治験の被験者

  1

  「ふむふむ・・・鼻水と涙が酷いと・・・うーん、典型的な花粉症の症状だねえ、幸次君。お医者さんから薬は貰わなかったのかな?」

  目の前には白衣を着たボサボサ頭の若い女性が一人。物思いに耽っている、その姿。美人でスタイルが良い。幸次だって、そう思う。

  「へーくっしょい!そんな事は、とっくにやっている・・・ああ、目が痒い!お前、自称天才なんだろ?もう何でもいいから治してくれ!」

  大きなクシャミを一つすると鼻水が勢いよく垂れてくる。充血した目からは涙もボロボロ零れてくる。花粉症の時期というのは大体、春や秋の一定の時期というのが決まりになっているが一年中、その症状に悩まされている人も少なからずいる。幸次も、その一人だ。

  「優菜、お前、どんな痛みでも取り除く薬って、この前作ってくれただろ。だったらアレルギーを治す薬だって作れるよな?頼むよ!」

  目の前にいる白衣の女性、優菜といって幸次の幼馴染、腐れ縁、悪友という存在。友情というよりはほぼ、一方的に優菜が幸次を利用していると言う間柄だ。尤も2人の関係は皆が知る所であり口さがない連中に言わせれば幸次は優菜のモルモットらしい。

  (まあ、否定は出来ないけどな)今まで何回、怪しげな薬を飲まされて大変な目にあってきたか。数え始めれば、きりがない。

  「うーん、幸次君の場合、そのアレルギーの真の原因がはっきりしないんだよ。花粉症だけだったら既にシーズンは過ぎている。お医者さんの薬だって根本的な解決になっていない。君の言いたい事はアレルギー症状を無くしたいという事だろ?だから私に助けを求めた。」

  ニヤニヤしながら幸次の方を見つめる優菜。そう、黙っていれば美人なのだ。その性格は究極の自己中。友達は幸次一人だけだ。

  「へーくっしょい!(ズルズルー、チーン!)お前、俺がいないとクラスで孤立するだろ。だから俺を助けるのは優菜の為でもあるんだ。」

  ティッシュを手放す事が出来ない幸次。必死に頼む姿を見ていて優菜が考え込んでいる。そしてハアっと溜息をついて喋り出した。

  「仕方ない、一肌脱ぐとしよう・・・おっと、その鼻水がついたティッシュを貰えないか。それに君のDNAが含まれている筈だからね。」

  ここは科学部の部室。といっても部員は優菜一人だけ。彼女がマッドサイエンティストという事は広く知れ渡って他の部員はいない。

  何やら怪しげな機材や薬が置かれてある中に入って優菜が何か作業をしている。暫くして2つのビーカーに入った液体を持ってきた。

  2

  「何で2つも薬があるんだ?」

  幸次が当然の疑問をぶつけてみると

  「何、君の身体と私の身体を最初に交換するんだ。以前にもやった事があるだろう?あれは2年ぐらい前かな。君の可愛い○○」

  「うわああ!」

  その言葉で思い出した。そう、彼女と体を交換した事があるのだ。その事で自分の大事な所を見られたのがトラウマになっている。

  尤も幸次自身も彼女の大事な所を見ているのだが、その事よりも彼女に自分の弱点を見られてしまった事の方が大事だった。

  「ま、また体を入れ替える訳か?」

  「そうだ。この部室で出来る事には限界がある。家に帰れば私の部屋で思う存分、研究できるからねえ。さあ、幸次君どうする?」

  そう言いながら目の前に謎の色の液体を差し出してくる。嫌な刺激臭がする液体。それを飲まないといけない我が身が不憫だ。

  「前に作った奴と同じだ。私が先に飲んで意識を失ったら君も飲むんだ。魂が遊離するから私の体に入り込む。私が君の体に入り込む。それで入れ替わりが完成する。決して薬を飲まないという事だけはするなよ。私の魂が行き場を失ってしまうからな!」

  そう、言い残して優菜が先に薬を飲み干す。すると、あっという間に意識を失って机の上に白衣を着たまま倒れこんでしまった。

  (仕方ない・・・)

  幸次も覚悟を決めて薬を飲み干す。苦く吐き気が込み上げてくる液体を無理やり流し込むとスーッと意識が飛びそうな感覚。

  (おっ?おーっ!?)

