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お誕生日ありがとう
「お前じゃなきゃ、駄目なんだ。俺と一緒に、生きてくれないか」
胸の高鳴りに、言葉が上手く聞こえない。そんな事が、こんな俺の人生にあるんだなんて、信じられなくて。けれど、目の前に広がる光景は嘘なんかじゃ
なかった。
「うん。……喜んで」
伸ばした腕を掴まれ、抱き寄せられる。強く。
強いだけ、それの想いもまた強いのだと証明するかの様だった。
ガチャン、と冷たい扉が開く音を響かせて、俺は部屋へと足を運ぶ。ただいまと態々口にする事もない。今は家の中に誰も居ない事くらい、時間でも、そして
開いた扉の内側が真っ暗な事でもわかっていた。
疲れた身体を引きずって、どうにか鞄と買い物袋を下ろしては夕食の準備に取り掛かる。淡々とした物音ばかりが部屋に立っては、消えてゆく。BGM替わりに
つけたテレビから聞こえる笑い声が、場違いに感じられた。
スープを味見する。
問題がない事を確かめて、皿へと盛り付ける。スープを作っている間に、他の物もできてしまった。疲れているし、時間もそれほどないから、あまり手が込んだ
料理とは言えなかったけれど。充分に頑張っている方だろう。
皿へと盛り付けて、テーブルの上へといつもの様に並べてゆく。ふと、思い立ってもう一人分の用意をした。いつもは盛り付けたりしないで、置いておく。
あんな夢を、見てしまったから。
幸せの絶頂だったあの頃。どんな人の人生にも、そういう瞬間っていうものはあるんだろう。それがいつなのかは、わからない。人生全体で見て、どの部分が
一番に幸せであったのかなんて、人生が終わるか。もしくはもう充分に人生を下ってからじゃないとわからないだろう。
そして俺は今、後者のつもりで、あの頃を幸せの絶頂だったと表現している。
「いただきます」
一人作った食事を、一人黙々と食べてゆく。もう一人分の方は手付かずのまま、食べるはずの主も帰ってきていない。ちょっと、嫌味だったかなと反省する。
まだ帰ってこないのを知っているのに、こんな風に盛り付けて置いてあるなんていうのは。
秋夜(シュウヤ)とは、幼馴染の間柄だった。
小さな兎の俺とは違って、シュウヤの身体の大きな熊だった。口数はそれほど多くはなく、多分幼馴染じゃなかったら、きっと俺はシュウヤと一緒の人生を
歩もうだなんて思わなかったかも知れない。遊ぶのは一緒。学校も一緒。いつも一緒だった。
いつも一緒だったんだ。だから今、同棲もしているのに。心だけがすれ違った今が、辛かった。
高校の頃に"そんな"関係になって、大学生になって将来を見据えたシュウヤは、俺へと手を差し出した。一緒に生きていこう、と。俺は喜んでその手を取った。
そんな幸せから、十年も過ぎれば。絶頂を過ぎれば、坂道となって、下ってゆくのも仕方が無かったのかも知れない。緊張しながら入った会社でシュウヤは
上手くいかず、どうにか再就職先を見つけた物の、当初予定していたよりも二人の生活にズレが生じはじめた。俺が眠る頃にシャウヤは戻ってくるし、俺が
出かける頃にはまだシュウヤは眠っている。そんな些細な事だったけれど、それがずっと続くとなると次第に心にも距離ができはじめるのかも知れなかった。
休日も、中々合わない。
「ごちそうさま」
今日もおいしく作れた料理を平らげて、手を合わせる。シュウヤの好きな味だ。だから、俺の本当の好みとはちょっと違う。それで良かったと昔は思って
いたし、今はもう慣れてしまった。
「ごめん。今日は時間がなくて」
「別にいい。いつも用意してくれて、ありがとう」
ふと思い出した会話に、苦笑する。幸せな記憶の断片ばかりが、雨の様に降ってくる。濡れる度当時の記憶を思い出しては、身体ではなく心が冷える気がした。
美味しい料理を作っても、美味しくできなかった料理が置かれても、時間がなくてインスタントで済ました時でさえも。持ち寄る気持ちはいつも同じだった。
大切なシュウヤを気遣う俺の気持ちと、そうしている俺を抱き締める様な言葉を、恥ずかしながらも返してくれるシュウヤと。
今は、言葉を交わす事もほとんどない。
少し溜め息を吐く。もう三十を超えたし、若いなんていつまでも言っていられなかった。でも、仕事は上手くいっていた。仕事があって、将来を誓った恋人が
いて、だからそれは幸せな事なんじゃないのかって、そう思い直そうとする事もできる。けれど、あの日々には勝てなかった。現金な物だと思う。あの日々を、
恋しく思っている自分が居る。勇気を出せば。今からでも、また戻れるんじゃないのかって。
「あ、あの。シュウヤ。よければ、今度……」
「悪い。疲れてるんだ」
久しぶりに聞いたシュウヤの声。こんなに低い声だっただろうか。俺の方を見もせずに口に出されたから、そんなに低く聞こえたのだろうか。振り絞った勇気が、
萎んでゆく。
泣かなかった。泣いたら、立ち上がれなくなりそうだったからなのかも知れないし、単に泣けなかったのかも知れない。
