灰色のむこうがわ 07 その一

  「拠点を変えます」物々しい雰囲気を漂わせ、狼が話題を切り出した。

  「…………ん?」

  「ん? じゃねえよ首かしげんなぶりっ子」

  あまりにも急な決定に虎男、フリッドは頭がついていかない。その態度が気に食わない狼は、[[rb:脛 > すね]]を目掛け蹴りをお見舞いした。「いっでぇ!!」と片足で飛び跳ねる虎をよそに、狼はいそいそと荷支度を始める。

  この廃墟群で一か所に留まる、それすなわち死を意味している。クリーチャーが絶えず[[rb:徘徊 > はいかい]]し、暮らしていくには常に危険がともなう。いくら籠城よろしくバリケードを張り立てこもったところで、出会ってしまっては意味がない。そうでなくともフリッドはこの間薬物ブローカーに[[rb:遭遇 > そうぐう]]してしまっている。どこにいようが、安全だと言い切れる保証などどこにもないのだ。

  ならばどうするべきか。撃退する[[rb:術 > すべ]]でも持つべきだろうか。いや、それではジリ貧だ。多勢に無勢、対一なら退けられても大勢に囲われてしまえば二人だけでは太刀打ちできないだろう。食糧も無限にあるわけではない。消耗戦になれば確実に不利になるだろう。

  結局のところ、とどまって襲われるのを待つよりは、危険を[[rb:顧 > かえり]]みず拠点を移し続けるしかない。

  「移動って、もうここに戻らないってことか?」

  「そうなるな」

  「そっか。うん……そうか」

  蹴られて痛がっていたフリッドの顔に影が差す。そうか。もう、そんな日が来てしまったのか。

  そうなる日が来るだろうとは、予感していた。一緒にいたのも、ただ去ってくれと断られなかったからだ。迷惑がられてたとはいえ、本気で追い払われることがなかったからだ。

  この数週間、いろんなことがあった。汚物だの虫けらだの酷いいわれようだったけれど、久々にヒトのぬくもりというものを感じられた。

  「あー、その。なんだ」

  「あ?」

  「元気でな。その……はは、なんつーか……な?」

  ヒトから身を遠ざけることはあった。避けられてしまうのなら避けてしまえと、自ら[[rb:忌避 > きひ]]するのは今に始まったことではない。

  けれど、逆はどうか。傍にいて、居心地の良さを感じてしまって。そうして一人送り出す経験はあったろうか。

  せめてもの感謝にと、フリッドは作り笑いを浮かべる。微妙に口角の釣り上がらない、絞まらない笑顔だ。本人が一番良く知っている。別れなんて、慣れやしない。

  別れを告げるのは、これで二度目。胸はズキリと痛む。けれどその日が来てしまった以上、送り出さなければ。不恰好だと[[rb:罵 > ののし]]られようが今回ばかりは聞き流そう。そうだ、もうこれで最後なんだ。そんな決意と共に、フリッドは不恰好に笑う。

  「……」

  「ん、んだよ。なんか文句あんなら遠慮せずに」

  「女々しい」

  「なっ! めめめ、女々しいって」

  思わず言い返しそうになるのを何とか堪える。ダメだ、ここで売り文句に乗っかってしまっては。またいつもの調子でうやむやになってしまう。

  「他に言い換えてやろうか。煮え切らない、ハッキリしない、意気地なし」

  「まてまてヤメロ言い換えさねぇからって畳みかけるように悪口唱えるのヤメロ」

  「なら似合わないことせず自分に素直になるこったな、根性なし?」

  「ぐ、ぐぬぬ…言い返さないからって一方的にボコりやがって……!」

  甲斐甲斐しく送り出そうとするフリッドの心中など、狼にはどうでもいいのだろう。いつものように悪態づきながら荷物をまとめていく。よく整理をしているからだろうか、バックバックに詰める彼の手に迷いがない。取捨選択というものが得意なのだろう。

