◇
「おじさん、この箱で最後?」
「せやな。これで終わりや。ご苦労さんやったなぁ」
「かめへんかめへん。そもそも近くの親戚なんてうちらしかおらへんやん。こういう時に助け合わんと」
「言うようになったなぁ。俺もこの腰痛さえなかったら、手間かけさせんかったのに」
「歳ってことや。無理するなってサインやで」
「そうかなぁ。―――まあええわ。腹減ったやろ?そこで待っとき。今蓬莱の豚まん持ってくるで」
「へぇ、蓬莱の」
「来てくれるって聞いて急いで買いに行かせたんや。俊子、好きやったろ?」
「ツいてるなぁ。おおきにー♪」
「手伝ってくれたお礼やな。すぐ持ってくるさかい」
俊子の伯父はそう言うと六畳間を後にした。
辻堂の出入り口とは反対側の、奥の台所へと消えていく。
ほどなくすれば、餡がゴロゴロと肉厚でジューシーな肉まんを、今日の労働の対価として持ってきてくれることだろう。
普段は恐ろしいほどにケチな伯父だったが、このような場面では金に糸目をつけないので、俊子にとっては好きな部類に入る相手だった。
ただ甘いだけの親戚ではない。普段の吝嗇が、人付き合いの中に活かされている。
他県の人間の『大阪らしい』という物言いは好かない俊子であっても、伯父は『大阪らしく』映った。
「ああ、もうこんな時間か…」
肉体労働による疲労で呆としながら、さして意味のない呟きをもらす。
時刻は午後9:00。
期末テストも無事消化し、晴れ晴れとした気分で家に帰った彼女を迎えたアクシデント。
夕陽ヶ丘家の本籍地付近に居を構える伯父。
近々奈良へ引っ越す予定で、ここ最近ずっと準備を進めていたその人が、腰をやられてまともに動けなくなったという。
すでに祖父母は他界しており、弟である父よりずっと年が離れているために、夕陽ヶ丘家一同の心配もなみなみならぬものがあった。
仕事中の父や、周辺のフォローでかかりきりの母に代わって、俊子一人が呼び出され、引っ越しの残りを手伝うこととなった。
他の親戚は、本管の地から遠く離れた土地へ移り住んでおり、明日やってくる引っ越しの業者にはどうあっても間に合わなかった。
ただ、さほど遠くない土地に居を構えていた夕陽ヶ丘家の俊子だけが、呼び出されたのである。
「夕陽ヶ丘、ねえ」
顔をそらした視線の先には、薄闇の中、炯(けい)と光る閻魔の眼。
彼女の座る座敷の出入り口は二つ。
片面は住居へ続く廊下に面しており、もう片面は厳めしい閻魔像と、かの冥府の裁判官たる十王が安置されたお堂であった。
閻魔。
俊子のななめ上方10m弱の位置にあるのは、道教の泰山府君が日本に移入し、信仰を集めた末の姿であった。
本来の冥府の官吏としての性格以上に、地獄を司る神とも鬼ともつかぬ印象の方がこの国では強い。
同じく地獄の、こちらは救いの象徴たる地蔵菩薩とは、表裏をなすがごとく、閻魔は東日本。地蔵は西日本で信仰されている。
何故、西日本たる大阪に閻魔堂があるのか、俊子は知らなかった。
民俗学的に言えば、地蔵・閻魔ともに境界の神たる賽(さえ)の神としての性格を有する。
すなわち、境界に置かれあの世とこの世をつなぎ、さらには隔てるもの。
まだ、海辺を埋め立てるまでに文明が発達する以前。
このあたりは今よりももっと海に近く、彼岸の中日には、真西に日が沈み、人々はその先。
はるか西方十万億度の彼方を、日本で初めて建てられた寺院の東門から、観じたという。
その東門にまつわる、とある伝説上の人物を、彼女の家は祖としていた。
少なくとも、自称郷土史家の伯父はそう信じているようだった。
そもそも忘れられがちだが、大阪は、古都たる京都よりもはるかに歴史の古い土地である。
神話の時代、神武東征以降、幾度となく都が置かれ、奈良の地に宮城が置かれてからも、異国との窓口として機能してきた。
諸国、ひいては諸外国の使節は、この難波の港に足をつけ、その後竹内街道を通り奈良へと至ったのである。
大阪の人間の、人情に生きながらも、ある種の狷介さと厳しさを秘めた気質は、海に守られた日の本にありながら、常に諸国諸外国と付き合ってきた土地特有のものであった。
「本当かどうかなんて知らんけどな」
これらは全て伯父の言であり、俊子にとっては納得半分懐疑半分といったところであった。
そもそも彼女には、今後の進路やクラスの人間関係、自分や友人の悩みなんかが、人生の主要な問題であって、一文にもならないような祖先の話だとか学問じみた疑問に心を割く気にはなれなかった。
とはいえそれでも。
そんな伯父の語りを聞かされれば、なるほど坂の真ん中にある、お堂の前。
道路に立って、眼前に広がるビル群や高架を見ていると、はるか彼方。
見知らぬ外国の影が見えるような気がする。
その程度の感性は持ち合わせているのが、夕陽ヶ丘俊子という少女であった。
「ふぁぁあ…おじさん、遅いなあ」
などと呟いて時計を見るが、まだ先ほどから一分も経っていない。
どうやら自分の感覚の方が狂ってしまっているらしい。
多分疲労のせいだ。などと、普段の数割程度の稼働率の頭脳が答える。
そういえば、クラスの友人もここ最近は疲労しているようだった。
脈絡のない思考は、かように思いがけない方へと飛んだ。
さらには少女も遠い国から来たんだったな、と。さっきまでの伯父の話の回想も加わって、徐々にアホネンという少女の記憶が意識の表層へ浮かび上がってきた。
俊子が初めて少女を目にして抱いたのは、放っとけない、と言った感情だった。
よく考えてみれば、世話焼な自分が、フィンランド人の、それも子持ちという同級生を前にすれば、そんな気になるのも当然と言えば当然であった。けれど、それだけではないという心の声が無かったわけではない。
『笑っているのに笑っていない』
同じクラスの金髪に翡翠の瞳の少女に抱いた感想である。
穏やかに微笑む姿は、堂々たる落ち着きをまとい、見る者の険ある心をなだらかにした。
実際、普通ではない容姿と経歴にも関わらず、彼女はクラスに溶け込んでいた。
なのに俊子には、それが、強い拒絶であるように思えた。
『お前たちとは決して分かり合えない』
そう言われてでもいるかのような、笑顔。
少し考えて合点がいった。
なるほどその笑みは、見る者によっては、彼女の容姿と相まって、超然として酷く軽蔑されている様に感じたに違いない。
そして、そんな笑みを浮かべることが出来る異常と。
そんな笑みばかりが浮かぶ異常。
「別に、ウチが守らなあかん思ったわけやないけどな」
実際に話をしてみて、竹を割ったような、こだわりのない少女の性格は、俊子にとっても好ましかった。
守ってやるという義務感が先にあったのではなく。
たまたま好ましく感じた相手が、危うい面も持っていたというだけ。
早くも始まりかけていた少女を標的にした迫害を、あれこれ手をつくして緩め弱め、鎮めていった。
