灰色のむこうがわ 01

  「なあ」

  「……」

  「なんかやり残したこと、あるか?」

  「……」

  「ダイジョブ、どーせ外は土砂降りだ。なんもかもゼンブかき消えちまう」

  「……に……たぃ」

  「ん?」

  「ソラの向こうに、いきたい」

  

  水滴がコンクリートを優しく打つ。その微かな音を耳にとらえ、虎の容姿をした男は薄くまぶたを開いた。

  視界に広がるのは、今にも降り出しそうな暗い灰色。いつもの見慣れた――うんざりするくらい変わらない曇り空だ。

  起き抜けで淀んだ気分を少しでも紛らわそうと、深く息を吸い、身体に空気を巡らせる。

  ぱたり。

  また一つ、雨粒が床を打った。

  (やっべえな……)

  このままのんびりしていたら確実に土砂降りにさらされてしまう。シャワー代わりに打たれるのもまあ、悪くはない。[[rb:廃墟 > はいきょ]]暮らしでは身体を洗うのも中々難しいし。

  ……身体を拭くタオルがない、という問題を無視するならば。

  仕方ない、面倒だが起きなければ。虎は両足を顔の前まで持っていくと、振り下ろす反動を利用してばっ、と勢いよく起き上がった。首元でキラリと光るドックタグをそっと握りしめ、男はさっきまで寝ていた屋上を後にする。

  朽ち果てた建造物が乱立するこの場所で暮らすようになってどれくらいが経っただろう。誰もいない、ただ痕跡だけを残したこの場所を、どれだけ目に焼き付けてきただろうか。

  世界がいまどうなっているか。それを問うたとき、正しく答えられる者は数少ない。そも、誰も気には留めない。虎の男が物心つくころから、世界は既にどうしようもなくなっていた。

  カツン、カツンとトラが階下へ向けブーツを踏み鳴らす。壁も足場も所々崩れ落ち、今歩いているところでさえいつ崩落するか分かったものではない。

  それでも雨風しのげるだけ道端よりはマシ──彼の同居人はよくそんなことを言う。それはないな、と聞くたびに虎は思うのだが。

  (吹き抜けばっかで風しのげてねーじゃん。つか、火も水も自由に使えねーのにマシって)

  「なんだ辛気臭いツラして」

  「おわっ!!」

  急に横から声をかけられ、虎はおもわず反対側に飛び退く。

  「あ」

  「え、わ、おわわわっ」

  飛び退いた先、本来あったはずの手すりは足場ごと崩れ落ち、その役目を見事に[[rb:放棄 > ほうき]]していた。

  何とか踏ん張ろうと虎は試みる。が、足は急な要望についていけず、無情にも態勢はうしろへ傾いていく。

  (あーこれ無理。落ちたわ。おもいっきりいくわ)

  痛くなければいいな、などと完全諦めムードな虎へにゅっ、と手が伸びる。

  蒼く、虎のそれより細い腕。それが虎の腕をつかむと、ぐいと階段へ引き戻した。

  「っとと、ぶねー」

  「ったくだ。なにバカやってんだよ」

  「へへ……わりぃ」

  先ほどの主が虎をなじった。毛布を頭から被っていてわかりづらいが、眉間にしわを寄せ、睨みをきかせていることは想像に[[rb:難 > かた]]くない。

  首をかき、ヘラヘラと笑って虎はその場を紛らわそうとする。が、かえってその態度が目の前の人物──件の同居人、狼にとって苛立ちを助長させるものでしかないことを虎は知らない。

  「つか、どうしたんだよ。屋上で寝てたんじゃねーのか」

  「そうなんだけどよ。雨、振り出しちまって」

  「あめ?」

  

  そういうと狼は顔を少し覗かせ、鼻をヒクヒク鳴らした。

  [[rb:粉塵 > ふんじん]]が光に照らされきらきらと舞う空気の中、かすかに湿ったにおいが鼻をなでる。濡れた苔を間近で[[rb:嗅 > か]]ぐような、つんと来るけど嫌じゃない、そんなニオイ。