  (やっぱ、寂しいとすら感じねえのかな……)

  いつも通り、といえばそうなる。らしくないことをしているとは百も承知。けれど、フリッドは悲しくなってしまう。コイツには、俺と離ればなれになって寂しいという感情すら、湧かないのかと。

  そんな虎の孤独をよそに、狼は荷物をまとめ終える。よっ、という声を共にそれを背負うと、くるりとフリッドに向き直った。

  「で? どうすんだ」

  「どうすんだ、って」

  「お前は何がしてーのって聞いてんだよ。元気でな? はっ、くだらねえ。俺が元気でいるのは勝手だし、じゃあお前はどうすんだ? って」

  「俺は……」

  何がしたいのか、そう問われればフリッドは困ってしまう。

  目的など何一つとしてない。ただ死ねないから、だからこれから先もずっと生きていく。生にしがみついているわけでもないのに、自然とこうなってしまうから生きている。どうしようもない現実に打ちひしがれながら、ずっと息をするしかない。

  どこかへと向かっていくべきなのだろうか。アテもなく、ふらふらと彷徨うべきなのだろうか。そうしたとして、何か変わるだろうか。

  「どうしたいんだろうな、俺」

  自傷気味にフリッドが笑う。目的なんて一つもない。外に出たいと願ったのも、これ以上傷つきたくなかったから。たったそれだけのこと。一人になってからここまで[[rb:彷徨 > さまよ]]ったのも、そうする以外にやることがなかったからだ。

  ただ一つだけ。行きたい場所、というものならある。きっとたどり着けないだろうと。諦めてもいるが。

  「お前なぁ……」

  「な、なんだよ。つか、こんなどこ行ってもボロボロなモンしかねーのに『目的ありますか?』ってわれても困るっきゃねーだろ」

  「……そうだな」

  狼が頭をボリボリ掻き[[rb:毟 > むし]]る。失念していた。そういえばコイツはそういう男だった。

  じゃあどうするか。そのまま手を口元まで持っていき、狼はしばらく長考に入る。そして何かを思いついたのか、「そうだ」と呟くと、フリッドに誓約書を渡すよう指示した。

  「ええと……ほれ、なくさねーようにってちゃんとポッケに」

  「あっそ」

  長くなりそうな話を奪う事で切ると、背負ったバックパックから書くものを取り出す。

  「っておいおい、またなんか守らせる気かよ!」

  「ちっと黙ってろ」

  「んなのしてられっか! なんでお前そんな勝手に決めんだよ、俺の意見は!? ねえ俺の意見!」

  「できた」

  「ファーーー! 聞いてくんねーし!!」

  できあがった誓約書をフリッドに突き返す。渋々とフリッドは受け取り、新たに追加された文面を読もうと試みる……が。

  「……なんて?」

  いくらにらめっこしたところでフリッドには文字が読めない。

  裏返しても無理、紙を離したり近づけたり一切読解不能。あるいはこれならとブリッジしてみたりもした。が、それでもダメ。

  「お前は何でそう恥ずかしげもなく人前で奇行を繰り広げられるかね」

  「あっ、バカにしたな! 俺の努力、バカにしただろ!」

  「素直に聞けばいいだけだろうが」

  「だってバカにするじゃねーか」

  「下手に知恵を巡らせようとするからだろ」

  「あー、そういうんじゃないんだよなー! 少しは申し訳ないって、思ってほしいんだよなー!」

  ブリッジを止めたフリッドが誓約書を振り回しながら抗議する。先ほどまでのしんみりムードはどこへやら、完全に狼の口車に乗せられてしまっている。

  ようやくいつもの調子で返してきた虎に、狼の頬が自然と緩みそうになる。ああ、こいつはこうでなくては。ふんと鼻で笑うと、狼は記入した内容を復唱した。

  「互いの境遇に干渉しない。それに加え、互いの目的の邪魔をしない」

  「……ん? だから?」

  「お前のやりたいこと、したいことに口を挟まねーってコト」

  「でもよ、ここでお別れだろ? なのになんでこんな……」

  こんなことを今更守らせる必要があるのか。そう言いかけ、フリッドは口を[[rb:噤 > つぐ]]む。狼は基本無駄ということをしない。わずかな間ではあったが、それでも虎は狼のことを多少なりとも理解しようとしてきたつもりだ。だからこそ、きっと気づくべきものがある。

  さっきこいつはなんていった? 『お前はどうするんだ?』と聞いてこなかったか?

