おおさかみたりな(1)

  このあたりに狼が棲み着いたという噂は、生徒たちの間では極秘事項にすべしと、

  暗黙のうちに了解が交わされていた。

  つまり、何という事もない。

  もうほとんどの生徒が、その件について認知しているという話であった。

  そもそも、その話の真偽からして疑わしいのだから、箝口令の効果とてたかが知れていた。

  確かに付近の動物園から狼が逃げ出したのも、ために通学路上での要注意が呼びかけられているのも事実である。

  けれど、いくら肉食獣とはいえ、こんな町中からすぐそこの森に住み着くなど考えにくいし、それならそれで、それらしい被害やら報告やらが無ければおかしいはずだ。

  噂のせいで、野次馬根性丸出しの悪ガキどもが、連日森におしかけ騒ぎ散らした結果、得た収穫が、近所に住むスイス系イラン人の老貴婦人が散歩する子ブタのフンと、その後の全校集会での狼注意以上の厳重注意である点からも、取るに足らない噂でしかないと言っていいだろう。

  出会ったのは、そう結論づけ、騒動に見切りをつけた矢先だった。

  縁を思うならば、ともにはぐれものなる故か。

  因果を問うならば、魔がさしてヒーシの口を覗き込んだ報いであると。

  

  「……うん。でかいな」

  

  サイズは大型犬のそれであるが、手足が妙にごついので迫力はそれ以上で。

  毛並みは首輪もないくせに、ほとんど白の灰色が、どっかのお嬢様並みに艶やかで。

  向けられる視線から何かを読み取る事はできないけれど、全体的に鋭い印象なのに、その実割と大人しくて人恋しげな様子からは、なんだか親近感を覚えるといえば傲慢だろうか。

  ともあれ、落ち着くためにも、余裕を取り繕うべく、私はブロンドの髪をかき上げ翡翠の視線を返してみた。

  

  「君、もしかして、、、、、、犬?」

  

  どうも。

  下校途中に狼に出会わすというのは、大阪在住フィンランド人女子高生をもってしても、尋常なる思考を喪失させる出来事だったらしい。

  対するその正体不明の生き物は、度重なる人間側からの発声にもなんら反応を示すことなく、ただじっと、此方を見やるのみであった。

  

  

  【三週間前】

  

  朝。

  天窓は真っ青になって、直射日光のそれではない優しげな光を部屋に落とす。

  近く鳴き交わすは野鳥の声、遠く公道を行き交うは自動車の駆動音。

  さらに遠くから高速道路の波の様な断続的なくぐもり。

  もっともっと遠くから空を行く飛行機の音。

  さほど都会と言う趣でなくとも、二府が一なる街ともなれば、流石に喧騒とは無縁ではいられない。

  けれど、この部屋の住人は気にすることもない。

  静寂にこだわるでもなく、むしろ時間とともに変わりゆく音を楽しむくらいでいた。

  

  そんな風情或いは余裕というものを持ち合わせた、部屋の主なる少女は、朝の支度をあらかた終えて

  等身大の鏡の前で身だしなみの最終チェックに入っている。

  

  鏡に映るのは、輝くような美貌の金髪の少女。

  完全な地毛であるのは、切れ長の目の中、宝石みたいな緑の瞳から察せられる。

  少女が軽く髪をかきあげると、絹のように柔らかく滑らかな感触とともに、毛の一本一本が朝日を受けて輝き踊る。

  セーラー服の首筋からのぞく、みずみずしさを湛えた肌は、北欧出身者特有の浮世離れした白さであり、静謐な朝の空気と光のなかでは、調和を通り越して、どこかそら恐ろしくさえあった。

  髪のチェックを終えると、少女は身をひねって全身に視線をやる。

  すらりと長くのびた、けれど痩せた印象は一切与えない脚線から、良く発育してセーラー服を押し上げる胸元まで、一個の芸術品――その中でもさらに、神域の芸術家が生涯をかけて作り上げた唯一無二の代表作――めいた均整を湛えた肢体が、鏡の中にあった。

  オーバーニーソに包まれた脚も、ともすれば綺麗なくびれやお腹が、裾から見えそうな程に制服を押し上げる胸も、肉感的で、艶姿と形容し得るものであるが、同時に四肢も身も、程良く引き締まっていて、何より自身を眺める動きの中にある、溌剌とした活力の漲りからは、少女を通り越して少年らしくさえある健康的な魅力があった。

  柔軟運動じみた確認作業を終え、(その間中、セーラー服の裾から、白くなだらかなお腹に一筋刻まれたへそがチラチラ覗いていた。)再びまっすぐ自分と向き合った少女は、満足げに笑う。

  髪や体同様、端正な顔立ちは、悪戯っぽい笑みで親近感を増す。

  すっと通った鼻筋や、サッとひと筆で描かれたような柳眉。

  切れ長の目だが、その中の瞳には柔和で落ち着いた光が湛えられ、決してキツい印象を与えない。

  特に化粧などしているわけではないが、野苺のように照り輝く唇は、ほっとりと柔らかそうで、ニッと弓なりに軽い曲線を描くことで、その存在がより強調されている。

  少女は鏡の自分に向かって口を開く。

  

  「うんっ。決まってるで。バッチシやで自分。今日も綺麗やわぁ。可愛いわぁ♪」

  

  そう私は鏡の自分に向かって自讃を浴びせる。

  

  鏡の中では流石に言いすぎだと、自分が照れ笑いを漏らしている。

  まあ当然の事実ではあるものの、口に出して言うようなことでもないだろうと。

  そんな良識の声は、『冗談通じへんやっちゃなぁ』という。

  昨日今日でようやく春じみた空気が流れはじめた故の浮つきに、窘められていた。

  用意は全て終えている。

  洗髪洗顔良し、髪のケア、肌のケア良し。

  朝食良し、学校の準備良し。

  その他――

  

  部屋の扉がひとりでに開く――ではなく、

  

  「オカぁん、じゅんび、オケかぁ?」

  

  まだまだ舌ったらずな私の〝娘〟が、身の丈に合わない高校のバッグを引きずりながら入ってきた。

  どうやら待ちきれず二階まで上がってきたらしい。

  ふわふわのブロンドに、パッチリした大きな瞳と、どう見ても母親譲りのかわいらしい幼児が、えっちらおっちらとこちらに向かってくる。

  そのけなげな姿に、思わず胸がキュンとなって

  