  「へぇ、丁度いいじゃんか。濡れてこいよ」

  「拭くタオルがねーだろが」

  虎が狼の出てきた方を指さす。通路の向こう、二人が普段生活している居住スペースには、崩れた壁からむき出しになった鉄骨を利用し、横断幕のようにタオルやらなんやらがかかっている。

  虎が屋上で寝ぐらをかく前に洗濯したものだ。洗うのが面倒くさくて溜まりにたまったのを狼にどやされ、ようやく洗った成果だ。よってすべてびしょびしょ、乾いているものなど何一つない。

  「それはお前のせい。つか、そろそろカラダ[[rb:痒 > かゆ]]くなってくる頃だろ。汗クセぇのはともかく」

  たしかにそうだ。ここ数日、虎はまともに汗すら流せていない。その上彼は狼との生活の上で主に肉体労働を任されている。

  イヤーなニオイがするのは当然だ。狼が[[rb:露骨 > ろこつ]]に鼻を[[rb:覆 > おお]]うのは当然の反応だ。さっさと行って来いと手で追い払う気持ちも、まあ、分からなくもない。

  けれど、

  「そこはせめて『フローラルな香りですね』とかい゛って゛くれよぉぉォオ!!」

  「うっざ」

  フローラルかどうかはともかく、狼の葉に布着せぬ発言は毎度容赦なく虎の心をえぐる。スコップで掘り返すという表現では生易しい、「面倒だし、爆弾で発破しようぜ!」というノリの、とても雑な傷つけ方だ。

  出会った当初はこうじゃなかった。もっと優しく、気遣いが身に染みるような、そんないたわりの心を持つ男だったはずだ。

  思い出せ、出会ったころのことを。まだお互いの勝手がわからなかった、あの頃を──

  ###

  「なー、名前なんての?」

  「……」

  「俺フリッドっつーの。お前は?」

  「……」

  ###

  冷たいのは最初っからだったわ。

  虎の青年──フリッドはガクリとうなだれた。今でこそ喋ってくれるようになったが、元から結構ひどかった事実に気づいてしまった。未だ警戒されているのか名前もろくに教えてくれない。

  落っこちそうになったところを助けてくれただけ、まだマシなのかもしれないけれど。

  「つーか、お前はどうなんだよ」

  「あ?」

  「カラダ、痒くなってたりしてねーのかって。洗ってるとこ見たことねーんだけど」

  「あー、うん……」

  「お風呂いただいてるからな、向こうで」

  「はあ!?」

  そんな話全く聞いていない。なんだそれ。俺たちはいついかなる時でも苦難を分かち合う関係じゃなかったのか。おな釜関係じゃなかったのか。

  真相を問いたださんとフリッドは狼に詰め寄る。クサいなんて知ったことか、そんなことより大事なことがある。顔をしかめてそむけるのはそういった意味合いなんかじゃない、後ろめたいことがあるからだ。

  

  「どーゆーこったよ! 向こうでお風呂って、俺がこっちであくせく働いている間にそんっ、ないい想いしてたのか!」

  ここでいう“向こう”とは、復興都市のことだ。

  フリッド達が暮らしている廃墟群から離れた場所に位置する、白い壁で覆われた土地。[[rb:此処> ここ]]からでもその外壁をはっきりと視認できるものの、内部の情報はうかがい知ることができない。自然にできたものではないだろうから中で人が暮らしているのでは、と想像できるくらいだ。