それでも俺は、俺達はこの日々を続けていた。一体それにどれだけの価値があるのかと、時折疑問に思いながらも、既に義務感の様な物を勝手に抱いてそうして
いるだけなのかも知れないと思いはじめていても、月日ばかりが。二人で作った料理が、一人分を残して冷めてゆく事実ばかりが積み重なってゆく。
それでも、少なくとも俺はシュウヤを今でも大切に思っていた。好きかどうかというよりも、大切だった。どれだけか今の日々が冷めた様に。恋心と夢から
醒めたのだとしても。あの時確かに俺は幸せだった。俺の人生の一部を、子供のころからと思えば、ずっと彩ってくれたその存在を、大切ではないと言える日が
来るはずもなかった。
シュウヤは、どうなんだろう。俺と同じ気持ちなんだろうか。だからこんな日々を続けているのだろうか。
睡魔を覚えて、床に就く。ベッドは、二人用のままだった。俺が眠りはじめてからしばらくして、遠慮がちにそれは軋んでもう一人を迎える。朝になると、
大きな背を向けたまま寝息を立てているシュウヤを見て、そして俺は小さく。シュウヤを起こさない様に挨拶をして仕事へと向かう。
「おはようございます」
いつもの様に、仕事場に着くと控えめな挨拶をする。
「先輩っ、はようございまー!」
元気な声が聞こえて、思わず苦笑する。こんな体育会系の挨拶をしてくる奴、今時中々見ないなって。俺がそんな風に思っているとは考えてもいないのか、
元気な犬が飛び出してくる。シュウヤ程とは言わないけれど、それなりに身体のでかい。後輩の雪(セツ)の姿だった。名前通り、全部白い。ユキじゃ駄目だった
のかとたまに思う。本人もそう思ってるらしい。
会社の後輩であるセツとは、もう五年来の付き合いだ。元々は俺とシュウヤの母校の後輩でもあるセツの教育係を任された俺は、セツが入社した時から面倒を
見続けている。そんなセツも最近は部下を持つようになって、こんな今でも学生気分みたいな奴でも先輩や上司になっていくんだな、とたまに考えてしまう。
なんて馬鹿にしている様に聞こえるかも知れないが、セツのこの性格は人によっては好印象を抱いたり、打ち解けやすくする効果を発揮しているため、セツ
当人の仕事振りはまだ甘いところは見えるが、セツとその部下たち、というくくりで見ると同期の中では良い成績を出しているらしい。人望という物は中々に
ある様だった。
「先輩のやり方を真似してるだけっすから~!」
というのはセツの言葉だが、真似ってなんだよって気しかしない。俺はお前みたいな陽キャの中の陽キャになった覚えはない。
仕事に忙殺されて、一日が過ぎてゆく。そうしている間だけ、家の中の、シュウヤとの関係について忘れる事ができた。お昼過ぎくらいになってから、シュウヤも
今頃は起き出して現場に向かっているのかな、なんて気にする程度だ。それはそれとして、夕ご飯は何にしようかとか、そんな事も考えはじめる。帰宅したのならば、
また冷えた空気の中、ため息交じりに夕食を作ってはひとりでそれを食べて、ひとりで眠る羽目になるというのに。
「先輩、たまには飲みにいきません??」
帰り際、帰宅した時の事を考えて少し憂鬱さを取り戻しつつある俺に、セツが声を掛けてくる。はっとなって、俺はまた苦笑した。顔に出ていたのかも知れない。
にこにこ笑いながらやってくる大型犬には、そんな風に気遣う素振りは微塵もない。だけど、セツはそういう所では俺が舌を巻くほどに鋭い奴でもあった。そういう
ところが部下や、時には取引先ですら懐柔し、この人のために何かしたいと思わせる要因になっている。中々侮れない能力だ。
「……お前の分は出さないぞ」
「酷っ!? いや、まあー……むしろ俺が出しますよ。俺から誘ってるんだし」
軽い冗談で口にした言葉だったけれど、むしろセツはそう返してくる。軽く手を振って、改めて全部俺が出すと告げる。帰るのは少し遅れるけれど、まあ
シュウヤが帰ってくるのはもっと後だし、明日は休みだから別にいいか。
帰り道、いつもなら駅までの寄り道は精々が遅くまで開いているスーパーに足を運ぶくらいだけど、今日はそのまま夜の色で賑わう場所まで向かう。駅前から
少し外れただけなのに、それだけで歩く人たちの色もまた変わっていた。露骨な客引きの姿も目立つ。客引きの男が、いい女の子がいますよ、なんてにたにた
笑いながら声を掛けてくるけれど、生憎俺にはまったく関係ない。そして俺と一緒に歩くセツにとっても、それは変わらなかった。先輩と後輩という間柄で
ありながら、俺はセツに自分のカミングアウトは済ませていたし、セツも実のところ"同族"という奴だった。そんな訳で俺達からすれば客引きの努力なんてものは
まったくの水の泡だったし、声を掛けられても少しも嬉しくないどころか迷惑千万といったところだったが、セツはそんな客引き相手であったとしてもにこにこと
いつもの様に明るく笑っては、すんませんと言いやんわりと切り開いてくれる。俺一人だったら、軽く首を振って通り過ぎているところだろうな。
「ささ、先輩。あそこっすよ。俺が見つけた穴場の居酒屋。結構いい感じっしょ?」