  「ああっ。もう可愛いわぁ♪世界で一番可愛い子やでぇっ」

  「わぷっ」

  

  ついつい抱きしめてしまったり。私の胸にうずもれた頭から、『オカぁん、くるしい、おくれるでぇ』なんて声がするが、とりあえず充電完了までホールドを解く気はなかった。

  

  ◇

  

  「それじゃあ、今日はオトンがアイナのお迎えでええ?」

  「ああ。今日は早く終わリそうなんでナ。君も高校いろいろ忙しいヤロ?」

  「そんな事あらへんよぉ。ウチなら、いつでもお迎えオッケーやでぇ」

  「やでぇ」

  

  玄関まで下りて、仕事用の服に着替えていた愛する旦那に、行ってきますの挨拶をする。

  通学中に幼稚園まで送るので、娘のアイナは脇で私の手をつないで、出発を待っている。

  比較的事務的な会話であっても折を見て相槌を打ってくれるのが、何ともいじましくも愛らしい。本当にうちの子は天使と言っていいだろう。

  

  「そンな事言わへんと。学生の本分は勉学やねンから、行くからには疎かにしたラいかん。それにクラスの子との付き合いもあるやロ?」

  

  言葉の端々に訛りが垣間見える夫は、そういって窘めてくる。

  ただでさえ注目されやすい、外人の高校生活を気遣っての言葉であると

  わかってはいたが、こちらはこちらで、なにやら釈然としない気がしたので、態度に表す事とする。

  

  「アイナぁ。お父さんな、もうお母さんのこと邪魔になったんやって。学校行ったままでええって。寂しいなぁ」

  「あかんなあ。きっとわるいおんなにひっかかったんやで。なんにもあらへんのに、オトぉんがオカぁんに、そんなこというはずあらへんもん」

  どうでもいいが、この子には『お母さん、お父さん』と呼ばせようと仕向けたのだが、結局『オトン、オカン』で定着しそうである。

  普段の自分たちの会話でそう呼んでいるので、自業自得ではあるのだが。

  ともあれ、どこで『悪い女』などという言葉を覚えたのが知らないが、娘の答えに乗っかってみる。

  「そんなっ…!――ウチら、捨てられてまうん?」

  と。不安げな表情と声音で。目は笑っているのでバレバレであるが。

  「あのなァ。冗談でもそんな事いうたらあかンで」

  夫はあきれ顔で言うが

  「でもっ…!万が一ってこともあるやん。証拠、見せてくれへんと、ウチ…不安で不安で、夜も眠れへん…!」

  アカデミー賞主演女優賞ゲットだぜ。といつかテレビでみた言い回しで、心中で喝采してみる。

  脇ではアイナが『ゲットだぜ!』と言っているがエスパーかお前は。などそのポテンシャルに末恐ろしさを覚えて見たり。

  まあ、本当の所はラジー賞かもしれないのが悲しいところではあるが、夫は、はいはい吉本新喜劇吉本新喜劇、とため息をつき。

  

  「証拠なんて、幾らでも見せたる」

  

  髪の房の内側。

  頬に、大きな力強い手が添えられる。

  ゆっくりと目を閉じて、唇から伝わる幸福感を体に満たす。

  甘いしびれに、身を任せ。

  頭のてっぺんから足の先まで、満たされ、それから少し、時間を経てから目を開く。

  

  目の前には夫の真摯な顔。

  うるんだ瞳を、彼の精悍な顔つきに向け、小さく。

  

  「この先も…なぁ?うちら、夫婦やん……」

  

  かぶりを振って、答えが返される。

  いたわるような眼差しであったが、口元だけは厳しかった。

  

  「君が決めたコトや。それだけは破ったらあかン。大人に……僕と君が出会った歳になったらや」

  

  何も言えない。

  彼の言葉には間違いも嘘もない。

  それ以上でも以下でもなく、彼の言葉通り。その先は、大人に。彼が私と出会った歳――18歳になるまではしないと。

  そう決めた約束だった。

  日本の、大阪の、この街で暮らしていくための、私たちだけのルールであり、マナーであった。

  

  [newpage]

  

  ◇

  

  なれそめを語るならば、紙幅が十倍は必要だろう。

  もちろん簡潔に済ますことも無理ではないが、そこにまつわる想いがなければ、やはり不十分であり、必要最低限には、原稿用紙1万枚あろうと足りるものではない。

  なので、以下はあくまで言葉を切り詰めた不完全な情報でしかなく、鵜呑みにされては困ると付け加えた上で、手短に語るものでしかない。

  その日、私たちが住む地方を襲った直下型地震。数十年ぶりの都市型巨大地震は、明けがたの発生という事も重なり、未曽有の死者、歴史的な被害を出した。

  私は、その不運な方の住人に。同時に幸運な方の被災者となった。

  まだ幼い私は瓦礫に埋まり、遠からぬうちに震災で命を落とした人の列に加わるはずであった。

  その運命から救い出してくれたのが今の夫である。

  彼は、まるでドラマのヒーローのように、幼い少女(わたし)の命を救ってくれた。けれど、古来より英雄には苦悩がついてまわるのがセオリーだ。

  そういう意味でも彼は、英雄的な人間だったのだろう。

  甚大なる被害を前にして、彼は、救いきれぬ命に、過去の記憶にさいなまれていた。

  幼い私。自身ですら抑えきれぬ苛烈なる性分を秘めた私。

  そんな少女が、ものの判らないなりに恩返しを望んだ結果、行われたのは、一般的な倫理からすればあまりに歪な手段による癒しであり。

  それを起点として在るのが、私の家庭であった。

  

  11歳という、社会的にも。そして多分、生物的にもあまりに早い出産。

  体の上での負担は大きく、それ以上に社会的な不安は尋常ならざるものがあった。

  それでも私の運勢は、彼に救われたことで、大きく上昇方向に傾いていたらしい。

  家族や知己。彼等の非常なる理解と助力のもと、その際に得た命は、大過なく育ち今や立派な幼稚園児であった。

  けれど。

  生まれ出でた命が、健やかに育つからと云って、その母体にさしたる不便がないなど、道理に合うはずがない。

  11歳で出産を経験した子供には、そもそもまともな育児はおろか、義務教育の遂行さえ難しかった。

  先に述べた親族の助力のもと、表向きは問題なく行われた育児も、私の学生生活の犠牲の上に成り立ったようなものである。

  小学校高学年から中学時代の私の荒れようは、ここに書くことさえ憚られる。

  まあ、適当なグレた少女の図でも想像していただければ結構だ。

  時間の経過と、周囲の人間――殊に夫や中学校の人々の助力のもと、最終学年になるころには、何とかまともな道、まともな物の考え方へと軌道修正できたことを語るだけで十分だろう。

