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悪の組織のお仕事

  わたしはつんと鼻につく消毒用アルコールの臭いをたてがみを振って振り払うと、目の前の白紙のページをぶすっとした表情で見つめた。

  デスク上に置かれた日記は買ってきたばかりの新品の臭いを漂わせていて、貧乏性のわたしはいかにこの日記を綺麗に消費するかに腐心していた。

  着ている白衣からハンカチを取り出して、集中する事によって流れ始めた額の汗を拭う。

  真っ白な紙はインクで汚される事を望んでいるかのように太陽光を反射している。黒光りするボールペンのペン先を出したり引っ込めたりしながら、どう書き出したものかと眉間にしわを寄せる。

  白い表紙が特徴的なその日記はよくある洋風の装丁で、値段としてはそこまでではない。

  乙女が秘事を書き綴るような装飾はわたしのような獅子獣人が使うべきものではないように思えた。自分がここに紡いでいく記録は、本の装丁ように華やかで美しいものにはならないだろうから。

  日記帳やノートの最初の一ページ目はどうしても気合が入った。スィーツの一口目を大事に味わうのと同じように。

  可愛らしい表紙は既に完璧と言っていいだろう。名前欄には自分の名前、百瀬玲緒(ももせれお)を一時間かけて完全なバランスで記入済みだ。我ながら天才すぎて恐ろしくなり、身震いした。

  人が居なくなって閑散とした部屋の中で、わたしは一人割り当てられたデスクに座っている。年季が入って所々擦り切れたボロ机に日記帳を置き、前屈みで向き合う。

  周りには、個人的に見出した規則性をもって積み上げられた研究資料と医学書、そして長い間電源を入れていないPCしかなく、埃と乾いた紙の匂いが充満していた。

  そして、積み上げられ、蓄積された知識のホコリがわたしを思考の袋小路へと導いた。

  「ううむ……」

  何を考えているわけでもないのだが、とても深刻そうな声が出てしまった。

  わたしは物事を難しくしすぎるきらいがあるようだと友人が言っていた事を思い出す。

  「よし! 決めたぞ!」

  わたしはひとしきり沈黙したあと、日記帳の真っ白なページにペン先を着けようとした。

  ―――ヴヴヴヴヴヴッ

  「どひゃあ!」

  自分の胸に下げられた携帯電話が振動し、それにつられて驚き椅子から三センチ程飛び上がる。辺りに体と金属がぶつかる乾いた音が響いた。

  「あッつ……!」

  驚いてデスクの引き出しに膝をぶつけたわたしは、振動する携帯電話そっちのけで椅子にうずくまった。

  職場では一人に一つ携帯電話が支給される。連絡が来るという事は、何かが起きたという事だ。

  まったく、何なんだ一体……痛む膝をさすり、理不尽な怒りを抱きながら胸に下げた携帯電話を手に取る。

  毛むくじゃらの手でポチリと通話ボタンを押し、スピーカーモードにした。わたしは指が大きいから携帯電話のボタンを押すのが苦手なのだ。

  押しながらそんな事を考える。自慢する事では無いのだが、不器用な事に対する精一杯の強がり、言い訳だ。

  通話はすぐに始まり、相手を待たせてしまった事に罪悪感を覚えながらも電話に対応する。

  「はいはい、こちら百瀬です」

  携帯電話の画面に表示されたのは無味乾燥な番号だけで、誰が電話をかけてきたかまでを知る事は出来なかった。

  電話の相手は、わたしがやっと電話に出た事が確認出来ると、少しの間を置いて喋りだした。

  「ドクター百瀬、八房です。今すぐ第十五特別実験室まで来てください。被検体が到着しました」

  研ぎ澄まされた氷のような声が電話口から聞こえてくる。同僚の八房くんだ。

  「なんだ八房くんか、分かりました。被検体から目を離さないでね。混乱していると危険だから」

  「分かりました。失礼します」

  同じ職場で働く同僚からの連絡。素っ気ないながらも、八房くんは必要な事だけを伝えて電話を切った。彼の声は感情が一切感じられない。誰に対してもこんな調子だから、わたしは時々八房くんの対人関係が心配になる。

  そんな事を言えば「貴方には関係ありません」なんて言われてしまうのが目に見えているから、死んでも言わないんだけどね。

  「たまにはギャグでも飛ばした方がいいのか?」

  自分以外に生き物が存在しない研究室内で、誰に言うまでもなく自席で一人ごちる。

  その声は自分以外に聞く者が居ないまま、辺りに響き渡って、ひっそりと消えていった。

  「……ふん。いいもん、お仕事するもん!」

  詩的な考えで覆い隠してはみたが、要するに反応する人がいなくて寂しいだけであり、自己流の慰めだった。

  くだらない感傷に浸るのをやめて、携帯電話から意識をそらしてデスクに向き直った時、『それ』に気づく。

  「なっ……!?」

  さっきまで大切に、大切に消費していこうとした日記帳。その白いページに、ボールペンで大きな黒い線が引かれていた。おそらくさっき驚いた時に勢い余って書いてしまったのだろう。

  それは完璧な絵画にペンキをぶち撒けられた時ような衝撃的な光景だった。わたしの胸の中に気持ちの悪い感覚が広がる。

  思わず椅子から立ち上がって、オーバーリアクション気味にのけぞった。

  視界から日記帳を排除したいのに、理性がそれを許してくれない。視線が縫い付けられたかのように日記帳から外れなかった。

  「なんて……事だ……!」

  日記帳の惨状を見て、自分でも大げさだと思う程に項垂れ、苦悶の声を発した。密かな自慢であるふわふわのたてがみが下を向き、まるで枯れた向日葵のようになる。

  凄まじい勢いでモチベーションが低下し、足元から崩れ落ちそうになる。

  体は気分の低下に合わせてスローモーションで動き、ゆっくりと萎びていった。

  そして片膝を突き、そのまま四つん這いになろうとした。

  その時だった。

  「……何をしているんですか」

  ビニール床に跪いて落ち込んでいたわたしに向かって、冷やかな声が投げかけられた。

  体の上から黒い影が重なり、視界を暗く染めた。

  「もう一度聞きますが、何をしているんですか?」

  その声は氷のように冷たくて、聞いた者の感情を押し潰すような圧力を感じる。

  わたしの知る限り、落ち込んでいる人にこんな無遠慮に話しかけられる人間は一人しかいない。

  「その空気を読まない無遠慮な発言と、感情を感じさせない声色は八房くんだな……」

  項垂れたまま声の主に対して返答する。

  「ドクター百瀬、いくら貴方が優秀な人物だとしても、その発言は見逃せません。謝罪を要求します」

  わたしの頭上には、親愛なる同僚にして部下、そして友人のような狼獣人、八房透(やつふさとおる)が居た。彼はわたしを冷ややかに見下ろしているのだろう。上から降ってくる声に謎の敗北感を覚える。

  「きみの減らず口は相変わらずだな……友達居ないだろう」

  「論理の飛躍を感じます。謝罪と状況の説明を要求します。あと、貴方には言われたくありません」

  情けない負け惜しみに対する八房くんの冷静な返しに歯噛みする。その冷静さを分けてほしかった。

  そんな思いを知らない彼は、いつもと変わらず無感情を貫いている。

  わたしは彼と無駄口を叩いた事によって何とか気を取り直すと、頭上にいる彼を顔を上げて見返し、八つ当たりとも言える呪詛を吐いた。

  「わたしの栄光の人生を綴る聖典が汚されてしまった……八房くん、きみのせいだぞ!」

  「はあ」

  そう言って怒りをバネに立ち上がる。後ろに下がり、きょとんとした八房くんは口を呆けたように空け、わたしの言葉を聞いていた。

  今、心の中は八房くんへの理不尽極まりない怒りで埋め尽くされていた。

  わたしの瞳は怒りの炎に照らされ、さぞ煌々と、美しく輝いているだろう。

  勢い良く立ち上がり、ずいと八房くんに詰め寄る。体の大きい彼は、わたしが精一杯伸びをしても額が首元までしか届かない。あまり認めたくない事実だが、彼はわたしと比べると大変逞しい体つきをしていた。

  彼ははそんなわたしの態度を見ると呆けたような顔をやめ、無表情の仮面をかぶり直す。口を閉じ、状況を考察、スマートな態度で目の前のわたしに対峙する。

  「物の管理はちゃんとしてくださいといつも言っている筈ですが……」

  内心鬱陶しいと思っているのだろう。やるべき事を見極めた者特有の揺るぎない態度で言葉のナイフを突き立ててきた。その声には多少の呆れの感情が含まれているような気がした。

  「ぐぬぬ……」

  返す言葉がなく、子供のように黙りこくる。怒りの感情が冷水をぶちまけられた時のように急激にクールダウンし、感情の炎に照らされたわたしの瞳はしなしなと輝きを失っていった。

  言われてみればその通りである。勢いで謝罪まで持っていけるかと思ったが、この冷徹なマシーンには通じない理屈だったようだ。彼は心底呆れたらしく、ため息をつきながらわたしのデスクを眺めている。

  たいして気にも留めていないようで、そのクールさに惚れ惚れしてしまう。多分言ったら「貴方がくだらなさ過ぎるだけです」とか言われるんだろうなぁなんて、思考の片隅で考えながら。

  「そう言えばわたしが言った被検体の監視はどうしたのかね?」

  「それを伝えにきたのですが……」

  いたたまれない感情を隠すように再びずい、と八房くんに詰め寄った。

  「職務放棄か? んん?」

  彼はわたしが近寄ってくるのに気圧されたのか、あからさまに身をよじらせながら答える。

  「彼なら医療用ドローンが鎮静剤を打ったので問題ありません」

  「大事な被検体に鎮静剤を打つとは、随分乱暴な事をするじゃないか」

  いけしゃあしゃあと、悪びれる様子もない彼に向かってわたしは無いも同然の威厳を総動員してプレッシャーをかけてみる。

  「ドクターはスケジュールどおりに来ないと思ったので、仕方なく」

  無表情でそう言い放つ八房くんに対し思わず声を上げた。

  「わたしを信用していないのかね!?」

  このセリフだけ切り取ると浮気のバレた彼氏みたいだった。

  八房くんはわたしのその言葉を聞くと、少しばかりの間逡巡してから口を開いた。

  「そういう事になるのでしょうか?」

  まるで自覚が無いようだった。

  「ありゃ……」

  彼の言葉を受けて膝から崩れ落ちそうになるがなんとか踏みとどまる。

  よくよくこの状況を考えてみると八房くんの電話連絡からこの部屋に現れるまで十分と経っていない。つまり彼ははわたしが何かしらの理由でグズグズする事を見抜いていた事になる。

  胸の内に生まれた罪悪感と自分の信頼のなさに心をチクチクと刺激され、弁解の言葉を口走る。

  「い……行こうと思ってましたー! もう出るところでしたー!」

  口から出たのは子供の駄々のような情けない言葉だった。墓穴を掘るとは正にこの事だろう。わたしは心の中で恥ずかしさのあまり奇声をあげた

  言葉を発してから後悔するのはこれで人生何度目だろうか。当然、それを八房くんが見逃す筈もなく。

  「……軽率な発言は控えた方がいいと思われます。ドクター百瀬」

  そう言う彼の瞳は既にわたしの後ろ暗い心を正確に見抜いている。その視線に射竦められ、全てを見透かされているような感覚に陥ったわたしは、そぞろな気持ちでじっと動きを止めた。

  「……まぁいいでしょう」

  そして彼の容赦ない言葉がわたしの心を貫き、ずたずたに引き裂いた。わたしは胸を押えてよろめく。面倒見の良い母親に見放された時のような気分になる。

  「……ごめんなさい」

  完全に白旗を上げる。立場は上の筈なのに、何故かお辞儀して謝っているわたしを見る八房くんの瞳からは、何も知る事は出来なかった。

  「とにかく被検体の所に行きましょう」

  あくまで彼は冷静に振る舞っていた。そんな様子を見ているとこっちまでクールな冷血人間になりそうだ。

  八房くんはわたしに要件を伝えると、部屋の出口へ歩を進めた。その後姿は、ゆったりとしていながらも背筋がピンと張っていて、一切の歪みや揺らぎが無い。完璧に調和の取れた彫像が動いているようだ。

  八房くんは姿勢がいい人間のお手本のような人物だ。彼に見とれたわたしはその気持ちを吐き出すように息を吐き、デスクに向き直った。

  

  「でもなぁ……うーん……」

  日記帳の黒い線に気を取られて身動きが出来ないでいた。完璧だと思っていたものがそうでなくなってしまった瞬間は、比べる事の出来ない衝撃をわたしに与えたのだ。

  部屋の出口で律儀に待っていてくれた八房くんが、研ぎ澄まされた氷のような眼差しでこちらを見つめていた。

  そしてその中途半端な態度を見かねたのか、すたすたとこちらに戻ってくると、わたしの手から日記帳を奪い取った。

  「八房くん!? 何をするんだ!?」

  思わず悲鳴を上げるわたしを尻目に、八房くんは日記に視線を移す。その瞳には冷たい氷のような膜が張っていて、その内側にある思いを知る事は出来ない。それを見たわたしの足は床に張り付いてこわばり、動けなくなってしまった。

  「貴方は仕事をするべきだ」

  そう言って彼は、日記の最初の一ページ目をまるで研いだナイフで獣の肉を削ぎ落とすかのように破り捨てた。

  乾いた紙が裂かれる音が辺りに響く。

  狩りで捕らえた獲物をナイフでさばく狩人のように鮮やかなそのしぐさ。あまりにスムーズに行われるそれをわたしはただただ眺める。

  唖然とする自分に、八房くんは日記を投げてよこした。そして千切った最初のページを手で丸めると、デスク横にあるゴミ箱に放り込んだ。

  「うわっと!?」

  両手でお手玉のように日記帳を受け取る。彼はわたしの奇妙なサーカスを見終わると、急ぎ足で部屋の出口まで歩いた。

  「行きましょう。貴方を待っている人がいます」

  そしてドアの先を指で指し示す。その瞳と表情にはやはり感情は見当たらない。

  わたしは心の中で二度と日記帳を彼の前に出さないと誓いデスクにそれを置いた。そして八房くんのあとを追う為に室内を小走りで駆け出した。

  

  八房透、狼獣人の青年であり、わたしとの関係は友人、またはよく一緒になる職場の同僚で信頼出来る部下、簡単に言えばそんなところか。

  彼は北の雪原をそのまま切り取ってきたかのような純白の体毛が特徴的な人物だ。それは重なり合って光を反射し、柔らかな明暗のグラデーションを生み出していた。毛先はきれいに切り揃えられていて、他人に不快感を与えない配慮がなされている。その切れ長の瞳は、晴れて澄み渡った空のようなスカイブルー。マズルは自然に閉じられ、すらりとした鼻梁は女性が羨む程だ。

  身長は目測によると二メートルを超えている。その鍛え上げられ、肥大化した筋肉を鎧のように纏った肉体は、何者にも侵されてはならない聖域、決して壊れない美しい彫像に見えた。

  体毛と同じ色である純白の制服に身を包み、首からはネックストラップが伸びていた。携帯電話とカードキーが付いているそれは今は彼の制服の胸ポケットに入っていた。

  八房くんの着ている白い制服は、身長からすると適正サイズなのだが、その体格までは考慮していないのだろう。まるで破裂する寸前と言わんばかりに張り詰め、動くたびに悲鳴を上げていた。

  看護師が着るものに似た飾り気のないそれは、おとぎ話の人物のような見た目をした彼が確かに現実に存在しているという事実を見る者に突き付けている。

  被検体に会う為に通路を進むわたしは、目の前を歩く人物を心の中で詳細にレポートしてみる。どうしても報告書を書くのが苦手なので、たまに現状整理を兼ねて考えるのだ。

  「どうしてこうも違うのだろう……」

  先行し、人の行き交う研究施設内をすらすらと進んでいく八房くんを追いかけながら、わたしはつぶやく。

  真っ白い研究施設内を白い制服を着た白狼が進む。その物語のような現実に、行き交う人々は遠慮するかのように道を開ける。

  彼の足取りは揺るがない、そして歪まない。わたしはその様子に惚れ惚れしてしまう。その一目見るなり他人を惹きつける類まれな容姿と相まって、道を通れば誰もが振り向く高嶺の花と言えた。

  対するわたし、この百瀬玲緒はしがないおじさんの獅子獣人だ。彼のように整った容姿を持っているわけではないし、感情を氷で覆い尽くす事が得意なわけでもない。言うとすれば、特別な研究のセクションを預かっている事は、誇れる事実であるのだが……。

  あまりにも違いすぎるわたし達二人、なぜ彼の事を友人だと思えているのか、自分でも不思議に思えてならない。

  月とスッポンどころではない人間的な差が開いている気がした。

  彼の後ろを所在なさげに進むわたしに周りの視線が突き刺さる。なんであんな冴えないヤツが八房と一緒に居るんだ、と暗に告げる視線が。

  出来るだけ周りの注目を浴びない為に三歩後ろをついてきたつもりだったが、見通しが甘かったらしい。めちゃくちゃ目立っていた。

  一応立場的にはわたしの方が上なんだけどなぁ……なんて思ってしまう。気付けば人気者の腰巾着は辛いよとため息をついていた。

  そんな自分とは裏腹に、目の前の純白の巨人は周りなど眼中にないようだ。

  自身の人気自体、自覚していないだろう。その分厚い氷壁を思わせる背中や普段の様子を見ると、八房くんは周りの感情を完全に自分からシャットアウトしている事がよく分かった。

  別に無視しているわけではない、周りと自分に境界線を引き、透明な壁を作る。その壁越しに世界を眺める。それが自分を世界に侵させない為の防衛策。彼の生き方なのだ。

  ただただ決めた目標という名の獲物に食らいつく狼や、あらゆるものの入り込む余地のない剥き出しの自然、わたしから見ると彼はそう見えた。

  同僚に抱く印象としてはいささか乱暴な気がするが、そうとしか言えないのでしょうがない。多分、八房くんの魅力はそういうところにあるのだろう。自分としては理解に苦しむが。

  そしてその氷の精神を表すように、八房くんの制服から出た尻尾が感情に任せて動いている所を、わたしは見た事がない。

  力なく垂れた純白の尻尾は、今まで一度も、欠片たりとも動いていないのだ。

  「ふーむ」

  ぴっちりと体に沿うように纏った制服は、彼の肉感的なボディを余すところなく表現している。北極の氷壁のように揺るぎなく、分厚い背中、丸太のように太く筋肉質な腕、どんな悪路でも揺るぎなく進む事の出来るであろう強靭な足腰。

  その肉体を構成する要素全てが合わさって、彼に絶大な存在感を与えている。

  わたしは思わず彼の尻に顔を近づけてぶら下がる尻尾を眺める。やはり動いていない。彼の腰に腕を伸ばして、そのまま掴んで固定する。やはり動いていない。

  筋肉を纏い、きゅっと上がった肉厚のヒップ。その谷間を力なく隠すそれを無造作に触る。ひんやりとした感覚が手の内に生まれ、さらさらの毛並みと相まっていつまでも触れていられそうだ。

  「神経通ってるのかなこれ。普通なら動くんだけどなぁ」

  わたしはその心地よい手触りを返す尻尾を、片手で引っ張ったり握ったりする。

  微動だにしないそれを好き勝手に弄んでいると、だんだんエッチな気分になってきて、鼻息が荒くなる。わたしの荒い息がその毛並みを波立たせる。

  そうして、何分経っただろうか、

  「ドクター百瀬」

  上から降ってくる声にわたしははっとした。

  気がついたらわたしは、しゃがみこんだ姿勢で八房くんの下半身を手で掴み、片手でその尻尾を触っていたのだ。

  傍から見れば完全に変態行為だった。思わず上を見上げると、八房くんの視線がわたしを貫いていた。思わずその状態で辺りを見回す。

  周りの人々は目の前で繰り広げられる奇妙な光景に、ある者は困惑し、ある者は軽蔑の視線を向けている。そして彼らの視線の先には、いきなり変態行為に及んだわたしが居る。

  見回す途中で目があった者達は例外なく視線をそらしていく。まるで見てはいけないものを見てしまった時のように。

  「あー……うん。その、なんだろう」

  もたもたと頭上に視線を戻し、言葉を紡ぐ。彼の瞳にわたしのぎこちない笑顔が映る。

  この状況をどう説明しようか……無い頭をこれ以上ない程にフル回転させ、この場を乗り切る言葉を探す。手に持った白い尻尾を弄る手がせわしなく動いて、昔のテレビのチャンネルを変えるように指で毛をねじったりさすったりする。

  それが気になったのだろう、八房くんがこちらを見下ろしながら、無感情に言い放つ。

  「手を離していただけませんか?」

  その一言で、自分が何をしているのか再確認した。

  慌てて彼の真っ白な尻尾を握り込んでいる手を離す。しゃがんだ体勢から、もとの直立状態に急いで体の姿勢を整えた。その勢いで彼の尻尾がふわりと動き、そのまま力なく垂れた。

  「……スイマセン」

  本日何度目か分からない謝罪の言葉を並べる。八房くんは尻尾の毛並みを指でさっと整えると、顔だけでなく体までこちらに向けて、わたしを真正面から見据えた。

  自然といやらしい気持ちになっていた自分が彼の瞳に写っている事に気づく。彼の瞳は自分の見ている光景を他人にそのまま返す鏡のような輝きを放っていた。

  自分の欲望をそのまま鏡写しで見せられているようで、思わず目線をそらしてしまった。

  「いやあの、悪気があったわけじゃないんだ」

  じゃあどういう気持ちだったかと言われると、知的好奇心と下心だと答えざるを得ない。

  わたしは手のひらを開いてぶんぶん振り、目の前の相手に対して自分の心を覆い隠す。白い巨人が迫ってくる。その前を向く双眸に目を合わす事が出来ずに、視界がぐるぐると回ったり、あらぬところに止まったりする。

  八房くんはゆったりとした足取りで、気恥ずかしさでりんごのように赤く染まったわたしの前にまで来る。鮮やかな手並みで動くわたしの手を取ると、毛皮に包まれて普通なら温かい筈の手から、冷たい冷気が伝わってきた。彼はその状態から、わたしに本を読み聞かせるようにゆっくりと語りかけてきた。

  「ドクター百瀬」

  二人のパーソナルスペースが侵され、お互いの体温と吐息、心臓の鼓動すら聞こえてきそうな程に接近する。そして二人の影が重なり合い、見た事のない獣の姿が現れる。

  「は……はい!」

  辺りがざわついた。通路がセクハラ現場から一気にメロドラマの現場に様変わりし、我々は二人だけの世界に突入した。

  年甲斐もなくドキドキし始めた心臓に戸惑いながら、白狼を真正面から見つめる。自分の視界に点描シャボントーンがフィルターされ、メルヘンチックに世界を染め上げた。

  「ずっと考えていたんです」

  彼の言葉は冷たいながらも、音楽を奏でるようにすらすらと紡がれていく。唇は軽やかに動き、それがまるで一つの完璧な楽器であるかのような錯覚に陥る。

  「ずっとやるべきかと迷っていたと言ったほうが良いのでしょうか……」

  彼にしては珍しく、眉根を寄せながらこちらに語りかけてくる。片手でわたしの腰を抱き、空いた手でわたしの手を握る。まるでダンスをエスコートする紳士のようなしぐさ。

  「な……何を?」

  好きな人に迫られた年頃の娘のように大人しくなったわたしは、胸の動悸を抑える事が出来ずに、か細く高い声を出す。

  至近距離にいる彼の体臭を欲望に負けて嗅いでみる。だが、分かったのは何も匂いがしないという事実だけ。

  ついにやる事が無くなり、次の相手の言葉を待った。

  「あなたを査問委員会にかけるかどうかを」

  「……え?」

  わたしはその言葉にあ然とした。

  八房くんはわたしを軽々と持ち上げると、ひょい、という音が似合うくらいの気軽さでわたしを肩に担いだ。

  状況が理解出来ず、しばらくされるがままそれを受け入れた。そして、彼の言った事が理解出来た瞬間からジタバタと動き出した。

  「い、嫌だ! 査問委員会だけは嫌だ!」

  査問委員会、それは問題行動を起こした職員を取り調べ、処分をを与えるかどうか判断する委員会の事。つまり、わたしにとってそれは死刑宣告に等しい。

  「今まで二回も呼び出されて厳重注意を受けているんだ! 今度こそ懲罰の対象にされてしまう!」

  「後が無いのを分かっているのなら、何故このような真似を……」

  「嫌なものは嫌なんだー!」

  あまりの出来事に今までをすべて忘れ、必死に叫ぶ。辺りにそれが反響して、周りの人達は揃いも揃って顔をしかめた。

  まるで米俵のように八房くんの肩に担がれたわたしは、彼の背中を力なくポカポカと叩いて下ろすように懇願した。だが八房くんは揺るがない。それなりな体格の自分を背負っても全く辛そうな素振りを見せない白狼に抵抗する事は無意味なのかもしれなかった。

  「そもそも階級的にわたしを査問にかけられると思っているのかね!?」

  「貴方の奇妙な行動は大体の職員が知っていますから、今回の出来事で十分でしょう」

  「そうなの!?」

  思わず周りをぐるっと見回すと、辺りの人々はバツが悪そうに目をそらした。誰一人目を合わせてくれる人は居なかった。止まっていた人の流れが再開し、逃げるように人が散っていく。

  ついに観念したわたしは世界に一人きりの気分になり、八房くんの背中に力なく担がれ続ける事を選んだ。

  そして目の前に、彼の尻尾が現れる。

  「……これはこれでいいかも」

  わたしは力なく下げた腕を使って彼の尻尾を弄ぶ事を再開した。これはこれで役得かもしれない。その鍛え上げられた肉体を超至近距離から視姦しつつ、邪な考えを巡らす。思わず興奮し、大きくなる自分のアレに八房くんは気付くのだろうか。

  「とにかく被験体の所に行きましょう。時間が遅れすぎている。査問委員会はその後でも問題は無い」

  「あぁそうだった、仕事するんだった」

  「……私は時々貴方の事が理解出来ない」

  八房くんは思い出したようにつぶやくわたしを担いだまま、くるりと踵を返し、目的地へと歩き出した。

  獅子獣人のおじさんを担ぐ狼獣人の青年という奇妙な光景は、まるで狼が狩りで得た獲物を自らのすみかへ運んでいるかのようだった。実際はいたずらが過ぎて呆れられただけなのだが。

  彼は先程よりも早足で道を進み始めた。後ろについていた問題児に配慮する必要が無くなったからだろう。

  「わたしは荷物扱いか!」

  「……」

  八房くんはそれをスルーする。ひどい。

  わたしは、担がれて本来ならば揺れる所が全く揺れていない事に気づく。八房くんの太い腕で固定されているからだろう。そのまま施設内を運ばれていく。

  やはり自分達は周りの注目を集めていた。

  道行く人々は奇異の目でこちらを見る。わたしは自分のしでかした事を完全に忘れて赤面した。

  わたしを運んでいる八房くんも、恥ずかしさを感じる事はあるのだろうか?