  フリッドが知っているのは、中に入るには厳重な検査が必要なこと。周囲に自衛軍がおり、勝手に入ろうものなら射殺されてもおかしくないこと。

  なぜかそこに狼は入っていける。つまり、検問をパスできるし、中で生活ができるという事だ。にもかかわらず彼はこの廃墟群で暮らしている。

  その理由を彼は教えてくれないだろう。そういう[[rb:誓約 > せいやく]]を、交わしたから。

  「互いの素性は[[rb:詮索 > せんさく]]しない。お前、そう誓ったよな?」

  「……ったって、」

  「お前だって言えないことあんだろ。それに、いい思いなんてモンじゃねえ。あそこは……」

  そういったっきり、狼は毛布を目深にかぶって押し黙ってしまった。嫌なことを思い出したのだろう、毛布を握る手が心なしか震えている。

  これ以上は会話も成り立たない。フリッドは途端に居心地が悪くなり、どうしたものかと左右に眼を泳がせた。

  「……雨が上がったら水汲みに行く。それまでに今ある分使い切っとけ。明日にはタオルも乾いてんだろ」

  「あ、おい!」

  フリッドの静止の声も聞かず、狼は奥へと逃げていった。フリッドは何も言い返せず、ただ狼の背を見送るだけだ。

  二人の会話はだいたいこうして終わる。フリッドがいくら話しかけようが、狼は心を開くことなく、逃げるように去っていく。

  内情を探られたくない。その気持ちは彼だって分からないでもない。誰だって何かを抱えながら生きているものだ。

  「……だからって、なあ」

  行き場をなくし、力なく階段にドカリと座り込む。

  しばらくは顔を合わせない方がいいだろう。こちらが気まずいというのもあるが、今追いかけてしまっても[[rb:悪戯 > いたずら]]に追いつめてしまう結果になるだろうから。だから、これでいい。間違っちゃいない。

  ……良いわけも、ないのだが。

  なかなか思うようにいかない。頭をボリボリ[[rb:掻 > か]]き[[rb:毟 > むし]]りながらフリッドは考え込む。何がいけないのだろうか、どうしてこうなってしまうのか。……自分に、いったい何が足りないのか。

  首に[[rb:提 > さ]]げたドッグタグをなんとなしに手に取り、刻まれた文字をなぞる。

  これの本来の持ち主なら、もっと上手くやれたのだろうか。何百回、何千回と繰り返した自問自答。[[rb:癖 > くせ]]になってしまったそれは、答えの出ないままフリッドを苦しめる。

  『おまえの笑顔はムテキなんだ! 大丈夫! わらってりゃ大抵、何とかなるさ!』

  「……えがお、か。ハハ」

  人は助け合って生きてゆくものだ。うつむいて歩いていたら転びはしない、けどチャンスは永遠とみつけられないぞ──

  教えてくれたのはほとんど精神論。日々の生活で役立つことは全く教わらなかった。

  けれど、不思議となんとかなったし、一緒にいて楽しいヒトだった。人徳というやつにも、きっと恵まれていたのだろう。

  

  今はどうだろう。ちゃんと笑えているだろうか。

  人差し指で口先を吊り上げ、笑顔を作ってみる。もしこの場に鏡があったなら、彼は自身のあまりの不恰好さに思わず噴き出したかもしれない。お世辞にも彼が思い描く笑顔とは程遠い、少しこわばった顔がそこにはあった。

  ……馬鹿らしいな、こんなことをしても何か変わるわけでもないのに。

  緩くかぶりを振り、[[rb:鬱憤 > うっぷん]]とした気分を振りはらう。

  今からでも雨に打たれてこようか。こんな満足に笑う事すらできない、どうしようもない俺なんて、

  雨水と一緒に、何処かへ押し流されてしまえばいいのに。

  [newpage]

  (雨足、つよくなってきたな)

  膝を抱え、毛布にすっぽりくるまっていた狼が顔を上げる。窓を打ち付ける雨音が、彼だけの空間を満たしていた。

  手元にあるオルゴールもこうなっては意味がない。音を記録する[[rb:媒体 > ばいたい]]ならもっと優秀なものはいくらでもあるだろう。電気などの動力をいつでも使えるなら、という条件なら。

