灰色のむこうがわ 12 そのさん

  狼に別れを告げられたフリッド。

  その日のうちに二人は互いの荷物をまとめ、とくに思いとどまることもなくさよならをすることになった。

  もう少しためらいとかあってもよかったのに。別れを切り出したフリッドには、狼にどうこう言う[[rb:謂 > いわ]]れがない。けれど、それなりに長く共にいたのだ。別れを惜しむくらいはしたかったし、されたかった。と、思う。

  「いヤはヤ、まさカこんナニも早クいい返事を聞けるとハ。ちょっト予想外デシタ」

  「ハ、ハハ……」

  嬉々とした態度をとるゴードンにフリッドは苦笑いを返す。

  決断をするのにもう少し時間がかかるだろうと思われていたのなら、まあ、その通りで。

  その後、フリッドはゴードンに再び会うまでずっと、本当にこれでいいのか悩んでいた。

  『お前は一度でも、俺の気持ちを考えたことがあるのかよ』

  別れの間際に言われた、狼のその一言。それ以降口もきいてもらえないまま別れたため、その意味は教えてもらずじまいだ。

  (あいつの……気持ち)

  あいつは、狼は、自分をどう思っていたのだろう。

  ゴミ、不燃物、その他諸々。まともに名前を呼んでもらえたのなんて、数えるばかり。力になりたいと心の中では思っていたが、愚図でどうしようもないヤツだというレッテルはぬぐえなかったように思える。

  はっきり言って邪魔でしかなかっただろう。一緒にいて面倒ごとの絶えない、厄介な隣人だと、思われていたんじゃないだろうか。

  ……だったら、トントン拍子で別れたのにも納得がいく。狼にとって、自分は、どこまで行っても不要な人物でしかなかった。

  当然の帰結だ。これが、一緒にいたのに分かり合えなかった自分たちの、行きつく結末だった。

  カツン、カツンと、靴音が反響する。二人が今歩いているのは、地下ターミナルへと続く階段だ。

  崩落の影響で原型を留めていないことが多い廃墟群。地下へと続くとなれば入り口そのものが塞がっていることが多いものだが、今二人が歩いているそこは比較的崩れずに済んでいる。

