灰色のむこうがわ 10 そのに

  湯船を張るまで時間がかかる。それまで待っていてほしいと、ひとまず狼はリビングへと通された。

  ジャービスにとりあえずと着替えとタオルを渡される。先に着替えだけでも、ということだろう。だったら先に部屋に案内すべきではと狼は苦言を述べようとしたが、その時にはすでにジャービスは立ち去った後だった。

  リビングには先客がいた。馬の少年、ジョンだ。

  「……いらっしゃい」彼は狼に気が付くと、控えめに会釈した。テーブルチェアにゆったりと腰かけ、松葉杖を傍らにのんびりと[[rb:寛 > くつろ]]いでいる。リビングには、他に誰もいない。

  「やあ、ジョン。お邪魔させてもらうよ」

  「ん、」

  狼がずぶ濡れなことにはさして興味がわかないらしい。挨拶を交わした後は、ぼおっと虚空を眺めている。雨が降っているせいもあってどこか眠そうだ。

  最も、狼も彼に対して用事があるわけじゃない。これが彼なりのヒトとの関わり方なのだろうと己を納得させ、手渡された衣類一式を広げた。

  「……それ、おじさんの」広げた衣類に対し、ジョンがボソリと口に出す。

  「俺と同じくらいの丈がここにないって言われてね」こればかりは仕方がないと狼は返した。ふうん、ジョンはそれだけ言うと、今度はじっと狼を見つめる。

  「……」

  「……」

  特に交わす言葉はない。興味があるのだろうか。男の身体なんて、見ていても面白くないだろうに。出来なんてだいたい一緒だろう。

  まあ、気にしても仕方ない。あくまで彼の気まぐれだろうと割り切ると、狼はびしょ濡れのズボンをおもむろに脱いだ。

  ジョンは狼が着替えている間、ずっと狼を観察していた。子供に、しかも同性相手に見られても恥ずかしさなんてわいてこない。虎男フリッド相手ですら、そんな気の迷いを見せたことがないほどだ。それでも、穴が開くほど見られた経験は狼にはないが。

  それより狼が気にかかったのは、ジャービスの服に袖を通すことだ。ジャービスが普段来ているのと同じようなスラックスにワイシャツを手渡されたが、なんというべきだろうか。臭い。

  汗のニオイだとか、泥汚れのニオイとは一線を画している。[[rb:所詮 > しょせん]]加齢臭というものだろう。手にとって少し近づけただけで、精神的に拒否感が生まれる。

  「着ないの?」横からジョンがつまらなそうに言う。彼もいつまでも裸で着るのを[[rb:躊躇 > ためら]]っている狼を見ていたくはないのだろう。だったら目を逸らせばいいものをと、狼は心の中で[[rb:愚痴 > ぐち]]った。

  少し想像してほしい。ずぶ濡れになった雨の日、ヒトに服を手渡される。それも、普段来ているような服を、だ。当然自分は上も下も、肌着もダメになっていたとする。

  何が悲しくて他人が履き下ろしてる下着まで着なければならないのか。濡れたから仕方ない、で着れるものか。嫌悪感以前に誰だって躊躇うものはあるだろう。今狼はそんな葛藤と戦っているのだ。けして裸でいるのが好きというわけじゃない。

  

  「……災難だね」

  「やっぱそう思うか?」

  「でも、自分のせいでしょ?」

  そう言われてしまえば、ぐうの音もでない。諦めて袖を通してしまおう。なに、こんなもの着てしまえばなんてことない。[[rb:嗅 > か]]がなければいいだけのことだ。

  「どう? おじさん臭い?」

  「ワザと聞いてるなジョン」

  意識さえしなければ、何の問題もない。

  「……見捨てればよかったのに」ジョンは気怠げに机に突っ伏し、狼にそう言った。ウェンディのことを言っているのだろうか。仮にも同じ屋根の下に住む家族のようなものだろうに、言い方がやけに冷たい。

