Ad
1.
渡り廊下に差し込む強い光に、佐倉喜人(さくらよしと)は目を細める。
時は授業の合間にある小さな休み時間。人の行き交う通路で喜人は教科書を片手に友人と並んで歩く。
「やっぱり面倒だよなー化学の授業」
隣を歩く犬獣人、山伏幸太(やまぶしこうた)はとても億劫そうだ。いつも天に向かってピンと伸ばされている耳が今日は力なく垂れていた。ふさふさの尻尾も今日は元気がない。
「薬品とか引っ掛けちゃうと後始末が大変なんだよ。その点いいよな委員長は……ツルツルだし」
「いや獣人ほどとは言わないけど僕にも毛はありますから。頭とか肌に生えてますからね」
「シモの方は?」
「なんでそっち方向に行くんですか」
獣人とは違い、ただの人間である自分にはあまり理解できない悩みだ。頭がいまだ思春期の友人をあしらいながら、校舎三階にある化学実験室にむかって歩を進める。
「あと委員長って呼ばないでください。すごく恥ずかしいんですよ。そう呼ばれるの」
「じゃあ友達に向かって敬語使うのやめてくださーい」
小休憩とは言え、多数の生徒が行き交う廊下で委員長と呼ばれるのはむず痒いものがある。普通なら名前か名字呼びだろうに、山伏は頑なに委員長呼びをやめてくれない。
今ではクラス全体に広がってしまっていて、呼ばれるたびにこっ恥ずかしい思いをしている。
「いいじゃん実際に学級委員長なんだし。いっそメガネかけて七三分けにしようぜ」
「人の見た目を勝手に変えないでください……」
渡り廊下を抜けて第二校舎に入る。数年前に改築した洋風の真新しい建物に入ると、体感温度が少しだけ下がった気がした。
「それに僕は望んでなった訳じゃ……」歩きながらも友人の方を向いて抗議の声を上げようとした。
だが、山伏に話しかけたのとほぼ同時に、別の出来事で辺りがざわつき、声をかけるタイミングを見失う。
「まさか……」
山伏は一言呟くと、立ち止まって顔を青くする。
「……?」
その尋常でない様子を怪訝に思い前を向くと、楽しそうに廊下にたむろしていた生徒が蜘蛛の子を散らしたようにバラバラになって道を開けていく様子が見えた。
そして、先を見渡しやすくなった廊下の先に、歩いてくる人影があることに喜人は気づく。
「うげぇ」
夏バテでげんなりしていたさっきとはまた違う声色。どちらかというと気まずそうな声が友人の口からこぼれ落ちる。
目の前に迫る人物は、まるで幾多の戦いを経験した戦士のようなゆったりとした足取りで廊下を進んでいる。
「島上くんだ」
「アイツは……避けろ避けろ」
面倒に巻き込まれたくないと言わんばかりに、友人は壁に背中をくっつけて道を開ける。
凄まじくスムーズな動きだったので、思わずポカンと口を開ける。そんな喜人に山伏は目線を向ける。
「委員長も早くこっち来いよ、ぶん殴られんぞ」
「えぇ?」
「あ゛っ! 来た!」
そんな漫画じゃあるまいし……と言葉を続けようとするが、それよりも早く視界に影が差す。
大体どうなっているか、真っ青を通り越して灰色になった友人の顔色を見るだけで察する。ものすごく失礼な会話を繰り広げていたことに罪悪感を感じつつ、前を向いた。
「おはようございま……」
だが挨拶をした喜人の視界に入ってきたのは島上の顔ではなく、ぴちぴちに突っ張ったワイシャツに覆われた胸板だった。
「あ、ごめんなさい」
光の速さで訂正するが、思わず頭を抱えそうになる。身長差を忘れていたのだ。なんで筋肉に向かって挨拶してるんだろう。喜人は心の中で頭を抱える。
隣で「あちゃーやっちまった」という小さな声が聞こえた気がしたが、間違いなく気のせいだろう。
気まずい気持ちをどうにか切り上げ、ゆっくりと顔を上げた喜人の瞳に写ったのは、熊獣人の仏頂面だった。
「おはようございます島上くん。今日は特に暑いですね」
島上英一(しまがみえいいち)、彼は校内一の不良と呼ばれている熊獣人だ。巨人の如き体躯と、凄まじいほどに険しい面立ちで全校生徒から恐れられている色々と規格外な、喜人の所属する二年B組のクラスメイト。
朝のホームルームに現れないのもいつものことで、喜人は島上を見かけたら必ず声をかけるようにしていた。
これが、本日初めての彼との遭遇。
「……あぁ」
表情を変えずに発せられたその声は見た目に違わず重厚で、聞いているこちらの腹まで震えそうになる。
「これから化学の授業なんです。一緒にどうですか?」
「……いや、遠慮しとく」
ほとんどの授業を欠席している島上を授業に誘うが、帰ってきたのは冷たい返事。
彼は目線をあらぬ方向に向けると、白い牙を剥いて舌打ちを一つした。太い首に支えられた男らしい顔立ちが歪み、不快感をあらわにする。
その表情から滲み出る拒絶の意思に思わずたじろぐが、この程度で落ち込んではいられない。動揺する気持ちを落ち着かせ、喜人は改めて目の前の人物に対峙した。
「用意がないというのなら教科書を貸しますから、ですからたまには授業にーーー」
言い終わるよりも早く島上が歩き出した。大股で喜人の隣を通り抜け、視界から消えようとする。まるで、この場にいるのが苦痛だと態度で示しているようだ。
喜人は、そんな彼の様子にどこか違和感を覚える。
「島上くん! 待ってください!」
喜人はその直感に従った。咄嗟に進路に身を晒し、彼を引き止める。相手に比べると、遥かに小さな体で精一杯の自己主張を試みる。素早く島上の前に出て両腕をいっぱいに広げた。
「退け。通行の邪魔だ」
あまりにぶっきらぼうな物言いに、喜人は頭をぶん殴られたような衝撃を受ける。だが、そこで落ち込んで諦めるわけにはいかない。
「ごめんなさい。邪魔するつもりは無いんです。なんで避けるんですか?」
「……お前には関係ないだろ」
「関係なくないです! 学級委員長として見過ごせません!」
訳も分からず拒絶されることに理不尽さを感じ、気付けば自分でも何故ここまでムキになっているのか分からなくなっていた。
アツくなる喜人を見て、島上は呆れたように息を吐く。彼の声には不快感がたっぷりと含まれていて、自分とは対象的な態度に喜人ははっとする。
恥ずかしさのあまり口から声が漏れ、自分の顔が赤くなるのを感じた。
「用が無いなら通してくれないか? 委員長」
喜人はその言葉に引かず、そのまま牽制するように彼の顔を見つめた。
この切迫した状況をどうにかするために話題をひねり出そうと、目の前の熊獣人をまじまじと見つめる。
もたもたしていると、この熊獣人は目の前から消えてしまう。それだけは阻止しなければならない。
そのまま島上の微妙に丈の合っていない疲弊した制服に包まれた体を見ていると、頭の中に突如として雷が落ちた。
「用ならあります! 例えばほら……服装が乱れているとか!」
あら捜しをしてようやく見つけた島上の問題点を嬉々として指摘する。冷静に考えると人として最低の行為をしているが、その事実に気づくことなく喜人は自信満々の表情を浮かべて目の前の人物を指差した。
「タイが曲がっていますし、シャツをズボンから出すのはだらしないです!」
島上の着ている制服は、これ以上無いくらいだらしなく着崩されていた。
ワイシャツのボタンは窮屈なのか胸元までボタンを外され、ネクタイはだらしなく緩んだ状態で首にぶら下がっている。
その姿を生活指導の先生が見たら発狂ものだろうと考えたそのとき、喜人はあることに気づく。
「ーーーって、大丈夫ですか?」
彼の制服は所々ボロボロに擦り切れていて、汚れを払ったようにうっすらと砂埃の後がついていた。まるでさっきまで喧嘩をしていたみたいだ。体に目立った怪我はないが、よく見ると薄汚れている。
地や底から響くような呼吸音も、よく聞いてみると浅く早い。
目に入ってくる事実を認識し、急激に思考がクリアになるのを感じた。頭に血が上って冷静な判断力を失っていたことに気づく。
「島上くんまさか……」
「何だ、まだ何かあるのか」
島上は業を煮やし、大きく一歩を踏み出した。目の前の障害に対し、押し通ることを選択したようだ。
改めて見てみると、島上は異常な雰囲気を纏っていた。例えるなら、『今にも倒れてしまいそうな感じ』だ。
「ちょ……ちょっと待ってください!」
再び引き止める間もなく目の前に迫る熊を咄嗟に避ける。その体からは、制汗剤と血の匂いがした。
なぜこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう? 喜人は心配と後悔がごちゃまぜになった状態で、島上の肩に手を伸ばした。
そして、その体に手のひらが触れた。彼の体はさっきまで激しい運動をしていたことが分かるくらいに熱かった。
「その体でどこに行くんですか!」
「うるさい! 俺に触れるな!」
聞きたくないことを遮る大声が相手から発せられると、肩に置かれた喜人の手が振り落とされた。
凄まじい拒絶の意思に手は弾かれ、体が二、三歩後ろに下がる。
その直後、島上は苦しそうに呻いたと思うと、前に向かって倒れ込んだ。
「島上くん……ッ!」
よろめいていた喜人は彼の様子を視界に捉えるなり、今までにないスピードで体勢を整えた。手に持った荷物を投げ捨て、素早く距離を詰めると島上に向かって手を伸ばす。
横目に友人の驚いた顔を捉える。大きく見開かれた瞳には、目の前の人物を支えようとする自分の姿と、苦しげな表情を浮かべ倒れ込む島上が映っていた。
熊獣人を支えるために無我夢中で体を動かす。硬いリノリウムの床に頭から突っ込もうもしているクラスメイトの脇下にするりと手を差し入れると、体を密着させて踏ん張る。
自分より数倍逞しい彼の肉体は熱された鉄のように熱く、硬くなっていた。
「ぐっ……!」あまりの重さに腕の関節が抜けそうになる。だらんと垂れ下がった島上の体はほとんどの力が抜けていて、まともに立つことすらままならないようだ。
「あわわ……」
「このままゆっくり行けば……」
慌てる友人を尻目に中腰になり、意識が朦朧としているらしい島上の体をこちらにもたれさせていく。
医学的には贅肉より筋肉のほうが重いらしい、という話を聞いたことがある。島上くんがデブならこんな思いをせずに済んだのだろうか? 不謹慎な考えが頭をよぎる。
「委員長、俺も手伝うよ」
「あ、ありがとうございます!」
寄って来た山伏を加え二人でなんとか島上を床上に下ろす。喜人は床に座り込み、彼の頭を自分の折り曲げた膝の上に載せた。
「保健室の先生呼んでくるわ!」
「お願いします」
そう言って走り出した山伏を見送る。
しばらくすると始業のチャイムがスピーカーから流れ、生徒たちが自らの教室に戻りはじめた。
心配そうにこちらを見つめてくる彼らに笑顔で返しながら、喜人は意識を失っている熊獣人の頭を優しくふくらはぎの上に固定する。
2.