  「足元お気ヲつケて」

  ハンディライトで照らしながら先行するゴードン。慣れているのだろう、特に問題なさそうに進んでいく。

  対するフリッドはおっかなびっくり。というのも、こんな地下に入ることなど研究対象として扱われていた時ぶりだからだ。

  無限とすら錯覚する、地下へと続く階段。それなりに歩いているはずだが、一向に終わりは見えそうにない。

  ──まるで化け物の体内を巡っているようだ。そう、フリッドは思う。

  一度踏み入ったが最後、ずっと抜け出すことのできない無間地獄。かつての施設のことも相まって、どうしても足取りが重い。

  今頃狼はどうしているのだろう。俺のことなんか忘れて、一人奮闘しているのだろうか。

  無駄なことだ。それ以上考えないよう、フリッドは頭を振る。どう思いを巡らせようと、後戻りなんてできやしないから。

  これは自分が決めたこと。答えを決められず、けれどじっとしていてはいけないという、自らの決断なのだから。

  「さテ、そろそろツキますヨ」

  ゴードンの呼びかけに、フリッドははっと意識を引き戻された。

  気がつけば階段はもう通り過ぎていた。だからといって安堵できる訳ではないが。

  地下の底、目的の場所であろうドアの前に二人は佇む。

  「もう一度確認しておきマスガ……私ニ協力していただける、トいう認識で宜しいですネ?」

  ここまでやってきておいてなかったことにされる、そんな展開をゴードンは危惧したのだろう。煮え切らない態度のフリッドの意思を明確にすべく、聞いてくる。

  長い長考。答えを急かされる、嫌な沈黙。

  それに耐え切れなくなってフリッドはつい顔を背け「ああ」と、それだけ返す。

  おおよそ満足のいく答えではなかったが、まあいいだろう。自分のもとに訪れたのが早かったと見るべきか。

  ゴードンはそう納得すると、ゆっくりとドアを開け放った。

  「さあ、ヨウコソ。我らが希望ノ星。

  ……これからヒトビトを救済すべク、共に手ヲ取り合いまショウ?」

  ❋

  たとえば一年後、世界が滅ぶとしよう。

  長い猶予だとも、短すぎるとも、受け取る者の反応は千差万別だろう。けれど必ず取り組むこととなるのはそう、滅びの回避だ。

  何故滅びるのか。何が原因なのか。それらを調査し分析、対応策を講じる。そして滅びの回避が不可能となった時、検討されるのが人類永続の方法だ。

  わかりやすい話、不老不死が研究されていたのはそんな時期だった。夢物語ともとれるものに、旧時代の獣人たちは真剣になった。繁栄が途絶えるといった、未曾有だにしない危機によって。

  「マア、そんな事を仰っしゃられてモ貴方にとってハ弁明にもならナイでショウ。すべテの環境に適応しタ肉体ヲつくる。トなるとソレ相応の実験ヲしなければなりまセンし」

  先程とは一変した、明かりの眩しい白い空間を二人は進んでいく。床の塩ビニルは艷やかに光を反射し、外の世界とは隔絶された、そんな雰囲気を[[rb:醸 > かも]]し出している。

  つらつらと言葉を並べたてるゴードンに対し、フリッドは深刻な表情だ。それもそうだ、なんせここはあまりにも似すぎている。

  (……帰ってきたみたいだ。あの、俺がフリッドじゃなかった頃の、あの場所に)

  「懐かしいデスか? この場所ガ」

  気がつけば、ゴードンがこちらを振り返っていた。

  だらしなく伸ばされた黒い体毛で目元などわからないはずなのに、こちらを向くその顔が、その視線が、フリッドの背筋を強張らせる。

  「あ、いや、」言葉が上手く紡げない。……違う。言葉なんて意味がない。

  そんなものを自分は認められていない。意思表示なんてなおのこと。反対も拒絶も、示してはいけない。

  出会った頃から何となく馬が合わないと思っていた。それもそうだ。きっと本能がそうだと叫んでいたから。

  半歩、後ずさる。反抗の意志を見せたらどうなるのか、この肉体は知りすぎている。その先に待ち受ける体罰を、知りすぎている。

  「安心して下サイ。言ったじゃないですカ、貴方は協力者。流石ニ分かりますよネ、協力」

  ゴードンがフリッドをあやすように言う。ニタリと微笑みを浮かべると、何事もなかったかのようにまた歩き出した。

  「最終的にハ選ばれた数名ヲ不死にシテ復興してもらおウ、なんテ計画だったらしいデスよ。……まあ一年コッキリでは成果なんて挙げられないでショウ。分かりきっていて尚モ続けてイタのは……何ででしょうネ?」

  そんなもの、フリッドが知るわけもなかった。

  

  話はなおも続く。

  ゴードンの言う通り、不老不死の研究は成功という実を結ぶことはなかった。遺伝子学、考古学、民俗学、その手に詳しい研究者の力を持ってしても、完全な不老不死には遠く及ばない。

  そも求めていたのが、どんな環境でも適応できる不老不死だ。いつどうなって世界が終末に導かれるのか。終末が訪れたセカイがどのような環境になるのか。それが特定されなかった以上、必要とされる条件も高かった。