  「君のとこのお嬢さんの頼みだったんでね。無下には出来なかったのさ」

  「狼さん」

  「なんだい」

  「貴方頭悪いんだね。以外にも」

  そうじゃないと期待してたのに──ため息ついでにジョンはそう洩らす。視線からは、狼に対する[[rb:侮蔑 > ぶべつ]]すら感じさせる。

  元から好意を寄せていないのはそれとなく察していた。喋らないから、大人しいから、ただ居心地の良さでいるというだけで、馴れ合いはしたくないのだろうと。

  「……はは。男は時に愚かになるものさ」

  「そう」

  「ハハハ……」

  冷静になれ。たかがガキじゃないか。物を知らない小僧の[[rb:戯言 > たわごと]]風情、流してしまえ。

  

  「自分が不幸になるって知ってても?」

  「……」

  ヒトの地雷なんて、馬の少年からすれば知ったことではない。鳥かごで飼育された鳥は帰巣本能が養われないように、ジョンにはヒトを気遣うという精神は育まれなかった。草花を無造作に引きちぎるのと同じ感覚で、ジョンは狼に疑問を投げかけている。

  「意味はあるさ」

  「ないよ」

  「救われてよかったって気持ちが生まれる。それでいいんだ」

  「バカだなあ。幸せって消耗品なのに」

  負の感情が一気に襲い掛かってくるのを狼は感じる。胸ぐらを掴み、その涼しい面を歪めたい。思いっきり突き飛ばしてしまいたい。そんな衝動に狼は歯を噛み締め、必死に誤魔化そうとした。

  幸せは消耗品。ヒトは一定量のそれを持ち合わせていて、それを受け取ることで幸福だと実感する。

  「ウェンディを助けたことって、アレに幸福を与えたってことだよ」ジョンは例として先程の出来事を挙げた。

  「意味はあっただろ」怒りを抑えつつ、狼が反論する。

  「ないよ」

  「放っておけと言いたいのか。お前の家族だろうに」

  「貴方は何もわかってないね。ボクらがどうして生きていられるのか。なんでこの都市はココを潰さないのか」

  都市が孤児院を潰さない理由。それはジャービスが進んで不幸の象徴たる孤児たちを受け入れているから。少なくとも、狼はそう思っている。……そうではないと、ジョンは言うのだろうか。

  「ハハハ、本当に分からないって顔だね。おじさんが気に入るわけだ」

  そんな狼の様子をジョンは笑い捨てた。可哀想だ、惨めだ、と。

  「……なにがおかしい」

  「おかしいのは貴方じゃないかな、靴屋のお兄さん」

  だって貴方は知らなすぎる。幸福になるにはどうすればいいのかを。不幸を知らないように生きるには、どうすればいいのかを。

  気怠げに、どうしようもなさげに、ジョンは狼を[[rb:嘲笑 > あざわら]]う。子供のくせに、いや、子供だからこそ、すべてを知っているふりをしているのかも知れない。そんな万能感に浸ることで、自己を持たせているのかも知れない。

  そう己を納得させないと、狼はどうにかなりそうだった。ジョンを憎むより、そういう愚かなものとして見ていないと、すべてを台無しにしかねなかった。

  「靴屋さん、お風呂の用意出来たって」

  そんな不穏な空気が漂う中、ウェンディがリビングへとやってきた。頑張ってくれた狼に一番風呂の権利を与えるために。二人の間にただならぬ雰囲気を感じ取った彼女は、なにかあったのかと不思議そうに狼へと聞く。

  「……なんでもない、さ」

  ここで素直に打ち明けたところで、どうにもならない。君の弟分にあたる彼の性格が極悪だなんて、それこそ信じるだろうか。普段は黙っていて大人しい彼が、そんなやつだったと。そも狼には上手く説明出来そうもなかった。そんな、彼女にとって都合の悪そうな事実など。