「委員長、ホントにいいのかよ?」
「いいって、何が?」
養護教諭の水戸川を加えた三人でなんとか島上を校舎一階の保健室まで移動させ、一息ついたときだった。
水戸川が労いの言葉とともに渡してきた缶ジュースを飲んでいると、隣で一緒に休んでいた山伏が声を潜めて話しかけてきたのだ。
「授業抜けて島上の様子見るって……」
友人の不安そうな声、自分の身を案じてくれているのだろう。思わず頬がほころぶ。
その心遣いに感謝しつつ、首を縦に振る。
「うん、心配だから」
「心配って……」
「だって、放っておいたら休まずどこかに消えてしまいそうで」
喜人の後ろには、パーテーションで仕切られたスペースがあり、その中には三つほどベッドが並んでいる。その中の一つに島上が横たわり、眠っている。
「目が覚めたらナニされるか分かんないのに?」
「大丈夫です、何かあれば大声で叫びます」
笑顔で返す自分に対し山伏は呆れたようなため息をついた。眉をハの字型にして、額に手を当てている。まるで漫画のキャラクターのようだ。
「そういうお人好しなところ、好きだけど直した方がいいと思うぜ」
「ありがとう。嬉しいです」
「……褒めてるけど褒めてねぇんだよな、うん」
喜人は一気に缶ジュースを飲み干すと、立ち上がって空き缶を部屋の隅にあるゴミ箱に持って行った。
「水戸川先生も忙しいみたいだし、誰かが残って彼を見てあげないと」
水戸川が職員室からの呼び出しで席を開けている間、誰かが残らなければいけない。普段の授業態度を含めて考えると、山伏より自分が残る方がいいだろう。
山伏は化学の授業、特に実験を苦手としていた。彼の授業進度を遅らせることが得策とは思えない。
「この時期はけが人増えるから保健室も大変だな」
「熱中症にも気をつけないといけないね」
山伏も缶の中身を飲み干し、空き缶をゴミ箱に向かって投げ込んだ。軽い音が周りに響く。
「行儀悪いですよ」
「お前は俺のオカンかっての」友人同士気の置けない会話を楽しんでいると、山伏は立ち上がる。
「委員長、もう行くけど本当に大丈夫だよな?」
「大丈夫です。安心して授業に復帰してください」
「お前は警戒心無さすぎなんだよ……」
胸を張って答える自分とは対象的に不安げな様子を崩さない山伏、喜人はそんな彼を手を降って見送る。
視界から山伏が完全に居なくなり、静寂に支配される部屋。
会話で色づいていた空間が急速に色を失っていく。しばらくして喜人はその中で一人ため息をついた。
「……そう言われると、少しだけ不安だなぁ」
そのまま布製のパーテーションを動かして、島上のもとへと移動する。
「まだ寝てるのかな?」
島上は保健室に運ばれている最中に気を失った。彼をここまで運んでくるのに苦労したことは言うまでもない。喜人はその激闘の記憶を思い出しながら、ベッド脇に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。
島上は安らかな寝息を立てながら、寝台の上に横たわっている。その顔はいつもの彼のイメージとは大きくかけ離れた優しげなもので、見ているこちらまで絆されてしまいそうだ。
「いつもこんな感じなら、友達沢山できると思うんだけどな」
彼を包む布団を綺麗に整えながら呟く。部屋は冷房が効いているから少し肌寒い。喜人は小さく身震いした。
それにしてもあの異常な苦しみよう、一体何があったのだろう。何かとても大きなことに巻き込まれたのだろうか? 漠然とした考えが思い浮かぶ。ボロボロになってまで学校にやって来た彼に対して自分が行ったこと、それを思い浮かべると胸が傷んだ。
正当性はこの際置いておいて、ひと目で気づけたであろう事実に気づけなかったことがのしかかる。
倒れ込むときに目に飛び込んできたあの苦しげな表情、いつもの冷静な自分なら、もっと早く気づけた。勝手にヒートアップしてしまったこちらにも非はある。
委員長という、クラスメイトの規範となるべき役職に就きながらも、頭ごなしに突っかかることしか出来なかった。それが胸を締め付ける。
膝の上で手を強く握った。その痛みが、考えごとに沈み込んでいた喜人を現実へと引き戻す。
「……ん」
ベッドの上で横たわっていた島上が小さくうなりを上げ、体をもぞもぞと動かした。
喜人はその声に驚いて小さく飛び上がる。パイプ椅子が音を立て、音につられるように島上の動きが大きくなった。
「ここは、一体……?」
そして、島上が目を覚ます。彼は自分の置かれた状況がイマイチ飲み込めていないようで、頭だけを動かして辺りを確認すると、心配そうな表情を浮かべる喜人を見つける。
「あぁ、ごめんなさい。起こしてしまったみたいで……」
戸惑いの表情を浮かべる喜人を見つめる彼の眼光は、既に元の険しさを取り戻していた。
「お前……ここは?」
「保健室です。島上くんが気絶してから、水戸川先生や山伏くんと一緒にここまで運んだんです」
言葉を紡ぐ島上の姿はどこか意気消沈しているようで、気だるげな雰囲気をまとっていた。喜人はその様子を見て頭に疑問符を浮かべた。
「やっぱり体、痛みますか?」思わず手を伸ばしそうになるが、すんでの所で踏みとどまる。彼に嫌な思いをさせたくはなかった。「何か必要なものがあれば言ってください。持ってきます」
出来る限りゆっくりと、相手の神経を逆撫でしないように話した。善意の押し売りかもしれない、喜人はそう思いながらも相手に対して気を使うことをやめない。
「いや、必要ない。ありがとう」熊獣人はその凛々しくも険しい顔立ちを崩すことなく言い放つ。その言葉に、廊下で会ったときのような拒絶の意思は感じられない。
最低でも今日一日は安静にしていろ、と言われたのだ。それを島上に伝えると、彼は苦々しげな表情を浮かべた。
「水を持ってきます。そのまま横になっていてください。水戸川先生がそう言っていました」
この部屋の主である大柄な蜥蜴人の言葉を思い出す。喜人は飲み水を渡すのに必要な紙コップを取り出すために、ベッドの置かれた専用スペースの外にある備品入れの棚まで小走りで移動する。
そして棚から紙コップを取り出したときに、喜人の耳に鈍い音が届く。
嫌な予感を呼び起こされ、紙コップ片手に急いで島上の横たわるベッドまで戻る。
「島上くん!? 大丈夫ですか!」
目の前には、パイプ椅子に上半身をもたれさせた逞しい熊獣人の姿があった。
どうやら無理やりベッドから降りて立ち上がろうとしたらしい。
病み上がりでは上手く行かず、島上は寝床から地に足をつけた瞬間バランスを崩し、前に倒れ込んでしまったようだ。
「ぐぅッ」自分と同じ高校生とは思えない重苦しい声を発するクラスメイトは、今なんとか立ち上がろうと頑張っている最中だった。
ダメージのせいだろうか、膝が笑っている。そんな同級生の聞き分けのない姿を見て喜人はたまらず声を上げた。
「あぁもう! 何してるんですか!」
思わず強い言葉を使ってしまう。喜人は後悔するとともに島上のもとにに駆け寄る。今までとは違い、手に持ったものを床に置いてから島上のそばにしゃがみ込む。
「安静にしててください!」
そして、彼を元の場所に戻そうと手を伸ばす。
伸ばされた手が島上の腕を掴み、そのままパイプ椅子に乗った上半身を丁寧にこちらへと密着させるように動かしていく。
「立ち上がれないのなら、僕の体にしがみついて!」
両手を使って島上の腕を自分の背中まで回し、相手の脇下に腕を通す。最初にやった背後から抱きすくめるやり方ではなく、お互いに抱き合うようなポーズになる。
体の痛みのせいか、それとも根負けしたのか、島上は従順な態度を見せた。自分より一回りも二周りも大きい相手を抱えるのは骨が折れたが、なんとか膝立ちになって立ち上がりかける。
抱き合うのは基本的にカップルだけど、これはどちらかというと介護に近い気がする。彼の雄々しい肉体を全身で感じながらそんなことを考える。
島上の肉体は変わらず熱く、硬い。首にかかる熱い息が喜人の体を刺激し、未知の感覚を呼び起こした。
「うゎあっ……!」
くすぐるような吐息が首筋と耳にかかり、自分の体が痺れるような感覚に支配された。
「委員長!?」
全身が緊張し、まるで自由が効かなくなる。ゲームで言う石化魔法をかけられたように喜人の体は強張り、島上の体重に押されるようにして後ろに倒れ込んだ。驚きの声が島上から発せられる。
頭を床にぶつけてしまう。視界に火花が散って、痛みに振り回されるように思考がバラバラになる。腕が無造作に床に投げ出され、衝撃が体を揺らした。
大の字に床上に倒れた喜人はクラクラする視界に混乱しながらも起き上がる。
「痛っつ……ってうわぁっ!」
痛む頭を押さえながら、自分の体を見ると、島上が自分の体に顔を埋めて、力尽きたように動かなくなっていた。
「ご、ごめんなさい島上くん!」
「ぐ……ぐおぉっ」
今までで一番苦しげな声を上げている島上をなんとか助け起こそうとするが、喜人は今の状況に体を動かすことが出来なくなっていた。
「い、委員長」
「ちょっ! 喋らないでください!」
「何故……だ?」
「くすぐったいんですよぉ!」
奇妙な偶然か、まさに神のいたずらとしか言いようがなかった。島上は喜人の股間に顔を埋めていたのだ。
制服のズボンの股間部分にすっぽりと島上の頭があてがわれ、息をしたり、声を発するたびにその温かい刺激が大事なところを刺激していた。
「ふぉ……これはまさか……!」
島上も敏感に、その『臭い』を察知したようだった。布越しとはいえ獣人である彼がアソコに顔を密着させているのだから当然か、喜人はあまりの恥ずかしさに頬を赤らめた。普段の自分とは思えないほどに余裕のない声が口から飛び出す。
「喋らないでください! それに嗅がないでくださーい!」
彼の顔がもごもごと動くたびに、意思に関係なく体の芯が固くなっていくのを感じた。
羞恥のあまり真っ白になった頭でこの状況から逃れようと体を動かすが、状況のまずさに拍車をかける行為以外の何者でもなかった。
自分の股間がさらに硬く熱く大きくなっていくのを感じ、ドツボにはまっていく。