駅から少し歩いた、小道の途中にある小さな居酒屋。既に住宅が連なる場所に差し掛かりはじめていて、そんな中で暖色系の提灯を灯しているそこは、なんだか
少し場違いな様にも感じられた。
「お前でもこういう店探したりするんだな」
「えっ、なんすかその言い種」
「大人数で騒ぐタイプの店しか知らないのかなと」
会社の飲み会なんかがある度に、飲みニケーションしにいくタイプだしなこいつは。俺は結構サボるけど。あれ、なんか上司としてあんまりよくない気がする。
「失礼だなー先輩。俺だって、こういう店探しますよ。ちょっとこう、雰囲気いい所に相手をつれてって……ね?」
「そうか。おめでとう恋人ができたんだな」
「……できてねっすけど」
セツをいじるのはこのくらいにして、暖簾を潜って中へと入る。居酒屋の中は、まあ外から想像した通りの光景が広がっていた。建物からして、あんまり広くは
ないし、そもそも飲食店としての設計を最初からされていたのだろうかって感じだからか、雑多で、だけど不思議と落ち着く。そんな雰囲気の空間だった。客層も
どちらかと言えば中年から上といった感じで、それと比べると三十を半ばの俺と、二十代後半のセツでは少し浮いてしまう様な気がした。
「いらっしゃい。空いてる席、どこでもいいからね」
店主が気前よく挨拶をしてくれる。それに、セツが朗らかに返した。その直後に「来てくれたんだねぇ」「言ったじゃないっすか~」なんてやり取りが続くのを
見るに、セツは下見で眺めたこの店を気に入っては、早速店主とも顔見知りになっていた様だった。下手したら自分より二倍は生きている相手にもそうやって話を
通せてしまうそのコミュ力の強さは、見習いたいところだ。礼儀正しく、粗相のないように。それだけですべてが回る訳ではないのだと知りつつも、俺はどうしても
そちらの方にかじを切ってしまう。だからこそ、俺がセツを連れて取引先に行くと、セツは未熟な、だけど精一杯な後輩というわかりやすい肩書を十二分に発揮して、
場を和ませたりしてくれて中々仕事の進みがいいものだが。
その癖セツが自分の後輩と組むと、お調子者な上司に早変わりをして入社したての新人をそれとなく補助する方向に回るのだから、こいつ下手したらその内俺より
出世するんじゃないかな、なんて思っている。もっとも詰めが甘い部分はあるにはあるのだが。
「ささ。先輩、今日も一日、おつかれさまっす」
「ん」
わざとらしい仕草で恭しく酒を注いでくれた後に、セツ自身はジョッキのビールを豪快に呷る。スーツを投げ捨ててはネクタイも解いて、シャツの前ボタンも三つ
外していると大分無防備な状態になっていた。俺はスーツを抜ぐ程度だけど。そうしていると、開いたシャツの隙間から被毛越しでも逞しいセツの胸板が露わに
なって、学生時代はスポーツに打ち込んでいたらしいセツの身体は、まだまだ親父の階段なんぞは上ってはいない様だ。それを見て、俺は少し息を呑む。そんな
欲求はとうの昔に冷え切ってしまったはずなのに。期待するだけ、身体を熱くするだけ、損だった。シュウヤとのそういう生活も、随分とご無沙汰だった。
「それで、最近はどうなんだ」
「どうなんだって、別に俺の方は何もないっすよ。俺が訊きたいのは、先輩の話だし」
「俺の話って……」
「上手くいってないんでしょ? シュウヤさんと」
直球で言葉にされて、俺は思わず酒を吹き出しそうになる。狭い居酒屋とはいえ、席は少し奥まった場所であるからして、別に誰かにこの話が聞かれる訳でも
なかったが、それでも今の話が誰かの耳に入りはしなかったかと思わず顔を上げてしまう。少し前と変わらない、暖かな居酒屋の光景が広がっているだけだ。やれ
誰かが酒を飲み過ぎただの、お冷零しただの、そういうのに逐一相手をしては人の好い大将の笑みと言葉だの、そんな物で満たされている。いい店だった。
そんな店で、こんな話をしているのが、なんだか申し訳ない。
というよりも。
「お前、なんでそれを知って……」
「え? だってこの間、先輩が自分から言ってたんじゃ」
心底意外だと言いたげに、セツがそう言う物だから。俺は思わず頭を抱える。ああ、あれだ。飲み過ぎた。
俺は酒癖があまり良くなかった。酔うと、記憶が飛ぶ。別に酒に弱い訳ではないけれど、過ぎればそういう風にもなってしまう。だから普段は、そんなに飲む事は
ないし、会社の飲み会も忘年会だの大き目の物を除いて基本的に参加はしなかった。酒は好きだけど、飲む相手は選びたいと思ってしまう。そう思ってしまうのは、
何も気ごころ知れた相手じゃないと嫌だからというばかりではなく。そういう失態を犯す可能性を持っているからでもあった。
その点セツは良かった。既にカミングアウト済みだからだ。いや、何故そうなったかっていうと、それもまた昔に俺がやらかしたからでもあるが。
あの頃は。ああ。あの頃は、今(先日)とは違う意味で酒を過ぎて、セツにそれを零してしまったのだった。なんだか懐かしくもある。
「先輩、また飲みすぎちまったかな?」
「みたいだ。悪い。嫌な話、してただろ」
記憶が飛ぶだけならまだしも、そういう時俺は結構な爆弾発言をしてしまう。多少の事ならセツに聞かれても平気ではあるのがわかっているからというのもあるが。
