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美人だった女の子が柔道を初めて人生が変わる話

  ◇◇◇

  触れたほっぺたの感触は、思ったよりも冷たくて、思ったより柔らかかった。

  「びっくりした?」

  「……」

  触れたそこを掌で抑えて、太い眉を持ち上げて、目を丸く見開く同級生男子。適当に散髪屋で短く切り揃えたというような、それでいてそれが野暮ったく見えない整った丸い顔立ちを、徐々に赤く染め上げていく。

  私はそんな初な反応に思わず、くしゃみをするように笑いを込み上げさせていた。そして、人差し指と中指を立ててその並んだ腹の指を、自分の頬に押し付けた。

  「あははっ、キスされたと思った?」

  「ぁ……っ、な、おま……、ああ、もう……ッ」

  中学三年生の冬。

  帰り道。

  私は学校から少し出た所で偶然ばったりと出くわした男子と帰っていた。他の男子に見られたら「付き合ってんのか~?」と誂われるかもしれない。そんな事を思いながら、どこかそうなってくれないかなと願っている。そんな帰り道。

  「美夏お前、そんなんで高校行ってイジめられても知らねえぞ」

  「やんないって。こんなイタズラに引っかかるのなんて、暁豊くらいしかいないんだから」

  「あのな……目瞑って、なんて言われたら……多少、そりゃ思うだろ」

  「えー? 何をー?」

  「……っ腹立つ……!」

  キスされると思った。

  そう言いたげだが、それでも言おうとしない男子。その体つきはもう大人と変わらない。

  彼――石郡 暁豊は私より少し高い170cmだ。体重はもう少しで70kgになるとか言っていた気がする。痩せ型の私が二人分くらいの体重。とはいえ並んで見ても真半分なんて印象はなくて、筋肉は重いという話はホントウなんだろうなとなんとなく思う。

  私の身長は160cm。

  少し背伸びすればその頬に唇を届かせられる身長差だ。

  「息まで吹きかけて、騙すのに本気かよ……」

  「何にでも一生懸命になれるのは私のいいところだから?」

  「誰も、そういうつもりで言ってねえ。なんだ、色々あって……大変だなとか、思った俺の優しさとか、さあ」

  赤い頬を擦りながら、体は大きいけどまだ垢抜けない顔立ちを不機嫌そうに膨らませ、暁豊は溜息を吐いた。

  『色々あって』

  そんな言葉に私は、少し笑みを強張らせてしまう。それからすぐに取り繕う。そもそもあんなイタズラを仕掛けたのには理由があった。

  元々、私達は同じ都内の私立高校へ通う予定だった。中学三年間を同じクラスで過ごして、高校も一緒。「腐れ縁だね」なんて話していた所に、父の勤めていた会社が倒産――私立高校への進学を断念せざるを得なくなったのだ。

  滑り止めで受けていたレベルを数段落とした公立工業高校に合格していたから進学自体はできた。でも問題は……。

  「あーあ、でも勿体ないな。親友の活躍見れなくなるなんてさー」

  「……自慢できなくて残念ってか?」

  「ううん。折角の腐れ縁なんだし、柔道の応援とかちゃんとしてあげたかったなって」

  暁豊と一緒の高校にいけなくなったことだ。

  その事に加えて家の事とか、進路の事とか。そういう事を心配されて悲しくなった。社交辞令とかじゃないのは暁豊の表情を見ていればよくわかった。三年殆ど毎日顔を合わせている相手だ、ソレくらい分かるようになる。

  だから、適当なおためごかしが悲しかったわけじゃない。

  不思議だった。

  自分で思っても「仕方ないよね」と思っていたことを暁豊に言われただけで、一気に涙が溢れそうになったんだから。

  困った。

  「じゃあ、最後に良いプレゼントあげる」と言って、暁豊に暫く目を瞑ってもらったのは、そんな私の顔を見られたくなかったから。イタズラは、言い訳のための口実だった。

  ――私は、暁豊が好き。

  元々私達が行く予定だった私立高校は、柔道部にも力を入れている高校だ。

  幼少時から柔道と育ってきた暁豊はそんな私立高校に入学して柔道にもっと身を入れていきたいと言っていた。スポーツ推薦を希望して選考から落とされ、それでもと一般入試で入学を手にした。暁豊にとっては夢の第一歩と言っても過言ではない進路。

  (……一緒の高校に行きたい、なんて)

  それを私の事情で諦めてなんて、言えるはずがなかった。

  「じゃあ、応援させてやるよ」

  「……え?」

  「俺が県代表になって全国出て、新聞にも乗るようになって、テレビにも乗るようになって……ソレくらい活躍すれば、お前だって応援できるだろ?」

  そう言って暁豊は、少し赤みが収まってきていた頬をまた更に赤く染めあげる。それを隠すように学ランの襟に顎を埋めるようにして顔を逸らしている。

  そんな暁豊に私はわけも分からず笑いが込み上げてきて、くすくすと暫く言葉も出せないでいた。

  「じゃあ、うん。その時は、目一杯自慢するね」

  目尻に浮かんだ涙を拭って、私は不機嫌そうにする暁豊にそう微笑んだのだった。

  それから……。

  ◇◇◇

  「美夏~、お願いッ! 一生のお願い!!」

  「一生のお願いって、おととい咲凪にチョコアイス一個あげたとき、使ってなかった?」

  「実は私……昨日一回転生してて、今二度目の生を受けてるの」

  「めちゃくちゃ便利設定じゃない、それ? もう、分かった、聞くだけ聞く。……で、なに?」

  昼休みの教室内で美夏――汐見 美夏は、クラスメートの咲凪に拝むように手を合わせて土下座されていた。周囲からビシビシと好奇の目が突き刺さる。

  椅子に座った自分の足元に蹲るショートカットの頭頂部を見下ろしながら、ひな壇芸人さながらの腰の低さを披露するクラスメート。そんな彼女に美夏は慣れた様子で、そのお願いとやらを聞いてやろうと問いかける。

  その瞬間、パァッ! と顔を輝かせた咲凪は自分の机に走っていき棚に手を入れた後、美夏の机の上にバンと掌を叩きつけた。いや、掌と机の間に一枚の紙切れが挟まれている。どうやらこれを取りに戻っていたらしい。