  ともあれ、義務教育など要らない。娘と夫のために身命を投げ打ち、それ以外はすべて無価値だと粋がっていた少女は、人生に答えを出すのは、女子高生と母親を兼任してみてからでもまあ遅くはないだろう。と。

  そう思えるくらいには、成長していた。

  そう思えるように、諭してくれた人たちには、感謝してもしきれない。

  おかげで、外人で、十代の母親である私は、そんな事実を打ち明けてもなお、受け入れてくれる、できたクラスメイトや教師に恵まれて、今では、普通の女子高生のまねごとくらいはできるようになっていた。

  望外の幸福である。

  育児も家事も問題なく行えていることも。

  学業だけでなく、女友達とのありふれた遊びや、くだらない部活でさえ、上手くいっていることも。

  たまに幸せすぎて、自分が何者か、忘れそうになる。

  けれど――

  

  「――せやから調子乗ってんねん。ちやほやされて、ほんま胸糞悪いで」

  「なんやねん。子持ち?十代で妊娠とか有りえへんわ」

  「知ってる?アイツ二上とも付き合うてるねんて」

  「趣味悪っ。やっぱり外人はんは感性ちゃいますなあ。誰か聞いてみいひん?」

  「あかんあかん。アイツに告白した男らな、みんな後でボコされるらしいで」

  「裏でコレと繋がっとんねんな」

  「怖いわあ。ほんならマチさんの好きな人も危ないやん?」

  「なにを…そんなん噂やん」

  「噂かどうかなんて関係あらへん。外人はうちらと違うて先手必勝がモットーや。『疑わしき』はって言う奴やで」

  「ほんま怖いわぁ。っていうか、ウチらもここでこんな風な事が言ってるのがばれたら」

  「あかんなあ。自由にものも言えへんやん…」

  「それにしてもマチさんもかわいそうやわあ。委縮してるうちにもう卒業て…」

  「ええよ。皆のせいとちゃうんやから……」

  「ほんま心広いなあ。マチさん。ええ子や。奥ゆかしいわあ。まあ、こんなん外人にはわからへんけどな」

  

  休み時間。どこからか、そんな敵意が聞こえてきた。

  一言残らず聴きとれた、というのは、あちらがこちらに聞えるように言っているためだろう。

  視界の端で、その女子グループが頬を指でなぞって、ヤクザを示すジェスチャーをしているのをとらえながら、私は溜息をつく。

  

  「ヤクザっちゃうか、軍人やねんけどなあ」

  

  その言葉で、友人たちはこちらに気遣って言及せずにいたのを止めにした。

  

  「関係あらへんって。ヤクザも軍人も、あいつらにとっては同じやで」

  と、夕陽。

  「竹内さん、荒れてるねえ。―――ところで、アホネンさん、二上くんと付き合っ「はああああああああああああ!!!!!!?」

  

  夕陽さんの話の穂を継いだ東京弁が、藤さん。

  ぶち壊したのがレズの鴎。

  

  「ちょ、ちょ、、、二上と付き合ってるって、アンタ!

  いつからそんなふしだらな子になったん!!お母さん許さへんよ!!」

  「「木津うっさい」」

  「な、なに綺麗にハモってんねん」

  

  私と夕陽とでぴしゃりとたしなめるが、そんな事はどこ吹く風と、鴎は主張する。

  どうも変な誤解が広まりつつあるようだ。

  私は今後の対応に頭を痛めながら、アホの鴎にもわかるように、懇切丁寧に説明してやることにした。

  

  「あんな?確かにうちは二上と同じ部活や。それは否定せん。

  気も合うから、外でもたまには遊んだりする。

  けどな、自己紹介の時に言うたよな?うちには愛する夫と娘がいるって。

  なのになんで他の男と付き合うねん。そんなん、オトンへの裏切りやん。

  アイツとはあくまで同じ部活の友達でしかないで。

  まあ男と女や。そういう誤解も解る。

  でも同じクラスで、うちの氏素性知ってる君らが噂に惑わされてどうすんねん」

  

  「旦那にオアズケされてる女がそないなこと言うても説得力ないでえ」

  「――ぬ…」

  

  私の否定に、即座に切り返してくる女友達。

  鴎の言葉には淀みがなく、事実を述べただけであるがそれ故に的を射た内容に、さしもの私も数瞬言いよどんでしまう。

  

  「そういえば、二上君はアホネンさんのこと好きなんだよね?」

  

  あいた空白に、藤さんが何気なく痛いことを口にする。

  夕陽の『ま、クラスの男子のほとんどがそうやけどな』というフォローもむなしく、鴎がかき消すように

  

  「ほら!ほらほらほら!やっぱそうやん!

  二上はアホネンのこと好き!しかも公言してるくらいアホネン狂い!

  まあそれだけならええよ?えーえ、いつものように『旦那イル』の一言でフった。それは知ってる。

  でもアンタ、結局同じ部活やん?っていうか二人して新設したやん?

  いやいや二人『だけ』で新設したで!

  しかも今、気が合うとか外で遊んでるとか言ったし!これもうあれやん!

  期待するなって方が無理やん?」

  「顔近いわアホ」

  「旦那に夜の方禁止されていろいろいろいろいろいろいろいろ

  ――イロッイロ!溜まっちゃってるアンタがな?!

  言いよって来て、まあ悪ない思とる男子と一緒!しかも相手はそれを公言してる!

  健康的な若い男女がそれで過ち犯さないなんて天地神明に誓っておかしいやん!自然の摂理と違うやん!

  これはもう遠からずくんずほぐれずしてつまり何が言いたいかというと私もそこに混ぜてくださいお願いします!」

  「息かかってる。――ちゅうかな、アイツはそんなんとちゃうで。そんなんちゃうから、ツルんどるだけやでー」

  「はい来た!『アイツだけは違う』いただきましたー!

  思ってないからね!男はそんな風には思ってないからねえ!