どうやら先日の席で、俺は酒を飲み過ぎて正体を失くしては、セツにぽろりと近況を。シュウヤとの冷え切った同棲生活に対する話題を口にしてしまっていた様だ。
「……この話しない方がいいなら、無理にしないっすけど」
そこで止めてくれる。セツのそういうところ、俺は好きだった。俺を気づかわし気に見つめるデカい犬は、言ってはいけない事を言ってしまったと言わんばかりに
耳まだ下げて申し訳なさそうにしている。多分、その話を聞いて。そして今日の俺の少し落ち込んだ様子も考慮して、セツは俺を飲みに誘ってくれたのだろう。
申し訳なく思う。俺は上司なのに。
「いや、いい……。俺が口にしたのが、悪いんだし。お前が、興味無いとか聞きたくないっていうなら、聞かなかった事にしてくれていいけど」
そんな風に言っても、きっとセツは止まってくれないだろう。今も俺を心配する様に見てくれている。どっちが先輩なのか、わかったもんじゃないのかも
知れないな。
「先輩。俺ぁ、先輩にすげー世話になったっていうのもあるから、そういう話、あんまり見なかった振りってできねぇけど……。でも、俺がとやかく言うのも、筋違い
だって、わかってます。でも、どうしても辛くなったら、話聞くくらいはできるから」
「俺、そんな酷い事言ってた? お前にカミングアウトした時もそうだけど、憶えてないんだ」
「あー……いや、まあ。酷い事言ってたっていうか。酷い顔してたっていうか」
そりゃまた、もっと酷い。シュウヤに対する愚痴でも嬉々として吐き出して、酒持ってこい。セツ、俺の話を最後まで聞け。そういう事言ってたんなら、まだマシ
だったろうに。
「見ちゃいらんなかったっすから……」
その言葉で俺は撃沈する。
「……ごめん。セツ」
「いや、全然構わないですって。先輩、普段は大人しいし礼儀正しいっすから。でもその分、ため込むタイプって奴で。俺は結構先輩と一緒に長く居たから、先輩の
なんとなくこうなんじゃないかってのも、もうわかるんで。だから……そういうのがわかるのに、先輩がずっと何も言わないで我慢しているのを見ている方が、俺
として辛いっていうか、気になって仕方ないっすから」
「お前にそんな風に気遣われる様じゃ、先輩失格だな」
「んな事ないと思うっすけど……。誰だって完璧になんてなれない訳だし。俺にしたってそうでしょ。俺が先輩と出会った頃の、先輩の年齢と、今の俺って、もう
そんなに違わないけれど。俺は当時の先輩みたいになれてない訳だし。誰だって、そんななんでもかんでも立派になんてなれるもんじゃないっすよ」
「そういうもんかな」
「そうっすよ。だから……息抜きできる時が必要なんすけど、ね」
そういう相手がシュウヤなんじゃないのか。
セツは、そう俺に問いかけている様だった。申し訳なくなる。先輩後輩の間柄でしかないのに、セツにここまで気遣わせてしまっているという事に。
「ま、湿っぽい話はこれくらいにしましょ。飲みましょ、先輩。……潰れない程度にね?」
「ああ、うん」
話を打ち切る様に、セツがまた酒を手に取る。ちなみにセツの方はまったくザルな奴で、いくら飲んでも別に潰れたりしない。ただ、普段は決して酒を過ぎる事は
なかった。多少飲んだところでケロッとしているし、精々仕事が上手くいかなかった時に飲む量が増える程度だった。
セツが話を流してくれた事で、俺は少しほっとしてまた酒を飲む。少しだけ、何故自分がほっとしたのか疑問に思いながら。セツに、踏み込んでほしくなかったから
だろうか。それは確かにそうだ。会社の先輩と後輩で、しかもセツは後輩の方だ。先輩が後輩の事情を気にしてあれこれと面倒を見てやるのならともかく、後輩に
そんな事をさせて気を使わせているだなんて、あまりにも申し訳ない。
「それでね、先輩。あいつその時、なんて言ったと思います? ――」
さっきまでの話なんて何もなかったかと言わんばかりに、セツが楽しい会話を口にする。俺はそれに頷いて、いつもの様に聞いていた。
暖かな居酒屋にふさわしい、暖かな会話。それで良かった。冷たい話なんて、とてもこの場に似合いそうもなかった。
セツとの飲み会から一夜明け、俺は遅い起床をする。
隣を見ると、眠るシュウヤの背中が、無かった。いつもなら休みが合わなくてもまだ寝ている時間だと思っていたけれど、何かしら用事が入ったのだろう。
頭を軽く押さえて、確認をする。二日酔い、してない。記憶、残ってる。変な話も、してない(手遅れ)。あれから、セツとは楽しい話だけをして、手を振って
別れた。迷惑料も込みできちんと奢った。それでチャラはさすがに虫が良すぎるが、とりあえず失敗はしていないはずだった。
起き上がって、冷蔵庫の中を漁る。いくらか作り置きはしているので、シュウヤと一緒に、だけど別々にそれは消化されてゆく。見た感じ、急いでいたのか
シュウヤが手を付けた様子は無かった。
昨日の残りで質素な朝食を済ませると、今日は何をしようかと思案に耽る。買い出しは明日でいいし、急いでやるなにかもない。スマホを見ると、セツからの
メッセージが届いていた。