  「……これって、入部届?」

  その手が退けられた後、それを摘み上げる。咲凪はさっきまでの低姿勢など忘れ去ったように机に腰を預けて頷いた。

  「そ、女子柔道部……知ってる?」

  「知ってるも何も、唯一残ってる女子部でしょ?」

  「残ればねえ……」

  と嘆息する咲凪。

  工業高校という女子が集まりにくい環境だ。部活においても男子部は多いが、女子部は殆ど無い。昔はハンドボール部やバトミントン部など女子部があったらしいが、部員が集まらず徐々に消えていき、最後に残ったのが柔道部だった。

  どうやら、そんな柔道部も廃部の危機にあるらしい。

  その辺りで美夏は咲凪のお願いとやらが分かってきて、眉間を指の腹で揉み込んだ。

  「美夏も柔道部入ってくれないかなあ……って?」

  「あーやっぱりそうなる?」

  「待て待て待て待て」

  予想通りのお願い事に美夏は机に項垂れながら、咲凪が心底困っているんだろうなと考えていた。美夏を運動部に……それもマネージャーではなく部員として誘うだなんて。

  細い男子程度なら簡単にのしてしまえそうな咲凪とは違い、美夏は細身で柔道なんて柄では無い。そんな美夏に声を掛けるほど逼迫しているということなんだろう。

  と考えていると、遠巻きに見ていた男子から待ったがかかった。

  「何よ、高原。今、私が美夏口説いてるんだから邪魔しないでくれる?」

  「いやいや、汐見さんにマネージャーしてほしいって奴らがいっぱいいるのに、女子柔道に持っていくのは全男子を敵に回すことになるぞ。分かるだろ、野坂……!?」

  「でもアンタ、フラレたでしょ」

  「ぐぁあ……ッ!」

  「しかも二重の意味で」

  「ぬぐう、連撃……ッ!!」

  咲凪の歯に衣を着せない直球に、高原という野球部に所属している男子はその場に崩れ落ちる。

  二重の意味で、というのは、マネージャー勧誘と彼女になって欲しいという告白も合わせてということだ。

  正直、自分自身そこまでの自覚はなかったが、美夏は結構な美人だ。

  工業高校の希少な女子である上に、正直見た目に気を使っているとは思えない女子ばかりだったため、美人新入生の美夏は入学初日から既に全校で話題に上がるほどだった。その注目具合は入学から一ヶ月で告白された数は15人を超える。休日を省けば、平均して3日に2回は告白されているというハイペースだった。

  そんな事を聞けば、人数が少なくグループで固まる事になる同性から嫌われる事もあるように思うだろうが、殆どが上級生からの告白で、その全てを美夏は断っていた。それもあって、元々世話焼きな性格も幸いし同級生女子のお姉ちゃん的ポジションに収まってむしろ女子からの方が支持率は高い。

  そんなモテモテだった美夏は、暁豊への想いを忘れられずに新しい恋人も部活も始められないままでいたのだ。

  とはいえ、それでも部活のマネージャーになってくれないか。という話が教師からも来るようになってきた辺りで、このまま帰宅部でいるのもそれはそれで面倒かも知れないと思い始めていた。そんな時の咲凪の誘い。

  

  (……いいタイミングなのかも)

  美夏は、これまでに自分がしてこなかったことを初めて見るのも良いかも知れないと、入部届を見たその時に思いついたのだ。

  「……いいよ」

  「え!? ほんと!?」

  「ほんと。書いて先生に出せばいいの?」

  「うん! ありがとう美夏~!! 大好き!!」

  と高原が愕然としているのを捨て置いて、飛びついてハグしてくる咲凪の体重に押しつぶされそうになりながら、その背を撫でてあげる。

  そうしながら、美夏は少し寂しい想いを抱えているのを隠すように「もー、苦しいよ」と微笑んでみせた。

  (……何もしないよりいいし。もしかしたら暁豊と会う機会だってあるかもしれないもんね)

  暁豊とはチャットアプリで繋がってはいるけど、一度も個別で連絡を取ったことはない。高校になってからも、結局一度も連絡をとらないまま。

  暁豊が言っていた通りに、柔道で記事に載っていれば話掛けもしやすかっただろうけれど、まだ高校に入ってすぐだ。ネット検索をしても名前が引っかかるはずもない。

  もう少し、待っていよう。

  なんて思っていたけれど、柔道部に入って私から声を掛けてあげるのも悪くないかも知れない。そう考えれば、良い考えのような気もしてきた美夏だった。

  ◇◇◇

  そして、入部一日目。

  「あ、汐見ちゃんだ! ウチの男子が話してたよー、ウザいよねー!」

  「でも、ほんとに細い。私らみたいなゴリラ女と柔道して大丈夫かな……」

  「冷静にゴリラ女とかいうのやめてよ」

  「先輩はブタゴリラですもんね」

  「いや、それ悪化して……って誰がブタだ、野坂ッ!!」

  部活開始前に挨拶をしにきた美夏は、女子だということを完全に放棄したようなガサツさに圧倒されてしまっていた。

  恰幅がいい――といえば聞こえは良いが、一番細い部員でも平均体重は完全に上回っているだろうぽっちゃり感がある。しかも、咲凪に『ブタゴリラ』と言われた先輩は、まだ柔道着に着替えてもいないのにスカートの中身が露になるのも構わず咲凪に寝技を仕掛けている。

  柔道場の反対側では準備運動をしている男子もいるのに、パンツが見られる事をなんとも思っていないようだった。

  「ちょっと、ゴリ子。廃部危機を救ってくれた救世主様が引いてるよ」

  「ゴリ子やめれ。って、そうだった……ごめんね、汐見ちゃん」

  「い、いえ……」

  美夏は、思わず引き攣った笑みを浮かべながら首を横に振る。

  「えっと今日はひとまず見学って事で、まず簡単に準備運動付き合ってもらおうかなって……先生、遅れてくるらしいから柔道着とかの相談は、見学中とかに出来たらしてみて」

  「あ、はい」

  「よっし、じゃ、男子着替え終わったっぽいし、着替えてやるぞー!」

  あいー、という華やかさの欠片も無い声が返ってきて美夏の柔道部初日が始まったのだった。

  「……ふう、なんか、すごい……疲れたな」

  その日の夜、美夏はベッドに寝転びながら天井をぼうっと見上げていた。

  準備運動も体育以外であまり運動をしてこなかった美夏には多少堪えるものだったが、今、美夏の感じている疲労はそこからくるものではないだろう。

  柔道部員達の女子とは思えない豪放さ。それに振り回されて、体力というよりも気力が削られる一日だった。

  驚いた事はいくつもある。

  一つ一つ上げていけばキリがないけれども、敢えて一番を上げるとすれば、男子と更衣室が共有という事だろう。

  元々女子柔道部は、数代前に廃部になっていた所から復活した部で、元々女子更衣室だった所は倉庫になっている。だから、女子柔道部は、男子が着替え終わった後の更衣室に着替えを持ち込んで着替える、という方式を取っていた。