  だからそうなる前に私とだね」

  「せやな。アイツも機会があれば、言うてるから、私もちゃんと気をつけてはいる。

  一応うちもノンケやしな。

  でもな、そこらへんもお互い了解事項やねん。落されるならうちの旦那への愛もそれまでって話や。

  ―――まあ…落されへんけどな」

  「ぐぅっ!本題にさりげなくお断りが混ざってるぅ!」

  「サブリミナルっぽく語尾につけても無駄やで鴎ぇ」

  

  所構わず自身の変態性欲全開で迫る女友達()を私がかわすという、普段どおりのルーティンワークが終わった所で、まとめ役の夕陽が手を叩いた。

  

  「ともかく。竹内マチらが突然あらぬこと言いだしたんは問題や。

  アホネンがデリケートな家庭の事情抱えてるんは事実やねんから、

  今後変な噂が広がるようなら、先生に相談する言うことで」

  

  鴎の暴走に釘を刺して、話を先程のグループに戻す夕陽。

  さして効果的ではないうえ、事後処理的な消極性を感じさせる提案だったが、

  ここ一年以上、あの手の攻撃は僅かでも食らったことがないので、そこらへんが落とし所だろう。

  そんな、私と藤さんの了解を

  

  「あー、っちゅうかぁ。うちが解決しちゃってええ?」

  

  鴎が覆す。

  机に寝そべり髪を天板に広げ、手をあげている。

  予想外の言葉に目を丸くする私たちをよそに、のっそりと立ち上がった彼女は、無造作に女子グループへと歩み寄る。

  

  「え、ちょ、木津なにやってるん…」

  

  夕陽がやっとそう言うだけで、私も、藤さんも、状況を完全には飲み込めず、半ば呆けてその言行を見守っていた。

  鴎が近づくと、女子グループは身構えたが、リーダー格の竹内マチの言葉で、闖入者を受け入れる。

  二言三言、周囲の女子と言葉を交わした鴎は、そっと竹内に耳打ちする。

  

  直後、サッと血色を失い、ついでブルブルと震えだした竹内を後にして、彼女はこちらへ戻ってくる。

  『いやぁ、もうやめてぇ』とか『戻れなくなっちゃうよぉ…』とかいう台詞が聞こえたような聞こえなかったような。

  とりあえず、そこらへんの記憶は消去しておくこととした。

  

  「木津ぅ…なにしてんねん」

  

  呆れた夕陽が問う。

  鴎は『ちょっと、弱みを握るという行為を』とニヨニヨ笑うだけ。

  本当気になる所ではあるが、消去した記憶など私にはもう関係ない。

  とにもかくにも、竹内マチもあの様子では、昔懐かしい迫害は起こりそうにない。とりあえず胸をなでおろすこととした。

  

  「ま、礼は言っとくわ」

  「ホント!?じゃあね、式の日取りはね!」

  「あー、藤さん。今日ちょっと用事有るからマクド寄れへん。ごめんな。59円のやつ今日からやのに」

  「おぅふっ。華麗な無視とか燃えるやん」

  「アイナちゃんのお迎え?いつもお疲れだねえ」

  「ま、そんなとこやね」

  「しかしアイツら……アホネンの事はみんな受け入れてるんやから、言うだけ立場悪するだけやのに……

  聞えよがしに言うなんて、なんかあったんか?」

  「あれ?知らないの?竹内さん、失恋したんだって」

  「「「失恋?」」」

  

  藤さんがこともなげに言うが、私たちには寝耳に水もいいところであった。

  三人で綺麗にハモってしまったが、 主に女友達()的な意味で割と不覚だったかもしれない。

  

  「それがなんでアホネンに矛先むくねん」

  

  卑猥なサムズアップを送ってくる鴎に、カメムシを見るような視線を送る私の傍ら

  夕陽が三人の疑問を代弁する。

  

  「その相手がさ、昔アホネンさんに告白したんだって。ほら、覚えてる?大伴っていうんだけど――」

  「ああ、そんなんいたな。確か、大伴豊。

  ――告白する奴らの波に乗っただけで、想いも何もなかったんで印象薄いわ」

  「全校男子のほぼ半数から告白されてんのに、よう覚えてるなあ」

  「なるほど。失恋のショックから、アホネンを逆恨みかぁ…アンタほんま難儀やなぁ」

  

  口撃の理由に到った夕陽が、気の毒そうな顔をこちらに向ける。

  

  「しゃあない。しゃあない。

  もともとうちがこんなんやからな。

  変な目で見られたり、叩かれたりするときにそこ突かれるのはしゃあない。

  ま、オトンとくっついたんも、必要以上に注目されるのも元はと言えば、うちがあんまり綺麗なせいやねんけどな。

  ほんま美人は罪やで。うんうん。

  そのせいで一緒にいる君らに被害が及ぶのは心苦しいばかりや」

  

  そう、半ばおどけて友達に告げる。

  北欧系というだけでも、注目度が高く差がついてしまうというのに、その子が日本語を喋れて、しかもこれほどの美人であるのだ。

  それと、それに起因する物事は事実として受け止めなければならないだろう。

  事実として受け入れた上で、本来なら言うべき所ではないのだが、

  わざと口にすることでツッコミ待ちするあたり、自分自身かなり大阪じみてきたと思うのだが――

  

  「うんうん。ほんまええ娘や」

  「アホネンさん、辛いことがあったらなんでも言ってね?」

  「わざとおどけへんでも、うちがアンタのツッコミやで?」

  

  とりあえず、いい顔をしながら、こっそりうちの脚をニーソの上から撫でまわす手を跳ねのけつつ。

  

  「んーー…君らなんかリアクション間違えてへん?」

  「間違えてへん間違えてへん。ああ、ほんまええ子や。うちのお嫁さんにしたいでえ」

  

  などと、鴎ではなく夕陽がうちの頭を抱きしめて、言うものだから

  こちらとしても、言いようのない困惑した気分を抱える羽目になるのであった。

  [newpage]

  

  【三週間前】

  

  校門を出て、通学路とは反対方向に歩くこと四半刻。

  市街地の外へ外へと進んで行った先に、その木立はあった。

  森というには小さいし、林というのも何か違う。

  いっそ「木」とでも言ってやりたい規模だが、残念ながら、家屋数件分の空間に樹木が密集する場所を指すのに、「木」という日本語は用いない。

  なので「木立」という言葉をもってきて、とりあえずそう呼ぶこととしている。

  もう、随分と遠い記憶となったスオミのそれとは似ても似つかない、繁茂した下生えと、鬱蒼とした広葉樹の梢に閉ざされた空間。唯一の出入り口にも雑草が生い茂っていて、高温多湿な日本において尚蒸し暑いとされる大阪にあっては、夏場の光景など想像したくもない。