"昨日は大丈夫でしたよ"
……余計なお世話だ。とは言えないところが悲しくもある。とりあえず怒りの顔文字を返しておく。
そうしている間に、部屋の掃除をしようという結論に落ち着く。最近仕事が忙しかったし、休みの日でもシュウヤが寝ている時は掃除機をかけるのが難しい時間も
多かったので、丁度いい機会だった。
手早く散らかったものを片付けてゆく。とはいえ、最近は俺だけでなくシュウヤも忙しいので、それほど物が散らかるという事もなかった。脱ぎ散らかしていた
服をいくつか拾って、掃除しやすい様に普段置いてある物をどけて、精々がそれくらいだ。掃除機を引っ張りだしては早速スイッチを入れて、部屋を片付けながら、
ふと物の整理の方も少し考えなくてはいけなかな、と思い立つ。物が多くて手狭になった、とかではないが。そろそろ寒くなってくる季節。もういくらかすれば年を
越す頃にもなる。大みそかの大掃除も、やっぱりそんなにする方ではないけれど。そうではないからこそ、こういう時に捨てる物の目星くらいはつけといた方が
いいのかも知れなかった。とはいえ、シュウヤ不在の事であるからして、手が出せるのは俺の持ち物に限られるが。二人で生活していると、こういう時ちょっとだけ
困る。二人で買った物。二人で使う物。そういうのって、俺一人の判断で捨てられないから。とはいえ、ある程度の整理くらいはしておけるので、掃除機もさっさと
掛け終えると、一服してコーヒーを飲んでから今度は物置になっている部分を検める。こうしてみると、仕事が忙しくなる前に買っていた物がかなり多い。という
より、忙しくなってからは買いもしないし捨てる暇もなかった、そんな感じだった。買ったきり着ていない服とか、そういう物まであるのは反省するべきだと思う。
そんな中で、ふと目に留まる物。目に留まるだけで、触らない方が良い物があった。アルバムだ。
……。
最近は携帯の進化が目覚ましいから、態々こういう形で残す奴は少ないかも知れないけれど。そういえば前の俺は、それでもこんな風にアルバムを作ってみたいと
口にしては作っている様な奴だったな。思い出したわ。自分の事なのに。自分の実家が、そうだったから。アルバム全盛期と言っても過言ではないから、小さい頃の
俺と、そしてシュウヤの写真も収められていたっけ。
見たって仕方ない。それに、俺一人の判断では捨てられない。そもそも俺の判断であっても捨てたくない物だ。だから、見たって仕方がないし、触らない方が
良い物だった。
だけど、俺は思わずそれに手を伸ばしてしまう。掃除をするんじゃなかったのかっていう思いと同時に、アルバムを手に取った瞬間に急速に掃除をする意気込みが
失われてゆく。表紙を捲れば、その効果は絶大だった。
楽しそうな様子で収められた、俺とシュウヤの写真ばかりが並んでいる。大きな熊のシュウヤが恥ずかしながら飛び切りの笑顔を向けて、それと比べて対照的と
言っていい程に小さな兎の俺は、シュウヤの腕の中で控えめに笑っていて。
胸が痛くなる。こんな日々が、確かに俺にも。俺とシュウヤにも、あったはずなのに。どこで道を間違えてしまったのだろう。
こんなに。……あんなに、笑っていたはずなのに。
ぱらぱらとアルバムを捲ってゆく。どこを見ても、笑い顔ばかり。当たり前だ。悲しい写真なんかを態々撮るのも、そんな写真をアルバムに挟む事だって、する訳
ない。だからこそそのアルバムの中は、俺達が写っているはずなのに。確かに過去にあった出来事のはずなのに。現実離れしている様に見えた。
事実のはずなのにそう思えるのは。ただ俺達が幸せという道から滑り落ちてしまったからなのかも知れないが。
ふと、手が止まる。目が留まる。アルバムの、最後の方。それまでは写真の横にどういう時に撮ったのか、などのメモが書いてあったけれど、その写真だけは、
写真自体に文字が書かれていた。
"お誕生日ありがとう"
その言葉と、俺とシュウヤが笑って一緒に写っていて。そして日付を確認すれば。
俺の胸の中に、じわりと思い出が広がってゆく。俺の、誕生日を祝ったもの。滲む様に、涙が出てくる。こんな言葉、今の今までずっと忘れていたのに、どうして
ここに書いてしまったのだろう。いつもは口数が少ないシュウヤが、その日はそれを口にしたんだ。
「誕生部なのに、おめでとうじゃないんだ?」
「……俺は……ありがとう、かなって」
「……どうして?」
そう訊ねた時の、シュウヤの照れた顔が、鮮明に脳裏に甦る。写真には撮れなかったはずのものが、心には焼き付いていた。
「俺にとっては……。お前が、また一年俺と一緒に居てくれたって事だから。小さい頃から、ずっと……ずっと、お前と居たけれど。それが当たり前なんだって、
思いたくない。だから。……だから、俺にとっては。また一年、一緒に居てくれて、ありがとうって。お前にはずっと、思ってる。それから、その……それから」
「生まれてきてくれて、ありがとう……」
結びの言葉が、自然と口から流れ落ちてくる。それと同じ様に、涙も。
どうしてだろう。あんなに幸せだったのに。あんなに幸せだったからこそ、今このアルバムがあって。そしてこの写真もまた手元にあるはずなのに。