  何か少し高い所から自分の身体を見下ろしている様な感覚。そこには優菜と同じ様に意識を失ってひっくり返った自分がいる。

  「う、うーん・・・」

  自分の身体がモゾモゾと動いている。恐らく先に魂だけになった優菜が幸次の体に入り込んだのだろう。自分も急がなければならない。まだ意識を失っている優菜の体に覆い被さる様に自分を重ねていく。すると、またスーッと意識が遠くなりかける感覚がある。

  (あれ・・?)

  目を開けて体を起こす。胸の辺りに何かおもりがついている様な感じと股間の何とも頼りない感覚。そして足の所がやたら涼しい。

  「おっ、気が付いたようだね!」

  そう声を掛けてきたのは自分・・・いや中身は優菜だろう。男の体になったというのに戸惑う事無く、ごく自然に受け入れている。

  「じゃあ、幸次君。自分の家に帰ってくれ。ああ。私の事は心配しなくていいぞ。私の両親は、これぐらいでは驚かないからな。」

  「俺の両親が驚くだろ!」

  そう言い返す声も女性の、優菜の声だ。優菜と別れて家路へと向かう幸次の足取りは重い。そして自宅のドアを開けるのだった。

  3

  「ただいまあ・・・」

  優菜の靴、やはり自分の元のサイズよりは小さく微妙な違和感がある。靴を脱いで、取り合えず母親に説明する事にした。

  (あれ・・・あー、確か優菜ちゃんだったわよね。幸次は一緒じゃなかったの?)

  何も知らない母親が自分の姿を見るなり話しかけて来た。上手くは説明できないが自分に起こった事を幸次は母親に語った。

  (成程ねー。あ、そうだ、幸次。優菜ちゃんの体、何か匂うわよ。風呂にちゃんと入っているのかねえ?シャワーでも浴びてきて)

  自分の母親も物分かりが良い方でホッとする。そう言われて匂って見ると女性特有の甘い匂いに混ざって不快な匂いも感じた。

  脱衣場に向かって服を脱いで洗濯機の中に放り込む。学校から帰る際にセーラー服から体操服に既に着替えを済ませていた。

  (相変わらずシンプルな下着だな)

  前に体を入れ替わりした時も、そうだったがシンプルな白を基調とした上下の下着。思わず匂いを嗅いでみるが何とも言えない匂いがする。決していい匂いではない。裸になって洗面所の鏡に裸を映してみる。多くの女子よりも発育の良い体が露わになる。

  (こうしてみると、綺麗なんだけどなあ)

  そんな事を考えて見たが思い返し浴室に入ってシャワーを浴びる。髪の毛だって短い幸次のよりも長く洗うのに時間と手間がかかる。そして胸と股間を洗う時。やはり自分が男性だという事もあるのだろう。少し気持ち良さと同時にいけない感情も湧いて来る。

  (おっと、危ない危ない!)

  冷水のシャワーを頭からかけて気持ちを静めてから浴室から出る。取り合えず女性の下着を着るのは明日の登校時。それまではトランクスにノーブラという格好で部屋着に着替えて過ごす事にした。やはり2年前よりも優菜の身体も女性として成長していた。

  (優菜、俺の身体で何しているんだろう?アイツの事だからHな気持ちとは無縁だろう。今頃、実験や研究でもしているかな?)