  それを知る事は出来ない。

  だが幸いな事に、恥ずかしいながらも移動に不快感は感じなかった。むしろ担がれている方が移動スピードは速く快適だと思う程だ。それは彼の無意識の気遣いかもしれないし、そうでないのかもしれない。

  長い長い通路と、いくつもの部屋を通り過ぎ、わたし達は目的地のすぐ近くまで到達する。

  八房くんが立ち止まり、入棟の為必要な申請を行う。申請の作業は機械化されていて、人の手が入り込む余地というのはほとんど存在していない。最初のカードキー認証位だろう。

  《八房透特等研究員、申請が受理されました》

  女性の声を模した機械音声が響き、外界と研究棟を隔てていたドアが開く。

  わたしたちはいくつもの無機質な自動ドアのある区画に到達する。研究を行い、成果を実践、検証する為の特別実験棟。

  パッと見、先程の通路と同じに見える、だがこの無菌室のような空間は、来たものに例外無く緊張感を与える。影すらなくなるような白い照明に煌々と照らされた通路を進む。さっきの一悶着あった通路とは完全に雰囲気が変わっていた。今ここを進んでいるのがわたし達だけというのもあるのだろうが、ここからは環境音の一つも聞こえてこないのだ。普通なら聞こえて然るべき、人の行動に伴って生まれる音が。

  それによって、精神をすり潰すような重苦しい威圧感がここを支配している。

  「ここはいつ来ても代わり映えがしないな。緊張するというか、ふざける気すら失せる」

  白い塗装に反射し、こちらの視界に容赦なく突き刺さる照明に目をしょぼしょぼさせながら八房くんに話しかけた。

  「前提から間違っている気がするのですが」

  「うるさいやい」

  彼から同意を得るのは簡単な事ではないようだ。会話を打ち切られたわたしは退屈しのぎに辺りをぐるりと見回した。

  殺菌ライトのように視界に突き刺さる光に目をやられながらも、横長の実験棟内を観察する。施設内に一定感覚をもって設置されているドア。開いている感覚はかなり広く、この施設の大きさの原因は、実験室の大きさがかなりのものだからだと推察出来る。それが十五も存在しているとなれば、わたしの働くこの職場での実験棟が占める敷地の割合はかなりのものになる。

  そしてこの一つ一つのドアの向こうには、全く別の世界が広がっている。言わばここは世界の未来を変える可能性の宝石箱、またはあり得たかもしれない未来が押し込められたごみ捨て場。

  ここで行われる実験は、全てが今の世界を変えるだけの力を持つ。自然と特別実験棟に来ると気分が引き締まる。情けなく担がれた自分が言っても説得力は無いだろうが……。

  代わり映えのしない真っ白なドアが並んだ通路を進む。施設は大体白一色なので、時々自分がどこに居るか分からなくなる。そういった意味でも、今の状況はわたしにとって非常に都合の良いものだった。

  「そう言えば被検体は身元確認はしてあるのかね?」

  「はい、虎林大吾(とらばやしだいご)という名前の虎獣人の青年です。……この前被験体の資料をドクターのPCにメールした筈ですが」

  「そうだったっけ?」

  まずい、職場のPCの電源を長い間入れていなかった事を思い出す。担がれながらも居心地が悪そうに返事をしたわたしに、八房くんは無言の抗議をする。

  「職務改善は後でやるからもう一度教えてくれないかな……?」

  「資料が実験室にありますので、それを」

  多分深く追求してこないのは、彼なりの優しさだろう。年下に気を使われて少しだけ涙が溢れてくる。わたしはそれを指で拭うと、気を取り直して彼の尻の視姦を再開した。

  視界に映る八房くんのムチムチのお尻は、彼が歩くたびにきゅっと引き締まってその肉厚な柔肉を震わせる。雄臭さと同時に耐え難い色気を放つそれに、わたしは思わず手を伸ばして触れそうになった。だがすんでの所で理性が働き、ムラムラした気持ちを抑え込んだ。

  わたしは自分の獣欲を何とかコントロールすると、行き場を失ってわきわきと動く自分の手のひらを強く握り込んだ。だが、理性に反して股間のナニはむくむくと大きくなり、硬さを増していった。

  「ドクター百瀬」

  その直後にタイミングよく、八房くんが話しかけてきた。わたしはびっくりして肩から転げ落ちそうになる。だがそこはがっちりと腕でホールドされていて、微動だにしなかった。

  「ど……どうした!?」

  取り繕うように言葉を発するわたしとは対照的に、八房くんは淡々と告げる。

  「いえ、着きましたので」

  目も眩むような白色の世界を歩き続けていた八房くんが歩を止めている事に今更ながら気づく。担がれたわたしの顔は背中側にあるので、彼がどこに止まったかは状況から推察するしかない。

  わたしの目の前にある白い自動ドアに嵌められたプレートには、第十四特別実験室の文字。ならば、反対側の八房くんの前にあるドアは第十五特別実験室のものだろう。

  彼は開いている手を使ってドアのロックを解除し、室内にわたしを担ぎ込んだ。

  「失礼します。八房透、ただ今戻りました」

  冷静な声が室内に響く。

  中からは八房くんに負けず劣らずの冷たさを持った空気が漂ってきた。思わずわたしは身震いする。

  八房くんは室内にいる誰かに向かってまるで軍人のような挨拶をする。何故なら、その挨拶をした人物はとても厳格な人物だからだ。

  室内は薄暗く、その冷たさも相まって穴蔵や洞穴のような印象をわたしに与えた。

  「遅いぞ八房、スケジュールに三十五分の遅れが発生し……何をしているんだ?」

  その声の主は、始めは相手を責めるような口調で話し、最後は困惑を声に乗せてこちらに話しかけてきた。

  「申し訳ありません。ドクター百瀬をコントロール出来なかった私の落ち度です」

  八房くんは冷静な態度で謝罪する。なんだか出来の悪い子供のやらかしを謝る親のようで、聞いていて凄まじく居心地が悪い。

  「それは聞き捨てならないぞ八房くん。早くわたしを下ろしてくれたまえ!」

  担がれたわたしは気持ちを誤魔化すようにその状態で必死に抗議した。それを聞き入れてくれたのか、まともに相手をする事に疲れたのか、八房くんはゆっくりとわたしを床に下ろした。わたし達はお互いに向き合う形になる。

  「むむむ……」

  何を言うわけでもなく、見つめ合う。

  「ドクター百瀬」

  先に口火を切ったのは八房くんだった。その怜悧な瞳がわたしを見据える。

  「なんだね?」

  自分のちっぽけなプライドを総動員して目の前の存在に対峙する。すると謎の無敵感が心の中から湧き上がってきて、無駄な自信となってわたしを勇気づけた。多分ヤケになっているのだろう。

  「胸から手を離してほしいのですが……」

  「えっ……えぇ!?」

  気がつくとわたしは彼の大胸筋を無意識に揉みしだいていた。白い制服に包まれたむっちりとした筋肉の塊を両手で堪能するかのように、たぷたぷと揺らしてみたり、強く握りつぶしたりしていた。

  彼の大胸筋にわたしの手のひらは心地よく沈み込み、手の中にふっくらとした感触と、雪のような冷たさを与えてくれる。

  自覚してなお、それを止めようとしないわたしを八房くんが冷たい眼差しで刺し貫いた。実力行使こそしなかったが、その静寂がわたしの罪悪感を刺激した。それでも、彼の魅惑の雄乳から手を離す事は難しかった。

  「ぐへへ……!」

  「……はぁ」

  まるでもみもみという擬音が耳に聞こえきそうな程、彼の雄肉を堪能していたわたしの口からは、自然と下卑た笑い声が漏れ出していた。

  対する八房くんからは、諦めを表すかのようなため息が発せられた。わたしの欲望は留まる事を知らず、心の中の獣が大きくなっていくのをひしひしと感じた。

  白い紙をじわじわと黒に染め上げるインクのように、ゆっくりにだが着実にわたしを蛮族に変えていく欲望。それに身を任せかける。

  だが……

  「いい加減にしろ。百瀬」

  背後から野太く重厚な、哀愁さえ感じさせる雄の声が聞こえたと思うと、わたしの頭に分厚い何かを叩きつけた。

  「どひゃあ!?」

  わたしは驚きのあまりその場から飛び上がった。八房くんの身長に一瞬だけ並び立つ。頭の上の衝撃から察するに、それは多分紙の束だろう。

  欲望の時間は、八房くん以外の人物の手によって終わりを告げた。

  頭をさすりながら、わたしはそれを行った人物に向かって振り向き、抗議の声を上げた。

  「牛瓦、いきなり酷いじゃないか!」

  「やり過ぎだ。加減を覚えろ。八房が困っている」

  先程の声の主、牛瓦京一(うしがわらきょういち)はわたしが振り向くなり、呆れたような声を発する。

  彼はわたしの背後に居る八房くんをちらりと一瞥すると、こちらに目を合わせてきた。その大木のような腕を組んで、わたしに向かって威圧感を放っている。

  彼の名は牛瓦京一(うしがわらきょういち)という。またの名をドクター牛瓦。牛獣人の壮年の男性で、わたしとは違うセクションを任された同格の研究者。

  二メートルを有に越す巨木のようなどっしりとした体格は八房くん以上のデカさだ。長い年月を生き続け、様々な悲劇を目にしてきた賢者のような乾いた眼差し、人間の強さが顔立ちに出るとするならば、間違いなく強者である事がわかる雄臭さ漂わせる岩のようなごつい顔。

  闇をそのまま切り取ってきたかのような深い色の毛並みは八房くんと違って切り揃えられてはいないものの、丁寧なブラッシングと手入れによって若い頃の美しい艶を維持している。

  彼はその毛並みや黒曜石のような色の瞳と相まって、見るものに恐怖にも似た警戒心を抱かせる。本人が至って生真面目なのもあり、印象は改善せず、施設内では元殺し屋だとか色々な噂が飛び交っていたりするのは、彼に知られてはいけない秘密だ。

  そして特筆すべきは、その磨き上げられた純白の角だ。彼は牛獣人の雄々しさの象徴たる角の手入れに余念がない。曲がりながらも天に向かって伸びる大きなそれの手触りは、本人曰く絹のように滑らかで心地よいらしい。多分そこまででは無いだろう。

  加えて彼は角に負けないくらい、自分を鍛える事に力を注いでいた。獣人は普通に生活していても筋肉がつきやすく、大体の人は自然と腹筋が六つに割れたり、がっしりした体つきになる。だが彼は何かから自分を守るように様々なトレーニングを自らに課していた。

  格闘技ヨガ瞑想等々……果ては科学者として邪道のスピリチュアルに至るまで数え切れない程の知識を取り入れ、実践し、自らの肉体を貪欲なまでに改造していった。

  そして度重なるトレーニングの成果か、彼の肉体は極限まで苛め抜かれ、わたしが気がついた時牛瓦は、研究者とは思えないフィジカルを獲得していた。

  あらゆる技を身に着け、取り込める部分はなんでも取り込んでいくその姿勢は、凡人には到底真似の出来ない戦闘民族のような生き方だ。

  因みにわたしはそのトレーニングに十分と持たなかった。

  脳筋のインテリ、わたしから見た彼はそんなイメージだ。そしてその通りに彼の肉体には、重戦車のような筋肉が巻き付いていて、支給された制服を痛めつける。ただ、同じような状況の八房くんと違う点が一つだけ存在していた。

  「きみは相変わらず歩くセクハラみたいな格好をしているんだな……」

  わたしはいつも変わらない彼のその格好をまじまじと見つめる。

  「しょうがないだろう、特注で作ってもすぐに使い物にならなくなる。あと、お前には言われたくないな」

  そう言った彼は、ブーメランパンツ一丁の上から白衣を羽織る自由すぎるスタイルをわたしの前に晒していた。

  そのブーメランパンツの股間の部分には、わたし達の所属する組織のシンボルマーク。彼にとってはこれこそが制服だという事なのだろう。大変目のやり場に困る。

  彼の黒い毛並みに覆われた筋骨隆々の肉体をゆったりとした白衣が覆い隠している。そして下半身はブーメランパンツが大事な部分を隠しているだけ。見るだけで巨根だとわかるそれは布地の下から自己主張し、組織のシンボルマークをもっこりと押し上げていた。それ自体も、彼が動くたびにギチギチと悲鳴を上げている。

  まさに男版裸Yシャツ。凄まじい雄の色香がわたしの脳髄に直撃し、彼の魅惑の肉体にむしゃぶりつきたくなる衝動に駆られる。だがここでそんな事をすれば、間違いなくわたしの頭蓋は彼の鍛え上げられた腕によって粉々に粉砕されてしまうだろう。

  薄暗い特別実験室内でわたしは何とか理性を取り戻すと、もう何度となく言った気のする言葉を彼に投げかけた。

  「その格好、恥ずかしくないのか?」

  「これは水着だから恥ずかしくないが……それがどうかしたか? むしろお前もやってみるといい、動きやすい上に色々なモノから開放される」

  「……前向きに検討させてもらうよ」

  いらない補足情報を教えてくれた自分とは色々違いすぎる裸族から目をそらす。というか勃起した時どうするんだろう。鉄の精神でどうにかするんだろうか?

  わたしは彼が超のつくナルシストである事をすっかり忘れていた。

  昔鏡が欲しいと言った彼に姿見をプレゼントした時、その場でポージングし始めたのを思い出した。あの時はいつまで経っても終わらないからほっといて帰ったような覚えがある。あんなのになるのは死んでも御免被る。

  でも、牛瓦の格好には賛成すべき部分もあるとわたしは考える。あり得ない事だけれど八房くんが牛瓦に影響され、ブーメラン水着一丁で仕事するようになったとしたら、それはそれは素敵な事だろうと思うからだ。

  わたしは純白の体を大事なところ以外、すべてをさらけ出し仕事をする彼の姿を幻視する。

  毛皮以外何も纏っていないたくましい筋肉が脳からの電気信号を受けて動き、言いようのない雄のエロスを発するその様を。彼の水着に包まれた下半身が、惜しげもなく晒される様を間近で見る事が出来る幸福を。

  彼の彫像のような美しい体を、余すところなく目で見て堪能する事が出来るというのは、わたしとしては十分魅力的だった。

  何色の水着が似合うのだろうか? 思わずわたしは後ろにいる八房くんのスカイブルーの瞳に向かって視線を流す。

  「ドクター百瀬、軽率な行動は控えるべきかと」

  わたしの思惑などとうの昔にお見通しなのだろう。八房くんが諭すように言葉を発した。

  その表情は変わる事はない。わたしは下品だと分かっていながらも、思わず心の中で舌打ちした。

  「くだらない妄想にふけっていないで、現実を見てくれないか百瀬」

  牛瓦にもバレていたようだ。彼は人の感情の機微を察知する力に長けている。わたしのいやらしい妄想を感じ取ったのだろう。

  「はぁ……じゃあ被験体にコンタクトを取ってみるか」

  「なんでため息をついているのかは聞かないでおこう。現状四十五分のスケジュール遅れが出ている。巻き返すぞ」

  牛瓦がこの場にいるわたし達全員をまとめ上げた。自己管理に厳しい彼にしか出来ない力強いやり方。彼のもとにわたし達二人の意識が集中する。

  薄暗い室内で、三人の意識が同じ目的に向かって動き出す。

  彼のやり方は不思議と不快感が存在しない。その理由はきっと自分を完全にコントロールする術を知っているからだろう。出来る事と出来ない事を弁えているのだ。彼は必要に応じて階級が下の者に頭を下げる事も厭わない。彼のリーダーシップは日頃の行いの積み重ねなのだ。だから、落ち着きのないわたしですら素直に従ってしまう。

  牛瓦の姿を見ていると自分のやるべき事が自然と思い出された。わたしはまだ見ぬ被験体に意識を集中させる。

  わたし達のいる場所は特別実験室と言いつつも、味気ない間接照明に照らされた薄暗い小さな部屋だった。

  いや、小さな部屋は、特別実験室の一部に過ぎない。この部屋は壁の一部をくり抜き、その部分に特殊な偏光ガラスを嵌め込んだ、観察用の場所と言っていい。部屋の隅には、分厚い隔壁のような黒いドアがあり、唯一ここから被験体の居るスペースへの移動が可能だ。つまり、ここが実験の対象を安全に観察する為の部屋だという事が分かる。

  そして、反対側の部屋の隅には被験体の居る室内を映し出す大きな液晶モニターが壁にかけられていて、その下にある机には被検体のデータを解析する為のPCが備え付けられていた。

  現在、偏光ガラスには黒いフィルターが降ろされていて、向こう側を見る事は出来ない。モニターやPCも同じように沈黙していた。

  「これが被験体のデータだ。八房がお前の為にわざわざデッドメディアである紙に起したんだ。彼に感謝しろ」

  牛瓦が先程わたしの頭に叩きつけた紙の束を渡してきた。ファイリングされた紙に、膨大なデータが印刷されている。その重さはわたしの予想を大幅に上回り、持った瞬間驚きのあまり落としかけた程だった。

  「ありがとう八房くん!」

  「私は職務を忠実に遂行したに過ぎません。貴方が私に礼を言う必要などない」

  何とか持ちこたえ、八房くんに向き直る。彼の言葉はそっけないものだったが、それでも苦労した事に変わりはない。電子書類が苦手なわたしはよく紙の資料を要求するから、それを見越してあらかじめ作成してくれていたのだろう。

  部下の優秀な働きに感謝しながら、そのずっしりと重いファイルを抱え、微かな明かりを頼りにページを捲り始めた。

  横目にわたしの隣に移動した牛瓦が微笑んでいるのが見えた。彼はこちらに顔を近づけ、聞こえるか聞こえないかの絶妙な声量で耳打ちしてきた。

  「いい部下を持ったな、百瀬」

  白衣越しに、彼のグロテスクなまでに鍛え上げられた大胸筋が満足そうにぷるんと震える。心の底からそう思っているのだろう。だがわたしは部下を褒められた事に対して、困惑の色を見せる。

  ナルシズムの塊のような男のくせして、他人を褒める時は掛け値なしに全力で褒めてくるこの男は、わたしにとって未だに底の見えない奇妙な存在だった。

  「本当に、わたしには勿体ないくらいだよ」

  複雑な思いを心の中に隠し、力なく笑った。後ろは見ていないが、八房くんはこれを聞いてどう思っているのだろう。あの尻尾が喜びにぶんぶんと振れる様を、いつか見てみたいものだ。

  しばらくの間、室内に資料をめくる音だけが響いた。

  「虎林大吾、二十一歳」

  そしてわたしは被検体の個人データを見つけると、自分の頭に叩き込むかのようにそれを読み上げ始めた。

  「身長百九十二センチ体重九十五キロ……重いなぁ」

  「いいからさっさと読み終われ……」

  呆れたような牛瓦の発言に肩をすくめつつ、読み上げ続ける。

  「この通称被検体番号零七二二番は、作戦番号一九七七『海洋エネルギープラント制圧作戦』における作戦行動の中において鹵獲したものである。作戦名そのまんまじゃないか」

  「いいから……」

  ついに苛々し始めた牛瓦に笑顔を返した。

  「まぁまぁーーー被検体零七二二番は鹵獲の際に組織の所有するCクラス戦闘員十六体を破壊後、指揮官に当たるAクラス戦闘員一名に重症を負わせ、その後増援として派遣されたSクラス戦闘員一名と戦闘し、鹵獲された。」

  要するにかなりの犠牲を払って手に入れた被験体のようだ。簡素な報告書には、彼を手に入れる為散っていった者たちがただの数字として処理され、実感のない事実として書かれている。

  「鹵獲した際に彼の所持していた装備を組織のデータベースと照合した結果、我々と強く敵対する組織の構成員と判明。無力化の措置を講じた」

  資料からは簡単な家族構成や幼少期から今に至るまでの基本的な経歴、彼の戦士としての仕事ぶりが読み取れた。

  この人物の苛烈なまでの戦いぶりは目を見張るものがあり、わたしは早く彼に会ってみたくなる。

  その気持ちをなんとか抑えつけ、ファイルをバサリと閉じてから牛瓦に向き直った。

  「今回の任務は、この虎林大吾を我々の側に引き入れる事だ」

  牛瓦は腕を組んで仁王立ちの姿勢になり、わたしを正面から見据える。彼の溢れ出る自信に呼応するように筋肉が肥大化し、それによって生まれた熱く雄臭い息が鼻から排出される。彼はこうも言った。

  「我々のもう一つの任務を果たす為に、迅速かつ正確にな」

  牛瓦が何故こんなにも自信満々なのか自分には分からなかったので、適当に相槌を打って誤魔化すかを真剣に考えてみるが、牛瓦には無意味だろう。

  その自信につながる出来事にどうしても思い当たるフシのないわたしは、恥を偲んで彼に尋ねる事にした。

  「その無駄な自信はどこから来るんだ?」

  相手はうちの戦闘員のランク付けで言えばほぼほぼSクラスと考えていいだろう。実行部隊の全体を取りまとめる大隊長クラスと言えば、イメージとして分かりやすい。つまりはかなりの実力者であるという事だ。

  わたしは十八名余りの戦闘員と大立ち回りを演じる相手に、三人ではいささか戦力不足感は否めないと感じていた。だがそれを聞いた牛瓦は、とても面白い事を聞いたと言いたげに笑いだした。室内に彼の低い笑い声が反響する。

  わたしはその不可解な態度に疑問を覚える。

  「何がおかしいんだ。牛瓦」

  思わずむっとした。そしてそれを表すように、態度が悪くなる。だが牛瓦は不快感を示すでもなく、普遍的な事実を告げるような気楽さで言い放った。

  「ここに居るのは私が知る限りでは最高のメンバーだ。私達が全力で物事の解決にあたれば、超えられない障害など無いさ」

  彼の口から出てきたのは、絶対の信頼を持って発せられる、確信を持った力強いことばだった。

  「えぇっと……それにはありがとう、と言うべきなのかな」

  わたしは戸惑いながらもその発言を受け入れた。褒められて悪い気のする人間は居ない。牛瓦は自分で自分の言った事に感心すると、こちらを向く事をやめ、フィルターのかかったガラス窓に向き直った。

  「そろそろ百瀬にもお披露目しようか」

  「医療用ドローンが被検体に鎮静剤を打ち込んでからもうすぐ一時間が経ちます。そろそろ頃合いかと」

  八房くんからそれを聞くと、牛瓦は物を持ち上げるようなハンドジェスチャーを窓に向かって行った。すると、はめ込みの窓にかかっていた漆黒のフィルターが消え、被検体の居る部屋内が限定的ではあるが見通せるようになった。

  「出来れば大人しいうちに色々と処置を行うべきなのだろうが……まぁどうとでもなるだろう」

  耳が痛くなってきたわたしは逃げるように被検体の居る部屋の中に目を向け、意識を集中させた。

  中はセンサー類の搭載された黒いタイルで床から天井までの全てを埋め尽くされた部屋だった。部屋の大きさは高校の体育館くらい、と言ってしまうのはいい加減すぎるか。とにかく広い。ここでならさぞバスケットボールが楽しいであろうと感じさせる広さだ。

  広大な部屋の中では、あらゆる事象がセンサーで記録されるようになっている。中に入れられた人間のバイタルや音声に始まり、果ては空間の粒子の動きまで。その最新技術が惜しみなく使われた室内では、黒いタイルの縁に沿ってセンサーが動いている事を示す白い光のグリッドが走っていた。

  その完璧な監獄の中央には、新品の医療用ベッドと栄養食であるブロックフードが雑に置かれていた。そしてわたしはそれらの横に座る彼を見つける。

  「八房くん八房くん!」

  それを見て思わず後ろに控える八房くんを自らの横に呼んだ。

  八房くんは怜悧な態度でこちらまで歩いてくると、その瞳でわたしと同じ世界を見る。

  「彼がそうなんだね!」

  思わず興奮する。それをクールダウンさせるように八房くんの冷たい冷気が肌を刺激した。黒く、広すぎる室内にぽつんといるそれは、鎮静剤によって引き起こされた無気力状態に抗うかのようにベッドではなく床に膝を立てて座り込んでいた。

  黄色をベースに、ところどころ黒の縞々模様が入った毛並みが目に入ってくる。わたしはその顔を見ようと目をこらした。

  「なんて力強い瞳だ……!」

  一人ぽつんと佇む虎林の瞳は炎のように燃える感情を湛えて目の前を睨みつけていた。溢れ出る生命力を武器にするかのようなその視線は、見ているこちらが焼け付くような感覚を覚える程のもの。

  鎮静剤を打たれてなお、生命力を爆発させている彼の名は虎林大吾という。わたしは思わず彼に対して賛美の言葉を発していた。

  「百瀬、あそこに居る獣人をただの獣人と思うな」

  横に立つ牛瓦が忠告してくる。その声色が、今から言う言葉がわたしを驚かす為のものでも、怖がらせる為のものでもないという事を教えてくれる。

  「資料にもあるとおり、奴は我々の組織が対峙した敵の中でもトップクラスに位置するであろう戦闘能力を持っている」

  牛瓦はその丁寧にブラッシングされた艶々の体毛の頭の部分を、掻き上げるように撫でた。

  「虎林大吾、またの名をフレイムタイガー。アイツは我々の組織と敵対する正真正銘の、本物のヒーローだ」

  

  「今回の仕事では、これを使ってもらう」

  そう言うと、牛瓦は白衣のポケットから何かを取り出した。間接照明にぼんやりと照らされたそれに、わたしは目を凝らす。

  目に見えたそれは黒色の首輪に見えた。だが詳しくは分からず、首を傾げる。

  「……忘れたのか? 百瀬」

  「う、う〜ん……?」

  その様子に牛瓦は心底呆れたと言いたげな目線を寄越してきた。わたしは羞恥で赤くなりつつ彼に尋ねる。

  「なんだっけそれ?」

  「俺はお前の頭の中を一度見てみたいよ。俺とお前の共同開発の洗脳ツール、忘れたのか?」

  わたしはその言葉を受けて、頭脳をフル回転させる。セクハラと興奮によって埋もれてしまった仕事の記憶を超高速で掘り起こす。

  そして、わたしはそれらしき記憶を発見する。

  「あぁ! 精神干渉装置(マインドカラー)か!」

  「そうだ。やっと思い出したか」

  牛瓦は薄ぼんやりとした光に当たって輝く首輪を、無骨な手に乗せてわたしに差し出した。

  「わたしが関わっていた時とは少し形が変わっているんだね」

  わたしはそれを受け取り、形状の変わったそれを観察する。前は灰色の刺々しい見た目だったが、今は黒水晶のような輝きを持つ、丸みを帯びたスタイリッシュなデザインに変わっていた。最近流行りのエルゴノミックデザインという奴だろうか?