  「そっか……。まあいいや、とにかくお風呂! 靴屋さん先に入って。頑張ってくれたんだもん、風邪引かれたら申し訳なくなっちゃう」

  「あ、ああ。じゃあ、遠慮なく戴くとするよ」

  ウェンディはニコリと微笑むと、狼の濡れた衣類を持って去っていく。狼も浴場へと[[rb:赴 > おもむ]]こうと後を追うと、ジョンが笑いをこらえながらしゃべりだした。

  「可哀想な狼さん。肉を食べられなくなった狼さん

  きっと貴方は思い知るよ。自分がいかに愚かで可哀想なのか」

  狼は特に返事もせずリビングを後にする。後ろからヘラヘラと笑うジョンを気にせずに。

  このとき狼は、もっとよく考えるべきだったかも知れない。子供の戯言だと切り捨てなければ、或いはなにかを選択できただろう。

  足の動かない馬は生きていけない。立って歩くのが生きがいの生き物がゆえに。

  与えられなければ生きることすら難しい。そういう生き方しかできないものがいると、狼は知らないのだ。

  そして、そういうものを相手にしている。そんなことすらも。

  ∶∶∶

  「……ふう」

  久方ぶりの風呂を[[rb:満喫 > まんきつ]]し終え、狼は浴場から出る。

  お風呂は心の洗濯がどうだとか、そんなことを昔書物で読んだことがある。その時はまあそんなものかと流していたが、いざ入るとなるほど、と納得する。湯上がりの火照り具合はなんとも例え難い。たまった澱みを一時だけでも忘れさせてくれる。お湯で頭が茹で上がり、思考が回らないというのもあるのだろうが。

  夢見心地に目蓋を閉じれば、白く[[rb:靄 > もや]]のかかる頭に[[rb:微睡 > まどろ]]みそうになる。先程のジョンとの会話も、ウェンディを庇ってずぶ濡れになったことも、随分と遠い昔のように感じさせる。水に流した、まではいかないが、今は気にもならない。

  しばらくはこのまま何もかもを忘れたままでいたい。狼は満足げに一人顔を綻ばせ、真っ白な思考の海を漂うかのように堪能する。

  「くーつーやーさん」

  ウェンディが呼んでいる。遠くから。又は近くから。

  探すべきだろうか。いや、もう少しまどろんでいたい。まだ、この余韻に浸っていたい。

  

  「お風呂どうだった? ……って、聞くまでもないか」

  くすくすとウェンディが笑っている。そんなに今の自分は気が緩んでいるのか。流石に覚醒しなければ、このまま笑われるのも[[rb:癪 > しゃく]]に障る。

  手放しかけていた理性をなんとか紡ぎ直し、狼は目蓋を開ける。眼の前にはウェンディが入浴用のアレコレを抱えて立っていた。

  「まあ……有り難く一番風呂、いただかせてもらったよ」

  「随分気持ち良さそうだったね。何日振り?」

  「あー……どうだったかな」

  普段は臭わない程度に水浴びする程度、お湯に浸かるのは本当に久々だ。都市内であれ外であれ、お湯を沸かすというのはかなり手間だ。それもヒトが入るとなると相当な労力を払わなければいけない。それだけ贅沢な行為だ、こうなっても仕方ない。

  「私は三日ぶりかな。へへ、最近ちょっと頑張ってるからね、私」

  「まあ実際事後は臭うからな」

  瞬間、ウェンディの表情が凍りつく。秘密を知られてしまった。バレてはいけないものを、あろうことか知られたくないヒトに知られてしまった。そんな顔だ。

  「え、あ、そ、その」可哀想なくらい動揺しながら、それでもウェンディは必死に言葉を紡ごうとする。目尻に涙袋を作って。

  その様子を見て初めて、狼は自身の失態に気が付いた。迂闊な発言をしてしまったと、取り返しのつかないことをしてしまったと。

  「俺も仕事終わりはだいぶこう……[[rb:芳 > かぐわ]]しいというべきか。土草の踏みしめられたアレがな……」

  「……ああ! そっか、うん、お仕事の後は仕方ないよねー。そっかー、そうかー……」

  [[rb:咄嗟 > とっさ]]に発言のフォローにまわると、ウェンディはぎこちないながらも同意する。靴を磨く関係上どうしてもそのテの臭いがこびり付くもの。嘘は言っていない。

