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僕にできるたったひとつ

  「お疲れ様です。お先に失礼します」

  「あー、ヒロくんお疲れ様。悪かったね、今日は」

  時刻は二十時を過ぎた頃。終業後、着替えを終えて男子更衣室を出た僕に、事務所で何やらパソコンとにらめっこしていた先輩のコアラ獣人――香川さんが声をかける。悪かった、というのはつまり。

  「最近、卒業シーズンで学生たちもごっそり辞めちゃいましたもんね。仕方ないですよ」

  「そう言ってくれると助かるよー。求人もかけたし、なるはやで新しい子確保するからさ」

  香川さんはパソコンを弄る手を止め、代わりに頬杖をつくと、ため息混じりに言った。この通り、最近うちの職場――特に書籍部門は人手不足に悩まされているらしい。それで今日は、一階の欠員を埋める関係で僕が急遽出勤したって訳だ。

  「今日はもともと休み希望してたけど、予定とか大丈夫だった?」

  「ああ、いえ。予定……無くはなかった、ですけど」

  「あー……」

  聞かれ、ちらと背負っていたリュックを見やる。普段の出勤用のものとは違い、いくらか大きいリュック。香川さんもそれを見てなんとなく事情を察したらしく、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

  「こりゃ、あいつにも悪いことしたな。悪かった、って伝えといて」

  「ふふ、分かりました」

  「それじゃ、早いとこ行ってやりな。多分今頃いじけてると思うから」

  「はい、お疲れ様でした」

  香川さんに言われるまま、僕は従業員用の出入口から店を後にする。足を踏み出した外の空気はここ最近ですっかりと暖かみを帯び、春の訪れを感じさせた。

  出入口から少し進んだ先、店の正面に聳える大きな看板。そこに差し掛かったあたりで立ち止まると、いつかの記憶がふと蘇る。

  ――俺と付き合って下さい!

  去年のクリスマスのことだった。半ば僕が言わせたみたいな形だったけど、先輩から改めて思いを告げられた日。ちょうどこの場所でだったな。あの日は雪が降ってたっけ。

  あれからだいたい三か月が経ち、もう雪なんて見る影もない。季節もすっかり春めいたけど、僕らの関係は変わらずに続いていた。今日だって、本当は二人で出かける予定だったし。まあ、バイトの関係でその予定もナシになっちゃったんだけど。

  「……っと」

  なんて思い出に浸っていると、ポケットに入れていたスマホが何度も震える。待ち受けを見れば、件の人物から何件もメッセージが届いているようだった。

  「はいはい」

  しつこいまでのメッセージに「今行きます」とだけ返し、再びスマホをポケットに仕舞う。顔を上げれば信号がちょうど青になったところだった。僕は少し足早に、駅の方へと急ぐ。先輩の家はここから電車で数駅。着くのは二十一時頃になるはずだ。

  別に、今更家に遊びに行くってだけで緊張なんかしない。先輩の家に行くのだって初めてじゃないし、そもそもそんな気を遣うような相手じゃない。……だけど。

  「…………」

  今日はほんの少し、緊張……してるのかも。というのも、付き合ってるっていうのに、先輩は一向にそれらしいことをしてこない。かといって、こっちから仕掛けるのはなんか違うし。

  だから今日は、ちょっとしたある〝作戦〟を考えていた。作戦というほど大したものでもないけど……そうなればいいな、っていう願望みたいな。

  具体的な流れはこうだ。先輩の家に着いたら、遅めの夕飯を食べながらバイトついでに借りてきた映画を観て。映画に夢中になっているうちに、日付も変わる頃になっているはず。

  ……その時にはきっと、もう帰りの電車もなくなってて。そうすれば今日こそ、僕は先輩の家に――。

  「はあ……」

  自分がしようとしていることの馬鹿らしさに、思わずため息が漏れる。擦られすぎて手垢にまみれたような作戦を、僕がとることになるなんて。……でも、そうでもしないとあの先輩は。