なんということもない。俊子のいつものお節介だった。
少女は大人びているかと思えば、時折突拍子もない言動をしたり、ごく常識的なことを知らなかったりと。
まるで俊子には手のかかる年子の妹のような印象を与えていた。
もっとも、外人なのだから多少非常識なのは当たり前なのだが、あまりにも饒舌な大阪弁に誰もが目の前の事実を忘れてしまっていたのだ。
そのへんのフォローも彼女の役目だったのだが、最近は別の生徒がその役割を担っている。
二上太志はアホネンとは別の意味で危うい男である。
と、本人は思いだがっているらしいが、俊子にしてみれば単なる意気地のない男であった。
そんな男とアホネンがつるむようになったのは、俊子にとってみれば、寝耳に水、というか。
いろいろと不安になる組み合わせであり、早晩解消されるかと思ったコンビであったが、未だにその関係は続いている。
少女自身の反応や、夫の存在などから、男女の関係でないのは確かであったが、それでも俊子としては釈然としないものがあった。
「あー、つまりやな。ウチがアホネンを見誤ってたって話やな」
そう、結論づけたところで、『いや』と思考が方向転換。
薄闇に光る閻魔さんへ向かって。
「むしろ、『知ってる』いう思い込みがあかんかったのかな?」
そう思うのも、故無いことではなかった。
二上太志とアホネンが行動を共にするようになったのと、少女が、少女らしい笑いを浮かべるようになったのは時期を同じにしていた。
それまでごく親しい友人だけが、わずかに目にしたことのある笑みを、憚ることなくするようになった。
決して見たことのない笑顔ではなかったが、どこか躊躇いを孕んでいた、その、躊躇いが少女から消えたのである。
誰であれ、少女の感情にかなうならば、パッと花咲くような明るい笑顔を、こだわりなく向けるようになっていったのだ。
おそらく、それを成したのは二上で。
こんなものだろうと、少女に対して一定の判断を下してやめてしまった俊子には成し得なかったことであった。
それが、理屈や理性を抜きにすればなんだか悔しいような気がして、つい。
ちゃいますかー?閻魔さーん。
などと、問いかけたくなってしまう。
実際に問いかけようとしたところで、閻魔像が喉を鳴らす。
ヤバッ、ちょっとフランクにしすぎたか。
などと、地獄を司る神様への畏れを、今更ながら覚えたところで、さらに閻魔様が喉を鳴らす。
「ん…?」
二度目はさすがに冷静な思考が働いた。
再度の音は、もう閻魔像のものとは感じられなかった。
ゴトゴトゴロゴロと、閻魔さんの足元から、重いものを動かす音。
音はだんだん、大きさと頻度を増す。
「ちょっ、ちょっちょ、なんやねん、、、」
そういいながら慌てて靴を履き、たたきへ俊子が降りたのと、ガゴン、と閻魔像の足元で響いたのはほぼ同時だった。
『わっ、ちょっ、狼さん!』という声。
それからドスン、と重いものが落下した音。
「は、は?はぁ?―――へぇぇぇぇぇ???」
素っ頓狂な声を俊子があげる。
彼女の眼前には、十王を率いて鎮座する閻魔像。その足元に、穴。
脇にはご丁寧に、蓋と思しき石板がある。
そもそもそんなものがあるとさえ知らなかった彼女の頭は、尋常なる働きを喪失する。
幾多の思考が乱雑に浮かんでは消えていく。
そういえばこのお堂の地下には伯父の書斎があった。外からじゃ、まず分からないのだ。これが。
と言った思考を認識したのと、穴からにゅっと。
「won」
とそっけない鳴き声ひとつ。
白い頭が突き出たのはほぼ同時であった。
「え、え、え、ちょ、なん、なんなん。なんなんっ!?」
気の利いたセリフなど浮かぶはずもない。と気の利いたセリフをいえない自分に言い訳している間に、
犬に似たその頭は、ぬるぬるぬるりっと言った音が聞こえてきそうな調子で、明らかに小さな穴から全身を絞り出す。
大型犬めいた体躯にはやはりキツいのか、悦に入った犬が地面に転がるような動きで、体を頭から左右にひねり、そして。
「うわぁ…」
嘆声か、呆れ声か。
一瞬、彼女には判別がつかなかった。状況を考えれば呆れ声であるはずなのだが。
まるで、雪を写し取ったような毛並。
艶やかで、滑らかなそれは、雪を毛皮にしたような見た目でありながら、端正な花のようにも思えた。
色の違う瞳と虹彩。それを縁どる眼窩が形作る視線は――
「狼…?」
どこか、彼女の友人を思わせた。
そんな実感への疑問を覚えることさえ許さない、強い存在感と魅力を、目の前の生き物は放っていた。
ただただ、それさえ友人によく似ているという思考ばかりが先に出て、やはり生物としての種さえ違う者同士を結び付ける思考の違和には心づかなかった。
「――ぅ夫やって。単に落ちただけや。どこも打ってへん」
そうやって飛びでてきた生き物に心奪われていた俊子の耳に、聞き覚えのある声がした。
「で、ここどこ―――」
見知った顔が、先ほどの穴から、にゅっと。
「え、二上?」
「………」
「え、なんで二上が?」
「―――」
「いや、え、え、あの、、、、え?」
夕陽ヶ丘俊子の通う学校。その同じクラスの男子は、唐突に彼女の親戚の家の文化財の足元から顔を出し
「―――これは失礼。人ん家でしたか」
と、顔を引っ込める。
もちろんそれを見逃す俊子ではなかった。
◇
「で」
二上太志を座敷に座らせると、俊子は問う。
いったい何の悪ふざけか、と。
「それは(中略)だったんだ」
二上は応える。
ちょっと。問答無用で殴りたくなる、有り得ない答えを。
実際、俊子は殴ろうと思った。
んなわけあるかい!
と、威勢よく、疲労と驚愕による若干の恨みも込めて。
しかし、手を振り上げたところで、白い獣の影が目に入り、動きが止まる。
狼、と思しきその生き物は、たたきに前足をそろえて座り、虚空に向けてつまらなそうに欠伸をしていた。
「はあ…まあ今日はもうええわ」
本心からの言葉を口にした。
そもそも狼と一緒に、あるはずのない閻魔像の足下の穴から出てくる、という事実そのものが、すでに突拍子もない。
地下世界うんぬんは信じられなくとも、狼を追いかけて、というあたりまでは、ここ最近の二上・アホネン両人の挙動不審と目の前の現実に符合する。
問い詰めることもできたが、夜も遅く、肉体労働を終えた彼女には、そこまでする気力はなかった。
「おーい。もうええ?話終わった?」
再三にゅっと。脱出なう、とでも言いだけな様子で、端正な少女の顔が現れた。
こちらが気おくれするような、見慣れた顔だった。
「あれ、夕陽?なんやぁ、家の人って夕陽やったん」
「アホネン……また二上とアホなことしとったんかい…アホなんは名前だけにしとけとあれほど言っとったのに……」
今度こそ本当に呆れが塊になって俊子を襲う。
気にかけている少女が、気に食わない少年とつるむうちに、とうとう人の家の地下から顔を出すような子になってしまった!
お父さんは悲しいぞ!