  「それデモなんとか成果を挙げようトハしていたみたいデスね。追い詰められてからガ花と言いますカ、随分ト外道じみた方法だったみたいデスが」

  ほら、アレが成果ですよ。そう、ゴードンが指をさす。

  そこにあったのは──

  「……え」

  人類にとっての災厄。フリッドも何度か遭遇した存在。

  ──クリーチャーが、そこにいた。

  「大人しいものでショウ?」ゴードンがにこやかに告げる。

  フリッド達とクリーチャーの間はガラス一枚。動物園かなんかの展示物みたいな状況で、暴れることなく鎮静化されている。

  なんでこいつがここに。悪い冗談なんじゃないかとゴードンを見るが、本人は気に留めてもいない。

  「生き残るのハ数名でイイ、なんて条件ガあったのでショウ。他の獣人を餌にシテ生き延びるなんて発想ハ」

  「い、いや……なに、いって」

  「貴方と同族ですヨ、カレ。同じ実験体ノ」

  「そんなわけないだろ! だってアレは」

  「獣人を食べマス。……わかりマス。同一存在とカ、認めたくアリませんよネ。

  でモ、あれが私達本来の姿らしいデスよ? 進化の過程デ欠如した本能。かつてヲ取り戻し、より未来へ適応シタ姿、だとカ。笑えますネ、あんなのがアルべき姿だなんテ」

  もう一度、フリッドはクリーチャーを見る。

  あれが、かつての自分達? 無作為にヒトを襲い、本能のまま血肉をむさぼる、アレが?

  「まあコレは問題だらけでしタ。他者を取り込むことデ生きながらえる、そのコンセプトは評価しまショウ。けド他者を食い物にするニハ理性が邪魔ト、それらを取り払ってハ将来もクソもないでしょうニ」

  クリーチャーを蔑むようにゴードンが笑う。癇に障るようなその声が、しかしフリッドの耳に入らない。

  ヒトを食べて生きながらえる。情も何も関係なく、ただただ生きていたいからヒトを食べる。

  それが、同族だって?

  「……うっ」

  「うん?」

  おもむろに口の中に手を突っ込む。胸を掻き毟り、突っ込んだ方の手でのどを引っ掻く。

  まともな状態だったら。こんな、昔のことを思い起こす場所じゃなかったら、フリッドも違うとすんなり否定できただろう。

  けど想像してしまった。自分が、ヒトを食べる、その光景を。

  目の前の獣人を押し倒し、喰いでの良さそうな部位めがけ噛みつく自分。嫌だ、やめてくれと泣き叫ばれても一心不乱に貪って、貪って、むさぼって。

  理性を取り戻した時に、自分はどう感じるだろう。優しくしてくれた誰かを食って生きていることに、どんな感想を抱くことだろう。

  それが狼だったら、どう思うのだろう。

  「お゛っ……う、うえ゛ぇ゙ぇ゙」

  そこまで思い至って、我慢など出来なかった。

  フリッドは胃の中のもの全てを吐き出そうと必死にえづく。

  慌てたゴードンが「何してるんですカ!?」と指を抜こうとする。が、フリッドは思い切り振り払い、床へと叩きつけた。

  ゴードンのことなんてどうだっていい。なりふりかまっていられない。早く、はやく胃の中のものを吐き出さなければ。

  胃の中のものがボタボタと音を立て落ちていく。

  辺りに立ち込める、ツンとした異臭。

  むせ返りながらフリッドは吐瀉物の内容を確かめる。朝に食べたカピカピのエネルギーバーが、ドロドロの状態でそこにあるくらいだ。ほかの固形物は見当たらない。

  よかった。狼を、食べてなかった。

  青ざめながら、人食をしていなかったことに安堵するフリッド。

  そうして安心したせいだろう。気力が尽きたフリッドはドサリと、糸が切れたかのようにその場へと倒れこんだ。

  :::

  「靴屋さん?」

  「……」

  「靴屋さん!」

  「ああ、はい。只今」

  客に呼びかけられ、狼ははっと意識を取り戻す。

  しまった。仕事中だというのについ、客をそっちのけにしてしまった。

  明らかに様子のおかしい狼を、客は不安げに見つめている。普段はにこやかに接客してくれているのに、今日はどこか上の空。真面目な彼のこと、無理をしているのではないか、なんて勘繰ったのだろう。どうかしたのかと心配されたが、大したことじゃないと狼ははぐらかした。

  客を送り出し、背が遠くなったところで、狼はガクリと肩を落とす。

  (あーあ、やっちまったなあ)

  集中力が散漫というのは非情にまずいことだ。接客業というのは一対一のコミュニケーション、相手の信頼を勝ち得てこそ金になる。それを、まさか無視してしまうとは。

  あの客、店の悪評を言いふらして回らないだろうか。『あそこの靴屋さん、愛想も悪ければ態度も悪いの。この間だって、接客中私のことを無視したんだから』なんて言われてしまったら、しばらく生活に苦労することになるだろう。