「待て委員長! これは流石にヤバい!」痛みに苦しみ、息も絶え絶えになりながら、島上は喜人に呼びかけている。既にその『ナニ』は凄まじい勢いで膨張していて、早急に対応しなければならない。
「ーーーッ! 落ち着け!」
島上は喜人の腰になんとか手を当てて、動く体を固定した。
「ひぁ! 何を……」
新たな出来事に色々な意味で硬直する。生娘のような反応を返す喜人の体の上を、島上は登っていった。
両腕を床につけて体を浮かすと、そのままゆっくりと頭に向かって体をずらしていく。
下半身にあてられていた他人の顔が無くなったというだけで、自分の頭が少しだけ冷静になった気がして、喜人はほんの少しだけ体から力が抜けるのを感じた。
やがて、視界正面に島上の顔が現れる。
「落ち着け! 委員長!」
目の前に現れた島上の視線に射すくめられる。こちらをまっすぐ見つめる眼差しに写った自分の姿は、とても情けないものだった。
それに目は口ほどに物を言うとはまさにこの通りで、自分より必死な島上を見た瞬間、自分の中で暴れていた感情が冷静になっていくのが分かった。
息遣いすら感じられるほどに近づいた二人は、周りを漂い始めた妙な熱気に侵されてしばらくの間見つめ合う。
「あ……あの」
「どうした? 委員長」
「ご、ごめんなさい」
いつもは険しい島上の顔が少し赤く染まっていた。その瞳は少し潤んでいて、肉体的な疲労と合わせてとても辛そうだ。
そんな彼の様子に罪悪感を覚え、たまらず謝る喜人に向かって島上は嘆息する。「なんでそんなにすぐに謝る」
「だ……だって!」反論しようとして言葉が出ずに言いよどむ。その様子を焦れったく感じたのだろう、目の前の熊獣人は口を開き、言い聞かせるような声色で話し始めた。
「さっきは、俺も悪かった。だからそんなに謝るな」
「え?」
謝罪の言葉を発しした彼の表情はみるみるうちに弱々しくなっていく。その突然の変化に対応できずに、呆けたような声を発する。
自分をまじまじと見つめ続ける喜人に耐えられないのか、それからしばらくして島上は大声を上げた。
「俺が謝るのがそんなに珍しいか!?」
「い、いえ! 確かに驚いたのは確かですけど!」押し倒されたようにしか見えないこの状態で必死に否定を表すため、二人の顔の間に手を入れて動かした。
「ただ、なんか初めてまともに意思疎通できたような気がして」
「委員長……」
二人顔を真正面から見合わせて会話すること自体無かったような気がする。こちらから話しかけるときに言うことといえば大体授業態度に対する注意だったからだ。
そのことを思い出して、少し笑ってしまう。ようやくか、という思いが口から笑い声として漏れる。
「な……なんで笑うんだ。おかしなことを言ったか?」
「いえ、そうじゃないんです。ずっとあなたと話したくて、それがようやく叶ったかなって」
「今までだって話してきたじゃないか」
困惑の表情を浮かべる彼に、半笑いになりながらも応える。
「そういうのじゃなくて……まぁいいです。とにかく嬉しくて」
硬い床に横たわり、まともではない状態で話し合う。当事者以外から見ると、まるで肉食獣に獲物として襲われている最中だ。
だが、二人の間には恐ろしく穏やかな空気が流れていた。片方は戸惑いながら、もう片方は喜びながら。
「前から思っていたが、変なやつだ」
「よく言われます。でも、変なやつで良かった」
「何でだ?」
「そのおかげで島上くんの知らない一面を見ることが出来ました。新たな一歩です」
その言葉は完全に予想外だったのか、島上は顔を面白いくらい朱に染める。その様子は頭の上に書き文字で『ボンッ!』という音が出ていそうなほどだ。
「な、何を……!」
「変な島上くん、女の子みたい」
せきを切ったように笑いが止まらなくなる。流石に相手に対して失礼なので頑張って噛み殺すが、お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。
「ご……ごめ……ぷはっ!」
「クソ! もう起き上がるぞ! しっかりしてくれ!」
「て、手伝いま……ははっ!」
バカにされたと思ったのか、少しだけムキになりながら島上は体を喜人の上から移動していこうとした。
「あはは……無理に動かないで、体に響いたらーーー」
「もう大丈……ぐおっ!」
島上はこう言ったが、体に蓄積したダメージはそう簡単に癒えないようだ。一刻も早くこの状況を打破するために体を動かした途端、激痛が駆け抜け、島上を硬直させた。
そしてそのまま彼は力を失い、喜人の上に覆いかぶさるように落ちてきた。
「ふふ……ぐふっ!」
力が抜けた人の肉体をダイレクトに受け止めた。重なってきた体の重さによって肺から空気が抜けるのを感じ、潰れたカエルのような声を上げる。
二人の肉体は完全に密着してしまった。
「あふっ! 言わんこっちゃ……ない!」
「す、すまん!」
上に乗られただけの筈が、ガッチリと噛み合ってしまったみたいに動かなくなる。熱気を孕んだ息が再び体にかかる。そのむず痒さに耐えながら、なんとか息をする。
「う、動けない……!」笑うことすら出来なくなるが、それよりも大切なことがあった。島上の体だ。「島上くんのほうは大丈夫ですか?」
「ああ、なんとか。でも……」
「でも?」
島上の顔を見ることはできなかったが、その声には戸惑いの色が含まれていた。
「言いたくないが……勃ってるぞ」
「え?」
「委員長、『当たってる』」
言われて気づく、確かに『当たっていた』自分の『アレ』が。股間にテントを作る男子特有の『ナニ』が島上の体に密着していたのだ。
今度は自分が顔を真っ赤に染める番だった。頭の中で大事な何かがスパークしたと思うと、喜人は恥ずかしさのあまり俯いた。
「……何も言うな」
「すいません!」
「だから何も言うなって!」
意識をすればするほど股間のブツはバキバキに硬くなっていく。羞恥の感情がスパイスになっているのだろうか?。
「って、興奮してる場合じゃない!」喜人は頭にはびこり始めた邪念を追い払う。
「とにかく! タイミングを合わせて離れましょう!」
「お、おう!」
危機的状況に置かれたことで、二人の間に謎の協力関係が結ばれる。
「合図で島上くんは体を持ち上げてください。僕も手を使って押し上げます」
「分かったよ、委員長」島上は喜人の体の上を移動したときと同じ、腕立て伏せをするように両腕を床につけた。
喜人は重なり合った体の間に自分の手を差し入れ、上に持ち上げる準備をする。
「……む」
ワイシャツ越しの手のひらに感じる確かな大胸筋の弾力に眉をひそめる。自分にはない、確かな肉の温もり。薄っすらと張った脂肪の奥にあるオスとしての力の象徴。
「い、委員長?」
「……いいなぁ、島上くん」
いつの間にか困惑の声を発する島上そっちのけで夢中になる。
この肉体に至るまでに並外れた努力があったのだろう。鍛え上げられた体躯を維持するのにどれだけ気を使っているのか想像もつかない。喜人はその実態を確かめるように手を使い、巧みに島上の大胸筋を揉みしだいた。
「にゃあんっ!」
「し、島上くん!?」
島上は素っ頓狂な声を上げ体を震わせた。喜人もつられて驚く。
「い……いらんことをするな!」
「なんかよく分からないけど、ごめんなさい」
「分かれよ! ほら合図早く!」
語気を荒らげた島上に戸惑いながら、カウントを開始する。島上の顔は見えないが、多分怒っている。彼の体も今までと比べ熱くなっていた。
「一、ニ……あれ? 島上くん興奮しーーー」
「三、ほら! 持ち上げろ!」
胸にあてがわれた手に伝わる鼓動が強くなっていることに気づく。そのことを尋ねたが、島上はその言葉を無視してカウントを完了させる。
腕を使って勢い良く体を持ち上げたので、こちらもその動きに合わせて腕を使って島上を押し上げる。
喜人は島上の体が十分持ち上がったことが確認できると、その体を自分の上から横に向かってずらしていく。
二人の間に十分な空間が生まれたことを確認すると、喜人は上半身を起こした。
「やっと終わりました……」
「だな……」
ふと、島上の方に視線をやる。彼も同じように自分のことを見ていた。その事実になぜかバツの悪さを感じる。
お互いにチラチラと相手を見つつ、時間だけが流れる。辺りに漂う気まずい沈黙、その中で相手の出方を伺いながら、今までのことを振り返る。
生まれて初めて他人とあそこまで接近した。それを考えると、頬が熱くなるのを感じた。今日はどうやらそういう日らしい。何度めかの赤面、思わず相手に見えないように顔を背ける。
「なぁ、委員長」
「はひっ! な、なんでしょう!?」
顔を背けた矢先に、島上の声が耳に飛び込んでくる。自分の心を見透かされている気分になり、いつもより過剰に反応する。
勢い良く振り向くと、視線の先には困惑した様子の島上が居た。立ち上がるにはまだ遠いのか、床に座り込みベッド脇の手すりに頭を当てて安定を取っていた。
「いや、そこまで驚かなくても」
彼の表情は相変わらず険しかったが、声色と雰囲気でなんとなく心配してくれているのが分かる。
彼を見ていると、乱れた自分の心が落ち着く気がした。多分見た目が大人っぽいからだろうか。理由は漠然としていたが、喜人にはそれだけで十分だ。
深呼吸をして心のバランスを整える。その様子を見て落ち着いたと判断したのか、島上は再び口を開く。
「色々、すまん」恥ずかしさを隠すように頬をポリポリ掻きながらの、ぎこちない謝罪。
「こちらこそ、色々すいません」対するこちらも同じように謝る。
再び沈黙。お互いに引け目があるせいで、まともな受け答えができていない。
「とりあえず、今は休みましょう。面倒なことは後で」
「そう……だな、そうしよう」
色々な問題を後回しにすることに決める。喜人は立ち上がり、島上へ近づく。
「立ち上がれますか?」
「まだ痛みが引いていないから、できそうにないな」
「一体どれだけ激しく喧嘩をすればそんな体になるんですか」
思わず突っ込んでしまった。素行不良の過ぎるクラスメイトは、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「僕の知らない世界の出来事なのは分かってます。でもやっぱり、委員長としてあなたの力になれないのは悲しいです」喜人はベッド脇に移動し、島上から少し離れた位置に正座する。