  ベッドに横になっていても、やはり女性の身体だ。何となくモヤモヤした気持ちになってしまう。そんな気持ちを抱えながら何時の間にか幸次は眠りに落ちて行った。そして翌日。起きて見ると優菜の体のままである。女子の体操服に身を包み高校へと向かった。

  4

  「甘いな、幸次君。私は、そんなに人付き合いが良くない!そんなに身嗜みを整えていない!中身が別人だと丸わかりだぞ!」

  「偶には、こうやって入れ替わらないと本当に学校の中で孤立しかねないからな、お前。で、アレルギーの薬は出来たのだろうな?」

  放課後、漸く科学部の部室内で会話する事が出来た。髪を纏めた小奇麗な幸次の格好を優菜が興味深そうに見ている。

  「うむ、徹夜で作ったぞ。色々、君の身体を使わせて貰ったからな。十中八九、大丈夫だと思うが少し不確定要素があるのだ。」

  「何だと?おい、100%治って貰わないと困るぞ。ふむふむ・・・また2人同時に薬を飲まないといけないのか。面倒臭いな。」

  また魂を体から分離し元の体に戻る訳だ。前と違うのは魂入れ替え薬以外に自分の元の身体が新しい薬を飲んでいる事だ。

  「よし、1,2,3!」

  2人同時に例の薬を飲み干すと、また高所から自分達の身体を見下ろす感じになっている。

  (やっと、元の体に戻れる!)

  気を失っている自分の身体に意識を重ねる。手足がピクピクと動くので上手く体に戻れた様だ。。手をついて幸次が立ち上がる。

  「よし・・・目も痒くない!鼻もムズムズしない・・・・なんだ、この感触?」

  「うん?幸次君、体の調子はどうだね?私は元の自分の身体に戻れたようだが・・・・!?」

  ミントを食べた時の様に鼻、そして頭に響くような清涼感。体がゾクゾクする。女の体に戻った優菜が心配そうに自分を見ている。

  ボキ、ボキという音と共に一気に背が縮んだかと思ったら、それに対抗する様に髪の毛が一気に腰の辺り迄伸びていく。

  背が縮み、手足が細く小さくなり着ていた服が大きくブカブカになっていた。そして股間の辺りが同じ様に妙に涼しく感じる。

  「あれ?あれ!?うわああ!無い、無くなっている!」

  思わず下着の中に手を突っ込んでみると男の証が綺麗さっぱり無くなっている。そして嘆き悲しむ声も子供の可愛らしい声だ。

  「ふむ。今度は体が小さくなっただけでなく女の子になってしまうとは・・・やはり不確定要素の影響かな?もう少し研究しないと。」

  「おい!流石に、この格好では一人で帰れないぞ!優菜!お前にも家まで来てもらうぞ!」

  子供の声で凄んでみても怖さなんて全くない。その様子を見てクスクスと笑う優菜。年頃の女の子の笑顔が今はムカつくだけだ。

  「ハイハイ!私と一緒に帰りましょうね、お嬢ちゃん。」

  「お嬢ちゃんって言うな!」

  結局、優菜の背中に、おんぶして貰って家まで帰る事になった。彼女の背中に顔を埋めていると何故か胸がドキドキするのだった。

  5

  「じゃあ、後は御願いしますね。幸次君の事、宜しくお願いします。」

  (優菜ちゃん、気にしなくていいわよ。ちゃんと元に戻してくれるのなら幸次を好きに使っていいからね。貴女なら任せられるから)

  玄関先で優菜が母親に頭を下げている。息子が幼い女の子になったというのに母親と言えば、それも、あっさり受け入れていた。

  「ったくよお、こんな姿じゃ学校に行けないじゃないか・・・・」

  箪笥の奥深くにしまった子供用のパジャマを母親が持ってきてくれた。それに袖を通して自分の姿を鏡で眺める。髪の毛が腰の辺り迄伸びた可愛らしい女の子。良く見れば男だった時の面影も残っている様な気がする。年恰好で言えば10歳位だろうか。

  (幸次、お風呂一人で入れる?何なら母さんも一緒に入ってあげようか?)

  「断る!母さんも自分の年を考えてよ。もう40過ぎてるだろ!」

  (えーっ、私、一度、娘と風呂に入って見たかったんだよね。大丈夫だって、一緒に入るだけだから。ね、御願い!)