  考えながら歩くうちにたどり着いていた駅のホームで、ベンチに腰を下ろす。僕は膝の上で抱えるようにリュックを置き、電車を待った。

  「駅着きましたよ……っと」

  電車に揺られること数分。先輩の家の最寄り駅で降車した僕は、その旨をメッセージで送る。何も言わずに家に向かってもいいんだけど、逐一報告しないと「今どこにいる」ってうるさいから。

  ここから先輩の家までは歩いてすぐの距離。もう地図を見なくとも行けるようになった場所へ、僕は改札を抜けて歩みを進め――。

  「会いたかったぞ、ヒロー!」

  「うわっ、ちょ……!」

  ようとした途端、柱の影からヌッと現れた男に急に抱きつかれる。抱きかかえられて視界は真っ暗だけど、相手が誰かなんて見るまでもない。ああもう、これだからこの先輩は……!

  「目立つんで離れてください、うわ力強っ」

  「だって俺、寂しかったんだぞ! せっかくのデートだったのに!」

  「だから、それは悪かったですって」

  言っているうちに、僕はようやく先輩の抱擁から解放される。開けた視界で見上げた先輩の顔には涙が浮かんでおり、罪悪感が僕の胸をちくりと刺した。

  「……寂しいんなら、早く家行きましょうよ。ここじゃ人目もありますし」

  「夕飯はどうすんだ? 腹減ってるだろ」

  「映画借りてきてるんで。それ観ながらピザでも食べましょう」

  「よっしゃ! デート代も浮いたし、休日出勤お疲れ様ってことで。今日は俺の奢りでいいぞ!」

  「やっぱり焼肉の気分になってきました」

  「いや、それは……うーん、どうだ……?」

  「冗談ですって」

  真面目に財布と相談し始めた先輩に、思わず笑ってしまう。心配になるほど素直なところが、僕は嫌いじゃなかった。変に歳の差を感じることも、それで気を遣うこともないし。

  ……ただ、もうちょっとだけ。もう少しくらい、歳上らしくしてくれてもいいのに。

  ――でも、何度考えても。

  ――俺はヒロと出会ったら、あいつを好きになるんです。

  去年の冬の日、山城先輩の家の玄関越しに聞いた先輩の言葉を思い出す。その時の先輩は、どんな表情をしていたんだろう。隣を歩く間の抜けた顔からは想像もつかないけど、あの時の先輩は……ちょっと、かっこよかった。

  「…………」

  「どうした? ヒロ」

  「……なんでもないです」

  「あ、待てって!」

  じっと先輩を見つめていた目を逸らし、早足に先輩の先を行く。今はあんまり顔、見られたくない。

  ……というか、少しくらいさ。またかっこいいところ、見せてくれてもいいのに。

  ただ遊びに行くにしてはやけに膨れたリュックを見せつけるように先を行っても、先輩は僕の意図になんか気づいてない様子で。肝心な時にしかかっこよくないそんな先輩に、なんだか我儘な期待が浮かんでしまった。

  ◇

  ――俺……ずっと、自分のことばっかりだった。

  ――ううん、私だって。ごめんなさい。

  あれから無事に先輩の家に到着し、話していた通り今はベッドに二人並んで映画を観ている。一本目は先輩が観たかったやつで、今観ている二本目は僕が借りてきたやつ。目の前の少し見下ろした場所に鎮座するローテーブルには、食べ終えたピザの箱がそのまま居座っていた。

  今まさに上映中の僕が借りてきた映画も、一応前から観たかったやつだけど。正直、あんまり内容に集中できてない。……僕の意識はさっきから、壁にかかった時計にばかり向いている。

  あと、数分。終電に間に合うよう逆算すると、この家にいられるのはそのくらいだ。逆に言えば、その時間を過ぎれば僕はこの家に泊まるしかない。

  ……ほんと、なんで僕がこんなことしなきゃならないんだ。今まで何度もそれとなくアピールしてきたのに、ことごとく明日が早番だから、とか理由をつけて帰らされてきた。先輩が上手く察してくれたら、こんな真似せずに済んだのに。