「いつか説明する」
短いながらも誠意に満ちた受け答えに、微笑みで返す。
「待ってます。それに今は休まなければ」喜人は自らのふくらはぎを手で叩く。
それを見て相手は、疑問の表情を浮かべる。
「委員長、一体何をしてるんだ?」
「何って、膝枕です。さあ! 遠慮なくどうぞ!」そう言って、喜人は島上を迎え入れるように手を広げた。
「ちょっと普通の膝枕ではないですけど、大丈夫です!」
「何が大丈夫なんだよ!? それにさあじゃねえよ!」
いきなりの同性からの膝枕宣言に、島上はこれ以上ないほど驚愕の表情を見せる。
「横にならなければいけないのに、こんな硬い床で眠れるとは思いません。少なくとも僕は眠れません」
「それだったらベッドから枕持ってきてくれ! わざわざ膝枕しなくていい!」
島上は思った以上にノリがいいらしかった。喜人はその言葉に膝を打つと、立ち上がりさっきまで彼が寝ていたベッドから枕を持ってきて、膝枕の上に置く。
「どうぞ!」
「少しは恥ずかしがれ!」
「学級委員長たるもの、膝枕くらいできなくては務まりません。それに、島上くんはもう僕に膝枕されています。何を今更!」
少し行儀は悪いが、島上を指差し自信満々に宣言する。その羞恥心の欠片もない言葉と態度に、島上は空いた口が塞がらない。
「やっぱりあれは……!」自分の中で覚えがあったらしい。あの朦朧とした意識の中での出来事を思い出したのか、恥ずかしげな声を上げる。
「さあさあ、どうぞ遠慮なく」
「ぐっ……!」
どれだけ逞しくなっても体の痛みには逆らえないらしい。島上は無言でしばらくの間悩み続けた。彼が膝枕を了承したときには、その顔はりんごのように真っ赤に染まっていた。
彼はほぼ悲鳴に近い声で応える。
「今回だけだ! 本当に今回だけだぞ!」
ヤケクソじみた返答とともに、島上は倒れ込む。喜人の膝に彼の頭が乗せられた。心地良い重さが、脚を圧迫する。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「ぐ……ぐぅう!」
島上は緊張でガチガチなりながらも応じる。男らしい彼にとっては決して許容できる状態ではないだろう。それでも頑張って耐えている様子に、喜人は嬉しくなる。
島上は必死に目を合わせまいと顔を背けている。そんな様子がたまらなく面白くて、喜人は彼の横顔に手のひらを添わせた。
「このまま眠っても大丈夫ですよ」
「ば……馬鹿言え、お前が動けなくなるだろうが」
「別に問題ありません。待つのは得意ですから」
「……ほざけ」
その厳つい顔立ちを彩るこげ茶の毛並みを優しく撫でつける。少しでも安心できるように細心の注意を払いながら、汗で少しゴワついた毛先を解いていった。
「まったく、アンタは遠慮って言葉を知らないのか」
「あなたに関わっていくのならこれくらい強引でないと、置いて行かれてしまいますから」思わず苦笑しながら言う喜人。
相変わらず火照っている島上の緊張をほぐそうとするが、話せば話すほどその体は熱を帯びていった。
もっと優しく触れたほうがいいのだろうか? 膝枕というのは対人関係の改善に有効なスキンシップだと聞いたが、例外が存在するらしい。とりあえず会話を続けることにする。
「なぁ委員長……一つ聞いていいか」
「何でしょうか? 島上くん」
相手の姿勢では見ることは出来ないが笑顔で返答する。島上は少し言い淀むように口を動かしてから話し始めた。
「何で、俺に関わるんだ?」
「何で……とは?」
質問の意図が分からずに首を傾げた。イマイチピンと来ていない喜人の反応に、島上はもどかしげな声を上げる。
「……つまり、何で俺なんかのためにここまでしてくれるんだ?」
「誰かと関わりたいと思うことに、理由は必要無いと思います」
「真面目に聞いてるんだが」
「こっちだって真面目ですよ。でも強いて言うなら、そうですねーーー」
理由なんて、考えたこともなかった。答えを求めて喜人は考え込む。手を止めて思考の渦に飛び込んだ。そして、らしい答えを見つける。
「島上くんのことがスキだから、では駄目ですか?」
「ぶっ!?」
その言葉を口にした瞬間、島上は膝の上で吹き出した。自分の唾液にむせたのか、苦しそうに咳をし始める。
「し、島上くん!?」
「ぶあッはっ! い、いきなり何言うんだ委員長!?」
島上は顔だけをこちらに向けて叫んだ。信じられないものを見るような視線に気持ちを否定されたような気がして、自分の心にほんの少しだけ怒りの炎が灯る。
「理由を尋ねたのはそっちなのに……」
「俺を好きになる理由なんて無いだろ! 意味分からん!」
「嫌いになる理由もありません。だからスキでいた方が楽しいです」
それを聞いて、島上は口ごもる。叩きつけられた予想外の答えに四苦八苦しながら、頭を動かして再び顔を背けた。
「嫌いになる理由なら、沢山あるだろうに。俺は学校でも指折りの不良で、アンタは品行方正な優等生。まるで水と油だ」そう言っているときの横顔は自らを嘲笑うような表情で、喜人は自嘲する島上を驚きの表情で見つめる。
「そんな……僕は」
その顔を見ていると、心の底から未知の感情がふつふつと湧き上がるのを感じた。この会話を最後まで続けてはいけない、直感的にそう感じ取る。
「俺といたら、アンタまでダメになっちまう。だからーーー「島上くん!」」
そして、島上の言葉が最後まで紡がれる前に、感情のままに大声で喜人は叫んでいた。
「な……!」
島上は部屋中に響き渡る大声に面食らい、素早くこちらに振り向く。その瞳を驚愕の色に染めて、喜人を見つめる。
喜人の心は、今まで感じたことのないほど強い怒りで埋め尽くされていた。その表情は、怒りに満ち満ちている。
「そんなに関わられるのが嫌なんですか?」
尋常ではない様子の喜人から島上は逃れられない。彼はなんとかこの場を取り繕おうとする。
「いや、そういう訳じゃ……!」
「例え島上くんと一緒にいることで駄目になったとしても、それは僕自身の落ち度です。島上くんにはなんの責任もありません! それに……」
勢いのまままくし立てる。そうしていると息が切れ始めたので休憩として大きく深呼吸し、調子を整えた。
「あなたは乱暴者だけど、本当は優しい人だって信じてますから。いつか喧嘩の理由を話すって言ってくれました。だから僕は島上くんのことをスキでいます」
その自信満々な態度に、島上は脱帽する。
「お、俺の気持ちはどうなるんだよ!? それに信じるって……」
「あなたが人のことをスキになれないのなら、僕と一緒に居てください。一緒に色々な事をしてクラスメイトと過ごせば、自然に人との関わりがスキになる筈です」
それから、喜人は喚く島上の頬をつまんで、引っ張ってみる。精悍な熊獣人の容姿が崩れ、形容しがたい奇妙な顔立ちに変化する。
「学級委員長を舐めないでください。あなたをキライになんてなるわけ無いじゃないですか」
抵抗できないのをいいことに、伸ばした頬を好き勝手に動かし続ける。
「ひゃ……ひゃめろ……」
その状態からニ、三分経ち、島上が精一杯の抵抗をすると、頬をつまんでいた指が離されて顔が自由になる。
喜人はヒリヒリする頬の感覚に耐えながらこちらに顔を向けている島上を見下ろす。二人の視線がぶつかり、絡み合う。
「今だけは、僕のスキを信じてほしいんです。駄目ですか?」
小さいながらも、どこまでも響き渡っていきそうな澄んだ声色。それは相手に対する思いやりに溢れていた。
島上はそれを聞き、目の前の事実に逆らうことを諦めたかのような気の抜けた表情になる。
「……分かったよ、降参だ」その顔はどこか少しだけ晴れ晴れとしているように見えた。その口から飛び出す言葉のトーンも、どこか明るい。「アンタのスキを信じる、それでいいんだろ? 委員長」
それを聞くと、喜人は顔をぱあっと明るくした。
「はい! 改めてよろしくお願いします!」
その笑顔が眩しいせいか、それとも疲れたせいなのか、島上は目を細め口を歪ませる。
「今気づいたんですけど、水戸川先生遅いですね。もう四限目終わりなのに」彼の様子の変化に気づかない喜人は腕時計を見ながらつぶやく。
時間的にはあと十分ほどで授業が終わり、昼休憩が始まる。
「お昼ごはん、一緒に食べましょう。そっちの方が美味しいですよ」
「俺の状態を見てそれを言うか」
「水戸川先生が帰ってきたら手伝ってもらえばいいんですよ。なんなら、僕があーんってします」
「それだけはやめてくれ……!」
その光景を思い浮かべたのか青ざめる島上、対する喜人は喜びの感情を隠さずに時間が経つのを待った。
やがて、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。喜人は入ってくる人はいないかパーテーションの隙間から向こう側を覗き込んだが、それらしき人影は見えなかった。
「水戸川のやつ、戻ってこないな……」
「まあ急ぎませんし、ゆっくりしましょう」
焦りを見せ始めた島上とは違い、喜人はのんきにこの状況を楽しんでいる。
「体の方、少しは楽になりましたか?」
「学校終わるまでには動けるようになると思う。早く水戸川に助けてもらわないと、昼休みが終わっちまうな」
「放課後までこの状態だったりして」
それはそれで面白いかもしれない。島上の新しい一面を知れるかもしれないし、彼は思ったより感情豊かだから退屈しなさそうだ。喜人はそんなことを思う。
「馬鹿言え、それまでには何とかする。変なこと考えるなよ」
表情に出ていたのか、横目でちらりとこちらを見た島上は釘を指してきた。
その言いぐさに反論しようとしたとき、外の廊下から大きな足音が聞こえてきた。もしかして水戸川? その足音は、ちょうど保健室の入り口である引き戸の辺りで止まる。
「誰でしょうか? 水戸川先生?」
「さぁな」
その疑問に答えるように、甲高い音を立てながら勢い良く戸が開かれる。
「アニキ! どこにいるんですか! アニキー!」
その人物は入り口で大声で叫ぶなり、スタスタと早足で室内に入り、部屋中を探索し始める。