  母親が手を合わせて御願いしている。そこまで言われると無理に断るのも悪い気がする。結局、一緒に入る事になってしまった。

  (女の子って、この頃から大きく変わって行くんだけどねえ。まあ、女の子だったら幸子とか幸恵とか名付けようと思ったんだけど)

  「成程ねえ・・・しかし子供の姿って不便だよなあ。体や髪の毛を洗うのに、こんなに時間がかかるんだから。」

  今、母親と向かい合って一緒に湯舟に浸かっている幸次。子供の身体だから大人と一緒に入っても湯舟には、まだ余裕がある。

  (幸次、優菜ちゃん色々と誤解を受けやすいけど根はいい子だからね。大事にしてあげなさい。あの子にはアンタが必要なのよ)

  「そんな事、言われなくても分かるさ。ただアイツの本心が見えないんだ。俺がアイツを思う程アイツは俺の事思っているのかな?」

  肩まで湯に浸かって母親と湯の掛け合いっこをする。何年も前に母親と一緒に風呂に入った時にやった遊び。懐かしい気分だ。

  (年頃の女の子だからね。まあ、薬を作ってくれる。今はそれで十分じゃないかしら)

  「そうだよなあ・・・あ、のぼせそう。俺、先に上がる。」

  何時もなら10分ぐらいは風呂に入っていられるのに今は5分入るのもやっとだ。早く元の体に戻りたい。それが今の願いだった。

  6

  「うーん、おかしいなあ。アレルギーの症状は出なくなったけど・・・まさか、こんな事になるなんて・・・でも、何で生きているんだろう?」

  「おかしいのは、お前の頭の中だよ・・・」

  暫く経ったある日、科学部の部室で優菜が自分専用ソファに座って首を捻っている。目の前には可愛らしい着ぐるみが一体ある。

  「何で、俺が竜の着ぐるみになっているんだよ!この前は狐の耳と尻尾が生えた女の子!次は何だ!ロボットにでもなるのか!」

  人間の大きさの着ぐるみが手足をバタつかせている。どういう原理か分からないが今の幸次の身体は緑色の竜のぬいぐるみだ。

  狸になった時は、もっと酷かった。大きく膨れ上がった男性のシンボルと丸々膨らんだ腹。流石に、この時ばかりは学校を休んだ。

  「悪いとは思っているわよ。でも、着ぐるみってどうなの?それって心臓とかある訳じゃないよね。という事は今の幸次、魂だけ?」

  「うーん、確かに胸に手を当てても鼓動が分かる訳じゃないし・・・・というか。優菜、マジで頼むわ。流石に俺も我慢の限界だ。」

  こんな事になる位ならアレルギーで鼻水を垂らして涙目になっていた方がいい。真面目に心が折れそうになる位、気分は最悪だ。

  「どう、気分は?」

  「1週間ぶりの人間の身体だ!鼻水を垂らす事が出来る、涙を流す事が出来るのが、こんなに素晴らしいとは!ハックショイ!」

  元の男子の体に戻ってくる事が出来た。相変わらずアレルギー症状が出るが何時、元の体に戻れなくなるか分かった物ではない。

  「結局、不確定要素が分かれば、こんなに幸次が酷い目に合わなくても済むのよ。今日は実験は、もういいわ。」

  何時になく優菜は落ち込んでいる。今日は、これで解放されるのかと思うと安堵するが彼女の暗い顔は出来れば見たくない。

  「先ずは不確定要素が何かを必ず見つける。家に私特製のコンピューターとAIがあるから、それに相談してみるわ。」

  今日は一人で帰るからと言い残して部室から追い出されてしまった。家に戻って夜、ベッドに入っても考える事は優菜の事だった。

  (優菜、俺の為に頑張っているのは分かるんだけどなあ。何か彼女の為に俺が出来る事はないかなあ)