  だから、ここが噂の中心になったとて、遠巻きに覗き込む野次馬はいても、中まで入る物好きは(噂が噂というのもあるが)数えるほどであった。

  まだ噂が話題の中心を占めていた頃は、自分がその『物好き』になるなど思いもしなかった。

  けれど、なってみると存外に悪くないもので――

  

  「意外とこたえたわ。あんな風に言われるのは」

  

  木々に閉ざされた敷地。

  その内部は、外から見るのとは大きく様子を異にしていた。

  

  「まあ逆恨みって奴やな」

  

  外縁部の密集した木々を抜けた先には、思いがけず広々とした空間がある。

  まばらになった木々は、早春の午後のうららかな光を、優しく地へと撒いている。

  

  「やり場のない気持ちは分かるけど、その理由になんてされたない」

  

  その様は、外から見た姿とは真逆の、広々とした、清涼な印象を与えてくる。

  

  「でもな、気持ちが解るから、こっちも単純に怒ったりできへんていうか…」

  

  まどろっこしい話は面倒なので、率直に言うと

  その場所は、遠い故郷の森に、よく似ていた。

  疎らになった木々が、行儀よく並び回廊じみたものとなっている。

  控えめな足元の草はカーペットのようにも見える。

  視線を上にあげれば、梢が日光に綾模様を加え、丁度いい強さに調節してくれている。

  それがまるで水底から湖面を見上げるようで、ここには湖まであったのかと、ほんの少しハッとさせられたり。

  なにしろ外見とは大違いの、懐かしいばかりの空間であった。

  周辺部の木々が鬱陶しいため、視界は遮られているけど、外へ続く道をたどれば、すぐにでも生まれ故郷へ帰ることができるのだと。

  そんな気さえする場所だった。

  

  そうして、物好き故に手に入れた、思わぬ収穫物を味わいながら、言葉を切って一呼吸。

  目の前の物好き(どうるい)を見据えて言った。

  

  「夕陽の言うように、これ以上続いたとしても、まずは大人に相談するのが良識やと思う。

  逆に今日限り――失恋して腐ってたせいで、つい魔がさして、

  原因にするのにお誂え向きなウチを叩いただけなら…

  多分そこは、こっちが我慢すべきなんやろなあ。幸せに生きたいなら」

  

  

  ――この小さな楽園の先住者にして主である『ソイツ』は、今日もそこにいた。

  

  

  「しゃあない。結局ウチはそういう役回りや。どうしたって『ふしだらな女』や。否定はせん」

  

  『ソイツ』は、やや距離をあけて、佇んでいる。私の言葉に対する応えはない。

  

  「けど、最近はそうでもないなって。上手くやってけるなって思ってたから。

  厚かましくも、自分が普通の大阪の女の子みたいに感じてた……

  そこで、あんな風に言われて目を覚まされんねんもん……ちょっと、」

  

  応えは、ない。

  

  「あははは。ちょっとな、このタイミングは、やらしいわなあ。

  もっとこう、ツンケンしてる時にならともかく、何もこんな時に言わんでも。

  ウチが普通と違うって、ホンマのこと言わへんでもなあ」

  

  やはり応えはない。

  私の生まれ故郷に似た箱庭の、先住なる獣は、飽くまでそっけなかった。

  

  「ごめんなあ。湿っぽくなって。でも、聞いてくれて嬉しいで」

  

  私の話を聞いているのかいないのか。

  こちらが何を言おうと、どこ吹く風とそっぽを向いてばかりである。

  こちらが近寄れば、近づいた分だけ遠ざかり、常に一定の距離を保っている。

  それで心を許していないというのは判ったが、そのくせ立ち寄ると必ずそこにいて

  こちらが語るよしなしごとを、行儀よく聞き流しているあたり、どうも警戒されてるというわけでもないようだ。

  どこかで見た漫画では、動物の言葉がわかる女の子が、動物たちの言葉をピタリと通訳していたが

  さすがに超能力までは持ち合わせていない私では、かの主の心中までは伺い知れなかった。

  まあ、敵意はないだろう、程度の推察がせいぜい。

  殺意もないことを期待したいが、このサイズである。

  難しいか、とだけ思っておこう。

  

  「で、結局君はなんなん?」

  

  答えがないのを踏まえた上で問う。

  サイズ的には常識的な大型犬の範疇であっても、見る者が感じる迫力は倍以上であることは、ここで初めて会った時と変わらない。(あの時は噂に誘われてつい足を運んだ自分を、激しく恨んだものだった。)

  威圧感はあるのに、どこか気品を感じさせる涼しげな眼差しと立ち居振る舞いや、なにより印象的な、白色の毛並みなどは、同一個体がここに棲み続けているのだと雄弁に語っている。

  

  問題は、これが、なんという生き物なのかということ。

  

  噂の内容は至極単純で、「動物園を脱走した狼が、この木立周辺に逃げ込んだ」というものであった。

  狼が動物園から逃げ出し、まだ捕獲されていないのは事実である。

  この木立の近辺でそれらしい目撃情報があったのも、確認はとれている。

  

  「けどなあ…いや、でも狼って……」

  

  ありえへんやろ、こんな街中で。

  と、未だ事実を受け入れられない自分をごまかし――もとい、イヌ科の動物に、ある日森の中で出会ったからと言って、狼だと騒ぐのは、あまりに軽率ではないだろうかと、良識を口にする。

  とにかく、ただの犬だと確認して自分を安心――もとい、動物園から逃げたと思しき生き物を見つけた際の当然の作業として、 ピーピーガリガリうるさいダイアルアップ接続のインターネットで調べた、犬と狼の相違点を見ていくこととした。

  その前にもっとやることがあった気がするが、電話代がもったいないので――もとい、無視。

  

  「脚は――」

  

  狼の脚は、犬のそれと比べて後ろの方、胸の真下にあるとかなんとか。

  歩幅を大きくして速く走れるようにするためらしい。

  

  「……」

  