と、おどけつつも割と本気の感情が言葉となって胸中で渦巻く。
「なんや…ウチが二上とアホネン取り合ってるみたいやなあ…」
『何の話?』と、穴から顔を出した少女が問いかけてくるが、首を振って返す。
「ともかくアホネン。早よそっから出てきぃ。落ち着かへんで。
あと…――もう他に出てくる奴はおらんな?」
恐る恐る問いかける。友人が怪訝そうな顔で首を横に振るだけで、胸が何割か軽くなる。
ここで、『実はヒト型爬虫類の子もおんねん。かわいそうに、いろいろあって国が地下ごと滅びてなあ』などという答えを返されては理性を保っていられるか自信がなかった。
「せやな。すぐ出るさかい、驚かせてごめんな」
『んしょっと。』とメゾソプラノの存外に可愛らしい掛け声で少女は体を持ち上げる。
一瞬、途中で動きが止まるが、すぐまた体を外へ出そうとする……が、
「あれ?」
再び少女の表情が怪訝なものになる。
「どしたん。早よ出えへんと、狼さん行ってまうで」
「いやぁ~それが……」
「なんやなんや、どしたん~」
弛緩した雰囲気の中、二上が靴を履いて穴へ近づき、俊子もそのあとに習う。
「どうもっ…――んっ、ちょっと……んんっ、」
穴の周りに手をついて、力んだり、ひねったり。
目をきつく閉じて、力を込めたのち、脱力。
「あかん。つっかえた」
少女の言葉に、堂に上がった俊子は、穴の開いた箇所へ視線を移す。
もちろん今はアホネンがいるので、穴は見えず、代わりに豊かな胸の脂肪――乳肉が、汗ばんだセーラー服を張り付けて、板敷の床にあふれるように乗っていた。
「なんやぁ。アホネンおっぱい大きいからなあ」
「笑ってないで、手伝ってくれへんかなあ?二上も。そんな所でかがんでへんで。急いでるんちゃうん?」
「……ちょ、タンマ…いや、っていうか、タンマ…」
「なんやねん」
純粋な心配が一割。
胸が大きいのが災いしたんやなあ。ざまみろざまみろぉという僻みが一割。
何やってねんという呆れが三割で、つっかえた姿が可愛いのが五割。
ともかく引っ張ればすぐに抜けるだろうと楽観して
「行くでー」
「ええでー」
ぐぐっと。
「んっ、、、くうっ、、」
「あっ、いっ、いたっ、、―――痛いっ!夕陽!、、、ひっ、くぅっ」
「我慢やって!胸がつっかえるって言っても、そんな固いもんと―――んんぅっ!なんやこれ!ぜんぜん、ちゃう、、、んんんーー!!」
「んっ、くぅっ、、、あ、あかん、あかんあかん!あかんよぅ!!夕陽ぃっ!」
なにやら嬌声めいてるなあ、などと取り留めもない思考は、傍らでかがむ二上が何を意味しているのかに思い至り、危険信号を発し始める。
正確には危険信号というより警報だったが、必死になってアホネンを引っ張る俊子には判別がつかなかった。
「ちょっ、二上ぃ!何見てんねん!見世物とちゃうで!!」
「せ、せやかて、夕陽ヶ丘さん、、アホネンが…」
「エロいんはウチらかて分かってるって!でもっ、これちょっと、、、全然引っ張れへんねん!」
抗弁よりも助勢をとった俊子は、二上に呼びかける。
しかし、同じクラスの男子は、ことさら気まずそうに眼をそむけながら、こちら――正確にはアホネンを指さす。
「制服――まくれてる…」
真っ赤な顔でぎゅっと目を閉じて、必死に穴から抜け出そうと力んでいたアホネンであったが、その言葉で薄目を開ける。
苦しそうに、もがく体はそのままで、もどかしそうに視線を下へ。
「―――――!!」
濃い青灰色のシックなブラが、板敷の上にペロンと。
下半分を乗っけていて、上半分は見事な双球の上半分を包んでいる。
双球はまくれ上がった学校指定の女子用制服を乗せている。
つまり、今現在少女の胸は、下半分が完全に露出した状態であった。
そうして、たわわな胸は、申し訳程度に貼りついた下着とともに彼女の動きに合わせ、ふるんふるんと振動していた。
「ぎ…」
アホネンは目を見開いたかと思うと、大きく息を吸う。
俊子は友人を引っ張るのに夢中でそちらに気を遣う余裕もない。
少年は少年で、申し訳なさそうに顔を背けている。
「ぎゃーーーーー!!!」
叫び。
恥じらいとか、女の子らしさとか、そんな概念を一切無視した叫び。をアホネンはあげる。
「ちょっ、ちょ、やめ、見るな!二上見るなぁ!!!―――じゃなくて、、、」
少女は自分でも何を言っているのか理解できていなかった。
ともかくこの場から、男性全てを排除せねばと。
そんな思考に突き動かされて
「出てきぃ!
いったん!
外へ!
―――」出てきぃ!と。
そう、少女が叫んだのと、つかえていた胸が、圧迫から解放されたのはほぼ同時だった。
勢いあまって、というにはあまりに物凄い勢いで穴から飛び出した少女は、引っ張り上げてくれた友人を巻き込んで、そのまま板敷をゴロゴロと。
途中にあった荷物やらがらくたやらを巻き込んで。
もはや何が何やら、前後も左右もわからない状態で、やっと動きが止まったときには、少女は仰向けに倒れていた。
そして、同時に自分の乳房を誰かが掴む感覚を得る。
「ひっ」
「あ、ご、ごめんアホネン!」
「ゆ、夕陽、、、夕陽か…」
一瞬体が硬直する。が、胸を掴んでいたのが同性の友人だと分かり、すぐに正体を取り戻す。
仰向けに倒れたアホネンの上から、伸し掛かっていた夕陽がどく。
「だ、大丈夫?夕陽」
「平気…それよりアホネンこそ、大丈夫?その、胸、とかも…」
「ん…」
その言葉で少女は自身の身体へ意識を向ける。
転げるうちに打ったのか、ところどころ痛む感じがするが、それ以外に異常はない。
胸はさすがにヒリヒリと痛んだが、直に元に戻るはずである。
捲れた服を整え、パッパと埃を払いながら、上半身を起こす。
どうもスカートも捲れていたらしく、ニーハイソックスの足を閉じて、その上に布地をかぶせる。
――と、視線の真正面。
ちょうど出入り口のあたりには二上が立っており、思いっきり気まずそうな顔をしている。
先ほど服の捲れを指摘していた時も相当に気まずそうにしていたが、今度は、まるで誤って人を殺してしまったかのような、そんな深刻な顔であった。
「!!」
そこらへんで、今の位置関係や、先ほどまでスカートが捲れていたことを考慮すると、その中が二上に丸見えだったことに気づき慌てて足をガードする。
もっとも、すでに足は閉じられていたので、最大級の体育座りで、体を丸めて睨むくらいしかできなかったが。
ちなみにその際、胸と足の間でつぶれたGカップの二つの楕円が、二上に丸見えだったことには、最後まで気付かなかった。
「――見たっ?」
お決まりの文句であったが、火急の時にはこんな言葉しか浮かばないのだと、少女はこの時悟る。
「……く、熊はないと思うぞ。その年に、なって、」
最低の誤魔化し方だと、言ってから二上は後悔した。けれど、咄嗟に気の利いたことなど、言えるはずもなかった。
なぜならば。
「あ、う、あう、、、」
少女はまず青くなり、それから、白い肌をみるみる赤く染めていった。
『ああ、アホネンがほどよく茹で上がってく…』と、傍観者と化した俊子がつぶやく。
「く、熊と、ちゃう、で、、、」
そう。アホネンは熊の描かれた下着など履いていなかった。
そもそも、下着自体、履いていなかった。
下着は地下で哀れにも、邪なる願いを打ち消す更なる邪な願いの犠牲となり、もうこの世には存在していなかった。
①早い話が
②例の位置関係で
③『熊』などと見え透いた嘘をついた二上は――
「あ、アホネン…さん?」
貌を髪のすだれに隠すと、立ち上がって少女は少年に歩み寄る。
ツカツカツカ。
転がり落ちたたたきから、板敷へ上がり。
ツカツカツカ。
少年の目の前まで進むと、顔をあげて
「普通に、上の方と同じ色と」
パァァァァーーーーン!っといった音がする。
クラッカーを鳴らしたような、それでいて山間に響く狩猟中のこだまの様な尾を引いて。
少年は顔をのけぞらせる。
右の頬に赤い掌の後。
「同じ柄の下着やで♪」
ゾッとするほどいい笑顔とともに、幻の→左が→振り上げられて
→ヒュパッ!――――ァァァァァァアアア......ンンンンン....