  恐らく彼女も自分も、ある感情に基づいて行動している。それを言葉にするのが怖いだけだ。欠伸を一つして幸次は目を瞑った。

  7

  「幸次君、AIが不確定要素が何か導き出したよ。そう、愛、愛だよ!愛の要素を薬の中に加えればアレルギーは治るんだよ!」

  「AIが愛って何かのギャグかよ、で、愛の要素って何だ?目に見える物なのか?薬に加える事が出来るのか?どうなんだよ?」

  翌日、何時もの調子でドヤ顔で報告して来た優菜。しかし、幸次の至極まっとうな指摘に、その顔が見る見るうちに曇り出す。

  「それはその・・・・私にも良く分からないんだ。愛って言う事は人を好きになるとか、そういう事だとは思うんだけど私には経験が・・」

  何時になく顔を赤らめて声が小さくなる優菜。頭はいいかもしれないが、こういう事には全く疎い。幸次は思わず声に出していた。

  「いいか、ハッキリ言うぞ。俺はお前の事が好きだ。本当に、どうしようもない奴だけど放っておけないんだ。昔から、ずっと好きだ。」

  部室内がシーンと静まり返っている。偶に聞こえてくるのはビーカーの中に入った薬品がガスで温められて沸騰している音だけだ。

  「わ、私は・・・幸次君、いや君の事が好きなのか分からないんだ。私の大切な友達だし実験にも協力してくれる。感謝している。」

  言葉を選ぶ様にポツポツと話す優菜。恐らく頭をフル回転させている事だろう。そんな彼女の様子を幸次も注意深く見ている。

  「恐らく好きというのは英語でいうライクだろう。それは私も君に感じている。しかし恋、ラブと言われると自信がない。すまない。」

  再び部室内に沈黙が訪れる。

  (そうか、俺はフラれたんだ)

  物凄く重い事実が幸次を打ちのめす。とは言え、思いを伝えることが出来た。幸次自身は、スッキリした気分になっていた。

  「でも友達としてはOKって事だよな。なら今度とも宜しく頼むよ。俺の薬の事は焦らなくていいから、ゆっくり作ってくれ、じゃあな。」

  「ま、待ってくれ、幸次君、まだ話の続きが・・・」

  幸次が部室から飛び出していく。後ろで何か優菜が言っている様だが敢えて無視する。同じ部屋にいる事はとても耐えられない。

  「畜生、畜生・・・」

  何故か目からポロポロと涙が零れ落ちてくる。涙を、そのままに正面を見据えて歩く幸次の姿を他の生徒が何事かと見ていた。

  「わ、私は、どうすれば・・・」

  部室に一人取り残された優菜。椅子に座って暫く目を閉じて物思いに耽っていたが、再び立ち上がり作業を開始する。その表情は決意に満ち溢れていた。

  8

  (ねえ知ってる?科学部の優菜さん、もう、これで3日間、部室に閉じこもっているそうよ。一体、中で何やっているんだろう?)

  (頭だけ良くても、あれだけ問題行動起こせばなあ。次に何か問題起こしたらアイツ退学って噂だぜ。早くいなくなって欲しいよ)

  教師で同級生達がヒソヒソと噂話をしている。その声を耳の右から左に流しながら幸次と言えば自分の机で物思いに耽っていた。

  (優菜の奴、何をやっているんだ?)

  クラスの窓際の一番後ろの優菜の席。そこに持ち主の姿はない。あの日、別れて以来、彼女とは会ってない。部室の前まで足を運んだ事はあるが、そこから中に入る勇気が、どうしても湧いてこない。薬の事も幸次自身は、もう既に無理だろうと思っていた。

  (もう、アイツが何をしようが関係ない)

  そう割り切ってしまえば楽になる。なのに、彼女の謎の行動。今まで実験はしていても授業には必ず参加していた彼女である。

  授業を休んで迄、部室に籠って何かをやっている。恐らく例の薬を完成させようとしているのだろう。愛という要素を求め続けて。

  (キーンコーンカーン・・・・ドカーン!)