  その点でいえばオルゴールはとても優秀だ。手動とはいえ、ここまで色あせることなく音楽を奏でる道具はなかなかない。廃墟群で暮らしている狼にとって最大の強みだ。

  ただまあ、今は雨音にかき消されて良く聴けないのだが。

  毛布を肩までおろし、窓から鳴り響く音色に耳を傾ける。

  雨は嫌いではない。むしろ好きな方だ。不規則にガラスをたたく音はヒトの声を聞くより心地がいい。ヒトの声を聞くのは、その裏にある意味をどうしても探ってしまうから。

  オルゴールだってそうだ。金属をはじく音は透き通っていて、たったワンフレーズでも別のセカイにいざなってくれる。嫌なものが多いこのセカイを忘れさせてくれる。

  いつも辛いことがあった時、狼は決まってオルゴールのねじを回してきた。

  同じことを、繰り返してきた。何度も、なんども。

  (それでよかった。それだけで、生きてこれた。……そのはず、だったのに)

  多くを望まなければ、ほんの少しの希望だけを携えていられれば、一人でも十分に生きてこれた。不自由ではあれど、そこまで不満でもない。すべてを忘れてしまえる、この時間さえあれば何だってできた。

  あの日、虎の男──フリッドにあうまでは。

  狼がフリッドに出会ったのは、今よりもひどい嵐の夜だった。

  横殴りの雨が激しく、外に出ようものならどこか遠く吹き飛ばされてしまいそうな、そんな夜。

  丁度今と同じ体制で明日の予定を考えつつ、やんわりともたれかかってくる[[rb:睡魔 > すいま]]に身を任せていた。うつろげな思考にふと、バシャバシャと誰かの駆ける音が耳からすうーっとはいってくる。

  こんな時に外にいるだなんて、全くとんだキチガイだ。追われているのか、それともこの嵐で居座っていた建物が[[rb:倒壊 > とうかい]]したか。相手が気狂いでなければそこいらが理由だろう。

  まあ、これも何かの縁だ。放っておいてしまったら寝覚めが悪い。一時だけでも[[rb:此方 > こちら]]へ招いてやるとしよう。

  ──そんな気まぐれが、直後、後悔に塗り替わることなど思いもせずに。

  眠りまなこを擦りながら建物の入り口付近まで近づいたとき、その異変に気付く。

  こんな嵐だろうが正常に機能する[[rb:嗅覚 > きゅうかく]]。[[rb:鼻腔 > びこう]]を貫く、焦げた何かとそれに混じる鉄さびのニオイ。

  憶えがある。この、嫌な予感は。身体の熱が耳先から下へどんどん下がっていく、この感覚は。

  

  毛布を投げ捨て、外へ駆けだした。目を凝らして駆け足が鳴る方を探す。

  ……いた。この豪雨の中、迷彩柄の服を着た軍人風の男が息を切らしながら遠くの方を走っている。

  一瞬、男の姿に狼は動揺しつつも、ぐっとこらえると迷いを断つように手をメガホン代わりにして叫ぶ。

  『おい! こっちだ、こっちにこい!!』

  雨音に紛れそうなその声は、はたして彼に届いたのだろう。[[rb:体勢 > たいせい]]を狼のいる建物へ向け、一目散にかけてきた。

  到着と同時に、彼は地面へとくず落ちた。むわりと漂う異臭が辺りに立ち込める。胃の中のものが暴れ狂い、思わず逆流しそうになるのを狼はとっさに自身の口を手で押さえつけた。

  駆け込んできた男は、見るも無残な姿だった。

  温かな黄金色に黒の[[rb:縞模様 > しまもよう]]が映えるはずのその毛並みは、所々引き裂かれ、真っ黒に焼かれた肉肌を[[rb:覗 > のぞ]]かせていた。片耳は千切れ落ち、両目はつぶれてその機能を果たしていない。此処まで真っ直ぐ走ってこれたのは[[rb:執念 > しゅうねん]]か、それとも奇跡か。いずれにしろ[[rb:尋常 > じんじょう]]ではない。