清冽にして壮絶なる往復ビンタを、騒動の終止符と、仲直りの挨拶およびある種の対価として。
悶絶した少年が意識を取り戻したのは五分後。
少女が機嫌を直したのは一時間後。
温めなおした肉まんを皆で食べて、じゅんとした肉汁としまった饅頭生地を空っぽの胃に投下したのが一時間と五分後。
のっそりと起き上った狼さんに合わせて、のそのそ腰をあげ、アホネン・二上が再び移動を開始したのが一時間と十分後。
「あの二人…」
閻魔堂の前の道に出て、見送りを終えた俊子は、それでも中には入らず、坂の向こう側で、今日も変わらず飛行機除けを灯すビルを見やりながら言う。
「あかん。かんっぜんにツーカーや…」
こりゃ勝てへん、と。一人で一人ごちながら、春目前とはいえ、さすがに冷え込み始めた夜気に体を震わせ。
それでもなお、生温かさを孕んだ風を幾筋か、首元や鼻孔でとらえ、伯父の家へと引っ込んでいった。
あたりは道行く自動車の音。坂の向こうからの高速自動車道の響き。それから、はるか空高く行く、飛行機のどよめきの他は一切が静寂に包まれていた。
[newpage]
◇
時計は午後10時をまわっていた。
我が家に門限はない(そもそも問題になるようなこと自体無かった)が、こんな遅くまで外をうろつくなど、ほとんど初めての経験だった。
他には、今年の元旦。
正月を祝う習慣がなく、普段通り眠りにつく家族をおいて、一人初詣に行った時くらいだろうか。
「………」
「………」
隣を歩く少年に目を向ける。蓄積された疲労と、襲い来た眠気のために、足取りは歩く死体のそれであった。
かく言う私も別に体を鍛えているわけでもないので、似たり寄ったりの歩みだったが。
思えば、あの時も、こうして二上は隣を歩いていた。
お参りにいった先でバッタリと出会い、そのまま人ごみでごったがえす中、二人一緒に社殿に詣でた。
そのままお互いの帰り道が分かれるところまで。
くだらないこと、つまらないことを話しながら。
そこに気負いらしい気負いはなく、夫以外の男性に抱く緊張もなく。
初詣中、ちょっとしたハプニングがあったにも関わらず、別れる頃には普段通り、新学期での再会を約束し別れの挨拶を交わしていた。
そうして何心もなく帰路を行きながら、
『ああ、良い友人なんだ』
と。
本当に自然に。
そんな理解を得ると同時に、母国語で口にしていた。
東京弁をしゃべりながら、ともすると大阪の地がでてしまう二上と。
フィンランド語と大阪弁のバイリンガルの私と。
そんな共通点もあったななんて呟きながら、あるかないかの甘酒のアルコールで浮つく体と頭を、家へ運んだのを覚えている。
今やそれが、何物にも代えがたい思い出なのだと、気付いてしまった。
茫洋とした地下の記憶の中、それだけが確かな認識だった。
先を行く狼さんの足運びが、心なしか早まっているような気がする。
おそらく、どのような形かわからないけど、これまでのお話の終わりが近いのだと。
それが願望か、予測か識別できないほど倦みつかれ呆とした頭でそんなことを思った。
◇
「動物園か」
「動物園やな」
狼さんが足を止めたのは、大阪ではそれなりに大きな動物園だった。
時間が時間なので正門は当然閉っている。彼女が足を止めたのは、灯りがいくらかともる建物を向こうに見る裏口だった。
それなりの職員がいるのだろうか。
職員用入口と思しき鉄扉のすぐ向かいにはバス停が設けられ、露天のベンチが電灯の白い光に照らされていた。
狼さんは尻尾をゆっくりと、一定のリズムで舞姫のように動かしつつ、鉄扉に目を向けていた。
「――で、こっからどうする?」
「知らん。でもここって、例の動物園ちゃう?」
「ん。そういえば、ここだったか」
今回の一件。そのすべての始まりである、狼が動物園を脱走し、近くに潜んでいるという噂。
噂そのものは『近くに潜んでいる』という箇所に力点が置かれ、動物園自体はさして語られることがなかった。
と、いうのも、『潜んでいる』方は、誰も確証が持てない、想像と不安に彩られた純粋な『噂』であるのに対して
『狼が動物園から脱走した』のは、厳然たる事実だったからである。
実際に私たちも学校の全校集会やホームルームで、狼が近くの動物園を脱走したこと、必要以上に不安になったり騒いだりしないこと。
そして万一狼を見かけても、いたずらに刺激せず、すぐその場を離れ、公共機関へ連絡するように言われていた。
そうした事実がある以上、適当に嘘を織り交ぜてもすぐにばれる話であり、なおかつほとんど誰もが知った話なので、
噂が語られながらも、脱走したくだりは省かれるのが常であった。
代わりに誰がそれらしい姿をみたとか、習性を考慮するとここが危ないとか、潜伏先や幻の獣の動向に関する内容は際限なく広がり、
果てには人語をしゃべっただの、二本足で立ち上がって襲い掛かってきただの、明らかに嘘とわかる『体験談』までもが平然と付け加えられるにまで至っていた。
そしてそれを、誰一人、くだらないと一蹴するものがいなかった。
「ま、噂なんてそんなもんやけどな」
「詳しいな」
動きのない狼さんを前にして、退屈しのぎにそんなことを語ると、二上が食いついてくる。
「一応、そういうのに詳しい人と仲良くてな」
「へえ。僕以外にもそんな奴がねえ」
後半は関西弁のイントネーションで言う。
「妬けるなあ」
本当、つまらなそうな顔で。
まるでどうでもいいことのように、義務感のみで言っているかのような口ぶりだった。
「勘違いしたらあかんでー。その人中学時代の教師やし。同性やし。もうおらんし」
最後の方は、どちらとも取れる言い方をする。
二上は察しているのか、聞いていないのか、何も言わず視線を狼さんへ向けている。
「なあ」
狼さんへ視線を向けたまま、こちらを見ずに声をかけてくる。
なんとなく、厳かな声音だと思った。
「何?」
「いつも、君の昔話ばっかりやな」
「せやな」
「僕の方の昔話とか、したことなかったな」
「別に興味あらへん。うちにとって二上は今の二上が全てやし」
「なんか、その言い方」
「うん?」
「恋人みたいやn「誤解を招くような言い方をしたのは切に謝罪いたしますが、色目使うなこっち見んな真面目な口調でアホ言うな沈めるで」
「怖い怖い怖い、せめてこっち見て言って謝るから」
「………」
「き、君だって今のはネタ振りやないかぁ、、、あんなん言われたら、なあ」
そう言われて、確かに『全て』などと恋人でもない男に言うのはマナー違反かと思い至る。
ため息をついて
「せやな。まあうちも変なこと言うた。謝るわ。それで、何が言いたいねん?」
と。自分はどうしてそんなマナー違反を犯したのか知らん、と一瞬過った疑問から目を背け先を促す。
「うん。それでな――」
――ガチャン、ギイッ。と。
二上の言葉を遮る形で、裏口の鉄扉が開いた。
二上も私も、今までの会話を打ち遣って、そちらを注視する。狼さんの尻尾がリズムをあげる。
中からは出てきたのは私服姿の女性。
おそらく仕事を終えた職員であろうその人は、まだ若い顔を色濃い疲労に染めていた。
仕事終わりというだけでは説明できない、強い焦燥と憂慮を伺わせる表情は、容易に私たちに狼さんの一件を思わせた。
女性は、ほんの一瞬、視線を彷徨わせてから、目の前の白い影に心づく。
しばらくぼんやりと見つめていたが、すぐにその眼に驚愕を浮かべた。
「え、嘘、なんで、どうして、もしかして」
持て余すように雑多な疑問詞を口にして
「――キルシ?」
と、狼さんのものと思しき名を口にする。
狼さんは肯定するかのように、短く鳴き声をあげた。どこか嬉しそうな響きだった。
「きるし…kirusi、か」
似合いの名だと思った。やはり、彼女は北欧生まれなのだろう。
聞き覚えのある語感の名は、彼女の白い毛並も、綺麗なのにどこか怪しげな所も、よく表していた。
「えっと、どうしよう、あ、あ、とにかく連絡――
……もしもし?あ、あのあの、見つかりました。
え…?違います!キルシですよ!脱走した狼!