止め処なく涙は溢れていた。今だって、そんなに悪くはないはずなのに、あの頃に帰りたいだなんて思ってしまう。だけど、それぐらいにあの頃は幸せだった。
幸せだから、シュウヤは俺と一緒の人生を選んで、そして俺もまた、シュウヤと生きてゆく道を選んだのだった。同じ場所に居たかった。シュウヤの居る場所に
向かうのではなく、シュウヤの居る場所に帰りたかった。帰りたくないのに、帰らないといけないと思うのが辛かった。シュウヤの傍にさえ居られれば、他に何も
いらなかったはずなのに。
一頻り泣き続けて、気づけば昼を過ぎていた。知らなかった。自分がこんなに、あの頃を懐かしんで、そして惜しんでいたなんて。仕方ない、仕方ないという
日々に埋もれていたんだって、思い知らされる。
もう戻らないのだろうか。あの日々は。俺もシュウヤも、まだここに居るのに。持ち寄る心ばかりが、どこかへ霧散してしまったかの様だった。
突然、背後のテーブルの上に置きっぱなしだったスマホが鳴った。心臓が飛び跳ねそうになる。物思いに耽っていた心が、一気に現実へと引き戻される。
画面を見て、躊躇う。セツの文字。無視するか。でも、仕事の電話かも知れない。休みとはいえ、上司と部下であるし、気心も知れてるから、たまにはそういう
時もある。大抵、そんな時は電話の向こうで、申し訳なさそうにお休み中にすみません、なんて調子のいい声で言ってくる。
涙をぬぐって、深呼吸を繰り返して。よし。それから、俺は電話を取った。
「先輩、はよーっす! 二日酔い、大丈夫ですかっ」
「……ああ」
「……なんか、ありました?」
思わず笑ってしまう。そんなに俺は、わかりやすいのだろうか。電話越しでさえ、セツの察する力が強いからなのだろうか。
どうしてセツなんだろう。そう思った。今の俺の想いを本当にわかっていてほしい奴は、他に居るのに。
「先輩、大丈夫ですか」
俺が考えに耽っていると、セツの声でまた現実へと引き戻される。こんなに心細い声、滅多に聞かない。俺が辛いはずなのに、セツの方が辛いのかと思える程に。
「……ごめん。休み明けには、戻るから」
「先輩……」
誤魔化しは無駄と悟って、そう告げる。大体古いアルバムを見つけて泣いてましたなんて、あまりにも情けない。ため込んでいた物が堰を切って流れ出した
としても、だ。
だけど、その数十分後には俺は家を出ていた。
「先輩。今から、会えますか。俺の家来てください。外の方がいいのかもだけど……先輩、今はそんなにきちんとしてられないでしょ」
その言葉に、俺は弱弱しく返事をしていた。今は自分を取り繕う事ができそうにない。
セツの家へと向かう。お邪魔したのはほんの数回。それも、大分前だ。まだ新人だった頃のセツは、色々な重圧に悩み、一時期はふさぎ込む時もあった。当時の
俺は、そんなセツのメンタル面でのケアもしていたのだった。セツが俺を慕って、すっかり逞しくなった今も傍に居るのには、そういう理由もあった。
不思議な物だった。すっかりセツは強くなって、だからもう足を運ぶこともないだろうと思っていたはずなのに。今は弱くなった俺が、セツの下へと向かっている。
先輩として、あまりに情けないと思う。ふがいないと思う。
だけどそれは、俺が弱くなったというよりは。ただ俺の支えが無くなってしまったというだけの話なんだろう。あの頃はまだ、シュウヤとの繋がりがあったから。
「先輩」
アパートへと辿り着き、セツの住む部屋のインターホンを押すと、すぐさま扉は開いた。セツの表情は、俺を見て一時喜んだかと思いきや、途端に苦虫を噛み潰した
かの様になる。それだけ、俺の顔が酷かったのだろう。
ちょっと可愛いな、なんて思ってしまう。大型犬飼ったら、多分こんな感じなんだろうなぁって。尻尾も振られていたのが途端にしょんぼりとしているし。
「……あがってください」
招かれるまま、俺はセツの部屋へと入る。
セツの部屋は、以前来た時とそれほど印象が変わった訳ではなかった。
ただ、散らかり具合が改善されたと思う。当時のセツは荒れていたから、掃除をする気力がなかったのだろう。俺が掃除をした時もあった。
「ちゃんと片づけられるようになったんだな」
「えっ!? や、やめてほしいっすよ、そんな昔の話……恥ずかしいじゃないっすか」
からかう様に口にした俺の言葉に、セツは耳まで下げて気まずそうにする。あの頃の記憶が、互いの胸の内に甦る。
「なんだ……思ったより、元気じゃないっすか。俺の事、そんな風にからかって」
「お前の顔見てたら、なんだかな」
「それ褒めてないっすよね……」
元気をもらっている、という意味では褒めているはずだけど。セツはなんとも言えない顔をしながら、とりあえずと茶を出してくれる。
「一杯、といきたいところだけど。さすがにまだ昼過ぎっすからね」
互いがカーペットの上に置いた座布団に座ると、茶をすすってしばらく無言の時間が過ぎる。
「それで、先輩……その。今日は……シュウヤさんは?」
「仕事、だと思う」
「そっすか……さっきは、なんかあったんすか?」
「えっと」