  授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いていると思った瞬間だった。物凄い爆発音と共にガラスの砕け散る音も一緒に聞こえた。

  校内が揺れる程の凄まじい衝撃。その直後に火災報知機のベルが一斉に校内で流れ出す。そして機械の音声が聞こえてきた。

  (科学部部室で火災発生、ガス探知機も作動しています。生徒並びに教職員の皆さんは速やかに校内から避難して下さい)

  教室の生徒達が一斉にざわつき始めた。口々に不満をいいながらも皆が、校舎の外へ避難を開始している。そんな中、幸次は一人、部室へ向かい駆け出していた。ある教師が逃げる方向が違うと声を掛けてきた。そんな事は幸次だって分かっている。

  (俺のせいだ、俺のせいで優菜が!)

  部室の前に辿り着いて思わず体が凍り付く。ドアが吹き飛んで部室の中は煙で見えない。間違いなく吸ったら只で済まない。

  近くの水道でハンカチを湿らせて口と鼻を覆って床を這いつくばって進む。すると煙が薄くなった所に誰かが倒れていた。

  (優菜!)

  口元に顔を寄せて見ると呼吸はしている。体が傷ついているという事も特にはなさそうだ。恐らく衝撃で気を失っているのだろう。

  煙に気をつけて彼女の身体を部室内から引っ張り出す。そして気を失っている彼女を運ぼうとすると、優菜の意識が回復した。

  9

  「ああ、幸次君か・・・助けは無用だ、一人で歩ける。」

  ヨロヨロと立ち上がる優菜。そして部室の方向に視線を送ると一つ溜息をつく。そして白衣から小瓶に入った液体を取り出した。

  「もう、この学校には居られないな。だが、薬は完成した。後は、幸次君、君の涙を加えるだけで薬は真の力を発揮する筈だ。」

  「涙?何で、そんな物が必要なんだ。」

  「うむ、愛の要素を加えなければいけないと前に言ったね。あれから薬を作りながら色々考えた。そして私は君の事が好きだという事が分かった。そして薬には互いに気持ちを通じ合う物の体液が必要になる事が分かった。そこで先ずは私の涙を入れたが・・」

  そして部室内を改めて見る優菜。爆発こそ凄かったが炎が見えている様でもない。煙も黒から白色に変化し匂いも収まってきた。

  「爆発が起きるとは思いもしなかったよ。まあ、この薬は君専用だ。もっと一般に出回る様な薬のデータは既に保存してある。」

  急に大声で笑いだす優菜。思わずカアッと頭に血が上ってしまう。アッと思った時には既に手が伸びて優菜の頬を叩いていた。

  「馬鹿野郎!心配させやがって!何時もお前はそうだ。勝手に一人で物事を進め迷惑ばかりかけて!今回だって、そうだぞ!」

  何時の間にかボロボロと涙が溢れている幸次。しおらしくなるかと思ったら、その涙を優菜は小瓶の中に、せっせと集めていた。

  「よし、これだけ涙が入れば十分だろう、さあ幸次君、遠慮なく飲みたまえ。君の為に作った薬なんだ。これが欲しかったんだろ?」

  「この野郎!」

  更に頭に血が上った幸次。再び優菜に手を伸ばすが

  (パアン!)

  その前に優菜が幸次の頬を叩いていた。呆然とする幸次とは対照的に優菜の顔は紅潮し真剣その物。涙も目に浮かんでいる。

  「御願い飲んでよ!どれだけ私が苦労したと思っているの!アンタの為に作ったの、私には幸次だけ。どうしようもなく好きなの!」

  そこから後は嗚咽になって何を言っているのか分からない。子供の様に泣き続ける優菜を見ていると自分の熱が冷めていく。

  「分かったよ、有難うな。」

  それ以上何を言っていいのか分からない。小瓶の中の液体をくいっと飲み干す幸次。涙の若干しょっぱい味だけが分かった。

  「どう、くしゃみは?鼻水は?目の痒みは?」

  矢継ぎ早に優菜が問いかけてくる。確かに症状は治まっている気がするがイマイチ実感が湧かない。それが正直な感想だった。

  10

  「では次のニュースです。日本の○○優菜さんをリーダーとするアメリカの研究チームが新薬を発表しました。この新薬、今まで難病とされていた、ある疾患の治療に劇的な効果があるそうです。優菜さんは、その治験を最初に日本で行う事を明らかにしました。」