  だけど今回は、明日僕が休みで、先輩は遅番なのも確認済だ。何より先輩は映画に夢中で、時計なんか見てないはず。このまま行けば、今夜は自然な流れで――。

  「――っ!」

  ちょうどその先の展開を想像しかけた時、眼前の映画はキスシーンを迎えていて。僕はその姿に思わず自分たちを重ねてしまい、両手を組む指にぎゅっと力が入る。

  ……別に、今日はそこまで行くことを期待してるわけじゃないし。でも……付き合うならキスぐらいするのが普通って聞いたから。心の準備をしとくに越したことはない、かも。

  思わず考えごとが先へ先へと進んでしまい、ひとりでに恥ずかしさが募る。なんだかじっとしていられず、ズボンの膝あたりの布地をきゅっと摘んだ、その時だった。

  「ひ、ヒロ! そろそろ終電、ヤバいんじゃないか?」

  「え……?」

  「悪ぃ、映画に夢中で気づかなかった……! とにかく帰り支度、急いでしねえと!」

  ハッとした様子で立ち上がった先輩は、僕が一番言ってほしくない言葉を言ってみせた。……ああ、もう。今日こそは、って思ってたのに。なんでこう、先輩は僕が気づいてほしくないことにばかり気がつくんだろう。

  「……僕、映画の続き観たいんだけど」

  「それはまた今度観ればいいだろ! ほら、荷物持っ――」

  「ねえ。本当に、気づいてないの」

  僕の荷物を手渡そうとする先輩に思わず零れた言葉は、我ながら乾ききっていた。ついさっきまでこの先の展開へ淡い期待を抱いてたのが、嘘みたいに。

  「ヒロ……?」

  「そのリュック。何のために持ってきたと思ってるの」

  「…………」

  僕のリュックを手に持った先輩にそう言っても、先輩は押し黙るばかりで。その気まずそうに俯く様子を見て、僕は直感してしまった。

  ――先輩は、気づいてる。僕が、何をしたいのか。……僕が先輩に、何をしてほしいのか。その上で、気づかないフリをしてるんだ。

  ……だとしたら、すごくバカにされた気分だ。勝手に期待したのはこっちだけどさ。少しくらい、応えてくれてもいいじゃん。

  怒り、落胆、失望。色々な感情が綯い交ぜになって、自分の気持ちが分からない。ひとつ確かに言えるのは、さっきまで抱いてた期待なんかどこかに消えてしまったことだ。

  「……もう帰るから。荷物返して」

  「ちょ……落ち着けって」

  「返してよ!」

  強引にリュック奪い取って、僕は足早に玄関へ向かう。先輩は何事か言ってるみたいだったけど、耳は傾けない。……何も、聞きたくなかった。

  「それじゃ、お邪魔しました」

  「待て、駅まで送るから!」

  「いい。一人で帰る」

  僕は先輩に構わず、後ろも振り返らないまま玄関の戸を閉めて先輩の住むアパートを後にする。歩みのスピードを緩めぬまま、行きは二人で歩いた駅までの道を早足で進んだ。

  余計なことを考えないように努めて、ひたすらに歩みを進める。無心で歩く道のりはあっという間で、ホームに着けばちょうど終電が到着したところだった。

  無事に乗ることのできた、ガラガラの車内。端の席に座り息も整った頃、ようやく少し気分が落ち着いた。そのせいで、蓋をしていた余計な考えが溢れてきてしまったけれど。

  ……なんで先輩は、僕に何もしてこないんだろう。単に、先輩がヘタレなだけ? それとも僕に、魅力がないから。もしかして僕が勝手に期待してるだけで、恋愛ってこういうものなのかな。

  そのどれだとしても、腹が立ってしまう。こんなことに腹を立ててる自分も嫌だ。先輩の目に、さっきの僕はどう映ったんだろう。すぐに機嫌を悪くする子供、とかかな。

  ……素直に、言えたらいいのに。先輩の家に泊まってみたい、って。付き合ってんなら、それらしいこともしてみたい。言いたいのに、くだらないプライドが邪魔をする。

  多分今の僕、ひどい顔してる。こんなガラガラの車内じゃ誰に見られるでもないけど、僕は膝に抱えたリュックに思わず顔を埋めた。だけど額にはコツン、と固い感触がして。僕はそれを枕代わりにするのを諦め、すぐに顔を上げる。