  (なんて。まずはそんなポカすんなって話だよな)

  そも生活が困ったところで誰も心配しない。苦労を掛けることもない。

  拠点で虎が待っているなんて生活、もう終わったのだから。

  もう今日は店じまいをしよう。自身の調子の悪さを鑑み、狼はさっさと仕事道具をまとめる。これ以上の働きはなんの収穫も得られない。むしろより評判を落とすことにしか繋がらない。

  荷物を肩に下げ、客が来ないことを今一度確認する。そして忘れ物がないか所持品を改めると、狼は誰にも気付かれないようにその場を離れた。

  気分は最悪だ。こういうときは人気のない場所で静かに、何も考えず時を過ごすのがいい。

  気心のしれた友がいれば、笑い話のタネになったろう。けれど狼にそんな知り合いなんていないし、彼のプライドがそれを許さない。

  (所詮俺は一匹狼。誰にも気を許さず、味方も作らず、誰にも気にかけられず。一人孤独に生きるだけ。

  ……あのヒトのように、孤独に)

  きっと胸の内をすべて曝け出せれば楽になったことだろう。けれどそんなことをすれば最後、待っているのは死だ。

  弱い獣人が辿る結末なんて、利用され絞りつくされだ。不安を抱える者なんて隙だらけ。甘い蜜を目の前にお出しされ、食いつかないのは獣の恥。エサは食い散らかしてこその獣性なのだから。

  「アイス……いりませんか……?」

  ふと。

  ヒトを避けるよう、通りを奥へ奥へと進む狼に声がかかる。

  見れば、みすぼらしい様相の犬の少年が道傍で商いをしていた。それも、本人が言っているような甘い氷菓ではなく、薬物を。

  「ウチのは質のいい天然モノですよ……。ペーパーも取り扱ってます……」

  興味を持ってもらえたと勘違いしたのだろう。この商機を逃さんと、犬の少年は品物を並べ、聞く気もないというのに勧めだす。

  やせ細り、骨ばった指。笑顔では到底誤魔化しのききようがない目元のくまと、チラリと見え隠れする溶けた歯。

  常用者なのは図らずしも察せられた。おそらく空腹をクスリで誤魔化しているのだろう。

  みすぼらしい犬の少年のセールストークを聞き流しながら、狼は哀れなまなざしを彼に向ける。けれどふと、一瞬ある考えが頭をよぎった。

  「……これ、包んで」

  「! はい、ただいま……!」

  そして何を思い至ったのか、次には並べられた商品を指さしていた。

  少年は耳をピンと跳ねさせ、嬉々として商品を紙に包む。

  この少年も辛いことが数多くあったのだろう。同情なんてしない。

  けれど。……ああ、けれど。

  羨ましいと思ってしまった。こんな風にダメになれたら。何もかもすべて、台無しにできなたら、と。

  「ありがとうございます」そう感謝する犬をよそに、狼は包装されたクスリを受け取る。

  商品が売れて嬉しかったのだろう。子供さながらの純粋な、けれどやつれた表情があ、狼の心を抉る。

  行こう。心情を悟られないよう顔を背け、狼は短く「ああ」と答え立ち去ろうとする。

  この屈託のなさが、どうにも虎の彼を思い出させて仕方ない。大したことなんて何一つしてやっていないのに、それでも、『ありがとう』なんて言う、彼のことを。

  「おい」

  「えと……なんでしょう」

  「お前向いてないよ、その仕事。愛嬌あんだからもっと別のモン売れ。表でたらもうちょいいい暮らしできっから」

  去り際、そう投げかけると、狼はそそくさと去った。

  無駄なことをした。少年が見えなくなったころ、狼は思い返す。どうせ、聞き入れる脳味噌すら破壊されているだろうにと。

  ❋

  人気のない通りへと歩を進める狼。

  なんとか腰を落ち着ける場所を見つけると、彼はドカリと座り込み、先程の包装を漁る。

  中身は切手サイズの紙片六枚。マジックペーパーと呼ばれる、紙に薬液を染み込ませたものだ。錠剤や粉末より手頃に生産でき、器材を必要としない手軽なドラッグ。

  使用方法も単純で、舌に乗せ唾液を滲ませるだけ。それだけで簡単にトリップできる。思考も思案も必要としない、多福感溢れるセカイへと。

  (……)