  爆発事故から数年、社会人になった幸次は下宿で一人、御飯を食べながらテレビのニュースを眺めていた。

  (あいつ、そろそろ日本に帰って来るんだったな。あれ、何時だったっけ?)

  結局、高校を退学になった優菜。幸次も必死になって、その処分を軽くしてほしいと学校に頼み込んだが優菜が断ったのだ。

  「お世話になりました。学校の修理費は私が開発したアレルギーの薬の代金で支払いますので大丈夫です。では、さようなら。」

  そう言い残して学校を辞めただけでなく、前から話があったとされるアメリカに行ってしまったのだった。そこで大学を優秀な成績で卒業し、そのまま製薬会社に研究者として迎えられたのである。何度も幸次が日本に一度、帰って顔を見せてくれと話したが

  (私、成功するまで帰らないから)

  その一点張りでアメリカに居続けたのである。そして、このニュースが流れる前日、幸次のスマホに1通のメールが届いていたのだ。

  (アメリカから帰ります。大事な話があるので、その積りで 優菜)

  (という事は、もう、そろそろ帰ってくるのか。うーん、部屋を掃除しておかないとな)

  食事を食べ終えて洗い物をしていると、急に下宿のインターホンが鳴らされた。カメラで様子をみると女性らしき人物が立っている。

  (まさか!)

  慌ててドアを開けると

  「幸次、帰ってきたよ!」

  そう言いながら女性が抱き着いて来る。高校の時の野暮ったい格好ではない。洗練された大人の女性、それが今の優菜だった。

  「あーっ、もう泣いている!ねえ、やっぱり、あの薬のせい?」

  「うるさい!嬉しくて泣いているんだ。」

  あれからアレルギーの症状は現れていない。ただ気になる事が1つ。涙もろくなった事だ。感情が高ぶると自然と溢れてしまう。

  「あ、そういえば大事な話って何だよ。」

  「うん、私、製薬会社やめてきた。もう頭を使う事は十分したから。これから先は幸次のお嫁さんになって子供と一緒に暮らすの。」

  思わぬ発言に幸次が固まってしまう。相変わらず、こうと決めたら行動が早いのは相変わらずだ。

  「いや、結婚するのは、いいけどさ・・・お前、お金あるのか?俺は持ってないぞ。」

  当然の疑問を呈する幸次。それに対して笑顔で優菜が、ある物を見せる。優菜名義の通帳、その預金をみて再び固まる幸次。

  「一般に出回っているアレルギー薬のデータがあるって言った事覚えてる?今の日本のアレルギー薬って殆どが私の開発した薬よ。」

  通帳を持つ手が震える。素人の自分でも日本のアレルギー薬の殆どの権利を持つ事で生じる金の恐ろしさ。減らす方が難しい。

  「それ以外の薬の権利は全部、手放す事で会社を辞めたんだからね。明日は幸次の実家に行くから。おばさん喜んでいたわよ。」

  既に両親には連絡済、既に外堀は埋められていた様だ。

  「じゃあ、一緒に寝ようか?あ、今日はアレは無しね。空港から直接、やってきたんだから。いやー、もう疲れと時差ボケが酷くて。」

  そう言って幸次のベッドに、さっさと潜り込んでしまった優菜。直ぐにベッドから静かな寝息が聞こえる。余程疲れていたのだろう。

  (まったく、変わってないな)

  その幸せそうな寝顔を見ていると、つい、こちらまで笑顔になってしまう。これからの2人での生活に思いを馳せる幸次であった。