  「ガワが変わっただけで中身は変わっていない。俺とお前の最強タッグが作ったんだからな。他人に弄らせると思うか?」

  「いや全然?」

  わたし達は軽口を叩き合う。そして八房くんが用意したファイルと、牛瓦が持ってきたマインドカラーを手に、被験体の居るスペースへの移動を試みた。

  「ドクター百瀬」

  すると、八房くんが声をかけてきた。わたしは彼が何を言いたいのか、即座に察する。

  「いってらっしゃいのキスでもしてくれるのかな?」

  「この相手は今までのようにはいかない。私もご一緒させて貰えませんか?」

  おふざけは華麗に無視された。周りも慣れたもので、最近は誰に何を言ってもこんな対応しか帰ってこない。だが、彼の言葉はわたしの予想した通りのものだった。

  「相手は武装は無効化されているんだろう? じゃあ楽勝楽勝。マインドカラーを付ければ終わったも同然だよ」

  わたしは軽い態度で手の内にある黒い首輪を彼に掲げるように見せた。だが、八房くんは納得がいっていないようだ。珍しく食い下がってくる。

  「ですが……」

  「いつも通り、やるべき事をやるだけ。そこまで心配しなくても大丈夫だよ」

  珍しく食い下がってきた八房くんに、わたしは奇異の視線を向けた。それはとても珍しい出来事だった。彼の感情が揺れ動くさまを間近で見たのはこれが初めてで、その心を覆い隠す氷の壁に小さな穴が開いて、感情を覗き見する事が出来そうな気がした。

  そして、八房くんが再び口を開こうとした時、牛瓦がわたしに話しかけてきた。

  「彼にはいつも被験体の生体情報チェックと機械の調整をして貰っていたが、いい機会だろう。一緒にやってみたらどうだ?」

  彼は多分八房くんの感情の変化を汲んでやっているのだろう。暗にやらせてやれと言ってきているのだ。

  「念の為に、八房には装備を支給する。お前の仕事において、重要な戦力になる筈だ」

  そう言うと、牛瓦は白衣から白銀の輝きを持つ腕輪を取り出し、八房くんに向かって投げ渡した。

  「それにお前も、そろそろ私以外と協力して仕事に打ち込む事に慣れたほうがいい。職人気取りは嫌われるぞ」

  そしてダメ押しのように被験体のデータは私が全てモニタリングし、管理する。それで問題ないな? と続けた。わたしとしてはそこまで言われては断る理由がない。しょうがないなという意思を瞳に宿らせて、八房くんの青い眼を見つめた。

  それを見た八房くんは、自らの思いが通じた事に気づき、その眼差しをかつて無い程の強い輝きで満たした。

  「ありがとうございます。ドクター牛瓦、ドクター百瀬」

  「下の者の成長を見守るのも、上司の仕事だよ。なぁ百瀬」

  「まぁ、きみがそう言うのなら……」

  「それに今回は、八房のスキルが役に立つかもしれないからな」

  朗らかな笑顔で答える牛瓦。対する八房くんは、わたし達二人にきれいなお辞儀を返し、感謝の気持ちを表していた。心なしか、その動きは緊張しているように見える。

  「じゃあ行こうか。八房くん」

  「はい、ドクター百瀬」

  自らの後ろに影のように付き従う狼に向かって声を発する。そして狼はいつも通りの返事を返す。その声からはさっきまでの動揺にも似た感情のゆらぎは消えていて、何も感じられなくなっていた。

  隔壁のような黒いドアの前に立つ。ドアの横にはカードリーダーが備え付けられている。白衣から自身の情報が書き込まれた黒いカードキーを取り出すと、そこにかざした。

  甲高い電子音が室内に響くと、程なくして分厚いドアがスライドし、虎林大吾の居る部屋への道が開く。

  「いざ戦場へ、ってね」

  わたし達二人は連なって光のグリッドが駆け巡る闇の中へと踏み出した。

  中に入った瞬間、まとわりつくような気配が体を包み込んだ。実験室内は、空調は効いている筈なのに、妙な息苦しさがあった。顔が自らの内に生まれた不快感によって歪む。

  しばらくしてそれがプレッシャーなのだという事に気づく。室内の中心辺りに座する虎林大吾から発せられているその威圧感は部屋全体を満たし、侵入者を拒んでいた。あまりの緊張感によって額から滲み出した汗を白衣の袖で拭う。

  無差別に放たれた敵意の中を、ただひたすらに目標に向かって歩いた。

  踏み出す毎に、室内のセンサーがデータを根こそぎかき集めていく。わたしの肉体の構成要素などは、ここに踏み出した瞬間から解析済みだろう。

  見ようによっては怪物の胃袋の中とさえ錯覚しそうな不気味な部屋を二人で進んでいき、わたし達は虎林大吾のもとへ到達した。

  鎮静剤の効果が切れてきた証拠だろう。彼は荒い息を吐きながら、視線だけをこちらに向けてきた。

  全身を襲う倦怠感と無気力な自身の心と戦いながら、烈火のような眼差しがわたし達二人を焼き尽くさんと貫く。

  よく見ると、彼がもたれかかっている医療用ベッドのマットレスが乱れている。鎮静剤を打たれてから精神力だけでこの体勢になったようだ。

  「その体でここまで動けるとはね」

  思わず賞賛の言葉が漏れる。だが目の前の虎獣人はそれを褒め言葉として受け取らなかったようだ。

  「うる……せぇ……!」

  朦朧とする意識がだんだんと覚醒してきているのだろう。彼は肉食獣の牙を見せて威嚇してくる。その鍛え上げられた肉体を病衣にも似たゆったりとした服が包んでおり、その見た目はこの部屋と相まってさながら隔離病棟の患者のようだ。

  そしてこの状況ではその行為は無意味だという事を教えるべきなのだろうか? わたしは首を傾げる。虎林大吾は何とか立ち上がろうと生まれたての子鹿のような足取りでふらふらと揺れている。

  医療用ベッドの手すりにしがみつき、中腰になりながらも抵抗の意思を見せる彼は、わたしからはとてもカッコイイものに見えた。

  だが、ここは相手の人権を踏みにじり正義を粉々に砕く実験場。生ぬるい憧れなど何の役にも立たない事をわたしは知っている。

  虎林大吾はなんとか立ち上がり、目の前の敵に精一杯のファイティングポーズをとる。足は薬の影響でガクガクと震え、瞳に至っては未だに一つの場所を集中して見る事すら出来ていない。

  だが彼から放出される気迫と、その精神は十分武器になり得るだろう。

  「クソッ! なんでブレスが使えねぇんだ!」

  「……?」

  わたしが感心していると虎林大吾は腕にはめられた黄金の腕輪を悔しそうに見つめ始めた。

  正確には、その黄金の腕輪は全体が琥珀色の結晶体に包まれていた。特別な無効化措置であるそれは、あらゆる機械の動作を阻害する。通常は暴走した無人兵器に使う技術だが、今回念には念を入れたらしい。

  変身アイテムでもあるそれは今、持っている力のほとんどが機能不全に陥り、ただの綺麗な腕輪と化している。

  彼の腕輪は八房くんが今持っている白銀色の腕輪とほぼ同じ形状だった。装飾がなく、地味な部分も同じと言ってもいい。

  まさに、同系統の技術で作られていると言っていいだろう。

  そう、同系統の。

  「八房くん、面倒だから出張ってくれないかな?」

  わたしがそう言うと、後ろでカチリという腕輪を嵌めるような音が響いた。その瞬間、まばゆい光が虎林大吾の腕に嵌まっているブレスから放たれた。

  「なっ……!」

  虎林が驚愕の表情でそれを見つめた。その光は仲間が近くにいる事を示すシグナル。色は月を思わせる白。辛うじて生き残ったブレスの機能が、助けを求める叫び声のような光を溢れさせる。

  わたしは後ろに居る彼に無言で目配せをする。八房くんはそれに無言で頷く事で応えた。彼は、自身の持つブレスを起動させる。

  虎林に今どれだけ力の差が開いているのか教えなければならない。何故なら我々は俗に言う悪の組織の構成員で、彼はわたし達の組織に敵対する存在だからだ。

  それには、元ヒーローである彼を使うのが得策と言えるだろう。

  ブレスを同じように輝かせながら八房くんが虎林の前まで進む。その腕輪から溢れるシグナルは炎のような赤。そしてそれに混ざって白銀の光が漏れている。

  そして、彼が進むごとにその体はスーツに包まれ、その貌はバイザーに覆われていった。

  「八房くん―――いや、ホワイトウルフのお出ましだ」

  それを見た虎林は目を剥いてこちらを見る。そして絞り出すように叫んだ。

  「なんであんたらがそのブレスを持ってるんだよ! それに八房って……!」

  「話せば長いんだ。許してくれよ」

  「ふざけんな! それをあんたらが使ってるなんて……!」

  ふらふらになりながらも激昂した彼は、まるで蘇ったばかりの亡者のようなのろのろとしたスピードでわたしに襲いかかろうとした

  「ホワイトウルフ、取り押さえてくれ」

  だが、その程度の事は想定済みだ。八房くん―――ホワイトウルフと呼ばれた人物は虎林の前に素早く移動すると、彼と対峙し腕を瞬く間に捻り上げ、流れるような手腕で床に押し付けた。

  「グッ……!」

  虎獣人は苦悶の声を上げ、地を舐める事となった。

  そのまま八房くんは自身の体全体を使って、彼を押し潰すように取り押さえ続ける。

  その全身は、肉体のラインに沿う白銀のスーツと、氷のような白い装甲に包まれていた。その顔は漆黒のバイザーに覆われ、冷酷な狼の本性を覆い隠す。

  「だいぶ久しぶりなんじゃないかな? ホワイトウルフのスーツを着るのは。どんな感じ?」

  「特に不自由は感じません」

  スーツで強化された力によって、完全に無効化された虎林がわたしと八房くんを交互に睨みつける。炎に命を与えたらきっとこんな生き物になるのだろうとわたしは思った。瞳の奥には怒りが燃え盛る炎のようにゆらゆらと存在していた。

  「早く首輪を付けてしまいましょう」

  今から何をされるのかいまいち理解しておらず、不安な気持ちを強い怒りの感情が覆い隠している虎林の眼差しをバイザーに包まれたホワイトウルフの瞳が見つめる。

  氷のような男と炎のような男の視線が交錯し、お互いを探るように貫いた。

  「ぐぅウッ……!」

  体を取り押さえられているせいで息が苦しいのだろう。潰れた蛙のようなうめき声を発する虎林は、自らの無力を嘆くように眉間にしわを寄せ、歯を食いしばっていた。

  「あんたら、こんな事をしてタダで済むと思ってんじゃ……」

  「思っていないよ?」

  だからこそ、こうして君を仲間にしようと努力しているんじゃないか。虎林の目線にまでしゃがみ込んでそう続けると、手に持った妖しい輝きを放つ首輪を彼に見せつけるように掲げた。

  彼の瞳が闇色の輝きを捉え、その感情を首輪の色と同じ闇に染め上げていく。これから自分は今までとは違う何者かに作り変えられてしまう、それを本能的に察知したようだ。どうにかしてこの拘束から抜け出すべく体を力の限り捩らせ、じたばた動こうとした。

  だが現実は非情だ。彼の体は万力のような力で固定されてびくともしない。

  「は……離せッ!」

  「八房く……ホワイトウルフ、お願い」

  被検体の叫びを無視しつつそう言うと、彼は多くを言わずとも察したようで、背中を下半身で固定してから片方の手で虎林の頭を掴んで、その上半身を反り上げた。

  「なかなか鍛えているじゃないか、まぁヒーロー業をしているんだから当たり前か」

  えび反りのような体勢になった虎林の鍛え上げられた豊満な肉体は、床に押し潰されてある種のマニアックな光景を見るものに提供してくれていた。

  思わずその押しつぶされた大胸筋と床の狭間に手を入れたくなったが、今はそんな事をしている場合ではない。わたしは気を取り直して彼を観察しなおす。

  彼の毛皮で包まれた精悍な顔をそっと撫でてやる。虎林は汚らしいものに触れられたかのように顔を動かし、手から逃れようとした。

  「自分と同じ力を持つ相手に押さえつけられる気分ってどんな感じなのかな? 出来れば教えて欲しいな」

  指越しに感じる彼のふわふわの白い毛皮に包まれたあぎとが怒りで強張り、呼吸をするたび、その吐息は震える。

  「ふざけ……るな!」

  その燃え滾る炎のような敵意をはらんだ吐息。喉笛に食らいついて殺す、そう言わんばかりの強大な負の感情によって彼の呼吸は震える。いくらホワイトウルフが力で押さえつけようとも、その精神まで抑える事は出来ない。

  「ゥグアァアアアアァッ!!!」

  彼は怒りを爆発させた子供のように滅茶苦茶に体を動かし、首輪から少しでも逃れようと悪あがきをする。

  悲しいかな、実際はそこまで動いてはいないし、どう足掻いてもその拘束から抜け出す事は出来ないんだけどね。

  わたしはマインドカラーの両端を掴み、引き離すように力を入れた。すると、その闇色の首輪は機械の動作音と共に半円状の2つのパーツに分かれた。

  その片方を、じたばたと動く虎林の首に宛てがおうとした。八房くんがそれを見て更にきつく虎林を拘束する。頭を掴んだ手に力を込め、ある程度残されていた可動の自由を完全に奪い去る。

  実際の立場は逆なのに、まるで八房くん扮するホワイトウルフが悪者を捕まえる正義のヒーローに見えて仕方がなかった。虎林が殺意の視線をこちらに向けているのも一因だろう。

  白い毛皮に包まれた首元に、黒水晶のような透き通った色をしたマインドカラーのパーツが宛てがわれる。

  「これを付ければ、君もわたし達のまごころが分かるようになるよ」

  虎林は喉を鳴らしてわたしに精一杯の威嚇をする。

  そう言えば、また自己紹介すらしていないんだな。……まぁいいか。その時間はたっぷりある。

  「地獄へ落ち……!」

  「これでわたし達は今よりもずっと、仲良しになれる筈だから」

  叫ぶ虎林を尻目にもう片方のマインドカラーのパーツをさっきとは反対側に宛てがった。

  「ろッ……!」

  2つは呼び合うように反応し、パーツの断面から機械の機構が迫り出し、一つに結合する。そして、マインドカラーが動作を開始した。

  「あ……ッが!」

  虎林は自らの首にかけられた戒めによって齎される未知の感覚に身を捻った。

  「なんだよ! これッ!?」

  甲高い機械音と共に首輪全体が膨張し、虎林の首に完璧にフィットするサイズへと調整される。

  それが完了すると同時に、首輪の表面に『LOCK』という赤い色の文字が浮かび上がる。これでもう、彼は首輪を自分の手で外す事は出来なくなった。

  ホワイトウルフは彼を拘束する必要がなくなったと判断したのだろう。虎林を開放すると、スーツを解除してわたしの後ろへと移動した。

  体を覆っていたスーツとバイザーが溶けるように空中に四散し、中からいつも変わらない無表情の白狼が姿を表す。

  目の前で未体験の衝撃に打ちのめされ、悶えている最中の虎林を気にするわけでもなく、わたしはしゃがみ込んだ状態から立ち上がると、一つの仕事が終わった達成感からぱんぱんと手を払った。

  「お疲れ様」

  「ドクター百瀬、まだ終わっていません」

  八房くんに労いの言葉をかけた。だが自他に厳しい彼らしい返事が返ってくる。わたしは白狼の肩をポンと叩くと、自分達を向こう側でモニタリングしているであろう牛瓦に話しかける。

  「終わったよ! 機械の設定お願い!」

  センサーだらけの室内で大声で叫ぶと、部屋の各部に見えないように設置されたスピーカーから聞き慣れた牛瓦の声が発せられる。

  「ここからが正念場だ。気を抜くなよ」

  「分かってる! そっちこそ設定間違えないでくれよ!」

  わたしは虎林の方向へ向き直ると、よだれを垂らし痙攣する彼に向かって言葉をかけた。

  「大事なのはここからか……大丈夫かな?」

  その言葉は多分彼に届いていないだろう。わたしは満足に動く事が出来ない虎林を抱え上げると、彼を先程までもたれ掛かっていた医療用ベッドに移動させた。

  お姫様抱っこの状態になった虎林を覗き込む。虚ろな表情で痙攣している彼からは、さっきまでの感情が嘘のように消え失せていて、わたしの腕の中で自分より大きな肉体が、電気ショックに襲われているかのようにびくびくと跳ねた。

  筋肉に覆われた肉体は見た目より重い。よろけながらも彼を可能な限り優しくベッドに乗せる。

  「これからよろしくね、虎林くん」

  白衣からハンカチを取り出し、虎林くんの口から溢れたよだれを拭いてやった。

  今、マインドカラーが正しく作動する為に虎林くんの脳神経をスキャンしている最中だ。この言葉はきっと欠片も届いていないだろう。

  「八房くんも見ておくといい、英雄がどうやって正義の階段を踏み外すのか、客観的に見る事は大事だよ」

  わたしは微笑みながら振り向かずに、後ろに控える八房くんに言葉を投げかけた。

  「私は……」

  「事の始まりを知れば、自分の手で終わりを考える事も出来る筈だ」

  八房くんは少しの間返事の内容を考え、ぽつりと呟いた。その態度に、彼も言葉に詰まる事があるのかと少し驚く。どんな表情をしているのか気になったが、それがなんであれきっとわたしが振り向いた頃には無表情なのだろう。

  「この知識はきっと役に立つよ」

  虎林くんの、虎獣人特有の黄と黒の毛並みを撫でて整える。

  この首輪を着け脳神経をスキャンされている時、されている側は幻覚を見る事が分かっている。わたしは虎林くんの混濁し、見開かれた目にゆっくりと手を当ててそっとまぶたを下ろした。

  「きみはどんな世界を見ているのかな? 虎林大吾くん?」

  きっと他人から見れば、今の自分は愛おしいものを愛でるような表情になっているのだろう。ベッドに沈み込み、そのままどこまでも落ちていきそうな雰囲気を醸し出している虎林くん。先程までの荒々しい存在感は鳴りを潜め、今はただただ人形のようにその場に居るだけになった彼は、何故悪を取り締まる側の人間になったのだろう。

  それを聞く時間は、これから腐る程あった。

  「日記のネタが増えたよ、八房くん」

  「あの日記帳……ですか?」

  わたしはそれに無言で頷くと、大好きな八房くんに顔だけを向け、こう言った。

  「日記の最初の一ページは充実しそうだ」

  

  *****

  

  虎林くん、虎林くん……。

  沈み込んだ闇の中で俺の名を呼ぶ声が聞こえた。

  誰なんだ、俺を呼ぶのは……そう心の中で呟くと、闇の中にあった意識が急激に浮上した。まるで飛び上がりそうな程のスピードで光の世界に向かって上昇していく。

  そして俺は、怪物の胃袋の中で目を覚ました。

  まず最初に視界に飛び込んで来たのは、部屋全体に走っている不気味に輝くグリッドだった。人によってはまるで生物のように蠢く格子状の光に一種の気持ち悪ささえ覚えるかもしれない。

  夢見心地なぼんやりとした気分で開いた瞳がその模様を捉え、視界が晴れてくるに従って自身の記憶も思い出されてきた。

  何故、俺がここにいるのか。さっき何をされたのか。

  ふざけた態度の獅子獣人に訳の分からない首輪を付けられて気絶したところまで覚えている。満足に動けない体に歯がゆい思いをしながら、自身を呼んだ声の主を探そうとした。だが、口以外上手く動かないのでしばらくして諦める事となった。

  首にはあのクソ野郎がはめた首輪が確かに存在していた。首元にあるこれを感じるたび、今の状況は現実なのだと突き付けられている気分になる。

  床に放置されていると思ったら、ベッドに寝かされているし、何から何までよく分からずに何も出来ないこの状況で俺は頭を働かせる事を選んだ。

  どうすればここから逃げ出せるのか考えろ、頭を使え。チャンスは巡ってくる。

  曖昧な希望が泡のように現れては消えていった。希望的観測をするたびに変えようのない現実がそれを打ち壊していった。

  状況は最悪と言っていい、変身用のブレスが機能停止状態に追い込まれ、理由は分からないが数年前に行方不明になった先輩ヒーローが敵となって現れた。

  「あぁ……クソが」

  ループし始めた思考を断ち切るように目を瞑った。元々考える事は得意じゃないんだ。力で解決出来るのなら力で解決したい。

  そんな時だった。

  「あぁ! やっと目が覚めたんだね!」

  底抜けに明るい声が室内に響く。俺は首以外を動かす事が出来ず、視界外からの声をただ聞いていた。だが声の主が誰かは見当がつく。

  ベッドに寝転がっている俺の視界にヒョイと現れたのは、首輪を付けた張本人である獅子獣人だった。

  「おはよう! 三時間くらい寝てたけど、どんな夢を見ていたのかな?」

  俺の視界にいる空気を読まなさそうな男は、この状況を心底楽しんでいるようだった。

  「答える義理はない」

  敵意をむき出しにして答えようとするが、やけに頭がぼーっとしてしまい、無気力な声色になった。

  多分俺を呼んでいたのはこいつの声なんだろう。それで目が覚めるのは屈辱でもあったが、負の感情が抜け落ちてしまったかのように俺は平常心を保っていた。

  「じゃあ他の事を教えてほしいな」

  こいつに会った時に燃え上がっていた憎しみも、怒りも、正義感も、全てがまっさらになってしまったかのような平坦な心が俺を支配していた。そして頭はぼーっとしているのに、この男の言葉はすらすらと入ってくる。

  「誰が答えるものかよ」

  「あらら、そりゃそうか」

  男は肩をすくめると、医療用ベッドに備え付けられたコンソールを操作した。マットレスの一部が起き上がり、俺は前方を見渡す事が出来るようになった。見えたからと言ってどうという事は無かったが。

  俺は状況を悲観しながらも、首を動かして精一杯辺りを見回した。

  結果、自分の視界の中にはこの能天気な獅子獣人しか居ないという事が分かった。ホワイトウルフは何処に行った? 見えない所で控えてんのか?

  「これで少しは過ごしやすいかな?」

  そして俺の周りをちょこまかと動いているこの獅子獣人、敵性組織の構成員に接するにはあまりにも無防備なその態度は天才の酔狂というものなのか? ホワイトウルフからドクター百瀬と呼ばれていたこの男は、その奔放な振る舞いからしてこの組織内ではそれなりな地位にいるみたいだ。

  こいつを人質に取る事が出来れば、ここから抜け出す活路が開けるかもしれない。

  俺の視界正面になんとか入ろうと動いていた獅子獣人は、顔を背け続ける俺に根負けしたのか視界の隅で自己紹介をしてきた。

  「わたしの名前は百瀬玲緒。しがない悪の科学者さ」

  『百瀬玲緒、その言葉は乾いた大地に染み渡る水のように俺の心に入ってきた。』

  「百瀬……玲緒……」

  「そう! よろしくね。虎林大吾くん」

  無意識に名前を呼んでしまった俺を見て、ヤツは満面の笑みで見返してくる。

  ゴツい見た目に似つかわしくない無邪気な笑顔に薄気味悪さを感じながらも『その警戒心を全く抱いていない態度に、思わず自分の名前を言い返しそうになる』

  咄嗟に思い直し、対抗心を燃やした。萎えた心を奮い立たせ、怒りと憎しみを燃やす。

  だが、その波打つ感情はすぐに平らな大地のように起伏のないものに変わった。今はただ、『この男の言葉を聞くべきだ。だから今は余計な事を考えるべきではない』

  ようやく体が動くようになる。上半身に多少のしびれを感じながら腕を動かした。

  動かせた所で喜びも悲しみもない、この状況を変えるだけの力のない俺は、右腕にはめられたブレスにやるせない視線を向けた。

  「あぁ、良かった。動かせるようになってきたね」

  百瀬玲緒が体をぎこちなく動かす俺に嬉しそうに話しかけてきた。この調子で完全に体の自由を取り戻したら殺しに来るかもしれない相手に向かって、お腹いっぱいになりそうな程眩しい笑顔を向けている。

  多分こいつの余裕は俺の首についている首輪に起因するものだろう。

  俺は首に付けられたこの忌々しい機械を触る。体の一部であるかのようにぴったりとはめられたこの首輪は外そうとしてもビクともしない。俺は思わず歯噛みした。

  さっきから体が妙にだるい事を考えると、これ自体に体の自由を奪う機能が付いているのかもしれない。

  それ以前に、こいつを人質にしたとして安全に脱出出来るとは限らない事も、ヤツは分かっているのだろう。

  ホワイトウルフがいる限り、ここから脱出出来る確率は限りなく低い。『だから今は大人しくしているのが一番の得策だ。こいつの質問を受け流しつつ、情報を集めて考察の為の時間稼ぎをするべきだ』

  俺は自分の頭が出した結論を心に言い聞かせた。

  「寝心地はどうかな? 不満があれば、遠慮なく言ってね」

  「……特に何もねぇよ」

  やつは円筒形のドローンがどこからともなく持ってきたコーヒーを冷ましながら話しかけてくる。

  俺の鼻腔をコーヒーの香ばしい香りがくすぐった。

  「緊張してる?」

  百瀬はあぐらをかいて片方の腕に抱えた分厚いファイルを床に置くと、それを開いてめくり始めた。

  ベッドで横になっている俺はそれを見下ろす格好になる。お世辞にも行儀がいいとは言えない彼のその姿は、悪の組織の科学者とは思えない程普通の人間っぽかった。

  『だから、ヤツに対して妙な親近感を抱いてしまった』

  鼻歌を歌いながらコーヒー片手にファイルをめくる百瀬は、俺の返事を待つわけでもなく話しだした。

  そのファイルには、多分俺のデータが詰まっているのだろう。ちらりと見たページには俺の日常生活での様子が写真となってページに貼り付けられていた。怒りや気持ち悪さと同時に諦めにも似た感情が押し寄せる。まぁ普通こうなるよな、と。

  獅子のファイルをめくる手が止まり、休憩するようにコーヒーをすすった。そして、その顔に優しげな微笑みを湛えながら俺に話しかけてきた。

  「虎林大吾くん、きみには聞きたい事が沢山あるんだ。答えてくれると嬉しいな」

  普通は拷問でもして、無理やり聞き出すんじゃないのか。その妙に生ぬるいやり口は、聞いた俺の頬を歪ませた。

  それ以前に、あぐらをかいて尋問する悪人がどこに居る? 色々とあり得ないだろ。

  「ハッ! 素直に言わなければ殺すって言やあいいのによ」

  俺は今の状況にどうしようもない無力感を感じながらも、精一杯の抵抗として挑発的な言葉を発した。無意味な事ではあるが、いくらか気分は晴れた。

  そしてその言葉を聞いた百瀬は顔を分かりやすくむっとさせた。口がへの字型に歪んで眉間にシワが寄る。

  子供みたいに感情がわかりやすい奇妙な科学者は俺に戒めるような言葉を発した。

  「あんまり自分を卑下しないでくれ。きみはわたし達にとってとても大事な存在なんだよ?」

  その言葉はある意味残酷な宣告だった。

  「あ……?」

  その言葉を聞いた瞬間、自分の頭が瞬間湯沸かし器になってしまったかのように、瞬時に頭に血が上った。

  それに連動するかのように、拳が強く強く握られ、手の中に鈍い痛みが走った。

  体が勝手にこわばり、吐く息が揺れた。平坦だった感情が揺れ動いて自分の理性を野生の炎が燃やし尽くしていった。

  気がついたら体の痺れを抱えてベッドから百瀬に向かって身を乗り出し、大声で叫んでいた。

  「お前達の思い通りにはならない! 殺すなら殺せ! どんな事があっても俺は話さない!」

  悪の組織らしい無責任で自分勝手な言葉に対して、俺は叫んでいた。それは正義感でも何でもない、純粋な怒りだった。

  歯をむき出しにして、目の前の獅子獣人に叩きつけるように言葉を重ねた。それはほとんど反射的で、今の自分の立場とか、ここでのこれからを考える余裕は存在していなかった。

  ふーっ……ふーっ……と肩で息をすると、怒りで無理矢理動かした体が悲鳴を上げた。

  燃える炎のような感情がいくらか収まると、体全体が麻痺したように動かなくなった。頭は動け、動けと言っているのに、首の下あたりからその指令は消え去ってしまう。

  痺れを感じながらも動かせたさっきとは違い、繋がれかけた神経が再び切断されてしまったかのような錯覚に陥った。

  身を乗り出した状態でくたびれた人形のようにくてんと倒れ込み、俺は医療用ベッドからずり落ちかける。

  「ぐ……あ……っ」

  視界が床に向かって落ちていく。地に項垂れる上半身を制御する術は今の俺にはない。だからそのまま無様な格好になるのだろう。そう思っていた。

  「おっと!」

  だが、それは百瀬によって防がれた。ヤツは膝立ちになり俺の上半身を両手を使って支えると、やれやれといったふうにため息をついた。

  「今のきみは、まともに動ける状態じゃないんだよ。大丈夫かい?」

  その手つきと声からは純粋な思いやりが感じられて、俺の心をかき乱した。そしてその言葉に、俺は歯ぎしりで答える。

  敵対している組織の構成員同士、本来なら交わる筈のない陰と陽の道を行く者である俺達が関わり合っていて、あろう事か心配さえされている。

  大衆の守る法の正義から外れた者同士、関わり合う時は戦いしかあり得ないと思っていた。だが現実は違う。

  闇と悪意は俺を呑み込み、その暗黒に心を染め上げようとしている。そしてそれに抗う手段を今俺は持っていない。

  目の前で俺を助けているつもりのコイツから醸し出される透明な悪意。真綿で首を絞めるような、緩やかに信念の死を告げるヤツの一挙手一投足は、俺無力さを噛み締めさせるには十分すぎる。

  体を支えている百瀬から、ボディソープで綺麗に手入れされた体の匂いが漂ってきた。もう、俺には訪れる事のないだろう日常の匂い。

  「くっ……!」

  まだ諦めるには早すぎる。だが今の状況はあまりにも絶望的だ。様々な障害にがんじがらめにされ、知らず知らずのうちに苦悶の声を漏らしていた。

  俺の行き着く先は、あの真っ白な闇、ホワイトウルフなんだろうか?