え、こっち来いって、、、ちょ、早口で何言ってるかわかりませんって!
――ああ~わかりましたからっ!はい。はい。ええ――っと」
PHSを手に、電話先の相手と一緒になって慌てふためく女性の目が、私たちをとらえる。
「いました、ええ、はい。―――君たち!」
「僕たち?」
電話を耳にあてたまま、女性が呼びかけてくる。二上が律儀に反応する。
「ちょっと暫くあけるから、この子見てて!お願いね!逃がしちゃだめよ!!」
怒涛のように告げたかと思うと、ピューっと擬音でもつきそうな勢いで、女性は鉄扉の向こうへ消えてしまった。
「逃がしちゃだめって……」
女性の勢いが最後の一押しだったのだろう。
二上は掠れた声でふらふらと後じさり、ドウっとこれ以上ないほど体を預ける形で、ベンチに腰を下ろした。
「通りすがりの学生に言うことちゃうなあ」
私は私で、狼さんの正体が明かされたことで、今まで張りつめていたものが切れてしまったのだろう。
耐え難い脱力感で全身が思い通りに動かなくなり、そのまま倒れそうになってしまう。
なんとか二上のいるベンチへまで足を運ぶと、そこに体を仰向けに横たえた。
「な、ちょっ」
当然、そこには二上が座っているので、自然と彼の脚に頭を乗せる――俗にいう膝枕の形になる。
上の方で、疲れた声がうろたえている。
けれどおそらく小一時間は私の身体は動かせない自信があり。
それ以上に動く気力が完全に枯渇してしまったので、なにもかも無視して私は世界を閉ざすこととした。
目を閉じる直前、仰向けになったために、傍らに立つ木の枝が目に入った。
連日気温は上昇し、一気に春めいたためか、枝のつぼみは今こそ咲き誇らんと言いたげな緊張を、そのすべてに湛えている。
中には気の早い花弁が、ちらほらとその顔をこちらへ向けている。
桜色というより、白に近いように思えたのは周囲を照らす電灯の色のためだけだろうか。
優しげに吹く風に揺られ、ゆらゆらと旋回運動を続けるそれは、遥かなる昔からの律動で。
狼さん――キルシの尻尾を連想させた。
誘うように、招くように。あるかないかすら定かではない鏡に映った花は、獣の知恵の光に浮かぶ。
水にうつる月を掴むばかりの愚か者には似合いの、有って無いもの、無いけれど有るもの。
手にしたのか、手放したのか。
得たのか失ったのか。
分別をうしなった頭では対立する概念でさえ何一つ境目はなく。
すべてが溶けていきそうな世界の中、胸に広がる柔らかなものの感覚だけを現実のものとして。
両の腕(かいな)で抱きかかえるように、立派なバストを支えながら。
大きく育ってくれたことに感謝して、意味もなく悦に入って。
それが自分の証なのだと、妙に嬉しくて楽しくて。
「キルシ、か」
いつかの甘酒に酔いながら、色はにおえど散りぬるを、と。
ひどく心地よい気分で、母国語で、『桜』を意味する名前を再び口にして。
ああ、そういえば、あれは大昔、春の訪れを告げる暦の役割を果たしていたのだと。
いつかの誰かの教えを思い出す。
遠い記憶に由来する、新しい季節の到来を予感して。
胸の高鳴るような総合を手にして、そのまま意識を深い淵へと手放すと
水の抵抗でゆっくりとした速度ではあったが、底へ底へところころと沈み、そのまま透明な底へ落ちていった。
◇
「そうだ。園長。すべては貴方の計画の内だった。ただ一つを除いて」
「くっ、まさか、、、彼女が帰ってくるなど、、」
「話は彼女から全部聞いたわ。証言や証拠にはできないけど…」
「これを元に調べれば、そんなモノはいくらでも見つけられる。時間の問題だ。そうなればもう言い逃れはできないぞ!!」
「ぐぅぅ!!」
「さあ、貴女の口からここにいる皆に教えてあげて。あの日、何が起こったか」
「うん」
「嘘だ…園長が、犯人だったなんて…」
「悲しいけど、これが現実よ…しっかり受け止めて……」
少女――アホネンの意識は覚醒していたが、目は閉じられたままだった。
耳には、傍らで職員たちがなにやら張りつめた様子でする会話が入ってくる。
一瞬だけ薄目を開けると、キルシと呼ばれた狼の白い影が目に入る。
同時に『アイツが、、アイツが悪かったんだ、、、!せっかくここまで施設を育て上げたのに…っ!第三セクターに売り渡すなど云うからっ!!』とかなんとか。
泣き崩れるような悲壮な声がしたような気がしたが、関わるだけの余力も、思考の俎上に登らせるだけの気力も、すでに少女から失われていた。
それからばらばらと、事件(?)の当事者たちが散会する気配。
数分間かけて、人気を失っていく裏口前で、不意に少女は傍らに立つ人の気配を感じ取った。
「ん……」
目を開けて確認すると、そこには初めに鉄扉から出てきた女性職員が立っていた。
「ありがとう。あなたたちが、彼女をここに連れてきてくれたんでしょ?」
「んーーー……んぅっ、、、くぅ~~~~~っ、、、!」
未だ茫洋として覚醒しない意識を切り替えようと、体を伸ばし、胸の内で淀んだ空気を吐き出す。
それで、少女はただ一つ、聞くべきことを思い定め、横たわる自分を覗く他人へ返した。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「ええ。なんでも」
「あの子、キルシって―――狼?」
予期しない質問だったのか、女性はほんの少し目を丸くしてから、すぐに微笑んで。
「ええそうよ。でもそれだけじゃない。貴方たちに特別に教えてあげるんだけど、実はね」
「あ、ええです。それだけ聞ければ充分なんで」
「え」
「あの、それと、出来ればもうちょっと休ませてもらえたら嬉しいんですけど……二人とも、くたくたで…」
「で、でも」
「すみません。不躾なんは分かってますけど、、その、もう、まともな意識が……くぁ、ぁ」
せっかく教えてくれると言う好意を無碍にするのは気が引けたが、話してる途中に眠るのはもっと失礼だ、と。
そんな言い訳めいた思考から、頑としてその先を拒んだ。
相手も相手で、疲れた顔で必死に言葉を絞り出そうとする様子から察してくれたのか、
『なにかあったら呼んでね?すぐそこだから大丈夫だけど、屋外だし――』と鉄扉の向こうへと引っ込んでいった。
「ふぁ……でも、やっぱり狼さん、オオカミさんやって」
これはウチの勝ちやな~?と、ゴロンと頭を動かして、アホネンは二上へニッと笑いを向ける。
けれど、二上の方は
「そうだった、かな?」
と、心ここにあらずといった様子の返答。
少女は一瞬、振るわない答えは自分同様疲れているためかとも思ったが、次の言葉がその考えを否定する。
「なあ、ちょっと、髪、触らせてくれへん?」
「は?」
同時に、固まる。
「な、なんで、、、」
予期せぬ言葉であった。普段なら、飛び起きて『アホかっ!お断りや!』とでも元気に言ってやるところだったが
なぜかそこまでの活力がわかない。疲れているためだ、と。そう考えたが、なんだかしっくりこない答えに思えた。
曖昧に四肢を浮かせ、何かあったらすぐに離脱できるよう力を込めるだけにとどまり、相変わらず頭は少年の脚に乗せ、当事者を凝視する。
「ええか、これは、君と僕の関係だから言うんやで」
「う、うん」
前置きの後、二上は目を閉じ息を吸う。それで決心がついたのだろう。少しばかり視線を強め、語調も強め。
「いいかい?初めに言っておくが、これは僕が君を好きな気持ちとか、そういうのとは全く別の次元の話だ。