  且つ、俺のやりたいことの邪魔をしない。そう誓わせた。

  「あ、あのよ?」

  「おう」

  望んでしまっていいのだろうか。あの日、外に出たいと言った、あの時のように。

  「着いて行っちまって、いい……のかな」

  冷や汗がつうとフリッドの背中を伝う。身体の震えが止まらない。喉が渇いて、まるでいけないことをして叱られる間際の子供のようだ。大きな[[rb:体躯 >たいく]]には似つかわしくない、情けない姿を[[rb:晒 > さら]]してしまっている。

  自分の望みを口に出す、という行為はフリッドにとって禁忌だ。ずっと無抵抗に殺され続けてきた彼にとって、それは無駄な行為。『いくら望んだところで叶うはずがない』そう最初から諦めるように精神が構築されている。それは今でもなお虎を蝕む呪い。本人自体が変えられない、自身にはめた[[rb:枷 > かせ]]だ。

  故に仕方ないところではある。自身の望みを語る彼が、こんなにも頼りなさげなのは。

  けれどそうあって欲しくない。望みは抱き続けるものだと願うものが、目の前にいる。

  「かな、って。お前そうやって保険かけてんじゃねーよ。自分のことだろうが、望みくらいしっかり主張してけよ。『あ、いいの? じゃあ勝手についてくなー?』くらいにはさ」

  「いやそんな図々しい……まてまて、俺そんなゆるいキャラじゃねーっての」

  「あ? お前常にマヌケっぽいぞ? 妙に語尾を伸ばしてること多いし」

  「え」

  非情に間の抜けた返しに、狼の方が思わず面食らってしまう。「お前の方がマヌケ面じゃん」とフリッドが指差して笑うと、即座に狼の蹴りが炸裂した。

  「決まったならさっさと出るぞ。雨が降り出しちまわないうちに」

  「え、待って待って早いって。急に言われたって俺準備すらしてねーんだけど」

  「知るかんなもん。邪魔すんなって誓わせたばっかだろ」

  「それ勝手に書き込んだんじゃ……ああくそ、今まとめっからちょっと待ってろよ?!」

  狼が急かすと、フリッドは置いて行かれまいと自身の荷支度を始めた。その慌ただしい背中を眺め、狼はひっそりため息を漏らす。

  やはり、随分と虎に毒されてしまっている。回りくどく言わせる必要などなかった。ただ着いてきたいならそうしろと、それで済む話だった。世話なんぞやってやるものかと心に決めていたというのに。お節介にもほどがある。

  ただ。

  ああでもないこうでもない。騒ぎながらバックパックに詰め込むフリッドを遠巻きに、狼はひそかに思う。

  久しぶりに誰かの隣にいるのが、何処か心地いいと。

  :::

  今日も今日とて天気はぐずついている。何かのきっかけですぐにも降り出しそうな、そんな空だ。

  「いくか」

  特に何の感慨もなく、狼が呟く。

  意味なんてこれっぽっちもない。ただなんとなく、立ち止まることのないように決意を言葉にした。それだけだ。

  変わったことなど一つもない。いつもと同じように拠点を移すだけ。これから先も、何の変化もないまま繰り返す、ただの作業だ。

  いや、あった。ひとつだけ、変わったものが。

  「よっしゃ、準備万端! いざゆかん、まだ見ぬフロンティアへ!」

  「仕切んなアホが。別に開拓しねえっての」

  隣で意気揚々と意気込みを語る、世間知らずの大男が。

  大慌てで詰め込んだだろうバックパックは、今にもはち切れそうだ。普段から整理できないのがもろに出ている。そこまで必要な荷物が果たしてあったのだろうか。自身の手荷物と比較しても数倍はあるだろうそれに、狼はあきれ返る。