  再び思考がループし始める。邪悪な意思が忍び寄り、俺を更に深い闇へ誘う。

  そんな中、百瀬は俺の肉体をいそいそとベッドに戻そうと動いていた。

  アイツの脂肪の乗った筋肉質な腕が脇の下に通され、そのまま抱きしめられる。

  俺の頭がヤツに抱きしめられる事によって肩に乗せられ、密着した時だった。

  『俺は何故か抱きしめられている間、不思議な気持ちになった』

  重苦しい気分が俺の内側にタールのように溜まり、この状況に対する反抗心を奪っていた。だから俺の体は相手のなすがままに動いた。

  百瀬は俺をなんとか元の姿勢に戻して立ち上がると、絶望に染まりかけていた俺の瞳を見て、たてがみをかき上げた。

  「あんまり怒ると血管切れるよ?」

  そのまま額に滲んだ汗を白衣の袖で拭うふりをすると、足元に置いてあるファイルとコーヒーを取った。

  「やっぱり起きたばかりだけど休憩しようか」

  そう言うと、室内から退出する為にいそいそと動き出した。その間、こちらをちらちらと見てくる。

  俺はそれを忌々しげに見つめてから、顔を背けて無視を貫く事にした。

  「なんで止める、今の俺はアンタにとって都合がいいんじゃないのか?」

  その状態で挑戦的な発言をする。顔に皮肉の笑みを浮かべて、自分の無様さすら笑いながら、相手の中を探ろうとした。

  「逃げるのか?」

  百瀬の顔は見えないが、声を聞く事は出来る。むしろ顔を見ないほうが冷静でいられるような気がしたからだ。でも現実はそんなに甘くはなかった。

  「挑発するつもりは無いんだけど、今のきみを恐れる必要は無いしなぁ」

  「何だと……」

  その何気なく発された言葉を聞いた瞬間、ぞわりと総毛立つ感覚に襲われた。怒りと殺意がごちゃ混ぜになった感情が俺の心に薄氷の如くまとわりついた。二人きりの空間の中、遠ざかっていく声の裏側に含まれていたのは、現実を見ろという残酷なメッセージ。

  今のお前に出来る事など何も無い。そこでじっとしていろと暗に告げているのだ。

  怒りでいくら現実を覆い隠そうと、思い通りになる事などあり得ない。八房に負け、それでもなんとか残された選択肢を切ってアドバンテージを得ようとした。でも、最初からそんな選択肢は存在していなかったのだ。

  馬鹿な未来予想に踊らされていただけ。己が持つ力を過信していたという事実に打ちのめされる。

  本来ならば冷静に対処すべきところを一瞬で丸裸にされ、それにつられて口からこぼれ出た焦りの一言は、自分の甘さをこれ以上ない程的確に表していた。

  それを見透かされていると考えただけで、身体に冷たいものが走った。

  「多分あと一時間ぐらいで完全に体は動くようになるけど、それまでヒマかな?」

  ヤツの捕虜に対する態度とは思えない発言や態度は始まりに過ぎないと言う事は、言われなくても分かっていた。いや、分かっていた筈だった。

  ふざけた態度を取っていても、相手は敵性組織の構成員。油断は許されない筈だった。だが俺は、コイツの奇妙な振る舞いに翻弄されている。

  自分の無力さに、イラつきを通り越して憎しみすら覚えた。

  コーヒーの強い匂いが薄れていく、部屋から退出しようとする百瀬に対するマーキングのようにそれは働いていた。

  「時間はたっぷりあるから、ゆっくりやっていこう。でももしきみが良ければわたしとしりとりでも……」

  「ほざけ!」

  百瀬に向かって放たれた怒号が部屋の中を満たしたと思うと、謎の虚しさが俺の胸を支配した。百瀬は少ししょんぼりした様子で肩をすくめたが、欠片程もダメージは受けていないだろう。本当によく分らないヤツだと思うと同時に、俺はようやく叫べば叫ぶ程こちらが消耗するだけだと気づく。

  「うぅ……一時間後にまた来るね……」

  スライド式の自動ドアが動く音が聞こえ、やがて何も聞こえなくなり、俺の周りから完全に人の気配は消え失せた。

  「ぐ……ちくしょう!」

  部屋に一人きりになり、監視されているであろうその中で、やりきれない思いを発散させた。叫びは部屋の中で跳ね返り、やがて消えた。そして、その激情はしばらくすると完全に消え去り、凪の海のような穏やかな時間が俺に訪れた。

  

  *****

  

  わたしは自動ドアを通って監視用の部屋に入ると、大きく息を吐いた。

  「珍しいな。いつもは楽しそうにするのに」

  怪物の胃袋から帰還したわたしを出迎えたのは、白衣に包まれた大きなお尻と冷たい狼だった。

  「ファーストコンタクトはうまくいかないもんだね」

  わたしに背を向け屈んだ状態でPCを使い、データを纏めている牛瓦が物珍しそうに声をかけてきた。

  彼の白衣の上からでもはっきりと分かる程引き締まったお尻のラインに目を奪われながら答える。

  物言わずとも八房くんが近づいてきてコーヒーとファイルをわたしの手から取り上げた。それに笑顔で応えながらも、心は晴れなかった。

  「精神操作を受けつけていないであろう場面が所々あったんだけど、そっちではどうなってた?」

  言われる事は予想済みだったようだ。キーボードの打鍵音が響いたと思うと、壁に取り付けられた液晶モニターに虎林の全身図とバイタルデータが表示された。わたしはそれを一欠片も逃さないと言わんばかりに注視する。

  「コレステロール値は正常だし、わたしから言わせるとまだまだ不健康さが足りないね」

  「百瀬、お願いだから今だけは真面目になってくれないか。気が抜けてしまう」

  わたしと違って健康そのものな肉体の数値に思わず感嘆の声が漏れた。それと同時に何だか見てはいけないものを見ている気になってきて興奮する。

  それを咎める牛瓦の声をスルーしつつ、首輪のデータの詳細を出すように彼に頼む。モニターに設置された虎林の全身図がズームされ、首元が画面に大きく表示された。

  漆黒の首輪から発信される電気信号は彼の脳を侵し、怒りをコントロール出来る筈だったが、それがどうも失敗しているようなのだ。

  彼はわたしとの会話時、装置の影響下にありながらも激怒した。それは本来ありえない事だった。

  何故ならこの装置は、装着者の怒りや憎しみ等のマイナス感情を平常化する事が出来るからだ。

  感情を洗い流し何も無いまっさらな状態にする、それは我々の言葉をより良く聞いてもらう為だ。

  効かないのはマインドカラーが壊れているからかとも思ったが、どうやらそうでは無いらしく、全く別の原因が考えられた。

  この事態、普通なら取り乱したりするのだろうか? 牛瓦と二人で作った自慢のメカが今まで効かなかった事など無かったので純粋に首を傾げた。

  脳神経をスキャンした後の装置の動きを時系列順に追っていく。

  「早めに区切りをつけたのはそれが原因か」

  牛瓦がPCの画面から顔を上げて壁のモニターをわたしと同じように見つめていた。

  彼の声に焦りは無かった。その声はわたしの中に自然と染み渡り、一種の安心のようなものを感じさせる。

  「しりとり出来なかったからね……しょうがないよ」

  そうやってふざけるわたしを二人はスルーした。

  可愛らしいギャグすら言えなくなったわたしは目の前に集中する。

  モニターには牛瓦が選別した人体のデータがCGに再構成されて映し出されていた。秒単位で姿を変えるその映像が表示された画面の隅には、CG化されていないデータが文字として流れている。

  変化し続けるそれらをわたしは同時かつ冷静に観察する。

  ここには虎林くんに関するあらゆるデータが揃っている。ならばそれを元に、より真実に近い結果を導く事が出来る筈だからだ。

  既にパズルのピースは揃っている。

  横に居る牛瓦はそれを期待しているのだろう。彼の肉感的な肢体が筋肉の筋を現しながら動く。黒牛はわたしの隣に移動すると、試すように視線を送ってきた。

  お前ならどうする、と言いたげな挑戦的な眼差し。

  この施設にある超高速並列分散処理システムの使用許諾さえ得られれば、カップ麺を作るより早く原因は解明出来るだろう。

  だが生憎そのシステムは組織の運営管理の予測に大幅なリソースを割いている為、滅多に使わせてくれない。

  だから基本的に自分たちの力で道を開かなくてはならない。悪の組織らしからぬ泥臭さだ。

  「面白いけど、難しいね。牛瓦」

  「それが言えるのは多分お前だけだろうが、同意しておこう」

  作業を簡略化する為の装置を作った筈なのに、それによって新たな問題が発生するとは皮肉としか言いようがない。

  「一応感情の平常化は効いているみたいだ」

  マインドカラーの虎林くんへの干渉の履歴を別ウインドウで表示してもらいながらつぶやく。

  彼の脳内への装置による感情制御は一応行われているようだった。

  だが、結果は上手く行っているとは言えない。危うく喰い殺されそうになっている。

  彼の強い感情を抑え、一応の対話は成功していた。脳内スキャン後の身体面での不自由は多少見られるものの、それ自体は時間とともに正常化されるであろう事も分かっている。

  でもそれではいけないのだ。足りないというか、正確さに欠ける。イレギュラーだらけの仕事ではあるが、不確定要素は出来るだけ取り除かなくてはならない。

  今わたし達が行っている事を例えるとするなら、虎林大吾というヒトを細部に至るまでバラバラにし、一から組み立てなおそうという試みだ。

  それを成功させるには彼の全てを知る必要があると考える。過去現在から未来の予想図まで、足のつま先から頭の天辺に至るまでの構成要素すべてを解き明かし、彼の知らなかった、知られたくない事実でさえも地の底から掘り出し、喰らわなければならないと。

  そして、それに必要なものはほぼ全て揃っていると言ってよかった。

  今のわたし達を例えるなら猟犬だ。他人が切り捨てた部分ですら取り込み、それで得た力でもって目標に喰らい付いていこうとしている。

  力で全てが解決するのならどれだけ楽だろうか、強靭な精神を持つ人命の守護者を心の底から堕とす事は予想以上にタスクを圧迫していた。

  わたしは首輪から発せられる疑似電気信号が虎林くんの脳を刺激している事を確認する。

  「八房、頼む」

  「かしこまりました。ドクター牛瓦」

  牛瓦の代わりにPCの近くに移動した八房くんに虎林の生体情報をスクロールしてもらう。

  PCの横にファイルとともに置かれたコーヒーから、香ばしい香りが漂い始めた。それは殺風景な部屋の中を染め上げ、嗅ぎ慣れたその匂いがわたしの中に安心感を生み出した。

  八房くんの自然とその引き締まったヒップに視線が吸い寄せられた。真っ白な制服に包まれた滑らかながらも鍛え上げられた筋肉を感じされる尻肉。彼の醸し出す極上の雄の色香に今までの事を忘れ再び手が伸びるが、それを牛瓦が許してはくれなかった。

  彼は八房くんのお尻に伸ばされたわたしの手を優しく取ると、指を絡めて恋人つなぎにした。

  いきなりの出来事に驚愕の表情を浮かべるわたしに、牛瓦は視線でやめろと語りかけてくる。まるでこれで満足しろと言いたげなしぐさ。

  その眼差し見たものをを包み込むような優しさをたたえた、妙に温かいものだった。

  ビロードのような心地よい手触りの彼の毛並みに少しうっとりする。自分の中の獣欲が手を繋いだ牛瓦の精神に感化されて静まっていく感覚を覚えた。

  「落ち着いたか?」

  「あ、ああ……」

  八房くんに対して食指が動いた時、牛瓦はよくわたしに対してスキンシップをとってくる。多分八房くんをセクハラの魔の手から守ろうとしているのだろう。

  わたしとしては八房くんに対する気持ちを静めてくれるのでとても有り難かった。でも何だかとってもいけない事をしている気分になる。顔を真っ赤にして繋がれた手を離す。絡まり合った指同士が解けて、心の中に入り込んで寄り添っていた牛瓦の精神が離れていくような感覚を覚える。

  「ううん……」

  頭を振って雑念をすっきりさせると、今までの事を頭の中で纏める為に思考を巡らせた。

  マインドカラーを使った精神操作は基本的に感情の支配によって実現する。

  この装置は設定した条件下において脳に流れる電気信号を欺瞞し、感情を操作する事が出来る。

  それによって相手はわたし達との関わりに幸福や快楽を感じるようになる。それを繰り返し続け、相手に感情を刷り込む。

  最終的には首輪がなくとも洗脳状態が持続するようになり、否応なく生まれた相手への愛情、友情や執着につけ込んで組織に隷属させる。

  要は偽装した感情を本物だと思い込ませる事がこの装置の本質。装着者の肉体制御も可能な上薬物も必要としない。この上なくクリーンな洗脳方法だ。

  その過程で相手の精神を折り、信念を破壊する必要が出てくるが、そこについては施術者の腕の見せ所。

  さっき行った装置の動作チェックを兼ねた尋問で、精神干渉が無効化されるという異常事態が発生し、事態は別の方向に転がった。

  装置の仕様を考えれば、何か脳に問題が発生しているとか、精神的にトラウマを抱えていなければこのような問題は起こり得ないと考察する。

  装置が人間の普遍的な部分を利用しているからこその結論。

  彼に付けられた枷は装着した人物をじわじわとこちら側に誘うものだ。でも今の状態では彼は闇の中へ続く電車に乗ってはくれない。問題を限りなく迅速に解決する必要があった。

  「着けただけで無条件に愛情や友情を生み出してくれる装置とか、誰か作ってたりするんだろうか?」

  「無い物ねだりをしても仕方がないだろう。今の俺達に出来るのは感情の萌芽を育んでいく事だけだ」

  これは、彼を望んでこちら側に来るようにする為の戦いなのだ。

  今装置が作動する為の条件は『百瀬玲緒と関わる事』であるから、これはわたしと虎林の戦いでもある。

  いや、わたし達のと言った方がいいか?

  文字とともに流れる映像化された生体情報には、マインドカラーの疑似電気信号が脳を侵しているさまがありありと映し出されていた。

  その流れで脳を重点的に見ている時、それを見つけた。

  「これは……」

  目の前のデータは所変わって脳内物質の分泌量が映し出されていた。

  精神操作にはされている相手のメンタルや体力が密接に関係している。なので体のデータ、特に心身に関係する脳内物質のモニタリングはこの仕事において特に重要なものの一つだ。

  効率的に相手をこちらに引き入れたいのなら、疲労や薬物で意識を混濁させてから対象の頭の中を上書きする等がメジャーである事から、その重要性が分かる。

  その面倒な下準備や薬物を無くす為のマインドカラーなんだけど、現実は上手くいかないものだ。画面を見ると、装置を付けているにも関わらずノルアドレナリンの脳内分泌量が異常に増えている瞬間が確認出来た。

  「ノルアドレナリン……不安やイライラの元」

  「百瀬はこれが原因だと思うか?」

  わたしは顎に手を当て、手入れされたふわふわのたてがみを撫でつつ考え込んだ。

  横で同じようにモニターを見ていた牛瓦も同じように考えていた。彼のツヤツヤの黒い毛並みが間接照明に照らされ淡く輝く。白衣からチラチラ除くピンク色の乳首は彼のゴツさからは考えられない程可愛らしかった。

  「今までマインドカラーの精神操作にここまで抗った子はいなかったから」

  「ドクター百瀬は、彼が特別な訓練を受けていると考えているのですか?」

  八房くんがPCから顔だけを向けて、珍しくこちらに尋ねてくる。

  「今までを考えるとそうは思わない……かな。そもそもマインドカラーの存在自体彼らは知らないだろうし、でも気になるね」

  「ノルアドレナリン分泌量が異常、という事がですか?」

  環境が環境なだけに、分泌量が増えるのは当たり前だろう。その状況で冷静になれるとしたら、きっとそれは換えの効かない貴重な才能だ。

  それが、精神操作を受けていない場合ならば。

  わたしはPCから体を離し、青い瞳ではめ込みの窓の向こう側を見つめ始めた八房くんに視線を送る。彼は壁一枚隔てた向こう側にいる虎林くんを無感情に見つめていた。

  彼は何を思っているのだろうと興味が湧きかけたが、今はそれどころではない。頭の中に生まれた思いを急いでかき消す。

  「今まで引き入れてきた人達はわたし達に憎しみを向けこそすれ、装置に反抗出来た者は居なかった……だよね? 牛瓦」

  「ああ、俺とお前の自信作に傷を付けたのはアイツが初めてだ」

  牛瓦が壁の向こうの虎林を視線で指し示す。

  「だよね……やっぱりまだまだデータが必要だ。牛瓦、今3Dホログラム表示用ドローンって使えるかな?」

  「申請が通れば使える筈だ。やってみよう」

  こういう時の牛瓦は頼もしい事この上ない。白衣のポケットから申請用の小さな未来感あふれる通信装置を取り出すと、手際よくドローン使用許諾を申請した。

  大きな指でタッチパネルを押す彼の姿にシンパシーを覚えるが、その手つきは自分と比べて滑らかで、不器用なわたしとは違うという事に気づいてしまう。

  そして驚くべき事にわたしなら申請受理に一時間かかるドローン使用許諾をたった五分で許可されてしまった。

  「八房、百瀬は過去に何をしたんだ……」

  「申し訳ありません。ドクター百瀬の尊厳に関わると思われるので私からは言いかねます」

  その事を牛瓦に話すと彼は心底呆れたと言いたげに八房くんに尋ねた。太く黒黒とした彼の腕が自らの頭頂部をかきあげた。連動して彼の大胸筋もつり上がり、エッチなグラビアのポージングをしているようになる。

  八房くんは心当たりがあるようで言葉を濁したが、その瞳や声色に変化はなく、少し怒っているようにも見えてしまう。研ぎ澄まされた砕氷のように鋭い彼の眼差しは見たものを凍りつかせるような冷たさを放っていた。

  わたしは二人のその様子に興奮すると同時に全く見に覚えの無い過去に首を傾げた。

  「まぁいい……これでドローンが来る筈だ」

  「やった、ありがとう牛瓦。これで面倒が省ける」

  「……ちゃんと仕事に使うんだろうな?」

  「モチのロンだよ? どうして?」

  疑いの目線を投げかけ始めた牛瓦に安心させるように答える。でも何でかわたしの答えを聞いた瞬間から彼の瞳から発せられる疑いは強くなった。

  「牛瓦、わたしって案外信用ないのかな」

  「自分の胸に手を当てて考えるんだな」

  自分の胸に手を当てて考える、か。わたしは言われた通り目をつぶって胸に手を当てて自分の頭の中を探った。

  薄暗い間接照明が閉じた瞼の内側まで届き、わたしの視界をぼんやりと白く染める。記憶を探り、時々心臓の動きを感じながら、自分の中へ中へと沈み込んでいった。

  体を包む白衣の下にある鍛え上げられた胸の感触、その毛皮の下に存在する極限まで鍛え上げられた筋肉、八房くんのものとはタイプの違った力強いながらもナチュラルな肉のハリ。

  沈み込んだ指を強い弾力によって押し返すその雄肉を包むのは質の良いビロードのような心地よい手触りの毛皮。触れただけで相手を魅了し、思わずむしゃぶりつきたくなる絶妙な感触の乳首―――そこまで考えて違和感に行き着く。

  え? ビロードのような……手触り?

  嫌な予感がして薄っすらと目を開ける。するとそこには

  「全く……お前というやつは」

  その枯れた眼差しを気まずそうに逸らしつつ、どうしたものかとため息をつく牛瓦の姿があった。わたしはその状態で固まり、顎をカクカクと動かした。そしてその状態からしばらくして、ようやく言葉を発する。

  「あっ……! ごめん牛瓦! すまない!」

  わたしとは対照的に、牛瓦は冷静にわたしの手を自分の胸から引き剥がしていった。生暖かい人の温もりが手の内にじんわりと広がった。まるで牛瓦の体の一部を奪い取ってしまったかのように、手のひらには彼の肉の感触と熱が残っていた。わたしはそれが消えていく事に一種の安心と不安を抱き、手のひらを握ったり開いたりする。

  牛瓦はしょうがないと言いたげな視線を送っていた。

  「お前はいつも俺の予想を上回ってくれる」

  「あ、いや……その……」

  「分かっているよ。お前はいつも悪気はない。八房にやるよりはマシだ」

  そう言って彼は白衣のボタンを止めてその裸体を覆い隠した。わたしはとても悪い事をしてしまったと自覚し、顔を罪悪感で歪ませた。

  彼の胸板が純白の白衣に前面まで包まれる。白衣から覗く漆黒の胸毛が目を引いた。隠す事によって視覚的な破壊力が倍増しているような気がする。

  牛瓦と同じように相手を見る事が気まずくなってしまい、彼から目を逸らした。

  「お前は本当に大胸筋が好きなんだな」

  「いや大胸筋っていうか何というか……ねぇ八房くん?」

  「何故私に……?」

  苦し紛れの返答にこちらを向いた八房くんが冷静なツッコミを入れた。彼の鋭い視線がわたしの身体に突き刺さる。わたしはそれに冷や汗をかきつつ愛想笑いで誤魔化した。

  雄の肉体が好きなのは事実だが、部位にこだわりはないわたしとしてはとても答えづらい。いや、そもそもそういう問題では無いか。

  部屋の中には悪の組織らしくない奇妙な空気が漂っていた。

  そしてそれを打ち壊したのは、機械の駆動音だった。

  ノックすらなしに特別実験室のドアが開き、室内に3Dホログラム映像機材搬入用のドローンが入ってきた。磨き上げられたように白い、装飾など一つもついていない無味乾燥な四角い機械。見ようによっては白い墓石が動いているようにも見えるそれは、室内の会話を断ち切るように室内に入ると、部屋の中心で止まりその体を震わせた。

  そのままその白い体に切れ込みが入ったかと思うと、表面が割れ、ドローンは車輪部分のある台座を残して十二個のブロック状のパーツに分裂した。

  よく見ると分離したブロックからは手足のような四本のアームが伸びていて、バラバラと床に散らばった純白の正方形はそれを使ってひとりでに動き出した。

  そして車輪だけになり、足首の高さまでその高さを減らした機材搬入用ドローンを土台とし、ブロック同士がアームを使って再び連結する。

  ものの数分でわたしの腰までの高さがある四角いテーブルが出来上がった。

  「相変わらず気持ち悪いなぁ……」

  その白磁のようなつやを持つテーブルを眺める。

  まるで虫の群体が威嚇の為に姿を変える時ような変幻自在さにえも言われぬ不快感を覚え、その気持ちを吐き出すようにぼやいた。

  「自分で頼んでおいてそれを言うか」

  「いや、虫みたいでなんか慣れなくて……ごめん」

  隣の牛瓦は咎めるわけでもなく、話を流しつつも話しかけてきた。

  些細な発言にも反応してくれるというのは心地がいいものだ。自分がそれだけ注目されているという事の証明でもあり、気安く話しかけてくれる人がいるという事でもある。

  この空気を嫌がるとともに心地よくも感じてしまっている自分に苦笑する。最先端科学を扱うものとしてはやはり三流としか言いようのない自分の感覚を呪いつつ、出来上がった3Dホログラム映像ドローンを眺めた。

  周りは自分と違って完成したドローンを使う準備に入っていた。

  八房くんと牛瓦は無線でPCと繋がったドローンの動作確認を二人がかりで行っていた。

  動作確認の為のホログラム映像が空中に映し出される。果物や動物、ジャンル問わず様々な物体が投影される。

  それは目の前に現れたかと思うと、溶けるように消えていく。

  どれも実物と見紛う程精巧なものだ。きっと誰かさんの裸体も美しく表示出来るんだろうなぁ。

  「百瀬、顔がにやけているぞ」

  機械が空中に投影する映像を見ながら頬を緩めるわたしを注意する牛瓦の声色は珍しく困惑していた。

  その黒曜石よりも黒く美しく輝いている瞳、それを彩る無骨な眉をハの字にして話しかけてきた。

  「あぁ……ごめんごめん。これでやっと仕事が再開出来る」

  にやけきった顔を手を使い頑張って真顔に戻すと、三流悪役のように揉み手をしながらドローンを見直した。

  「さて、始めますか。八房くん、虎林くんの生体モデルを表示させてくれ」

  「分かりました」

  「全身じゃなくて脳の部分をお願いね」

  八房くんの、削られ、研ぎ澄まされた氷の刃を思わせる冷静な声がわたしの耳に届いた。それを聞いて自然と心が引き締まるのを感じ、身を固くする。

  わたしが態度を変えてから数瞬の後、再び光がドローンから放射され、虎林の脳のホログラム映像が一瞬の輝きとともに目の前の空間に現れた。

  波長の違う光の重なりが奏でる色彩が、目の前にもう一つの現実を構築する。

  見やすいようにクリアカラーで構成された脳のホログラムは宝石を思わせる美しさを持って空中に浮かんでいた。あくまでその詳細を知らなければ、美しい光景だろう。

  まだ何もデータを重ねていないまっさらな状態のそれをわたしは見下ろす。

  「一応確認しておこう」

  ホログラムに手をかざし、指先をかき回すように動かすと、ホログラムはわたしの指の動きを追従してくるくると回転した。

  わたしはそれに対し満足げな笑顔を浮かべた。

  「気は済んだか?」

  「うん。八房くん、これにマインドカラーを着けてからの虎林くんの脳の活動計測と脳内物質分泌量のデータを重ねてくれ」

  それを口にしてからすぐに、目の前の映像に異質な色彩が現れる。

  必要なデータを選択し、それだけを表示させたからだ。

  目の前には虎林くんの感情の動きとも言えるその色は、強い活性を示す炎のような赤だけが存在していた。

  まるで頭の中を焼き尽くすように広がっていく。勢いを潰され何度踏みにじられ消されかけても燃え上がる火事にも似た光景。

  彼の脳内でもがく疑似電気信号もまた、強い感情に効果を塗りつぶされかけながらも負けじと効果を現し、彼の感情の平常化に努めていた。

  「やっぱり精神操作を受けた状態でこれはおかしいよ」

  ホログラムをズームし、彼の脳を注視する。

  感情制御が行われても、すぐに燃え上がるように真っ赤に染まる彼の頭の中。

  脳幹から異常分泌されたノルアドレナリンが、頭の中を凄まじいスピードで怒りに染め上げている。通常とは違う環境に放り込まれた事を加味しても、今の彼は異常だった。

  「今までに前例のない状態である事は確かだな。記憶を司る部分が強く活性化しているのにも注目すべきか」

  牛瓦が自らのうちに溜まった熱を排熱するような熱い息を吐いた。成熟した雄の匂いがわたしの嗅覚を刺激する。

  「……っと、それじゃあ彼は何かを思い出して、それで我々に反抗しているって事か?」

  脳の活動計測を見てみると、確かに言われた部分が強く活性化している。

  海馬、前頭葉、側頭葉、いずれも人間の記憶に大きく関わっている器官だ。

  記憶と感情は強く結びついている。何かトラウマレベルの出来事を思い出しているとすれば、虎林の反応にある程度納得はいった。

  「可能性の一つとしてはあるだろう。精神操作を受け付けないレベルの感情の爆発を生み出すのは容易じゃない」

  と言うより、普通はありえない。わたしは心の中でそう付け加えた。

  今の彼は、自らを捉えようとする枷に対して、力づくで反抗している状態だ。装置が送る疑似電気信号で抑えきれない程の感情の爆発によって、その戒めから一時的に脱却している。

  頭の中にもう一人の誰かがいて、それらがわたし達に抵抗しているようにも感じられる、不気味な現象だった。

  「彼の表情や態度から鑑みて、彼の中に存在する一番可能性の高い感情は―――」

  「怒りや憎しみ……?」

  牛瓦の一言を奪い取り、わたしが続ける。

  彼の内に存在する炎、それを燃やす燃料となっている薪はどす黒い闇の感情なのだろうか? その揺らめく心の奥底に潜む精神の柱。激情に焼かれながらも天に向かってそびえる人間としての芯。

  わたしはそれに触れなければならない。たとえこの身が焼き尽くされようとも、炎の中で目を見開いて手を伸ばし、見極めなければならないのだ。彼の人としての本性を。

  虎林くんの瞳の中に見えた輝き。それは人々を守る為に戦う事を決意した高潔なる獣の魂の輝きなのか、それとも自らのうちに存在する残虐な獣の牙がきらめいたものなのか、疑問は尽きなかった。

  彼の精神を守るバリケードとして作用している憎しみのをぶち壊す為に。道なき道を進む事だけは分かっていた。

  「虎林くんの過去って、平凡凡々な感じで何も無いんだけどなぁ……」

  「むしろそこがキモなのかもしれないな」

  牛瓦のここでは無い遠いどこかを見通すような発言にわたしは眉をひそめた。彼は自らの黒い毛並みを整えて、その瞳の輝きを一層確かなものにしながら虎林の方を向いていた。

  「どういう事?」

  「本当に平凡な奴が、悪人に対抗出来る戦士になれると思うか?」

  「正義の味方ってのは、悪人と同じで誰でもなれるものだろ?」

  牛瓦は時々訳の分からない事を言う。今回だってそうだ。人を助けたい気持ちに理由はないだろうに。そんなわたしの言葉を聞いて馬鹿にするでもなく彼は答える。

  「俺は時々お前が理解出来ないよ」

  「いやあどうもどうも」

  「褒めてないぞ」

  牛瓦の瞳が目標を見定めたもの特有の強い輝きに包まれた。こちらに向き直ると、その体躯を震わせて力強い言葉を紡いだ。

  「だが、これは我々に都合がいい事実だ。奴の精神を開く必要があるこちら側にとってな」

  それは、悪魔の言葉。

  「まさか牛瓦、それって……」

  わたし達をまとめ上げるリーダーは、屈強な黒牛。彼は多くを言わずとも察し、驚愕の声を上げたわたしを見て頷いた。

  「トラウマを利用してヤツの精神を壊し、マインドカラーによって精神を組み直す」

  それは、虎林の精神を殺すという事だった。信念の死を告げる死神と化した目の前の賢者は、その瞳に憐憫の光をたたえてガラスの向こうに目をやった。

  「でも、そんな事をしたら虎林くんの体が持たないかも……」

  「相手は市民の生活を守る為に無限責任を負った者だ。並大抵の事では肉体的にも精神的にも折れない。こちらもギリギリまでやらなければ勝利はない。それに上は事態の早期解決を望んでいる。相手の精神に存在する穴を突くのは合理的な判断だ」

  言葉からはどんな手を使ってでも絶対に目的を達成するという鉄の意思が感じ取れた。自分の口から出た言葉は阻まれ、届く事はなく地に落ちた。

  「お前が昔やったように、あいつも組み立てなおしてやればいい。亡骸に新しいいのちを与える事が出来るのはお前だけだ」

  彼の言葉は身内には厳しく、敵にはとても厳しい。目の前の黒い巨人は八房くんに視線を送ると、こちらに視線を戻した。

  「そろそろ約束の一時間が経つ。虎林は落ち着いただろう。それでだ―――」

  その言葉にわたしは飛び上がるように返事をした。

  「あぁ! ありがとう牛瓦!」

  わたしは会話を断ち切るように立ち上がり、八房くんがこちらに反応するより早く、虎林くんの資料と飲みかけのコーヒーを取ろうとした。だが、それは他者の手によって阻まれた。

  「待て、百瀬」

  彼はわたしの脂肪がついてきた腕をがっしりと掴んだ。骨張った手のひらが私の筋肉を包む柔らかい肉を潰し、船の錨のようにその場に縫い止める。

  「何だよ牛瓦……」

  さっきもこんな事あったななんて思いながら、彼を見つめる。牛瓦の腕は力が入っていたから熱く筋張っていた。強い力で握っているのはわたしがここから抜け出せないようにする為だろう。彼はどうしても話を聞いてほしいようだ。

  「聞きたくないだろうが話を最後まで聞け」

  相手に言い聞かせるように、確かにゆっくりとした口調。まるで泉に張った氷の上を壊さないように、落ちないようにゆっくりと進む冒険者のような慎重な息遣い。

  必然的に、わたしが嫌がるような事を言うんだろうなと察しがつく。

  「とりあえず、提案について聞くよ。気乗りしないけど」

  兎にも角にも、話を聞かなければ何も始まらない。わたしはイヤな予感に全身を舐め回されながらも、体をよじり牛瓦の方へ体を向けて、首をちょこんとかしげて見せた。いつも通りのわざとらしく戯けた態度。牛瓦は話を聞く準備が整ったと判断したんだろう。内心戦々恐々としていたわたしに向かって、先程と同じ調子でとんでもない事を言ってきた。

  「今回は八房と俺が行く」

  自分でも露骨に顔が歪むのがわかった。きっとひどい顔になっているだろう。やっぱりという気持ちもある。思わず八房くんに視線を送る。そんな様子は想定内だったようで、牛瓦は目すら合わさず八房くんに了承を取った。

  「八房、やってくれるか?」

  「……問題ありません」

  「八房くん……!?」

  その必要最低限の受け答えで、逃げ道がどんどん塞がれていく。

  「八房が虎林の相手をしている間、お前は虎林の様子をしっかり見ておけ。やつの反応から心の中を探るんだ」

  「でも、マインドカラーの条件付けは……」

  今設定されているマインドカラーの作動条件は、『百瀬玲緒を認識する事』なので、わたしが居ないと作業が滞ってしまう問題があった。牛瓦のやり方を実践するにも、相手が暴れてはスムーズには行かないだろう。

  牛瓦は渋るわたしを打ち据えるように言葉を発した。

  「それが狙いだ。マインドカラーのコントローラーではない俺と八房で、虎林の精神を打ちのめす事が出来れば、確実にヤツは壊れる。お前のやり方を甘いと思った事はないが、今回は俺達にやらせてくれ」

  こちらをまっすぐ見つめる彼からは、悪意は欠片もない。そこにあったのは、ただ多くの悲しみを取り込んだような深い色の眼があるだけだった。

  「いい警官と悪い警官作戦だって事?」

  「まぁ、かいつまんで言えばそうなるか」

  牛瓦の腕に手を沿わす。その腕は力強く静かで、まるで巨木のようだ。

  「フレイムタイガーである虎林大吾は俺達に殺意にも近い憎しみを抱いている。それを利用するのを、お前は良しとしていないんだな」

  「わたしは理由が知りたいだけ。虎林くんの戦う理由が」

  どのみち拒否権はない。彼の腕から手を離すと、わたしの腕の拘束も解けた。そのまま牛瓦から目線を外し、八房くんを見る。

  暗闇で光る空色の瞳とわたしの琥珀色の瞳、二つ視線が交錯する。

  「持っているものを渡してくれるかな?」

  目の前の白狼は無表情で、そんな彼に笑顔を向けて声をかける。八房くんは揺るぎなく美しい動作で、持っているものをこちらに寄越してきた。両手が自由になった彼は直立不動の姿勢でわたしと対峙する。

  「牛瓦のやり方は難しいと思うけど、きみならうまくやれると思う。彼の指示に従っていれば失敗する事は無いよ」

  「分かりました。ドクター百瀬」

  その声に変わりはない。だが八房くんは知らない、牛瓦の苛烈な『尋問』を。その点だけが不安で、わたしの心を掻き乱した。美しい狼の毛並みに触れたくなった。自分のほうが混乱しているみたいだ。

  「頼りないドクターでごめんね。八房くん」

  「……何故貴方が謝るのですか?」

  それは自分にも分からなかった。内心牛瓦に嫉妬しているのだろうか?