  うんうんと納得するウェンディ。それでもまだ疑いはあるのか、ちらちらと狼のことを伺っている。本当は、気づいているんじゃないかと。

  頭が回っていなかったとはいえ、大変失礼な事を言ってしまった。と、同時に。ある種の確信も得てしまった。ウェンディがやっている仕事は、そういう仕事なのだと。

  「ねえ、靴屋さん」

  「なんだい、ウェンディ」

  おずおずと覗き込み、ウェンディは狼に詰めよる。その表情には恐怖と懸念が色濃く出ている。

  もしバレてしまっていたらどうしよう。もし知られてしまったら、[[rb:軽蔑 > けいべつ]]されてしまうのだろうか──恐らくそんなことを考えているのだろう。

  「靴屋さんは……その、」

  「あ、靴屋のにーちゃん!」

  ウェンディが胸の内の不安を解消しようと口を開く。しかしタイミング悪く、熊の少年がやってきてしまった。

  「私、お風呂入ってくる!」このままではまずいと思ったのだろう。ウェンディはそう言い残すと、半ば逃げるように浴室へと入っていく。

  「なんだアイツ。急に叫んだりして」やって来た熊の少年ことマイケルは、ウェンディの様子に訝しむ。まあ、先程のやり取りを知らないのだ、そういう反応は当然だろう。

  「ってかひっさびさじゃんにーちゃん! オレと遊びに来てくれたの?」

  「いやそういうわけでは」

  「えー! いいじゃん遊んでくれたってさあ。この間はあの石頭から逃げ回ってまっったくおしゃべりできなかったし。なあいいだろ〜?」

  雨が降っていようが何処までもわんぱく。遊びたい盛りなのだろう。マイケルは子供にしては大きめな両手で狼の腕を掴み、ぶんぶんと容赦なく、風呂上がりの狼を揺さぶった。

  「待て待て、明日、明日なら相手してやるから」

  「なんでだよぉ〜! ジャービスのおっちゃんもあのウスラトンカチもいない今がチャンスなんだって。オレだって構われたいぃ〜!」

  「言い分は分かった。分かったから揺らすの止めてくれ、な?」

  狼が必死に[[rb:懇願 > こんがん]]すると、マイケルはしょうがないなと手を止めた。今だ揺さぶられた反動が収まらない。強い酒を飲まされたかのようだ。自分は果たしてしっかり両足で立っているだろうか。それすらも定まらない。

  「……ん? なあにいちゃん」

  「なんだ、マイケル」

  目の前の熊の揺さぶりからなんとか復帰しようとする中、鼻を鳴らしながらマイケルが聞いてくる。

  「なんか……臭くね?」と。

  ∶∶∶

  ウェンディが売春行為をしている。予想ではなく、ほぼ確信に近い。

  (だからどうした、って言えば……まあ、別に)

  ベットメイクが終わったと知らせを受け、通された客間で狼は独りごちる。

  金を稼ぐというのはそういうことだ。能がなければ身体を売る、それができなければ飢え死ぬだけ。誰かが生きて行くことを保証してくれるのなら、そんなことはないのだろう。狼の恩人であるナターシャだって、今もせせら笑いながら生きていたはずだ。

  狼がウェンディを弾圧して、何になるというのか。子供の身体で何をやっている、将来を棒に振る気か。……なんて意味のない説教だろう。そんな正論を振りかざしていいのは力のある大人だけ。選択肢すら絞られている子供の身では、そんな正しさは死ねと同義だ。

  (他人事だ。夢見ているだけじゃ幸せになんてなれやしない。童話みたいに誰かが助けてくれるなんて……そんなの、誰にだって起こることじゃない)

  胸の内で、硬いしこりが内蔵をえぐる。時折どうしても襲ってくる痛みだ。幸せになって欲しい、でもアレは赤の他人だ。そうやって苦しくなるたび、それは動き出す。善意といえば聞こえはいい。でもコレの正体はそんな綺麗なものじゃないと、狼は知っている。