  彼が受けている負傷で一番ひどいのは胴体だろう。腹部を斜めに[[rb:抉 > えぐ]]られており、そこに収められていたはずの内臓は引きちぎられたのだろう、ゴッソリ無くなっていた。

  もう助からない。医療機関が機能しない、そうでなくともこの状態で今だ息があるのが不思議なくらいだ。誰もが絶望し、もう長くはないと延命措置すら諦める。

  狼が出来る事はあまりない。[[rb:精々 > せいぜい]]が小刻みに震える虎に先ほど脱ぎ捨てた毛布を掛けてやることぐらいだ。

  (誰かが死ぬ瞬間は見慣れたつもりでいた。[[rb:廃墟群 > ここ]]で暮らすってことはそういう事なんだって、知ってる気でいた。

  それでもアイツを直視するのは……キツかった。純粋に怖いって、おもった)

  情けは人の為ならず。昔、そういった詩を書いた人がいたと、狼は教わったことがある。他人の為でなく、己の[[rb:慰 > なぐさ]]めの為。たとえ無駄だったとしても誰かを大切に思う事、誰かに思われていたことを忘れないでね、と。

  彼が今までの人生の中で会った、数少ない恩人の教え。このどうしようもないセカイで生き抜く術を、生きてやろうと思わせてくれた、大切なヒト。

  死に[[rb:逝 > ゆ]]く虎を面前に、狼はふとそんなことを思い出した。

  せめて最期に、望むことを。例え叶わずとも、聞くだけならできるはず。

  『なんかやり残したこと、あるか?』

  その問いかけに、虎は息も絶え絶えに、小さく呟く。

  『ソラの向こうに、行きたい』と。

  そうして彼はその言葉を最後に、静かに息を引き取った。

  ずっと震えていた背中は、もう苦痛を背負うこともないだろう。ゆっくりと、なだめるように彼の背をなで、狼は願う。

  せめて安らかに。祈りし神がこの世を見捨てたもうとも、かの[[rb:魂 > たましい]]が逝きたい場所へたどり着けるように。

  ……もういいだろうか。不作法ながらも一時の間祈り続けた狼は、やるせない気持ちを抱えながらも立ち上がる。そして、これ以上長居しても仕方ないと[[rb:踵 > きびす]]を返そうとした──そのときだ。

  もぞり。虎が動いた、気がした。

  ……幻覚、だろうか。己に都合の良い妄想を見てしまうくらいショックだった、とか? まさか。

  目頭を押さえ、二三瞬かせたのち、狼はもう一度彼の[[rb:亡骸 > なきがら]]を確認する。……幻覚じゃ、ない。本当に、こちらが気を付けてみないとわからないくらい、かすかに動いている。

  そんなはずがない。ありえない。ちゃんと看取ったはずだ、馬鹿げている。

  でも、目の前で起こっていることにどう説明を付ければいい? 死んだ獣人が動き出すという、ありえない状況を。

  『ぅ……ぁ……』

  虎の口から声が[[rb:漏 > も]]れる。狼の心情なぞお構いなしに、かすかだったその動きは、もぞもぞと、ガクガクと、次第に激しさを増していく。

  

  『あ、ガ……ッ』

  毛布が乱雑に振り払われる。潰されて、もうそこにないはずの眼球がまぶたの裏で暴れ狂っている。喉をボリボリと掻き毟り、爪の先を血で赤く染め上げる。じたばたと脚をばたつかせ、苦しそうにもがく。

  狼は繰り広げられる[[rb:惨状 > さんじょう]]に動けずにいた。一目散に逃げ出してしまえばいいのに、足が地面にへばりついたかのようにいうことをきかない。顔をそむけてしまえばいいのに、がっしりとホールドされたかのように動かない。