  彼の尋問は情熱的だ。八房くんに酷い事はしないと思うが、彼は目的の為なら何でも出来る人でもある。そして目の前の白狼はそれを受け入れてしまうかもしれないからか?

  「さぁ……? とにかく、頑張ってね」

  わたしはこれから戦場になるであろう虎林のもとへ、愛する狼を送り出した。

  

  *****

  

  空気の排出音と共に、ドアが開く。その音は絶望を運んでくる。入ってくるヤツも同じだ。あの会話から一時間後、宣言どおりにドアは開いた。あのいけ好かない獅子獣人の顔をまた見るのだと思うと、煩わしさと共に怒りがこみ上げてきた。

  何を話すのかは分からないが、どうせくだらない与太話だろう。怒鳴り続ければいつか手に負えない野獣として処分されるのだろうか。

  そのほうが希望がありそうだ。そう思ってしまう自分が恨めしい。

  近づいてくる足音、俺はドアから顔を背けたまま、ベッドの上でその音に耳をそばだてた。

  あの奇妙な科学者とは違う、大地を踏みしめる巨人のような足音。よく聞くともう一人いる。これも違う。雪原を踏破する獣を思わせる慎重な足取り。こいつは―――

  自由に動くようになった体を動かして身を起こす。それを視界に捉えた瞬間、顔が歪むのが分かった。

  「八房……透……」

  ドアの前にいたのは、雪のように白い狼だった。その巨躯を体毛と同じ服に包み、その整った容貌に無表情を纏い、こちらを見つめている。まるでケージの中の実験動物を見るみたいに。

  そしてその横には、八房以上の巨体をもつ牛獣人が立っていた。見るだけで良い暮らしをしていると分かる美しい毛並み、手入れされた純白の角。その体をボタンを留めた白衣に包んで八房の隣に立っている。そのごつい顔立ちは、八房が隣に居る事で険しさのレベルが上がっているように見える。

  気になる部分は何故か裸足でサンダルを履いているという点だが、今はどうでもいいだろう。

  「虎林大吾、直接見ると案外小さいものだな」

  牛の男が八房と一緒に近づいてくる。その声はあの百瀬とか言う男と違って重厚で、うちに秘めた意志の重さを感じさせた。

  あのとらえどころの無い、跳ね回る子供みたいな百瀬とは正反対だ。

  その声色はどこか皮肉を含んでいて、俺の精神を掻き乱す。

  ベッドから降り、近づいてくる彼らに対して、真正面から対峙する。

  「自己紹介もなしに、いきなり何言ってやがる」

  「おっと、そいつは失礼した」

  変に心が落ち着く事はないし、犯罪者に対して極めてナチュラルに対応出来た。ふつふつと湧き上がる怒りが消える事はなかったが、なんとか押さえ込む。

  「俺は牛瓦京一、百瀬と同じ組織の科学者だ。そしてこちらは、お前も知っている八房透」

  不敵な態度を崩さない牛瓦の簡素な自己紹介。茶番にも程があるが、相手の様子を見るには十分だ。この男には、百瀬とは違った得体の知れなさがあった。

  思わず身構えた俺に対して、牛瓦はその意気や良しと言いたげに鼻を鳴らした。

  「お前に話がある」

  服の上からでもわかる筋骨隆々な肉体は科学者らしからぬ重量感だ。彼から発せられるオーラは間違いなく強者のもの。警戒態勢を解く事は出来ないと本能的に感じる。

  「話す事は無いと言ったつもりだったんだがな。あのオッサンに」

  その言葉を聞くと牛瓦は口だけを歪め、押し潰したような笑い声を漏らした。

  「威勢が良すぎるのも考えものだな。まぁいい、俺は話す。お前が聞いていてもいなくても関係無くな。ただそこにいるだけでいい」

  分かっていた事だがこいつの行動に俺の意思の介在する余地はないらしい。病衣のまま戦闘態勢を崩さない自分に向かって、目の前の屈強な牛獣人は眉根一つ動かさずに言葉をぶつけてきた。

  「まず最初に、お前をここに監禁している理由だが、お前の類稀な戦闘能力を我々の組織に組み込む為だ。虎林大吾、お前の戦いぶりを組織の上層部は高く評価している」

  俺を気にする訳でもなく、ただ淡々と事実を告げていく。側に狼を眷属のように従えながら、まるで王のような振る舞いだ。

  「そんな事を俺に言ってどうなる。俺はお前達の仲間になる気はない」

  「逆に聞こう。なぜ協力しない?」

  「アンタと議論をするつもりもない」

  釣れない答えに相手が肩をすくめる。だが欠片も響いてないようだった。

  「成すべきを為すという事か。高潔だな」

  その言葉は裏に含みがあるようで気持ち悪い。暗に違うと言われてるみたいだ。

  「何が言いたい?」

  「いいのか? 俺と話して。話す事など無いと言っていたのに」

  「うるさい……!」

  「お前の瞳を見て、百瀬は美しいと言った」

  目の前の男がとてつもなく強大に感じる。黙々と聖書を読み上げる聖者のように、力強く重苦しい存在感を示している。俺は八房を忘れてヤツの周囲をじりじりと移動し始める。広い場所に移動しようとした。

  「だが、俺はそうは思っていない」

  「そうかい、光栄だね」

  相手はその太く骨ばった指で、身を包む白衣のボタンを一つずつ外していく。布と布がこすれる音と、俺の素足が床をこする音だけが辺りに響く。

  そうして、全てのボタンを外したその姿を見て、俺は驚愕の表情を浮かべた。バサリ、という音がしたと思うと牛瓦の白衣がグリッドだらけの床に落ちた。

  その姿は、科学者としては異常としか言いようがなかった。白衣の下にブーメラン水着一丁という変態ルックもさる事ながら、体に巻き付いた極限まで鍛え上げられた筋肉が目を引いた。それは呼吸をする度に肥大化し、力を主張する。相手の肉体は厳重に管理された厳しいトレーニングと栄養管理によって実現するものだ。驚きで目が見開かれ、自分の肉体が貧弱に思えてくる。思わず距離を取る。

  「お前はこちら側の人間だ。その炎は、俺達のもとで活かされる」

  「俺がお前達の側にある? 寝言は寝てから言えよ、牛のオッサン」

  自分の中の苛つきが挑発となって口から漏れた。巨木のような存在感に気圧されまいと強気の言葉が飛び出すが、悪の科学者は気にしてはいないようだ。

  「まぁそう言うな。今からそれを教えてやる。この俺が、肉体の実感をもって」

  宥めるような言葉。だが裏側に込められた意志は相手を磨り潰すような険しさを持っていた。本能がそれを感じ取って、自分の体が固くなる。

  「虎林大吾、俺と戦ってもらおう」

  ストレートな挑戦状に目を剥く。思わず牛瓦の瞳を見つめた。

  百瀬と関わった時のような妙な安心感や平常心も、見透かされるような感覚もない。牛瓦の言葉は戸惑いと共に俺の中に届いた。

  「ふざけてんのか? こんなものを付けておいて戦えだなんて」

  首につけられた機械を指差して話す。おそらくこれは俺が暴れないように体の動きを制限する忌々しい呪縛の証。牛瓦がなぜこんな提案をしているのかは分からないが、話を聞くついでに挑発する。

  「お察しの通り、その機械はお前を大人しくする為のもの。だが安心しろ、俺に対してその装置は機能しない」

  あっさりとその事実は肯定される。そして相手の言葉を鵜呑みにするなら、今だけ俺はこいつを好きなだけぶん殴る事が出来る。情報の少なすぎるこちらにとって相手の提案はとても魅力的だった。何かカードを切れるかもしれないからだ。だが―――

  「信用するつもりも無い。一体何のつもりだ?」

  「虎林大吾、駆け引きなどよせ。拳で語り合うほうが性に合っているのだろう? それに俺はお前に嘘をつく必要がない」

  「お前の言っている事が本当だとして、断ったらどうなる?」

  「ただ黙って殴られていろ。選ばないという事はそういう事だ」

  どちらに転んでも俺の未来は暗いようだ。恐ろしい程にこの事態を他人事のように捉えている自分が頭の中にいた。

  あくまでニヒルな態度を崩さない牛瓦、怪訝な表情を浮かべ続ける俺。お互いの思惑が絡み合う。目の前の巨人は一層皮肉を効かせた笑みを浮かべると、隣に控える八房に向かって言葉をかけた。

  「二対一では分が悪いだろう。八房、お前は控えていてくれ」

  「かしこまりました、ドクター牛瓦」

  その声を聞いて顔が歪むのを感じる。八房の瞳は俺を捉える事なく景色として映していた。あのバイザー越しに感じた凍気のような眼差しを思い出すだけで苦々しい。何かがヤツを変えた。俺もそうなるのか? 牛瓦は俺を瞳の中に捉えて、くつくつと笑う。

  「そんなに八房に相手にしてもらえない事が悔しいか?」

  「黙れ……!」

  「嫌なら殴ればいい。お前にはその権利がある」

  それを聞いて、自分のうちに眠る獣が雄叫びを上げた。体が怒りでなわなと震え、牛瓦の言葉で戦いが始まる事を直感する。ぴりぴりとした空気が毛並みを毛羽立たせた。

  「安心しろ。八房はすぐに見る事になるだろうからな」

  その言葉に反応せず、ただひたすらに位置取りに精神を割いた。侍が間合いを図るように、元いた場所から離れて動きやすい最適なスペースを作り出そうとする。

  そうして、止まる。俺と牛瓦は互いに間合いを図りながら、部屋の中央から少し外れた位置にまで移動していた。

  頭の中で危険信号のアラートが鳴り続けている。気づけば周りの空気は火薬庫みたいに張り詰めていた。いつ爆発してもおかしく無い一触即発の雰囲気の中、落ち着き払った牛瓦の声だけが響いていた。

  一瞬が永遠に引き伸ばされたような感覚に陥る。高まった集中力が生み出す世界の中で俺達二人は見つめあい、その時を待った。

  「お前が壊れる瞬間を」

  開戦の火蓋を切って落としたのは牛瓦だった。その言葉が始まりのゴング。離れた状態で二人同時に走り出し、距離を詰めた。大地を貫くような足音を響かせながら、牛瓦が迫ってくる。漆黒の毛皮と相まって、悪魔のようなフォルムを現しながら。

  今まで出会ったどんな敵よりも速いスピードで迫る黒牛の懐に、姿勢を低くして潜り込む。俺は拳を固く握って、鳩尾に狙いを定める。影が視界に覆いかぶさり、世界を暗く染める。俺は目の前の相手に向かって、敵意を開放した。

  「ぬぅん!」

  「うォらッ!」

  強く足で大地を踏みしめ、敵の急所に向けて渾身のストマックブローを放った。対する牛瓦は頭を狙った正拳突き。俺はその豪腕から放たれた黒い閃光をすんでの所で避け、自身の攻撃を直撃させる。相手の拳にかすった体毛が、少しの痛みとともに千切れ飛んだ。

  鈍い音が響いた。肉と骨が重なり合った打撃音。確かな手応えが拳を揺らした。

  俺の拳は正確に倒すべき敵を捉え、打ち抜いていた。鎧のような筋肉に牙を突き立てるように、拳はねじ込まれている。

  これで相手にダメージを与えられた。そう思い顔を上げると、そこには苦悶の表情一つ浮かべていない牛瓦の姿があった。

  「俺の拳を避けるとは、やるじゃないか。ヒーロー」

  「!?」

  相手は驚愕のあまり固まった俺を見下ろしている。人体の急所にクリーンヒットした筈なのに、全く効いていない。そして気づく。

  目の前にあるのは百瀬のような真綿で首を絞めるゆったりとした闇ではなく、強大な知性と、それによって管理された凄まじいまでの暴力なのだと。牛瓦は突き出した拳を腕に血管が浮かぶまで力強く握り込んでから、満足したように開いた。

  頭の中で防衛本能が叫び声を上げた。跳ねるように後ろに下がる。自らの間合いギリギリで下がるのをやめる。

  「……クソッ」

  自分の力を確かめるように拳を握った。そして確信する。目の前の相手は自分より強いという事実を。背中に嫌な汗が伝うのを感じた。

  この戦いに意味はない。何をやっても状況が好転する事はない。だが黙ってやられる程まだ絶望してはいなかった。

  ちっぽけなプライドと反抗心が頭の中を駆け巡った。手のひらに残った小さな尊厳を守る為に逃げる事は許されない。湧き上がる怒りを力に変えて、拳を構える。獲物に飛びかかる捕食者の姿になる。

  「やはり軽いな。思ったとおりだ」

  牛瓦はむず痒いと言いたげに身体を掻いた。俺の拳はその程度らしい。艶のある見事な毛並みが指に沿って流れ、腹に深く刻まれたエイトパックが存在を主張する。

  逃げ場のない檻の中は、どちらかが倒れるまで戦いの続くデスマッチを行うリングへと変わった。たった一人の観客は部屋の壁にもたれ、無感情に俺達の戦いを静観している。

  現代に現れた闘技場の中で、強大な敵と対峙する。体を低くし、次に備える。

  「ほぉ……実力差を自覚してなお向かってくるとは」

  どちらかと言えば楽しんでいるような声、獲物を追い詰める狩人の愉悦が染み出していた。得体の知れない感覚が体を襲う。起こしてはいけない怪物を覚醒させてしまった気分だ。今の俺は閉鎖空間で追い詰められた実験動物のようだった。

  「一つ聞くけどよオッサン」

  「何だ?」

  首筋にナイフを沿わされている時のような緊張が精神を揺り動かし、自分を饒舌にしていく。戦いの最中、怒りと興奮が入り混じった状態で会話を重ねた。

  「もしアンタを倒してしまった時はどうするんだ?」

  「あり得ない事を考えるのは時間の無駄だと思わないか?」

  「そうかい! ありがとよ!」

  釣れない受け答えが終わるとともに、俺は素早いステップで距離を詰める。牛瓦は顔色一つ変えずに、一瞬で俺を迎え撃つ為の姿勢を取った。

  腕を顔の前に掲げた前傾姿勢の俺に対し、牛瓦は腰を落とし要塞を思わせる姿になった。

  食らいつくように接近し、胸部に向かい腕を鞭のようにしならせパンチを放つ。牛瓦はそれをすべて受け、衝撃に後ずさった。

  更に拳打を放とうと腕を構えた俺に牛瓦は凄まじい勢いで拳を放つ。腕の形を捉える事も困難なスピードで右フックが振るわれ、襲いかかる俺の意識を刈り取ろうとした。

  だがこちらも甘くはない。拳の進路を妨げるように肘を跳ね上げ牛瓦の腕に当てる事でパンチの軌道を逸らし、腕同士を絡ませて自分の脇に抱え込んだ。

  「ほう……」

  その状態で相手の鳩尾に連続して拳を振るった。俺の拳を軽いと言った牛瓦も、連続攻撃によるダメージは免れないだろう。

  鈍い音が連続して辺りに響く。

  「面白い事を……してくれる!」

  「所詮は科学者だな! ケンカのやり方がなってねぇ!」

  牛瓦は懐に入り込んだ自分に驚きのあまり満足な反撃をする事が出来ず、拳打を食らい続けた。離れようと動いてもいたが、脇下に挟み込まれた腕を開放する事は出来なかった。

  「ぐっ!」

  苦悶の声を漏らす牛瓦。腹から空気を叩き出すように拳をねじ込んでいるからか、その呼吸は乱れていた。

  「だが、条件はそちらとて同じ事だ」

  こちらに向かって拳を振るおうと拳を引いた。避けるには腕を解放し、距離をとるしかない。でも今ここで相手から離れてしまっては折角のチャンスが台無しになってしまう。この茶番に一撃を加え、ぶち壊すチャンスが無くなってしまう。なら、取る選択肢は一つだ。

  俺は相手の腕を脇から解放すると、姿勢を低くして体を翻し、相手の巨体に潜り込んだ。ぴったりと密着した状態になる。

  「まさか……!」

  「これなら……どうだ!」

  そのまま牛瓦の勢いを利用して一本背負いし、グリッドの走る床に叩きつけた。

  巨体が床に叩きつけられた瞬間、建物が倒壊したみたいな音と衝撃が部屋を揺らした。

  牛瓦は大の字で寝そべるようにダウンし、立っているのは自分と部屋の隅でこの戦いを見ていた八房だけになった。

  相手の体の重さとこの床の固さなら、大ダメージは免れないだろう。

  あの状況で辛うじて受け身はとったものの、まだ本調子ではない牛瓦に対し素早く馬乗りの状態になる。病衣越しに感じる筋肉はやはり固かった。

  この距離なら確実に意識を刈り取る事が出来る。いつでもこの茶番を終わらせられる。俺は右の拳を握り直し、目の前の敵にいつでも放てるように準備を整えた。

  「遊びは終わりだ。牛瓦京一」

  相手の鼻先に拳を突きつけながら話す。ヤツの瞳が正確に俺を捉えた。

  「目論見が外れたな。俺は壊れてないし、アンタはご覧の通りぶちのめされている」

  俺の言葉を聞いて、牛瓦の厳しい顔が歪んだ。だがその顔に負の感情は浮かんでいなかった。相手の表情に不気味さを感じて怪訝な表情になりかける。

  俺は相手に飲まれてはいけないと、気を取り直して険しい顔をする。

  「獲物を前に勝利宣言とは……笑わせる」

  ヤツの口から笑い声が漏れた。鋼の筋肉に覆われた漆黒の肉体が揺れる。無機質な空間に反響するのは、地獄の底から聞こえてくるような底冷えする笑い声。相手はこの状況を楽しんでいる、俺はそう直感した。

  その原因は諦めか? ダメージのせいなのか? 態度のわりに反撃ひとつしない相手の考えは全く理解不能だった。ダメージが残っているのか、少し苦しそうに話す牛瓦に、俺は反論する。

  「こんな茶番、続けても無駄だ。俺は壊れない。アンタ達に魂を売り渡すくらいなら、死んだほうがましだ」

  「魂を売り渡す? おかしな事を言う」

  「何がおかしいってんだ!」

  苛立ちが拳を揺らし、怒鳴り声が室内を飛び回った。ヤツの息がかかる度に、ぶん殴って終わらせたい思いに襲われる。それでもなお、目の前の牛獣人は余裕の態度を崩さなかった。

  「俺から何を聞き出したい? 勝っても負けても自分の状況が変わらないと分かっているのに、それでもこうしているのは自分の尊厳を守り、かつ俺と話したいからだろう?」

  心がざわつき、相手が自分の体にある大事な部分に触れているような気持ち悪さが襲った。

  「組織の科学者風情を叩きのめしたところで状況は変わらん。むしろお互いに悪くなるだろう。お前が聞きたいのはそれか?」

  「じゃあ聞いてやる。何故だ? 何でこんな事をする」

  「最初に言った通りだ。お前の精神を解き明かす為」

  やはり意味不明だ。俺の心は間違いなくそちら側にないというのに、そんな事に時間をかける相手の心理を理解する事が出来なかった。そんな俺の状態を見抜いたのか、牛瓦は言葉を続けた。

  「拳を交えて分かった事がある。それだけは言っておこう」

  自分自身のプロファイルなど知りたくもなかった。

  「後は八房の事か」

  「……黙れ」

  「アイツの事は百瀬から聞くといい。八房にゾッコンだからな」

  あのうざったらしい獅子獣人から話を聞かなければいけないと思うだけで、精神がごりごりと削られる気がした。

  「後は……」

  言葉を重ねようとする牛瓦を止めようと拳に力を込めた。相手の顎に狙いを定める。力を込めて腕を弓のように引き絞り、その力を蓄える。そして牛瓦が続きを話そうとしたその時、力を解放した。

  変わらぬ態度の牛瓦に向かって、高速の拳打が迫る。だがそれを、牛瓦はそれをなんなく受け止めた。

  「まだ戦いは終わっていないという事だ」

  その声は今までよりいっそう険しく耳に入ってきた。受け止められた拳は万力に挟まれたかのようにびくともしない。明らかに力が上がっている。再び驚愕の表情を浮かべた俺に向かって、ヤツは淡々と告げる。

  「いい準備運動だった。礼を言わせてもらう」

  なんだこの男は? 得体の知れない気持ち悪さが俺を支配した。かなりのダメージを与えた。鍛えていても、すぐに動く事なんて出来ない位思いっきりぶん投げた筈なのになぜ動ける?

  相手は間違いなく生身。改造なんてされていない自分と同じまっさらな肉体の筈だ。あり得ない、目の前の人物は自分の想像を遥かに超えていた。

  「ぐっ……!」

  「さっきまでの威勢はどうした? ヒーロー」

  そう言うと、目にも止まらぬスピードで視界が逆転した。牛瓦が常人離れした力と体捌きでマウントを取り返したのだ。全身に寒気が走り、何としてでも逃れようともがく。だが全てが遅かった。臀部にヤツの下半身のがのしかかり、確かな重みと肉の硬さが俺を床に縫い付ける。

  「これ……はっ!」

  「逃れられるか? ヒーロー」

  その声にははっきりとした嘲笑の色が含まれていた。お互いに息がかかるくらいに顔が接近する。肉の呪縛に囚われた俺は、この状況を何とかしようと牛瓦の太い首に左手をかけて力を込めた。

  室内の光に照らされて、相手の体が影になり不気味な姿を現す。死神のようなそのシルエットは、今までの出来事と合間って俺に絶望を与える。

  「この戦いはお前が壊れるまで続く。お前に勝利などない。あるのは、敗北だけだ」

  首を絞めても全く揺るがない声。自分の攻撃や反撃のすべては、こいつにとって児戯に等しいものなのだと理解する。

  牛瓦の右手が筋肉の筋を表しながら握り込まれ、その腕全体にビキビキと強い力がみなぎった。

  「大人しくしてもらおう。なに、少しの辛抱だ」

  「グゥウ……ッ!」

  ヤツの黒曜石のような瞳は影の中でも輝いていた。俺はその中に暴力と、深い悲しみの色彩を見る。拳が振り下ろされ、俺の腹を衝撃が貫いた。内臓がひっくり返るような痛みとともに、体全体にそれは広がった。

  痛みが絶望とともに全身に染み渡り、指先に至るまで張り巡らされた神経を殺していく。

  あまりの痛みに蹲りたくなるが、上にのしかかる黒牛がそれを許してくれない。肺の空気すべてを吐き出して朦朧とする俺を見て満足したのか、牛瓦は俺にのしかかる事を止めて立ち上がる。

  ぼんやりとした視界の中、牛瓦が自分を跨いだ状態で見下ろしているのが見えた。ヤツのブーメラン水着に包まれた下半身を見上げる事になり、見たくもない相手の巨根を意識させられる。

  「ふむ……少しやりすぎたか?」

  そのまま俺の体を跨ぎ越え、こちらから見て右側に移動すると、牛瓦はまともに動けなくなった俺の体にさわさわと触れる。

  「く……そ……!」

  その言葉は相手に届かない。何とかもがこうとするが、体に浸透したダメージのせいで上手く体を動かせない。逃れようとして当てもなく伸ばした腕があちこちに当たる。牛瓦の鍛え上げられた肉体を意識せずに触ってしまう。丁寧なブラッシングがされた牛瓦の毛並みに触れるたび、相手に一撃を加えたくなった。

  牛瓦が手を止める。

  「ふむ、やはりこうなる事を見越してキングサイズを頼んでおくべきだったか……まあいい」

  何とか寝返りを打とうとする。冷たいタイルの感触が痛みに対して悶絶していた俺を包み込んだ。様々な要因で無気力になりかけながらも、何とか心の底で燃えている怒りの炎に見を投じる。

  怒りで体の痛みが引いていくのが分かった。頭が一つの感情でシンプルに整理され、張り巡らされた負の思考を破壊していった。

  手のひらを握ると、手の内側に爪が食い込み、鋭い痛みを生み出した。打ちのめされ、こんな事しか出来ない自分。あまりの情けなさに声が漏れる。

  「まだ……まだ終わってない!」

  くらくらする頭を怒りで無理矢理働かせる。

  体を動かして床上にうつ伏せで寝そべった俺は、悲鳴を上げる体を制御し立ち上がろうとする。怒りの余り、百瀬に掴みかかりかけたあの時のように。負けてたまるかという言葉が頭の中を飛び回り、あちこちにぶつかって反射していた。