  比較対象がないのでよくわからない。

  胸の真下にあると言えばあるような気もするが、ないと言われても、そのまま頷いてしまうだろう。

  娘の幼馴染の家に犬がいたけど、細部まで思い出すとなるとどうしても記憶に霞がかかってしまう。

  

  「顔やな。顔見よか」

  

  脚は諦めて顔を見る事にする。

  狼は頭から鼻先まで一直線なのだが、犬はくぼんでいるらしい。

  臼歯の大きさが関係していて、エサの変化を示しているとか。

  

  「……」

  

  自然、視線が目の前の動物と交わることになるが、まるで反応がない。

  獣は人の視線を怖がると言うが、地面に腰をおろした姿勢のままじっと動かない。

  ただこちらを見据える眼光だけが、置物ではない事を語るのみであった。

  

  「えーっと、足跡ー足跡さんはー…」

  

  主の寛容により顔の構造の比較を許されはしたが、努力虚しく、やはり違いは判然としない。

  思いつきで調べ物などするべきではないと、そろそろ頭をもたげはじめた徒労感にため息をつきながら、最後の比較箇所に目をやる。

  足跡もまた狼と犬とを分ける特徴である、らしい。

  狼のそれは細長く、犬のものは丸っこい、そうなのだが、さきほどの経験からしても、正直言って見分けられる気がしなかった。

  

  「あしあとぉ…」

  

  そもそも、足跡自体が見つからない。

  地面に目を向けると、この時期にはそこらじゅうの森に敷き詰められている枯れ葉が見られず、代わりに指先ほどの長さの青草が伸びていた。

  蘖(ひこばえ)はひどく柔らかで、踏んでみてもすぐに元の形に戻ってしまい、足跡など残りそうもない。

  しばらく一昔前の探偵みたいに、地面に目を凝らしながら歩きまわる。

  時折視界に入る当事者はやはり何心とも解らない視線をこちらに向けている。

  

  「おっ」

  

  と、不意に狼(らしき生き物)が腰をあげて、その場から移動する。

  これ幸いと、彼(彼女?)のいた場所へ駆け寄る。

  はたしてそこに足跡はあった。青草を平らにして、その間からのぞく地面にくっきり四つ。

  爪と肉球の跡が、燃え立つ火の様な印となって記されている。

  与えられた思わぬ好機に、内心沸き立ちながらもじっと対象を注視。

  ニーソックスごしに膝に手をついて屈みこみ、すだれとなって視界を遮る髪を片手で押えつつ。

  自然と目に力が入る。外の公道を通る自動車の音が一つ。

  口もとも力み、むむっとなる。

  かがんで、出来るだけ顔を地面に近付けているが、この体勢だと胸が重力に引っ張られる。

  思考の邪魔というほどではないが、改めて自分は胸が大きいのだと、意味のない感想が浮かんだりする。

  

  熱いとも寒いとも感じない、風のない、ただ去りゆく年を惜しむ幻覚だけを孕んだ初春の空気があたりに満ちていた。

  観察を終えた私は身体を起こす。重力に従っていた髪が、さらさらと突き出た胸元に流れおちる。

  それらをかきあげ、自信を持って一言――

  

  「――うんっ。わからんっ」

  

  かきあげた髪は宙に踊り、ぬくい光を吸って輝くよう。

  そんな風に見えてたらいいなと、一人虚しく女性特有のキメポーズとも仕草ともつかない行為をとって、

  傍らの住人に視線をやる。

  

  ――動物はちょうど用を足し終え、脚をおろした所だった。

  その際、ちらりと自分と同じモノが見える。

  

  「なるほど。君、女の子やったんか」

  

  などとわけ知り顔で言ってみたものの、なんともしまらない気分であった。

  帰る前に最近80円から59円になったハンバーガーでも食べて気分転換をはかりたいところであったが、

  無駄な出費でジャンクフードを口にするより、娘の顔を見た方がよほど気持ちが切り替わる効果があると思い至り、却下する。

  最も、誰かが奢ってくれるというのならその限りではないが。

  

  「うわっ、なんやこれっ……」

  

  そう。

  たった今、自分の背後で声を挙げた、同じ部活のこの男なんかが、奢ってくれるというのならば、

  まあ首を縦に振らない事もないだろう。

  

  「もしかして―――ああ、いや、アレか。

  シベリアンハスキーとかいう昔流行ってたアレか」

  

  もっとも、値切りはあくまで公正に。

  双方納得づくで、いかにこちらが儲けるかが、この街の金勘定だと。

  私が大阪生活の中で得た理解である。

  

  

  ◇

  

  「どしたん?君こっちの方とちゃうやろ?家」

  

  背後を振り返ると、果たして思い描いていた声の主がそこにいた。

  私が通う学校の制服を着た男子。中肉中背であり、属性の塊のこちらと比べると、さして述べるところもない。

  髪を染めてるわけでも着崩してるわけでもなく、平凡な男子高校生と言えば事足りるだろう。

  強いて特徴を挙げるなら、多少垢ぬけた風で、線が細いと言ったところだろうか。

  これで変な東京弁を使うのでなければ、好きになる女子が一人か二人はいそうである。

  

  「そういう君こそ。

  そもそも、うちの生徒でここらへんを通る奴なんてまずいないだろう?」

  

  私の問いかけに気取った物言いで返してくる。

  以前、なんでそんな言葉づかいしてるん、と聞いたら、

  

  『だって、どんな文学作品だって文章は共通語で書くだろう?』

  

  とか抜かすのでそれ以来、そういうアホなのだと観念している。

  この男の中では紫文も近松の戯曲も現代の東京の言葉で書かれているらしい。

  

  「ふうん。それで、今日はうちのあとをつけてきた、と。

  あかん。親しくしとった同級生がストーカーに進化してまった。

  怖いわぁ。ほんま男は怖いわぁ」

  

  としらじらしく言うと、

  

  「ああ、ストーカーな、怖い怖い。でも今日はどこにもいなかったから心配せんでええで」

  「ストーカーらしい返答で大変よろしい。――こっち来んといて」

  「無理な注文だ。――それに実はスト検5級もってるしな」

  「スト2みたいになってるで。しかも5級て、低っ」

  「キャリア17年ですがいっこうに昇給しないことで安全性を主張しております」

  「男は度胸。あんまり昇給せんのも考えものやで」

  「なんで、そろそろ本気出そうとストってみた」

  「どうせダル○ムとか色モノやろ」

  「どちらかというどブ○ンカや」

  「結局色モノやん」

  「君もソニックブーム乱射に取り憑かれたと言うならば、わかるだろう…」

  「ガイルはヨガったりせえへん」

  「エロいな」

  「ガイルで?あかん。末期や。こっち来んといて」

  「ひと勝負すれば君も解るさ」

  「へえ。ほならあとでゲーセン行こか」

  