  「道を切り開くし、だいたいあってるだろ、うん」

  「納得すんな間違いを認めろ」

  「間違いは分からなきゃ認めらんねーからさ…!」

  「ドヤるな[[rb:廃棄 > はいき]]ゴミ」

  根拠のない自身と共にフリッドは拳を揚げる。小さな子供のようにはしゃぐのはこの際どうでもいい。けれど拠点を移す一因は彼が担ったのだ。果たして彼にその自覚はあるのだろうか。

  「俺ゴミじゃねーし。こないだは不燃物じゃなかったか? なんで名前で呼んでくれねーんだよ、その価値すらなし?」

  「わあってるなら聞くなよ女々しい」

  「ホンギャーー!」

  浮かれ気味の虎を無視し、狼はポケットから地図を取り出した。

  現在彼らの拠点は復興都市よりも南西、地図上では旧ビジネス街にあたる。この間フリッドが向かったという雑居ビルもこの付近。おそらくは大通り近くか少し逸れた場所か。

  狼は自身の記憶を頼りにフリッドが訪れたであろう雑居ビルを大まかに特定しようとする。ここ一帯でゴードンなる薬物バイヤーが[[rb:蔓延 > はびこ]]っているというならばすみやかに退去しなければいけない。今後この虎が付いてくるというならなおさらだ。

  厄介ごとなど一つだけで十分。目に見える範囲にいられるのと、知らず知らずに付き纏われるのでは、精神的な苦痛が違う。当然後者のほうが断然キツイ。

  それではどこへ移動するべきか。目を細め狼が考えていると、ふとあたりが静かなことに気づく。

  おや、あのゴミはどうした。そう思い狼が顔を上げると、

  「あ」

  静観するには非常に耐えがたい、黒縞の虎の顔。

  「……なんだ、黙ってこっち見て」

  「え。あーいや、あははは」

  指摘するや否や虎はばっと身をひるがえし、照れくさそうに頭をかく。どうでもいいかと狼は再び地図に眼を滑らせる。が。そろり、フリッドが覗き込んでくる。

  地図をもの珍しそうに見ている、というわけではない。明らかに、標的は狼だ。それも目新しい物でも見るように、[[rb:爛々 > らんらん]]と瞳を輝かせながら。

  「……おい」今度は目を離さず、狼はフリッドに話しかける。

  「え?」

  「さっきからなんだ、じろっじろ舐めまわすように見やがって」

  「舐めてねぇよ! 流石に汚ねーだろ!」

  「自分のことそうやって[[rb:俯瞰 > ふかん]]できるようになったか、エライぞー」

  「褒めてないだろそれ。いや、なんか、そのさ?」

  フリッドがもじもじと指先で遊ばせる。煮え切らない虎の態度に、狼の怒りボルテージも急上昇。怒鳴り散らしたい気持ちをぐっとこらえ、虎の返答を待つ。

  「今日は毛布被ってないんだなぁ……なんて。はは」

  「チッ」

  「舌打ち!?」

  そういえば、と狼は思い返す。虎の前で毛布を被らずにいるのはこれが初だ。普段でこそ目深に被っているが、不意な雨で濡れてしまってはいけないと今は綺麗に畳んでしまってある。なるほど、それなら物珍しく眺めてくるのも納得だ。

  と、同時に。狼の不快指数も高まる。彼、狼は顔がいい方だ。男女問わず厄介なものが寄って来るくらい、顔がいい。

  故に顔をじろじろと見られるのは神経を逆なでされるようなものだ。普段毛布を被っているのも、視線というものを感じないため。容姿を褒められるのは彼にとって[[rb:喧嘩 > けんか]]を売るのに等しい。