  女子更衣室に男子が入るのは問題だが、男子更衣室に女子が入るのは問題ないだろうという結論なのだろうが、美夏にとっては男子の着替えている場所に入るということだけでも忌避感があった。ただ幸いしたのは、歴代の女子柔道部員が男臭い更衣室を嫌ったのか、キレイに使われていて造花などもあり男子更衣室感は薄かったことだろうか。

  まあ、それが一番驚いたことだ。

  「すごいな、咲凪……」

  何に驚いたかといえば、部員が誰もそれを普通に受け入れていることだった。部長なんて、床に落ちていた男子のパンツを拾って「杵塚のクソ、また脱ぎ散らかしてやがる」と容赦なくそれをゴミ箱に突っ込んでいた。

  男勝りとかガサツとかを通り越して、もはやワイルドなオカンだ。

  「……悪い人達じゃないんだけどね」

  と不安を感じている……というよりも異文化に触れたがごとく驚愕してしまった事を少し負い目に感じながら、言い訳をするように呟いてスマホを見つめる。

  暁豊に送ったメッセージが表示されている。

  『久しぶり! 柔道頑張ってる? 実は友達に頼まれて柔道部入ることになっちゃってさ、マネージャーじゃなくて部員で、マ? って感じw

  そっちは最近どう?』

  個別で初めて送るチャット。どんなテンションで送れば良いのか分からないまま送ったチャットには、既読マークはまだ付かない。

  部活で忙しいのかも知れない。

  スポーツ推薦じゃないなら勉強もちゃんとしなくちゃだし、疲れて寝てるのかもしれない。

  でも、気づいたら何かしら反応を送ってくれるだろう。と、そう思いながら美夏は部屋の明かりを消すと、そのままベッドに転がって目を閉じた。

  疲れが出たのだろう。寝入るのにそう時間はかからなかった。

  次の日から美夏は柔道部の練習に参加するようになっていき、そして、次の次の日も、その次も、一週間後ですらも、暁豊からの返信は無いままだった。

  ◇◇◇

  「……一週間か」

  美夏は更衣室でスマホを眺めながら、溜息をついた。

  少し抜けている事もある暁豊だ。もしかしたら、見ていないだけかも知れない。そう考えながらも、色々と嫌な考えが頭に浮かんでくる。

  もしかしたら、通知をミュートにされていて気づいてすらいないのかもしれない。本当は連絡先も知りたくなくて、美夏がからかっていたのが心底から嫌だったのかもしれない。

  胸が締め付けられる。

  元気なら良いけど。そんな風に思いながらも、心ではどうして元気なんだとしたら返事をくれないのか。そこだけが気になっている。

  「美夏、どうしたの?」

  目頭が熱くなってくる。今にも泣き出してしまいそうになる寸前で、咲凪が後ろから声を掛けてきてハッと我に返る。

  「ご、ごめん。今行くー」

  「ううん。まだ時間あるし、急がなくてもいいよ」

  「ありがと。でも準備終わったし、一緒に行こ」

  美夏はスマホをカバンに押し入れながら、括っていた髪を解いた。肩の長さの髪は、柔道をする時はくくらなきゃいけない。そのため運動をしても乱れにくい括り方を先輩達から教えてもらった美夏も、そろそろこの括り方もマスターしてきた頃合いだった。

  咲凪と一緒に更衣室を出て、顧問の先生が待つ校門に向かっていく。空は赤く染まり始めていて、少し春に残る肌寒さが顔を覗かせている。

  柔道を初めて、一週間。

  女子柔道部で驚いたことは多いけれど、今一番衝撃を受けているのは部活中の事ではなかった。

  「お疲れ様です」

  「おつかれ汐見、野坂」

  校門で待っていたのは、顧問と柔道部の先輩達だ。

  部活が終わった後、部員はこうやって再度校門に集合することになっている。そして、その足で向かうのは。

  「よーし、お前らじゃんじゃか食えよ!」

  「今日はどうしよっかなあ。カルボナーラとドリア、シーザーサラダは外せないとして……フライドポテト盛りと、チキングリルもかな」

  「部長ってクリーム系好きなのは、ゴリラじゃないんだよね」

  「いえ、むしろ摂取カロリー的には合ってますよ」

  「誰がゴリラだ、早く頼めや」

  学校近くの個人経営のファミレスだった。

  顧問の親族が経営しているとかで、殆ど毎日部活後に奢ってくれるのだそうだ。曰く、体を作るのも大事な部活だとかなんとか。

  驚くことに部長が頼んだメニューは全員分ではなく、一人分だ。しかも、部長が特別に大食漢なのではなく、全員が同じくらい平らげてしまうのだから、初めてそれを目の辺りにした時は、思わず自分が頼んだパスタを食べるのも忘れてそれを見入ってしまっていた。

  柔道部の練習自体は結構きついのに、部員が誰も痩せていない理由はおそらくこれだろう。

  「美夏はどうする?」

  と咲凪に聞かれて、思わず唸ってしまう。

  お腹は空いている。けれども、最近周りの勢いに呑まれていつもより多く頼んでしまっていた。美夏も育ち盛りの年頃ではある、少し多く頼んだからと言って食べ切れはしている。

  問題は残すかどうか、といったところではなく。

  (お腹、つまめるようになっちゃってるんだよね……)