  暫し[[rb:逡巡 > しゅんじゅん]]したあと、狼は紙片をちぎり躊躇いなく口に含む。

  直後に襲いかかる、強烈な酩酊感。ぐらりと揺れる視界。

  笑い声が脳内で反響する。人気のない場所を選んだはずなのに、雑踏の中へ放り込まれた様な感覚が狼を襲った。

  (……ああ)

  みんな笑っている。泣いている者も、苦しんでいる者も、誰もいない。

  そうしていないのは自分くらいだ。目まぐるしい極彩色の空間で、自分だけがしかめっ面でそれらを眺めている。

  羨ましい。あんなに楽しそうなのは。

  羨ましい。あんなに、嬉しそうなのは。

  「ハ……ハハ……」

  乾いた笑いが狼の口からこぼれる。

  みんな酷いじゃないか。あんなに楽しそうなのに、自分だけ、仲間はずれにして。

  笑う誰かが、誰かの足を躓かせる。それを見たみんなが、嬉しそうに笑う。

  笑う誰かが、誰かにナイフを突き立てる。そのまま捌かれる誰かが、嬉しそうに黄色い悲鳴をあげる。

  それはとても幸せなセカイ。

  誰一人として悲しまない、幸福に満ちたセカイだ。駆られる衝動のままに傷つけていい。衝動のままに抱き合い、欲にふけっていい。

  まばゆいほどの極彩色に包まれながら、大勢のヒトビトが幸福で満たされている。それをどうして拒む事があるだろうか。

  「ハハハハ……ハ……ぁ」

  そうだ。示されていたじゃないか。これが幸せなんだって。

  最初からみんな幸せだった。それを、自分は受け入れられていなかっただけ。

  乾いた笑いが止まらない。気が付けば、狼は涙をつうと流し、目の前の光景に見惚れていた。

  限界だった。自身の行うすべてが、大勢にとって求められていないことなんじゃないか。虐げることも見下すこともどうだっていいことで、自分だけが幸せであることが重要なんじゃないかと。自分が望んだ理想は、根底から間違っていたんじゃないかと。

  自分はただ、誰もが望む幸福を受け入れられなかっただけ。反抗期の少年のように、世の中の当たり前で正しいとされたことを認められなかった。……ただ、それだけ。

  「おれ、も」

  仲間に入れて欲しい。そういえば、受け入れられてくれるだろうか。

  ゴミ捨て場に無残に捨てられていたナターシャを、そういう幸せのカタチもあると思えたら。死にかけのフリッドを撃ち殺したことを、それがヒトとしての当然の行動だと思えたら。その他全てのことも、全部ぜんぶ、受け入れていられたら……。

  しあわせだって、呼べただろうか。

  「あぁ……ぁ、……っ、ぁあ……!」

  笑いあっていた誰かが、揺らめき遠ざかっていく。

  待ってくれ、いかないでくれ。狼はふらつく視界に気持ち悪くなりながら、追いかけようと立ち上がった。

  足が震え、上手く立てない。産まれたての子鹿のように、まるで言うことを聞いてくれない。

  そうこうしているあいだにも、笑う集団は遠ざかっていく。待ってくれと懇願しても、振り向いてくれない。

  自分が素直じゃなかったからか。

  自分がもっと交友的な態度だったら、変わったろうか。

  みんな幸せだったのに、それは違うと背を向けたから。だから、見捨てられたのか。

  「待てよ……なぁ、まてっ……て」

  ようやく立ち上がれた狼は、笑い声に誘われるように歩く。

  フラフラと歩くその様は、まともなヒトからみれば異常者そのもの。ただこの都市ではこういう者を止める者なんていない。幸せに酔いしれている者を止めるなんて、なんて罰当たりだろうか。

  大通りへと出る。あの集団の後ろ姿は捉えられない。

  どこだ? どこへ向かえば、出会える?