  「…………」

  リュックのファスナーを開き、中身をじっと見つめる。一番上には、歯ブラシとコップ。その下にはパジャマや下着等の着替え一式。誰が見たって、持ち主はお泊りする気満々だって分かるような中身だ。

  「……僕だけ、バカみたいじゃん」

  誰もいない、終電の車両の中。僕の喉から零れたか細い声が、雑音の中に消えていった。

  ◇

  先輩の家に行ったあの日から一日の休みを挟んで、店に出勤する足取りは重い。いくら先輩が甲斐性なしとはいえ、あの帰り方は酷かったと思うし。

  ……だけどあの時に感じたように、先輩が僕の気持ちに気づいた上でそれに見ぬフリをしているんだとしたら。僕はそれを許したくなんてない。だってそんなの……僕が惨めで仕方ないじゃん。

  シフトを見た感じだと、先輩はもうとっくに出勤して働いてる時間だ。そもそも担当の階が違うから、気をつけてれば会わないで済むと思う。でも、いったいいつまでそうやって避け続ければいいんだ。

  「はあ……」

  とぼとぼと歩く間に、もう店の目の前まで来てしまった。できるだけ、仕事に私情は持ち込みたくない。僕が努めて気分を切り替えるように、「従業員用」の札のついた扉を開いたその時――。

  「ありがとうございましたー! では、失礼します!」

  「え……っと」

  「ああ、すみません! 失礼しましたー!」

  ――扉の先では何やら見知らぬ猫獣人の男の子が、事務所の方に向かってぺこりとお辞儀をしていた。僕が呆気に取られるうちにも、その子は元気よく走り去ってしまう。

  「……なんだったんだろ」

  訝りながらも、ひとまず従業員用の事務所へと向かう。そこでは例のごとく、香川さんが何やら書類を見つめながら作業に勤しんでいた。

  「おはようございます」

  「あ、ヒロくんおはよー。さっき猫獣人の男の子とすれ違わなかった?」

  「はい、元気な茶トラの」

  「彼、うちのバイト志望で。さっきまで面接しててさー。いい子そうだし、すぐにでも入ってくれるって」

  「なるほど、それで」

  言われ、ちらとだけ見えた彼の姿を思い返す。大きな目に、愛想の良さげなハキハキとした声色。同じ種族ではあったけど、だいぶ若そうだったし僕とは結構違うタイプの性格のような印象を受けた。

  「ま、多分このままなら書籍部門での採用になると思うけどねー。こっちにも早いとこ新人来てほしいよ」

  「ふふ、そうですね」

  笑いながらそう言いつつも、僕の胸はなんだかざわついていた。書籍部門の新人……てことは、先輩の直属の後輩になる。僕と同じ猫獣人で、なんだか愛想も良さそう。

  ……あの先輩に限って、そんなことは無いだろうけど。なんだか嫌な想像が、頭に浮かんでしまった。

  まあ、とりあえず今やるべきことは今日の仕事だ。時間に余裕もないし、さっさと着替えてしまおう。

  「――と、そうだヒロくん。ちょっと聞きたいんだけどさ」

  「はい」

  事務所を出て更衣室へ向かう僕を、香川さんが呼び止める。その声色と表情に、何を言わんとしているのかがなんとなく分かった。

  「あいつ、昨日から様子が変なんだよ。何か知らない?」

  果たして、僕の予感は的中していた。「あいつ」が誰のことかなんて言うまでもない。……やっぱり、先輩の話だ。先輩、凹むとすぐ表情に出るからな。

  先輩の様子が変というのは、十中八九あの夜のあれこれが原因だろう。だから、何か知ってるかと聞かれたら「知ってる」というのが答えだ。……でも。

  「……知りません」

  香川さんには悪いけど、今それを言ってどうこうできる話じゃない。僕は香川さんの問いにそれだけ答えて、事務所の扉をバタンと後ろ手で閉めた。

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