単なる男性として自然な反応の帰結だ。そして最低限の誇りのための願いだ」
「よ、よくわからへん。そ、それがなんで髪触りたいって話になんねんっ」
「聞くんだ。いいかい?君はね、なんというか、自覚が足りていない。
もっと自分がどれほどの美少女か認識すべきだ」
「そ、そんなん言われへんでも自覚してますー。うちめっちゃ美人やもん。
二上に言われへんでも知ってるもん」
「いいや、君はまだ本当の意味ではそれがどういうことなのか知らない。
君に対して男性がどんな情動を抱くかという話だ」
「情動って」
「情動だ。前から思ってたが、距離感が近すぎる。あといろいろと無防備すぎる」
「きょ、距離感近いんは、日本(こっち)に来てから測りかねたんや。狂っただけや」
「自分で言うか。いや、そういう話ではなくてだ、、、
ああっ、くそっ、疲れて言葉が出てこない、、、―――つまりあれや、、もう、我慢できへんっていう話や」
「はぁ!?」
我慢できない、という言葉でようやっと事態を把握したのか、少女はがばりと体を起こす。
ベンチの上で、とんび座り――俗に女の子座りとかぺったんこ座りとかいう姿勢になって、少年を見つめる。
「そ、そんなん、二上、そんな目でうちのこと―――あ…」
そこまで言って少女は気が付く。
自分と少年との、本来の関係を。
「ああ、そうか…せやな……二上は、そうやったもんな」
少し、心が沈む。
そもそも出会いからして、少女と少年は、恋愛を前提とした人間関係だった。
ただ単に、それが少女の特殊な経歴故に、少年にとって少女が恋愛対象でありながら、少女にとって少年は恋敵という、奇妙な形となってしまったというだけで。
異性の関係である、というのは、初めのころに取り交わした了解事項だった。
少女は拒み、少年は振り向かせようとする。
そのあり方があまりにも婉曲だったために、そしてまた、少女と少年の間に通じるものがあり、続いてしまったために。
そこに男女関係とは別の、何かが生まれてしまった、と。
ただそれだけの話だった。
けれど、ただそれだけの話が、大切なものなのだと。
そう思おうと、そう思うことができた矢先に、こうして前提を突き付けられてしまったのである。
俺たちは男女の関係だと。
少年の口から。
それが、なんだかひどく悲しかった。
相手も自分と同じ気持ちでいてくれたものだと、そんなひどく嬉しくなる認識が、思い込みだと告げられた。
「ごめん。でも、うちは、二上の事、そういう風には見れへん」
「アホ」
「はっ?」
胸が苦しくなるような、体の一部を断ち切るような宣告。
今までその気はなくとも大切に育ててきた芽をつみとってしまう、全てを変質させてしまう決定的な言葉―――を口にしたはずなのに、『アホ』と言われた。
顔が、真っ赤になった。感情で言うと、たぶん怒りで。
「ちょっと、なんでアホなんて言われなあかんのっ」
「アホやからアホやって話や。初めに言うたよな。これは恋愛うんぬん抜きの話やって」
「言うたな」
「なんか今、ふたぎこんでたやろ?なんでか当てたろか?」
「あ、当ててみたらええやん。言っとくけどかなり傷ついたで」
「知ってる。でも君と男女の関係だから何やねん。そんなん、初めからの話やで」
「―――ほんま無粋なやっちゃな。そんなん知ってる」
「でもさっきまで忘れてた。知ってるで」
「そ、そんなん言われんでも解るから!誰でも知ってるから!」
「僕に我慢できへん言われて、大切なもんが無かったことにされた気がしたんやろ?知ってる」
優しげな声だった。
けれど断固とした響きがあった。
そのせいで、全てを見透かされたような気がして。
「ああああああ!!知ってる知ってるウルサイ!!
そんな知ってる言うんなら、なんでウチのこと傷つけるようなこと言うねん!
そうや!うちは二上のこと、ほんまに良い友達や思ってた!
話は合うし、一緒にいて楽しいし!
いろいろちゃんと気遣ってくれるし!!
自分だって楽しそうにしてたやん!なんでそれで我慢できへんねん!!
なんで今さら、今さら男と女の関係だって思い出させんねん!
ほんま酷い奴や、、もうっ、、、ほんま、有り得へん、、、」
つい、思っていることを吐き出してしまう。
こんなこと、まるで付き合っている相手に言うようだ、と思った。
通じ合ってしまったために、引き裂かれるように胸が痛んだ。
「すまん」
少年はゆっくりかぶりを振ってから、アホネンを見据える。
少女の思っているよりも、澄んだ目がこちらをとらえた。
「でも、やっと、本当のこと言ってくれたな。すまん」
「謝らんといて…」
「いや、思えば失言だった。どうあれ、君を傷つけてしまったのだから」
「ええよ…そんなん、うちが勝手に友達や思い込んでただけやもん」
「思い込みじゃない。僕だって、君を友達だと思ってる」
「え…」
「だから、だから言うんだ」
声は、悲痛な響きを孕んでいた。
傷つけた、と言った相手の方が、ずっと傷ついているような。
「ここで言わないと、もうずっと言わずに終わってしまう気がしたんだ。
けど、それを隠したままいるのは、君との友情の上では、決して許されるものじゃない」
「………」
「さっきのように傷つけるかもしれない。
それで君は、僕を嫌ってしまうかもしれない。
だけど。だから、すまない。
それで友情が終わるなら、もう、それで構わない」
最後の言葉はつぶやくように。
暗い洞を吹くような、人の言葉とは思えない、無機質な、感情の一切を失った響きを孕んでいた。
「だけど、言わないままこの関係を続けるのは、耐えられない…」
「言って」
そこでやっと。
「………」
「言っていいよ」
この相手にも、自分と同じような、暗い疵があったのだと。
「でも」
「多分、嫌わない」
今さらながら少女は気付く。
「アホやなあ…自分。」
その言葉は自分に告げたものか相手に告げたものか。
「自分で勝手に勘違いして、空回って。答えなんて目の前にあるのに、言葉なんて、当てにならへんのに」
やっと、少年がそんな汚い生き物ではなかったと、かつての認識を取り戻し
同時に、自身の平静も取り戻す。
「良く考えたら、いくらうちのこと女や思ってても、ヘタレの二上にそんな事できるはずないもんなぁ」
カラリとした笑い方で。
いつものような口調で。
それでやっと、少年の方も自分を取り戻したのか。
「酷いこというね。ならこれが、ヘタレを越えた先だ。せいぜい傷つくがいい」
「ふぅん。で、なんでウチの髪触りたい思たん」
「それはアレだ。
君が、とても綺麗だからだよ。
長く伸びた髪は水で編んだ絹のようで、眠る顔は神様が作ったみたいに整っていて。
桜色の口元とか、翡翠みたいな綺麗な瞳とか。
優しげなまなざしとか。メリハリがあるのに全然いやらしくない、健康的な体とか。
君は僕がそう思ってて、傷ついたかもしれない。
けれど、男なら誰だってそう思わずにはいられないんだ。
出会えたことを感謝するほどに。目にするだけでこの上ない幸せだ。
それをさっきまで僕は預けてもらえた。
やわらかい髪を、ほのかな、けれど確かな体温を、脚の上に感じていた。
なら、触らなきゃ嘘だろう。
男なら。たとえ、それで友情が壊れても。
初めに君を目にして、とらわれて、恋をすると決めた時と同じ気持ちだった。
初めて君を見た、あの瞬間を思い出したんだ。
