの理由で一部分を破って残したのかもしれない。」五十嵐はその紙切れを、目の前で表にし、裏にして見つめた。

  「身元不明のホトケ。目撃情報はなし。手がかりはこの封筒だけときた。犯人がヒトってのは、別の理由からも言えるな。俺たちだったら、食っちまえば済む話だ。」斎藤はニッと笑って見せる。口角に、険しく尖った奥歯がのぞいた。ヒトの骨くらいならば、楽に噛み砕けるだろう。斎藤は笑うのをやめて、何か判然としないものがあるのか、それきり黙ってしまった。

  「斎藤、なあ、斎藤!」五十嵐の呼びかけに、斎藤はようやく気がついて、無意識に五十嵐を見返した。五十嵐は、とりつくろうように笑ってみせる。「怖ぇよ。野生の目っていうのか。お前、この封筒から、ほんとに、ほかには何も感じないんだな?」

  斎藤は黙ったままで、うつむいている。両手を腹の前に組み、親指同士をぐるぐると回している。五十嵐が、もう一度声をかけようと、身を乗り出す。その時になって斎藤が、「ユキコちゃんのにおいがした。」と、ぽつりと呟いた。

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