  宛もなく、それでも聴こえる笑い声に狼はもどかしさを覚えながら、狼は足を動かす。

  追い求めれば手に入る。強く願えば、なんだって叶う。

  誰もが幸せで包まれているあのセカイなら、きっとあいつらもそうなれるんだ。意味もなく死んでいくことなんてない、無意味なんかじゃない。本当の、真の意味でのさいわいに──

  「まてったら……なぁ、」

  「待たねーよバーカ」

  もう少しであの理想にたどり着ける。そう確信した狼の肩を、緑色の腕がつかむ。

  邪魔をするなと振りほどこうとする狼。だがその腕は強引に引き戻すと、狼の顔面に一発殴り飛ばす。

  揺れるセカイ。極彩色に彩られた、美しいセカイが、遠ざかっていく。蜃気楼のように、そんなものがあるはすないだろうとでもいうように。

  地面に倒れ込む狼。もう、笑い声は聞こえてこない。

  なくならないでくれ。捨てないでくれ。

  理想としたセカイがなくなっていく様を、それでも懇願しながら。狼は涙を流しながら、そうして意識を手放した。

  ❋

  狼が次に目を覚ましたのは、硬いベットの上。

  ぼんやりとした気怠さが気持ち悪い。あまりの倦怠感に目を瞑れば、先程の光景が思い浮かんだ。

  あのまま追いかけていられたらよかった。そうすれば、きっとたどり着けたはずだ。誰もが望みを叶えられる、そんな理想郷に。

  じゃあ何故、今こうしてベットの上に?

  そこまで考えが至ったところで、狼の頬に痛みが走った。

  「……ッ、」

  そして思い出す。追いかけていたら急に肩を掴まれ、ぶん殴られたことを。

  一瞬だったが、あれは知っている顔だ。あのいつ見ても不敵なツラを浮べている鰐、どこを探したって一人しか該当しない。

  「お、起きたか愛しのワンコちゃんよっ」

  「……お陰様でな」

  狼が起きたことを察知し、狼が想像した人物──ガレッツォが近づき、顔を覗き込んでくる。

  やっぱりか。当たってほしくなかった予想に狼は心底嫌そうに溜息を吐きつつ、見るのも嫌なその顔を押しのけた。

  狼は気絶させられた後、その張本人であるガレッツォの手によって隠れ家に連れてこられていた。聞こえがいい風にいうなれば介抱、でなければ強制拉致といったところか。

  「もしや目覚めのチッスが欲しかった系? んー、悪ィな。いくらお前のおねだりだろうと、お前の王子サマにはなれねーのよ」

  「……ねだってねえ」

  「ワイルドな見た目で勘違いされやすいけど、俺、基本和姦派なの。強姦派はダメだな、愛し合う時はこう、相手をトコトン沼らせて一生抜け出させねーようにしないと」

  「……しるか、カス」

  本当に知ったこっちゃない。いつも以上にご機嫌な意味不明トークを繰り広げるガレッツォに、頬をさすりながら狼は思う。

  誰がクソ鰐の情事なんか聞きたいなんて言った。まず男を犯すタマすらないだろうに。

  オカマという意味ではなく。その気がない、という意味で。

  「ん〜? ツッコミのキレ悪くね? いいんだぞ、もっと俺にぶつけちゃっても」

  「受け入れ態勢取る前に謝れよ俺に」

  「なんでさ」

  「この頬の腫れが目に入らねえのか」

  「悪いってのは、そういう事をしたって後ろめたさがあるってこった。俺はそんな隠すようなことしてない。つまり悪くない。アーイムジャスティス」

  クソガキじみた暴論を唱え、ガレッツォが狼の横たわるベッドに腰掛ける。謝る気なんて更々ないみたいだ。そんなこと意味がないと、普段の狼なら重々知っていただろうに。

  「んで?」

  「は?」

  「ほれほれ、謝罪求めるより先に、やることあんだろ。『ガレッツォちゃんステキ! 愛してる!』ってやつ」

  「それこそなんでさ」

  「ラリった知り合いをクズな民衆共に晒す前に救った英雄よ? 俺。『濡れた! 抱いて!』でもいいぞ?」

  