だから、触りたいと思った。触りたいと、言ったんだ」
一気に少年は言い切る。
その言葉はつたないものではあったが、確かな感情がこもっていて。
少女は仕方がないなと
「アホ」
と、さきほどの意趣返しもこめて。
「あ、アホとは違うと思うで、、」
「アホや。そんなん、髪なんて勝手に触ってればええねん」
そういいながら、少女は再び姿勢を変える。
「許可とってからなんて、ほんまヘタレやで」
そう言ってベンチに横たわると
「ほらっ。一撫で1000円」
と、二上の脚に頭を乗せる。
「さっきまでの流れで、お金とるのかい…」
少年は膝の上の感触に戸惑いつつも。
笑いながら。
「良心的な値段やと思うでー」
「現実的な値段だと思うが、良心的ではないな」
「ほう。ならいくらが妥当や?」
「10円」
「話にならん。別に体許したわけやないで。あくまで友情の印や。900円までやな」
「友情の印に金をとるのかい。50円」
「そういう友情もある言う話やでー。700円」
「それでも、っていうかそれこそお金で表せる仲だったのはショックかなあ。100円」
「お金って、そんな汚いもんでもないで?650円」
「まあ、割り切った関係にはなれるわな。シビアな所は好きや。105円」
「せやなあ。それにやっぱり本当に大切なもんはお金じゃ買えへんから、そこらへん区別するのにもわかりやすくてええな。760円」
「なんで増えんねん」
「君がふざけたあげ方するから」
「500円」
「……5回につき頭一撫で。800円」
「400円」
「さげるなさげるな」
「300円」
「あかんあかん600円や。触りたくないん?」
「その言葉、そっくりそのまま君に返そうかな。触ってほしくないん?250」(ニヤニヤ
「う…―――あーもう大奮発っ、498円でどうや!」
「430円」
「450。これ以上はまからんで」
「いいだろう。450だ」
「ま、友情のけじめとしては妥当か。そもそもうちの髪、そんな安ないし」
「男女間の友情など幻想だと常々思ってたんだがな」
「それ言うたら友情だって幻想やで」
「なるほど。それもそうか。幻想な。一文にもならない」
「だから尊いねん。値段がつけられん言うんは、いくらでも価値が変わる言うことやで」
「髪撫でな」
「ん」
「やっぱ1000円でええで」
「450。まからん言うたやろ?ほら、ええ加減せんと、店じまいしてまうで」
「ほな、十撫でほど」
風が吹く。
優しげな匂いを孕んで。
一線を越えたつもりになったのはきっと気のせいなのだろうと。
幻のような生き物に導かれ、そんな線など無かったのかもしれないという結論めいた場所へとたどり着いて。
だから、この話では二人は変わらず。
またいつも通りの日々を始めるのだと。
あくまで現実としての理解と。
日々変わっていくのだという、だからこの日もまた得難い境界線上の一日なのだという。
ある種の理想としての理解を手にして。
また、次の日へと足を進めようと。
言葉を交わすことなく別々に。けれど同じようなタイミングで二人。
そんな、ことを思ったりした。
傍らでは狼が二人を見つめていた。
視線は一切の心の動きを伺わせない鏡のような瞳。
そも獣に感情や心といった働きはない。
それは人が己を投影してみる幻想だと。
同じ獣をつかまえて語る、身もふたもない説をわらい、何度目か。
無限に続く何度目かのくるりをもって、動物園のうちへと消えていった。
あとにはただ。
ベンチでまどろむ二人と、桜の木。電灯が、それを照らすだけであった。
[newpage]
【一週間前~その日まで】
翌日から、私と二上はちょっとした時の人になった。
住宅街の木立に潜む狼の相手をし、最終的に勝手に元の場所へ戻った彼女に振りまわされていただけの高校生。
二人してその程度の自己認識であったのだが、世間はそう捉えはしなかったらしい。
脱走した狼を発見したのみならず、無事動物園まで送り届けた功労者として、翌日すぐに新聞社の取材がきた。
動物園の人たちも同席し、改めて謝辞を述べられ、簡単にではあったが表彰もされた。
ついでに言うと、謝礼として結構な額もいただいた。
――いただいた。
そうしてこれでこの騒動も、本当に終わったのだと一息ついていたところへ、
今度は雑誌社やらテレビ局やら、果ては芸能事務所からも連絡が大量にきた。
よく考えてみれば、さもありなんと言ったところで。
脱走した狼を見つけて動物園へ返したのは、普通の高校在籍の、『フィンランド人』の『金髪碧眼美少女』なのである。
それはもう、どこからどう見ても話題にならないはずがない――つまり、主要な各メディアが見逃すはずもない格好のネタだ。
教室で夕陽たちと談笑している間中、二上と部室でくだらない言葉を交わしている間中、娘を迎えて夫の待つ家へと帰る間中。
どこで調べたのか、ひっきりなしに留守電状態の私の携帯に連絡がきていた。
家に帰って膨大な着信履歴に目を回したのはここだけの話である。
なんにせよ、自身の経歴や現状に、マスコミの性質を加味すれば、厄介を蒙ることになるのは明らかだったので、初めのオファーの段階で断りを入れさせてもらった。
それでも全ては防ぎきれず、二上方面から接触をはかってきた雑誌社の取材を二、三受ける羽目になってしまった。
二上は二上で、高校生なのに娘がいることや、旦那がいながら(友人関係とはいえ)同年代の男と親しくしている状況は分かってくれていたので
いずれ見世物にされてしまいそうな所からの申し込みは、全て断ったらしい。
とはいえ、当の本人でない気の緩みがあったのか。
それなりに歴史のある、真面目でお堅い文学系の雑誌からの取材には、つい肯定の意を返してしまったらしい。
私としても、部室に置いてあって、それなりに親しみある雑誌ということもあって、強くは反対できなかった。
結局、出版不況の中、古典や和歌という殊更厳しいジャンルの活性化のネタにされそうになったが、
そこはきっぱりと断りをいれ、この上なく残念そうな顔をする記者を後にして家路についた。
帰りの電車で二上が
『万葉集読みの人妻フィンランド人女子高生って、かなり雑誌映えするよなあ』
なんて名残惜しそうに言うんで、
『君は君で、同じ部活の文学青年ってことでセットにしてもらえるかもなぁ。
高校生が文学やってるってだけでも、あちらさんには結構な飯の種やと思うし。
まあその後に寝取った寝取られたのパパラッチ地獄が待ってるわけやけど。
楽しみやなぁ。駐車場やらマンションの影やらに潜むカメラに怯える毎日』
と、乾いた笑みで釘を刺しておいた。
ついでに言うと、取材のギャラとして、何が出版不況だと言いたくなるほどの額をいただいたりもした。
――いただいたりもした。
で。
人の口に戸は立てられないもので、学校でも早々に噂は広がって。
質問攻めはもちろんのこと、尾ひれのついた結果、私がフィンランド仕込みのコマンドサンポで、
迫撃砲さえものともしない伝説の人狼を制したという、前提からしておかしい話が流布したり。
サンボはソ連やとか、そもそもコマンドサン『ポ』ってなんやねん、カレワラかっ!とかいうツッコミはきっと野暮なのだろう。
そしてそんな訳わからん噂を信じたのかどうかしらないが、後輩の女子の間でファンクラブができたり。
木津がそれを一夜でもにょもにょしたとかしないとか。