素直に言うべきか、俺は迷う。我ながら女々しい事で泣いていたと思う。だけどそれは、その出来事だけを切り取ってみたらの話で、結局俺が今の生活の中で
我慢していたものが、ダムが決壊して水が飛び出す様に、俺の胸の中を満たしたのだろう。
ぽつり、ぽつりと俺はそれを零していた。俺の口も、水を止められないそれの様になって。
「先輩……」
セツは、黙って最後まで俺の話を聞いてくれていた。なんとなく既視感を覚える。昔、沈んでいたセツの話を聞いた時も、立場は逆であったけれど、俺はセツの
話をじっと聞いていた気がする。
「先輩は、どうしたいんすか」
「俺……」
あの頃に、戻りたい。
咄嗟に出たその言葉は、あまりにも夢物語で。まるで子供が願う稚拙な夢そのものだった。もう三十は当に過ぎているというのに、そんな事を思ってしまう自分の
幼さを笑うしかない。
現実的にできる事を考えるのなら。
「……シュウヤと、決着をつけたい」
「別れるんすか?」
「それは……場合によっては、だろうな」
決着をつける、というのは。この場合、今の家庭内別居みたいな状態に対してだった。今のシュウヤが、何を考えているのか。今の俺達の関係をどう思って
いるのか。居心地がいい、とは間違っても思っちゃいないだろう。その決着の仕方次第では、俺とシュウヤの関係は終わるだろう。
今までは、ずっとそれが怖くて前に進めなかったと思う。シュウヤを大切に思っているのは、今でも変わらないから。だけど、大切にし過ぎるあまり、そのやり方を
間違えたり、あまつさえ自分自身の気持ちを押し込んでいつの間にか我慢を繰り返すようにまでなってしまっては本末転倒だった。少なくともこのままでは、良い
未来というのは描けそうにない。どこかで無理がたたって、次はシュウヤの前でやらかしてしまいそうだった。
「そっすか……先輩、そこまで考えたんすね。だったら俺、応援するっすよ」
「セツ……いつもありがとうな。俺の話を聞いてくれて」
「何言ってるんすか。先輩が昔、散々俺の話聞いてくれてたから、今俺だってこんな風にしてられるのに」
「それでも、今こんな風に親身になってくれる。お前のそういう優しさには、本当に敵う気がしない」
仕事の面でも、その気配りと優しさは、周りに居る人達を温かく支えてくれる。本当に、あと数年したら俺なんかより余程出世してるんじゃないかと思う。
「……優しくなんかねっすよ、俺……俺が、先輩にこうしているのだって……」
不意に、セツはばつが悪そうな顔をして、小さな声でそう零す。それから、ゆっくりと俺へと手を伸ばした。肩を掴まれ、俺はそのまま押し倒される。いつの間
にか、間近にセツの顔が迫っていた。長い犬のマズルがあるから、シュウヤを前にしている時とはなんとなく具合が違って新鮮に見える。
「まだ、俺の事……好きなのか」
「当たり前じゃないっすか、そんなの……」
セツの気持ちを知ったのは、あの時だった。セツの様子を見ては話を聞きにこの部屋へと来ていた頃。だから俺は、セツが同族だという事を知ってるし、セツもまた
それを知っている。セツの想いを断るのに、今は一緒に住む相手が。シュウヤが居るからと口にして。
そんなセツに、酔っていたとはいえシュウヤとの事を話し、そして今は酔ってはいないのに頼ってしまった。本当に、先輩として失格だと思う。
ゆっくりとセツが降ってくる。ふわふわの被毛と、その中にある筋肉の詰まった逞しい肉体の対比は、中々の暴力となって俺を襲う。痛くない程度に俺を抱き
締めると、視界の外から尻尾が床を打つ音が何度も聞こえる。
「あんなに親身になって話を聞いてくれたのは、先輩が初めてっした。あの時から、ずっと……先輩の事が好きです。だけどね、先輩。俺、先輩の事、それでも
諦めようって思ってました。先輩にはシュウヤさんが居て、あの時の先輩は、本当に……本当に、幸せそうにしてた。今先輩が幸せだって言うのなら、俺なんか
そこに入れる訳ないし、先輩が幸せなら……それでいいかって。そう、思ってたのに。なのに今の先輩は、ずっと辛そうで……見ちゃいらんねぇ。見てる俺だって、
そんなの辛いに決まってるじゃないっすか……」
「セツ……」
「俺じゃ、駄目なんすか。先輩にこんなに辛い顔させてる奴より。俺なら、先輩にこんな顔させないのに……」
徐々に俺を抱き締めるセツの腕の力が強まってくる。顔を上げたセツが、俺へと距離を縮めて。
☆
「駄目だ、セツ」
俺はギリギリのところでそれを静止する言葉をかけた。途端に、ぴたりとセツが止まる。
「俺の事、嫌ですか」
「そういう話じゃないって、わかってるよな」
「……っす」
シュウヤとの決着も何もつけていないこんな状態では、俺は何をする事もできそうになかった。セツの事が、嫌いな訳ではない、そんなのは、当たり前だけど。
だけど、恋愛対象として見ていいのかは、わからない。そういう意味で好きかどうかというより、シュウヤとの関係を持っているから、例え今それが、どれだけか
細い繋がりとなり果ててしまったとしても、依然として俺の恋人はシュウヤであって、それ以外の誰かではないのだった。