  ただ成長期の体は数日のカロリーをもう既に脂肪に変え始めていたのだ。

  それに気づいたのは、昨日の夜。お風呂に入りながらなんとなくお腹を触っていると、下腹部に少し前までは絶対に無かったたわみが出来上がっていたのだ。

  太った。

  心当たりは、余りにもありすぎた。

  お風呂を上がってすぐ体重計に乗ると、数日前まで45kgを示していた体重計の数値は、48kgを指し示していた。原因は分かり切っている。

  この食事だ。

  「えっと……どうしよ」

  痩せたいなら、食べなければいい。そう思いながらも、この数日で消費カロリーが急上昇したせいか、たらふく飯を食わせろと腹の虫が悲しげに鳴いている。

  美味しそうな匂いに包まれたレストランの店内で、食欲を抑えきれるかと言われれば、……難しい。

  (太っちゃったら、暁豊に可愛いって言ってもらえなくなるのかな)

  メニューを選ぶ振りをしながら、美夏はまだ返事どころか既読すらつかないチャットの受信相手を思い返していた。一週間もスマホを見ないなんて事はありえないだろう。

  なら、きっと暁豊からの返事が返ってくる事もないのかも知れない。今まで考えないようにしていたけれど、きっと私はフラレたんだろう。

  告白もしていないのにフラレた。なんて言うのは烏滸がましいだろうか。

  そう考えつつ、ふと、美夏は周りの部員達を見つめて気がついた。

  (そう言えば、咲凪も先輩たちも、私のこと可愛いとか言わないんだよね)

  正直そこまで美人だとは思っていない美夏にとっては「可愛い、美人」と言われる事は、嬉しくもありなんとなくプレッシャーのようなものも感じる言葉だった。

  特に高校に入ってからは、言われる事が格段に増え辟易していたまである。それが柔道部に入ってから先輩たちと過ごすことが増えて、そういった事もあまり言われなくなってきた。

  価値観の違いとしんどい練習。それでも柔道部を続けようとなんとなく思っているのは、それが心地よかったからかもしれない。

  そう思えば、心が楽になった気がした。

  (部活続けるなら……お母さん達も隠してるんだろうけど家計大変に決まってるし、ここでガッツリ食べた方がいいよね)

  どうせ高校を卒業したらそのまま就職活動だ。

  キャンパスライフでおしゃれして、なんて考えてもいたけれど、大学の入学費も用意できる余裕なんてないし、自分で稼げるはずもない。それを両親が申し訳ないと思っているのがひしひしと伝わってきて、それも更に思い詰める要因になっていた。

  それに何より……やっぱり暁豊にだってもう会えないのだなという事が、一番辛い。でも、それなら、もういっその事新しい自分を目指してもいいのかもしれない。

  全然上手く動けないけれど、意外と体を動かす事が性に合っていたのかも知れない。美夏は柔道部がちゃんと楽しいと感じ始めていたのだ。

  「私は、えっと……カツカレーとグリーンサラダ、それと和風ハンバーグで」

  「お、美夏行くねえ」

  「良いじゃないか、食って運動して。それでこそ我が柔道部だ」

  「えへへ、お腹空いちゃったから。すみませんオーダーお願いします!」

  吹っ切れた気分で美夏はちょっとオーバーかも知れないメニューを頼んでみる。だが、それを否定する声なんてものはなく、その選択を応援してくれる意見に囲まれながら、美夏は新しい自分を手に入れる為に一歩踏み出したのだった。

  ◇◇◇

  それから二ヶ月。

  「ん……ぅう」

  夏の暑さに耐えかねて木陰で涼を取るセミが騒がしい朝。それらに叩き起こされるように、いつもと同じ7時に目が覚めた美夏はベッドの上でぐぐっと背伸びをした。そして、そのまま眠気眼を擦りながらベッドから下りて、柔道着を入れたカバンを手に取ろうとし。

  「あ、今日日曜だ」

  部活が休みだという事に気がついた。

  美夏は暑さに二度寝も出来ないなと少し未練がましくベッドを見つめる。眠気はあるけれど、全身がしっとりと汗に濡れていて気持ちよく眠れそうにはなかった。

  「どうせならシャワー浴びて着替えよっかな」

  パジャマの裾から手を差し込んで、お腹下に溜まった汗で痒くなった所を掻きながらあくびをする。

  柔道部に入って二ヶ月。

  美夏は少しずつ、しかし確実に体重を増やしていっていた。とはいえ、勿論、脂肪だけではなく筋肉も増えている。

  だが、やはり体の表面的に見える部分としては、ぽっちゃりしてきたという印象が先にくるもので、それは本人の自覚としてもそうだった。

  脱衣所で服を脱いだ美夏は、下着だけの自分の姿を見つめる。

  「んー、太った……よね」

  くびれすらあった腰は少しずつ寸胴な形に整えられていっている。

  ほっそりとしていたお腹もふっくらと膨らんで、コップから溢れる寸前の水のように、下着のゴムに肉が少し乗っかっていた。この腹の下に汗が溜まりやすく、部活中も痒くなって気が散ってしまうのが最近の悩みだったりもする。

  腕も足も太くなっていて、春頃に買った数着はもう着れなくなっていた。

  「まあ、無理に履こうとすれば履けるけど……」

  一度、ジーンズを先輩達と遊びに行く時に着ていこうとしてみたが、ジッパーを上げる時にブチとどこかの糸が切れるような嫌な感触がして以来、履こうともしていない。

  気に入っているデザインだったから、正直捨てるにも捨てきれずにいるわけだが、ここから痩せる予定もない事を考えると持ち腐れのような気がしてきて、美夏はこれ以上考えるのをやめた。

  「……これも、そろそろ買い直さないと、かな」

  服に関して言えば、差し迫る問題は私服以外にもあった。

  下着だ。

  パンツはまだ大丈夫。だが、ブラジャーは別だ。どうやら胸から脂肪が付き始めやすい体質だったらしい美夏は、この1ヶ月程でバストの大切さを身に染みて実感していた。

  サイズの合わないブラをしていると、運動していると如実に動きにくくなってしまう。ホックを外した瞬間、呼吸すら快適に感じるのだからこればかりは急務だと感じる。

  「んー。よし、今日、買いに行こ……咲凪、暇かなあ……?」

  ついでに、気になっていたスイーツのお店も行ってみたいな。と、美夏は胸を弾ませながらバスルームの戸を開けた。

  ◇◇◇

  丸みを帯びたシルエット。柔道着に包まれた二人の女子が開始の合図と共に腕を伸ばした。女の子らしい小さめの手に、肉付きの良い丸い指。

  その指が襟を掴むのは同時。

  重心を深く落としたその一人――美夏は、掴み掴まれた間合いの中で、足先を先輩の両足の間へと滑り込ませた。腕と足、そこを基点に自ら重心を崩して、その負担を相手へと押し付ける。