ともあれ、結局この容姿とキャラクターのために、どうあっても私は注目されてしまう運命なのだと改めて認識させられた後日談であった。
◇
「っ寒ぅ…ストーブストーブ…」
扉の向こう側でそんな声がする。
すぐに部室の引き戸式のドアが開かれて、二上が入ってきた。
「――おっ。なんや。今日はアホネンが先か」
「うん。コーヒー入ってるで」
「おおきに。ストーブもついてて暖かいし、得した気分やな」
そう言って二上は、上着を脱ぎ荷物を置くと、そそくさと自分用のコップを手に取り、サーバーからコーヒーを注ぐ。
それを脇目に私も、自分で淹れたコーヒーを一口すする。
目は、何度目かになる、同性愛で有名な民俗学者が書いた、小説の文字を滑っていた。
「――で、今日はどうだったね」
コーヒーを手に、向かいのパイプ椅子に腰を下ろしながら問うてくる。
「まあ昨日よりはって感じかな。ああ、それと藤さんが犠牲になった」
小説から少しだけを目をそらして、応える。
南無三、なんて二上が似合わぬ合掌で返答する。
「でも結構嬉しそうな顔してたな。男子に囲まれて」
「平凡そうな子だからなあ。偶然とはいえ逆ハーレム状態には耐性なかったんじゃ?」
「せやな。鼻血出して倒れてた」
コーヒーをすする。二上は、なんと答えていいか判断しかねているような顔をしている。
「おかげって言うのも薄情やけど、介抱を口実に解放してもらえたわ――うわっ、駄洒落って…」
「駄洒落やな」
二上も冷静にコーヒーに口をつける。
余談だが、部室には各種嗜好品がそろっている。
全て部員の出費だが、文学サロンには欠かせないとの口実から、ある程度の飲食は許可されており、結構いいものが集まっている。
このコーヒーにしても、家にある古いコーヒーメーカーを使おうとしたのを、二上の断固たる反対で、
電熱機と薬缶、ドリッパーとサーバー一式を揃えて淹れたモノである。
口にしてみて、なるほどコーヒーメーカーで淹れたものとは、コクや香りが格段に違うと感心したのを覚えている。
以来、家でもコーヒーはドリッパーを用いるようになった。
部室か家庭かはわからないが、いつかサイフォン式にも挑戦してみたい、なんて思うようになったのも、このコーヒーがきっかけであった。
「話変わるけど、君の方はいくら残ったね」
「いくらって?」
よくわからないことを言われ、怪訝な顔で答えると、二上は悲しそうに机に突っ伏した。
「そうか。そもそも君が財布のひもを握ってるんだった」
「なんの話?」
「礼の一件、結構な額の報酬もらったじゃないか。謝礼とかも含めて」
「もらったな」
「あれな、高校生の持つ額ちゃうって、親に全額接収された。殺生やで…――あ、駄洒落…うあぁぁぁぁ」
「駄洒落やなぁ」
なんとも惨めな声をあげて二上が昇天する。
私は私で、南無阿弥陀仏と、浄土へ行けるよう合掌。
とりあえず今死なれるのも後味が悪いので、友人を呼ばう。
「おーい。二上ー」
「んぉぉ」
「でもいくらかは残ったんやろ?」
「雀の涙やで」
「贅沢言わんと。それに二上の親かて何も好き勝手使うために貰ったのとちゃうやろ?」
二上は顔を上げる。
「まあ大学の金に回す言うてたな…」
「ならそんな腐ったらあかんで。将来の投資や。わけわからん事に使うのよりよっぽどええやん」
「せやなぁ、ほんまそうやけど…あれも買えたしこれも買えたし…
ああ、せや。君、サイフォン式やりたい言うてたやろ?あれも買えたで。僕だって湯冷まし買うたろ思てた」
「未練とかみっともないで~。
それにな、うち、謝礼貰った時から、考えてた使い道あんねん」
『使い道?』と。二上の怪訝な顔。
ほんの少し誇らしげい気分になって、察しの悪い相方に感謝。
「せや。どうせあぶく銭やろ?ほならパーっと使ったらええねん。
ほんで、もう3月も終わりやし、皆ともお別れやん?」
「お別れ、まあお別れと言えばお別れか」
そこで二上も私の目論見に気づく。
楽しそうな笑みを浮かべる私に、友人もすかした笑みとともに。
「そういうのも悪くないな。場所のあてはあるのかい?」
「もちろん。楽しい宴にするで。二上も手伝い」
「ああ。及ばずながら。――しかしあれだね」
「んー?」
「なんだか、このお金、彼女の恩返し――というか、お返しみたいだね」
彼女――騒動の発端である狼さんを指して。
「いろいろ貢がされたからなあ…」
「せやけど、結果的に払った以上の大金が返ってきたわけやなあ」
「彼女も大阪育ちの狼らしいな」
「ふうん。調べたん」
「調べるというほどでもない。以前君と競ってドッグフードを運んでた時に、狼に最適な飼料を聞くついでに、教えてもらったんだ」
「その時伝えてれば良かったんとちゃう?狼さんいるって」
「……」
「アホやなあ」
「ともかく彼女は」
「あ、話逸らした」
「ともかく彼女も、我々にドッグフードをおごらせるという吝嗇ぶりと、
その分、しっかりと支払い且つ有意義な用途に使わせるという、何とも大阪らしい金の使い方をしたわけだ」
少し熱っぽく語る二上。
ストーブが、カンっと音を立てる。
私は、はにかんで。
「せやな。嫌いじゃないで、そういう所」
少しだけズレたものの言い方をする。
すでに暖房が利いた部屋で、熱く語ったせいか、二上の顔は赤かった。
その後の部活は、二上と、狼さんについてああでもないこうでもないと話し合って、まるまる全て時間を使い切った。
実際、狼だと分かっても、説明のつかない奇妙な所が振る舞いが多々あったので、話題が尽きることはなかった。
それでもコレといった結論が付くことはなかったが、私たちは議論そのものに満足していた。
きっとあれは、そういうものなのだろう、と。
古くから、人々の口にのぼり語られる、不明そのもの。それが、彼女なのだと。
そんな事を別れ際まで話しながら、下校した。
二上には言わなかったが。
思えば、彼女が動きを見せたのは、竹内マチに目の敵にされたこと、その際に感じた疎外を打ち明けた日だったような気がする。
同じ国の生まれの私が普通の、大阪の女の子ではないのではないかと。
弱気なそう顔で語ったから、大阪らしい姿を示すことで、生まれた土地が違っても、ちゃんと今いる場所に馴染む事は出来るんだ、と。
そう、教えてくれたのではないだろうか。
もちろん、いくら私自身がしっくりくる考えだと感じていても、所詮は願望交じりの幻想でしかない。
けれど人間相手であっても、その振る舞いに対する意味づけは、多くが幻想に彩られるものである。
なにより大阪の街中の狼など、それ自体が有り得ないのだから、その心中に関して、まともな推測が立つはずもない。
ならば。
どうせ、当たらぬ推測なら、いい方向に考えようと思った。
彼女に善意があったのだと信じようと。
有り得ないもの。街中の狼も、人妻のフィンランド女子高生も、普通では有り得ない存在だ。
それを、こうして、自然にいい方向に解釈している私がそこにいた。
ずっと昔は、有り得ないモノは自分も含めて、嫌いで嫌いで仕方がなかった。
夫や娘に関することを除けば、良く考えることの方が少なかったのに。
いつの間にか、そうでもなくなっていた。
そんな自分の変化を認識すると、自然と笑みがこぼれてくる。
変われるのだと、変われたのだと、際限なくこぼれるわらいに、すっかり私は破顔していて。
これはもう、お祝いを盛大にせねばと、この先の計画に胸躍らせながら、我が家の扉に手をかけた。