「アニキ……? お兄さんを探しているのかな?」奇妙な訪問者はちょこまかと動いているせいか、こちら側から見ることが出来ない。
カーテンを引く音や、引き出しを開ける音が室内に響く。
ついに謎の人物は喜人たちの横に置かれたパーテーションの前に立つ。その影は、思った以上に小柄で可愛らしかった。心なしか声も高く、幼い印象を受ける。
「アイツ……まったく、どこから聞いたんだ」何かを知っていそうな口調で島上が独り言ちる。
「知っているんですか島上くん?」膝の上に鎮座する島上に尋ねるが、言いづらいのか、島上は顔をしかめる。
「何というか……俺の舎弟だ」
「舎弟!?」
思わず聞き返す喜人。その瞬間、狙ったかのようにこちら側と向こう側を隔てていたパーテーションが退けられ、仕切られていた2つのスペースが繋がる。
「アニキ! そこに居たんスね! だいじょうーーーえ?」
目の前に現れたのは、小柄な虎獣人。島上の舎弟にしてはあまりにきっちりとした身だしなみをしていて、その容姿は見ようによっては中学生でも通用する気がする。
何から何までごつい島上とは正反対としか言いようがなく、到底不良には見えない。
その大きめのクリクリした瞳と幼さを残した可愛らしい顔立ちは、喜人たちを見つけた瞬間から驚きに染まる。
「島上くん、何したんですか?」
「何もしてねぇよ! 人聞きの悪いこと言うな!」戸惑う島上。「黒木……よくここが分かったな」膝枕されながら至って真面目に振る舞おうとするが、説得力はまるで無い。
「あ……あにき……」黒木と呼ばれた少年は、声と体両方を震わせながら目の前の自体を飲み込もうとしている。
「な……なにやってんスか? なぜ膝枕……?」だが、見たところうまく行ってはいない。
「こ……これはだな! 深い訳があってだな!? とりあえず状況を説明させてくれないか」弁解すればするほど、二人の心の距離は開いていく。みるみるうち黒木の体は震え、瞳に涙が溜まっていった。
そして我慢の限界を超えたのか、怒りを顕にする。
「ズルイっすよ! オレだってアニキに膝枕したいのに!」
「怒る所そこなんですか!?」
「うわーん! アニキの浮気者ー!」
「ちょっと待ってください黒木くん!」
言っているうちに黒木は泣き出してしまい、喜人はたまらず声をかける。凄まじい勢いで誤解が積み上がっている。野次馬根性で見ていたせいで面倒なことになった。
「うるさい泥棒猫!」
虎獣人にそう言われてしまっては返す言葉がなく、何を言っていいか分からなくなる喜人。
島上と二人でひたすらあたふたしていると、黒木の背後にスラリとした体躯の男がぬっと現れた。
「……教頭に呼び出されて戻ってくれば、先に言ってると走り出した奴は泣いているし、一体どうなってんだ」
養護教諭の水戸川だ。喜人には彼のことが今は救いの神に見える。水戸川は蜥蜴人特有の翡翠を思わせる美しい鱗に覆われた頭を撫でると、息を吐く。
「特に島上と佐倉、保健室で膝枕プレイとか学校をイメクラか何かと勘違いしてないか」
「プレイじゃありません!」
「するわけ無いだろ! 複雑な事情があるんだよ!」
その反応に驚いたのか、水戸川は少し後ずさる。
「それならいいんだが……黒木、お前は少し静かにしろ」
「水戸川せんせぇ……! だってぇ……!」
「男らしくないぞ」
「う……」水戸川にそう言われるなり、顔を涙でぐしゃぐしゃにした黒木は嗚咽を漏らしながら泣きやむ。
「うぅ……ぐすっ、分かったっス……」小さな手のひらで涙を拭い、鼻水をすすり上げる。
「それで、お前らは二人はいつまでそうしてるつもりだ?」
その問いかけに島上と二人、顔を見合わせる。
「えっと水戸川先生、島上くんを元の場所に戻すのを手伝ってほしいんですけど……」
「そう言うと思ったよ。島上、腕上げろ」
「……分かった」
水戸川は島上の伸ばされた腕を掴むと、少々乱暴に体を助け起こす。喜人も島上の肩に手を当てて、水戸川の負担を軽減する。
「お……俺も手伝うッス!」
三人の姿を見て、黒木も手助けを申し出た。黒木はしゃがみ込み、起き上がった島上の背中を支える。
手遅れかもしれないが、事情を知らない人物が見ればいかがわしい行為をしていると勘違いされかねない。
島上はこの状況が恥ずかしいのか口をつぐんでいる。
「人気者だね、島上くん」
「そう思えるお前が羨ましいぞ……」
そして、水戸川が島上と肩を組んだそのとき、開いた保健室の入り口からひょっこりと山伏が顔を出す。
「お邪魔しまーす。おーっす委員長、弁当持ってきたぞー……って何してんの?」
彼の視界には、水戸川と肩を組んだ島上と、二人をどうにか手伝おうとする黒木、そして床に正座した状態でふくらはぎに枕を乗せた喜人の三人が映っていた。
喜人は目を丸くしている友人を見ながら、どう説明しようかと考えを巡らす。
「ちょっと事情がありまして……」
枕に手を置き、残った島上の温もりを確かめる。喜人は自分の頬が少しだけ緩むのを感じた。そのまま優しげな表情を浮かべて、疲労の色を隠さなくなった島上の方向へ振り向いた。
3.
「島上くん、口を開けてください」
水戸川と黒木の助けを得て島上を元の場所に戻し、彼らの誤解を解いてから、喜人たちは彼の横たわるベッドを取り囲むようにパイプ椅子を並べて昼食を摂っていた。
喜人の両隣には、それぞれ黒木と山伏が席をつけている。
その中で、喜人は顔をあさっての方向へ向け続けている島上に向かって焼きそばパンを差し出している。
「なんで食べさせようとしてくるんだ!?」島上は空腹に耐えながら、差し出される腕に必死に抵抗する。
「なんでって、委員長がじゃんけんに勝ったからだろ」山伏がおにぎりを頬張りつつ答える。島上から見て、その表情は明らかにふざけていた。「大人しくあーんされろよ、島上くん?」
ことの始まりは、喜人から話を聞いた山伏が提案した『誰が島上に焼きそばパンを食べさせるかじゃんけん』にある。
喜人、山伏、黒木の三人による壮絶な戦いの結果、勝ち残った喜人が島上にパンを食べさせることになったのだ。
「腕と頭は動かせる! あーんされる必要はない!」島上はパンを奪い取ろうと手を伸ばすが、喜人は素早く腕を引っ込めて射程圏内から離脱する。
「駄目ですよ、みんなで決めたことなんですから」
「委員長、誰もお前ほど真剣に考えて決めていないと思うぞ。山伏を見ろ」
喜人はそれを聞いて振り向くが、視線の先の山伏は至って真剣な表情だ。
「……? 何かあるんですか?」
「いや全然、委員長早く食べさせてやれよ。島上が空腹で死んじまうぞ」
「後で覚えていろ……」島上は山伏に対して抗議の視線を送るが、本人は怪我人の啖呵など怖くないのか、口笛を吹いて目線をそらす。
「二人ともふざけてないで……せっかく黒木くんが買ってきてくれたんですから。はい、あーん」
再び腕を伸ばして島上の口元に食物を持っていく。目の前の熊獣人がなぜここまで嫌がるのか理解出来ない。食べなければ傷の治りも遅いというのに、喜人はその思いを表すように鼻先にパンを突き出す。
「うぐっ……」理由を正確に説明することが出来ない島上は言葉を詰まらせる。その様子を見て、喜人の隣に陣取る黒木が涙を流す。
「この学校をシメる番長であるアニキがこんな姿に……おいたわしや」黒木はパンを咥えた状態で拳を強く握りしめた。
「俺、初めてコイツがここのトップ張ってるの知ったわ」
「アニキの名誉を守るため、おれがあーんするべきだったのに……うぅ」
二人の会話を傍で聞きつつ、喜人と島上は睨み合う。
「番長さんだったんですか?」
「周りがそう言ってるだけだ。無視しろ」本当にそう思っているらしい。答える島上の声は少し低い。が、それでもなお焼きそばパンを差し出されているこのシュールな状況を覆すことはできなかった。
三人の視線が島上に集中し、部屋の中に奇妙な雰囲気が漂う。無言の圧力に耐え切れなくなった島上は、差し出された焼きそばパンの半分を一気に口に含んだ。
「ええい、ふぁふぁよ……!」島上はパンで口を一杯にする。その様子を苦しそうだと判断したのか、黒木は懐からペットボトルに入った水を手渡す。島上はそれを受け取ると、口の中の物を水で流し込んだ。
「どうやって制服に入れてるんですか?」思わず尋ねる喜人。黒木はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに胸を張る。
「ふふん! 制服を改造して内側にものを取り付けられるようにしているんスよ! いつでもアニキを手助けできるように!」
「校則違反ですね」
「だな」
「はぅっ!?」間髪入れずに飛んできた指摘に罪悪感を刺激されたのか、黒木は気弱な表情になり、肩を落とす。背中に黒い影が差している光景を幻視するほど、大げさに落ち込む。
「そこ気にするんだ」
「お……落ち込んでなんかいないッス。これはあれです、落ち込んだフリってやつッス! おれはアニキのためなら、たとえ火の中水の中、この程度どうってことないッスよ!」山伏と共に半笑いになった二人の様子を見た黒木はムキになり言葉を重ねる。
だが彼の男らしい決意とは裏腹に、その取り繕い方はとても愛らしい。喜人は思わず笑みをこぼす。
「学級委員長としては、島上くんに学年違いでも仲のいい友達がいて良かったです」そのまま島上に笑顔で目線を送る。彼はその視線がむず痒いのか、顔を背ける。
喜人の言葉を聞いた黒木は、対照的に顔の前で勢い良く手を振り、否定のポーズを取る。
「お、恐れ多いッスよ! おれはアニキの舎弟で、そういうのじゃないんです!」
「そうなんですか? 僕には仲のいい友達にしか見えないんですけど……」
喜人が小首をかしげていると、肩に山伏の手が置かれた。
「あまり詮索してやるなよ。ただれた関係を説明しろって言われても無理だろ?」
「なんで例えがただれた関係なんだ……」
「おれとアニキは清い関係ッス! 紛らわしいこと言わないでください山伏先輩!」
二人からものすごい勢いで訂正が飛んでくる。喜人は肩に置かれた手が震えているのを感じた。
「ヤンキーというか喧嘩番長というか……島上くんの対人関係は結構複雑なんですね」
「難しく考え過ぎッスよ。親分とその子分みたいなもんッス」
「じゃあ黒木くんは一の子分?」