  熱い。

  じわりと額から溢れた汗が頬を伝う、その最中で見えない手で払われたように汗の粒が宙に跳ねる。美夏が投げにかかった遠心力で、柔い肉に包まれた頬が波打って汗を弾き出したのだ。

  

  「――!」

  柔道を始めた始めこそ投げられてばかりで、練習であっても勝ち星一つ上げられなかった。

  それはそうだ。体重が45kgだった美夏に対して、部員の中で一番軽い先輩であっても60kgを軽く越えている。15kg以上の差に技術的なギャップもあれば、柔道部だった同級生の応援をしていた程度の美夏が力押しをした所で勝てるはずもない。

  それでも、少しずつ筋肉をつけ始めていった美夏が初めて咲凪に一本を取った時の感覚。それが、負担の押しつけ。

  相手の力を利用する、と思ってしまえばどうしても受け身になってしまう。そんな美夏が考えたのは、自分から動いて初動を把握するということだった。

  「ッ……ぁ」

  美夏の口から空気が漏れる。

  先輩の体が宙に浮く感覚――いや、それは自分が投げたかった感覚じゃない。体重を掛けて投げに対抗しない。抵抗されるひっかかりから入れるはずだった力がすっぽ抜けるように流される。

  刺さった釘を抜く前に、どれくらいの力で抜けばいいのかを確認するため軽く引っ張った。その瞬間に釘の方から抜けてしまったような空振り感。

  それは先輩が美夏の足を跨ぐように体を横に流したからだ。

  (返される……!)

  投げられた勢いがそのままに返ってくる。

  踏ん張ろうと足を踏み出すも、遅い。美夏は先輩の襟を掴んだまま道連れにするように背中を付けないように畳の上へと倒れ込んだ。

  横倒し。受け身を取る。先輩が抑えにかかる。

  まだ判定は出ない。

  その瞬間、先輩の表情が緩んだのを美夏は見た。

  「っ、ぇ」

  考える余裕もなく、掴んでいた襟を引いた。

  息を呑む声が美夏の上から横へと流れていく。先輩の体を引くの力を利用して、自分の体を押し上げる。抑え込まれそうになっていた一瞬前とは上下が、形勢が逆転する。

  美夏は先輩に全体重を掛けるように抱きつく。柔道着越しに熱く火照っている張り出した腹と胸の感触。先輩の背中を床に着けようと押し付ける美夏と、逆に床から背中を剥がそうと上体を起こそうとする先輩。

  互いに重ね潰し合う同じ肉感を感じながらも、互いに思うことは正反対だろう。

  油断するな、と二十秒が過ぎるのを堪える美夏は、最後まで抵抗しようとしていた先輩の体から力が抜けていくのを感じた、その瞬間。

  「汐見、一本!」

  顧問の審判が響き渡った。

  「ああー、油断したッ!」

  「びっくりしましたよ、先輩。あそこから寝技に持ち込まれるなんて」

  「だって、汐見ちゃんに勝とうとしたら寝技でしょ?」

  先輩を助け起こしながら眉尻を下げた美夏に、先輩はそう相好を崩す。

  そう言われてしまえば返す言葉はない。柔道を初めて春夏、そして秋が過ぎた。立ち業や投げ技は身についてきた美夏だったが、まだ寝技は全く安定しないまま。

  十分に試合で使えるのは単純な抑え込みくらいだ。

  「でも、強くなったよね。実は初心者詐欺だったりした?」

  「やだなあ、先輩。私、ひょろひょろだったじゃないですか」

  「そうだねえ、だってお腹なんてもっと『ペローン』ってしてたもん」

  「やめてくださいよ、先輩~っ」

  と先輩は美夏のお腹を両脇から挟むように揉む。

  冬とは言え、練習している柔道場は湿気のある熱に包まれている。当然、その発生源はその中で運動している柔道部達の熱気に違いなかった。

  発生源の一人である美夏の汗を吸った柔道着は、1年前から比べると驚くほどに変貌した美夏の体つきをありありと輪郭に浮かべている。

  以前では腹肉を掴もうとしても指が滑るばかりだっただろうが、今は力を入れずに挟みこむだけで自然と押し出された肉が掌の上に乗っかってくる。といえばその変化も分かりやすいだろうか。

  汗もかきやすくなって、水を飲む回数も増えた。水筒なんて殆ど口を付けなかったのに、今は1Lペットボトルをカバンに詰めていないと間に合わないほどだ。

  「汐見ちゃん、今何kgだっけ?」

  「64kgですよ」

  お腹を揉んでいた先輩が、美夏を見上げて言う。それに、隠すこと無く答える。

  柔道を始める前であれば答えるのに躊躇うような質問だが、今は出場階級の管理の上で事あるごとに先生に体重を報告している。どうせ、何か大会に出場するとなれば、階級で凡その体重が知れるのだから、隠す意味なんてまったくない。

  ――とごく自然に考え出している事が、一番美夏の中で変わったことなのかも知れない。

  「じゃあ、汐見ちゃん来年から無差別級か……73kg級は高校じゃ大会なかなかないもんね」

  「ですね、自分より重い相手久々になるんで、そこ心配ですよね」

  「でも汐見ちゃんなら、すぐ次の階級にも行っちゃいそうね」

  「ブタゴリラの座は私が貰っちゃいますね」

  「下剋上だね、汐見ちゃん!」

  こんな会話も楽しめるような明るさを取り戻していた。少し吹っ切れすぎな部分もあるかも知れないけれども、それを指摘するものは誰もいなかった。

  部員の誰もがそんな彼女を受け入れてくれていた。

  ――いや、ただ一人。

  「誰が……なんだって?」

  一人。部長だけがそんな会話に青筋を立てている事に、二人はその腕が首に絡まる直前まで気づかなかった。

  ◇◇◇

  そして二年の春。

  暁豊の事は、もう気にしなくなっていた……といえば、嘘になるけれど。それでも、彼の事を思い出す回数はめっきり減っていた。あれから、暁豊の記事が世に出ることはなかったし、チャットを送って三週間ほど後、チャット欄を見てみればそこには既読がついたチャットが一つ、もの寂し気に浮かんでいた。