  虎の瞳がこれでもかと見開かれる。彼から発せられた[[rb:咆哮 > ほうこう]]が、空気ごと裂かんと辺り一面を襲った。

  『……っグガァアああアァッッ!!』

  虎が上体を天へとのけ反らせる。腹から管がうねりを上げながら踊り狂う。ミチミチと音をたて、切り裂かれた肉が、筋肉の繊維の一本一本がつなぎ合わされていく。身体をそらし、声を痛々しく荒げるたびに、失われた器官が生成され、彼のカラダに次々と収まっていく。

  それはヒトに伝えようものならあまりにも筆舌に尽くしがたい、[[rb:壮絶 > そうぜつ]]な光景だった。おおよそ生き物がしてはいけないものだ。[[rb:摂理 > せつり]]に反する光景だ。

  すでに狼は彼を“同じもの”としてみていない。

  よりおぞましい、より[[rb:醜悪 > しゅうあく]]なナニかだ。身体の構造が似ているだけの、得体のしれない、生き物と認めてはいけないナニか。

  その日、狼は地獄を見た。ナニモノかの産声を、聞いた。……死にたくても、死ねないナニモノかの、絶望を垣間見た。

  ([[rb:遇 > あ]]わなければよかった。同情なんてしなければよかった。情けなんてかけずに、知らん顔して夜を越せばよかった。

  ……あんな、生き物を否定する何かを。生きることを否定する何かを……知りたくなかった)

  あの日の光景を思い出し、狼が頭を抱えてうずくまる。

  あれから月日が経ったものの、いまだ虎獣人──フリッドを見るたびに、あの[[rb:凄惨 > せいさん]]さがフラッシュバックとして襲い掛かってくる。

  何度[[rb:嘔吐 > おうと]]感に[[rb:苛 > さいな]]まれたことか。能天気に話しかけ、おどけるあの男を前に、何度ぶちまけそうになったことか。眉間にしわを寄せ、[[rb:堪 > こら]]えるだけでも精いっぱいだ。

  問題はまだある。彼、フリッドはどうも狼の目の前で蘇ったことを憶えていないらしい。どころか、死の間際から救ってくれた恩人だと思っているようだ。

  どれだけ無下にしようが、どれだけ冷たくあしらおうが無駄なこと。雛が親元を離れないようにフリッドもぴったりとついてくる。

  そんな日々に狼の不満は募っていき、精神的な限界を感じ始めた彼はフリッドにある手段をとった。“誓約”だ。

  (モノは捉えよう、ハサミは使いよう。

  ……要するに労働力を得たと考えればいい。一人でできる事にも限度がある。幸いヤツは俺より力があるし、全くのポンコツってわけじゃない。

  不死身だってんならそこいらを探索させて使えるモン持ってきてもらえばいいんだ)

  半ば脅しで一方的に取り付けた。ちゃんと紙も用意し、[[rb:血判 > けっぱん]]も押させた。……文字の読み書きが全くできないと知り、別の意味で頭が痛くなったが。

  そうして一応の折り目として決めた誓約だったが、狼の中ではいまだに迷っている。

  見た目だけは普通の虎獣人であるフリッドにどう接すればいいのか。いつか、別れるときに後腐れなくいなくなれるのか。

  あの日聴いた、「ソラの向こう」とはどういう意味だったのか。

  (一旦考えたら終わんないの、癖だよなぁ。すべてに意味を見出す必要ないのに)

  手元のオルゴールを胸に抱き寄せ、何回も繰り返し聞いたメロディーを思い出す。

  こことは違うセカイ、レンガの道の果てにある、願いをかなえてくれる魔法の国。在りはしない偽りの都。

  フリッドにとっての幸せは、願いは、「ソラの向こう」に本当にあるのだろうか。

  止まない雨音に耳を傾け、もう何も考えたくないと狼はまぶたを固く閉じた。