  自身をぎゅっと抱きしめ、身体をくねらせながらキス待ち顔をするガレッツォ。そんな彼に、狼はそうかよと呟きながら手で払う。

  「別にいいだろ……誰がラリってたって」

  狼が自虐ぎみに吐く。

  コイツがどこまで本気で物をいってるのかは知らない。どうだっていいことだ。

  けれど。構いたいとか優しくしたいとか、そういう生半可で甘ったるい考えであったのなら、これほど残酷なこともない。ラリったやつなんて見捨ててしまえばよかったのに。

  こんな男を助けてなんになるだろう。ヒトに優しくしてやれない、幸せになんてしてやることもできない、こんな男に。

  幸せになってほしい。本心から、そう思っている。……思っている、ただそれだけだ。

  実際のところ何をやって来た? 遠巻きから第三者目線で、幸せになってくれと身勝手に願っていたばかりじゃないか。ろくでもない。

  あのまま狂ってしまって無様な目に合えばよかったのだ。こんなどうしようもない獣人。

  「無様だのなんだのって、通り過ぎればよかっただろ。赤の他人なんだから」

  「……」

  そうだ、所詮コイツと自分は他人同士。

  利害のために関わって、用が済めばそれだけ。仲間だとか友人だとか、そんな下らない関係性築いてすらこなかった。ならなんだってこう、ちょっかいをかけられるのか。

  今はコイツの気まぐれが鼻につくくらい疎ましい。勝手にさせておいてほしい。どうせ、自分は何もしない、なんもできない、出来損ないなのだから。

  「邪魔したな」未だくらつく視界に苦虫を噛み潰し、狼は身を起こす。ここに留まってやる気はない。おもちゃが欲しいならそこいらの女でも捕まえてくればいい。

  が、返す気なんて毛頭ないのだろう。ガレッツォに胸を押され、狼は再びベットに戻される。

  何をすんだと抗議の声を上げる前に「寝てろ」なんて指をさすガレッツォ。普段はからかうだけのくせに何様のつもりだろうか。

  「邪魔すんな」

  「いやすんね」

  埒が明かない。

  力勝負になれば狼が負けるのは明確だ。だからこそガレッツォに口でどうにかしなければいけないのだが、きっとろくに相手すらされないだろう。

  それでも言うのが狼だが。

  「いい加減にしろよ……路頭で死んだくれたってお前には一切関係ないことだろ。なんで引き止めんだ」

  「あー? んなのどうだっていいだろ」

  ハッ、ガレッツォが狼を笑い飛ばす。

  「赤の他人? どうでもいいやつ?

  ああ、そうだな。そうだろうさ。俺にとっちゃお前がどうなろうがカンケーない。傷つきやしないし泣いてもやんねーさ」

  「だったら……!」

  「お前がマトモじゃねーからだ。ラリってるからとかじゃなく、根底から」

  「……は?」

  ピシャリと、真水を打ちかけられた気分だった。

  俺が、マトモじゃない? 冗談。

  理屈はしっかりしている。見捨てて当然だ。

  こんな、どうしようもない男が野垂れ死んでてなんになるというのか。

  「まっ、落ち着くまではいてもらわんとな。

  ……つっても大人しくはしないだろうし……フム」

  狼の胸元を片手で押し付け、ガレッツォは悩むそぶりを見せる。

  そして何を閃いたのかと思いきや、おもむろに履いているブーツの紐を抜き、狼の手首をベットの足へ括り付ける。

  「おい」

  「はーい、即席拘束のでっきあがり」

  「ほどけ」

  「え、ゴメン聞こえない。ちょっとスケベすぎて何言われてるのか分かんない」

  大の字で拘束される狼を『俺、イイ仕事した』なんて満足顔でニタつくガレッツォ。

  そのまま満足いくまで眺めると「じゃあこれで」なんてのたまい、そのまま小屋を出ていった。

  「……いや。は? いや」

  あっけにとられる狼。

  彼が再びガレッツォと再会することとなるのは、この半日後となる。