「すんませんした。先輩、俺」
「いや、俺も……お前に、悪い事してる自覚はあるよ」
ゆっくりと起き上がるセツの身体。名残惜しさばかりがその顔には浮かんでいて、撫でてみたくなる。どうも俺は、セツの事を飼い犬の様に見てしまう節があるなと
思う。そうされているセツの方は堪ったものではないだろうに。
「ありがとな。セツ……。おかげで、どうしたらいいのか、少しわかったよ」
「先輩。大丈夫っすか、一人で」
「大丈夫……とは言えないかもだけど。でも、これは俺一人でやらないと、だろ?」
「はい……先輩。頑張ってください」
「おう」
「負けたら骨は拾うっすよ」
「バーカ」
骨どころか、俺そのものをセツは拾ってくれそうだが。俺も起き上がると、少し落ち着かせてからセツの家を出る。セツはそれ以上は何も俺に手を出そうとする
事もなく、見送ってくれた。今一番、心の中が散らかっているのは、もしかしたらセツなのかも知れない。本当に酷い先輩だと、申し訳なくなる。そのおかげか、
今の俺の心は、セツに家に行くまでと違って、随分と晴れ渡っていた。明るい未来が見えている訳ではないけれど、どちらに進めばいいのかはわかっているから。
それから一週間後。俺は機会を窺っていた。
丁度、シュウヤの誕生日が近かったのだ。だからこそ、決着をつけるのはその日が望ましかった。
誕生日当日に、俺は何もせずに朝にシュウヤを見送った。いつもなら誕生日を祝って、ささやかな言葉や朝食を豪華にしたりしたけれど、それもしなかった。
ただ、シュウヤが仕事中の時間に。
"お誕生日ありがとう"
このメッセージだけをシュウヤに送ったのだった。
そして、シュウヤが仕事を終えるはずの時間に家を出る。場所はそれほど遠くはなかった。駅で一つとなりに行くだけの、短い旅を経て。そこは俺とシュウヤが
育った町だった。大人になっても、結局この町から遠く離れる事もせずに俺達は生きている。田舎過ぎず、都会過ぎず。そういう所が気に入っている。
そんな事を考えながら、道を行く。街並みが、懐かしかった。子供の頃、学生の頃、シュウヤと歩いていた道が広がる。変わってしまった部分は勿論ある。駅近くの
商店街なんかは、今では見事なまでのシャッター街で、学生の頃はあそこのコロッケが安くて買い食いしてたなとか、そんな思い出が近くを歩くと胸に甦る。
すっかり寂れた商店街を抜けて、少し歩いた所。そこが目的の場所だった。
……なんて事はない、歩道橋。それを渡ってもう少し行ったところに、俺とシュウヤの行っていた大学があって。帰り際にはこの歩道橋を渡って駅まで行くのが
常だった。学生仲間と歩いた記憶もあれば、シュウヤと歩いた事もあるこの歩道橋から、商店街の方を眺めては。シュウヤと付き合ってからはよくここで待ち
合わせを、気恥ずかしくて大学の中や入り口ではできない待ち合わせをしていたのだった。
そして、あの時の言葉も。
この歩道橋の上で交わされたのだった。
夜が更けてゆく。辿り着いた頃は、まだいくらか人通りもあった。昔の俺達の様な大学生らしき若者の姿も見える。そんな彼らを若者と言うような歳にも、もう
なってしまった。そんな歳になって、あんな一言だけのメッセージだけを飛ばして待っている俺は、どうやら歳ばかりをとって、ちゃんとした大人にはなれなかった
なと思う。
セツの方が、きっと大人なんだろう。
人通りが無くなってきた。もう間もなく、深夜と言ってもいいのかも知れない。仕事の遅いシュウヤにとっては、いつもの時間かも知れない。
冷たい風に当たって、目を閉じていた。もしかしたら来ないのかも知れない。それはそれで良かった。俺にとって、なじみ深い。シュウヤとの思い出の場所という
だけであった。それだけの話だった。
かつん。
遠くから、音が聞こえる。金属の階段を、かつん、かつん。と靴音を響かせる誰かの存在。思いの外重たいのは、当人の体重のせいなんだろう。
兎の耳を震わせた。ああ、そういえば。あの頃も、この音に耳を傾けていた時があったっけ。人通りが少ない時は、それが聞こえた時。シュウヤが来たのかなって、
そう思って。
靴音が、近づいて、大きくなってくる。
「……セイヤ」
階段を上り終え、ほんの少しの間を置いて声が聞こえた。俺を呼ぶ、シュウヤの声。
ゆっくりと俺は視線を動かして、歩道橋の手すりに預けていた身体も向き直らせた。仕事帰りの少しくたびれた様子のシュウヤの姿がそこにあった。
俺の、大切な人。笑みを浮かべて、俺はそれを迎える。心の中で、セツに感謝を述べた。俺一人だったら、きっとこんな行動は起こせなかっただろう。
俺の方からも、シュウヤに向けて歩き出した。どんな結末が待っているかもわからない。けれど今は、シュウヤが俺のたった一言でここへ来てくれた事。あの
言葉を憶えていてくれた事。それだけで、充分だった。大切だからこそ、憶えていられた事だから。今はそれだけで、この後どう転んだとしても、歩いてゆける。
前へ、進む事ができるんだ。そう思った。
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