  暁豊とのチャットルームには、今も一つのバブルがたゆたっているばかりで、あれから動いていなかった。

  「美夏ー、遅れるわよ!」

  「あ、マズ。行ってくる!」

  リビングで丼のようなお椀に注いだ味噌汁を啜っていた美夏に母が時計を指差した。今日は始業式だ。いつもより少し遅い登校時間ではあるけれど、それでももうギリギリの時間になっている。

  慌ててカバンをひっつかみながら急いで、チャットアプリを閉じて玄関へと向かう。

  心機一転。その言葉通り、美夏は新しい年を迎えるのだ。

  「あ、美夏。今日晩ごはん食べるのよね?」

  「うん、今日始業式だけだから! お昼は咲凪と適当に食べるから、いらないー」

  「分かった、久々に腕の振るい時ねっ。いってらっしゃい!」

  倒産した会社の伝手でお父さんの再就職も無事に見つかった。

  それに、心配していた美夏も柔道を始めてから一気に明るくなった事で、家族の空気も一気にいい方向に向かっていた。まあ、美夏の食事量が格段に増えたことは家計的には打撃なのかも知れないけれど、母の笑顔を見ているとそんな事は微々たるものなんだろうと思うことが出来た。

  美夏は、玄関の鏡で制服の依れを直して、靴の爪先をトントンと鳴らした。

  その振動が伝わって、まるで樹木のように太くなったふくらはぎや太腿がブルンと揺れる。脂肪もそうだが緩んだ筋肉によってだらしなく垂れているわけではない健康的に肥えた両足。

  当然、足だけではない。

  その全身はずんぐりと大きく丸く膨らんでいた。80kg、女子柔道としても最重量の78kg超級にまで育った美夏。彼女はそんな自分の姿を自慢げに鏡に映す。

  1年前の面影は殆どない。身長が伸びて165cmになっていることも含めると、1年前の美夏を今の美夏を比べて同じ人物だと見抜ける人間がどれ程いるだろうかという変化が生まれている。

  「って、遅刻しそうなんだった……!」

  自らの変化に改めて驚きながら鏡を見ていた美夏は、ふと背後に写る時計を見つめて慌てて玄関を飛び出していく。全身を弾ませて走るその姿は、まるでゴムボールが転がるようにすら見えるだろう。柔らかな全身にまとう肉という服を風に泳がせるように、美夏は通学路を走り抜けていった。

  結果としてどうにか登校時間に間に合っていた。

  途中から歩いていたが、最後ダッシュに切り替えたのが功を奏したようだ。校門で閉門待ちをしていた先生に睨まれはしたが、小言を言われることもなく教室に上がってこれた美夏を待っていたのは、クラスメートの視線だった。

  「おいおい、汗だくじゃん。稽古してきたのかよ」

  「今日は始業式だから部活禁止ですー。あとデブは汗っかきなんですーそんな事も分かんないんですか、高原。だからお前は高原なんだよねえ」

  「腹立つー! 去年みたいな化けの皮被っててくれよ、狸横綱ー!」

  顎から汗を滴らせる美夏に声を掛けてきたのは、クラスメートの高原――昨年始めに美夏に告白してきた男子だった。美夏が柔道部に入って太り始めて、クラスや学校の男子の態度は見る見る内に変わっていった。

  可愛い女子を見る目から、少しずつ困惑の視線になっていき、そして今では、その普通の男子よりも逞しくなった図体を誂われるようになっている。

  とはいえ、柔道部の先輩達に揉まれて慣れ親しんだ美夏は、脂肪と筋肉で体を膨らませたように、すっかりとそのガサツさを吸収して大らかで大胆な心を手に入れていた。その程度のからかいは歯牙にも掛けず笑い飛ばして見せる程だ。

  「ははは、思い出すなあ……高原が私に告白してきた時のこと……」

  「ああ……っ、やめろ……っ!!」

  それはそれとして反撃も忘れない所が柔道部流だ。

  「今からでも、彼女になってあげてもいいんだけどなあ。アンタ巨乳好きなんでしょ?」

  「俺は『巨乳好きなんでしょ』とか言わない清楚ーな子が好きなの! そりゃあ、おっぱいは大きい方が好きだけど……い、いや……確かに大きい子は好きだけど……」

  と美夏は胸を張って、制服の上で強い存在感を放つ胸丘を強調させると、高原は顔を腕で覆いながらおいおいと泣き真似をし始めた。が、腕と顔の隙間からたゆんと豊かに揺れる美夏の胸を見つめる相貌が確かに覗いている。

  「言い淀みながらジロジロ見てくるの、犯罪でしょ。……咲凪ー、高原がセクハラしてくるんだけど!」

  「うん、サイテー!」

  「……泣きそう」

  そんなこんなで、周囲に驚きを撒き散らしながらも楽しく柔道部としての実力をメキメキ伸ばしていく美夏。二年になってもその成長は止まらず、女子柔道部を牽引する存在として春の大会に無差別級として参加し。

  ――そして、手も足も出せないままに美夏は惨敗を喫していた。

  「美夏……」

  「……っ、悔しい……私、あんなに簡単に……ッ」

  大会初戦で、木っ端を吹いて散らすように簡単に敗退した美夏は、応援に来ていた咲凪の方に顔を押し付けるように泣き崩れていた。

  しゃくりあげる度、熊のような大きな背中が跳ねる。震える背中を咲凪の柔らかい手が撫でてくれる。それでも、美夏の喉は嗚咽を漏らすのをやめてくれなかった。

  涙も鼻水も止まらない。ぐしゃぐしゃにプリントを丸めてから広げたような顔で心の底から美夏は悔しかった。

  「私、……っ勝てると思ってたっ……努力してるからって、でも、……でも相手ももっと努力してる……ッ!」

  「そうだね、でも、美夏の努力がダメだったわけなんかじゃないんだよ……」

  「うん。分かってる……ッ。ありがと……私、は……」

  美夏はひくひくとしゃくり上げながら、今にも泣きそうな震え声で慰めてくれる咲凪に礼を言いながら体を離す。震える声を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吸う。喉がひくつく度、朱の差した丸い頬が震える。