  「おい」

  「いやー! 俺もさ、毛布欲しいな~、なんて」

  「……ん?」

  「いくら毛があるからってさ、限度があんだよ。床にこう、寝転がってるのもさ。あーもう羨ましいよなー! やっぱ一枚くらい敷くもの欲しいじゃん」

  虎の文句を狼は[[rb:唖然 > あぜん]]とした表情で聞き流す。

  予想外だった。顔がいいことには多少なりとも自信がある。おそらく虎が眺める理由もそのことだろうと粋がっていた。その慢心で、この馬鹿相手に一瞬だけでも本気になろうとは。

  「っぷ、ふふ」

  「え、急にどうした」

  「なんでもねーよアホ。つかそれくらい自分で見繕ってこいっての。何のために物資調達したんだ」

  「へ? ……あー! そっか、探せばよかったんじゃん! うわー!」

  虎を騒がせることで狼は己のくだらなさを誤魔化した。

  一人ではなくなった。少しだけ、見返されそうになった。けれどまだこの虎は自分で進むことができない。そんな彼にカマをかけてついてこさせたのは……きっと気まぐれだ。そういうことにしておこう。

  まだ彼の理想にたどり着くには、きっと遠すぎる。きっと気の長くなるほど先の話だ。それを見届けるのも、悪くない。

  [newpage]

  『またアンタ辛気臭いツラしてんね。そんなに面白い? その本』

  『……まあ』

  『うっわツマンナ。そんな紙束相手にするよりぃ、ワタシの相手しない?』

  これは夢だ。随分と久しく、それでいて懐かしいような、そんな夢。ぼんやりと、おぼろげにまとまっては消えていく意識の中で狼は思う。いわゆる[[rb:明晰夢 > めいせきむ]]というやつだろう。

  夢の中では二人の獣人がベットの上で語り合っている。仏頂面で本を読んでいるのが狼。まだ耳の垂れた子供だ。

  そしてもう片方。黒、赤茶、白で構成された毛並みのシェルティ。ブラウス一枚で眠たげに狼をからかう犬獣人の女性。彼女こそかつての恩人、狼の育ての親だ。

  『うーん素っ気ない。ホントにアンタ、ワタシの子供? ってくらい素っ気ない』

  『腹痛めて産んでないだろ』

  『そうなんだけどねー? ほら、ふっつーさ、一緒に暮らしてれば多少なりとも仲良くなるもんじゃん? それがないのよアンタ。成熟してるっていうか、[[rb:堅物 > かたぶつ]]すぎ』

  『アンタを見て育った結果だよ』

  『……そっか、いえてる』

  からからと良くヒトだったなと、狼は思い返す。

  彼女は[[rb:娼婦 > しょうふ]]だった。男に買われ、欲求を発散させるだけの道具としてその人生を生きてきた。彼女が所帯を持つなどあり得ない。子供を作るなど商売としてあがったりだ。普通の安定した生活など求めておらず、周囲からはまともではないと後ろ指を指される。生きながらにして幸せを手に入れることを否定された──そんなヒトだった。

  『最低限女の喜ばせ方知ってないと、後々苦労するぞー? だからほら、アタシと遊んだあそんだぁ』

  『あっおい、返せよナターシャ!』

  『旧時代の雑誌? へぇ……こういうの、好きなんだ』

  『どうでもいいだろ。俺が何を好きになるかなんて』

  『あ、この服かわいー』

  『おい』

  そんな彼女がどういう経緯で狼を育てることになったのか、それは定かではない。けれど彼女は狼を煙たがることなく、一人で必死に育てあげた。

  自分は彼女にとって汚点なのではないか。わずらわしい存在なのではないか。疑問を抱いた狼は、一度だけ彼女に問うたことがある。

  けれど彼女の返答は『アンタはワタシによく似ているから』と[[rb:曖昧 > あいまい]]なものだった。納得しない狼を、彼女はさもおかしそうに笑った。

  『ねね、見てよ。こういうの、ワタシに似合うと思う?』

  『……は?』

  『はーい時間切れー。こういう時は嘘でもいいから褒める! 容姿を良くおもわれたくない女なんていないんだから』

  『ドレスなんて着る機会ないだろ』

  こんな夢を見るたびに、狼は哀しくなる。誰だって、幸せになれると都市は[[rb:謳 > うた]]う。けれどどうして彼女は見放されなければいけないのか。皆が幸せになれると、どうして謳わないのだろうか。