それを聞いて、黒木は表情を輝かせる。言われたかったことを言ってもらえたと言わんばかりだ。あまりにも嬉しそうなので、喜人は変なことを言ってしまった気分になる。
「そうッス! このおれこそが島上のアニキの最初の子分、一年の黒木誠(くろきまこと)ッス! 何があっても一番の子分の座は譲りませんよ!」
「いや奪おうとはしてないんだけど……」
妙な誤解をされているようだ。嫌われている訳ではないが、ライバル意識のようなものを向けられている気がする。喜人は気を取り直して島上に話しかけた。
「かわいい後輩ですね、島上くん」
「……む」
食べかけのパンをマイクのように突き出したが、無愛想な熊は曖昧な答えを返し、はぐらかそうとした。
「島上くんのいけず」
喜人は彼の態度に少しだけ眉根を寄せて、責めるようにバンを突き出す。
「分かったからそんなに突き出すな……! むぐぐ!」
「さあさあ一気に、男の子なんですから」
喜人は笑顔のまま島上の口にパンを食べさせる。焦りながらバンを口に突っ込まれている島上の姿はどこか背徳的で、当事者たちは気づいていないがかなり危ない絵面になっていた。
それからしばらくの間、島上は食べ物を咀嚼し続けた。太い喉が動き、食べ物が胃の中に収められる様子を喜人は釘付けになって眺める。
食べ終わった島上は手に持ったペットボトルの水を飲み干し容器を持ち前の腕力で握り潰すと、ベッド脇のゴミ箱に放り込む。
「やっと終わった……」
大きなため息をついた島上の声は疲れ切っていて、朱の差した顔を振り心を落ち着かせるような仕草をする。
「あーんして欲しくなったらいつでも言ってください。僕はいつでも歓迎です」
「お……俺もやりたいッス! 次こそは!」
「お前ら俺をなんだと思ってるんだ……」自信満々に宣言する喜人と、それに便乗する黒木にげんなりした様子になる。喜人は質問の意味がわからずに、首をひねった。
「島上くんは島上くんですよ。僕の大好きな島上くんです」自分にとっては当然、そう答えるしかない。それ以外の答えなど用意していないのだから。
「お、俺もアニキのこと大好きっスよ! 誰よりも好きッス!」
喜人の発言に乗っかる黒木、身を乗り出してベッドのへりに手を置き、負けじと主張する。喜人は黒木から強い対抗意識を感じ取り、彼の方向へと顔を向ける。すると、同じように彼もこちらを見つめていた。
「負けないッスよ! たとえ上級生で同じクラスだとしても、アニキのことは俺のほうがよく知ってるんですから!」
「凄いです! どんなことを知っているんですか?」
その言葉に興味を惹かれ尋ねてみると、黒木は自信満々な表情をしてから、胸を張って得意げに話し始めた。
「アニキの好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか!」
「食べ物オンリー!?」
やかましく騒ぐ二人を尻目に、島上は頭痛を抑えるように頭に手を当てる。
「山伏、委員長はいつもこんな感じなのか」島上は力尽きたようにベッドに体を沈ませ、力の抜けた声を出す。純白のベッドが大柄な体を受け止めて軋む。
「まぁな、頭ゆるゆるって言うか……こういう奴なんだよ。委員長もメシ食え、昼休み終わっちまうぞ」山伏は呆れたような顔をする。島上に向かっていつもの事だ、と言葉ではなく表情で伝えている。
喜人は山伏の言葉に我に返り、膝上に置いたまだ広げられていない自分の弁当に意識を向けた。
「それもそうでした。食べるの忘れてる」休み時間も残り少なく、あまり余裕はない。急いで弁当箱を開く。
「ほらな、きっちりしてるように見えて、すっげーゆるいのよコイツ」
「そうですか? 普通にしてるつもりなんですけど……」喜人は首をひねり、年の割には少なめな昼食を摂り始める。箸で卵焼きを取って口に運んだ。甘めの味わいが、疑問によってささくれ立ちかけた心を慰めるように舌に染み込む。
「真面目なのに、抜けてるんスか……」喜人を一言で言い表す言葉が見つからないようだ。黒木の声にはどこか困惑しているようなニュアンスが感じられる。
「そんなことないですよ。ね、島上くん?」山伏は少し大げさに言い過ぎだ。少し声に不機嫌な思いを滲ませながら同意を求めた。
「それに関しては、山伏と同じ意見だ」
「えぇ!?」
だが帰ってきた言葉は山伏への同意。まさかの展開に喜人は箸でつまんでいたウィンナーを弁当箱に取り落とす。
「ひどいです! 嘘でもいいから否定してください!」
「いやだって、昼前にあったことを考えると自然とそうなるというか……」
島上は二人きりの時に起こった出来事を思い出したのか、苦々しさと恥ずかしさの混ざりあったような表情になる。
「膝枕くらい誰だってしますよ!」
「しねぇよ! 二度とさせねぇからな!」島上は喜人を勢いよく指差し半ば叫ぶように宣言する。「あ……あんな恥ずかしいことを!」
「はは、言われちまったな委員長」
「そこは笑うところじゃないです!」ケタケタと笑う山伏に反論するが、聞いてはいないようだ。肩を揺らしながら楽しそうにしている友人を視界から外すと、不機嫌な子供がやるように鼻を鳴らす。
「島上くんのことが心配で……もぉ! 島上くんのわがまま!」
「分かってくれよ委員長!」
「オレはアニキに膝枕していいんスよね!?」
怒りながら昼食を食べる喜人、その隣で笑い続ける山伏、焦る黒木、三人の様子は正に三者三様だ。
それぞれの対応に島上が追われていたとき、四人のいる場所とそれ以外を隔てていた衝立が動く。
もちろんひとりでに動いたわけではない、四人が同じようなタイミングで視線を移動させると、開かれた空間の入り口に水戸川が立っていた。
「水戸川先生、どうしたんですか?」と喜人。
水戸川は爪楊枝を指で弄びながら、眉間にシワを寄せる。
「少しは静かにしろ、ここは保健室だ」大の大人からの忠告に、喜人は身を小さくする。
「すみません、静かにします」
「よろしい」
気づくと周りは水を打ったような静けさに支配されていた。時々笑いを噛み殺すような音が口から漏れてはいたが、あれだけふざけていた山伏も大人しくなっている。
水戸川は島上へ顔を向ける。
「島上、そこまで騒げるなら大丈夫だと思うが、今日は風呂に入るの止めとけ。傷の治りが悪くなる」
「しょうがないか……」
「島上くんの怪我って、打撲ですか?」喜人は心配のあまり、思わず会話に割り込む。そして、言った後すぐに出しゃばり過ぎたと後悔する。
喜人は小さく声を上げると、急いで口を塞いだ。
「ごめんなさい、無遠慮でした」
その様子を見て、水戸川は目を細める。
「気にすることじゃない。こいつの自業自得だ」
そのまま喜人たちの反対側に回り込むと、島上の体を触診していく。
「幸い骨にダメージは行っていない、学校にいる間はここで安静にしていればいい」
水戸川の艷やかな指がこげ茶色の毛皮の上を滑るように撫で、頭部から始まって顎、肩、腕、それぞれの部位の反応を確かめるように動く。
彼の表情は真剣そのもので、いつも気だるげに開かれた瞳に今はどんな不調も見抜いてしまいそうな鋭い光が宿っていた。
島上も流石に嫌がりはせず、されるがままだ。
ブレザーの中に腕を入れて中をまさぐる。そして、水戸川の手が島上の大胸筋に触れた。
「ん……」
「相変わらずでっけえおっぱいだなオイ」島上の大胸筋を鷲掴みにして揉みしだきつつ、そんなことを言う。
にやつく水戸川とは正反対の苦しげな島上。彼に投げかけられた言葉に、黒木が敏感に反応した。
「おっ……!?」驚きに息をつまらせる。喜人はすかさず彼の背中を優しく擦ってやった。
「紛らわしいことを言うなよ」
「事実をそのまま言って何が悪い。それにこれは触診だ、他意は無い」
言うこと自体、何か別のことを考えている裏付けになるのではと喜人は思うが、島上の精神的負担を考えて言わないでおく。
「あにきの、おっぱい……ぐふっ」
「そこまで驚くことかな……? ほら落ち着いて深呼吸深呼吸」
「ラマーズ法が効くらしいぜ? ひっひっふー、だぞ」
「ひっひっふー……ひっひっふー……」
黒木は眼をぐるぐる回しながら動揺している。ショックのあまり朦朧としていて、山伏の加減な助言を受け入れてしまっている。
彼にとってはそれほどの緊急事態なのかと理解したと同時に、喜人は戦慄する。
そのまま冷や汗をかいていると、突如として部屋中に呻き声が響き渡った。
声の発生源に顔を向けると、島上が苦悶の表情を浮かべて悶えていた。眉間にしわを寄せ、精悍な顔立ちを痛みに歪めている。
「すまんすまん」表情を変えずに島上の右脇腹から手をゆっくりと離す水戸川。
「痛いのはそこだけみたいだな、良かった良かった」
「テメェわざとやりやがったな……!」
喜人とは違い額に脂汗を浮かべながら、なんとか痛みを抑え込もうとしていた。
「大丈夫ですか? あまりに辛いなら、膝枕しましょうか?」
「……あんまり大丈夫じゃないかもしれねぇが、しなくていいからな」
そのまま体を覆い隠すように布団を被る。露見した自分の弱点を隠したい一心なのか、その動きは痛がっている割には素早いものだった。
「水戸川先生、あまり島上くんを困らせないであげてください」
「佐倉、そんなに怒らないでくれ。島上の体の不調を確認していただけで怒らせたかったわけじゃない。本当に」水戸川の宥めるような発言。「佐倉が甘えさせてやれば、機嫌も治るかもな」
「甘えねぇからな!」
完全に弄ばれている。水戸川はその艶々した顎に手を当てると、満足したように頷く。謎の信頼関係が二人の間にはある気がした。
喜人は水戸川に尋ねる。
「さっき言っていたこと以外で何かできることはありますか?」
「そうだな……じゃあ放課後こいつの様子を見に来てくれないか。手伝って欲しいことがあるんだ。詳細はそのとき言う」
「分かりました」
「大丈夫だってのに……ったく」勝手に話を進める二人に島上が不満そうに声を上げる。その表情と態度は憂鬱そのもので、喜人は思わず眉をひそめてしまう。
「またそんなことを言う。僕の中では今日はあなたをサポートするって、もう決まっているんです。黒木くんだけに負担を強いるわけにはいきませんから」