  「俺は……まだ!」

  頭の中で次の一手を考える。どんな攻撃が来ても対応出来るように。折れる事は許されなかった。そんな状態で四つん這いになった俺を、牛瓦が腕を使って押さえつける。

  「そうだ、まだ終わってはいない」

  そのまま強い力で肩を捕まれ、床を転がすように再び仰向けにさせられる。

  「始まったばかりなのだからな」

  牛瓦が立ち上がった状態から膝落としを繰り出した。

  自由落下のスピードと体重によって生まれた破壊力が腹に突き刺さり、俺は再び苦悶の声を上げる。

  「グァアアァアアア!!!」

  あまりの痛みにのたうち回りはじめた俺に牛瓦が覆いかぶさる。優位性を示すようにマウントを取り、動きを制限してから片腕をこちらに伸ばしてきた。

  とっさに防御を取ろうとするが、体は動かない。そして、自分の予想より違う場所にそれは伸ばされていたから、あっさりと相手は目的を達成する。

  牛瓦は俺の体を包む病衣を掴むと、それを勢い良く引きちぎった。

  病衣の下は何も着ていない。文字通り下着すら着ていないのだ。いきなりの行動に狼狽えつつ、俺はどちらかというと叫び声に近い怒鳴り超えを上げた。

  「何しやがる!?」

  「八房」

  俺の声は届かない。目の前の黒牛は、自分とは正反対の色彩をもつ白狼に声をかけた。

  八房のいる方向へ目を向けると、静かにこちらへ歩み寄ってくる姿が見えた。

  そいつは牛瓦の脇にまで近づくと、感情の感じられない冷徹な声色で話し始めた。

  「ドクター牛瓦、命令を」

  「ベッドのサイズ発注を間違えたようだ。医療用でなくていい、次までにキングサイズを頼んでおいてくれ」

  「かしこまりました」

  その言葉を聞いて何をやるか、嫌な予感が頭を駆け抜けていった。

  「まさか……むぐっ!?」

  言葉を言い終わる前に、牛瓦が両腕を押さえ、ヤツの唇が俺の唇を塞いだ。

  いきなりの出来事に反応出来ずに、口内に侵入を許してしまう。

  牛瓦は俺に生まれた一瞬の油断を見逃さなかった。極めてスムーズな動作で接吻を成功させたのだ。俺は相手の雄臭くごつい顔立ちが近づいてくるのを、止める事が出来なかった。生温かい感触とともに、軟体動物のように柔らかい何かが入ってきた。

  ―――びちゃっ、じゅるっ……くちゃっ

  柔らかいものが自分の体内を動き回る音。驚きのあとに訪れる不快感に身を震わせた。

  「や……じゅる……ろ」

  その老獪と言いたくなる程のテクニックが、気持ち悪さを加速させる。至近距離で絡み合う視線。心の奥底を探るように貫くそれに背筋を寒くしながら、俺はこの責め苦に反抗する。

  不思議と絡み合って離れない舌から開放される為に体を動かして抵抗した。牛瓦の口から絶えず送られる唾液が俺の口腔内を穢す。唇をずらそうと頭を動かしても、追従する牛瓦から逃れられずされるがままになってしまう。

  追い打ちをかけるように押しつぶされるようにお互いの体が重なった。体全体で床に固定され、その重さによって元からゼロに近かった自由を更に奪われる。

  牛瓦が俺の口を蹂躙していく。送り込まれる雄臭く熱い息が鼻から抜ける。歯の内側をなぞるように動く舌。口の端から溢れ始める唾液、全てが俺の反抗心を刺激すると共に、辛うじて残った人としての尊厳を破壊していく。

  「んん゛……ぐっ! ぶはっ!」

  唇が開放されるとともに絡まり合っていた舌も抜け、それと一緒に俺の中の体力もごっそり抜け落ちる。

  そして、幾ばくかの自由を獲得した俺は目の前の人物に向かって怒鳴り散らした。

  「てめぇ……! 何のつもりだ!」

  それを聞いて察しが悪いと言いたげな嘆息を漏らした牛瓦に対し怒りがこみ上げた。

  「何度も言わせるな。お前を壊す為だ」

  暴力的なニュアンスをたっぷり含んだ背筋も凍るような言葉を、まるで夕食のリクエストをするみたいになんの感慨もなく言ってのける牛獣人に驚きを禁じ得ない。

  「それに壊れるにしろ死ぬにしろ、苦しむのは嫌だろう?」

  牛瓦は返事も聞かずに、覆いかぶさった状態で俺の胸を弄った。太く、艶のある指が草をかき分けるように毛皮の上を進み、体毛によって守られた乳首を探し出した。

  「んぐっ!?」

  触れられた瞬間に、甘い電流が体を貫いた。まるでマッサージをされるように乳輪の辺りを優しく愛撫されて、思わず声が漏れてしまう。乳首から始まって胸全体を揉みしだくテクニック。どれだけ相手を嫌っていても、快楽は感覚に直撃する。それに反応するように俺の大胸筋が悦びに震えた。

  「せめて気持ちよく壊して、殺してやる」

  「ひッ……!」

  快楽と嫌悪感がごちゃまぜになった不快極まりない感覚が頭の中をかき回した。それは砂糖のように甘く頭に浸透し、毒のように苦く胸を締め付けた。戦いで負けるのとは別種の屈辱が体を支配した。

  コイツは何をしようとしているのか、理解出来るがしたくはない。分かってるけど分かりたくない。理解を拒む自分、状況を飲み込もうとする自分、相反する思考が体の自由を奪っていった。

  そんな俺に出来たのは、無様にかすれた叫びを上げる事だけだった。

  体を動かして何とか逃れようとする。でも結果は火を見るより明らかだ。

  「百瀬の真似でしかないが、案外役に立つものだ」

  「ひっ……ぐぁ……っ……やめっ!」

  「肉体の痛みには慣れているみたいだが……単純に訓練が足りていないのか」

  牛瓦が体勢を変更し、体全体で押しつぶすようにこちらに体を重ねてきた。彼の巨体に全身を押しつぶされ、ヤツの熱い息が顔面と首筋に向かって吐き出され、形容しがたい被支配感が心を覆い尽くそうとする。

  牛瓦は全身を味わうように、重ねた体を器用に動かして俺の下半身に向けてスライドさせていった。

  汗で薄く湿った体毛同士が、その水分によって緩く絡み合い解けていく。まるで元は一つのものだったみたいに滑らかに、しっとりとした質感がダイレクトに伝わってくる。アイツのナイロンに包まれたナニも、熱を帯びた吐息も。その全てが手に取るようにわかった。毛先が擦れ合うたび、その体温を感じるたび、この状況に対する絶望と怒りが湧き上がる。

  俺は客に買われた奴隷のようにじっとする事しか出来ない。ダメージに加えて物理的に肉体の自由を奪われて、捧げ物のように体を牛瓦に差し出す事になった。

  まるでヘビに睨まれたカエル、オオカミを前にしたブタ。鬼畜外道に体を弄ばれているこの状況で、俺はありもしない光景を幻視した。

  「あっ……あああ!……ああッ!」

  牛瓦は体をずらし続け、ついに股間のあたりに顔が到達した。俺の上に乗ってうごめく黒い肉塊から伸ばされた腕が、俺の腹部の毛並みを挑発するようにぐしゃぐしゃにかき混ぜる。貴重なモノを壊さないように慎重に扱うような手つき。それはいつでも俺を黙らせる事が出来ると暗に言っている。

  壊れたように叫び声を上げ始めた俺に牛瓦は心底面白いと言いたげな笑い声を漏らした。

  「どうした? このままではお前はただ犯されるだけだぞ?」

  相手の冷徹な言葉に頭を抱えそうになる。反射的に言葉が漏れた。パニックを起こした思考を整理する事が出来ず、息も絶え絶えになりながら。

  「止……めろ!」

  深海にいるような気分だった。抗えない事が苦しい。弱い自分がただひたすらに憎い。

  牛瓦が両腕を使って俺の脚を持ち折り曲げる。股間に顔を埋めるような体勢になり、俺の恥ずかしいところに熱い息がかかる。それと同時に、背筋を悪寒が駆け抜けた。

  「しかし、鍛え上げられた肉体だ。肉食獣の一族に恥じない、この筋肉……!」

  「気色の悪い!」

  商品を品定めしているかのような口調。憎しみの眼差しで抵抗をする俺などお構いなしに続ける。そして、やつは早々に俺の肉棒に狙いを定めた。

  「特筆すべきはちんぽだ。これなら楽しむ事が出来る」

  「無抵抗の相手をレイプするのかよ!」

  反抗を続けようとした俺の言葉を牛瓦は遮った。

  「お前には抵抗する権利があると言った筈だ。それは変わらない。行使出来るかは別としてな。それに、これはお前にとって有益な出来事でもある」

  肉棒に息が当たるたび、苦しさが胸を締め付ける。部屋全体に広がった退廃的で、実りのない重苦しい雰囲気が体を重くする。

  ヤツは俺の肉棒と玉袋にローションのようによだれを垂らした。

  生温かい液体に晒され、身を震わせた俺の下半身を足を持って押さえつけると、牛瓦はさっきと変わらぬ口調で俺に向かって囁いた。

  「セックスを楽しめ」

  そう言うと、その口の中に俺の肉棒を含んだ。

  「ひぁ……ッ!」

  熱を溜め込んだ肉穴に俺の肉棒は飲み込まれ、今まで感じた事のない快楽が俺の体を襲った。

  牛瓦は舌を使い、柔らかい頬の肉に俺の肉棒を当てる。肉厚の触手と化した牛瓦の舌は口内でエラを張り出した亀頭に唾液を塗りたくり、磨き上げる。

  じゅぼっ! じゅるるぅっ!

  わざと大きく音を立てているんじゃないか、そんな思考がよぎる程下品に、牛瓦は肉棒を口全体で扱き上げた。

  歯が竿と亀頭に当たる度に電流のような快楽が脳天を貫き、俺の精神をどろどろに溶かしていこうとした。

  敵に打ちのめされ、敗北からの征服的なセックス。頭を痛みと快楽に塗りつぶされながら、この暴力に必死に飲み込まれまいと思考をめぐらし続けた。

  「強情な虎だ」

  下半身を顔に埋めていた牛瓦が、竿から口を離してこちらに話しかけてきた。

  「つくづくお前は他人の思い通りになるのが嫌らしい。快楽に身を任せたほうが楽になるというのに」

  「いつまで意味の無い事をするつもりだ!」

  「だが、意味がなくとも気持ちいいだろう? 子種を絞られる感覚というのは。例えばこんな風にな」

  牛瓦のたくましい手のひらが湯気立つ勃起したペニスを包み込むと、ゆっくりと上下運動を始めた。

  「どうだ? か弱い雌猫のように地に這いつくばり、されるがままになる感覚は。自分より強いものに身も心も征服される感覚は?」

  「黙りやが……ぐぅ!」

  牛瓦が言葉を重ねるたび、そそり勃った俺の肉竿が扱かれる。汚らわしい水音を立てながら、毛皮を泡立たせて、精液を鈴口から放り出そうとする。

  時折肉棒によだれを垂らし、いやらしく接吻しながら、俺を墜とそうとする。

  「……ちゅ……ん……貴様は……今から逞しい雄から快楽を求めるだけの雌へと墜ちる。それは変えられない。快楽の輪舞曲の中で理性を砕かれ、磨り潰される事からは逃れられない」

  ぐちゃり、ぐちゃりと音が大きくなり、下半身ががくがくと揺れだす。全身から力が抜けそうになる。

  ヤツのせんずりなんかでイッてたまるか、その思いだけで肉体を制御する。殴り合いとは違う新たな戦いが始まっていた。理性をフル投入して絶頂を抑えようとする。

  「この痴態をお前が叩きのめしてきた奴らに見せてやりたいよ。こんなに情けない姿を晒している事を教えるのはさぞかし楽しいだろう」

  賢者の姿をした悪魔の囁きは続いた。

  「俺は……壊れない! 潰されたりなんかしねぇ!」

  精液が尿道を駆け上がる感覚が強くなっていく。だが必死に踏ん張って耐える。こいつの手の中でぶちまけるなんて死んでも嫌だ。それに、肉体を痛みで鎮められた状態で出来る抵抗などこれくらいしかなかった。

  「虎林大吾、貴様は実に面白い事を言うな。潰されたりしない……か」

  その言葉に反応する余力は俺には残されていなかった。

  竿全体を包み込む牛瓦のテクニックは凄まじい。一番敏感な亀頭を避け、裏筋を重点的に撫でるように刺激してくる。

  自分の手が骨ばっている事を自覚しているのか、敏感な部分に手のひらのゴツく、硬い所を押しあててくる。そのよく手入れされた滑らかな毛皮と相まって、牛瓦の手は雄から精液を搾り取る事に最適化されているようにも思えた。

  終わりのないその責め苦に耐える。イカ臭い匂いの立ち込み始めた室内で、異様な熱気に包まれながら我慢比べを続ける。

  俺の額から汗が流れ、床上に垂れた。室内には俺の口から漏れた声と、肉竿の皮が上下する下品な音だけが木霊していた。

  長引けば長引く程、俺の中で射精欲は強くなっていく。相手は一番敏感なところを避け、誘い込むような手練手管でこちらを快楽の檻に閉じ込めようとする。

  ケツの裏側がキュンキュンとする謎の感覚に襲われ、牛瓦の手が上下するたびに腰が浮き、無意識に快楽を貪ろうとした。

  「ぐっ……ふぅうぅ……!」

  手のひらを大きく握り込んだ。あまりの痛みに高揚しかけていた意識が地上に落ちてくる。肉棒にすべての判断を任せて、相手に対して欲望をぶちまけようとする闇の獣が心の奥に引っ込んでいった。

  大丈夫、そう思った時だった。

  「ふむ、テンポを上げるとするか……」

  そう言うと、牛瓦はねっとりとしたテクニックはそのままに強烈なまでにスピードを上げて俺の肉棒を扱きはじめた。

  「ウァ………アッ!!!」

  あまりの衝撃に築きかけていた精神の安定とバリケードを一気に突き崩されてしまう。上昇していく射精の感覚をなんとかコントロールしようと、脳幹を甘い電流にやられつつも必死でこらえる。

  止めてくれ、気づけば何もかもを忘れてそう叫んでいた。浸透したダメージを無視して体を動かそうとした。

  その時自分が何を叫んでいたのか、全く自覚していなかった。ただ大声で何かを叫んでいた。思考の向こう側にある魂から発せられるむき出しの言葉が部屋中に響き渡り、俺の肉体はそれに呼応するように理屈を無視してじたばたと動いた。

  牛瓦はそんな俺の反応に驚くわけでもなく、冷徹に対処した。

  「八房、黙って見てないでこいつを大人しくさせてくれ。俺は今こっちで忙しい」

  「かしこまりました。ドクター牛瓦」

  それは決して溶ける事のない永久凍土のような冷たい声色。感情を分厚い氷で覆い隠した男の言葉。しばらくして、それは一瞬の影とともに現れた。

  まるで雪が降ってくるみたいに音もなく、そいつは俺の目の前に現れた。滅茶苦茶に動かした俺の両腕を掴んで床に縫い止めながら、逆さの状態で顔だけが俺の視界に入ってくる。

  雪原を切り取ったような色合いの毛皮、それはこの気色の悪い光が駆け巡る室内でも美しく輝き、彫刻のように整った肉体を包み込んでいる。一瞬、それに見とれてしまう。相手はその身にひんやりとした冷気をまとっていて、俺の火照った心と体を少しだけクールダウンさせた。

  透明感のあるスカイブルーの瞳がこちらを無感情に見つめていた。

  あの時とは違い、バイザーに包まれていない状態で絡み合う視線。俺はうわ言のように呟いた。

  「やつ……ふ……さ」

  美しい毛並みを持つ白狼はこちらになんの感慨も抱いていないようで、名前を呼んでも反応がなかった。

  そして、快楽に耐える俺に、それは唐突に訪れた。八房の顔が近づいたと思ったら、相手は予想もつかない事をしてきたのだ。

  「―――!?」

  それは俺の油断をついた、狼からの接吻。刹那の瞬間、お互いの唇を重ねるだけの軽いものだったが、その行為は射精しまいと体全体を緊張させていた俺を驚かせるのに十分過ぎ、牛瓦にとっては絶好のチャンスだった。

  驚きによって集中が途切れた瞬間、彼は扱きのスピードを更に上げ、俺を一気に絶頂へと導いた。

  今まで感じた事のない程の快楽と開放感によって頭が真っ白に染め上げられた。今までさんざん押さえつけられた鬱憤を晴らすかのように、部屋に白い噴水が発生した。

  「ぐぉおおぉおおおぉおッ!!!?」

  白い線が天井に向かって伸び、空中に投げ出された精液が白い斑点となって下半身を汚した。

  「ガァアアアアぁッ!!?」

  それは牛瓦の黒い毛皮にも降り注ぎ、ヤツの体を栗の花の臭いで染め上げていった。

  永遠に続くのではないか、ありもしない想像をしてしまう程に射精は長く、大量だった。

  生温かい精液が足にかかる。粘性を持った液体が毛皮にからまって、俺の体に雄の匂いを染み込ませていった。

  「あぁ……お……がはっ……ぐぁ!」

  その常識外れの絶頂体験で肉棒から精液とともに体力と精神力を放出する事になった俺は、呼吸すら満足に出来なくなってしまう。

  霞む視界の中、狼が真っ直ぐ俺を見ていた。俺はその透き通るような青い、宝石のような美しい瞳の中に自分の姿を見る。

  まるでその中に閉じ込められてしまったように、視線を逸らす事が出来ずに見つめ合う。

  何でだよ、何でお前がここにいる。そう叫びたくなる。お前はこんな所にいて良い人間じゃないのに。その言葉を発する事が出来ずに、言葉未満の吐息が口から漏れた。

  「なかなかの味だ」

  わざとらしい音が聞こえてくる。俺の精液を牛瓦が咀嚼し、嚥下する音が。

  毛皮についた精液を指ですくい、戯れに口に運んでいるのだ。いやらしい水音を含んだその音を聞くたび、俺の中の辛うじて残った人間としての尊厳が破壊されていく。

  ヤツが俺の身から出た生命のスープを取り込むたび、取り返しの付かない何かが俺の中で育っていった。胸の奥でモヤモヤと蠢く黒い感情が確実に大きくなっているのを感じた。

  色々な事から見を守ろうと、耳を塞ぐ為に腕を動かそうとした。でも八房に拘束されていて上半身を動かせない。

  精神の疲弊とともに体力も底をつきかけていた。下半身も言わずもがなだ。

  悪人と戦う為に鍛えた技術も、精神も肉体も何もかもが今この時は無意味と化していた。

  「まだまだ楽しませてもらうとしよう」

  首を動かす事すら億劫になるまで疲れたのは何年ぶりだろうか。

  力なく横たわる俺を見て牛瓦は大きく息を吐いた。こちらの視界外だったのでその姿を確認する事は出来ないが、きっと満足げな顔をしているのだろう。

  「あっ……ああ……」

  栓が壊れたように精液を垂れ流している俺の肉棒からどくどくと流れ続ける子種を止める術はなく、快楽に体を震わせながら絶頂が収まるのを待った。

  「何で……こんなに」

  寄せては返す波のような気持ちよさに身を震わせる。嫌悪感は絶えず湧き上がり、胸を締め付けた。

  俺の肉棒はようやく白濁を垂れ流す事をやめ、重力に従って力なく頭を垂れた。

  でも、真っ白になった頭は現実から目を背けようとする。

  肉弾戦に敗北し、なす術なく体を弄られ射精に導かれてしまった。敵の手の中で果てるという、戦士としてこの上ない恥辱に晒されたのだ。

  再び牛瓦が俺の足を持つ感触が伝わってきた。その感覚に思わず身を固くする。

  「恥じる事はない。気持ちいいと感じる事は当然だ」

  俺の腹筋から下半身にかけて牛瓦がキスを重ねた。口づけというよりかは、俺の毛皮を舐めているようだ。

  「牛瓦、やめろ……!」

  「ん……無理だな」

  劣情を誘うリップ音が響き、思考に背徳感が仲間入りする。キスついでに俺の毛皮をしゃぶり、絡まった精液を取り込んでいく。

  毛皮の下の素肌に牛瓦の舌が触れるたびに、ゾクゾクとした悪寒が体を駆け抜けた。

  腹筋から、ふくらはぎやふとももなどあらゆる場所に俺の精は広がっていて、相手の口がそこに向かって行くのを感じた。

  ヤツの舌で丁寧に毛皮が解きほぐされていく。汗をかいて臭うだろうに、相手の熱い息と湿った体の感触が全身をを舐め回すように動き、雄臭の原因を俺から取り除いていった。

  決して俺の肉棒に狙いを定めず、恥ずかしさを噛み締めろと言わんばかりのいやらしいやり方、敵ながら見事としか言いようがない。

  「お前はこう思っているのだろう。何故こんなに気持ちがいいのかと」

  牛瓦が唐突に話し始めた。ご丁寧に問題の答えを教えてくれるようだ。

  「お前の装備を凍結した際に、身体に色々な処理をさせてもらった」

  戯れに俺の足の親指に口づけをする牛瓦の声は笑っていた。

  「処理……?」

  「料理の前の下ごしらえのようなものだ。こういった事態を想定し、体を探っておくのさ。だが勘違いするな? お前が考えているようなものではない。もっとプライベートな部分に関してだ。例えば……」

  ねちゃりとした水音が聞こえた。だがこちらに濡れた感覚はない。つまり、相手が自らの体に何かをしたという事。

  そして、それは粘膜が擦られる音と一緒にぬるりと挿入ってきた。

  「ひぐぅっ!?」

  「ケツを綺麗にして、解しておくとかな」

  ヤツの指が、俺の尻穴を貫いていた。俺はいきなりの事態に理解が追いつかず、何をされているのか一瞬見失ってしまう。

  「お前の性感帯を調べる事もしたかな?」

  そこから状態を把握するのにあまり時間は掛からなかった。

  何度目かの緊急事態に冷や汗をかきながら、なんとか気持ちを落ち着かせようと息を吐いた。焦りを表すようにその呼吸は浅く、何回も繰り返す事になった。

  八房の瞳に映った自分は顔を真っ青にしながらも気丈に振る舞おうとしていた。だが、自分自身の強張った表情は何をやっても戻らない気がした。

  「流石にこの状態で暴れたりはしないか」

  「どこまでも人をコケにして……!」

  「ほら、二本目だ」

  「やめッ……グヴゥ!」

  二本目の指が挿入され、相手はまるで狙いすましたかのように俺の中にある快楽のポイントを攻め立ててきた。

  体内で分泌される粘液が牛瓦の指を濡らし、段々と出し入れのスピードが上がっていった。

  卑しい上にいやらしい水音が耳に入ってくると同時に、ヤツの指が俺の体の中を弄るたびにさっきの射精とは別の電撃のような快楽が頭を駆け抜けた。

  一瞬の閃光が連続して俺を貫く。快楽中枢にダイレクトに刺激を与え、正常な思考を奪っていった。何かを考えようとするたびにその光は俺の頭を一つの感情と感覚でリセットしようとする。

  「何を感じるか教えてくれ。憎しみかそれとも快楽か」

  「ケツなんかで感じる訳無いだろ気持ちよさなんて!」

  「それは残念だ。快楽を感じるのなら大分楽になるだろうに。ほら、三本目だ」

  「あぐぅああああぁああっ!!!」

  本数が増えると刺激も増える。上がっていく出し入れのスピードと合わせて、想像を絶するスピードで快楽は増大していった。全身の筋肉が牛瓦から齎される肉欲の悦びに震えた。

  悶絶する俺はすでに八房を見ていなかった。視界に捉えてはいたが、気にもしなくなっていた。正確には余裕が無くなったという事だ。けれど、彼の冷気は俺の火照った体を申し訳程度に覚まし、正常な思考を頭の片隅に構築するのに役立った。

  「面白い位挿入るな。腕まで入れてしまおうか」

  「ふざけ……んな!」

  牛瓦の顔を思いっきりぶん殴ってやりたくなる。こんな状況でなければ殺しているかもしれない。

  「締まりが悪くなっては困る。もう十分だろう」

  ぶちゅり、そんな音がして尻から感じる圧迫感と電流が途切れる。

  「あうぅっ!」

  全身に伝わり、俺の体を敏感にする電流から解放されて情けない声を上げる。奇妙な感覚が尻の内側に残り、もぞもぞと動いてしまう。

  喉はカラカラに乾いていて、疲労のあまり目の前の人物を正確に捉える事すら困難になりつつあった。

  まるで今の俺は死体だ。快楽という電流にだけ反応する死体。電気が流れる時だけ体が動くおもちゃみたいだと言ってもいい。

  落ち着きかけた頭で思わずそんな事を考えた。

  「俺は……」

  「……」

  この目の前にいる白い狼みたいになってしまえば、何も感じないんだろうか。八房は何も言わずに役目を遂行している。法の正義に従っていた時の俺のように。いや、俺以上に冷徹で、完璧に役割をこなしている。

  この異常な状況で、ただ一人黙っているこいつの冷徹な態度はこっちまで凍りつきそうだ。

  「何か答えてくれ……!」

  目の前の現実から逃れる為か、嘗ての先輩に話しかける。

  だが、八房は応えない。過剰なまでに整った容姿は彫刻のように固まっている。相手は俺を拘束する為だけにここにいるという事を全身で表していた。

  でも、打ちのめされた俺は話さずにはいられなかった。

  「俺はずっとアンタを見てきたんだ。ホワイトウルフを!」

  震え始めた声を必死に抑える。

  「昔のアンタは悪の道に墜ちるような人じゃなかった筈だ……! なのになんで!」

  蓋をしていた思いが溢れそうになる。心から飛び出しそうになる虚しさと怒りを口に出すまいと、必死に飲み込む。

  弱さを見せてはいけないと分かってる筈なのに、間近で八房を見れば見る程内に秘めた思いが制御不能になっていった。

  「俺の……」

  「休憩は済んだか?」

  地獄の底から湧き出るような重苦しい声を聞いて、俺の熱くなった思考に冷水がぶち撒けられた。その声の主は、やはり視界外から言葉だけを飛ばしてきた。

  「牛瓦……!」

  吐き捨てたくなる気持ちをぐっと堪えてその名を呼ぶ。

  「感動的な場面だと言いたい所だが、もう十分だろう。無駄な事をして体力を消耗するな」

  鈍い音とともに、腹に衝撃が伝わった。立ち上がった牛瓦が俺を足蹴にしたのだ。

  「八房、顔をどけてくれないか」

  「かしこまりました」

  八房が顔を上げ、俺の視界を塞いでいた白狼が目の前から遠ざかる。そして、その先にいたのは俺を見下ろしている牛瓦の姿だった。

  「やはりお前は面白い」

  不可解な発言に顔をしかめる。

  「アンタはいつも曖昧だ。言葉足らずの星のもとにでも生まれてきたのか?」

  「お前の言葉に笑っているんだ。嘘をついているな。いや、本心を言っていないだけか」

  「初対面の、敵に向かって本心をぶちまける馬鹿がどこにいる? 敵の懐でそんな事する程俺は馬鹿じゃない」

  牙を剥いて答えた俺に対し、牛瓦は再び笑う。聞いているものの背筋が凍るような恐ろしい声で。

  「お前の心にはいつも怒りがあった。燃え盛る炎のように苛烈な魂の輝きが」

  相手は腕を組んで考えながら話す。時々思考を整理するような沈黙が挟まれる。

  「自分の力でこの状況を乗り越えようとする強い意志があった」

  「……敵の喉笛に噛みつこうとするのがそんなに不思議か?」

  「そんな事は問題ではない。俺はむしろ、お前が自分の仲間を信用していないように感じたんでな」

  その言葉は、思いのほか心に深く突き刺さった。言葉をつまらせた俺の様子を見て、牛瓦は笑みを浮かべる。

  「諦めない事はいい事だ。だが、お前が口にする言葉といえば自らの無力を覆い隠すようなものばかり。普通ならもっと組織の力を盾にしてもいい筈なのに、お前の頭の中にその選択肢は存在していない」

  「何を馬鹿な事を……」

  「怒りで不安を覆い隠し、誰にも頼らずの一匹狼を気取ったと思えば、八房に対しては縋るような視線を向ける。さぞ複雑な思いを味わっているのだろう」

  そのまま俺に向かって顔を近づけてくる。

  「ちっぽけなプライドを守ったところで、強くなれるわけでもあるまい。正直に話したらどうだ。それとも八房にしか話したくないか?」

  相手の言葉は人を傷つける事を何ら厭わない無遠慮で強引なものだった。小馬鹿にした態度に思わず怒りが湧き上がる。

  俺は牛瓦を見上げて啖呵を切った。

  「アンタの余裕ぶった顔を失意に歪ませてやる! 必ず裁きの場に引きずり出して、然るべき罰を受けさせてやる!」

  「だが裁きの時は今ではない、そうだろう? それにお前は俺達に屈服する運命にある。どのみち不可能だな」勝ち誇ったような笑みを浮かべ、鼻を鳴らして近づけた顔を離すと、牛瓦は腰に手をかけた。俺はここに来てから絶えず感じていた悪寒が一層強く身を撫でるのを感じた。

  「虎林大吾、お前の体は踏み心地がいい。だが、そんなくだらない事を言う為に貴重な人的資産を足蹴にしているわけではないし、八房にバックアップを頼んだわけでもない」

  踏み躙るように牛瓦の足の裏が動き、体から空気を押し出した。自分の口から潰れたカエルみたいな息が漏れる。

  不快感を顕にしながらも、動かない体に力を入れて精一杯の反抗をした。この絶望的な状況下でなおも戦いを挑もうとする態度に牛瓦は満足げに笑う。

  「覚えているか? 拳を交えて分かった事があると言ったのを」

  「ぐっ……! それがどうした!」

  「まぁ落ち着け。あの短い戦いの中で確かに俺はお前の戦う力となっている部分に触れた。お前が自覚していない、核となっている感情を今から教えてやる。ただ、何もせず教えるだけでは面白くない。そこでだ―――」