  後悔だ。惨めな自分の、未だ子供のままで成長して、取りこぼしてしまったやり残し。

  こうじゃなかった。本当は、もっといい結果にしたかった。ナターシャには笑っていて欲しかった。あの虎に辛い思いをさせたくなかった。何もかも叶わないまま、こうして非常な現実を見せられるたびに刺激する。

  ──仕方ないだろ。俺一人で、何になるんだ。

  自己を責めることに意味なんてない。そうしたところで、現実は変わりやしない。

  「……靴屋さん」

  控えめな声と共に、客間の入り口からウェンディが顔を覗かせる。

  「ん。どうしたんだい、ウェンディ」

  「えっとね、大したことじゃないんだけど……」

  その口振りとは裏腹に、もじもじと服の裾をいじりながら入ってくる。誰がどうみたって要件がありそうなのは明白だ。

  大方、先程の件を確かめに来たのだろう。勘づかれているのか、それとも本当に何も判っていないのか。

  

  「その、ね?」

  「……ああ」

  さて、どうしたものか。狼はどう接するべきか思案する。

  顔色一つも変えず今まで通り、が恐らく正解。これまでやってきたことを今まで通り接すればいい。

  もぞり、胸のしこりが動き出す。それでいいのか、それで後悔しないか、等と言いたげに。

  いいんだ。狼はその訴えに背を向ける。

  いいんだ、これで。

  「今日はその……一緒に寝ていい?」

  けれど。どうも状況は狼を無視させたくないようだ。

  ウェンディは股を擦り、気恥ずかしそうに狼にねだる。いつもだったらまあ、幼子の頼みだと快諾するだろう。けれど、これがもし男として求められているというのなら話は変わってくる。

  「……どうしたんだい、ウェンディ。一人で寝付けない年頃でもないだろうに」

  「あの! 今日だけで、いいの。今日だけ、きょうだけ……」

  一緒に寝たいと訴えるウェンディは本気そうだ。けれど、その意図を狼は汲み取れずにいる。

  本当に、純粋に隣で寝たいのか、それとも。

  「……分かった。枕、持ってきてるか?」

  「! ……ううん、今取ってくる」

  ここで下手に拒めば疑いを持っていると悟られてしまう。あくまで穏便に済ませたい狼はウェンディの申し出を快諾するほかなかった。

  許可を貰えたウェンディは、ぱあと顔を明るくさせる。薄汚れた大人のあれこれなんて知らなそうな、純真無垢の少女そのもの。ただそれは一瞬で、すぐさまウェンディは取り繕ろうと枕を取りに戻っていく。

  深く考えすぎたろうか。たかが幼子如き、そも靴屋以外の情報がない男にそういう関係になりたいなんて。

  『靴屋さん、女の子の見る目ないって言われたことない?』

  いつだったかウェンディが言っていたことが、狼の頭でリフレインする。こんな目に会うのなら、もう少し真面目にナターシャにオンナというものを指南してもらうべきだったろうか。そんな気が違った考えを過ぎらせて。

  ❋

  狭い一室。年の離れた男女。今日のために綺麗に敷かれたベット。女の方は身体を売っている。

  ……良からぬことが起こっても仕方がない状況だ。おあつらえ向き、ともいえる。なにをどう間違えたとして、男側に非はないだろう。

  (まあ……それは男側に気があれば、だけどな)

  ここで一つ重要な事実を提示しよう。

  ナニがどう転んでも、例え明日世界が終わったとしても、狼はウェンディを抱く気など一切ない。間違いなど、まず起こす気がない。

  彼の男性としての機能が十全でない、という話ではない。単純に、ウェンディの女性としての魅力が劣っているからである。

  そも彼の女性の基準はナターシャだ。ブラウスにランジェリーという、ヒトによっては目のやり場に困る女が基準なのだ。そんな女相手にすら肉欲がわかないのだから、十もいかない子供の裸体で興奮などまったくだ。彼はロリコンでなければペドフィリアでもないのだ。