  などと、とりとめもない会話へとつながってしまうあたり、あまり認めたくないが、この男と私とは相性が良いのだろう。

  

  男――二上太志(ふたかみたいし)との付き合いも、もう年単位に及んでしまった。

  始まりは私が高校に入学したばかりの頃だ。

  秘密を持つから同級生と無意識に距離をとってしまうと考えた当時の私は、母親であることを隠すことなく高校生活を送ると決めていた。

  その他に、中学時代の経験から、無用な告白とその結果起こるトラブルをある程度抑える意味もあったのだが、入学当初しばらく続いた告白ラッシュを思えば焼け石に水だったような気もする。

  金髪の外人、しかも日本語ペラペラでとんでもない美人が、留学生ではなく同級生として入学するだけでも、長らく校内の話題を独占するだろうことは想像に難くなかった。

  加えて、その美少女が、一児の母だというのだ。もはや話題になるという次元を超えて、学生たちの理解を超えてしまったのだろう。

  本来なら野火のように速やかに伝わる筈の情報は十全に行き渡らず、私に告白した段階では、子持ちであることを知らない者や、聞いてはいたが半信半疑の者が大勢いた。

  その現実に、やはり自分の置かれている境遇は普通ではないのだと、軽く落ち込んだりもしたが、とりあえず何とか全てさばききった事は褒めてやってもいいと思う。

  とにかく、それからしばらくして、噂がどうやら事実であるとの認識が、学校全体に行き渡った頃には、告白してくる者の数も目に見えて減っていった。

  それでも、男子からの告白は完全になくなりはしなかった。

  時折思い出したかのように、彼等の友人や女友達に呼び出され、人気のない場所で想いを伝えられた。

  もう、皆が私には愛する人と娘がいるのだと知っているのに。

  そんな状況下での告白など、なんたる不埒なんたる不届きと、中学時代までの私ならば一顧だにせず親族の怖い人たちに後の処理を任せていただろう。

  実際、中学時代に、ただでさえ不安定な私を悩ませた少年たちは、そうして彼等の手にかかっている。

  だから、彼等の大抵が思いつめた表情をしていたことにも、それがかつて私が夫に向けていたのと同じ顔であったことも、当時はわからなかった。

  気持に余裕を持てたことで、初めて気付いた事実である。

  気付いたことで、彼等を許そうと思う事が出来た。

  少なくとも、告白するという行為自体は、許そうと。

  それは、かつての私に年齢の差という規範を、少年たちに他人の家庭を侵さないという倫理を、越えさせるだけの情念

  ――中学時代の恩師の言葉でいえば「やまとごころ」が働いた結果なのだ。

  罪だ非常識だといった言葉は、芽生えた心に基づく行動にこそかかるべきであり、湧きあがる心そのものに善悪はない。

  湧きおこった物は否定しようがないのだと。

  そう理解したことで、自然と、彼等と私が同じモノなのだと。同じモノならば、その心だけは尊重しようと思えるようになった。

  

  そうして、告白してきた少年たちを諭すように断ってきた私の選択は、どうやら正しかったらしい。

  私の高校生活は、中学時代と比べて目に見えてトラブルが減っていた。

  

  二上は、そんな『旦那がいると知りながら告白する男子』の一人に数えられなくもなかった。

  回りくどい表現をしたのは、そのままこの男の手段が回りくどいものであるためだ。

  初めて会話をしたのは、別の男子からの告白の直後。

  告白してきた男子には、彼を想う幼馴染の同級生があり、私に断られたその場で、二人は結ばれる運びとなった。

  男子の幼馴染が『偶然』告白の場に居合わせたのは、二上の差し金である。

  こうやって陰ながらサポートしつつ、距離を縮めていき、告白することなく振り向かせる作戦だと、二上自身が語っていた。

  もちろん、この男がどれほど聖人君子でも、色好みでも、私の旦那への愛は揺るがないのだから、よくそんな徒労に精を出す気になったものだと。

  その時は、そんな事を思い、呆れていたが、それからしばらくは二上が裏からサポートしてくれたおかげで、大分負担が減ったのも事実だった。

  私だけならば、人妻を口説く情熱は認めつつも、それを行為には移してはいけないと諭すくらいが精一杯だったが、初めて出会った時同様、この男は、少年たちをさらに一歩先へと進めていった。

  回りくどい手段やいさぎよく玉砕しない姿勢が示すように、捻くれた狡い男だというのに、不思議と関係が続いたのも、そんな二上の手腕に、知らずある種の敬意を抱いていたからかもしれない。

  そんな男と、趣味が合ってしまったのは、呪うべき不運か、或いは他生の縁というものなのか…

  

  

  「ともかく、ここしばらく部室に顔を出さないんで心配してたんだ。

  勿論うちの部に出席義務などないが、まあ、これでも君に惚れている身なのでね。

  たまたま校門を出たのを見かけたんで、あとをつけてみた。

  ストーカーと呼びたければ呼ぶがいい。無関心な男であるより、余程いい」

  

  

  二上の口調からは純粋な心配だけがうかがえる。

  こちらを見て話す視線からも、妙な事に巻き込まれたのではないと判った安堵ばかりが伝わってきた。

  傍らで、新たな登場人物にも動ぜず、じっと観察するだけの動物からは何もわからないというのに、

  この男については、付き合いが長いばかりに、私は知ってしまっている。

  斜に構えた言葉とは裏腹に、口ぶりや表情は本心に素直だったり。

  真面目に物を言う時は、こちらから視線を外さないことなどを。

  そこから二上の心がわかってしまう。

  だから、そんな相手から偽りのない心配を口にされれば、軽口とはいえ決まり悪くなってしまうわけで。

  

  

  「ごめんな。確かに一言言っとくべきだったかも知れへん。友達やもんな、うちら」

  「いや。心配なら普通に聞けば良かっただけだった。

  後をつけるのはやっぱり無しだ。親しき仲にも礼儀あり、だな」

  

  