  『わかってないなぁ、ホント』

  『はあ?』

  『女ってのはねー』

  どうして犠牲の上でしか幸せは成り立たないのだろう。狼は、それが哀しくて仕方ない。

  『いつまでも着飾っていたいもんなの、ふつーは。しわくちゃのババァになっても、ね。

  

  そういうの、こんな紙束じゃ教えてくれないぞ、──?』

  ###

  (……ん。寝てた、か)

  一斗缶から漏れ出る火の灯りが辺りを照らす。どうも寝落ちをしてしまっていたようだ。体育座りでうずくまっていた狼が顔をあげる。向かい側には鼻提灯を膨らませながら、気持ちよさげに眠る虎の姿が伺えた。

  俺も[[rb:呑気 > のんき]]に寝ている場合じゃない──起き抜けの眼を擦ると、狼は深いため息を一つはいた。

  移動を始めてから二日目。日中常に歩き通しのせいだろう、慣れているはずの狼にも疲れが出始めていた。きっとさっきの夢もそのせいだろう。そうでなければ警戒中に寝落ちなどするはずもない。

  (大分、気が緩んじまってんな……。あのヒトの、夢を見るなんて)

  チロチロと揺れる焔を見つめ、狼は夢の内容をおぼろげながら振り返る。

  ……久しぶりに、名前を呼ばれた。随分とぼやけて聞き取りづらかったが、確かに呼ばれた。

  懐かしさが狼の胸にこみ上げてくる。ヒトに気を許すのも、あのヒトが最初で最後だと、思っていたのに。時の流れとは残酷だ。どんなに固く決意したところで、崩れ去る時は訪れるものなのだから。……それがいい事だろうが、悪い事だろうが。

  彼女、ナターシャは数年前に亡くなった。男に殺され、都市の外壁に無情にも打ち捨てられる──彼女に待ち受けていたのはそんな終わり方だった。娼婦としてみるならば、妥当な[[rb:顛末 > てんまつ]]なのかもしれない。狼には納得のいかないものだったが。

  『ヒトに奉仕、貢献できることは幸せなこと』……どんなカタチであれ、都市がそう決めている。ならば彼女には居場所があったはずだ。例え複数人と関係を持ち、ろくでなしと罵られようと、必要とされていた。それが都市の在り方だったはずだ。

  (呼ばれたくない。あのヒトをボロ雑巾みたく扱った、あのクズどもなんかに。俺にとっては大切な恩人だったのに。……なんで、あんな風に)

  幸せであること。それはあの都市において非常に重要なことだ。幸福になる為に努める事こそ彼らにとっては美徳なのだ。

  例えば、部屋にナメクジが侵入してきたとしよう。這いつくばって、粘液でぬらぬらと跡を残す、あのナメクジだ。

  気持ち悪いと思うのが普通。同じ室内にいて幸福でいられるか問われれば、誰だって嫌悪感を露わにするだろう。

  ではどうするか。やることなど大抵決まっている。そうして彼女は不要とみなされたのだから。孤児院に不幸を閉じ込めるのを良しとした集団だ、それくらいやらないわけがない。

  狼がもし彼女の元で暮らさなければ。今も都市の男どもを手玉にとって気ままに暮らしていたのかもしれない。狼も、何も知らずに幸せになる為に努力していたことだろう。

  そこまで考え、狼はぞっとする。アイツらと一緒だなんてまっぴらごめんだと。

  何の疑いもなしに犠牲の[[rb:残骸 > ざんがい]]を無視して笑えるほど、ヒトを捨てたくなんかない。それも、そういう教育を施されたからという理由で。そんな風にヒトを扱うなど、絶対に許せない。