  「なんか……その、ドキドキする……ね」

  「そうだな」

  なので。一枚のシーツの上で一緒に寝ようが、ウェンディが照れくさそうにしていようが、何の反応も示さない。示すはずがない。

  「靴屋さんはその、緊張しない?」

  「誕生日をどう祝われるか楽しみで眠れない子供、とかじゃないのでね」

  「ナニそのたとえ。私だって、そんなんじゃないもん……」

  むくれたウェンディが狼に背を向ける。その際に掛け布団を持っていかれたが、特段文句はない。

  「それで」

  「……なあに?」

  「なにかあったんじゃないか。こうして一緒に寝たいなんて。普段ここまで甘えてこないだろ、君は」

  「……」

  沈黙が続く。別に質問の意図としてはおかしくない。ウェンディは活発で行動力のある少女だ。こうして弱々しい態度を見せるというのは彼女らしからぬ行動だ。なら、この同伴も理由があってこそ。むしろ狼を孤児院へと招いていたのは、これが目的だったのではないだろうか。

  「あの、ね」躊躇いがちに、言葉を選ぶ様にウェンディは[[rb:囁 > ささや]]く。誰にも聞かれたくない。けど、靴屋さんには聞いてほしい。そんな願望が狼には透けて見えた。

  「きっと変なこと、今から聞くんだと思う。頭のおかしい子だって、聞いたら思われちゃうんだって、そう思うの」

  「そんなことないさ。君はいつだって魅力的なんだから」

  「……茶化さないで、聞いて」

  受け答えを間違えてしまった。つい、いつも通りの対応をしてしまった。

  まずったなと顔を[[rb:顰 > しか]]める狼。幸いなのは、それが背を向けているおかげでバレないことか。

  そんな狼を気にすることなく、ウェンディは話を続ける。

  「わたし……このままで、いいのかな。このままでいたら、幸せになれるのかな……?」

  それはごく普通で、ありふれていた。たとえどんな世の中になろうと、誰もがふと抱く疑問。

  『自分は、このままで本当にいいのだろうか』という、難題。

  「起きて、仕事して、ヒトのために奉仕して、そして眠る。

  別に嫌とかじゃないよ。みんなやってることだもん、みんなコレで幸せになれるって、こうしていれば幸せになれるって」

  「……」

  「でもね、これってホントに幸せになれる方法なのかなって。何かを我慢して、何かを手放して、そうすればいつか……幸せに、なれるのかなって」

  その疑問を向けられた所で、狼は答えられない。幸せになって欲しいと願うその裏で、それがどういったものなのかを、狼自身知らないために。

  ただ言えるのは、今のウェンディはまず幸せではないだろうということ。売女だから、孤児だからという偏見ではない。それは確かに障害だろうが、それで幸せになれないかといえば……きっと違う。

  「変だよね、やっぱ。幸せのなり方なんて決まってるのに。幸せって絶対で、不安なことなんて何一つないはずなのに」

  「そう……だな」

  「そうだよね、何いってるんだろ……私」

  ウェンディが毛布にうずくまる。そうしたところで不安が消え去ることなんてない。けれど、そうしていないと次の瞬間にはどうにかなっていそうでたまらない。そんな恐怖が、彼女を脅かしている。

  そんなウェンディに、いったいどんな言葉をかければよいのだろう。不安も迷いも打ち消せるような、そんな魔法のような言葉、狼は持ち合わせていない。

  「あまり、考えすぎない方がいい」ただ一つ、言葉を投げかけられるとしたら、そんなありきたりなことだ。そんなもの、なんの慰めにすらならない。けれど、何もしないよりはマシだろう。……マシだと、狼は思いたかった。