  そう言うと牛瓦は両手を腰に当てて、ブーメラン水着を一気に下にずりおろした。そして、目の前に現れたブツに俺は目を剥いて言葉を失った。

  「その感情を味わわせながら教えてやる事にした。そうすれば、頑ななお前の心も変わるだろうからな」

  目の前に現れたのは、目を覆いたくなる程巨大な肉柱だった。

  「……なっ!?」

  「どうだ?」

  あの小さなブーメラン水着のどこにこんな凶器が隠されていたのか甚だ疑問に感じるレベルのサイズで、地球上にこれを受け入れられる人間が居るのかどうか、アホらしい事を一瞬考えてしまう。

  体と同じ位濃い黒色に覆われた肉棒は、血管を浮き上がらせながら天に向かって伸びていて、そそり立ったボディの先端を彩るピンク色の亀頭は、牛瓦の興奮を表しているのか貫く先を求めてそのエラを広げている。

  「何をしようとしているか、もう分かってるんだろう? 八房、虎林を見ていろ。そいつもそれを望んでいるようだ」

  口の端を歪めた牛瓦は下品にも肉棒を筋肉の力を使ってピクピク動かすと、俺を見下ろす状態から下半身に向かって動き始めた。

  そして、全てが巻き戻されるようにもとに戻っていく。氷の狼が再び目の前に現れ、俺の足が強大な腕力によって固定される。

  「虎林大吾、お前はよく頑張っていたよ」

  無理矢理両足を開かれ、尻肉が広がる感覚が伝わってきた。さっきまで弄られていた肉穴がその刺激に対して敏感に反応し、反射的にぴくりと疼く。

  ヤツは人を小馬鹿にした態度を崩さず、容赦なく言葉をぶつけてくる。

  「ヒーローとしてお前は俺達の計画を潰し続けていた……俺も認めるよ、お前の働きは敵ながら称賛に値する」

  擦り寄ってくる音が聞こえる。牛瓦か体をこちらに近づけているのだ。

  「だが、そんなにお前を突き動かすものは何だ? 正義感か? それとも忠誠心か。いいや違う」

  「……ひっ!?」

  「恐怖だ」

  相手を拒否しようとする心とは裏腹に、入念に行われた愛撫によって俺の尻穴は正常な機能を失い、自らの疼きを治めてくれるつがいを求めて濡れていた。

  肉体が精神を離れて勝手に反応していたのだ。

  体を駆け巡る肉の疼きが俺を支配していた。そして牛瓦はそのブーメラン水着の下に隠された欲望に滾り固く勃起した肉棒で、俺の尻穴を貫いた。

  湿った肉同士が重なり合い、合体する卑猥な音が響いたと思うと、今までのものとは比べ物にならない強烈な衝撃が体を貫いた。

  「ぐぉあおおぁああああっ! ああっ……はぁッ!」

  俺は肉体を貫いた未知の快感と不快感に見を捩り、喘ぎと苦悶の入り混じった声を吐き出した。

  「怖いか? 自分の体が自分のものでないような感覚に陥るのは」

  俺はそれに答える事が出来ない。いや、沈黙が答えか。

  「恥じる事は無い、これは動物としては自然な反応、理性ではどうしようもない生命に組み込まれた服従のシステムだ」

  「お前たちがそうした……んだろ! あぐっぅ!」

  呼吸をするたびに尻の中の異物を自覚してしまう。

  「そうだ。だが、こうなってしまったという事はお前には素質があったのさ、雄を喜ばせる為だけの娼婦になる素質がな」

  「……ッ! ふざけん……ひぃっ」

  牛瓦の肉棒が出し入れされ、湿った音と共に甘い快楽が溶けるように体に染み渡っていった。それと同時に成長する黒い感情。

  「人は未知のものに恐怖を抱く。この事実を受け入れた時、自分がどうなってしまうのか……お前は考えずにはいられない筈だ」

  「い……嫌だぁ……っ!」

  絞り出した声を聞いて、牛の姿をした悪魔は声を震わせた

  「そうだ自覚しろ……怒りの奥底にある怯えの感情をさらけ出せ」

  俺が辱められるたび、胸の奥にあった黒い何かがめきめきと音を立てて育っていく。感情の炎に燃やし尽くされる事なく形を保ったまま心に根ざしていこうとする。俺の中に存在する闇が姿を表そうとしていた。

  「プライドなど捨ててしまえ。人としての尊厳を捨て、獣に堕ち、泣き叫び、殻を脱ぎ捨てればいい」

  「そんな事……出来るかッ!」

  「そうか? その体はすでに雄としての尊厳を捨て去っているぞ? ほら、お前のけつまんこもこんなに疼いてちんぽを求めている」

  尻穴に亀頭が触れ、ズルズルと中に入り、一つになるたびに、更に快楽を貪ろうと体が無意識に震えた。

  「ひ……ひぁっ……あんっ!」

  汗と粘液が飛び散り、肉がぶつかって弾ける音がその営みを彩る。

  口から漏れる嬌声を必死に噛み殺そうとするが、体が言う事を聞いてくれない。まるで軟体生物になったように、自ら体をくねらせてちんぽを体に出し入れしていく。自らの股間も硬く勃起し、肉棒の頂点には透明な水玉が生まれていた。

  「ああっ……っぐ!」

  「分かるか? これが支配だ。ヒーローが今まで俺達にやってきた事であり、お前が感じているのは、支配される事に対する恐怖だ」

  「俺……が……?」

  「力による制圧と支配は戦いの中で自然と起こるものだ。負けたものは淘汰され、数を減らしていく」

  「お前達が淘汰される側だって……言うのかよ! 毎日毎日事件を起こしているくせに!」

  「それもいつかは出来なくなる。すべての物事に終わりがあるのと同じように」

  俺にとってその言葉は、自らが所属する組織の事を貶すものではないように聞こえた。

  「お前達のような表の世界の守護者が闇の世界の戦争に介入し、星の数程の組織が潰れた。拠り所を無くした獣たちが世界中に散らばり、そのまま命を燃やして死んでいった。虎林大吾、制御出来ない力程危険な物は無いと思わないか?」

  「何を言って……うぐぅっ!」

  相手の声を聞きながらも、俺の肉体は間違いなく快楽に蝕まれていた。極限の興奮状態の中で、体のすべてが下半身に直結し、あらゆる刺激や経験を淫乱な思考を盛り上げるスパイスへと変換していく。

  罪悪感を感じても、それすら興奮の材料になり乳首や肉棒が硬くなる。一時の快楽にすべてを洗い流されて、正常な判断もクソも何も無くなっていった。

  頭が気持ちいい事に夢中になっていくのが分かった。

  「俺達は死骸だ。この世界に居場所を無くした獣の亡骸が寄り集まって出来た継ぎ接ぎの怪物、だからここをヒーロー共に燃やし尽くされる訳にはいかない」

  あらゆる思考と感情が一つのシンプルな目的のもと統合されていった。牛瓦の主張を理解する間もなく、あらゆる感覚が一つになり、新しい価値観を作り上げていった。

  そう、肉棒に従うというただ一つの思想に。

  「も……もっとぉ……ちん……ぽ……もっと! ……ケツにぃ……あひィっ……」

  グッチャグチャに犯された俺は、気がつくとそんな言葉を発していた。

  俺の理性は凄まじい勢いで肉体に引っ張られていた。牛瓦の言葉と雄の圧力に屈したのだ。

  「感情を自覚する前に、押しつぶされてしまったか。あれだけ啖呵を切ったのに、案外脆いものだな」

  ぱんっ! ぱんっ! という股間を尻に叩きつける音の中に厳粛な男の声が混じっている。それはここで俺に快楽を与えてくれる唯一の男、牛瓦京一の声だ。

  俺の両足をハンドルのように握り、尻穴の内側に自らの竿を抉り込む牛瓦に向かって、俺は媚びた声を発する。快楽にとろけた亡者が、淫猥な思考を軸におねだりの宣言をする。さっきとは違ったはっきりとした口調で。

  「お……お願……いです! もっと……すっげぇの……ください、俺に……ちんぽ汁種付けしてください!」

  ゴリゴリと気持ちいい所を貫く彼の肉棒に、俺はだらしなくよがり狂い痴態をさらす。

  「……お前がそこまで言うのなら、望み通りくれてやる」

  この言葉とともに、ピストンのスピードが早くなる。愛を育む性行為とは程遠い、他人の肉体を使ったオナニーとしか言いようのないその行為、相手の尊厳を踏みにじり、身も心も壊すようなやり方。

  種付けという言葉すら高尚なものだと勘違いしてしまいそうな程冒涜的なその征服行為は、俺の心を間違いなくグズグズに突き崩していった。

  肉体の底から生まれる原始的な快楽は痙攣する程甘美で中毒性のあるものだった。だらしなく舌を突き出し、やらしい動きを全身で行う。そうする事で自分で自分を犯しているような体験が味わえた。今の俺に躊躇いはなかった。

  その行為が現実から目を背けていただけという事に俺は気づいていなかった。

  ケツの奥底と、肉棒の両方から駆け上がるような快楽が現れる。俺は待ち望んでいたものを手に入れる事が出来ると分かり、歓喜の声を上げた。

  「きたぁ……! ちんぽとケツの両方で、アクメぇ゛っぎだぁ! イグッ! いぐいくいくぅううぅう!」

  「お望み通り、お前の中でイッてやろう……!」

  「うぉ゛ぉおお! いっぐぅううぅううう゛!」

  すべてを忘れて獣のような雄叫びを上げた時だった。それは頭の上から降ってきた。

  「虎林大吾」

  それは、研ぎ澄まされた氷のように冷たく、静かな声。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない、極めて自然なトーンのそれは、まるで完璧な楽器が奏でた心地良い旋律のようだった。

  「私の声が、聞こえていますか?」

  熱に浮かされた頭にすっと入り込んでくるその声の主は、快楽を与えてくれる牛瓦でも、子供のように跳ね回る百瀬でもない。

  「やつ……ふさ……?」

  その声は目の前にいる白狼から発せられたものだった。

  そのスカイブルーの瞳を見つめた瞬間に、その中に映る自分の姿に気がついた。

  だらしなく快楽を貪る、雌猫の姿が。

  それを自覚した瞬間から、俺の意識は急速に浮上する。快楽の泥沼にハマっていた俺は、自分自身の痴態を見る事で今の自分を見つける事が出来た。そしてそれは、更に深い地獄の幕開けでもあった。

  「あ……あぁ……!」

  それは俺の精神が限界を迎えた事を示すように、口から声が漏れた。

  「お……俺は一体、何を……! んぐぅっ!」

  この状況を作り出した相手に対する怒りより、自分がとんでもない事を口にしていた事実に打ちのめされる。

  とても正気とは言えない状態で何とか思考を組み立てなおそうとする。でももう遅い。

  「嫌だ! やめてくれ! 俺は、俺は弱くなんか……支配されたりなんか……!」

  俺の情けない声を聞いても、誰も何も答えない。それがたまらなく苦しかった。そして目の前の白狼は、今この瞬間俺だけを見ていた。

  その瞳に捉えられた自分を見て理解する。いや、理解してしまった。

  牛瓦が言っていたとおり、自分の中で育っていた闇の実態は恐怖であり、今この瞬間それを隠していた怒りを突き破って花開いたのだと。

  その感情は俺の精神に根を広げ、心を支配していった。

  「俺は……お前たちの同類なんかじゃない!」

  「虎林大吾、何度でも言うぞ。お前はこちら側の人間だ。自身の戦いぶりが、それを決定した」

  言葉とともに再び身体の奥底から快楽がやってきた。牛瓦の手の中で果てた時と似たような、でもそれとは比べ物にならない程強烈な獣欲が開放されようとしていた。

  「何でだ……! 何でなんだ! 何で俺がお前達の側だと分かる!?」

  すべての仮面を脱ぎ捨てて牛瓦と八房に懇願する。だが、その願いが聞き届けられる事はない。牛瓦は俺に淡々と告げた。

  「何故なら、お前は他人の為に戦っていない。力を振るうのは憎しみや怒り、恐怖から逃れる為、お前の炎は悪を燃やし尽くす為のものじゃない。闇の中で生き延びる為のものだからだ。そして―――」

  その言葉を聞いて俺は恐怖に駆られ、力の限り叫んだ。ダメだ。それだけはダメだ。止めてくれ。俺を殺さないでくれ。懇願の視線で彼らを見つめた。だが意味など無かった。

  「俺達の組織は、お前のような人間の為にあるからだ」

  「やめろ……! 止めてくれ……!」

  体内を快楽で穿ち続ける肉の杭がびくびくと震えるのがわかった。自分の体の中の事を鮮明に感じ取れる程、俺の肉体は敏感になっていた。

  確かな熱を持って俺の中で暴れる牛瓦のちんぽ。自身の存在を刻みつけるかのようにそそり立ち、俺の腸壁を抉り、何度もS字結腸にたどり着いて快感を生み出す。そしてそれに応えるように、体が肉の悦楽に震えた。

  牛瓦が腰を打ち付ける度に、体が波打ち、相手に吸い付くように性器となってしまったケツが揺れた。そして、その時が訪れる。

  精神の昂りを表すように一層肉棒の出し入れが早くなり、物事の終わりへと俺を攻め立てた。

  「さあ! 受け取るがいい、俺の精を……!」

  それは、俺にとって処刑に等しい一言だった。

  「止めろぉおおぉおお!」

  叫びも虚しく、牛瓦は俺の尻穴の中で射精し、それと同時に俺は二度目の絶頂を迎えた。

  勢い良く放たれた牛瓦の白濁が俺の体内と頭の中を真っ白に染め上げ、それと同時に俺もちんぽの先から白濁をぶっ放した。そしてその二つの快楽に仰け反るとともに、自身の敗北を確信した。

  

  俺の中の正義が邪悪な何かに塗りつぶされていく。そして頭の中で、自らの精神が打ち壊され失われる音が響いた。

  決して取り戻す事の出来ない、大切なものを俺は失った。その事に気づいた俺は、情けなく涙を流す。

  「あ……ああ……」

  狼の無垢な眼差しに貫かれ、その瞳の中に自分自身の絶望の色彩を見出した。みっともないその姿は、今まで俺が隠してきた本性。他者を踏みにじり、燃やす事で生み出していた虚像を取り払った本当の姿。

  八房の白い腕に手を動かして触れる。押さえつけられながらも必死に縋り付くように。

  「たす……けて……ぇ」

  その手を八房が取る事はない。死者に降り積もり、その体を純白の下に覆い隠す雪のようにただそこに居る。彼は俺を別世界から見つめるだけだ。

  ごぼり、そんな音を立ててちんぽが俺の中から引き抜かれる。脳みそを現れたみたいに真っ白になった思考の中、俺はその衝撃に身を震わせた。

  「さて、意思を伝え、目的を達成した。八房、行くぞ」

  牛瓦が立ち上がり、体に影がかかる。

  俺には用はないと言うように、今まで散々弄ん出来た肉体を牛瓦はあっさりと開放した。相手に支えられていた部分もあったのだろう。力なく体が床に放り出される。

  肛門から精液を垂れ流し、その肉体を自身の種汁で汚した浅ましい虎にかける言葉などないと態度で表していた。

  疼き続ける下半身の制御など今は出来る筈もない。俺は時々襲ってくる電流のような快感に痙攣する。

  「お゛くっ……おお゛っ……! はひっ……」

  だらしなく垂れた肉棒は時々肉体の動きに連動し、尿道に残った精液を噴水のようにびゅるびゅると吹き出した。

  「かしこまりました。ドクター牛瓦」

  八房の美しい白い肉体が離れていく。立ち上がった牛瓦を視界に捉える事はなかった。何故なら離れていく狼にしがみつこうとするだけで精一杯だったからだ。

  「やふふさぁ……おれ……は……」

  彼の離れようと動く手を握る。

  「虎林大吾……」白い狼は全く表情を変えずに口を開いた。「私は、もう貴方達の仲間ではない」

  二人の繋いだ片腕があっさりと解かれた。彼の瞳に写っていたのは絶望に染まり、ボロボロと涙を流し続ける虎だけだった。

  重苦しい心を表すように世界がスローモーションになり、八房と俺を繋いでいた腕がゆっくりと床に落ちる。

  手のひらには、雪解け後を思わせるじんわりとした冷たさだけが残った。

  「お前も諦めの悪いやつだな」

  牛瓦の嘲笑が部屋に響き渡り、俺はぎこちなく顔だけを動かしてなんとか相手を見つける。

  「おま……え……」

  目の前にはブーメラン水着を淫液で汚した牛瓦が居た。そのむせ返るような存在感と強烈な雄臭によって、視界に映らずともどこに居るかが手に取るように分かるのはありがたかった。

  「虎林大吾、教えてやろう」

  相手の声は相手を気遣うようなトーンを含んでいた。まるで聞き分けのない子供に物を教えるようだった。

  だが決して思いやりから言っているのではない、それは相手を絶対的なまでに下に見ているからこそ出来る態度だ。

  黒牛は岩のようにゴツく雄臭い顔に笑みを浮かべて八房に視線をやってから、俺に向かって言い放った。

  「お前の尊敬するこの男、八房透は組織の元性処理係だ」

  雷のような衝撃が、俺の頭を殴りつける。

  「うそ……だ」

  信じられない事実に目を見開き、声を漏らした俺に対して、八房が回収した白衣を羽織り直した牛瓦は満足げに目を細めた。

  前面に染みを作ったブーメラン水着を隠すように衣服が体を包み、そのむっちりとした肉体が白衣を押し上げ、雄を主張した。

  「嘘ではないよ。八房」

  何かを思いついたらしいその発言を聞いて、ぞわりと全身の毛が逆立つ。嫌な予感に全身が震えた。快楽にではなく、虫の知らせのような悪寒に突き動かされる。

  「なに……を、するんだ……!」

  体を動かして牛瓦のもとまで行こうとした。

  でも脳が全身に行動命令を送っているのに全然体が動かない。命を構成するソフトウェアである精神は自分の意思を理解しているのに、実行するハードウェアである肉体がそれを拒んでいた。

  行っても無駄、現実から目を背けろと肉体の細胞すべてが叫んでいる気がした。

  俺の視界の中を八房が移動する。そして、牛瓦のそばにまで来て兵隊のように静止した。

  「命令を、ドクター牛瓦」

  八房の従順な、いや、従順すぎる態度に牛瓦は満足げに顔を歪ませた。

  「八房、お前がこの組織において何者であるか、俺に向かって今ここで宣言してほしい」

  「かしこまりました」

  狼はその問いにコクリと頷くと、牛瓦に向かい合ってから距離を取り、腕を後ろに組んだ。

  「や……ふさ……やめ……ろ」体から湧き上がる嫌悪感に対抗しながら、必死に語りかける。

  「私の名前は八房透」

  だが俺の声は八房自身の声にかき消され、届かない。

  「曾ては政府直属の犯罪対策組織『フェンリル』に所属する戦闘員でした。ですが二年前の首都インフラ崩壊の際、敵性戦闘員との戦いに敗北し鹵獲され、施設内での調教の後組織に忠誠を誓いました。現在はドクター百瀬が統括する精神科学セクションに特等研究員として所属しています」

  揺るぎない返答、牛瓦は嗜虐的な笑みを浮かべてこちらを見る。

  「お前が特等研究員として百瀬の元に派遣される前、どこで何をしていたか教えてくれないか?」

  「はい。私がここに来て最初に任命された役目は、慰安セクションに所属し、組織に所属する戦闘員の性処理を担当する事でした」

  「なっ……!」

  「ならば、少し手伝ってくれないか?」

  牛瓦は自らの肉体を覆い隠す白衣を開くと、染みで汚れたブーメラン水着を下半身を使って突き出した。

  「思ったより虎林の具合が良くてな、収まりがつかんのだよ」

  「かしこまりました、ドクター牛瓦」

  いやらしく水玉を表面に浮き上がらせたブーメラン水着は、その逞しいちんぽの形をしっかりと浮き上がらせていた。

  「慰安セクションで鍛えた口まんこで、俺のちんぽをきれいにしてもらおうじゃないか」

  わざとらしいセリフとともに、見せつけるように下半身を強調する牛瓦。そして、彼に近づいた八房が、下半身を咥え込めるように牛瓦の前に跪いた。

  「失礼します」

  その黒い巨体に純白に近い色合いの手のひらが沿わされる。その手は牛瓦の熱を帯びた体を冷ますように彼の体を撫でる。

  艶々の体毛に包まれたたくましい肉体を撫で回す八房の滑らかな手つきはとても艶かしい。思わずその光景に釘付けになる。

  どこからか生唾を飲み込む音が聞こえた。事態の行く先を見たいとも、見たくないとも思っている複雑な心境。胸の中に焦げ付くような焦燥感が生まれる。

  八房の手のひらがブーメラン水着にかけられ、それをゆっくりとずり下ろしていった。まず最初に淫液に濡れた陰毛が現れ、その次に半勃ちの肉棒が顔を覗かせた。

  地毛と同じ色の黒い肉棒は粘液に覆われて湿り、濡れた表面がかすかな光を反射していた。鈴口からは透明な我慢汁が溢れ出して水着を汚し続けている。

  肉の震える音とともにその怪物が解き放たれる。肉竿の全貌が明らかになると、それに続いて巨大な睾丸が視界の中に顔を覗かせた。つるつるの玉袋は、その中に大量の種汁を溜め込んでいる事を示すように水着を下ろした衝撃でタプタプと揺れた。

  「ほら八房、早くしてくれないか?」

  待ちきれない心を表すように狼の顔にちんぽを擦りつけながら口を開く牛の体は、息をするたびに興奮に身を震わせていた。俺の時とは違う、純粋な性欲が見えた。

  頬に緩やかに叩きつけられるそれを八房は優しく手で包み込む。透明感のある青い瞳に黒が差した。

  「……かしこまりました」

  そして彼のあぎとが開き、口腔内に滾る肉棒を迎え入れた。

  「ぐっ……うひっ」

  胸を焼き焦がす焦燥感とは裏腹に、俺はその様子をぐったりと地面に横たわって見る事しか出来ない。

  黒い肉の塊が白い体毛に包まれたマズルに吸い込まれ、そのままピストン運動を開始する。唾液や汗や腸液や我慢汁や精液が混ざりあった粘液が口を汚し、反対にキレイになっていくヤツのちんぽ。

  再び瞳が潤み始めた。現実が歪み、心が壊れていく。

  腕を伸ばそうとする。必死に八房のもとへと。かつて憧れた狼へと。

  「お前の声は届かない。俺に振るった拳のように、無意味だ」

  亀のようなスピードで動く。精神が肉体を凌駕していた。力を込め床上で体を翻してうつ伏せになる。

  ケツの辺りから生暖かい何かが垂れてきた。体内に注ぎ込まれた雄種が漏れている。だが気にしている暇はなかった。

  死にかけた人間を思わせる不気味な匍匐で前に進んだ。意志関係なく体を刺激する甘い快楽に時折声を漏らしながら、眼前の狼に向かって腕を伸ばす。まるで救いを冀う敬虔な信者のように。

  「やめ……ろ……ふぁ……あっ」

  だらしなく舌を突き出して、よだれと精液の筋を床に描きながら進んだ。体から湧き上がる絶頂感と背徳感が性欲を刺激し、萎えていた俺のちんぽが大きくなっていった。

  腰が浮く。勃起したちんぽを鎮める事なく前に進む。

  「興奮しているのか? 虎林大吾」

  雄を感じさせる静かだが力強い声、その声が俺を呼んでいた。

  「そんなわけ……にゃい……」

  体を動かすたびに尻の奥、牛瓦にほじられた部分がキュンキュンと締め付けられるような感覚に苛まれた。大量に注ぎ込まれた精液が牛瓦の匂いを俺に刻みつける。

  俺のプライドを粉々にして屈服させた男の種が俺の中に染み込んでいった。それを考えるたび、受けた屈辱と快楽がこの身を弄ぶ。

  「だめ……だ……八房、そんな事しちゃ……いけない」

  腰がカクカクと揺れた。獣の誘惑に負けて自らの勃起したちんぽを床に擦りつける。目の前の、あこがれの狼がモノみたいに使い潰される場面に興奮しながら、俺は彼に声をかけた。

  心はいけない事だと分かっていたのに、ちんぽに従い始めた体を押さえつける事は出来なかった。八房の口に黒い肉棒が出し入れされる。亀頭から溢れる我慢汁を舌で舐め回して奇麗にすると、肉竿全体を扱き上げて再び口に含む。

  対する牛瓦は白狼の口内を便所のように扱う。彼の口に自分の下半身を叩きつけ、征服欲を満たす。鋼のような筋肉に包まれた尻がプルプルと震え、垂れた尻尾がそれに追従した。

  俺はそれを汚らわしいと感じると同時に、いやらしいと感じた。

  「流石に……元慰安セクションは違うな」

  牛瓦の少し苦しそうな声。肉棒を根本まで咥え込んだ八房は、彼の肉棒に絶え間ない刺激を与え続けている。射精後の敏感になった肉棒には耐え難いものだろうに、ヤツは表情一つ変えずに声を発する。

  慣れているのだろうか? 漠然とした考えが頭をよぎった。

  犬畜生のごとく口を開け、目の前の光景に釘付けになりながら口から熱い息を吐いた。自分のしている行為で生まれる熱を排熱するように何度も何度も、呆れるくらいに。

  心臓がドクドクと脈打ち、興奮で熱くなった血液を全身に送り出す。まるで熱された鉄が体内に流れているような感覚を味わう。それは全身に行き渡り、俺の思考を体と同じくらい白熱させる。

  俺の肉棒は鉄の芯が入ってしまったかのように硬くそそり立っていた。どれだけ精神を落ち着かせようとしても、体はそれを許してはくれなかった。八房が汚されるたび、この体は肉欲の歓喜に震えて、ちんぽに血液を集中させた。

  ダラダラと絶え間なく流れる先走りが床上に水たまりを作る。露出したちんぽが快楽に震えるたびに菊門が疼き、俺を気が狂う程の肉欲の渦へと引きずり込む。

  「おぐぉ……あへぇ……」

  残った理性が興奮している自分を嫌悪する。体を支配しようとする欲望は今の俺を受け入れて喜んでいる。2つの矛盾する感情の軋轢に苦しみながら、俺は体中を犯されている感覚に身悶えした。

  自分自身の尻尾の動きさえも性的興奮の材料になり、まともに動けなくなった俺はその場で蹲る。ヒクヒクと震え、肉棒と雄種を求めるだけの性器と化したアナルと、射精欲に支配された肉棒に全身を弄ばれながらも、俺は目の前から視線を外す事は無かった。

  俺の憧れが打ち砕かれる瞬間から、目を背けられる筈がなかった。

  「八房……そろそろだ……!」

  牛瓦の声が響くと、八房は彼の肉棒を根本まで飲み込み、全体を余すところなく刺激し始めた。たっぷりと種汁を溜め込んだ玉袋に自らの純白の手のひらを添えて、2つの金玉をコリコリと揉み始める。溢れ出した淫液が口の端から漏れ、床に白の水玉が現れる。

  頭を掴んでいた黒い腕が離され、主導権が移る。さっきまで乱雑に扱われていた八房が牛瓦を労るようにゆっくりとストロークを開始し、フィニッシュに向かって歩を進め始めた。

  マズルに納められた彼の肉棒が出し入れされるたび、俺の下半身が反応する。早く続きを見せてくれ、そう言っているように前かがみになる。

  出し入れのスピードが段々と上がっていき、その時が訪れる。

  特に声をかける訳でもなく、ただの性欲処理の一環としてそれは行われた。八房が牛瓦の下半身を押さえつけ、鼻先を臀部に固く押し当てたと思ったら、液体を飲み込むように喉が動いた。ただそれだけだった。

  静かな絶頂、かすかに歪んだ牛瓦の顔と、精液を飲み込み続ける八房がそれを態度で表していた。

  狼の口腔内からちんぽが解き放たれる。湿った音を響かせて、萎えて柔らかくなった漆黒の肉棒が現れる。

  鈴口から白い粘液を垂れ流して、だらしなく垂れ下がったそれに八房は口付けた。尿道に残った雄種を残さず吸い上げると、仕上げとばかりに舌で亀頭を磨き上げた。

  「そ……んな……」

  自然と口から溢れた言葉は、理解を拒む無様な一言。目の前の狼は、屈強な黒牛に頭を撫でられていた。飼い主の言葉に忠実な飼い犬みたいに、その無感情な目を細めている。

  「よくやった、八房」

  白いふわふわの毛皮の上に手を置き頭を撫でながら、牛瓦は満足げに頷いた。

  「ありがとうございます」

  耳障りの良い物静かな声も、今は恐怖を引き立てる材料になっていた。俺は目の前の景色に興奮していた事実から目を背けて、歯を食いしばった。体を駆け巡る恐怖から逃れるには、どこかに力を入れなければならなかったからだ。