  ごく自然に互いに謝罪を口にした。

  私も二上も、文学に興味があるという共通点があり、それが二人をつなぎとめていた。

  私は古典、二上は近代と相違はあったが、お互いに話が合った。

  女友達とも会話を楽しむが、それとはまた別の面白さ――正直に打ち明けてしまえば、この男の言う、私を振り向かせる、が、どんな結果に行きつくか。そんな興味があったのかもしれない――があった。

  そうしてしばらくの後、経緯は忘れたが、十余年前に廃部となり、その後の使用者が現れないまま放置されていた文学研究部の部室を、部を引き継ぐという形で譲り受け、私と二上は同じ部活の部員という間柄となった。

  以来、気が向くたび部室に行っては、日本に馴染むためと恩師の影響ではじめた歌を詠んだり、古典や現代文の勉強をしたり、作品を読んだり、くだらない話をしたりと、最低人数未満の部としてはそれなりに活発な活動を続けていた。

  部ができた当初は、すわ進展を許したかと、長い間忘れていた二上への警戒を思い出したが、その後はさしたる変化もなく、今日まで及んでしまっている。

  思えば、かつては日に一度宣言されていた『振り向かせる』という言葉も、聞かなくなって久しい。

  それどころか最近では、この男の態度を見るに、或いはと思う事も少なくない。

  ただ、口にすることをしないというだけで、現状はなんらの変化の兆しもなく。

  私と、二上との友人関係は続いていた。

  

  

  「――で。君の興味を引いた羨ましいハスキー犬が、彼か」

  

  そう、二上が純白の毛並みに顔を向ける。

  

  「彼女やで。あと狼かも知れへん。犬ちゃうかも知れへん」

  

  そう言いながら、慣れ親しんだ風に見せようと近寄って手を伸ばす。

  当然、いつものように素気なく距離を取られると思ったのだが、驚いたことに、狼(?)はじっとしたままその手を受け入れた。

  目を丸くする。二上に背を向けているのは幸いだった。

  恐る恐る撫でまわすと、見た目通りの品の良い手触りがする。

  柔らかではあっても、愛玩動物の様な、人に媚びた軟弱なものではない。その下の筋の張りを誇示する柔らかさは、高貴な印象そのままであった。

  

  「はっはっはっはっは!狼って!いくらなんでも短絡的すぎだろう。

  狼?あははははははははははは!」

  

  ひどく俗っぽい笑い声が後ろであがる。

  それで獣に感じた印象は、吹き飛ばされてしまった。

  

  「君だけがこの森に立ち入ってるわけじゃないんだ。

  ちゃんと土地所有者がいるんだから、本当に彼女が逃げ出した狼なら、

  すぐ動物園へ連絡が行って、それでおしまいさ。そう何度も君に顔を見せたりはしない」

  

  雰囲気を台無しにして憚らない男の無粋さに

  私の中で何かがカチンと音を立てた気がした。

  

  「ふーん。なるほどなあ。そうかあ。ワハハハハ」

  「そうとも。これは狼じゃなくて犬さ」

  

  まあ確かに二上の言う通りではある。

  というか、この男の言葉と同じような事をそのままズバリ私も考えていた。

  しかし、それがこの男の腹立たしい性質というのだろうか。

  同じような事を云って、それをさも自分固有の知識であるように、自慢げに語るものだから、

  先程の観察を経て私の中で揺れ動いていた、狼か犬かの判断は一気に狼側へと傾いてしまった。

  

  「いやーでも狼やと思うでー。だって自分、狼を間近で見たことないやん?

  素人が見ても犬か狼か判断できへんもんやでえ。

  ほんで狼がまさか自分の家の近くに、なんて思わへんやろ?

  ほならもう、この土地持ってる人も通報とかしたりせえへんやん」

  

  犬か狼か判別がつかないのも、まさか狼がいると思わないのも、自分の体験である。

  特に後者は万人が抱く考えなのか、二上も先程とは違い疑わしげな口調で返してきた。

  

  「だが…狼だって証拠も、ないだろう?」

  

  狼の頭をなでながら、ニヤリと笑ってハッタリをかます事にする。

  

  「いやいやウチには解るな。このそっけない感じは北欧産や。

  自分は自分、他人は他人、はフィンランドの人柄やで。

  北欧の犬はここらへんじゃ珍しいけど、北欧で狼は珍しくないからなあ」

  「そんなん。大阪だって自分は自分、他人は他人や。案外冷たいとこもあんねんで」

  「大阪の動物園で育ってんねん。大阪っぽくなるんは当たり前やん」

  「んー…そういうものなのか?」

  「そういうもんや。ともあれ最近はいろいろ男子には言えへん悩みとか聞いてもろたりしてるからな。

  お礼に生肉でもと思ってたんやけどなあ」

  「僕は出さんで。君の事や。自分で出しぃ」

  「解ってるて。でもお肉は高いし、この子もただここにおるだけやからなあ。いまいちふん切りつかへんねん」

  「そんなん、出す時はボンと出すもんや。躊躇ったらあかん」

  「……なるほど。躊躇ったらあかん、か」

  「と言いたいところだが僕は反対だ」

  「なんで」

  「生肉なんか食わせたら野性が目覚めてしまうだろう?」

  「犬とちゃうんかったん?」

  「え?あ、いや、い、犬でも野性はあるだろう?

  それよりドッグフードの方がいいな。肉より安くて量はあってお得だ。

  なにより狼ならばドッグフードは食べないから、いい証明になる」

  「証明に……なるん?狼もドッグフード食べるんちゃう?」

  「それは……………………けど安いやん」

  

  

  沈黙の後、友達が口にした言葉を受けて、顔を空に向ける。

  

  

  「確かに……………………安いわなぁ」

  

  もう日は傾いていて梢の綾目は、壁の様な周囲の木々に投影されていて。

  高い葉の茂りの狭間から覗く深まる青。そこを飛行機雲が一筋通っている。

  

  狼さんは始終無言で。ほんの一瞬尻尾がパタついたような気もしたが、気のせいだったかもしれない。

  

  それから、私と二上は帰路につき、駅前で59円バーガーを食べてから別れた。

  ハンバーガーは妙に存在感の薄い味だった。

  これだと値段と味の釣り合い以前に、10円の価値も感じられない。

  よってイマイチ。値段が少ない分傷が浅くて済むのだけが取り柄、という結論に二人して達した。

  支払いは完全なる割り勘であった。