  「考えすぎ、なのかな」

  「……そうさ。何事も、悪い方へ考えちゃいけない」

  「靴屋さんは……考えたりしない? 自分のやっていることが、本当に幸せに繋がるのかって」

  「……難しい、質問だね」

  幸せに繋がっているはずがない。たとえどんなに優しくヒトと接していても、あくまで他人同士。肝心な所で味方にならない男が、どうして幸せにできるというのだろう。自分かわいさに他人だと見捨てる男が、どうして幸せにならなければいけないのか。

  自分は幸せにならない。いつからかは覚えてすらいないが、狼はそう決めている。それはナターシャを失った時からか、はたまたフリッドを撃ち殺してからか。いずれにせよ、こんなろくでなしは幸せになってはいけない。幸せを、求めてはいけない。

  「靴屋さんでも難しいか。そっか……そうだよね」

  「申し訳ないね、頼りにならなくて」

  「ううん、いいの。聞くほうがおかしなことだから」

  「でも」ウェンディが毛布の中でもぞりと動く。背中越しで彼女が何をしているのか狼にはわからない。けれど、どうしてだろうか。ウェンディが、震えている気がした。

  「わかんないの。お仕事してる時、『幸せだろう』って聞かれて、私……」

  「ウェンディ?」

  「奉仕するのは従者として誉れだっていわれても、嫌なこと我慢して成し遂げても、それが幸せだって思えない。

  おかしいよね。幸せのなりかたって決まってるのに。私幸せなのかなって考えちゃうの。……おかしい、よね」

  しきりにウェンディはおかしいよねと呟く。そうしていないと落ち着かないのだろう。震えも、先程より酷くなっている。

  こういう時どうすればよいのだろう。狼は静かに目を閉じて考える。ウェンディは、どうしてほしいのだろうか。何を求めて、自分を頼っているのだろう。

  「誰か、幸せにしてよ……。ずっと苦しいのはやだ……ずっと、我慢してたくない……」

  不安は次第に不満へ。僅かながら、言葉の端々に[[rb:嗚咽 > おえつ]]が混ざりだした。

  それだけ今の仕事が嫌なのだろう。身体を売る仕事を、けして好き好んでやってはいないのだろう。

  一体どれだけの嘘を狼の前でつき続けたのだろうか。仕事着を見せびらかしていた時、二人きりで踊った時。本当はどこかの機会で気づいてほしくて、ずっと気丈に振る舞っていたのだろうか。……だとしたら、それは相手が悪い。客として接している狼が、どこかの機会で気づいたとしても、何らかの行動を取るはずがない。深入りはしないと決めているのだから。

  ウェンディの嗚咽が酷くなっていく。これでは眠るに寝れない。どうしたものかと思案する狼だったが、しかしじっと聞いていると、何か違和感が狼の耳をかすめる。

  押し殺すような声のどこかに、えづきが混じっているような。まあ泣いているのだからしゃくり上がっているのだろう。が、それにしては様子がおかしい。

  「ウェンディ?」気になった狼は身を起こす。

  「う、え、うぇ゛ぇ゛ぇ゛っ」

  「なっ、おいウェンディ!」

  ただ、狼がウェンディの異変に気づくのは少し遅かった。白いシーツの上で、ウェンディがうずくまりながら吐瀉物を撒き散らしている。まだ吐き足りないのだろう、いまだ激しく痙攣し、胃の中すべてのものを吐き出さんとしている。

  胃液のすっぱいニオイが嫌悪感を誘う。目の前の彼女を、つい汚いものとして認識してしまう。苦しそうなのに、辛そうなのに、どうしても。

  そして、目があってしまった。助けてと訴えるその瞳に。何もかもに絶望して、それでも縋りたいと願うその眼に。

  そして、その求める目が、歪んでいく。期待を失われたかのように。希望なんてないと、打ちのめされたかのように。

  「……っ、待ってろ。今なんとかしてやるから」

  狼はジャービスを呼び出すため、客間を一目散に飛び出す。

  その場にいられなかった。そうするしかなかった。狼の頭の中でそんな言い訳が支配していく。

  ウェンディのあの目が、訴えが、頭から離れない。それに手を差し伸べない自身が、狼にはどうしようもなく情けなく思えた。