  「どうだ? 嘘ではなかっただろう?」

  俯く俺にかけられた言葉は、ここに来て幾度となく感じた威圧感を孕んだものだった。

  この体を苛む肉欲と背徳感に縛られて、見ている事しか出来なかった。自分にとっての美しいものが壊される瞬間を、ちんぽをおっ勃てて見ていたのだ。

  最大の敵と憧れの人物を同時に目の前にしながら、俺は反抗の意思を失いその場に蹲った。体を丸めて、他人から自分を守る殻を纏った。

  「……答える気力もないか」

  俺を見て、牛瓦はつまらなさそうに鼻を鳴らした。

  「行くぞ八房、俺達の役目は終わった」

  「かしこまりました、ドクター牛瓦」

  二人の移動する音が聞こえ、しばらくすると消えていった。そして、心に芽生えた後悔は消える事なく膨らんでいった。

  「俺は……」

  どうすればいいんだ、そう叫びたくなった。

  「俺はぁっ!」

  子供のように体を丸めて自衛の体勢を取ったが、今の俺には何の意味もないように思えた。だって俺は瞳から涙を溢しながら、必死に隠していたんだ。自分が射精したせいで出来た水溜まり、白色をした完璧な敗北の証を。

  

  *****

  

  「蹲って泣くのは何年ぶりだ……」

  俺は奴らがやってくるドアに背を向けて、自分の世界に沈み込んでいた。

  破り捨てられた病衣が散乱し、医療用ベッドが虚しく鎮座するこの世界で、今の自分について他人事のように思っている自分がいる事に気づいた。

  ガタガタになった心を自分で建て直す事は出来なかった。ピースを集めて組み立てた筈なのに、完成したと思ったら崩れてしまう、失敗作のパズルみたいに心は砕かれていた。

  自分を守っていた殻を壊された今なら分かる、歪みきった心と、その欠片の形が。押し留めていた感情が噴き出して止まらない。

  「こんな筈じゃなかった……!」

  現実逃避の言葉を思わず口走る。俺は正義の味方だった筈だと、そう自分に言い聞かせた。

  人々の生きる世界を守る。それが自分の使命だと思ってやってきた。どんなに憎まれようと、例え殺されそうになろうとも。

  その思いは本物で、俺は死ぬまでこの役目をやり続けると信じていた。だが実際は違った。俺を守護者たらしめていた力を奪われた途端、なす術なく信念を踏みにじられ、反抗の意思を無くした。

  泣きながら舌を噛み切ろうとしたが、それをする度に首輪が邪魔をして体の自由を奪う。

  牛瓦の言葉が胸の奥で反響し続けていた。俺達は死骸を繋ぎ合わせて形作られた怪物とヤツは言った。その言葉は、ここがかつては居たが淘汰され、押し潰されて消えていった者たちの最後の居場所だと言っているように聞こえた。

  深い知識と暴力性に満ちた瞳を思い出す。数多の悲劇を目にしてきた賢者とすべてを打ち崩す破壊者、二つの色彩を見せる牛瓦の眼差しは、俺に消える事のない傷を付けた。

  相手にされた事を思い出すと、体が恐怖と悦楽に支配された。心は刻み付けられた恐怖に怯え、体は与えられた肉欲に震えた。

  「ぐっ……!」

  あの嵐のような情事にもこの体は満足せず、慰めてくれる雄を求めて肉穴を濡らし続けた。

  俺は疼き続ける体を抑える事が出来ずに、体を抱いて床上に転がった。

  体が震えたが、それは室内を裸で居たせいで凍えている訳ではない。見た目とは反対に震える体の内側は滾り、吐く息を熱くさせた。再び勃つ肉棒を隠すようにふくらはぎに挟んで物理的に押さえつける。

  「はぁッ……はぁ……」

  強くなる体の火照り、熱気が頭をぼんやりとさせる。ふくらはぎに挟んだちんぽが痛いぐらいに強く勃起して、挟み込んだ肉の感触に敏感に反応する。

  体を抱いた腕が解かれ、自然と下半身に伸びる。この肉の滾りを治める為に最適な行動をしなければ、そんな事を考えた。

  激しい運動でパンパンに膨れ上がって熱くなった筋肉の上を出来るだけ優しく撫でながら、右手が股間に、左手が尻の方向へ進んでいった。

  閉じた二つのふくらはぎが開かれ、ねっとりと絡み合った毛皮が離れていく。その毛先は鈴口から漏れ出した我慢汁で少しだけ輝いていた。

  硬く天に向かってそそり勃ったちんぽに、俺の手があてがわれる。それと同時に腰が浮き、左手が甘い電流を生み出し続けるけつまんこと化した尻穴に触れた。

  熱に浮かされた俺は、興奮に頭を侵されながらも八房の事を考えた。相手の命じるままに性処理の相手を買って出るあの人、彼もこうやって変えられてしまったのだろうか?

  「いっそ……」

  じゃあしょうがないじゃないか、俺がこうなってしまうのも、牛瓦の言うとおり支配されてしまうのも、あの人がなるくらいなんだから、俺が立ち向かえる筈がないんだ。

  折れた心で導き出す思考は、全て後ろ向きなものだった。だが、その敗北感と惨めさに今は心地良ささえ感じる。

  俺を仲間にして、どうしようというのだろう? 八房が送られた慰安セクションという場所に送られて、誰かの肉欲を満たす為に道具のように扱われるんだろうか?

  仲間はきっと俺を探しているだろう。だが俺はもうアイツらにふさわしい人間ではない。自らの暗い本性を自覚し、作り変えられてしまった。今やろうとしている事がその証拠だ。

  諦めて、服従を選べば楽になれる。世界の全てがそう告げている気がした。

  攻められ続け、ぷにぷにと膨れ上がった菊門、毛皮に包まれた指先が到達した瞬間、待ち望んでいた刺激を求めて尻肉が揺れた。

  浅はかな俺に相応しい直接的な快楽、自然と口の端が釣り上がるのを感じた。ちんぽを触っていた手も動き出す、前と後ろを同時に自分で攻め上げる。

  監視されている事は分かっているが、やらないという選択肢は無かった。狂おしい程の欲望が体の中を駆け巡り、支配していたからだ。

  「ぐぇへっ」

  心の中で生まれた諦め、それが心を素直にする。理性ではなく肉欲にすべてを委ねる。牛瓦も八房も居ない部屋の中で、下卑た声を漏らして横向きに寝そべり一人自慰に耽った。

  前と後ろから溢れる淫液で再び体を汚しながら、快楽に酔う。

  「あのー」

  「……!?」

  後ろから聞こえてきた声に驚き、振り向く。

  その声は、『遊び回る子供みたいな無邪気さを孕んでいた』

  「お邪魔……だったかな?」

  そこに居たのは獅子獣人、百瀬玲緒だった。

  きれいに撫で付けられた鬣と重量感のある体躯、その奇妙な振る舞いは見間違える筈も無かった。

  俺に機械の戒めをつけた忌々しい男は、俺の背中側に立って見下ろした状態で、気まずそうに話しかけてきた。

  「なっ……あ……お前」

  自分が何をしていたのか、思い出して取り繕う。手を大事なところから離し、横向きから仰向けへと姿勢を切り替えて起き上がろうとした。

  「あ……危ないっ!」

  「えっ……」

  思った以上に体に力が入らない。起き上がりかけたところで、途端に力が入らなくなる。手をついても満足に起き上がれず、床に体が叩きつけられた。

  グリッドの走るタイルは硬く冷たい。俺はそこにしたたかに後頭部を打ちつける。

  鈍い痛みに耐えつつ体をよく見てみるとあちこちが震えていた。そんな俺を見た百瀬は、しゃがみこんで俺の頭と背中に手を添えた。

  「大丈夫かい?」

  そのまま優しく抱き上げられる。琥珀色の瞳には、相手を気遣う優しさが見て取れた。『何故か俺はその眼差しに安心感を覚えた』

  「……あ」

  相手の声を聞いていると、奇妙な事にささくれ立った自分の精神が穏やかになっていくのが分かった。

  「ありゃ、やっぱり答えてくれないか」黙りこくった自分を見て、百瀬は諦めの混じった表情で俺を見つめた。

  「……何の用だ」

  「敵性組織の施設内でそんな事を言うなんて、君らしくもない。もちろん、きみを仲間にする為だよ」

  はっとして百瀬の顔を見上げる。彼は多くを語らずに微笑んでいた。『俺はその姿に思わず見とれてしまう』

  その事実を自覚すると、嫌悪感が頭まで駆け上ってきた。俺は百瀬から逃れる為に体をよじった。

  「離せ……」精一杯の力を振り絞って体をじたばたと動かす。

  その動きは自分が思ったよりも小さく、百瀬の腕の中でプルプルと震えるような反抗をしただけだった。

  「おや、どうして嫌がるんだい? きみはこちら側の人間だと牛瓦に聞いたんだけどな」

  「俺はそんな……」笑顔で告げられた事実を否定しようとして、あの時の自分の姿を思い出す。

  力を無くした事から逃げ、隠す為に娼婦のように快楽を求めた自分の浅ましい痴態を。透き通ったスカイブルーの瞳に写った雌猫の姿を幻視する。

  「あれは俺じゃない!」

  頭の奥にこびりついて離れないビジョンを吹き飛ばすように怒鳴り散らす。目を閉じて百瀬から顔を背ける。恥ずかしさと惨めさ、泥のような色をした感情が俺の中で渦巻く。

  だが、そんな俺の頬に百瀬は優しく触れた。

  「牛瓦のやり方は刺激が強過ぎたみたいだね」

  敵とは思えない穏やかな口調が、俺の中に染み渡っていく。まるでこの体に巣食い成長し続ける恐怖に怯える心を癒すように。

  「それに、やっぱりきみは綺麗な瞳をしている。目を瞑っていては折角のチャームポイントが台無しだ」俺の毛並みを優しく整えながら顔を覗き込んでくる。

  「もっとわたしに見せてくれ」

  「何で……」

  「お願いだよ」

  こちらに対し懇願してくる科学者の言葉に、俺は何故か断る事が出来ない。戸惑いながらも、恐る恐る顔を向ける。

  「ありがとう、虎林くん」

  百瀬はまっすぐ相手の瞳を見つめていた。理性と野生を完全に制御している牛瓦や、どこまでも無感情な八房の瞳とも違う、別種の輝きを秘めた不思議な眼差し。

  相手をねじ伏せる為の暴力性でも、見た者の心を反射する無垢さでもない。俺はその魅力に吸い込まれ、誘われるままに目を合わせた。

  相手は敵意がない事を目で語っていた。ただ俺と話し、関わりたいだけなのだと、言葉で言わずとも伝えてくる。瞳に込められたその感情は俺の心にするりと入ってくる。

  まるで、魂に語りかけられているみたいだ。百瀬としばらく見つめ合った。

  「やっぱり、きみの瞳は美しい」

  口を開いたのは百瀬だった。

  牛瓦の言っていた事を聞いていた俺は、疑問を口にする。

  「何で、そんなに眼を見るんだ」

  ぎこちない会話の始まり、怒りの正体を暴かれ、反抗の意志を無くした今だから出来る事だった。百瀬はそれを聞くと、少しキョトンとしてから、笑顔で口を開く。

  「だって、きみの瞳には感情の炎が燃えているから」

  何気なく発せられた言葉に、体がゾクリと総毛立つのを感じる。まるで魂に触れられたような、気持ちの悪い感覚。

  戸惑いの表情を見せた百瀬を、俺は渾身の力で突き飛ばそうとした。でも結果は身をよじった時と同じで、何の意味もなさなかった。

  「あれ……?」

  「俺の心を見透かそうとするな」俺は腹から声を絞り出して相手を拒絶する。

  「俺はなんでこんなに喋ってるんだ……馬鹿か」

  拳を握り、痛みで心を落ち着かせようとした。強く握り込んだ右手があまりの力に震え始める。だが、その手に別の手のひらが沿わされた。

  「気に触ったのなら謝るよ」

  俺の拳を包み込んだ百瀬の右手の指が、優しく握られた手のひらを開いていく。自分でもびっくりするが、俺はその手つきに安心していた。

  「きみとは仲良くしたいんだけどな」百瀬は傷ついた手のひらを慈しむように撫でながら言った。

  「発言と行動が噛み合っていない……!」

  「そう思うのも無理はない。全てはきみの心を開く為、わたしの言葉を聞いてもらう為だ。八房くんと牛瓦は本当によくやってくれたよ」

  「この状態が、心を開いているように見えるのか?」

  相手に向かって自虐的な笑みを向ける。

  「そうマイナスに考えずともすぐに良くなる。ほら、体の痛みも引いていくだろう?」

  それに対して百瀬は俺の手を優しく擦りながら答えた。そして驚くべき事に、それを聞いた瞬間から肉体の痛みが消えていくのが分かった。

  「これは一体……」

  「話を聞いてもらう為だよ。ほら、落ち着いて」

  何気なく耳にした言葉が体に甘く浸透し、ごちゃごちゃとした思考を統一していった。優しい声、聞くものを包み込むような低音が、俺の興奮した頭を諌める。

  「わたし達は闇の世界の片隅に積み上げられた、名もなき骸が繋ぎ合わさって出来た何かなんだ」

  それを言う百瀬の顔は、どこか寂しさを帯びていた。

  「虎林大吾、きみにも分かる筈だ」

  二人の手が組み合わされ、強く握られた。

  「怒りの殻を砕かれ、自身の闇を自覚した今のきみになら、わたし達の居るこの場所の意味が」

  「ここの意味……」

  死骸、その言葉と今までの彼らの言動を鑑みると、自然と予想はついた。ただ、それが恐ろしくて目を背けていただけで、答え自体は子供でも分かってしまう位簡単だ。

  俺は温かい腕の中で、その事実に恐れを抱きながら尋ねた。

  「俺達が潰した組織の残党が、お前らなのか?」

  それを聞くと、百瀬は告白を受け入れられた女子みたいな朗らかな笑みを向けてきた。その笑顔は、正解を意味している。

  そして、その答えはまさに今一番導き出したくなかった答えでもあった。

  会話によって落ち着いた頭の中で、理路整然とした思考が積み上げられていった。

  「あれ、驚いてくれると思ったんだけどなぁ」

  引いていた震えが再び身体を襲い始めたのが分かった。

  「こんな事をするのは、俺達への復讐か?」

  「復讐なんてとんでもない」

  「俺が、お前たちの側だからか?」

  百瀬はそれに答えはしなかった。少しの間だけ、沈黙が世界を支配した。

  「ここはかつて存在し、もう居なくなってしまったものを弔う墓標でもあるんだ。虎林くん」

  百瀬の言っている事を理解出来ずに、困惑の表情を浮かべる俺。でも目前の獅子ははそんな事お構いなしに話を続けた。

  「すり潰され、支配される事を恐れる。それはわたし達も同じだ。だからこそきみにも聞こえ、見える筈だ。彼らの魂の叫びが、その輝きが」

  「違う……」

  「ここは行き場を無くした獣たちが集う最後の避難所。虎林くん、きみはここに居るべきだ」

  「違う! 俺はただ、他人に迷惑をかけるヤツを放っておけないだけだ!」

  歌を歌うように言葉をスラスラと紡いでいく百瀬を遮り、反論の声を上げる。だが、ヤツは止まらなかった

  「その為に力を求めた。でもどうなった?」

  「わかったような口を聞くな!」

  怒鳴り散らす俺を抱く力が強くなった。拘束から逃れるのが難しくなる。

  「この世界を守る為の力は、きみを守ってはくれなかった。わたし達との戦いの中で感じる恐怖からはね」

  その温もりとは正反対の突き放した言葉、まるで他人事のように事実を告げる獅子に、俺はどうしようもないやるせなさを感じた。そしてその気持ちは、言葉となって現れた。

  「こうなったのは全てお前達のせいだ……! お前達さえ居なければ、こんな気持ちになる事はなかった。俺は普通でいられるのに!」

  「そうだね、その通りだ。わたし達さえ居なければ、きみは心安らかに生きる事が出来た。でもそんな事はあり得ないんだ」

  百瀬の心臓の鼓動が伝わってきた。『その穏やかで確かな振動に安らぎを感じてしまう』

  生まれたての子供のように体を丸めた俺は、無意識に百瀬に甘えるように体を寄せた。相手はそれに応えるように、更に俺を抱き寄せ、体の震えを押さえ込んだ。

  再び流れ始めた涙が視界を曇らせたが、黄褐色の毛皮に包まれた指がそれを優しく拭い去った。

  「虎林くん、きみは少し身体が逞しいだけの、どこまでも普通の人間だ。だからこそ、きみは我々の叫び声を理解する事が出来るんだ」

  「俺は、ただ……お前達が許せなくて、だから力を得たんだ! なのに……何でこんなに胸が苦しい! 正しい事をしているなら、気持ち良くなる筈なのに……!」

  俺は心の中で澱のように沈殿した闇を吐き出した。積み重なった不安と疑念は凝り固まって、声に出す事すら苦痛だった。

  「こんな事はおかしいだろ! お前達の気持ちなんか、思いなんかを考えるなんて狂ってる!」

  それに対して、百瀬は首をふるふると横に振った。

  「正しい道が心地良いとは限らない。それに普通だからこそ狂う事が出来るのさ」

  現れた闇に百瀬は動じる事なく言葉を返す。まるで相手が一番楽になる答えを知っているかのような口ぶりで話す。

  百瀬の言葉が俺の頭を侵していく。脳が歓喜の声を上げ、性的興奮とは違った別種の快楽を生み出す。

  今まで戦ってきた敵、その中にあった感情を俺が知っていると言う事を百瀬は理解しているのだろう。その事実に対して、『俺は何故か嬉しくなったのだ』

  「わたし達は悪だ。それにこの生き方をやめるつもりはない。わたし達がわたし達である限り光と闇の戦いは終わらない」

  「だから、俺や八房を取り込むのか」

  「わたし達は邪魔されたくないだけなんだ。だから、道を妨げるものはあらゆる手段を使って排除しなければならない。自らが生き残る為にね」

  口から出た言葉は身勝手で、罪悪感が欠片も感じられないし、常人に理解出来るものではなかった。

  肉食獣が狩りをするのと同じだ。見ている視点が違うのだと直感する。

  「虎林くん、きみは誰よりも闇を受け止めてきた。だからこそ恐怖が芽生えた。わたし達の側に行かないように、越境を防ぐ為に」

  百瀬の言葉は牛瓦の言葉と比べると、蜜のように甘く、蠱惑的な魅力に満ちていた。

  「だからこそきみには資格がある。自分の為に悪を為す資格が」

  「そんな資格、誰も持っていないさ……!」

  「いいや、ある。少なくともきみは本物だ」

  コイツは本気だ。本当にそう思っている。

  「……この期に及んで俺がまだ仲間になると?」

  「きみは選ぶだけでいい。ここから出たいと言ってくれるだけでいい。力が欲しいと言うだけでいい。ただ、わたしの側に居てくれるだけでいいんだ。何も考える必要はない。自分が楽になる道を選べばいい」

  俺を抱きながら語りかけるその姿は、神に乞い願う敬虔な信者のようだった。

  「善の側に居る事で苦しむのならば、逆側に立ってみるのもいいかもしれない。それによって生まれる罪は、全てわたしが背負おう」

  その唇から紡がれる言葉は傲慢なものだったが、それ故に一点の曇りもなかった。百瀬は、俺をボーダーラインの向こう側へと誘う。

  「きみを動かしている尊い自己犠牲の精神、その炎は、敵を焼き尽くす浄化の炎にも、死者を送り出す弔いの炎にもなれるかもしれない」

  百瀬は俺の耳に口を寄せる。

  「これからはその美しい炎で、わたし達の歩む道を照らしてくれ。きみが仲間になってくれるなら、力をいくらでも用意するよ」

  その囁きは、例えるなら悪魔との契約、自分が生き残る為に全てを捨てて大きな力に従うという最悪の選択肢。

  『だが俺は、その選択肢を拒否する事は出来なかった』

  何故なら、今俺の崩れかけた心を支えているのは子供のように落ち着きのない獅子獣人の言葉だったからだ。脳幹に染み渡る心地のいい言葉に逆らう事は出来なかった。

  口の端が釣り上がるのを感じた。そして錆びついたように緩慢な動きで、凄まじくゆっくりとマズルが開かれる。

  「俺は……これからどうすればいい?」

  その不器用な笑顔から飛び出した言葉に、百瀬はにっこりと笑った。

  それは今まで見た中で一番の笑顔だった。

  「まずはお友達になろう。虎林大吾くん?」

  『俺の心は、こいつの言葉を聞く事に喜びを感じていた』

  そして俺は今この瞬間、自分の意志で死骸の一部に加わる事を選んだのだ。その選択は、不安定だった心にこの上ない安らぎをもたらした。

  

  *****

  

  死骸を繋ぎ合わせた怪物の一部となる事を選んだ虎林大吾、私は彼を偏光ガラス越しに見つめる。

  口の中に残った微量の精液を唾液に包み飲み込むと、ここは無味乾燥な隔絶された部屋の中だと言う事を確認する。

  ドクター百瀬は向こうの部屋で新しいおもちゃに夢中なようだ。彼の透明な牙は見事虎林を捉え、その精神に致命傷を与えた。烈火の如き意志を纏っていた虎は身ぐるみを剥がされ、弄ばれた挙句に死体に墜とされるだろう。かつての私と同じように。

  「八房、やはりお前でも堪えたか」

  横で私と同じように向こう側を監視していたドクター牛瓦が話しかけてきた。

  「いえ、大丈夫です」

  「……ふむ、そうか」

  その自らを厳しく律する聖職者を思わせる立ち振る舞いは、見る者に必要以上に厳格な印象を与える。

  彼は誰に対しても平等で、誠実だ。ドクター牛瓦は色眼鏡をかけて物事を見ない。それは変人だらけの組織において、とても貴重な才能に思えた。

  「元同僚を陥れた気分はどうだ。今まで俺と百瀬の補佐はしていたが、自分で実行するのは初めてだろう」

  「問題ありません」

  「同じく、成すべきを為すという事か……頼もしいな」

  牛瓦の声からは、多少の疲労が感じ取れた。やはり戦闘とその後の性行為で多大なスタミナを消費しているようだ。その重戦車のような肉体が苦しそうに上下していた。

  「ドクター牛瓦、少し休憩を取られては?」

  「いや、大丈夫だ。この程度で仕事に支障をきたしたりはしない」

  そう言って口から熱い息を排出しながら、腕を胸の前で組み、体勢を整えた。彼のよく響く低音の声も、気づくといつも通りになっていた。

  目の前に広がる百瀬の戦いを眺める。彼の戦いは言葉と精神の戦いであり、機械の補助があったとしても、根本的な部分は変わらない。私が彼と初めて会った時から、何も変わってはいない。

  「八房、お前は虎林の事をどう思う?」

  「どう思う……とは?」

  「率直な感想だよ。お前はあいつと一緒に働けるとしたら嬉しいか?」

  そう言われ、私は考えた。虎林大吾が仲間となり、共に組織に奉仕する時が来た場合の事を。

  「特に思うところはありませんが……」

  「……お前は相変わらず感情の起伏が無いな」

  「申し訳ありません。善処します」

  無駄話に花を咲かせるのは彼にしては珍しかった。ドクターなりに私の事を気遣っているのだろうと推察する。

  目の前では百瀬が虎林大吾を抱き締めていた。大人しく抱かれている虎林の顔には、安堵の色が浮かんでいた。

  その表情を見ていると、自然と過去の記憶が思い出された。この組織に所属するきっかけとなった出来事が、頭の中で芋づる式に現れ始める。

  ―――きみは何がしたいのかな。言ってごらん?

  「……!」

  耳元で百瀬の囁きが聞こえた気がして、思わず身を固くした。

  「どうした? 八房」

  その変化に牛瓦は敏感に反応した。肉体の微かな動きを感じ取り、こちらに話しかけてくる。

  私は周りに聞こえない程小さく浅い呼吸を繰り返し、硬直した肉体を元に戻す。荒れ果てた大地を平坦な更地に変えていくように、精神を落ち着かせる。

  「いえ……何も」

  「やっぱり疲れているんじゃないか? 先に休んでもいいんだぞ?」

  「ありがとうございます、ドクター牛瓦。問題ありません」

  不自然な態度に写ったのだろう。牛瓦は顔をしかめながら視線を前方に戻した。

  自分の中に生まれた揺らぎに戸惑いつつ、平常心で居る事に努めた。

  体に何も異常はない。いつも通りだ。

  「八房、少しいいか?」

  「……? はい、ドクター牛瓦」

  牛瓦が目の前の光景から視線を外す事なく話しかけてきた。彼の横顔に視線をやりつつ答える。

  「やはり百瀬は、日記を続けているのか」

  「はい、ですがドクター牛瓦……何故それを知っているのですか?」

  「日記のネタがどうのこうのと言ってただろう?」

  どうして今その事を尋ねるのか、頭の中に疑問が生じた。

  「アイツは自分で書いた文字をもう一人の自分だと言っていた」

  「もう一人の、自分……ですか」

  「悲しみも、喜びも、全てを思い出す為に書いているのだと」前を見てはいるが、その瞳は過去に向けられているような気がした。「百瀬は、この事をどう日記に書くんだろうな」

  「……私には分かりかねます」

  その答えを聞いて余程面白かったのか、彼は笑いを噛み殺した。

  「お前達二人はいつも腹の探り合いをしているのに、お互い成果を得られていないようだな」

  「それは、どういう意味でしょうか」

  「そのままだよ。まるで距離感が分かっていない恋人同士のようだ」

  「私はドクター百瀬に従います。必要とあれば、命を投げ打つ覚悟も出来ています」

  「百瀬が慰安セクションからお前を救い出した時、俺はアイツの事を理解出来なくなった」

  その声は、苦しみを含んでいた。まるで、予期せず大切なものを手放してしまった事を悔やんでいるような悲しい響き。

  「アイツはお前にゾッコンだ。八房、百瀬はお前の為に全てを投げ打つ事ができる。それだけは俺にも分かる」

  彼の発言が純粋に理解出来なかった。何故今話すのかを含めて、様々な要因が私を疑問に導いた。

  「八房、お前は百瀬をどう思っている?」

  牛瓦は、気づけば私の瞳をまっすぐ見つめていた。あらゆる欺瞞を貫く鋭い視線が私を貫き、狼の本能が真実を話すべきだと警鐘を鳴らした。

  「私には……分かりません」

  「分からないのに、命を投げ打つ事が出来るのか?」

  質問されているだけなのに、何故か責められているような気がした。

  「私は一度、人間として死にました。投げ出されたいのちを再び体に戻し、生きる意味を与えてくれたのはドクター百瀬です」

  「お前の精神を殺したのが、我々だったとしても?」

  私を暗い闇の底に堕とし、魂を殺したのはこの組織だ。だが、それを鑑みても、私には彼に対する恩義のようなものがあった。

  薬物投与を絡めた洗脳措置で意識を泥のような闇に染め上げられた私を助けたのは、同じ組織の一員であるドクター百瀬だった。彼は組織に盾突き、命の危険を犯してまで敵である私を救い出した。

  その結果、精神科学セクションのメンバー全員から反感を買い、離反されるという結果を招いた。それでも、彼は私の意識を"洗脳される前の状態に戻すのを止めなかった。"

  彼の声が再び頭の中でリフレインする。

  ―――きみは何がしたいのかな?

  その言葉に私は答えなかった。心を失った人形、与えられた指令をただこなすだけだった自分に訪れた選択の自由、それは想像していたよりも重く自らにのしかかった。

  彼はそんな私を洗脳し仲間にしたと周りに嘘をつき、自らの懐に迎え入れた。身分を用意し、役目を与えた。

  不足した人員を補強する為にドクター牛瓦がメンバーに加わっても嘘をつき続け、そのスタンスを変えなかった。

  ―――きみはわたしを殺して逃げてもいい。成すべき事では無く、やりたい事をやればいい。見つからないというのなら、見つかるまで死体の山の中で休めばいい。

  私は何も選ばず、今ここに居る。何故私を選び、迎え入れたのか、百瀬の真意は謎のまま、疑問は心の中に棘として刺さり続けている。

  「それが紛れもない、私の本心です」

  彼の思いを確かめる為に虎林大吾の様な犠牲を産んでしまったとしても、立ち止まるつもりはなかった。どこまでも冷酷に闇の中を進む覚悟を決めたからだ。

  「お前も、不器用なんだな」

  そう答えた牛瓦からは、感情を窺い知る事が出来なかった。

  「そろそろ今日のスケジュールが終わる。百瀬が戻ってくるぞ」

  偏光ガラスの向こう側では、百瀬が白衣を脱ぎ、虎林大吾に掛けている様子が見えた。

  「はい、ドクター牛瓦」

  自らの為に悪を為す怪物に成り果てた私には、必ず裁きが下されるだろう。

  それまでは、この闇の道を走り続ける。照らす光すら無い、地獄へと続く長い長い戦いの道を。

  私はこれから戻ってくるであろう獅子を迎える為に、闇を凝り固めたような黒いドアの前へ立った。

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