黒木は未だに震えていた。さっきより震えは小さくなっていたが、ショックから立ち直れるのはもう少し先のようだ。
「だとしてもだな……」
「もう決まったことだ。男らしく受け入れろ」
食い下がる島上に水戸川の一喝が突き刺さる。彼は言葉を続けられずに、すべてを飲み込むことになった。
「委員長、俺も来たほうがいいか?」
「いいんですか? 無理しなくても……」
「帰宅部だからヒマだし、お前のことが心配だから」
「……ありがとうございます」
山伏はやれやれと肩をすくめる。気安く話せる彼が一緒にいてくれるのはとても心強い。
「黒木くんはどうしますか?」
「ふぇ……あ」目に涙を溜めながら黒木がこちらに顔を向ける。
「大丈夫?」
「うぅ……おれもアニキの側にいたいっす……」
嗚咽を漏らす黒木の背中を擦りながら、落ち着かせるように微笑みかける。
「じゃあ決まりです。放課後ここに再集合ということで」
「それまで逃げんなよ、島上」
「逃げねえよ、お前こそ昼前みたいに怖気づくんじゃねぇぞ」
山伏と島上、二人の間に火花が散る。喜人は山伏は島上を苦手としていたことを思い出す。
「普通に島上くんと話せるんですね。僕と一緒にいたときは逃げていたのに」
「委員長が色々やってるの見てると、怖がるのがアホらしくなってさ」
「それは褒め言葉として受け取るべきなんでしょうか」
疑問に答えるものは誰もいなかった。
「と……とにかく! そろそろ時間がアレですし、もう少ししたら戻りましょうか」
居心地の悪い空気を打ち破る話題を求めて電話を取り出し、液晶に写った時間を確認する。時刻は12時40分を回っていた。1時までに早く昼食を終わらせなければならない、喜人はさきほどの島上のように弁当箱の中身を急いで掻き込んだ。
「用が済んだらとっとと教室戻れよ、お前ら」水戸川はそう言うと、大きなあくびをしながら元いた場所に戻っていった。
その様子を山伏は怪訝な表情で追う。
「あんなのでも教師って務まるんだな……」
喜人は不用意な発言を咎めようと、急いで口の中の物を飲み込む。そして山伏に向かって口を開こうとした瞬間、妙な視線を感じることに気づく。
頭を動かして周りを見回すと、原因はすぐに見つかった。
「あの……黒木くん?」
違和感の正体は、隣にいる黒木だった。
謎の精神ダメージを負い打ちのめされていた黒木は今、喜人に熱っぽい視線を送っている。頬を赤らめてうつむいた状態で、上目遣いにこちらを見つめている。
「どうか……しました?」
「佐倉先輩……」
うるうると瞳を潤ませた黒木が体を寄せてきたので、喜人はそれに合わせて体をのけぞらせた。そして、黒木は意を決したのかその状態で口を開くと、喜人が想像もできないことを口にした。
「ちょっとだけ、なでなでして欲しいっス……できたら頭を」
「甘えんぼさんか!」
山伏のツッコミが部屋中に響き渡った。再び水戸川に怒られたのは言うまでもない。
4.
放課後、夕暮れ時の校舎に吹き込むねっとりとした風に少しだけ気持ち悪さを感じながら喜人は保健室の扉を開ける。
隣には昼と同じく山伏と黒木がおり、彼らに先んじて部屋の中に入る。
「夕暮れ差し込む保健室ってシチュエーションとしては最高だよな」
「意味が分からないッスよ山伏先輩……」
「水戸川先生、失礼します」
すると、島上のいるスペースと自分たちのいる側を隔てているパーテーションが動き、そこから蜥蜴人の教師が顔を出す。
「おお、ちょうどいいときに三人とも来たか」
「水戸川先生、手伝うことはありますか?」
「ある。ちょっとこっちに来てくれるか」
水戸川は手を叩いて喜人たちを迎え入れようとする。そして、三人がそれに応じようとしたとき部屋に大声が響き渡った。
「ちょ……ちょっと待て水戸川! 今はマズいって!」
姿は見えないが、島上の声だ。区切られた空間の向こうで何かをやっているらしい。その声には焦りの色が見える。
「恥ずかしがるな、男の子だろう」
水戸川は顔すら向けずに返答する。そして、入れと言わんばかりにこちらに目配せをして衝立の向こう側へと姿を消した。
「何やってんだ島上のヤツ」
首を傾げる山伏。喜人も頭に疑問符を浮かべる。
「見当もつきませんね」
「アニキ! 今行きます!」
黒木が喜人の脇を急ぎ足で通り抜けてパーテーションの向こう側へ入る。すると、今度は黒木の声が部屋中に響き渡った。
「ああああにきっ! どうしてそんな!?」
「み……見るな! あっち向いてろ!」
喜人は山伏と顔を見合わせる。流石にこうも連続すると気になるもので、恐る恐る彼らのいる空間へと歩を進めることにする。
「何をやっているんでしょうか? お化け屋敷?」
「いやそれはないと思う……」
入り口の前に立って頭だけを出して中を覗き込む。中にはこちらに背を向けた黒木と水戸川が見える。
彼らの向こう側には寝台に横たわった島上の姿があった。彼は下着姿でベッドの支柱に四肢を布で括り付けられて拘束されていた。
喜人は島上の異常な格好に目を丸くする。
「わーお!」
思わず脳天気な声が口から飛び出す。
「いやわーおじゃねぇよ!? もっと他に言うことあるだろ!」
「水戸川先生、これは一体どういうことですか?」
「俺の話は無視か!」
島上が暴れるたびにガタガタと音が鳴る。必死の抵抗を試みる彼を尻目に、水戸川はこちらに振り向く。
「汗を拭こうと思ってな、アホヅラ晒して眠ってたから起きて暴れないように縛り付けといたんだ」
「なんだ、それなら安心ですね」
「安心の基準がおかしくないか委員長」
背後で同じように覗き込んでいた山伏が怪訝な表情を浮かべるが、喜人は気づかずに山伏と共に島上のもとへと近づく。
先に入っていた黒木は両手で自分の顔面を多いながら悶絶していたが、よく見ると指の間が空いていて、そこから島上をばっちり捕捉していた。
「なんてえっち……じゃなくて男らしい格好してるんですかアニキ! 冗談抜きでヤバいッスよ!」
「黒木、お前は少し落ち着いてくれ」
「だってだってぇ……!」
喜人の隣で顔を赤く染め、悶絶している黒木をアテにならないと考えたのか、彼は縋るような視線をこちらに向けてきた。
「委員長お願いだから助けてくれ!」
いつになく緊迫した様子で助けを求めてくる。
喜人は彼が何を言いたいのか表情から読み取ると、無言で頷いて水戸川に向き直る。
「水戸川先生、このやり方は間違っています。これでは背中側が拭けません。別のやり方にすべきです!」
「そうだ水戸川! さっさとこれを解いてくーーーって、え?」
「もっといいやり方があると思うんです!」
事態を飲み込めない島上を無視し、さらに水戸川に進言する。その瞳はこれ以上ないほどにキラキラと輝いていて、喜人は鼻息荒く水戸川に詰め寄った。
対する水戸川はその勢いに気圧されたのか、戸惑いを隠せない。彼はちらちらと山伏に目線を送る。
「こうなっちまったらもう止まらないんですよ。うちの委員長」山伏は肩をすくめる。それを見ると、水戸川はため息をついて視線を喜人に戻す。
「じゃあ、代替案を教えてくれないか」
「島上くんの拘束を解いて、ここにいる全員で素早く彼の体を拭くのがいいと思うんです!」
自信に満ちたその発言で、島上の表情が凍りつく。あまりに斜め上な提案に、脳の処理能力が限界を迎えたようだ。
そんな彼を差し置いて水戸川は感心したように手を打つ。
「その手があったか」
「ちょっと待て、俺の話聞いてたか!?」気を取り直した島上は信じられないものを見る表情で喜人と水戸川を見る。
「はい? 当たり前じゃないですか」キョトンとした態度の喜人。島上は彼の様子を見て思い通りにならない現実に苛立ったのだろう、眉間にシワを寄せる。
「俺はそんなことしてほしくないんだが! 拘束を解くだけでいい!」
「拘束を解くのは賛成ですが、汗臭いままここから出すわけにはいきませんし」
「自分でやるからそこまでやってもらう必要はない!」
「反抗期か島上」
「うるせぇ!」
平行線を辿りどこまでも噛み合わない会話。額に浮き出た血管が切れそうになるくらい険しい表情になった島上は、横たわった状態で器用に肩で息をする。
だが、今にも暴れだしそうな彼を前にしても喜人は退くことを考えてはいなかった。変わらず自信に満ちた表情で話し続ける。
「島上くんのため、精一杯手伝わせていただきます! 大丈夫です! 痛くしないので!」
「なんの話だよ!?」
島上がなぜこんなにも嫌がるのか分からない喜人は顎に手を当て、思案する。
「何がそんなに嫌なんですか?」
「な……!?」島上はまるで側にいる黒木のように顔を赤くし、声にならない潰れた音を口から出す。そんな彼を見て、喜人は一人合点する。
「ああ! 見られるのが恥ずかしいんですね! 大丈夫です、島上くんには目隠しをしてもらいますから!」
「なんでそうなるんだ! 普通逆だろう!」
「水戸川先生! いいですよね?」
「ああ、俺の負担も減るしな」
「俺の話を聞け!」
島上の言葉は欠片も届いていなかった。とんとん拍子に話が進み、いつの間にか彼の逃げ場は無くなっていた。
「山伏くん! 黒木くん! やりましょう!」喜人は眩しいほどにこやかな顔で宣言する。
「おおお……俺もですか!?」
「駄目……ですか?」
「いえ、これもアニキのためですから喜んで!」
いきなり話しかけられて驚いたのか、慌てた様子で黒木が反応する。戸惑いつつも自分の提案を受け入れてくれた彼に笑顔で返しつつ、山伏を見る。
「山伏くんは……」
「いいよ、委員長の決めたことなら」
いつも気だるげな友人の確かな同意をこれ以上なく頼もしく感じながら、喜人はプランを実行に移すことにする。
全員の視線が、島上に集中した。
「そういうわけなので……」
「島上、ちょっと目を瞑っていろ」
「アニキ、大丈夫ッスよ! オレが責任もってお世話しますから!」
「暴れんなよ島上、どうなっても知らないからな」
島上は顔を恐怖に歪ませる。逃れられない呪縛から開放されようと体を動かすが、それは意味のない抵抗だ。
島上は目の前に迫る脅威に対し、たまらず叫ぶ。
「や……やめッ……! うぉあああぁあ!」
その声は助けるもののない空間の中で、無意味にこだました。
5.