  それでも、真っ赤に泣き腫らした目で美夏は決意する。

  「……私、私ね……私に、勝ちたい」

  今までの自分に。だけではなく、今の自分自身にも負けない。それは、完全に今までの自分との別れを意味していた。

  着られなくなっても捨てられずにいたジーンズも、どこかでひっそりと願っていたキャンパスライフも。そして。

  「……」

  スマホを操作して、暁豊とのチャットルームを開く。

  既読マークがついたまま、何も変わらない画面。去年の美夏から何も進んでも戻ってもいない停滞の象徴。

  『この連絡先を消去しますか?』という表示に、美夏は一瞬だけ躊躇って、そして『はい』をタップした。それだけであっさりと暁豊という男子と美夏を繋いでいた糸はぷつりと途絶えて消える。

  「……練習、行こう」

  息を吸い、美夏はスマホを閉じた。確かな喪失感と共に、それでも美夏は先に進むことを決めたのだ。

  そして。

  そして、美夏は――高校三年の夏。169cm90kgの巨漢となった彼女はインターハイ無差別級に出場。ベスト8にその名を連ね、大学へのスポーツ推薦を手にしていたのだった。

  ◇◇◇

  父の運転する軽自動車。

  乗り降りする度、車が大きく傾くその感覚に全く驚きもなくなってきた頃。

  美夏は高校を卒業し、大学に入学していた。

  「……ありがとう、お父さん」

  「何言ってるんだ。美夏が自分で勝ち取った特待生じゃないか。頑張ってきなさい」

  入学式の日、わざわざ前日に車で数時間の距離を駆けつけてくれた父の車から下りた美夏は、手放しで褒めてくれる父に相好を崩した。

  スポーツ推薦の枠を得た美夏は、そのまま大学合格を経て、その柔道成績から特待生となっていた。免除があるとは言え、それでも安い学費ではない。

  だが、美夏の両親は美夏が柔道を続けたいという願いを、快く聞き届けてくれた。

  「それが、美夏のしたいことなのね」

  「ありがとう、話してくれて。それが、一番うれしい」

  そう言ってくれた両親に送り出されて、美夏は一人暮らしを始める事になった。

  諦めていた、夢のキャンパスライフ。夢に描いていたものとは内容はまるで違うけれども、それでもその感慨といったらなかった。

  スポーツ科学などにも力を入れている大学だけ合って、キャンパスは広く、キレイに整っている。まるでドラマの中のようなキャンパス内を歩いていきながら、まずは柔道場へと向かう。

  スポーツ推薦で特待生になった美夏。その条件は、当然柔道部として一定の成績を打ち出す事だ。それが出来なければ、学費免除は無くなり、柔道も大学も続けられなくなる。

  気合も入るというものだ。

  「失礼します!」

  気合を入れる意味もあり、柔道場に入って一礼する。

  すると、既に中に集まっていた先輩や、美夏と同じような入部が決まっているのだろう入学生の視線が突き刺さる。男女の視線。女子と男子で部は別れているが、合同での練習も多いらしい二つの部は、この挨拶も一緒にやるらしい。

  互いに高めあっていくチームメイトであり、競争相手でもある。

  見回せば、誰もかれもが強そうな体をしている。

  「じゃ、まだ時間には早いけど、全員揃ったしさっさと終わらせちゃおうか」

  と美夏が柔道場に入ると、部長らしき男性が話し始めた。美夏は思わず背筋を伸ばしていた。一昨年の五輪選手にも選ばれていた選手だ。

  重量級でありながら、軽快な足技で巧みに海外選手を相手取る妙手の使い手。そんな彼からじっと見つめられて、美夏は思わず身動きができなくなる。今のは、偶に強い相手と試合の直前に感じる威圧感に違いない。

  美夏がごくりと緊張に喉を鳴らす。

  「それじゃあ、ま、端っこから名前適当に挨拶していって、それで今日は終わりだから」

  だが、次の瞬間その威圧感が消えたと思えば、朗らかな声で彼は、美夏に挨拶を促してきた。今のプレッシャーは何だったのか。不思議に思いながらも、美夏はボールを2つ入れているような胸を上下させながら、一歩前に出た。

  「えっと、汐見 美夏です、よろしくお願いします」

  それだけを告げて、これで良いのかと、進行役の部長に視線を送ると、どうやら本当にそれだけでいいらしく、首肯が返ってきた。それからも同じように新入生の挨拶が続き、そして今の部員達の簡単な挨拶が始まった。

  だが、美夏はその殆どを認識すら出来ていなかった。

  まるで聞いていなかったのだ。

  何故か。その原因は、美夏の次に挨拶をした男子のせいだった。彼は美夏の挨拶を聞き届けた後に、前に進み出てこういった。

  「イシゴオリ アキタカです。よろしくお願いします」

  と。

  少し鬱屈したような声色。美夏よりも大柄な者が殆どいない中で、唯一、新入生側で今の美夏よりも太っている体躯。

  イシゴオリ アキタカ――石郡 暁豊。それは、――それは二年前、未練を断ち切ったはずのあの男子の名前じゃないのだろうか。一気に溢れ出す、美夏が捨てたはずの感情が胸から溢れて今にも彼の事を問い質したくて仕方がなかった。そんな感情を押さえるのに精一杯で、他の話を聞いている余裕なんてものは一切なかったのだ。

  そして、本当に顔合わせは顔合わせだけで、その場解散となり。

  「石郡……、暁豊……くん?」

  美夏は、去っていこうとするその男子に声を掛けていた。

  振り向くその姿は、正直似ていないと思った。

  服は今にも張り裂けそうな程に張り詰めている。お尻がでっぷりと膨らんでいて、まるでカートゥーン映画に出てくるデブキャラみたいなズボンを穿いていた。

  記憶の中の暁豊は、少し太めでむにっとした脂肪が付きつつも、それでも細マッチョ体型だった。だから、声をかけた瞬間に別人だと判断してしまいそうになっていた。

  すみません、人違いでした。

  そう口走ってしまいそうになっていた美夏の口を閉ざしたのは、振り返ったその表情だった。

  太い眉を持ち上げて、目を丸く見開くその表情。それは、顔の大きさこそ変わっていても、いつかの帰り道を思い出させる表情だった。

  「ぁ……」

  思わず、美夏は何を言えば良いのかわからなくなって口を噤む。だが、気まずい沈黙は訪れる事はなかった。次の瞬間、その男子は信じられない、という顔をしながら、こう言ったのだ。