  「……リッ、……なん、で」

  (……? 寝言、か。コイツ寝ててもうるせぇとか、もう才能の類だろ)

  呑気なものだ。右も左も分からない場所で、いびきをかきながら眠れるなんて。どこでもぐっすり眠れるのは間違いなく才能だ。気が張り詰めやすい狼にとってはうらやましい限り。恨めしくすら思う。

  (『なんで都市で暮らさないのか』そういえば聞かれたな、こいつに。……あんなとこ、乞われてもゴメンだ。あのヒトを排除したアイツらと暮らすなんて。

  あんな場所、いい場所じゃない。理想郷なんかじゃ、絶対に)

  固い地面に寝苦しそうにしているフリッドに、クスリと狼は笑う。

  そうだ、居場所なんて俺にはない。きっとこいつにだって、そんなものはない。

  行きたい場所に、なんて偉いことを本当は言えた義理ではないのだ。ただ、それでも足掻くことだけは止められない。

  止まることはきっと諦めることだ。胸を焦がすこの気持ちを、無情にも捨て去る。そんな行為なのだ。

  :::

  「なっげぇ。めちゃくちゃなげぇ」

  「そうだな」

  「あ゛~! 無理、しんどい、くたびれた~!!」

  「うるせぇ」

  もはや恒例となってしまった虎の[[rb:癇癪 > かんしゃく]]に、狼も適当に[[rb:相槌 > あいづち]]を打つ。いつもの、といわれれば確かにそうだ。けれどこのやり取りも十分刻みでやられてしまっては、誰だって[[rb:辟易 > へきえき]]としてしまう。応答する気力も失せてしまうというものだ。狼の顔を伺えば、こちらが飽きたと言わんばかりにげんなりしている。

  「限界。すまねぇ、俺をここで置いて行ってくれ……!」

  「おう」

  「まてまてスルーしないで。もっとちゃんとかまって」

  「俺もツライ。ただですら長距離移動なのにダルがらみされてクソだるい」

  「あ……ゴメンナサイ」

  とはいえ、だ。目的地も知らされず永遠と歩き続けるのも十分堪えるものがある。雨が上がっている間はずっとだ、休みというものがない。休憩を訴えれば、狼がダメだと睨みを利かせる始末。フリッドが限界だと愚痴を漏らすのも当然だろう。

  「なあ、あとどれくらい歩くんだ?」

  「前の拠点よりできるだけ遠く」

  「答えになってねぇよぉ。もうだいぶ遠ざかっただろ? いいじゃんここいらでさあ」

  「まだだ。せめてビル街からは離れたい」

  「うへぇ」

  そのビル街というのもどこで終わるのだろうか。足だってもうパンパンだ、一日と言わず数週間だって動き回りたくない。

  既に[[rb:長途 > ちょうと]]の旅にくたびれてしまったフリッドは、手で望遠鏡のような形を作り、終わりはどこかと眺めようとする。そんなことをやっても遠くの方が見えるわけがない。それくらいは虎だって重々承知だ。現にフリッドの視界には同じような背の高い建物しか映らない。

  「またそうやってふざける。すっ転んでも知らねえぞ」

  「これはふざけてやって……っでえ!!」

  直後、盛大に転んだ。割れたコンクリートに足を取られ、顔面をしたたかに打ち付けた。

  「ほらな」狼が振り返らずに応える。狼の言った通りになったのが悔しいフリッドは、とりあえずその場でゴロリと寝返りを打った。

  「……」

  「んだよ。置いてくぞ」

  「ここってさ、ヒト、一杯いたんだろうな」

  「……まあ、大都会、だったらしいし」

  「だいとかい?」

  「俺もそのころを知ってる訳じゃねえ。そも生まれてないしな。けど昔は……旧時代って呼ばれてたころは、そういったとこがわんさかあったんだと」

  「へぇ」

  わんさかあったと言われても、これだけ閑散としていては想像に及ばない。どうしても生返事になってしまうというものだ。ただ、自分が当時その場にいたとしたらどうだっただろう。フリッドは狼の言う旧時代とやらに思いを馳せてみる。