夕日が差し込む保健室の中を衣擦れと水の音が満たしている。そして時折、会話がその音を覆い隠す。
「島上くん、どうですか? 痛くありませんか?」
「島上、どこか痒いところはないか? 掻いてやろう」
「アニキ、気持ちいいですか?」
「島上、どんな気持ちだ?」
四人ほどの人の声、正確には喜人、水戸川、黒木、山伏の声だ。
喜人たちは、拘束を解いた島上を無理矢理目隠ししてベッドの縁に座らせ、ぬるま湯に浸したタオルで彼の体にまとわりつく汗を拭っていた。
そして話しかけられている人物である島上は、口を開くことができずにいる。
喜人は目隠しされている島上の右腕を立った状態で持ち上げ丁寧に汗を拭く。
「気分が悪いんですか? 島上くん」
島上は四人が体を拭き始めてから自発的には一言も喋っていなかった。まるで石になったようだ。心配になり声をかけてみるが、まともな反応は帰ってこない。
熊獣人の筋肉に覆われた丸太のような腕を持ち上げ、指の先から関節部分に至るまで、細部に渡って拭き上げていく。
こげ茶の毛皮に覆われたふわふわでむっちりとした体をキレイにしていく手つきはまさにその道のプロと言ってもいいかもしれない。
時々震える彼の体を落ち着かせるように腕に手を沿わす。体毛のお陰で寒くはないはずだが、自分の知らない何かがあるのかもしれないと納得する。
「でもやっぱりカッコいいです……いいなぁ」島上のあまりの逞しさに恍惚とした表情になる喜人。
「委員長、顔がすごいことになってるぞ」
喜人の隣に立ち島上の左腕にタオルを走らせている山伏は、毛皮のない喜人とは違い勝手を心得ているのか素早く汗を拭いていっている。
「あ……ごめんなさい」喜人は顔をなんとか元に戻そうとするが、視界に島上の筋肉を捉えるたびに表情が崩れてしまう。
「アニキは男の中の男ですから、これくらい当然ッスよ」
右足を担当している黒木が、跪いて島上の足の指を一つ一つ丁寧に拭きながら言う。
「そのせいで色々と面倒なんだけどな」
「大事なのは今までではなくこれからですよ。島上くんの不器用だけど素直なところ、僕はとってもダイスキなんです」朗らかな笑顔を島上に向けるが、彼は目隠しをしているため笑顔が見えていない。
喜人のあけすけな態度を見て、山伏がやれやれと肩をすくめた。
「ごちそうさま」
「もう、山伏くんったら……」
「佐倉と山伏、手が止まっているぞ。口を動かすより手を動かせ」
会話を続ける二人を、左足を担当している水戸川が制する。彼は黒木の隣で同じように跪いて作業している。
「すみません水戸川先生。島上くん、何か気になることがあったら言ってください」
島上からは反応がない、というよりさっきよりさらに震えている。顔をよく見ると何かに耐えるように歯を食いしばっていた。
「なんか言えよ島上、気持ちいいとか、どこがイイとか、委員長をどう思ってるのかとかさぁ」
「う……うるさいっ!」
島上は声を震わせながら相手を威嚇するが、山伏はそれが面白いのか笑顔のまま作業を続ける。
「折角委員長がこんなにスキスキ言ってんのに、何も答えやがらねーの」
「別にいいんです。僕の思いはすでに伝えているし、伝えられもしましたから」
喜人は島上の腕を濡れタオルで拭き、その後乾いたタオルでから拭きする。じっとりとした熱気に包まれていた毛皮に美しい照りが生まれ、どことなく涼しげになる。
「何より今、僕はあなたと沢山触れ合えてうれしいです。島上くんはどうですか?」
「お……俺は、その……むぅ」
目隠しをしていて目が見えなくても表情は分かる。喜人から顔を背けようとする彼の表情からは、否定の意思は感じられなかった。
喜人は自分の胸に島上の右手を押し当てる。
「そんなに恥ずかしがらなくていいですから、僕たちに身を委ねて今はリラックスしていてください」
「い……委員長、何してんだ……?」
「こうしたら落ち着くと聞いたことがあるので」
手のひらに当たる温かい感触で何を触っているのかを察し、島上は手を動かして喜人から離れようとする。
「怖がらなくても大丈夫ですよ」そんな彼の手を優しく両手で包み込む。「落ち着いて、ゆっくりしててください」
「いや怖がってはないんだが……」
二人の様子を見ていた黒木が唇を尖らせる。
「佐倉先輩ばっかりズルいです、オレだってアニキと触れ合いたいのに……」
「じゃあ代わりましょう。ここは平等に」
「勝手に話を進めないでくれるか!?」
喜人が胸に当てられた手を優しく引き剥がすと、島上は素早く手を引っ込めてしまう。それを見て、黒木はしょんぼりと肩を落とした。
「ひどいッスよアニキ……」
「島上くん、もっと後輩に優しくしないと」喜人は非難の視線を向ける。島上は罪悪感を覚えているのか口をもごもごと動かすと、苦し紛れに言い訳をする。
「そもそも俺は頼んでねぇよ!」
「女々しいぞ島上、これはお前のためなのだから観念しろ」横で聞いていた水戸川が口を挟む。
「絶対面白がっているだけだろこれ!」
「ならば何故されるがままになっているんだ?」
彼の力ならば容易に拘束を解くことができるはずだ。だが彼はそれをしていない。それを聞いて島上は体を硬直させ、水戸川は意地悪な笑みを浮かべた。
「そ……それは……」
「ほらな、実際は嬉しいんだろう? これ以上突っ込まれたくなければ大人しくしているんだな」
ぐうの音すら出なくなった島上を見て勝ち誇ったような表情になる水戸川。
「佐倉、島上の上半身を拭いてやってくれ」
まるで悪友のような二人の会話を聞いていると、その矛先がこちらに向く。
「いいんですか?」
「ああ、勿論だ。お前がいると島上は何故か大人しくなるからな。やってくれたほうがありがたいくらいだよ」
「ちょ……っ!?」
島上は焦りを表すように口をパクパクと動かし、右腕が彷徨うようにふらふらと動く。
「それだけは本当にいい! あとは自力でどうにかするから!」
「遠慮するな島上、痛みは一瞬だ。羞恥もそのうち快感に変わる」
「意味分かんねぇよなんの話だよ!」
島上が水戸川の相手をしているうちに喜人は島上の正面に立ち、こちらを物欲しそうに見ていた黒木に話しかける。
「黒木くん、一緒にやりましょう?」
「佐倉先輩……」
その表情は一瞬喜びに染まるが、それを見られるのが恥ずかしいのか、うつむいて顔を隠す。
喜人はそんな黒木に笑顔で話しかける。
「平等に、ですよね?」
「……はい!」
喜人は黒木の隣、島上の開かれた股下にしゃがみ込んでその逞しい胸板に手を伸ばした。
「交互にやっていきましょう」
「分かりました!」
目隠しをされた島上は新たな恐怖に身を震わせ、顔を紅潮させる。
「もう勘弁してくれ!」
「長丁場になりそうだなぁ……」山伏は二人を見ながら、小さくため息をついた。だが言葉とは裏腹に表情は柔らかい。
喜人は山伏のつぶやきに気づかず、うきうきとした様子の黒木と共に作業を開始する。
島上が悲鳴を上げるのに、そう時間はかからなかった。
Ad