  「シオミ ミナツって……、本当に……美夏、か?」

  と。

  ◇◇◇

  なぜ挨拶をした時無反応だったのか。そう問いかけると。

  「いや、……変わりすぎだろ……」

  との事だった。

  「変わったって気づくのがイイ男ってもんでしょー? そういう所は昔から変わってないんだから」

  「お前だって俺の事、名前聞いて初めて気づいたんだろ。お互い様だっての……てか、ほんとに美夏か? お前もうちょっと女の子っぽかったっていうか……」

  「昔みたいに可愛いって言ってくれる?」

  「あー、そういう所は昔からあったわ」

  久々にあった暁豊は、少し暗い雰囲気を感じたことが嘘のように昔のような無邪気さを感じさせる笑顔に戻っていた。

  予定も考えもなく話しかけた美夏と暁豊は、二、三の気まずい会話を繰り広げた後「この後、ご飯食べる予定ある?」と下手なデートにでも誘うような事を美夏が言い、暁豊がそれに同意するというなんともチグハグな会話を経て、近くのファミレスに入っていた。

  「ここのパスタソース美味いよな」

  「分かる、いつもそっち頼むか迷うもん。半分こして」

  「してください、じゃねえのかよ。いいけど」

  四人がけのテーブル。二人がけのソファを簡単に一人で埋めるような巨漢が二人。テーブルの上に頼んだ料理を並べている様は、まるでフードファイターのようではあったが、流石に大学近くのファミレス。そんな光景も珍しくはないようで好奇の視線は驚くほどなかった。

  そんな中、食の好みで意気投合して一時間程経とうとしていた時。

  「……チャット返してくれなかったのなんで?」

  美夏は、ずっと聞こうと思って聞けないでいた事を問いかけていた。

  「言わなきゃダメ、だよな」

  「……できればね」

  「分かった」

  思いの外、素直に話してくれるという態度に美夏が驚くのも束の間。暁豊の話に、美夏は徐々にその目に涙を溜め始めていた。

  「……お前が泣くなよ」

  「ご、ごめん……っ、だって……」

  暁豊は、入学してすぐ柔道部に入部したのだという。

  それは勿論、暁豊がしたかったからという理由だったが、それ以上に美夏との約束を果たしたくて、必死に柔道の稽古に励んでいた。

  だが、部活以外も自主練を行っていて、結果ハードワークで怪我をするに至った。幸いその怪我は軽いもので数週間で治る――はずが、今度は完全に不幸な事故で転倒し、怪我が悪化し一年の運動禁止を言い渡されたのだという。

  そして、その頃に丁度、美夏からのチャットが届いた。

  届いた当日に通知には気づいていたが、怪我をした直後で何も結果が出せていない自分に耐えきれず、チャットを無視。そして、暁豊は運動禁止のストレスで食べまくってしまい、体重が激増。

  チャットを確認した後も、自分の状態を話すこともできないまま放置してしまったのだという。

  「ごめん、私が追い打ちかけてたなんて」

  「いや、ていうか追い打ちって言うならその後……」

  「……え?」

  一年経過し、医者からも許可が出たことで、リハビリを経て部活に復帰。

  療養の間に激太りしていた暁豊だったが、結局柔道をしたいという気持ちは変わらず重量級へ転身した、その矢先。

  美夏とのチャットルームが消えていた事に気がついた。美夏からも見放されていたと分かった暁豊は、そのまま鬱憤をぶつけるように柔道に打ち込み、更にストレスで食事量が増えて、柔道もどんどんとテクニックではなくフィジカルで力押しするようなスタイルへと変わっていった。

  それでも、スポーツ推薦でこの大学に合格したけれども、それでも特待生にはなれてはいないのだという。

  「……、一年放置されたら消されてもしかたなくない?」

  「いや……うん、でも……うん……」

  「泣いて損した気分」

  「いやでも、マジでショックだったんだって」

  フォークを置いて、頬にソースを付けたまま、暁豊は美夏に「それでも」と屈託なく笑ってみせた。

  「それでも、……また会えて嬉しかったよ」

  その笑顔を見て、美夏は心臓を撃ち抜かれたような心地になる。おかしい。自分は彼に対しての未練を断ち切ったはず。だと言うのに。その笑顔だけで許してしまいそうになる。

  美夏は自分自身に呆れ返る。

  どうやら、私は今でも、暁豊が好きらしい。

  トドかセイウチみたいにデブになってしまった彼を、今もまだ可愛いだなんて思えるとは。額に脂汗をかいて、少し大人びた香水に汗の匂いを纏わせている、背伸びする野暮ったい大学生男子。

  シャツが胸と腹で破れそうなほどに引っ張られて、柄の英字が殆ど読めないような肥満体型の巨漢デブに。それでも、胸をときめかせている。

  認めざるを得なかった。

  願わくば、暁豊が太った女の子でも可愛いと思ってくれるのであれば。

  「……ああごめ、……あ、……ん?」

  そう思いながら、美夏は暁豊の頬についたソースを摘んで、紙ナプキンに包む。そんな美夏の何気ない動作に礼を言いかけた暁豊は、ふとその動きを止めて、何かを思い出そうとするように視線を彷徨わせた。

  そして、その目を美夏に定めて、少しずつ顔を赤く染めていく。

  「……お前、あの時さ、キスした振りした時さ……もしかして、あれ、指じゃなかったんじゃ」

  数年前の嘘に、鈍感な彼は今更気がついたらしい。美夏は何も言わず、以前よりも掴みやすくなった頬肉をむんずと掴んで、微笑んだ。

  さらに言えば、その様子に美夏はどうやら脈が無いわけではなさそうだと読んでいた。柔道部先輩から学んだ強かさを持って、美夏は少し狩人のような鋭さを目に宿らせるのだった。

  ◇◇◇

  そして、二年後。

  美夏との出会いを経て一念発起した暁豊が、更に力をつけるために美夏と特訓を重ねていった、その後。

  女子柔道無差別級172cm150kg。男子柔道無差別級177m170kg。

  1歩進む度に肉の揺れる音が聞こえるような大巨漢が並んで歩く。歩く、というそれだけでも汗を染み出させる二人は、奇異の目で見られながらも、それを跳ね除けるように自信を持って柔道会場へと足を進めていく。

  最重量級の実力者が同じ大学から輩出されることになるのだが、彼らが恋人である事が知られるのは、もう少し後の出来事。

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