  ありとあらゆる人種が往来する都市。多少変わっていても受け流されるような、そんな場所だったのだろうか。……不死者だったとして、それすらも受け入れられただろうか。

  「いっぱい集まって何やってたんだろうな、ここで」

  「……あくまで想像だが」

  「おう」

  「仕事してたんじゃねーかな。つっても、内容までは分からん。あくまでそうだったんじゃねーかなって」

  彼らにとって旧時代、この廃墟群がヒトの生きる場所として機能していたのははるか昔の出来事だ。かつてはこうだったと伝える者はいない。

  「それって仕事できなきゃダメだったのかな。いっぱいいるならそういうやつだって多分いただろ? 居場所、あったのかな」

  「さあな。出来なきゃ[[rb:貶 > けな]]されてたんじゃねーの、恐らくは」

  「で、でもさ? 見捨てられなかったんだろ? 流石に一人で孤立する、なんて」

  「あったろうな。大勢に否定されるってのは、一人だってのと大して変わんない。むしろ同じであることを求められたんじゃねーかな。そんで群れて力つけなきゃいけない、と」

  「……」

  だとしたら。狼の言うことが仮に本当だったとして、そこで生きていくことは至難の業だっただろう。

  今ですらこうして生き延びるのが大変なのに、昔はもっと生きづらかったなら。もしそうなら、そこまでして生きる必要はあったのだろうか。もしかしたら、それが嫌だったから滅びたのではないか。

  楽に死ねないというのは地獄だ。フリッドはそれを一番よく知っている。手放すのが困難で、無理矢理にでも生かされる。それをずっとその身に受けてきたのだから。人知れず、そうあることだけを求められて。

  「なんで、生きていたんだろうな……」そっと、フリッドが呟く。気分が沈んでいくのを示すように、尻尾の先端がそっと揺れた。

  「過ぎたモンに囚われてても仕方ねえよ。俺たちは今を生きてんだから。

  ……ずっと前見てかねえと。それが意地でも、張り続けねえと」

  狼の拳が固く握られる。自分に言い聞かせるように、しっかりとした口調で。

  立ち止まるという選択肢など狼は当の昔に捨てた。そうするということがどういう事かを、彼は知っている。

  その結果があの復興都市なのだろう。前向きなようでいて、その実閉鎖的な在り方は、傍から見れば止まっているようなものだ。幸せを求めるあまり、排他的になってしまっている。

  理想的な都市とは程遠い。近づくことも、そうあろうともしない。

  変えなければいけない。変わらなければいけない。そうでなければ諦めるのと同義だ。赤子のようにただ与えられた餌を、疑問を持たずに胃に流し込む。そんな大人になってしまう。

  そんなものになりたくはない。幸福という餌に、溺れてしまいたくない。

  「駄弁ってないで先に進むぞ。いつ雨が降り出すかわかったもんじゃ」

  パタリ。水滴が狼の握り拳にあたる。

  「……くそ、雨宿りが先か」そう悪態をつく合間にも、ぱらぱらと水滴が辺りを打ち鳴らしだしている。数分後には、本格的に降り出している事だろう。

  「どっか手ごろな建物に入るぞ。お前とドブネズミ見たくなるのだけは勘弁だからな」

  「え、きゅうけい? 助かった~!」

  「どんだけくたびれてたんだよお前は……。いや、とにかくさっさと入んぞ。

  ……ハァ、できればもっと進みたかったんだが」

  ボヤいたところで天候は良くなってくれない。狼たちは近場の廃ビルにアタリをつけると、そそくさと移動を始めるのだった。